只今、東京都議会議員選挙は終盤戦で、今まさにたけなわである。

で、選挙情勢は、事前の評判通り、「自民苦戦、都民ファーストに勢い」であるという。

さて、何事も、問題点を読み解いていくには、深く深く掘り下げていくことを心掛けなくてはいけない。

現在の都議会自民党の劣勢は、東京都知事に小池百合子が当選したところから始まった。

だが、「そもそも」は、小池百合子の前任者、二人の都知事が、いずれも金銭スキャンダルで中途辞任したところから端を発している。

つまり、猪瀬・舛添の二人の東京都知事の「製造者責任」が問われているのだ。

東京都民にとっては、「とんでもない奴を東京都知事に“つかまされた”!」という怒りが、二人とも担いだ都議会自民党への向けられているのである。

勿論、猪瀬直樹は、石原慎太郎都知事の時の「副知事」だったから、「石原さんの置き土産」だったと云えなくもない。

しかし、舛添要一の場合は、都議会自民党は全面的に、その担ぎ挙げた「製造者責任」を負わなくてはいけないだろう。

しかも、舛添は、自民党が2009年8月に民主党への「政権交代」のドサクサに、自民党へ「後ろ足で砂を引っかけて」離党したのである。

しかも、彼は「自民党」という「政党」枠による、参議院全国比例代表区から出馬して当選出来た。

さらに、安倍第一次内閣、福田康夫内閣、麻生太郎内閣と厚生労働大臣という「閣僚」の地位に居た。

しかも、比較的重要な「閣僚」ポストに優遇されていたのである。

にもかかわらず、「政権交代」したら、自民党を離党し、「新党改革」の代表に収まったのである。

「恩を仇で返す」奴とは、舛添のような人間を云う。

そんな、政治家としてどうこうというよりも、人間として評価出来ないような「候補者」を擁立してしまった「自民党」の「浅はかさ」こそ、そもそも、現在の「苦境」の「根本原因」と云って過言ではなかろう。

案の定、舛添は、東京オリンピックに向けて「喜色満面」の得意の絶頂でありながら、しょうもない政治資金のチョロマカシでもって、任期途中での辞任へ追い込まれた。

ただ、田母神俊雄さんも「金銭スキャンダル」で、当時の「選対責任者」から告訴されるに到った訳で・・・・。

とにかく、舛添辞任の頃から、翌年の都議選に関して、きな臭い「空気」が漂い始めた訳である。

そこで、小池百合子が「飛び出し」、一方の自民党は「ますだおかだ」(だったけ?www)というパンチの弱い候補を無理やり擁立した。

これで、東京都民の怒りが発火したのである。

「ふざけるな!いいかげんにしろ!」と。

特に深刻だったのは、東京都の自民党を支持していた「広範な緩やかな支持層」が「離反」「流出」したことである。

現在の安倍政権への高い支持率は、確固たる「国家理念」を志向する人々によって構成されている訳では無い。

「アベノミクス」に代表されるように、国民生活の基盤を固める「まともな政策」を着実に実施していることに対する「支持」なのである。

だから、「何が何でも自民党公認の誰それ先生でないといけない。」という訳では無いのだ。

そして、さらに、小池百合子東京都知事が誕生してからの都議会自民党の振る舞い方は、誠に大人げなく、傲岸不遜であった。

小池新都知事が表敬訪問しに来た都議会議長が、マスコミの前で「握手」することさえ憚られるというのは、まさに「異状」であろう。

これらの諸々の「立ち居振る舞い」が、都議会自民党を見事に「悪役(ヒール)」として印象付けることを決定付けた訳である。

左派系大マスコミの「印象操作」という「見立て」も可能であるが、自分はそれよりも都議会自民党の「身から出た錆」であると思う。

だから、都議会自民党、自民党東京都連は、「前非を悔い改める」ことを示さなくてはいけなかったのである。

特に、長年、東京都の自民党を下支えして来た「支持者」の方々に対して、頭を下げなくてはいけなかったのである。

ところが、都議会自民党も、自民党東京都連も、むしろ「自分達こそ被害者なんだ!」といった口ぶりなのである。

これでは、いくら何を訴えても、懇願しても、都民の心には届かないのである。

 

一方、小池都知事サイドも酷いものである。

小池百合子は、「女性」であることを「政治的武器」として活用することに長けている。

別に、こういった政治的テクニックに関しては、善悪の問題ではない。

ただ、彼女は、その「女性的」な見た目とは裏腹に、徹底した「勝負師」なのである。

つまり、「調整」や「摺合せ」といった、或る面、「回りくどい」ことは出来ないし、やりたくない「性分」なのである。

で、本来ならば、そういう彼女の「足らざる点」を補うべきなのは、彼女の「側近」であるべきなのであるが、彼女の周囲には、彼女と「同種」の人々しか存在していないのである。

つまり、小池百合子が「斬って捨てろ!」と命じると、「そこを何とか。」と押し止めずに、「そうだ、そうだ!」「やっちまおう、やっちまおう!」「マンセー、マンセー!」と呼応するだけなのである。

そうなると、小池百合子の「毒」が「増幅」されるばかりで、「中和」されることなど有り得ない訳である。

ただ、或る面、小池百合子と都民ファーストの会が、「僥倖」だったのは、公明党や労組・連合などのそれぞれの事情と思惑による。

公明党は、とにかく選挙に当選出来れば良いとしか考えていない、「選挙当選至上絶対主義」なので、今迄の都政との「継続性」や「整合性」、また、国政での自民・公明連立政権との「兼ね合い」といった事柄を全部「無視」して、小池百合子に「抱き着いた」のである。

自分は、この公明党の「超選挙現実主義」の「振る舞い」に「既視感」が有る。

かの大阪府に於いて、「大阪維新の会」や橋下徹大阪府知事・大阪市長との「迎合」「離反」ぶりである。

つまり、選挙に勝つためだけならば、いくらでも「日和る(ひよる)」訳である。

一方の労組・連合は、民進党のあまりの不甲斐無さぶりに、下支えすることへの嫌気がさしていたのである。

日本共産党と「野合」し、労組・連合と共産党傘下の全労連との根深い「対立」を無視した民進党執行部の「無神経さ」に、最早、辟易としていた訳である。

さらに醜悪なのは、民進党の都議選公認候補で、選挙の日程が近付くにつれて、沈没船から逃げ出す鼠のように、「都民ファーストの会」に「入党」したり、無所属に転じて「推薦」をせしめたりし始めた。

「都民ファーストの会」は、「都政の刷新」、つまり「従来の都議会のしがらみを断つ」ことを目指している「筈」であろう。

ところが、先週まで、東京都民進党の「幹部」で、都議選選対で作戦を練っていた「現職都議」や「公認候補」たちが、いつの間にか「都民ファーストの会」の名前を口にしている。

よくもまあ、いけしゃあしゃあと。

しかも、「都議3期の実績」などとPRしている。

つまり、都議を3期も5期も務めていながら、今の今迄、全く「都政の改革」が出来なかった訳である。

それは、はたして「無能」なのか?「無気力」なのか?「無自覚」なのか?

少なくとも、「都政の既得利権の権化」であると指弾されても、何の弁解も出来ないと思うが。

 

都議選の時期に合わせて、国会議員の「暴言・暴行」、閣僚の「失言」が出てしまったのは「厄介至極」であるのだが、これらの「追加事項」が有っても無くても、都議選の選挙情勢の大勢をひっくり返すことは無理だったと思う。

 

さて、都議選の結果予想であるが、「都民ファーストの会」は「大躍進」をすることだろう。

だが、全擁立候補者(公認、推薦)の「完全勝利」は有り得ないと思う。

やはり、「選挙」にも、ましてや「政治」に関しても、全くの「ズブの素人」が少なからず存在しているため、それ相当の候補者が「当選」を取りこぼすこととなろう。

また、都議選は、衆院選と違い、「中選挙区」制であるので、自民党の議席が「ゼロ」に成るということも無い。

勿論、激減はするだろうが、後は、前回の59議席が、40議席台まで落ち込むのか、30議席台まで減らすのか、そこらへんに成ってこよう。

公明党は手堅く当選させる。

一方、無惨なのは民進党だろう。

ひとケタ台という、「野党第一党」として恥ずかしい惨憺たる結果と成ろう。

 

現在、新聞各紙などで「小池百合子東京都知事支持勢力」という「言葉」が流布している。

だが、これは全く意味が無い「言葉」だと自分は思う。

それは、さながら「改憲勢力3分の2」というのと全く同様である。

確かに、「小池百合子東京都知事」を支持する「党派」が、都議会の過半数を超過することは確実だろう。

だが、公明党は、先記したように、裏切る時はあっさりと裏切る。

だから、「下駄の石」のように「踏まれても踏まれても離れない」などということは、期待しない方が賢明だろう。

さらに、問題なのは、足下の「都民ファーストの会」そのものである。

はっきり云って「都民ファーストの会」は、寄せ集めの烏合の衆である。

理念も思想信条も、「統一」されている訳では無い。

現在は、「小池都知事」への「風」で、どうにか一つの体を成している訳だが、所詮、「風」は「風」である。

何時、その「風向き」が一変するか、解らない。

さらに、小池都知事の周囲には、「調整役」が不在である。

選挙後の各党派、各議会会派との「摺合せ」はもとより、「都民ファーストの会」自体の「取りまとめ」さえ覚束無いのではないか?

現に、大阪府議会に於いて、「大阪維新の会」が過半数を獲得した後、所属議員がどんどん離党していった。

多分、早晩、同じような顛末に到るのではないだろうか?

 

ここで改めてまとめておきたい。

まず、「小池都知事」は「保守」なのかもしれないが、彼女の「都民ファーストの会」は、とてもではないが「保守」とは言えまい。

何しろ、民進党出身の候補者の割合があまりにも多過ぎるからである。

また、「都民ファーストの会」が、都議会第一党の議席を獲得出来たとしても、都議会の「刷新」は非常に困難である。

それは8年前の2009年6月の都議選に於いて、当時の民主党が第一党を獲得した際、結局、都議会は変わらなかった。

あの東日本大震災直後に、原発に関する「住民投票」の請願を、左翼市民団体が都議会に提出したのであるが、結局、「否決」されたのである。

当時の都議会最多会派は、かの民主党であったにもかかわらず、である。

あの時は、都議会民主党内で、賛否が分かれたからであった。

まず、今回の都議選で、「都民ファーストの会」は、比較第一党を獲得出来たとしても、過半数を超過することは無理である。

しかも、「パートナー」である筈の公明党は、いざとなったらてんで宛てにならない。

結局、都議会自民党と「都民ファーストの会」を両天秤にかけた公明党の存在感だけが否応無く増していく、ということに成るだろう。

また、「都民ファーストの会」の会派が分裂したり、脱落して他党へ鞍替えする都議も出て来るだろう。

そうなれば、間違い無く、「都議会」は「混乱」する。

しかも、小池百合子東京都知事は、「決断力」は有るかもしれないが、「調整能力」は全く期待出来ない。

それは、現在も問題が先送りにされている築地・豊洲の市場を巡る問題を見てみれば、一目瞭然であろう。

 

また、菅内閣官房長官や二階自民党幹事長あたりが、「一地方選挙の結果に関して、国政は影響されない。」といったコメントを出すと思う。

だが、これは、あくまで、「内閣官房長官」や「自民党幹事長」という「役職」に有るからこそ、そういうコメントしか出しようが無い訳である。

それを真に受けて、「都議選で自民党が負けても、安倍内閣は安泰だし、憲法改正への道のりも大丈夫だ!」と云ってのけてしまう人が出て来るだろう。

誠に「おめでたい」限りである。

国会議員の選挙で、一番の手足と成る「実働部隊」は「地方議員」なのである。

都議会議員の数が減る、ということは、東京都選出の国会議員の選挙の「足腰」が弱体化するということに直結するのである。

そうなれば、総理の「伝家の宝刀」である、衆院解散・総選挙という「大勝負」に打って出ることは出来なくなる。

だから、都議選で自民党が惨敗すれば、安倍内閣への痛撃は不可避であり、当然、憲法改正への道のりは先行き不透明と云う事態に成るであろう。

自分は、本当に「幸せ者」だと思う。

実は、昨晩から急激に体調が悪化し、今朝方に、目が醒めた時には発熱していた。

さらに声がかすれて、何を話しているのか聞き取りにくい。

病院に行って薬をもらい、床に臥せっている。

だが、自分は本当に「幸運に恵まれている」と思う。

それは、もし、この風邪の症状が一日ずれて、昨日に発症していたらどうだっただろうか?

靖国神社への昇殿参拝も清掃奉仕も出来なかった。

さらには、参加された方へ「祭神調査」をお教えすることも、遊就館博物館のご案内も不可能だった。

そうだったならば、参加して下さった皆様方や英霊の方々に対して、誠に申し訳けが立たなかったと思う。

だが、昨日は、何とか「お役目」を果たすことが出来、そして一夜明けて本日は風邪で寝込んでいる。

たった「一日のずれ」であるが、そのお蔭で、何とか、申し訳けが立つことが出来たのである。

これを僥倖、もしくは天佑神助と云わずして何と云おうか?

 

さらに、現在の自分は、たかがしがない派遣労務者である。

「お前の代わりなんか、いくらでも居る。」と云われる身分である。

だが、「お前の代わりなんか、いくらでも居る」からこそ、風邪でも休むことが出来る。

もし、これが「余人を以て代え難い」などと云われる身分に成ってしまっていたら、ちょっとやそっとのことでは身体を休ませることは許されないだろう。

それこそ、発熱で意識が朦朧としながらも、這ってでも出勤しなくてはいけなくなる。

だから、凡庸で無能であることも、あながち悪いことばかりではないのだ。

吹けば飛ぶような「軽輩」というのは、「責任を負わなくて良い」、という利点が有る。

勿論、年柄年中、貧窮なのだが、かといって、今更大金を手にしたところで何のために使う訳でもない。

「将来の不安」ということも有るが、今や、かの東芝が「解体」されてしまいそうなご時世である。

「超大企業」の「正規雇用者(正社員)」であっても、「一寸先は闇」という現実である。

そういうことでは、誰しもが「板子一枚下は地獄」という「危うさ」の上で生きているのだ。

 

そう考えてみれば、何だかんだ云って、自分は「救われている」と感じる。

どうにかこうにか、日々の暮らしが充実して送れていることを、心から感謝するべきなのだと思う。


とはいえ、只今現在の風邪の症状は、ちょっと辛いのだがwww

今、自分が確実に予感しているのは、

「今後、勤労者所得が大幅に増額されることは有り得ないだろう」ということである。

その根拠は二つ。

一つは、いわゆる「グローバル化」による。

そもそも勤労者所得の主である「給与」は、人件費という「固定経費」であるため、経営者としては、絶えずその削減が求められる。

そうなれば、なるべく人件費が安い「地域」を基準とした給与体系にしていきたい欲求に駆られる訳である。

つまり、「水は高きから低きへ流る」訳である。

もう一つは、いわゆる「企業寿命」の短縮であろう。

特に「コアビジネス」と云われる、その企業の成長や拡大の原動力と成るべき「ビジネス」の「寿命」が、どんどん短くなっているのだ。

かつて、「重厚長大」の「第二次産業」の企業が日本経済の牽引車であった。

鉄鋼製鉄・造船・重電機といった「大企業」である。

また、「三白」と云われた企業が有った。

いわゆる1952年朝鮮戦争特需により、製紙・パルプ、繊維、製糖産業の三つの「白い製品」を扱う業界が活況を呈し、世に「三白景気」と持て囃されたのである。

だが、それらの業界は、次第に、松下電器やソニーなどの家電産業やトヨタや日産などの自動車産業に凌駕されていく。

そして、さらにIT経済が活況を呈し、ソフトバンクや楽天、DeNAなどのIT企業が「花形企業」と成った。

一方、かつての家電業界大手の三洋電機は松下(パナソニック)へ吸収され、シャープは台湾系資本の傘下に、そして東芝も「解体」されそうな状況である。

つまり、企業の「成長拡大期」、つまり「黄金時代」がかつてよりも恐ろしく短期間に成ってしまった訳である。

だから、企業の成長拡大のために従業員を雇用しても、年金が支給されるまで「終身雇用」する余裕が無くなってしまったのである。

日本企業の雇用というものは、極めて硬質で、いったん新卒で採用した場合は、ほぼ定年まで勤続することが前提に成っている。

それは日本社会に於ける「同質的社会」から起因しており、企業に「採用」されるということは、単純に「業務に於いて成果を上げる」ということよりも、「いかにその職場に溶け込み、同質化出来得るのか?」という色合いが濃厚なのである。

いわば「ちゃんと“村人”に成ってくれよ。」ということであろう。

だから、かつては「中途退社」するような人は、何らかの問題を持っている「要注意人物」であるという受け止め方が強かったのである。

そして、バブル経済崩壊、金融危機、際限の無いデフレ、これにより「職場」はとにかく人員を削減することに狂奔する。

ついには、「人件費削減目標値」が、業務維持の為の最低必要人員数さえ割り込まないと達成出来ない状況と成ったため、「非正規雇用者」を取り込むことで、頭数としての人員数は存在するのだが、給与や賞与、福利厚生費はほとんど計上しなくて良い「人件費としては存在しない職員」が職場に於いて割合を増した訳である。

現在、「非正規雇用者」は全雇用者の既に4割だと云う。

現在、安倍内閣では「一億総働き方改革」でもって、人件費の上昇や非正規雇用者の正規雇用者化を促してはいる。

だが、企業全体を取り巻く状況に変わりが無い以上、「上に政策有れば、下に対策有り」という支那の言葉のように、企業経営者はどんな悪どい手を使っても、人件費を削減する対策を講じることであろう。

自分の漠然とした予感として、いわゆる「正規雇用者」は、いずれ全雇用者の3割を割り込むと思う。

つまり、明確に、その「職場」「企業」の「経営陣」「管理職」への「後継者」として認められた「幹部候補生」以外は、「正規雇用者」に採用しないのである。

そうなれば、確実に日本社会の勤労所得者の「大多数」は、「非正規雇用者」に身を落とすこととなろう。

「非正規雇用者」の「非正規雇用者」たる所以(ゆえん)は、その低額所得と身分の不安定さに有る。

そういう「経済収入状況」の「非正規雇用者」は、現在の日本の金融業者(銀行など)は「正規雇用者」と同じ「ローン」を設定してくれることは、絶対に有り得ない。

ということは、「非正規雇用者」へは、「住宅ローン」は設定してもらえない、ということである。

つまり、「非正規雇用者」には、最早「マイホーム」を持つという選択肢は存在しなくなるのだ。

そうなれば、日本の社会の大多数が「借家」「賃貸」に住むこととなり、「不動産」を保有する人が激減することとなろう。

当然、不動産価格は下落する。

さらに、路線地価が下落することによって、そこから算出される固定資産税額も下落する。

現在、地方自治体へ納税される固定資産税は、その金額は一気に激減するであろう。

地方自治体、とりわけ市区町村レベルで、歳入の大幅な欠損となる。

また、不動産を所有する人が減れば、保有する自動車の数も必然的に減少していく。

自宅の駐車場に自動車を置いておく分には「賃貸料」は発生しないのだが、「賃貸住宅」の場合、駐車場料金が別途発生する事例の方が圧倒的に多い。

そうなれば、自動車の保有数は最低限にせざるを得なくなるであろう。

もっと云えば、いずれ自動車は、「所有するものから、借用するものへ」変わるであろう。

つまり、必要な時にレンタカーを借りたり、「シェアリング」で「共同所有」するかたちに成るであろう。

はっきり云って、「持家」と「マイカー」を断念した時点で、巨額な「貯金」を課す意味が無くなる。

つまり、10年先、20年先を見越したかたちでの「貯金」を、日本社会の大多数の人々はしなくなるのだ。

さらに、「無い袖は振れない」から、「非正規雇用者」の人々は、切り詰めるだけ切り詰めて、自分のどうしても使いたい事柄を絞り込んで、いわば「一点豪華主義」の消費行動に成る。

日本社会に於ける「金融」の下支えをして来たのは、日本人の倹約・貯蓄の「精神」であった。

つまり、月々の収入の多くの割合を郵便貯金や銀行預金にしていた。

或いは、住宅ローンなどで金融機関へローンを返済していた訳である。

ところが、「非正規雇用者」が、日本社会の全雇用勤労者の7割から8割を占めるようになれば、預貯金をしたくても不可能に成るし、そもそも住宅ローンなんぞ設定不可能なのだからローンの返済も存在しなくなる。

