2006年07月03日

日本人の心と仏教4

0d99e5e6.jpg 日本では、古代、国家の指導者によって仏教が公式に導入されました。

 それ以前から、渡来系の人々が私的に仏教を信仰してはいたようですが、あくまで家族や氏族の内部のことで、その信仰が倭の民衆に広まることはほとんどなかったようです。

 そういう意味で、良かれ悪しかれ、古代日本の仏教は指導者の思想だったといっていいでしょう。別のことばでいうと、古代仏教について、方向性を決めるという意味での「指導者(リーダー)」は僧たちというよりむしろ政治的な指導者たちだったのです。

 最初のリーダーは、蘇我馬子と聖徳太子でした。どのくらい仏教の中身をつかんでいたかは別にして、二人とも「仏教信者」でした。それは単に個人の信仰の問題だけでなく、政治的には在来の部族の神々を超える仏の権威を身に帯びることができるということでした。

 そういう意味でいうと、まず馬子が主導して法興寺(現在の飛鳥寺)を建てたことは、仏の権威を帯びることに関してリードしていたということです。聖徳太子が、それに匹敵する規模の法隆寺を建てたことは、寺の名前からしても対抗措置という意味があったようです。

 やがて、太子も馬子もなくなり、推古天皇もなくなった時、後継者を聖徳太子の子の山背大兄王にするか田村皇子にするか、それぞれを支持する勢力の間に争いが生じ、やがて山背大兄王は蘇我氏によって滅ぼされます。

 そして皇位は、短命だった田村皇子・舒明天皇からその妻の皇極天皇と引き継がれ、蘇我氏の横暴を憎んだ中大兄皇子と藤原鎌足らによるクーデター・大化の改新が行なわれ、その後に皇極の弟である孝徳天皇、皇極が再度位に就いて斉明天皇、そして中大兄皇子が天智天皇となり、兄天智の死後、その息子の大友皇子を支持する勢力との戦い・壬申の乱に勝って弟の大海人皇子が位に就いて天武天皇となります。

 調べてみると、こうした流れの中で、歴代の天皇はそれぞれ一定程度仏教の振興を図っています。それは、先に述べたように、仏教の振興を図ることはそれによって自らの権威が宗教的に根拠づけられるという意味をもっていたからでもあるでしょう(田村圓澄『飛鳥・白鳳仏教史上』参照)。

 といっても、それは天皇たちが政治の道具、自分の権威付けだけのために仏教を利用したということではないと思われます。

 彼らは、それぞれにそれなりの信仰をもっていたにちがいありません。

 古代においては、天皇といえども病気や天災の前ではきわめて弱い存在にすぎませんし、またもちろん死は誰も避けることはできません。

 彼らが、覚りや空、慈悲などをどのくらい理解していたか心もとないところもありますが、現当二世の利益・安心を求めるという点では、それなりの熱意をもっていたと推測できます。

 そうした流れの中で仏教が日本全体のものになっていく上で、天武天皇の貢献が大きいことは意外に知られていないようです(私も知っていませんでした)。

 天智がいったん約束しながら、死に瀕して息子に譲りたくなり、大海人皇子が跡を継ぎたいと思っているのなら殺そうとした時、彼は出家して吉野に籠もって難を避けています。

 これは、単なる身の安全を図るためのカモフラージュにすぎないと解釈されがちでしたが、天皇になってからの言動を見ていくと、天武は『仁王般若経』や『金光明最勝王経』に描かれた理想の王であろうという志を強く持ち続けたのではないかと推測されます。

 そのことと自らを「現人神(ルビ:あらひとがみ)」であると自覚したことの関係は、天照大御神さえもより上位の神を祭ることによって自分も祭られる神であったように(和辻哲郎『日本倫理思想史上』岩波書店版全集第十二巻五九頁以下)、天武も仏を信じ仏に救われる存在であることによって、理想の王であり「現人神」であると自覚することができたのではないかと推測されます。

 これは、明治以後の天皇が、社会的にはより上位の存在を認めないという意味で絶対化された「現人神」であったのとは根本的に違っていることを指摘しておきたいと思います。

 聖徳太子はもちろんですが、天武天皇の場合も、それからのこの後の世代の聖武天皇も、自らの上にある権威として、神々、そしてさらにその上に仏を認めていたのです。

 テーマに関して言えば、本来日本の心は自分を最上位に置き絶対化することを否定するところにあったと言っていいでしょう。

 言い換えると、「自分を超えたより大いなる何ものか」への畏敬の思いが、日本の優れたリーダーの心にはいつもあったのではないか、ということです。単に礼儀とか形式とかではない、本当の深い意味での「謙虚さ」です。

 そして「自分を超えたより大いなるものへの畏敬の心」を共有することで、天武は聖徳太子以来の「和」の国日本という理想を実現したいと考えたのではないでしょうか。
 その具体的な現われの一つが、「律令制」だとも考えられます。

 経済的には豊かな時代にあって、何はともあれ生きられることの価値を忘れがちです。

 下手をすると、生きることよりも自由(というより自分勝手)のほうが重要であるような錯覚さえ抱きます。

 そういう価値感で見ると、生まれただけで田畑を与えられ、働いて税を納めることを義務付けられることは、自由を奪われ、強制され、搾取されるだけに思えます。

 実際、かつて左翼的な史観では律令制は、「人民を拘束し搾取する制度の完成」といった否定的な評価がされてきたようです。

 しかし視点を代えて、生きられるということそのものの価値から見ると、律令制というのは、この国に人として生まれれば、ちゃんと働きさえすれば貧しいかもしれないがともかく何とか食べていける生産の手段を保証されるという制度です。

 和辻哲郎は、

「『大宝令』を制定した政治家はある意味で社会主義と呼ばれ得るような理想を抱いていたのである。それは民衆が富の分配の公平を要求したためにしかるのではなかった。……彼ら政治家を動かしていたのは純粋に道徳的な理想である。『和』を説き『仏教』を説き聖賢の政治を説く十七条憲法の精神に動かされ、断固として民衆の間の不和や困苦を根絶せんと欲したのである」

と評価しています(『日本精神史研究』岩波文庫、四二頁)。

 『大宝令』は、持統天皇が夫天武天皇の遺志を継いで完成したものだと考えてまちがいありません。

 天武は、古代という時代の制約の中にありながらも、真摯な仏教信仰から出た「和」の理想を実現しようという強い志を持った天皇だったと解釈できるのです。

 そうした理想を国民と共有するために、天武十四年、「諸国(くにぐに)に、家毎に、仏舎(ほとけのおほとの)を作りて、乃(すなは)ち仏像(ほとけのみかた)及び経を置きて、礼拝(らいはい)供養せよ」という詔を下したのだと思われます。

 これが、地方の国司や役人の持仏堂から、さらに村のお堂、そして各家庭の仏間、仏壇へと広がり浸透していったというのは、仏教民俗学の定説のようです(五来重『先祖供養と墓』角川選書、二三九頁)。

