自分は戦国武将の黒田官兵衛を心から尊敬している。
元々は、小学校の時に、海音寺潮五郎の「史談と史論」で、黒田官兵衛の文章を読んだ。
無駄を省き、日々蓄財に励んだが、関ヶ原の戦いの際には、浪人を召し抱えるために、大盤振る舞いをした。
中には、一人で二回も行列に並んで、二人分の扶持金をせしめようとした者もいた。
だが、当時の黒田如水は、「それで精一杯黒田家のために働いてくれるのなら安いものだ。」と、咎めなかった。

さらに、角川文庫で「日本史探訪」を読んだ際の司馬遼太郎のコメントだった。
「日本史探訪」は、元来がNHKの歴史番組で、それを書籍化したものである。
ちなみに、自分はリアルタイムでは、「日本史探訪」の後継番組である「歴史への招待」を食い入るように見た。
自分の歴史オタクは、「三つ子の魂」なのであるwww
司馬遼太郎は、「人間としての器としては、三英傑(織田信長・豊臣秀吉・徳川家康)よりも黒田官兵衛は大きかったと思います。」とコメントしていたのである。(海音寺潮五郎も同じように書いている)
最晩年には、隠居した小さな庵に、身分を問わずに童(わらべ)たちを招き入れて遊ばせていたという。
喧嘩をしたり、粗相をしたりしても、一切、怒らなかったと云う。
いくら隠居したとはいえ、福岡藩五十余万石の「大殿」である。
その度量の大きさ、達観の境地は桁外れである。

黒田官兵衛の逸話を読むと、「賢人」とはかくあるべきなのか、と感心するばかりである。

以前も書きとめて置いたが、改めて、記載する。

「家臣に対しては、諄々に教え諭す様にして極力叱る事の無い様にしていたが、どうしてもという時は猛烈に叱りつけた。
但し、叱った後に簡単な仕事を言いつけたりして後腐れの無い様に心がける事も忘れなかったという。
(ウィキペディアより)」

これである!
人を動かし、人に慕われるということは、こういうことなのだと、自分は感嘆する。

なお、その黒田官兵衛を評した凄い言葉が有る。
「貴殿はあまりに頭が良く、物事を即断即決してしまうことから、後悔することも多いだろう。
私は貴殿ほどの切れ者ではないから、十分に時間をかけたうえで判断するので、後悔することが少ない。」
かの黒田官兵衛に、こんな鋭い指摘が出来る知恵者は誰だろうかと思えば、かの三原中納言小早川隆景だった。
小早川隆景は、かの毛利元就の三男である。

自分は、単なる粗忽者であるので、いつもいつも「うっかり」だらけである。
きつく戒めたいと思う。

真田安房守昌幸公を悼む


平成28年9月25日NHK大河ドラマ「真田丸」に於いて、「事実上の主人公」とも云える「真田昌幸」が紀州九度山で亡くなったシーンが放映された。

俳優・草刈正雄の好演が、毎週楽しみであったので、真田昌幸の最期は大変残念であった。

とは云うものの、九度山での「日常」を延々と放映されたら、それはそれで困っただろうがwww

草刈正雄の真田昌幸は、今年1月の第一回目の放映から素晴らしかった。

自分の世代だと、1985年(昭和60年)43 - 1986年(昭和61年)319日放映のドラマ「真田太平記」が思い出深い。

このドラマは大河ドラマではなく、確か毎週水曜日の夜8時からNHK総合チャンネル(首都圏だとチャンネル1)で放映され、役所広司主演の「宮本武蔵」や中村吉右衛門主演の「武蔵坊弁慶」などが、この枠で放映されていた。

「真田太平記」の真田昌幸は、丹波哲郎が演じた。信幸(信之)を渡哲也の弟の渡瀬恒彦、徳川家康を劇団・前進座の重鎮、中村梅之助、秀忠を若き日の中村梅雀、豊臣秀吉を長門裕之、そして真田幸村を何と!草刈正雄が演じていた。

だから、どうしても丹波哲郎と「比較」してしまうのであった。

丹波哲郎の真田昌幸は、術数策謀を口から滔々と途切れること無く話していく感じ。

丹波哲郎の人を食ったような、豪放磊落にして緻密な演技が魅力だった。

一方の草刈正雄の真田昌幸は、一つ一つ、策を説いていく。

野性味溢れていてしかも得体の知れない不可解さと、それに不釣合いな茶目っ気が魅力だった。

丹波哲郎も草刈正雄も名優である。

だが、いくら天下の名優と云えども、やはり「役柄」が魅力的でなければ、見る人の心をとらえることは出来ない。

何と云っても、「真田昌幸」という武将そのものが魅力的でなければ、ここまで人気は出ないのである。

自分は、いわゆる「智将」が好きである。

本多平八郎忠勝のような「猛将」も好きではあるが、忠勝が毛嫌いした本多佐渡守正信も好きである。

自分が一番尊敬してやまない戦国武将は黒田官兵衛如水なのだが、実は真田安房守昌幸も大好きなのであるwww

さらにもっと云えば、真田幸村(信繁)よりも昌幸の方が好きなのである。

今回、改めて真田昌幸の生涯を見させてもらって、とても気の毒な感じを持った。

かつて武田信玄をして「自らの両目のごとく」と称賛された真田昌幸だった。

だが、彼は「表裏比興の者」と評され、「智将」というよりも「謀将」という形容がなされている。

つまり、油断も隙も無い、とんだ食わせ者、というイメージで、ゲームでも野望値は高く、忠誠値が低くて、裏切る確率が高く成っているwww

しかしながら、真田昌幸は本当に「野心家」だったのだろうか?

いわゆる「戦国時代の三悪人」として名高い「斉藤道三・松永久秀・宇喜多直家」のような感じとは、自分は違うように思う。

真田昌幸の生涯は、実に、サバイバルの連続であった。

つまり、大名(一万石以上)ではない、「国衆」レベルの「小勢力」でありながら、戦国大名の上杉・北条(後北条)・徳川の三家を相手に丁々発止の駆け引きを繰り広げて、何とか「生き延びて」来たのである。

だから、そういう意味では、真田昌幸が本当に「忠誠心」を捧げるだけの「主君」は、亡き武田信玄と勝頼だけだったのだろう。

現に、真田昌幸は武田家家臣の時には謀叛をしていない。

だから、真田昌幸も「主君」に恵まれていれば、彼の才覚を存分に発揮することが出来たのだと自分は思う。

かの「日本最強の軍師」と云われる黒田官兵衛とて、織田信長に見出されて羽柴秀吉と出会うことが出来なければ、その生涯は大大名からの攻勢を撃退することで精一杯だっただろう。

現に、小寺家の家臣であった際には、浦上家や赤松家といった隣接する勢力とのしのぎ合いで汲々としていたのだ。

やはり、黒田官兵衛が、「天下の軍師」たりえたのは、羽柴秀吉、後の豊臣秀吉の下に付けたからである。

だから、仮に武田家が織田信長を滅ぼして、天下統一に乗り出せるようになっていたならば、「天下の軍師」は、黒田官兵衛ではなく真田昌幸と云われていたかもしれない。

そうなると、福岡の街は博多のままであったかもしれぬ。

そんなさまざまな妄想が頭をよぎる。

世間では「昌幸ロス」の人が多発しているとのこと。

自分も心より真田昌幸の死を悼みたい。

https://www.youtube.com/watch?v=rEbs80Awd8Q

自分も最早若くは、ない。

どうしても年齢が上がるにつれて、口やかましく成って来る。

大変、宜しくない。

だから、なるべく呑みこんで、肚の内に収めておくようにしてはいるのであるが・・・

 

さて、昨日は、昼過ぎから腰が痛みだしたので、正直、仕事が辛かった。

だから、倉庫でのトラックへの積み込みの際に、つい、口が滑ってしまった。

腰の痛みのせいで、ついつい、怒りの抑制が利かなく成ってしまったのである。

 

さて、倉庫でのトラックへの積み込みであるが、それは、別の人間が平台車に積載してくれるのである。

だが、自分は一目見て、イラっと来た。

平台車に積めるだけ箱を積んでいたのである。

しかも、平台車の数が制限される訳でも無い。

そして、3台使用した平台車のうち、3台目は積んだ箱がほんの少しだったのである。

つまり、3台の平台車へ平均して積載すれば、もっと低く積めることが出来たのである。

何故、こんなことに成ったのか。

単純に、横着だからである。

とにかく、一台あたりに積めるだけ箱を積んでしまおうというのである。

確かに、その方が平台車への積み込みの時間の短縮に成るかもしれない。

だが、平台車へ積めるだけ積載したら、最上部の箱を運ぶ際に、結構、背が高くないと苦労するのだ。

両手を挙げて、箱を取り出す形に成りかねない。

これはバランスも良くないし、肩などへも負担が大きい。

つまり、一言で云うと、これは「他人にやさしく無い」のである。

 

「仕事」というのは、ほとんどの場合、「自己完結」することは有り得ない。

自分の担当した「仕事」は、あくまで「過程」でしかない。

前の段階の担当者から引き継いで、そして、自分の次の行程の担当者へ引き継いでいかなくてはいけない。

その時、「自分だけ良ければ」というやり方であると、それは、迷惑至極である。

依頼された「仕事」ならば、それを次に引き継ぎしやすいように配慮するのが、最善の「仕事」のやり方であろう。

トラックへ荷物を積み込む前段階の作業であるならば、次の行程であるトラックへ荷物を積み込む際にどのようにしたら「やりやすい」のかを、考慮した上で「仕事」をしなくてはいけない。

こういう横着な「仕事」をして、何も感じないのは、「仕事」を「部分」でしか認識出来ないからである。

自分の担当している「仕事」が、全体の中で、どのような「位置」に有るのか。

そこのところを大まかであったにしろ、認識していなければ、いくら精一杯「仕事」をしても、それは迷惑でしかなくなることが有るのだ。

「部分」としてしか「仕事」を認識出来なくなるには、様々な要因が有る。

一番の理由は、過労である。

次に、「由()らしむべし知()らしむべからず」で、「情報」をほとんど与えられていない場合である。

後は、急かされ続けて間に合わない場合である。

結局、組織の上層部が宜しくないのである。

まあ、個人的な資質の問題も有るから、必ずしも短絡的に決め付けることは軽率ではあるのだが。

 

自分は、「仕事が丁寧だ」と云われた。

自分は不器用だから、とてもこの指摘を信じられない。

ただ、不器用で愚昧で惰弱だから、事前に周到に用意をしておかないと絶対に駄目なのである。

さらに、焦って横着すると、必ず失敗するのである。

だから、他の人がスマホで遊んでいられる時間も、自分は次の「仕事」の「仕込み」に明け暮れないといけないのである。

結局、仕事が終わると疲労困憊して、燃え尽きてしまうのである。

 

自分の「仕事」のやりかたが最上、最善とは思わない。

だが、それでも、「それは違うだろう」と他人のアラは見えてしまう。

困ったもんである。

 

亡父は、本当に愚痴・不足を云わない人だった。

だから、生前は、亡父は何も気が付いていないのだろうと思っていた。

だが、今に成ってやっと解った。

亡父は、全部、眼に留め、気が付いていたのだ。

しかも、全てを見抜き、見切っていたのである。

そして、みんな肚のうちに収めて、おくびにも出さなかったのだ。

これは或る面凄いことである。

とてもではないが、自分には無理だ。

「劣性遺伝」という語句が脳裏によぎるばかり。

まさに「不肖の愚息」である。

昨日、仕事中から、徐々に腰が痛み始めた。

ぎっくり腰ではない。

ぎっくり腰ならば、痛く成ったら何も出来なくなる。

だが、自分は、痛みをこらえながらも、昨日の全ての業務を行った。

ただ、帰路は歩く際も痛みを感じていた。

多分、腰と背中の筋肉の筋肉痛であろう。

先週は、ほとんど毎日が雨天であり、プラスチック製の「折りコン」を使用した。

折り畳み式のプラスチック製の箱である。

製品の入っている段ボール箱だと、雨に濡れるとてきめんにこわれる。

底が抜けたり、横から裂けたり、する。

そうすると、最悪の場合、雨が降る中で路上に商品をぶちまける惨事と成る。

雨に打たれながら、路上を這いつくばりながら散乱する商品を拾い集めるのは、辛い。

しかも、すぐ横をトラックなどがブンブン走り抜けて行くのである。

だから、雨天だと段ボール箱は使いにくい。

ということで折りコンの出番なのだが、折りコンは段ボール箱に比べて横幅が広い。

だから、背中の筋肉を酷使することに成るのだ。

折りコンに重たいものを入れて持ち運ぶには、相当、背中の筋力がないと不可能である。

自分は、平均以上の背中の筋力は有るので、可能なのだが、ここ2か月、暑さのせいで筋トレが全く出来なかった。

仕事を精一杯行うと、疲労困憊して、とてもではないが筋トレが出来なかったのである。

だから、背中や腰の筋肉がなまっていたのである。

そこへ、背中や腰の筋肉を酷使したので、筋肉が腫れてしまったのだ。

だから、休養と栄養を取っていれば、治癒する感じである。

本日は、大事を取って休養したい。

明日からは、また働きたいと思う。

そうでないと、干上がってしまう。

どんな突風も、未来永劫、吹き続けることは無い。

己に吹き付ける凄まじい向かい風も、何時しか風向きが変わる。

潮の流れもいつまでも同じではない。

いずれ、必ず、潮目が変わる。

だから、決して自棄(やけ)を起こさないことである。

強風が吹き付ける時に、いくら抗ったところで、上手くはいかない。

潮の流れが逆向きならば、どんなにジタバタしたところで流されてしまう。

ならば、自分の目指す方向に進むことばかりに固執せずに、まずは、今の立ち位置を維持することに専念すべきだろう。

前に進めなくとも、少なくとも後ろに下がらないように持ち堪(こた)える。

順逆が有るのは、世の習いであり、その「存在」について感情を激したところで、ただ消耗するだけである。

逆境を耐え、いずれ来たる順境の好機に望みをつなぐ。

そして、いざ、風向きが変わり、潮目が変わった時、すぐさま攻勢に討って出られるように心身の準備を怠らないことである。

何事も「意識」が肝要である。

「意識」の持ち方で、身の処し方、立ち居振る舞い、全てが決定付けられる。

小池百合子が東京都知事選挙に転出したせいで、衆議院議員の東京第10区に欠員が生じ、補欠選挙が行われることと成った。(敬称省略)
その補選に於いて、自民党選対は候補者の「公募」を設定したが、結果として、現職衆議院議員の若狭勝に決まった。
若狭勝は、2014年の総選挙で、東京ブロックからの比例区単独候補として当選している現職の衆議院議員である。
だが、「比例単独」ということで、「地盤」を持たない。
参議院の比例代表候補ならば、全国規模の支援組織が有るか、全国的な知名度と大衆的な支持が得られそうであるならば再選が可能であるが、衆議院の地区ブロックの単独比例ともなると、再選がなかなか難しい。
やはり、選挙でもって確実に再選を果たすにあたっては、「地盤」を持たないと困難である。
若狭勝は、2013年の前回の参院選で、比例代表から出馬し、立正佼成会が支援したものの、次点に終わって落選した。
だから、2014年の総選挙での東京ブロック単独比例候補に擁立されたのは、この2013年の参院選のことを踏まえた上での「フォロー」の色合いが濃厚だったように思う。
若狭勝は、元来は検察官(検事)であったが、退官して弁護士に成った後は、TV番組でのコメンテーターを務め、「茶の間」にそれなりの知名度が有った。
さらに、巨大宗教団体・立正佼成会が支援することに成った。
立正佼成会は、元来は霊友会の支部であったのだが、妙智会、妙道会、仏所護念会と同様に、独立した宗教団体である。
そのため、これらの宗教団体は、霊友会の開祖である久保角太郎が、西田無学の指導をヒントに「確立」した「総戒名・青経巻・お題目のたすき」という3点の特色を踏襲している。
総戒名とは、父方・母方両家の先祖を供養するためのものである。
青経巻とは、法華経の訓読書き下し表記のもので、白文・漢字表記のみの音読と比較すると理解し易い。
かつて、二宮金次郎こと二宮尊徳が、経巻の訓読を手にした時、「これはとても解り易くて良い!」と絶賛したという。
だが、この西暦で21世紀の今日でなお、「読経」というと音読の漢字表記のみのものが一般的である。
さて、立正佼成会は、創価学会ほどではないが、急激に信者数を激増させ、一時期約600万人もの信者数を誇ったという。
そのため、創価学会との対立に苦悩していた創価学会以外の新興宗教団体は、立正佼成会を旗頭として「新宗連」を発足して団結した。
選挙に於いても、創価学会が文化部から公明政治連盟、公明党を結党させて参入すると、新宗連の宗教団体は、自民党や民社党の政治家を支援した。
生長の家や仏所護念会、崇教真光、世界救世教は、どちらかというと右派・保守的な政治家や政党を支援した。
一方、立正佼成会は、自民党でもハト派のリベラル的な政治家を支援した。
かつては、白川勝彦などを支援した。
自民党と公明党が連立すると、立正佼成会は自民党を飛び出した白川勝彦を支援した。
だが、白川勝彦は、新党の「新党・自由と希望」を結党して、グリコ・森永事件の容疑者と見なされた「キツネ目の男」こと宮崎学と共に2001年の参院選に出馬したが、落選した。
その後、紆余曲折が有り、立正佼成会は現在、民主党→民進党を支援している。
大島九州男・風間直樹・川口順子(引退)や白眞勲・藤末健三を支援して当選させている。
若狭勝は、川口順子の後継として、自民党の候補として2013年の参院選に擁立された。
その時、立正佼成会は、同じ比例代表で民主党から大島を擁立し、風間を新潟選挙区にくら替えさせて当選させた。
立正佼成会としては、自民党との対決を実は弱めたい思いだったのだろう。
民主と自民の双方に支援候補を設定したのである。
だが、大島は2013年の参院選で、労組組織内候補以外では民主党の唯一の比例区当選者となったが、若狭は、元・大阪府知事の太田房江に競り負けて、結局落選した。
多分、自民党選対としては、立正佼成会に対して配慮し、若狭勝を2014年の総選挙で「フォロー」したのだと自分は愚考する。
さて、今回の一連の東京都知事選挙に関連した動きの中で、どうして、彼がほぼ唯一の小池百合子支持の国会議員として戦ったのか、よく解らないところが有る。
彼は、いわゆる石破茂派(水月会)であり、町村派(安倍総理の派閥)から無派閥に転じた小池百合子との接点はよく解らない。
だが、小池百合子と親しかった筈の他の国会議員が、誰一人都知事選で駆け付けなかったのに、若狭勝は駆け付けた。
自分は、それは、若狭勝に巨大宗教団体である、立正佼成会が支援していることが大きく作用しているように愚考する。
やはり、選挙を勝ち抜いていくには、「組織力」が重要である。
その「組織力」を、一般的には選挙区の「地盤」に密着させたかたちで構築していくものであるのだが、その「地盤」を保有していなくとも、支援してくれる巨大な組織を有するということは、思い切った行動を取る際には決定的に心強いものであろう。
ちなみに立正佼成会は2017年の文化庁の宗教年鑑による信者数は282万6297人である。
往時の約600万人という信者数から比較すると「激減」ではあるが、霊友会134万、仏所護念会116万、世界救世教83万などと比較すると、相対的にはまだまだ巨大宗教団体である。

ちなみに、現在、豊洲新市場予定地に関する醜聞で、責任が追及されている元・東京都知事の石原慎太郎であるが、彼も実は、その足元を巨大宗教団体が支えていた。
彼を支えていたのは霊友会で、初代会長の小谷喜美が、石原慎太郎を大変可愛がったということらしい。
石原慎太郎の著書で「巷の神々」(1967年サンケイ出版)では、霊友会に関して詳述している。
また翌年1968年の参院選全国区出馬にあたっては、産経新聞社主の水野成夫の紹介で霊友会から支援を受け、その後、入信されたという。
後年、1998年に「法華経を生きる」(幻冬舎)を書く。
つまり、かの「天才児」にして「時代の寵児」、「希代のカリスマ」である石原慎太郎でさえ、巨大宗教団体の組織力の下支えが有ったのである。
石原慎太郎の政治力の源泉として、やはり霊友会の存在は無視してはいけないと自分は愚考する。

或る御仁は、「今の日本で、宗教団体で票に成るのは創価学会だけ。」と言ってのけたと云う。
確かに、そうかもしれない。
独立した政党を「傘下」に置き、2956名(うち都道府県議207)もの地方議員と衆院35名参院25名の議員を有する一宗教団体は創価学会のみである。
だが、一方で、ここ最近騒がれている「日本会議」は、その下支えの相当な割合が、いわゆる愛国・保守の新宗教団体に依存している。
また、これらの愛国・保守の新宗教団体は、自民党の中枢に影響力が有るとも云われており、やはり、政治的な影響力を過小評価しては絶対に駄目だと自分は愚考するのである。

なお、「政教分離」を声高に叫び、「政治の裏でカルト教団が支配している!」と金切声をあげている御仁がいる。
だが、宗教団体の信者で、政治に関わる人々を実際に見てみると、彼等は損得抜きで、ただひたすら、ひたむきに、「正義」を信じて活動をしているのである。
それは、創価学会も幸福の科学も統一協会(現・世界平和家庭連合)も実は同じである。
問題は、その宗教団体の「体質」と、その宗教団体に関わる政治家の「意識」であろう。

なお、以上の事柄は、全てインターネットでの諸情報(ウィキペディアなど)のみを元に愚考したものである。
だから、「何を今更、改めてお前に云われなくとも、既に承知しているわい!」とお叱りが飛ぶことであろうが、まあ、あくまで「私見」として述べさせていただく。何卒ご容赦のほど。

「仕事のやりかた」というのは、「十人十色」であろう。

個々人の特性や資質に合ったやり方が、一番「その人に適した」やりかたなのだと思う。

だから、「一般論」としての「仕事のやりかた」という「書き方」を、敢えて行わない。

勿論、普遍的な、万人に共通な「仕事のやりかた」というのは存在すると思う。

それはロジック(論理)であり、モラル(道義)(倫理)と云うことに成るのであろうが、得てして「仕事のやりかた」と云う語句に食指が動く御仁は、大上段から振りかぶったような、「大きなテーゼ」は、実は興味が無いのだ。

むしろ、具体的で細密な、箇条書きで示してもらうような表現を望んでいる。

と、いうことで、以下、些末なことをこまごまと書かせてもらう。

 

これから極私的な、つまり、我流の「仕事のやりかた」を述べさせてもらう。

これが、何も、「優れている」とか「正しい」とか、そんなことは云わない。

と云うより、自分の「仕事のやりかた」が良いのか悪いのか。

正しいのか間違っているのか。

実は、判然としないのである。

ただ、自分は、この「やりかた」で、ミスが減らせたし、楽に仕事が出来るように成った自覚が有る。

だから、今後も、この「やりかた」を踏襲していくことだろう。

 

自分の「仕事のやりかた」とは、業務の「パターン」を設定して、後はそれを繰り返していくか、応用させていくか、である。

つまり、業務行程に沿ったかたちで、「型」を作ってしまうのである。

典型的な実例は、カスタマーコールサービスの電話応対や客先でのプレゼンテーションである。

もう、出だしの挨拶文から、駄洒落に到るまで、おおまかに「脚本」「シナリオ」を設定してしまうのである。

あとは、そのシナリオ通りに、繰り返し繰り返し行っていけばいいのである。

だが、自分で設定した「シナリオ」をなぞるようにしか実施出来ないのは、まだ、「シナリオ」が血肉に成っていない、馴染んでいないからである。

だから、次第に「シナリオ」が馴染んできたならば、相手の出方次第で、「セリフ」の順番や語句の入れ替えなど、その場その場で即応出来るように成っていくのである。

この業務の「パターン」化とは、実は、業務を無理やりに「単純化」しているのである。

本当は、業務というものは、もっと複雑にして怪奇である。

だが、その複雑怪奇な「そのまま」を直接、対処しようとすると、自分のような愚昧で粗忽で不器用な人間は、頭の中が真っ白に成ってしまい、恐慌状態に陥ってしまうのである。

そこで、一つ一つ、業務事項を抽出して洗い出す。

それを作業手順によって一つの行程表と云う「流れ」に構成していく。

業務の「パターン」「型」が出来るので、後は、それを繰り返しなぞって行けば良い。

同じことを繰り返し行い、さらに、その「パターン」通りに沿っていけば到達点も事前に想定出来るので、不安感にかられることも無い。

勿論、この世の中は、「まさか」という「想定外」のことばかりが多発する。

だから、その「パターン」が、どのような突発の状況でも破綻しないように、少し、「遊び」を設定しておく。

事前に設定した「パターン」から離脱することを「許さない」のではなく、「パターン」から離脱しても、いずれは復帰出来るように設定しておくのである。

これは、「形式主義」では駄目であって、この業務の「目的」を正確に把握し、意識することが肝要である。

そもそも、この業務は、何を目的とし、何を目標としているか?

