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 ユーモアは相手に対する思いやりになるんだ。そんなことをこの本は教えてくれました。いうまでもなく、欽ちゃんといえば、コント55号で一世を風靡し、いくつもの番組をグールデンタイムにホストしていた、一級のコメディアンであり、社会人野球チームの茨城ゴールデンゴールズの監督としても盛り上げていました。欽ちゃんのいるところに、いつもユーモアがあり、そこに笑いがありました。ゲラゲラという笑いというよりも、ニコニコとかニヤニヤに近い笑いだったと思うのです。そんな欽ちゃんの本なんですが、なんと、気持ちを告白するときにもユーモアが力が重要だというんです。

● 相手に、自分の気持ち「好きだ」とどう伝えるのか?

 いやあ、ユーモアを相手に何かつたえる方法とか、面白く笑わせる技法なんで思っていると、こんなところには考えが及びません。さすが、あの欽ちゃんですね。言いたいことを、そのまま言わないで、相手にそれを伝えていきます。そのギャップをつくるところが、ユーモアのセンスです。だから、相手に「好き」っていいたいときに、それをダイレクトに言っちゃうと、ユーモアのセンスがないことになります。一層のこと、真逆のことを言うのもありでしょう。大嫌いってね。でも、それだと、今の人は真っ正直にその言葉を受け止めちゃうと、上手くいくはずの関係もぽしゃっちゃいます。そこで、欽ちゃんがいうのは、「軽い嘘」をついてみるというのです。

 「嘘がばれるようにするっていうのがいいね。嘘って、大きいほど大爆笑になっちゃうんですよ。女性に好意を示すのに、大爆笑はいらないよね。これをユーモアにするには軽い嘘がつけるかどうかっていうところですね。軽い嘘というのは、その人の本心を言葉で言わずに、違う言葉でその言葉を気付かせるっていうの」(p130、『ユーモアで行こう!』萩本欽一著、KKロングセラーズ)

 たとえば、彼女にアプローチしたいけど、「食事に行きません?」というのは、いきなり言えないし、なかなか言えないものですね。そこに、軽い嘘を入れます。それも「このときに嘘が見えないと駄目なの。言い訳じゃなくて、嘘。」

 「あれ、帰るけど、どっち方面に帰るの?」

 っていうのはさ、ある種そろそろ食事に近づこうとしている振りなんだよね。

 だから、そこで嘘をつくわけでしょう、どちらの方面って。相手が

 「私、蒲田」

  って言うと、

 「あー、全然近い、うちのそばだよ」

 近いっていうのは嘘、だましなのよ。そこに「全然」をつける。つまり「はっきり嘘です」っていうのをつけるわけ。「どこなんですか?」「全然近いですから」って言うと、もうはっきり嘘なんですよ。それはあなたが大好きだっていうことを言っているんでね。(p130~132に少し編集、ほぼそのまま)

 なるほど、嘘つきは粋なんです。その明らかにわかる嘘をついて、相手の反応してもらう余裕を与えているのですね。だから、その嘘の反応を見ながら、脈があるかどうを探っていくのでしょう。お互いに傷つかないように探り合っていくのも、ユーモアのなせる技というわけです。

 人に迷惑をかけない嘘、相手をきづかう嘘。嘘は悪いこっちゃなく、むしろ、嘘つきが少ないことが世の中の問題なのかもしれません。どうでしょうか、人に迷惑をかけない嘘をどれだけついたか、なんて競争してもいいと思うんです。

● 町なかのちょっとした会話があると生活が楽しくなる

 欽ちゃんは、こんな話を紹介してくれます。「昔はやっぱり魚屋のおっさんとかね、買い物に来たおかあさんとの軽く『いい会話』で」値切り交渉があるというんですね。こんな具合です。

「ねえちょっと、美人なんだけど、まからない?」

「えーっと、待ってください。えっとね、どうなのかん!」

「えー、こんな美人でもだめ?」

「えっと、ちょっと待ってください。えっとね、すみません。ちょっと私の中でも基準があるものですから。はい、オーケーですわ。ぎりぎりですけど、どうぞどうぞ」(p235を編集)

