疲労が溜まってくると、大概、気鬱の兆候と成る。

何て、自分は駄目なんだろうか、と。

愚昧で、非力で、下手くそで、惰弱で。

自分自身へ、呵責の無い、悪罵を投げつける。

すると、いつもお世話になっている御仁から、一言が入るのだ。

「あのなあ、お前のことを一番軽蔑して、その真価を見くびっているのは誰か、解るか?」

「・・・・・」

「お前自身なんだよ!他者に対しては、賞賛も批判も、ズバリ正鵠を射ているくせに、事自分自身に成ると、全く駄目じゃないか。」

「・・・・・」

「さらに、まずいことに、そういう『駄目な自分』像に狎れているんだ。溺れているんだ。

もし、駄目だと痛感するなら、瞬時にその対策を考え、着手すべきじゃないか!」

「・・・・・」

「お前が駄目だ、とするならば、そこだけだな。後は、お前は全然駄目じゃないし、間違っていない。

確かに、現時点では、『日の目を見ていない』のだが、それに対して、お前は一つ一つ着実に布石を打っているのだ。

その努力と布石は、いつか必ず花開き、実を結ぶ。

だから、焦らず、腐らずに、無理をせずに、じっくりと努めていけば良いのだ。

なあ、もう、自分自身を貶めて、精進することから逃げる『言い訳』にしてくれるな。」

涙がジワリと湧いて来た。

明日から、頑張ろうと、本当に思う。

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「水無月大祓(みなづきおおばらえ)式」

早いもので、今年もあと数日で半分を終えようとしています。

マラソンで云えば、一年の「折り返し点」に成ります。

古来より、一年の上半期の最終日、6月30日と一年の最終日である大晦日12月31日に、それぞれ「大祓(おおばらえ)式」を行いました。

6月の古い呼び名を「水無月(みなづき)」と云ったので、6月30日に斎行されるのを「水無月大祓式」と云い、大晦日に斎行されるのを「師走大祓式」と呼びました。

また、「水無月大祓式」は、梅雨の季節から、酷暑の夏本番を無事に健康に過ごせるように、「夏越しの大祓式」とも呼ばれました。

古来、日本の於いては、「罪穢れ(つみ・けがれ)」が、人間にとって「災い」の原因と考えられました。

「罪穢れ」とは、人体に於ける垢(あか)や家屋などの埃(ほこり)や塵(ちり)のようなもので、知らず知らずに溜まってしまうマイナス要因です。

この「罪穢れ」を、自分の分身である、紙製の人形(ひとかた)・形代(かたしろ)へ移し替えて、「最初」の状態に「リセット」することで、「過去」を「清算」し、「再出発」を行うことが「大祓式」なのです。

生身の人間の代わりに、人形を用いる「魔術」は、古くは「厭魅(えんみ)」と呼ばれ、養老律令「賊盗律」で禁じられたように、古代の人々に流布しました。

これは、後代の江戸時代に於いて「丑の刻参り」の「呪いのわら人形」と云う形に受け継がれていきます。

なお、3月の桃の節句のひな人形も、元来は、「流しひな」と云い、この「大祓式」の形代のように、自分に降りかかる災厄を身代りに成って引き受けてもらうためのアイテムでした。

大祓式には、「茅(ち)の輪」をと云う、草の葉で作られた大きな輪をくぐります。

茅には薬効成分が有り、薬効成分の有る植物、例えば桃や豆などは魔を払う、聖なる霊力を有すると考えられてきました。

ですので、「茅の輪」でもって、茅の持つ「聖なる力」でもって、浄化されるのです。

また、茅の輪をくぐる際には、言霊(ことだま)の霊力も駆使します。

水無月大祓式には、

「水無月の 夏越しの祓(はらえ)する人は 千歳(ちとせ)の命 延(のぶ)というなり」

と云う、和歌でもって言祝ぎ(ことほぎ)ました。

さらに、「大祓詞」と云う「祝詞(のりと)」を天神地祇へ奏上し、祓え浄めていきます。

「大祓詞」は、「祓詞」よりも長文で、ざっくりと説明すると、前半は何故「祓え給い浄め給う」ことが必要なのかを説明し、後半部は、祓った「罪穢れ」がどのようなプロセスで「処理」されるかが説明されています。

ちなみに、茅の輪をくぐる際に、「蘇民将来(そみんしょうらい)」と唱えてくぐる場合もあります。

これは、武塔神と蘇民将来を巡る「神話」から来ています。

武塔神は、異国の「異神」であり「疫病神」「流行り病の神」で、金神・牛頭天王(祇園社)の別名で、スサノヲ尊のことであるとされています。

巡行し、漂泊する「荒神」であり、「旅をする荒ぶる神」ということでスサノヲ神と「習合」しました。

その、武塔神を、貧しいながらも自宅に招き入れて歓待した蘇民将来に対して、「蘇民将来の子孫であるという目印を掲げれば、その家には疫病を入れない。」と約束するのです。

それから「蘇民将来子孫也」という「護符」が生まれます。

真夏の疫病を逃れる「呪術」として、蘇民将来の「神話」も「習合」していったものと思われます。

さて、この「水無月大祓式」は、最寄の神社でも、有名神社でも行っています。

ですので、神社を参拝してみると、申し込むことが出来ます。

また、何処の神社へ行ったら良いか解らない場合は、各県の神社庁へ問い合わせをしてみて下さい。

ちなみに、自分は、毎年、懇意にしている「奈良県護国神社」にお願いしています。

遠隔地に住んでいるので、郵送で人形・形代をいただきます。

形代に、自分の息を三回吹きかけて、自分の身体を撫でます。

そして、自分の中に溜まってしまった「罪穢れ」を形代に背負ってもらいます。

形代には、自分の名前と年齢を記入します。

「奈良県護国神社」では、自動車の形代も有り、交通安全と無事故祈願も行えます。

自動車の場合は、運転者の氏名とプレートナンバーを記入します。

玉串料は郵便振り込みで、人形・形代もしくは車形は返信用封筒で郵送します。

「奈良県護国神社」のお近くならば、6月30日午後4時より、拝殿前の斎場に於いて、神事を執り行います。

大きな「茅の輪」も設営されていますし、ご参列の方には特製「潔斎の湯」が特別に授与されます。

さらに、大祓人形祈願を申し込まれた人(自分は郵送と振り込みで申し込みました。)は、翌日7月朔日(さくじつ)1日に、御本殿に於いて「家内安全」「無病息災」「交通安全」の御祈祷を斎行します。

そして、後日、御祈祷済みのお札が郵送されます。

お申込みは、電話0742−61−2468、奈良県奈良市古市町1984まで。

昨日、早々に第24回参院選の期日前投票をした。

選挙区は自民党公認候補で、比例区は日本のこころを大切にする党(略称・日本)公認候補の個人名をそれぞれ記名し投票した。

選挙区では、確実に安倍政権を支持する為に自民党公認候補へ。

比例区は、日本のこころを大切にする党(略称・日本)の公認候補へ。

比例区に於いては、最悪の場合、日本のこころを大切にする党は、当選者を出せないかもしれない。

しかし、「得票率2%」を超えれば、「政党要件」を達成出来る。

だから、例え「死に票」に成ろうとも、日本のこころを大切にする党へ比例区には絶対に投票すべきである。

今、日本のこころを大切にする党を「消滅」させてはいけない。

何故なら、日本のこころを大切にする党は、政策や「志(こころざし)」でもって結集した「政党」だからである。

打算や保身で離合集散している政党ではないのだ。

だからこそ、絶対に存続させなくてはいけないのだ。

自分の絶不調の原因が判明した。

「熱中症」である。

雨が続いていたので、まさか、と思っていたが、6月中にして早くも「夏バテ」である。

情けない限りである。

だが、屋外で作業をしている者には、避け難いことで、丁度、巷では参院選まっさかりである。

選挙の関係者各位には、是非とも、ご自愛の程。

 

さて、今朝(平成28年6月24日)の新聞各紙は、早くも参院選の序盤情勢の記事が載った。

押し並べて、「与党(自民・公明)で過半数確実」であった。

毎日新聞など、左派系は「改憲勢力で三分の二確保か?」とも。

だが、そもそも「改憲勢力」と云う語句の内容自体が問題である。

自民党と日本のこころを大切にする党、そして、おおさか維新の議席数を計上するのは、まだ首肯出来るが、公明党を「連立政権与党」だからと自動的に含めてしまうのは、はたしてどうなのか?

あの、昨夏の内容の乏しい「安保法案」を巡る状況に於いても、公明党は抵抗をしたのである。

マスコミや世間の耳目は、いわゆる「安保法案」の国会審議の最中の国会周辺デモと云った、「目に見える」「解りやすい」構図に集まりやすい。

だが、本当の意味での「安保法案」の議論の「肝」は、実は、国会審議に到る以前の与党間協議にこそ存在していたのである。

短絡的に、「改憲」と云うが、9条を変えるのか、改憲への手続きに関する条文を変えるのか、それとも全然現在では巷で話題に成っていない事柄、例えば「家族」や「民法」に関する条文を変えるのか、様々な状況が想定される。

だから、改憲論議に上程される「条文」如何によって、公明党は「改憲勢力」にも「護憲勢力」にも転じる可能性を秘めている。

さらに、もっと指摘させてもらえば、肝腎要の自民党自体が、全議員が「改憲」に賛成とは限らないのである。

つまり、自・公プラス他の政党でもって「改憲勢力三分の二」と云うのは現時点では、全く根拠薄弱な、ナンセンス(無意味)な「数値」でしか有り得ない。

要は、安倍政権与党の参院議員議席数を増やさないように、新聞が「ミスリード」するために、「改憲勢力三分の二」などと書きたてているに過ぎないのだ。

姑息にして卑劣である。

それはさておき、新聞各紙の選挙情勢調査の結果が出ると、ここ数年は、ほとんどその大勢は、その情勢調査の傾向が選挙結果と成って実現している。

以前は「アナウンス効果」と云われて、「自民党有利」と報じられると、世に云う「判官贔屓(ひいき)」で、自民党以外の政党に投票される、報道とは逆の作用が働くことが有った。

しかし、ここ数年は、「自民党有利」と報じられると、「それなら自民党へ入れよう」と云う、「バンドワゴン効果」と云う「勝ち馬に乗る」傾向に成っている。

政党比例区に於いては、自民党と共産党に支持が集まっている。

また、地方区に於いては、一人区に於いて、野党統一無所属候補が健闘している県がいくつも有る。

これは、安倍政権の是非という面よりも、野党統一候補が有利な県は、もともと自民党が駄目過ぎるのである。

前回は、自民党の駄目さ加減を、野党候補の乱立でもって逃げ切っていただけであって、自民党の地方組織の劣化そのものが主因である。

 

そんな中で、平成28年6月23日に、英国の国民投票に於いて、「EU離脱」票が過半数を超えて、英国のEU脱退が決定した。

マスコミでは「僅差だ」と報じているが、100万票以上の差は「僅差」とは云えまい。

これは、ここ数年、世界中の水面下で変化が起きていた「グローバリズムへの反感」が、明確なかたちとして顕現したことを意味するだろう。

世界社会への理想論と大資本の論理でもって、世界中を席巻し続けて来た「グローバリズム」が拒絶されたのである。

今回の英国国民投票の結果を、英国民の暗愚さや地域的特殊事例であると断じて「矮小化」しては絶対にいけない。

また、フランスの国民戦線などを取り上げて、「極右」だとか「国粋主義者」だとか、はたまた「レイシスト」認定して批判する傾向が有るが、それは、全くの「ミスリード」である。

さて、「グローバリズム」経済への痛撃であったせいで、只今、株式市場も為替相場も大荒れである。

だが、これは、あながち悪影響だけにはなるまい。

北朝鮮のミサイル実験の成功のニュースと共に、只今現在、日本は「国難」の渦中に在るという、図式が明確に成ったからである。

そこで、意外にも大きな影響力を持ってくるのが、過去3年間の「民主党政権」であろう。

ここに来て、いわゆる「アベノミクス」そのものが、吹っ飛びかねない惨状さえ想定される事態と成ったが、これが安倍政権へのマイナス要因に成らない。

もし、民進党が、一度も政権を担当していなかったのならば、「どうか政権を担当させて下さい!」と云う主張に、根拠は薄弱ながらも、国民の多くは投票する可能性が有った。

だが、3年間の「民主党政権」は全くのスカであり、何も評価すべき点が無かった。

しかも、民進党の首脳陣は、その民主党政権の時の顔ぶれとほとんど変わり映えがしていない。

だから、自民党への批判票は、民進党の頭を飛び越えて、ほとんどが共産党へ集中してしまっているのである。

そして、「国難襲来」と云う事態と成ったため、現在、地方区で自民党と互角の戦いをしている野党統一無所属候補にとっては、逆風となるであろう。

「まずは、政権を安定させなければ、この世界的な経済危機は絶対に対処出来ませんよ!」

「野党統一候補と云っていますが、当選したら、いったい何処の『会派』に所属するのですか?

民進党ですか?共産党ですか?

それさえ、決めていないような、無責任な候補を、これから6年間も国会議員にさせてしまって本当に良いんですか?」と。

 

今回の参院選は、各党の「駄目比べ」の様相であったが、ここに来て、風向きが一変した。

結局、「どの政党が頼りがいが有るのか?信頼出来るのか?」と云うことが、「争点」に急浮上したのである。

そうなれば、おのずから、結論は決まってこよう。

 

但し、安倍政権を下支えし、より強く後押しするには、安倍政権の政権与党である自民党だけを増やしても、実は、意味が無い。

何故なら、自民党の中には、「アンチ安倍」の議員だって、ごまんと在籍しているのだから。

かといって、公明党に投票するのは「論外」。

そうなると、本当の意味で、安倍政権を「支援」してくれる、そして、時と場合によっては厳しく「諌める(いさめる)」野党の存在こそが絶対必要不可欠であると云えよう。

この「健全野党」は、自分は、やはり「日本のこころを大切にする党(略称・日本)」だと思う。

おおさか維新も、安倍政権と気脈を通じてはいるが、こと、政策に関しての立ち居振る舞いは、おおさか維新に対しては、どうしても「危うさ」と「あざとさ」を感じてしまうのだ。

やはり、ここは「日本のこころを大切にする党(略称・日本)」への投票を、強く訴えたいと思う。

日本のこころを大切にする党は、単なる安倍政権への「追従」をしてはいない。

経済弱者、貧困層への取り組みと、若者世代への取り組みのひたむきさは、日本共産党と同じレベルである。

「現実的な国家運営」と云う政治姿勢を保持している上で、弱者への政治的救済を強く主張する「日本のこころを大切にする党(略称・日本)」は、自民党に飽き足らない国民にとって、最適な政党であると自分は思う。

 

水無月の大祓も近付いて来た。

皆々様に於かれては、どうか、くれぐれもご自愛の程を、宜しくお願い申し上げる。

昨日、土砂降りの中で仕事をしていたせいか、今日は、体調が絶不調である。

当然、筋トレどころではない。

さて、人間は、自分が生き物であると痛感する時というのは、決まって、病気や怪我などの時である。

つまり、体調が変調をきたした時、ようやく「健康」の有り難さを痛感するのである。

ごくごく当たり前の「日常」が、どれだけたくさんの「下支え」によって、構築されているのか、身に沁みて思い知るのである。

自分は、アレルギー体質なので、喘息から鼻炎から皮膚炎から全部「お付き合い」をしている。

自分にとっては、「体調が良くない」と云うのが、「前提」に成っている。

だからこそ、いろいろと気を付けるのである。

古代ギリシャの頃より、「健全なる肉体に健全なる精神は宿る」と云われているが、あながち間違ってはいない。

やはり、健康的な肉体でないと、明朗快活な精神状態には成れないからである。

だから、体調がおかしくなってくると、精神状態も思わしくなくなってくる。

要は、「ネガティブ」に成ってくるのだ。

だから、体調が悪く成ったら、すぐに休養を意識的に取って、「調整」をしないといけない。

どうもホワイトカラーは、人間は頭脳だけで業務を遂行出来ると勘違いをしている。

人間が、生身の肉体であるということが、あまりに軽視され過ぎている。

勿論、肉体の体調と業務の工程が齟齬を来すことは、往々にして発生する。

そこで、精神力でもって、何とか「追い込んで」やり遂げてしまう場合も有る。

だが、それは、所詮「無理やり」なのである。

「無理」と云うのは、何故「無理」なのかと云うと、恒常的には不可能だからである。

1回こっきり、もしくは2回ぐらいまでは、何とか「無理」の踏ん張りが出来る。

ところが、1回「無理」が達成出来ると、それが当然の基準にされてしまうのである。

あとは、心身の消耗が過度に成ったり、業務の精度を劣化させて間に合わせたり、と云ったかたちで「歪み」が生じて、構造的な問題形成に深化していってしまうのだ。

その点、本当に賢明な人は、1回「無理」が達成した場合でも、次回からは決して「無理」をしないように、用意周到に設定するのである。

「あの時は、たまたま上手く行っただけであって、それを当然の基準にしてはいけない。」と。

これは、成功体験に眩惑されずに、ことの本質を見抜ける人でないと理解出来ない。

ちなみに、これが出来た代表的な人物は、かの織田信長である。

彼は、寡兵でもって、田楽狭間・桶狭間の戦いで、敵陣に奇襲攻撃を仕掛けて、見事、敵将・今川義元の御首級を取った。

だが、織田信長は、敵よりも少ない兵力で攻撃を仕掛ける戦いを、これ以後、一切行わなかった。

敵軍に攻撃を仕掛ける際には、必ず、敵軍勢よりも兵数を多く確保してから行ったのである。

凡人は、たまたま上手く行った「僥倖」を、希少なものであると理解出来ないのである。

「あの時上手く行ったから、大丈夫。」と慢心してしまうのだ。

そして、最終的に、「破綻」するのである。

そう云えば、織田信長も、「戦争準備」に関しては、「慢心」しなかったが、こと「家臣への人心掌握」と云う点では、「慢心」してしまった。

「破綻」という「陥穽」のあまりの大きさに、慄然とする。

よくよく用心することが肝要なようである。

いよいよ、本日から第24回参議院選挙が告示される。

7月10日までの18日間の選挙戦が始まる。

しかしながら、はっきり云って、全く以て「盛り上がりに欠ける」。

かと云って選挙が白けている理由が、明確な訳でもない。

むしろ、その逆で、「投票権が18歳に引き下げ」られたし、共産党が独自候補を取り下げたことから、選挙区の一人区に於いては野党統一候補が揃い踏みした。

一方で、いわゆる「改憲勢力」による、衆参両院での「3分の2」の議席を確保出来るかどうか、と云う、大きな「正念場」でもある。

にもかかわらず、世間一般大衆は、ほとんど関心を示していない。

勿論、選挙に行くことを「拒絶」している訳でもない。

しかしながら、何が何でも、自分の一票に投票で「選挙」を、ひいては「政治」を決定付けようと云う、意欲がわき上がって来ないのである。

だから、何となく、惰性でもって、「まあ、取り敢えず、選挙へ行くか・・・」と云う意識なので、現状に対して「政治的」に明確な「立ち位置」を有する人は、共産党なり公明党なりに投票し、そうでない人は、何となく自民党へ投票する。

そんな、感じだと思う。

だから、比例区では自民党が手堅く当選させていくだろう。

選挙区に於いては、今回の選挙での「風向き」と云うよりも、各県の自民党の構造的な問題が当落を決定するだろう。

つまり、県内の自民党が、不協和音を発するような駄目な県は、野党統一候補に競り負けてしまう、と。

ただ、それは、安倍政権やアベノミクス云々の是非と云うよりも、単純に、自民党という政党の劣化に関しての地域差が主要因である。

そう云う意味では、選挙を巡る「ムーブメント」も「風」も存在していないので、組織力と、今迄の政党に対しての「評価」そのものが、選挙の当落を決定付けるのだと思う。

 

さて、よく、愛国・保守の候補者が選挙で苦杯を舐めた際に、「組織が支援してくれなかったから。」と云う文句が漏れて来る。

確かに、民進党には労働組合のナショナルセンターである「連合」が、公明党には創価学会が、そして共産党には、自前の傘下組織がたくさん支援している。

また、自民党には、土建業界などの各業界の支援が有り、更に、宗教団体や安倍総理「マンセー」の「ネトウヨ」まで支援している。

ところが、いわゆる愛国・保守の候補者には、「組織」が支援してくれない、と。

だから、結局、インターネットでもって、「憂国」の「草莽」諸氏に依存せざるを得ないのである。

しかし、いわゆるインターネットでの呼びかけでもって参集したボランティア諸氏は、ひたむきで高潔で無私の好人物ばかりであるものの、皆、「個人」としての参加である。

つまり、例えば、5人のボランティアが駆け付けて来たならば、一人びとり5種類の、各自に対応して、指揮したり管理したりしないといけないのだ。

例えば、ポスターを貼る、選挙用のハガキを書く、政党ビラを配布する。

これを、単発的に、依頼することは、至極簡単である。

「ポスター貼ります!」「ポスティングさせて下さい!」

こういう申し出の有った人に、ポスターやビラを渡せば良いのだ。

だが、それだけであるならば、特定の狭い地域にしかポスターが貼られていなかったり、ビラも同じ地域を重複して配布してしまったり、そう云う、非効率的な動き方に成ってしまいがちなのである。

つまり、「人手が足らないから、ボランティアを募る」ためには、ボランティアを指揮・管理出来る有能なスタッフが、その押し寄せて来るボランティアの人数に見合った数だけ在籍していなければいけないのである。

しかし、「ボランティア急募!」と切羽詰っている陣営には、そのボランティアを有機的に活用出来るだけのスタッフそのものが枯渇しているのである。

そうなると、結局、「組織」が下支えしてくれない限り、「選挙」らしい「選挙」というものは、実行不可能に成ってしまうのである。

ならば、「組織」はどうやったら、「確保」出来るのだろうか?