つまり、多少、順番が入れ違ったり、作業終了時間が遅滞したとしても、そもそもの業務の「目的」「目標」が明確に意識出来ているのであれば、「軌道修正」は不可能ではないのである。

「型」に沿って行くのであるが、「型」そのものには捉われない、束縛されないということである。

 

あくまで、これは自分なりの「仕事のやりかた」に過ぎない。

このやり方だと、或る面、「固定観念」に捉われる危険性が有る。

だが、変幻自在で、その場その場の当意即妙、臨機応変の対処は、自分は無理なので、どうしても「パターン」をつくり、システム化し、状況に応じて応用させていく、そういうやりかたしか自分には出来得ない。

だから、このやり方が最良で最善であるなどとは、とても云えない。

あくまで、「自分の」仕事のやり方に過ぎない。

だから、もっと、他に素晴らしいやり方が有るのかもしれない。

ただ、そこまでは自分の能力の限界を超えているので、どうかご勘弁願いたい。

 

以上、「反面教師」ぐらいの役割しか果たし得ないとは思うが、あくまで一つの参考資料として、備忘録として記述させてもらった。

どうも、ここ数日、仕事でミスをする。

と云っても、一日に一回くらいなのだが。

理由は、睡眠不足などの過労から来ている。

まあ、体調不良なのである。

頭も全然冴えないし。

派遣先の社員さんは、「本調子じゃないから仕方ないですよ」と大目に見て下さる。

だが、このご厚意に甘えてはいけない。

体調の好調、不調が存在することは自明の理である。

だからと云って、体調が良い時は仕事が順調で、体調が悪い時は仕事が駄目に成る。

これでは駄目なのである。

それは、「体調が良い時」を前提に、仕事の「組み立て方」を設定しているから、そんな甘いことが云えるのである。

「体調が悪く」「注意力が低下している状況」を前提にして、それでもなおかつ、仕事でミスが生じないような「システム」を作らなくてはいけないのである。

人間はミスをする。

自然環境は、常に変化していく。

だから、どんな人間でも、誰でも、そして、体調が好調であろうと不調であろうと、常に正確で迅速で安全な業務システムを構築し、設定しなくては駄目なのである。

今の仕事は「単純作業」ではあるのだが、それでも、いろいろと注意し、工夫する点が見つけられた。

だから、約一年半前にこの仕事を始めた頃と比較すれば、格段に作業速度も上がり、ミスも激減出来た。

しかしながら、まだ、一日に一回ぐらいはミスをする。

自分の粗忽さを呪わざるを得ない。

まだまだ、業務行程に於いて、改善する点が多々有るようである。

悪い結果が出ている以上、何処かに改善の余地が絶対に有るのである。

だいぶ問題点を潰して来たのであるが、あともう少しである。

あと、何処を改善していけばいいのだろうか?

自分の愚かさが情けない。

時々、「縁」というものを痛感する。

自宅近くの古本屋にたまたま行ってみたら、物凄い珍品を見つけた。

往年の政治家、玉置和郎の伝記である。

しかも、かの東急グループの五島昇が代表を務めて、玉置和郎の伝記編纂が為された。

そういう面では、ヨイショしか書かれていない本であるwww

だが、現在、玉置和郎を知ろうとしても、なかなか資料が無い。

ちなみに玉置和郎の秘書だったのが村上正邦や大江康弘。

その村上正邦でさえも、今では「過去の人」である。

村上正邦は、戦後の日本政治史に於いて、無視してはいけない政治家だと自分は考えている。

だから、その“師匠”であった玉置和郎は、なおさら重要である。

善悪云々ではない。

押さえておかなくてはいけない、ということである。

ちなみに、こんな本は自分ぐらいしか買わないから、「特売品」だった。

安い買い物をした。

今日は「敬老の日」で祝日だった。

だが、派遣社員の自分に、旗日も休日も関係無い。

ということで、今日も一日、精勤した。

で、仕事が終わり、現場からの帰路で、たまたま新宿中央公園を通過した。

そして、車道を横断しようと道端で立っていると、見知らぬオッサンがやけになれなれしく近寄って来た。

「あのー、生活保護申請とかでお困りじゃないですか?」

だしぬけに云われたので、こちらは呆気にとられてしまった。

今のところ、自分は何とか仕事をして糊口をしのげている。

だが、「貧しさ」と「愚かしさ」は隠しようがないのである。

見る人間が見れば、自分は、「貧窮する失業者」そのものであったのである。

 

かつて、歌手の舟木一夫が、デビュー曲の「高校三年生」の後にヒット曲が続かず、困窮した際に、ある御仁に助けを求めた。

ところが、その御仁は、「今のお前には金のにおいがしない。出直して来い。」とにべもなく拒絶されたという。

そこで、舟木一夫は、見栄もプライドも全部かなぐり捨てて、それこそ這いずり回るようにして“営業”に没頭した。

そして、数年が経ち、舟木一夫が、そのさる御仁と久方ぶりに再会した。

「今のお前は金のにおいがする。ようやく稼げるように成ったな。」

そう云われたという。

そして、「じゃあ、協力させてもらおうか。」と云うことに成ったという。

 

今の自分は、多分、「金のにおい」が皆無なのだろう。

さらに、生活保護で面倒を見てもらわない限り生きていけそうもない無能な、稼げない愚か者にしか見えないのだろう。

よく、「光る才能は隠せない」と云う。

だが、「才覚」と同様に、「貧しさ」も「愚かさ」も隠しようが無いのだろう。

霧雨がしょぼつく新宿中央公園で、さぞかし自分は貧しさと愚かさが匂い立っていたのである。

何とかしたいものであるが、どうしたら良いのか、全く途方に暮れている。

民進党代表選挙が終わった。

結果は、蓮舫の圧勝。

前原は、元民主党代表だったとはいえ、「噛ませ犬」にも成らない惨敗ぶりだった。

前原誠司は、もし、政党の指導者を今後も目指すというのであれば、根本的な「出直し」をしないと、最早「過去の人」に成ること、必定だろう。

それはさておき、蓮舫が民進党の代表にあっさりと当選してしまったことに、愕然とした。

あまりに酷過ぎる。

但し、この「酷過ぎる」と云う点に関しては、いわゆる「保守派」の方々の指弾される点と自分のは異なる。

いわゆる「保守派」の方々が蓮舫を指弾する理由として、「二重国籍」を挙げておられる。

台湾籍(中華民国)と日本国籍の「二重国籍」であることを、「解決」せずに、国会議員である参議院議員に成り、更には国務大臣まで成ってしまった。

そして、もし、自民党が「自滅」し、“野党連合”が選挙で勝利した暁には、蓮舫は野党第一党の党首であるので、「総理」に指名される可能性が出て来た。

仮に野党連合政権が誕生した場合、「総理」を民進党が他党に譲ったとしても、副総理や財務相、外務相といった内閣の要と成る地位に就くことは間違いない。

となれば、日本国政府の決定権に関わるポストに、日本国籍とは異なる国籍を保持する人間が就任する可能性が出てしまった訳である。

このことについての指弾に対しての反駁は、マイノリティーへの差別、多様性への差別、国粋・極右的、といったものがある。

だが、アメリカの大統領は、生まれながらのアメリカ国籍の国民しか被選挙権は許されていない。

現に、「移民一世」であるアーノルド・シュワルッツネッガーは、カルフォルニア州知事への立候補は許されたが、大統領への立候補は許されていないのである。

まあ、「二重国籍」の問題に関しては、既に多くの方々から指摘が為されているので、自分は今更指摘をしない。

今回の民進党代表選挙に於いて、蓮舫が、いかに駄目であるかを露呈してしまったのは、実は「二重国籍」の問題ではない。

ここで、仮に、蓮舫女史が、実は台湾籍ではなく、親日国にルーツを持ったマイノリティだったとしよう。

例えば、トルコやアメリカだったとしよう。

さらに、彼女の「思想信条」が、いわゆるナショナリストであって、日本人以外のルーツを持っているにもかかわらず、日本国を愛し、ご皇室を敬い、さらに国防問題に熱心で、「憲法改正」を声高に主張していた、とする。

まあ、ここまで前提条件が変わってしまうと、「蓮舫」が「蓮舫」でなくなってしまうのであるがwww、ならば蓮舫が民進党代表を目指すに当たって、ここまで「コペルニクス的大転回」を行ったと仮定する。

そうなった場合、いわゆる「保守派」の方々は、現在のように「蓮舫」を厳しく「指弾」するであろうか?

多分、「指弾」しないと思う。

むしろ、「ようやく、まともな野党政治家が育って来た。」などとベタ褒めするであろう。

だが、仮に、「蓮舫」の思想信条が、真正保守の尊皇愛国だったとしても、今迄のような立ち居振る舞いをしていたならば、結局「蓮舫」は駄目なのである。

何故、蓮舫は駄目なのか?

「二重国籍」であることを放置し、日本と云う国家に対して相対的に愛着が薄い、からではない。

いわゆる「二重国籍」の問題を指摘されたことに対する発言や対処方法に、全く「誠意」が感じられることが無かったことが、彼女の駄目である最も根源的な根拠である。

政治家に限らず、人間たる者は、大なり小なり、間違いを犯す。

「上手の手から水が漏れる」といったことも有る。

だが、その「間違い」を指摘された時、どのような応対をするのか。

そして、身の処し方をするのか。

ここが、問われるのである。

ところが、蓮舫は、産経新聞の記者からいわゆる「二重国籍」の問題を質問されて、「仰っている意味が解りませんが?」と「逆質問」をした。

つまり、新聞記者からの「質問」に対して「回答」せずに、「逆質問」でもって「封じ込めてしまった」のである。

しかも、記者が二回繰り返して質問したにもかかわらず、二回「逆質問」でもって封じたのである。

つまり、蓮舫は記者からの「質問」の「存在」そのものを消去させようとしたのである。

さらに、「こういう質問が出て来ることが悲しい」といった、「被害者意識」丸出しのつぶやきを漏らした。

これは、いわゆる「差別問題」の於いて繰り返される、「弱者の恫喝」である。

つまり、問題点を指摘すること自体が差別行為であり、差別意識による「卑しさ」から起因している、そういう「構図」に誘導したいのである。

確かに、マイノリティーの問題、在日籍に関する問題は、こういう「差別問題」の「構図」に持ち込めば、惨敗することは無い。

だが、これが、「二重国籍」の問題ではなく、脱税や政治資金規正法違反といった「金銭」関連の問題だったり、もしくは「性的」な人間関係の醜聞だったりした場合はどうなるのだろうか?

金銭の取り扱いに関して疑義が生じた場合も、「他人の現金の使い方に関して詮索するなんて悲しい」と云ってのけるつもりなのだろうか?

性的な人間関係の醜聞が疑われた場合も、「他人の色恋沙汰まで詮索するなんて悲しい」などと開き直るつもりなのだろうか?

結局、蓮舫は、何か「問題」が生じた際の国民に対する「説明」が、愕然とするほど駄目過ぎるのである。

説明を行う「能力」が不充分であるということよりも、そもそも「国民」対して、真摯に説明をしたり、「詫びる」という対応が有ることを全く「意識」出来ていないのである。

そこが、政治家としては勿論のこと、人間としても全く駄目であるのである。

蓮舫は舌鋒鋭く切り込むことは得意であり、他の追随を許さないほど、ずば抜けている。

だが、その得意分野でもって、その他の不得意分野の欠落分を全部補おうという「無理」をするから、齟齬を来すのである。

結局、蓮舫は、周囲からのあらゆる指摘や疑問を受け付けずに拒絶し通してしまう傲岸不遜な奴なのだと。

そして、「真実」を打ち明けなくても、適当に弁解の言辞を弄して行けば、窮地を脱することが出来ると高をくくっている不誠実で胡散臭い奴なのだと。

それが蓮舫なのである。

これでは、まだまだ自民党には勝てない。

安倍晋三には勝てない。

今回の民進党代表選挙で露呈したのは、蓮舫の国家意識や日本国民としての意識の欠如、というよりも、蓮舫の「人間」としての立ち居振る舞いそのものが、そもそも駄目であると云うことなのである。

只今現在は、世間も彼女自身も、いわゆる「二重国籍」こそが「問題」だと思い込んでいる。

そうではないのだ。

本当に蓮舫で問題なのは、何か自分の身辺で問題が生じた際の意識の持ち方や立ち居振る舞いがあまりに駄目過ぎるということなのである。

これは、なまなかでは悔い改めることは困難であろう。

ここに来て、彼女のセールスポイントである「鋭さ」が却って災いしているように思う。

蓮舫を民進党の代表へと押し上げた要因が、彼女自身が保持する「鋭さ」であった訳だが、逆にその最大の「売り」である「鋭さ」が、彼女の党代表としての破滅への陥穽に成ってしまうのではないだろうか、と自分は愚考するのである。

果たして、蓮舫は自分の所属する政党の「ガラスの天井」だけではなく、日本国政府の「ガラスの天井」を突き破ることが出来得るのであろうか?

いわゆる「エセ科学」について書きたい。

だが、今日は、本題ではなく、その前哨として。

産経新聞の平成28年9月5日朝刊のオピニオン面「正論」欄に竹内久美子氏の文章が載った。

自分は農学部の落ちこぼれ学生だったので、竹内久美子氏の文章が嫌いではなかった。

だが、最近、竹内久美子氏の文章に疑わしい点が多々散見されるように成って困っている。

当該記事は、先日のリオオリンピックに於いて、男子陸上競技の400メートルリレーで日本チームが2着の銀メダルを勝ち取ったことについて書かれていた。

金メダルはボルトを含む、ジャマイカだったのだが、陸上競技短距離走に於いては、いわゆる黒人人種の身体能力的優位性が顕著である。

国籍は異なっても、ほとんどの陸上競技の短距離走に於いては、黒人選手が優位に立っている。

そういう傾向の中で、アジア人のモンゴロイド系の日本人が2位に入ったというのは快挙以外の何ものでもない。

で、黒人人種の身体能力的優位性について、竹内久美子氏は論理を展開していくのだが、自分は、全く納得出来なかった。

まず、黒人の「淘汰」の環境として「寄生虫」や「病原体」の寄生や感染をその特徴として上げた。

つまり、黒人が住むアフリカ大陸に於いては、寄生生物がたくさん存在する為、免疫能力が秀でた者が生き残った。

そして、免疫能力が高い「個体」を識別する要素として「身体能力」つまり、「運動能力」が高いことが有る、という。

だが、果たして、その「構図」は成り立つのであろうか?

つまり、運動能力が優れていること、筋力や持久力が秀でている人間が、「免疫能力」も秀でていることであり、だからこそ「淘汰」に耐えて生き延びて来た、というのである。

ならば、いわゆる「長寿」の「個体」は、全て「身体能力」が秀でていなくてはいけない。

具体的に云えば、いわゆるスポーツのアスリートは、「免疫能力」が秀でているから当然疾病に対しても耐性を有するので「長寿」でなくてはいけないことになる。

だが、平成28年7月31日に、「ウルフ」こと往年の名横綱千代の富士・九重親方が急逝された。

享年61歳だった。

その死はあまりにも早過ぎて、世人はその早逝を心から惜しんだ。

この61歳で死去というのは、日本人の平均寿命からしても、相対的に「短命」であろう。

しかも、死因は膵臓がんだという。

癌・悪性新生物は、寄生生物によるものとは断定しにくいが、しかしながら、人間の免疫能力は、これら癌細胞にも対応している。

だが、運動能力、身体能力がずば抜けて秀でていた千代の富士関は、癌によって急逝されてしまった。

つまり、身体能力が秀でていること・イコール・免疫能力が秀でている、という図式は成立しないのではないだろうか?

千代の富士関だけではない。

いわゆる大相撲の横綱で、100歳を超える長寿を誇った力士はどれだけ存在したのか?

皆無ではないのか?

それだけではない。

オリンピックの金メダリストやスポーツ名選手は、どれだけ「長寿」だったのか?

むしろ、平均寿命よりも下回ることが有ったのではないのか?

やはり、身体能力と免疫能力は、必ずしも共通しない、としか云いようが無い。

そうなると、竹内久美子氏の「正論」欄の論理は、最初の「前提」のところで破綻してしまっている。

論理の「前提」が成立しない以上は、その後に連なる推論も、事実上、意味を為さないと指摘せざるを得ない。

これが「エセ科学」である。

一見、尤もらしい論理を構築しているだが、その実、その論理の土台は全く確固としていない。

つまり、単なるこじつけでしかない。

自分が、竹内久美子氏が胡散臭いと気が付いたのは、いわゆるご皇室の血統に関して、「男系」の「正当性」を証明するために、いわゆる染色体のXとYを持ち出して来た時だった。

つまり、ご皇室の「男系」の「根拠」として、ご皇室には特別なY染色体が存在するのだ、という「論理」を出して来たのである。

これは、一見尤もらしい「男系」の正当性への根拠のように見える。

現に、八木秀次教授など、いわゆる保守派の大学者も、この「仮説」をこぞって賞賛した。

だが、この「Y染色体」論は、「エセ科学」である。

むしろ、この「Y染色体」論を大得意で振り回せば、かえって後年にご皇室に対して重大なる危機を招来させることと成ろう。

ちなみに、自分は「男系」支持派である。

「天皇陛下、ご皇室が何故、男系なのか。それは、ずっと男系を維持されて来たから。つまり、文化と伝統、しきたりだから。文化と伝統、しきたりで、ずっと維持されて来たのだから、それを変えてはいけない。」

これが自分の「男系」支持の根拠である。

Y染色体がどうのこうの、などと一切触れない。

その理由について詳述すると、夜が明けてしまうので、今夜のところは、以上でいったん、筆を擱かせてもらう。

後日、また改めて詳述させてもらうこととする。

当たり前のことなのだが、現在、自分に課せられた「業務」をひたすら懸命に取り組んでいくことが肝要なのだろう。

勿論、「日常」に流され、「日常」に倦む結果と成ってはいけない。

目の前の一つ一つの作業を精勤しつつ、遠望にも目配りを忘れないこと。

そして、要所要所で、遠望に関する「一手」を着実に布石していくこと。

これしか無かろう、と思う。

新潟県の泉田知事が、突然の選挙不出馬を表明した。

原因は、地元新聞紙「新潟日報」の報道に問題が有るから、とのこと。

ここのところは、東京在住の自分にはよく解らない。

泉田知事は、柏崎原発に対して、厳しい姿勢を取った知事ということもあり、脱原発陣営から評価が高かった。

その泉田知事が、いきなり選挙不出馬というのは、よく解らない。

東京や大阪といった大都市圏に住んでいる人間は、地元新聞紙、地方紙(特に県紙やブロック紙)の「影響力」というものが、今一つピンと来ない。

ただ、名古屋に於ける中日新聞、北海道の北海道新聞、仙台の河北新報、福岡の西日本新聞、広島の中国新聞や沖縄の沖縄タイムスと琉球新報の影響力は極めて大きい。

地方に於いては、全国紙よりも、県紙のシェアの方が大きい場合が多く、ブロック紙・県紙の「世論形成」の影響力は、昨今のインターネットの普及を考慮しても無視は出来ない。

(ちなみに長野県紙の信濃毎日新聞は、かの小坂一族がオーナーである。小坂一族は自民党の政治家ファミリーであり、信越化学の創業家でもある。)

だから、「新潟日報」の「論調」を理由に、「選挙に勝てない」と判断して「不出馬」という「図式」も「成立」はするだろう。

だが、一方で、泉田知事は、週刊朝日誌や朝日新聞平成28年9月8日朝刊社会面でインタビューに応じている。

これは、「単独インタビュー」である。

産経新聞や読売新聞には掲載されていない。

ということは、泉田知事は、朝日新聞に対しては、「本心」を語っている、ということになる。

選挙に出ないとか、県紙の報道の有り方について意見述べるというのはともかく、特定の新聞や雑誌だけに敢えて真情を吐露するというのは、あまりに恣意的では有り過ぎはしないだろうか?

朝日新聞ばかりに肩入れしているのは、多分、朝日新聞が脱原発志向が明瞭だからなのだろう。

だとしたら、政界引退後は「朝日新聞文化人」として糊口をしのごうとでも算段を考えているのだろうか?

だとしたら、「新潟日報」の報道云々に関して批判することなど出来ないではないか?

新潟日報は駄目で、朝日新聞は良い、と云うのは、「公人」としての新潟県知事としては許され得ないと思う。

こういうことを「語るに落ちる」と云う。

「偏向している」と批判しているご本人そのものが「偏向している」のである。

まあ、この程度の人間だったということが露呈した訳なので、選挙不出馬してもらって、新潟県民は文字通り「勿怪の幸い」だったと云えよう。

いわゆる「従軍慰安婦」に関して。

この問題は、最終的には、韓国人や朝鮮民族にとって最悪なものと成ろう。

取り敢えずは、日本軍に蹂躙された「被害者」というイメージを世界的に周知させることが出来よう。

だが、時間の経過と共に、多数の学者がこの、いわゆる「従軍慰安婦」に関して関心を持ち、独自の研究と調査を始めて行くだろう。

その時には、「慰安婦」とされたハルモニたちは死に絶えているので、調査研究対象は、文献資料を徹底的に読み込み、比較するかたちと成る。

そうなった時、いわゆる「従軍慰安婦」問題が、「虚妄」であったと断定された時、「国益」や民族のプライドを守るためにならば、どんな虚構であっても声高に吹聴する奴等であるという「深層」が露呈されることとなろう。

そうなれば、以降、世界は韓国人や朝鮮民族を破廉恥な詐称な性癖の有る輩として烙印を押すことに成る。

可哀想に。

韓国人や朝鮮民族の子孫たちは、将来、大ウソつきのレッテルを世界中から貼られてしまい、信頼関係を築くまでに、とても苦労することに成るだろう。

心有る日本人は、そんな気の毒な未来を、座視してしまって果たして良いのだろうか?