必然的に、生保・損保業界や証券業界を含めて、金融業界へ「資金」が流入しなくなる。

勿論、企業は万一に備えて、「企業内部留保金」を貯め込むことに余念が無い。

結論として、自分のようなしがない派遣労務者は、先ず第一に健康と事故・災害に留意し、極力欲望を抑制することしか出来ないだろう。

だって、どう頑張ってみても、この先、劇的に勤労所得が増額される見込みは有り得ないからである。

ただ、考えてみれば、我々の先祖、つまり落語に出て来る江戸の庶民の暮らしは、全くこの通りだったのだ。

だから、そんな「貧乏暮らし」でも、人生を謳歌することは不可能ではない。

お金は、どうせ金持ち同士でやり取りし合っていくだけだろうし。

高望みはしないに限る。

そして、だぶついた日本の不動産は、世界中の外国人が我先にと競い合うようにして買い漁っていくことであろう。

自分は現在45歳である。

かの孔子をして「四十にして惑わず」と云わしめた年齢を五つも既に過ぎているのだが、全く以て性根が定まらず、迷い続けてばかりいる。

まさに、いたずらに馬齢ばかりを重ねてしまった観が有る。

かつて、自分が「正社員」だった頃、我が生涯の「将来像」というのは、誠におぼろげながらではあったのだが、明確に「存在」はしていた。

だが、中途退社し、「正社員」でなく成って以降、自分は、自分自身の「将来像」というものが全く思い描けなくなってしまった。

昨夜も、母との口論の末に就寝して、つらつらと考えを巡らしていたのだが、自分がこの先、どういう風に成って行くのか、さっぱり思い浮かばない。

かろうじて、約5年後の50歳までは、何をどうしているのか解らないにせよ、まだ「生存」はしていそうな気がした。

だが、約10年後の55歳ともなると、もう、本当に解らない。

55歳の自分の「様」が全く想像出来ないのである。

だから、自分は55歳を迎えることなく死んでしまうのかもしれない。

何しろ、自分は現在しがない「派遣労務者」に過ぎず、来月7月の「仕事の現場」も何処なのか決まっていないのである。

ひと月先の未来さえ不確定なのに、5年後、10年後の「将来」など、想像出来る訳が有り得ない。

このどうしようもない将来への絶望と不安に対して、母は「医療保険」と「貯金」で対処せよ、と命じる。

確かに、「がん保険」に入っていたほうが心強いし、毎月、少額でもいくばくかの貯蓄に励んだ方が良いことは間違いではない。

だが、そもそも、収入額が少ないのだから、どうしようもない。

母は、自分はどうしようもない浪費家で、だらしがないとなじった。

取り分け、「本を買い過ぎる」ことを批判した。

「毎日、読み続ける訳でも無い本は買う必要はない」

「本は場所を取るから邪魔」

「もう、どうせ、肉体労働しか仕事が出来ないのだから、本を買ったところで無意味」

「片付けられない、人間として欠陥者なのだから、はやく部屋中の本を全部捨ててしまえ」

こういう言葉を、毎日毎日、朝、目が醒めて顔を合わせた途端に云い、

丸一日、労働で心身を酷使して疲労しきった身体を倒れ込むようにして帰宅すると、朝にまくし立てた口撃を繰り返す。

「ろくに片付けも出来ない、

収入が少ない上に本ばかり買って浪費ばかりする、

お前のやっていることは無駄ばかり、

少しは将来のことを考えてお金を貯めろ」

さら、「足が臭い、のろま、人の話しを聞かない」などなど、自分の「到らぬところ」を微に入り細に入り、指弾し続けて来る。

亡父は、少なくとも自分に対して「一人の人間」として接してくれた。

多分、内心は我が子の愚かさに対して憂慮と諦念を抱いていたと思うのだが、ただそれでも、「一人の人間」として、受け止めてくれていた。

だが、母はそうではない。

母は、自分のことを「息子」という、或る種の「下等生物」としか見ていないのだ。

つまり、管理監督指導をしなければ生存不可能な犬や猫のようなペットに等しいのである。

だから、母と「相談」も「会話」も成立しないのだ。

ただ、一方的に「話し続け」、こちらは黙って従うほかないのである。

そして、ついに我慢の限界が来て、感情を爆発させると、

「お前のために、食事を作り、洗濯をし、掃除をして“やってあげている”のに、その口のききかたは何だ!」と逆切れする。

だから、これから、自分の洗濯ものは自分で洗い、自分の食事も自分で調達し、自分の身の回りの掃除も自分で行うことにすることと成った。

確かに、母に、家事をしてもらっていることに自分は「感謝」はしている。

でも、それをたてにとって恩着せがましく「お前のために」と聞かされるのは、もう、耐え切れない。

そして、「家事」を“してやってあげている”ことを「理由」に、従属を強要させてくることにも我慢が出来ない。

そうであるならば、もう、炊事も洗濯も掃除も自分でやったほうがどれだけ良いことか。

自分は確かに「浪費家」なのかもしれない。

身分不相応の出費をしているのかもしれない。

けれども、少なくともパチンコ・スロットといったギャンブルや性風俗、アルコールや違法薬物に手を出して金銭を浪費しているよりかは、ましであると思うのだが。

自分はこれからどうしたら良いのか、どうしていけば良いのか、正直、よく解らない。

だが、5年後、10年後のことはどうしようも出来ないのだが、本日只今、自分に何が出来て、何をするべきで、何を実行したいのか、は明瞭に解っている。

だから、自分は、毎日毎日、その時その時に出来ることを精一杯実行している。

勿論、それしか、やりようがないからそうしているだけなのだが。

今、自分が絶望と不安に押し潰されずに、何とか毎日の日常生活がおくれているのは、今日一日を懸命に勤めていくことのみに専心しているからである。

それが、この先、どういう「結果」に到るのかは、全く解らない。

ただ、この二か月で実感出来たことは、ボディビルを再開して、着実に体形が変化し、パワーアップしたことである。

まさに「筋肉は裏切らない」と云う言葉通り、毎日毎日のプロテインとトレーニングの「成果」は確実に出ている。

多分、背中のパワーは、現在が「人生で最強」だと思う。

ボディビルの「成果」と人生の「将来」を単純に引き比べてしまうのは、あまりにも短絡的なのかもしれないのだが、ただ、自分にとって、これが一つの「指針」に成っている。

毎日毎日の「日常」の累積が、結局、その人間の「生涯」そのものなのである。

だから、「人生」をより良く変えていくためには、「日常生活」をより良く変えていくしか有り得ないのである。

勿論、一から十まで、全部をひっくり返そうとしたら、その「変革」は間違い無く挫折する。

だが、一つ一つを少しずつ、置き換えていけば、着実に改善は出来得るような気がする。

そして、そこで重要なのは「気負わない」ことであろう。

また、「しなければならぬ」という「義務感」を持たぬことであろう。

どうしても、「気負い過ぎて」「義務感」を意識し過ぎると、「やらされている」という感覚に陥りがちである。

で、この「やらされている」という「意識」が有るうちは、それは自らの血肉に成っていないのである。

よく、かつて体育会系のクラブに居た人で、「とにかく筋トレが嫌だった。」と云う人がいる。

確かに、バーベルやダンベルを上げ下げするだけの「単純作業」を「義務感」で「やらされる」のならば、次第に辟易としてくるのは当然だろう。

だが、筋トレを続けていくことで、少しずつではあるのだが、確実に「違い」は出て来るのである。

その「差異」を意識出来得た時、はじめて「成果」を実感出来ることが可能なのだ。

それは、筋肉に限らない。

知的分野や技術的分野に於いても同様である。

重要なのは、日々の学習・鍛練・勤労は「義務」ではなく「権利」であると意識を転換させることにある。

自らを変革させ、成長させ、向上させるための「権利」としての日々の諸々の事柄が存在するのである。

どうしても我々は、「非日常」的な「イベント」でもって、課題や難問を一気に解決打破しようと陥りがちである。

だが、考えてみれば、それはさながら累積している借金を、宝くじやパチンコなどのギャンブルでもって一攫千金し、それで一気に全額返済しようとしているようなものであろう。

で、そういう「やりかた」で借金返済をしようとする人は、ほぼ解決不可能なのである。

一方、毎月いくら、毎日いくら、と云う風に借金返済の金額を少額ながらも積み立てていくやり方が、着実なのである。

例えば、毎日1000円の借金返済を心掛けたならば、たった1年で36万5千円の「大金」に成る。

もし、500万円の借金ならば、14年で完済する。

これを毎日2000円にすれば、10年以内に完済可能に成る。

我々は、もっともっと自らの「日常」の重要性を深く自覚するべきであろう。

勿論、1日に出来る事柄はあまり多くは出来ない。

また、晴れた日も有れば曇りや嵐の日も有る。

だから、1年365日、全部実行出来るということも誠に困難であろう。

だが、なるべく、毎日毎日、継続し続けることを意識し、努めていくならば、絶対に「成果」は出せる筈である。

もっと云えば、さらに「戦略」などの付加要素も重要なのであろうが、まずは「日常生活」に対する「意識」そのものから始めて行くべきだろう。

 

現在、自分は、自分の「将来」に対して明確なイメージを持ち得ていない。

だが、自分の「将来」に対して、虚無的なまでの「絶望」にも陥っていない。

あとは、ただ、これからの毎日をいかにひたむきに努めて行き続けられるかどうか。

そこに全てがかかってくるのだと覚悟している。

何でも「安心出来る老後」に必要な預貯金は「5000万円」以上なのだそうな。

この金額を見て、自分は、いわゆる「安心出来る老後への預貯金」について、明確な「作為」を感じてしまった。

そんなにお金を貯め込むことが果たして「正常」なのだろうか?

確かに、素寒貧で、ろくに蓄えも無い、というのは情けないと思う。

だが、「生涯の給与所得額」が、「約2億円」と云われる中で、その4分の1の金額を老後のために貯め込め!というのである。

これでは間違い無く「デフレ」に成るだろうし、貯め込むだけ貯め込んだ「大金」は、どうせ、国債か、外国での投資信託に回るだけであろう。

つまり、日本国民がお金を貯め込んで、そのお金を借りて、上手いことやりたい「連中」が、絶対に日本国民の将来への不安を煽り立てているのに間違い無いだろう。

幸か不幸か、現在の自分は、2か月先の見通しも立たないような「不安定」な身分である。

5年後、10年後の自分がどうしているのか、全く解らない。

逆に、現在のような「身分」で、「遠い将来」のことに考えをめぐらせてしまったら、絶望と不安しか有り得ない。

だから、毎日、毎日を悔いの無いように精一杯生きていることに専念している。

で、もし、所持金が皆無と成ったり、どうしようもない健康状態と化したならば、その時には「覚悟」を決めれば良い話しであろう。

別に、刹那的に、享楽的に生きてしまえ、ということではない。

天地神明に恥じないような、慎ましやかな「生活」を送るように努めていけば、もう、それで良いのではないだろうか?

逆に、預貯金が「5000万円以上」も持っていたら、詐欺や盗難に遭ってしまうかもしれない。

或る面、「余命」のほぼ全部の「保障」として貯め込んで来た預貯金が、瞬時に奪われることと成ったら、その時の「絶望感」はとてもではないが耐え切れないのではないのだろうか?

無駄遣いは良くないので、倹約に努めるべきであると思うが、預貯金で「安心」を得ようという「意識」は捨てるべきだと思う。

「安心」は、「お金」では購入出来ない。

結局、「安心」を「お金」でもって充当しようという意識に成ってしまったということは、我々の人生そのものが「資本主義的商品化」されてしまったということであろう。

その対極に有るのは、四国高知県の物部の山村である。

そこは山奥の「限界集落」であるのだが、そこに住む年寄りたちは、山肌の畑や山林で採れた作物でもって命をつないでいる。

イモや山菜を食べ、そして、神仏や祖霊らへ、自然の実りを与えくれたことを日々感謝する祈りを捧げ続けている。

そこには、「老後への預貯金・5000万円以上」などというとてつもない大金は、存在しない。

だが、明確に、物部の年寄りたちには、「老後」への不安は存在しない。

そして、さらに、「死後」への不安も存在していないのである。

ならば、我々は、この山奥の限界集落に住む年寄りたちよりも遥かに「劣っている」ということに成ろう。

亡父は、寡黙であったが、決して人前で話すことが「出来ない」人ではなかった。

また、親しい人とは長時間、話すことが出来た人であった。

考えてみれば、物凄く記憶力が良かった人だから、話題の種には事欠かなかった筈である。

しかしながら、亡父は寡黙であった。

何故か?

それは、亡父は恐ろしく、頭の回転が速く、洞察力に秀でていたからである。

自分などそうなのだが、何か気が付いたこと、云いたいことが脳裏に浮かぶと、そのまま直接、口から出てしまう。

ところが、亡父は、口を開く前に、自分がこれから発言する内容が、聞いている相手にとってどういう受け止め方をするのか、瞬時に読み解いてしまうのである。

だから、発言をして良い場合と悪い場合をちゃんと見極めることが出来、云って悪い結果と成ると見抜いた場合は、全部肚の内におさめておくびにも出さなかった。

ただ、発言して良い場合と、どのような結果であれ「発言をすべき」と判断した場合は、二言三言で簡潔に、ズバリと本質を衝いた指摘をした。

その点、自分はまるで駄目で、話している途中で、ようやく「あ、話すのではなかった!」と気が付いて、大慌ててで誤魔化すような醜態である。

本当に、発言する前に、どうして気が付かないのであろうか?

毎日、毎日が自分の愚かさの再確認の連続である。

はやく、人並みに成れるように、日々、試行錯誤を続けている。

いわゆる「2020年大学入試改革」成るものが、ほとんど「名ばかり」だけに尻つぼみしそうである。

そもそも、2020年の大学入試から、従来のような「センター試験」的な「ペーパー試験」を主体とした「大学入試」を抜本的に改めたい、ということであった。

それは、いわゆる単なる「受験知識」の記憶偏重から脱却し、「思考力」「発想力」「表現力」といった、いわゆる「アクティブ・ラーニング」へ変革させたい、というものであった。

確かに、現在の日本の大学入試の「ありかた」が、「最善」であるとは思えない。

その一番の論拠は、社会状況が激変したからである。

かつてのような「大量生産・大量消費」「少品目・多量生産」といった「マスプロダクション」(マスプロ)の時代が終焉したからである。

「マスプロの時代」というのは、「第二次産業」(工業)が時代の牽引する産業であった訳で、当然、その時代に求められる「教育」とは、統一規格によって厳格に完成された、正確で誤差の無い「人材」の育成であった。

具体的に云えば、「工員」や「職工」を養成する(ような)「教育」である。

だから、そういう意味では、「教育」という「システム」にとって、一番「適合」した「社会状況」であり「時代」であったと云えよう。

しかしながら、時代の変遷と共に「第二次産業」(工業)に於ける「利潤率」が下がり始めた。

代わって、「第三次産業」(サービス業)の産業全体に於ける重要性が増して来たのである。

それも、販売・流通・飲食と云った、比較的「統一規格」でもって設定可能な業種であれば、「第二次産業」(工業)の時と、あまり変化が無かったのであるが、いわゆるITによる通信情報工学の急激な進歩・発展によって、社会状況が激変したのである。

まず、ITの業界は変化の速度が桁違いであること。

従来の「成功体験」に耽溺し、固執していたならば、たちまち「時代遅れ」と成って、「経営的敗北者」と化してしまう。

つまり、不断の変貌・変革を強いられる苛酷な世界であった。

また、顧客からのあらゆる些末な「要望」に対応することが比較的に容易であるため、「多品目・少量生産」が可能と成った。

さらに、いわゆる「ITシステム」に於いては、「オーダーメイド」が当たり前である。

そういう社会状況の激変によって、かつては「テキスト」(教本)に忠実に、かつ従順に業務を遂行する人員が「理想」であったのが、あらゆる顧客の要望に対応可能な、融通無碍な人員が「理想」に変わってしまったのである。

自分は、以前から何度も書いているように、

「教育とは、その国家・社会・共同体・組織が理想とする大人に到達するための行程表である」。

はっきり云って、子供の「人権」や「個性」など、「どうでもいい」のである。

子供は、未来永劫、子供のままで居る訳にはいかない。

子供は、いずれ、否応無く、大人の「群れ」の中に入っていくしか有り得ないのである。

だからこそ、いかに、大人の「群れ」の中に入っていってから苦労をしないように、支障を来さないように、ということで「教育」が課せられる訳である。

つまり、「教育」を「論じる」ということは、現在の大人自体を「論じる」ことでしか、実は成立しないのである。

子供に、どんな大人に成って欲しいのか?

我々の国家や社会や共同体や組織は、どういう「かたち」を志向しているのか?

そこのところを、明確に押さえた上で議論を進めていかなければ、具体性に欠けていくのは必然であろう。

 

ちなみに、仮に、これからの「社会人」には、「思考力」「発想力」「表現力」が「求められている」という。

自分は、この「主張」に対して、全く信用が出来ない。

一体全体、我が日本の社会に於いて、「思考力」や「発想力」や「表現力」が、求められたことが果たして有るのだろうか?

あくまでも「身内の中の“和”」を絶対至上のものとし、

「何を論じたのか」ということよりも「誰が発言したのか」ということのみが絶対であり、

とにかく「前例」を踏襲し、

論理的・合理的であることよりも、「なんとなく、みんなが反対しないような」落としどころこそが、決定的な条件であるという、

この「我が日本の社会」に於ける「現実」である。

いくら怜悧で才気煥発な若者が、最高至尊の「アクティブ・ラーニング」で研修したところで、その若者の「思考力」「発想力」「表現力」を「受け止める」だけの「度量」がはたして存在するのであろうか?

息が詰まる程の「同調圧力」と「情緒優位の超論理性」に支配された、我が日本の社会に於いて、そんな「尖がった、出る杭」なんぞ欲しくも何とも無いのである。

我が日本の社会に、現在もなお「求められている」若者たちは、「従順な羊の群れの中の一匹」である。

ただ、ブランドと権威と知名度を有する「出身大学卒業」という「学歴」と、

一応、「グローバル化対応」ということで「英語力」の「検定点数」だけアイテムとして用意してもらいたいのである。

考えても見よ。

いくら優秀な「英語力」が求められているとはいえ、新卒の新入社員が、先輩や上司を飛び越えて、海外のユーザーと直接、国際電話やメールのやりとりで新規顧客をバンバン獲得しまくって来たら、間違いなくその「職場」で「その人」の「居場所」は無くなる。

我が日本の社会に於いては、「模範的新入社員」たるものは、先輩や上司に対しては、

「えー、実はそういうものなのですかー!全然、知りませんでした!」と「かまとと」ぶり、

「このたびはどうもありがとうございました!今後とも、何卒、宜しくご指導ください!」と「よいしょ」する感じでないと、

「あいつは空気が読めない。」

「どうも、扱いにくいなあ。」

という感じで邪険に扱われる訳である。

 

自分は、我が日本の社会に於いて、少なくとも2020年過ぎまでに、「思考力」や「発想力」や「表現力」なんぞ、求められていないと思う。

確かに、世界の「トップエリート」たちとしのぎを削っているような、日本の社会の中の最上級の「目利き」だけは、「問題意識」を痛感しているのであろう。

だが、その「問題意識」とて、結局は頓珍漢な勘違いでしかない。

何故なら、「思考力」や「発想力」や「表現力」を養成するためには、多量な知識を学習する必要は無い、と云うのだ。

全く以て、愚昧である。

実際、乏しい知識や少量な情報から産出される「思考力」「発想力」「表現力」など、貧弱そのものでしか有り得ないではないか。

 

かつて、世界に誇る日本映画界の巨匠・映画監督の黒澤明は、

「映画を撮る上で必要な要素は何ですか?」という問いに対して、

「それは記憶力です。」と云い切った。

何故なら、素晴らしい光景、美しい景色、人間たちのほとばしるような激情の様、など、

これらの「映像」を、どれだけ記憶しているかが、映画を撮る上で決定的である、と。

これは何も映画に限らない。

文章に於いても、論考に於いても、ビジネスに於いても、全てにあてはまる。

我々は、まず、何かを「知らなければならない」。

そして、「知った」上で、ようやく思考や発想や表現という「段階」に進めるのである。

こういう、物事の「道理」を勘違いしている前提でもって、「教育」を論じているから、いつまでたってもまとまらないのである。

そして、「何となく」「ふわっと」「ぼんやり」とした「感じ」を無理やり論拠の土台に据えて「大学入試改革」を構築しようとするから、具体性に欠けて、現実味も出て来ないし、成果も絶対に上がらないのである。

 

ただ、こういう「指摘」をいけしゃあしゃあとするような「奴」は、我が日本の社会に於いて、評価されることは、ほぼ、無いwww

自分が感じること。

今、「組織」が「人員」を抱えることに「リスク」を感じ始めている。

それは、「人件費」が「固定経費」として、大きく乗っかって来るためである。

現在の会計基準に於いては、売上額よりも利益率、差金率が評価の絶対である。

だから、必然的に「経費節減」に駆り立てられるように成る。

つまり、賃金を支払わなければいけない「正規雇用者」は、ギリギリまで削減したい。

今や、「正規雇用者」の人数は、「固定経費」そのものなのである。

ただ、会計や経理の帳簿の帳尻を合わせるために、ひたすら「人減らし」に突き進めば、いずれ、あらゆる「職場」で「人員不足」から来る「過労」などにより「戦線崩壊」と成る。

その顕著な例が、「宅急便」の宅配便大手のヤマト運輸が、ついに「運送費」の値上げと時間指定配達や再配達の見直しを打ち出した。

そして、一気に従業員数を増加させた。

自分は、以前から、「人件費」を「削減」するための「ごまかし」としての「非正規雇用」の増加やアウトソーシング(業務外注)は、駄目だと書いてきた。

何故なら、それは「脆弱」であるからである。

考えてもみてもらいたい。

そもそも自衛隊や警察、消防に於いて、補間部門的な部署はともかくとして、その「組織」のほとんどを「正規雇用者」で固めているのは何故なのか?

それは、非常事態に於ける緊急出動を実行するには、組織としての統一性と団結力が要求されるからである。

ところが、現在、そこらじゅうの「組織」に於いて、「正規雇用者」の人数が減り、組織内の割合も減っている。

ただ、そういう「よそもの」に依存している「組織」は、何か、緊急事態にみまわれた場合、すぐに業務が停滞、もしくは停止することと成ろう。

具体的な「危機」の事例としては、「新型インフルエンザ」の蔓延である。

いわゆる鳥インフルエンザの中でも強毒性のウィルスが突然変異をして、或る時、劇症化する「新型インフルエンザ」が発生したとしよう。

そういう非常事態に成った場合、「非正規雇用者」は、「職場」に出て来なくなる。

何しろ、「非正規雇用者」に対して、「業務命令」として、無理やり職場へ急行することを要請出来ないからである。

「非正規雇用者」は、その薄給と福利厚生への皆無さと引き換えに、「業務命令」を強制出来ない「契約」に成っているからである。

もし、そこまで「組織」へ忠誠と貢献を強いるのであるのならば、然るべき「待遇」を与えられなければいけない。

「とにかく、人手が足らないから来てくれ!」とお願いしたところで、そのための「特別手当」が出る訳でも無い。

だから、さながら、負け戦を感じた「雑兵」どもが、一斉に「戦闘放棄」をして、「逃散」して消失してしまう感じである。

常日頃、「たかが雑兵風情が!」と軽蔑していても、いざ、負け戦と成った時、一人でも二人でも竹槍を振るって敵兵の襲来に立ち向かっている雑兵たちがいなければ、みるみるうちに「戦線崩壊」、「総崩れ」という苦境に陥る。

多分、社会全体が「頓死」「壊死」する惨状と成ろう。

かつて、かのローマ帝国に於いては、軍隊は傭兵であった。

つまり、「戦闘の専門家」が、お金で雇われて戦っていたのである。

だが、その「戦争のプロ」は、蛮族であるアジア系のフン族の「民族大移動」の襲来には、全く太刀打ち出来なかった。

何故なら、傭兵は、戦線を離脱してもその先の「未来」が有るからである。

だから、「命有っての物種」とばかりに、最期の最期まで戦わなかったのである。

ところが、地縁血縁で強固に結び付いた「族長制」の蛮族は、戦線を離脱することは、その「民族」や「共同体」そのものから脱落することを意味する。

「一族郎党」から離脱して「生存」することなど、想像すら不可能であったのである。

だからこそ、殺されても、殺されても、彼らは戦うことを止めなかったのである。

この「決死の覚悟」の有無こそが、勝敗を決したのである。

こう見て来ると、日本の「職場」は、もし、ギリギリの「戦闘状態」と成った場合、多分、勝てないだろう。

「今こそ、正念場だ!」と刀を抜いてみたけれど、本陣に残っているのは全体の二、三割。

大多数の「非正規雇用者」たちは、いち早く「消えてしまっている」訳である。

そこで愕然とした「正規雇用者」たちの戦意は瞬時に喪失してしまう。

後の経過は、敢えて書くまでもないだろう。

人員を多数抱えることは「リスク」である。

だが、本当の「リスク」に対応出来るような人員配置と業務形態を設定しない限り、最大のリスクたる「クライシス(危機)」には、全く、対処不可能であろう。

つまり、経理帳簿上の「小さなリスク」に汲々とするあまり、正真正銘の「大きなリスク」に関しては全く「想定外」と化しているのである。

で、それに対する「あて」は、「政府」なのである。

常日頃、「政府」の存在を軽視している割には、誠に「都合の良い」話しである。

いよいよ「大学入試」改革で、「話せる英語力」を「入試」に導入すると云う。

うーむ、何だかなあ。

確かに、インターネットや街中のそこかしこで外国人と「接触」する機会はとてつもなく増大した。

だから、或る面、否応無く、外国人と「英会話」を強いられる「事態」が切迫化して来ているのである。

だからこそ、「話せる英語力」が求められているのであろう。

だが、ちょっと待って欲しい。

そもそも「話す」ということは、どういうことなのだろうか?