一つは、自前の組織、つまり、党員や後援会会員を大量に確保し、組織化することである。

もう一つは、既存の他の組織の支援を得ることである。

どちらも一朝一夕には完成出来得ないものである。

ただ、自前の組織の構築に物凄い、時間と労力を必要とすることは理解出来ても、既存の他の組織の支援に関しては、どうも安直に考えている向きが濃厚である。

「自分達の訴えている政策に賛同してくれるならば、その組織は、全力で支援してくれる筈だ。」と。

これは、とんでもない勘違いである。

どのような組織であれ、組織全体の支援を得るためには、「推薦状」やら「組織を挙げて支援する」と云う言質を取ったところで、それはあまりにも不十分なのである。

或る組織の支援を本当に得ようと狙うのであるならば、その組織に対して、常日頃から誠心誠意のお付き合いをしていなくては駄目なのである。

選挙直前に成って、いくら揉み手しいしいで愛想笑いを浮かべたところで、その組織の末端の構成員に到るまで選挙活動に協力してくれる筈が無いのである。

また、「組織」の方だって、所詮は「票目当てに接近して来た」と云うのは、折込済みである。

但し、その「組織」の方へ、「先生が、そこまでお付き合いして下さるのだったら、我々もひと肌脱がしてもらいましょう。」と思わせないといけないのである。

だから、「何で、あそこは選挙に支援してくれないのだ!薄情な奴らだ!」と逆恨みするようでは、そもそも選挙に出ること自体、無理筋なのだと思う。

 

自分は、只今、夏のシーズンを迎えて、仕事が繁忙期に入った。

心身共に、過酷である。

実は、自分自身が、選挙どころではない感じなのである。

そんな中、せめてもの気晴らしが、ジムでの筋トレである。

で、ジムに行くと、そこに集う人の頭の中は、ボディビルやフィジーク、ベストボディの大会に関しての事柄でいっぱいなのだ。

だから、ただでさえ盛り上がりに欠ける参院選に対しての関心は、高くない。

こういう書き方をすると、愛国・保守のうるさいオヤジどもは、「この『脳みそ筋肉馬鹿』どもめ!」と侮蔑の態度を取る。

だが、一方の筋トレトレーニーからすれば、「訳の解らんことを興奮して怒鳴り散らしている、むかつくオヤジどもが!」と成るのだ。

だから、一部の筋トレトレーニーは、関心を払ってくれても、大多数の方々は意識もしてくれないだろう。

ここに、現在の愛国・保守の運動の決定的な欠陥が有る。

自分たちの主張を「賞賛」し、「支援」してくれなければ、蔑みの対象にしかしない。

まさしく、「選民思想」であり、右の「前衛理論」である。

だが、そんな高慢な態度ならば、「大衆と共に」の創価学会・公明党にも、「多数派の形成」のために無党派・ノンポリをオルグ(組織化)することに傾注する「左翼」各党派にも、全く勝てない。

そして、地縁・血縁・取引先という「しがらみ」でからめ取って行く自民党にも勝てない。

 

今日からの参院選は、全く盛り上がりに欠ける感が有るが、しかし、国民は政治に対して、全く不感症に成っている訳ではないのだ。

現に、「メンタルが強過ぎる」舛添要一を東京都知事の座から引きずり降ろしたのは、国民の激怒である。

だから、国民の政治に対する関心は、ちょっとしたきっかけでもって、瞬時に燃え上がるのである。

つまり、火の気は無いものの、既に可燃ガスが充満している状態なのである。

ちょっとした火花でもって、一瞬にして大炎上する危険性をはらんでいるのだ。

だから、国民が何を望み、何に対して不満や不安を抱いているのか。

そこのところを注意深く察知していかなくては、選挙には絶対に勝てないだろう。

「正論」ばかりを金切声で絶叫したところで、誰も聞く耳を持ってはくれないのだ。

 

最後に。

選挙告示直前に、青山繫晴氏が、突如、自民党から出馬することに成った。

これは、結構、重大事だと思う。

特に、いわゆる愛国・保守の層への訴求力は大きいと思う。

また、関西ローカルのニュース番組などで、近畿圏での認知度が高いことも、極めて重要だと思う。

愛国・保守で、近畿圏で、しかも比例代表の候補、ということに成ると、日本のこころを大切にする党の西村真悟先生と支持層が重なってしまうのだ。

青山氏が立候補したことにより、西村真悟先生が得票に於いて悪影響を被らないことを、自分は心より祈念している。

今日は、一昨日の胸のトレーニングのせいで、上腕三頭筋がちょっと張っていたのですが、腕を鍛えることにしました!

自分は、もう、腕力がからきしに弱かったので、逞しい腕が、それはそれは憧憬の対象でした。

漫画「北斗の拳」や「キン肉マン」がブームに成った頃が自分の世代でした。

なお「ドラゴンボール」は自分より、年下の方々が一番影響を受けたと思います。

自分の世代は鳥山明と云えば「ドクター・スランプ」でしたからwww

で、何時しか、その太い腕の筋肉に触ってみたい欲求が生じて来たのですが、自分がキュートな女性なら許してくれるでしょうが、こちとら、もやしっ子の野郎ですので、もし、その思いを実際に行動に移したら、多分、マッチョはその極太の腕でもって完膚無きまでに自分を殴り倒してしまうでしょう。

自分は、筋肉モリモリのマッチョに憧れと同時に恐怖も感じていたのです。

しかし、26歳の時に、「ならば自分の腕を鍛え上げて筋肉モリモリにしてしまえば、触ろうが、揉みほぐそうが、誰も文句は云われない。」と云うことに気が付きました。

それから、本格的にトレーニングを始めたのです。

ですから、腕のトレーニングは、自分にとって、とても格別な思い入れが有るのです。

だいたい、一般的に、トレーニングを各部位に分割する際に、「腕だけの日」を設定する人はあまりいません。

胸と上腕三頭筋、背中と上腕二頭筋という組み立て方をするのが一般的です。

しかし、自分は、敢えて「腕だけ」のトレーニングの日を設定し、しかも三頭筋と二頭筋の種目を交互に実施する、いわゆる「スーパーセット」で、とことんまで追い込むやり方にしています。

ちなみに、忙しかったりして、トレーニングの頻度が少なく成っていた時は、気が付くと、得意種目の背中と大好きな腕しか鍛えていない週も有りましたwww

ここ最近、トレーニングが、追い込めていなかったのか、あまり筋肉痛が起こりませんでした。

ところが、今日は、只今、上腕二頭筋が焼けるような筋肉痛を感じています。

正直、「やったね!」と云う気持ちwww

既に、晴れた日は、焼けつくような暑さに成ってきました。

外に出ると、ほとんどの人が半袖です。

ということは、「腕フェチ」wwwの自分には、もう、たまらんわけでありましてwww

通り過ぎる人の中で、半袖の袖口が上腕の筋肉でピチピチに成っている様子を目にすると、もう、息を呑んでしまうのであります。

「凄いなあ。格好良いなあ。鍛えているんだなあ。」と。

そして、そのたんびに、「よし!自分も腕のトレーニングを頑張るぞ!!!」と決意する訳です。

ちなみに、他人の腕の筋肉には、目ざとく反応するのですが、鏡に写った自分の腕に関しては、全然食指が動きません。

「ああ、こんなもんね。はいはい、頑張って、もっと鍛え上げていきましょう。」と。

だから、何時まで経っても、褒めてもらえない、可哀想な扱いなのですwww

それに、自分の脳裏に有る、自分の腕の筋肉は、3キロのダンベルを必死に成って持ち上げようとしていた頃の状態のままなのです。

だから、いつもトレーニングの時には、「このヘタレ筋肉が!クソ筋肉が!」と悪罵を投げ付けています。

そのうち、我慢の限界を超えた、自分の腕の筋肉が「謀叛」を起こすかもしれませんwww

けれども、自分の腕の筋肉は、黙々と徐々にではありますが、パワーアップをしてきています。

けなげな奴だと思いますwww

まあ、こんな自分でも、日々、思い悩むことは有る訳ですwww

しかし、いろいろとくよくよしていても、諸問題が一瞬で氷解することなど不可能です。

ひとつひとつを片付けていかない限り、前進は有り得ません。

そういう意味で、筋トレは、自分にとって最適です。

バーベルやダンベルやマシンと向き合う時、ただひたすらトレーニングに没頭出来るからです。

それは、一種の「現実逃避」なのかもしれませんが、物事を正確に見定めるには、その対象物にあまりにも近付き過ぎてはいけません。

かえって、焦点がぼやけてしまうのです。

なお、「無心」に成るには、一つのことに没頭しないと駄目なのだそうです。

座禅を組んでも、なかなか「無心」の境地には成れません。

むしろ、お題目やご真言を一心不乱に唱え続ける方が、一切「邪念」が入る余地が無いそうです。

自分は、既に、いわゆる「保守派」の方々から「裏切り者」「異端児」認定されているのでwww、そういう方面とめっきりお付き合いが減りました。

ただ、こんな自分でも、お声をかけて下さる「保守派」の御仁も少しは居られます。

で、だいたい、日本の保守勢力の現状に対して、「悲憤慷慨」って感じに成る訳です。

まさに立正安国論の冒頭の一節、「接客来りて嘆いて曰く」なんであります。

幻滅した。

失望した。

期待外れだった。などなど。

もう、誰を信じて良いのか解らない、と云われます。

自分は、その慨嘆について、激しく同意致します。

しかしながら、その一方で、自棄を起こしたり、「みんなみんな馬鹿ばっかりだ!」と叫んだりする様を見ると、「まだまだ修行が足らんなあ」と苦笑しております。

何故なら、自分は「転向左翼」だから。

つまり、ロマンチストが絶望の淵に飛び込んで、そこから抜け出た時はニヒリストに成っている訳ですwww

「虚無」という段階に於いては、「経験者」なんですよ。

しかし、ニヒリストに留まらずに、今度は、いわゆる「保守派」として活動をして来ています。

だから、幻滅も失望も全部飲み込んだ上で、了解した上で、活動を続けているのです。

そういう意味では、極めてしたたかで、曲者でもあるのですよwww

自分自身を「曲者」呼ばわりしてしまうのも、何なのですが、何事も経験を積んでいると云うことは「強さ」に成ります。

只今現在の、いわゆる「保守派」の現状は、一見、荒涼たる「焼野原」のように見えます。

かつての豊穣さと、勢いの凄さを記憶している人は、その激変ぶりに落胆しています。

しかし、自分から云わせれば、かつての「豊穣」さも、「勢い」も、全部、内輪の人間の自惚れと勘違いに過ぎなかったのです。

荒涼たる「焼野原」は、今最近に始まった訳ではありません。

ずっとずっと、今に至るまで、根本のところは何も築けていなかったのです。

だから、何も絶望も落胆もする必要は無いのです。

ま、失笑くらいはしても良いでしょうがwww

何故、破綻と挫折を繰り返すのでしょうか?

それは、現状分析と的確で精緻な戦略と運動組織の構築が、全く意識の上に自覚されていないからです。

夢破れてニヒリストに成ってしまったことに対しては、自分は祝意を表します。

ようやく、現実にちゃんと向き合う好機を得られたのですから。

後は、本当の「振り出し」から、いかに「上がり」まで「双六」を構築していき、駒を進めて行くかでしょう。

大志や仁義を志向しつつも、奸智に長けたニヒリストに成るべきだと、自分は思います。

「メンタルが強過ぎる」www舛添要一が、ついに東京都知事を辞職することと成った。

ここで、都議会自民党と完全に対決することに成れば、政治生命はおろか、文化人タレントとしても生業が出来なくなると痛感したからであろう。

所詮、「身過ぎ世過ぎ」なのだ。

さて、世間の関心とは誠に移ろいやすく、既に巷の話題は「都知事選に誰が出るか?」である。

いち早く、民進党代表代行の蓮舫の名前が出て来た。

いやはや、彼女も何時の間にやら、ずいぶんと大仰な代物に成ったものである。

だって彼女は、かつては、ビートたけしと「たけし軍団」の日曜日の昼間のTV番組で、熱湯風呂で「熱い!熱い!」って番組出演者が悲鳴を上げているのを笑って見ていたのだからwww

とにかく、東京都知事選挙と云うのは、「異常」な「選挙区」で、それは、有権者数があまりに多過ぎて、さらに、浮動票・無党派層の票があまりに多過ぎる為、いくら「組織票」を積み上げても、絶対に当選ラインに届かないと云う、無茶苦茶な「選挙区」なのである。

そもそもは、1995年に、鈴木俊一都知事の後継として、内閣官房副長官(官僚側)だった石原信雄が、自公社などの鉄壁の組織票で固めて出馬したのだが、参議院議員だった青島幸男に惨敗したことが始まりであった。

また、4年後の1999年も国連事務次長だった明石康を自民・公明で擁立したが、石原慎太郎の電撃的な出馬によって、惨敗してしまった。

それ以降、東京都知事選挙に於いては、「有名人でないと、勝てない。」と云う「構図」が出来てしまったのである。

この件について、いわゆる「政治家」や「政党」に対しての批判は、もう、そこらじゅうに溢れているので、敢えて触れない。

むしろ、自分は、東京都民の有権者のあまりの政治的な愚劣さを指摘したい。

つまり、選挙に於ける、「立候補者」への関心が無さ過ぎるのである。

もっと云えば、「選挙」自体への「責任感」も欠如しているのである。

そうでなければ、名前だけ知られている「有名人」と云うだけで「投票基準」に乗せてしまう、そんな安直な投票行動には成らない筈である。

もっと、立候補者について関心を持って、よくよく吟味をしてから投票すべきなのである。

只今、共産党や民進党、そして朝日新聞などは何かと云うと「立憲主義」を持ち出して来る。

いわゆる「安倍政権」が、憲法などの法令や国民主権と云う国家の「政体」そのものを毀損していると批判している。

しかしながら、ならば、時の政権に対して、本当に国民は真摯に「対峙」しているのであろうか?

何処から何処までが許容範囲で、何処から先が指弾すべき「国家権力の暴走」であると規定するのか?

その判断基準は何なのか?

結局、「左翼」側の情緒的なヒステリーに付和雷同して、デモや集会などの「直接行動」に出る事が、「立憲主義」を「守る」活動であると云うのである。

これは、或る面、「立憲主義」への立派な「冒涜」であろうが。

確かに、安倍政権だって、おかしな、納得出来ない「部分」や「決定」が存在する。

だから、そういう批判すべき点は、明確に指摘しなくてはいけない。

しかしながら、いわゆる「アベ政治」と云う、十把一絡げのレッテル貼りの批判ならば、それは、盲信追従とベクトルの向きが真逆なだけで、その「性質」は「同一」である。

 

結局、「政治」に関する「言葉」の「魅力」が暴落し切っているのだろう。

「政治家」が主張する「言葉」が、政策であれ、信条であれ、全て「票目当て」の媚び諂いとしか、有権者には受け取れなくなって来ているのである。

ただ、「代議制」の国家に於いては、有権者が「政治家」を「選出」するのである。

何も、アメリカや財務省から「供給」される訳ではない。

有権者が一人一人、意識を高め、性根を据えない限りは、「浜の真砂は尽きるとも、世に盗人の種は尽きまじ」と云うことに成ろう。

「政治家や政党が駄目だ。」と訳知り顔で高踏的な態度では、何時まで経っても、事態は変わらない。

むしろ、政治家や政党を督励するようなかたちで、国民が立ち居振る舞いをしないと、根本的な解決は望めないだろう。

仕事が終わって、ジムへトレーニングしようと思ったのですが、実は、全身に疲労感が有りました。

まあ、強行してしまっても良かったのでしょうが、敢えて今日は「お休み」にしました。

自分の体調について、その良し悪しを感じ取ることは、年齢が上がって来るに従って、とても重要に成って行きます。

ほんの些細な変化や兆候を見逃さずに、感じ取れるような、感覚の鋭さと云うのは、是非、獲得しておきたいものです。

要は、「意識」の有る無しだと思います。

自分は只今、しがない「派遣労務者」に過ぎない。

さしたる頭脳も感性も知識も情報も技術も不要な、ただひたすら汗をかいて肉体を酷使するのみの仕事が生業である。

まあ、浅学菲才、無芸大食の自分には相応しいのだろうが。

それはさておき、いわゆる「非正規雇用」の人員が、現在、あらゆる日本の職場で、その割合を増加させている。

何故、「非正規雇用」が増加しているのか?

その理由は、“調整”しやすいからである。

ひとくちに“調整”と云うが、有り体に云えば解雇しやすいということに尽きる。

更に、福利厚生や社会保障などの経費も払わなくて良いし、派遣社員ならば人材派遣会社が、総務や人事、経理といった一切の管理を代行してくれる。

だから、発注先の組織(企業や団体など)はとても使いやすいし、後腐れが無くて、大変重宝しているのである。

そして、何よりも、人件費を抑制出来る。

こんな「素晴らしい」ことは無いwww

一方、「非正規雇用」の人員は、職場によって違いは有るとは思うが、自分の関係した事例で書かせてもらうと、大抵、会議や研修に参加することは無く、月報のような報告書を提出することも要求されない。

工場や工事現場などでの「安全衛生」に関する会議や研修は例外として参加が要請されるが、それ以外はお声がかからない。

それは、「非正規雇用」の人員は、「組織の構成員」ではないからである。

もっと云えば、出入りの外部の人間でしかないのだ。

だから、そんな「よそ者」に「改善提案」も「意見具申」もしてもらう必要は全く無いのだ。

特に、派遣社員は、いきなり職場を変更させられることが多々有るので、畢竟、その職場や組織に対しての帰属意識や忠誠心など涵養される筈が無い。

折角、職場や組織に愛着が芽生えた頃に、いきなり違う現場へ飛ばされるのだ。

必然的にドライな感覚と態度に成らざるを得なくなる。

 

さて、「組織」の中で、このような「帰属意識」が稀薄な、ドライな感覚の人員の割合が増大した場合、その「組織」はどうなってしまうのだろうか?

自分がすぐに脳裏に浮かんだのは、「西ローマ帝国の滅亡」であった。

ここで、本題に入る前にちょっと指摘しておきたいのだが、我々日本人は、西洋史に関して圧倒的に知識が無い。

「足りない」と云うレベルではなく、事実上「皆無」と云って良い。

それゆえに、例えば、「皇帝」と云う「存在」に対する「理解」や「印象」が、欧米人と東洋人では決定的に異なるのである。

我々、東洋人にとって「皇帝」とは、秦の始皇帝であり、本朝の天皇陛下のことが脳裏に浮かぶ。

つまり、各地域の「王家」や「族長」を「統合」し、その頂点に君臨する「名家」が「皇帝」であると。

だが、欧米人にとって、「皇帝」とは、かの古代ローマ帝国の「皇帝」を意味することが当然である。

しかしながら、欧米の歴史に於いて、いきなり「古代ローマ帝国」が始まる訳ではないのである。

「ポリス」と呼ばれるギリシャの都市国家によって、その「市民」の「合議制」のよって運営された「民主主義国家」の歴史が、先に存在しているのである。

その後、ギリシャが没落して、ローマに実権が移行した際も、ローマはローマ「市民」の代表による「元老院」と云う「議会」によって統治されている「民主主義国家」であったのである。

しかし、希代の英傑・ユリウス・カエサルを経て、元老院が承認した「皇帝」による「帝政」と成るのである。

だから、別名「執政官」とも称される訳である。

つまり、欧米に於いては「民主主義」が「皇帝」を誕生させている「歴史」が「基礎」に成っているのである。

この西洋史の「大前提」を我々東洋人の日本人は全く抜け落ちているので、かのフランス大革命での軍事的英雄であった、ナポレオン・ボナパルトが後年「皇帝」へ「即位」してしまうことに、とても違和感を覚えてしまうのである。

西洋史に於いては、「帝国主義」の生みの親は「民主主義」であると云う、「歴史的背景」が存在するのである。

だから、現代世界に於ける、いわゆる「共和制国家」の「大統領」と云うのは、一般国民に於ける「普通選挙」を経ているものの、西欧に於ける「皇帝」的な「性質」を濃厚に保持しているのである。

つまり、カール・シュミットの「大統領の独裁」と云った論理展開も、ごくごく当然の帰結なのである。

今後、欧米人と様々なかたちで意見交換や論争と云う場面が頻発していくと予想される。

その際に、同じ一つの語句を挟んで、世界的な地域差によって解釈や印象が決定的に異なっている状況が発生することが想定される。

現に、日本人とアメリカ人に於いて、同じ「皇帝」と云う語句についての印象は全く違うことが解る。

ならば、欧米人と渡り合っていくには、必然的に、その文化や信仰や歴史を踏まえた上でなければ、全くトンチンカンな交渉と成ろう。

「無知」であると云うことが、いかに罪深いことであるか、よくよく肝に銘じておかないといけない。

 

さて、閑話休題であるwww

 

西欧世界に君臨した「ローマ帝国」は、その広大な版図ゆえに、絶大な「遠心力」が作用して、ついに東西に「分割」される。

だが、西ローマ帝国は、フン族をはじめとする異民族、蛮族の侵攻を契機として、最終的には滅亡をする。

「文明帝国」が一蛮族の侵攻でもって、結果的に国家の崩壊にまで到ってしまうというのは、西洋史をよくよく理解していないと釈然とし難い。

ローマ帝国が、蛮族・フン族に戦闘に於いて敗北したのは騎馬操縦能力の差による。

実は、砲兵の戦争における比重が増すまで、騎兵の軍事的な破壊力は絶対的なものであった。

だから、如何に、馬を乗りこなすのか、という点が軍事的には人類史に於いては、長らく決定的だったのである。

成吉思汗のモンゴル大帝国の桁外れな破壊力の源泉は、その卓越した騎馬操縦能力に起因する。

だがそれは、云うなれば、「ハード面」に於ける要素で、「ソフト面」に於ける要素としては、この蛮族特有の相対的な「前時代的」な古臭さが重要だったのである。

蛮族と云うのは、現在の云い方で云うと「部族社会」である。

「族長」と云う「部族」のリーダーが居り、そこに血縁関係と主従関係が絡み合った、渾然一体の一つの巨大な運命共同体なのである。

その部族には、厳密な「個人」と云う「概念」は存在せず、「部族」の中のヒエラルキー、序列秩序や関係性の中の「一部位」として存在しているのである。

だから、部族の中の若者は、自分一人の「意思」で行動を決定出来ない。

何故なら、あくまで「部族」の中の「パーツ」に過ぎないからである。

そして、「部族」の意思決定は、「族長」が行う。

だから、「族長」の号令一下、部族の者は全員がまとまって統一行動を行うのである。

そして、部族の中の一人は、あくまで部族の中の一部分であるので、一人の部族の者の生き死には、最終的には、部族全体の「生命」に回帰していく。

つまり、部族の為に「犠牲」に成ったならば、その個人の生命は、部族全体の「生命集合体」へ回帰するだけなので、消滅することは無いのである。

だから、部族の中での個々の生き死にはあまり意味が無く、部族の個人個人は、部族全体の為に、自分の身命がどうなろうとも勇猛果敢に戦うのである。

一方の、文明帝国たるローマ帝国側は、傭兵で対抗していたと云う。

傭兵と云うのは、「戦争の専門家(プロフェッショナル)」であるから、当然、戦闘にも長じている。

だから、緒戦に於いては、傭兵の方が戦闘に勝利するのが当然である。

しかしながら、傭兵は、あくまで「雇われ」の身分である。

支払われる契約金に見合った「仕事」はするが、どうやっても「割の合わない」状況に成った場合、傭兵は戦場に踏み止まることをしなくなる。

「ここは一旦退却して、次の好機を待とう。」と云う、「合理的」な判断を下すのである。

ところが、土壇場の、「生命のやり取り」といったギリギリの惨状に成った場合、「合理的」な対処方法よりも、「情緒的」な対抗方法の方が凌駕することが多いのである。

要は、「肚を括った」方が勝利する訳であって、所詮、傭兵にとっての戦争は「他人事」でしかないのである。

やはり、「艦と命運を共にする」とか「城を枕に全員討ち死にする」と云った「決意」が、戦闘能力と成って作用し、引いては戦闘の勝利へ結実するのである。

 

翻って見て、現在、「非正規雇用」の人員の割合が、増大するだけ増大した場合、いざ、組織の存亡の危機に直面した場合、一気に「士気阻喪」「戦線崩壊」「組織壊滅」へと急転直下するであろう。

やはり、「仲間意識」「身内意識」を涵養させていかない限り、「組織」の維持存続は不可能だと思う。

また、「組織」への帰属意識や忠誠心を確立させていくには、「御恩と奉公」であろう。

つまり、「組織」がその「構成員」に対して、然るべき報酬や身分の保障などをきちんとしない限りは、人間は自らの持てる力を全て出し切って「組織」に対して貢献することなど有り得ないだろう。

 

現在、あらゆる職場に於いて、一見、たくさんの勤労者が居るようでいて、実は「社員」はほんの少数しか存在しないように成りつつある。

だが、それが、我々にとって、いずれどのような結果をもたらすのか、まだ、不明である。

ちなみに、「災厄」とは、いざ、それに見舞われてみて、はじめて理解出来るものであることがほとんどである。

自分は、とても危惧している。

 

ちなみに、今や、「組織」の「有り方」そのものが、大きく転換しつつあるように感じる。

これからの未来の「組織」は、はたして、どのような「有り方」に変貌していくのだろうか?

