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 この本の下巻の帯にこんな言葉がある。「哀しくて愛おしい、『性』と生命を描いた官能小説の名作」と。たしかに官能小説ではあるが、それだけで終わらないロマンチックな性愛小説といえると思った。上下巻合わせて1400ページの巨編、そのかなりの部分が男女の熱く求め会ういとなみが激筆されている。

なぎさに見つけられた男たちは一晩だけ回春していく。体の芯からカーッと止まらぬ勢いで熱情が体を走り抜けていく。肌のぬくもりが火傷しそうなくらい燃え始める。男たちはなぎさをむさぼり、忘れていた快感に身をゆだねていく。その甘い官能に身を浸しながら過去へ戻っていく。男たちの悲しみの根源になった、昔の女たちの運命を変えた瞬間に戻っていくのだ。それがなぎさの媚薬の力なのだ。

 なぎさとは娼婦の名前だ。歌舞伎町のはずれの町にたつ街娼である。しかし客はなぎさを選ぶことはできない。なぎさがその夜を共にする相手を選ぶ。その条件は、生きていくのがつらい寂しさを抱えていることだ。その悲しさは相手の女性を不幸したことからの激しい後悔からくるものだ。なぎさはそんな男だけをさがす。

なぎさは人の目にも触れない。なぎさに見つけられた男たちは、気づくと目の前に立っていることに気づく。そしてなぎさは言う。「私を買ってくれませんか?」と。たたずまいはビジネスパーソンのようにきちんとしている。なぎさはそんな男たちと肌を合わせることで媚薬を相手に使う。媚薬はなぎさの愛液と男の愛液がまざりあってできる。なぎさはその媚薬を指ですくって男の唇に運ぶ。男が舐めると霧の中につつまれるようにして過去へ出立していくのだ。

 なぎさの媚薬で過去に戻る男たちは、相手の女性の不幸を救うことができる。相手の人生が変わるのである。しかし、その男の状況は何もかわらない、あくまで相手を救うだけだ。ある女は自殺する運命から逃れ、ある女はレイプされる悲劇にあわずに人生を歩む。男たちの悲しみの根源は、不思議な媚薬のもたらす魔力によって消えていく。媚薬をかがされた男たちは、その女たちが不幸を歩み始めるまさに分かれ道になったできごとにタイムスリップするのだ。そんな中で、過去の自分を見つけ昔のことを追体験していく。そのあとの出来事を知っていながら、たんなる「視線」としてだけ存在し、それが流れていくのを傍観していく。ただ、ある瞬間、昔の自分になって発言したり活動できる。そして相手の運命が変わっていく。そのあとはふたたび男たちは、なぎさのいる現在にもどってくる。男たちは二度となぎさと会うことはない。なぜなら、すでに悲しさと決別したからだ。なぎさが選ぶのはいつだって深い悲しさをもっている男だけだから。

 この物語の設定は、フィクションであり夢物語である。街娼に媚薬をかがされて過去にもどる幻想にとりこまれる。そして、そこで自分の過去のできごとを追体験して、相手の女性の不幸を救うのである。媚薬でタイムスリップするわけだ。しかし、荒唐無稽だなんて思わないで、相手の女性が巣くわれてほしいと共感して物語を追っている自分を発見した。男たちの持つそれぞれの悲しさの深さに打ちひしがれ、それがなぎさに媚薬によって救済されることを願ってしまう。媚薬をつくるために、いや、なぎさが街娼であるからか、それともその男たちの悲しみに取り込まれた生気を取り戻すためだろうか、執拗にそして濃厚に繰り広げられる情交は熱く、とんでもなく熱く筆を重ねられていく。

 生臭い薫りが鼻を突き、汗臭い匂いにむせるように男と女の情交が終わりがないかのように続いていく。媚態をさらすなぎさは、雌でありながら女神のようであり、女でありながらマリア様のようなやさしさを感じた。私は何度も熱くなった緊張を持つのであるが、情欲というよりも恋慕が湧き出る感覚につつまれる。私の想像の中のなぎさは、可憐でありうぶな処女のイメージさえ感じる。私はこのなぎさにイメージに似た存在をこれまでどこかで見た。そして思い出した・・・それは、手塚治虫が描いた火の鳥だった。太古から未来までいつの時代にもあらわれたあの鳥だ。そんな全宇宙的な存在を感じてしまった。

 もしわたしがなぎさに会えるとしたら? もちろん会ってみたい。では、わたしがなぎさと肌を交えることができたら救ってあげるべき人がいるか? 少なくとも私の知っている範囲では、むかし親しくしていた人が今不幸になっていないはずだ。だが、後悔はある。私も傷つき、相手も傷つけたことがある。もしなぎさに会えたら相手にそんな傷をあたえないようにできるだろうか・・・。そんな想像をしてしまう。歴史に「たられば」は禁句だし、自分の経験の中の「たられば」もご法度だろう。しかし小説の中ならば、「たられば」を考えて、その世界に漂ってみるのは一種の内観なのかもしれない。自分の人生のふりかえりなのだ。

 これまで重松清を読んだことがなかった。どこかの本でこの『なぎさの媚薬』が紹介されていたので読んだ。こんな巨編は途中で飽きると思ったけれどそんな思いは杞憂に終わった。なぎさが寂しい男を探して媚薬でもって過去へ戻らせるのは同じである。しかし、それぞれの物語は全然ちがっていた。不条理な世界が毎回、形をかえてあらわれる。そこに私はリアリティを感じた。毎回、なぎさに見つけられる男の目となって過去の世界を体験した。思わず涙ぐんだ物語もあった。最後ではなぎさが同じ男を選ぶ・・・そしてなぎさのいる世界の一部であるが明かされていく。私はこんなロマンチックな小説は久しぶりだった。私はページをめくりはじめた瞬間から薄い桃色の霧の中にとりこまれたにちがいない。どうやらわたしは気づかぬ間に、なぎさの媚薬を口にしていたようだ。

 

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