いざ、就寝しようとしたら、親子で言い争いになってしまった。

母から、毎度毎度のお小言である。

「あそこの片づけが出来ていない」

「こんな深夜までパソコンで遊んでいる」

まあ、このご指摘は、お説ご尤もなので、しょうがない。

だが、

「仕事の現場を変えられたのは、お前が悪い」

「そもそも正社員をやめたのは、お前が悪い」

と延々と続いた。

ここまで云われたら、我慢も限界である。

こちらも、さながら切り裂くような言葉を畳み掛けることになってしまった。

現在、最悪の気分である。

気分が異状に昂ぶってしまい、就寝どころではない。

母は、クソ真面目で、几帳面で、真っ正直なのだ。

ただ、それだけなのである。

まあ、それだけで充分なのかもしれない。

しかし、些末な問題点を指摘するあまりに、最終的に、息子の今迄の人生の軌跡から人間性そのものに至るまで「全否定」する論調に逸脱する愚行を止められない、どうしようもない、「愚昧さ」が有るのだ。

「それを云っちゃあ、おしまいよ!」と云う、そこのところが、解らないのである。

思いついたこと、云いたいことを全て吐き出してぶつけてしまうことに、何のためらいも無いのだ。

だから、必然的に、母からの「忠告」も「指導」も、自分は全く受容出来無くなってしまったのである。

「お前は間違っている。自分は正しい。だから、云う通りにしろ。」

全てが、そうなのだ。

勿論、それは「愛情」から発せられたものであるのだが、その底には「侮蔑」が存在することが察せられるのだ。

「お前はまだまだ子供だから」と云う、軽蔑が確固として含有されているのである。

「愛」という感情には、上位の者から下位の者へ向けられる「方向性」の「構造」が有る。

しかしながら、その「構造」ゆえに、「蔑み」の色合いが付いてしまった場合、発した者がはたして「愛」のゆえであったとしても、受ける者には純然たる「愛」として受容することは出来なくなるのだ。

そんな「愛」は要らない。

そんな歪(いびつ)な、変な色が付いた、余計な代物の「愛」はいらない。

そういうことになるのだ。

だから、実は、愛するがゆえに、「与えない」「触れない」と云う、抑制的な情動も存在するのである。

母は、それが解らない。

多分、死んでも解らないのだろう。

嗚呼、やんぬるかな!

先程、会社から連絡が有り、「来月から新しい別の現場に行って欲しい」とのこと。
昨年7月からずっとお世話に成っていた現場から、ついに離れることになった。
この「予兆」は有った。
先週、母が突然の入院となって、急遽、仕事を休んだ。
その翌日に仕事へ行った時、派遣先の社員さんから、「これから繁忙期に入るので、人間を固定化したい。現在、代わりに入って来る人の『質』に差が有り過ぎるので、月曜から金曜までの5日間、全部来られる人にしてもらわないと一週間のスケジューリングが立てられない。」と云われた。
これは、確かに尤もな話で、自分が急に休んだ際に、代役で来た者が、どうしようもなく「使えない」のであるならば、その日に見込んでいたノルマを達成することは出来なくなってしまう。
かといって、母も若くはないので、今後、突発的に休みをいただく可能性は消せない。
「ならば、何も自分でなくても良いので、他に確実に来れるスタッフを派遣会社にご要請下さい。」と申し上げた。
その結果である。
まあ、これは、誰が悪い、とは云えない。
なるべく均一の「レベル」に達した人員を確保しているべき派遣会社が、実際は、そうではない現実である。
本当に、仕事を助けてくれる派遣社員も居れば、単に、駐車禁止を回避するだけしか満足に出来ないような「かかし」のような派遣社員も居る訳である。
現実問題として、「使える」派遣社員ばかりではないので、「人の振り分け」の状況によっては、顧客が満足出来ないような状況になることも発生する訳である。
また、アベノミクスのお蔭で、若くて優秀な人間は、多分、もっと時給の良い職場に「移動」しているのであろう。
結局、自分のような「ポンコツ」しか残っていなくなっているのだろう。
だから、派遣会社としても、派遣社員の維持確保と振り分けに難儀しているのが現実なのだと思う。
一方の自販機ベンダー会社も、各社、内情はとても厳しい。
結局、経費削減のため、人員は増やせないし、しかし担当する自販機は減らせない。
毎日、毎日、ノルマ!ノルマ!で追い詰められているのである。
しかも、朝礼だ、会議だ、報告書だ、改善提案だ、研修だ、と、業務以外の「仕事」にも時間が取られるのである。
それこそ、一分一秒を如何に短縮出来るか、ずっと頭を悩ましている訳で、そこで、なるべく「不確定要素」を減らしていきたいというのは首肯出来る。
ただ、突き放した云い方をすれば、そこまで補助スタッフの仕事のレベルの高さを要求し、出勤を強制し拘束するのであれば、最早、「派遣社員」に依存するのはおかしいだろう。
「派遣社員」というのは、実は、「業務補助」の「外注」なのである。
外部に業務を「任せる」ということは、人件費などの経費を削減する代わりとして、自社の制御が完全には出来ない不自由さをリスクとして織り込まなくてはいけない。
これは一種のパラドックスであり、個人個人、各部署ごとでは最善を尽くして努力している結果が、全体としては「破綻」をきたしているのである。
勿論、本当の意味で、個人個人や各部署ごとは「最善を尽くして」はいない。
ただ、やむにやまれず、緊急避難的に、現実的にはここまでしかやり様が無い「処置」をしているのである。
もし、時間や予算や人員などに「余地」が有るならば、「余裕」が有るのであるならば、違った結論と対処が出て来る訳である。
これは、「各自奮闘努力セヨ!」という「現場レベル」での頑張りの限界を来しているということを意味していると思う。
やはり、組織の首脳部、経営陣が、従来の手法から脱却して、決然と新しい戦略を捻出し、それに沿った組織の改編と業務の刷新を断行しない限り、遠からず「戦線崩壊」という末路となろう。
だが、それには「責任問題」が出て来る。
そうなった時、ほとんどの「人間」が「責任問題」を回避する選択をするのだ。
だがそれは「一将功成りて、万骨枯る」ということに他ならない。
まあ、どちらにしろ、自分にとっては、それほど影響は少ない。
困るのは、便所の有る場所が解らなくなるくらいだ。
だが、それくらいのことは、数日も経てば、憶えてしまうだろうし。
とにかく、派遣社員に成って、痛感したことは、組織に対する「帰属意識」が全く無く成ることであった。
つまり、自分が長期間、「お世話に成って来た」自販機ベンダーの会社との「関係性」が、瞬時に断ち切られる。
だから、当然、組織に対する「帰属意識」など、涵養されよう筈が有り得ない。
ただ単に、業務に従事する「一期一会」の「関係性」なのである。
だから、場合によっては「モラルハザード」の歯止めが効かなくなることも否定出来ない。
情報やデータや商品、部品、そして金銭の「持ち出し」という「狼藉」を防止する、心理的な「障壁」が低くなるのだ。
「こんな薄給で、しかも、所詮はよそ者扱いだし。」と云う「思い」が生じてしまったら、どんな「もの」であれ、「これぐらい外に持ち出してしまっても」という「悪心」の萌芽と成り得るだろう。
やはり、「衣食足りて礼節を知る」のであって、待遇に不満が募った場合、人間は悪事に走り易いのである。
本当に、業務や組織に貢献してもらえるような勤労を希求するのであるならば、しかるべき待遇を行わなければ、思わぬところで足をすくわれることになるだろう。
「あんまり人を安く使うと、後でかえって高くつくぜ!」(映画「用心棒」)ということになるのだ。

