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 本屋さんで思わずタイトルに惹かれてしまった。「優雅な意地悪」なんていうのがいい。あらためて考えてみると最近「意地悪」なんて言葉をとんと聞かなくなったように思う。その代わりによく聞くのが「いじめ」だろうか。「意地悪」と「いじめ」には似ているようだが根本的に違いがありそうだ。

「意地悪」vs「いじめ」

「意地悪」には「意地悪」された人に逃げ場がある。「いじめ」は「いじめ」られた人に逃げ道を許さない。「意地悪」は嫌味になっても暴力的にはならない。しかし、「いじめ」から出る言葉は暴力的であり、それが高じて刑事事件にまでエスカレートする可能性がある。

「言葉がなぜ暴力的になるかといえば、皆さんも薄々お分かりと思いますが、そういう言葉を使う人間がその瞬間バカになっているからですね。意地悪にはソフィスティケーションが必須で、バカになるとそれが出来なくなるんですね。つまり、バカはろくなことを考えないから単純行動に走って暴力的になるということですね」(p23、第一講 意地悪とは何か)

 これは「意地悪」になれれば、「いじめ」に走るようなことにならないと言えるかもしれません。著者はそのあたりを、学校教育でやればどうかと話を展開する。たとえば、「人の悪口を言う練習」として「二人ずつペアになって、お互いに相手を傷つけないように悪口を言う練習」をするという。「傷つけない」ように言うところがミソである。よく考えると「意地悪」とは、気づかない「毒」を言葉に仕込んでおく高等表現技術となる。仕込んだ側は「この皮肉がわかるオツムがあるかね」とほくそ笑んでいるわけだ。それを短くしようとするといけないと言う。

「・・・短い言語表現だけですべてをすませてしまおうとするのは危険です。今やなんでもメールやラインですませてしまう人が増えて、メールの文章というのは短いものですから、相手の感情が見えません。『だから絵文字やスタンプを使うんだ』と言われてしまえば『はい、そうですか』とでおしまいですが、まともな人間なら『表現を長くする』ということを知っておくべきでしょう」(p26、同上)

 今の世の中、何事も効果効率を求めている。だから、メールもラインもメッセージを端的にすること、短くすること、KISS(Keep It Simple & Stupid、常に短く表現することをわかりやすくした言葉)などがよしとされる。だから私たちのコミュニケーション環境は、私たちが「意地悪」になりにくいものにしている。だからこそ、あえて「意地悪」になることに意味や価値が出てくる。

良い先生は意地悪である

 他にはこんな例を教えてくれる。それは、良い先生とは意地悪であると言う。

「たとえば、先生が生徒に『カクカクシカジカ』と教えます。話は別に『なぜ鹿の膝はカクカクするのか』である必要もなく、『お前の母ちゃんはなぜデベソだと言われてしまうのか』でもなんでもよくて、生徒が食いついて『うん、うん、それで?』とうなずいていればよいのですが、『生徒が食いついたな』と思ったら、先生は少し間を置いて、ニッコリと笑顔を見せ、『後は教えてやんないよ』と言います。生徒たちは『えー?!』と言いますが、先生は『自分で考えな』と言って去って行きます」(p40、第二講 メリル・ストリープに学ぶ意地悪の意味)

 確かに「意地悪」な先生だといえるだろう。人間性に問題があると思う人もいるかもしれない。しかし教育者と考えたとき、何でもかんでも教えてしまうのではなく、自分で学ぶことを教えてくれる姿は「良い先生」にちがいない。この手の先生は学生が在学中には人気はないかもしれない。ただ生徒が卒業して社会人になってふりかえるときに「意地悪」の意味を気づき「意地悪な先生」はじつは「よい先生」であったと分かるのではないだろうか。

 

男か女かどちらが意地悪か?

 この問いかけは興味を持った。私は女の方が意地悪かなと思った。意地悪の条件として言葉の力があるので、おしゃべり力の高い女性の得意技になるのではないかと考えたからだ。著者は「女の意地悪は見ていて面白い」という。

「女の意地悪がなぜ『見ておもしろい』になるかというと、女の意地悪には『振り』があるからです。『振りとはなにか?』に対しては『振り袖の袂の振り』くらいに御考えください。つまり、女の意地悪には、当人が意図しなくても『遊び』が入る-----それがあるから見ていられる」(p141、第六講 男と女はどっちが意地悪か)。ところが「・・・男の意地悪は陰湿で見るに堪えません。男も女もどっちも意地悪だけれど、男の意地悪は陰湿で地に潜伏し、見るに堪えなくて見たくないものだから、男の意地悪はそれほどのものでもないように思われてしまうのです」(p141、同上)

 しかし男の意地悪の根っこにはやっかいなものが巣くっている。「嫉妬」である。「男の嫉妬でたちの悪いところは、嫉妬される側からすれば、『なぜ自分は嫉妬されなければいけないのか』という理由が分からないところで、もう一つ、嫉妬する側にも『自分は嫉妬をしている』という自覚が欠落しているところです」(p141、同上)

 確かに、「嫉妬」している状態を自覚するのはまずできない。その時は、自分に「もっともらしい言い訳」で正当化するので嫉妬しているとわからない。でも側からは「見苦しい」「潔くない」と思われ、嫉妬しているのが丸わかりだ。「嫉妬」にとらわれないようにと強く思うがたいへんに違いない。

 

 意地悪という言葉から私が連想するのは「京都の風土」である。私は京都生まれ京都育ちだ。父も母も京都で、両方の親族も京都の人が多い。だからかなりややこしい。よく言われる「本音」と「建前」のようなことが日常の会話の中である。気に入らないことがあっても、それに対する苦情は、間接的に嫌味な言い方をする。それもすましてさらりと「毒」を仕込まれる。「意地悪」である。しかし暴力的ではない。「意地悪」な言葉を受けたらわかりながらもすまして「毒」を仕込んだ言葉をお返しする。意地悪な会話かもしれない。それもいいだろうと。これが文化でありこれも文化である。文化度が低いと意地悪にもなれない。私はもう少し、「人を傷つけないで悪口を言う」練習をしてもいいように思えてきた。しかし、意地悪とはなんともややこしい面倒くださいものだと思う。そんな風土が嫌いで京都から大阪の大学へ入ったが、今この年(58歳)になってあらためて「意地悪」の効用を考えている。


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