 こうして考えてみると、日本の家庭に仏壇があることの中には、聖徳太子の遺志も天武天皇の遺志も脈々と受け継がれているということになります。

 これはいわばトップダウンの仏教の浸透です。

 これがやがて鎌倉期、ボトムアップともいえる民衆の仏教信仰への盛り上がりとつながり、仏教が「日本人の仏教」になっていきます。



*写真は、薬師寺五重塔、「平和がいちばん」http://heiwa-ga-ichiban.jp/index.htmlから引用させていただきました。

2006年06月19日

日本の心と仏教 3

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 聖徳太子の著作とされる、『勝鬘経義疏(しょうまんきょうぎしょ)』、『維摩経義疏(ゆいまぎょうぎしょ)』、『法華義疏(ほっけぎしょ)』という三つの経典の注釈書や『十七条憲法』を読むと、そこには驚くほど深い仏教理解が現われています(これらがすべて史実としては太子の著作でないという説もありますが、ここではその問題にはふれません)。

 それらを読むと、太子は、仏教の教理・哲理についてきわめて深く正確に理解しておられたことがわかります。

 『勝鬘経義疏』では、人間の諸悪の根源ともいうべき「無明」とは何かがはっきりとつかまれていますし、『維摩経義疏』では、「空」と「覚り」と「慈悲」という大乗仏教のエッセンスがただ理論的にというだけでなく、実際に体験した人にしか書けない的確さで理解されています。太子が夢殿で禅定をされたという伝承は事実だったのではないでしょうか(『法華義疏』については前回少し述べました)。

 しかしそこまで大乗仏教を体得されながら、太子は時に注釈の中で「愚心及びがたし」と理解しきれないところがあることを正直・誠実に語っておられます。

 太子と推古天皇と蘇我馬子の合意によって、六〇〇年、六〇七年と遣隋使が派遣されますが、特に六〇七年の遣隋使について『隋書(ずいしょ)』は、数十人の僧が仏法を学ぶために来たと書いています。

 つまり、太子はこれまで自分が学んだところだけで満足できず、さらなる学びへの熱い想いを留学僧に託したにちがいありません。

 学びには果てがないということ、すなわち「仏道無上(ぶつどうむじょう)」ということ、「法門無量(ほうもんむりょう)」ということを深く自覚しておられたのでしょう。

 僧たちも太子の期待に応えて、時に難破して死ぬこともあることを知った上で、熱い想いであえて海を越えていったのではないでしょうか。

 そこで従来あまり知られていない重要なことは、当時、隋は外国の僧たちを長安の鴻臚寺(こうろじ)の四方館(しほうかん)というところに迎えて、まず『涅槃経(ねはんぎょう)』と唯識の代表的な古典である『摂大乗論(しょうだいじょうろん)』(真諦訳)を学ばせていたという事実です。

 第二次の遣隋使は翌六〇八年に帰ってきていますから、僧たちの学びが十分だったかどうかはわかりませんが、彼らの学びのテキストだった『涅槃経』と『摂大乗論』が持ち帰られたことは、状況からしてほぼまちがいありません。

 もしかすると、すでに六〇〇年の遣隋使の帰国の時点でも、文献だけは持ち帰られた可能性があります。

 この二書はどちらも、日本人の精神形成にとってきわめて大切な文献だったのではないか、と筆者は考えています。

 『涅槃経』には「一切衆生悉有仏性(いっさいしゅじょうしつうぶっしょう)」つまり「すべての生きとし生けるものには仏の本性が本来備わっている」という、人間性への絶対信頼の思想があります。これは『憲法』第三条の「人はなはだ悪しきものなし」という考え方とぴったり一致しています。

 そして『摂大乗論』には、「唯識」つまり「迷いも覚りもすべては人の心のあり方しだいである」という、仏教の心理洞察のもっとも体系的な理論があるのですが、これも第十条の「人みな心あり」という言葉とみごとに対応しています。

 日本人の「人間はいろいろ悪いことをすることもあるが、根本的に悪い人間はいない。心のあり方・持ち方しだいで、良くも悪くもなれるのだ」という肯定的・楽天的な人間観は、源泉としてこうしたところから来ているのではないか、と筆者は推測しています(もちろん古神道から来ているという面もあると思いますが)。

 六〇四年の『憲法』発布時点で太子がこの二つの文献を読んでいたかどうかはわかりませんが、右のような内容の対応からすると、読んでいても不思議はありませんし、太子の仏法の学びへの熱意からして、六〇八年、留学僧たちが持ち帰ったとしたら、読まないですませるわけがありません。

 つまり日本仏教の祖・聖徳太子は、大乗仏教の深層心理学ともいうべき唯識を知っておられたと考えられるのです。

 この時あるいはそれ以後帰ってきた留学生・留学僧たちが、後六四五年の大化の改新の中心的なブレーンになったことは比較的よく知られていますが、彼らが唯識を学んできたはずだということは一般にはあまり知られていません。

 しかし大化の改新の立役者の一人である藤原鎌足が、帰国した彼らから律令国家のあり方について学んだだけでなく唯識も学んでいたことは、後六五三年に第二次の遣唐使に長男の定恵(じょうえ)を留学僧として派遣し、玄弉三蔵から唯識を学ばせたことからも、ほぼ確実に推測できます(帰国は六六五年)。

 この時の留学僧の代表的な存在は道昭(どうしょう)という人で、彼らはおそらく第二次ではなく第四次の遣唐使船の帰国の際、六六一年に帰ってきているのではないかと思われます。

 彼は、奈良東大寺の大仏を造る際の中心になった行基(ぎょうき)の先生で、日本に始めて本格的な禅院を建て禅定を導入した人であり、また始めて火葬で葬られた人です。

 さてここで重要なことは、この道昭もその弟子の行基も、人間の心のあり方、煩悩や覚りに関するきわめて体系的な思想である唯識学を学んでいながら、布教する場合、唯識では難しすぎて民衆の救いにならないことを自覚していたからでしょう、それらを教えることはせず、地獄・極楽を含んだ六道輪廻などの仏教的な神話を説いたようです。

 さらに、当時、税を納めるために地方から都に上ってくる民衆たちが行き来の道で行き倒れになるなど悲惨な状況にあったようですが、彼らのために、道を整備し、橋を架け、疲れや飢えや病を癒すための施設を作り、薬草など漢方の知識や呪文などによる癒しも行ない、大乗の菩薩としての慈悲の行為を実践してみせています。

 彼らのそうした努力によって、仏教の呪術的・神話的な世界観が信じられるようになり、それが民衆の救いになる時代がやってきます。すなわち、この世でがんばって慈悲の行為=善業を積めば、つまりいいことをすれば、現世でもいいことがあると希望がもてるし、たとえこの世では苦しかったとしても、来世はいい所に生まれ変われるという来世への希望をつなぐことができる、という意味で、仏教が民衆の心の救いになっていったのです。

 現世と来世を「現当二世(げんとうにせ)」といいますが、仏教は現当二世の利益・安心を保証してくれるものでした。そして、そういう呪術と神話という両面からの安心効果によって、仏教が、国家の上層階級や学僧はもちろんですが、それだけでなく、だんだん庶民のもの、つまり日本人すべてのものになっていくのです。

 まとめていえば、かつての日本人は、いいことをすれば生きている間にもいい報いがあるし、死んでからもいいところ(極楽など)へ行けると信じており、そういう信仰がやさしさやまじめさや穏やかさといった日本の心を形成し支えていたのですが、その源流は聖徳太子にあり、それがこのように脈々と流れ広がって、日本人の心をしだいしだいに潤していったのだと思われます。

*写真は、近鉄奈良駅前広場の行基像

2006年06月17日

日本の心と仏教2

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 日本人が自分たちの心の原点を考えようとするとき、聖徳太子『十七条憲法』があるということには、決定的に重要な意味がある、と筆者は考えています。