それには、自分の内に有る「何か」を表現したい、伝達したい、そういう欲求が無ければ、そもそも、「話す」ことなど出来はしないではないのか?

また、逆に、相手に対して、興味と好意と愛情を持って、相手から「何か」を引き出し、自分へ学び取ろうという「意欲」が存在しなければ、傾聴も聴き取りも有り得ないだろうし、そこから談論風発といったコミュニケーションまで発展することなど不可能であろう。

だいたい、現在の我々は、母国語である筈の国語(日本語)でさえ、ちゃんと「話せている」のであろうか?

聞いてもらう「相手」が満足し、理解可能な、そういう「話せる語学力」を持ち得ているのであろうか?

「いや、英語はともかく、日本語はちゃんと話せていますよ。」と言い張る人は多いだろう。

しかし、LINEやツイッターのような「やりとり」で「事足りている」ようであるのならば、甚だ「お粗末」としか云いようが無い。

以前、自分が別記先述したのだが、敗戦直後の日本人で、真っ先に英語を話しかけていったのは売春婦だった。

いわゆる「パンパン」とか「パンスケ」と呼ばれた街娼である。

彼女等の話した英語を俗に「パンパン英語」と呼んでいた。

勿論、性風俗に関する「英会話」だけの、シンプルかつ貧弱な語彙の英会話であった。

だが、この「パンパン英語」でもって、立派に進駐軍には通用したのである。

そんなに「話せる英語力」を目指すと云うのなら、まさしく「パンパン英語」ではないのか?

つまり、戦後70有余年経って、我々日本人は、敗戦直後の「焼け跡闇市」の「パンパン英語」へ回帰しようとしているのではないのか?

別に自分は、「話せる英語力」をこき下ろす意図は無い。

そもそも「英語」は言語なのであるから、読み・聴きが出来て、はじめて「習得」出来たと云えるであろう。

だが、そもそも我々日本人は、「話せる英語力」がからきしならば、肝腎の「話せる国語力」さえ覚束無いという、無惨な状況ではないのか?

これから、大学入試に於いて、「英会話」が、大学への合否の決定的な「加点項目」として設定されようとしている。

そうなれば、大学へ合格・入学したい児童や生徒は、幼少期から「英会話」を学習する「傾向」と成っていくだろう。

そうなれば、そのうち、「英会話」に於いては、ネイティブ・スピーカーも顔負けの堂々たるスピーチや会話が出来るように成るのだが、国語(日本語)については、LINEやツイッターの「書き込み」程度の「物言い」しか出来ない「代物」が大量生産されていくことであろう。

ただ、「民族とは畢竟、国語に尽きる」のである。

英会話は堪能で、国語(日本語)は「お粗末」というのであれば、そいつらはいったい何処の「人間」と認識すべきなのだろうか?

そういうやつらは、何かこみいった質問に回答する際に、国語(日本語)では要領を得ないので、多分、「英会話」で対処する筈である。

まあ、そういうやつらが跋扈する時代には、会社内はもとより、あらゆるところで「公用語」が「英語」と化しているであろうから、何の問題も無いのであろう。

むしろ「問題大有り」なのは、自分のような語学力がゼロの英語が駄目な奴である。

多分、「人語を解さない黄色い猿」と見なされて殺処分されていくだろう。

そして、何とか必死に成ってサバイバル出来たとしても、「人語を解さない稀少な原始人」として「天然記念物」認定されて、動物園で「飼育」されることと成るだろう。

かくなる上は、その時に、バナナが一本でも多くもらえるように、「お手」や「ちんちん」といった「芸」をみっちりと練習しておきますかなwww

かつて自分の学生時代には、「ハム」というものが有った。

これは短波の無線受発信で、海外の見知らぬ人たちと交信する「個人レベル」の通信手段であった。

勿論、現在のメールやインターネットの「萌芽」は既に存在していたが、その頃は「パソコン通信」と呼ばれていた。

「ハム」にせよ、「パソコン通信」にせよ、極めてマニアックであり、普通の多くの人々は固定電話やFAX、或いは、電報や郵便でもって「やりとり」をしていた。

そう云えば、かつて駅の改札口付近には、「伝言板」という「黒板」が有った。

駅での「待ち合わせ」などに使用されていたのである。

多分、若い方々には、この「伝言板」というものがピンと来ないだろうし、更に使用方法など想像を絶するかもしれない。

自分が大学生の頃、いわゆる「バブル景気」の頃であり、ようやく携帯電話が実用化されて来た。

但し、移動電話とか自動車電話と呼ばれ、サイズも大きく、重たく、また電波状況も良くなかった。

そして、極めて高額であり、普通の人々は「ポケットベル」を持つのが精一杯だった。

自分が大学生の頃、自分が学園祭のスッタフ仲間と交わした会話の中で記憶しているのは、「あの先輩、凄いや。だって、ポケベルを持っているんだぜ!」というものだった。

自分より、少し年下の方々は、学生時代にポケベルを持ち、数字の羅列で「メッセージ」を送信する裏技を駆使していた人もいるだろう。

ちなみに、ポケベルとは、自宅の固定電話にかかってきた電話を受信し、「電話がかかってきたことのみ」を通信するベルであった。

ちなみに、着信履歴として、発信元の電話番号が表示された。

だが、その電話番号も発信元が数字を入力して、はじめて「通信」出来たのである。

もう、既に、ポケベルも訳が解らない世代が多いだろう。

既に、携帯電話を持っていることが「前提条件」と成り、もう少し経てばスマートフォンを持っていることが同様に、「前提条件」と成るであろう。

一口に、「通信」という「技術」に限定してみても、その技術の進化は驚くべきことである。

かつて、仕事に於いても、私事に於いても、固定電話や公衆電話でやりとりするのが当然だった。

営業所では、電話のベルが鳴り響き、コールセンターでもないのに、電話でやりとりする職員で満ちていた。

だが、自分が子会社からの出向から復帰した時、営業所でのやりとりは「メール」が主に変わっていた。

営業所はかつてに比べて物凄く静かに成ったのである。

また、かつては、見積書も請求書も郵便で来た。

緊急の場合は、FAXで送ってもらった。

ところが、現在は、あらゆる資料や書類がメールの添付ファイルで送られて来る。

しかも、かつては、パソコンでしか開けず、パソコンが扱える場所でないと「確認」が出来なかったのだが、現在はスマホで確認することが出来る。

つまり、電車や車などの移動中や、食事、排泄、入浴中であっても見積書や会議資料を確認することが可能に成ったのである。

つくづく、科学技術の進歩や実用化の凄さに驚くと共に感服するしかない。

とは云うものの、かつてに比べて、格段に「便利」に成ったにもかかわらず、相も変わらずに、というよりも、年年歳歳、どんどん多忙さの度合いが増して来ているように感じてしまうのは自分の「錯覚」なのだろうか?

何しろ、かつては、見積書も請求書も封書郵便で来ていたのである。

それが、今や、スマホでいつでもどこでも添付ファイルを確認出来るのである。

「時間」も「期間」も、かつてより、圧倒的に短縮されている「筈」なのである。

にもかかわらず、絶えず仕事に追いまくられるくらい多忙なのは、一体全体、どういう訳なのだろうか?

その理由としては、技術革新による、「作業のスピード向上」によって、かつてのようなスケジュールでは満足出来なくなってしまったのである。

かつては、1週間かかるのが当然の「前提」だったのが、夜7時に入稿して翌朝8時には刷り上がるのが「当然」なものに変わってしまったのである。

さらに、かつては5人なり10人なりの担当者が設定されて従事していた業務をたった独りでやってのけることが当然に成って来たのである。

そうすると、仕事を任せられる「人」には、後から後からどんどんどんどん仕事が集中するのである。

ところが、取るに足らない「雑用」は、「アウトソーシング」し、もしくは「非正規雇用者」にやらせて薄給で酷使していくのである。

どちらにせよ、「過労」と労働時間あたりで換算した場合の「薄給」さが、社会全体に蔓延している。

だが、疲労困憊に成るまで多忙を極めることが、はたして本当に「良い」ことなのだろうか?

幸か不幸か、自分は只今、しがない派遣労務者でしかない。

だから、「お前の代わりなど、いくらでも居る。」と蔑まされる存在でしかない。

ただ、そんな「軽い」「小者」であるおかげで、最早、何時終わるとも知れない会議に呼ばれることは無く成った。

また、結局誰一人きちんと目を通すことがないであろう詳細な報告書の作成と提出を課せられることも無く成った。

これは、或る面、この今の時代に於いては大変な「贅沢」なのかもしれない。

明治の文豪・森鴎外の息女で、個性的な作家であった森茉莉は「贅沢貧乏」という名随筆集を残した。

自分は或る面、「貧しい」。

金銭的にも、能力的にも、その他諸々全てに於いて、そう云えると感じる。

だが、その一方で、今夜もまた、こんな取るに足らない、誰が喜んで読むか解らないような下手くそな文章を書いてしまえるだけの「贅沢」を味わっている。

自分は、現在の「身の上」のままで満足していては駄目だ、と痛感している。

だから、いろいろと考え、試行錯誤している。

とは云うものの、それこそ、いわゆる「正社員」に成ってしまうことに、最早、自分は羨望を感じなくなってしまっていることにも気が付いている。

食事も排泄も睡眠も、ろくに取れない日常生活を課せられる。

当然、読書や学習、思索といった自分が探求したい「時間」など、絶対に確保不可能だろう。

今更、そんな日常生活に戻りたいとは、もう、思えなくなっているのだ。

まあ、この年齢で、この能力だから、あれこれ思い煩いまでもなかろうのだが・・・

 

とにかく、現時点で自分が決めたことは、今は、絶対にスマホは持たない、ということである。

スマホを持ったら、本当に四六時中、それに罹りきりと成ること必定である。

自分のような「頭脳」は、或る程度、ぼんやりとしている時間が無いと脳みそが煮えてしまうwww

そして、この、ぼんやりとしている時間に、実は5本6本と書きたい文章が「降りて来る」のだ。

だから、自分は、スマホは要らない。

ただ、そうは云っても、今後、生活に強いられて「持たされる」はめに成るかもしれないのだが。

「教育」についての議論が、今一つまとまらないのは、問題点の正鵠を射ていないからである。

「教育」については、絶対不変の「理想像」が存在するという、一種の強烈な「誤解」が有る。

だが、そもそも「教育」とは、その「教育」を施し、設定する「社会」や「共同体」、「組織」、「集団」によって明確に「規定」されるのである。

例えば、アラブに於ける「族長制」の強烈な「部族社会」に於いて、「独立した個人の人格」というものは、確立は困難である。

いわゆる「部族社会」や「ムラ社会」から遊離したかたちでなければ、「個人の独立」ということは意識し難いのである。

だから、「基本的人権の尊重」という事柄を教え込もうとしても、それが「良識」であり、「前提」であると認識出来得る「社会」なのかどうかというところで、必然的に「教育」のありかたや実践方法も変わって来ざるを得ないのである。

現在、地球規模に於いて、我々の「社会」、「共同体」、「組織」、「集団」は激変を強いられている。

その主要因は、急激な技術革新による。

現在に於いては、「通信」というかたちで、インタ―ネット、ITという分野が目につきやすい。

だが、ロボットや人工知能(AI)の進化と日常生活への導入が構造的に成ってくれば、「先端技術」は否応無く、「身体化」する。

ロボットでも、人間の動作を補助(アシスト)する、パワースーツのようなかたちに成れば、今迄、身体障碍者として不自由な行動を強いられていた人々の苦しみは劇的に改善されるであろう。

勿論、老化による身体機能の衰えも、この「装着するロボット」によって改善可能に成る。

我々は、いわゆる「高度情報化社会」の「波」にあらわれてるせいで、大きな「誤解」をしている。

人間は、「脳」による認識が「主」であると。

だが、人間は、その動作や感覚の出来不出来によって、精神的な面で非常に大きな変動を強いられるのである。

例えば、あれほど健脚を誇った人が、両脚を骨折して車椅子の生活に変わってしまった場合、その人の「意識」そのものも激変することから逃れられないのである。

逆に、トレーニングによって身体機能が向上した場合、その精神的な「好転」は間違い無く存在する。

だから、ダイエットやボディビルとは、明確な「変身」であり「改造」なのである。

今後、先端技術は、人々の肉体そのものに作用するかたちで実用化されていくと予想される。

そうなった場合、必然的に、精神的な面に於いても、急激な変化が見込まれる。

精神的な変化は、社会意識や道徳規範へも間違い無く影響を与えていく。

そうなれば、政治運動や社会制度変革といったかたちで、変化を具現化していくことであろう。

そのような変化の流れを、「教育」は否応無く、影響を受ける。

だから、これからの未来社会像を想定した上で、望まれる理想の「教育」像を思考していかなくては、意味が無いのである。

ホリエモンは、そういう意味で、明確に彼なりの未来社会像を見据えたかたちで「教育」を論じている。

だから、一理有るし、それなりの説得力も持ち得るのである。

だが、所詮は、短絡的で浅慮であるので、折角の卓越した「問題意識」も、ただ単に「問題提起」の段階で終了してしまっているのである。

従来の手法や現状認識を踏まえた上で、「論考の飛躍」が望まれている。

なお、「論考の飛躍」は危なっかしい。

だが、そのリスクを解消させるのは、ラディカルな問題意識による、徹底的な本質への探究と認識が有れば、可能であると自分は愚考する。

論考が「停滞」するのは、「丁寧過ぎる」ためではない。

ただ単に、不徹底であるだけに過ぎないのだ。

亡父がとても凄かったと今更ながら痛感することは、亡父は、自らの「鋭さ」を決してひけらかさなかったことである。

亡父は寡黙で、とにかく他人の悪口をほとんど口にしない人だった。

そして、謙虚で腰が低く、面倒見が良かった。

だから、亡父は、見ようによっては「おとなしい、単なる良い人」に見えた。

実は、自分がお世話に成った直属の上司は、今時珍しい「親分肌」の人だった。

学生時代は暴走族の「幹部」で、とにかく「喧嘩上等」という「猛者」だった。

高校時代には、他校の不良学生と駅のホームで取っ組み合いの喧嘩をし、勢い余って線路に落ちて、その為、「電車の運行停止」をさせたことも有ったという。

職場に於いても「強面」だったが、部下に対しては本当に面倒見が良くて、不器用な自分は、よく、この上司にかばってもらった。

そんな上司が、たった一度だけ、亡父についてこんなことを云われたのを、今もなお克明に記憶している。

「全く、お前は全然、お父さんに似ずに仕事が出来ない。

良いか。お前のお父さんは『絶対に怒らせてはいけない人』なんだぞ。」と。

文字通り、「喧嘩慣れ」している「喧嘩上手」のこの上司が、亡父のことを「絶対に怒らせてはいけない人」と云ったのである。

だが、自分は、即座に首肯した。

何故なら、亡父は、ただ単に「おとなしくて、良い人」ではないことを常々感じていたからである。

亡父は、滅多な事では怒らなかったが、ひとたび怒らせたら、一刀両断で瞬時に斬り捨てる人だった。

そう云う面での「割り切り方」は凄まじかった。

「覚悟」が、凄かったのである。

亡父は、本当に優しい人であったが、或る面、とてつもなく厳しく、恐ろしい人でもあったのである。

だが、その「鋭さ」を、亡父は周囲にひけらかすことは無かった。

ただ、「鋭い」人だけが、亡父の「鋭さ」を見抜いたのである。

亡父が逝って、もう、4年が経とうとしている。

亡父は、いったい、どこまで「見抜き」「見据えて」「見切って」いたのであろうか?

だが、亡父は、その全てを肚の内に収めて、一切、おくびに出さずに、黙って逝ってしまった。

不肖の愚息である自分には、到底、解明出来そうもない。

嗚呼・・・

フランスの新大統領は37歳のマクロン前経済相が、ほぼダブルスコアの大差で当選した。

マスコミ報道では、「EU残留が勝利」「EUの破綻は食い止められた」といった論調である。

だが、自分は、5年後、次期フランスの大統領はルペン氏の可能性が高まったように感じた。

つまり、今回のマカロンだか、マキロンだかの新大統領は、あくまで「一時しのぎ」に過ぎない。

つまり、極右(とされる)「国民戦線」の大統領就任への「執行猶予」(モラトリアム)に過ぎないのだ。

何故なら、この若き俊英・マクロンをもってしても、フランス国民に蔓延する「政治に対する欲求不満」を解消することは極めて困難であるからである。

そもそも、フランスに於ける「既成政治勢力」に対するフランス国民の不信感や欲求不満は、ここ1,2年に惹起されたものではない。

さかのぼれば、2002年の大統領選挙に於いて、シラク大統領の再選に対して、最大野党である社会党のジョスパン候補が一騎打ちをする「構図」と成ると見られていたのだが、蓋を開けてみれば、極右・国民戦線のジャン・マリー=ルペンが2位に浮上していた。

そこで、決選投票では、保守も左翼も「反ルペン」の下で結集し、シラク大統領の再選に成った。

その次の2007年の大統領選挙では、シラク政権の「EU」や「移民流入」への傾斜ぶりが支持されず、シラクは3選を断念せざるを得なくなり、初の移民系の候補者・サルコジ氏が当選する。

そして、その次の2012年の選挙では、サルコジの金銭スキャンダルも有って、社会党のオランド氏が当選したのである。

つまり、フランス国民は、既にさかのぼること2002年から「EU」や「移民流入」の問題などから、「既成政治勢力」に対して、不信感と欲求不満を募らせていたのである。

そして、大統領選挙のたんびに、「継続」よりも「変革」を選択し続けてきたのである。

2007年に於いては、与党内候補者間に於いて「継続」よりも「変革」を選択し、シラクの三選ではなく、サルコジを当選させた。

2012年に於いては、与野党に於ける「政権交代」によって、「継続」よりも「変革」を選択し、保守の共和国連合(サルコジ)から左翼の社会党(オランド)を当選させた。

そして、2017年の今年、既成の政治勢力からの候補者の支持は伸びずに沈み、決選投票に勝ち進んだマクロンは(事実上の)無所属であり、ルペンは「極右」であった。

つまり、大統領選挙を重ねるごとに、より、激しい、ドラスティックな「政権変革」をフランス国民は選択し続けて来たのである。

で、今回は、「非・ルペン」という意味合いで、マクロンが当選出来ただけなのである。

今後、5年間かけて、マクロン大統領に対する幻滅と失望の怨嗟の念をフランス国民が熟成させていくことと成れば、次回、2022年のフランス大統領選挙に於ける当選者は、ほぼ確実に、国民戦線のルペン女史、ということに成るのではあるまいか?

(ま、今晩は、日中の暑さで、頭がポワトリンだからwww外れてしまうだろうが)

考えてみれば、朝鮮半島に於いては、ほぼ「開戦前夜」とも云える緊迫した情勢にありながらも、自分たちの身の回りは、ごくごく普通の日常生活が「継続」している。

つまり、現在、我々がごくごく普通に日常生活が続けられているのは、「当たり前」のことではないのだ。

人為的に、物凄い努力によって「維持されている」訳である。

やはり、自衛隊の方々のお蔭によって、我々は、「相も変わらず」に日常生活を送れているのである。

「憲法9条をまもれ!」「平和が一番!」「誰も殺されない、誰も殺さない」などと声高々にアピールし続けられていられるのも、自衛隊の方々が只今現在も、黙々と任務を遂行されておられるからである。

この先、いったいどうなるのか、さっぱり解らない。

ただ、間違い無く云えることは、国民全員は自衛隊の方々に対して深く感謝しなくてはいけないということである。

その自衛隊に対して、「人殺しの集団」などとヘイトスピーチを得意気に高吟する奴等が、平和に貢献している訳が無いことは絶対に間違い無いことである。

変なことを閃いた!

そもそも「成文憲法」は、「唯一」でなければいけない、と「規定」されているのか?

ならば、現行の「日本国憲法」の他に、かつての「大日本国憲法」を復活させ、さらに西暦2020年施行に向けての「新憲法」を制定すれば良い。

つまり、我が祖国・日本は、「日本国憲法」と「大日本帝国憲法」と「新憲法」(安倍政権憲法)と3つの憲法を保有する。

いわゆる「基本的人権」や「平和主義」というものは、実は、「大日本帝国憲法」に於いても保障されていた訳だし、「新憲法」もその点を否定する条文を制定することなど有り得ない。

ただ、「国防」の問題や、「例外状況」とも云える「非常事態時」での対処方法に於いて、現行の「日本国憲法」には、明確な「不備」が存在するのだ。

「不備」が有るのであれば、何も「条文」を「変更」するだけしか「方法」が無い訳ではあるまい?

