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※このブログは物語の展開にふれています。もし、これからのこの物語をお読みになるならば、読後に読むことをお勧めします。


 ほのぼのした物語だ。神保町の大手総合出版社、玄武書房の辞書編纂チームが、『大渡海』という辞書をつくりだしていく。辞書とは「言葉の海を渡る舟だ」であり、その海は険しいものだ。だから「海を渡るにふさわしい舟を編む」ことがチームの使命である。その編纂してゆく作業は、全然派手でないのに引きつけられる。

 登場人物は、まじめ一徹の馬締光也(まじめ・みつや)と、先輩編集者で辞書作りに専任の荒木公平(あらき・こうへい)、辞書の編者としていつも用例採集カードを持っている松木先生、それにちゃらい西岡や、はじめは課にとけ込めなかった岸辺みどりなどのメンバーが、気の遠くなりそうな作業を積み上げながら、辞書を編纂していく。馬締と香具矢の恋物語はやさしく展開して自然に寄り添っていく。私の読むスピードも最初はゆっくりだったが、あと150頁ぐらいから、いっきに最後まで読んだ。そして、私は涙していた。小説を読み、最後にほおを濡らすことは早々ない。そして、清々しい気持ちを残してくれた。

 累計100万部突破。2012年本屋大賞第1位。映画化もされた。小説でここまで売れるものは多くない。ずいぶん前から書名は何度も耳にしていた。辞書を編纂する話だと聞いていた。どう伝え聞いても、地味な話なのにこれだけ売れる。そこに何があるんだろうと、好奇心に背中を押してもらってこれを読んだ。そして、納得した以上に嬉しくなった。このような物語が読まれて支持されたことは、まだまだ本を読む人も捨てたもんじゃないと思えたからだ。こんなに流行った物語だから、中心になる登場人物はとうぜん魅力的だが、その脇を固めるキャラたちも負けていない。そんな中から3人ほど紹介したい。

● タケばあさんがいい!

 タケおばあさんの存在は、今の世の中にない。辞書に夢中な馬締と料理に執心な香具矢が、アパートとはいえ、ひとつ屋根の下で暮らしている。その二人の関係がだんだんと熱をおびていくのもゆっくりだ。その距離が遠のかぬよう、また急に近くならぬように、タケばあさんがいるように思える。時には、カウンセラーのように、「伝えたい。つながりたい」と思うだろと、馬締の心中を指摘して「同じように、頼ったり頼られたりすればいいと思うよ。あたしだけじゃなく、職場のひとともさ」と優しく助言をあたえる。考えてみれば、ひと昔前は、こんな風に年老いたものは賢者として自分の英知を教え、後続するものはその知恵をたよりにしたことだろう。今じゃ、年寄りをたよらず、信ぴょう性が不確かなインターネットの情報にたよるのが多いように思う。そんな頼りがいのある、年寄りの姿を、この物語で出会って嬉しく思う。

● ちゃらい西岡がいい!

 けっして仕事に不真面目じゃない。でも、そこに人生かけるほどのこともないとテキトーに上手く立ち回りたい。それなりに、がんばるけど、それはそれなりのことで、何もかにも犠牲にして打ち込むほどにやっていない。自分が辞書編纂に向いていないという思いを持ちながら、自分の役割を全うしている。しかし、辞書そのものに向かう姿勢が、他の辞書にかける人たちとは違うものを、ずっと居心地が悪く思っている。馬締の辞書編纂チームの加入により、だんだんと西岡自身も辞書編纂チームへの気持ちも離れいく。そこで、部署が異動になることが決まる。そんなちゃらい西岡も、馬締の辞書にかける思いや仕事ぶりにひっぱられていく。そして、おそらく西岡のことだから、馬締が香具矢を彼女にしたことで、男としても認めざるをえないのだろう。そう、西岡も、営業として『大渡海』を応援してゆくのだ。そして、辞書編纂に懸命な仲間たちの仕事ぶりに触発されて、ちゃらい西岡が、仕事へのこだわりに目覚めていく。最終段階まできた辞書に、ある言葉が抜け落ちていることがわかり、アルバイトを動員して、検査作業が続いていく。そんな局面で、残っているアルバイトに、西岡は「おごってやるぞ、ついてこい!」と声をかける。そんなときに、「辞書の仕事は楽しいか?」って問いかける。その答えに、西岡自身も内心で強く同意していたのは「有限の時間しか持たない人間が、広く深い言葉の力を合わせて漕ぎ出していく。こわいけれど、楽しい。やめたくないと思う。真理に迫るために、いつまでだってこの舟に乗りつづけていたい」(p184)という思いだ。私たちの人生は、実は言葉で溢れている。まさにそんな海を航海していくために、必要な羅針盤としては辞書は必須のアイテムにちがいない。そんな重要さを、西岡自身も気づいてゆき、その意味を見出していく。西岡の仕事ぶりがちゃらくなくなっていく。

● 松本先生がいい!