 『憲法』とは、国家が国家として存立する理由、国家理想が語られているものです。

そして、『十七条憲法』(以下『憲法』と略)は、まさに日本初の憲法です。

そこには日本の国家理想が高々と謳われており、それはそれ以後の日本という国のかたち、日本人の心のかたちを暗黙のうちに決めてきたものだと思われるのです。

 ところが、『憲法』の内容は現代の日本人の基本的な教養になっていません。

そう言っている筆者もようやくここ十年でその内容がわかってきたところです。

わかってみると、そこにはすばらしい理想が掲げられており、日本人が自分たちの原点を知らないままでいるというのはとても残念であり惜しいと思いましたので、紹介するために一冊本を書きました(『聖徳太子「十七条件憲法」を読む』大法輪閣)。

詳しいことはそちらを読んでいただくほかありませんが、本稿のテーマからして、要点だけでもぜひご紹介しておきたいと思います。

第一条の冒頭の「和を以て貴しとなせ」という言葉はわりによく知られています。

しかし、全体の文脈を読んでいくと、「和」は、ただ人間の間の「平和」というだけでなく、人間と自然との「調和」についても述べられたものだと思われるのですが、そのことは意外に知られていません。

しかしこうして気づいてみると、日本という国は出発点からして、何となくではなくはっきり意識的に、人と人との和、人と自然との和を実現することを目指していたのです。

これは、戦争と環境破壊という根本問題を克服できないまま混迷を続ける現代世界にも、というか、現代にこそ決定的に意味のある、すばらしい国家理想ではないでしょうか。

しかもさらに驚くべきことは、理想が謳われているだけでなく、その和を妨げる根源的な原因がひじょうにはっきりと把握されていることです。

「人みな黨(とう)あり。また達(さと)れる者少なし」ということ、つまりふつうの人間・凡夫には、「黨(とう)」すなわち無明から生まれる党派心つまり自分たちさえよければいいという心があり、縁起の理法・この宇宙ではすべてのものはつながり合っていて結局は一つだということを覚っている人はほとんどいない、そのために自分たちだけのために利益を奪いあうことになるので、争いが絶えないのだ、と。

これまた、現代にそのまま通用する洞察です。


 そして、第二条では、そうした無明の心・枉(まが)った心を直すには仏・法・僧の三宝すなわち仏教によるほかないと、いわば仏教の国教化宣言がなされています。

しかし、それは決して特定宗教としての仏教を他の宗教を排除して独占的・排他的な国家イデオロギーにするということではありませんでした。

『憲法』では、仏教よりもむしろ儒教の用語のほうが多く使われていますし、「古(いにしえ)の良き典(のり)」として神道的な伝統もふまえられています。

 前回も言った「神仏儒習合」のかたちです。

  神道も儒教も仏教も、和の実現に向けて人間の枉った無明の心をコントロールしたり浄化したりする上で、それぞれに役に立つところがある、というのが太子の判断であり、それぞれのいいところはすべて摂り入れる、というのが方針だったようです。

 聖徳太子の作と伝えられる『法華経』の注釈書『法華義疏』では、『法華経』はもちろん仏教そのものでさえも絶対化されておらず、むしろ『法華経』の心は、「万善同帰」すなわちすべの善いものは結局は人間の心を浄化するという一つの目的に帰着すると主張しているところにある、と捉えられています。

 日本の仏教の出発点は、こうした『憲法』に見られる包括・統合的な姿勢にあったといってまちがいないでしょう。

 そして、そうした姿勢が時代を経て一般化・通俗化したことによって日本人の宗教的・思想的な寛容さが育まれたのではないか、というのが筆者の推測です(そのプロセスについては次回述べたいと思います)。

 さらに第三条では、和の実現を目指すリーダーとサブ・リーダーのあるべき姿が語られています。

 君すなわちトップ・リーダーは天に代わって人々さらには生きとし生けるものすべてを庇護するのが使命であり、臣すなわちサブ・リーダーはリーダーに従って人々を支え、援助していくのが使命である、といわれています。

 「君をば天とす。臣をば地とす。天は覆い、地は載す」というのです。リーダーたちがそうした使命を果たすとき、季節は順調にめぐり、すべての生き物の活力が生き生きと通うのだといいます。

 「四時(しいじ)順(したが)い行ないて、万気(ばんき)通うことを得」というのです。

 第三条だけでなく、『憲法』全編には、リーダー・権力者というものは自分のためではなく民衆の幸福のために存在するのだという、大乗菩薩思想に基づいた「愛民思想」が一貫して流れています。

 『憲法』には、法的な規範というよりむしろ根源的なリーダー論というところがあります。

 『憲法』以後の日本のリーダーたちの実情がどうだったかとは別に、『憲法』の「リーダーは、民たちさらにはすべての生き物のためにこそ存在する」という本質的なリーダー論は、現代でも色褪せていません。

 それどころか、これからますます輝きを増していくのではないでしょうか。

 日本のあらゆる分野のリーダーたちに、ぜひ『憲法』の原点に立ち還ってもらいたいものだ、と筆者は願っています。

 詳しくお伝えできないのが残念ですが、第四条以下には、リーダー自らが礼節ある生き方を示すことによって、民がそれにならい、自然に治まる国を目指すということ、私利私欲を捨てること、勧善懲悪、公正で迅速な裁判、自分の職務に勤勉であること、誠実であり信頼しあうこと、人に対して怒る前に自ら振り返ること、信賞必罰、人民を搾取しないこと、役割・権限を私物化しないこと、嫉妬することなく協力しあうこと、そして何よりも心開いて徹底的に話し合うことによって、和の国日本の建設という大事業を共に遂行していこう、という呼びかけと訓戒が、きわめて簡潔なしかし感動的な文章で語られています。

 そこには、親切で優しい心、神仏・天地自然を敬う心、責任感、礼儀正しさ、無欲、正直さ、勤勉さ、誠実さ、自省の心、そして協力と話し合いの精神……といった、それ以後の日本人が培ってきた美徳の常識がすべて含まれているようです。

 かつて筆者自身、読みもしないで「何をいまさら、古臭い……」と偏見を持っていたのですが、しっかりと読み直してみると、そこには永遠に古びることのない美しい理想が語られていました。

 今では、『憲法』こそ日本人の心の原点だと感じています。

*写真は法隆寺東院夢殿

日本の心と仏教1

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 「仏教」の四つの面

 日本の心を語るうえで、仏教が一つの中心的なテーマであることはいうまでもありません。

 しかし、私の考えでは同じ「仏教」という言葉で呼ばれるもののなかに、いくつかの面が含まれています。これまで、それらの面を区別しないまま一般的に「仏教」として論じられてきたために、いろいろな混乱が生じているようです。

 そこで最初に整理しておくと、いわゆる「仏教」のなかには、宗教学的にいうと、原始的な呪術性、古代的な神話性、さらにきわめて合理性・哲学性のある教えと、それを含みながら超える覚りの論理と方法(「霊性」)という四つの要素が混在しています。

 より具体的にいえば、お札やお守り、お賽銭やお参り、縁起かつぎ、おみくじ、占い、おまじない・加持祈祷、その背後にある「おかげ(ご利益)」や「祟り」という観念などは、仏教の呪術的な面と分類していいでしょう。

