2015年02月

2015年02月28日

鉄を折れない人が作り出す幸福感~山田和樹のマーラー交響曲第3番は希望と絶望のない交ぜ~日フィル・渋谷

全体的な評価からすれば、終演後に、二人の金管独奏者の所で、拍手が倍加した事が全てである。

つまり、本当の名演なら、最初からあれぐらいの拍手のボルテージがなければ嘘だ。

私の友人も、「山田和樹っておとなしいですね」で終わりである。

結論から言わしてもらう。彼に西洋音楽を、その本質的な凄味から掘り起こして表現する事は、事実上全く無理である。

冒頭のホルンの直後の、あのパーカッションの軽さ。様々な楽器の、発音上の密度。それはまるで鉛筆で言えば、2BでもHBでもなくHの軽さであり、第1楽章の最後の終止音を除けば、こちらの腹にこたえる音は絶無と言っていい。

昔コバケンが、ある芸大指揮科学生の卒業演奏会を、自分の弟子でもないのに見に来た。それだけ見所のある人だったが、終わった後、私にこう言った。

~どうしても、“ぷかぷか”した棒を振っちゃうのね~

その時私は、“つまりこういう棒がないって事ですね”と言って、「シャベルで地面を掘る」真似をして見せた。

~そうなのよ(コバケン)~

分かりますか皆さん(笑)。

因みに私がやったその動きって、単なる汐澤先生の真似なんだけどね(笑)。

昔書いた事だが、人間にとって心臓より上にある物は軽く感じる。下にある物は重い。上は緊張の解放を意味し、下は重心、時には情念も意味する。

今日の和樹さんの棒、殆ど上だけで踊っちゃってるのね。

それは天上への敬意と祈りの音楽を意味する。だからいいと言えばいい。最終楽章の最初からしばらくなどは、山田の天国的繊細さの独壇場だ。

しかし、山下牧子さんとのあの共同作業からしてそうだが、この世に光と陰の交錯があった時、彼の作る世界は、ある種の伸びやかさは保てるだろうが、そこには一つの寒気もない健康感だけしか支配しない。ましてや“ビム バム”のあのだらしない音の立ち上がりにも、テンションの無さは明白で、これがまだ音楽だからいいんだけど、ある種の武道だったら、初手から刀を折られている程の人の良さだ。

そういう意味では、彼のデリカシーは、それこそ繊細さそのものみたいな、前半の武満さんの映画音楽での方が遥かに生きる。一切ぎゅうぎゅう弾かせる事がない。というか彼の場合有り得ない。その柔らかい共鳴が作り出す世界こそが、彼の最大の可能性だ。

西洋音楽とか西洋の凄味とか言ったって、それは所詮、狩猟と侵略の民族のえげつなさであると言えば言える。つまり山田こそは、西洋音楽のデリカシーという、いわば“良い面”だけを抽出して、別のものに変容出来るスターだと言えば言える。

こういう風に言っておかないと、あるいはどこにも救いのない文章になってしまうので、今日はこの辺で寸留めにしておく。

まあ、男というものに求められるものが、世界中で変わって来ているのかも知れない。彼が時代を作れるのか、今だけの時流の寵児で終わるのか、それは我々の生き方に、今何が求められるかとも絡んで来る問題かも知れない。


smj_ohkanda at 22:50|PermalinkComments(8)TrackBack(0)このエントリーをはてなブックマークに追加 音楽 

2015年02月27日

秋山和慶回想録に、隠居通信が登場した事の意味~正直、恐縮している(笑)

秋山さんが、取材者である共著者の方と、御自身の指揮者人生の回想録本を出された。

回想録なんてものを出して“様になる”のは、小澤さんは勿論、コバケンさんや秋山さんも含めて、そう何人もおられまい。要は御立派な人生の方だ。

そんな方の、人生唯一かも知れないにして、最善の記録であるはずの本の、ほぼ最後を締める形で、私が過去ここで秋山さんについて書いた事が、引用の形で登場する。秋山さんが現在、どれだけの称賛を浴びているかのサンプルとしてだ。

もし、私が秋山さん側の陣営にいたら、これはかなり無謀と判断する(笑)。今回の引用は、私の名前とブログの正式名称まで、ちゃんと掲示して引用している。つまり本の読者は、いつでも私の元の全文を検索で読める訳だ。

そこでは私は、秋山さんを称賛ばかりはしていない。私の指揮者や人生観や音楽観の理想はむしろ他にあって、それなりに言いたい事も言っているから、それは決して秋山さんにとって愉快であるはずもなく、もっと他から、称賛の種などいくらでも集められるはずなのだが。

