2017年08月

2017年08月31日

大神田俊郎2ちゃんねるでの、一部の方へ

なんか本当にもう、私の事を庇って色々言って下さってる様で、ありがとうございました。最近歳のせいか涙もろいので、本当に涙が出ました。感激です。

もっとも御承知の通り、私は私の信念だけに生きている男です。それはもう、充分な賞賛の中にあります。お陰で毎日快便で、どうしようもないぐらいの幸せの中におりますので、ノミやシラミをからかって頂かなくても結構です(笑)。ノミやシラミも、割と使い道はあるんでね(笑)

とにかく本当にありがとうございました。私、ちょっと体験した事がないぐらい嬉しいです。感謝でいっぱいです。先ずは、御礼まで。


smj_ohkanda at 20:30|PermalinkTrackBack(0)このエントリーをはてなブックマークに追加 音楽 

2017年08月29日

今月のドヴォ8は、和田一樹の圧勝だ(笑)~リベラル・アンサンブル・オーケストラ第6回定期演奏会~27(日)ティアラこうとう

7fa0c0c2.jpg圧勝というより、比較以前だ。コバケン&都響のあの全拍念押しリズムは、そもそも西洋音楽と言える代物ではない。

先日のコバケンのドヴォ8を「爆演」と言った人に、私は即座に注意した。あなたは音楽を全く聴けてないという意味の事すら言ったと思う。

あそこでもコバケンの本当の素晴らしさは、実は迫力ではなく叙情にある。確かに和田一樹さんのは、「涙する」というドヴォ8ではない。

しかし、私はおよそドヴォ8というものが、ここまでの躍動感と美しいしなやかさで鳴ったのを、そもそも聴いた事がない。これに丁寧さが加われば、それこそ汐澤先生の境地だが、和田という人は、意図的戦略的にオケを焦燥感的に煽る先振りが出来る。

つまり、わざとラフに出来るのだ。今回の場合は特に第1楽章だが、彼の場合これをやり過ぎる事が今までは問題だった。しかし今度の場合、オケのレベルが恐ろしく高いので、ギリギリの所で崩壊せずにかえってスリリングな壮絶さになっている。

敢えて、一樹ラッシュ!と言わせてもらうが(笑)、全編にわたってその一樹ラッシュと、落ち着いた品格との対比が本当に見事だった。こういう躍動感は、汐澤門下でなければ出せない。

だってどこで点を打たずに歌わせるかとか、リズムの弾力や鋭さの選択に手抜かりがないもん。むしろこの方が本当の爆演だ。但し、ズレたセンスの爆演じゃない。

本当言うと、三石精一さんがこれに近いドヴォ8をやっているんだけれども、悪いけどスケールの豊かさでも遥かに和田さんだ。と言うか、リベラル・アンサンブル・オーケストラという団体に、それだけの内容と迫力があったという事かな。コンミスのソロなんかプロでもあんな美しいのを聴いた事がない。

プロと言えば、今回は神奈川フィルのコンマスであられる崎谷直人さんと、同フィル首席チェロの門脇大樹さんによる、ブラームスのドッペル協奏曲もあったが、シックな美しさの崎谷さんと、コクの深い門脇さんの、御互いが囁きあう様な対話が何とも絶妙で、渋いあの曲が全く退屈しなかった。大名演である。オケもまあ、凄い壮絶な伴奏だこと。伴奏なんてレベルじゃないな、あれは(笑)。

それにしても今回は、最初のタンホイザー序曲から、全然今までとは別人のと言ったら失礼だけど、巨匠的な風格と雄大さの和田一樹がいた。若いという事は恐ろしいよ。どんどん別物になっている。写真の左は実は、日本人には珍しい、本当の本場仕込みの訓練を受けた、当代随一の実力を持つ、藤原歌劇団の今やナンバーワンプリマ、山口安紀子さんで、私と音楽談義をする為にわざわざ出てきて下さったのだが、「さすが大神田さんが推薦する人ですね」と感心しきりだった。彼女の音楽と物事を見る目は恐ろしく鋭く、余人の及ぶところではない。そういう方にこういう演奏会に来て頂けて、私も心から幸せである。