(じっくりと書きたいと思っていた題材。だが、取り敢えず、暫定版で。)

昨日、平成28年9月5日の朝日新聞夕刊(東京版)の一面トップ記事は、日本会議に関する本が相次いで出版されたことについてだった。
いわゆる日本会議に関する書籍の嚆矢であった菅野完の扶桑社新書の本は8月29日現在で15万3千部も売れたと云う。
日本会議の会員であった自分としては、その本の内容に関しては、失笑するしかない。
確かに、詳しく調べ上げている。
特に「生長の家」に関しては、相当詳しく調べ上げて書き上げている。...
だが、しかし、「不正確」なのである。
また、週刊金曜日や朝日新聞は、明確に、神社本庁が日本会議に深く関与していることについて批判を集中させている。
これも「事実」ではあるが、「不正確」である。
何故、「不正確」かというと、「結論」がまず先に有って、その「結論」に誘導する為の「論拠」として論理構成と記述がなされているからである。
具体的には、(かつての)生長の家教団が「極右」であった、という批判であり、そのかつての生長の家の教義を狂信的に信仰し続けている連中が、現在の日本会議の中枢である、という「結論」である。
また、日本全国各地の神社によって構成されている神社本庁が、日本会議の「中心的な」組織である、という批判である。
神社の社頭などで、憲法改正の署名運動を行っている、といったことがらを根拠にしている。
だが、自分から云わせると、生長の家批判は、現在の三代目の「教祖」である総裁が、週刊金曜日誌に二号に渡ってインタビューに応じるなど、左側に「転向」した。
生長の家教団批判は、成立しなくなったし、「元・信者への批判」という「構図」は、比較的宗教に縁遠い「世間一般大衆」には、ピンと来ない。
さらに、神社本庁批判に関しては、批判する「構図」としては、とても明瞭で解りやすいのだが、実は、神社本庁の「組織力」は、驚くほど弱いのである。
まず、いわゆる「神職」の人数が、仏教の僧侶の数より圧倒的に少ない。
お坊さんの数の約3割ぐらいが神主の数だと思う。
それは、一人の神主が幾つもの神社を掛け持ちしている「兼務社」が多数だからである。
また、神社本庁は、神社の「集合体」であり、組織的拘束力は、他の宗教組織と比べると相対的には弱いのである。
逆を云うと、神社本庁は、日本会議を構成する宗教団体の中で、一番「弱い環」なのである。
だからこそ、神社本庁に標的を絞って、叩きに来たのである。
実際に、日本会議を物心両面から支えているのは、愛国・保守の新宗教団体である。
具体的には、7月の参院選で、日本会議の推薦候補だった山谷えりこは仏所護念会の組織に依存していたと云われる。
さらに、日本遺族会の水落敏栄も、当選出来たのは仏所護念会の支援だったという。
だから、神社本庁をいくら叩いたところで、日本会議の土台は全く揺るがないのである。

どうも日本の保守派の中で、「キリスト教」に対する理解が一面的過ぎるように感じる。

確かに、白色人種は有色人種を人間とは認めず、畜生としか思っていないだろう。

また、キリスト教が布教するにあたって、異教(特に多神教や精霊崇拝)を弾圧して来た。

だが、それは、「キリスト教」の一面に過ぎない。

プロテスタントは、ローマ教会を介さないので、より純潔で原理的だと云う。

だが、アジアやアメリカ新大陸へキリスト教の布教の「先兵」として果敢に突進して行ったのは、カソリック系のイエズス会である。

また、他の宗教に対して排他的なのは、何もキリスト教に限らない。

現在、世界の「悪の権化」とされる「IS(イスラミックステイト)」はイスラム教スンニ派からの分派したワッハーブ派を源流としている。

インドに於いては、ヒンズー教至上主義者が、イスラム教徒だけでなく、仏教徒も迫害している。

また、日本の神道に於いても、廃仏棄釈に於いて、寺院や仏像などを破壊し、焼き討ちした。

「キリスト教は」とひとくくりで批判するのは、努めて慎重に行うべきだろう。

自分の無知と狭量さを露呈することに成る。

ある特定の歴史的事実に関して、ある特定の事柄(宗教や習俗、哲学など)が、「作用」したということならば、まだ首肯出来る。

宗教に対して短絡的かつ安直な批判を行う者は、はっきり云って「信心」が薄い。

「信仰」というものの奥深さが理解出来ないから、その素晴らしさも酷薄さもおぞましさも、結局、上っ面しか解らないのだ。

もう少し、研究し、洞察力を駆使した上で私見を述べるべきだろう。


「信仰」とは何か。

「他者」への尊崇である。

「他者」とは、「自我」とは異なる「存在」である。

それが、神であり、仏であり、霊であり、宇宙全体そのものである。

生命体は、自己保存本能が有る為、「自我」を何よりも優先する。

だが、その本能を抑制し、昇華していくことが「信仰」である。

「信仰」によって、孤立した「自我」は、「せかいぜんたい」とつながり、一体化する。

そして、「個体」としての「死」は消滅する。

「自我」を超越することによって、「自我」に対して不可避な「死」への道程を転換させるのである。

それを法悦と見なすか、狂信と見なすか。

その境界線は明確ではない。

だが、その差異は決定的かつ絶対的である。

「歴史認識」に関して。

「真実は一つだ」というのは、嘘ではない。

だが、絶対的に正確でもない。

何故なら、一つの事象に対して、視点が変わるだけでその評価も差異が生じて来るからである。

つまり、同じ事象を「見た」としても、視点が異なれば、全く「同一」なものとは認識され得ない。

つまり、「真実は一つ」ではなくなるのである。

このことだけを取り上げれば、何の疑問も異論も出て来ない。

だが、具体的な歴史的事象に関して考えてみてみると、途端に、議論が紛糾する。

例えば、「大東亜戦争は侵略戦争ではない」ということについて。

この件について、賛否両論、とても激烈である。

だが、どちらもナイーブ過ぎると思う。

自分は、「大東亜戦争は侵略戦争ではない」と主張する場合、「共産主義革命戦争は侵略戦争ではない」というのと同様である。

大東亜戦争は、日本の国の「古来」の領土内で「戦闘」が行われた「割合」が少なかった。

確かに、日本国中のあらゆる都市という都市が、無差別空襲と艦砲射撃によって攻撃を受けた。

だが、大東亜戦争そのものは、日本の領土・領海の境界線上で開戦した訳ではない。

日本から遥か彼方のハワイを急襲したことから、始まったのである。

勿論、それ以前に、外交的な締め上げが有った訳であるから、「外へ打って出る」こと無しには、事実上「国防」は不可能だった。

だから、「大日本帝国」という「国家」を防衛する為の防衛戦争であり、戦闘が拡大していくにつれて、東南アジアの植民地解放・自主独立という側面も出て来たのである。

さて、こう見て来ると、「大東亜戦争」とは、なかなか複雑な意味合いを持つ「戦争」であったと認識せざるを得ない。

一方では、暴発するように仕組まれた末の戦争であるし、一方では、日本が全アジアの盟主であると思い上がった傲慢さも内在していた。

だから、ナポレオンのロシア侵攻やアメリカのイラク侵攻と云った、極めて解りやすい「戦争」ではない。

ならば、我々は「大東亜戦争」をどのように「主張」すべきなのだろうか?

そこには、「まだ、この大東亜戦争は『歴史』として過去完了形に成っていない。現在進行形である。」という現状を認識しなくてはいけない。

つまり、「大東亜戦争」について話しをしはじめた場合、現時点では、否応無く、現在進行形の政治や外交問題に波及してしまうという「現実」である。

それは、「あの戦争」、「大東亜戦争」が、現在もなお「継続中」であるという「現実」を認識しなくてはいけないのである。

だから、支那や朝鮮と「大東亜戦争」について語り合う場合、それは、戦後70年以上経過した現時点に於いても、友と敵と云う風に、明瞭に峻別されてしまうのである。

それゆえに、支那人が「支那は日本の侵略を受けた被害者である!」と主張し、日本人が「支那の内戦混乱状態を収拾させるためのものだった」と主張しても、どちらも一理有るのである。

ただ、問題は、支那人や朝鮮人が、ほぼ徹頭徹尾、「我々は被害者で、悪いところは全く無い!」とほとんどの人が主張することである。

そして、一方の、ほとんどの日本人は、「日本にも悪い点が多かった」と頭を垂れてしまっていることである。

確かに、「大東亜戦争」は、あくまで厳密に読み解いていけば、支那にも朝鮮にもアメリカにも日本にも、指弾されるべき問題が存在していた。

だが、いまだに「歴史的」な存在にまで化石化していないため、自国の非を安直に容認した途端に、政治的、外交的な「譲歩」に直結してしまうのである。

だから、必然的に、自分たちの「国益」ということを意識した上で、「歴史認識」を主張せざるを得ないのである。

これが、トロイア戦争や白村江の戦いのように、過去の「歴史的戦争」というかたちで「決着」が既についている場合は、「お互い、良いところも悪いところも有った」と客観的な物の云い方が可能である。

だが、「大東亜戦争」は、まだ、歴史的に収束していない現在進行形の「戦争」なのである。

だから、支那人も朝鮮人も、内心は「うちも悪いところが有った」と解っていても、それをバカ正直に表明などしないのである。

一方、日本人は、「潔い」ことが「美徳」なので、国際的な場でもって、「日本が悪いところも有りました!」とあまりに真っ正直過ぎる云い方をしてしまうのである。

ところが、世界に於いては、自らの非を認めることは、賠償行為に直結してしまうのである。

厳密に、冷静に、「歴史認識」は「歴史」の問題であると、割り切ることが出来ないのである。

そこに、日本人の「世界的非常識」が見受けられるのである。

だから、日本人同士の国内の場でのみならば、「日本も悪いことをした」とコメントしても問題無いが、いつしかそのコメントが独り歩きをして、外国からの「主張」を補強する「論拠」に利用された場合は、一気に由々しき大問題と化す。

結局、この冷徹な現実を認識しないで、純然たる「歴史認識」を客観的に追求していくことを能天気に実施し続けて来たのが我々日本人の大多数だったのである。

だから、現時点では、「大東亜戦争は悪い戦争ではなかった。但し、当初、意図していたようにはいかない事態が多かったため、悲惨な結果を招くことに成った。」と語り得るのが精一杯なのだと、自分は思う。

はやく、「大東亜戦争」が「完了」して、客観的な論争が冷静に行えるように成って欲しいものだと自分は切に願っている。

いわゆる「朝鮮学校」に対しての「公的援助」に関して。

先月に交代した、文部科学大臣の馳浩が決めた、「朝鮮学校への公的援助の調査」が、ようやく各地方自治体へ波及して来たという。

それに対して、「地方自治体への国からの干渉である」などの批判が出ている。

こういう法制度の解釈を争点にすると、あざといばかりで駄目である。

まず、「地方自治体は『自治の共同体』だから、国家から干渉されるべきではない」、という前提に関して云うと、国からの事実上の「送金」である「地方交付税」に財政が依存している現状を見れば、財政が自立していない以上、厳格な「自治」を要求する資格に欠ける、と云わざるを得ない。

国から莫大な「地方交付金」という「援助」に依存している以上は、「地方自治体」からの「カネ」の使い道に関して、「指導」が為されても、文句は云えない。

まあ、これは「極論」ではあるのだが。

あとは、「朝鮮学校の生徒には罪は無いのだから、筋が違う」という批判も有る。

確かに、朝鮮学校の生徒が、日本国家へ直接敵対している訳ではなかろう。

だが、朝鮮学校に於ける「教育指導内容」が著しく公正に欠ける以上は、「公的援助」を受ける資格に欠けると云わざるを得ない。

だから、あくまで「公的援助」を受けたいのであるならば、「公的援助」を受けられるだけの「資格」や「条件」を満たさなくてはいけない。

あくまでも、朝鮮民主主義人民共和国としての、いわゆる「独自性」を堅持することにこだわるのならば、日本の公的な援助を受けることを断念すべきだろう。

また、「日本国政府や日本国民は、もっと異民族や異文化に対して寛容であるべき」という批判も有る。

確かに、「民族間の差異に対する寛容さ」は、同時代的な喫緊の問題である。

現に、欧州をはじめとして、世界中で「不寛容」の嵐が席巻している。

だから、どこまで「寛容さ」を維持していくのか、ということは重要な問題である。

だが、それは、片方のみの偏った主張を採用してはいけない。

現時点で、日本政府は朝鮮学校を強制的に廃校するような暴挙には出ていない。

そして、おそらく、そんなことはしないだろう。

ただ単に、公的援助をしない、というだけである。

もし、そこまで日本政府を指弾するのならば、その十分の一のエネルギーで良いから、「我が祖国」の朝鮮民主主義共和国政府へ、朝鮮学校への援助を増額してもらえるように主張するべきだろう。

そうでなければ、日本国民は絶対に納得しないだろう。

「ぼやきのノムさん」こと、野球監督の野村克也氏は、やはり凄い。

彼の名言で、大きく自分が頷いたのが、これ。

「不器用は器用に勝る」

これは、一見、奇妙に感じる。

だが、事実、その通りなのである。

自分は、既に、何度も書いているように、たいへん不器用な人間である。

今迄、順当に行ったことなど、無い。

ほぼ、何か始めると、その都度、失敗やヘマをする。

そして、周囲から嘲笑され、侮蔑されるのである。

だが、自分は、どうしても上手く出来ないことについて、一生懸命思考し、対処法を組み立てて行くようにして来た。

だから、感覚的にスラスラと出来ることは無理なのだが、自分の現状と照らし合わせながら、いかに対処していくべきかを、論理的かつ意識的にひとつひとつ構築して来た。

だから、この時はここに注意して、このように手を打っておく。

全体の行程表の流れは、こうこうで、押さえるべきポイントはこことここである。

と云った風に、全部、ロジックとスタイルで固めていくのである。

そうすると、次第に軌道に乗って、当初のような失敗やヘマを繰り返さなくなるのである。

もし、仮に、自分が器用人であったなら、何となくフィーリングで、何事もこなしてしまっただろう。

だから、もし、何かの加減で失敗した時、どういう風に対策を講じて行くべきなのか、皆目見当がつかないだろう。

何故なら、器用にこなしてしまっていたので、それを論理的に言語でもって説明することが出来ないのである。

さらに、無意識で出来てしまっていたので、いったん調子が狂って来ると、成功体験を再現することが出来ないのである。

そして、他人に、自分の成功事例を説明し、伝授することも出来ないのである。

だから、最終的に見て、初めに、不器用で塗炭の苦しみでもって悩み抜き、試行錯誤を繰り返す、茨の道を歩いて来た方が、順風満帆でスイスイ歩んで来た器用な人よりも、様々な面で「勝る」のである。

何度も書かせてもらう。

自分は、異動した各職場に於いて、その都度、「使えない奴」「仕事が出来ない駄目人間」と蔑まれて来た。

だが、そんな不器用な人間なのだが、自分はどうにかこうにか、認められて来た。

特に、顧客に認められて来た。

職場の上司や先輩、同僚からどんなに馬鹿にされていても、不思議と顧客からは信頼されていたのである。

自分は不器用で愚昧で惰弱な奴である。

だから、猛省はいつもしている。

しかし、自分自身には決して絶望をしていない。

まあ、そんな訳で、野村克也監督の「不器用は器用に勝る」という言葉が、忘れられないのである。

前「在特会」の代表で、創立者であった桜井誠氏は、先月(平成28年7月31日)の東京都知事選挙に立候補した。
そして、このたび、新党「日本第一党」を平成28年8月29日に結党したという。

自分は桜井誠氏の「才覚」は認める。

何と云っても、演説の組み立て方は、巧みである。

また、活発な行動力も認めざるを得ない。

しかしながら、彼を「政治家」としては、自分は全く評価しない。

何故なら、彼が創立した「在特会」は、当初の「異議申し立て」と云った原点から大きく乖離してしまったからである。

現在は、朝鮮人と支那人をただ単に悪罵する集団と化してしまった。

政治運動というものは、多分に、情緒的なものである。

平和運動にせよ、反原発運動にせよ、食の安全性や環境問題に対する運動にせよ、それらに通底しているのは「死への恐怖と拒絶感」に有る。

だから、論理性が破綻し尽くされて、いちいち論点を指摘することさえ虚しさを感じるような体たらくと化していても、その政治的影響力は侮りがたく、強靭である。

逆に論理性が消失してしまったために、議論に於いて論破される可能性が無く成った「強み」が有る。

これは、いわゆる在日外国人の問題に関しても云えることである。

桜井誠氏が、政治家として再出発を期する覚悟であるならば、まず、「自己批判」をしなくてはいけない。

それは、自分たちが行って来た諸々の運動が、何故、「ヘイトスピーチ」や「レイシズム」と決め付けられたのか。

そこに、間違いや拙劣さが有ったことを認識し、自覚し、改めていくことを言明しない限り、彼とその支援者に貼られた「レッテル」を払拭することは不可能である。

「自分達は全然悪くない!マスコミやアカデミズムが偏向していて、あいつらの方が悪いのだ!」と言い張る限り、政治的には徹頭徹尾「泡沫」で終わることに成ろう。

「自分は絶対に悪くない!」という「無謬性」の「自己認識」であるならば、それはまさに「左翼」そのものである。

自己懐疑と内省と自己変革が無ければ、イギリスのエドモンド・バークを嚆矢とする「保守」の系統に連なることは出来ない。

自己懐疑と内省と自己変革を実行出来る為には、自らの謙虚さと他者への寛容性が不可欠である。

いわゆる、「ヘイトスピーチ」の問題で、一番の「保守」の言論人は、結果的に見て、一水会顧問の鈴木邦男だったという、どうしようもない「皮肉」である。

我々は、安易に「保守」「保守」とあまりに言い過ぎる。

だから、結局、「論語読みの論語知らず」という陥穽に嵌まってしまうのである。

もし、桜井誠氏が、今迄の「運動」の「延長線」として、政界へ討って出るというのであれば、特段、言及する必要は無い。

だから、「真正保守」を標榜する「日本のこころを大切にする党」は、全く意識しないで良い。

何故なら、「クソと味噌は一緒にしてはいけない」からである。

(桜井誠氏を「保守」と断定し、桜井誠氏に対してのどんな批判をする者を「保守にあらず」と指弾するのなら、自分は喜んで「保守」でないことを甘受する。

さらに、「左翼」認定までされるようであるならば、自分は喜んで「左翼」認定を甘受する。

どうせ、元来は「左翼」だったのだから、何を今更www

昔取った杵柄だしwww)

昨日、高島屋百貨店の某店に納品で入店させてもらった。

実は、四日前にも入店させてもらったのだが、そこで、自分としては看過出来ない、「あること」に気が付いた。

だが、自分が気が付いた直前に「発生」したのであるならば、この「問題」が「放置」されているとは断定出来ない。

ということで、昨日まで、待った。

昨日、見てみたところ、四日前と状態は変わらなかった。

つまり、「放置」されていたのである。

案の定、ということなので、以下、詳述させていただく。

 

自分が気が付いたのは、高島屋百貨店某店のバックヤード、つまり、従業員のスペースでのこと。

当然、「お客」は入って来ない。

だが、そこの「貼り紙」を留めるセロテープがはずれて、浮いていたのである。

ちなみにその「貼り紙」は、「火の用心」とか「節水」といったような「記述」であった。

記述文章そのものは「社外秘」かもしれないので、敢えて伏せておく。

ただ、決まりきった、新鮮味の無いものではあった。

とは云うものの、従業員の「注意喚起」の「貼り紙」である。

さて、「貼り紙」のセロテープがはずれていることについて、何故、自分は指摘しようとしているのか、疑問に感じられるだろう。

ただ単に、「貼り紙」がはずれていたことを指摘するのであれば、それは、さながら「いけずな小姑」の小言である。

だから、自分は、「貼り紙」を留めるセロテープがはずれている、ということだけを指摘するつもりは、無い。

問題は、その「貼り紙」が貼られた「場所」に有る。

実は、その「貼り紙」は廊下などにも貼られている。

だが、セロテープがはずれていたのが、たまたま、エレベーターのところだったのである。

エレベーターのところは、否応無く、エレベーターが来るまで「待たされる」ことになる。

だから、エレベーターのところに、「掲示板」ではないのだが、様々な掲示物が貼り出されているのである。

社員限定の即売会実施告知であったり、社員限定の団体扱い特約の生保・損保の紹介だったり。

その他、労組や健保組合、職場環境改善キャンペーンなどの掲示物が貼られている。

その数有る「貼り紙」の中の一枚のセロテープがはずれていたのである。

しかも、少なくとも二日以上もそのままだったのである。

何故、「問題」なのか?

例えば、高島屋百貨店の社員が、「貼り紙」を留めるセロテープがはずれていることに「気が付かなかった」と仮定する。

そうであるならば、高島屋百貨店の社員は、「社内告知」のあらゆる「貼り紙」に対して、既に「不感症」に成っているということになる。

そもそも、高島屋百貨店の社員に「注意喚起」を意図して、「貼り紙」は貼られる。

だが、既に、どんな内容であろうと、どんな変化が生じていようと、既に「背景」に溶け込んでしまっているので、認識出来なくなっているのである。

勿論、エレベータのところは、「正式」な「掲示板」では、ない。

だから、関心が薄れてしまうのもやむを得ないかもしれない。

しかしながら、外部の人間である自分でさえ、気が付いたのである。

一日の内に2回以上は通過する高島屋百貨店の社員は多数居る筈である。

にもかかわらず、セロテープがはずれた「貼り紙」が「放置」されているのである。

これは、あまりにも鈍感過ぎるのではないだろうか?

 

ならば、「貼り紙」を留めるセロテープがはずれていることに「気が付いていた」と仮定する。

そうであるならば、高島屋百貨店の社員は、「異状」を「認識」しながら「放置」し、見て見ぬふりをしていた、と云うことに成る。

よく、「やれない」のか、「やらない」のか、ということが問われる。

「やれない」というのは、自分は「やりたい」のだが、上司や関連部署などの「承認」が得られない場合は、「独断専行」は憚られて、事実上、許されない場合である。

だが、それは、「縦割り」のセクショナリズムであって、各部署が閉鎖的に孤立し合って、牽制し合っていることである。

一方、「やらない」というのは、自分に規定された「業務」以外は、どんな事柄も一切やりたくない、という「事なかれ」主義の自閉的な姿勢である。

どちらにせよ、「やれない」にしろ、「やらない」にしろ、そういう職場や組織は停滞と閉塞が著しいと云わざるを得ない。

つまり、現状を認識し、問題点を察知し、解決法を導き、対処を実行する。

これらの「アクション」が全く皆無なのである。

まあ、別に、「不感症」で「事なかれ主義」な職場や組織というのは、いわゆる「お役所」的とも云われるように、たくさん存在する。

だが、接客業の、しかも百貨店の社員の意識と動向がそうであるというのは、これは致命的な問題ではなかろうか?