ある識者が言ったが、今回の事は、むしろ私のブログにとって得る所の方が圧倒的に大で、秋山さんや、秋山さんの側に立つ方々には、むしろ得る所とてあまりないはずのものなのである。

要は、ある意味チンピラ同然の私などの言論を取り上げて頂くのは、大変心苦しいし、正直びっくりもしている。

このブログも、色々発展途上にある様で、先日の田中祐子さん大成功演奏会の一件は、未来の日本を背負うトップ官僚になられるであろうお一人、井上貴至さんのブログ(井上貴至さんで検索可能)でも取り上げられ、そこでは私のブログの事も紹介されている。

まあとにかく、秋山さんの事も、いいと思った事をその通り書いただけだ。折角なので、秋山さんについて一つ追記を書こう。

私がシベリウスの交響曲第2番で“泣いた”のは、秋山さんと広島交響楽団の、すみだトリフォニーにおける地方都市オーケストラフェスティバルでの演奏だけである。

また秋山さんがお振りになった大河ドラマ「徳川家康」のテーマでは、私は正直、何度泣いたか分からないのだ。あそこに流れる熱いうねりは、決して冨田勲さんだけのものではあるまい。

秋山さんは、自己アピールを潔しとはしないようでいらっしゃるが、さりとて確固たる自己は存在なさるのだ。

私は実は、音楽では殆ど泣かないのだ。甘ったれた感覚は嫌いだからだ。

そういう人間をも泣かせるものが、秋山さんにあるのだという事は、断固申し上げておく。


smj_ohkanda at 08:55|PermalinkComments(0)TrackBack(0)このエントリーをはてなブックマークに追加 告知(演奏会など) 

2015年02月22日

ひょっとしたら、今世界一格好いい女?(笑)~田中祐子&東フィルの、あまりに圧倒的な世界~サンパール荒川

9dd3b1ea.jpg薬のコマーシャルでは、これは絶対効きますみたいな、あまりに連呼型のコマーシャルは、かえって信頼がなくなるんだそうだ。

しかし私はもうメロメロである。どなたかが峰不二子の格好良さにベタボレになる様な世界である。今、こんな素晴らしい指揮者はいない。連呼してもいい(笑)。

素質は最初から最高は分かっていた。日本人が一番持っていない、強靭なメリハリを、汐澤安彦以外で一番持っているのは、実は彼女だ。

しかし棒が切れ、メリハリが強靭なだけでは、本当の音は出ないという現実も、色んな若手を見ると山の様にこちらも経験している。

基礎力が揃った上で、最後に人間的魅力も必要な訳だが、人間的魅力や人格から先行して音が作られている指揮者もたまにいて、私はそれも立派だと思うけど、私は全てに完全を、少なくとも音楽にだけは求めるから(笑)、基礎力で詰められる所が甘い人には、どんなに人間的魅力があろうと、どこかで厳しくあたらざるを得ない。

祐子りんの場合は、勿論基礎力も人間的にも最高だが、それでも技術的に詰められる所がもう少しあるはずだという感覚が、こちらにはあった。

この、もう少しあるはずだ、だけで大変な事なのである。小林研一郎さんや山田和樹さんなどは、私から見て、もう少しどころの騒ぎではないからだ(笑)。ただあの流派の場合は、彼らの良さも殺せないから、こちらもあまり技術的な事ばかり言う気にならない。

祐子りんの場合は、完璧に決まった音という以上の、こちらの腹にこたえる深い音が欲しかった。それにはまだ少し時間がかかるかもという認識が、少なくとも芸大フィルで見た頃には露骨にあった。

しかし今日、一昨年の葛飾フィル以来久々に見て驚いたのは、姿勢として微動だにしない所と、獰猛に動いて音楽を“招き入れる”所の、あまりの切り換えの鮮やかさである。

あらゆる曲の、低弦の律動の掘り起こしが必要な所での、早目の見事な体捌き。逆に「展覧会の絵」(ラヴェル版)の“ビドロ”みたいな所の、極めて深い呼吸の棒(こういうのは実際の所、技術的にもコバケンさんや汐澤さんの独壇場)は、「祐子りん、どうしたの?(笑)」というぐらいの、見事な変貌ぶりだった。

とにかく全体に、アウフから1への落とし方に神秘的な重さが、膝の弾力を使って示されるケースも含めて増えており、書かれている音価を誇張はしないが、音楽の色彩の推移を見計らい、ホールの音響と計った上での、柔軟で雄大なテンポ感の音楽も志向する指揮者に変わっている。