これが本当の、炎のドヴォ8(笑)。音楽に本当の愛と敬意を持つなら、それを決して、忘れてはならない。


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2017年08月28日

人が成長するということ~ルイージ&読響の「英雄の生涯」~24(木)芸劇

0b974aca.jpgルイージは、優れているのは分かっているにしても、ちょいと昔、ウィーン響で運命を聴いた時は、生真面目過ぎて嫌になった覚えがある。今回も前プロのリヒャルト「ドン・ファン」の、音型の鋭さと明確性で押すところなど、いささか遊びが無さすぎて肩がこるところがあるのだ。これでもう少し力みが取れると、多少変わるだろうけど。

ただそういう彼の厳しい在り方は、続くハイドンの「熊」なんかでは、ジョージ・セルの高潔さを見る様で気分が良かった。第2、第3楽章が、私にとっては冗長な曲で、彼の指揮じゃなきゃ多分聴けなかっただろう。

実はドン・ファンも、メインの「英雄の生涯」も、ゆったり歌う所の音楽が彼は異常なまでにいい。物事には自然の摂理がやはりあって、コバケンさんみたいにリズムの緩い人は、だからこそ緩い歌に温かいものが滲むのも当然だと言える。ルイージみたいにビシッとすべき所がそれこそ、カミソリの様に鋭い人は、やはり物事を冷徹に一刀両断に出来る訳だから、歌わなきゃいけない所でもどっかでゆとりのない几帳面さに支配されるという事もあるのだが、まあチョンさんは鋭くて温かい人だろうけど、ルイージの今回の英雄の生涯での、壮絶なまでの鋭さと、誇張はないけど滲みる様な歌の両立は、私にとっては意外だった。

過去何度か言ってきたが、英雄の戦場で、ティンパニがビシッと入って英雄の勝利が確定する所の和声感というか音色感は、この曲の山である。尾高忠明さんはそこが最高で、力みのない頂上を作る事で、その後の和声的な緊張から解放への流れを確かなものに出来るのだが、その点ルイージは、あそこのティンパニだけはやや攻撃的にビシッと入れすぎる。但しそれまでの彼の激しい闘争性とは矛盾してないし、彼は英雄の勝利確定後の更に後において、音楽の雄大な拡がりがまだまだ用意されているから、素っ気なさとは無縁なのだ。初稿使用による絶叫を排除した終わりも、歌心が深いから大変説得力が強い(もっとも初稿でなくとも、あそこは派手な終わりにしてはいけないのである)。

とにかく、明らかに以前出したCDでの彼の英雄の生涯より、今回のものはグレートだ。歴史的名演を読響と完成させた事を、素直に慶びたい。


smj_ohkanda at 07:25|PermalinkTrackBack(0)このエントリーをはてなブックマークに追加 音楽 

2017年08月22日

大神田俊郎2ちゃんねるを立てた奴とは、その二

素人が玄人に説教が成立するかは、言われた玄人が決める。昔、玄人に命令調の口をきいてた、素人以下のお前が決める事じゃない(笑)


smj_ohkanda at 15:25|Permalinkこのエントリーをはてなブックマークに追加 告知(演奏会など) 

2017年08月20日

汐澤安彦、音友演奏会批評からの賞賛は35年ぶり?(笑)~8月号189p「夕鶴」

76a356f1.jpgいささか旧聞に属するが、今、発売の始まった9月号ではなくて、一つ前の8月号で、汐澤さんのなさったオペラ夕鶴が、キャスト、オケ、コーラス、演出に至るまで、完全絶賛されている。

「なんであんないいのに、プロ振らないんだろう」とは、大谷康子さんが汐澤さんについて言った言葉だが、勿論プロを振るか振らないかなんて、神様汐澤にとっては問題にならない。問題は、そこに音楽と言えるものがあるかどうかだ。コバケンは汐澤さんについて、「僕が惚れ込んだ人」とハッキリ言ったが、指揮者が他人を本当にそこまで認めるなんて、滅多に有り得ないんだとは、覚えておいていいだろう。

もっとも35年前、音友で新星日響定期の汐澤さんを絶賛した宇野功芳さんは、管弦のバランスにだけ注文をつけていたが、逆に言うとあの立体性が汐澤さんなんだよね。その辺は今でも汐澤さんは、信念変わらない気がする。