本日、靖国神社の清掃奉仕をさせてもらった。

今年に入ってからお付き合いをさせていただいているグループが主催するもので、自分は今回が初参加である。

但し、靖国神社の清掃奉仕自体は、もう、「毎度、お馴染み」であるがwww

本日は、70名を超える方々が参加して下さった。

これは大変素晴らしいことである。

ただ、最初は数名から始められたということらしいのだが、短期間のうちに、50名を超える方々が参加して下さるようになったという。

こちらのグループで、今後、いろいろとご指導ご鞭撻を賜りたいとこいねがっているので、なるべく懇意にさせていただきたいと思っている。

自分の父方の祖父は、昭和19年に、30歳を超えて「赤紙」(召集令状)が届いて、出征した。

既に、大東亜戦争は「末期的状況」であり、輸送船が米軍の潜水艦によって、ことごとく沈められる中で、何とかフィリピンまではたどり着いた。

だが、フィリピンのマニラ市に於いて、力尽きた。

戦後、父が、芝の増上寺に祖父の遺骨を取りに行った。

やけに軽いし、揺らすとカタカタと軽い音がする。

帰宅して、白い布の覆いを外して、木の箱を開けてみたところ、祖父の名前が記された白木の位牌だけしか入っていなかったと云う。

昭和23年に、墓地の権利を取得し、墓を建立して「納骨」した。

祖母は、「このお墓は、中に骨が入っていないから、有難味が無いんだよね。」と云っていた。

そして、祖母が死去して、祖母の遺骨を納める為にお墓を開けると、祖父の白木の位牌は朽ち果ててしまい、消えていた。

ただ、わずかに土が散乱しているのみだった。

霊園の管理台帳には、祖父、祖母、父の名前が記載されているが、実際には骨壺は二つしかない。

別に、「お墓参り」を忌避する訳ではないのだが、祖父との邂逅は、やはり靖国神社の方がしっくりとする。

狷介な祖父のことであるから、多分「英霊」と奉られることに苦笑している感じがする。

多分、「こんなところに神さまに成っているのは、『柄』では無いのだが。」と。

祖父は、とにかく破天荒な人だったというが、それは「はにかみ屋さん」だったからだろう。

「照れ隠し」の「表現」として、結果として「大暴れ」をしてしまうというのは、泉谷しげるなどを見ているとよく解る。

そんな祖父と「交流」出来る、かけがえの無い「場所」、それが自分にとっての靖国神社なのである。

いささか、「私的」に偏重し過ぎているかもしれないが、「祖父」に「孫」が会いに行くことが、「政治的行為」や「歴史認識」の問題として批判されるのは納得がいかないのだ。

気温が上がってくると、また8月15日のことが脳裏に浮かぶ。

ま、自分は例年通り、ということであろうがwww

よく、「困った時の神頼み」で、家内安全やら、商売繁盛やら、交通安全やら、合格祈願やらを、神社・仏閣で行います。

で、そういった「御祈願」や「御祈祷」をお願いする際には、最近は、広告宣伝やネットでの口コミの「情報」でもってお願いする神社・仏閣を選ぶ訳です。

だいたいに於いて、いわゆる「有名」なところです。

例えば、東京だと明治神宮や浅草寺なんか、そうです。

更に、「いや、神様にも得意分野が有るから」という「知識」が有ると、商売繁盛だったらお稲荷さんや恵比須さんで、合格祈願は天神さん・天満宮へ行こう、と云うことに成ります。

しかし、実は、この「担当分野」というのも、厳密ではなくて、日本に於ける自動車の交通安全祈願の発祥は、何と!東京都国立市という、東京都の多摩地域に在る、「谷保天満宮」という天神さん(菅原道真公)の神社なのです。

そういった中で、意外と重要なのは、自分に御縁の深い神社・仏閣にお願いするべきである、と云うことです。

考えてみれば、人間の場合でも、そうです。

何か、頼みごとをお願いする際に、「あの人は有名人だから。」という理由で、初対面の人のところに押し掛けて行ってお願いをして、本当に快諾してくれるでしょうか?

少なくとも、毎年毎年の「初詣」に行っている神社・仏閣でないと、神仏の方も、親しみを感じてくれないでしょう。

それこそ、毎朝の通り道で、鳥居の前で一礼していくような神社の方が、実は、神様の方が気に留めて下さっているような気がします。

だから、無名でも、小さくても、常日頃から「御縁」の有る神社や仏閣の方が、実は、願いごとを叶えてくれるのかもしれません。

自分は、ひょんなことから、奈良県護国神社と御縁が出来て、大阪府泉大津市在住の時には、毎月、南海電車と近鉄電車と奈良交通バスを乗り継いで参拝していました。

馬鹿ですwww

そして、東京に戻ってからも、奈良県護国神社護持会の会員であり続けて、もう、10年以上のお付き合いをさせていただいています。

そういった「御縁」が有るので、多分、奈良県護国神社の英霊も、今回、全力で「お働き」下さったのだと拝察します。

神社でもお寺でも、自分にとって気に入ったところが見つかったら、是非、その「御縁」を大切にしていきましょう。

何かあった時に、きっと助けてくれるかもしれませんよ。

昨日、奈良県護国神社から、病気平癒祈願のお札を郵送にて拝領しました。
そして、それから少したって、母から「土曜日の午後に退院が決定」とのメールが来ました。
こりゃあ、奈良県護国神社の英霊に対して、「報賽(ほうさい・お礼参りのこと)」をしないといけませんわ!
但し、遠方なので、参拝には行けませんので、取り急ぎ、お供物でも手配しますか、ね♪
いやあ、とにかく、あなかしこ、あなかしこ!

「貧乏暇無し」な上に、只今、母の「不在」で洗濯などの家事一切まで行わなくてはいけないので、「パソコンで遊んでいる」(母曰く)暇が無い。
しかし、思いついたことがいくつも有るので、時間を捻出しては、何とか書き留めている。

さて、ネットで面白い記事が載っていた。
(以下引用開始)...
全国20歳以上の採用業務に携わっているビジネスマンを対象とした「採用担当者がイメージする、“理想の新人像”」という調査で、女子部門第1位に有村架純が選ばれ、男性部門でも俳優の松坂桃李が第1位のプロ野球選手イチローに続く、第2位に選出された。

 本アンケートは、エヌ・アンド・シーが採用業務に携わるビジネスパーソン2000名の有効サンプルを集計した「新卒採用に関する調査」の一項目。「採用担当者がイメージする、理想の新人像とは?」という質問のもと、“理想の新人”のイメージに最も近い有名人を自由回答で男女それぞれについて調査した。

 女性部門1位に輝いたのは、『アイアムアヒーロー』『夏美のホタル』と出演映画の公開が続く有村、2位に広瀬すず、3位に綾瀬はるかと人気女優が続く。
 
 男性部門では第1位にプロ野球選手のイチローが選ばれたが、第2位にドラマ『ゆとりですがなにか』に出演中の松坂、次いで3位に福山雅治が選出された。
 
 「採用担当者がイメージする、理想の新人像」女性部門の調査結果は以下の通り。
1位 有村架純
2位 広瀬すず
3位 綾瀬はるか
4位 黒木華
5位 波瑠
6位 上戸彩
7位 土屋太鳳
8位 天海祐希
9位 石原さとみ
9位 浅田真央

