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 ここのところ、笑いに関して考えている。その理由は、私が所属するトーストマスターズクラブが、恒例の秋の大会のコンテストにて、「ホラ吹き」をテーマにするスピーチコンテストを開催するからである。私はコンテストと聞くと、真っ先に参加するような「好戦的」な人間である。しかし、今回は簡単ではない。「笑い話」の披露合戦となるのだから難しくなる。そこで、あの『遠野物語』の柳田國男が何か「笑い」について書いていたと思って、書棚より取り出してきたのが、この本である。狙いはあたり、「笑い」について事細かく論じているところがあった。さっそくその章を読んでみて、面白いと思ったところをいくつも見つけた。

 冒頭で、柳田は、笑いとは「人間の生の楽しさを、測定する尺度」と言っている。なるほどと膝を打ちたくなった。回数を数えるのは簡単ではないにしても、今日笑ったのはどんな時かとか、1年で笑った機会とはどんな時かを考えると、その人の価値観がわかり、その人の人生が垣間見えるだろう。そして、その頻度が多い人ほど「人間の生の楽しさ」を味わっているに違いないだろう。そういう柳田に言わせると、日本人はこうだという。

 「日本人はどちらかというと、よく笑う民族である。上方あたりの人間は懇意な者のために笑い、見慣れる人に対しては笑わぬだけの差別を立てているが、関東以北では無邪気な者ほど無差別に笑っている。小泉八雲さんの『日本人の微笑』は有名なる文章である。いつもにこにこしていることを愛嬌といい、心のやさしい兆候と目している以外に、怒った時でも憎んだ時でも、少し笑いすぎるかと思うほど我々はよく笑う。高笑や空笑は社交の一様式をなしている。宴会などは何でもかでも、必ず笑を持って終始することになっている。つまり善意にこれを解説するならば、日本人は笑の価値を知っている国民なのである」(p134~135、笑の文学の起原)

 よくジャパニーズスマイルなんて言われるところにも繋がる話だろうと思う。笑いとは、その時の気まずさを誤魔化すものとしも有効である。そういう意味で、日本人はその場に対する敏感さがあり、それがうまくいっていない時は、素早くそれを察知して、笑って防衛するに違いない。そう考えると、笑いとはうまく人間関係がギクシャクしないように作用する安全弁のようにも思える。その日本で、柳田が「笑い」の現状として憂いているのが次のくだりだ。

「まるで時代のちがった二つの笑の種が、現在は日本に跋扈している。その一つは男女の私ごとやいわゆる下がかった話、これはいたって原始的なもので、セイロンの山にいるヴェツダとか、濠州の砂漠に住む土人とかでも、こんな話をして聴かせれば必ず笑う。今一つのものはもっとも新しい変化した形、いわゆる駄ジャレ・口合いの類の、拙いほどかえって笑いたくなる滑稽である」(p135、笑の文学の起原)

 この全集は、1978年に出されている。今からほぼ40年前に出されてものであるし、実際のこれにおさめられた文章そのものはそれよりずっと前になるだろう。それでも、ここであげられた2つの「笑いの種」については、21世紀の現代でさえ、同じ傾向が見つけられるだろう。笑いといえば、ほとんどが下のネタを扱うものと、駄ジャレの類と言えるだろう。人が何に笑うか、そして、日常でよく見かける「笑い」の性質が、時を経てもそんなに大きく変わらないと言える。それは、人の性が多いく変わらないからなのだろうとも思うのである。

 柳田は、その時に人が笑うことだけを見るのは足りないと主張する。「・・・笑とは何であるかを知るためには、現在我々が何を笑いつつあるかを、明らかにしただけではまだ足りない。かつていかなるものを笑っていたかという問題から始めなければならぬ」(p136、同上)。出なければ、笑ったからいいじゃないと、過ごしていくと、笑いの質が下落するように憂いている。

「・・・笑などに理由は無用、ただ何だか知らぬがおかしいと、笑っていさえすればそれでよいのだと思っているうちに、終に愚劣極まるものをもって笑わされるようになったので、これは確かに人世の進歩ではないと思う」(p136、同上)

 では、そもそもの「笑い」とは何かと考えを追求していくのが、この論考であり、柳田の姿勢なのである。笑いとは、「まず第一に敵というものは笑うに足る人間であった。彼らが弱くて負けて遁げる場合はもちろん、時には案外手強くして、しかも結局は謀計をもってこれを欺き得た場合、ことに彼らが驚きまたは困って屈伏せざるを得なかったという際などは、もっとも快く声を揃えて高笑いすることができた。あるいはまた味方の勇気を励ますべく、以前のそういう種類の印象を保存し、時にはやや誇張してこれを想像上に繰返し、入用の度ごとに大いに笑ったこともあった。それが古くからの多くの笑話の成立であったと思う」(p140、同上)

 そして柳田の言葉はこう続く。「負けたという敵は必ずしも人間足ることを要せぬ。むしろ和睦の望まれない化け物や狐狸、悪い魔術師どもを安々と打滅した物語などは、単なる一人の功名談以上に、愉快なる猛者の教育法であった。多くの青年等をして自然の怖畏を抑制し、群のために常に奮闘せしめるためには、こうして勝って笑う時の歓喜とともに、独り笑われる時の痛苦をも学ばしめる必要があった」(p140~141、同上)

 そう、笑いとは勝者に許された雄叫びであり、まさに勝どきと同じであった。そこに「笑うもの」と「笑われるもの」の立場の差が当然ながら出てくる。笑うのが楽しいと思うのは、それが勝者であることを条件としている歴史からくるのである。そして、そのままの裏返しではあるが、「笑われる」とは弱者であり、屈辱を舐めざる得ない状況に陥ったことを意味するのである。

 この点を、柳田はこう補強する。いろんな実例をあげながら、「いずれも笑われる者が人だった」と喝破する。「人またはこれと対等同視すべき者が目標となって、始めて『笑』という感動は起こるのであった。(中略)しかし何にしても笑は一つの攻撃方法である。人を相手としたある積極的の行為(ては使わぬが)である。むしろ追撃方法と名づけた方が当たっているかも知れぬ」(p150、同上)。このように考えていくと、何と「笑い」とは人の勝負に関係していくものであり、勝者と敗者を分けるものなのである。

 こんな話を聞いてきて、あらためて冒頭の「笑い」とは「人間の生の楽しさを測定する尺度」というのを解釈してみると、人生とはいつも戦いがあり、そして「勝者になる」ということが自分の人生の楽しさを測る尺度になると解釈できる。笑うことができるのは勝者であり、笑われてしまうのが敗者なのである。そうだとすれば、男女の下の話で笑ったり、駄シャレで笑って過ごしていける人生の方が楽しさが満ちているのかもしれない。笑うものには福きたるなんていうければ、これは勝てば官軍みたいな価値観と繋がっているのかもしれない。やはり、それならば、「オヤジギャクだし、寒い〜!」と言われながらも、駄じゃれぐらいを連発する親父であることに誇りを持ちたいと思った。笑いは深い、そして残酷であると知った。自分自身が笑う時に、ふとそこの心をのぞいてみたい。そこには、「勝者」の心があるのかもしれない。そして、笑われてムッときたら、心の根には「敗者」としての思いがのぞいているかもしれない。

 

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