 辞書の編纂者として登場する松本先生は、生涯を辞書にかけてきた言葉の学者である。つるのようにひょろりとした松本先生が、その体躯をかがめて、手元の用例採集カードを作っている姿は、どことなくユーモラスである。そんな作業を、いつでもコツコツとこなす、松本先生は穏やかな人柄であるが、辞書編纂を行うにふさわしい、保守的、頑固なおじいさんでもある。松本先生は言う。「言葉は、言葉を生みだす心は、権威や権力とはまったく無縁な、自由なものなのです。また、そうであらねばならない。自由な航海をするすべてのひとのために編まれた舟。『大渡海』がそういう辞書になるよう、ひきつづき気を引き締めてやっていきましょう」。この物語を読むだけで、辞書編纂の作業が絶え間なく続き、無間に続いていくことがわかる。何しろ、対象になるのが言葉全部である。そして言葉はたえず、変わり、生まれ、死んでいく。辞書は、人が言葉の海で溺れそうになったときに、救いにならなくてはならない。そんな辞書編纂に生涯をかけてきた学者だからこそ、いつでも、どんな局面になろうと、「ひきつづき気を引き締めてやっていきましょう」といえるのだろう。

 その松本先生は、『大渡海』が誕生する瞬間を目にすることなく、永遠の旅路についてしまう。松本先生が、ともに辞書編纂をいどんできた編集者の荒木へと遺した最後の手紙は、私の琴線にふれるものだった。

「最後の最後に監修者としての責任を果たせなかったことを、辞書編集部のみなさんにお詫びします。『大渡海』完成の暁には、わたしはもうこの世にはいないでしょう。しかし、いまは不安も後悔もありません。

『大渡海』が、言葉という宝をたたえた大海原をゆく姿がまざまざと見えるからです。

 荒木君、ひとつだけ訂正します。わたしは以前、『きみのような編集者とは、もう二度と出会えない』と言いました。あれはまちがいだった。きみが連れてきてくれたまじめさんのおかげで、わたしは再び、辞書の道に邁進することができたのです。

 きみとまじめさんのような編集者に出会えて、本当によかった。あなたたちのおかげで、わたしの生はこのうえなく充実したものとなりました。感謝という言葉以上の言葉がないか、あの世があるならあの世で用例採集するつもりです。

『大渡海』編纂の日々は、なんと楽しいものだったでしょう。みなさんの、『大渡海』の、末永く幸せな航海を祈ります」(p322)

 この物語は、辞書編纂する人たちのドラマである。しかし、それが辞書編纂であろうが、他の仕事であろうが、自分のしたことが何かの形になって、人に伝わっていくことは重要である。それをあらたに引き継ぐ人がいて、仕事が長い時間の中で、変わっていく。そして、より完成に向かっていくのだろう。生の間際までそんな仕事にいることの意味を考えさせられた言葉だった。そして、辞書が扱う対象の「言葉」ってなんだと、大きな問いが頭に残った。「死者とつながり、まだ生まれ来ぬものたちとつながるために、ひとは言葉を生み出した」(p323)そう、言葉はひととつながるために、あるものなのだ。けっして、人と仲違いをするわけでも、誤解をするためでもない。しかし、その言葉の海はあまりに広く、そして深い。だから、辞書がどうしても必要になる。そんな「辞書の編纂に終わりはない。希望を乗せ、大海原をゆく舟の航路に果てはない」(p324)。何か、言葉と人生のことを深く考えるきっかけをもらったと思っている。そして、それを考えていく中で、いうまでもなく辞書は手元におきながら、時折、言葉の意味を噛みしめながら、考えてみたいと思うのだ。



 このブログでは、できるだけ努力をしたが、一部、展開している物語にふれたところはあると反省している。小説に対する礼儀として、それが単なる感想であったとしても、書評的な観点から、展開を伏せるのは礼儀であることはわかっている。しかし、その展開に触れないと表現できないことがある。しかし、それがわかったとしても、この物語の面白さが削がれるものではないと思っている。ぜひ、この物語で辞書編纂の舟旅を堪能してほしい。そうすれば、電子辞書やインターネットの簡易辞書ではない、紙の辞書も使いたくなるだろう。

 私は今、大学受験の浪人時代にかよっていた受験予備校の英語の授業を思い出していた。その先生の口癖はこれだった。「辞書は読むものです。辞書をその文字だけではなく、その周りを読んでいくのが大切だと」。しばらく、私も辞書を読んでいない。わからない言葉に出会うと、簡単にインターネットで検索して、その言葉の意味だけを調べている。でも、それではだめだ。これからは、もう少しは辞書を読むことを意識したい。だって、膨大な時間と熱意をかけた編纂チームがいるのがわかったのだから。そして、言葉は人とつながるほとんど唯一の道具なのだから。


 

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