 なんだか、聞いているだけで面白いですね。頰が自然に緩みます。欽ちゃんは、現代の時代にはないことをこう話します。

「コンビニなんかが町のあちこちにできてね、それとともにこれまで普通に街で飛び交っていたちょっとしたアドリブなんかも、ずいぶん姿を消してきた。昔は、教育された『いらっしゃいませ』というのではなくて、やっぱりそういう会話のできる、お店のおじちゃんとかおばちゃんって、どこにでもいたよね」(p236)

 私は、今(2017年8月)、58歳だけど子供の頃にはそんな会話に溢れていたように記憶しています。考えみれば、私の子供の時にコンビニはないし、街のお店がで買うのが普通だったし、お豆腐なんかは、パフーパフーなんてラッバの音を聞いて、お豆腐屋さんが自転車に大きな荷台のようなところに豆腐を売っていた時代です。今私たちが当たり前にように享受している豊かさとは違ったけれど、大切なものが残っていたと感じます。あと、このページで欽ちゃんが話している電車の中の話がまたいいんです。

「僕が好きだったのは、昔の玉川電車の車掌さん。みんながなんかユーモアがあって、乗ってて楽しかったよ。

『はい、電車は次にカーブします。揺れます、揺れます。はい、揺れたでしょう』

 なんて言うのよ。なんでもないんだけど、あの電車の中というだけで、みんなドカンと笑うんじゃなくて、全員の顔がぐずっと崩れるわけ。僕まで『プッ』って、こう。でも揺れたでしょうってごく普通のことなんだけど、いい会話でしょう。

『ほーら、揺れたでしょう』

 というのがなんかいいよね。

 それで、大橋という駅で車掌さんがお別れするわけ。そうすると

『皆さまとお付き合いを、この期でお別れするのは非常に残念ですが、お別れとなります。皆さま、ごきげんよう。さようなら』

 ってね。なんだか知らないけど客席になってるんですよ。拍手する人が二、三人いたりすると、そのことがなんかユーモアでね。

『また、お会いしたいです』

 という会話、なんかいいよね。今ではみんなマニュアルになってしまって、もうそういう人にも会えないでしょう」(p236~237)

 私はこの本から、「そうだった、そうだった。そんな時代があった」と懐かしくいろんなことを思い出しました。「ゲラゲラ」は少なかったかもしれないけれど、「ニンマリ」とか「ふふふ」ぐらいは生活に中にあふれていたように感じます。そして、それが今の便利になった世の中で、亡くなったんだと欠落感を持ちました。


 ところが・・・

 先日、仕事で神戸に行ったんです。研修実施先の会場まで、駅からタクシーに乗ったんですが、ワンメーターなんですね。私は資料やらパソコンやら荷物が多かったのでタクシーを使ったんですが、行き先を伝えたら、運転手さん「ふん」みたいな反応があったんです。明らかにがっかりしたことがわかったんで、私はこんな言葉をかけました。

「なんか、はずれたみたいな感じですか?」

 すると、

「そうやで、大はずれや!長いこと待ってワンメーターかって、がっかりや!」

 あんまり、あっさりと「大はずれ!」なんて言われたから、私は面食らいましたが、そのあとも運転手さんは、その会社との社長を乗せた時のエピソードなども話してくれて、「お得意さん」やからなあと。「はずれることがあるのは、当たる時もあることですよ」と私が言えば、「お客さん、ええこと言うわ。今日なんか嬉しいわ」なんて嬉しそうな反応がくるんです。たったワンメーターの間の会話だったけど、ずいぶんと気持ちが穏やかになって仕事場に向かえました。今でも、関西ではタクシーの運ちゃんたちは、愉快な会話をしてくれるのを思い出しました。

 欽ちゃんのこの本から、日常にユーモアを持つ大切さを感じ、私自身がユーモアがある会話をするようにしていこうと感じました。考えてみれば、私も関西人ですから、DNAには「ぼけ」と「つっこみ」や、吉本新喜劇のエッセンスがあるにちがいありません。どうやら、東京に来て早三十年近くになりますが、関西人の血を忘れていたのかもしれません。そう言えば、関西生まれのハマっ子なんて言ってますね。これはいけません。横浜在住ベタベタの関西人、ですと名乗るとするかな。その方が人生がユーモラスになりそうなので。
 

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