 「採用担当者がイメージする、理想の新人像」男性部門
1位 イチロー
2位 松坂桃李
3位 福山雅治
4位 福士蒼汰
5位 松岡修造
5位 大谷翔平
7位 所ジョージ
7位 櫻井翔
9位 羽生結弦
10位 明石家さんま
(以上引用終了)
一読して、もう、ただただ苦笑するしかなかった。
「採用したい新人の理想」ということもあって、極めて優秀な方々ばかりの名前が挙げられている。
確かに、人事部の採用担当という「部署」は、いかに優秀な人材を自分たちの組織の中に組み込めるか、と云うのが「業務」である。
だから、とにかく、「優秀」であるということが、判断基準として有るのだろう。
しかしながら、所ジョージ、明石家さんま、羽生結弦、松岡修造などを挙げてしまうということに、自分はどうしようもない違和感が有る。
はっきり云って、これらの方々は、ただ単に「優秀」であると括るには、あまりに大き過ぎるのだ。
頭の回転の速さ、情熱、努力の打ち込み方、状況の即応さ、どれを取ってもずば抜けている訳である。
逆に、そこまで「才能」が有り過ぎると、かえってよろしくない。
つまり、「使いこなせない」のである。
例えば、明石家さんま師匠(に匹敵する若者)が、営業部の「新人」に配属されたとする。
そんな奴に、営業の話法やテクニックを、果たして「指導」可能なのか?
下手な「指導」をしようものなら、瞬時に、この「新人」から見下されるだろう。
他も同様である。
何気ない配布資料の文章のつづり方や、ちょっとした来客への応対などから、多分、これらの「理想の新人」と云われるような優秀な若者たちは、すぐさま、自分の職場や組織の駄目さ加減を瞬く間に察知してしまうだろう。
だいたい、「優秀」な人間と云う人物は、周囲の状況と自分自身の才能や人格、体力までも正確に把握してしまえている。
だから、あまりに自分の「職場」環境が「劣悪」であると判断したら、「ここは自分の居る場所ではない」と、あっと云う間にいなくなってしまうのだ。
その点、伝説的なお笑い芸人「コント55号」の萩本欽一は、やはり、違う。
彼は、「芸人として伸びる子はどういう人ですか?」つまり「どういう若者を指導する際に選びますか?」という問いに対して、明確に「素直な子だね。」と回答した。
頭が良い、センスが抜群、反射神経が凄い、そういった「天賦の才能」云々には全く触れなかったのである。
ただ、考えてみれば、「指導」をするにあたって、一番、効果が見込めるのは、間違い無く「素直な子」だろう。
云われたとおり、指導したとおりに、きちんと、一生懸命に努力する。
確かに、「一流」と「超一流」の「境界」を超越するには、持って生まれた「天賦の才能」という「違い」が最後の最後のギリギリのところで決定的なところが有る。
しかしながら、まず「一流」に成るためには、様々な努力や精進を地道に積み重ねていかなくては、絶対に不可能なのだ。
逆を言うと、「超一流」と云われるような「天才」は、所詮「指導」不可能なのである。
いろいろと「強制」したところで、そんなものに束縛されるような代物ではないからである。
だから、本当にずば抜けた「天才」に対しては、周囲は何も手が出せない状態となるのである。
ただ、皮肉なことに、「天才」というのは、往々にして「素直」であることが多いのである。
何しろ、良し悪しを瞬時に察知してしまうので、「これは素晴らしい!」と感じたものは、とにかく貪欲に吸収していくのである。
更に、「努力」も大好きなのだ。
というより、凡人が「刻苦勉励」である「努力」を、「愉楽」と感じて耽溺出来てしまえるのが「天才」なのである。
つまり、トレーニングや学習することが、「日常」の「生理作用」の一つに組み込めてしまえる人間が「天才」なのである。
「優秀」な「人材」の最たる者が「天才」であるが、「天才」とは「天然」でもある。
云わば「自然現象」そのものが、さながら服を着て歩いているようなものだから、そんな「怪物」を制御していくには、それはそれは至難の業であろう。
だから、こんな明快なことが解らずに、上記のような「理想の新人」を希求するような、日本の企業の人事採用担当は、本当に本当に「おめでたい」限りである。
多分、自分たちは、「どんな『天才』でも指導・監督可能である。」と思い上がっているのだ。
そんな、厚顔無恥な連中のところに、本当に優秀な若者が入って来たら、逆に、持て余してしまうだろう。
結局、「今度の新人は使えない。」とか何とか愚痴るのである。
そうやって、優秀な新人を、追い出したり、腐らせたりしているのだ。
嗚呼、やんぬるかな!
ま、四十歳過ぎて、しがない派遣社員でしかない「無能」な自分が云々するのも愚の骨頂ではあるのだが。

東京都知事の舛添要一のスキャンダルが止まらない。

よく、落語で「ケチを通り越して吝嗇」という表現が有るが、単なるケチではない。

その証拠に、公費での海外出張に於いては、「大名旅行」と揶揄される程、散財している。

単なるケチであるならば、例え、他人の金であろうが、出費は惜しむものである。

ところが、「交際費」だ「政治活動費」だ、と名目が立てば、贅沢三昧をしてしまえるというのは、「お金に細かい」のではない。

要は、「自分のお金は使いたくないが、他人の金なら使えるだけ使いたい」ということであろう。

これはもう、経済観念の問題ではない。

人間性や品性の問題である。

だから、「公費を使った分を弁償します。」というような、金銭のやりとりの問題では、最早、解決は出来ない。

それは、人間性の問題を指摘されたからである。

組織の指導者として、責任者として、政治家としての資質が全く駄目であるということを露呈してしまったからである。

自分は、いわゆる政治資金規正法に違反したから問題だと云う考え方には与しない。

例え、法律に違反したとしても、それが「緊急避難」的な、一種の「不可抗力」によるものであったとするならば、認めても良いと考える。

また、一度でも組織内で業務に従事したことが有る人間であるならば、帳簿上に、そのまま記載出来ないような金銭の遣り取りと云うのは、それなりに存在するものであるということは御存知だろう。

人情として、業務を円滑に遂行するにあたって、それなりの金銭の遣り取りを内々で行うということは、どうしても無くせないのである。

しかしながら、今回の舛添都知事の為され様は、明確にアウトである。

要は「洒落にならない」からである。

例えば、政治活動費で書籍を購入したという。

これは、誠にもっともである。

だが、実際に購入した書籍は美術書だった。

デザイン会社や美術学校で、「必要経費」として、書籍購入の中に美術書が含有されているのならば容認出来る。

しかしながら、政治家が政治活動費で美術書を購入するのは、やはり駄目だろう。

まあ、3冊購入した際の1冊が、たまたま美術書だったというのなら、まだ言い訳もたつが、逆に政治に関する書籍は皆無だったという。

これでは、公費の「使い込み」「横領」と指弾されて当然だろう。


最早、怒りを通り越して白けてしまう感じである。

特に、憂愁が深いのは、肝腎の都議会が駄目であること。

現在、都議会で舛添都知事を問責しようというのは、共産党やおおさか維新系のみ、だそうな。

そんな都議だけが騒いだところで、それは単なる「アリバイづくり」でしかない。

やはり、都政与党である、自民党と公明党が糾弾の主力でない限り、全く意味を為さない。

はっきり云って、都議会自民党は、舛添都知事に関して、全く腰抜けである。

背徳的であると断じても過言ではない。

確かに、舛添を都知事選に於いて、自民党や公明党などは支援をした。

だが、舛添は、明確に都民の信頼を裏切ったのである。

都民の信頼を裏切った都知事を支持し続けるということは、都議会自民党は、畢竟、都民を政治的に裏切ることを意味する。

この、事の重大性を、都議会自民党は全く自覚していない。

確かに、舛添を下手に追求すれば、あの曲者のことである。

暴発して、都議会解散、そして都知事選再出馬を仕掛けることだろう。

だが、そんな暴発にビビりまくって、舛添が「陳謝」して「終了」という幕引きを目指すのであれば、来年6月に予定される都議選で「落とし前」を付けることになるだろう。

公明党は、どんな選挙であれ、得票数が減りも増えもしないから、現有議席を維持可能だろう。

ならば、舛添に対する都民への怒りの矛先は、間違い無く都議会自民党へ向けられる。

「あんな品性下劣な奴を支持する自民党には、絶対に投票しない。」

そういう破目に成る。

勿論、舛添を都知事から引きずり下ろしたところで、「めでたし、めでたし」とはいかない。

その後の東京都知事選挙に於いては、下手をすると左翼の宇都宮けんじが当選する可能性だって有り得る。

しかし、このまま、ダラダラと舛添を担ぎ続けて行けば、都議選で自民党は現有議席を維持出来ない。

都議選は「中選挙区制」なので、衆院選のように「オセロゲーム」のような議席の交代は有り得ないだろうが、前々回の都議選に於いて、当時の民主党がバカ勝ちして都議会第一党に成ったのである。