これ以上書き続けて行くと明日の仕事に支障来たすので、今晩はこれにて、何卒ご勘弁の程をwww

一日のうちに、無心に成って、身体を鍛えられるということは、幸いであります。

これは、時間とお金と健康と周囲の理解が有って、ようやく可能に成るのですから。

この各要素の一つでも欠けたら、トレーニングは出来ません。

また、トレーニングに限らず、これが読書や学習、懇親などでも、皆、当てはまります。

自分は、26歳から本格的にジムに通い始めてから、約20年弱、今迄に10回ぐらい、トレーニングの継続断念、中断、そして再開を繰り返して来ました。

体調を崩したり、職場が転勤に成ったり、父親の介護をしたり、職業訓練に通う為だったり。

だから、ささやかながらも、自分の好きなことに打ち込めるということは、それだけで、本当に幸せなのです。

勿論、自分自身の意志の力も決定的ですが。

「良く生きる」と云うことは、一日一日のスケジュールを主体的に管理していくことの積み重ねです。

「流されてしまう」生活に成ったら、結局、何も出来ません。

一日のうちに、絶えず、自分は何を今、為すべきであるのか。

そして、自分は生きていく中で、一番やり遂げたいことは何なのか。

このことを問い続け、確認し続けないと、日常生活の一日は、あっという間に過ぎて行きます。

例え、業務で多忙であっても、健康を崩して闘病中であっても、この2点を問い続け、確認し続ける限り、何時か必ず、自分の目指す軌道に復帰することは可能です。

それが出来ないのは、「日常生活」に流されていくことを受容し、「敗北」を認めた場合です。

自分は、粘着気質なのでwww諦めが悪いのであります。

だから、いまだに、筋トレを継続しているのです。

よく四十歳過ぎのことを「不惑」と云う。

これは、「論語」為政編の「四十にして惑わず」から来ている。

この一節は、「子曰く「吾 十有五にして学に志し 三十にして立ち 四十にして惑わず 五十にして天命を知る 六十にして耳順(したが)い 七十にして 心の欲する所に従いて矩 のり を踰(こ)えず」。」である。

つまり、孔子が、自らの人生を回想した際に、出た言葉である。

だから、「これは、孔子のような天才のことであって、平凡な人間には当てはまらない。」と云い訳したいところだが、そうはいかないwww

同じく「論語」陽貨編に於いて、

「年四十にして悪(にく)まるるは、其れ終わらんのみ。」と有る。

これは、四十歳にもなって人格の成熟の兆しが見えず、人から「あれは駄目だね」と言われて、人に慕われることがない。そんな人間はもう終りだと。

さらに、「論語」子罕編に於いては、自分の好きな一節が有る。

「後生(こうせい)畏るべし。焉(いずくん)ぞ来(きたる)者の今に如かざるを知らんや。四十五十にして聞こゆることなくんば、斯(こ)れ亦(また)畏るるに足らざるのみ。」

これは、年下の若輩者と侮ってはいけない。若者には可能性が有り、長じて、才能を開花させる者が出て来る、と。

だが、その後が辛辣である。

四十歳五十歳を超えて、目に留まるところがないような者は畏敬するに足らない、と。

以上は、孔子の「論語」から引いたが、かのリンカーンも有名な名句を残している。

「40歳を過ぎた人間は、自分の顔に責任を持たなくてはいけない。」

先程も、洗面所で己の顔を見て来たが、相変わらず、締りの無い顔であったwww

 

残念ながら、今年の8月で、自分も四十路の半ばを過ぎることに成る。

全く、情けない限りである。

やはり、四十歳を過ぎて来たならば、そろそろ、自分の年下の面倒を見ることを自分の使命と心得ないといけない年齢だろう。

いわゆる「青年」から「壮年」の中に入り、自らの研鑽や精進だけに没頭するのではなく、後輩諸君を先導する立場として、立ち居振る舞いをしないといけない。

しかしながら、今の自分は、二十歳代の「正社員」から「派遣社員」と云うことで、もう、侮蔑の対象でしかない。

まあ、就職活動を必死にした結果が、この体たらくだから、やっぱり「駄目」な奴なんだろうと思う。

組織の中に所属していれば、まだ、年下の方々へ、何かしら出来ることも有るのかもしれないが、現在、自分は組織の中で働く境遇ではない。

だから、或る面、「気楽な身分」なのである。

とは云うものの、こんな自分にもいくばくかは良心の呵責というものは存在するのであって、時折、「指導」じみたことを口走ったりする。

ところが、人間と云うのは、所詮、「何を云ったか、よりも、誰が云ったか、が重要」なので、やはり、何か「発言」をする際には、「聞き手」が拝聴の気持ちを起こさせるだけの「肩書き」が絶対的に必要なのである。

例え、どんなに「正鵠を射た」至言を述べたところで、今の自分ならば、大抵の人は「お前には云われたく無い。」と云われるのがオチである。

ただ、本当に、物事の真価を見抜ける人は、自分の「発言」を掛け値無しで、ありのままに評価して下さる。

まあ、解る人に解ってもらえるのならば、もうそれで「以て瞑すべし」であろう。

 

実は、最近、正規雇用に採用されることに拘りが、本当に無くなって来た。

確かに、正規雇用に成れば、身分も安定し、将来への「人生設計」さえも可能に成る。

だが、今の日本で、「正規雇用」と云うのは、「身も心もプライベートも全部、職場に捧げろ」と云うことが大前提に成っている。

それこそ、早朝から深夜まで、ずっとずっと「仕事漬け」ということなのだ。

休暇だって、業務の都合でどんな風になるか解らない。

何も、自分は、多忙や激務が出来ない訳ではない。

「働け」と命じられたら、いくらでも働く。

だが、現在の「正規雇用」の人間のとてつもない「多忙」さは、単に、「人減らし」が根本原因なのだ。

つまり、本来なら、十人で行う業務を、八人なり七人でもって、無理やり回転させていこうと云う無理筋が前提に成っているのである。

それは、やはり、異状なのではないか?

確かに、人件費が固定経費の中の占める割合は大きく、この先行き不透明な経済状況のもとで、経営陣はむやみやたらに人員を増やせない。

だが、最早、かつてのような昭和30年40年代のような「高度経済成長」が望めず、さらにデフレ圧力が絶えずかかっている現在に於いては、景気の動向とは無関係に雇用を厳守していくというのは、とても困難なのだと思う。

つまり、企業の業績が良い時は、どんどんアグレッシブに採用をし、業績が悪化した途端、ドラスティックに解雇をしていく。

こういう、アメリカ式の雇用形態を取り入れざるを得ないかもしれない。

現行の日本に於いては、「雇用の絶対死守」が大前提に有る為、基本的に、学生新卒の新入社員を一斉に採用し、定年まで勤続してもらうようにしている。

で、もし、それで手が回らない部分が出て来たら、「非正規雇用」の人員を調達して、何とか糊塗する。

これをずっと続けているのだ。

だが、ついに、「非正規雇用」の割合が4割近くまで上昇してしまった。

つまり「量の変化が質の変化に転換する」ような、云わば「閾値(いきち)」を超えてしまったのである。

これは、身分の安定と比較的高収入が保障された6割の人間と、貧困層に落ちるかもしれない予備群の4割に、現在、日本の社会は二分化されつつあるのだ。

一方で、その6割の人間には、「過労」が義務付けられている。

そして、6割の「勝ち組」も、自身や家族のちょっとしたアクシデント(病気・事故・介護など)によって、瞬時に貧困層へ脱落しかねない。

そして、一度、貧困層に落ちた家族は、「勝ち組」への復活はほぼ絶望的であると云う冷徹な現実である。

また、過労があまりに酷過ぎる為に、「正規雇用」と云う「安定」を捨てて、「貧困層」に成ることを、敢えて選択する人間も出て来ていると思う。

確かに、人間なんぞ「起きて半畳、寝て一畳」だから、その欲望を切り詰めるだけ切り詰めていけば、意外と「お金」は必要ではない。

ただ、持ち家(不動産)、車と云った「大きな買い物」に消費意欲が無く成れば、マクロ経済の影響は甚大に成っていくだろう。

更に、住民税や国民保険、国民年金まで滞納するような世帯が、生命保険や損害保険に加入することなど絶望的である。

2020年の東京オリンピックが終わった途端、とてつもない不景気が襲来することとなろう。

現時点に於いて、生活保護世帯は過去最多を計上しているのである。

生活保護制度自体が破綻するのは、最早不可避だろう。

現在の生活保護制度は、生活保護費を支給するやり方である。

だが、独り暮らしのアルコール中毒患者やギャンブル中毒の人には、ケアが行き届かない。

多分、生活保護制度を抜本的に立て直すとしたら、生活保護世帯を一括して囲い込む方式に成ると思う。

指定した集合住宅に移住させる。

食事は、食堂で無料で配給する。

料理と云うのは、個人で調理すると、実はコストが高く成るのだ。

だから、集合させて、大量に一括で調理する。

医療も、看護師や医師が常駐し、無料で診察し、入院も無料にする。

そのかわり、現金は一切支給しないのである。

行政が全部、面倒を見る代わりに、現金は一切持たせない。

そうすることで、管理などの業務は増えるが、生活保護の為の予算は管理が可能と成り、抑制出来ることに成るだろう。

だが、それは、「収容所」である。

左翼やリベラリストは、猛反対するだろうが、実は、もし、左翼が政権を取ったら、増大し過ぎた生活保護制度の解決策として、この「収容所」政策を絶対に実現させるだろう。

何故なら、これは、かつてのソビエト連邦のコルホーズやソフホーズ、中華人民共和国の人民公社に「原点回帰」するだけだからである。

貧富の格差の元凶は、私有財産と資本主義の存在に有り、と云う左翼の「定義」に照らせば、この、「お金」が不要な「収容所」こそ、奴等の「理想社会」と云えよう。

しかし、そんな施設に喜んで居続ける人はどれだけ居るのだろうか?

現時点でも、生活保護制度ではなく、路上生活者としての「自由」を選択する人が多く存在するのだ。

富の配分と、社会・共同体の再構築を迅速かつ徹底的に取り組まない限り、間違い無く「日本の社会の底が抜ける」ことに成ろう。

 

自分は、もう、45歳に成る。

現在、十代二十代の方々が豊かな生活を送るためならば、自分一人は犠牲に成っても良い。

何故なら、自分は、既に、この若者たちよりも20年も30年も生きて来たからである。

勿論、自分の過去を振り返って見て、満足のいく生涯だったかと云えば、そうではない。

しかし、明石家さんま師匠の至言、「生きているだけで丸儲け」のように、生きている限りは、ささやかではあるが、小さな「幸い」を味わうことが出来る。

だが、現在、十代二十代の後輩諸君は、そういう意味では、まだまだ自分の人生を堪能していない。謳歌していないのである。

この若い十代二十代の後輩諸君は、まだまだ、その将来を絶対的に保障されなくてはいけないのだ。

また、もし、十代二十代の若い世代の活躍の場を提供出来ないような国家や社会ならば、その命脈は既に尽きる運命に有るだろう。

 

自分は、若い十代二十代の後輩諸君の将来の為ならば、自分なんぞ、どうなっても良いと思う。

だが、現在、十代二十代の諸君が、後年、四十代に成った時に「犠牲」に成るような社会構造に成ってしまう為であるならば、自分は全く持って不本意である。

 

日本人の「美徳」は「我が身を顧みず」と云う、無私・捨身の精神に有る。

だが、それに安直に依存し過ぎる、無責任かつ愚昧極まりない指導者があまりに多過ぎる。

これはまさしく「美徳」が「悪徳」に転じる、という、皮肉であり逆説であろう。

現在、東京都議会が開会中である。

だが、来週の水曜日6月15日で閉会となる。

だから、舛添都知事の問題は、6月15日までに決まることに成る。

多分、共産党などが舛添都知事への不信任案を提議するであろう。

そこで、「共産党が提議したから、粛々と否決する。」というのが、都議会自由民主党の対応だろう。

だが、舛添都知事への不信任案を否決させる、もしくは、廃案にして決議自体させないように成ったならば、東京都民は勿論のこと、日本国民は全員、都議会自民党は舛添都知事を庇ったとみなすこと必定である。

それは即ち、都議会自民党も舛添都知事と「同類」と見なされることである。

「結局、自民党の都議会議員も、みんな、舛添都知事と同じことをやっているのだ。だから、責任追及なんか出来ないのだ。」と。

まあ、都議会議員選挙は来年の6月だから、選挙の時には記憶が薄れているかもしれない。

しかし、都民や国民の怒りと失望の矛先は、7月10日の参議院選挙に向けられるのだ。

自民党の候補者に対して「拒否感」が広がることは間違い無い。

東京都選挙区の中川候補ともう一人の候補は勿論のこと、全国比例への投票数がこの影響をもろに受けて激減するだろう。

もし、参議院選挙で、自民党の議席が思わぬ苦戦と成ったならば、その責任は都議会自民党に有る。

舛添都知事と狎れ合って談合し、「手打ち」をした、と。

まあ、自民党への投票が減っても、同じ保守の「日本のこころを大切にする党」に流れるのならば、まだ救われるのだが、それらの票は、多分、舛添都知事を一番厳しく追及している日本共産党へ投票されるだろう。

つまり、舛添都知事を「延命」させれば、結局、共産党やら民進党を利することになるのだ。

これほど皮肉と逆説に富んだことは無かろう。

その点、公明党の方が、機を見るに敏であって、多分、土壇場に成って、舛添都知事不信任案に賛成に回りそうな気がする。

さしづめ、「損をするのはオレ独り。」と都議会自民党は成るであろう。

この期に及んで、まだ、「裏工作」でもって乗り切ろうと云うのならば、「玄人ゆえの隘路」だと思う。

変に「熟知」しているがゆえに、既存の固定観念から逃れられずに自滅していくのである。

都議会自民党は、今まさに、「正念場」であろう。

舛添を取るのか、それとも東京都民を取るのか。

それが、今、問われているのである。

自分のウェイトトレーニング、ボディビルは、基本的に「重量重視」です。

まあ、知ったかぶった表現をすると、「ヘビーデューティー」です。

インストラクターさんからの「教科書通り」の指導だと、8レップから12レップ出来る重量でしないといけないのですが、自分はとにかく、パワー重視なので、5レップぐらいでどんどん重量を追加していきました。

しかし、「重量」ばかりに捉われていると、フォームがメチャクチャに成ります。

そこで、「あ、フォームが崩れた!」と気が付いた場合には、すぐに重量を減らします。

と云う事で、重量を増やしたり減らしたりと、あくせく、ジタバタしているのが、自分です。

自分は、「ジムの中で、一番貧弱で、一番非力」であると云う前提でトレーニングをしています。

そのように、割り切った方が、トレーニングにも集中出来ますし、謙虚で冷静に周囲を感じ取りながらトレーニングが出来ます。

一日も早く、「ジムでの人並みに成りたい!」と念願しつつ、ジタバタしております。

今月から、仕事の場所が変わった。
と云うことで、昨日と今日で、仕事の場所の在る鎮守様へ参拝をした。
神明神社とお稲荷様である。
先月のように、一つの街に限定されていないので、厳密には、まだこの他にも鎮守様へ参拝をしないといけない。
だが、まあ、取り敢えずは、その土地の神様に対して「ご挨拶」は出来たと思う。
神明神社は、天照大神を祀る神社で、とても壮麗な神社であった。
多分、この近辺の街々の、さしづめ「有名神社」と云う感じなのだと思う。
だが、お稲荷さんの方は、本当に、このお社の周辺の地域の住民に支えられた感じだった。
どちらも、気持ちの良い感じの神社であったが、自分は、こちらのお稲荷さんの方を贔屓したくなった。
実は、自分は、かつて、お稲荷さんが苦手だった。
と云うより、「敬遠」していた。
お稲荷さんは、御利益も凄いのだが、粗略に扱うと激甚な祟りを為すと云われているからである。
そんな、恐ろしい「神」は、「触らぬ神に祟り無し」とばかりに、敬遠していたのである。
ちなみに、それを云うと、或る方に笑われた。
「お前はそう云いながら、鬼子母神や妙見菩薩やら平将門公やら飯縄権現やら、荒っぽい神様ばかり信仰しているじゃないかwww」と。
そして、「お前が稲荷神に祟られるなんてことは有り得ない。むしろ、稲荷神の方から引き寄せて来るわい。」と。
事実、ここ近年、お稲荷さん絡みの「お付き合い」が、発展しつつ有るwww
お稲荷さん信仰の篤い方と親しくさせていただくことになり、昨年、茨城県の笠間稲荷様にはじめて参拝させてもらえた。
そう云えば、自分が、お稲荷さんと「お付き合い」が始まったのは、十年くらい前に、東京都港区の神谷町駅近くの小さなお稲荷さんがきっかけだったような気がする。
その近くの工事現場に関係して、仕事で出入りをしていたのだ。
確か「葺城(ふきしろ)稲荷」と云った。
小さな崖の上に在ったお社で、そこに狐の陶器の像を奉納させてもらったのである。
別に、特別な祈願が有った訳では無く、何となく、奉納したい気持ちに成ったからであった。
それから、大阪府に転勤したりして、神谷町に行く機会が全く無かった。
つい、先日、十年ぶりに神谷町に降りて、あの「葺城稲荷」を参拝しようと思った。
で、行って見て仰天した。
何と、お稲荷さんが有った崖は、丸ごと、再開発の工事現場に成ってしまい、全部掘り崩されていたのである。
多分、お稲荷さんは移されたのだろうが、何とも寂しい限りだった。
お稲荷さんの霊験は「融通」と云うことに有ると云う。
「融通」とは、決して「大金持ち」に成ると云うものではない。
「出て行く」分の「お金」が、絶妙のタイミングで「入って来る」ことにあると云う。
つまり、どうにかこうにか「お金」が回って行って、決して困窮することが無い。
自分は現在、「貧乏暇無し」で、誠に「手元不如意」ではあるが、実は、金融会社などへの返済を滞納したことは一度も無いのだ。
こけつまろびつではあるが、不思議と、お金が「融通」出来ているのだ。
多分、こういうところが、神仏のご加護の顕現なのだと思う。
とても有り難いことであると心から感謝している。
そして、それで、自分にとっては充分過ぎると思っている。

元陸上自衛官で、「大佐」に相当する「陸自一佐」であられた、佐藤和夫先生が、今度の参議院選挙北海道選挙区から立候補されることに成った!
驚天動地とは、まさにこのことである。
日本のこころを大切にする党公認候補として、あの、広大な「北の大地」北海道での選挙を戦われるというのである。
佐藤和夫先生は、自衛官を退官された後、在職中は「憚られた」政治的な活動、愛国・保守の活動に身を投じられた。
しかも、体内には実は「病気」を抱えておられる。
文字通り、「身命を賭して」政治活動をされておられ、「身命を惜しまず」に政治活動をされておられるのである。
細かい点に於いては、佐藤和夫先生と自分は意見がぶつかる所が、実は有る。
しかしながら、自分は佐藤和夫先生の、その「姿勢」や「生き方」そのものには全面的に敬意を表している。
また、佐藤和夫先生も、多分、「この小生意気な!」と舌打ちされながらも、いくばくかは自分のことを評価して下さっておられるがゆえに、現在もお付き合いが続いているのだと思う。
佐藤和夫先生は、自衛官としては、「駐在武官」の職務に就かれたことも有り、鋭い国際感覚もお持ちである。
「官僚」としての手堅い仕事ぶりと、旺盛な行動力、そして決断力は、他人の追随を許さない。
そして、何よりも、その「パッション」情熱は、実年齢を感じさせないくらい熱烈であられる。
東京都知事の舛添要一が、結局、打算や自分個人の上昇志向だけで「政治」をやって来たことが、ここ最近の報道で露見してしまった。
一方の、佐藤和夫先生は、まさにその対極に有る。
私心、私欲が無い、まさに正真正銘の「無私」の御仁なのだ。
佐藤和夫先生を突き動かしているのは、まさに「憂国」の念であり、日本国民への憂慮である。
そして、自らを育んでくれた、祖国・日本に対する全身全霊の貢献の思いである。
陸上自衛官として、ただ一意専心、職務と任務に忠実に精勤されて来られた御仁である。
そう云う意味では、「政治」も「選挙」も、あまりに縁遠い御方である。
だが、その無骨さ、不器用さを、我々はあげつらう資格など、実は無い。
雄弁さと愛嬌さで得票を勝ち得た「政治家」の多くが、元を忘れて、枝葉末節ばかりに目を奪われていることを、我々が知らない訳ではない。
しかしながら、そういう倒錯した「政治家」たちを当選させて、選出してしまう、それは、我々自身の劣化を具現化させているのに等しい。
佐藤和夫先生の選挙戦は、極めて苦難が多いことが予想される。
自分としては、ほとんど、お力添えが出来ない不甲斐無さに、どうしようもないやるせなさを感じる。
北海道に御縁の有る方は、是非とも、佐藤和夫先生の主張に耳を傾けて欲しい。
そして、「憂国」の叫びに、どうか、感じ入って欲しいのである。
選挙は、その結果が全てではあるが、そうでない場合も有る。
どうか、佐藤和夫先生へのご支援を、心からお願い申し上げたい。

ようやく、選挙告示日の2週間前になって、自民党の2016年参院選の東京地方区の候補者が出て来た。
いやあ、「悪い」人ではないだろうが、正直、パッとしない。
「この人に決まりました!」と発表されて、歓声どころか、感嘆も漏れて来ない。
「え?誰それ?」って云うのが、一般的な反応だろう。
確かに、「組織票」を固める中川雅治候補とは、「棲み分け」が可能な、全く異なる候補であるが、あまりに地味で無名過ぎる。
もう、完全に、自民党東京都連の「アリバイづくり」「言い訳先行」としか云いようが無い。
選挙告示日直前に、「サプライズ」で仕掛けるのならば、もっと知名度とカリスマ性が無いと駄目だ。
全く、ナンセンスな選考である。
多分、それだけ、中川候補の当選が際どいのだろう。
下手に自民党支持の票を持って行かれたら、落してしまうかもしれないという不安を、払拭出来ないのだろう。
だが、それもこれも、舛添都知事の悪評が大いに影響している。
最早、世間のほとんどの人々が、舛添都知事に辟易している。
と同時に、その舛添都知事を擁護しているようにしか見えない、都議会自民党に対して、呆れている。
残念ながら、来年6月には都議会議員選挙が迫っている。
このままだと、都議会自民党は舛添都知事と一蓮托生だろう。
共産党や民進党に都議会が支配されるのは「悪夢」だが、このまま舛添を「生殺し」にするのであれば、必定だろう。
国民や都民の「感覚」や「意識」を把握出来なくなった時点で、その「政党」と「政治家」の命運は尽きるのである。

いわゆる「保守派」界隈では、在特会が中心と成った渋谷での「デモ」に関して、怒り心頭であるようだ。
渋谷でのデモに於いて、いわゆるカウンター勢力の、かつての「レイシストしばき隊」などの連中に、事実上「封じ込められて」デモが「実施不可能」に成ってしまったということである。
この、いわゆる「ヘイトスピーチ」の件で議論に成った際に、「言論の自由」や「表現の自由」というのが必ず出て来る。
この「表現の自由」は日本国憲法第21条の条文が法的根拠と成っている。
そう云う意味では、「憲法違反」にも関わることであるという論法が出て来る。
更に、民主主義の成立条件として、必要不可欠なものであるという指摘も出来る。
現に、かつてのソビエト連邦などの「東側諸国」「共産主義国家」を批判する際に、「共産圏には『表現の自由』が存在しない。」と云う論法が有った。
だが、ここで我々は気が付かなくてはいけない。
「共産主義」も、「ボルシェビキズム」も、その源流は「民主主義」なのである。
つまり、「民主主義」と云う、大きな一つの枠組みの中で、「表現の自由」というキーワードを挟んで「相克関係」に有るのである。
そうであるならば、短絡的に「表現の自由」を持ち出して論理展開をしてしまうのであれば、それは必然的に「民主主義」と云う「枠組み」の内部だけしか通用しないことになろう。
確かに、「デモ」という、政治表現を、力づくで、つまり「暴力」でもって封じ込めると云うのは、「表現の自由」という原則論に照らしてみれば、明らかに「違反」している。
ただ、この「暴力」で以て、「表現」を封殺した連中は、「民主主義」や「基本的人権」や「マイノリティー」を擁護することには人後に落ちないと強く自負しているのである。
彼等は「差別的」であり、「人権侵害」の「表現」には、「表現の自由」の原則は適用され得ないという論法なのである。
しかしながら、「表現の自由」が適用される「表現」の範囲や条件や要素と云ったものを、彼等は明確にしない。
敢えて「客観的」な「定義」をしないことによって、いくらでも自分たちに都合の良いかたちで「恣意的」な運用を出来るようにしているのである。
これが、いわゆる「民主主義」や「左翼」の「いかがわしさ」そのものなのである。
つまり、はじめから「結論」は決まっているのだ。
「表現の自由」という、「民主主義」によって担保された「正当性」は、「民主主義」を自称、標榜する連中にとっての玩具であり、武器でしかないのだ。
だから、「民主主義や人権尊重を訴える連中が、民主主義の根幹である筈の『表現の自由』を侵害することは、論理的整合性に欠け、全く倒錯している!」と批判することは出来る。
確かに、論理的には、彼等の蛮行は「民主主義の自殺行為」に値いするのであるが、「民主主義」の最底部には、拭い難い「ルサンチマン」が存在している。
それは、「高貴なる特別な存在」への「嫉妬」であり、その結果としての「否定」である。
つまり、「民主主義」を標榜する「政治闘争」に勝利する為ならば、「民主主義」の原理原則を「否定」するような「例外状況」は是認される、ということである。
いわゆる「保守派」の方々には、もっと「民主主義」者どもの「えげつなさ」を痛感して欲しいと思う。
と云うより、いわゆる「保守派」と云われる人々も、骨の髄まで通俗的な「民主主義」にどっぷりと浸かっているのである。
だから、自分自身を批判するような構図と成った場合、自ずから、その舌鋒からは鋭さが無くなっていくのである。