そもそも、今や、「百貨店」と云う「商業施設」は、「物品」を「販売」するのでは、無い。

それこそ、スーパーやコンビニならば、百貨店で購入するよりもはるかに安く購入出来る。

さらに、インターネットでの通信販売ならば、わざわざ百貨店の「店舗」まで移動しなくても、商品を自宅まで届けてくれる。

しかしながら、スーパーやコンビニ、ネットでの通信販売での「購入」ではなく、敢えて「百貨店」で購入するのは何故なのか?

それは、ひとえに百貨店の店員の「接客」、つまり百貨店の店員からの「サービス」に対してお金を支払っているのである。

だから、百貨店に於いては、今や、その店員の接客サービスの「質」そのものが、真の「商品」なのである。

そうでなければ、他の店舗や販売サービスとの「差別化」は不可能なのである。

しかしながら、その接客サービスを行う上で、「この事柄は自分の業務外なので、何も対応出来ないし、対応するつもりもありません。」と云う意識であるのならば、これはどうだろうか?

これでは、店員の「視線」の先は、明らかに「お客」の方を向いてはいない。

自分たちの職場や組織のことばかりしか意識が持てないのである。

そんな風であるならば、本当の意味での「接客」ではない。

単なる「自己満足」な「欺瞞」でしか有り得ない。

 

はじめに書いたように、「問題」は、ただ単に、「貼り紙」を留めているセロテープがはずれていることでしか、ない。

だが、貼られている場所が、比較的人目につくエレベーターのところであり、他の掲示物がたくさん貼られているのである。

にもかかわらず、セロテープがはずれているのに、その場所の前を行き来する高島屋百貨店の社員は誰一人、セロテープを持って来て、「貼り紙」を留める、という「行為」をしないのである。

そのまま「二日以上」も「放置」していて、全く平気なのである。

 

こういうことは、「一事が万事」であって、高島屋百貨店のいたるところで蔓延していることであろうことは、容易に推測され得る。

要は、感度が鈍くて、気配り・心配りが為されていない、のである。

勿論、「天下」の高島屋百貨店である。

さまざまな接客サービスを実施している筈である。

だが、それは、本当の意味で、「お客様」へ向いていないのではないか?

ただ単に、「接客サービス」を「こなして」いることに狎れきっているのではないだろうか?

 

高島屋百貨店は、多分、つぶれるということは無いだろう。

また、トップブランドとしての誇りも有る。

だが、それゆえに、慢心しきっているように感じられる。

だからこそ、大問題なのである。

自分程、魯鈍で惰弱で要領を得ない愚者はいない、と思う。

だからこそ、どうしたら良いのか、思案するしかないのだ。

そのまま、何も考えずに突っ込んで行けば、結果が出るような、そんな優秀な人と自分は絶対的に異なる。

また、そんな優秀な人には自分は成れない。

だから、思考を巡らせ、細かなところまで神経を使い、手間暇を惜しまないようにしなければ、「一人前」には成れない。

自分の駄目さ加減を呪わしく思うしかないのだが、駄目だからこそ、意識的に対策法を論理的に構築することが出来るとも云える。

馬鹿とハサミは使いようなのだwww

以前も書いた内容なのだがwww

自分は貧乏で金が無い。

だが、そんなチンケな輩ではあるが、時々、身分不相応な「贅沢」をする。

例えば、「情報」を入手する場合である。

具体的にいうと、雑誌の購入や専門書の購入がこれに該当する。

勿論、本当の意味での「極秘事項」と云うのは、書面で開示されることは稀である。

しかしながら、現時点に於いて、雑誌に書かれている記事から類推していくということは、結構、重要なように自分は感じる。

インターネット社会に成って、何でもかんでもタダで「検索」出来るような感じには成って来た。

だが、「情報」を得るには金銭を惜しんではいけない、という「意識」が、どんどん薄れていっているように自分は感じている。

ちなみに、誤解して欲しくないのは、「情報は大金を出せば買える」と云うことを云いたいのではない。

「情報」を得るための、さまざまな「経費」(例えば交通費など)に「お金がかかる」ということである。

「大金を出せば、購入出来る」と云うのは、「成金趣味」である。

「情報」と云う代物ほど、いわゆる「成金趣味」とは縁遠いものはない。

現在のインターネット社会によって、ネット内での「情報の奔流」を目にして、世人の多くは「何でも知っている」ような気に成っている。

大間違いである。

逆に、情報量が多過ぎて、訳が解らなくなっているのが本当のところなのだ。

しかも、根拠薄弱なジャンク(屑)なやつばかりなのだ。

そういう意味で、若い世代の方々が、或る面、情報に「疎く」なるのではないか、と自分は危惧している。

糖尿病とは、栄養過多による内分泌障害で、栄養の代謝が異状をきたして、痩せ衰えていくものである。

それが、カロリーではなくて「情報」でおこるのである。

情報過多による知性の「糖尿病」に罹る。

それは、大変、ゆゆしきことであろう。

いわゆる今上陛下の御譲位に関して。

自分が心底理解に苦しむのは、日本会議に密接な、いわゆる「保守派」の学者や言論人が、ほとんど今上陛下の御譲位に否定的であることである。

皇室典範の条文に無い

譲位された前天皇と新天皇でご皇室内で対立する危険性が有る

譲位ではなく摂政で良い

確かに、「理屈」としては、全て「一理有る」。

だが、今上陛下の「玉音放送」を拝した限り、摂政で対応する、と云うのは、陛下の大御心から乖離しているとしか感じられない。

これでは、「摂政」どころか、「そりゃ、殺生や!」であろうwww

現実に、天皇陛下でなければ為し得ない「お仕事」が存在する訳である。

具体的に挙げれば、「宮中祭祀」である。

外国からの要人との歓待と云った事柄は、極論すれば、「人臣」である総理や外務大臣でも「代わり」が出来る。

だが、「天神地祇」に祭祀を捧げられて、「皇孫」として、日本という国と国民の安寧と幸福を祈念される「お仕事」は、天皇陛下でなければ務まらない。

この「宮中祭祀」ということに関しては、「代わり」が居ないのである。

掌典職の「神主」が存在はするが、それはあくまで「儀礼」を斎行するだけである。

やはり、「皇孫」の「現当主」である、天皇陛下が祈念されてこそ、はじめて「天神地祇」は感応されるのである。

だが、その肝心要の「宮中祭祀」が、陛下の御公務軽減の真っ先の項目に指定されているのである。

嗚呼!やんぬるかな!である。

一方で、国民の相当な多数が、陛下の放送を視聴し、御譲位を支持している。

勿論、国民の大多数は、ご皇室の何たるかも、天皇陛下の何たるかも、ほとんど理解していない。

知らないし、解らないのである。

だが、今上陛下の玉音を拝聴し、瞬間的に感覚的に賛同したのである。

つまり、今上陛下の大御心を素直に受け止めたのである。

このことは、極めて決定的であると云わざるを得ない。

ここで、自分が愕然とするのは、この今上陛下の御譲位に関して、世間一般大衆といわゆる「保守派」の学者や言論人とで、決定的に乖離したことに有る。

つまり、世間一般大衆は今上陛下の御譲位を「賛成」し、いわゆる「保守派」の学者や言論人が「反対」する。

この「構図」が明確にされていくと、国民の大多数が、いわゆる「保守派」の学者や言論人に対して怪訝に感じるようになるだろう。

「何で、いつも『天皇陛下万歳!』って声高に訴えている保守派の人々が、このたびの今上陛下のお気持ちを反対するのだ?」と。

つまり、「理屈」では「天皇陛下が大事」と述べておきながら、天皇陛下のお気持ちを無視し、反対することを平然と云ってのける。

これでは、国民の大多数からは、納得されないだろう。
と云うよりも、この一点を以て、いわゆる「保守派」の学者や言論人のその他の事柄(歴史認識や英霊奉慰顕彰の問題などの)「主張」までもが、胡散臭く、全て嘘っぽく聞こえてしまうようになるだろう。
そうなると、いくら理路整然と論破したところで、「頭では解っても腑には落ちない。」というジレンマに陥る。
そして、ついには、「いわゆる『保守派』の連中が今上陛下を虐(いじ)めている」という「構図」で受け取られてしまうのである。
そうなると、いわゆる「保守派」そのものが、日本国民の大多数が「嫌悪」されることと成ろう。
必然的に、「憲法改正」を初めとした、あらゆる「運動」が座礁することと成る。
事は極めて重篤重大であると同時に緊急を要する。
このまま、今上陛下の大御心を踏みにじって、御譲位を阻止するのか。
それとも、今上陛下の大御心に沿い奉って、然るべき対応を講じるのか。
その分岐点に、今の我々は立たされている。
肚を括らねばならない。

只今現在、自分は「名刺」を持っていない。

勤め先は、派遣社員なので、名刺は無い。

また、いわゆるボランティア活動などに於いても、役職が無いので、名刺は無い。

以前は、実は、個人で名刺を作成していた。

それは、初対面の人と連絡先を教え合うに当たっては、名刺が便利だったことによる。

だが、いわゆる「保守派」の集まりに、自分は金銭的な問題から、ほとんど参加しなくなった。

現在、参加している集まりは、「クローズ」なところなので、名刺を出して自己紹介するという場面は皆無である。

だから、かつてのように、様々な方々と自己紹介をする必要性が無く成ってしまったのだ。

まあ、別に、以前のように個人の名刺を作っても良いのだが、最早、名刺を出す機会もほとんど無く成った。

あと、「名刺」を持っていないことで「良い」点が有る。

よく、「名刺」交換の時に、自分が「すいません。自分は名刺を持っていないのです。」と申し述べると、露骨に侮蔑の色を浮かべる人が居る。

「折角こちらは名刺を出してやってやるのに、お前は名刺さえ出せないのか!」と。

で、そういう手合いの人は、以後、お付き合いをしなくて良い人がほとんどである。

こういう人は、目の前に居る「人物」が一体どうであるのか、ということにほとんど関心が無い。

この「人物」が、どういう「肩書」で、どういう「評判」なのか。

こちらの方が、圧倒的に関心が有るのである。

只今現在、自分には何も無い。

全くの「素」の自分、「個」の自分でしかない。

そして、二言三言会話をしてみて、はたして「おつきあい」をするに値する「人物」か、どうなのか。

それしか存在しないのである。

で、現在の自分にとって、「おつきあい」をしたい人は、名刺の有る無しに固執しない人だけなのである。

だから、必然的に「名刺」が不要なのである。

今、自分は、侮蔑されようが、軽蔑されようが、見くびられようが、一切構わない。

「自分」そのものに対してよりも、「自分の『装飾』」に関心がある人は、現在の自分に対しては歯牙にもかけない。

あたかも存在しないが如く、無視してくれる。

それが良いのである。

と云う訳で、まだ、しばらくは「名刺」の無い日々を送っていこうと思っているwww

昨日、百貨店の高島屋へ「納品」の仕事で行った。

だが、そこで、受付でもって、「納品や工事などの業者は、名刺を提示せよ。」と云う。

いわゆる「身分証明書」の「運転免許証」を提示したのでは、駄目なのだと云う。

会社名と個人名が明記された「名刺」を出せ、と云うのだ。

自分は、派遣社員であるから、名刺は無い。

だから、「名刺が無い。」と云うと、あれこれと文句を云って来る。

今日のところは、何とか店内に入れてくれたが、次回からはどうなることやら解らない。

「名刺の提示」ということは、セキュリティ・チェックの度合いを上げることを意味するのだろう。

世界的なテロの横行などを勘案して、警備を厳重にすることに異存は無い。

だが、「名刺の提示」で、果たしてセキュリティが向上するのか?

つまり、訪問者の身元確認を厳格化していこうということに成るのだろうが、もし、本当に実効性の有るチェックを実施するのであれば、顔社員入りの「社員証」でなくては駄目だろう。

現在、「名刺」など、自宅のプリンターとパソコンで、いくらでも作成が可能だ。

かつては「山桜」のような専門会社に発注して作ってもらっていたが、現在、会社の名刺と云えば、社内の総務部などで作っているのではないだろうか?

さらに、駅頭で、「10枚¥1000」みたいな名刺作成自動販売機も存在する。

そして、キンコーズのようなサービスセンターに発注すれば、一日で「名刺」は出来る。

かつて、自分も「個人」の「名刺」を作って持っていた。

だから、かつてのように、「名刺」を持っているから「社会的な保障」を有するものでは無くなっている。

しかも、「名刺」を出したところで、警備担当の人間が、その「名刺」の「裏取り」の確認をちゃんとしているのか?というと、甚だ疑わしい。

本当に、訪問者の身元を確認したいのなら、出された「名刺」の連絡先にその都度電話を入れて、その会社に、「名刺」を出した該当人物が所属していることをちゃんと確認しなくてはいけない。

しかし、そんな煩雑なことを、警備担当者が出来る余力は無い。

だからその「名刺」のデータは、何か「事件」が発生した後に、事後確認の為の「データ」として使うことに成る。

だが、その時に、「名刺」に記載された会社名も人物名も住所も連絡先も全て「架空」であった場合、そこで「追及」は頓挫する。

結局、「名刺」を確認するだけでは、セキュリティ向上には、全く意味が無い、と云うことである。

多分、本来は、顔写真入りの「社員証」の提示を要求したのだろうが、それを実施すると、実際の納品業務が円滑に運営出来ないからだろう。

そこで、「名刺」ということで「妥協」したのである。

「妥協」というのは、あながち悪いものではない。

対立する「極論」同士を、何とか「合意」に持っていくための一種の「方便」なのである。

しかしながら、何事にも、「有効性」が問われなくてはいけない。

形式主義だけの「妥協」であるならば、それは単なる「自己満足」であり、「欺瞞」でしかない。

さらに、「名刺」が無い、という一点のみでもって立ち入りを拒絶するのである。

これは、明確に、名刺を作ってもらえない「派遣社員」に対する「差別行為」であり、「人権侵害」だと思う。

別に、自分は、高島屋百貨店に仕事上、入店を拒否されたところで、給与には支障が無い。

ただ、派遣先の正社員が「過重労働」を「強制」されるだけである。

こんな、かたちだけの、無意味で、いわゆる派遣社員を蔑視するような対応を得意気にしている高島屋百貨店に対して、自分は内心、激怒している。

だから、今後、絶対に高島屋百貨店には「お客」としては行かないことを決心した。

亡父は、生前、勤め先の近所だった高島屋百貨店を「贔屓(ひいき)」にしていて、よくいろいろなものを購入していた。

だから、自分も、それなりに「親近感」を持っていた。

だが、今日の仕打ちで、それも消失した。

どうせ、派遣社員のような低所得者など、はなから眼中に無いのだろうが。

もう、自分は絶対に高島屋百貨店ではビタ一文落とさない。

俳優の高畑裕太が逮捕された。

「性的暴行」と云うが、多分、強姦なのだろう。

あと数日で放映される日本テレビ系の24時間テレビに出演することも決まっていたのに、何たることか!

同じ「裕」ちゃんとして、大変嘆かわしい。

彼は、本質的には「いいやつ」なのだ。

だが、只今、御縄を頂戴することに成ったのは、ひとえに「勘違い」による。

「勘違い」を惹起させ、増長させたのは、皮肉にも「順境」だったことにある。

「追い風」が吹き、まさに「順風満帆」の「順境」だったゆえに、思い上がってしまったのである。

「逆境」は耐え難いほど苦しいものだが、実は、「これ以上は悪く成らない」という面も持ち合わせている。

「順境」は、誠に気持ちが良いものであるが、それがゆえに、足元をすくわれかねない。

ほとんどが、慢心による「自滅」である。

だから、実は「順境」の方が恐ろしいのである。

「登山」に於いて、登りは体力的にとても辛い。

だが、実は、山を降りる方が、危険度は高い。

楽ではあるが、危険である。

「順境」とは、まさにそうであろう。

「順境」、恐るべし。

昨日の深夜番組で、「瀬長亀次郎」の特集番組をやっていたので録画して、見た。

TV番組そのものは、月並みな左翼的な代物だったが、「瀬長亀次郎」を久しぶりに思い出すことが出来たことは、自分にとって収穫だった。

自分にとっての瀬長亀次郎は、沖縄全県区選出の日本共産党の代議士だった。

だが、元来は沖縄人民党の幹部で、米軍占領下の那覇市長も務めた。

日本本土復帰後は、日本共産党の代議士と成る。

沖縄人民党は、復帰後に日本共産党へ合流するが、そもそも沖縄人民党そのものが日本共産党の指導下に有った。

彼は、旧制高校を社会主義運動に参加していたことを理由に放校処分と成り、以降、一貫して尖鋭的なコミュニスト、共産党員だった。

だが、瀬長亀次郎は、単なる「共産主義者」の枠に収まらない、カリスマ性が有った。

現在、左翼活動家と云えば、福島瑞穂や辻元清美ぐらいの低劣なタマしか知らない、いわゆる「保守派」があまりにも多い。

かつては、左翼政治家でも、侮りがたい「大人物」は存在していた。

彼らは、政治信条に於いては、いわゆる「保守派」から見れば「敵」かもしれない。

だが、彼等の強さや大衆を魅了した魅力を分析することを怠れば、必ず政治的に敗北する。

左翼は、全員、「脳内御花畑」ではないのだ。

ちなみに、その一群の中に、野中広務も存在していると自分はとらえている。

民進党の代表選挙に関して。

蓮舫が出馬し、山本モナ男こと細野豪志が不出馬で、長島昭久も出ず。

「言うだけ番長」の前原が出馬を模索しているようだが、所詮は「噛ませ犬」でしかない。

知名度とカメラ映りが良く、組織も固めている蓮舫に勝てる対立候補はいない。

変に気負って出馬したところで、大惨敗をしたら、今後の負の政治的影響は甚大である。

だから、民進党という政党全体の浮上を考慮したならば、誰かしら対抗馬が出て、代表選挙を華々しく実施すべきだろうが、それを行えるだけの人材が払底しているのである。

かつての日本社会党の委員長選挙に於いて、土井たか子の無投票当選を阻止したのが、NHKの労組出身の上田哲だった。

かつての社会党でさえ、出て来る者が居たのだが、今の民進党はどうだか。

このままだと、前原も腰砕けに成って、無投票に成りそうである。

 

さて、現在の民進党の議員グループである。

 

民社協会グループ・10人(保守系)

政権戦略研究会(旧羽田孜グループ)・6人(保守系)

国のかたち研究会(菅直人グループ)・22人(左翼系)

新政局懇談会(横路孝弘グループ、旧社会党系)・10人(左翼系)

サンクチュアリ(赤松広隆グループ、旧社会党系)・約20人(左翼系)

凌雲会(前原誠司グループ)・16人(保守系)

花斉会(野田佳彦グループ)・8人(保守系)

リベラルの会(平岡秀夫・近藤昭一グループ)・6人(左翼系)

「日本グランド・デザイン」研究会(玄葉光一郎グループ)・10人(保守系)

素交会(大畠章宏、旧鹿野道彦グループ)・10人(保守系)

国軸の会(長島昭久グループ)・6人(保守系)

自誓会(細野豪志派)・9人(唯一の派閥)(保守系)

馬淵澄夫グループ・約5人(保守系)

旧維新の党グループ・23人(保守と左翼混在)

 

民進党の議員グループは、自誓会(細野派)以外は、「掛け持ち可」であるので、一人の議員が複数以上にグループに所属している。

なお、(保守系)(左翼系)と書いたのは、自分の「独断と偏見」であり、(保守系)グループの中でも、左派的な言動をする議員も存在する。

また、グループとして、左派的な決定をすることも有る。

あくまでも、「比較的として」という目安でしかないことを、敢えて、特記させてもらう。

 

さて、一見して気が付くのは、いわゆる(保守系)のグループの人数が比較的に少なく、(左翼系)の人数が多いこと。

つまり、左翼系の方が「結集力」が強いということに成るだろうか?

後は、民主党から民進党へ新党結成に成った際に、旧維新の党の議員はそのまま「ひとかたまり」の感じで、現在、党内力学上位置している。

ただ、旧維新の党も、比較的野党色が濃厚な江田憲司と、さほどではない松野頼久で温度差が激しい。

民進党内最大の議員グループという「かたち」に成ってはいるものの、江田・松野の両氏の仲違いは修復されておらず、分裂がちらついている。

また、今回平成28年9月5日の党代表選挙で、何とか存在感と発言力を高めたいばかりに、対蓮舫の候補を応援することを匂わせたりなど、あざといことをしている。

しかし、ここで気が付くべきことは、旧維新の党の連中は、所詮は橋下徹の「風」でもって当選出来ただけに過ぎないということである。

多分、次の衆院総選挙に於いて、旧維新の党のほとんどの議員が落選することだろう。

そうなると、民進党は、少なくとも3年以内には落選する連中の「胸三寸」でもって、党代表が決められてしまうという可能性が高いのだ。

 

あと、平成28年7月の参院選に於いて、いわゆる「野党統一候補」として地方区で当選した議員である。

何人かは、小沢一郎と山本太郎の生活の党に行ったり、独自の院内会派を結成したりしているが、民進党に入る議員も存在する。

で、これが問題である。

「野党統一候補」ということは、共産党や社民党といった左翼政党の選挙協力によって当選出来た訳なので、当然、彼等は左翼政党との連携を主軸に置く。

だから、今後、約6年間、彼等は民進党内に於いて、また参院内に於いて、絶えず左翼政党の方向へ引っ張る動きをすることは間違いない。

つまり、民進党として、自民党などの政権与党との協議を行う際も、今回平成28年に当選した参院議員が左翼政党との連携を強く主張することによって、それに民進党執行部が引きずられて非現実的かつ教条主義的な対応しか取れなくなる危険性が出て来るのである。

「野党統一候補」として当選した議員は、今後、長期間に渡って、いわゆる「左派バネ」を利かせることに成るだろう。

これは、今後、ボディブローのように国政に悪影響を与えていくことと思う。

 

自分は、パッと見の良い、蓮舫が代表に成ることで、自民党には結構な脅威に成ると思う。

自民党の選挙の強さは、あくまで、「バラバラの野党」と「不甲斐無い野党第一党」という条件が付帯した上での、相対的なものであって、絶対的なものではないからである。

だが、民進党も、根本的な政党としての再生改革は出来ないだろう。

ちょっと選挙に勝ったぐらいで、すぐに危機感を無くしてしまう。

つまり、もうどうしようもないくらい現状認識能力が欠落しているのである。

むしろ、おおさか維新の会の方が、間隙をぬって浮上するかもしれない。

 

おおさか維新が、現在の「安倍・菅シンパ」という関係性を維持するかどうかは、実は確固ではないと思う。

民進党がガタガタと成り、空中分解した際に、いわゆる民進党内の保守派を呑み込んでいくだろう。

そうなった時、自民党との「対決姿勢」を見せつけて、「野党第一党」への地位を民進党から簒奪する挙に出ると思う。

その時、労組「連合」はどう動くだろうか?