そして、その後の都政運営に於いて、どれだけ都議会自民党が苦労したのか。

さらに、都議選の後に、国政に於いても「政権交代」が起こった。

都民の怒りを甘く見ては絶対にいけない。

都議会自民党は、性根を据えて、肚を括って、舛添の首を取りに行き、更に、都知事選と都議選に勝利する為の覚悟と準備が要求される。

ちなみに、舛添の首を取らないのであるならば、自分は次の都議選で自民党を支持出来ない。

「高度な政治的判断」と云った弁明が有ろうが、都民の信頼を失い、都民の激怒の標的と成った都議会自民党には応援は出来ない。


最後に、舛添の「公費使いたい放題」によることについて、ちょっと違った視点から述べたい。

公費でもって「落としてしまう」という行為は、自らの懐を痛めないということである。

逆に、その反対が「自腹を切る」と云う行為である。

実は、この「自腹を切る」と云う行為が、極めて重要なのである。

はっきり云って、「自腹を切ら」ない限り、絶対に自分の身に付かないのである。

解りやすい例を挙げれば、学校の授業料である。

子供の時に、学校や授業に関して、全く身が入らなかったのは、学校や授業や教師がお粗末だったせいだけではない。

所詮、「他人の金で行かされている」と感じてしまうから、身の入り様が無いのである。

だから、社会人に成って、カルチャースクールでも講演会でも社会人入学でも、自分の持ち金を支払って受講した場合、その真剣さは歴然としていよう。

自分の手元のごくごく僅かな所持金から、授業料を割いて納入する。

そうなれば、必然的に授業の一時間一時間が、「何円支払って購入した」という感覚に成らざるを得ない。

だから、「休講通知」が貼り出されて喜んでいては駄目なのである。

「なんてこった!その分の金を返せ!」と激昂するぐらいでないと駄目なのだ。

それは、何も「授業料」に限らない。

飲食をするにしろ、なけなしの財布から出すから、お酒をちびりちびりと舐めるようにして飲み、その一滴一滴を胃の腑に染み込ませるのである。

さして美味しくも無い肴を、名残惜しく一口一口いただいていくのである。

映画を見るのも、展覧会に行くのも、自分のお金で行くから、どんな小さなものでも見逃すまい、脳裏に全部焼き付けてしまおうと真剣になるのである。

そして、そこまで、貪欲に、真剣に取り組んだものでしか、結局、自分の血肉には成り得ないのである。

だから、舛添は、どんなに贅沢な御馳走をたらふく食ったところで、所詮、公費で落としていたならば、本当の意味で、その美食を堪能したことには成らないのである。

また、どんなに素晴らしい美術書を手に取ったところで、それが他人の金で買ったものであるならば、本当の意味で、「美」を全身全霊でもって鑑賞することなど絶対に不可能なのである。

どうせ、限り有る、お金と時間を費やすのであるならば、確実に自分の血肉に成るまで吸収し、堪能し尽くすべきであろう。

そういう意味では、舛添は、不幸である。

彼は、うわべだけの大量さ多量さに幻惑されて、本当の意味での「堪能」を出来なくなってしまったのである。

只今現在の我々は、あまりに「偽り」に踊らされ過ぎている。

たくさん有るから、高価だから、だから良いのだ、と。

確かに、それは間違いではない。

しかしながら、それは全てではないのだ。

ちゃんと「留保条件」が付帯しているのである。

例え、どんなに粗末であろうと、世間に恥ずかしくないかたちで稼いだ自分の金で「自腹を切った」ものであるならば、それは大変、価値と意義の有るものであるのだ。

何故なら、それは、「借り物」ではなく、間違い無く、自分自身の「血肉」であるからである。

例え、何千人何万人とSNSで「お友達」が出来ようとも、たった一人の「刎頸の友」には絶対に及ばないのである。

「自腹を切る」と云うことは、「自らの手で獲得する」ということである。

どんな素晴らしいものであっても、それが、他人からの「供給品」である限り、決して使いこなすことは出来ない。

日本に於ける「憲法」も「国防」も、まさにそうである。

既に別記先述しているように、自分は「保守二党論」である。

よく、「保守の旗頭である、安倍総理に全ての保守の勢力を糾合すべきである。保守派は大同団結し、分裂や共倒れは絶対に避けるべきだ。」と云う。

確かに、もっともな論理である。

そもそも、いわゆる「保守派」と云うのは、明確に「少数派」である。

確かに、ゴリゴリの左翼どもも、政権が取れない訳だから、「多数派」とは云えないのだが、かと云って、全くの「ジリ貧」でも、まだ、ないのである。

衰えたりとは云うものの、左翼勢力は、今もって強大なのである。

だからこそ、保守派は内輪揉めなどせずに、安倍総理の下に一つにまとまるべきだ、と。

ここまでは、まあ、良い。

だが、「だから、選挙に於いては、自民党を全員が全力で応援すべきだ。」という結論になる。

自分は、これには首肯しない。

勿論、自民党を敵に回すつもりは、無い。

だが、だからと云って、「保守派は全部、自民党へ」という「構図」に与しない、ということである。

理由は二つ。

一つは、いわゆる「保守政党」が自民党しか存在しないのであるならば、その反対政党、つまり、自民党に対抗して来る「政党」は、現状では、必然的に「左翼」「革新」に成らざるを得ない「構図」に成ってしまうからである。

それは、1955年から、延々と引きずっている「1955年体制」と云う名の「保革対決」の「構図」なのである。

しかしながら、現状の日本の政治に於いて、「保守政党」への「アンチテーゼ」としてしか、最早、左翼・革新政党の存在する意味は無くなって来ている。

つまり、自民党の増長や堕落を監視する役割としての、本当に「限定的」な政治的存在意義でしかない。

かつて、「行革110番」と云った「革新系無所属」の議員が、ちょこっと持て囃された時期が有ったが、それはあくまで「お目付け役」でしかなく、「政権交代」に耐えられるだけの政治能力は皆無だったのだ。

ならば、最早、時代錯誤のさながら「神学論争」のような「戦争と平和」の口論を繰り返すだけの「保守」対「革新」の政治的対立軸の「構図」は、速やかに転換させなくてはいけない。

「革新政党」や「左翼」が、(特に「日本に於ける、左翼」が)国政を担当出来得ないのは、ひとえに、「国家観」が欠如しているからである。

世界的に見て、フランスにしろ、イギリスにしろ、ドイツにしろ、「左翼政党」であっても、「国家観」を有し、「愛国心」を確固として保持している。

況や、「社会主義国家」に於ける「左翼」は、日本の「それ」のような生温い感じとは程遠いのだ。

だからこそ、日本に於いては、最早、保守政党対保守政党と云う対立構造でなければ、何時まで経っても「児戯」のような国会論戦しか行われないのである。

つまり、自民党と肩を並べるだけの「保守政党」が、絶対にもう一つ必要なのである。

さらに、二つ目の理由として、「自民党」は、必ずしも「保守」ではないからである。

そもそも、自由民主党は、党人派政治家の三木武吉によって、「あくまで、選挙に於いて、左翼政党を多数派にせず、日本を社会主義国家に絶対にさせてはいけない。」という目的から「保守合同」というかたちで「結党」されたのである。

つまり、「とにかく政権与党たれ!どんなことがあっても、社会党や共産党に政権を取らすな!」ということが全ての「政党」だったのである。

その証拠に、三木武夫、宇都宮徳馬、鯨岡兵輔、河本敏夫といった、むしろ「左翼」に対してシンパシーを感じる「国民協同党」まで含めて出来上がったのである。

1955年と云えば、世界的には「米ソ冷戦構造」の真っただ中であり、「日本を赤化させない!」というテーゼは絶対であった。

だが、野党第一党の日本社会党が、非現実的な政治理論の隘路に立ち往生し、絶対に政権獲得は不可能な状況と成った。

一方で、自民党は、政権与党であることによる「権力の旨味」にすっかり魅了されてしまい、保守だろうが、何だろうが、とにかく政権与党で有り続けることに固執するようになってしまった。

良くも悪くも「何でも有り」に成ってしまった訳なので、そのうち、党内派閥の領袖が、自民党総裁・内閣総理大臣を代わる代わる担当することによって、あたかも「疑似的な政権交代」が、為されるようになってしまったのである。

何故、自民党だけが保守では不十分なのか?

