2021年9月12日説教要約「建て直す主」エゼキエル36:25-38

 高校生の娘は気まぐれだ。思春期真っ只中の割には父親にも甘えてくることもある。それでも虫の居所が悪い時は「あっちにけ」とか、「うるさい」と理不尽に言われる。娘とはまことに勝手気ままなものだと思う。

 しかし、考えてみれば私たちの神様に対する態度は、極めて勝手なものだ。神の民イスラエルは何度、預言者を通して警告されながら、神を離れ、エジプトの軍事力に頼ったり、偶像礼拝に走ったりした。そして、バビロン捕囚という滅亡を経験すると、「先祖のせいだ」、「神は私たちを見捨てた」と言う。端から見れば支離滅裂な姿と思うが、私たちの神に対する姿そのものでもある。

 しかし、主なる神は、このどうしようもない神の民を見捨てない。主は「廃墟を建て直す」(33節)とイスラエルの回復、再建、復興について約束する。その再建は、決して箱物を建て直すということではない。むしろ人間の回復だ。人間の再建である。

 「わたしはお前たちに新しい心を与え、お前たちの中に新しい霊を置く。わたしはお前たちの体から石の心を取り除き、肉の心を与える」(26節)。「石の心」とは、神の言葉を聞き入れない頑な心を意味する。神への期待を失っている心とも言えるであろう。「石の心」は、バビロン捕囚にあえぐ神の民の抱える心であった。

 そのような「石の心」を主は取り除き、しなやかな、神の言葉を受け入れ、従う「肉の心」を与えるといわれる。また神は「わたしの霊をお前たちの中に置く」とも言われた。「神の霊」というのは「神の息」とも訳せる。神様が石の心でコチコチになっている人間に、息をかけてくださる。すると、石の心が肉のこころに変わり、脈をうち始める。あの創世記に記されるアダムの物語を思い浮かべる。

 今日の箇所は、新しい人間として再び創造される約束なのだ。そしてこのエゼキエルの預言の言葉は、私たちにとっては、主イエス・キリストとの出会い、イエス・キリストとの関係において問われる。25節には「わたしが清い水をお前たちの上に振りかけるとき、お前たちは清められる。わたしはお前たちを、すべての汚れとすべての偶像から清める」とあるが、ここは、私たちにおいて「洗礼」のできごとと結びつく。

 洗礼とは今日のエゼキエルの言葉でいうなら、新しい心を、肉の心を、新しい霊を与えられる時だ。「だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた」(競灰螢鵐5:17)とパウロが言うとおりだ。

 私たちの世界も、私たちもいま「再建」を必要としている。時代も私たちも新しくされる時だ! 大人分級でノンクリスチャンのお母さんたちが毎週礼拝に出て自分の心を「リセットされる」とよく表現する。礼拝の本質的な部分をとらえていると思う。私たちは礼拝を通して、新しく創造される経験をするのだ。「石の心」を取り除かれ、「肉の心」をセットされ直す。神の創造の御心を「再設定」される。それが礼拝の時だ。その時にこそ、「荒れ果てていたこの時がエデンの園ようになった」という神の約束を私たちは、私たちの人生において味わうのだ。「どうか、御父が、その豊かな栄光に従い、その霊により、力をもってあなたがたの内なる人を強めて、信仰によってあなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように」(エフェソ3:16−17)

【説教動画】

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