自分は、いわゆる「在特会」に代表される、「ヘイトスピーチ」と指弾されるデモ活動に関しては批判的である。
実は、自分は、以前は「在特会」系のデモにも参加したことが有る。
しかし、もう、ここ数年、完全に切れている。
いわゆる「在特会」系のデモなどの抗議活動が評価出来ないのは何故か。
「品位」が無いからである。
確かに、「よそ者は出て行け!」と云った煽情的な主張は、実は大衆の心理の深いところで共感しやすい。
だから、安田浩一が「ネットと愛国」に於いて、「本当に恐ろしいのは『在特会』ではなく、ごくごく普通の日本人の方だ。」と指摘している。
つまり、「在特会」的な活動の裾野には、もっと潜在的な広範な日本国民の支持や共感が存在している、ということである。
これは間違ってはいない。
現に、ここまで、マスコミから何から「包囲」されて、袋叩きにされているにもかかわらず、「在特会」は一向に消滅しないのである。
それは、文字通り、「大衆運動」だからというのが最大の理由である。
実際に、「在特会」系のデモなどで自分が見聞きした「演説」のなかで、評価出来たのは、桜井誠氏と現会長八木康洋氏ぐらいだった。
何故、駄目かと云うと、ほとんどが情緒的な論調ばかりであったからである。
ゴミだ、クズだ、劣等だ、云々。
確かに、10人の弁士の中で、1人ぐらい、そういう「やんちゃ」な奴が紛れ込んでいてもそれは「ご愛嬌」で済むが、10人のうち全員が、全部全部、そういう悪罵の類いでしかないのでは、食傷するのだ。
つまり、大衆的な煽情を喚起させるには充分なのであるが、結局、「たったそれだけ」でしかないのである。
奇しくも、そういう煽情的な演説は、左翼の集会やデモでも為されており、政治的主張や立場は正反対ながら、その表現手法は、ほぼ同一と云って過言ではない。
つまり、旗指物が違うだけで、「人間」としての「品格」や「論理構成手法」は「同類」なのである。
結局、「ヘイトスピーチ」を巡るデモでの悶着は、広範な世間一般大衆にとってみれば、「似たもの同士」の「つぶし合い」、さながら「怪獣大戦争」の態としか、感じられないのである。
「大衆」から見切りをつけられ、大マスコミからアカデミズムから官僚機構まで「包囲網」を敷かれた只今現在に於いて、最早、「ヘイトスピーチ」に関係する「政治闘争」は、ほぼ絶望的である。
しかも、仲間同士で内輪揉めも絶えない訳だから、後は、「囲い込み」をされて、「独自の戦い」を続けるしかないだろう。
これは、事実上、いわゆる「新左翼」の辿って来た道と同じであると、自分は思う。

かつて、2000年代の、インターネットをその「揺籃」として勃興した「行動する保守運動」は、2014年2月の田母神としおさんの東京都知事選挙に於いてピークを迎えたが、その後、一年も経たずに、どん底に堕ちた。
かつて、左翼・リベラルの連中は、インターネットから発祥した、この「行動する保守運動」に対して脅威を感じ、その対抗に大わらわに成った。
しかし、今や、左翼・リベラルは、ようやく「日本会議」こそが、いわゆる「保守派」の最大の「勢力」であると認識したのである。
しかしながら、奴等は愚昧さゆえか、はたまた卑劣さゆえか、「日本会議」の真の姿を「指摘」していない。
例え「日本会議」を指弾するにせよ、所詮、ミスリードによる印象操作では、本当に「日本会議」を打倒することは出来ない。
何故、左翼はそうなのか?
それは、左翼が傲慢不遜だからである。
「大衆」は「愚昧」で、「これくらいの誘導で充分である」という、思い上がりからこのようにしているのだ。
奴等は、いつも、判で押したように云う。
「今こそ、日本市民の良識が問われている」
「今こそ、民主主義を守る為に日本市民の覚醒が求められている」と。
ちゃんちゃらおかしい。
この表現は、実は「逆説」である。
本当の意味はこうなのだ。
今こそ、左翼・リベラルの仕掛けたミスリード、印象操作に惑わされないための日本国民の良識が問われている。
今こそ、「民主主義を守れ!」とポピュリズムを煽動するデマゴーグから祖国や自分たちの命と生活を守る為に日本国民の覚醒が求められている。
そのためには、いわゆる「保守派」の「戦線」や「戦列」の「再編成」が不可欠な事態と成った。
事実上「第五列」のような愚行と狂態の御仁には、猛省してもらいたいと思う。
(ちなみに、これとは自分は無関係に、単に「家庭の事情」で、「猛省」中であるがwww)

(追記)(2016年6月9日)

先日、いわゆる「ヘイトスピーチ」に関する問題で、「表現の自由」を論拠に反対の論陣を張るべきではない、と書いた。

ちょっと、指摘が甘かったので、自分の思考が不徹底だったことをここでお詫びする。

下書きを書かないから、こういう恥をかくのだwww

さて、いわゆる「表現の自由」と云う「人権」を論拠に、いわゆる「ヘイトスピーチ」に関する規制の法律や行政のやり方に対して「愛国・保守派」が反対しているが、それは明確に駄目である。

何故「駄目」なのかと云えば、毎年、8月15日に、靖国神社界隈で、「反天連(反天皇制運動連絡会)」のデモが行われている。

そのデモに於いて、ご皇室や天皇陛下に対して、どのようなカリカチュアが為されているのか、具体的な説明は、あまりに醜悪過ぎて憚られる。

とにかく、酷過ぎるのだ。

だが、「表現の自由」を声高に主張したならば、この奴等の下品なカリカチュアも、当然、「容認」しなくてはならない。

そうでなければ、論理的整合性が破綻してしまう。

だが、反天連のデモに対して激昂、憤激しないようであるならば、「自分は保守派でござい!」と云う資格は無いだろう。

しかしながら、畏くも、天皇陛下やご皇室に対して、また、安倍総理などの政府や与党の指導者に対して口汚く悪罵を投げかけたところで、それは、「ヘイトスピーチ」とは見なされない。

何故ならば、「ヘイトスピーチ」は、「弱者である被差別者に対する」と云う「条件」が付いているからである。

勿論、何を、どのようにして「弱者」と「定義」づけるのかは、実は曖昧である。

本当は、「弱者」ではなくとも、「恣意的」に「弱者」認定をしているのだ。

まあ、これが、いわゆる「弱者による恫喝」という構図であるが、陛下や安倍総理が「弱者」ではないゆえに、どんなえげつない、下品な悪罵も「差別表現」や「人格攻撃」「名誉毀損」に「認定」され得ないのである。

それは、政治権力への「諷刺」であるというのである。

だからこそ、自分は、いわゆる「左翼」思想の「源流」である、「人権思想」が根拠の「表現の自由」でもって反駁しては有効ではない、と云っているのである。

自分は、「表現の自由」の尊重は、「大前提」であると、まずは「規定」しておく。

しかしながら、「表現の自由」には、必ず「品位を有すること」を義務づけるべきである、と主張するのである。

「品位」を欠いた、醜悪で稚拙な「表現」は、「技術的」に於いて、容認出来ない、と。

まあ、有り体に云えば、「洒落」の範疇に入るか否か、ということである。

「表現の自由」と云うのは、「何でも有り」であってはならない。

ちなみに、「表現の自由」ということに関して云えば、伊藤整が翻訳した「チャタレイ夫人の恋人」の裁判が思い起こされる。

これは、詩人で文学者の伊藤整が、D・H・ロレンスの小説「チャタレイ夫人の恋人」を翻訳した際に、当局から「猥褻(わいせつ)」認定をされて摘発されたのである。

結局、最高裁に於いて、「表現の自由」よりも「公共の福祉」が優越されるために、猥褻(わいせつ)文書として認定された「表現」は、罰せられて当然である、ということで結審したのである。

だが、この、いわゆる「猥褻」についての「定義」や「取決め」は、平成28年現在に於いては、全く、意味を為さなくなってしまった。

現に、現在は、「チャタレイ夫人の恋人」の完全翻訳の本は刊行されて、本屋の店頭に並んでいる。

そういう意味では、現在に於いては、いわば「ナンセンス」な扱いに成っている。

しかしながら、この「チャタレー裁判」について、我々はもっと吟味をしていくべきだろう。

ちなみに、かの福田恒存が、被告側の特別弁護人として出廷している。

さすが、ポレミカルなニヒリストの面目躍如である。

話しを戻すと、現在、左翼側からの「ヘイトスピーチ」の「包囲網」は、極めて広範囲かつ強固なものに成っている。

だからこそ、極めてシビアに戦略を練り上げて対抗しない限り、論争を挑むこと自体が「無謀」に成る。

つまり、「表現の自由」と云う「基本的人権」という論争の「パラダイム」に設定してしまう限り、この論争には絶対に勝てない。

ならば、「表現手法」についての「技術的な巧拙」と云う「パラダイム」で、そこに「品位」という美的な判断基準を設定することによって、「人権思想」からの影響下から離脱せしめるのである。

はっきり云って、現行の、いわゆる「在特会」的な「表現」は「品位」が無い。

だから、主義主張に於いてはシンパシーを持ち得ても、品位に欠ける以上は切り捨てざるを得ないのである。

また、品位に欠けることが、醜悪な表現に対する批判の論拠として機能するならば、政治的党派や思想信条とは無関係に、純粋に、「表現」そのものの問題として対抗可能であると云えるであろう。

えーと、これで、「お解かり」になれましたかな?www

そうそう、あと、いわゆる「保守派」の方々は、そんなに「表現の自由」っていうのを「尊重」しているのか?

確かに、対「左翼」とか、それ以上に、対「韓国」「支那」には、存在するのかもしれないが、それがこと「身内」に対して向けられた途端、極めて抑制的ではないか?

寡黙と云うか、見て見ぬふりと云うか。

だいたい「表現の自由」を声高に主張するのであれば、「空気を察しろ!」と云う態度は、真逆であろうに。

そんな、心にも無いことを、いくら得意げに主張したところで、馬鹿にされるだけだろう。


倉山満先生が愚昧な(自称)「保守」をニンベンが欠落した「呆守」と呼び、痛烈に批判されている。

倉山満先生の書き込みの一部で

(以下引用開始)

「三島由紀夫で商売をするが、一度として他人のために命がけで戦ったことがない」

(以上引用終了)

と云う一節が有った。

流石である!

自分も以前、こんな拙文を書いたことが有る。

「我慢出来なくなったのでwww書かせていただきます」

http://blog.livedoor.jp/soemon/archives/55124449.html
(以下引用開始)

自分は、特攻も三島由紀夫大人の義挙も犬死ではないと思います。

それは、「大義」に一命を捧げ、個人としての死を迎えたものの、民族の壮大な物語を紡ぎ上げたことにより、その武威は永遠の証しとなりました。

そのことは否定は出来ません。

しかしながら、特攻や三島由紀夫大人を現在の我々はあまりに安易に引き合いに出し過ぎてはいませんか?

左翼が何かにつけて、「戦争反対」「いのちを守れ」と持ち出すたびに、「いのち」や「平和」と云うことばがどんどん安っぽくなっていくのです。

一方の「保守派」は、特攻精神でポスティングをし、特攻精神でお散歩デモをする。

確かに、我が祖国・日本を守る諸活動の中の一環では有る訳ですが、さながらそれでは「ドン・キホーテ」ではありませんか?

これでは、心ならずも特攻精神や三島義挙をカリカチュア(戯画化、風刺画化)してしまってはいませんか?

(以上引用終了)

また、「三島由紀夫」と云う「政治活動家」としては、現在の我々には、どうしようもない「限界」が有ると自分は指摘せざるを得ない。

それに関しては、

「三島由紀夫大人をどう評価するべきか」

http://blog.livedoor.jp/soemon/archives/55183002.html
 

にまとめて有る。

倉山満先生に比べてとても稚拙であるが、あくまでご参考まで。




実は、自分はインターネットでは、主にアウトプットとして活用することが主である。

御存知の通り、自分は、一介の「派遣労務者」にしか過ぎない。

だから、原稿を依頼されたり、講演をお願いされたりということは、ほぼ皆無である。

また、よく、居酒屋などで、酔った勢いで「自説開陳」というのが、世の中の性質の悪いオジサン達の「通例」であるが、自分はそういう時も最近はあまり話すことが嫌に成った。

というのは、こういう居酒屋などでのおしゃべりというのは、5分以上まとまってしゃべれないからである。

やはり、或る程度、序論・本論・結論といったかたちでの論理展開や実証を行うには、それなりのボリュームに成らざるを得ない。

となると、自分にとっては、「自説開陳」の一番満足のいく表現媒体は、畢竟、文章にしたものに成ってしまうのである。

で、先述したように、自分は「取るに足らない」市井の凡人に過ぎないので、他人から求められることは有り得ない。

結局、「王様の耳はロバの耳」の床屋のように、穴を掘って、そこに向かって叫ぶしかないのだ。

つまり、自分のFBや拙ブログは、そんなもんでしかない。

で、拙文を書こうと思い立った時、語句の意味合いから、それに関する諸々の事柄を「確認」するために、大慌てでインターネットで「検索」しまくるのである。

だから、自分がインターネットを活用するのは、まず、アウトプットをしようという前提に立っているのである。
(ちなみに、自分がツィッタ―をほとんどしないのは、あまりに文字数が少な過ぎて、論理展開などが不可能であるからである。どうしても、「断定」調のものしか書けない。すると、表現手法が過激化し過ぎてしまい、これは大変宜しくないのだ。)
では、インプットはどうかというと、やはり、活字媒体が多い。
インターネットは、情報量が多過ぎるのである。
漠然とした情報収集には、自分には不向きなのだ。
なお、現在は、検索システムなどで、自分の趣味趣向に沿ったかたちで情報がアップされるようになっている。
例えば、自分が動画サイトを開くと、ボディビル関係の動画のリストばかりなのである。
自分は、トレーニングの参考資料として、主に動画サイトの動画を見ているので、必然的にそうなるのであるwww
しかし、時には、自分の趣味趣向とかけ離れた「情報」というのも、新鮮なものが有る。
そういった、意図せざる情報との「出会い」が有るのは、やはり活字媒体である。
新聞や雑誌といったものがそうである。
だから、新聞や雑誌が、どんどん電子データ化されていった場合、現在の活字媒体・紙媒体のような「偶然」の「出会い」というものはいずれは無くなっていくのであろう。
インターネットでの「問題点」は、「情報量があまりに多過ぎるので、逆に、検索者の好きな情報しか提供されなくなる」傾向が有るからである。
つまり、情報や知識の「蛸壺化」である。
インターネットは、実は「情報の坩堝(るつぼ)」ではなく、「情報のサラダボウル」なのだ。
だから、左翼的な「放射脳」(爆笑)は、愛国保守の情報や知識からますます遠ざかり、愛国保守は、ちょっとでもリベラル傾向が有ると拒絶することに成るのだ。
まあ、これは極端な例だが、現に自分は、ボディビルやらフィジークやらウェイトトレーニングに関しては、それなりに会話が出来るのだが、サッカーのJリーグに関しては、てんでからきしなのであるwww
これは、ある特定の事柄については、究極まで精通するのであるが、幅広さに欠ける結果と成るのである。
すると、論理的整合性や実証性は問題無くとも、世間一般大衆の共感や納得と云った「訴求力」に乏しい面が出て来るのである。
「弘通(ぐずう)」の力に欠けることに成るのである。
現在、情報は過度に専門化が進み過ぎていて、細分化され過ぎているのだ。
すると、結果的に、詳細な説明や論理展開よりも、簡単明瞭な「イメージ」でもって、世間一般大衆は「判断」をするように成ってしまうのである。
現在のアメリカの大統領選挙に於ける、ドナルド・トランプ「旋風」は、まさにその実証であろう。
アメリカだけではない。
その傾向は、フィリピンの大統領選挙でも出て来た。
過度な情報化社会が、国民の知的劣化をもたらしたということは、何とも云えない「皮肉」であろう。
多分、それを補填するのは、情報処理能力が絶大な「人工知能」ということになるだろう。
つまり、遠くない将来に於いて、この世界の人類の「意識」は、相当な割合を「人工知能」によって形成されることになるだろう。
ただし、「人工知能」は「道具」である。
もし、「人工知能」が破滅をもたらすのであるならば、その元凶は、畢竟、人類自身に有る。
「人工知能」の脅威を声高に指摘するのであれば、人間自体のそもそもの問題点を猛省することも忘れてはならないだろう。

ちょっと、ニュースとしては鮮度が落ちてしまったが、アイドル刺傷事件について。

既に、膨大な数の言及がされているので、あまり、自分が改めて指摘することは少ない。

ただ、この事件の一報を知って、すぐに脳裏に浮かんだのが、

「小人、閑居して不善を為す」という言葉だった。

つまり、時間を持て余しているから、こんな悪事に手を染めてしまうのだ、と。

犯人は、仕事が極めて激務で、それこそ、帰宅したら「寝るだけ」と云うような日常ではなかったようである。

仕事に「精勤」していた、と云うよりも、「手元のお金が無くなったら働く」というくらいの意識だったのではないか?

これは、犯人にとって、将来の「設計図」が無かったと云えよう。

最愛の伴侶を得て、家族をつくっていく。

仕事に精勤することによって、社会に貢献する。

自ら研鑽し、鍛練して、頭脳や技術や心身を向上させていく。

そう云った、自分に対する「人生の行程表」が無かったのだと思う。

彼の手元に有ったのは、比較的マイナーなフリーの「アイドル」だけだったのだ。

この「アイドル」を「育成」させる。

だが、「アイドル」に対する「奉仕」の思いの中には「愛執」が混入し、いつしかダークな「愛執」が全てになって、ついには自分自身がその「愛執」そのものと化してしまったのである。

もし、犯人に、「人生の目標」が有ったなら、

それこそ気さくに愚痴を云い、無心に戯れることが出来る友人や仲間が居れば、

そして、自分のひたむきな情愛を注ぎ込める生身の恋人が居たならば、

或いは、仔犬でも仔猫でも、小さな命に対して責任を持って預かることをしていたならば、

更には、自らを高め、周囲の人々の為に貢献する意欲が有ったなら、

彼はこんな愚かしいSNSの書き込みやストーカー行為にのめり込むことはしなかったのではないか?

人生という期間は、何事かを突き詰めて完成させていくには、あまりにも短過ぎるのであるが、かといって無為に過ごしていくにはあまりにも冗長に過ぎるのである。

彼の鬱屈した生命力を、もっと良き方向に活用させることは出来なかったのだろうか?

さて、これを受けて、自らを省みれば、自分も彼も、実はそんなに大差は無いのだ。

ただ、自分は、やりたいことが明確に存在して、それなりに多忙なだけに過ぎない。

小人は閑居していてはいけないのである。

「貧乏暇無し」で、丁度良い、のかもしれない。

北海道で、「しつけ」と云う名目で、山林に置き去りにされた少年が生還した。

安堵した。

まあ、いろいろと言及すべきことは有るが、既に、様々な人たちがコメントしているので、自分からは2点だけ。

今回の“事件”は、この少年にとって、間違い無く、人生の「財産」と成るだろうと断言出来る。

まず一つ目は、自分が「強運の持ち主」であると云う「自覚」である。

こんな「九死に一生を得る」ような「僥倖」は、本当に確率が低いのだ。

つまり、この少年は、「自分は本来死ぬべき運命を『生かされた』のだ。」と是非、自覚してほしい。

歴史を読み解いていくと、「九死に一生を得た」人物と云うのは、精神的に、一度死に、そして「再生」を自覚していることが多い。

そして、「生かされた」命を「自覚」した時、その人物は、自分の生涯を自分のエゴの為だけに費やすことから決別するのである。

世の為、人の為という「利他行」の人生を歩む、そういう「決意」をするのである。

次に二つ目は、親を「ただの人間」として「認識」出来たことである。

児童にとって、「親」と云うのは絶対的かつ特別な存在である。

しかしながら、「親」とて、実は「ただの人間」でしかない。

迷い、過ち、誤り、必ず持っている。

だから、子供が自分の「親」を「一人」の「普通の人間」として「認識」し得た時点で、「自立」への決定的な段階に進むのである。

まさに、今度の“事件”が、少年の「親離れ」の契機と成り、「菩提心」の萌芽と成るように自分は心から祈念したい。

そして、十数年以降、長じたこの少年が、どんな「大人物」に成っているのか、大いに期待したいものである。

我が家は「賢父愚息」であるが、それとは正反対に、「愚父賢息」の事例を、是非、具現化して欲しいと切望するものである。

今日は比較的早めに仕事が終了しましたので、トレーニング前に、大国魂神社に参拝しました。

で、御神籤(おみくじ)を引きました。

皆様は、おみくじを、神社やお寺に参拝した際に、結構、お引きに成ると思います。

けれども、「大吉」「小吉」とか、「願い事・なかなか叶いません」とか、そういった記述しか関心を持たれないと思います。

だから、「小吉」とか「末吉」とかを引くと、「悔しいから『大吉』が出るまで引くぞ!」なんて意固地に成る人が居ます。

しかし、それでは「おみくじ」ではありません。

「おみくじ」は、現在の自分の状況を、神仏が「解説」してくれるものです。

ですから、「大吉」でも「大凶」でも、同じように真摯に受け止めなくてはいけません。

よく、「おみくじ」を結ぶ、ひもや棒が有ります。

これは、悪いおみくじを結んで、開運を願うものですが、自分はどんなものでもほとんど持ち帰ります。

そして、古く成ったら、古いお守りやお札と一緒に「お焚き上げ」に出します。

ちなみに、数年前に鹿島神宮で引いたおみくじの「大凶」は、現在も、大切に保管しています。


さて、本日の大国魂神社での「おみくじ」は「小吉」でした。

あまり良くは無い運勢でしたが、その他の文章に、感銘を受けました。

まず「天のみこえ」の

「とき遅き たがひはあれどもつらぬかぬ ことなきものは 誠なりけり」

「意・人によっては、早い、遅い、の違いはありますが、誠実な心をもって事にあたれば、その志を貫き通すことができる。」と。

また、「論語」から

「言」「之を知る者は、之を好む者に如かず。之を好む者は、之を楽しむ者に如かず。」と。

「意訳・何事も、知識として知っているだけでは駄目で、それを好きに成らなければ不十分だ。しかし、好きに成っただけでは駄目で、それを楽しいと感じなければ不十分だ。」と。

丁度、筋トレをする前に参拝した時に引いたおみくじでした。

自分は、非常に感じ入りました。

まさしく、自分にとっての筋トレのことを示しているような気がしたのです。

ウェイトトレーニング、ボディビルは、いくら「知識」として、あれこれ知っていたところで、何の意味も有りません。

実際に、一生懸命、鍛練をしなくてはいけない訳です。

しかし、トレーニングは「継続」しなくてはいけません。

「継続」するためには、やはり、トレーニングが「好き」に成った方が確実なのです。

嫌々ながら、例えば「部活の先輩に云われたから」とか、そういうかたちでトレーニングをしても、次第に、何のかんのと言い訳を作って、やらなくなります。

やはり、「筋肉モリモリに成りたい!」という素朴な欲求と、トレーニングそのものが「好き」に成らないと続かない訳です。

自分は、筋トレが好きでした。

けれども、トレーニングの度に、いつも落ち込んでいました。

「なかなか重量が増やせない」「全然レップ数が増やせない」

何だか、自分が、まるっきり根性が無くて、駄目な人間に思えて自己嫌悪にかられていました。

すると、次第に「最善」のコンディションの時しかトレーニングをしない様になって、何時しか、トレーニングの頻度が少なく成り、間隔が開いてしまいがちになりました。

当然、成果は上がりません。

悪循環に陥りました。

トレーニングは「好き」なのですが、ジムからの帰路は、意気消沈していることが多かったのです。

ただし、ようやく最近、「重量が上がらない日は、もう、上がらないのだ。」と割り切れるようになりました。

確かに、インターバルを長めに取れば、やや重量は増やせます。

けれども、それは微々たるものです。

重量が上がらない時は、様々な要因が関係しているので、いくら「気合」を入れたところで、劇的な改善は見込めません。

さらに、十代、二十代のような若者ならば、回復力が旺盛ですが、もう自分も若くはありません。

ぼちぼちといくしかないのです。

そうやって、意識を切り替えて、最近のトレーニングは、

「短時間」「少科目」「短インターバル」で、過去の重量にこだわらないで、サクサクとやるようにしました。

そうしたところ、トレーニングが、とても「楽しく」成ったのです。

「今回は上がらなかったけど、次回に期待しましょう!」と云う気持ちに成ったので、ジムからの帰路もとても和やかな気持ちに変わりました。

考えてみれば、今迄が、目標が高過ぎたのです。

無理をして、プレッシャーばかりを自分自身に課していた訳ですから、これは当然「楽しく」はありません。

まさに「好き」の段階では、まだ駄目で、「楽しむ」段階まで進まないといけないわけです。

奇しくも、「おみくじ」で、このことを気付かされました。


単なる「偶然」にしては「絶妙」な「おみくじ」の記述でした。

皆様も、今度、「おみくじ」を引く機会が有りましたら、持ち帰ってみて、じっくりとその記述を読み解いてみてはいかがでしょうか?