「日本国憲法」を「補完」する「存在」が有れば、問題は解決可能であろう。

ちなみに、「憲法」は「1国家あたり1つ」と云うのは、「絶対的」なものではない。

現に、イギリス(UK)に於いては、過去の「慣習法」の全ての「集積」そのものが「憲法」なのである。

そもそも我が祖国・日本は神仏習合の「多神教」の風土ではないか?

「日本国憲法」も大事、「大日本帝国憲法」も大事。

だから、全部、我が祖国・日本の「憲法」として奉戴するのである。

あとの運用とその整合性は、政治家と官僚が上手くやれば良い話しである。

護憲派にとっては、「三度の飯」よりも大好きな「憲法9条」を絶対的に守り切ることが出来る。

一方の改憲派は、その「憲法9条」の桎梏から抜け出すことが出来る。

そして、大多数の「憲法」に関して無関心な国民にとって、不毛な「神学論争」から解放される。

三方丸く収まることに成る。

これ、妙案ではないのかな?www

(付記)
いやあ、「憲法というものは、国家にとって唯一の最高法規であることが前提だから」といったような御指摘をいただきました。
まあ、それが真っ当なところです。
あくまであざとい「奇手」のつもりで、無理だとは思っていましたがwww。
やっぱり駄目かー。

どうも我々は勘違いをしている。

「教育」によって「天才的芸術家」を「育成」も「創造」することも不可能である。

「天才」とは、云わば、「大自然そのものの具人化」であり、

「天才とはその存在そのものが、既にひとつの“事件”なのである」。

ならば「教育」によって育成可能なのは何か?

「職人」である。

「天才的芸術家」を「生み出す」にあたって、彼より遥かに凡庸な大人たちがいくら寄ってたかってみたところで、「決定的な要素」足り得る訳が有り得ないではないか?

ずぶの素人を「お金が取れる一人前の職人」に育成することぐらいしか有り得ないではないか?

本当に「天才」とやらは、いくら周囲が「殺そう」としても、「天賦の才」を発揮してしまうのである。

音場日傘でちやほやされて育成された「天才」とやらは、所詮、自意識過剰なまがいものに過ぎない。

まがいものを本物と称すれば、それ即ち詐欺である。

また、善意であっても、それは偽善に過ぎない。

早晩、偽物は叩き落される。

「上げるだけ上げておいて、最期に叩き落す。」と云う方が、残酷過ぎるのではないのか?

「職人」にも「天賦の才」の割合や余地は存在する。

だが、「職人」の「構成要素」は、修行や学習、鍛練によって、そのほとんどが獲得され得る。

個人的要素の介在する割合は少ない。

 

そもそも、明治期に於いて、現在の「東京芸術大学」の前身は、あくまで「近代欧米諸国の工芸技術の研究と習得」を目標として開校されたのである。

それで良い筈なのである。

教育とは技術と教養の習得に尽きる。

ただ、「学校」という仕切られた場所と空間に、児童や生徒を集合させるのか?

インターネット技術をフル活用させて、必ずしも場所と空間にこだわらないようにするのか?

議論すべき課題は、そこであると、自分は思うのだが、如何?

「安倍晋三総理は駄目だ。」という批判、有り。

首肯出来なくもない。

ただ、「桜井誠に期待する。」と続くと、一気に辟易としてしまう。

「桜井誠」は、「政策」や「雄弁さ」は評価出来る。

だが、彼には、「それだけしか、ない。」のだ。

所詮、「街宣」止まりの「役者」である。

「街宣」で、政権が獲得可能だと思えてしまうところが、自分には理解不能。

さらに、「街宣」だけの人物が、政権運営可能だと思えてしまうところが、なおさら自分には理解不能。

つくづく「ネット保守」には、「人を見る目」が無い。

「人物がいない」のではない。

「人物を見出せない」のだ。

そしてさらに「人物を育もうという意識が無い」のだ。

だから、或る時、突然、「人物が降って湧いて来る」と、途端に「飛び付いて」「心酔」するのだ。

かつての小池百合子が、まさにそうであったではないか。(敢えて、「過去形」が書かしてもらったが。)

「才人」も「大器」も、実はそこかしこに「存在している」。

ただ、視線をそらして、あらぬ方向ばかり見回して、偉そうに憤慨しているだけだから視界に入らないだけのこと。

まあ、それはそれで良いのかもしれない。

そう云う人々は、またぞろ、誰かが新登場したら、それに靡くだけのこと。

影響力が無いから、毒にも薬にも成らない。

だから、敢えて目くじらを立てる必要も無いだろう。

よく、「まだ、議論が尽くされていない。」という批判が有る。

しかしながら、そう指摘する方々は、果たして今迄、真摯に議論に取り組んできたのであろうか?

憲法にしろ、国防にしろ、テロ対策にしろ、「危険だ!」「権力の横暴だ!」などと、反射的に、悪罵に等しい非難するばかりで、ろくに議論をする「つもり」がなかったではないか?

「議論が尽くされていない」のは、「議論を尽くさない」で「逃げ回っている」あなた方のせいであろう。

自分も、やはり「議論は尽くすべき」だと思う。

ならば、反対や否定ばかりではなく、もっと論理的な議論を真剣に、かつ冷静に今こそ行うべきなのではないのか?

「都民ファーストの会」は、ここに来て、明確に「戦略」を誤ったと思う。

当初、公明党を自民党から引き剥がして、抱き込むことに成功。

これには、「やはり公明党は日和ったか!」と思ったが、まあ、ここまではあざといくらい上手くやった方。

だが、千代田区長選挙で大勝してから増長が止まらなくなった。

まず、「都議会で単独過半数確保」というムチャクチャな構想を意図的にマスコミに流した。

これで大慌ててになったのは公明党で、激しく交渉されて、結果として「都民ファーストの会」は「相互推薦」を呑まされてしまう。

それから、すがりついて来る民進党を袖にして、「そんなに云うなら、離党してうちへ移れ。」と露骨な「引っこ抜き」工作を仕掛けた。

ただ、そんな「誘い水」に乗じて、長年お世話になった「民主党」「民進党」を、さながら後ろ足で砂をかけて逃げ出す現職都議や浪人候補が続出。

「東京都連」としての体を成さない醜態を晒した。

また、労組「連合」の連合東京から支持を獲得した。

さらに、その元をたどれば新左翼系トロツキストの生活クラブ生協「生活者ネットワーク」と「政策協定」を結んでしまった。

これで、当初、何が何だかよく解らない代物だった「都民ファーストの会」は、左翼色があからさまに成ってしまった。

つまり、当初、「小池都知事」の「直参・旗本」「親衛隊」たる「都民ファーストの会」は、その「得体の知れなさ」ゆえに、あらゆる党派の支持者を、党派の垣根を越えて支持を吸引することが可能だったのである。

ところが、選挙戦での「実働部隊」を確実に確保するために、民進党系の現職都議や候補者を併呑するかたちに成ってしまった。

だが、この構図は、「都民ファーストの会」という「政治団体」そのものの新奇さ、新鮮さを払拭し、一気に陳腐化させてしまった。

当初、都民の多くが「都民ファーストの会」へ抱いていた期待感やワクワク感が、一気に冷めつつあるのである。

これはひとえに「都民ファーストの会」が、選挙戦に対して、シビアで厳密な分析と戦略を構築していないことの明確な証左である。

つまり、選挙に対する浅慮そのものを表している。

これでは、到底「都民ファーストの会」での単独過半数獲得は不可能であろう。

とはいえ、それで、自民党が勝利出来ると短絡的に考えては駄目である。

「都民ファーストの会」の候補者は、単独で当選を勝ち取れるほどの「パワー」も「魅力」も「テクニック」も持ち得ていないのである。

だが、一方で、自民党候補の足を引っ張り、共に落選させる力は充分に持っているのである。

つまり、小池都知事や「都民ファーストの会」の「失速」は、短絡的に都議会自民党へ優位、というプラス要因には成らないのである。

むしろ、互いに足を引っ張り有って、日本共産党が「漁夫の利」で当選してしまう可能性だって有るだろう。

多分、「壮大な消耗戦」と化しそうな、そんな嫌な予感がするのが今度の都議選なのである。


(付記)逆に「都民ファーストの会」は、どうしていたら良かったのだろうか?
大人しくしていれば良かったと自分は考える。
敢えて、手の内を晒す必要はなかったのだ。
つまり、5月いっぱいまで、現職と小池都知事を支持していた区議数人ぐらいだけを「一次公認」として公表し、後は、あくまで「検討中」というかたちにしておけば良かったと思う。
「都議選の候補者擁立」を打ち出すよりも、自分だったら、むしろ「都政刷新のための住民集会」を各地で開催することを優先する。...
勉強会でも、講演会でも、懇話会でも良い。
東京都民の有権者へ、「現在の都議会には明確な問題点が存在するのだ。」という「意識」を熟成させ、植え付けることが重要なのである。
そして、都議会の「現状打破」という「空気」や「風」を起こすことこそが「都民ファーストの会」勝利の唯一の「戦略」であろう。
だが、現実は、早々に手の内を晒してしまった。
自分から見ると、さながらスペードのエースのカードを切るのが早過ぎたように思う。
多分、戦略を立てる上で、視野が狭く、情緒的なのであろう。
「これは行ける!大勝利間違い無し!」と感じたら、反射的にしゃべりだしてしまう感じなのだろう。
こういう「戦い方」は、順境の時には問題が無い。
だが、ひとつ歯車が狂い始めると、一気に収拾がつかなくなる。
「都民ファーストの会」は、どんなにバカ勝ちしても20議席を超えることは無いと、現時点では感じた。

昨日、5月2日は、神奈川県藤沢市の江の島に在る、児玉神社の「例大祭」の日の筈だった。

だが、例年、「例大祭」のご案内をいただいていたのが、今年はご案内が来なかったので、気になったのである。

で、昨日、熨斗袋を用意して、江の島まで行ってみた。

児玉神社は、日露戦争時の参謀総長で、台湾総督を歴任した児玉源太郎陸軍大将をお祀りした神社である。

境内入り口には「例大祭」を感じさせるようなものは一切無かった。

で、拝殿前まで行って驚いた。

工事中であったのである。

どうやら、老朽化した御社殿を改修する工事を開始しているようであった。

一方、社務所は雨戸が固く閉ざされ、人気が一切感じられ無かった。

ちなみに連絡先の電話番号をかけてみると、

「この電話は、お客様の都合により・・・」とのアナウンスだった。

2017年1月の絵馬がかかっていたので、今年のお正月までは、「例年通り」だったのであろう。

懇意にしている神主の方に聞いてみると、

「例え、改修工事であっても、例大祭を斎行しないということは有り得ない。

また、改修工事を行うには、御神霊をお移しする仮殿が設置される筈。」

とのことであった。

何か、「トラブル発生」の「危険な匂い」を感じてしまう。

宮司の山本白鳥女史は、神憑り的なところが有り、何らかのトラブルに巻き込まれた可能性も有り得る。

児玉神社は、軍神児玉源太郎閣下をお祀りしているお社でもあるので、大過が無いように願わざるを得ない。

今朝、卒然と悟った。

自分は、東証一部上場の正社員を退職して以降、身分が不安定な状況に有る。

現在は、単純肉体労働の派遣労務者でしかない。

3年前に就職活動を行い、ネットでのエントリーを350社以上、一次面接30社以上、二次面接も5社程度まで進んだのだが、結局、1社も採用されることはなかった。

その時、自分の人間的な欠陥を意識してしまったのであるが、その後、様々な「ことがら」から、自分は決して人間的に致命的な欠陥を有している訳でもなさそうだし、仕事が出来ない人間でもなさそうであることを再確認出来た。

ならば、何故、自分は「正規雇用」に採用されなかったのだろうか?

さらに、今年に入って、過去に書き溜めた拙文を基に、自費出版をもくろんだのだが、それも結局全部頓挫してしまった。

何故、自分の行く手が開かれないのだろうか?

正直云って、恨めしい気持ちに成ったものである。

何故、邪魔が入るのだろうか?と。

だが、今朝、自分は卒然と悟った。

自分の目指す「目的地」が間違っていたのである。

つまり、今更、一企業の社員として働くことは、間違っているのであろう。

また、いわゆる「保守系言論人」として世に出ていくことは、間違っているのであろう。

自分は、もっと、違う、幅広いかたちで仕事が出来る、そういった「目的地」を目指すべきなのだろう。

だから、自分が踏み出そうとすると必ず神仏に阻まれるのである。

「そうじゃない。お前が働くべき場所はそっちじゃないのだ。」と。

自分が、どんなかたちでお役に立てるのかは、まだ判然としない。

ただ、自分は、この「身分が不安定」な状況の中で、「縁」には物凄く恵まれて来ている。

そして、それなりに成果を出して来た。

だから、落ち着くべきところに到達出来れば、必ず落着する。

そんな予感がしている。

もし、今、自分が、既に何らかの「安定した身分」に成っていたら、この先、どんな「御呼び出し」にも気軽に応じることは出来ない。

四十半ばを過ぎて、いまだに「完成」を見ないというのは、誠に情けない限りなのではあるのだが、裏を返せば、まだもっと新しい展開に到る可能性を維持し続けている、という見方も出来よう。

自分の然るべき「居場所」が見つからない、というのは精神的にとても辛いものであるのだが、逆を云うと、もっと素晴らしい「場所」へ移動出来る、ということでもある。

変革や成長という試練に、こんな自分がどれだけ耐えられるのか、さっぱり解らない。

ただ、そろそろ自分の「本領発揮の好機到来」が間近に迫りつつあるような、そんな予感がしている。

まあ、丸っきりの勘違いかもしれないのだがwww

今日は、待ちに待った「腕のトレーニングの日」!www

一番、トレーニングで「萌える日」です!

あ、もとえ、「燃える日」ですwww

ま、「腕フェチ」の自分には、或る面、「萌え萌え」なのかもしれませんがwww

それはともかく、上腕二頭筋と上腕三頭筋の種目を交互に行う、いわゆる「スーパーセット」をやりました。

以前、就寝後、あまりの上腕二頭筋の筋肉痛で飛び起き、七転八倒したことが有りました。

最近は、そういう「美味しい体験」wwwから縁遠く成っていますので、多分、トレーニングの「追い込み」が足らないのでしょう。

まあ、10代や20代の頃ならともかく、最早回復力も落ちていますので、そんなに無理をしないで行きます。

それにしても、やはり、扱う「重量値」にとらわれないように意識を切り替えてから、本当にトレーニングを素早く行うように成りました。

「挙がらんもんは、所詮、挙がらんのじゃあ!」(どこの方言?www)と割り切って、パッパとトレーニングをしています。

すると、こんな「とろ臭い」おっさんでも、次第に汗だくに成ってきました。

そのお蔭で、ジムが混雑して来ても、マシンやらバーベルやらを「占有」せずに、すぐに明け渡せるように成りました。

何しろ、天下のGGですから、トレーニングされる方は、自分なんかより遥かにゴツい体つきの方々ばかりです。

あんまり長時間マシンを占有していて、さらに黄昏ていたら、その常人の太腿のような太さの豪腕で無理やり引き剥がされてしまうかもしれませんwww

ついには、三枚に折りたたまれてしまうかもしれませんwww

(つげ義春の漫画「必殺するめ固め」のようにwww)

まあ、皆さんは、見た目はキング・コングのようなこの上も無いバーバリアン(野蛮人)ですが、心根はこの上も無いジェントルマン(紳士)なのでそんな「大惨事」には決して成らないでしょうがwww

で、トレーニングは最終的に、ジムがムチャクチャ混雑して来て、次に行う種目が上腕二頭筋だったのか、上腕三頭筋だったのか、訳が解らなくなってきたので、上腕二頭筋用の新しく導入されたマシンで腕が動かなくなるまで追い込んで、本日は「終了」にしました。

ちなみに、今日は、上腕二頭筋から鍛え始めたのですがwww

で、トレーニング終了後、頭がクラクラしながら帰宅しました。

只今、腕の筋肉がちょっぴり「ダル重(おも)」の状態です。

多分、明日の仕事中に筋肉痛がじわじわと発生して来るのでしょう。

それはともかくとして、もっと腕の筋肉を鍛えるための良いトレーニング方法が有るのではないか、と思っています。

今の自分のトレーニングで、良いとは思っていません。

また、ボディビルダーのインストラクターの方にご相談させてもらって、仕切り直していきたいと思います。

5月が間近に成り、気温が上昇してきました。

街中で行き交う人々も、気が付けば、羽織るものが薄くなってきました。

で、だんだん露出する傾向が多く成ってきました。

もう、隠しだてせずに正直に書かせてもらいますが、自分は極度の「腕フェチ」ですwww

元来は腺病質の痩せ型だったので、腕力はからきし駄目でした。

そのため、逞しい上腕は本当に心の底から羨望の的だったのです。

ですから、半袖シャツからのぞかせる筋肉質の太い腕を目にすると胸がときめくようになってしまいました。

街中で、体育会系のラグビーや柔道の学生部員の逞しい上腕を見かけると、「いけない」と思いつつもついつい見入ってしまうのであります。

別に、見るだけなのですが、まあ、「性癖」であります。

学生の頃は、ただ、溜息をついて終わっていましたが、本格的に筋トレを始めるように成ってからは、「よし!自分も腕をめちゃくちゃ鍛えるぞ!」と気合を入れるように成りました。

ちなみに、ジムへ行くと、物凄い腕があちこちで見ることが出来ます。

本当は、そういう方々全員に、「どうしたら、そんな格好良い腕に成れるのですか?」と教えを乞うて回りたいくらいなのです。

でも、皆さん、黙々と真剣にトレーニングをされておられるので、遠目に眺めるだけにしています。

それに、あまりにもゴツくて、ちょっと「怖い」ですしwww

 

さて、久しぶりにトレーニングを再開してみたら、いつの間にかジムのスタッフ構成が変わっていました。

懇意にしていた大学生ボディビルダーのYさんはいなくなっていました。

代わりにボディビルダーのインストラクターの方が赴任されていました。

そのインストラクターの方に、トレーニングに関して御相談をさせてもらいました。

自分は、背中や腕に関しては扱う重量が上昇して来ました。

しかし、その割には胸が全然駄目で、ベンチプレスが特に駄目なのです。

そのことをご相談させてもらったところ3点、ご教示下さいました。

  1. 胸体形と背中体形の違い

    やはり、個人差が有って、胸が発達しやすい人と背中が発達しやすい人が存在するということ。

    で、自分は、肩が内側に巻き込んでいる感じなので、背中が効きやすく、代わりに胸が効きにくい体形だろうと云うことでした。

    自分は、ベンチプレスの競技を目的としている訳では無いので、胸のトレーニングはダンベルとマシンを主に行うようにしてみることにしました。

  2. トレーニング中の糖分補給

    トレーニング中に於いて、結構、糖分が消費されているので、トレーニング中にも、こまめに糖分を補給した方が良いということでした。

    特にデキストリンが良いということで、該当するサプリメントを摂取することにしました。

  3. クレアチンの摂取

    高重量を扱うにはクレアチンが良いということでしたので、また、クレアチンを摂取することにしました。

    これらのアドバイスは、とても良かったと感謝しています。

    やはり、専門家に教えを乞うということは重要なのです。

    どうしても年齢を取ると、「教えを乞う」と云う行為が億劫に成ってきます。

    何と云うか、自分の決めたルーチン・ワークの中に閉じこもるような、そういうトレーニングをしてしまうのです。

    それが「こだわり」であり、「満足」なのかもしれませんが、それでは身体は変わっていかないのです。

    もう、自分は若くはない年齢なのですが、それでも、少しでも「成長」させていきたいと願っています。

    いろいろな人から教えを乞い、何とか、成果を上げたいと思っています。

     

    ここ最近、敢えて、トレーニング記録を付けなくしました。

    どうしても、ノートを付けると、過去の重量や回数に「捉われてしまう」からです。

    ところが、ノートを付けなくなってから、前回、どれくらいの重量でトレーニングしたのか解らなくなってしまう、と同時に、こだわりが無くなりました。

    只今、トレーニングをしてみて、挙がる重量が今回のトレーニングで最適な重量なのだと割り切ることが出来るように成りました。

    そして、やってみて軽く感じたら重さを付加し、フォームが正確に出来なくなったら軽くするようにしました。

    そのおかげで、インターバルの時間がほとんど無くなりました。

    汗を拭き、水分を補給するぐらいで、とにかくテキパキと短時間でトレーニングをするようになりました。

    周囲を見回して見ると、マシンやベンチでひたすら「待っている」人があまりに多いことに気が付きました。

    つまり、「設定した重量」を挙げられる「瞬間」が「やって来る」まで「待っている」訳です。

    ただ、重量が挙がらない時は、いくら粘っていても挙がるものではありません。

    例え挙がったとしても1,2回くらい。

    しかも、フォームは崩れ、全身を駆使して無理やり挙げている訳です。

    そういう「トレーニング」をいくら続けていたところで、扱う重量は増加しない訳です。

    で、自分は、挙がらない重量に成ったら軽くして、とにかく時間をおかずにトレーニングをするように変えました。

    すると、何となく、調子が良いのです。

    また、厳密ではありませんが、次第にトレーニングをするたびに、重量が増えていくように成ってきました。

    勿論、「刻む」ような小幅な上昇ではありますがwww

    また、着ている服の皮膚感覚も変わってきました。

    背中、肩、腕が窮屈に成って来たのです。

    この数値(データ)をとらわれずに、感覚を研ぎ澄ますトレーニングに変えたことは、今のところ、上手く行っているようです。

    そろそろ、過去の記録にとらわれなくなったようなので、また再びトレーニング・ノートを付け始めてみようと考えています。

いよいよ、5月の「大型連休」である「ゴールデン・ウィーク」が始まろうとしている。

そもそも、この「黄金週間」なる「用語」は、1960年代もしくは昭和30年代に、当時、全盛期だった日本映画(邦画)会社に於いて、興行成績が著しいことから「造語」された。