 さらに地獄‐極楽、あるいは地獄、餓鬼、畜生、阿修羅、人間、天という六道輪廻、それに声聞、独覚、菩薩、仏を加えた十界などは仏教の神話的な面といえるでしょう。

 しかし現代人にとって意味が大きいのは仏教の合理的・哲学的な面です。縁起、無常、無我、一如、法、空、慈悲などの教えは、ただ信じ込むという意味の「信心・信仰」とはほとんど関係なく、よく聞けば誰でも納得のいく普遍性をもっている、と筆者は捉えています。

 しかもそれらの教えは、それ自体が目的ではありません。それを学んで、原始仏教なら八正道、大乗仏教なら六波羅蜜という行を実践することをとおして、「菩提=覚り」、「解脱」、「涅槃」という言葉で表現される心・人格の境地に到ることが目的なのです。そうした心の状態を「霊性」と呼べば、仏教のエッセンスは霊性の面にあるといえると思います

 ところが、いろいろな歴史的な事情があって、日本人の多くはそうした仏教の多様な面を区別しないまま捉えており、そのために、呪術や神話の面しか見ていない方は、仏教をもう古くさくて迷信的なものとして全然興味をもとうともしないようです。

 そういう私も、いろいろなきっかけで仏教のエッセンスの部分を学ぶことができ、呪術的な面や神話的な面との区別ができるようになるまでは、そういう誤解を持っていました。

 そういう誤解を解く手助けとして、日本仏教の流れを大まかにふりかえりたいと思います。

 仏教伝来から国教化まで

 ご存知のとおり、仏教が日本に公式に伝えられたのは、六世紀(五三八年か五五二年)のことです。百済の聖明王から日本の欽明天皇に宛てられた、国家リーダーから国家リーダーへのいわば文化的な贈り物でした。仏教は、当時の東アジア世界では、単に宗教というよりは先進文化だったのです。

 贈られた時、欽明天皇はそれをどう扱うか大いに迷ったようです。それは、日本にはすでに古来からの神々が存在し、それに加えて新しい異国の神とみなされた仏を崇めるかどうかは、きわめて難しい問題だったからです。

 仏教以前の日本の神道は、すべてのものにいのち・魂があると捉えるアニミズムと、巫女などが人間を超えた力・カミの媒介として、それを崇めたり、なだめたりするシャーマニズムからなる呪術的宗教であり、それによって人々は不安の多い原始的な社会でかろうじてある程度の安心を得て生きていたのだと推測されます。

 例えば大雨や日照り、嵐や雷などの天候の異変や流行病などに神々の力が働いていると信じ、そういう荒ぶる神を鎮めなだめて、惠みを得られるようにするのが古代神道的な呪術でした。

 もちろん、呪術で自然の猛威を鎮めきれるわけではありません。

 しかし古代人はそれをあくまで荒ぶる神と捉えていましたから、切実により力のある呪術を求めていたでしょう。

 仏教が入ってきた時、もっとも大きな意味を持ったのは、鎮護国家の呪術という面でした。

 金色に輝く仏像や仏具、洗練された寺院建築、僧の厳かな服装、唱えられる経典の響きや所作など行なわれる儀式の壮麗さ・複雑さ、その他さまざまな仏教文化の印象は、何よりもまず国を守る呪術として、従来の神道よりもはるかに力があると見えたのでしょう。

 しかし、欽明天皇は採否を決めかねて先送りし、次の敏達天皇は仏教を嫌い、続く用明天皇は個人としては信じたのですが、国としての態度決定はできなかったといわれます。

 公式導入の是非と氏族間の勢力争いがからんで、蘇我氏と物部氏をそれぞれ中心とした勢力同士の血で血を洗う闘争を経て、五九四年、推古天皇、聖徳太子、蘇我馬子の合意によって、仏教の正式導入、ある意味での「国教化」が決定されます。

 時代の意識レベルからして当然ですが、この時点では、主に仏教の呪術的な面と神話的な面が採り入れられています。

 しかしその際、在来の神道が廃止されたわけではなく、民俗神道的な祖霊崇拝も廃止されませんでした。当時、中国ではすでに仏教は先祖崇拝の宗教になっていたので、容易に在来の神話的な先祖・祖霊崇拝と結び付けられたのです。

 まとめていうと、仏教は、国家護持と先祖崇拝のより壮麗な方法、加えて天災を防ぎ、豊作を祈り、病気を治すなどのための呪術として導入され、さらに徐々に、六道、地獄‐極楽などの仏教神話も導入されていきます。

 こうした仏教は、受容‐信仰した支配層の人々にとって、相当程度、心理的な救いになったと推測されます。

 さらに注意すべきことは、政策レベルではそれ以前から儒教も導入されていることです。

 公式導入の恩人あるいは責任者ともいうべき聖徳太子の『十七条憲法』を見ると、日本の仏教はスタートから「神仏儒習合」のかたちになっているのです。

 しかもそこで大切なことは、聖徳太子自身は、教えのレベルでも修行・境地のレベルでも、霊性としての仏教のエッセンスをきわめて深く会得していたということです。

 しかし当時の日本人の意識レベルを考えると、霊性や哲学性・合理性の面だけでは、仏教は日本に根付かない、神話性や呪術性の面も統合したかたちで導入すべきだ、と太子は考えたのではないでしょうか。

 宗教人類学の佐々木宏幹先生の分類を借りていえば「祈祷仏教」と「葬式仏教」と「教理仏教」(『仏力』春秋社)、さらにそれに加えて私の言葉でいえば「霊性仏教」の統合的な導入です。

 私は、こうした統合的な導入の仕方を「聖徳太子方式」と呼んでおり、それは、日本仏教にとって、それ以上に日本人にとってとても幸いなことだった、と思っています。

 それは、聖徳太子方式=神仏儒習合によって、つながり・縁・和を大切にする心が、日本という国の変わることのない理想として確定されたからです(拙著『聖徳太子『十七条憲法』を読む』大法輪閣、参照)。


*写真は法隆寺南大門

2006年04月14日

 「何があっても大丈夫」の思想

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 筆者は、一九五〇年代の原爆の記録映画のショックなどに始まり、一九七〇年代、『成長の限界』、『複合汚染』、『沈黙の春』などを通じて環境の危機のデータを知ってさらに、「このままだと、人類は滅びるのではないか。それは止めようがないのではないか」という強い不安と絶望に近い感じをずっと抱いてきました。

 そして、非常な焦りを感じてきました。

 しかしきわめて幸いなことに、この十年、唯識の学びの深まりと、我らの時代のナビゲーター、ウィルバーの仕事のお陰、そしてそれに刺激されてやった宇宙一三七億年の歴史の、現時点での自分なりのまとめによって、そうした不安や絶望感は思想的にはかなり……根本的にといってもいいほど克服できました。

 それを少し冗談めかして、「何があっても大丈夫の思想」とか「だいじょうぶっ教」と呼ぶことにしています。

 もう少し、かっこうよく言えば「全肯定の思想」と呼ぶこともできるでしょう。

 以下、その要点をできるだけ簡略に述べてみたいと思います。

 それは、まず唯識を通じて、「人間にアーラヤ識があることは、現状の煩悩・悲惨の原因であると同時に、未来の可能性の根拠でもある」ということを学び、納得したことから来ています。

 人間の現状が煩悩にまみれていることが事実であればあるだけ、それはアーラヤ識―マナ識があることの証拠であり、ということは四智が開ける可能性がある証拠でもある、ということになるのです。これは、決定的には『摂大乗論』から学んだことです。

 そういう意味で、大乗仏教そして唯識は、しばしば誤解されるのとはまったく逆に希望の人間学だと言っていい、と私は解釈しています。

 そして、いろいろなところで引用してきましたが、ウィルバーの言うとおり、「コスモスは一三七億年かけて、塵(クォーク)から道元(覚者の代表)を生み出した」のです。ゴータマ・ブッダやイエスやナーガールジュナやダルマやプロティノス……といった多数の覚者がすでに人類史に先駆的に誕生しています。八識を四智に転換しえた人物が、実際に、何人もいる。

 これは、きわめて確実な、いわば既成事実だと思われます。

 わざわざ一三七億年かけて、自分はコスモスだという目覚めに到るコスモスの自己認識器官である覚者を生み出しておいて、ここでその覚者を生み出す基盤である人類を滅ぼすというムダなことを、いったいコスモスがするでしょうか?