きっと、いろいろな示唆に富んでいるように、感じられると思います。

 

今日から新しい現場でのお仕事になった。

まあ、やることはさほど変わらないし、何よりも「派遣社員」なので、指示されたことだけやれば良い。

とは云うものの、慣れていないとどうしても疲れてしまう。

だから、今日は筋トレをお休みにしたwww

「日課」というものを、しないと、やはり何となく居心地が悪い。

読書や語学の学習を自らに課しているような人ならば、何らかの事情で、この「日課」が出来ない時は、きっと後ろめたいような、情けないような気分になるであろう。

自分もそうである。

しかしながら、土台「世の中はままならぬもの」であり、「生涯はままならぬもの」である。

順調な時こそ、「幸い」であると、心から喜び、感謝するべきだろう。

その代りに、思い通りにいかない時に、感情をかき乱さないことである。

 

ま、「派遣社員」の「おっさん」の「日常」なんざ、どうだって良いwww

 

ついに平成28年の参議院議員選挙の日程が確定した。

6月22日告示で7月10日投開票である。

法的な「選挙期間」は、まだ始まらないが、事実上の“選挙戦”は最早「たけなわ」である。

と、書いておきながら、今自分が感じている、今回の参院選に対しての「グダグダ感」は一体全体何なのだろうか?

自分は、倉山満先生のように情報や知識を豊富に持ち合わせている訳でもないし、洞察力や推理力、分析力も「からきし」である。

ただ、一年くらい前から、「来夏の参院選は、衆参W選挙しか有り得ない。」と思っていた。

それは、この参院選後、安倍政権の支持率が上昇する見込みの確率が、期待出来ないからであった。

どうせ、いつかは衆院選を戦わなくてはいけない。

ならば、政権支持率が低落し、ジリ貧に追い込まれて選挙戦に打って出るよりかは、衆参W選挙の方が、勝算が見込めるだろうと思ったからに過ぎない。

しかし、熊本県を中心とした大地震が起きて、「これは、選挙どころではないぞ。」と痛感した。

このようなかたちで「天変地異」が起こるのは、やはり何らかの「意思」であると忖度せざるを得ない。

まさに「天の怒りか、地の声か」である。

天神地祇をして、安倍総理に対して、衆参W選挙に踏み切らせることを断念させたのである。

天神地祇が、この「天変地異」を安倍政権を懲らしめるために為さしめたのか、軽挙妄動を押し止めるために為さしめたのか、それは、きっと安倍政権が退陣する時まで判断がつかないだろう。

実は参議院選挙と云うのは、本当に、重要な選挙で、この選挙の結果は、今後の6年間の国政に影響を与える。

衆院選のように、政権が交代したりといった、解りやすい「激変」には成らないのだが、「政局」の節目節目において、参院の議席数と云うのは、ボディブローのように効いてくるのである。

しかも、解散が無いから、一気にチャラにすることも出来ない。

しかも、あらゆる「選挙」で選ばれる「議員」や「首長」と比較して、最長の「任期」なのだ。

「首長」も「都道府県区市町村議員」も「衆議院議員」も、全員「任期」は4年である。

ところが参議院議員だけが6年なのだ。

だから、投票行動を行うに当たっては、今後の6年間のことを考慮した上で行うべきなのである。

現に、かの「山本太郎」は、あと3年間は国会議員で有り続けるのである。

往時のような「脱原発」のムーブメントは今や去ってしまったが、それが生み出した「山本太郎」参議院議員は、これから、まだまだ3年間も国会議員で有り続けるのである。

だが、そんな重要な「国政選挙」でありながら、自分の気持ちは全くの「グダグダ」である。

何故か?

それは、衆参W選挙を見込んでいたので、いわゆる「憲法改正」が政治的争点に成るであろうと思っていた。

だが、「気持ち」の上では、「憲法改正」の機運は遠退いたという感触に現在は成ってしまっている。

厳密に云うと、本当はそうではないのだが、やはり、「気持ち」が燃え上がらないとエンジンがかからないのである。

更に、安倍政権や自民党への支持率が下がらない。

一方の野党第一党の民進党の支持率は低迷したまま。

さらに、社民、生活、おおさか維新などの他の野党も振るわず、ただ独り絶好調なのが共産党である。

そして、地方選挙区の定数一人区では、共産党の「主導」による「野党統一候補」が相当な県で実現している。

さらに、今回の参院選には、国民が即座に思い浮かぶような政治的争点が存在しない。

本当はそうではないのだが、大多数の国民は、今回の参院選で、どのような意思決定・意思表示をしたら良いのか、判然としていないのだろう。

少なくとも安倍政権を嫌悪し、拒絶するような風潮ではないだろう。

けれども、熱狂的な支持、「フィーバー」ともほど遠い。

だから、自民党は議席微増で、民進党は議席減、公明党現状維持、おおさか維新微増、日本共産党議席増といったところだろう。

問題は、「野党統一候補」なのだが、比較的、民進党が強い(と云うより自民党が駄目過ぎる)県は当選出来るが、かつての労組「連合」が作った「民主改革連合」候補のような「全体」としての「勢い」は見られないと思う。

あと、日本共産党が「議席増」としても、東京、埼玉、京都、大阪と云った、数十年前までは「議席獲得」の「指定席」だった選挙区が「復活」するのと、「比例」で1議席から2議席を上積みするのが関の山に過ぎない。

その分を、民進党が議席を減らすので、安倍政権そのものへの「痛撃」には直結しないだろう。

さらに、社民党や生活の党は、「政党」条件を満たすことが出来るかどうか、といった惨状に成るだろう。

だから、今回の参院選に於いて、安倍政権が窮地に追いやられるという結果に成るとは、今のところ、予想出来ない。

しかしながら、安倍政権の今後の政権運営に弾みが付くような「勝利」まで行けるかと云うと、大変、心もとないのである。

つまり、選挙戦が「ベタ凪(なぎ)」なのである。

いわゆる「全くの無風状態」で、追い風も逆風もどちらも吹いていないのだ。

共産党にしたって、それは野党第一党の民進党が駄目過ぎるせいで相対的に浮上しているのに過ぎない。

こんな風だから、今回の参院選は、何とも「グダグダ感」満載なのである。

勿論、真正保守の「日本のこころを大切にする党」にとっては、存亡の危機であり、乾坤一擲の大勝負なのである。

しかしながら、大多数の国民は「ミニ政党の一つが、どうなろうが、そんなのどうでも良いよ。」とつれない。

それを、どうやって説得し、こちら側に振り向かせることが出来るのだろうか?

愚昧な自分には、さっぱり解らない。

「何を云っているのだ!やれることを今は必死になってやるしかないだろう!」と叱責が飛んで来るのはよくよく承知している。

しかしながら、今回の参院選は、全てに関して「グダグダ感」が有り、どうにもこうもエンジンがかからないのだ。

仕事も忙しいし、お金も無いし、退院したとはいえ母は寝込んでいるし。

嗚呼。

自分は比較的、熱心に、政治や宗教に接して来た。関わって来た。

だが、それは自分にとって所詮は「道楽」であると思っている。

「道楽」と云うと、生半可な、いい加減な、好き放題に行うことのように思われがちである。

違う。

「道楽」だからこそ、自ら妥協せず、ひたすら狂おしいまでに突き進むものなのである。

自分の好きなことだから、自分が選択した道だから、とことんまでやり抜くのである。

しかしながら、「道楽」だから、他人の迷惑をかけるようなことはしないように、最低限の配慮をするのである。

こと、政治や宗教絡みに成ると、それこそ、肉親を「犠牲」にすることさえ、躊躇しなくなる。

だが、それは、異状だ。

狂おしいまでに没頭はするのだが、「所詮、これは自分独りの道楽に過ぎないのさ」という醒めた視線を常に自らに対して照射し続けること。

それが己に課していることである。

いわゆる「愛国・保守」と云われる方々に提案したい。

いわゆる「愛国・保守」の講演会やら集会やら勉強会に参加する回数を半分に減らして、その分を、他の「サークル」に参加する方に振り向けてみたらどうか?

「サークル」だから、自分の好きな分野の「集まり」で良い。

釣り仲間、飲み屋の常連、サーファー、トレッキング同好会、カラオケ仲間などなど。

そういった、「政治色」とは無関係な「集まり」に入ってみて、雑談の輪の中で耳を傾けるのだ。

「これ幸い」とばかりに、自説開陳、プロパガンダにオルグといった「露骨な」「政治活動」は断じてしてはならない。

ただひたすら、聞き役に徹するのだ。

すると、何となく、「世間一般大衆」の「平均」的な人の、政治に対する意識や欲求が聞こえて来る。

そこで、平和や国防についての意識の順位が恐ろしく「下位」に位置していることに愕然とするだろう。

更に、いわゆる「立憲主義」やら「憲法改正」に関しては、全く無関心で無知であるということも。

そういった「政治とは無関係」な「サークル」に溶け込むことで、現在のいわゆる「無党派層」と呼ばれる人々の動向が把握出来る。

更に、その「サークル」内で一生懸命、汗をかき、「サークル」内で一目置かれる存在まで漕ぎ着けた場合、何かの拍子で「政治的発言」が為される「機会」が有った時、その「サークル」内の「仲間」たちは、はじめて「賛同」してくれるだろう。

そこから、ようやく、「人脈」やら「選挙協力」と云った「段階」まで進めるのである。

従来通りに、いわゆる「愛国・保守」の「集まり」だけに参加し続けたところで、顔ぶれはいつも同じである。

単に、「愛国・保守」の「集まり」の主催者に、お金が集まるだけである。

だから、「駄目だ」とは云わない。

ただ、それだけで満足している「段階」は、もう、終わったのではないか?

そろそろ、「大衆の海」へ、一人一人が漕ぎ出して行くべき時期なのではないか?

参議院選挙が来月の7月10日に決まりそうである。

もう、事実上「カウントダウン」が始まった。

にもかかわらず、東京選挙区の自民党の二人目の「候補者」が決まらない。

当初は、「隠し球」で「乙武」クンを出すつもりだったのだが、彼のあまりの「性豪」ぶりに、世間がドン引きしてしまったので、担ぎ出せなくなったのである。

その後、様々な「有名人」の名前が上がったようだが、いまだに公表されていない。

何故、ここまでもつれ込むのか?

それは、自民党にとって、2007年参院選の苦い追憶が遠因だろう。

2007年に、当時、定数5に成った東京選挙区に自民党は、現職の保坂三蔵に加えて、元テレビ朝日のアナウンサーだった丸川珠代を擁立した。

保坂三蔵は浅草や上野が在る台東区の区議会議員から都議会議員となり、いわゆる自民党東京都連の都議出身者「枠」から参院選に出馬した。

彼の前に新宿区が地盤の都議だった田辺哲夫が居た

当時、参院議員を2期務めた訳で、「大臣」まであと一歩というところだったのである。

で、選挙の下馬評では、「保坂当選、丸川落選」と云うのが「当然」だった。

ところが、当時「幸福の科学」が、まだ政界の「水面下」に隠れていた時でもあり、丸川陣営を応援していた。

そんな、さまざまな要因が作用して、「まさか」の「保坂落選、丸川当選」という選挙結果に成ってしまったのである。

それ以降、保坂三蔵は、参院比例区に出馬して大惨敗し、ついには台東区長選挙に出てボロ負け。事実上、政界では「終止符」が打たれてしまった。

今回の選挙では、定数が5から6に1増となるが、自民党には必ずしも有利には成っていない。

というのは、東京の有権者数が多過ぎるので、組織票を固めるだけ固めても、1議席分の数十万票しか見込めないからである。

やはり、「ふわっとした」人気を保持する、そういう「有名人」の方が「勝算」が見込めやすい特殊な選挙区なのである。

現に、過去に於いて、木島則夫、野末陳平、柿沢弘治、蓮舫、中村敦夫、川田龍平、松田公太、山本太郎といった「有名人」や「新党ブーム」などの組織力とは無関係な、ある種の「ムーブメント」での選挙戦で当選した候補者がたくさん居るのだ。

一方の、現職の中川雅治は、実は「大物」で、往年の参院議長だった故・原文兵衛の娘婿で東京大学卒・大蔵官僚出身。しかも、安倍総理の「清和会」所属なのである。

まかり間違って2007年のような「醜態」は絶対に許されない。

だから、本当のところは、自民党東京都連は、「もう、中川さん一人で勘弁して!」と云うのが本音なのだと思う。

さて、既に、参院選まで「カウントダウン」が始まった。

自民党は、定数6である東京選挙区で「二人目」の候補者を立てたい。

でも、上手くいかない。

だったら、ここは「保守統一候補」として、「日本のこころを大切にする党」の「鈴木まりこ」候補を推薦すべきではないだろうか?

新党改革は「大麻合法化」云々といった「際物」だし、おおさか維新に到っては「田中康夫」を擁立するという。

「冷めたピザ」どころか、あんな前時代的カタカナ「サヨク」の「ポンコツ」を立てるようでは、おおさか維新は、どう抗弁しても「保守政党」とは認められない。

だから、自民党の「二人目」は「日本のこころを大切にする党」の「鈴木まりこ」候補にしてしまえばいいのだ。

当選出来れば、勿怪の幸いだし、最悪、落選したって自民党内での責任問題は発生しない。

自民党東京都連は、肚を括って、「日本のこころ」と共闘すべきだ。

それが、この期に及んで「最善」の選択肢であろう。

繰り返し書いていることであるが、自分は現在FBでの友達申請を、「筋肉」関係と実際にお会いしたことが有る御仁以外は原則的に行っていない。

だから、基本的に見も知らずの方からの友達申請も、基本的には受理していない。

元々は、いわゆる「保守系」の方がほとんどだった。

だが、ネットでの「保守系」の方々は、ちょっとした語句や表現でもって、すぐに友達解消をする。

何というか、感情の「沸点」が低過ぎるのだ。

だから、もう、いわゆる「ネトウヨ」のような方々とは、お付き合いしたくないのだ。

それに比べて、「筋肉」関係の方々は「我慢強い」www

写真も貼らず、筋肉ネタもほとんど無いにもかかわらず、なかなか友達解消にまで至らないのだwww

勿論、お友達としては承認してくれていても、沢山の友達の「群れ」に埋没していて、事実上「無視」されているのかもしれないがwww

ただ、どちらにせよ、現在600名弱のFBのお友達の相当な割合が「筋肉」関係に成った。

だから、当然、「支那、朝鮮はゴミ」みたいな論調で、拍手喝采など起こり様が無くなった。

元々、単に支那、朝鮮を蔑むことのみに喜びを感じることが自分には無かったので、むしろ勿怪の幸いである。

今後も、いわゆる「保守派」の方々で、自分が気に食わないようであるならば、どんどん「絶交」して欲しい。

むしろ、無邪気に筋トレの話題をしていた方が、精神衛生上、とても宜しい。

なお、例えFBのお友達が全員「筋肉」関係に成ってしまったとしても、自分は、現在の執筆のやり方を変えるつもりは無い。

社会や政治や歴史や宗教などに関して、自由気儘な書き込みをさせてもらう。

そして、それで「筋肉の話題が無いじゃないか!」と激怒されて「絶好」されても、自分は全然困らない。

別にFBの友人が5000人の上限に近付かなくても、自分は全く寂しくはない。

困るのはFBの運営者だけだろうし。

そのうち、ジムでの筋トレの仲間が出来たら良いな。そんな感じであるwww

北海道の山奥の森の中で、いまだに少年が行方不明のままである。

それは、家族でもって、車で団らんしていたところ、この少年の悪戯が過ぎたので、親が腹に据えかねて、5分程、森の中に置き去りにしたためと云う。

すぐに引き返してみたが、既に少年の姿は無かった。

それ以来、見つからないのだという。

いろいろと問題点は指摘出来ようが、自分は、この「善良そうな」父親の「しつけのためにした」という言葉が気に障った。

ならば、「しつけ」とは、単に、子供に大人の云うことを「聞かせる」ことなのだろうか?

「しつけ」とは、我儘な子供を強制的に従属させることなのだろうか?

だが、「大人」の「論理」が倒錯していて、子供の「異議申し立て」の方が合理的であった場合、それは「しつけ」ではなく、「虐待」に過ぎないのではないか?

今回は、少年が、道路に対して、面白半分に石を投げ続けていたのが発端というので、父親が「間違って」いる訳ではなかろう。

では、何が問題だったのだろうか?

拙劣だったからである。

つまり、「しつけ」のやり方が、下手くそだったからである。

よく、教育や子育ての問題になると、善悪の二極論の図式にしたがる。

正しいのか、誤っているのか、どちらかに色分けしたがる。

しかしながら、教育も子育ても、実は優れて技術的な巧拙の面が大きいのである。

つまり、「良かれ」と思って、と云うより、信じ込んで選択した言動が、その拙劣さゆえに悪影響しか生み出さない、ということはよくよく有ることなのである。

何故、そんなことを云うかというと、考えても見て欲しい。

商談などの「交渉」に於いて、その成否は、損得や善悪の要素によると云うより、圧倒的にその巧拙が鍵に成るではないか。

演出したり、修辞を工夫したり、そういった技術面での良し悪しが、成否の決定的な要素に成るのである。

「交渉」とは、人と人との意思伝達の場であり、「かたち」である。

「教育」も「子育て」も、やはり、親子間のコミュニケーションである。

やはり、目的を達成する為には、技術や戦略を考慮し、駆使しなければいけないだろう。

「しつけ」とは、子供が大人に成ってから社会から不適合しないようにすることである。

そのためには、ぶん殴ったり、叱責したりする「やり方」が有る。

だが、子供の性癖によっては、そういう押さえ付けるようなやり方に対しては、猛反発をする疳の強い「悪童」も存在する。

ところが、「悪童」と云うのは、往々にして、知恵が回り、生命力が旺盛なことが多い。

だから、「悪童」が、何故、「悪戯」に手を染めるのか、そこのところを注意深く見極めないといけない。

だいたい「悪戯」をするのは、「面白い」からなのだが、何故、その「悪戯」を「面白い」と楽しみ、止められないくらい耽溺してしまっているのか?

実は、「悪童」には「悪童」なりの根拠や理由が存在するのである。

そして、その「悪童」の根拠や理由を踏まえた上で、対処しなければ、本当の意味での解決には成り得ないのである。

例えば、「悪童」の「悪戯」の「根っこ」に、寂しさや不安や嫉妬が存在しているのであれば、手を上げたり、言葉を荒げたところで、「悪童」の心はますます頑なに成るだけである。

むしろ、黙って、しばらくの間、抱きしめ続ける方が、「悪童」には「効く」かもしれない。

どうも、この父親は、そういう面での頭が働かない感じの御仁のようである。

ならば、「教育」や「子育て」の巧者に、ノウハウの教えを乞うべきだろう。

しかし、そうならなかったのは、「教育」や「子育て」が、善悪や正誤の二元論的対立構造であるという、誤解が世間一般に蔓延していることが最大の原因である。

「正しい」ことも、下手くそであれば、悪影響しかもたらさない。

この事実的な真理を、もっと一般化されて理解されないといけないと、自分は思う。

いざ、就寝しようとしたら、親子で言い争いになってしまった。

母から、毎度毎度のお小言である。

「あそこの片づけが出来ていない」

「こんな深夜までパソコンで遊んでいる」

まあ、このご指摘は、お説ご尤もなので、しょうがない。

だが、

「仕事の現場を変えられたのは、お前が悪い」

「そもそも正社員をやめたのは、お前が悪い」

と延々と続いた。

ここまで云われたら、我慢も限界である。

こちらも、さながら切り裂くような言葉を畳み掛けることになってしまった。

現在、最悪の気分である。

気分が異状に昂ぶってしまい、就寝どころではない。

母は、クソ真面目で、几帳面で、真っ正直なのだ。

ただ、それだけなのである。

まあ、それだけで充分なのかもしれない。

しかし、些末な問題点を指摘するあまりに、最終的に、息子の今迄の人生の軌跡から人間性そのものに至るまで「全否定」する論調に逸脱する愚行を止められない、どうしようもない、「愚昧さ」が有るのだ。

「それを云っちゃあ、おしまいよ!」と云う、そこのところが、解らないのである。

思いついたこと、云いたいことを全て吐き出してぶつけてしまうことに、何のためらいも無いのだ。

だから、必然的に、母からの「忠告」も「指導」も、自分は全く受容出来無くなってしまったのである。

「お前は間違っている。自分は正しい。だから、云う通りにしろ。」

全てが、そうなのだ。

勿論、それは「愛情」から発せられたものであるのだが、その底には「侮蔑」が存在することが察せられるのだ。

「お前はまだまだ子供だから」と云う、軽蔑が確固として含有されているのである。

「愛」という感情には、上位の者から下位の者へ向けられる「方向性」の「構造」が有る。

しかしながら、その「構造」ゆえに、「蔑み」の色合いが付いてしまった場合、発した者がはたして「愛」のゆえであったとしても、受ける者には純然たる「愛」として受容することは出来なくなるのだ。

そんな「愛」は要らない。

そんな歪(いびつ)な、変な色が付いた、余計な代物の「愛」はいらない。

そういうことになるのだ。

だから、実は、愛するがゆえに、「与えない」「触れない」と云う、抑制的な情動も存在するのである。

母は、それが解らない。

多分、死んでも解らないのだろう。

嗚呼、やんぬるかな!

