2021年9月26日礼拝説教要約「あなたたちの間に住む神」エゼキエル43:1−11

 捕囚地バビロンで預言活動を行ったエゼキエルはエルサレム神殿が崩壊した14年後に「新しい神殿の幻」を見た。彼は新しい神殿を内覧するように巡り歩き、寸法などを事細かに記録している。その後、最初の場所「東の方に向いている門」に導かれ、東の方から「神の栄光」が到来しつつあるのを見た。神の栄光が神殿に戻ってくる幻であった(神の栄光は神殿から取り去られていたのだ。10−11章参照)。そして、主なる神が座るべき王座に座られ、イスラエルの人々の間に、とこしえに住むということが告げられたのだ。

 神殿は主が臨在されるからこそ「神殿」なのであり、主の栄光がなければその建物は無用の長物なのだ。エゼキエルは新しい神殿のデザインを見させられたが、ないより重要だったのは生ける神の栄光が神殿に戻ってくるということであった。

 イスラエルはバビロン捕囚へ至る歩みの中で、神をもはや神殿の中心に、王座に置くことをしなくなった。そこには、エジプトの力、具体的には、エジプトの経済力、軍事力をたよった。「偶像礼拝」ということだ。それは「主の栄光」を求めるのではなく、この世の栄光を求める歩みであった。それが神殿から「主の栄光」が取りされることだった。

 「人の子よ、ここはわたしの王座のあるべき場所、わたしの足の裏を置くべき場所である」。主なる神の王座があるべき場所、主なる神が立たれる場所に、私たちは何をおいているだろうか?
 
 15日に新型コロナのためにエジンバラで急逝したウィリアム先生のことを思い出していた。ウィリアム先生は、香港で展開された信仰運動に関わる中で、「信仰運動とは、自分の力に頼るのではなく、神が主権を握っていることを信じつつ、自分がなせることを尽くし、神がご自身の相応しい時に事を成就してくださると信じて委ねることだ」と語っている。神が主権を握っておられる。そのことに全幅の信頼を寄せることこそ、主に「神殿」の王座に立っていただくことだ。

 さらに、ウィリアム先生は「教会が問われなければならないのは、「いかに存続するか」ではなく、「なぜ存続するのか」である。……「なぜ存在するか」は、教会の本質が何であるか、神に属する群れはどうあるべきか、社会においてどのような役割があるかを問うことだ」とも言われている。「お金が中心になってしまっている」この社会、教会は悔い改めなければならない。お金を中心とするのではなく、「神の国の価値観の実践」こそ教会に求められると。

 私たちにとって、神の国の価値観をあますところなく実践されたお方こそキリストである。キリストこそ主の栄光が余すことなく表された方であり、私たちの間に住んでくださったお方そのものである。福音書記者ヨハネは「言葉は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理に満ちていた」(ヨハネ1:14)と証している。キリストにおいて示された栄光は決してこの世的な栄光ではなかった。命を与え尽くす愛によって、キリストは神の栄光を現されたのだ。主イエスの示された歩みこそ、私たちの見るべき神の国の幻です。新しい神殿の幻です(ヨハネ黙示録21章)。

【説教動画】



↓一日一回応援よろしくお願いします(^^)
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ
にほんブログ村

PVアクセスランキング にほんブログ村

↓チャンネル登録お願いします。目指せ300人❗