つまり、元来は「業界用語」だった訳である。

考えてみれば、5月の最初に「休日」が集中するのは、日本だけのあくまで「特殊事情」でしかない。

ちなみに、支那に於いては、中華人民共和国の「建国記念日」が10月10日だったことから「双十節」といって、10月の上旬にかけてが、彼等の「大型連休」と成っている。

さて、ニュースでは、「大型連休」などと大はしゃぎに成っているようだが、自分は全くもって無関係である。

何故なら、自分の仕事の相手の「機械」は、土日・祝日とは無関係に稼働し続けているからである。

勿論、自主的に「休日」にしても良いのだが、そんなことをしていたら金銭的に干上がってしまう。

自分は、現在、派遣労務者であるから、「有給休暇」など存在しないし、「月給」制でもない。

その日に働いた分の「時間」に応じた分の「時給」しか出て来ないのである。

だから、前の現場では、毎日6時間弱で無理やり帰らされてしまったので、一日に6000円も稼げなかった。

だから、当然、月収20万円には、全く届かない。

しかも、最近は「残業」をさせてもらえない、のだ。

「派遣社員」だから、ということもあるのだが、それ以上に、「正社員」に対する「残業削減」のプレッシャーが強化されているのである。

だから、最近の「現場」では、文字通り、時間に追われている現状である。

残業を減らそう、という「風潮」は、これはこれで良いと思う。

しかしながら、長時間残業を前提として、ようやく達成可能である「業務体系」については、一切、不変のままなのである。

つまり、仕事量は変わらないままなのにもかかわらず、残業は禁止に成っている。

結果として、時間に追われ続けることと成る訳である。

この精神的な負荷は、相当、過酷である。

そうなると、食事や排便といった人間の生理的に必要な「時間」までも削っていかなくては間に合わない状況となる。

「飲まず食わず」で、便所も我慢し、精神的にカリカリしながら仕事に追われている。

そんな状態で、「ゆとり有る運転」など至難の技である。

そこへ、おおかた認知症によるものかもしれないのだが、老人たちが赤信号にもかかわらず自転車に乗って車道へ突っ込んで来る。

そういった「ストレス」に晒されているため、ちょっとでも青信号で発進が遅れる車がすぐ前に居たりすると、ついつい舌打ちと悪罵が口から漏れて来るのである。

こんな状況で、人間関係を良好にして精勤することなどほぼ不可能である。

肉体的にも、精神的にも疲労困憊に成り果てる。

仕事は辛い、薄給である、身分の保障など皆無である。

そんな身の上だから、「大型連休なので海外旅行へ行く」なんていうことは、想像すら出来ない。

勿論、いくら貧しいとはいえ、「贅沢」をしたくはなる。

結局、パチンコ・スロットといったギャンブル、飲酒、そして性風俗でもって憂さを晴らすことに成る人が多い。

幸い、自分の場合はボディビルと読書という「道楽」が有るので、何とか成っているのだが。

いわゆる「アベノミクス」でもって、日本の経済は停滞を脱して来たことは間違い無い。

だが、その恩恵は、いわゆる「大企業」の「正規雇用・正社員」だけしか享受出来ていない。

勿論、「正規雇用・正社員」も、「過労死」に追い込まれるような「不法残業」を強いられている。

だから、今更、成ることも出来ない「正規雇用・正社員」への願望もとうに薄らいでしまった。

今、自分は、実は、3か月先の「将来」さえも思い描くことが不可能なのである。

この「事実」について、思い煩いだしたら、本当に、夜も眠れない。

だから、現在自分は先行きのことは一切考えないようにしている。

来月のことは来月に成ってから考えれば良いし、明日のことは明日に成ってから考えるようにしている。

こういう境遇に堕ちたのは、ひとえに自分の無能力の為である。

誰のせいでもない。

ただ、「無能力」であっても、己の寿命が尽きるまでは、懸命に生きていかなくてはいけない。

だから、今日、自分が出来得ることを今日一日、ひたむきに実行することにしている。

長期的な大事業や壮大な構想などは、もっと能力の有る、偉い方々がやれば良い。

偉い人には偉い人のやるべきことが有るのだし、自分には自分の出来ることしか出来得ないのだ。

あまり難しく考えても仕方が無い、と思うのである。


(現在に於いて、「能力」や「才能」とは、即ち、いかに「稼げるのか?」という一点のみである。

どんな「かたち」や「装い」であったにせよ、それが現金が支払われる「価値」を認知されたならば、それは「能力」や「才能」と評価される。

一方、「現金化」「商品化」されないならば、そんなものは、全くの無価値なのである。

現在、自分という人間の日本経済に於ける「評価」は、単純肉体労働に従事していることのみである。

それ以外のもろもろは、経済活動と無縁であるゆえに、全くの無価値なのである。

なぜ、無価値なのか?

それは無能だからである。

どうしたら無能から脱却出来るのだろうか?)

自由律(定型にこだわらない)の俳人で、曹洞宗の禅僧、漂泊の人であった種田山頭火の代表作にこういうのが有る。

「まっすぐな道でさみしい」

 

人生とは「ままならぬもの」である。

思い通りに行かぬし、絶えず邪魔が入る。

まさに人生とは「紆余曲折」の連続である。

だからこそ、人は誰しも「真実一路」、ひたむきに一直線に突き進んで行く人を驚嘆と敬意を持って見る。

さらに、そう云った「その道一筋」の「達人」に対して羨望を抱く。

だが、我々は、あまりにも無知で無理解が酷過ぎるのである。

そういう「真実一路」の「その道一筋」の「達人」が、いかに懊悩し、逡巡し続けて来たのか、を。

人は誰しも「まっすぐな道」を歩みたいと念願し、切望する。

だが、実際は、「まっすぐな道」など存在はしないのだ。

しかし、もし、仮に「まっすぐな道」が存在するとしたならば、果たしてどうなのだろうか?

種田山頭火は、「まっすぐな道、で、さびしい」と詠んだ。

実は、「まっすぐな道」は、案外、「そんなもの」なのかもしれない。

ちなみに、高い頂きを目指して行くのならば、「まっすぐな道」を歩む訳にはいかない。

急斜面をそのまま「まっすぐ」に突き進んで行ったならば、早晩、倒れてしまう。

ゆっくり、じっくり、こつこつと、焦らず、自棄を起こさずに歩みを進めて行かない限り、高い頂きを踏破することは不可能なのである。

 

はっきり云って、自分は、自分の「歩み」がどうなっているのか、さっぱり解らない。

果たして前に進んでいるのだろうか。

少しでも山の頂上に近付いているのだろうか。

全く解らない。

そして、我が母は、毎日のように、自分が駄目であることを決め付けて来る。

ただ、そんな中で、唯一の明るい光は、年々、自分のお付き合いをさせていただく方々が、全員、素晴らしい人物ばかりなのである。

自分には、或る面、何も「無い」のかもしれない。

ただ、素晴らしい方々との御縁に恵まれているという、この一点のみでも、自分はこの上ない「果報者」であると痛感している。

今日は、筋トレをさぼって、ネットで「遊んでいた」。

明日こそは、一生懸命、単純労働を精勤し、その後、トレーニングをしたいと思う。

 

自分は「まっすぐな道」とは程遠い「道」を歩んで来た。

だから、内心、忸怩たる思いが有る。

しかしながら、その「曲がりくねった道」の途上で、自分は大変素晴らしい方々との御縁を得た。

「旅は道連れ、世は情け」

出会えた人に恵まれると云うこと以上の「幸い」というのは、果たして存在するのであろうか?

今日一日の「歩み」が無事に済んだことを深く感謝すると共に、明日の「歩み」がより良きものであることを期して、心を引き締めたい。

いわゆる政治家の失言による騒動を見て痛感することは、彼等の「職業意識」の軽薄さである。

政治家とは、いわゆる貴族や軍政官といった官僚による「政治家」以外に於いては、根本的に万民に対して演説することが「仕事」であった。

つまり、「政治家」とは「言葉を扱う専門家」である。

その筈なのである。

だが、いわゆる失言をする者どもは、明確に「言葉を扱う」ということについて真剣さが欠如している。

古くは中曽根康弘、渡辺美智雄である。

世間では「大政治家」と云われているが、自分から云わせると、まるで駄目である。

例えば、中曽根康弘は、広島の原爆症患者がいる施設で、「病は気からと云いまして」と口走った。

旧海軍将校、東大卒とは思えない程の愚劣さである。

また、渡辺美智雄は、19887月に開催された自由民主党軽井沢セミナーの講演においてアメリカ人の経済観念に触れ、「日本人は破産というと夜逃げとか一家心中とか、重大と考えるが、クレジットカードが盛んなむこうの連中は黒人だとかいっぱいいて、『うちはもう破産だ。明日から何も払わなくていい』それだけなんだ。ケロケロケロ、アッケラカーのカーだよ」と述べた。

彼は、税理士でもあり、一橋大学卒なのだが、この軽薄さは酷過ぎる。

ちなみに、中曽根康弘も同じような「人種差別」的失言をしている。

彼等に共通しているのは、傲岸さと知識量が少なく、理解力が乏しいことにある。

もし、本当は博識で知悉しているというのならば、厚顔無恥さがさらに酷いのである。

いわゆる「ブラックユーモア」というものは、話の中に織り込む上で、極めて「効果的」であるがゆえに、「取扱い要注意」なのである。

「笑った」つもりが、後で、己の愚劣さを嘲笑われる惨状を被るのである。

ただ、逆を云うと、このレベルの「言語感覚」でも、総理や副総理まで上り詰められる程度の代物が、我が日本の政界の実情なのであろう。

はっきり云って、同じ「言葉を扱う職業人」としてならば、「お笑い芸人」の方が、はるかに「高等」である。

「聴衆」に「受ける」ということは、どういうことなのか。

このことを、軽く受け止め過ぎている。

最近の政治家は小粒に成ったと云う。

それは、自分の発する言葉に対する真剣さが欠如しているからである。

かつて、池田勇人は、遊説する際には、事前に、原稿を書き、推敲に推敲を重ね、しかも、どんな場所に行っても「同じ」ものにするように努めたと云う。

それは、「その場、その時によって、云っていることがコロコロ変わるような不誠実なことではいけない。」という信念だったからだという。

それと全く対照的であったのは田中角栄であったが、彼は当意即妙、名調子でもって、聴衆たちを満足させた。

だが、田中角栄は、「失言」をしていない。

何故なら、例え「失言」に堕してしまいそうな際どい「表現」であったとしても、「話芸」として完成されていたからである。

だから、結果として、「失言」に成らない。

吉田茂の場合は、「舌禍」と云われる事柄が多いのだが、その「失言」そのものも含めて「政治家・吉田茂」という「キャラクター」を構成している。

だから、単なる「失言」というかたちで、指弾されない。

これは、石原慎太郎も同様である。

政治家とは、「言葉を扱う専門家」である筈なのだから、確固たる職業意識を持って、言葉を発するべきである。

さらに、「自己演出」ということも常に念頭に置いているべきである。

ちなみに「自己演出」と「自己陶酔」は明確に異なる。

自分自身と周囲に対する、冷徹な視点を有するかどうか。

そこが違うのである。

人は誰しも、賢くありたいと願っている。

あと、もう少し、自分の頭が良ければ、もっと良い結果に成ったのではないだろうか。

そういう感慨にとらわれることは、多くの人が、しばしば感じていることだと思う。

とは云うものの、では、「頭の良さ」というのは、いったいどういうことなのであろうか?

 

つい、先程、TVの画面上に、芸人のヒロミが「復活」した。

かつては、林家こぶ平(現・林家正蔵)などの芸人に対して、「突っ込み」と「仕切り」をした「売れっ子」だった。

ところが、芸能界の大御所である堺正章の「逆鱗」に触れて、以降、「干された」と云われた。

だが、ほぼ10年ぶりに、彼は、TV画面上に「復活」したのである。

自分は、或る番組で、「この中で、一番最初に消える芸人は誰?」というコーナーが有ったのを偶然、目にした。

で、何と!現在、一世を風靡している漫才師・トレンディエンジェルの「斉藤さん」だとヒロミは指摘したのである。

で、その理由を聞いて、自分は唸ってしまった。

「お前、持ちネタの『斉藤さんだぞ!』っていうのに飽きて来ているだろう?

かつての『スギちゃん』がそうで、『ワイルドだぜ〜』っていうのを、あいつ、云わなくなっちゃった。云えば良いのに、云わなくなっちゃった。だから、消えたちゃったんだよ。」

この、ヒロミの「自分自身に飽きてしまって、それが原因で、消えてしまう。」という指摘に、彼の慧眼さを感じた。

ヒロミは、元来が大工の子弟で、不良学生だった。

そう云う意味では、「頭が良くない」とみなされる「条件」なのである。

ところが、彼の「視点」は恐ろしく鋭いのである。

全体の中のそれぞれの立ち位置を的確に見抜いてしまう。

ヒロミの「賢さ」とは、まさにそうなのであろう。

 

よく、「頭の回転が速い」と云われる人がいる。

いわゆる「処理能力速度」が、段違いに速い人である。

以前、ネットで「頭の切れる人の特徴」として、こういう指摘が有った。

「僕の印象では、「頭の切れる人」というのは、

論理の飛躍をものともしない人、という感じです。

結論までが速いんですね。そういう人は。

一足飛びで、とんとんとん、と思考していくのです。

普通の思考法を算数の筆算にたとえるなら、

頭の切れる人のそれは暗算に近いと思います。」

「論理の飛躍」のように見えて、実は、頭の切れる人の頭の中では、順序だって論理構築が為されているのであろう。

ところが、常人の目から見た時、それは「飛び移っている」ようにしか見えないのである。

 

「頭の回転が速い人」と云えば、やはり、ここ最近話題に成っている田中角栄元総理がそうであろう。

何しろ、「解った、解ったの角さん」と云われたくらいである。

報告や陳情など、他人からの話しを聞いて、瞬時に「理解出来てしまう」のである。

そう云う意味で、「せっかち」であり、「短気」でもあった訳である。

さらに、人間ならば、誰しも「間違い」は存在する。

この「瞬時に理解出来てしまう」という点が、実はクセ者で、それが勘違いの「早とちり」である場合も、有る訳である。

日本の戦国時代の「最強の軍師」と云われた黒田官兵衛も、こう指摘されている。

「貴殿はあまりに頭が良く、物事を即断即決してしまうことから、後悔することも多いだろう。

私は貴殿ほどの切れ者ではないから、十分に時間をかけたうえで判断するので、後悔することが少ない。」

これは、かの「毛利両川」とうたわれた、毛利元就の三男・三原中納言小早川隆景の指摘である。

つまり、かの黒田官兵衛でさえも、時折、「早とちり」をしてしまったことが有ったのではないか、ということである。

ただ、本当に「頭の切れる人」というのは、例え「早とちり」をして、間違った方向へ思考が疾走しても、すぐに「間違い」を察知して、軌道修正してしまえるのである。

まさに、「虎は千里行って、千里を還る」訳で、間違った方向へ走り出しても、すぐに引き返して、再び正しい方向へ疾駆出来得る訳である。

常人は、まず、「方向を間違えた」ということを察知出来ない。

さらに、例え、間違いを察知出来得たとしても、その非を認めて、瞬時に引き返したり、軌道修正をはかろうと、決断出来ない。

「折角、ここまで来たのだから、もう、行けるところまで行ってしまおう。」と初期の「決定」に固執してしまい、ドツボに嵌まってしまうのである。

そして、最終的には、正しい方向へ疾駆して、目的地にたどり着いてしまう。

こういう芸当は、常人では、甚だ実行は困難である。

 

頭の良さ、賢さ、というのは、明確に「違い」が有ることは解る。

だが、どう違って、どのようにして構成されているのか、まではなかなか理解が及ばない。

また、例え、「理解」出来たところで、自らに「実践」させていくことは、さらに困難である。

 

まあ、あんまり「頭が良過ぎる」のも、自他共にやりきれない場合も有る。

人間とは、多少、「抜けている」ぐらいの方が、「丁度良い」のだと思う。

自分のことをベタ惚れしている或る「毒舌家」が、自分のことをこのように評した。

「一見、ちょっと変な人に見えるだけなのだが、実際は『ちょっと』どころじゃなくて、実は、とてつもなく『変な人』なのだ。

あまりに変な人なので、底が知れない。

しかも、当の本人は、自分がとてつもなく変人であることに全く無自覚で、けろっとしている。

だから、『得体が知れない怪しい奴』に見える。

問題は、そう云う『得体の知れない怪しい奴』を目の前にして、興味を持てるかどうかということに成って来る。

『あまりにも変人なので嫌いだ。』という者は、お前を敬遠していく。

逆に、『あまりにも変人なので面白そう。』と興味を示せる人物だけが、お前の『醍醐味』を味わうことが出来るのだ。

そう云う意味で、お前は、お前に関わる人々を選別させてしまう、何とも、罪な奴だ。」と。

そう指摘されて、何だか、とても申し訳ない気持ちに成ってしまった。

しかし、さらに最後の捨て台詞が追加された。

「でも、それが面白いから、俺はたまらないのだ。」

まさに「毒舌家」の面目躍如である。

日本人のインテリ(知識人)は「無宗教」であることを誇示するきらいがある。

さながら、宗教を信じ、信仰を持つことは、愚かしいことだと思っているかのようである。

もしくは、信仰とは理智的ではない、と思い込んでいるのかもしれない。

確かに、「困った時の神頼み」というのは、「ご都合主義」そのものであるし、

「鰯(いわし)の頭も信心から」というのは、非論理的で何の根拠も無い「迷信」であると云えるかもしれない。

「信仰」とは、まず「信じる」ことが第一である。

一方、近代的な「知性」とは、「懐疑」が原点である。

そういえば、自分が品質管理の職場にいた時の上司から指摘されたことがある。

「科学的ということは、誰が何時行っても、前提条件が同じであるならば、必ず実証されなくてはいけない。」と。

かの「STAP細胞」が「虚偽」とされたのは、結局、「報告者」である小保方氏以外の他の研究機関が、「再現」出来なかったことによる。

一方、いわゆる「宗教」的なものは、「神のお告げ」は、必ずしも「再現性」が担保されるものではないのである。

だが、実証実験によって再現性を確認出来ないことは、実は多いのである。

歴史がそうであるし、経済動向というものも、まさにそうである。

だから「社会科学」という語句は、実は「看板に偽り有り」なのである。

ただ、「信仰」に関する要素は、数値化が出来ないし、比較試験も出来ない。

だから、「祟り(たたり)」だ、「呪い」だ、というどぎつい語句を振りかざされると、人々は屈服するしかなくなるのである。

そこで、金銭をむしり取られたり、奴隷のような従属関係に支配されるような事態となる。

だから、理性的であり、知性的であるという「賢明な人間」は、「宗教」からかけ離れていることを声高に表明するのである。

しかしながら、「信仰」や「祈り」を捨て去った人間は、究極的には「エゴ」しか残り得ない。

果てしないエゴイズム、我執の「無間地獄」に堕ちることになるだろう。

ならば、やはり、我々は、父祖が営々と継続して来た「朝に礼拝、夕に感謝」という「祈り」の「日常生活」を拒絶してはいけないのだと思う。

ならば、「信仰」とは何なのだろうか?

「禁欲」という「条件」が出て来やすいのだが、自分はそれよりも「礼儀作法」なのだと思う。

つまり、「目に見えない」、人間とは異なる「存在」に対しての「関わり方」「お付き合い」としての「礼儀作法」、それが「祈り」であり、「信仰」であり、「宗教」であると思うのである。

だから、「狂信的」な「信仰」は、やはり「違和感」が有る。

生身の人間と、「形而上」的な「存在」との「礼儀作法」には、お互いが無理の無い、「自然体」の「関わり方」「お付き合い」の「かたち」に落ち着くものであると思う。

だから、とにかく大金をどんどん「寄付」するようなことを強いることは、おかしいと思う。

神社に於ける「祭礼」や「護摩焚き」というのは、神や仏に対して、御馳走を振る舞うことなのである。

「護摩」は浄火の中に供物を投じることによって、神仏に届けることである。

ただ単に火を燃やすことが目的なのではない。

つまり、「祭祀」とは、即ち「お接待」なのである。

そして、いわゆる「霊」という存在も、そうなのだろうと思う。

「霊」とは、いわば「目に見えない存在」の「友」なのである。

「友」とは、「類は友を呼ぶ」と云うように、「良い行い」をしていれば、「良い友」が集まって来るのである。

また、性根が悪であるならば、「悪い友」しか出来ないのである。

だから、或る人を評価する場合、その或る人の「友」を見れば、おおよその見当が付くのである。

生身の人間の「友」に対して、気を配り、心を配り、優しさと思いやりを持って接していることに務めていれば、そういう人は、絶対に「不幸のどん底」に堕ちることは無いのである。

それと同様に、「霊」の「友」に対しても、誠心誠意の礼儀作法を実践して行けば、世に云う「悪霊」は退散し、「善霊」が皆来することと成るのだろうと自分は思う。

要は、「行い」であり、「立ち居振る舞い」である。

世の中が、理屈っぽく、情報化社会が極まって来て、我々は「理解」することばかりに捉われてしまうように成ってしまった。

何かを「指摘」され、何かを「指導」されたところで、ついつい「解った、解った。」と云って済ましてしまう。

確かに、「理解」することは容易ではないし、「理解」は出来た方が望ましい。

だが、「理解」した「だけ」では、何も成果は上がらないのだ。

「行うこと」こそが肝要なのである。

「ボディビル」がそうではないか。

いくら「ベンチプレス」のフォームや知識を「理解」したところで、トレーニングを実際に行わなくては大胸筋は鍛えられないのである。

理解したならば、実践しなくてはいけない。

また、仮に、理解出来なくとも、実践をしていきさえすれば、成果を得られる。

そして、成果を得られてから、ようやく理解出来ることも有るだろう。

自分はインテリとは程遠いしがない派遣労務者に過ぎない。

筋トレ大好きの「脳筋」馬鹿である。

だから、己の「智の賢き」を誇示するようなことは、あまりにおこがましいと思っている。

ただ、自分なんぞよりも、遥かに賢明な筈の「諸賢諸氏」が、こんな自分でさえ気が付くことについて見過ごしていることがあまりに多過ぎることが奇妙でならないのである。

自分は、ただ、その理不尽さが、承服出来ないだけなのである。

もっと、その優れた頭脳の本当の実力を発揮してもらいたい。

手抜きをして、楽をしているのはとても狡いと自分は思うのである。

只今お困り中の蓮舫大先生へアドバイス。
ここまでドツボに嵌まったならば、是非とも、党名を変更しましょう!
「共に民進党」ってのは如何?
何か、「政権獲得目前!」って感じに成りません?
(成る訳、無いか!www)...
(ちなみに、「共に」の共は、代々木のスターリン主義セクトのことですwww)

