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 この本のテーマの「人間の理性と情動の関係」は、昔から大きな関心事と言えるだろう。ダマシオは「新版へのまえがき」の冒頭でこう述べる。「もしわれわれが1900年ぐらいに生きていて、知的な問題に何かしらの関心を持っていたら、たぶんこう思うだろう。科学が情動の理解に多面的に取り組み、情動に関する大衆の募る好奇心に明確に答える時がきた」と。それはその数十年でこんなことが起こっているからだ。「チェールズ・ダーウィンが、いくつかの情動現象がかなり類似した形で動物種に存在する理由を示し、ウィリアム・ジェームズとカール・ランゲが情動のプロセスを説明する革新的な説を唱え、ジークムント・フロイトが情動を精神病理学的状態に関する彼の研究の中心項目に変え、チェールズ・シュリントンが情動に関わる脳回路の神経生理学的研修を開始していたからだ」(p11、新版へのまえがき)。

 ところが20世紀になると「心と脳の科学が盛んになると関心は別のところ」へと向かっていった。「今日、神経分野のもとに大まかにグループ分けされているすべての専門分野が情動研究に頑として冷淡な態度をとった」という。『デカルトの誤り』が上梓されたのは1994年とはそんな状況下であり、それが変わっていくのにそのあと10年の年月を要していたという。

 

 この本のメインテーマは、ソマティック・マーカー仮設と呼ばれるものである。それは「意思決定障害と情動障害を有する神経疾患患者に対する私自身の研究にもとづき、情動は理性のループの中であり、また情動は通常想定されているように推論のプロセスを必然的に阻害するのではなく、そのプロセスを助けることができるという仮説(ソマティック・マーカー仮説として知られている)を提唱した」(p13、新版へのまえがき)。

 『デカルトの誤り』の中で、ダマシオは「哲学史上もっとも有名な言明」として「我思うゆえに我あり」について、自らの研究から導き出した主張とまったく相反することを明らかにしたのである。

「まず『方法序説』(1637)の第4章にフランス語(”Je pense donc je suits”)で、その後『哲学の原理』(1644)の第1部にラテン語("Cogito ergo sum”)で登場している」

 デカルトの考えは「・・・心の起源そして心と身体との関係について、私が真実であると考えていることとまさに正反対のことを説いている。それは思考、そして思考の自覚が、存在の真の基盤であることをほのめかしている。また、知られているように、デカルトは思考を身体から完全に分離した作用であると見ていたわけだから、まちがいなくそれは、心、すなわち『考えるもの』(レス・コギタンス)と、思考しない身体、すなわち延長と機械的部品を有するもの(レス・エクステンサ)との分離を公言している」(p374、第11章理性のための情感)

「しかし人類の夜明けのはるか前から、人間は人間だった。進化のある時点で基本的な意識が生まれた。その基本的な意識とともに単純な心が生まれた。心が複雑になるにつれ思考の可能性が、そしてそれよりもさらにあとに、言語を使ってより効果的に意志を伝達したり思考をまとめたりする可能性が生じた。当時のわれわれにまずあったのは存在であり、思考するようになったのはそのあとのことだった。また現在のわれわれも、この世に生まれ育つとき、やはり存在からはじまり、その後思考する。われわれは存在し、それから考え、ひとえに、存在するゆえに考える。思考は存在の構造と作用によって引き起こされるのだ」(p374~375、同上)

 まさにデカルトの主張を真っ向から否定する論陣をはっている。デカルトは自らを問い、問い続け、問い疲れるまで問うた結果として、「我疑うゆえに我あり」と気づきを得たのだろう。その時代を生きる人間として、自らを一つのケースを問い詰めた結果の一つの仮説であり、それは人に考える機会を与えた功績であったに違いない。しかし、時間を遡っていった時に「疑う意識」の芽生えがまだなかった段階の人間には適用しないのではないか、という指摘に、デカルトの誤りがあったと考えられるのではないか。それに今の世の中でも、まず生を受けた赤ん坊は存在するのであり、疑う考えを持つのはあとの話である。その論理は明白であり、デカルトの主張がとたんに色あせてみえてくる。

 情動とは、生きていくための原始的な反応かもしれない。第六感的な啓示なのかもしれないし、過去に経験を瞬時に脳が計算をして訴えてくるものかもしれない。いちいち言語化したところまで待って行動すれば、とたんに死に直面したり、正しい判断ができないのだろう。そんなことが太古からの経験上覚えているのだろうか。

情動と繋がるかはわからないが、グローバルに脳を効果的に使う必要性を訴えるイギリスの教育者、トニー・ブザンは「脳の第一言語はイメージである」と言っている。私たちはその直感を信じながら、論理も用いて検証したりすることが求められるのだろう。ただ、盲目的に論理に依存する危険や、やみくもに直感に頼るのも危険も両方を持っている。デカルトの誤りから、ソマティック・マーカー説を念頭に入れながらも、やはりバランスを意識しながら、理性と情動を両極にたずさえた形で考えていく必要があるのだろう。まさに、この本を読みながら、私たちの考えはヘーゲルの弁証法的に進んでいくのだろうと思えた。デカルトの哲学がテーゼなら、ダマシオの反駁がアンチテーゼとなり、ここからシンテーゼが生まれ出ると。

 

 私はこの本を読みながら、すぐに連想したのはあの世界的に有名なSF大作『スタートレック』である。メインの3人のキャラクターがまさにこの内容を表している。なんでも論理的に考えるバルカン人と地球人のハーフのスポック、対照的に医者ですぐ熱くなるDr.マッコイ、その両方を併せ持つながら人からはみ出た発想をするカーク船長。これら3人の関係がいつも面白い。そして毎回の問題は、論理と感情を合わせて超越したような方法で(カーク船長の手腕にて)解決にいたる。それがこの本の内容とつながっていると思うのだ。

 

 理性と情動。私たちは考えていときにどちらを頼るのだろうか。あるいはどちらを頼った方がより適切な思考に至るのであろうか。スポックなら「論理的な思考に勝るものはない」と言うだろう。それを聞いて熱くなったマッコイが「人間は感情ってもんがあるんだ」と声を荒げるだろう。そこにカーク船長が「どっちも大切だと」と笑いながら間に入る。

 さて、どう考えるべきだろうか。その答えを見つけるのに、論理的に考えてみるか、それとも心の底から湧き出る感覚に委ねてみるか。それとも・・・尽きることにない問いが続きそうである。これはデカルトの誤りかもしれないが、間違いなく一つ言えることがある。それは哲学がものを考えていく学問であるからこそ、考え続けていくことが大切になる。だから、デカルトの思惑にズバリはめられたのだろうと思う。
 

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