先程、会社から連絡が有り、「来月から新しい別の現場に行って欲しい」とのこと。
昨年7月からずっとお世話に成っていた現場から、ついに離れることになった。
この「予兆」は有った。
先週、母が突然の入院となって、急遽、仕事を休んだ。
その翌日に仕事へ行った時、派遣先の社員さんから、「これから繁忙期に入るので、人間を固定化したい。現在、代わりに入って来る人の『質』に差が有り過ぎるので、月曜から金曜までの5日間、全部来られる人にしてもらわないと一週間のスケジューリングが立てられない。」と云われた。
これは、確かに尤もな話で、自分が急に休んだ際に、代役で来た者が、どうしようもなく「使えない」のであるならば、その日に見込んでいたノルマを達成することは出来なくなってしまう。
かといって、母も若くはないので、今後、突発的に休みをいただく可能性は消せない。
「ならば、何も自分でなくても良いので、他に確実に来れるスタッフを派遣会社にご要請下さい。」と申し上げた。
その結果である。
まあ、これは、誰が悪い、とは云えない。
なるべく均一の「レベル」に達した人員を確保しているべき派遣会社が、実際は、そうではない現実である。
本当に、仕事を助けてくれる派遣社員も居れば、単に、駐車禁止を回避するだけしか満足に出来ないような「かかし」のような派遣社員も居る訳である。
現実問題として、「使える」派遣社員ばかりではないので、「人の振り分け」の状況によっては、顧客が満足出来ないような状況になることも発生する訳である。
また、アベノミクスのお蔭で、若くて優秀な人間は、多分、もっと時給の良い職場に「移動」しているのであろう。
結局、自分のような「ポンコツ」しか残っていなくなっているのだろう。
だから、派遣会社としても、派遣社員の維持確保と振り分けに難儀しているのが現実なのだと思う。
一方の自販機ベンダー会社も、各社、内情はとても厳しい。
結局、経費削減のため、人員は増やせないし、しかし担当する自販機は減らせない。
毎日、毎日、ノルマ!ノルマ!で追い詰められているのである。
しかも、朝礼だ、会議だ、報告書だ、改善提案だ、研修だ、と、業務以外の「仕事」にも時間が取られるのである。
それこそ、一分一秒を如何に短縮出来るか、ずっと頭を悩ましている訳で、そこで、なるべく「不確定要素」を減らしていきたいというのは首肯出来る。
ただ、突き放した云い方をすれば、そこまで補助スタッフの仕事のレベルの高さを要求し、出勤を強制し拘束するのであれば、最早、「派遣社員」に依存するのはおかしいだろう。
「派遣社員」というのは、実は、「業務補助」の「外注」なのである。
外部に業務を「任せる」ということは、人件費などの経費を削減する代わりとして、自社の制御が完全には出来ない不自由さをリスクとして織り込まなくてはいけない。
これは一種のパラドックスであり、個人個人、各部署ごとでは最善を尽くして努力している結果が、全体としては「破綻」をきたしているのである。
勿論、本当の意味で、個人個人や各部署ごとは「最善を尽くして」はいない。
ただ、やむにやまれず、緊急避難的に、現実的にはここまでしかやり様が無い「処置」をしているのである。
もし、時間や予算や人員などに「余地」が有るならば、「余裕」が有るのであるならば、違った結論と対処が出て来る訳である。
これは、「各自奮闘努力セヨ!」という「現場レベル」での頑張りの限界を来しているということを意味していると思う。
やはり、組織の首脳部、経営陣が、従来の手法から脱却して、決然と新しい戦略を捻出し、それに沿った組織の改編と業務の刷新を断行しない限り、遠からず「戦線崩壊」という末路となろう。
だが、それには「責任問題」が出て来る。
そうなった時、ほとんどの「人間」が「責任問題」を回避する選択をするのだ。
だがそれは「一将功成りて、万骨枯る」ということに他ならない。
まあ、どちらにしろ、自分にとっては、それほど影響は少ない。
困るのは、便所の有る場所が解らなくなるくらいだ。
だが、それくらいのことは、数日も経てば、憶えてしまうだろうし。
とにかく、派遣社員に成って、痛感したことは、組織に対する「帰属意識」が全く無く成ることであった。
つまり、自分が長期間、「お世話に成って来た」自販機ベンダーの会社との「関係性」が、瞬時に断ち切られる。
だから、当然、組織に対する「帰属意識」など、涵養されよう筈が有り得ない。
ただ単に、業務に従事する「一期一会」の「関係性」なのである。
だから、場合によっては「モラルハザード」の歯止めが効かなくなることも否定出来ない。
情報やデータや商品、部品、そして金銭の「持ち出し」という「狼藉」を防止する、心理的な「障壁」が低くなるのだ。
「こんな薄給で、しかも、所詮はよそ者扱いだし。」と云う「思い」が生じてしまったら、どんな「もの」であれ、「これぐらい外に持ち出してしまっても」という「悪心」の萌芽と成り得るだろう。
やはり、「衣食足りて礼節を知る」のであって、待遇に不満が募った場合、人間は悪事に走り易いのである。
本当に、業務や組織に貢献してもらえるような勤労を希求するのであるならば、しかるべき待遇を行わなければ、思わぬところで足をすくわれることになるだろう。
「あんまり人を安く使うと、後でかえって高くつくぜ!」(映画「用心棒」)ということになるのだ。

本日、靖国神社の清掃奉仕をさせてもらった。

今年に入ってからお付き合いをさせていただいているグループが主催するもので、自分は今回が初参加である。

但し、靖国神社の清掃奉仕自体は、もう、「毎度、お馴染み」であるがwww

本日は、70名を超える方々が参加して下さった。

これは大変素晴らしいことである。

ただ、最初は数名から始められたということらしいのだが、短期間のうちに、50名を超える方々が参加して下さるようになったという。

こちらのグループで、今後、いろいろとご指導ご鞭撻を賜りたいとこいねがっているので、なるべく懇意にさせていただきたいと思っている。

自分の父方の祖父は、昭和19年に、30歳を超えて「赤紙」(召集令状)が届いて、出征した。

既に、大東亜戦争は「末期的状況」であり、輸送船が米軍の潜水艦によって、ことごとく沈められる中で、何とかフィリピンまではたどり着いた。

だが、フィリピンのマニラ市に於いて、力尽きた。

戦後、父が、芝の増上寺に祖父の遺骨を取りに行った。

やけに軽いし、揺らすとカタカタと軽い音がする。

帰宅して、白い布の覆いを外して、木の箱を開けてみたところ、祖父の名前が記された白木の位牌だけしか入っていなかったと云う。

昭和23年に、墓地の権利を取得し、墓を建立して「納骨」した。

祖母は、「このお墓は、中に骨が入っていないから、有難味が無いんだよね。」と云っていた。

そして、祖母が死去して、祖母の遺骨を納める為にお墓を開けると、祖父の白木の位牌は朽ち果ててしまい、消えていた。

ただ、わずかに土が散乱しているのみだった。

霊園の管理台帳には、祖父、祖母、父の名前が記載されているが、実際には骨壺は二つしかない。

別に、「お墓参り」を忌避する訳ではないのだが、祖父との邂逅は、やはり靖国神社の方がしっくりとする。

狷介な祖父のことであるから、多分「英霊」と奉られることに苦笑している感じがする。

多分、「こんなところに神さまに成っているのは、『柄』では無いのだが。」と。

祖父は、とにかく破天荒な人だったというが、それは「はにかみ屋さん」だったからだろう。

「照れ隠し」の「表現」として、結果として「大暴れ」をしてしまうというのは、泉谷しげるなどを見ているとよく解る。

そんな祖父と「交流」出来る、かけがえの無い「場所」、それが自分にとっての靖国神社なのである。

いささか、「私的」に偏重し過ぎているかもしれないが、「祖父」に「孫」が会いに行くことが、「政治的行為」や「歴史認識」の問題として批判されるのは納得がいかないのだ。

気温が上がってくると、また8月15日のことが脳裏に浮かぶ。

ま、自分は例年通り、ということであろうがwww

よく、「困った時の神頼み」で、家内安全やら、商売繁盛やら、交通安全やら、合格祈願やらを、神社・仏閣で行います。

で、そういった「御祈願」や「御祈祷」をお願いする際には、最近は、広告宣伝やネットでの口コミの「情報」でもってお願いする神社・仏閣を選ぶ訳です。

だいたいに於いて、いわゆる「有名」なところです。

例えば、東京だと明治神宮や浅草寺なんか、そうです。

更に、「いや、神様にも得意分野が有るから」という「知識」が有ると、商売繁盛だったらお稲荷さんや恵比須さんで、合格祈願は天神さん・天満宮へ行こう、と云うことに成ります。

しかし、実は、この「担当分野」というのも、厳密ではなくて、日本に於ける自動車の交通安全祈願の発祥は、何と!東京都国立市という、東京都の多摩地域に在る、「谷保天満宮」という天神さん(菅原道真公)の神社なのです。

そういった中で、意外と重要なのは、自分に御縁の深い神社・仏閣にお願いするべきである、と云うことです。

考えてみれば、人間の場合でも、そうです。

何か、頼みごとをお願いする際に、「あの人は有名人だから。」という理由で、初対面の人のところに押し掛けて行ってお願いをして、本当に快諾してくれるでしょうか?

少なくとも、毎年毎年の「初詣」に行っている神社・仏閣でないと、神仏の方も、親しみを感じてくれないでしょう。

それこそ、毎朝の通り道で、鳥居の前で一礼していくような神社の方が、実は、神様の方が気に留めて下さっているような気がします。

だから、無名でも、小さくても、常日頃から「御縁」の有る神社や仏閣の方が、実は、願いごとを叶えてくれるのかもしれません。

自分は、ひょんなことから、奈良県護国神社と御縁が出来て、大阪府泉大津市在住の時には、毎月、南海電車と近鉄電車と奈良交通バスを乗り継いで参拝していました。

馬鹿ですwww

そして、東京に戻ってからも、奈良県護国神社護持会の会員であり続けて、もう、10年以上のお付き合いをさせていただいています。

そういった「御縁」が有るので、多分、奈良県護国神社の英霊も、今回、全力で「お働き」下さったのだと拝察します。

神社でもお寺でも、自分にとって気に入ったところが見つかったら、是非、その「御縁」を大切にしていきましょう。

何かあった時に、きっと助けてくれるかもしれませんよ。

昨日、奈良県護国神社から、病気平癒祈願のお札を郵送にて拝領しました。
そして、それから少したって、母から「土曜日の午後に退院が決定」とのメールが来ました。
こりゃあ、奈良県護国神社の英霊に対して、「報賽(ほうさい・お礼参りのこと)」をしないといけませんわ!
但し、遠方なので、参拝には行けませんので、取り急ぎ、お供物でも手配しますか、ね♪
いやあ、とにかく、あなかしこ、あなかしこ!

「貧乏暇無し」な上に、只今、母の「不在」で洗濯などの家事一切まで行わなくてはいけないので、「パソコンで遊んでいる」(母曰く)暇が無い。
しかし、思いついたことがいくつも有るので、時間を捻出しては、何とか書き留めている。

さて、ネットで面白い記事が載っていた。
(以下引用開始)...
全国20歳以上の採用業務に携わっているビジネスマンを対象とした「採用担当者がイメージする、“理想の新人像”」という調査で、女子部門第1位に有村架純が選ばれ、男性部門でも俳優の松坂桃李が第1位のプロ野球選手イチローに続く、第2位に選出された。

 本アンケートは、エヌ・アンド・シーが採用業務に携わるビジネスパーソン2000名の有効サンプルを集計した「新卒採用に関する調査」の一項目。「採用担当者がイメージする、理想の新人像とは?」という質問のもと、“理想の新人”のイメージに最も近い有名人を自由回答で男女それぞれについて調査した。

 女性部門1位に輝いたのは、『アイアムアヒーロー』『夏美のホタル』と出演映画の公開が続く有村、2位に広瀬すず、3位に綾瀬はるかと人気女優が続く。
 
 男性部門では第1位にプロ野球選手のイチローが選ばれたが、第2位にドラマ『ゆとりですがなにか』に出演中の松坂、次いで3位に福山雅治が選出された。
 
 「採用担当者がイメージする、理想の新人像」女性部門の調査結果は以下の通り。
1位 有村架純
2位 広瀬すず
3位 綾瀬はるか
4位 黒木華
5位 波瑠
6位 上戸彩
7位 土屋太鳳
8位 天海祐希
9位 石原さとみ
9位 浅田真央

 「採用担当者がイメージする、理想の新人像」男性部門
1位 イチロー
2位 松坂桃李
3位 福山雅治
4位 福士蒼汰
5位 松岡修造
5位 大谷翔平
7位 所ジョージ
7位 櫻井翔
9位 羽生結弦
10位 明石家さんま
(以上引用終了)
一読して、もう、ただただ苦笑するしかなかった。
「採用したい新人の理想」ということもあって、極めて優秀な方々ばかりの名前が挙げられている。
確かに、人事部の採用担当という「部署」は、いかに優秀な人材を自分たちの組織の中に組み込めるか、と云うのが「業務」である。
だから、とにかく、「優秀」であるということが、判断基準として有るのだろう。
しかしながら、所ジョージ、明石家さんま、羽生結弦、松岡修造などを挙げてしまうということに、自分はどうしようもない違和感が有る。
はっきり云って、これらの方々は、ただ単に「優秀」であると括るには、あまりに大き過ぎるのだ。
頭の回転の速さ、情熱、努力の打ち込み方、状況の即応さ、どれを取ってもずば抜けている訳である。
逆に、そこまで「才能」が有り過ぎると、かえってよろしくない。
つまり、「使いこなせない」のである。
例えば、明石家さんま師匠(に匹敵する若者)が、営業部の「新人」に配属されたとする。
そんな奴に、営業の話法やテクニックを、果たして「指導」可能なのか?
下手な「指導」をしようものなら、瞬時に、この「新人」から見下されるだろう。
他も同様である。
何気ない配布資料の文章のつづり方や、ちょっとした来客への応対などから、多分、これらの「理想の新人」と云われるような優秀な若者たちは、すぐさま、自分の職場や組織の駄目さ加減を瞬く間に察知してしまうだろう。
だいたい、「優秀」な人間と云う人物は、周囲の状況と自分自身の才能や人格、体力までも正確に把握してしまえている。
だから、あまりに自分の「職場」環境が「劣悪」であると判断したら、「ここは自分の居る場所ではない」と、あっと云う間にいなくなってしまうのだ。
その点、伝説的なお笑い芸人「コント55号」の萩本欽一は、やはり、違う。
彼は、「芸人として伸びる子はどういう人ですか?」つまり「どういう若者を指導する際に選びますか?」という問いに対して、明確に「素直な子だね。」と回答した。
頭が良い、センスが抜群、反射神経が凄い、そういった「天賦の才能」云々には全く触れなかったのである。
ただ、考えてみれば、「指導」をするにあたって、一番、効果が見込めるのは、間違い無く「素直な子」だろう。
云われたとおり、指導したとおりに、きちんと、一生懸命に努力する。
確かに、「一流」と「超一流」の「境界」を超越するには、持って生まれた「天賦の才能」という「違い」が最後の最後のギリギリのところで決定的なところが有る。
しかしながら、まず「一流」に成るためには、様々な努力や精進を地道に積み重ねていかなくては、絶対に不可能なのだ。
逆を言うと、「超一流」と云われるような「天才」は、所詮「指導」不可能なのである。
いろいろと「強制」したところで、そんなものに束縛されるような代物ではないからである。
だから、本当にずば抜けた「天才」に対しては、周囲は何も手が出せない状態となるのである。
ただ、皮肉なことに、「天才」というのは、往々にして「素直」であることが多いのである。
何しろ、良し悪しを瞬時に察知してしまうので、「これは素晴らしい!」と感じたものは、とにかく貪欲に吸収していくのである。
更に、「努力」も大好きなのだ。
というより、凡人が「刻苦勉励」である「努力」を、「愉楽」と感じて耽溺出来てしまえるのが「天才」なのである。
つまり、トレーニングや学習することが、「日常」の「生理作用」の一つに組み込めてしまえる人間が「天才」なのである。
「優秀」な「人材」の最たる者が「天才」であるが、「天才」とは「天然」でもある。
云わば「自然現象」そのものが、さながら服を着て歩いているようなものだから、そんな「怪物」を制御していくには、それはそれは至難の業であろう。
だから、こんな明快なことが解らずに、上記のような「理想の新人」を希求するような、日本の企業の人事採用担当は、本当に本当に「おめでたい」限りである。
多分、自分たちは、「どんな『天才』でも指導・監督可能である。」と思い上がっているのだ。
そんな、厚顔無恥な連中のところに、本当に優秀な若者が入って来たら、逆に、持て余してしまうだろう。
結局、「今度の新人は使えない。」とか何とか愚痴るのである。
そうやって、優秀な新人を、追い出したり、腐らせたりしているのだ。
嗚呼、やんぬるかな!
ま、四十歳過ぎて、しがない派遣社員でしかない「無能」な自分が云々するのも愚の骨頂ではあるのだが。

東京都知事の舛添要一のスキャンダルが止まらない。

よく、落語で「ケチを通り越して吝嗇」という表現が有るが、単なるケチではない。

その証拠に、公費での海外出張に於いては、「大名旅行」と揶揄される程、散財している。

単なるケチであるならば、例え、他人の金であろうが、出費は惜しむものである。

ところが、「交際費」だ「政治活動費」だ、と名目が立てば、贅沢三昧をしてしまえるというのは、「お金に細かい」のではない。

要は、「自分のお金は使いたくないが、他人の金なら使えるだけ使いたい」ということであろう。

これはもう、経済観念の問題ではない。

人間性や品性の問題である。

だから、「公費を使った分を弁償します。」というような、金銭のやりとりの問題では、最早、解決は出来ない。

それは、人間性の問題を指摘されたからである。

組織の指導者として、責任者として、政治家としての資質が全く駄目であるということを露呈してしまったからである。

自分は、いわゆる政治資金規正法に違反したから問題だと云う考え方には与しない。

例え、法律に違反したとしても、それが「緊急避難」的な、一種の「不可抗力」によるものであったとするならば、認めても良いと考える。

また、一度でも組織内で業務に従事したことが有る人間であるならば、帳簿上に、そのまま記載出来ないような金銭の遣り取りと云うのは、それなりに存在するものであるということは御存知だろう。

人情として、業務を円滑に遂行するにあたって、それなりの金銭の遣り取りを内々で行うということは、どうしても無くせないのである。

しかしながら、今回の舛添都知事の為され様は、明確にアウトである。

要は「洒落にならない」からである。

例えば、政治活動費で書籍を購入したという。

これは、誠にもっともである。

だが、実際に購入した書籍は美術書だった。

デザイン会社や美術学校で、「必要経費」として、書籍購入の中に美術書が含有されているのならば容認出来る。

しかしながら、政治家が政治活動費で美術書を購入するのは、やはり駄目だろう。

まあ、3冊購入した際の1冊が、たまたま美術書だったというのなら、まだ言い訳もたつが、逆に政治に関する書籍は皆無だったという。

これでは、公費の「使い込み」「横領」と指弾されて当然だろう。


最早、怒りを通り越して白けてしまう感じである。

特に、憂愁が深いのは、肝腎の都議会が駄目であること。

現在、都議会で舛添都知事を問責しようというのは、共産党やおおさか維新系のみ、だそうな。

そんな都議だけが騒いだところで、それは単なる「アリバイづくり」でしかない。

やはり、都政与党である、自民党と公明党が糾弾の主力でない限り、全く意味を為さない。

はっきり云って、都議会自民党は、舛添都知事に関して、全く腰抜けである。

背徳的であると断じても過言ではない。

確かに、舛添を都知事選に於いて、自民党や公明党などは支援をした。

だが、舛添は、明確に都民の信頼を裏切ったのである。

都民の信頼を裏切った都知事を支持し続けるということは、都議会自民党は、畢竟、都民を政治的に裏切ることを意味する。

この、事の重大性を、都議会自民党は全く自覚していない。

確かに、舛添を下手に追求すれば、あの曲者のことである。

暴発して、都議会解散、そして都知事選再出馬を仕掛けることだろう。

だが、そんな暴発にビビりまくって、舛添が「陳謝」して「終了」という幕引きを目指すのであれば、来年6月に予定される都議選で「落とし前」を付けることになるだろう。

公明党は、どんな選挙であれ、得票数が減りも増えもしないから、現有議席を維持可能だろう。

ならば、舛添に対する都民への怒りの矛先は、間違い無く都議会自民党へ向けられる。

「あんな品性下劣な奴を支持する自民党には、絶対に投票しない。」

そういう破目に成る。

勿論、舛添を都知事から引きずり下ろしたところで、「めでたし、めでたし」とはいかない。

その後の東京都知事選挙に於いては、下手をすると左翼の宇都宮けんじが当選する可能性だって有り得る。

しかし、このまま、ダラダラと舛添を担ぎ続けて行けば、都議選で自民党は現有議席を維持出来ない。

都議選は「中選挙区制」なので、衆院選のように「オセロゲーム」のような議席の交代は有り得ないだろうが、前々回の都議選に於いて、当時の民主党がバカ勝ちして都議会第一党に成ったのである。

そして、その後の都政運営に於いて、どれだけ都議会自民党が苦労したのか。

さらに、都議選の後に、国政に於いても「政権交代」が起こった。

都民の怒りを甘く見ては絶対にいけない。

都議会自民党は、性根を据えて、肚を括って、舛添の首を取りに行き、更に、都知事選と都議選に勝利する為の覚悟と準備が要求される。

ちなみに、舛添の首を取らないのであるならば、自分は次の都議選で自民党を支持出来ない。

「高度な政治的判断」と云った弁明が有ろうが、都民の信頼を失い、都民の激怒の標的と成った都議会自民党には応援は出来ない。


最後に、舛添の「公費使いたい放題」によることについて、ちょっと違った視点から述べたい。

公費でもって「落としてしまう」という行為は、自らの懐を痛めないということである。

逆に、その反対が「自腹を切る」と云う行為である。

実は、この「自腹を切る」と云う行為が、極めて重要なのである。

はっきり云って、「自腹を切ら」ない限り、絶対に自分の身に付かないのである。

解りやすい例を挙げれば、学校の授業料である。

子供の時に、学校や授業に関して、全く身が入らなかったのは、学校や授業や教師がお粗末だったせいだけではない。

所詮、「他人の金で行かされている」と感じてしまうから、身の入り様が無いのである。

だから、社会人に成って、カルチャースクールでも講演会でも社会人入学でも、自分の持ち金を支払って受講した場合、その真剣さは歴然としていよう。

自分の手元のごくごく僅かな所持金から、授業料を割いて納入する。

そうなれば、必然的に授業の一時間一時間が、「何円支払って購入した」という感覚に成らざるを得ない。

だから、「休講通知」が貼り出されて喜んでいては駄目なのである。

「なんてこった!その分の金を返せ!」と激昂するぐらいでないと駄目なのだ。

それは、何も「授業料」に限らない。

飲食をするにしろ、なけなしの財布から出すから、お酒をちびりちびりと舐めるようにして飲み、その一滴一滴を胃の腑に染み込ませるのである。

さして美味しくも無い肴を、名残惜しく一口一口いただいていくのである。

映画を見るのも、展覧会に行くのも、自分のお金で行くから、どんな小さなものでも見逃すまい、脳裏に全部焼き付けてしまおうと真剣になるのである。

そして、そこまで、貪欲に、真剣に取り組んだものでしか、結局、自分の血肉には成り得ないのである。

だから、舛添は、どんなに贅沢な御馳走をたらふく食ったところで、所詮、公費で落としていたならば、本当の意味で、その美食を堪能したことには成らないのである。

また、どんなに素晴らしい美術書を手に取ったところで、それが他人の金で買ったものであるならば、本当の意味で、「美」を全身全霊でもって鑑賞することなど絶対に不可能なのである。