「運動」に於いては、理論と実践と情熱の三要素が必須であり、さらにそのバランスが重要である。
だが、得てして「情熱」ばかりが燃え上がり、後が付いてこないのである。
当然、成果が上がらないのである。
あ、これ、あくまで「ボディビル」の話しですからねwww

先日、桂歌丸師匠のインタビューがテレビでやっていた。
そこで、参考に成った言葉を書き留めておく。
「落語家が追い求めるものは、“間”なんです。」
「“間”は、観客によっても変わって来る。都市部と地方と比較すると、地方の方が反応が遅い場合がまま有るので、ゆったりとした“間”にする。」
「師匠の古今亭今輔(5代目)が云い切りましたね。『褒めてくれる人は敵だと思え』と。」...
(この「褒めてくれる人は敵だと思え。」というのは、重い言葉ですなあ。
まあ、「褒め殺し」という言葉も有るし。
ちなみに、悪者に成りたくない人は、面と向かっては云うことは大抵「褒め言葉」。
ただし、当人が不在の場合は、さにあらずwww)
「怒るのと、叱るのとは明確に違う。
叱るには、『叱り方』っていうのがちゃんと有る。」


よく「怒られた」と云う場合と、「叱られた」と云う場合が有る。
この違い、なかなか解りにくい。
自分なりの私見を述べさせてもらえれば、こうだ。
指摘する相手の「人格」を否定するのは「怒る」。
指摘する相手の「行為」を否定するのは「叱る」。
例えば、何かヘマをしでかした時に、
「お前は何て奴だ!」というのは「怒られる」。
「お前は何てことをしでかしてくれたんだ!」というのは「叱られる」。
「人格」を否定されたら、最終的には「死ぬか」「消える」かしなければ駄目になってしまう。
一方、「行為」を否定されたのならば、その「行為」のみが否定される訳なので、その「行為」を繰り返さないようにすれば良い話しなのである。
「怒られる」という「やり方」が拙劣なのは、「怒る」行為を繰り返すうちに、相手が心を閉ざしてしまうことである。
だから、「怒られてばかりいる」と、そのうち、「ああ、また、いつものが始まった。」とばかりに「不感症」に成ってしまうのである。
一方で、「怒る」人も、「怒る」ことで「自己完結」してしまっていることが多く、「ならばどうしたら改善できるのか?問題を解決出来るのか?」という段階まで進展しないのである。
つまり、「怒る」人は、「怒りたいから怒る」ように成るのだ。
ちなみに、たまたま或る事柄を指摘して話をはじめていくうちに、「そう云えば、以前にはこんなことも有った、あんなことも有った。」と、どんどん「お説教」の題材や論点が複数以上に増加する場合が有る。
これは、「行為」について否定しているのではない。
複数以上に「行為」を否定することによって、事実上、「人格」を否定していることに成る。
だから、「お説教」の内容がどんどん膨らんだり、変化して行っている場合は、その人はただ単に「怒っている」だけに過ぎない。

それと、「叱る」場合は、絶対に端的である。
延々と続くことは無い。
もし、聞いている方があくびが出て来るほど長時間かかるようであるならば、間違い無く「怒っている」だけである。
だから、「怒る」のはたやすい。
感情を爆発させればそれで良いだけのことだからである。
一方、「叱る」のは、「技術」と「知恵」が必要である。

なお、何度も何度も「叱られて」も、改善の見込みが無い場合、最後の最後は「怒られる」ことに成る。
ただ、面と向かって「怒られる」方が幸せである。
「叱ってくれる」ような「人物」を「怒らせる」と、ほぼ、黙って斬って捨てられておしまいである。
「親身に成って叱ってくれる人」は、ただ単に「やさしくて、いい人」であるわけがない。
だからこそ、「叱られているうちが花」なのである。


「おとなの云うことを聞け。そのうち、誰も何も云ってくれなくなるぞ。」

昨年(平成28年)くらいから、意図的に「筋肉関係」のFBの友人を増やしている。

そのお蔭で、FBのAIは、友人の「候補」を「筋肉関係」ばかりにしてくれている。

今後も、基本的に、FBの友人は「筋肉関係」を主とするつもりである。

まあ、そういう割には、実は自分は「筋肉関係」の「話題」を提供していない。

そんな「大会」に出場出来る程の「身体」でもないし。

だから、「筋肉関係」とは「無関係」な「話題」ばかりなのだが、その割にはFBの友人が減らないのである。

一方、いわゆる「ネット保守」の方々は、或る瞬間に突然「蒸発」されてしまう御仁が居る。

そして、しばらくすると、臆面も無く「友人承認依頼」をしてくるやからも居る。

まあ、拒否してスパム報告してしまう訳だが、ここらへんの「思考回路」が自分には理解が不能なのだ。

かと云えば、或る話題で、突如、極めて粘着質に絡んで来たりする。

単に、話題が盛り上がる感じなら良いのだが、明らかに自分の「論調」を変更させようという意図を感じることが有る。

何故、そこまで偏狭なのだろうか?

いわゆる「ネット保守」は、何かの「語句」や「表現」で、突如、激昂する。

そして、一気に沸点が振り切れてしまうのだ。

まあ、そのお蔭で、自分が知らない間にどんどんいなくなってくれているのだが、中には執拗に「教育的指導」を仕掛けて来るのがいる。

そういうのは不愉快だし、時間の無駄なので、バンバン切っている。

そんなに自分の書き方が気に食わないなら、もっと性が合う人たちだけで「仲良く」やってくれれば良い話しである。

その点、「筋肉関係」の方々は、自分がいくら好き勝手に書き散らしても寛大な態度で接してくれている。

自分は、そちらの方が、本当に有り難いのだ。

だから、いわゆる「ネット保守」と云われる方々を「失望した」とか、「見損なった」とか、そういうことではない。

要は、「肌が合わない」という感覚に成ったのである。

だから、いわゆる「ネット保守」の人でも、自分のことを「放置」してくれる人は、敢えて切ることをしていない。

それは今後もそうである。

いわゆる「ネット保守」には、もう既に、多士済々、十二分にひしめきあっているではないか。

もう、自分のような無名な頓珍漢の居場所など皆無である。

だから、自分は、「鳥無き里のこうもり」のように、ネット内で、いわゆる「真正保守」とやらが存在しないところで、ひっそりと棲息していくことにしたいのである。

ということで、FBでは、「筋肉関係」の中に、自分はまぎれて行くことにする。

筋トレを再開して2週間経った。

ようやく、筋肉痛が「心地良く」感じる段階まで「復帰」した。

それはさておき、この頃の、自分はトレーニングのノートを「きっちり」と付けなくした。

意図的にノートを取らなくしたのである。

これには、自分なりに愚考した末の一つの仮の結論である。

 

自分の通うジムにも外国人の方をちらほらと見かける。

その中に、黒人(アフリカ系)の方を見かける。

たまたま、なのか、自分の偏見なのかもしれないのだが、その黒人の方は、ちょっと「やかましい」wwwのであった。

と云っても、ダンベルやバーベルを放り投げたり、マシンを上げ下げする際にドシンドシンと乱暴な扱いをする訳では無い。

彼は、何かを口ずさみながら、「ノリノリ」でトレーニングをしているのだ。

つまり、彼は、さながら「歌うように」「踊るように」筋トレをしているのである。

はじめ、その黒人のトレーニングを見た時、何だか「不真面目」な感じを自分は持ってしまった。

だが、その黒人の筋肉は、とてつもなく鍛え上げられ、発達し尽くされ、肥大していた。

よく「黒人の身体能力の高さ」ということが喧伝される。

かの明石家さんま師匠の番組で有名に成ったボビー・オロゴンは、とてつもない怪力の持ち主である。

ならば、黒人の「遺伝子」がマッチョであることの全ての「因子」なのだろうか?と。

だが、「遺伝子」という、ただそれだけが黒人の筋肉の凄さの理由の全てではないのではないか?と自分は考えたのである。

彼等、黒人の筋トレは、世界的なトップボディビルダーの様子はともかくとして、大変「楽しそう」なのである。

つまり、筋肉を鍛えること自体が「楽しくて」仕方が無いのだ。

これは、何も黒人でなくとも我々日本人でも筋トレは「楽しい」。

だが、一般的な「日本人」の楽しみ方と、黒人のそれとは、明確に違うような気がするのだ。

日本人の方が、より、生真面目というか、頑なな感じなのである。

一方の黒人の筋トレは、本当に愉しげに行っている感じなのだ。

この違いは何なのだろうか?と考えた時、黒人の彼等は、筋トレをあくまで「感覚的」に行っているからだ、という結論に到ったのである。

一方の、自分をはじめとする、いわゆる「日本人」の多くは、きっちりとトレーニングのノートを取るのである。

今日はどの部位(胸)のどの種目(ベンチプレス)で、何レップを何セット行った、と。

だが、「ノート」をきっちりと付け過ぎると、その「ノート」の「数値」にからめ捕られてしまうのではないか?

例えば、胸の種目としてベンチプレスを60キロで上げられた、とする。

すると、「ベンチプレス60キロ」を上げることが、「ノルマ」と化してしまうのである。

そうすると、たまたまジムが込み合っていて、ベンチが他の人で埋まってしまっている場合は、ベンチプレスが出来ない訳である。

さらに、ベンチプレスを行うにしても、人間のコンディションは、毎日、最良であるわけではない。

自分の経験からいうと、身体的な疲労は無くとも、神経的な疲労が有る場合(パソコンの作業が長時間だったなど)は、筋力が低下するのであった。

だから、「ノート」に以前に記録した「ように」は、トレーニングが実行出来ないのである。

そうなると、不機嫌に成るわけである。

ネガティブな感情が湧き上がり、ストレスと成るわけである。

しかし、そもそも筋トレとは何なのだろうか?

鍛えたい目標の筋肉に対して集中的に負荷や刺激を与えることにある。

だから、必ずしも「重量」や「回数」にこだわるべきではないのではないのだろうか?

むしろ、筋トレをしている時の自分の筋肉の感覚こそが重要な訳である。

だから、自分の鍛えたい筋肉へ充分に刺激が伝わっているのであるならば、以前に上がった重量より軽くとも、それはもう仕方が無い訳なのである。

それを、無理やり「目標重量」を「達成」しようとすると、フォームが崩れたり、反動を使ったりと、結果として無茶苦茶なことをしはじめる。

それは、結局、「全身の力」を集中させて「達成」した訳なので、当初「目標」とした「筋肉部位」への刺激にはならないのである。

最悪の場合は、関節を痛める結果と成る。

また、そういう無理な行為に及ばなくとも、ついつい「インターバル」の時間を多く取り過ぎて、トレーニングしている時間よりも、ぼんやりと「待っている」時間の方がはるかに長くなることに成る。

要は、設定重量が重過ぎる訳で、何もその「重量」にこだわらなければ良い話しなのである。

我々日本人は生真面目過ぎるせいで、ついつい、「数値」にこだわり過ぎるのだと思う。

だから、実際にトレーニングをして重過ぎると感じたら軽くすべきだし、軽くこなせたと感じたならば重くすれば良い話しなのである。

重要なのは、鍛えたい目標の筋肉部位の「感覚」なのである。

 

そういう訳で、自分は今日、胸のトレーニングを行う際に、敢えて、ノートを取らなかった。

そして、種目の順番も、たまたま「出来る種目」から開始し、その都度、どれくらいの重量で出来るかを確認しながら行っていった。

まだまだ軽く感じた場合は、重量を増やす。

そして、フォームが崩れたり、動作がおかしいと感じたならば、重量を軽くしたのである。

ただ、次の日のトレーニングの目安として、その種目の最大値ぐらいはメモしてもいいかな、とも思った。

だが、今日は敢えて、一切、ノートは付けなかった。

ベンチプレス

ダンベルプレス

マシン1

マシン2

マシン3

ダンベルフライ

これを、あまりインターバルを挟まずにテキパキと行った。

これで、自分は充分、トレーニングを「満喫」したので、「終了」としたのである。

 

本日、敢えてトレーニングノートを付けないことで、とても伸びやかにトレーニングが出来たような気がする。

何よりも気持ちが楽だったのである。

自分は、「今このジムで一番貧弱で一番非力なトレーニー」だと思ってトレーニングをしている。

だから、のほほんと、こつこつとトレーニングを続けていきたいと思う。

しかし、こういう「当たり前」なことに気が付くのに、自分は本当に時間がかかり過ぎたように思う。

自分のあまりに浅慮なことよ。

また、こういうことを書くと、「たかが派遣労務者のくせに」と嫌われるのだろう。

とはいえ、「ネットは心の憂さの捨て所」www。

以下、何卒ご容赦の程。

 

現在、三多摩地区に於いて仕事をしている。

三多摩地区に於いても、世界的に評価が高い「優良企業」の本社社屋が存在する。

その某優良企業の本社社屋内に在る自動販売機に、自分は仕事をしている。

で、その某優良企業の敷地内にトラックで入る訳であるが、車両出入り口のところで8人ほど敷地外の歩道上でたむろしていて通行の妨げと成っていた。

何処の「厨二」www「中学生」だろうか、と見てみたら、その割にはトウが立ち過ぎていた。

彼等は、全員スーツ姿の会社員だったのである。

ただ、首から「来客入所許可証」を全員ぶらさげていたので、彼等はこの某優良企業の従業員ではなかったのである。

彼等は、この某優良企業へ訪問して来た他社の会社員だったのだ。

もう、この光景を一目見ただけで、解った。

彼等は、この某優良企業へ「プレゼン」に来たのである。

トラックのドライバーさんは、「邪魔だ!どけよ!」と舌打ちしていたが、自分はこの「一団」を見て、「多分、このプレゼン、失敗するな。」と思った。

まず、彼らが、何故、某優良企業敷地内から出てたむろしていたのか?

それは、間際に迫った「プレゼン」への「最終的な打ち合わせ」をしていたのである。

もし、単なる「立ち話」「雑談」の類いであったならば、わざわざ、入所許可の手続きをした後に、敷地外に出る必要は無い。

つまり、これから話す相手の某優良企業の関係者に「話しを聞かれたくない」から、わざわざ敷地外へ出たのである。

だが、その割には、ほとんど「敷地内」から離れていないため、実効性は無く、無意味な行動である。

あと、これは、あくまで自分の個人的な主観なのであるが、「プレゼン」の参加人数が多過ぎるのである。

「プレゼン」は、やはり、多くとも3人から4人までに抑えるべきだろう。

あまり人数が多過ぎると、名刺交換をして、自己紹介をしたにもかかわらず、それ以後は一言も発言が無い人物が必ず出て来る。

わざわざ訪問して来て、若手の担当者以外の人間が、席上で無言のままでいるというのは、自分は不適当だと感じる。

何故、大人数を参加させるのか、というと、二つ理由が考えられる。

一つは、事前に「プレゼン」内容を「詰めて」いないのである。

例えば、「もし、技術的な質問が飛んで来たら返答出来ないから、技術担当者を連れて来よう」。

そういう「意識」なのである。

だが、「プレゼン」で、そういう「意識」であったならば、甚だ詰めが甘いと指摘せざるを得ない。

事前に、相手先から出されるであろう技術的な「質問」に関して、あらかじめ、きっちりと「洗い出し」をしておくべきなのである。

で、事前に、想定質問事項を「洗い出し」ておけば、何も、「技術担当者」を連れて来る必要性は無いのである。

もし、仮に、より専門的な技術的な質問が出された場合は、「確認の上、後ほどご回答させていただきます。」と切り抜ければ良い話しなのである。

逆に、「後ほど回答させていただきます」と申し出て、ひんしゅくを買うようであったならば、それは、事前の「質問」の「洗い出し」が不充分だっただけの話しである。

いきなり「プレゼン」で、技術担当者でなければ即答出来ないような「マニアック」な質問は相手先から出されことは少ないし、例え、その回答を即答出来なくても、相手先の評価は決定的に悪くはならない。

もし、それが「主因」で、「プレゼン」が「失敗」したのであるならば、そもそも相手先がこの「プレゼン」をまともに受ける気持ちが無かったのである。

断るための口実にするためであろう。

 

あと、「プレゼン」に大人数を連れて来る理由として、自社内での指揮命令系統や決裁権限があやふやなのである。

「まとも」な「組織」であるならば、各要件によって、最終的な決定権者という担当者が必ず存在する。

つまり、営業部長が「是」とすれば、それはその「企業」全体を代表して「是」と決定したことを意味する。

ところが、「組織」としての取決めがあやふやな「組織」は、一度、「合意と決定」が為されたにもかかわらず、どこの誰からか、「そんな話し、自分は聞いていないぞ。」などと横槍が入ると、そこから先、一歩も前に進まなくなるのである。

だから、「取り敢えず、関係部署の人間全員が出席」という流れに堕するのである。

しかし、時候柄「職場の花見」でもあるまいし、参加者が多ければ良い訳では無い。

それに、参加者が多いと、リスクが増すのである。

参加者が少なければ、相手先から「見解」を尋ねられた際に、ぶれたり、食い違いが生じる可能性は低くなる。

ところが、参加人数が多く成り、しかも、様々な「背景」を持った人々が出席した場合、例えば、営業サイドと技術サイドで「見解が分かれる」ような醜態が露呈するリスクが高く成るのだ。

だから、さながら「ナントカ会社御一行様」みたいな大人数で「プレゼン」にのぞむのは、自分は「下策」であると考える。

ちなみに、国会の政府答弁は、仕方が無い。

何故なら、事前に「想定質問事項の洗い出し」が完璧に出来ないからである。

それは、現在の野党が、専ら週刊文春や日刊ゲンダイの記事を元に質問を作成するからである。

さすがに週刊文春や日刊ゲンダイの編集部へ、事前に内偵を入れる訳にはいかないので、これは致し方無いのであるwww

 

まあ、どちらにせよ、出入りの業者の車の入り口の前で、通行の妨げに成ることに無自覚であるような連中に、「プレゼン」の成功など到底望むべくも無かろう。

「プレゼン」とは、単に「自己PR」をするためだけの「場」ではないのだ。

「プレゼン」には、絶対的に「相手先」が存在する。

しかも、その「相手先」は「組織」なのである。

実は、「組織」には「組織」特有の「ツボ」と云うものが有る。

それは、「組織」に評価され、「組織」に求められ、「組織」を動かすには、必ず、その「組織」の勘所(かんどころ)を押さえなくては駄目なのである。

ただ単に、熱烈な「がぶり寄り」をすれば、受け入れてもらえるような、そんな短絡的なものではないのである。

それには、相手と自分とそれらをとりまく周囲の状況を的確に把握していなければ、絶対的に無理なのである。

だから、自分の「周囲」が理解出来ない、つまり、自分が「周囲」からどう見えているのか、という「意識」が欠如しているようでは、そもそも「プレゼン」など行う「資格」さえ「無い」と思う。

 

と、ここまで、延々と書き綴ってきたのだが、所詮は自分の「思い込み」に過ぎない。

全く「ゲスの勘繰り」とは、嫌らしいことこの上ないwww

以上乱筆、何卒、ご容赦の程。

最近、自分の「精神衛生」は頗る良い。

「ボディビル」を再開して、筋肉が活性化したということも有る。

だが、相変わらず、母からの悪罵はえげつないこと極まりない。

にもかかわらず、最近の自分の「精神衛生」は頗る良いのである。

 

きっかけは、数日前の口論だった。

いつものくだらない事柄のお小言からはじまって、自分の人格攻撃へとなだれ込んで行くのだが、その中で、だいぶ前のことの話題が出て来た。

もう、数か月程以前になるのだが、母との口論で、自分は耐え切れなくなって慟哭しながら喚き散らしたのである。

で、あまりの狂態ぶりに、さすがの母も気圧されてしまったのだった。

その時のことを持ち出して来たのである。

「TVを見ていたら、東日本大震災に被災した子供達をケアしているお医者さんが、こうお説教していた。『男の子は、どんなに悲しくてもつらくても、声を上げて泣いてはいけないのだよ。』と。」

そう云って、「お前は、あんな風に泣き喚くのではない。」と批判して来たのである。

自分は、ただただ、呆気にとられた。

あまりに、突拍子が無かったからである。

はっきり云って、自分には意味が通じなかった。

ただ、このやりとりで自分は解ったのである。

「この人」は、根本的に「欠落」している人なのだ、と。

つまり、「他者」が意識出来ないのだ。

自分の発した言葉によって、相手がどのように受け止めるのか。

そういう意識も能力も、全く「欠落」している人なのである。

だから、他人に対しての「親切」も、「自分が親切をしたい」というエゴ(我執)から生じているのである。

そのため、往々にして「有難迷惑」「大きなお世話」と化してしまうことが多かったのだが、それは当然の帰結であったのである。

このことに自分が気づかされた途端、自分のあまりの愚かしさに呆れ果ててしまった。

自分は、「この人」に、ずっと「無いものねだり」をしていたのである。

「この人」には、全く持ち合わせていない代物を、自分は無理強いしていたのである。

何と云う、甘ったれた愚昧極まりない低劣な自分なのだろうか。

 

それからは、母から何を云われても、全く苦痛に感じることは無く成った。

つい先程も、自分の整理整頓のいいかげんさをネチネチと愚痴られた。

そして、「せめて普通の人間に成って欲しい」と云い、ついには、

「お前は、人間として良いところが果たして有るのか?」とまで云い切ったのである。

だから自分は笑いながらこう応えた。

「自分に人間として良いところなんて一つも無い。だからもう、はやく死んでしまったほう良いのだ。」と。

すると、おとなしく、寝室に入って行った。

そういう訳で、最近の自分の「精神衛生」は頗る良いのである。

大変、喜ばしいことである。

今回の「森友学園」騒動で、いかに「愛国保守」の「名士」の中に「自己愛」過剰な人間が存在するのか、ということが判明した。

結局、「愛国保守」の「活動」をして、「成果」を上げることが「目的」ではないのだ。

「愛国保守」の「活動」をして、自分自身が「愛国保守」であることに「恍惚」としているのだ。

さらに、いわゆる「愛国保守」という「部落」の中の「顔役」(有名人)と「知り合い」に成ったり、自分自身が「愛国保守」という「部落」の中で「認知」されること自体が「目的」と化しているのである。