 どういう道筋を辿るにしても、コスモスは、さらにさらに自己認識を深めていくために、人類という器官をもっと活用――活かして=サヴァイバルさせて用いる――し、さらにさらに無数の覚者を生み出していくのではないか、とかなり確実に予測できます。

 しかも今の歴史的段階で必要なのは、ウィルバーの意識の発達図式を借りて言えば、究極の覚り(非二元段階)まで到達した覚者という例外的存在にすべての人類がなるというほとんどありえないことではなく、個に中心をおいた理性段階から進んで、より統合的な視点を持ったヴィジョン論理の段階から物と心を含む大きな自然との一体感を確立した自然神秘主義・心霊(ルビ:サイキック)段階あたりまで成熟したリーダーの一定数であり、そうしたリーダーが生まれてくる条件は、すでにほぼ調いつつあると思われます。

 だとしたら、たぶん人類には希望がある、と思うのです。

  絶滅と適応放散

 さらに、これも書いたことですが、生命進化の歴史を学んでみると(これも現時点の標準学説によればですが)、四〇億年の間に少なくとも十三回、最近六億年で六回、生物の種の大量絶滅があったということです。

 しかし、それで生物全体が絶滅したのではなく、ある種が絶滅することで空き地になった生態学的ニッチ(なわばり)に、他の種が進出しながら進化を遂げていくということが起こっているようなのです。「適応放散」と呼ぶそうです。

 生命全体で見ると、ある種の絶滅が次の進化の条件になっているわけです。

 ということは、ある種の絶滅は、「絶滅」というより、進化史上の役割を全うして後にバトン・タッチした上での舞台からの退場だと見たほうがいいのかもしれません。

 そうだとしたら、人類も役割を全うしたら舞台を去ってもいいわけです。

 退場を恐れる必要はありません。

 いつかは、そういうこともあるかもしれません。

 しかし、役割を全うしないで、劇をぶち壊しにしておいて、舞台から引きずり下ろされるのだとしたら、いささかかっこうが悪すぎますが。

 しかしコスモスという監督は、一三七億年を通して見ると、あらゆる役者・万物に必ずしっかり役割を演じさせるもののようで、そこには何の例外も妥協も容赦もないようですから、万物の一員である人類も必ず役割を全うさせられる、言い換えれば、させてもらえると期待していいでしょう。

 イエスは、「神殿で捧げ物用に一山いくらのほんのはした金で売られるスズメでさえも、神の許しなしに地べたに落ちたりはしない」と言っています。

  星の死は新しい星の誕生の準備

 もう一つ、これも『宇宙の歴史と私のつながりを考える』などで書いたことですが、復習しておきます。

 物質面のあるレベルでいうと、宇宙のすべてのものは原子からなっているようですが、この原子は宇宙の歴史の中で生まれてきたものらしいのです。

 そして、鉄までは星の中で、鉄より重い原子は超新星の爆発によって生まれたと推測されています。

 ということはつまり、星の死がより複雑な物質の誕生をもたらしたということです。

 宇宙では、爆発・破壊・死にも、宇宙の複雑化・自己組織化の必要なプロセスというきちんとした意味があるようです。

 さらに、これは最近読んで知ったことですが(松井孝典『宇宙誌』徳間文庫)、五〇億年ほど前、我々の天の川銀河のある場所で超新星の爆発が起こり、その衝撃波の力によって、他の場所の宇宙の塵が凝集し、やがて原始太陽となったという、かなり確度の高い仮説があるようです。

 だとしたら、私たちの太陽系、そして地球の誕生は、他の星の死によってもたらされたことになります。

 ここでも、死は生の準備になっています。

 道元の「この生死は、仏の御いのちなり」という直観的洞察と、宇宙のプロセスの科学的な推測とは、みごとに対応しているようです。

 『正法眼蔵』「一顆明珠」の巻の「尽十方世界一顆明珠」(じんじっぽうせかいいっかのみょうしゅ、世界すべてが一つの透明な宝玉である)、「十法」の「尽十方界無一人不自己」(じんじっぽうかいひとりとしてじこならざるはなし、世界には一人として自分でないものはない)、「諸法実相」の「尽十方界真実人体、尽十方界自己光明裏」(じんじっぽうせかいしんじつにんたい、じんじっぽうせかいじここうみょうり、世界はすべてほんとうの人間の身体であり、世界はすべて自分の光のなかにある)、という言葉に表現されるようなコスモロジーと、現代科学のコスモロジーは、驚くほど対応している(決して「同じことを言っている」のではないが)。

 それは、「宇宙と私は一つである」という事実の両面を、内面的直観と外面的観測・推論で捉えたものと理解することができるのではないでしょうか。

  コスモスへの信頼

 このように外面的・現代科学的な研究からも、内面的・霊性的な直感からも、私たちと一体であるコスモス=大自然は、長いタイム・スケールで見ると、ひたすら複雑化・自己組織化へと向かっていると見ていいようですから、それに対して私たちは、信頼し、希望していいのではないでしょうか。

 宇宙スケールで考えると、死・破壊はただの死・破壊ではなく次の生・生成のためのプロセスであり、だから意味があり、だから恐れる必要はないということになります。

 そして、そういうきわめて大きなスケールで考えれば、星に死があるように、個人の悲惨な死はもちろん、国や民族の絶滅もさらには人類の絶滅も起こる時には起こるのであり、起こるべきでなかったら、日本も人類全体も、いろいろなことがあっても、最終的には存続するだろうと考えるようになりました。

 根本的には、空や神と同義語としての〈コスモス〉の進化の流れにまかせながら、自分のできること、やりたいことをやっていけばいいのだ、と思うようになったわけです。

 私たちの生きている、この困難な時代の希望は、ただコスモスの意志と歩みへの信頼からだけ生まれるのではないでしょうか。

 それに、考えようでは、こんなに大きな、人類史最大といってもいいくらいの歴史の転換期に立ち会うのは、面白さ、ドラマティックさという点でいえば、最高の機会であり、コスモスの進化の戯れを面白がればいいのだ、と捉えることもできます。

 そこで私としては、大変な不安や憂慮を抱きながらも、同時に面白がってどきどきしながら、歴史に参加していこうと思っています。


2006年01月09日

晩秋の奈良――「美しい国」という夢

法華堂の観音

 晩秋というよりむしろ初冬という季節なのに、うららかに晴れ上がり、小春日和の光を浴びながら、奈良を巡ることができた。

 「日本人の心と仏教」という雑誌連載(『ダーナ』佼成出版社)のための取材旅行という意味もあって、妻と二人、思い立って出かけたのである。

 日本仏教の大まかな流れとそれが日本人の心をどんなふうに育んできたのか、自分の捉え方を書いておきたいと思っている時に、原稿依頼を受けたので、「渡りに船」と引き受け、いくらか苦しみながらも楽しんで書いている。

 訪ねたのは、藤原鎌足公を祭った談山神社、そこにある藤原不比等公の墓所、藤原氏の氏寺興福寺、そして聖武天皇によって建立された東大寺と、古代律令国家の成立―確立に関わる史跡ばかりだった。

 それらの人々にとって神仏習合というかたちでの仏教、唯識や華厳といった仏教思想はどんな意味を持っていたのか?

