2021年9月19日礼拝説教要約「あなたたちは生き返る」エゼキエル37:1-10

 エゼキエルは甚だしく枯れた骨が生き返る幻を見た。まるでホラー映画のような出来事だ。私たちの日常とはかけ離れた「非現実的な世界」の話のように思える。しかし、聖書における幻は、「ものの本質を見る」ということだ。エゼキエルは主なる神によってイスラエルの民の本質を見させられたのだ。「我々の骨は枯れた。我々の望みはうせ、我々は滅びる」(11節)。それが捕囚を経験し、ついにエルサレムの神殿も崩れ落ちた時のイスラエルの人々の姿だった。「生きた屍」という言葉があるが、枯れた骨とは、生きる希望を失った人間なのだ。生きながらに枯れてしまうことが人間にはあるのだ。

 震災から10年が経った福島でアルコール依存の問題が課題としてあることが新聞で報じられていた。NHKの朝ドラで津波で妻を失った一人の漁師が、なかなか立ち直れず、酒浸りになってしまっている姿が描かれていたが、それはドラマの世界ではないのだ。また新聞の他のページをめくれば、コロナで店を閉じたり、従業員を解雇したりで、これからどうしたらいいのか分からないという失意の声があった。私たちは与えられた人生を生きながら、しかし、生きる力を失い、希望を失い、何か甚だしく枯れてしまうことがある。

 その中でエゼキエルは主なる神から問われた。「人の子よ、これらの骨は生き返えることはできるか」。エゼキエルは「できない」とも「できる」とも答えなかった。答えられなかったのではないか。彼はただ「あなたのみがご存知です」と答えた。主よ、枯れた骨が生き返るのも、生き返らないのも、あなたの御手の中だ。あなたの御手に委ねることしかできない。そういう答えではないだろうか。

 絶望している人が生き返るか。またその人が生きる力を得て、健やかに歩み出せるか!決して簡単なことじゃない。失意の谷間で打ちひしがれている人に、「あなたは生き返る」と語れと言われたら語れるだろうか。「絶望は死に至る病」と言われるが、絶望の谷は深く、簡単に光は届かない深淵であるし、まさに「死」の力が牛耳っているように思える。しかし、エゼキエルは主なる神に神の言葉を語ることを命じられ、彼は預言した。すると「見よ、カタカタと音を立てて、骨と骨とが近づいた」。そして、「霊が彼らの中に入り、彼らは生き返って自分の足で立った」。

 人間は神の言葉と神の霊によってこそ、生きる力を得るのだ。枯れた骨が散らばっていた谷は深い失望の谷かもしれない。「死の陰の谷」かもしれない。しかし、にもかかわらず、そこで生き返り、自分の足で立つことができる。生ける屍のように希望を失ってしまう私たちを再び立ち上がらせる力は神の言葉であり、神の霊であることを、枯れた骨の幻は私たちに告げている。これこそが「本質的なこと」なのだ。
神の言葉は、無から有を、闇の中に光を生じさせる力を持つ言葉だ。枯れた骨が生き返る力を持つ言葉だ。「お前たちは生き返る。そして、お前たちはわたしが主であることを知るようになる」(6節)。私たちは主を知っている。それこそが尽きぬ希望なのだ。希望は私たちの環境によって与えられたり、奪われたりするものではない。どんな時でも、私たちを生き返らせ、命の息吹を吹き入れてくださる主を知っている。

 教会は「カタカタという音」が聞こえる場所だ。そして礼拝は、霊の耳で聞くならば、いま「カタカタという音」が響くときなのだ。私たちの沈む心が、枯れた骨が、神の言葉と神の霊によって、再び生き返らされる時だ。主の言葉を聞け、「あなたたちは生き返る!」

【説教動画】



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