そうでないと困るのだ。強靭なメリハリだけでは実は飽きられる。いい指揮者はみんな、更なる柔軟性を持っているからだ。

私の聴衆キャリアの中で、「展覧会」はゲルギエフN響と、汐澤・洗足SSWWと、フェドセーエフ&モスクワなんたらしか、論ずるに値するものはない。今日の祐子りんの展覧会の余りの多彩さ、壮絶さ、雄大さ(最後の銅鑼なんか、何であんなに見事なんだろう)は、これら過去の名演に全くヒケを取らない。

冒頭の“ツァラトゥストラ”(2001年宇宙の旅での使用部分だけ)も、最大最高だった小泉和裕さん&都響に全く負けないし、最後の「威風堂々第1番」も、最高権威・井上道義さんの大盤振る舞いな豊かさに全く負けない。

加えて今日は、新鋭・小林海都さんという、あのピリスさん一押しの若手ピアニストが、ルービンシュタインの温かさとペライアのしなやかさを併せた様な、「皇帝」の中の「皇帝」と言うべき協奏曲演奏をやり(前にも言ったが、この曲の第2楽章から第3楽章への移行で、ある種のブリッジ効果を狙ってか、第2楽章の末音から強拍にするという、注意深さのない解釈が多いが、彼はそんな事はやらない)、東フィルさんの極めて食い付きのいい、反応のいい音楽も含めて、全体にこんなに高度に成功した演奏会は、リハーサルの限定された名曲演奏会では、ちょっと絶無に近い。

まあ、あのバッティストーニのマーラー1だって、東フィルじゃなきゃあそこまでの音楽には絶対ならない。ただ東フィルの良さを引き出せない指揮者がたまにいるというだけじゃないのか。

田中祐子、実は今日が東京でのプロオケ演奏会デビューだ。ピン立ちのものとしては。

今日は亡き私の父の誕生日であり、都内各所ではあらゆる巨匠、新鋭、名人が演奏会を行っている。しかし、本当に頭と目があったら、選択は田中祐子以外有り得ない。今、これだけの指揮者はいない。

本当はクラシック音楽からは、どこかで去るつもりでいたが、祐子りんがいれば、自分が生きているという歓びは、多分一生頂戴出来るだろう(笑)。


smj_ohkanda at 21:40|PermalinkComments(2)TrackBack(0)このエントリーをはてなブックマークに追加 音楽 

2015年02月19日

小林研一郎&読響、ブラ3&「未完成」、当然のレコ芸特選~大神田ブログの言う事に、外れはない

9f349f13.jpg昨年のロンドンフィルとのコバケン・チャイ2にしても、バッティストーニと東フィルのマーラー1にしても、圧倒的名演である事は、雑誌より先に私の方で予言しているはずだ。別に雑誌が私の言う通りにならなくてもどうでもいいが、他でも評価されてるサンプルがあると、こちらも宣伝がし易くなる事は確かである(笑)。

前にも言った通り、私は今回のブラ3他を録る前に、コバケンさんとは、向こうの要請に従って言うだけの事は言ってある。ただそれは、レコ芸が余程下らない批評でも書いたら、総合的に論じる意味で公開しようかとも思ったが、めでたく特選となった以上、もう何も言わない。その方が、黒子になれるからだ。

結局今回コバケンさんが採った方法論は、彼の選択なんだから。まあ選択肢について話しただけだ。

写真のチラシ棚は、ディスクユニオン新宿クラシック館。汐澤安彦や生野やよいの演奏会のチラシが見てとれよう。そこに小林研一郎を加えた三人が、このブログの切り札だ。

日本声楽界が無視したやよいちゃんの、日本人では例のない世界制覇(ダブル部門満場一致)は、私のブログの価値を特別にして下さるには充分だった。このやよいちゃんの、3/18リサイタルや、汐澤さんの3/1足立シティオケ演奏会については、新宿クラシック館にチラシを取りに行って頂いても構わないが、最近刊行の「音楽の友」や「ぶらあぼ」の3月号にも、ちゃんとどこかに出ていますからよろしくね(笑)。

今年の汐澤先生の動向については、また総括的に語るが、とにかく昨年暮れの鹿児島第九での、高橋淳さんらや合唱との、じっくりしたテンポでの濃厚な語りにはビックリした。映像を拝見したのだが、明らかに新しい語りかけ方に花開いた、神様汐澤の変貌がある。