極めて流動的で、先行きは見通しが不透明である。

成ればこそ、いわゆる「保守政治」グループの確固とした地盤固めをしておかなくては駄目だと思う。

政治的な地盤が確固であるならば、政党や議員の離合集散は、それほど重大事にはならない。

我々がすぐにとりかかるべきことは、やはり、まず、足元を固めることである。

それは、誠に地味で泥臭い作業である。

だが、それを侮蔑したり忌避したりしては絶対にいけない。

昨日、千葉県市川市の遠壽院に於いて、施餓鬼法要に参拝しました。

遠壽院は、日蓮宗(注・日蓮正宗ではありませんwww)大本山法華経寺の塔頭です。

元来は、中山門流の祈祷道場でしたが、明治の廃仏毀釈の影響で、身延の積善坊流が途絶したことから、現在の日蓮宗の祈祷様式の「源流」に成りました。

法華経寺に日蓮宗としての「荒行堂」が設営されましたが、元来は遠壽院が祈祷根本道場荒行堂と云えます。

お施餓鬼の前に、表堂で、修法師の法楽加地を受けました。

実は、自分にとって、一番馴染みが深い神仏が鬼子母神様で、それから、神田明神平将門公、能勢の妙見菩薩、靖国神社の英霊、などなどの順番に成っています。

そのお施餓鬼法要の終了後、御住職からのご挨拶で、「これから、たいへんな時代に成る。思わぬ苦難が襲って来るのではないか。」というご指摘が有りました。

自分も、そんな予感がしています。

ですから、「準備」と「訓練」は怠らないようにすべきでしょう。

どのような苦難が襲って来るのかは、解りません。

ただ、このまま「太平楽」と云う訳には、いきそうにもありません。

心身共に鍛練が肝要かと思います。

どうも、最近、拙文が「偉そう」でいけないwww

だいたい、自分は三流私大農学部を、就職が決まったことを口実に「追い出される」ようにして「卒業」させてもらった馬鹿であるwww

しかも、英単語で「自転車」のスペルが正確に書けないくらい、語学力が無いのであるwww

そして、昨年、再就職活動を行った結果、エントリーが300社以上、一次面接が20社以上、二次面接が5社、全部不採用だったwww

つまり、企業の採用担当から駄目印を押されたのであるwww

こんな駄目な奴に対して、「先生」なんて敬称を奉っては、いけないと思う。

 

ということで、以下、自分の知的レベルが解るような拙文にするwww

 

よく「厨二病」の集まりで交わされるような話題を、今回、書かせてもらう。

 

学校のクラブ活動で、柔道部や空手部、ボクシング部などの部員は、格闘技を日夜練習している訳なので、当然ながら「喧嘩」は強い。

しかし、それ以外のクラブ活動をしている学生で、想定外の「喧嘩」の強さを持っていそうなクラブ活動は何だろうか?

自分が、雑誌の記事か何かで仕入れた情報だと、二つ有る。

一つは、ボディビルである。

とにかく、筋肉を鍛えるだけ鍛えまくっているので、そのパワーが比較に成らない。

ラグビーやアメフトの部員もパワーでは引けを取らないが、一見、細くて小さいように見える人間も、ボディビルをやっている部員は、見た目とは大違いのとてつもないパワーを発揮する。

だから、当然、「喧嘩」も強いのである。

もう一つは、ダンサーである。

これは意外に思えるかもしれない。

だが、ダンサーは、全身の身体を「表現」するために、複雑な動作を可能にしている。

関節や筋肉の一つ一つまで、意識を持って動かすことが出来るように練習している。

そういう面では、ダンサーの身体能力は、並みのスポーツクラブの部員よりも格段に優れていると指摘して間違いが無い。

確か、マイナーな格闘漫画で「軍鶏」と云う作品の中で、男性のバレエダンサーが格闘家に転向するエピソードが有ったように記憶している。

また、ブラジルの格闘技「カポエイラ」は、ダンスと不可分の形態である。

だから、ダンサーも「喧嘩」が強いのである。

 

以上、いかにも「厨二病」的な話題で書かせてもらった。

こういう知的レベルが、自分の本当のところなのであるwww

畏くも、今上陛下の「生前譲位」に関して。

既に、「賊軍合祀」に関しての拙文で言及しているので、簡潔に。
http://blog.livedoor.jp/soemon/archives/55534800.html

そもそも、「生前譲位」に関して、いわゆる「保守派」の論客が批判していることはおかしい。

まず、皇室典範に該当条文が無いとかについて。

それでは、「生前譲位」は、近代的法治主義の範疇で議論しよう、ということになる。

もし、そうであるならば、「悠久の歴史から連続するご皇室」や「天孫降臨から連なるご皇室」に依拠した「尊皇」の精神を否定しなくてはいけない。

何故なら、ご皇室の尊さは、近代的法治主義などを遥かに凌駕したものであるからである。

また、法律論に固執した場合、現行の日本国家の法制度との整合性が問われて来る。

現行の日本国家は、明確に「議会制民主主義」である。

ちなみに、戦前も「議会制民主主義」であったが、こと、ご皇室に関しては、厳格に峻別していた。

大日本帝国憲法に於いて「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」と記載されていたからである。

だが、戦後の日本国憲法に於いては、「議会制民主主主義」と君主であるご皇室との峻別が無くされた。

だから、政治状況によっては、「選挙」や「国民投票」によって、ご皇室に関する事柄を決めていく可能性も存在し得るのである。

自分は、むしろ、こちらの方を深く憂慮する。

皇室典範を日本国家の「法律」とするのではなく、ご皇室という中の「規約」や「定款」にすべきである。

いわゆる、企業や法人などの「規約」や「定款」ならば、日本国家の現行の法体系や法制度との厳格な整合性は要求されない。

ご皇室は、あくまで、国会から「超越」した存在でなくてはいけない。

もし、日本共産党が国会で大多数を占め、総理や衆参議長を占めた場合、ご皇室の有り方そのものを議論する場に出席をすることが可能に成る。

「国民から選ばれた代表だから」と云う理由に成ろうが、それで良いのか?

やはり、ご皇室に関わることは、ご皇室内でお決めになるのが妥当だと自分は思う。


次に、「生前譲位」が為されると、かつての上皇(太上天皇)や法皇といった存在が生じ、ご皇室内に分裂や対立の芽が出る、といった批判である。

ならば質問したい。

現在の今上陛下と皇太子殿下は、分裂や対立される危険性が有るのか?

すると、愚昧なネトウヨから「雅子妃ガー」とか「小和田家ガー」などと得意満面な口調で「説明」が為されるだろうが、まさか、それを根拠にされる訳ではあるまいな?

確かに、「歴史的」な観点に立てば、天皇と譲位後の前天皇の対立という可能性は生じてこよう。

だが、現在の日本国の「政体」は「議会制民主主義」なのである。

かつてのような、白河院の「院政」も、保元・平治の乱も起こり得る可能性は皆無である。

もし、天皇と譲位された前天皇との対立によって日本国内が分裂するとしたならば、その責任は、最早、ご皇室に有るのではなく、政府や国民に有る。

だから、「上皇ガー」などと云うのは、今後のご皇室での諸問題を全てご皇室に負わせてしまおうという、甚だ無責任でご都合主義な政府と国民であろう。


我々、下々の者は、畏き辺りのことは、あれこれと言挙げすることは不遜であり、不敬であるのである。

だから、黙っていれば宜しい。

それとも、「保守派」の論客であるならば、華族や皇族に等しいとでも云うのであろうか?

だから、何を云っても許されるとでも云うのであろうか?

所詮「尊皇愛国」というのは、そういうものなのであろうか?

自分は、現在、しがない「派遣労務者」である。

薄給だし、身分保障など皆無だし、やはり正規雇用で働きたい。

だが、自分の心の奥底で、「今更、正規雇用で働くのか・・・」と云う気持ちも、実は、有る。

現在の仕事で、飲料ベンダーのドライバーさんと一緒に仕事をさせてもらっている。

で、そのドライバーさんの勤務状況を聞いてみると、多忙なのである。

実務に関しては、自分もお手伝いをしているので解るのだが、それ以外の正社員だから従事しなくてはいけない「仕事」が有る。

それが、朝礼であり、会議であり、報告書作成と提出であり、人事の自己評価・業務目標の作成と提出であり、経費精算であり、業務研修である。

自分が派遣労務者に成って、唯一良かった点は、会議の出席と報告書の作成が無く成ったことである。

ちなみに、自分は実は、会議に出席して発言することは勿論、議長として仕切るのが上手いwww

また、報告書やプレゼン資料作成も得意なのであるwww

しかしながら、それらは、実は利潤を直接的にはもたらさない「仕事」なのである。

だから、やらなくて良いのであれば、それに越したことはないのである。

閑話休題www

正社員とも成れば、ただ、業務をしさえすれば良い、と云う訳にはいかない。

いずれは、後輩社員を指導したり、職場の管理なども考慮していかないといけない。

場合によっては、管理職として、指導や管理をする「仕事」もしないといけない。

だから、朝礼や会議や研修などなどの「仕事」をしていかないといけないのである。

ところが、主たる「業務」の勤務時間だけで、既に法定労働時間は超過しているのである。

それから、更に、「仕事」をしないといけない。

だから、どうしても過労気味に成らざるを得ない。

ついには、「自分からお金を払うから、どうか休ませて欲しい。」なんて気持ちに成る訳であるwww

 

現在の日本の職場環境は、やはり、異状だと思う。

かつては、自分も、早朝から深夜まで働くのが当然だと思っていた。

だが、卒倒する寸前まで働かないといけない正社員を、自分は、羨ましいとは思えなくなってしまった。

また、年齢が上がることによって、心身に無理がきかない状況となり、今後、更に年老いていけば、更に難しいことに成ると思う。

確かに、人間は働けるうちに、働けるだけ働くことが素晴らしいことだとも思う。

だが、その一方で、「働きたい」と勤労意欲の有る人が、非正規雇用でもって安く酷使されているのである。

つまり、少数の正規雇用者にあらゆる仕事が集中し、多数の非正規雇用者や失業者は仕事からあぶれているのである。

このまま、正規雇用者の過労の度合いが増したならば、自発的に正規雇用を辞めていく人間が出て来るだろう。

一方、現在の日本社会の構成は、あくまで正規雇用者を想定したものに成っている。

納税や健康保険、年金、皆そうである。

だが、非正規雇用が現状の約4割から5割、6割、7割と増加していけば、低所得者が増えて所得税などの納税額は減少し、厚生健保や厚生年金の組合員が減少してしまう。

そうなれば、健保や年金の制度も変容を余儀なくされ、国家予算も影響を逃れられない。

今、日本の社会は、大きな岐路に有る。

つまり、現行の正規雇用者を想定した社会の構造をどうするのか、ということである。

非正規雇用者が、このまま増加することを容認するのならば、現行の社会構造を抜本的に組み替えないと駄目だろう。

逆に、現行の社会構造を維持し続けるのであれば、非正規雇用者の増加を抑制しなければいけない。

とにかく、社会構造は「正規雇用者」に基づいた制度でありながら、実態は「非正規雇用者」が増加している、というミスマッチの中で、明確に利益を得ている者が存在しているのである。

それが「企業」ということに成ろうが、企業各社の個々のバランスシート上は問題が無くとも、国家や社会全体のバランスシートに成ると問題が生じて来る。

つまり「統合のパラドックス」と云われるような状況である。

現在の安倍政権は、アベノミクスや「一億総活躍社会」という政策で、模索を果敢に行っている。

必ずしも、全国民まで、その恩恵は現時点で及んでいないが、かつての民主党政権時よりかは遥かに良い。

また、いわゆる民主党、民進党の対案は、あまりに現実味が薄くて食指が動かない。

民進党は、所詮、「選挙対策互助組合」でしかないので、腰が定まらない。

だからこそ、労働組合がしっかりしないと駄目だろう。

とりわけ「連合」は、民進党を操作するだけで満足していては駄目である。

そもそも「連合」は、現在の非正規雇用者の増大の責任の一端を担う自覚を持たなくてはいけない。

「連合」の取り組み方が時代錯誤なままであるから、現状に合致せず、結果として成果が上がらないのである。

いくらアンチ自民党ばかりを叫んでいても、本当に弱い立場の国民を救うことは出来ない。

そういう意味で労働組合「連合」の責任は厳しく追及されなくてはいけないと思う。

ようやく、職場での「メンタルヘルス」に取り組む企業が増えて来た。

これは、良い傾向であると思う。

だが、単に、社員へ「メンタルヘルスチェック」を受けさせるのみを主眼としているのならば、あまりに認識が甘過ぎると思う。

いわゆる、企業がメンタルヘルスを無視出来なくなってきたのは、職場の中で精神疾患、とりわけ「うつ病」を発症する社員が増大し、休職する社員が多発して、業務に支障をきたすように成ったからである。

さらに、折角、「戦力」に成るまで「育成」してきた社員が、精神疾患が原因で退社する事態と成った。

そうなると、新たに社員の補充をして、更に「戦力」に成るまで「育成」しなければいけない。

そして、その間は、当該職場に於いては、欠けた社員の分の業務を、職場の残りの人員で何とか維持していかなくてはいけない。

だが、既に、各社員は手持ちの業務だけで限界をきたしており、更にその上に欠けた社員の分の業務を分担出来るような余力は残っていない。

最悪の場合、残った社員の中で、過労などが原因で精神疾患を発症し、どんどん「戦力」が減少して、最終的に職場の「戦線崩壊」をきたしてしまうのである。

だから、「メンタルヘルスチェック」でもって、「現状把握」をすると同時に、職場のあり方を変革する意識を持たない限り、結局、意味が無い。

自分も「うつ病」で休職したが、結局、人事異動は為されなかった。

だから、折角、「うつ病」が軽減しても、同じ職場に戻るだけなので、またしばらくすると再発してしまったのである。

結局、退社するしかなかった。

 

一方で、新入社員を採用する際に、メンタル耐性の有る無しを、採用の選考に於いて調査する傾向が出て来たという。

もう、失笑するしかない。

まず、メンタル耐性というのは、人間の特性の中のごく一面でしかない。

だから、メンタル耐性が有る人が、ビジネスに於いて、優秀であるかどうかは、また別問題であるということである。

勿論、アスリートのようなずば抜けた人間は、能力もメンタル耐性も全て兼ね備えている。

だが、そんな超人的とも云える能力を持った人物は、ごくごく少数である。

そんな逸材が採用試験に何十人も押し寄せて来ることなど、どの企業に於いても絶対に有り得ない。

また、物事というものは、全てに於いて「二面性」が有る。

繊細であるということは、弱さであるとともに、緻密さでもある。

だから、メンタル耐性が強い人ばかりの組織は、鈍感でがさつな人員ばかりに成る可能性が有ると云えよう。

そうなれば、メンタルヘルスに問題を抱える社員は発生しないが、その代り、企業の業績は悪化して倒産してしまうという、ブラックジョークのような事態と成ろう。

 

あとは、職場環境と個々人の資質の組み合わせによって、メンタルヘルスというのは変わってくるのである。

これは、自分の体感なのだが、何をストレスと感じるかは、個々人によって違いが有ると思うのである。

例えば、自分は、飛び込み営業からカスタマーコールサービスまでやってのけたが、その時は、「うつ病」を発症しなかった。

だが、研究所の中の仕事に変わってから、「うつ病」を発症したのである。

傍から見たストレスならば、飛び込み営業や電話対応の方が余程大きいように見える。

自分は、そういうストレスには耐えられた。

だが、研究所内の一室に籠って、自分にとっては訳が分からない専門的な技術開発の業務を延々と行うことは、結果として精神的に耐えられなかったのである。

だから、「試験」でもって、「ストレス耐性有り」とみなされても、時と場合によっては精神疾患を発症することは不可避であるということである。

つまり、リスクを回避することを前提にし過ぎてしまえば、本当の意味で業務に必要な人材を排除してしまう危険性が有ろう。

 

その一方で、ブラック企業による、「洗脳」とも云える社員操縦法が存在する。

有給休暇を取ることは、勤労道徳に反するような認識を植え付けているのである。

何故、そんなブラック企業が存続出来得るのだろうか?

そこまでして人件費を削減すれば、利潤が上がり、キャッシュフローも回って、企業経営は順調に成る、ということなのだろうか?

それは、認めたくない「事実」であるが、それは所詮「パラドックス(逆説)」でしか有り得ないと思う。

やはり近江商人の「三方良し」(自分良し、お客良し、世間良し)の精神でないと、いけないと思う。

 

日本人は、どうして、一面的な見方しか出来ないのだろうか?

「短所は長所」でもあり、「ピンチはチャンス」でもあるのだ。

減点法ばかりで評価し続けていけば、最終的には停滞と閉塞しかないだろう。

勿論、加点法ばかりでも破綻はする。

だから、減点法と加点法を組み合わせていくべきなのである。

多分、減点法ばかりに偏っているのは、「手抜き」をしているからだと思う。

本質を見抜いて、選別しようとする意識や意欲が無いのだ。

勿論、その能力も無いのだろうが。

 

自分は我が祖国・日本を愛するが、日本「最高!」と無邪気に高吟する気にはとても成れない。

現に、「劣等民族」(と、いわゆる「保守派」がみなしている)の朝鮮人や支那人に、国際世論形成や核兵器戦略に於いて、一方的にやられっぱなしではないか!

つまり、日本人は「劣等民族」よりも更に劣るということに成る。

このパラドックスを、どのように、いわゆる日本の「保守派」は説明してくれるのだろうか?

人は誰しもが順境を乞い願うものである。

敢えて逆境を望む者はほとんどいない。

だが、既に若年層からは「老いさばらえて」しまった自分から云わせると、人間にとって順境から得られることは、あまり無い。

順境に在る時、人は、ただ夢中に成って、突進するだけである。

仕事や勉学などに、ただひたすら没頭するのみである。

そこに一片の疑義も発生し得ない。

だが、変調をきたし、いつの間にか歯車がかみ合わなくなり、みるみるうちに悪いことが続くようになると、さすがに思い煩うように成る。

何故なのだ、どうしてなのだ、と、今迄は気にも留めなかったことや見過ごしてきたことまでも、次々と脳裏に浮かんで来るのである。

そうなってから、初めて、自分の本質やら自他との輪郭やら周囲の情景までもが、見えて来るのである。

地獄に突き落とされ、塗炭の苦しみにのた打ち回って、ようやく思い知らされるのである。

悲しいかな、人間というのは、骨身に沁みたことしか学習出来得ないのである。

他人から懇切丁寧に教示されたところで、そんなものは一晩寝てしまえばきれいさっぱり抜けてしまう。

だが、枕を濡らし、悶々として眠れぬ夜を過ごすような逆境の中から刻印された記憶というのは、死ぬまで忘れることは無い。

だから、人間は、逆境の時でしか成長出来得ないのである。

 

古来より「可愛い子には旅をさせよ」と云う。

今日、子供から青年まで、あまりに「指導」が行き届き過ぎているように思う。

「これをしてはいけない」

「かくあるべきだ」

などと、懇切丁寧に教育指導が為されている。

しかしながら、いくらその指導の背景の理論や根拠を説明したところで、指導を受けた方は、本当のところ、腑に落ちていないのである。

ただ、「そういうものなのか」と想定するしかないのである。

だが、焼けた鉄に触れて火傷して、初めてその熱さと危うさを知る。

水の中に突き落とされて、鼻から口から水を飲んで、初めてその苦しさと危うさを知る。

所詮、身体で感じたことでしか、人間は「身に付く」ことは有り得ないのである。

そうであるならば、「失敗」と云う経験は、それが致命的なものでない限りは、必ずしも回避すべきことではないと思う。

自分は、魯鈍で不器用だから、今迄配置された職場に於いて、最初は失敗ばかりしていた。

間違いやミスを連発し、その為「今度来た奴は全然使えない。」と必ず駄目印を押されていた。

だから、自分は担当部署が変わるたんびに、自分の愚かさと要領の悪さを呪い、もだえ苦しみ続けて来た。

だが、間違いという間違い、ミスというミスを、ことごとく体験し尽くしてしまうと、後は、いかにそういう失敗をしないようにするか、対策を講じていく。

すると、感覚的な失敗回避方法ではなく、意識的な論理性でもって失敗回避方法を確立していくので、「言語化」しやすいのである。

だから、後進の方々に指導する際に、支障が無いのである。

 

自分は、別記先述した通り、今迄の生涯は、失敗と挫折の連続だった。

だから、めぼしい財産も成果も持っていないのだが、もし、強いてあげられるとするならば、その失敗と挫折の中で、もだえ苦しんだ時の「記憶」であろう。

その記憶から導き出された教訓を論理的に整備していったならば、誠に逆説的ではあるのだが、一種の成功への「法則」を提示することが可能なのかもしれない。

 

腰が痛む。

自宅から数百メートルの最寄駅まで、歩行するのさえ、辛かった。

今日、自分は新たに年齢を重ねてしまったが、そんな「特別な日」にもかかわらず、気分は高揚出来ない。

だが、「人生万事塞翁が馬」である。

腰痛のせいで、仕事に出られなかったが、今日は、通過した台風や居座っている温帯低気圧のせいで、そこらじゅうで集中豪雨の天気だった。

もし、元気に通勤していたら、ずぶ濡れに成っていたかもしれぬ。

また、ほぼ一日、安静にしているしかなかったので、思わぬ休養が取れた。

だから、この腰の痛みも、満更、悪いことばかりではなかろう。

 

人は誰しもが順境を乞い願うものである。

敢えて逆境を望む者はほとんどいない。

そんな中で、かの山中鹿之助は、夜空の月に向かって

「我に七難八苦を与えたまえ」と祈った。

そして、その祈りは通じて、彼の人生は苦難の連続であり、その最期は敵方の騙し討ちによる凄惨なものであった。

また、大谷形部吉継は、文武の才に長けておりながらも、病に苦しみ、仲介や折衝といった「汚れ役」ばかりを担当し、最期は戦場の露と消えた。

だが、山中鹿之助も大谷吉継も、歴史にその名を刻むことが出来たのは、その不運・逆境の中で培った「能力」ゆえである。

それが後世の人々を魅了してやまない魅力の源泉なのである。

だから、自分の意のままにならぬことが多くても、決して自暴自棄に成ってはいけないのである。

ひょっとしたら、それは、神仏からの「贈り物」であるかもしれないのだ。

ただ、それを将来に於ける「糧」と出来るか否かは、その人の受け止め方次第で分かれて来よう。

世を恨み、他人を呪うばかりであったならば、その先に決して明るい展望など有り得ない。

 