アバドが亡くなり、小澤さんに健康問題がある今、本当に論ずるに値する指揮者は、汐澤とコバケン以外にない。それは私にとっても気楽な事である。そんなにあちこち行かなくてもいいからな(笑)。まあ本当に大事なのは、若い指揮者に行く事なんだけどね。


smj_ohkanda at 21:28|PermalinkTrackBack(0)このエントリーをはてなブックマークに追加 音楽 

2017年08月17日

大神田俊郎2ちゃんねるを立てた奴とは、

コバケンが日本フィルとブルックナーの九番を振ったその日、久々にコバケンの楽屋に戻って来ていて、私がコバケンに「素晴らしいからもっと自信を持って振って」と言ったら、全身がガクガク震えだして出て行った男である。

その男が、私が会ってもいない広上さんやカムさんらに会った様に書き、言ってもいない事、考えてもいない事、やってもいない事、されてもいない事を2ちゃんねるに書きまくっている張本人だ。

ほっとけば勝手に頓死するだろう(笑)。だいいち、2ちゃんねるの中でさえ、もう根拠ねえぞと言われ、どうにもならなくなっている。

ご苦労様(笑)。今や私、賞賛の山なんで、私の影響力を上げる手助けにしかならない。

一つ言っといてやる。私が楽屋で逆ギレする様な奴なら、そもそもすぐに出禁である。一事が万事、こいつがただの虚言癖なのは、このように発言をちょっと読んだだけですぐ分かる。

こいつは私が生かしてるから存在していられるだけのものに過ぎない。ダニとはそういう意味である。


smj_ohkanda at 23:22|PermalinkTrackBack(0)このエントリーをはてなブックマークに追加 告知(演奏会など) 

2017年08月13日

パーヴォって、いい人だけど、やはり愚かだね(笑)~N響とのグレート交響曲~Eテレ

要は、クラシックだろうがなんだろうが大切なジャズハートという事と、本当にクラシックをジャズにしちゃう事の愚かさの区別がつかないのね。残念だが品格がないのよ。ブリュッヘンとNJPや、汐澤安彦と足立シティオーケストラが以前やったグレートの、ノリノリだけど落ち着きもあるという世界の、それこそ足下にも及ばなかった。

ああそれと、2ちゃんねるで散々嘘と曲解を書きまくった、この世のダニが、最近ここらあたりをウロチョロしてますんで、某方面の指示により、一旦コメントの書き込みを停止します。信頼する、まってぃさんや星野さんらには、しばらく御迷惑をおかけしますが、ダニ退治の為、御許し下さい。

もっとも、私に連絡をとりたければ、そして反論があれば、どなたでもフェイスブックという方法があります。そちらでよろしければどうぞ。まあ、ダニは一生名乗れないだろうけど(笑)

smj_ohkanda at 23:12|Permalinkこのエントリーをはてなブックマークに追加 音楽 

とうとう見た(笑)。クラシック音楽の頂点、メータIPOのマーラー交響曲第9番~クラシカ・ジャパン

6ce2ed76.jpg西洋音楽の演奏史は特に日本において、90年代半ばから末にかけて一つの頂点を迎える。

例えばN響のここ20年来の展覧会の絵や幻想交響曲は、私は実演と放送で殆どチェックしているが、何人も展覧会における96年のゲルギエフ、幻想における95年オーチャードの若杉を凌駕したものはない。

マーラーの復活も、私は先日のチョンや、コバケンのあれこれも含め、東京での代表的演奏は殆ど見て歩いたつもりだが、96年のアバドBPO・スウェーデン放送合唱団を越えるものは、もう生まれまい。

サン=サーンスのオルガンシンフォニーに至っても、総合的な完全さで、98年の汐澤安彦と東京音大シンフォニーオーケストラを越える演奏は、勿論出ていない。

その90年代後半、東京で信じられない名演がやはり生まれていた。あの吉田秀和さんも、バーンスタインNYP、ベルティーニ・ケルンRSOと共に、人生のベストスリーに挙げられた、メータIPOのマーラー9番である。何故か私の割には、メモを失って今、日付を思い出せないのだが(笑)。