 それらと、産み出され、残されている、こうした美は本質的にどう関わっているのか?

 楓やナンキンハゼの真っ赤な色、イチョウの黄色、鮮やかに彩られた風景の中で、考えるというより、まず感じ取ろうと思いながら歩き続けた。

 こうした美しさを感じていると、それらが、単なる古代的迷信や権力者の知的アクセサリーや民衆を騙すためのイデオロギーだなどとは、思えるはずもない。

 奈良には何度も行っていながら、不思議に東大寺は大仏殿以外には行ったことがなかったが、この旅の目的には聖武天皇のことを書くために何か実感的な手がかりを得たいということもあったので、二月堂、三月堂、戒壇院などには必ず行こうと思っていて、2日目にそれも実行することができた。

 期待していた談山神社の紅葉は終わりに近かったが、予想していなかった東大寺の境内の紅葉が実に美しく、そのみごとさ、鮮やかさには言葉を失うことがしばしばだった。

 みごとなほど鮮やかでありながらとても品のある赤、朱色に近い赤、とてもシックな赤、ほとんどオレンジ色……と、みごとに彩られた木のそばで、立ち止まり、立ち尽くし、声をあげ、ため息をつき、何度も何度もカメラのシャッターを切った。

 書きたいことはたくさんあるのだが、ここではまず三月堂=法華堂の不空羂索観音にお目にかかれたことだけでも書いておきたい。

 この観音さまが天平の仏像の中でも最高の傑作の一つであることは、解説や写真集でよく知っていたが、これまではご縁がなくてお会いすることがなかった。

 今回も、ぼんやりと「三月堂には確か…」というふうに思っていただけで、はっきり意識的に拝観に行く予定ではなかったから、なかばはたまたま幸運にもお会いできたという感じがあった。

 仄暗いお堂の中に入り、前にいたたくさんの観光客で見えにくいので、少し端のほうによって横顔を拝見した時、一瞬にして「ああ、何とみごとに美しい観音さまだろう」と感じ入ってしまった。

 これは、聖武天皇と光明皇后の待望の息子であった基王(もといおう)がわずか1歳あまりで病死した悲しみに、皇后がその追善のため発願した仏像だという。

 そのエピソードが感じさせるものもあるのだろうが、この観音さまのお顔からは、一切の悲しみを受け止め癒していく静かなしかし力強い光が射している、という気がした。

 こんなにも悲しみを受容する静けさと美しさの表現は、ただ技が巧みなだけでなく、聖武天皇や光明皇后の思いを汲み取る深い思いやりの力を持った仏師がいたということなのではないか。

 深い悲しみと共感から、こんなにも美しいものが生まれてきたのである。

 それやこれや、ほんとうに美しい東大寺の広大な境内を妻と散策しながら、きっとすでに誰かが気づいて書いているにちがいないと思いながら(しかし読んだ覚えがないのだが)、聖武天皇と光明皇后が描いた壮大な夢つまり理想は、日本を「美しい国」にしたい、ということだったのではないかと思いついたのである。

 それは、「大仏は、光の仏である慮舎那仏(るしゃなぶつ)の蓮華蔵世界(れんげぞうせかい)のような調和に満ちた世界を創りたいという理想の象徴である」といった思想の話だけでは十分に気づかなかったことだった。

 陶酔してしまうほどに美しく鮮やかな紅葉と、千年以上の長い年月を静かに静かに立ち尽くしておられるこの美しい不空羂索観音にお目にかかって、「こうした美しい世界に日本という国全体をすることが、天平の帝王の夢だったのではないか」と思えてしまったのである。

 その夢を共有できたからこそ、民衆救済に一生をかけ菩薩とまで崇められた行基が、ある意味では民衆に大変な負担をかけることにもなる大仏の建立という大事業に協力する気になったのだ。

 それは、「それまで民衆の側にいた行基が晩年名誉欲に駆られて権力に迎合した」などということではありえない。

 これは文献を読んでいるだけでは思いつきもしなかったことで、今回の旅の最大の収穫の1つだった。

 もちろん基本的な文献にも当たっていて、『日本書紀』や『続日本紀(しょくにほんぎ)』を通読しながら、戦後の歴史教科書ではいかに教えられなかったことが多かったか、今さらのように驚いている。

 聖徳太子の『十七条憲法』の全文とその意味を教科書ないし授業で教わった人は、ほとんどいないだろう。

 あるいは、東大寺−大仏を造営する時、聖武天皇がどんな詔勅を述べているか、そこにどんな理想が語られているか、ちゃんと教わった人もいないのではないだろうか。

 それから、もちろん唯識のことも、空海『十住心論』や道元『正法眼蔵』にどんなに壮大なコスモロジーが語られているかといったこと等々も。

 しかしそれらは、日本人にとって失ってはならない精神的な遺産だったのではないだろうか。

 ところが今、全体としての日本人はそれらを見失わされて・見失いつつあることは確かなようだ。

 旅から帰ったら、ここで感じことを一つの手掛かりとして、そこにあった日本のリーダーたちの高い理想――美しい国を創りたいという悲願――を読み取りなおすという作業をしなければ、と思いながら、もう少しの間、日本の秋の美しさに酔っていようとも思っていた。

 それにしても、日本の古都はほんとうに美しかった。


*写真は『東大寺』(保育社カラーブックス)の入江泰吉氏のものを引用させていただきました。

2005年12月30日

冬の詩1篇

081131a7.jpg    雑木林の風の琴

 山の雑木林の道を歩いていて

 晴れ渡った初冬の空から突然のように

 不思議にサラサラとした音がしたのは

 ゆるやかな風が吹き

 無数の木の葉が斜線を描いて

 高い梢から舞い下りてきたからだった

 木々の空間は疎らになり透きとおっていて

 渡っていく小鳥の群れのように

 細くしなやかにのびた枝々の間を

 枯れ葉たちがヒラヒラと

 身をひるがえしながらすり抜けていき

 時に枝にふれて微かな音を立てる

 たとえば霊妙な風の琴とでもいってみたくなる

 その音を立ち止まってしばらく聴く……

 それは稀な幸運というほかない楽興の時


*何年か前、ふと思い立って、暮れのいろいろな仕事を止めて、妻と鎌倉へ入って山道を散歩した時の詩である。

2005年11月09日

奈良興福寺での学び

興福寺北円堂

 この秋*も奈良でワークショップを行なうことができた。

 興福寺の本坊、北円堂、奈良公園の森、飛火野、そして春日大社とその森など、清々しい気に満ちていて、そこにいて深く呼吸をするだけで、自分の心まで清々しくなるような思いのする恵まれた環境で、ぜいたくな二泊三日を過ごした。