コバケン先生にあっても、今回のブラームス交響曲第3番CDでは、新しい事をいっぱいやっているが、人間が本当に物事の内容の語りというものに到達するには、あのクラスにしてこれだけの時間がかかるのだという事については、明記して間違いなかろう。

もっとも、だからこそパーヴォのあの年齢での、あの内容には驚かざるを得ないが(先日のN響マーラーに対する称賛、もう異常な程だ。お陰様で、“パーヴォ N響 マーラー”と検索すれば、私のブログもかなりすぐに出るはずではあるが)。

今年は、かつてない程、素晴らしい年になりそうである(笑)。


smj_ohkanda at 22:03|PermalinkComments(0)TrackBack(0)このエントリーをはてなブックマークに追加 音楽 

2015年02月15日

エッティンガーの常任退任マーラー5は、極めて示唆に富んだ世界~東フィル・オーチャード定期

来年度から桂冠指揮者になるらしい、極めて表現力に富んだ指揮者、ダン・エッティンガーの常任最後の演奏会が、今日渋谷であった。

彼のあの、前例のない程の壮絶な、常任就任披露のマーラー復活から、早いものでもう5年が経つ訳だ。とにかく、何であんなに東フィルが凄まじい音を出すのか、余程人間的魅力があるんだろうな、という想像はしていたが、常任最後というのはやはり残念だ。

先日のマーラー1番を見る限り、世間の注目はこれからは確実にパーヴォ&N響だろうが、やはり今日のマーラー5番を見ても、正統的でありながら音符の抉り出し方が壮絶だという意味では、エッティンガーも決して負けてはいない。

冒頭の葬送行進曲の、無理のない流れに見えて、どこかで引っ掛かる様な陰影の作り方、攻撃的な所の暴発せんばかりの迫力も流石だが、第1楽章おしまい近くの例のクラーゲントが、あまりにもコバケンさんと違うのも興味深かった。

彼はあそこで絶叫しないのね。ところがね、それまでの蓄積が確かだと、あそこはそれとなく嗚咽をする様に留める事の方が効果的なんだという事を、今日のエッティンガーの演奏で初めて知った。

あそこでワーッとやるコバケンは、これからは少し軽薄に見えるかも知れない(笑)。まあ、やり方次第だろうが。

ただ全体にはやはり、エッティンガーは壮絶だ。アダージェットなんか、繊細ぶらずに線の太いウネリで押す。フィナーレも、フーガの進行の見せ方が抉りが効いていて、展開が楽しい。今回はそれらを担う東フィルの低弦等が大活躍だったと思う。

最後の終結だけ、ちょっとノリだけになって軽くなった気はしたが、やはり、ああいう終わり方しかないよなという気もする。

前半のモーツァルト・ピアノ協奏曲第20番では、私がモーツァルトで一番信用する菊池洋子さんの、一切の濁りのない美しさが見事だったが、実はアンコールが何と、エッティンガーとの連弾による、シューベルトの軍隊行進曲(笑)。これが実は最高だった。

最初エッティンガーが低声部からスタートして、途中で菊池さんとアクロバティックに役割をチェンジするというオマケ付きだったが、軍隊行進曲だろうと極めて美しく語りかけたい菊池さんと、いかついところはいかつくやりたいエッティンガーとの、それとない対立と融和が面白かった(笑)。

アンコールの印象があまりに強いというのも考えもので、これからは菊池さん、モーツァルトにも透明な美しさだけではない、何かが必要になるかも知れない。

まあとにかくエッティンガーの音楽聴いてると、日本人とはやはり食い物が違うという気がする。先日、日本経済新聞の電子版が、小林研一郎&日本フィルのシベリウス2番の事を、“演歌的”と、揶揄ではなく賞賛で述べたが、コバケンのマーラーは完全に素直な歌だ。エッティンガーの野獣的な闘争性と、骨太な鳴りは、ある意味演歌より情念的であって、日本人の音楽なんか所詮可愛いだけだという気さえするのである。

今夜テレビでやったパーヴォのブラ1だってそうじゃん。あの闘争性こそ、西洋音楽の実は本質なのよ。

本当に太刀打ち出来る人って、多分汐澤さんだけだね。


smj_ohkanda at 23:45|PermalinkComments(2)TrackBack(0)このエントリーをはてなブックマークに追加 音楽 

ハイティンクLPOのベト全(タワーレコード)の、あまりの素晴らしさ~コバケン哲学との、意外な程の共通点

タワーレコードの名盤発掘の中でも、これはすこぶる価値が高い。70年代にフィリップスから出て、すぐに廃盤となり、長らく注目もされなかったという、ハイティンク壮年期のベートーヴェン交響曲全集が、最近タワーレコードから再発になった。