逆境を合掌して拝受する、そういう「覚悟」の有る無しが、問われて来るのであろう。

昨晩から腰が痛い。

床に就いてみたものの、少し体を動かすと腰に痛みが走る。

寝返りさえ打てない。

額には脂汗が浮かんでいるが、それは暑さのせいだけではない。


本日、自分は、また一つ年齢を重ねてしまった。

SNS上では、数多くの方々からお祝いの言葉を頂戴した。

誠に恐懼と感謝に堪えない。

本来であれば、お一人お一人にご挨拶を返礼差し上げるべきところであるが、腰が痛む。

実はネットサーフィンどころではないのだ。

突然の腰痛発症の原因は不明で、特に捻った訳でも、重いものを変な姿勢で持ち上げた訳でも無い。

とんだ「誕生日プレゼント」であるwww


今月、つまり8月に入った頃から、自分は自分の年齢と人生に関して考え始めた。

自分は、既に「不惑」の年齢を遥かに過ぎてしまった。

自分は、子供の時から、どちらかというと「老成」してしまっていて、若々しい感じではなかった。

学生時代も、「青春を謳歌する」というような青年らしい日々を送っていた自覚は無かった。

ただ、振り返ってみて、「あれが、自分にとっての青春時代だったのだな。」と再確認している感じである。

そして、自分の今迄の生涯を振り返ると、失敗と挫折ばかりであったように思う。

世に云う「いたずらに馬齢を重ねる」とは、まさに自分のことを指すのであろう。

しかし、自分は自分の生涯に後悔はしていない。

何故なら、自分は、その時その時を出来得る限り懸命に生きて来たからである。

あの時、他に何が出来たか?と自問しても、あの時はあれが精一杯だったと言い切ることが出来る。

だから、後悔はしていないが、猛省はしている。

さて、本当に才覚を有する者は「栴檀は双葉より芳し」である。

齢四十を過ぎて、猶、未だ頭角を現し得ないのであるならば、最早「未熟」という表現は使えない。

「未だ熟さず」ではなく、ただ単に「熟さず」であろう。

1990年のNHKのドラマスペシャルに於いて、「不熟につき」というのが有ったのを記憶している。

(作:岸宏子/出演:小林薫、坂口良子/主人公は、江戸時代の伊勢伊賀の領主、藤堂家に仕える祐筆。お家騒動の際に事件の真相を記録した祐筆が、城代家老の邪魔となり解雇され、家も追われる。放送文化基金賞本賞。)

城代家老の息子役を黒田アーサーが演じ、その幼友達であり家来であったのが主人公の小林薫であった。

当初、藩政改革に目覚めた黒田アーサーに共感して、小林薫は奔走する。

だが、城代家老の地位を父から継承した黒田アーサーは、藩政改革を潰す側に転じる。

小林薫演じる、祐筆は「お役御免」と成り、解雇され、御家からも追われる。

その解雇を申し渡した書状の理由の一文に「不熟につき」と有るのである。

「未熟」であるならば、時が経てば「熟する」可能性が有る。

だが「不熟」であるならば、最早、展望は開けない。

改善の見込み無し、と見なされ、切り捨てられるのである。


自分は、いわゆる「体育会系」ではなかったので、後輩諸氏に対してえばり散らすということをして来なかった(と思うwww)。

だから、論語の「後世畏るべし」と云う言葉が好きであるし、肝に銘じている。

だが、その全文はこうだ。

「子曰わく、後生(こうせい)(おそ)るべし。焉(いずく)んぞ来者(らいしゃ)の今に如()かざるを知らんや。四十五十にして聞こゆること無くんば、斯()れ亦(また)畏るるに足らざるのみ。」

この最後の一文は、まさに自分のことを指していよう。

四十を何年も過ぎて、うだつのあがらない自分は、最早「畏るるに足らない」のである。


謡曲「敦盛」では、「人生五十年」と云う。

もし、そうであるなら、最早「余命」は数年しかないということになる。

まあ、これは、いくら何でも短期間すぎようが、そろそろ、死の瞬間から逆算して、残りの生涯の行程を思案していくことが必要と成って来るだろう。

単純に、今年が人生の「折り返し点」と仮定するならば、自分は九十歳まで生きることになる。

だが、九十歳まで生き延びられる自信は、自分には全く無い。

八十歳まで辿り着けるかどうか、というところが妥当な線ではなかろうか?

亡父は、結局、78歳で逝った。

自分も、亡父と同じくらいの寿命と試算するならば、既に残りの人生は35年を割り込んでいることになる。

最早、あれこれと思いつきや行き当たりばったりで、無軌道に人生を送る余地は無い。

そもそも人の一生は、何事かを成し遂げるには、あまりも短過ぎるのである。

但し、ただ単に無為に生き続けていくには長過ぎるだけに過ぎない。


余生、ということに成るのであれば、自分が何かに「成る」ということを主眼に於いて立ち居振る舞いをする時期はとうに過ぎていよう。

俳優でもそうである。

どんな「二枚目」も、年齢を重ねて来たならば、いずれは脇に回ってバイプレーヤーとしてアクセントを付ける役回りを演じることに成る。

ならば、自分は、今後の「生き方」として、絶えず後進の方々のことを考慮しながら立ち居振る舞いをしなくてはいけないだろう。

つまり、自分より年下の若い方々を下支えすることを念頭に置いて行動するということである。

勿論、時と場合によっては、自分ような浅学菲才・無芸大食な「小人」も、高いところに押し上げられるようなことが有るかもしれない。

だが、それで有頂天に成っては絶対にいけない。

もし、上に立たされるようなことに成ったのならば、目下の方々の「傘」と成るように意識しなくてはいけない。

若い方々の風除け、弾除けとして精勤し、そして然るべき時期が来たならば、何の未練も残さずに後進に託していかなくてはならない。

それが、この年齢まで「生き延びて来た」者としての、今後の立ち居振る舞いの肝要であろう。


今日、何を行い、明日、何を目指していくのか。

これからは、一日一日を大切にしていくように、心がけて行きたい。

SELDsが本日(平成28年8月16日)解散したと云う。
昨年、平成27年中は、いわゆる安保法案の国会審議を巡っての国会周辺デモなどで、彼等の存在は、一際目を引いた。
とりわけ、大マスコミは、左翼リベラルの新たな若い「奔流」と見なして、極めて期待感とリスペクトをにじませて報じていた。
だが、いわゆる安保法案が可決してしまって以降、SELDsは「往時」の勢いが無くなり、明らかに「失速」した。
博報堂のブランドデザイン若者研究所のマーケティング・アナリストの原田曜平によれば、「10代20代の若者の多くはSELDsに対して共感していない。自分たちより遠い存在に感じている。」といった報告をしていた。
つまり、SELDsは、若年層世代の中で「上滑り」していたのである。
だから、自分たちが最早「失速」してしまった「運動体」であることを、SELDsの連中は、自覚していたと思う。
なので、今日平成28年8月16日の「解散」は、彼等が「大馬鹿」ではないことの証しでもある。
ただ、昨年に、既存の左翼組織と合流し、既存の左翼組織とそのシンパ大マスコミの「寵児」に成った時点で、決定的に「陳腐化」してしまった。
もし、彼等が、共産党などと一線を画していたら、まだ、存続可能だったと思う。
但し、大マスコミから賞賛されることも無く、知名度は上がらなかったと思うが。
彼等は、機を見るに敏で、彼等からすれば、共産党などを「活用」したつもりだったのだろう。
だが、既存の政治の世界の構図の一部に組み込まれてしまった途端、旗幟が鮮明と成り、その結果、世人は彼等の立ち位置を左右軸の中での政治的位置づけの上で明確にしてしまった。
つまり、「レッテル」を貼り、「理解」してしまったのである。
そして、「解り易い構図」に当て嵌まってしまった途端、得体の知れない政治的なダイナミズムは消失してしまったのである。
これは、結局、彼等が、既存の左翼組織の「青年部」と見なされてしまったことを意味する。
だから、展望が無くなったのである。
そう云う面では、自分は、SELDsの「解散」を残念に思う。
結局、現時点に於いても、なお、日本の左翼・リベラルは「前時代的」な「運動体」に帰結、収斂してしまうのか、という落胆である。
確かに、左翼・リベラルが「新生」し、起死回生と成った場合、それは大いに脅威である。
だが、一方で、敵が手強くなったならば、それに相対する、いわゆる「保守派」も生まれ変わる契機と成る可能性が望めた。
しかしながら、SELDsがしぼんだことで、いわゆる「保守派」は、あまりに短絡的に凱歌をあげてしまった。
本当は、いわゆる「保守派」は、SELDsに「勝利」した訳ではない。
SELDsは、ただ単に「自滅」しただけに過ぎない。
SELDsは、自らの運動の展望が無くなったことを察知したので、素早く「手仕舞い」をした。
だから、「解散」したのである。
一方の、いわゆる「保守派」は、「解散」はしていない。
だが、それは、単に醜態を晒していることに無自覚なだけであり、展望が無いことについては全く同じである。
同じ「知的劣化」が進んでおりながら、彼等は自分たちの「限界」を自覚して、方向転換をはかり、再起を模索する道を選んだ。
一方の、いわゆる「保守派」はどうか?
目の前に有る、問題点や課題にちゃんと向き合っているのか?
目の前に存在する、問題点や課題から目を背け、無視をし、浮かれ騒いでいるだけではないのか?
ならば、いわゆる「保守派」は、「解散」すら出来ずに、立ち腐れし続けて行く道を選択しているのではないのか?

本日は8月15日で大東亜戦争終戦記念日だった。

今年、自分は靖国神社でご奉仕をさせてもらった。

参道脇でのご奉仕だったので、拝殿への参列者を目にしていた。

今年は、例年に無く、過ごしやすかった。

曇天で日差しが弱く、風も吹いていた。

靖国神社としては、水蒸気(ミスト)散布装置を設置するなど、熱中症対策の準備をされておられていたが。

自分は、こういう「雑用」が大好きであるwww

どうも、はたから見ていると、「とても活き活きとしている」ように見えるらしい。

自分としては、ただただ、無我夢中で一生懸命に没頭しているだけなのに過ぎないのだが。

 

「靖国神社」は、或る面、「舞台」である。

「靖国神社」に参拝することによって、或る面、脚光や賞賛を浴びることが出来るのだ。

それは、上は、閣僚級の政治家から、下は、有志のグループの主催者まで、みんなそうである。

それは、絶対的に「悪」であるとは云わない。

ただ、純真な礼拝行為が、見方によっては、或る人間の自己顕示欲を満たすための舞台装置に変容してしまう可能性が有る、ということである。

こんなうがった見方をするのは、自分が優れて犬儒的であるせいでもあるのだろうが。

だから、自分は、マイクを握ってとうとうとまくし立てるよりも、あっちへ走りこっちで頭を下げて回るような、そんな「裏方仕事」の方が性に合っている。

とにかく、我が祖父をはじめとする、我々の祖霊である「英霊」の間近で下働きをさせていただくことの喜びを今日一日堪能させてもらった。

 

天台宗の開祖にして、日本の仏教諸宗派の「源流」とも云える比叡山延暦寺を開かれた伝教大師・最澄は、その著書「天台法華宗年分学生式」(別名・山家学生式)に於いて、

「径寸(けいすん)十枚これ国宝に非ず、一隅を照らすこれ則ち国宝なり」とお示しになられている。

「一隅を照らす」とは「いちぐうをてらす」と読む。

「いちすみをてらす」ではないwww

この意味は、天台宗のHPによれば、

(「径寸」とは金銀財宝のことで、「一隅」とは今あなたのいるその場所のことです。

 お金や財宝は国の宝ではなく、家庭や職場など、自分自身が置かれたその場所で、精一杯努力し、明るく光り輝くことのできる人こそ、何物にも変えがたい貴い国の宝である。一人ひとりがそれぞれの持ち場で全力を尽くすことによって、社会全体が明るく照らされていく。自分のためばかりではなく、人の幸せ、人類みんなの幸せ求めていこう。「人の心の痛みがわかる人」「人の喜びが素直に喜べる人」「人に対して優しさや思いやりがもてる心豊かな人」こそ国の宝である。そうおっしゃっています。

 そして、そういう心豊かな人が集まれば、明るい社会が実現します。)

とある。

 

自分は、今日一日、下働きをずっとして来た。

だが、むしろ、それに充実感が有る。

一方、日章旗とマイクを両手に持って、いかにも「国士」然とはしていなかった。

だが、自分は、全く恥ずかしいなどと思っていない。

それは、自分なりに、靖国神社や英霊の「お役に立てた」ということを実感しているからである。

世間は、自分の今日の「有り様」をどう認識しているのか、そんなことはどうでも良い。

多分、今日、自分が靖国神社の境内に居たということさえ、無視されるだろう。

でも、それで良い。

英霊と心有る御仁たちが、自分の下働きを気に留めて下されば、むしろ、充分過ぎるくらいである。

自分は、自分の今居る場所で、自分の出来得る限りのことを懸命に務めれば、それで充分なのである。

それ以外のことは、実は、些末なことなのかもしれない。

 

自分は現在、一介の「派遣労務者」に過ぎない。

だが、現在の仕事の現場に於いて、自分は必要とされている。

明日は、「派遣労務者」としての仕事が有る。

薄給だが、この職場で、明日一日を一生懸命に勤め上げること。

これこそ「一隅を照らす」ことを実践することに他ならない。

ということで、あんまり夜更かしすると、明日の仕事に差し障るので、今晩はこれくらいで。

どうも日本人は「論争」が出来ない。
つまり、全部肯定するか、全部否定するか、どちらかしか出来ないと思い込んでいるのだ。
何故、そんな結論に成るのか?
それは、日本が極めて同質性が高いからである。
だから、「異論」が出にくいのである。そして、「異論」が出にくいがゆえに、「異論」が出て来ると激昂するのである。
だが、世界的に見ると、絶えず、異文化との軋轢が日常茶飯事なのである。つまり、「自分と貴方は違う。」という前提で物事をとらえているのである。
その世界的常識が、日本人には理解出来ない。
だから、「論争」が成立しないのである。支那や欧米など、彼等は、本音と建て前を明確に使い分けて「主張」する。
例えば、靖国神社については、支那人にとって、他人の祖霊信仰は批判するが、「祖霊信仰」そのものは批判しない。
何故なら、自分の家の「祖霊」は信仰するからである。
これと同じである。
だから、相手から批判をされて、何でも「真」に受けてはいけない。
狡猾な人間は、得てして「右を指さしておいて、内心は左を狙っている」のである。
額面通りに受け取ると駄目な場合も有るのである。
相手の真意は本当は何処に有るのか。
さらに、自分たちはどう立ち居振る舞うべきなのか。
そこをよくよく見極める必要が有る。
結局、「仲良く喧嘩する」やり方を修得するしかないのである。

昨日、平成28年8月14日のTBS系番組「関口宏のサンデーモーニング」内「風をよむ」にて。
法政大学総長の田中優子が、戦争体験の家庭に於ける継承の重要性を指摘した。
その中で、いきなり唐突に「靖国には(戦没者の霊)はいないんです!」と断定した。
前後の文脈に、何の脈絡も無く、唐突に、たったこれだけを挿入したのである。
何故、こんな乱調なコメントをしたのか?
理由は簡単である。
論理的に論証不可能だからである。
もし、丁寧に話し続けていったならば、論理的に破綻して、必ずボロが出る。
つまり、「法政大学総長」としてのアカデミックな肩書とは、およそ不釣り合いな愚昧さを露呈するので、長々とコメントしなかったのである。
しかし、この唐突なコメントの「挿入」は、云わば、「サブミナル効果」を狙った「印象操作」である。
彼女は、論理的に破綻していることを敢えて承知の上で、瞬間的な断定口調でもって、TV視聴者に対して「印象操作」を行ったのである。
誠に、唾棄すべき行為である。

いわゆる「霊的」なことがらについては、客観的な論理的実証が事実上不可能である。
そもそも、「霊魂」なるものが、存在するのか、存在しないのか。
その時点で、結論が分かれる。
そして、平成28年8月の時点で、この問題に決着をつけることは出来ていないのだ。
ならば、或る特定の場所に特定の「霊」が、存在するのか、存在しないのか、と云う問題を実証することはおよそ不可能である。
いわゆるアカデミズムな世界に身を置く「学者」が、論証不可能な事柄について、得意げに断言してしまうということは、事実上、「学者」として「失格」であることを露呈したことに等しい。

また、靖国神社を礼拝対象とし、心のよりどころにしている人々の心を踏みにじったのである。
これは、明確な「人権侵害」であり、「きわめて重篤な精神的苦痛を与えた」のである。
人権侵害を平気で行い、言葉の暴力でもって精神的な人身攻撃を確信的に行ったのである。
ここに、田中優子を代表とする、いわゆる「左翼リベラル文化人」の典型的な病理性が現れている。
奴等は、「人権」「平和」「平等」と声高に絶叫しているにもかかわらず、その性根は傲岸不遜で酷薄な、差別主義者で暴力肯定主義者なのである。
だから、必然的に、奴等の「人権主義」も「平和主義」も「民主主義」も、全部、「虚妄」であることを露呈してしまっているのである。
「語るに落ちた」とは、まさにこのことである。

自分は、「靖国神社に英霊が居る。」とは断言しない。
何故なら、それを論証することは出来ないからである。
但し、自分は「靖国神社に英霊が居る。」と信じているから、真摯な祈りを捧げているのである。
靖国神社を嫌う人や否定する人は、別に靖国神社に参拝しなくても良いし、靖国神社について言及しなくても良い。
ただ、靖国神社を参拝する人々のことを悪しざまに口撃し、靖国神社へ参拝することを強制的に阻止しようとすることは絶対にやめてもらいたい。
それは、断じて許すことは、自分は出来ない。

昨日、墓参した。

だいぶ、前回の墓参から間隔が開いてしまったので、草茫々に成っていたwww

我が家のお墓がこんな惨状なのだから、罰が当たるのである。

幸い、来月は、もう秋のお彼岸である。

来月も墓参することと成ろう。

日常に於いて、どうしても「モノ」「カネ」と云った物質的な事柄ばかりが課題に上る。

だから、そうではない事柄が、ついつい疎かに成るのである。

これを「霊」と云う言葉を用いると、昨今の風潮だと、途端に胡散臭い感じに成ってしまった。

「霊」という言葉が、それだけ不可解で冷静に議論出来る対象ではなくなってしまったからであろう。

否定的な立場を取れば、拒絶するしかない。

一方、肯定的に成れば、傾倒し、耽溺するように成ってしまう。

どちらも誤りである。

「霊」ではなく、それを「こころ」や「思い」と云う言葉にすればどうなるのか?

全く、ニュアンスが違ってくる。

だが、「霊」も「こころ」も「思い」も、実は変わりが無い。

かたちや物質ではなく、眼に見えない掴みどころが無い相手がどのように考え、思い、願ったのか。

そこのところを、自分のことと思って引き寄せて考えてみる。

些細なこと、あらぬ方向のことのように見えて、実はそれが「転換」への始動スイッチかもしれないのである。

只今、日本全国的に、旧暦のお盆である。

この世の中が、生きている者と物質だけで構成されている訳ではないと考えさせられる、貴重な機会である。

束の間の「日常生活」の「棚卸し」をして、今後の「日常生活」の改善を目指していけるのではないだろうか?

誤解。

日本人は、「相手の気持ちを斟酌して配慮する。」と云う。

だが、「斟酌」することで、本当に、相手の「真意」を理解したことに成るのか?

時と場合によっては、衝突を恐れず、論争することから逃げないことも必要なのではないのか?

互いに自分の「真意」を述べ合い、「本音」をぶつけ合う「段階」を経て、はじめて「落としどころ」を模索することが可能に成るのではないのか?

「相手の気持ちを斟酌して配慮する」と云いつつ、本当は、「相手」のことなど、何一つ「理解」してはいないのではないのか?

それは、単に、独り善がりの勘違いなのではないのか?

「配慮」したと云うのは、完全な上から目線であり、これは傲岸不遜なのではないのか?

何でも相手の云われるがままにすると、相手から侮蔑されるというのは、結局、何でも云われたことを受容するということと何でも云われたことを拒絶するということが同質であるからである。

つまり、本当の意味で相手の云うことを吟味していないから、受け止めていないから、脊髄反射的な短絡的な対応に成るのである。

そういう意味では、日本の「外交」は戦前も戦後も「一貫」しているのだ。

ただ、戦前は「傲慢」で、戦後は「卑屈」に成っただけに過ぎない。

ベクトルの向きは真逆に成ったが、その「本質」は「不変」なのである。

あ、誤解ではないか。

解っていて、敢えて間違っているのだから。

曲解。

只今、ネット上で、ちょっと「炎上」が発生している。

キャリアコンサルタントの櫻井樹吏氏のコラム記事「なぜイマドキ新入社員は定時で即帰ってしまうのか」を巡ってのことである。

http://diamond.jp/articles/-/98421

要は、「定時で退社してしまうような新人は、まだ職場に於ける帰属意識が稀薄である。

退社する前に、先輩や上司に『何かお手伝いすることは有りませんか?』という一言が出て来ない。」と批判的である。

これに対して、このコラム記事の読者から、「まず残業有りき、を奨励するのか?」と云った批判が上がった。

で、以下、「いっちょ噛み」wwwの「派遣労務者風情」の自分が、またもやいらんことを書くわけであるwww

自分は、「古い人間」なので、「昭和」の職場の雰囲気が解る。

夕方、終業の時報が鳴っても、職場から帰りにくい。

それは、何だか、「職場放棄」「戦線離脱」みたいな「罪悪感」が有ったからである。

これは、或る面、「アジア的停滞性」とも云える訳でwww、没個性的かつ連帯責任性とも云える。

つまり「職場に於ける、本日の自分の業務は既に終了してしまったのだが、職場の上司や同僚が退社出来ない以上、自分だけ職場放棄、戦線離脱してしまうのは心理的に抵抗が有る。」ということである。

つまり、明確な「業務命令」は提示されていないのだが、退社することが許されない、漠然とした強制、つまり「空気」が支配しているのである。

ただ、これは、云わば、職場に於ける「徒弟制度」「滅私奉公」の「空気」の残滓と指弾することも可能だが、もう一方で「職場内の同質・均一性」「仲間意識」「ムラ社会」と云った面も有る。

だから、「何となく」(ここが重要!www)残業に突入した場合、「じゃあ、ピザでも頼もうか?」みたいな発言が上司から出て来たりする訳である。

勿論、「正規」では「就業時間」はとっくに終了しているため、「納期までの仕上げの追い込み」や「クレーム対応などの緊急非常事態業務」と云った特別な「非日常的」な状況ではない、「何となく」残業に突入した場合、職場の空気は結構、弛緩しているwww

例えて云うと、学校生活の「放課後」みたいな感じに成ってしまっていたのである。

だから、上司や先輩ともよく雑談をしたりしたのである。

つまり、「昭和」の「残業」は、「何となく」突入してしまうグダグダな感じが象徴するように、弛緩した「ブレイク」な時間でもあった。

ただ、この「締りの無い」www「残業」は、職場内のコミュニケーションを熟成することに寄与していた。

だから、「残業」が終わっても、「じゃあ、『ご苦労さん会』をやろうか?」などと云い出して、赤提灯や居酒屋に同じメンツで連れ出てしまうことも多かった。

しかし、こう云った、或る面「狎れあい」とも云える没個性的連帯性は、「みんな働く同じ仲間」と云う大前提が有って、初めて涵養され得るものである。

既に、現在の職場に於いて、正規雇用と非正規雇用の断絶が存在している。

更に、非正規雇用でも、契約社員、パート、アルバイトと派遣社員で峻別される。

一方、正規雇用者内でも、人事移動の地域が「全世界・全国」と「特定地域内」と「現職場限定」によって「種別」が出来ている。

また、幹部候補生の「キャリア」と「兵隊」「陣笠」「人夫」の「ノンキャリア」に分かれる。

さらに、多人数・少種類の業務内容から少人数・多種類に職場環境が構造変化しているため、「ムラ社会的」な「みんな一緒」というライフスタイルは実情に合わなく成って来ているのである。