どうせ、限り有る、お金と時間を費やすのであるならば、確実に自分の血肉に成るまで吸収し、堪能し尽くすべきであろう。

そういう意味では、舛添は、不幸である。

彼は、うわべだけの大量さ多量さに幻惑されて、本当の意味での「堪能」を出来なくなってしまったのである。

只今現在の我々は、あまりに「偽り」に踊らされ過ぎている。

たくさん有るから、高価だから、だから良いのだ、と。

確かに、それは間違いではない。

しかしながら、それは全てではないのだ。

ちゃんと「留保条件」が付帯しているのである。

例え、どんなに粗末であろうと、世間に恥ずかしくないかたちで稼いだ自分の金で「自腹を切った」ものであるならば、それは大変、価値と意義の有るものであるのだ。

何故なら、それは、「借り物」ではなく、間違い無く、自分自身の「血肉」であるからである。

例え、何千人何万人とSNSで「お友達」が出来ようとも、たった一人の「刎頸の友」には絶対に及ばないのである。

「自腹を切る」と云うことは、「自らの手で獲得する」ということである。

どんな素晴らしいものであっても、それが、他人からの「供給品」である限り、決して使いこなすことは出来ない。

日本に於ける「憲法」も「国防」も、まさにそうである。

既に別記先述しているように、自分は「保守二党論」である。

よく、「保守の旗頭である、安倍総理に全ての保守の勢力を糾合すべきである。保守派は大同団結し、分裂や共倒れは絶対に避けるべきだ。」と云う。

確かに、もっともな論理である。

そもそも、いわゆる「保守派」と云うのは、明確に「少数派」である。

確かに、ゴリゴリの左翼どもも、政権が取れない訳だから、「多数派」とは云えないのだが、かと云って、全くの「ジリ貧」でも、まだ、ないのである。

衰えたりとは云うものの、左翼勢力は、今もって強大なのである。

だからこそ、保守派は内輪揉めなどせずに、安倍総理の下に一つにまとまるべきだ、と。

ここまでは、まあ、良い。

だが、「だから、選挙に於いては、自民党を全員が全力で応援すべきだ。」という結論になる。

自分は、これには首肯しない。

勿論、自民党を敵に回すつもりは、無い。

だが、だからと云って、「保守派は全部、自民党へ」という「構図」に与しない、ということである。

理由は二つ。

一つは、いわゆる「保守政党」が自民党しか存在しないのであるならば、その反対政党、つまり、自民党に対抗して来る「政党」は、現状では、必然的に「左翼」「革新」に成らざるを得ない「構図」に成ってしまうからである。

それは、1955年から、延々と引きずっている「1955年体制」と云う名の「保革対決」の「構図」なのである。

しかしながら、現状の日本の政治に於いて、「保守政党」への「アンチテーゼ」としてしか、最早、左翼・革新政党の存在する意味は無くなって来ている。

つまり、自民党の増長や堕落を監視する役割としての、本当に「限定的」な政治的存在意義でしかない。

かつて、「行革110番」と云った「革新系無所属」の議員が、ちょこっと持て囃された時期が有ったが、それはあくまで「お目付け役」でしかなく、「政権交代」に耐えられるだけの政治能力は皆無だったのだ。

ならば、最早、時代錯誤のさながら「神学論争」のような「戦争と平和」の口論を繰り返すだけの「保守」対「革新」の政治的対立軸の「構図」は、速やかに転換させなくてはいけない。

「革新政党」や「左翼」が、(特に「日本に於ける、左翼」が)国政を担当出来得ないのは、ひとえに、「国家観」が欠如しているからである。

世界的に見て、フランスにしろ、イギリスにしろ、ドイツにしろ、「左翼政党」であっても、「国家観」を有し、「愛国心」を確固として保持している。

況や、「社会主義国家」に於ける「左翼」は、日本の「それ」のような生温い感じとは程遠いのだ。

だからこそ、日本に於いては、最早、保守政党対保守政党と云う対立構造でなければ、何時まで経っても「児戯」のような国会論戦しか行われないのである。

つまり、自民党と肩を並べるだけの「保守政党」が、絶対にもう一つ必要なのである。

さらに、二つ目の理由として、「自民党」は、必ずしも「保守」ではないからである。

そもそも、自由民主党は、党人派政治家の三木武吉によって、「あくまで、選挙に於いて、左翼政党を多数派にせず、日本を社会主義国家に絶対にさせてはいけない。」という目的から「保守合同」というかたちで「結党」されたのである。

つまり、「とにかく政権与党たれ!どんなことがあっても、社会党や共産党に政権を取らすな!」ということが全ての「政党」だったのである。

その証拠に、三木武夫、宇都宮徳馬、鯨岡兵輔、河本敏夫といった、むしろ「左翼」に対してシンパシーを感じる「国民協同党」まで含めて出来上がったのである。

1955年と云えば、世界的には「米ソ冷戦構造」の真っただ中であり、「日本を赤化させない!」というテーゼは絶対であった。

だが、野党第一党の日本社会党が、非現実的な政治理論の隘路に立ち往生し、絶対に政権獲得は不可能な状況と成った。

一方で、自民党は、政権与党であることによる「権力の旨味」にすっかり魅了されてしまい、保守だろうが、何だろうが、とにかく政権与党で有り続けることに固執するようになってしまった。

良くも悪くも「何でも有り」に成ってしまった訳なので、そのうち、党内派閥の領袖が、自民党総裁・内閣総理大臣を代わる代わる担当することによって、あたかも「疑似的な政権交代」が、為されるようになってしまったのである。

何故、自民党だけが保守では不十分なのか?

何故、自民党以外に、確固とした保守政党が必要なのか?

それは、昨年暮れに電撃的にまとまった日韓合意の時を思い出してもらえれば良い。

あの、日韓合意の際に、いわゆる「保守派」は悲憤慷慨した。

「安倍さんに裏切られた!」と慟哭したのである。

だが、その後、国会の答弁で、政府の事務方、外務省の官僚どもはともかくとして、安倍総理の「真意」が飛び出して来たのである。

但し、それも、日本のこころを大切にする党の代表である中山恭子議員の国会質問に引き出されるかたちで表に出て来た「答弁」だったのである。

もし、「保守」の「野党」が国会で皆無であったならば、安倍総理の「真意」は、絶対に露見することは有り得なかった訳である。

つまり、「与党」だから出来ることと、「野党」でしか出来得ないことというのが、厳然と存在するのである。

だからこそ、確固とした保守の政党、「日本のこころを大切にする党」の存在意義が有り、また、どんなことがあっても存続させなければ、いくら安倍総理の自民党が選挙に大勝したところで、いわゆる「保守派」の政治的なパワーは減衰するであろう。

何故なら、只今現在は、安倍総理・菅官房長官だから、自民党は「保守」なのである。

安倍総理が退任されたら、その後は、全くあてにならないのだ。

現に、第一次安倍政権の後の福田康夫政権はどうだったろうか?

同じ、「清和会」という「派閥」が引き継いだ「内閣」であったが、見るも無惨な体たらくであったではないか?

つまり、現時点で「自民党」に、いくら投票したところで、保守的な政治的潮流を維持出来得る「担保」にも「保障」にも成らないのである。

自民党とは別の、確固とした「保守政党」が、それなりの勢力を形成出来得て、はじめて「保守的な政治的潮流の維持」が可能に成ると云えるのである。

しかしながら、いわゆる「保守派」は「少数派」である。

みすみす「票を割る」ようなことは、愚行ではないか?と。

しかし、それは、いわゆる「保守派」が、国民に広く認知され、支持されていないからである。

つまり、現在、国民の大多数が本当に政治的に希求している部分へ保守派としてアプローチをかけていけば良いのである。

現在の国民の大多数が本当に懸念しているのは、断然、「貧困問題」である。

勿論、「貧困問題」の深奥部には、日本人の「共同体」の「崩壊」が存在する。

だから、「貧困問題」は特効薬、頓服薬として、貧窮している国民層へ「お金を注入する」というドラスティックな政策が必要であろう。

と同時に、荒廃し、虚無的・刹那的な精神構造を立て直して、国民の道義的な再構築と、日本人の「共同体」の「再生」と云った、誠に迂遠な「体質改善」の療法も施さなくてはならない。

現在、「貧困問題」を専ら取り組んでいるのは、左翼、特に日本共産党である。

だが、日共には、所詮、日本という「国家」を真摯に受け止めることは不可能である。

だから、畢竟、補助金の際限無きばら撒きといった、インモラルな、背徳的な政策しか出て来ない。

かといって、トロツキストのような「世界革命」に身を投じることも出来ない。

だからこそ、保守の立場から、「貧困問題」に取り組まない限り、日本に於ける「貧困問題」は絶対的に解決が不可能なのである。

そうしなければいけない、と自分は考える。

しかしながら、「選挙」は或る面、非常にテクニカルな代物であり、「真っ向勝負」だけでは、成果が上がらないのである。

正直云って、自分は、目前に迫った、7月10日と予定される参議院議員選挙で、いかに「確固たる保守野党」である「日本のこころを大切にする党」を勝利させられるのか、実は皆目見当が付かない。

誠に情けない話なのだが、どうしたら良いのか、さっぱりわからない。

しかも、東京地方区でも候補者を擁立させると云う。

朝ドラの主人公ではないがwww「どうしたもんじゃろうのう」と云うのが、只今現在の自分の本心である。

嗚呼。

(なお、「おおさか維新の会」は、「改憲政党」ではあるかもしれないが、「真正保守」ではない、というのが自分の私見である。悪しからず。)

日曜日の夜に、母から「腹痛が耐え切れない!」ということで、救急車を呼んだ。
「明朝まで我慢出来るか?」なんて一切云わずに、すぐに電話で救急車を呼んだ。
こういう思い切りの良さは、亡父譲りであるwww
で、救急病院に担ぎ込まれて、当番医からの診察は、「腸閉塞」だった。
予想以上に重篤だったので驚いたが、処置が早かったのが良かったようである。
実は、母は40年ぐらい前に、小腸の手術をしている。
その為、手術の後遺症として、小腸が癒着し易く、「腸閉塞」に成り易いのであった。
だが、小腸の手術から40年ぐらい経って、最初の「発症」だった。
自宅で、読経とご真言読誦をしたが、懇意にしている奈良県護国神社の宮司様に、翌日、月曜日の朝、病気平癒の祈願を依頼させてもらった。
そして、月曜日のうちに、ご祈願を厳修して下さったとのこと。
日が開けて火曜日。
主治医からの説明を木曜日に設定した。
仕事を終えて、夜、母の病室に見舞いに行ったら、何と、主治医の先生が来られた。
「じゃあ、今、ご説明しちゃいましょう。」と云うことに成った。
で、主治医の説明を聞いて、びっくり。
「もう、おならも便も出ていますので、流動食などを経て、お粥さんまで行ったら『退院』ですね。
順調なら、土曜日ぐらいに。」
当初の、日曜日の夜の当直医の見立ては「2週間くらいは入院療養」だったのだ。
あまりに「お運び」が早いので、正直、驚いた。
まだ、奈良県護国神社の祈祷札も到着していないのにwww
やはり、神仏は、ちゃんと居られるということなのだろう。
あなかしこ、あなかしこ、合掌。

たまった仕事を何とか処理していくということは、実は「債務返済」に似ている。
借金を返すという行為も、なかなかすぐには出来ない。
だから、ついつい、一気に借金を返済してしまいたいという「誘惑」に駆られてしまいがちである。
しかしながら、一気に借金を返そうにも、所詮は手元不如意なのである。
つまり、土台、無理な話しなのである。
ところが、その「無理」を感情的に通そうと駆られるから、「道理」が引っ込むのである。
手元に大金が無いにもかかわらず、借金返済を一気に前倒しにするには、何処からか大金を調達してこないといけない。
しかも、大金を調達する術は、だいたい危なっかっしいことが多い。
「大博打」か「ご都合主義」の「美味い話し」なので「胡散臭い」ことこの上無いのだ。
で、結局、しくじって、却って傷口を広げてしまうザマとなる。
ならば、どうするのが「正解」かというと、返済可能な少額な金額を多頻度で返済し続けていくしかないのだ。
一日、10円でも20円でも返済していく。
だが、1年で3650円、7300円と成る。
勿論、利子というものを無視してはいけないが、確実に返済出来るスケジュールの方が、実は一番良いのだ。
仕事もそうである。
納期と云うものが有るが、そこから逆算して、一日あたり、どこまで進行、処理をしていけば良いかを割り出して「行程表」を作るのである。
あとは、一気に片を付けようと焦らずに、粛々と進めていくしかない。
ただ、状況が激変して、「依頼内容」がクルクルと二転三転するようであると、そんな悠長なことは云っていられなくなるのだが。
結果として「臨機応変」という「場当たり的」な対処に堕ちてしまうのだが、例えそうであっても、「基本は少しづつ、着実に、無理をしないかたち」で行うことを意識しておくべきだろう。
「どうせ、行程表なんか作っても、全然意味が無い!」と感じても、その時点時点で、大まかな「行程表」を頭に思い描くように心掛けるべきだろう。
ちなみに、「行程表」を「作成」することを「目的化」してはいけない。
あくまで、山積する「仕事」をいかに、着実に、無理無く、遅滞無く処理していくか、ということが主眼である。
「資料作成」に「耽溺」してはいけない。

母は、命に別状は無いという病状だった。

ただ、しばらくは入院し、療養しないといけない。

だから、ジムに行くぐらいは出来そうだwww

但し、数日間、遠出するようなことは無理。

しかし、「病人」とは、本当に我慢が出来ない代物である。

ちょっとでも、待たされると激怒する。

まあ、苦しいから仕方無いのだろうが。

その点、亡父は凄かった。

入院してから「何をしてくれ」と言い募ることが無かった。

ただ、黙っていた。

それは、耐えていたのか、既に、死を従容と受け入れて諦観していたのか。

病床でジタバタするようなことは一切無かった。

多分、自分は、そういう境地には成れないと思う。

肉親が、或る面、凄過ぎるとプレッシャーが大き過ぎる。

親子でも、全くの別人格であると、割り切るしかない。

着手すべき「課題」が目の前に山積していることを、よくよく把握し自覚もしているのだが、「自分はどうしたらいいんだろう。」と嘆息する。

実は、結論は簡単に出て来る。

「課題」を優先順位から一つ一つ着手していくことしかないのだ。

にもかかわらず、「一体全体どうしたらいいんだろう」とか「自分は本当は何をすべきなのだろうか。」とか自問する。

それは、現実的な問題意識を「本質的」「根源的」な問題意識にすり替えるふりをして、単に現実逃避しているだけ。

ただ、怠けているだけ。

だが、それは「生理反応」なので、まるっきり無視してもどうかと思う。

だいたい、そういうトンチンカンな触手を伸ばし始める場合は、疲労困憊しているか、パニックに陥って乱心しているのだ。

美味しいものを食べ、入浴し、休養すると、まともに戻ることが多い。

但し、本当に頭脳明晰な人の場合は、芽生えてきた「疑念」が、潜伏している問題点の片鱗を掴んでいる可能性が高いので、絶対的に検討に値する。

勿論、自分はただの魯鈍なだけなので、「馬鹿の考え、休むに似たり」だ。

どうせ「似たり」なのだから、しっかりと「休む」べきだろう。

母が救急入院した。

今後のスケジュールから何から、全部、組み替えないと。

取り敢えず、入院の事務手続きなどをするので、仕事は行けない。

どれくらい看病にかかりきりになるのか?

現時点では一切が不明。

だから、あれこれ思い悩んでも仕方ない。

勤行礼拝して、寝るのみだ。


自分は、現在「貧乏暇無し」なのと、元来が「行き当たりばったり」なので、拙文も下書きを書かない。
だから、何時まで経っても、完成度が低いのだ。
下書きを書かない、と云うことは、拙文がどういう風に結末を迎えるのか、書き上げてしまうまで全く解らないということなのであるwww
全く、いい加減で危なっかしいことであるwww
畢竟、拙文は、「期せずして」ということの頻発である。
先日も、天御中主神について拙文を書き進めていったら、最終的には「大本」まで行き着いてしまった。
だから、題名も、書き上げた後に、変更することに成ったのであるwww
それはさておき、「大本」について言及したからには、近代・現代日本に於ける「新宗教」のもう一つの大きな流れである、法華経・日蓮主義系の「新宗教」についても言及したく成った。
ただ、ちょっと、執筆まで準備が必要に成った。
たまたま本屋で、島田裕巳の「八紘一宇」と中島岳志の「血盟団事件」と云う本を買った。
まずは、これを一読してからでないと。
いわゆる法華経・日蓮主義系新宗教の流れについてのキーマンは三人である。
田中智学・久保角太郎・牧口常三郎である。
三者共、現存する宗教団体の始祖である。
田中智学は国柱会、久保角太郎は霊友会、牧口常三郎は創価学会である。
勿論、「法華経・日蓮主義」と云う、大きな括りとして捉えるのならば、高山樗牛や北一輝、石原莞爾、井上日召、宮澤賢治なども入って来る。
さらに、戸田城聖、池田大作、庭野日敬、関口嘉一、宮本ミツと云った宗教団体指導者も無視出来ないだろう。
だが、例えば、池田大作はオルガナイザーとしては傑出した人物であるが、「創価学会」を創唱した訳ではない。
ということで、田中智学・久保角太郎・牧口常三郎の三人を軸とした記述になることを想定している。
ただ、問題は、自分自身が、いわゆる法華経・日蓮主義の「信仰者」であることである。
「信仰者」であるがゆえに、書き得ることもあるし、逆に筆が鈍る点も有り得るだろう。
そこらへんが悩ましいところでは、ある。
しかしながら、性根を据えて書かせてもらう覚悟なので、どうかお許し願いたい。
(敬称略)

現在、「貧乏暇無し」なので、いわゆる「保守派」の講演会・集会・勉強会の類いには、ほとんど参加していない。
だから、もう、事実上、自分はいわゆる「保守派」としてカウントされることは無いのかもしれない。
まあ、それも致し方なかろう。
その代りに、昨年末頃から、法華経信仰を基本とした「勉強会」に参加させていただくことになった。
先述した通り、自分は小学生の頃に、お題目を唱える続けることによって、気持ちが昂揚することを実感した。
思えば、それが「始まり」だった。
我が家は、曾祖母の代から熱心なプロテスタントであり、神棚も仏壇も無かった。
しかも、祖父の代から教会に通うことも無くなり、聖書も読むことが無くなったので、「無宗教」の家だった。
だが、母方の実家が日蓮宗だったので、子供心に、何となく「南無妙法蓮華経」というお題目を知ったのである。
本当に、他愛の無い、感覚的な切っ掛けだった訳で、「信仰」などと云えるような代物ではなかった。
しかしながら、子供の好奇心というものは、実は絶対に侮ってはいけないもので、そこから「日蓮大聖人とはどんな人物だったのか?」「法華経とは何なのか?」という興味が湧いて来て、後は調べるだけ調べていったのだった。
それから、池上本門寺や雑司ヶ谷鬼子母神堂など、日蓮宗の仏閣を巡り出した。
確か、中学生の時に、池上本門寺で「法華大曼荼羅」を入手した。
ただ、お小遣いが少なくて、当時¥3000だった布製のお曼荼羅を断念し、¥2000の紙製のお曼荼羅で我慢せざるをえなかった。
そのお曼荼羅は、今も自室に有る。
岩波文庫の「法華経」を読破したのは高校生の時で、法華経の経本を入手したのは大学生の頃である。
特段、宗教団体に所属してはいなかった。
勿論、鬼子母神様の縁日の「8」のつく日には、結構、頻繁に鬼子母神堂へ参拝をした。
身延の七面山や能勢の妙見山にも上った。
しかしながら、それは「信仰」と周囲に胸を張れるような代物ではない。
ただ、自分は、法華経や日蓮大聖人が「好き」だったのである。
勿論、不遜な態度ではなかったのだが、自分は子供の頃から、ずっと「お付き合い」をして、それを現在まで手放さなかったに過ぎない。
ただ、長い付き合いなので、既に自分の身体に沁み込んでいるのである。
尾籠(びろう)な話しで恐縮だが、腹を壊すなどして、突如、大便をもよおした際など、額に脂汗を浮かべながら、思わずお題目をあげているのだ。
また、ウェイトトレーニングで、怪我の危険性が高い「デッドリフト」を行う前にも、ついついお題目をあげているのである。
だから、自分にとって、法華経と日蓮大聖人は大変馴染み深いのである。
そんな中で、と或る御仁のつてで、「法華経信仰」を基本とした「勉強会」に参加させていただくことになった。
「何を今更」と、自分は、全く思っていない。
確かに、自分は幼少期から長年、法華経に関して親しんで来た。
だが、それは、所詮、「我流」に過ぎない。
思い違い、心得違い、勘違いをしている点が多々見受けられるであろうと思っている。
だからこそ、良き師、良き先達、良き同志と巡り合い、そこで精進させてもらいたいと念願していたのである。
まだまだ、勉強会に於いては「新参者」の「未熟者」であるので、先師先哲からご指導を賜りたいと願っている。

最後に、自分なりの「法華経信仰」とは何か。
これを手短に記述してみたい。
もし、人から「法華経信仰を一言で説明して欲しい」と無理強いされた場合であるwww
自分の答えはこうである。

「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」
(宮澤賢治「農民芸術概論綱要」「序論」より引用)

自分は十代の時、宮澤賢治の、あまりに有名なこの一節に出会って、満身が打ち震えるほどの感動を憶えた。
これは、あまりにも気宇壮大で、絶望的なまでに迂遠な理想であるのだが、それゆえに自分は「真理」をそこに確固として見出したのである。
「法華経」とは、「大乗」であり、何よりも「菩薩行」「利他行」「菩提心」に立脚しなければいけない。

だから、もし、仮に、10名の仲間と共に、死後に「仏」に出会えたとしよう。
仏様は、我々、10名の一行を出迎え、こう仰ったとする。
「良くぞ、皆様、お越しに成りました。これより”浄土”へご案内致します。
しかしながら、誠に申し訳ありませんが、1名の方は”地獄”へ行ってもらいます。
悪しからずご了承ください。」と。
その時、
「ならば自分が”地獄”へ堕ちましょう!」
と即答出来るのが、真の法華経行者であろうと自分は愚考する。
真の法華経行者は、「持経者」である限り、どんな場所に居ようとも、既にそこが「霊山浄土」である筈なのである。
だから、例え、地獄に堕ちようとも、それが「菩薩行」「利他行」「菩提心」ゆえのものであるならば、地獄は即、「経力」によってたちまち「霊山浄土」へ変じる筈なのである。