 興福寺は、「唯識の学びのためなら」と、貫首の多川俊映師の特別のご理解で会場をお借りできるようになって十年近い。

 その間、ほぼ毎年伺ってきたが、その度に新しい感動があって、あきるということがない。

 今年は雨が多かったせいか、本坊の庭の苔がやわらかく厚い絨毯の毛のように伸びていて、例年よりもいっそう美しかった。

 縁側に坐ると、一人ならこのままずっとここで坐禅を続けていたいという気になってしまうが、ワークショップなので、そういうわけにもいかず、参加者のみなさんに、唯識の講話、瞑想法の手引きなどをしなければならない。

 だが、場自体に高いスピリチュアリティがあるこうした所では、とても楽だ。「さあ、どうぞ見て下さい。聞いて下さい。感じて下さい」などと言っていれば済むからだ。

 「あなたは、他の人や物や全宇宙とばらばらに分離などしていないんです。つながって一つなんです」といった講話の言葉も、ただ私のだけではない場の力を帯びて響く。

 夕方、松林に囲まれた八角形の北円堂で、弥勒如来、無着菩薩、世親菩薩に五体投地の礼拝をしてから、堂内での瞑想と堂のまわりを巡る歩く瞑想法=経行(きんひん)を行なう。

 折からの雨の粛々とした音が、あたりの静かさをいっそう増し、深い思いを誘う。

 翌日は恵みの秋晴れ、ワークをしながらみなで飛火野まで歩く。

 広々とした芝生の広がりの中に、久しぶりに見る一本の大きな楠の木。

 樹齢は千年を越しているかもしれない。

 近づくとほとんど視野いっぱいになるほど大きい。

 光の中で風に吹かれ、無数の葉をきらめかせながら、さわさわと鳴っていた。

 木の下で、「こちらの私が分離して向こうにある木を見るのではなく、大地によって、大気によってつながっていること、おなじお日さまのエネルギーをもらっているという点でもつながっていることを感じながら、光線とそれを見る目を通じて、つながっているという見方をしてみよう」というワークを行なった。

 それから鹿が群れ遊んでいる中を春日大社へ参拝した後、森に入る。

 まさに神の森というべき気が溢れている木々の繁りと木漏れ日の中で、大地と一体化する瞑想を行なう。

 夕方、前日と変わって、この日の北円堂は美しい夕日を浴びていた。

 それぞれ思い思いに、お堂の中かまわりの草の上の場所を決めて坐る。

 清々しい瞑想の時が過ぎていった。

 夜は、また飛火野へ。

 澄んだ秋の月を見て、それから目を閉じてそのイメージを描き、そして呼吸に合わせながら、次第に一体化していくという瞑想法。

 終わって、一人の参加者が「今夜初めて私と月は一体なんだという気がしました」と感想をもらした。

 三日目、感想や疑問を出していただき、それに応える短い講話、そして最後に静かな坐禅の時で、プログラムはすべて終了した。 
 
 そうしたプログラムを通して、味わいや深さは違うにしても、間違いなく、それぞれの心に人や全宇宙との深い「つながり感覚」が薫習されたと思う。

*今手元に記録が見つからず記憶があいまいなのだが、確か1992、3年頃の原稿である。これもまた、読者に興福寺でのワークショップの雰囲気をお知らせしたくて再録した。写真は興福寺北円堂。今年七月に撮影したもの。

2005年11月07日

海住山寺の風と雫の音

海住山寺

 去年の秋、海住山寺で聞いた風と樹々の雫の音がとても深くて、いまでも心に残っている。

 その日は二度目の訪問で、唯識を学び坐禅を体験する会──唯識心理学ワークショップの会場としてお借りしていた。

 参加者たちと一緒に京都からJR奈良線に乗った。

 折悪しく、小雨模様だった。

 しかし、曇った窓の外の晩秋の田園風景を眺めながら、小さなローカル線風の電車で走るのは、淋しげに風情があってなかなか悪くない。

 木津から関西線に乗り換えて次の加茂で降りる。

 雨は勢いを増し止む気配はない。

 数台しかない駅のタクシーは出払っていて、なかなかやってこない。

 雨勢に押されて皆の威勢ももうひとつ上がらない。

 が、私はいつものことで、雨は上がるにちがいないと思っていた。

 私は、自分でもおかしくなるほど「晴れ男」で、だいじなことのある時天気で困ったことがない。

 タクシーはそうとうな間をおいて一台ずつしかやってこない。

 その度に、四、五名ずつ分乗して、ようやく全員が海住山寺に着いたのは四時前だったろうか。

 最後になった私たちのタクシーが、気持ちよくたっぷりと樹々の葉の繁った急な坂道を登りきった頃には、雨はほとんど止んでいた。

 寺は京都のはずれ、奈良との境、木津川を見下ろす小山の中にある。

 天平七年開基という由緒のある観音霊場で、鎌倉時代の興福寺の学僧解脱上人貞慶の隠棲・終焉の地でもあり、唯識にはゆかりが深い。

 雨に濡れた玉砂利の快い響きを立てながら境内に入ると、前回の訪問の時に変わらず、あるいはそれ以上にすがすがしい霊気に満ちていると感じた。

 私は、いつの頃からか「場の気配」ということに敏感になり、場そのものが魂を洗ってくれるような、まさに「霊場」というべき場所があるのだな、と思うようになっている。

 中でも私にとって、そこにいるだけ、そこの空気を吸っているだけで心を洗われるように感じる代表的な場所は、白山とそしてここ海住山寺である。

 白山のスケールの大きなたとえようもなくすがすがしい気に比べると、海住山寺の気はより温かくやさしく、包むようである。

 どちらがより、と言いがたく選びがたい。

 どちらもとても私と「気が合う」ようである。

 そんな場所を選んで、年に何度か、ワークショップを開く。

 その日は、秋のワークの初日だった。

 会場にお借りしている奥の院は、奥の院というよりはお堂という感じの、なかなか気配のいい小ぶりの建物で、座敷は十五人も入ればもう一杯だった。

 解脱上人貞慶の亡くなったその寺の奥の院で、彼のことを語るのは、独特の感慨があった。

 語る合間、障子の外に風に揺すられる樹々の葉とこぼれ落ちる雫の音が聞こえる。

 瞑想の時間、参加者たちと一緒に坐りながら、またその音を聞いた。

 時折の風に揺られ、樹々の葉にたっぷり溜っていた雫が音を立ててこぼれ落ちる。

 ばらばらでもざわざわでもない、その風と雫の音のなんと豊かなこと。

 障子一枚隔てているぶん、かえって庭の樹々や潤った空気がいっそう身近に思われる。

 呼吸の静まりとともに心もいっそう静まり、奥の院のまわりの自然と自分との親しさは、ほとんど一体感といってもいいほどに深まっていった。

 必要以上にかたくるしい規則をはずしてしまえば、何人もの人と一緒に静かに坐るのは、ひとりで坐るのとはまたちがった味わいがあって、私は好きである。

 それぞれがそれぞれの内面へと引きこもっていくようでいて、しかも共にそこにいる。

 それぞれの心の奥深くに入っていくと、不思議なことにかえって、そこにいるみなと、すべての人と、生きとし生けるものと、そして生あるものも生なきものもすべて含んだ全体──宇宙とつながっていくことが実感される。