何故、自民党以外に、確固とした保守政党が必要なのか?

それは、昨年暮れに電撃的にまとまった日韓合意の時を思い出してもらえれば良い。

あの、日韓合意の際に、いわゆる「保守派」は悲憤慷慨した。

「安倍さんに裏切られた!」と慟哭したのである。

だが、その後、国会の答弁で、政府の事務方、外務省の官僚どもはともかくとして、安倍総理の「真意」が飛び出して来たのである。

但し、それも、日本のこころを大切にする党の代表である中山恭子議員の国会質問に引き出されるかたちで表に出て来た「答弁」だったのである。

もし、「保守」の「野党」が国会で皆無であったならば、安倍総理の「真意」は、絶対に露見することは有り得なかった訳である。

つまり、「与党」だから出来ることと、「野党」でしか出来得ないことというのが、厳然と存在するのである。

だからこそ、確固とした保守の政党、「日本のこころを大切にする党」の存在意義が有り、また、どんなことがあっても存続させなければ、いくら安倍総理の自民党が選挙に大勝したところで、いわゆる「保守派」の政治的なパワーは減衰するであろう。

何故なら、只今現在は、安倍総理・菅官房長官だから、自民党は「保守」なのである。

安倍総理が退任されたら、その後は、全くあてにならないのだ。

現に、第一次安倍政権の後の福田康夫政権はどうだったろうか?

同じ、「清和会」という「派閥」が引き継いだ「内閣」であったが、見るも無惨な体たらくであったではないか?

つまり、現時点で「自民党」に、いくら投票したところで、保守的な政治的潮流を維持出来得る「担保」にも「保障」にも成らないのである。

自民党とは別の、確固とした「保守政党」が、それなりの勢力を形成出来得て、はじめて「保守的な政治的潮流の維持」が可能に成ると云えるのである。

しかしながら、いわゆる「保守派」は「少数派」である。

みすみす「票を割る」ようなことは、愚行ではないか?と。

しかし、それは、いわゆる「保守派」が、国民に広く認知され、支持されていないからである。

つまり、現在、国民の大多数が本当に政治的に希求している部分へ保守派としてアプローチをかけていけば良いのである。

現在の国民の大多数が本当に懸念しているのは、断然、「貧困問題」である。

勿論、「貧困問題」の深奥部には、日本人の「共同体」の「崩壊」が存在する。

だから、「貧困問題」は特効薬、頓服薬として、貧窮している国民層へ「お金を注入する」というドラスティックな政策が必要であろう。

と同時に、荒廃し、虚無的・刹那的な精神構造を立て直して、国民の道義的な再構築と、日本人の「共同体」の「再生」と云った、誠に迂遠な「体質改善」の療法も施さなくてはならない。

現在、「貧困問題」を専ら取り組んでいるのは、左翼、特に日本共産党である。

だが、日共には、所詮、日本という「国家」を真摯に受け止めることは不可能である。

だから、畢竟、補助金の際限無きばら撒きといった、インモラルな、背徳的な政策しか出て来ない。

かといって、トロツキストのような「世界革命」に身を投じることも出来ない。

だからこそ、保守の立場から、「貧困問題」に取り組まない限り、日本に於ける「貧困問題」は絶対的に解決が不可能なのである。

そうしなければいけない、と自分は考える。

しかしながら、「選挙」は或る面、非常にテクニカルな代物であり、「真っ向勝負」だけでは、成果が上がらないのである。

正直云って、自分は、目前に迫った、7月10日と予定される参議院議員選挙で、いかに「確固たる保守野党」である「日本のこころを大切にする党」を勝利させられるのか、実は皆目見当が付かない。

誠に情けない話なのだが、どうしたら良いのか、さっぱりわからない。

しかも、東京地方区でも候補者を擁立させると云う。

朝ドラの主人公ではないがwww「どうしたもんじゃろうのう」と云うのが、只今現在の自分の本心である。

嗚呼。

(なお、「おおさか維新の会」は、「改憲政党」ではあるかもしれないが、「真正保守」ではない、というのが自分の私見である。悪しからず。)

日曜日の夜に、母から「腹痛が耐え切れない!」ということで、救急車を呼んだ。
「明朝まで我慢出来るか?」なんて一切云わずに、すぐに電話で救急車を呼んだ。
こういう思い切りの良さは、亡父譲りであるwww
で、救急病院に担ぎ込まれて、当番医からの診察は、「腸閉塞」だった。
予想以上に重篤だったので驚いたが、処置が早かったのが良かったようである。
実は、母は40年ぐらい前に、小腸の手術をしている。
その為、手術の後遺症として、小腸が癒着し易く、「腸閉塞」に成り易いのであった。
だが、小腸の手術から40年ぐらい経って、最初の「発症」だった。
自宅で、読経とご真言読誦をしたが、懇意にしている奈良県護国神社の宮司様に、翌日、月曜日の朝、病気平癒の祈願を依頼させてもらった。
そして、月曜日のうちに、ご祈願を厳修して下さったとのこと。
日が開けて火曜日。
主治医からの説明を木曜日に設定した。
仕事を終えて、夜、母の病室に見舞いに行ったら、何と、主治医の先生が来られた。
「じゃあ、今、ご説明しちゃいましょう。」と云うことに成った。
で、主治医の説明を聞いて、びっくり。
「もう、おならも便も出ていますので、流動食などを経て、お粥さんまで行ったら『退院』ですね。
順調なら、土曜日ぐらいに。」
当初の、日曜日の夜の当直医の見立ては「2週間くらいは入院療養」だったのだ。
あまりに「お運び」が早いので、正直、驚いた。
まだ、奈良県護国神社の祈祷札も到着していないのにwww
やはり、神仏は、ちゃんと居られるということなのだろう。
あなかしこ、あなかしこ、合掌。

たまった仕事を何とか処理していくということは、実は「債務返済」に似ている。
借金を返すという行為も、なかなかすぐには出来ない。
だから、ついつい、一気に借金を返済してしまいたいという「誘惑」に駆られてしまいがちである。
しかしながら、一気に借金を返そうにも、所詮は手元不如意なのである。
つまり、土台、無理な話しなのである。
ところが、その「無理」を感情的に通そうと駆られるから、「道理」が引っ込むのである。
手元に大金が無いにもかかわらず、借金返済を一気に前倒しにするには、何処からか大金を調達してこないといけない。
しかも、大金を調達する術は、だいたい危なっかっしいことが多い。
「大博打」か「ご都合主義」の「美味い話し」なので「胡散臭い」ことこの上無いのだ。
で、結局、しくじって、却って傷口を広げてしまうザマとなる。
ならば、どうするのが「正解」かというと、返済可能な少額な金額を多頻度で返済し続けていくしかないのだ。
一日、10円でも20円でも返済していく。
だが、1年で3650円、7300円と成る。
勿論、利子というものを無視してはいけないが、確実に返済出来るスケジュールの方が、実は一番良いのだ。
仕事もそうである。
納期と云うものが有るが、そこから逆算して、一日あたり、どこまで進行、処理をしていけば良いかを割り出して「行程表」を作るのである。
あとは、一気に片を付けようと焦らずに、粛々と進めていくしかない。
ただ、状況が激変して、「依頼内容」がクルクルと二転三転するようであると、そんな悠長なことは云っていられなくなるのだが。
結果として「臨機応変」という「場当たり的」な対処に堕ちてしまうのだが、例えそうであっても、「基本は少しづつ、着実に、無理をしないかたち」で行うことを意識しておくべきだろう。
「どうせ、行程表なんか作っても、全然意味が無い!」と感じても、その時点時点で、大まかな「行程表」を頭に思い描くように心掛けるべきだろう。
ちなみに、「行程表」を「作成」することを「目的化」してはいけない。
あくまで、山積する「仕事」をいかに、着実に、無理無く、遅滞無く処理していくか、ということが主眼である。
「資料作成」に「耽溺」してはいけない。