元々韓国から再発されたものに、タワーレコードが序曲とかをくっ付けて発売したものみたいだが、いやあ、聴いて驚いた。

1997~2001年に、随分松本市、更には長野市や飯田市まで、小澤さんやサイトウキネン等を追っかけてベートーヴェンを聴いた人間から言わせると、音程と縦という演奏行為の基本、更に、音楽に対するある種のピュアさ、という事に関して言えば、恐らく今後も小澤さんのあの時代が絶対的な頂点で、あの密教的なストイックさを体験したという事は、自分の肥やしには随分なった。

ただ、何と言うんだろう、ヨーロッパのゆとりというか香りというか、そういうものには、あの方法では多分到達出来ない。

小林研一郎とチェコフィルが追求出来た世界というのは、逆に香りばっかりで(笑)、ベートーヴェンはこういうところがビシッとしてなきゃみたいな、造形の厳しさみたいなものには、ほぼ全く到達していない。

結局、大晦日のイワキオケとコバケンが何故素晴らしいかと言えば、どこに人間的な温もりがあって、どこに壮絶な厳しさがなきゃいけないかという事が、ほぼ完璧に出来てるからだろう。

恐らく厳しさの部分は、マロ篠崎さん始め、スーパーエリートが自生的に作って来る部分が大で、本来ならあんな大晦日のお祭りではなく、コバケン音楽祭のメインオケがイワキオケになって、一定期間ちゃんと練習も取る形で毎年繰り返す様にでもなれば、小澤松本がそうである様に、コバケン上野が、世界にベートーヴェンを発信する事も可能な訳だ。

ハイティンクの今回の再発を聴いて本当に驚いたのは、例えば第2番の第2楽章とか、第九の第3楽章とかで、本当にコバケンと同じ様な、極めてヒューマンな音楽が展開されている事だ。テンポ設定も極めて近い。

ハイティンクの場合、シェリングとのバイオリン協奏曲や、ペライアとのピアノ協奏曲を聴けば、最もベートーヴェンに相応しい厳しい造形感覚と、それでいて圧倒的な鋭さとはまた距離を置いた平衡感覚というか、音符をじっくり味わえる丁寧さというのが、伴奏では有名だった。

だからまあ、彼がリードする形で交響曲をやれば、かなり完全な納得感のベートーヴェンが出来るというのは、予想の範囲ではあったが、厳しさと温もりの配分がコバケン・イワキオケに似ているだけでなく、第九では、かつてのコバケン武蔵野合唱団と、ほぼ同じ事をやっているのには、益々驚いた(笑)。

70年代のロンドンの合唱が全てこんなレベルとは思いたくはないが、要は力に任せて吠えちゃってる訳(笑)。ところが、無下に否定するのも憚られる様な“青春ドラマ的情熱”が、そこには確かにあるのだ。

テンポにダレがなく、リズムがビシッとしていて、尚かつ鋭過ぎず、歌う所にはヒューマンな温もりもあり、更に第九では羽目を外した暴発もある(笑)、こんなコバケン大晦日に近い正規の全集なんて、そうそうあるもんじゃない。

私は過去に、理想のベートーヴェン交響曲CDとして、1バーンスタイン新、2アシュケナージ、3若杉ケルン、4アバドBPO、5シャイー、6小澤、7アバド旧デッカ、8&9は小泉フォンテックという言い方をしたと思うが、若杉さんの英雄は本人の許諾のない発売であり、今回のハイティンクLPOがとって替わる。

それに、全集だけで一つ選べと言われれば、文句なしに今回再発のハイティンクを選ぶ。

過去の資料をあさると、今回の全集の中の1番を小石忠男、出谷啓、8番を諸井誠の各氏が推薦した形跡があるが、概して日本のマスゴミと聴衆は、これを無視した様だ。

中庸というのは確かに損をする場合があるが、ここにあるのは単なる中庸ではない。絶対的な厳しさと、人間的な温もりの、理想的な配合である。

再発したタワーレコード担当者には、深く敬意を表する。


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2015年02月09日

人生初の、無条件降伏~パーヴォ・ヤルヴィ&N響の「マーラー交響曲第1番」、世界の頂点~NHKホール2日目

さて何から喋ろうかね。本当なら喋る事ない、素晴らし過ぎて(笑)。

パーヴォの10年前のN響定期であるシューマンの「ライン」は、それこそ圧倒的な成功をした事で知られる。後でN響アワーのテーマにもそのまま使われたぐらいだ。

使われ始めた後だったか、秋山和慶さんとN響が、何かのコンサートでやはりラインをやって放送されたのだが、パーヴォの後だったのが不幸だった。いい悪いでなく、正直センスの古さしか感じなかった。