現に、フレックスタイム制度は一般化している。

さらに、「人件費」は「固定経費」という概念から、「残業」は「経費増大」でしかないという認識に成っている。

だから、業務状況によっては不可抗力として発生する「残業」に関しても、業務現場状況を一切無視したかたちで「残業をするな」と云う指示や指導が為されるのである。

現在の職場のありかたとしては、「残業」は指弾されこそすれ、奨励はされることは有り得ない。

むしろ、定時に成ったら、さっさと帰るくらいの方が、「経費節減」と云う点では望ましいのである。

しかしながら、一方で、新入社員は、まだ、業務に馴染んでいない。

つまり、本当は業務の区切りの悪いところであるにもかかわらず、「定時」なので帰ってしまう、ということも充分に起こり得るのである。

そうなった場合、それは「職場放棄」「戦線離脱」と云う風に取られかねない可能性が有る。

ただ、それを、新入社員に「要求」するべきではないだろう。

やはり、職場として、新入社員の管理や指導を行う上司や先輩として、きちんと誤解が生じないように指示をするべきだろう。

理由も無く、「何故、定時でさっさと帰った!」と激昂したところで、何の説得力も持たない。

もし、「定時」の後も、職場に留まることを強いるのであるならば、何故、定時で退社してはいけないのか、確固とした理由を説明するべきであろう。

それには、やはり、業務全体に関しての「言語化」をして、明確に説明が可能なものにしていかなくてはいけない。

そうしなくては、「何故、定時で退社してはいけないのか?」という疑問を払拭出来得ない。

現在の「新人」に対して、こんな対処の仕方しか出来ないのであれば、いわゆる職場のグローバル化には対応は不可能だろう。

今後、職場に於いて、多民族・多国籍・多言語の人間によって「混成」されるとするならば、「日本的」な「以心伝心」「察する」「空気を読む」「斟酌する」「忖度する」といった、さながら禅宗の「不立文字」のような「意思伝達」方法を保持し続けた場合、間違い無く破綻するであろう。

何故なら、いわゆる「常識」が「通用」しないからである。

それは、従来のような同質性や均一性の高い人間集団ではなくなるからである。

職場のグローバル化による多民族・多国籍・多言語の人々による「混成」の職場や組織を運営し維持していくには、各従業員のパーソナリティとバックグラウンドの「差異」の存在を前提とした上で考慮しなくては駄目である。

職場に集う従業員が、明確に、考え方や捉え方、価値判断や行動パターンまで千差万別であるということを前提に考慮した場合、従業員に於いて、何事につけ「理解」と「合意」と「決定」が確固でなければいけない。

つまり、業務に於いて、誤解や曖昧さを生じさせないためには、

・業務目的を単純明快化させる

・業務の系統と分担を明確化させる

・業務に於ける疑問点やアクシデントが発生した場合の対応(担当部署など)を明確化させる

・事有る毎に、「理解」と「合意」と「決定」を明確化させる

ことが必要不可欠であろう。

だから、新人が定時で退社したぐらいで不快感を表しては駄目なのである。

定時で退社してはいけないのならば、「残業」は申請した分は全部受理し、全額「残業」分の手当てと給与を支給すべきであろう。

現在、多くの職場で、「職場から定時で帰りづらいが、残業は無くせと云われる」と云うジレンマを抱えているようである。

全く、つまらない、バカげたことである。

もし、職場に定時を過ぎても居続けなくてはいけないのならば、その理由と何時間何分間まで居続けるべきなのか、明確に説明出来なくてはいけない。

つまり、業務に関して、曖昧な点が多過ぎるのである。

何となく、感覚的に、フィーリングでもって運営しているから、言葉で説明出来ないし、説得力が皆無なのである。

それは、必然的に、業務に対して根源的かつ徹底的な論考を課していないからである。

今、何をどうするのか。

それを一つ一つ揺るぎ無く、誤解が生じ得ないところまで突き詰めて論考しないからいけないのである。

それは、業務の有り方を論理的に掘り下げていない、つまり、感覚的、情緒的に済ませてしまっているから駄目なのである。

論理的でないため、それは個人レベルの「経験則」でもってしか根拠が無い。

だから、担当する人間が変わった時点で、従来の運営方法の「論理的根拠」が成立し得ずに、結果として破綻は不可避と成るのである。

だから、個人レベルの「経験則」を、一般化させ、誰しもが応用可能な普遍的な「方法論」まで高めなくてはいけない。

それには、明確な論理的な根拠と実証性が無くては駄目なのである。

ちなみに、自分は、定時に帰るのは大賛成である。

定時に帰るようにするということは、納期までに確実に間に合わせるということと矛盾しないのである。

但し、いわゆる「天才的芸術家タイプ」の人の仕事は別である。

だが、そんな天才肌の人はごくごく少数の人だけであり、また、そういう人はその「才能」に対して「人件費」が支払われるために、とんでもない「高給取り」だったりするのである。

そういう「特殊事例」は、一般化理論からは除外しないといけない。

どうでもいい話しであるwww

自分の大学時代、もう20年以上も昔のこと。

東京の地上波TVに、ピンとして、上岡龍太郎が「ようやく」出て来た。

「東京は嫌い。敵だ。」と云い、「ゴルフは嫌い。」「マラソン、嫌い。」と公言。

しかし、後年、全部、それを全て翻すwww

とにかく、早口で「屁理屈」をまくし立てる「話芸」は凄かった。

自分の好きな「芸人」は、ビートたけし、立川談志、そして上岡龍太郎。

全部、理屈っぽいwww

自分は生粋の東京人なので、本当の意味で、上岡龍太郎を「理解」することは出来ていないかもしれないが。

上岡龍太郎は、大橋巨泉の「セミリタイア」を踏襲して、2000年に引退。

以降は、横山ノックの葬儀に出て来たくらいで、芸能界の表舞台から完全に身を引いた。

残念ながら、彼の「話芸」を継承してくれる「芸人」はいまだに現れていない。

なお、引退して16年にもなるのに、どうしてこんなに憶えているのかというと、よく自分は「上岡龍太郎に似ている。」と云われたからwww

たまたま、風貌が似ているからなのか。

それとも、その扱いにくい狷介さが共通なのか。

本当のところはよく解らない。

しかし、頭が白く成って来たので、尚更、「似て来た」かもしれない。

どうでもいい話しであるwww

8月15日靖国神社参拝に関する諸情報まとめ(平成28年版)

(8月15日靖国神社・時系列)
午前6時・開門
午前8時15分・昇殿参拝受付開始(参集殿)
午前9時・遊就館開館
午前9時頃・英霊にこたえる会慰霊祭(御本殿・拝殿内)
午前10時・放鳩式(能楽堂前)
午前10時30分〜午後0時15分・第29回戦歿者追悼中央国民集会(外苑参道特設会場)
正午・黙禱(もくとう)、玉音放送
午後1時頃・靖国会忠霊祭(御本殿・拝殿内)
午後4時30分・遊就館閉館
午後5時・御本殿閉扉(拝殿前参拝は可能)
午後6時・閉門

8月15日の靖国神社は、近年、参拝者が十数万人も押し寄せる状況となっております。

皆様は、正午の黙禱の時刻に靖国神社の境内に身を置きたいと願っておられるのか、正午前後が一番混雑するように、個人的には体感しております。

但し、靖国神社の神門は午前6時に開門され、夜の午後7時に閉門となります。

早朝は、比較的参拝者が少ないので、拝殿で参拝をされたい方は、早起きをされて午前9時前ぐらいまでに参拝されるとすぐに参拝出来ると思います。

お仕事が有る方も、出勤前に参拝してもらえれば良いと思います。

早朝ですと、気温もまだ上昇しておらず、日差しも厳しくないのでお年を召した方やお子さんも体調のことを考慮すると良いと思います。

なお、夕方から夜にかけても参拝が可能です。

但し、午後5時頃に御本殿の扉が閉められてしまうので、出来れば朝のご参拝をお奨め致します。

拝殿前の社頭参拝も良いですが、この際、昇殿参拝されることをお奨め致します。
昇殿参拝受付・(3月〜10月)午前8時15分 〜 午後5時 ※最終受付 午後4時40分

昇殿参拝されれば、参集殿にて冷房が効いている中で待つことが出来ます。

個人ですと、玉串料¥2000からです。

団体になると、玉串料が一人あたり¥1000〜500になります。

当日は、チャンネル桜・頑張れ日本や西村真悟塾、my日本、ねずさんの集まりなどの諸団体が一緒に昇殿参拝されます。
(諸団体の集合場所、時間などは、各サイトなどでご確認下さい。)

当日受付なので、それらの諸団体の中に入って参拝すると、玉串料もお手軽ですし、手続きも簡単です。

勿論、10人以上仲間が集まりそうであれば、任意で団体をつくってしまい、昇殿参拝されても良いです。
(注!昇殿参拝希望者が多数になった場合、最終受付時間以前に8月15日分の受付を締切、終了することもあります!お申込み手続きはお早目に!)
昇殿参拝は、神門をくぐり、拝殿横の参集殿にて受け付けております。
拝殿前参拝の行列が出来ていたら、その行列の脇を通って、神門をくぐり、参集殿へ向かって下さい。


境内は基本的に禁煙です!遊就館前のスモーキングカーや外苑売店周辺などの指定された場所で喫煙して下さい。

便所は、外苑売店付近、遊就館内、遊就館前スモーキングカー隣(※平成28年8月中は工事中で利用不可)、靖国会館内などがあります。

飲料水の自動販売機は、外苑前売店と参集殿前、神池と駐車場前近辺にしか有りません。(靖国神社周辺・靖国通り沿いにコンビニがあります。)

昼間の境内は、物凄い混雑となり、飲み物の自動販売機もほとんど売り切れになってしまうと思われます。
(自販機ベンダーが特別対応してくれるようになり、改善されました!)

能楽堂横で、靖国神社崇敬奉賛会青年部「あさなぎ」が、麦茶の接待を実施する予定です。

そちらで、是非、咽喉を潤してもらえれば幸甚に存じます。

日中はとても暑くなるので、体調管理には留意したいものです。

能楽堂横には、看護師有志による「救護所」が設営されます。

もし、少しでも体調に異変を感じられたら、「救護所」に駆け込んで下さい。

御気分が悪くなったり、何かお気づきの点が有れば、最寄りの靖国神社の職員、もしくはガードマンに御声をお掛けください!

以前、手水舎の前で販売していた供花とお水の頒布は、無くなりました。

遊就館もとても混雑致します。

遊就館は午前9時から午後4時30分まで。

遊就館では、現在(平成28年12月11日(日曜日)まで)、特別展「時を超えた祖国への想い―軍人と共に歩みし軍属たち―」を新館1階特別展示室(遊就館内売店隣)で開催中です。
(趣旨)
 かつて「軍属」や「準軍属」として、軍人と共に祖国を護るために尊い命を捧げられた人達がいました。
その職務は多岐にわたりますが、ほとんどの方が文官・技術者・船員・看護婦・動員学徒等の方々です。
この度遊就館では、こうした後方支援や看護或いは銃後の護りに散華された英霊の御事績を御伝えするべく、特別展「時を超えた祖国への想い―軍人と共に歩みし軍属たち」と称して、支那事変から大東亜戦争終戦に至るまでの御遺品や関係史資料を展示公開する事と致しました。この特別展を是非御覧戴き、ひたすら愛する人々や家族そして我が国を護るという想いから、軍・官・民が一丸となって国難に立ち向かった史実に触れて戴くと共に、夫々の職務を全うされた英霊の崇高なる「みこころ」を感得して戴ければと存じます。

また、遊就館には映像上映ホールが二つ有ります。

期間限定で映画「氷雪の門」が平成28年8月2日火曜日〜8月31日水曜日まで上映。(遊就館映像ホール2)
「氷雪の門」は、樺太の真岡の郵便局の電話交換手だった女性たちの悲劇を描いた傑作映画です。
但し、封切り時、ソ連や日本国内の左翼からの圧力によって上映が中止された”幻しの名画”です!
【内容】
ロシア領サハリンと呼ばれるかつての樺太(からふと)。
昭和二〇年八月終戦時の混乱期に、この地は一〇万余の同胞を失った。
この映画は、ソ連の侵攻作戦の真っ只中、
最後まで通信連絡をとり、若い生命を投げうった
「真岡郵便局電話交換手」九人の乙女の悲劇を描いた真実の物語である。
監督・村山三男
出演・二木てるみ 鳥居恵子 岡田可愛 藤田弓子 南田洋子
     若林豪 黒沢年男 丹波哲郎 田村高廣 島田正吾他
【上映期間】
平成27年8月2日(火)〜8月31日(水)まで
※神社の行事のため休止となることがございますので、あらかじめご了承下さい。
【上映時間】
1日2回上映(120分作品)
《1》10:00 《2》13:00
※8月15日(土)は《1》9:30 《2》13:00 

もう一つの映像ホールでは(遊就館映像ホール1)

「靖国神社の祭りとこころ」

平成二十七年は、大東亜戦争終戦七十年の節目の年を迎えます。
より多くの方々に靖国神社をご理解いただけるよう、このたび映像を
制作いたしました。この機会に是非ご覧ください。

■期間  平成26年10月1日(水)より当分の間

■場所  映像ホール1
       ※「私たちは忘れない」は映画「氷雪の門」上映の為8月中は休映。

■上映時間
       1、10:00  2、10:30  3、11:00  4、11:30  5、12:00
       6、12:30  7、13:00  8、13:30  9、14:00  10、14:30
       11、15:00  最終15:30                 計12回
       ※遊就館の行事等のため、上映中止となることがありますので、
        あらかじめご了承ください
             ※常設展拝観券をお求めください

(参考資料)8月15日は上映されません
『私たちは忘れない―感謝と祈りと誇りを―』(50分作品)

【作品内容】
日清日露の大戦から大東亜戦争に至るまで・・・。
我が国近代史の戦争を、当時の貴重な映像で再現し、
東京裁判で歪められた歴史の真実に迫るドキュメント映画。
【企画制作】 日本会議 ・ 英霊にこたえる会
【後   援】 靖国神社

【上映時間】
1日6回上映
《1》10:00 《2》11:00 《3》12:00 《4》13:00 《5》14:00
《6》15:00〜15:50 (最終)
-------------------------------------------------------------
★元日のみ1:00より1時間毎に上映致します(最終は15:00)
-------------------------------------------------------------
みたままつり期間中
《1》10:00 《2》11:00 《3》12:00 《4》13:00  《5》14:00
《6》15:00 《7》16:00 《8》17:00 《9》18:00 《10》19:00〜19:50(最終)


【ドキュメント映画 私たちは忘れない】
感謝と祈りと誇りを
50分 カラー作品

この映画は、教科書ではおしえられてこなかった、皆さんのお子さんやお孫さんに見せてあげて下さい。
きっと、わが国への誇りが湧き上がってくるでしょう。

私たちの国には、明治維新以来、共に力を合わせて国難に立ち向かった、日本民族の誇り高い不屈の歴史があります。
かけがえのない命を国に捧げた、先人たちの悲しくも尊い歴史があります。
私たちは忘れません。国難に殉じた英霊たちへの感謝と祈りと、そして日本人の誇りを―。

・主な内容
◆明治維新を成功させ、欧米列強の脅威から日本の自主独立を守りぬいた日清・日露の大戦
◆アジア安定に寄与する日本、中国大陸で繰り広げられる排日運動と満州事変の真実を探る
◆盧溝橋で日本軍に発砲された中国側の一撃、あいつぐ攻撃を受けついに日中の全面戦争へ
◆支那事変の拡大を避けようとする日本、裏で中国を支援する米英仏ソ、ついに米国が日本の前面に
◆日本参戦を仕掛けた米国の陰謀、そして日本は隠忍自重しながらついに苦渋の開戦決断へ
◆日本を侵略国と断罪した東京裁判の不当性を暴き刑場の露と消えた「戦犯」の無念をふりかえる
◆戦局悪化の中、祖国日本の防衛のため玉砕、特攻と尊い命を捧げた若き将兵たちの想いに迫る

●語り/浜畑賢吉・上村香子 ●教育用映像・永久保存版 非売品
●企画・制作/日本会議・英霊にこたえる会 ●後援/靖国神社
この映画(ビデオ)は、非売品です。

英霊にこたえる会は、靖国神社への総理、閣僚等の公式参拝の定着を求める国民運動を進めております。
この運動を推進するためのご支援として“特別維持会費”(2,000円)を納めていただいた方にビデオを進呈
(送料一律400円だけご負担下さい)させて頂いております。ご協賛下さい。

◆申込方法
郵便振替で下記にお振り込みください。地元の当会の県本部、中央参加団体でも受け付けます。

◆申込先
「英霊にこたえる会特別維持会費」
〒102-0073  東京都千代田区九段北3-1-1  靖国神社 遊就館内
電話・ファクシミリ  03-3264-4610

◆送金先
 ○郵便局 郵便振替(申込書として取り扱います)
 ○口座番号 00150-3-184977
 ○口座名 英霊にこたえる会特別維持会費

◆要領
題名・口数・金額・送料(何口でも一律400円)・合計金額。氏名、住所、電話番号


なお、無料休憩所が有る靖国会館は、関係者の控え室などになるために、8月15日は(午前中は)一般の方は利用出来ませんのでご注意下さい。

8月15日はとても暑くなりそうなので、参拝の際には酷暑対策を万全になさって下さい。

それでは、8月15日に「靖国で会おう!」

(平成24年8月8日のものを再録し、一部加筆しました。)

※追記※

靖国神社での8月15日の行事は、午前10時からの「放鳩式」のみです。

能楽堂前で、白い鳩を大空に放ちます。

靖国神社では、白い鳩を飼育していますが、それらの白鳩を管理する為の「白鳩の会」という会が有り、年会費は¥1000です。
(入会されると記念品がもらえます。)

8月15日に入会を受け付けています。

8月15日に行われる慰霊祭は二つ。

朝の、英霊にこたえる会のものと、午後からの靖国会の忠霊祭です。

元来、8月15日に慰霊顕彰を行っていたのは靖国会だけでした。

外苑の参道に、英霊にこたえる会と日本会議の共同主催で、第29回戦歿者追悼中央国民集会が行われます。

過去には、金美齢先生や田母神閣下が登壇されました。

◆要  項
日時 8月15日(金) 午前10時30分〜12時20分(開場9時30分予定)
会場 靖國神社参道特設テント 入場無料・事前申し込み不要・先着順
お問い合わせ・日本会議事務局電話03−6906−8990 FAX03−5157−5657

なお、正午の時報に合わせて、是非とも黙禱をお願い致します。

境内の放送で、時報が流れます。

また、黙禱終了後に、今上陛下の玉音が放送されますので、これも謹聴致しましょう!

昇殿参拝は、希望者が多いため、午後2時頃には締め切られてしまう可能性も有りますので、個人参拝の方は早めになさって下さい。

チャンネル桜や西村真悟塾、my日本、その他有志の団体が昇殿参拝を行いますので、そちらに参加されますと玉串料、¥500で昇殿参拝が出来ます。

個人ですと、¥2000以上になります。

通常は、昇殿参拝時には、遺族が参拝する際には祝詞が奏上されて、英霊の御名前が読み上げられます。

また、玉串奉奠もなされますが、8月15日は参拝希望者が膨大なため、これらが簡略化されます。

どのように簡略化されるかは臨機応変になりますが、じっくりと昇殿参拝をなさりたい方は、8月15日以外の普通の日になさって下さい。
(例大祭やみたままつり、お正月も通常とは異なります。)

御朱印は参集殿で受け付けます。
¥300です。
なお、当日、御朱印帳を忘れた方は紙でお渡しすることも出来ます。
また、¥1300で御朱印帳をいただくことも出来ます。

おみくじは、2種類有ります。
文章のみの¥100のものと、小さな御守りが中に入っている¥300のものが有ります。
個人的には、¥300のおみくじをひくと大吉だったことが多かったですwww

絵馬は、拝殿前の神札所か参集殿内で入手出来ます。
願い事を書く、普通の絵馬と桜の花のかたちの2種類有ります。
ペンも置いてありますので、記入して奉納することが出来ます。
「絵馬」とは、古来、神仏に馬を奉納した故事に倣い、生物の馬の代わりに「絵馬」を奉納して、神仏に祈願することです。
ですから、いたずら書きのようなことをすると罰が当たりますよ!

遊就館前で、茶寮結(ゆい)のかき氷が販売されますので涼がとれます。

但し、参集殿から拝殿前付近までは飲食は遠慮して下さい。御神前ですから。

ソフトクリームは遊就館の喫茶店・結(ゆい)と外苑の茶店で食べられます。

靖国神社のお土産物について。

参集殿・御守り、お神酒、お菓子
遊就館売店・書籍・DVD・CD、グッズ、お菓子
外苑茶店・グッズ、お菓子

靖国神社でのお土産に花あられが加わりました。

今迄は、お饅頭やゴーフレッドなど、甘い物系ばかりだったので、あられは美味しそうです。

中村屋の謹製で、¥1000で頒布されています。

この他にも、
「靖国ゴーフレッド」(風月堂)、
「白鳩の祈り」(アーモンドをホワイトチョコでくるんだお菓子)
「靖国ぼうろ」(宝来屋)(和製クッキーのぼうろ)、
「靖国コインチョコレート」(平成26年7月17日現在、品切れ。再販売するかどうかは不明)
お神酒「靖国」(平成26年4月1日から値上がりして¥1200になりました。悪しからず。)
が有ります。
(春季お花見の時限定の新宿中村屋謹製の「うすあわせ・桜味」も有ります。)

ちなみに、春秋の例大祭やお正月などの限定された時にしか頒布されないのが「桜饅頭」(宝来屋)です。

桜の花を塩漬けにしたものが載ったお饅頭で、甘さ控えめでとても美味しいお饅頭です!!!

もし、初詣などで靖国神社へ参拝された際に「桜饅頭」が頒布されていたら、迷わず速攻で入手して下さい!!!

絶対にこの桜饅頭は期待を裏切らない、大変な美味です!!!

靖国神社でのお土産品は全部¥1000です。

(自衛隊関連のお菓子も販売しております。)

(なお、安倍総理のお饅頭などの政治家ネタのお菓子は、外苑の茶店でのみ販売されています。遊就館売店や参集殿などでは頒布されていませんのでご注意下さい!)