母は、命に別状は無いという病状だった。

ただ、しばらくは入院し、療養しないといけない。

だから、ジムに行くぐらいは出来そうだwww

但し、数日間、遠出するようなことは無理。

しかし、「病人」とは、本当に我慢が出来ない代物である。

ちょっとでも、待たされると激怒する。

まあ、苦しいから仕方無いのだろうが。

その点、亡父は凄かった。

入院してから「何をしてくれ」と言い募ることが無かった。

ただ、黙っていた。

それは、耐えていたのか、既に、死を従容と受け入れて諦観していたのか。

病床でジタバタするようなことは一切無かった。

多分、自分は、そういう境地には成れないと思う。

肉親が、或る面、凄過ぎるとプレッシャーが大き過ぎる。

親子でも、全くの別人格であると、割り切るしかない。

着手すべき「課題」が目の前に山積していることを、よくよく把握し自覚もしているのだが、「自分はどうしたらいいんだろう。」と嘆息する。

実は、結論は簡単に出て来る。

「課題」を優先順位から一つ一つ着手していくことしかないのだ。

にもかかわらず、「一体全体どうしたらいいんだろう」とか「自分は本当は何をすべきなのだろうか。」とか自問する。

それは、現実的な問題意識を「本質的」「根源的」な問題意識にすり替えるふりをして、単に現実逃避しているだけ。

ただ、怠けているだけ。

だが、それは「生理反応」なので、まるっきり無視してもどうかと思う。

だいたい、そういうトンチンカンな触手を伸ばし始める場合は、疲労困憊しているか、パニックに陥って乱心しているのだ。

美味しいものを食べ、入浴し、休養すると、まともに戻ることが多い。

但し、本当に頭脳明晰な人の場合は、芽生えてきた「疑念」が、潜伏している問題点の片鱗を掴んでいる可能性が高いので、絶対的に検討に値する。

勿論、自分はただの魯鈍なだけなので、「馬鹿の考え、休むに似たり」だ。

どうせ「似たり」なのだから、しっかりと「休む」べきだろう。

母が救急入院した。

今後のスケジュールから何から、全部、組み替えないと。

取り敢えず、入院の事務手続きなどをするので、仕事は行けない。

どれくらい看病にかかりきりになるのか?

現時点では一切が不明。

だから、あれこれ思い悩んでも仕方ない。

勤行礼拝して、寝るのみだ。


自分は、現在「貧乏暇無し」なのと、元来が「行き当たりばったり」なので、拙文も下書きを書かない。
だから、何時まで経っても、完成度が低いのだ。
下書きを書かない、と云うことは、拙文がどういう風に結末を迎えるのか、書き上げてしまうまで全く解らないということなのであるwww
全く、いい加減で危なっかしいことであるwww
畢竟、拙文は、「期せずして」ということの頻発である。
先日も、天御中主神について拙文を書き進めていったら、最終的には「大本」まで行き着いてしまった。
だから、題名も、書き上げた後に、変更することに成ったのであるwww
それはさておき、「大本」について言及したからには、近代・現代日本に於ける「新宗教」のもう一つの大きな流れである、法華経・日蓮主義系の「新宗教」についても言及したく成った。
ただ、ちょっと、執筆まで準備が必要に成った。
たまたま本屋で、島田裕巳の「八紘一宇」と中島岳志の「血盟団事件」と云う本を買った。
まずは、これを一読してからでないと。
いわゆる法華経・日蓮主義系新宗教の流れについてのキーマンは三人である。
田中智学・久保角太郎・牧口常三郎である。
三者共、現存する宗教団体の始祖である。
田中智学は国柱会、久保角太郎は霊友会、牧口常三郎は創価学会である。
勿論、「法華経・日蓮主義」と云う、大きな括りとして捉えるのならば、高山樗牛や北一輝、石原莞爾、井上日召、宮澤賢治なども入って来る。
さらに、戸田城聖、池田大作、庭野日敬、関口嘉一、宮本ミツと云った宗教団体指導者も無視出来ないだろう。
だが、例えば、池田大作はオルガナイザーとしては傑出した人物であるが、「創価学会」を創唱した訳ではない。
ということで、田中智学・久保角太郎・牧口常三郎の三人を軸とした記述になることを想定している。
ただ、問題は、自分自身が、いわゆる法華経・日蓮主義の「信仰者」であることである。
「信仰者」であるがゆえに、書き得ることもあるし、逆に筆が鈍る点も有り得るだろう。
そこらへんが悩ましいところでは、ある。
しかしながら、性根を据えて書かせてもらう覚悟なので、どうかお許し願いたい。
(敬称略)

現在、「貧乏暇無し」なので、いわゆる「保守派」の講演会・集会・勉強会の類いには、ほとんど参加していない。
だから、もう、事実上、自分はいわゆる「保守派」としてカウントされることは無いのかもしれない。
まあ、それも致し方なかろう。
その代りに、昨年末頃から、法華経信仰を基本とした「勉強会」に参加させていただくことになった。
先述した通り、自分は小学生の頃に、お題目を唱える続けることによって、気持ちが昂揚することを実感した。
思えば、それが「始まり」だった。
我が家は、曾祖母の代から熱心なプロテスタントであり、神棚も仏壇も無かった。
しかも、祖父の代から教会に通うことも無くなり、聖書も読むことが無くなったので、「無宗教」の家だった。
だが、母方の実家が日蓮宗だったので、子供心に、何となく「南無妙法蓮華経」というお題目を知ったのである。
本当に、他愛の無い、感覚的な切っ掛けだった訳で、「信仰」などと云えるような代物ではなかった。
しかしながら、子供の好奇心というものは、実は絶対に侮ってはいけないもので、そこから「日蓮大聖人とはどんな人物だったのか?」「法華経とは何なのか?」という興味が湧いて来て、後は調べるだけ調べていったのだった。
それから、池上本門寺や雑司ヶ谷鬼子母神堂など、日蓮宗の仏閣を巡り出した。
確か、中学生の時に、池上本門寺で「法華大曼荼羅」を入手した。
ただ、お小遣いが少なくて、当時¥3000だった布製のお曼荼羅を断念し、¥2000の紙製のお曼荼羅で我慢せざるをえなかった。
そのお曼荼羅は、今も自室に有る。
岩波文庫の「法華経」を読破したのは高校生の時で、法華経の経本を入手したのは大学生の頃である。
特段、宗教団体に所属してはいなかった。
勿論、鬼子母神様の縁日の「8」のつく日には、結構、頻繁に鬼子母神堂へ参拝をした。
身延の七面山や能勢の妙見山にも上った。
しかしながら、それは「信仰」と周囲に胸を張れるような代物ではない。
ただ、自分は、法華経や日蓮大聖人が「好き」だったのである。
勿論、不遜な態度ではなかったのだが、自分は子供の頃から、ずっと「お付き合い」をして、それを現在まで手放さなかったに過ぎない。
ただ、長い付き合いなので、既に自分の身体に沁み込んでいるのである。
尾籠(びろう)な話しで恐縮だが、腹を壊すなどして、突如、大便をもよおした際など、額に脂汗を浮かべながら、思わずお題目をあげているのだ。
また、ウェイトトレーニングで、怪我の危険性が高い「デッドリフト」を行う前にも、ついついお題目をあげているのである。
だから、自分にとって、法華経と日蓮大聖人は大変馴染み深いのである。
そんな中で、と或る御仁のつてで、「法華経信仰」を基本とした「勉強会」に参加させていただくことになった。
「何を今更」と、自分は、全く思っていない。
確かに、自分は幼少期から長年、法華経に関して親しんで来た。
だが、それは、所詮、「我流」に過ぎない。
思い違い、心得違い、勘違いをしている点が多々見受けられるであろうと思っている。
だからこそ、良き師、良き先達、良き同志と巡り合い、そこで精進させてもらいたいと念願していたのである。
まだまだ、勉強会に於いては「新参者」の「未熟者」であるので、先師先哲からご指導を賜りたいと願っている。

最後に、自分なりの「法華経信仰」とは何か。
これを手短に記述してみたい。
もし、人から「法華経信仰を一言で説明して欲しい」と無理強いされた場合であるwww
自分の答えはこうである。