ただパーヴォのこの、しなやかな歌い回しのセンスというのは、音楽の持って行き方共々、一歩間違えば上滑りの手前になりうるが、さりとてそのスリルも、また彼だった。

しかしここ最近の彼を見ると、パリ管との「幻想」や「オルガン付き」など、ブランド的には世界最高に見えて実は、極めて高の知れた音楽であり、特に後者でのまくし立て、上滑りは本当に酷かった。

所詮軽い指揮者じゃないかという危惧は、昨年暮れのドイツ・カンマーとのブラ4でも拭えなかった。

先週末、ニュースで蜷川幸雄さんが、弟子の藤原竜也さんに芝居の稽古をつけている時の映像が流れていた。その中での、“衝動的な言い方ってのは、言葉の内容を正しく伝えない”という蜷川さんの駄目出しは、いたく印象に残った。

さりとて、先日の山田和樹さんの様な、あそこまで衝動のない演奏も、正直何も伝えはしない。

ただ舞台上で如何に狂気が示されるかと言っても、結局それは、局面局面においての適宜挿入という事になるんであって、全ては設計と選択というだけの話でしかない。舞台で本当に狂ったら、単なる救急車だ(笑)。

今回のパーヴォは、10年前の「ライン」以来久々に、全てが完璧だった。それはオケが完全だったとかそういう話じゃなくて、ここはこれぐらいまで歌って、ここではこれぐらいまくし立てて騒いでという、方法の出し入れがあまりにもズバリ過ぎるのだ。

プロならズバリで当たり前と言うなかれ。例えば私はバッティストーニのマラ1を絶賛したが、あれを徹底した上滑りとして批判する事は、自分の中のチャンネルを変えれば可能である。勿論昨年の広上・京響の、「単に拍を置きに行ってるだけの、かけらの弾力もない死にきったマラ1」を絶賛する事だけは、さすがにどうチャンネルを変えたって不可能だが(笑)、しかし今回のこのパーヴォだけは、まあ仮に、最初のさすらう若人旋律(チェロ)が少し固いとか、N響のピアニッシモがあまりにも超絶で、色までなくなってるという批判をすれば出来るけど、とにかくここはこう歌って、ここはこう鳴らして、ここはこう急いでという設計が、あまりにも自分の夢(笑)と一致し過ぎて、我ながらボーッとして聴いていたのである。

恐らく曲のどん尻の迫力は初日を上回っており、そのあまりの正確さ、懸命さ、壮絶さ、拍手大歓声のあまりの凄さは、私の人生でも最高レベルにあるが、それ以上に、個々の局面における方法選択の妥当性という事が、私には一番素晴らしかった。

例えばあの第2楽章冒頭の、低弦の壮絶な発語の取り方。実はあれとおんなじかあれ以上の事は、田中祐子もちゃんとやってるんだけど、無論祐子りん曰く「譜面通り」ではあるんだろうが、でも殆どの人があそこまでやらない(笑)。

でもあそこは、ああじゃなきゃ駄目なの。だから先日の山田和樹さんなんかは一番の問題外。軽い事この上ない。

実は、西村朗さんの、初日のFM解説が最高だったんだけど、今回のパーヴォは実は歌ったというより“語った”んであって、単にしなやかなに歌うんではなく、どんな叙情的な美しいところでも、まるでリート歌手が、ちょっとしたアクセントにも“サビ”を利かしてインパクトを生む様に、音型の拾い出し方に必ず“生きた陰影と弾力”みたいなものが、それこそどこを聴いてもついて回った。

つまり今回はパーヴォの、“ひとひねりな抉り大会”だった訳だ(笑)。ただこんなに全てがズバリズバリというのは、私の観賞歴でも、そうそうある事ではない。

よくこれだけ振幅のあるあれやこれやに、あまり面白味のないと言われるN響が何から何まで、あそこまで感動的に応じるものだ。そうは言っても、またつまらない時は、つまらなくなるんだろうが(笑)。

エルガーのチェロ協奏曲をやったアリサ・ワイラースタインという方は、“自在に歌った”という事の典型。但しこの“歌う”という事と“語る”という事は、かなり別種のものである事を教えてくれたのが、今回のライヴではなかったか。