人間というものは、誰しも「我」が存在する。

だから、「自己愛」を有すること自体を批判するつもりは、自分は無い。

だが、「公」を高吟しつつも、その実、「美しい日本の私」とも云えるナルシズムの「合理化」に過ぎないのであるならば、醜悪以外なにものでもない。

なお、かく申す自分もナルシズム的な要素は存在する。

だが、それは専ら「筋肉」や「ボディビル」に昇華させている。

自分は、自分のナルシズムを「愛国保守」に投影させたいとは思わない。

平成29年も4月に入った。

東京に於いては桜も満開と成り(4月2日)、街中では、新社会人や新入生の晴れやかな表情としばしばすれ違う。

彼等は、間違い無く、我々の後継者であり、我々の支え手と成る、頼もしい存在である

一方、自分はしがない派遣労務者に過ぎず、多分、若い諸氏に対して直接、指示や指導をする機会など最早有り得ないだろう。

現に、仕事場に於いて、派遣会社から「例え年齢が上でも、偉そうな口をきいてはいけない。」と厳しく注意されている。

確かに、「たかが」派遣労務者の分際で、さも「人生の先輩」のような口をきけば、「正社員」である「若造」は、癪に障るものである。

だから、自分は、極力、指摘もしないし、提案もアドバイスもしないようにしている。

そのかわり、じっと状況を見極めて、そろそろ頃合いだな、と感じた時に、確認だけさせてもらい、後はひたすら指示されるのを待つようにしている。

あんまり、あれこれと気を回し過ぎると、他人から見れば煩くてしょうがない。

だから、魯鈍であるようにしている。

それはさておき、直接、自分の口頭から若い諸氏に対して語りかける機会は皆無だろうから、そのかわりに以下、拙文でもって、鬱憤を晴らしておきたいwww

まあ、どんなに大そうな御託を並べたところで、最終的には「派遣労務者」なのだから、クソの役にも立たないだろうがwww

 

若い諸氏にまず言い含めておきたいことは、「焦るな」「慌てるな」ということに尽きる。

何事も「急いては事を仕損じる」のである。

更に加えて、「いきなり、上手くやろうとするな」ということである。

ニューカマーという存在は、そもそもが「無知」なのである。

何も知らない、解らない人間が、いきなり「上手くやろう」としたところで、絶対に為せるわけがない。

例え、器用に、要領良く立ち回ったところで、熟練者から見れば「惜しいね」というレベルでしか有り得ない。

だから、いきなり「上手く」はいかないのである。

当然、失敗をするし、下手を打つ。

この、上手く行かずにズッコケる様は無様である。

ここで、感情的に成ってはいけない。

つまり、失敗しても感情的には後に引きずらないことである。

しかしながら、全部「水に流して」しまっても駄目である。

そこから、あくまで理知的に、理詰めでこの「失敗」に向き合うことである。

この時に重要なことは、「頭を下げる」ということである。

「失敗」をしてしまったことを詫び、さらに、現在の自分のどこが足らないのか、到らないのかを、先輩や上司に教えを乞うことである。

だから、いかに頭を下げ、恥をかくことを厭わずに自らに課していくかということが重要と成る。

これは、失敗や恥に対して「不感症」に成れ、鈍感に成れということではない。

恐縮することに耐えられるように成れ、ということである。

ちなみに、自分にとって、仕事で一番教えてもらったのは「顧客」である。

客先に行っては、粗相やヘマを繰り返し、そのたんびに怒られ、叱られまくった。

冷や汗、脂汗をかきながら、「もう、こんな失敗は二度としないぞ!」と骨身に沁みるような苦痛を感じながら、徐々に「学習」していったのである。

そして、そのうちに、「顧客」からいろいろと情報や知識の「ヒント」を教えてもらい、それをとっかかりとして必死に成って調べたり、社内の担当者へ質問して回ったりした。

考えてみれば、自分の給与の「出どころ」は、実は「顧客」なのである。

つまり、「顧客」が自分のところの職場へ「代金」を支払ってくれなければ、結局、自分の給与は出て来ないのだ。

だから、上司や先輩との信頼関係も重要であるが、それ以上に、「顧客」にいかに可愛がってもらえるかが肝要であろう。

話しを元に戻そう。

「失敗」や「ヘマ」というものは、必ず、理由と傾向が存在する。

「成功」というものは、「偶然」という当人の制御不能な「幸運」によるところもあるため、「成功」を「法則化」することは、あまり意味が無い。

しかし、「失敗」は、必ず「法則性」が存在する。

だから、その「失敗」の「法則性」を除去、克服しない限り、「失敗」は必然的に繰り返されるのである。

逆に、「失敗」の「法則性」を深く認識した上で、的確な対策を講じた場合、「失敗」を繰り返す確率は格段に低下する。

だから、「失敗」や「ヘマ」は、「明日に生かす」ように「意識」していけば、それは、自分にとっての「指標」と成るのである。

だからこそ、「失敗」を忌避してはいけないのである。

いきなり「上手くやろう」としてはいけないのである。

 

頭を下げる。

こまごまとしたことを嫌がらずに行う。

これは、実は、若者の「特権」でもある。

実は、年齢を重ねていくにしたがって、身体じゅうに脂肪や贅肉が付いていくように、精神的にも重たいものが堆積していくのである。

だから、頭を下げたり、口頭で詫びるという、「ちょっとしたこと」が、本当に億劫に成って行くのである。

年を取ってくると何も「偉そう」に成るのではない。

ただ単に、心身共に活動性が落ちていくのである。

だが、それは若い人には横柄で傲岸不遜に見えるだけなのだ。

だから、若いうちに、頭を下げること、こまごまとしたことに動いていくことに馴染んでいないと、年齢を重ねていくにつれて、本当に心身共に「動けなく」なっていくのである。

頭を下げることは「恥ずかしい」。

だが、その「恥ずかしさ」は、若いうちならば比較的、心身に負担に成らない。

しかしながら、年を取ってから「恥ずかしい」思いをすると、本当に心身に堪えてくるのである。

 

そして、「人間とは社会的動物である」ことから、人間は一人で済ますことは不可能なのである。

どんなかたちであれ、自分は「全体」の中の何処かに「位置」している。

だから、自分が、今、「全体」の中で、何処に「位置」しているのか、ということをしっかりと把握するように意識することである。

そして、自分が「全体」の中の何処に「位置」しているのかが理解出来た時、自分の今後の立ち居振る舞いをどうしたら良いかが見えて来るのである。

 

新社会人諸氏に対しては、以前は、新聞紙上でサントリーが広告を掲載していた。

サントリーが「壽屋(ことぶきや)」と云っていた時代の広告宣伝部の社員だった、直木賞作家の山口瞳が、毎年、新社会人に対してエールを送っていたのである。

山口瞳は残念ながら、既に故人であり、現在、そのアドバイスを同時代的に受けることは出来なくなってしまった。

往年の山口瞳に比べれば、我が拙文はあまりにお粗末であるのだが、若い諸氏への「気持ち」は変わらないつもりである。

 

最後に、慣れない新しい環境に於いては、心身共に、余計なところに力が入り過ぎている。

そのため、自覚している以上に疲労困憊している。

だから、ここ3か月ぐらいは、しっかりと食事と睡眠を取るように心掛けてもらいたい。

ストレス発散をしたい欲求にかられるだろうが、ゲームやアルコールでは、蓄積した疲労は解消出来ない。

更なるスキルアップや人脈の開拓という意欲的な取り組みも、夏まで抑制された方が良いだろう。

或る程度、職場や業務に慣れてくれば、いくらでも挽回は可能だ。

まず、ここ3か月は、足元を固めることに留意されるべきだと思う。

自分のようなポンコツには出来ない「貢献」を、是非ともやり遂げられるような、立派な社会人に成れることを心から祈念し、若い諸氏の明るい可能性に対して大いなる祝福をお贈りさせていただいて、この拙文を終わりとさせてもらう。

平成29年4月現在、街中ですれ違う体育会系の学生たちの装いは、ほぼ全員「アンダーアーマー」のブランドを着ている。

ジムに行っても、「アンダーアーマー」の着用率は低くない。

ゴールドジムなので、ゴールドジムブランドの着用率が高めである、という「条件」を差し引いてもなお、「アンダーアーマー」の着用率は高い。

「アンダーアーマー」の特徴は、その「フィット感」に有る(という)。

つまり、身体の輪郭を強調しやすい「デザイン」なのである。

まあ、それは、今と成っては単なる「きっかけ」であり、現在はそのデザイン性とあいまって、「アンダーアーマーというブランドを着用する」という「図式」そのものが、「クール」であり、恰好が良い、ということなのである。

「アンダーアーマー」が、優れた「デザイン性」を有していることは間違い無いのだが、それが、ここまで体育会系の学生達を席巻しているのは、マーケティング戦略などでは説明しきれない、云わば、「時代を象徴するスタイル」に成っているからであろう。

それはさておき、自分は、実は、「アンダーアーマー」のユニホームなどを着用したいと思っている。

また、「ゴールドジム」のタンクトップも着用したいとも思っている。

だが、現在、それは「実現していない」。

無論、金銭面で余裕が無い、ということが一番の理由でもあるのだが、しかし、絶対に購入不可能な程でもない訳である。

しかしながら、自分は、「アンダーアーマー」のものを持っていない。

それは、敢えて、「購入、入手することを自制している」からである。

何故か。

それは、現在の自分の体形が、「アンダーアーマー」のブランドを着用するに値しないからである。

もっと、身体を鍛え上げて、「アンダーアーマー」のブランドを着用するに値する体形に成った時、ようやく、購入しようと、心に決めたからである。

それは、同様に「ゴールドジム」のものもそうである。

現在、以前に購入した「ゴールドジム」のTシャツなどもしまいこんで、滅多に着用することを自制している。

そもそも、その「ブランド」というものは、「購入」することで「完了」しないのである。

何故なら、「ブランド」とは、「美意識」であり、「スタイル」である。

つまり、その「ブランド」を着用することによって、その「ブランド」が「象徴」する、「イメージ」や「ストーリー」を体現することにある。

「ブランド」品が、何故、「高価」なのかと云えば、「ブランド」はその「物品」の他に「夢」を売っているからである。

格安店の見切品と、何が違うのかと云えば、「物品」以外の「ソフト」である「付加価値」を有しているからに他ならない。

だが、その「アンダーアーマー」のブランドが保持している「スポーツアスリート」としての「イメージ」が、もし、損なわれるようなことになれば、それは「アンダーアーマー」というブランドそのものの存在価値を貶めることになろう。

つまり、「スポーツアスリート」とは程遠い、丸っきり弛緩し切った身体の自分が、もし、「アンダーアーマー」を着用したならば、それは、街中のおっさんがパチンコを打ちに着て行く「ジャージ」に見えてしまう。

だから、「アンダーアーマー」の販売店も、是非とも「対面販売」を厳格化し、自分のような手足は細いが腹だけ丸々としているような「おじさん」には絶対に販売をしないようにすべきなのである。

自分のような中年太りのおっさんが、「アンダーアーマー」や「ゴールドジム」のブランドを着用したら、「悪い冗談」にしか見えまい。

いくら、「アンダーアーマー」や「ゴールドジム」のブランドを着用したところで、身体は変わらないのである。

にもかかわらず、自分のようなおでぶが「アンダーアーマー」や「ゴールドジム」のブランドを着用したら、持っている現金に物を云わせて買い叩いたようにしか見えない。

まさに「成金趣味」であろう。

日夜、練習やトレーニングに汗を流している体育会系の学生諸君には相応しくとも、少なくとも、現在の自分の身体は、その着用資格は皆無である。

今後、身体を鍛え、例えポッコリお腹が凹まなくとも、せめて、筋肉量だけでも増加させなくては、「アンダーアーマー」や「ゴールドジム」のブランドに対して「申し訳が立たない」と思う。

「商品」というものは、現金を出せば、購入・入手は可能である。

だが、「商品を買った」というだけでは、実は、本当の意味で「購入」したことにはならない。

そこから、いかに「着こなしていくか」ということが重要なのである。

それは、何もブランド品のウェア(衣料)に限定されない。

カバンや靴、自動車や家屋、さらには「情報」や「知識」というものも、皆、そうである。

「購入」したからと云って、即、自分が「所有」したことには成らないのである。

「購入」したことで満足し、「思考停止」に落着したならば、早晩、「購入したもの」から手痛いしっぺ返しを食らうことに成るだろう。

現に、東芝は、アメリカの原子力発電所メーカーを「買収」したものの、「買収」した時点で「思考停止」に陥ってしまったため、ついには、「東芝」自身の事実上の「企業体の解体」と云った「末路」に追い込まれてしまった。

「買った」方が、全て「偉い」訳では無い。

「買った」方は、「買われた」方を、どう「着こなして」「馴染ませて」いくのか。

だから、何かを「購入」するということは、必然的に、自分自身が問われているということになるのだ。

この「査問されている」ということに、無自覚な人が、世の中にはあまりにも多過ぎるように自分は感じられてならない。

ジムに行って気が付いたこと。

トレーニング中にスマートフォンを覗く人がいる。

ちょっと癪に障ったので、遠目に画面を覗き込んでみると、筋トレに関するサイトや動画を見ていた。

これを見て、ちょっと考え込んでしまった。

だって、ジムにはインストラクターが常駐しているのである。

もし、解らないところが有ったら、インストラクターを呼び止めて、確認したら良いのだ。

何も、ベンチプレスの補助をするだけがインストラクターの「業務」ではないのだし。

ただ、自分がサボっている間に、ジムの雰囲気が、ますますストイックに成って行ったような気がする。

何と云うか、私語が憚られるような「空気」なのだ。

勿論、ベンチやマシンを占拠して「井戸端会議」を開かれても迷惑なのだが。

特に、ゴツイ「常連」さんたちである。

久々にジムに行って再認識したのだが、やっぱりゴリマッチョは「怖い」のであるwww。

だって、太ももみたいな太さの、しかも脂肪がほとんどない、筋肉の塊みたいな腕でぶん殴られたら、それこそシャレにならない。

まあ、そんな暴力沙汰が起こることはまず有り得ないのだが、片手で20キロのダンベルを「当たり前」のように持ち運びしているようなマッチョに対して、口頭注意なんてする気に成らない。

かつて、フィットネスクラブに於いて、ストイックにトレーニングをしている人が多くいたが、だいたいフィットネスクラブは「痩せる」為に通っている人が多数派なのである。

筋肉をガンガン増やして、「デカく成った!」と嬉々としている我々は、あくまで少数派であり、次第にフィットネスクラブよりもゴールドジムへシフトする傾向に到ったのである。

それはさておき、何故、目の前のインストラクターに確認せずに、スマホをいじるのだろうか?

そもそも、ダンベルやらプレートが置いて有るジムのでスマホをいじっていたら、何かのはずみでつぶされてしまうかもしれない。

「象が踏んでも大丈夫」な昔の筆箱ではあるまいし。(若い人は解らないかwww)

それに、フォームを確認するのであれば、なおさら、「リアル」な実際の他人の目から見てもらった方が確実である。

自分もかつてベンチプレスのフォームを見てもらった時、インストラクターから、「バーが少し、下過ぎるので、肩や上腕三頭筋に効いて、胸には効いていません。」と指摘してもらったことが有った。

フォームというものは、トレーニングをしているうちに、知らず知らずに崩れていくことが有るので、絶えず、「自己確認」を意識的に行わないといけない。

でないと、「自己満足」な、ただ単に「こなす」だけのトレーニングに成ってしまう。

後は、自分自身の「感覚」である。

負荷がかかっているのならば、注意して意識していれば、どこの筋肉に負担がかかっているのか感覚が解る筈である。

そして、さらに、軽過ぎればウェートを増やし、重過ぎれば重量を減らすようにするべきなのである。

スマホに気に取られて居ては駄目だと思う。

これは、何もボディビルに限らないと思う。

情報は摂取すべきものである。

だが、情報を摂取するためだけに摂取するようになっていったならば、そもそも何を目的にしているのか解らなくなるだろう。

自分は、何のためにトレーニングをしているのか?

そこの訳が解らなくなった時、間違い無く、「成果が上がらなくなっている」筈である。

重量が上がらない。

筋肉量が増えない。

何処かが間違っているのである。

きっと、別にもっと良い方法が必ず有る筈なのである。

そして、その「良い方法」は、間違い無く、スマホだけでは関知不可能なのだと、自分は思う。

自分の欠点は、「突き詰めてしまい過ぎる」ことにある。

つまり、過剰で、暑苦しい奴なのであるwww

そういう輩だから、ボディビルをやろうとしても、ついつい気負い過ぎてしまい、息切れしてしまいがちなのである。

で、これからは、「自然体」でトレーニングに臨みたいと心に決めている。

「かくあるべし」と決め付けず、淡々と行うこと。

だから、種目の順番が後先に成っても気にしない。

勿論、重量が上がらなくても気にしない。

「今日は、そういう、『上がらない日』なのである」。

筋力とは、さながら「金力」のようである。

「無い袖は振れない」のである。

かつて、「自分は、月に40万円ももらっていたのだ!」と云っていても、現在は月に12万円しか入らない派遣労務者であるならば、それに見合った金の使い方をするしかないのである。

それと同様に、かつてベンチプレスで100キロ上がっていたとしても、現在は50キロしか上がらなければ、その50キロのウェイトでしっかりとトレーニングするしかありえないのである。

それと同様に、先週上がった重量が、今週に成って上がらなくても、悲憤慷慨するべきではないのである。

上がったり、上がらなかったりの繰り返しのうちに、筋力と筋量は上昇していくだろうから、である。

こういう、地道でコツコツというのは、自分は不向きなのかもしれない。

ただ、「執念深い」粘着気質なので、その分で、何とか「補填」しているのかもしれない。

あとは、「ちょっと、やり残した」感じでトレーニングを終えるようにしたい。

「腹八分目」ではないが、ジムに対して「後ろ髪を引かれる」ような気分の方が、次にトレーニングをしようとする意欲が増すだろうからである。

激し過ぎるのは、困りものである。

もう、あと数年後には、「職場」の有り方が激変すると予想される。

それは、「企業」に於ける、「組織」の有り方が激変するからであると、自分は思う。

何故、「企業」に於ける「組織」が激変するのか、と云えば、それはここ数年来での急激な科学技術の進歩によるものである。

とりわけ、インターネットとスマートフォンやタブレット端末による科学技術の進歩によって、我々人類の社会的枠組みは否応無く激変してしまったと云える。

かつての「近代」から「現代」に於いて、それは「マス」(mass)の時代であった。

そのキーワードは「大衆」であり、「集団」であり、「多数」「多量」であった。

そもそも「中世」や「封建」という時代は、権力や権威などの分割、分立の時代であった。

それが、絶対王政、帝国主義というかたちで「集中」されていく。

「近代」に於いて、当初は「君主」に権力や権威が「集中」されていった。

これが云わば「帝国主義」である。

だが、この「帝国主義」は、市民革命やブルジョア革命というかたちで王制が打倒された後に設立された民主制の国家に於いても、その権力や権威の「集中」の傾向は変わらない。

むしろ、隣接する周囲の外国からの対「反革命」戦争を勝ち抜くための「戦時体制」として、より加速される。

ロピスエールのジャコバン派の恐怖政治、さらには、その反動とも云えるテルミドールののクーデターが有り、ついにはブリュメールのクーデターでナポレオンによる「帝政」が誕生するまでに到る。

権力と権威の「集中」は、フランス大革命による時点から、「君主」によるものでなければ、「党派(セクト)」によって実行される、という「流れ」が誕生していた。

その後の、マルキシズム、ボリシェビキによる「革命に於ける前衛党」による「党中央による独裁」がまさにそうである。

また、「社会主義の亜種」であるファシズムや、さらにその「ファシズムの亜種」であるナチズムによって、大衆に依拠したかたちでの「独裁」というかたちと成った。

いわゆる「民主制」「共和制」の国家に於いても、「大統領制」というかたちで、「定期的に政権交代の革命を制度化した君主制」というかたちで、権力と権威の集中が為されている。

権力と権威の集中ということは、情報や知識、資本(財産、現金)、そして人々を集約し、」集中させることによって、国家や社会、組織の強化を図った。

また、ピラミッド型の単純明快で、硬質な組織構造は、効率的とも云えた。

そして、この権力と権威の集中の時代的な傾向に於いて、新聞・映画・ラジオ・TVと云った「マスコミ」が、集約化された権力と権威への「安全装置」として、その「暴走」を制御することが求められた。

だが、皮肉なことに、その「マスコミ」こそが、何時しか「第四権力」と化し、傲岸不遜な振る舞いをする始末と成る。

だが、この「集中」という、「流れ」が、インターネットによって激変されようとしているのである。

それは、従来型の「mass」(マス)の手法とは、明確に異なると云うことである。

従来は、「職場」に出勤し、機械を操作したり、会議をしたりしなければいけなかった。

だが、テレビ会議が物珍しい存在とはなくなり、「企業」の「構成員」が、必ずしも「一堂に会する」必要性は「絶対」ではなくなったのである。

勿論、まだ、その「重要度」は維持されているのだが、それは、いつまでも維持され続けられるとは思えない。

かつての東インド会社から始まる「企業」という組織体は、「利潤を生む」ということを目的とした機能的組織体である。

だから、利潤を今よりもさらに増加させることが可能であるならば、その組織体の存在目的である目標に向かって、融通無碍に、どんどんその有り方を変貌させていくのである。

いずれは、自宅に於いて、「在宅勤務」というスタイルが普及していくだろう。

だが、「在宅勤務」ということに成った場合、「就業時間」という「概念」そのものが成立しなくなる可能性が有る。

一応、「業務用のパソコンの電源を入れた時間」を「始業時間」とみなし、「電源を落とした時間」を「終業時間」とみなす「運用」と成るだろう。

だが、そのような就業体制と成った場合、明らかに現行の「就業時間」とは違ってくる。

「残業」や「休日出勤」という、「概念」そのものが無くなるだろう。

これは、或る面、「長時間過重労働」を強制する方向に成る。

さらに、もっと云えば、「企業」の「施設」に「立ち入らない」人間が、定期的に「業務」に「従事」した場合、それは「雇用」関係と見なすべきなのか?

それとも、「業務発注請負」というかたちの「業務委託契約」関係と見なすべきなのか?