「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」
(宮澤賢治「農民芸術概論綱要」「序論」より引用)

自分は十代の時、宮澤賢治の、あまりに有名なこの一節に出会って、満身が打ち震えるほどの感動を憶えた。
これは、あまりにも気宇壮大で、絶望的なまでに迂遠な理想であるのだが、それゆえに自分は「真理」をそこに確固として見出したのである。
「法華経」とは、「大乗」であり、何よりも「菩薩行」「利他行」「菩提心」に立脚しなければいけない。

だから、もし、仮に、10名の仲間と共に、死後に「仏」に出会えたとしよう。
仏様は、我々、10名の一行を出迎え、こう仰ったとする。
「良くぞ、皆様、お越しに成りました。これより”浄土”へご案内致します。
しかしながら、誠に申し訳ありませんが、1名の方は”地獄”へ行ってもらいます。
悪しからずご了承ください。」と。
その時、
「ならば自分が”地獄”へ堕ちましょう!」
と即答出来るのが、真の法華経行者であろうと自分は愚考する。
真の法華経行者は、「持経者」である限り、どんな場所に居ようとも、既にそこが「霊山浄土」である筈なのである。
だから、例え、地獄に堕ちようとも、それが「菩薩行」「利他行」「菩提心」ゆえのものであるならば、地獄は即、「経力」によってたちまち「霊山浄土」へ変じる筈なのである。

少し「屁理屈」が過ぎたかもしれない。
拙いながら、我流の自説を開陳させていただいた。失礼。

「行」(ぎょう)とは、仏教用語である。
「読誦し奉る寿量品を以て助行と為し、唱え奉る妙法蓮華経を以て正行と為し」と云うように、仏道を極めんとする為に努めることを指す。
仏教とは、「成仏」つまり「ほとけに成る」為の宗教である。
禅に於いては、釈尊が菩提樹の下で大悟されたことに習って、瞑想し禅定することを主眼に置いた。
密教に於いては、護摩供に於いて、諸尊や諸天善神を護摩壇に勧請し、火生三昧による「供養」を行い、読経や真言を誦し、印形を結び、法具(三鈷杵・五鈷杵・金剛鈴など)を振るって仏と一体化し、「即身成仏」を目指すものである。
また、法華経行者に於いては、ただひたすら、「正法」、「経王」たる「妙法蓮華経」に絶対的に帰依し、没入し、読経と唱題に精魂を込めると同時に、広宣流布を以て、法華経を「身読」する境地を志向することである。
「行」とは、即ち、「行う」ことであり、実行すること、実践することに他ならない。
一方で、翻って我々の周囲を見渡してみると、この「行(ぎょう)」、つまり「行う」ということについて念頭から薄れて来ているような気がしてならない。
高等教育が行き届き、さらに、高度情報化社会と成り、今やインターネットにアクセスすれば、つまり「意欲」が有る者であるならば、相当な知的レベルの事柄を吸収することが可能に成って来た。
例えば、オカルトの分野である。
西洋の黒魔術に錬金術から、ユダヤのカバラから、支那の道教の錬丹術・金丹道から様々な護符、そして四柱推命・風水・陰陽道などに至るまで、ネットを漁っていけば、その手の話題に事欠かないくらい精通することが可能である。
それこそ、ホグワーツ魔術学校に入学しなくとも、ハリー・ポッターさながらの「魔法使い」に成れそうな気がするのだ。
だが、いくら「アブラカタブラ」と唱えても、「急急如律令」と唱えても、何も起こることは無い。
では、「アブラカタブラ」も「急急如律令」も、インターネット上の記述は嘘であったのだろうか?
そうではない。
「アブラカタブラ」も「急急如律令」も、いにしえの呪術師たちが多用した、正真正銘の本物の「呪文」なのだ。
そこで、現在の「情報化社会」の我々は、この「呪文」を「理解」しようとするのである。
「多分、この『呪文』には隠された『意味』が有るに違いない。ならば、その『意味』を『理解』すれば、『呪文』の『効力』が発揮される筈だ。」と。
だが、得てして、こういう「呪文」の「意味」は、「期待外れ」に終わる。
「アラー・アクバル」が「神は偉大なり」と云う「意味」でしかないように、いにしえの「呪文」の「意味」は、さほど衝撃的なものでは有り得ないのである。
そこで、我々は侮蔑するのである。
「何だ。大したことはないではないか。」と。
だが、それこそ、実は「愚の骨頂」なのである。
自分は、ボディビルをやって、ようやく、事の本質が掴めた。
結局、「理解」することも大切なのだが、それ以上に「行う」こと、実践し、実践を永続的に継続していくことが更に重要であったのである。
例えば、筋肉モリモリに成りたいと欲する。
その為には、ウェイトトレーニングをしなければいけない。
代表的な種目としてはベンチプレスが有る。
これを、それこそ、ネットなどの「情報」でしか触れなかったならば、「何だ。ベンチに寝て、バーベルを上げ下げすれば良いんだ。」としか思わないだろう。
確かに、「情報」としては、その通りである。
だが、実際に、ジムに行って、ベンチに寝て、バーを握ってみれば、バーだけでも上げ下げすることがいかに困難であるかが実感出来よう。
バーの握る幅や、降ろし方など、実際に行ってみると、ふらついてしまって上手くいかないのだ。
さらに、「ベンチプレス」という「種目」についての「理解」が出来たとしても、それでは胸の筋肉は発達しない。
毎週毎週、ベンチプレスを行い、さらに蛋白質(プロテイン)をしっかりと摂取しなければ、筋肉は大きくならないのだ。
だから、思いついた時にベンチプレスをし、プロテインを飲んだところで、何時まで経っても「マッチョ」には成れないのである。
つまり、実際に「行う」こと、実践することで、はじめて「変化」が生じ、「結果」につながるのである。
大胸筋をピクピクさせるくらい発達させるには、それこそ、何か月もかけて、何十回、何百回とベンチプレスを行わないといけないのである。
いくら、「ベンチプレス」という「種目」に関する「情報」やら「知識」やら「理論」に精通したところで、実際にトレーニングを行わなければ、筋肉は変わらないのである。
筋肉がそうであるならば、畢竟、頭脳や魂も同様であるに違いない。
「博識」になりたい、「情報通」になりたいと念願するのであるならば、一日のうちに、ネットでも紙媒体でも問わず、高い水準の「書物」や「記事」を読了するべきである。
人間の思考能力は、その読書量に比例する訳だから、一冊の本も読まず、一紙の新聞も読まないようであるならば、いつまでたっても「幼稚な思考能力」でしか有り得ないだろう。
魂の面でもそうであろう。
経文や真言の「意味」をいくら「知った」ところで、それでは仏の境地にたどり着くことは有り得ない。
あとは、毎日毎日、ひたすら読誦し続けることである。
密教の修行の中に、頭脳明晰となり、記憶力が抜群に優れるための「求聞持聡明法」というものが有る。
これは虚空蔵菩薩の印形を結び、真言をひたすら唱えるといった修行法であるという。
水を被ったり、火を起したりする必要は無い。
但し、虚空蔵菩薩のご真言を100万回唱える!のである。
もう、気の遠くなるような、目もくらむような「数」である。
だが、「量の変化が質の変化を生む」のである。
とにかく「行い」続けること。
そこに、はじめて「真」の「意味」が生じて来る訳である。
ボディビルが、バーベルやダンベルを何万回、何十万回上げ下げし、何万杯もプロテインを飲み干した結果、筋肉が決定的に変化するのと同じである。
だから、何事も、最初に「理解」することに固執し過ぎてはいけないである。
確かに、理屈や理論をちゃんと把握しておくことは重要である。
だが、まだ、よく解りもしない段階で、「意味」や「解釈」を求めてしまうのは、実は「無理筋」なのである。
現に「法華経」に於いて、「序品第一」は登場人物の名前の列記なので、その次の「方便品第二」に於いて、身も蓋も無い記述が有る。
この経の御教えは「難解難入」であると。
つまり、「とても難解で理解するのは困難である」と。
ついには、「難解之法 唯仏與仏」と有り、「この法は難解で、ただ、仏と仏でしか理解出来ない」と突っぱねているのである。
何故、法華経の全二十八品の中の、事実上の導入部とも云える「方便品第二」で、ここまで「かます」必要が有るのだろうか?
それは、「頭だけで理解しようと思うな」ということであろうと、自分は理解した。
つまり、単なる「理屈」ではなく、全身全霊をもってぶつかり、受け止めていくべき「経典」であると。
それには、一見、「矛盾」やら「論理的非整合性」など、おかしなアラが見えてくる。
しかしながら、それはあくまで上っ面だけでの「読解」なので、本当の、真の「意味」に辿り着けないだけなのである。
ならば、その「真理の扉」を開くには、やはり、何度も何度も読誦するしかなかろう。
そして、全身全霊を以て、「身読」する境地にまで辿り着いた時、ようやく、腑に落ちるのであろう。
まさに、七面山の頂きまで踏破しなくては見えて来ない「景色」が存在する訳である。
富士の高嶺に至って、はじめて「雷様を下に聞く」ことが可能に成るのであろう。
まだまだ自分は、あらゆる面で、そういった「本当の境地」に辿り着いてはいない。
ようやく、その入り口の道標を見出したばかりである。
今後は、その高い頂きに向かって、急峻な山道を必死の形相で上っていくしかないのである。
それには、やはり、良き師、良き先達、良き同志が必要不可欠であろう。
勿論、釈尊は、「犀の角のようにただ独り歩め」と説かれた。
だが、それは独善的な自己陶酔、自閉的なものを意味しない。
それは、付和雷同、右顧左眄、他人に迎合することを戒めたものである。
要は、自負と自戒の均衡である。
自負と自戒を共に大切にし、論理と行動を共に大切にすることが、肝要なのだと思う。