歌うというのは、確かに音楽の一番の核心の様な気がしていたが、いやそうではなかった。

音楽でも、一流の弁士がそうする様に、様々に“語る”という事が可能な訳だな。弁士は時にまくし立てる。時にえげつない程、言葉にドスを入れる。時に唖然とする程、静寂を巧妙に使う。

今回は弁士パーヴォとN響の、そのあまりの完璧な芸に、参りましたという結論である。

但しこの雄弁過ぎる彼の芸の在り方が、曲によっては仇となる事は、今後共有り得よう。

まあとにかく、才能が有りすぎるよ(笑)。


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2015年02月07日

歴史が動いたねえ~恐らく史上最大最高~先程FMの生放送で聴いた、パーヴォ&N響のマーラー交響曲第1番

一応明日、生も聴くので、本当は結論は明日にしたいが、もう放送だけで、史上最大最高はほぼ確実だろう(笑)。

よく、生が本当だと言う人がいるでしょ。そういうのは本当には音楽の分からない人。現場でどういう響きのスケールだったかというのは、いわば現象の一つで、音楽の本質は、書かれた音型がどういう風に生かされた弾き方にされているかという事に、勝負がある。それは、悪い録音でなきゃ、ちゃんと分かる。

例えばある字があって、それをどういう風に書道家が書いたか、その筆勢とか筆遣いとか構図とかは、モバイルの画像で分かるの。実際に書道の展示会に行って分かるのは、墨の濃淡とか、実際の紙や字の大きさだが、その人が“字をどう捉えたか”というのは、メディアで分かるのだ。

いやむしろ音楽の場合のライヴ主義者には、単に“生を聴いたんだから、真実に触れたはずだ”という「幻想」に酔いたい人すらいるのだ。

その証拠に、そんな所じゃバランスも全体像も何も分からない所で聴いて、なおかつ「あそこの音型はどう鳴ってましたか」と聞かれても答えられない人を沢山知ってますよ(笑)。

つまり、生に行ったから何かが分かるというのは実は幻想なんだが、その限界を知って、尚かつ生を楽しむというのが、回りくどいが音楽の醍醐味だろう。

特に先程の放送から察するに、パーヴォとN響の今回のマーラー1、生ならではの悦びも山とある演奏に決まっている(妙な言い方だが、放送で充分の音楽というのもある。それは実はタイプの問題で、悪い意味ではない)。

まあ、当日券あるのか知らんが(笑)、皆さん明日は、NHKホールに行かれてはいかがでしょうか。


smj_ohkanda at 20:54|PermalinkComments(4)TrackBack(0)このエントリーをはてなブックマークに追加 音楽 

2015年02月02日

音泉室内合奏団第44回演奏会、世界有数の迫力を持つベト1が、先ず圧巻!!~2/1みなとみらい(小)

まあハッキリ言えば、世の中は広い(笑)。

例えば、コバケンファンは悔しがるが、あの奇蹟の迫力の、大晦日のコバケン・イワキオケのベートーヴェンに対する世間の風評。

その迫力を実際に見てもいず知りもしない人は、あんなものコバケンさんと三枝さんがやってる、年末の単なるお祭り、イベントとしか思っていない。かなりの業界関係者でも、あまりいい顔をしては語らない。

確かに練習時間の制約を考えても、そもそも無理がある内容を考えても、やっつけだとの批判は的外れではない。

しかし行った人はみんな知っている。あんな凄いものはこの世にない事を(ヤンソンスやティーレマンなんて、笑いしか起きない)。

ただ世の中には、上には上がある(笑)。

昨日の音泉室内合奏団演奏会の、前プロで行われたベートーヴェン交響曲第1番、まるで心臓に鉄の爪が抉って来る様な、アーティキュレーションの物凄い重さ鋭さとド迫力、完全にイワキオケより上である。

元よりそれは、コバケンがアーティキュレーションを抉る様に出すのが元々嫌いだから仕方がないのだが、しかしイワキオケを知る人なら、あれより凄いベートーヴェンがあるなんて信じられまい。

しかしちゃんとあるの。昨日あったの。そして、あって当たり前なの(笑)。

音泉は、音泉特有のメンバーも勿論沢山いるが、基本的には足立シティオーケストラを兼ねる人も多い。オマケに大ボス汐澤先生までトロンボーンで参加なさるとすれば、要は汐澤先生と気迫、迫力、情熱を共有するグループなのである。