写真にある、一応歴史的名演という事になっている小澤やコバケン(勿論、小澤の方が演奏は上である。コバケンは温かいけどね)と、横綱メータは何が違うのか。

要は、一生懸命じゃないの(笑)。わざと誤解を与える様な言い方をしたが、要は思いを込める演奏ではなくて、思いと力を抜いて、人を柔らかく包み、天に昇華させる為の演奏なの。

ちょうど、ワルターとコロンビア響の第九の第3楽章を連想してもらえばいいかな。ワルターという人は勿論、田園なんかでも30年代の方が本質は衝いているが、このコロンビアとの第九には、この時代の録音を愛する人によくある、単なる干からびたオモチャの骨董品への、知性の終わりを示す偏執的な郷愁を越えた、確かな人間愛がある。

そのメータは、何故かマーラー9番の録音を全然出さなかった。ところが今月の頭に、クラシカでやるのを漸く見つけたのね。私はこの為だけにクラシカと久々に再契約をして拝見した。あれから18年後位の演奏だけど基本は変わってない。

佐村河内問題で終わったどっかのバカ教授は、この曲のフィナーレについて、「群小指揮者がやりたがる演歌殺法」の様な事を書いた割には、彼が感動したというバーンスタインIPOのそれも、あとで別の会場のが発売されたんで聴いてみたら、ド演歌なんで笑っちゃった事があるが、恐らく西洋音楽の演奏の在り方の最高到達点が、このメータの中にあるんだろうね。

ちなみにベルティーニ都響も、名演だったけどド演歌だった。本物を聴けた私は幸せである。


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ほぼ理想的な市民オペラの在り方~荒川区民オペラ「蝶々夫人」初日、大成功~12(土)サンパール荒川

96db3da1.jpgお陰様で前回の練馬区民第九に関するレポートは、専門家から大変高いご評価を頂いたが、今回の荒川区民オペラは、書くのが大変楽である(笑)。

ただ今回の蝶々でも主役を務められた吉田恭子さんの、昨年の荒川区民オペラ「アイーダ」は、私は行ったけど書かなかった。吉田さんは上は美しいが、前回のアイーダでは中声部に密度を欠いていたからだ。今回の蝶々も途中まで割とそうだったんだけど、アイーダとは要求されてるものが違うという事、それから決して張り上げない、すなわち彼女のお師匠様らしいレナータ・スコットをも思わせる様な、愛情深い優しさを表すお声が、蝶々では割と生きるという事、更にはケートとの対面後は、割と中声部も迫力をもって鳴った事で、今回は充分に成功と納得出来た。

写真真ん中の、今回ピンカートンを演じたテノール川久保博史さんは、まだ書いてなかったけど、先月の江東オペラの椿姫ハイライトでのアルフレードに続いて、彫りの深い表情で今回の役を仕上げて来られた。日本人ではなかなかオケを飛び越えて聴こえない役だが、迫力の面からも大成功である。何より彼は、役の抱える悲しみが聴衆に深く伝わる。素晴らしい。

最近は、大手団体の主催興行に、配役が納得出来ないものもあって、そんなものを見て歩くだけで日本のオペラ界を語ろうとする批評家にも落胆するが、今回の荒川区民オペラはスズキの河野めぐみさんの声、所作も含めた芝居、シャープレスの秋本健さんの存在感、ボンゾの志村文彦さんの迫力等々、理想的な配役で、こういう市民オペラの質の高さにこそ、現在の我が国の本当の状況が現れているものと言えよう。

指揮の小崎雅弘さんは、振り始めのあの冒頭の鋭い音型だけ、若杉さんとかよりは出方が甘いが、なよなよと情に溺れないけど必要な美しさが充分にあるという、謂わばこのオペラに品格をもたらす様な指揮に、若杉さんと通ずるものがあった。荒川区民交響楽団と区民オペラ合唱団は、美しさも迫力もかなりのものであり、特に蝶々自決後の最後のオケの音型は、よくあるブライトに拡げる在り方ではなく、これは昔、沼尻さんが名古屋で演奏会形式でやった時もそうだったけど、鋭く畳み込む形で作品を終えている。この迫力、かなり壮絶だった。

その最後で、蝶々は力を振り絞って、ピンカートンからの声の来る方向に手を伸ばすのだが、あれは彼を求めたのだろうか、彼にここに来るなという思いだったのだろうか。まああまり、拒否の様には見えなかったが。