もし、「請負」ということに成れば、現行の「労働法規」の管轄外に成る。

つまり、労働者としての権利が、全く「発生しない」とみなされるのである。

何故なら、「請負」は「資本家階級」の事業主だからである。

従来は、「企業」という「組織」に「採用」され、「帰属」することによって、教育や研修も為され、企業秘密の保持や金銭の管理も為された。

と云うより、「授業員」「被雇用者」として、「社員」にしなければ、「企業」が経営出来なかったからである。

だが、ネット社会の広がりと深化によって、個人と個人が著しく簡単にコンタクト可能に成ったのである。

何も、「組織」に「帰属」する必要は無く成ったのである。

そのような時代の「傾向」と成るならば、この世界の中に、夥しい数の「個人」が遊離し、それをインターネットで結び合う「時代」と成ろう。

この「時代」は、或る面、非常に苛酷な時代と成ろう。

何故ならば、「個人」そのものの「優劣」がむきだしで評価されることとなるだろうからである。

従来であるならば、「帰属」する「組織」に於けるポジションである「地位」や「肩書」が、「個人」に対する「付加価値」として威光を放っていた。

だが、「個人」というものが前面に出過ぎる「時代」と成れば、「組織」というものの「実感」が乏しく成って行くだろう。

そうなった時、「組織」の「真価」が認識しにくい状況と成るかもしれない。

「個人」としての「真価」が、従来とは比較に成らない程、大きな「選定基準」として捉えられるようになるならば、「個人」としての「力量」や「才覚」、そして「人格」や「徳」という「要素」が、「決定的な」意味合いを持つことと成ろう。

間違い無く云えることは、今後、自分自身に対して、如何に「鍛練」を課していけるか、ということにかかってこよう。

それは「知的」な鍛練、身体的鍛練、精神的鍛練、社会的交渉能力の鍛錬、全てに取り組めるかどうかということに成ろう。

そして、その絶え間無い「鍛練」によって、「世界」から「評価」され得た人物は、従来とは比較に成らない程の知名度と収益を得るということに成るのだろう。

だが、そんな「成功者」は、ごくごく少数であろうが。

後は、現在の自分のような派遣労務者として、低賃金で安く酷使されるのみであろう。

だから、間違い無く、これからの社会的な平均収入額は低下する。

激減するだろう。

当然、消費活動は、ほんの一握りの「セレブ」だけが旺盛に行うのみとなろう。

これは、「良い」とか「悪い」とか、そんなことではない。

否応無く、「そう成っていくだろう」ということである。

「適応」していく道も有れば、「反時代的」に振る舞って自滅していく「美学」も有る。

それは、個々の選択の自由である。

「村上春樹の最新作って、綾小路翔が殺されちゃう話しでしょ?」

(字が違うwww。同じ「キシ団長」だけど)

今月に入って、仕事の「現場」が変わった。

今度の現場は、「手上げ」が有る。

「手上げ」とは、荷物を手で持って運び上げることである。

エレベーターが無い場所を、階段を缶コーヒーやペットボトルを満載にした荷物を2階や3階まで運び上げるのである。

先月までの現場は、猫車が有ったので、階段でも猫車に載せて運べる。

だが、今月からの現場は人力で運ぶしかない。

で、しかも「折りコン」である。

パタパタと折り畳みの出来るプラスチック製の箱である。

この折りコンに缶コーヒーなどを満載すると、結構な重量に成る。

しかも、段ボール箱と比べて横幅が有るので、重量化した折りコンを持ち運ぶには、背中の筋力が必要と成る。

で、約1年ぶりに「手上げ」の仕事をした。

当然、背中は筋肉痛が出て来る。

だが、背中の筋肉痛を感じたことから、「筋トレ」の「快感」を思い出してしまったのである。

なんだかんだ、約1年ほど、筋トレをしていなかった。

したい、したい、と思いながらも、体調不良などで、何時しかジムから足が遠いのいていた。

だが、自分は「筋肉」が好きだし、「筋トレ」も好きなのだ。

だから、捨てたり、諦めたりは出来なかった。

 

先週末に、本当に久しぶりにジムに行った。

案の定、パワーは情けない程、無くなっていた。

だが、社会人で、「ボディビル」に全てをつぎこめるような人は、少ない。

「意志」の問題も有るのだが、やはり、「幸運」でなければ、ボディビルに限らず、あらゆるスポーツも趣味・道楽も継続することは困難である。

さながら、「賽の河原の石積み」であるのだが、また筋肉を鍛え直していかないといけない。

 

トレーニングのメモ帳が有るのだが、今日、あまり厳密にノートを付けていくべきではないのではないか?と思った。

トレーニングのノートというのは、「記録」である。

ただ、そのノートで記録された重量や回数に関して、どうしてもその「数値」に捉われてしまうのである。

考えてみれば、晴れた日も有れば、曇りの日も有り、土砂降りや台風の日も有る。

トレーニングの体調や、実施時間帯も、必ずしも一定には保てない。

状況や背景が変化したにもかかわらず、「結果」は同一で、不変である、ということは、実はかえって不自然なことであろう。

例えば、ベンチプレスで100キロを5レップ上げられたとする。

だが、それは、いつも上げられる重量値であるとは限らない。

とはいえ、自分がそうであったが、どうしても、そういう「数値」や「データ」に拘ってしまうのである。

勿論、限界までトレーニングを追い込んでいくことは必要である。

だが、トレーニングを追い込んで行くことと、「数値」を「再現」させることは、必ずしも同一では有り得ない。

それこそ、腰や脚などのトレーニングで鍛える「標的」とする筋肉以外の筋肉を使って、無理やり上げてしまうことも出来る訳である。

だが、それでは、本当に鍛えたい筋肉に「効かせる」ことは出来なくなってしまう。

さらに、関節などに無理な負担と成って大怪我につながる危険性も出て来る。

 

そうなると、トレーニングを実施していくに当たっての「判断基準」は、「感覚」ということになるだろう。

自分自身で、正確なフォームを意識しながら、限界まで追い込む。

だが、無理はしない。

 

長いブランクに入る前から、トレーニングノートに関しては、その日に出来得た重量と回数のみを記し、感情的に受け止めないようにしては居た。

考えてみれば、「機械」ではないのだから、どうしても「上がらない」日も出て来るのである。

それを「根性が無い」とか「クソだ!」といくら悲憤慷慨したところで、「上がらないものは上がらない」のである。

ただ、人間と云う者は、ついつい、解り易い「数値」や「データ」に傾斜しがちなのである。

かのブルース・リーは映画「燃えよドラゴン」の冒頭部で、ストーリーとは無関係なシーンでこう云っている。

「考えるな。感じるんだ。」

これは、小さな子供に武術の稽古を付けている時の「指摘」である。

 

哲人パスカルによると「人間は考える葦である」という。

だから、どうしても、論理に偏重するところが多い。

勿論、論理を軽視や無視していてはいけない。

ただ、人間は肉体が有り、肉体に関しては五感が指標であるということである。

だから、感覚と論理を絶えず往復させながら、現状の把握と対策の実施を志向していかなくてはいけない。

 

これからボチボチと気負わずに自然体でボディビルを再開させて行きたいと思う。

トレーニングはひたむきに。

でも、トレーニングノートは「いい加減」にやっていこうと思う。

なんだか、「仕事」に於いて、「格差」が本当に拡大している感じがする。

例えば、「忙しい人」は、どんどん多忙に成る。

一方、お声がかからない人は、貧困層に堕ちていく。

ひとくちに「忙しい人」と云っても、二つに大別出来て、

「業務処理能力は高く、迅速に仕事が出来るのだが、依頼される業務の数が多過ぎる」。

「業務の数はそれほどでもないのだが、いつまでたっても仕事が完了出来ない」。

一つ目の「仕事早く出来るのだが、量が多過ぎる」と云うタイプは、まさに「頼みごとは忙しい人に頼め」というテーゼ通りの人である。

で、頼まれると嫌な顔もせずに、しかも、パッと完了させてしまうのだ。

こういう「使い勝手の良い」人には、仕事の依頼が後から後から押し寄せて来てしまう。

だが、そういう「重宝」な人は、間違い無く「過労」と成り、大抵、「短命」でもある。

やはり、「忙しい人」は、請け負う仕事量を減らすべきだと思う。

そして、自分のような所在無げなポンコツに、少しは仕事を回したら良いのである。

これからの世界は、ほんの一握りの「セレブ」を除いて、大多数の人々は所得が激減するのだ。

近い将来、欲望を自制し、なるべくお金を使わない人々だらけの世界に成る。

勿論、景気の動向に直撃する訳だが、「景気」は、ほんの一握りの「セレブ」が「投資信託」でもって、作り出していき、そして、その「果実」も上の方だけでやり取りして終わる。

多分、最早「富」は下まで降りて来ることは無い。

ならば、後は、いかに「貧乏を味わっていくのか」ということしか有り得ないだろう。

だから、個人があくせく働くことはやめるべきだ。

なるべく、周囲へ「仕事」を散らしていくように仕向けていくべきだと思う。

気が付いたら、春のお彼岸が終わってしまった。

 

ところで、お墓参りをされた人はどれだけおられるだろうか?

もし、いわゆる「パワースポット」とやらを巡ることが大好きな御仁が居られたらならば、是非とも、お墓参りをされることをお薦めしたい。

何故なら、自分の家のお墓とは、我が家の「パワースポット」だからである。

自分の家のお墓参りもろくに行なわずに、よその「パワースポット」とやらにうつつを抜かしていたら、いくら「パワー」とやらを掻き集めたところで、底から全部抜け落ちてしまうだろう。

まずは、「足元を固める」ことである。

 

ちなみに、「お墓参りをしない人は不幸」なのだという。

何故なら、「お墓参りをしない人」は、「うわべだけで物事の本質を見ようとせず、手間暇をかけることを嫌う」からであるという。

「お墓参りをしない」から「不幸」なのではない。

「不幸」に成る傾向の人は、大抵、「お墓参りをしない」ということなのである。

今回の、いわゆる「森友学園」問題のせいで、政治家の先生方の「ガード」が固く成ると思う。

とても非常に良いことである。

今迄が、あまりに「フレンドリー」過ぎたのだ。

いくら、「政治活動」に熱心でも、いくら「肩書」が立派であっても、あくまで「ひとりの人間」として評価してみて、あまりに異常な人物とは、不用意な「交遊」は忌避すべきであろう。

往々にして、「理念」や「正義」の「燈火」の下には、「病んでいる」人々が蝟集して来る。

だから、「狂犬に噛まれる」リスクは、絶えず意識しておかなくてはいけないと思う。

 

ちなみに自分は、偉い先生方と「交遊」したいとは思わない。

何故なら、自分には、そんな大それた「資格」が無いからである。

もし、自分が偉い先生方に接することが有るとすれば、それは「下働き」の「使い走り」として、使役されることを申し出る時でしかない。

まあ、そもそも、下賤な自分が、そんな偉い先生方と接点が生じることも無いだろうし、また、仮に、そのような「僥倖」を得たとしても、自分は軽軽に口外するつもりは無い。

だから、自分は、そんな偉い先生方と「接することは無い。」(と書いておく。)

「投網で魚を獲ろうと思うな」

 

こんな自分でも、人前でお話しさせていただくことが、無い訳では無い。

で、何人かの前で、お話しをさせていただく上で、自分が肝に銘じていることが、「投網で魚を獲ろうと思うな」ということである。

人前でお話しをさせていただくにあたって、5人なら5人、10人なら10人を目の前にしてお話しをさせていただく。

で、自分は「専門家」ではないので、自分が話し始めていくうちに、つまらなさそうにしている人がちらほらと出て来る。

まあ、当然の帰結と云える訳であるが、「話し手」としては、どうしても心をかき乱されるものである。

人によっては不快に感じるかもしれないが、自分としては「申し訳ない!どうしよう。」と狼狽し、焦燥してしまうのである。

そこで、何とか「受け」を取ろうと、「受け狙い」に走ってしまうのである。

ただ、慌てて「方向転換」を強行すると、それはガタガタに揺れ動く結果に成ってしまう。

話している事柄が、何が何だか訳が解らなくなってしまうのである。

自分は、これで、悩んだ。

まあ、所詮、素人だから致し方ないのだが、どうしたら良いのか、どう工夫したら良いのか、困り果てた。

そこで、或ることに気が付いたのである。

5人なら5人、実は、1人が「5人」集まって5人なのである。

10人なら10人、実は、1人が「10人」集まって10人なのである。

つまり、「5人」は「ひとかたまり」ではないのだ。

同様に、「10人」も「ひとかたまり」ではないのだ。

だから、5人の内、自分の話しなど聞く耳持たない御仁が居たところで、それは、当り前なことなのである。

むしろ、残りの4人の内、自分の話しに耳を傾けてくれる人のために、全力でお話しさせていただければ充分なのである。

だから、5人のうち、たった1人でも、熱心に自分の話しを聞いてくれる人が居られたならば、そのたった1人のために、誠心誠意、全身全霊でお話しをさせてもらえば良いのである。

「5人」だろうが、「10人」だろうが、「50人」だろうが、本当は1人1人バラバラの個人が寄り集まっているのに過ぎないのである。

だから、「5人」を目の前にして、「5人」全員を「引っ括ろう」と狙ってはいけないのである。

それこそ、「5人」のうち、1人1人をそれぞれ「釣り上げる」ぐらいの気持ちでなくては駄目なのだと思う。

 

これは、極めて逆説的だとも云えるのだが、「極私的であることが普遍的に通じる」のであると思う。

自分が拙文を綴る時、徹頭徹尾、念頭に置いているのは、実は「自分自身」でしかない。

「自分自身」が読み返してみて、「納得」が出来るかどうか。

その一点だけにこだわって書き綴っている。

だから、極端な話し、他人がどう受け止めるかどうかは、あまり考えていない。

ただ、こういう、云わば「独り善がり」の書き方に徹しているにもかかわらず、意外と良い反応が有ったりする。

それは、とことんまで「自分自身」に向かって掘り下げて書いているので、「自分自身」と多少似た傾向の「他人」には、「共感」してもらえるのだ。

一方、「広く大衆に向けて」とか、「万人に対して」などと、なまじ「高邁な」精神で書こうとすると、かえって上手く行かないものである。

何故ならば、「大衆」とか「万人」という、「不特定多数」を対象とすると、訴求する焦点が絞り込めずにピンボケの代物に成ってしまうのである。

だから、事前に、訴求すべき「対象者」が特定出来ていない場合は、むしろ、独善に徹し切った方が、かえって、他人の共感を得やすいのである。

自分は、拙ブログに於いて、10年以上、ただひたすら「独善」で書き進めて来た。

だからこそ、ずっと「無名」なままなのだろうが、その一方で、過分なお褒めを頂戴する栄誉を得ることも有った。

自分の拙文はあくまで独善で極私的だと思う。

だが、それに徹し切った結果、自分に似た趣向の方々からは、評価をいただくことが出来た。

自分は、それで充分だし、また、それ以外の「やりかた」が解らない。

そして、多分、その他の「やりかた」を教えてもらったとしても、自分には到底実行出来ないであろう。

 

自分は、人前でお話しをさせていただく時、自分の話しに興味を持って下さる「たった1人」のために、精一杯、お話しをさせてもらう意識である。

何故なら、「魚を投網で獲る」能力を自分は持っていないからである。

自分に能力が無い以上、その「能力」を保持することを前提とした「行為」を行うことは「無理」であり「不可能」である。

だから、自分は自分自身に対して、「投網で魚を獲ろうと思うな」と肝に銘じているのである。

と云う訳で、自分にとって「聴衆」の多寡は、全く問題に成らない。

100人だろうと数人だろうと、自分はあくまで、その中の「たった1人」の為に、精一杯、お話をさせていただく意識だからである。

 

なお、聴衆の全員の心を惹きこみ、聴き入らせることが出来るような「雄弁家」に対しては、この限りではない、と思う。

只今、話題沸騰中の「時の人」である籠池ヤスノリ理事長。

彼に5年ほど前、自分は、大阪護国神社で会ったことが有る。

で、その時の感触を基に、これから辛辣なことを云わせてもらう。

実は、この籠池のおっさんと、その他、いわゆる「保守派」の方々の「違い」を指摘することが出来ない。

いや、明確には、「異なる」のではあるのだが、パッと見の印象では、ほとんど見分けがつかないのである。

これが、非常に厄介至極なのである。

別に、これは「いわゆる保守派」だけに限定されない。

自分のような、「保守ではない」と指弾される人間も含めて、区別が困難なのである。

現に、左翼の連中は、意図的に「糞味噌一緒くた」にして、いわゆる「保守派」全体のイメージダウンを狙っている。

例えば、先日の日本テレビ系「バンキシャ」に於いて、教育評論家の尾木ママは、明確に「教育勅語は駄目だ。」と云い切った。

極めて巧妙な手口である。

あんな籠池のおっさんの映像の後に、したり顔でコメントされたら、大抵の人間は、「教育勅語なんて古臭い奴を持ち出すなんて愚かしい。」と思い込んでしまう。

ここが問題なのである。

さて、籠池のおっさんと、いわゆる「保守派」の違いとしては、やはり「恥じらい」の「有る無し」ではないだろうか?

なんと、籠池のおっさんは、畏れ多くも、天皇皇后両陛下の行幸啓に絡めての記事をネット上にアップした。

宮内庁は、「そんな事実は無い。」とカンカンだが、その真偽はともかくとして、ご皇室に自分が関わった際の事柄についてあまりにも安直にネット上にアップしてしまうという、その「神経」が問題である。

少なくとも、いわゆる「保守派」ということを自任する者であるならば、そんな畏れ多いことを軽軽に触れ回るようなことは隠忍自重するのが当然であろう。

何故なら、ご皇室の方々、天皇皇后両陛下やご皇族の方々は、「有名人」ではないからである。

映画俳優やアイドル歌手と同様の「扱い」で、妥当な訳がなかろう。

もっと云えば、「これから二郎ラーメンの全マシマシ、食べまーす!」や「特大イチゴパフェ、ウマー!!!」と同じ感覚でしかない、ということである。

だから、結果として、籠池のおっさんは「尊皇忠君」では有り得なかったのである。

ただの「ミーハー」に過ぎなかったのだ。

もし、仮に、自分がこのような畏れ多いことに成ったとしたならば、ネット上はおろか、周囲にそのような「事実」が有ったことさえ云うことを憚るであろう。

余程、親しい御仁以外は、絶対に口外しない、と思う。

まあ、「無位無官」の自分に、そんな「誉(ほまれ)」が有るかどうかは解らないが。

 

或る御仁がこう云われた。

「撒いた種には土を被(かぶ)せよ。」と。

人間と云う者は、ついつい、「自分があれをやった、これもやった。」と吹聴したくなるものである。

それは、さながら、種を撒いたということを多くの人々に知って欲しいと願うあまり、人目に付くように土の上に種を置いたままにしているようなことである。

だが、種というものは、乾燥し、干からびてしまえば、芽を出すことは出来なくなってしまう。

つまり、折角、種を撒いても、「種を撒いた」ということを他人に知らしめたいばかりに、肝腎の「芽吹く」ことを台無しにさせてしまうのである。

だからこそ、「撒いた種には土を被せよ。」ということなのである。

勿論、土を被せてしまえば、いくらどんなに種を撒いたところで、誰も察知することは出来ない。

但し、時が経てば、いずれ芽が出て、葉が茂り、花実と成る訳で、成果は出て来るのである。

そして、最終的には、「種を撒いた」事実は、周知されることと成るのだ。

今、「種を撒」かなくてはいけない。

そして、多くの方々が、種を撒き続けている。

ところが、折角、種を撒いたにもかかわらず、土を被せずに悦に入っている人が多過ぎるのだ。

そもそも、何故、種を撒くのか?

それは、花実を得ることに有るのではないのか?

ならば、種を撒いたことを誇示するのではなく、あくまで、確実に花実を成さしめ、収穫出来るように努力することが肝心なのではないのか?

だからこそ、「撒いた種には土を被せよ。」、なのである。

先日、某所でマイクを握ってお話しをさせていただいた。

下書きも準備も丸で無し、という、誠に不謹慎なwww「ぶっつけ本番」だった。

文字通り、無我夢中で、どうにかこうにか、時間いっぱいまでを務めさせてもらった。

どれくらいの「出来」だったのか、正直云って、自分は判断が付かない。

ただ、喜んでくださった人もおられたようなので、ホッとしている。

実は、以前、選挙のボランティアをさせていただいた時、いわゆる「つなぎ弁士」をしたことが有った。

例えば、候補者が街頭で演説している途中で、通行人が握手を求めて来たりする。

その際に、短時間、マイクをお預かりしてその場をつなぐのである。

そういう「つなぎ弁士」だから、突然、いきなり「出番」に成る。

しかも、何分しゃべるのか、時間が決まっていない。

ものの2、3分かもしれないし、10分くらい持たさないといけないかもしれない。

或る時、交差点で街宣し始めたら、候補者が突然呼び出されて街宣車から離れなくてはいけなくなった。

で、「つなぎ弁士」を始めたのだが、5分経っても10分経っても、候補者がお戻りにならない。

後でうかがってみたところ、いろいろと協議したり、幾人かと挨拶を交わす流れに成ってしまい、事前の見込み以上に時間がかかってしまったらしい。

急にマイクを渡され、何とか「つないだ」のであるが、一通りネタを話尽くしてしまったので、困ってしまった。

ただ、それから、また別の話題で「つないだ」訳であるが、どうやら全部で20分近くやっていたようである。

あの時も、本当に無我夢中だった。

一番驚いたのは、駅前で、候補者が応援弁士の政治家の先生と打ち合わせをされ始めたので、「3、4分持たせれば良いかな?」と思ってマイクを握って話し始めたら、突然、前から見知らぬ人が近付いて来て握手して去って行った。

実は、自分は、その時の選挙ボランティアの時に、はじめて選挙の街頭演説をやったのである。

その割には、粗相に成らなかったのは、ひとえに、長年に渡って延々と拙文を書き綴っていたからであろう。

やはり、文章を書き続けていくという「作業」を継続していかなくては、他人への訴求力は身に付かないと思う。

あとは、自分が「話芸」が好きだから、と云うことも有る。

子供の頃から、落語や漫才など、「話芸」というものを心身に沁み込ませるように堪能してきたことが、生きて来ているのかもしれない。

勿論、それが、講演や演説という「スタイル」に必ずしも妥当な代物ではないのかもしれないが。

自分は学者でも評論家でもないので、格調高い弁舌は無理だと思っている。

自分が出来るのは、愛嬌の有る軽口みたいな代物。

でも、それで良いと思っているし、それしか出来ないと思っている。

無理をしてはいけない。

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