汐澤より鋭く重い迫力を持った指揮者は、私は知らない(鋭くて軽い奴なら、掃いて棄てる程いる)。ならば汐グループのベートーヴェンも、それから昨日の1曲目「フィガロの結婚」序曲も、そういう迫力になって当たり前である。

とにかく腹にこたえるベートーヴェンとなった。メヌエットでありながらスケルツォ的な速度指定になっている第3楽章は、コンマスの三溝さん、どうなさるかと思ったが、予想通り中を取ったテンポになさっていた。しかし彼らの、極めてズシリとした迫力に相応しいのは、自動的にそこらあたりになるので、妥当性が大変高かったと思う。

昨日はメインはウィンナ・ワルツ、ポルカだと思っていたから、ちょっと油断した(笑)。これだけ激しいベートーヴェンには心の準備をしていなかった(笑)。

まあ、毎年コバケン大晦日を聴いている人も、本当に驚いてらした。そうは言っても、汐グループなら、何があっても不思議じゃないのよ。

後半は、ウィンナ・ワルツ等の知識と資料収集に関しては日本最高と言われる、松本交響楽団団長にしてお医者さんにしてオーボエ奏者の小平潔さんの贅沢な解説がついた、ウインナ・ワルツやポルカのあれこれ。

ヨーゼフのポルカ・マズルカ「遠方より」や、カールマンの「チャールダーシュの女王」からのワルツ“踊りたい”、更にアンコールのシュトラウスⅡによる「農民ポルカ」は、私はあまり聴いた記憶がないので、興味深く聴いたが、定番の「ジプシー男爵」序曲やペルシャ行進曲(シュトラウスⅡ)、それにポルカ「憂いもなく」やワルツ「我が人生は愛と喜び」(ヨーゼフ)を聴くと、ある種の音泉イズムはハッキリする。

そもそもワルツとか舞曲というのは、通常の思考なら社交や舞踏会の道具という事になるのだろうが、しかし人間にとって“踊る”って、そもそも何だろうか。

それは一枚めくってみれば、人間という生物にとっての、狩りや祝祭も含めた、かなり野性的な、闘争意欲の発露ではあるまいか。

実はウィンナ・ワルツはピーヒャラして軽薄で嫌いだという人も、結構いるのである。

そういう人達に昨日の音泉を聴かしたかった。

物凄い迫力なのよ。ウィンナ・ワルツやポルカで、文字通り“血が騒いじゃう”演奏なのね(笑)。

ある種の洗練は欠いたかも知れないが、ウィンナ・ワルツとかで、人間の根源的生命力に至れるというのが、もう完全に予想外の演奏会だった(笑)。

アンコールの、コンマス三溝健一さんと、キーボード岩波佳代子さん(キーボードで、完全なまでにハープの音を模倣し得た)との掛け合い等による、シューベルトのアヴェ・マリアを聴いた時、ちょっと妙な感傷に襲われた。

テロに殺されたら、こういう音楽も聴けなくなるんだよなあ、と、正直に思ったのだ。

人間が若しあの世に行く時、何か一曲だけ聴いてから行くとなったら、意外にみんな、チャイコフスキーなんか選ばねえんじゃないの。多分こういう曲であろう。

今年は本当にどんな年になるのだろうか。実は、毎年正月のコバケン新世界というのは、コバケングループにとっての賀詞交換会的な新年会でもあるのだが、汐グループにとっての新年会は最近では事実上この音泉で、それこそ鹿児島からも新潟からも、汐関係者が集まるのである。

私はまた当然、生野やよいリサイタルの営業も兼ねていた(笑)のだが、来てくれそうな人もいて収穫だったけど、東京でテロが起こったら、正直音楽会どころの騒ぎじゃない。

正に「憂いもなく」どころか、憂いだらけだよ(笑)。

困ったもんだ。


smj_ohkanda at 00:16|PermalinkComments(0)TrackBack(0)このエントリーをはてなブックマークに追加 音楽 

2015年02月01日

もうこれで、憲法改正なんて極めて容易になる

人間にとって一番強い本能は、自己防衛である。

もう、誰がいいの悪いのという話は、全く無意味だ。

ただ、平和国家という、日本人だけに通用する寝言は、もう御仕舞いだ。

改めて、宇宙戦艦ヤマトのあの、「我々は、信じ合うべきだったんだ」という偽善は、処置なしだと言わざるを得ない。


smj_ohkanda at 08:59|PermalinkComments(0)TrackBack(0)このエントリーをはてなブックマークに追加 雑感