私は、音楽なんて自分が好きなように聞けばいいじゃないと思っている輩だし、音楽は言葉も文化もそして時代さえも超越するものだと信じていた能天気な音楽愛好家なわけです。ところが、この本はそんな私の音楽への認識をいちいち覆していきます。

 「はじめに」で「自由に音楽を聴くことなど、誰にも出来ない」とがつんとやられ、音楽は「特定の歴史や社会の中にある以上、バイアスから自由ではありえない」と諭されてしまいます。人が音楽に共鳴するとは、自分が既に持っているものと反応しているに過ぎないのです。そして、音楽を感性で聴くなんて簡単にできるものでありません。

 また、人は音楽体験に生理的に大きく反応を受けますが、そのことを充分に自覚しておかないと、悪党に簡単にやられてしまうのです。その力の大きさを三島由紀夫は「音はあぶれ出し、聴衆の精神を、形のない闇で、十重二十重にかこんでしまう。聴衆は自らそれと知らずに、深淵につきおとされる」(『小説家の休暇』)とおののいています。

 「音楽が言葉を越える」というのは、ロマン派が作り出した近代イデオロギーに過ぎません。むしろ、岡田暁生は「音楽は言葉である」と説き、分節構造や文法のロジック、そして意味内容を持つといいます。たとえば、ベートヴェンの<運命>の冒頭の「ダダダダーン」は意味のある分節ですし、モーツァルトの音楽の多彩なアイデアのつなぎかた、絶妙にバランスをとる様子は、「そういえば」とか「ただし」といった接続詞の使い方を連想させると言っています。

 「ある音楽ジャンルが『分かる』とは、一つの文化に参入し、その暗黙のアーカイヴに対する土地勘のようなものを会得することだ。歴史を知り、価値体系とそのメカニズムと含蓄を理解し、語彙を習得することー端的に言って『音楽の聴き方が分かる』とは、そういうことだろう。」(p236

 まさに、音楽を聴くとは、外国語の習得であり、異文化との遭遇することになり、能動的な関わりが求められていきます。読めば読むほど、音楽はまるで気位の高い貴婦人のように思えてくるのですが、そんな私の心の変化を見てとったのか、著者は本の巻末で、音楽を楽しむための「聴き方上級マニュアル」という頁を作ってくれているのです。そこを読むと、充分音楽を楽しめそうなので、ちょっとほっとしています。いくつかその項目をあげてみますね。

 ● 他人の意見は気にしないこと。

  誰がどう言おうが、自分の感性が出発点です。そうこなくっちゃ!

 ●「これはすごい」と「これはお粗末」の両極の体験をしておくこと。

  この経験がから、さまざまな陰影が見えてくるというわけです。

 ● 名曲(名演)とはどんな文脈でも関係ないということ。

  やっぱり凄いとなる音楽のことでそういうものも存在しています。

 ● 定点観測的な聴き方をすること。

  同じオーケストラの定期演奏会を必ず訪れてて、「聴く耳」を養うのです。

 ● 音楽を言葉にすることを躊躇しないこと。

  音楽を語る語彙を知ること。音楽を語るのは、聴く以上に面白いのです。

 あらためて考えてみると、今は、ゆったりと音楽を楽しんでいる時間が持てていないことに気づいたのです。私の生活で音楽に満たされていたのは、なんと高校時代までさかのぼります。当時は、よくクラシックのレコードを聴いていました。レコードのほこりの「ブチ!」なんて音を聴きながらも、クラシックの調べに乗っかり、想像の世界を飛んでいました。

 今はどうかというと、移動中にiPODでひとり慌ただしく音楽を聴いています。目標の駅についたら、音楽の余韻などなく、急いでスィッチをオフにして降車しているのです。これではいかんですね…今度の休みは、パソコンを1日とじて、クラシックの調べに体を任せてみようかな、と考え始めています。