 聞きながら、風と樹々の葉と雫の作り出す、こんなに深く豊かな音を聞いたのははじめてだな、という気がした。

 後で聞くと、何人もの参加者たちも声をそろえて「あの風と雫の音はよかったですね」という。

 風や雫の音がいいと心惹かれていくのも、禅などの建前からいうと執心・迷いのたぐいということになるけれども、私は最近たいして気にしていない。

 空も覚りもさることながら、とりあえず自分の心の深いところに滲みてくるなにかがあればいい、という坐禅をすることが多くなった。

 これで、たったひとりで聞いたらどうだったのだろう。

 もっとよかったのか、それともみなと一緒だったのがよかったのだろうか、そんなどちらでもいいことも想像してみる。

 だが、リルケ風に言えば「物象」が語りかけてきて私たちと出会うというのは、向こうから生起してくることであって、作為できることではない。

だから、そういう仮定や想像はほとんど意味をなさないのではあるが……。

 実は、このワークショップについて語れば、とても印象深くて、まだこのあとも長々となるが、ここでは夜の音のことだけで筆を止める。

                           (一九九五年一月四日)

*かなり昔のエッセイなのだが、縁ある方々に読んでもらいたくなったので、引っ張り出して掲載させていただくことにした。

2005年11月06日

大宰府の春   2005年4月

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 仕事の翌日、滞在を一日延ばして、大宰府の政庁跡あたりを歩いてみようと思った。

 朝のうちは少し肌寒かったが、二日続いた晴天で、昼近くなると、もう上着を着ていると軽く汗ばむほどになった。

 研修での新入社員たちの真剣で初々しい印象の余韻と、仕事を終えた後のくつろぎが重なり、それに明るい春の陽射しが加わって、心には暖かい幸福感が春の潮のように満ちてきていた。

 教え子にもこの春卒業した子たちがいるので、彼ら、彼女らも、今頃きっと研修を受けたりしているんだなと思いながら、ついこのあいだまで学生だった若者たちに、「きみたち、コスモスに愛されているんだよ」とメッセージを送り、たぶん彼らの心に届いたなという感触を得た後だったから、思いはひとしおだった。

 都府楼前の駅で降りたのは、ほんの二、三人。都府楼つまり政庁跡までの道、平日だったせいだろう、観光客らしい人はほとんど歩いていなかった。

 わざと脇から入って、野の花の咲いている草地を歩いた。草の色は若々しくやわらかで、黄色のタンポポ、ルリ色の小さな宝石を撒いたようなイヌフグリ、そして赤紫の鮮やかなホトケノザの花の群生が明るい陽射しの中にあった。そう、これが〈春〉だと思う。

 大宰府は山の様子など奈良にどことなく似ていて、政庁跡の広い草地も奈良公園の雰囲気に似ている。

 それは思いなしなのだろうか、それともここに政庁を築いた奈良のみやこびとたちが遠い都に似ている場所を選んだからだろうか。

 似てはいるけれども所詮都ではなく、多くの場合左遷される場所だったこの土地で、みやこびとの望郷の思いはどれほどだったろうか。

 よく知られた「青丹よし寧楽のみやこはさく花のにほふがごとく今盛りなり」という小野老(おののおゆ)の歌が、平城京ではなく大宰府で歌われたものであることを思い出す。

 しかし幸いにして流人ではない私は、大宰府には平城京とはまた別のみやびや匂いがあると感じながら、今年は花が遅れ、まだ数輪しか咲いていない桜を、ああでもないこうでもないとアングルを考えながらカメラに収める。

 花の下の陽だまりでは、幼児を連れた若い母親たちが草にシートを敷き、にぎやかにお弁当を広げていた。

 広々とした政庁跡の芝生を西側から東側へと横切り、裏の小道へ回って、去年初めて来た戒壇院、観世音寺に向かった。

 ところどころに田んぼが残った車一台でいっぱいくらいの小道を、春の陽射しを浴びながらゆっくりと歩いていると、なんともいえない幸福感がいっそう深くなって心に広がっていった。

 観世音寺の裏、回廊跡の柱石が並ぶ広場のそばの小道から境内裏のさわやかな森に入り、右に迂回して、玄掘覆欧鵑椶Α冒寮気里發里氾舛┐蕕譴訐佚磴里曚Δ妨かう。

 玄靴蓮遣唐使で唐に渡って唯識学を学び、その学識を認められて皇帝から紫の衣を授かったほどの大学僧であり、おそらく日本で始めて一切経を招来したが、政争に関わって大宰府・観世音寺に左遷され、許されて都に帰ることなく大宰府で生を終えた人である。

 失意の深さはどのくらいのものだっただろう。

 あるいは、修行の境地が進み、どこの地でも静かに生き死できるという心であったかもしれない、そうであれば、と思う。

 民家の脇に、案内板がなければそれとはわからないほどの、日本の田舎にはどこにでもあるようなささやかな石塔が、数株の小さな雪柳の白い花や連翹の黄色い花に囲まれ明るい春の日に照らされていた。

 少しばかり悲しい、しかしのどかな光景である。

 小道を裏から回って、戒壇院へ向かう。

 奈良時代、政府から認められた正式の僧になるには、戒を受ける必要があり、戒を受ける儀式を行なう場所、戒壇院が全国に三カ所だけあったという。

 東大寺、下野の薬師寺、そして筑紫の観世音寺である。

 なかでも観世音寺の戒壇院は、唯一奈良時代の石の檀が残っている。かつての戒壇は本堂の檀になっている。

 わけがあって今は観世音寺とは別れて臨済宗の寺であり、本堂の戒壇の周りの壁際は五、六十センチ高くなった坐禅のできる単(たん)になっている。

 前回はここで坐禅をさせていただいたが、由緒ある場所での坐禅はしーんと心に沁みるものがあった。

 今回は観光客風に、どこか大らかな奈良時代の雰囲気の感じられる山門から入り、気持ちよく掃き清められた境内を歩いて、小さめの本堂の前でお賽銭をあげて、合掌した。

 本堂の右脇の小ぶりな通用門をくぐって、観世音寺へゆっくりと歩く。大きな楠の木の若葉が午後の明るい光にきらきらしていた。

 ここは唐から帰ってすぐ都に入ることのできなかった空海が、しばらく滞在したところでもある。

 まったく同じ状態であるわけはないが、しかしほぼこのあたりを、千年以上も昔、失意の玄靴癲都入りを待たされている空海も、そして左遷された菅原道真も歩いたはずだ、と思うと、時そして無常ということを感じずにはいられない。

 けれども、楠の木の若葉の繁りの陰に石で作られた腰掛に坐って、あれやこれや想いにふけっていても、明るく美しい木漏れ日のせいだろう、静かな幸福感は去らない。

 心地よい春の風が吹いて、若葉の梢がさらさらと鳴る。

 おととしの初夏だったか、作曲をしたいという学生と大学のキャンパスのベンチで話していて、裏のクヌギ林に風が吹いてさらさらと音を立てた時、ふと心に言葉が浮かび、「あれはね、いわばコスモスが歌っているんだね。あんな音楽が創れるといいね」と言ったことを思い出した。

 クヌギも楠もコスモスの一部であり、風もコスモスの働きの一部だから、それらの木々の若葉がさらさらと音を立てるのは、いわばコスモスが歌うということだ。

 とりとめもなくそんなことを思ったりしながら、立ち去りがたくしばらくの間坐り続けていた。

*写真は戒壇院
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