あと、英霊にこたえる会が作成している「靖国カレンダー」ですが、既に来年の平成28年のものが参集殿個人受付で入手可能です。
また、8月15日は外苑のテントで頒布しています。

「靖国カレンダー」は、あくまで、英霊にこたえる会の年会費¥500を納めてもらった代償として頒布するものですので、厳密では”販売”ではありません。

ですので、「靖国カレンダー」は遊就館売店にも、外苑の茶店にも販売していません。

東京赤坂の乃木神社社務所でも入手可能です。

各県の護国神社でも入手可能な所も有ります。

(ご不明な点は、英霊にこたえる会へお問い合わせ下さい。)
http://eireinikotaerukai.com/

靖国神社の周辺は、8月15日は厳戒警備がされます。

左翼どもの襲来に備えてということと、隣接する武道館で政府主催の追悼式典が行われるためです。

道路の交通規制がなされるので、地下鉄や電車での参拝をお願いします。

また、靖国神社への入り口は正面の神門のみとなり、靖国通りに面した南門は閉鎖されています。

靖国神社の周辺は、コンビニや飲食店が以前より増えました。

ただ、8月15日はお盆休みということもあって、休業しているところも多いです。

お昼ご飯を食べたり、飲み会をしたい場合は、市ヶ谷や飯田橋、神保町まで移動されるか、あとは思い切って渋谷や新宿まで行ってしまう方が良いと思います。

地下鉄九段下駅から上がってくると、途中の坂道で、たくさんの団体がビラを配布したり、署名活動を行っています。
興味の有る方は、そちらも寄ってみて下さい。

左翼・反天連のデモが組織されるため、九段下の交差点は厳戒態勢となります。
保守派のカウンターも有ります。ご注意ください。

なお、靖国神社内でのマスコミの取材は、靖国神社が許可した腕章やバッチが無い場合は、無許可です。
左翼の「週刊金曜日」などがゲリラ的に取材している場合がありますので、ご注意下さい。

(地方から来られる方へ。)
東京駅からは乗り換え無しで靖国神社へ来ることは出来ません。

東京駅からJRで行こうとすると、市ヶ谷か飯田橋に行かないといけません。

東京駅を下車して、地下道を少し歩くと地下鉄の大手町駅が有ります。

そこの地下鉄東西線に乗ると、最寄駅の九段下に行けます。¥170です。(スイカ、パスモなど電子マネーカードだと¥165)

市ヶ谷と飯田橋はJR総武線各駅で黄色いカラーの電車です。

JR総武線各駅は、新宿・御茶ノ水・秋葉原を通って千葉方面に行きます。
その為、東京駅から直接乗り入れしていません。
東京駅からは、中央線(オレンジのカラーの電車で高架のホーム)に乗って、御茶ノ水駅で乗り換えます。
御茶ノ水駅だと、ホームを4番線に中央線、3番線に総武線各駅が止まりますので、ホームを歩いて渡るだけで乗り換え出来ます。
中央線で乗り換えないと、飯田橋・市ヶ谷を通過して四谷まで行ってしまいますので注意して下さい。

飯田橋駅ですと、新宿・中野方面先頭方向の出口が靖国神社への最寄出口になります。
なお、飯田橋駅と靖国神社の途中に、若い女の子の「婚活」の御利益で有名な東京大神宮があります。
東京大神宮は伊勢神宮の東京での遥拝所でした。ですから、伊勢神宮の東京支店みたいなもんです。

東京駅からタクシーで靖国神社へ行く方法も有ります。
それほど金額は高くならないと思いますが、当日は、先述した通り、8月15日は靖国神社や武道館の周辺は交通規制がなされるので、出来るだけ電車の方が良いでしょう。

靖国神社HP交通案内
http://www.yasukuni.or.jp/access.html

(以上、取りとめが無くなりましたが、8月15日靖国神社参拝の手引きでしたwww)
(2015年7月22日に書いたものを加筆しました。)

新しい現場に成ったので、だいぶ稼げるように成った。

が、「好事魔多し」で、何と!派遣先の管理職からお達しが出た。

「今後、派遣社員には一切残業をさせないように。」

一応、自分も8時間以上勤務した場合、通常の時給の上に残業手当が付加される。

と云っても百円玉2枚ぐらいなんだがwww

まあ、それでも、自分にとってはとても有り難かったのだが、それを止めろと云う。

「経費節減」と云うことだろうが、しかし、現場の状況をよく見てみれば、必ずしも人件費の削減に直結するのかどうだか疑問である。

と云うのも、派遣社員の自分が「お手伝い」することで、正規雇用の正社員のドライバーさんの業務が軽減されて、その分、就労時間が短縮される訳である。

ところが、派遣社員の自分が、業務の途中で帰されると、残った仕事は全部ドライバーさんでやらないといけなくなる訳である。

そうなれば、必然的に、正規雇用の正社員のドライバーさんの就労時間は増加する訳である。

そこで、非正規雇用の派遣社員の時給と正規雇用の正社員の時給とどちらが高額なのか?と云う問題に成る。

少なくとも、契約社員と正社員では、間違い無く正社員の方が時給は高い。

だが、派遣社員は、派遣社員本人に支払われる「時給」の上に、派遣会社自体の「管理料」が乗っかる訳である。

そうなると、意外と派遣社員を使うのは、安価ではないのかもしれない。

派遣社員の良さは、後腐れの無いところだ。

つまり、「もう人手は充分だ。」ということに成れば、即座に「切れる」のである。

最近、この業界の状況は変わりつつ有るように、自分は見える。

他社の車に乗っている従業員を見ると、若い制服を着た従業員二人体制に成っている。

つまり、派遣社員ではなく、契約社員や正社員に切り替えているのではないか?

多分、アベノミクスの「一億総活躍社会」に関する雇用政策などで、従業員の新規雇用に関して優遇処置が有るのかもしれない。

また、派遣社員のデメリットは、人員の「質」が安定しない点である。

既に、様々な業種で時給が上昇して来ており、若年層の就労者は、より時給の高い業種に移動している感じである。

さらに、正規雇用の正社員や正社員登用を謳った契約社員に移動しているのであろう。

だから、結局、自分のような老いたポンコツしか残らなく成って来ているのであろう。

時給あたりの金額の差がどれくらいなのかは不明だが、正規雇用の正社員の残業時間はなかなか削減は困難だが、派遣社員だったら即座に実現可能である。

「手の付けやすいところから」実行していることは間違い無い。

まあ、どちらにせよ、派遣社員である限り、アベノミクスの恩恵に浴することなど絶望的で、貧困から脱却は不可能であるということが見事に証明された訳である。

いやあ、もう、何処か、自分を雇ってくれるところは、無いのかなあwww

ポンコツだから、お呼びじゃないんだろうなあwww

明確にアベノミクスのお蔭で、ここ数年来、若年層の求人採用が活発化して来た。

勿論、採用の抑制と正規雇用者の削減が、ついに限界まで到った時期とも符合したのだとも云えよう。

だから、企業に於いては、若者の採用に躍起に成って来ている。

だが、いざ、採用まで漕ぎ着けても、新入社員が短期間で退職することが多発しているようである。

いわゆる「ミスマッチ」なのだと云うのだが、かと云って、いわゆる「インターンシップ」を導入したところで、この短期間で退職してしまう若者の続出を解決することに成るかどうか、自分は甚だ疑問に思う。

自分は、しがない派遣労務者でしかないので、本当のところは、皆目見当がつかないのだが、よく巷間で云われている事柄で、「今度、入って来た新人は使えない。」と云う愚痴である。

この手の愚痴は、そこかしこで耳にするのであるが、このセリフを耳にすると実は自分は首筋が寒くなる思いがするのだ。

と云うのも、自分が新入社員だった頃、実際に自分は、そういう風に云われていたのである。

自分は、思うように業績が上がらない中で、必死になって頑張ったのだが、陰では「もう、早く辞めてもらえば良いのに。」と云われていたとのこと。

まあ、それでも、結果として何とか17年も勤続出来た訳で、社内の出世頭では無かったが、まあ、一応「戦力」にまでは成れたのである。

そんな、元「使えない」奴が、以下、論考を進めさせてもらう。


いわゆる、「使えない奴」と云うのは、ミスが多いのと、指示通りに出来ないことを指す。

で、ミスが多く、指示通りに出来ない奴には、大別して二つのタイプが居る。

一つは、肩の力が入り過ぎているタイプ。

このタイプは、クソ真面目で不器用な奴である。

つまり、業務に関することの全てに於いて、全力で取り組もうとして力み過ぎてしまうのである。

ところが、何事も幹と枝葉が有る。

しっかりと注意深く行う部分とさらりと流してしまって問題無い部分と存在する訳である。

ところが、その力の入れ方の加減が、クソ真面目で不器用な奴は解らないのだ。

また、例え、理解出来たとしても、「力を抜く」という部分が、「手を抜く」という不謹慎な行為に思えてしまって、どうしても納得出来ないのである。

そして、人間の集中力と云うのは、長時間維持出来ないので、肝腎なところで疲れ切ってしまって、気が抜けてしまうのである。

当然、ミスや失敗を犯す。

さらに、時間が恐ろしくかかってしまう。

当初、指示した内容のうち、終了出来たのはほんの少しで、しかも間違いだらけだったりするのだ。

そこで、「駄目」の烙印を押されるのである。

こういうクソ真面目で不器用な手合いには、「速くしろ!」と急かしたり、「しっかりしろ!」と圧力をかけると、どんどんパニックに陥って、ドツボに嵌まってしまう。

だから、急かしたり、プレッシャーをかけてはいけない。

まず「深呼吸して、肩の力を抜け。」と諭して、

後は「ゆっくりで良いから、間違わないように一つ一つやってみろ。」と云う。

そして、「ちゃんと出来るように成ったら、速く出来るようにしてみろ。」と指示するのだ。

すると、根は真面目な人間なので、ひとつひとつ、丁寧に着実に仕事を進めていくように成る。

さらに、業務の全体像や流れが把握出来てくると、緩急や加減が理解出来て来るので、仕事のめりはりが出来て来る。

ついには、仕事の遅滞が無く成って、充分に仕事を頼める人間に成長するのである。


もう一つは一人合点をするタイプである。

このタイプは、実は「天才型」のタイプである。

つまり、このタイプは、既に自己流の仕事のスタイルを完成させてしまっているのだ。

ただ、あくまで、仕事に習熟しておらず、業務の全体像まで把握出来ていない状態で、一人合点、独り善がりで仕事のスタイルを完成させてしまっているので、当たり外れが生じてしまうのである。

だから、たまたま、我流の仕事のスタイルが合致している部分は大成功するのだが、全然実状に合わない部分は大ポカに成ってしまうのである。

このタイプに、「しっかりしろ!」とか「云われた通りにやれ!」と叱責したところで、絶対に受け付けない。

むしろ、へそを曲げてしまって、尚更、頑なに自分のスタイルに固執することに成る。

ならばどう対処するのか、というと、徹底的に理詰めで、論理的に、ロジックでもって固めていくしかない。

つまり、何故、ひと手間余計に加えないといけないのか。

その工程を加える原因と論理的な背景、そして、明確で決定的な結果。

これらを理詰めで説得していくのである。

で、このタイプは元々馬鹿ではないし、また自主的に動いて行く傾向が有るので、いったん、業務のコツを理解してしまうと、後はどんどん自律的に動いて行くのだ。

だから、あれこれと事細かに指示を出さなくても、テキパキと仕事をこなして行く、「手のかからない」人間に成っていく。


結局、「人を見て法を説け」ということである。

勿論、世の中には、何の指導もしなくても、どんどん能力を発揮出来る、優秀な人間も確かに存在する。

だが、そういう才人は、圧倒的に数が少ないのである。

だから、結局、「使えない奴」を、何とか使いこなしていくしかないのである。

それを、「あいつは使えない。こいつも駄目だ。」と愚痴不足を云っているのは、実は、「自分は人を使いこなせません。自分は人を育てることが出来ません。」と白状していることに他ならないのである。

まあ、元「使えない奴」が云っていることだから、何の説得力も無いのかもしれないが。

そして、最早、この論考を実際に実践することも、自分は到底有り得ないことなのであろうが。

まあ、以上、一笑に付して下されれば、自分としては諒としたい。

改造内閣の世耕経済産業新大臣が、「新卒の一括採用はいかがなものか?」と疑義を表明だと。

さらに、脳学者の茂木氏が、「学業に専念させる意味でも、通年採用にすべきで、新卒の一括採用は見直すべき。」と同調。

何だか、なあ。

自分は、ただの派遣労務者でしかないから、難しいことは解らない。

特に、海外の、アメリカや欧州での採用実態に関しては、詳細は解らない。

だが、あくまで、日本に関してについて、一言。

結論から云うと、いわゆる大企業の正社員の採用に関しては、この平成28年現在でも、いまだに「終身雇用」の慣行が残っている、ということである。

既に、「年功序列」や「企業内大家族主義」という、昭和30年代からの「高度経済成長期」の企業人事構造が破壊され尽くされているにもかかわらず、「終身雇用」だけは、申し訳程度に維持されている。

だが、その「終身雇用」も、老親の介護や本人・家族の重病発症によって、退職を余儀無くされる事態が多発している。

だから、既に、企業の人事構造に於いては、「戦後は終わった」「昭和は終わった」のである。

しかしながら、「年功序列」「終身雇用」「企業内大家族主義」という企業の人事構造が、何故、確立されたのか?

それは、日本人の性分に合致していたからに他ならない。

殆んど人種が同じで、「在日」の人も日本語を話せて日本人的な阿吽の呼吸を理解可能な人が多かった。

そういう「同質性」が高い社会構造であったのと、初等教育(小・中学校)の教育が優秀で、人材的に能力の偏りが少ないことも有って、職場に於いては「仲間意識」を涵養しやすかった。

つまり、社員はみんな同じ、だからみんなで知恵を出し合う「改善提案」などが生まれて来たのである。

一方、欧米は、階級社会であったり、移民などの異民族・異人種が多様に混在するために、「阿吽の呼吸」を忖度することが困難だった。

そこで、いわゆる「マニュアル」でもって、徹底的に業務内容と守備範囲を明記し、それ以外の事柄は「踏み込んではならない」とクギを刺した。

さながら、日本の自衛隊法規wwwである。

この「マニュアル」による社員の管理は、明確に、社員間に区別が有る。

つまり、頭脳労働者と肉体労働者である。

だから、肉体労働者は、頭脳労働者の分野に口出しすることは、「越権行為」であるのだ。

日本の企業は、高度経済成長期が終了し、それを何とか「夢よもう一度!」とあがいたのが「バブル景気」だった。

そして「バブル景気」が破裂し、「リストラ」という外来語で「首切り」が横行。

今日の、非正規雇用者の増大に到った訳である。

日本の企業体質は、根本的には同質性の高い、「ムラ社会」のままである。

いわゆる「生え抜き」が主流で、中途採用は、銀行から送り込まれたような人間以外は、傍系に配置されていた。

結論から云って、企業の人事部が、確固たる人事評価基準を確立出来得ていないことが、中途採用の数を抑制的にしているのである。

つまり、新卒入社以来ずっと勤続し続けている社員と、転職を繰り返している人間と、その二人を比較した時、どのように評価出来るのか、ということである。

「生え抜き」の社員は、愛社精神や帰属意識が強い。

しかし、「業務能力」ということで比較した時、幾つもの職場を経験した人間の方が優秀であるかもしれない。

一方、転職を繰り返している人は、「仕事はデキる」のだが、クセが有って、組織の中では浮いてしまうような人間かもしれない。

だが、この二人を明確に、評価出来ない限り、中途採用は出来ない。

例え、中途採用をしたとしても、その後の昇進や部署の配置など、どう対処していいのか解らなくなる。

だから、中途採用は、40歳までなのである。

それ以降は、余程の実績を残したカリスマ的なスーパー社員でない限り、採用されることは有り得ない。

それは、各社内での人事評価基準が、あくまで新卒採用の「生え抜き」の社員を想定したものしか確立出来得ていないからである。

だから、必然的に、日本の企業は、このグローバル経済の席巻する渦中に居るにもかかわらず、見事に「ガラパゴス化」しているのである。

勿論、いわゆる帰国子女や外国人留学生の採用割合を増大させて、グローバル化に対応しようとしているが、欧米のような流動的な中途採用の形態には成らない。

また、さらに由々しきことは、社員教育の問題である。

IT業界では「ドッグイアー」と呼称されるように、絶えず、業界内、企業間の状況は激変している。

そういう変化の激しい環境の中で、じっくりと社員を「仕込んでいく」ということは難しい。

特に、日本的な職場はそうである。

日本人は、いわゆる「職人気質」という特質が有る。

これは、細部へのこだわりと感覚を研ぎ澄ますことによって業務技術を身体に染み込ませて行く、つまり、業務技術の「肉体化」を求める傾向が強い。

しかしながら、非言語的な、感覚的な段階まで細部にこだわっていくために、習熟まで長時間を必要とするのだ。

さらに、「仕事のやり方は盗め」と云うようなスタイルだと、個々人の解釈幅が広く成り過ぎて、誤解が生じやすい。

そして、勘の良い人と鈍い人では、理解が大きく異なることに成る。

だから、物凄く秀逸な「職人」を生み出すことは出来るのだが、その裏で、後継者を育成する時間が長くかかり過ぎる上に、10人育てても大成するのはたった一人、という誠に効率の悪い方法でもあるのだ。

そのため、日本の各職場に於いては、業務のIT化という技術革新による背景とともに、従来的な「職人気質」の研修を実施しようとして、社員教育が事実上、暗礁に乗り上げてしまったのである。

要は、後継者に対して、業務内容の継承を明確な「言語化」が為されない場合、業務の指示なども含めて、極めて個人解釈の裁量に依存する結果と成るのである。

そこで、誤解や勘違いが不可避と成るのだ。

そして、結果として「数字」が上がらなかったり、上司や先輩の感覚的な「受け」が悪い場合、「使えない」という烙印を押されてしまうのである。

現在、「新人は3年で辞める」というのが風潮らしい。

だが、それは、企業側が、ちゃんと社員を育成していないせいだと思う。

日本に於いて、教育(特に高等教育)の有り方がブレ続けているのは、その目的が確固でないからである。

「教育」とは、「その社会に必要とされる理想の大人像への行程表」である。

つまり、「教育」を施す子供達に対して、理想の社会像と理想の大人像を明確に提示出来得なければ、「教育」はぼやけてしまうのである。

社員の研修も全く同様である。

現在の職場に於いて、どのような社員が求められているのか。

その理想像を明確に指示し、「言語化」することによって、曖昧な解釈が生じないように、しっかりと規定しなくてはいけないのである。

だが、そこのところがふらついているから、社員を育成出来ないのである。

これは、先述したように、確固たる社内人事評価基準が確立されていないということである。

機能的な組織に於いては、その組織が何を目的にするのかを厳密に明確化しなくてはいけない。

さらに、その目的を達成するためには、具体的かつ厳密な戦略を立てなくてはいけない。

そして、その戦略を実行するための精緻な行程表を作らなくてはいけない。

結局、何が肝要なのかが曖昧糢糊としているから、ついつい情緒的な決断に陥ってしまうのである。

「新卒の一括採用」見直し云々などより、もっと検証し、改善すべきところは他にたくさん有るだろう。

着手が簡単なところで、「取り敢えず、云ってみた。」というのであれば、あまりに愚かしいと感じる。

どうやら「うつ病」が再発したようである。

6月末から現在8月のはじめまで、疲労感、倦怠感が辛く、精神状態は沈鬱。

次第に、食事に味気が感じられなくなってきた。

「うつ病」の代表的な症状は不眠であるのだが、かつて自分の場合は過眠という症状で出た。

不眠と過眠では、まるっきり正反対なようであるが、「睡眠障害」というくくりでは、同じである。

いくら睡眠を多めに取っても、全く疲労感が解消されないのは、やはり、肉体的な不具合もさることながら、精神的にも支障をきたしていたということである。

いったん「寛解」した「うつ病」が何故、ぶり返したのか?

まあ、その要因は様々で、複合的なものであると思う。

だから、どれか一つの要因を取り除いたところで、根本の解決にはならないだろう。

また、「発病」というのは、相対的なものである。

身体の免疫や抵抗力といった、発病原因を撥ね退けるだけのパワーが有れば、発病まで到らない。

ただし、過労やストレスなどで、免疫や抵抗力がパワーダウンしていた場合、防御は破られてしまうのである。

そうはいうものの、自分にとって、明確に精神的に辛かったのは、母の小言と愚痴であった。

朝、起床し、夜、就寝するまで、母と一緒に居る間、間断無く聞かされる小言と愚痴。

これが、本当に本当に、自分には耐えられなかった。

家を出て、働いていた方が、全然楽だった。

何故なら、仕事場では、自分の人格まで全否定されるようなことは絶対に無かったからである。

だが、家に居れば、後から後から小言が浴びせかけられ、それが途切れたと思ったら、今度は愚痴不足が延々と続いていく。

愚痴不足というのは、例え、自分と無関係であると解っていても不快なものである。

愚痴を聞かされた方は、本当に迷惑である。

だから、自分は、なるべく愚痴不足は吐かないように意識している。

愚痴不足は、自他共に、毀損する「負の言葉」である。

もし、どうしても愚痴不足を漏らさずにはいられなくなったら、笑い飛ばすしかない。

自分自身とその身の回り全てを「笑い」で突き放した方が、どれだけ、生産的であることか。

最近、「毒親」という流行(はやり)言葉が有る。

さしずめ、我が家も「毒親」ということに成ろう。

だが、「毒親」と言い切ってしまうことに、自分は違和感が有る。

残念ながら、親の要素は子供に遺伝するのである。

つまり、「毒親」の負の要素は、間違い無く、子供にも継承されているのだ。

ならば、この「毒親」の負の要素の遺伝と云う、冷徹な現実から目を背けた場合、「毒親」の「負の連鎖」は絶対的に不可避であろう。

母の「毒」は、間違い無く、自分自身の体内にも含有されているのである。

このことは、強く肝に銘じて、猛省を期したい。

「家庭」とは、人生に於ける「母港」である。

日々、仕事や学校に出て行く。

だが、所詮、この世はままならぬことばかり。

疲労と憂鬱をしこたま抱えて、帰宅することがほとんどである。

だが、帰宅して、「家庭」で安らぐことが出来なかったら、どうなるのか?

大なり小なり、いずれの「家庭」にも、問題は存在している。

しかし、帰宅への家路の歩調が重くなるようでは、いずれ難破は免れないだろう。

「家庭」という、人生に於ける「母港」が、「火宅」と化してしまっていたら、船は延々と外洋を漂流するしか術は無い。

とにかく、近日中に、受診をするつもりである。

母は、猛反対である。

「もし、精神科への通院が会社に知れて解雇されたらどうする。」

「お金はどうする。」

何だ。所詮、金なのか。

子供の健康など、どうでも良いのか。

だから、母の気持ちなど、一切無視する。

自分の命は自分で守るしかない。

「うつ病」の恐ろしいところは、発作的な自殺衝動に有る。

突発的に自殺を決行してしまうことにある。

特に、「うつ病」の症状が軽く成ってからの方が危険度は高い。

本当に「うつ病」が重篤となれば、身体を動かしたりすることさえ出来なくなる。

つまり、自殺さえ出来なくなるのだ。

病気に関しては、早期発見・早期治療に限る。

早々に治療していきたい。

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