少し「屁理屈」が過ぎたかもしれない。
拙いながら、我流の自説を開陳させていただいた。失礼。

「行」(ぎょう)とは、仏教用語である。
「読誦し奉る寿量品を以て助行と為し、唱え奉る妙法蓮華経を以て正行と為し」と云うように、仏道を極めんとする為に努めることを指す。
仏教とは、「成仏」つまり「ほとけに成る」為の宗教である。
禅に於いては、釈尊が菩提樹の下で大悟されたことに習って、瞑想し禅定することを主眼に置いた。
密教に於いては、護摩供に於いて、諸尊や諸天善神を護摩壇に勧請し、火生三昧による「供養」を行い、読経や真言を誦し、印形を結び、法具(三鈷杵・五鈷杵・金剛鈴など)を振るって仏と一体化し、「即身成仏」を目指すものである。
また、法華経行者に於いては、ただひたすら、「正法」、「経王」たる「妙法蓮華経」に絶対的に帰依し、没入し、読経と唱題に精魂を込めると同時に、広宣流布を以て、法華経を「身読」する境地を志向することである。
「行」とは、即ち、「行う」ことであり、実行すること、実践することに他ならない。
一方で、翻って我々の周囲を見渡してみると、この「行(ぎょう)」、つまり「行う」ということについて念頭から薄れて来ているような気がしてならない。
高等教育が行き届き、さらに、高度情報化社会と成り、今やインターネットにアクセスすれば、つまり「意欲」が有る者であるならば、相当な知的レベルの事柄を吸収することが可能に成って来た。
例えば、オカルトの分野である。
西洋の黒魔術に錬金術から、ユダヤのカバラから、支那の道教の錬丹術・金丹道から様々な護符、そして四柱推命・風水・陰陽道などに至るまで、ネットを漁っていけば、その手の話題に事欠かないくらい精通することが可能である。
それこそ、ホグワーツ魔術学校に入学しなくとも、ハリー・ポッターさながらの「魔法使い」に成れそうな気がするのだ。
だが、いくら「アブラカタブラ」と唱えても、「急急如律令」と唱えても、何も起こることは無い。
では、「アブラカタブラ」も「急急如律令」も、インターネット上の記述は嘘であったのだろうか?
そうではない。
「アブラカタブラ」も「急急如律令」も、いにしえの呪術師たちが多用した、正真正銘の本物の「呪文」なのだ。
そこで、現在の「情報化社会」の我々は、この「呪文」を「理解」しようとするのである。
「多分、この『呪文』には隠された『意味』が有るに違いない。ならば、その『意味』を『理解』すれば、『呪文』の『効力』が発揮される筈だ。」と。
だが、得てして、こういう「呪文」の「意味」は、「期待外れ」に終わる。
「アラー・アクバル」が「神は偉大なり」と云う「意味」でしかないように、いにしえの「呪文」の「意味」は、さほど衝撃的なものでは有り得ないのである。
そこで、我々は侮蔑するのである。
「何だ。大したことはないではないか。」と。
だが、それこそ、実は「愚の骨頂」なのである。
自分は、ボディビルをやって、ようやく、事の本質が掴めた。
結局、「理解」することも大切なのだが、それ以上に「行う」こと、実践し、実践を永続的に継続していくことが更に重要であったのである。
例えば、筋肉モリモリに成りたいと欲する。
その為には、ウェイトトレーニングをしなければいけない。
代表的な種目としてはベンチプレスが有る。
これを、それこそ、ネットなどの「情報」でしか触れなかったならば、「何だ。ベンチに寝て、バーベルを上げ下げすれば良いんだ。」としか思わないだろう。
確かに、「情報」としては、その通りである。
だが、実際に、ジムに行って、ベンチに寝て、バーを握ってみれば、バーだけでも上げ下げすることがいかに困難であるかが実感出来よう。
バーの握る幅や、降ろし方など、実際に行ってみると、ふらついてしまって上手くいかないのだ。
さらに、「ベンチプレス」という「種目」についての「理解」が出来たとしても、それでは胸の筋肉は発達しない。
毎週毎週、ベンチプレスを行い、さらに蛋白質(プロテイン)をしっかりと摂取しなければ、筋肉は大きくならないのだ。
だから、思いついた時にベンチプレスをし、プロテインを飲んだところで、何時まで経っても「マッチョ」には成れないのである。
つまり、実際に「行う」こと、実践することで、はじめて「変化」が生じ、「結果」につながるのである。
大胸筋をピクピクさせるくらい発達させるには、それこそ、何か月もかけて、何十回、何百回とベンチプレスを行わないといけないのである。
いくら、「ベンチプレス」という「種目」に関する「情報」やら「知識」やら「理論」に精通したところで、実際にトレーニングを行わなければ、筋肉は変わらないのである。
筋肉がそうであるならば、畢竟、頭脳や魂も同様であるに違いない。
「博識」になりたい、「情報通」になりたいと念願するのであるならば、一日のうちに、ネットでも紙媒体でも問わず、高い水準の「書物」や「記事」を読了するべきである。
人間の思考能力は、その読書量に比例する訳だから、一冊の本も読まず、一紙の新聞も読まないようであるならば、いつまでたっても「幼稚な思考能力」でしか有り得ないだろう。
魂の面でもそうであろう。
経文や真言の「意味」をいくら「知った」ところで、それでは仏の境地にたどり着くことは有り得ない。
あとは、毎日毎日、ひたすら読誦し続けることである。
密教の修行の中に、頭脳明晰となり、記憶力が抜群に優れるための「求聞持聡明法」というものが有る。
これは虚空蔵菩薩の印形を結び、真言をひたすら唱えるといった修行法であるという。
水を被ったり、火を起したりする必要は無い。
但し、虚空蔵菩薩のご真言を100万回唱える!のである。
もう、気の遠くなるような、目もくらむような「数」である。
だが、「量の変化が質の変化を生む」のである。
とにかく「行い」続けること。
そこに、はじめて「真」の「意味」が生じて来る訳である。
ボディビルが、バーベルやダンベルを何万回、何十万回上げ下げし、何万杯もプロテインを飲み干した結果、筋肉が決定的に変化するのと同じである。
だから、何事も、最初に「理解」することに固執し過ぎてはいけないである。
確かに、理屈や理論をちゃんと把握しておくことは重要である。
だが、まだ、よく解りもしない段階で、「意味」や「解釈」を求めてしまうのは、実は「無理筋」なのである。
現に「法華経」に於いて、「序品第一」は登場人物の名前の列記なので、その次の「方便品第二」に於いて、身も蓋も無い記述が有る。
この経の御教えは「難解難入」であると。
つまり、「とても難解で理解するのは困難である」と。
ついには、「難解之法 唯仏與仏」と有り、「この法は難解で、ただ、仏と仏でしか理解出来ない」と突っぱねているのである。
何故、法華経の全二十八品の中の、事実上の導入部とも云える「方便品第二」で、ここまで「かます」必要が有るのだろうか?
それは、「頭だけで理解しようと思うな」ということであろうと、自分は理解した。
つまり、単なる「理屈」ではなく、全身全霊をもってぶつかり、受け止めていくべき「経典」であると。
それには、一見、「矛盾」やら「論理的非整合性」など、おかしなアラが見えてくる。
しかしながら、それはあくまで上っ面だけでの「読解」なので、本当の、真の「意味」に辿り着けないだけなのである。
ならば、その「真理の扉」を開くには、やはり、何度も何度も読誦するしかなかろう。
そして、全身全霊を以て、「身読」する境地にまで辿り着いた時、ようやく、腑に落ちるのであろう。
まさに、七面山の頂きまで踏破しなくては見えて来ない「景色」が存在する訳である。
富士の高嶺に至って、はじめて「雷様を下に聞く」ことが可能に成るのであろう。
まだまだ自分は、あらゆる面で、そういった「本当の境地」に辿り着いてはいない。
ようやく、その入り口の道標を見出したばかりである。
今後は、その高い頂きに向かって、急峻な山道を必死の形相で上っていくしかないのである。
それには、やはり、良き師、良き先達、良き同志が必要不可欠であろう。
勿論、釈尊は、「犀の角のようにただ独り歩め」と説かれた。
だが、それは独善的な自己陶酔、自閉的なものを意味しない。
それは、付和雷同、右顧左眄、他人に迎合することを戒めたものである。
要は、自負と自戒の均衡である。
自負と自戒を共に大切にし、論理と行動を共に大切にすることが、肝要なのだと思う。

また、沖縄で痛ましい事件が起こってしまった。
在留米国軍の軍属による若い女性の殺害事件である。
この軍属は、元米軍の兵士である。
軍隊に入るということは、戦う技術を習得することを意味する。
販売会社に入るということは、販売・営業の技術や知識や心構えを習得しなくては、給料を貰うに値する「仕事」が出来ない。
だから、販売・営業の経験が有る人間は、販売・営業のスキルを身に付けることになる。
軍隊は、戦闘する組織である。
日本共産党や日教組などは「人殺し」と露悪的などぎつい表現をするが、戦闘に勝利するに当たっては、必ずしも「殺戮」が至上命題には成り得ない。
但し、戦闘に勝利する当たっての多数の選択肢の一つとして、「敵の殲滅」が存在し、その選択肢を放棄せず、留保するに過ぎない。
しかしながら、戦闘に耐え得る肉体の鍛錬と共に、目の前の人間の動きを制圧する格闘技術も、訓練の項目に含まれる。
勿論、ノウハウというものは「知的な道具」であり、「道具」自体そのものに、善悪の要素は存在しない。
要は、技術や道具をどのように活用し運用するか。
庖丁も、使い方によっては、調理器具にも、殺戮凶器にも、いかようにも転じるものだ。
だから、軍人に成る人間は、高い道義性・倫理観が要求されるのである。

さて、米国軍に関して。
米国に於いても、貧富の格差は恐ろしい勢いで拡大化しているという。
元々、「移民」の流入によって成長し、膨張して来た国家である。
「着の身着のまま」で入国して来た「移民」と、既にアメリカの国家社会に於いてのエスタブリッシュメントとして君臨してきたWASP(白人(ホワイト)、アングロ・サクソン、プロテスタント)層では、「ふりだし」も違う訳だから、当然「人生双六」の「あがり」も歴然とした違いと成る。
畢竟、金も人脈も学歴も何も無い者たちは、安くこき使われて「貧困層」と成る。
その「貧困層」が、現在の境遇から抜け出す為には、自分の身体と命を賭した「大博打」で勝たない限り不可能である。
そして、「貧困層」の若者たちが、安定した社会的地位と比較的高額な給与、さらに高等教育への学校進学への資格を得るための一番の早道が軍隊へ志願することなのである。
教育レベルがあまり高く無く、欲求不満と上昇志向が強く、若さゆえに体力と精力を持て余している若者が、軍隊に入って、栄養価の高い食事を摂取し、肉体の鍛錬と格闘技術の訓練ばかりに没頭した場合、どうなるか。
パワーが拡充した反面、自己抑制が欠如した、一種のモンスターに成ってしまうだろう。
体つきが逞しくなり、男性ホルモンの分泌が以前よりも旺盛と成れば、あらゆる面で積極性が増して来る。
筋力トレーニングの素晴らしさは、肉体的な変化と同時に精神的な変化をも惹起せしめる点に有る。
しかしながら、精神的な積極性は、或る面、「攻撃性」と成って対人関係に出て来る。
筋力が増してくれば、気に食わない奴を「制圧」してみたい、という欲求も生じて来る。
だから、目が遭った相手と喧嘩をするようなことになるのだ。
沖縄に限らず、東京都の横田基地周辺でも、在留米兵による「事件」一歩手前の「アクシデント」や「トラブル」は、実は存在しているということを、自分は耳にしている。
だから、米軍基地周辺では、やはり米兵は怖い存在なんだと自分は思う。

さて、伊勢・志摩サミットと、その後のオバマ大統領による広島訪問という日米首脳外交の「大舞台」を目前に控えた、只今現在、沖縄に於いて在留米軍基地関係者による殺人事件が起こってしまった。
左翼どもは、「好機」とばかりに、反基地の論陣を張って責め立てている。
一方の、いわゆる「保守派」はというと、苦悶の表情である。
本当は、「中国共産党・人民解放軍の脅威が差し迫っているのだから、在留米軍基地は、どんなことがあろうとも絶対に必要なんだ!」と抗弁したいのだ。
だが、今、いたいけな若い女性(しかも成人式を迎えたばかり、と云う)が、無惨に、在留米軍関係者にシリアル・キラーされたというにもかかわらず、そんな反駁をしようものなら、人間性そのものが疑われてしまうだろう。
ここは「ほとぼりが冷める」まで、「忍」の一字、というところだろうか?
だが、それで果たして良いのか?
「米軍の基地は不要だ!」と云う声に対して、そろそろ、いわゆる「保守派」も真摯に向き合うべきではないのか?
「こんな無惨な事件が起こる原因は在留米軍基地が有るからだ!」
その通りである。
だったら、米軍には「お引き取り」してもらうしかない。
その代り、沖縄には新たに自衛隊が駐屯するのだ。
我が自衛隊とて、不祥事が皆無である訳ではない。
だが、今回のような痛ましい事件は、我が自衛隊が起こすことは有り得ない。
だから、もう、現在存在する米軍基地を、全部、自衛隊の基地に代えていく。
そうすべきではないだろうか?
勿論、防衛費は増大する。
更には、「核武装」や「空母」を保持することを議論することに成ろう。
勿論、いわゆる軍事の「専門家」の方々から見れば、これは「暴論」であり、「絵空事」でしかなかろう。
だが、いくら「訳知り顔」で「御高説」を垂れたところで、国民の肚に落ちなければ、それこそナンセンスだろう。
「軍事基地そのものが不要である」というのは、現在の世界に於いて、国家間やテロリストによる軍事的脅威が厳然と存在する以上、虚妄である。
しかしながら、「在留米軍基地は絶対に必要不可欠である」といまだに固執し続けるのも、最早、限界だと思う。
所謂、「戦略家」の「左翼」が、「護憲的改憲」と云う戦法を提示したように、いわゆる「保守派」も、「在留米軍撤退、自衛隊による国防の完成」を志向すべきではないだろうか?
やはり、「独立自尊」こそが、肝要であると、思う。

青林堂から「さよならパヨク」という著書が出た。
http://www.garo.co.jp/comic/sayopara.html
著者は千葉麗子で、かつてアイドルもしていた御仁だったが、いわゆる東日本大震災の福島原発事故を契機とした脱原発運動の「リバイバル」wwwに参加し、一時期は尖鋭的な反原発の活動家だった。
その彼女が、反原発運動などから、左翼全体についての欺瞞性というか、愚昧さ、卑劣さに気が付いて、「回心」され、現在は「愛国保守」としての活動に邁進されているとのこと。
まあ、左翼からの転向手記ということなのだ。
一読の価値は有ると思うが、自分は只今未読である。
だから、「未読」のくせに、あれこれと云うのは筋違いも甚だしいのであるが、まあ、許して欲しいwww
何度も書いているが、自分は「転向左翼」である。
だから、はばかりながら、それこそ「SELDs」の若い衆なんかよりも、遥かに左翼に関しては知悉している(つもりだ)。
何なら、「アナ・ボル論争」やらディミトロフの「人民統一戦線」やら「プロレタリア文化大革命」やらを、「説明してみろ!」と云われたら、説明が出来る。
多分、「SELDs」の連中は、「反知性主義」やら「立憲主義」やらは、偉そうに御託を並べられるだろうが、その源流とも云える「左翼」イデオロギーそのものについては、ろくに説明は無理だろう。
「そんなことはない!」と抗弁するのなら、「構造改革派と労農派の説明をしてみろ!」と逆質問してやるwww。
閑話休題www
だから、今更、左翼が「パヨク」であって、駄目駄目なんだっていうのは、もう、よく解っているのだ。
しかしながら、問題なのは、現在、左翼に関する知識や常識が、ほとんど風化し尽くされてしまい、その凶悪さ、陰湿さ、悪辣さが理解不能になりつつあることである。
だからこそ、「パヨク」なんていう、「新語」を作って、嘲笑しているのだろうが、それは或る面、左翼そのものの矮小化に成っている。
つまり、左翼のおぞましさを軽視し、侮ってしまっているのだ。
確かに、現時点の日本国内の左翼のほとんどは、知的レベルに於いても、人間的資質に於いても劣化が著しい。
だが、左翼とはインターナショナリズムであり、グローバリズムなのである。
真の敵は、実は国外に居るのだ。
ならば、外国の左翼は「パヨク」なのかと云ったら、大きな間違いであって、彼らの狡猾さと酷薄さは、さながら「悪魔」のようであるのだ。
第一、かの20世紀の世界史は、事実上、左翼イデオロギーによって席捲された「世紀」だったのである。
レーニンやスターリンのボルシェビキ、毛沢東の中国共産党、朝鮮戦争などの金日成、ポル・ポトのクメール・ルージュ、フィデル・カストロとチェ・ゲバラのキューバ革命、ホー・チミンのベトナム戦争。
さらに、リビアのカダフィによる「緑色革命」、ペルーのセンデロ・ルミノソ、イラクなどの「バース党」も、全部、左翼である。
そして、何よりもムッソリーニのファシズム、ヒトラーのナチズムも左翼である。
そもそも、ナチスとは「ドイツ国家社会主義労働者党」なのだから。
つまり、かつて、世界中で左翼が人々を魅了し、陶酔させ、暴虐の限りをし尽くした訳である。
何故なのか?
やはり、そこのところを、本当に真摯に取り組んで行くべきではないのだろうか?
確かに、現在の日本人の左翼どもは「パヨク」で、侮蔑するだけで充分かもしれない。
だが、下手をすると、国外から、一見、真新しい装いをした「左翼イデオロギー」が流入した場合、左翼に対する知識も常識も皆無な日本人は、いわば全く免疫が無い状態なので、瞬時に罹患、発病、感染してしまう危険性が大きいのである。
現に、江崎道朗先生のご講演などによると、戦前のコミンテルンの時点から、既に日本の左翼は外国の左翼に完全に支配・操縦されていたというのである。
これは、中江兆民、幸徳秋水、大杉栄ぐらいまでは左翼人でありながらもナショナリストとしての一面を保持出来ていたが、山川均以降から、既に日本の左翼指導者は、ほぼ外国の左翼に操縦されていたのではなかろうか?
だから、それ以降から現在に至るまで、日本の左翼人は、とにかく「反日」であり、ナショナリストとしての側面を削ぎ落されてしまっているのではないだろうか?
(西尾末広、西村英一、春日一幸などは例外だろうが)
だからこそ、「パヨク」とつるんで、同じような低レベルな位置まで、いわゆる保守派が下りてしまっていてはいけないのである。
本当の意味での「政治闘争」は、高度な知的レベルが問われると同時に、「人間性」そのものまでも吟味されるのである。
単なる「賢しら」な小利口であざとい立ち回りでは、全く勝負にならないのである。
はっきり云って、「パヨク」だ何だと云っている段階ならば、いざと云う時の「正念場」では全然歯が立たないだろう。
まずは、意識の問題である。
そもそも左翼とは何なのか。
その源流までさかのぼり、根源的なところまで掘り下げたかたちで問い直していく意識を持ち得ない限り、いわゆる保守派は、新たな装いで攻めこんで来る「左翼」に必ず敗北するだろう。
自分は、そう云う意味で、本当に危機感を感じている。
「油断大敵」、である。

五月の連休も明けて、「日常生活」に「復帰」した。

ここ数日、初夏を思わせる日々が続いているが、「気候」を勘定に入れないにしても、ここ数日の自分の「日常生活」は「快適」である。

まず、「仕事」に復帰したのだが、勘も鈍らず、ミスもほとんど無かった。

やはり、身体に馴染んだ「仕事」の方が、肉体的にはともかくとして、精神的には非常に楽である。

また、大好きな筋トレも継続して行うことが出来て、すこぶる充実感が有る。

勿論、所詮は「非正規雇用」の「派遣社員」風情なので、それこそ、三か月先の「将来」も全く見通せない。

当然、「人生設計」云々など、出来よう筈がない。

だが、自分は、只今、それほど精神的に辛くはない。

数年前、大企業の正社員だった時、自分は毎日毎日が苦痛だった。

いつまでこの苦しみが続くのか、悶々としていた。

諸般の事情により、自分は、「研究開発部門」の「支援」をする部署に異動したのだが、自分は結局、その部署に適応出来なかったのだ。

外回りから総務などの内勤まで、一通りの「職場」の「業務」に適応して来た自分であったが、「研究開発部門」は、どうしても駄目だった。

何故なら、職場での上司や同僚の「会話」が、全く「理解不能」だったからである。

「化学」に関する専門用語が飛び交う中、自分は、何がどうなって、自分がどうしたら良いのか、皆目見当がつかなかったのである。

結局、自分は心身の許容限度を超過して「鬱病」を発症してしまった。

人事部には、異動願いを何度も何度も申し出て嘆願したが、組織が大きいと一人や二人の移動はかえって困難なのである。

全社的な組織改編でもない限り、自分はこの部署から抜け出すことは不可能だった。

だから、休職して、なんとか鬱病の症状が軽くなっても、職場と自分の関係は全く変化が無いので、結局、鬱病の症状がぶり返して、また休職せざるを得なくなったのである。

そして、ついに、会社側は「鬱病の快癒の見込み無し」と判断したのである。

勿論、正社員として会社に「しがみ付いて」いれば、安定した収入も、二十年後以降の人生設計も保持出来た。

しかしながら、自分は職場に於いては、既に「生きながらにして死んでいた」のである。

もう、限界だった。

本当に、いっそ南海電車の線路に飛び込んでしまおうかと幾度脳裏によぎったことか。

だから、自分は会社を辞めた時、正直云って、ほっとしたのである。

今の自分は、それこそ、派遣先の正規雇用の人間に、蔑まれたりすることも有る。

また、先述したように、来年、半年はおろか三か月先のことさえ不透明なのだ。

けれども、自分は、今、毎日が充実している。

一方、我が母は、毎日毎日、「やっぱり正社員を辞めるべきではなかった。」と繰り言を云う。

確かに、母からすれば、正規雇用の「安定」した「将来」が担保されていれば、何の「不安」も「心配」も無いのだろう。

だが、母は、自分が実際に、職場でどういう苦しみにのたうちまわっていたのか、そんなことは一切どうでも良いのである。

自分の「心配ごと」さえ無ければ、それで良いのである。

確かに、今の自分の非正規雇用の身分は、絶望的なまでに将来のことが思い描けない。

しかしながら、よくよく考えてみれば、二十年後、三十年後の「将来」が「確実」に「設計」可能であるという意識自体が、この2016年・平成28年現在に於いては全くの「幻想」に過ぎないのではないだろうか?

数年前まで、「世界の亀山モデル」と豪語していた家電メーカー大手のシャープは、結局、台湾企業に身売りした。

三菱自動車は日産・ルノーの傘下に入った。

東芝だって、今後、どうなるか解らない。

つまり、日本、というより世界有数の大企業でさえ、呆気無く「清算」されていく「時代」なのである。

シャープにしろ、三菱自動車にしろ、東芝にしろ、多分、少なくない人数が「退社」せざるを得なくなる訳である。

ならば、「自分は正社員でござい!」と安閑としていられる人間など、果たしてどれくらいいるのであろうか?

つまり、結局、誰しもが「板子一枚下は地獄」であることに代わりがないのだ。

大きな船であろうと、小舟であろうと、荒れ狂う大海原に於いては、何時でも転覆の危険性が付きまとうのである。

かくなる上は、諸行無常、生生流転が世の習いであると思い知るべきであろう。

何も、自分は、贅沢三昧をしたいわけでも、立身出世がしたい訳でもない。

ただ、生まれて来た以上は、世の中に対して何らかの貢献をさせて欲しいと希求するだけなのだ。

名誉も称賛も欲しいとは思わない。

いくばくかの、自由な「時間」と「金銭」を得て、尊敬すべき師や仲間と、愛する家族と共に、健康で生活出来れば、それだけで充分過ぎると思う。

多分、自分のような「価値観」は、以外と多くの「同時代」人が共有しているように思う。

だが、それは、間違いなく、消費を冷え込ませ、刹那的な意識を持たせることに成ると思う。

それは、間違いなく「マクロ経済」に於いて、深刻な転換を惹起せしめることであろう。

このまま、「俺たちには明日はない」と思わせる「社会」を「政治」が放置し続けるのであれば、日本社会は、様々なかたちで「変容」せざるを得ないだろう。

少なくとも、自分個人は、どうすることも出来ない。

ただ、毎日毎日を必死に過ごしていくしかない。

一日一日、日銭を稼いで、食費やら光熱費やらの支払いに充当させることで精いっぱいなのだ。

だから、「憲法改正」だとか「国防」だとか、本当に自分には「無関係」なことにしか感じられなくなって来ている。

「政治活動」に参加出来る、金銭と時間の余裕が有る人が、何かいろいろなさっているようにしか感じられなくなってきている。

朝から晩までずっと働いて、ギスギスした人間関係を何とか乗り越えて、ようやくプライベートの時間を手にした時、手元に有るごくごくわずかな「時間」と「金銭」を「国家」や「民族」や「平和」や「国防」に対して、果たして投じる気持ちが起こり得るのであろうか?

昨夏の国会周辺の安保法案反対の諸活動を行える「活動家」の多くは、年金生活者と学生だった。

中には非正規雇用などの「労働者」も居たようだが、本当に「時間」と「業務」に追いまくられているほとんどの「労働者」にとって、戦争も平和も所詮「他人事」なのである。

それは、結局、「民主主義」の「空洞化」に成るだろう。

「政治」に対して、あまりに「無関心」な人々に対して、「民度が低過ぎる」と侮蔑するのは尤もである。

だが、「文化的最低限の生活」が保障され得なければ、「政治」に対する「意識」の高まりなど、自分は無理だと思う。

もう、それくらい、この日本の社会の「本当」の「危機」は深刻化していると思う。

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