演出は、自決前に子供が出てくる所など、「ママー」とは言わせないで、お涙頂戴を拒否していた事は納得出来たし、ピンカートンと蝶々の愛の二重唱では、よくある訳詞、つまり「可愛がってね」ではなく、「少しの幸せを下さい」という意味の言葉になっているのが印象的だった。そのささやかな幸せが裏切られる事が、人間には一番辛いという事か。

それから今回はプログラムの解説の詳しさ素晴らしさも特筆ものであり、行かなかった人は損したよ(笑)。とにかく久々に納得の蝶々夫人だ。感謝です


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2017年08月06日

曽我大介さんの挑戦に、勝利は有るのか~練馬区独立70周年記念 真夏の第九を聴いて~5(土)練馬文化

多分私が人生で経験した、一番力感と迫力のある第九だ。但しそれは、合唱の1000人を越えるという、人数の多さの為ではない。

事前に色々噂は聴いてはいた。曽我さんの第九に対する書物も読んだ。ただ、当然実際に聴かなきゃ分からない所は勿論あった。

あっさり言えば、第九に対する永年の水平的誇張を排除し、垂直的な力感の高潔さにより物事を真一文字の気迫で表現するという、その一言に尽きる。但し、記載されてないパーカッションの強調とかは勿論入れないし、そうは言っても“神の前に立つ”の伸ばしは、かなり雄大にとる。

賛成しないのは、曲の冒頭の5度下降等の積み重ねが、段々と集積して、稲妻の様にダダーッと決まるお馴染みのシーンで、棒を跳ね上げている事。あれでは、本当に腹にこたえる重心は生まれない。

何よりも最大の問題は、そもそも彼の第九に関する本でも重要な事として触れられてはいなかったんで予想はしていたのだが、第3楽章のああいうテンポは、およそ人間が感動しうる音楽として有り得るのかという事なんだけど、実はテンポの問題でもないのね。

実は最近の速いあの楽章の在り方でもメータN響のは充分感動出来た。今回の曽我さんのでは無理である。それは今回の練馬区の臨時編成のオケが、N響より遥かに劣るからとかそういう問題ではない。

要は曽我さんの指揮があの楽章において、立体的な起伏に富んだものであり過ぎるのである。その結果として全てが舞曲的躍動的にだけ表現され過ぎ、水平的叙情というものが殆ど壊滅してしまっているというのが、問題の核心だ。

つまり曽我さんは、コバケンがドヴォ8の第3楽章でやる、舞曲的色彩を殆ど消して叙情だけに溺れるという問題の、ちょうど反対をやっているのだ。

救いは、最終楽章で低弦から発生した歓喜の主題が、いよいよ第1バイオリンに受け継がれる時の、彼の、両腕をチューリップの様に高く拡げた棒である。あの動きには、歓びというものが十二分に表現されていた。

更に素晴らしいのは、曽我さんという人間の、尋常ならざる気迫である。あれだけ動きに力感のある人を、私は初めて見た。勿論その凄すぎるパワーは今回の曲の場合、声楽というものの本来の良さである、音の立ち上がりの柔らかさ遅さというもの、更には音楽の持つ祈りという側面を犠牲にし、殆ど全てを労働組合的闘争劇の様な色彩で覆い過ぎているという結果にも繋がるのだが、曽我さんの持つ嘘偽りない気迫と、参加者全員の気持ちが、この、客席をもかなり合唱で埋め尽くすという、尋常ならざる第九を、単なるイベント第九にしない成功へと導いたとは言えるだろう。

但し、よく因習を排した原典回帰の第九という言い方がムーブメントとしてあるが、因習の蓄積というのは単なる誇張という問題だけではなく、つまり文化の在り方の変容とは、人間の社会生物論的な進化の過程として起こっている問題もありうるので、文化とは単に音楽だけ純粋に学べば見えて来るという事を越える問題があるのだという事だけは申し上げておく。

曽我さんの第九が、というよりこういう第九の在り方が、一時の流行を越えて人類に定着するかは、それこそみんなの生物としての「選択」が決める事になる訳だ(笑)。


smj_ohkanda at 14:36|PermalinkComments(4)このエントリーをはてなブックマークに追加 音楽