また、沖縄で痛ましい事件が起こってしまった。
在留米国軍の軍属による若い女性の殺害事件である。
この軍属は、元米軍の兵士である。
軍隊に入るということは、戦う技術を習得することを意味する。
販売会社に入るということは、販売・営業の技術や知識や心構えを習得しなくては、給料を貰うに値する「仕事」が出来ない。
だから、販売・営業の経験が有る人間は、販売・営業のスキルを身に付けることになる。
軍隊は、戦闘する組織である。
日本共産党や日教組などは「人殺し」と露悪的などぎつい表現をするが、戦闘に勝利するに当たっては、必ずしも「殺戮」が至上命題には成り得ない。
但し、戦闘に勝利する当たっての多数の選択肢の一つとして、「敵の殲滅」が存在し、その選択肢を放棄せず、留保するに過ぎない。
しかしながら、戦闘に耐え得る肉体の鍛錬と共に、目の前の人間の動きを制圧する格闘技術も、訓練の項目に含まれる。
勿論、ノウハウというものは「知的な道具」であり、「道具」自体そのものに、善悪の要素は存在しない。
要は、技術や道具をどのように活用し運用するか。
庖丁も、使い方によっては、調理器具にも、殺戮凶器にも、いかようにも転じるものだ。
だから、軍人に成る人間は、高い道義性・倫理観が要求されるのである。

さて、米国軍に関して。
米国に於いても、貧富の格差は恐ろしい勢いで拡大化しているという。
元々、「移民」の流入によって成長し、膨張して来た国家である。
「着の身着のまま」で入国して来た「移民」と、既にアメリカの国家社会に於いてのエスタブリッシュメントとして君臨してきたWASP(白人(ホワイト)、アングロ・サクソン、プロテスタント)層では、「ふりだし」も違う訳だから、当然「人生双六」の「あがり」も歴然とした違いと成る。
畢竟、金も人脈も学歴も何も無い者たちは、安くこき使われて「貧困層」と成る。
その「貧困層」が、現在の境遇から抜け出す為には、自分の身体と命を賭した「大博打」で勝たない限り不可能である。
そして、「貧困層」の若者たちが、安定した社会的地位と比較的高額な給与、さらに高等教育への学校進学への資格を得るための一番の早道が軍隊へ志願することなのである。
教育レベルがあまり高く無く、欲求不満と上昇志向が強く、若さゆえに体力と精力を持て余している若者が、軍隊に入って、栄養価の高い食事を摂取し、肉体の鍛錬と格闘技術の訓練ばかりに没頭した場合、どうなるか。
パワーが拡充した反面、自己抑制が欠如した、一種のモンスターに成ってしまうだろう。
体つきが逞しくなり、男性ホルモンの分泌が以前よりも旺盛と成れば、あらゆる面で積極性が増して来る。
筋力トレーニングの素晴らしさは、肉体的な変化と同時に精神的な変化をも惹起せしめる点に有る。
しかしながら、精神的な積極性は、或る面、「攻撃性」と成って対人関係に出て来る。
筋力が増してくれば、気に食わない奴を「制圧」してみたい、という欲求も生じて来る。
だから、目が遭った相手と喧嘩をするようなことになるのだ。
沖縄に限らず、東京都の横田基地周辺でも、在留米兵による「事件」一歩手前の「アクシデント」や「トラブル」は、実は存在しているということを、自分は耳にしている。
だから、米軍基地周辺では、やはり米兵は怖い存在なんだと自分は思う。

さて、伊勢・志摩サミットと、その後のオバマ大統領による広島訪問という日米首脳外交の「大舞台」を目前に控えた、只今現在、沖縄に於いて在留米軍基地関係者による殺人事件が起こってしまった。
左翼どもは、「好機」とばかりに、反基地の論陣を張って責め立てている。
一方の、いわゆる「保守派」はというと、苦悶の表情である。
本当は、「中国共産党・人民解放軍の脅威が差し迫っているのだから、在留米軍基地は、どんなことがあろうとも絶対に必要なんだ!」と抗弁したいのだ。
だが、今、いたいけな若い女性(しかも成人式を迎えたばかり、と云う)が、無惨に、在留米軍関係者にシリアル・キラーされたというにもかかわらず、そんな反駁をしようものなら、人間性そのものが疑われてしまうだろう。
ここは「ほとぼりが冷める」まで、「忍」の一字、というところだろうか?
だが、それで果たして良いのか?
「米軍の基地は不要だ!」と云う声に対して、そろそろ、いわゆる「保守派」も真摯に向き合うべきではないのか?
「こんな無惨な事件が起こる原因は在留米軍基地が有るからだ!」
その通りである。
だったら、米軍には「お引き取り」してもらうしかない。
その代り、沖縄には新たに自衛隊が駐屯するのだ。
我が自衛隊とて、不祥事が皆無である訳ではない。
だが、今回のような痛ましい事件は、我が自衛隊が起こすことは有り得ない。
だから、もう、現在存在する米軍基地を、全部、自衛隊の基地に代えていく。
そうすべきではないだろうか?
勿論、防衛費は増大する。
更には、「核武装」や「空母」を保持することを議論することに成ろう。
勿論、いわゆる軍事の「専門家」の方々から見れば、これは「暴論」であり、「絵空事」でしかなかろう。
だが、いくら「訳知り顔」で「御高説」を垂れたところで、国民の肚に落ちなければ、それこそナンセンスだろう。
「軍事基地そのものが不要である」というのは、現在の世界に於いて、国家間やテロリストによる軍事的脅威が厳然と存在する以上、虚妄である。
しかしながら、「在留米軍基地は絶対に必要不可欠である」といまだに固執し続けるのも、最早、限界だと思う。
所謂、「戦略家」の「左翼」が、「護憲的改憲」と云う戦法を提示したように、いわゆる「保守派」も、「在留米軍撤退、自衛隊による国防の完成」を志向すべきではないだろうか?
やはり、「独立自尊」こそが、肝要であると、思う。

青林堂から「さよならパヨク」という著書が出た。
http://www.garo.co.jp/comic/sayopara.html
著者は千葉麗子で、かつてアイドルもしていた御仁だったが、いわゆる東日本大震災の福島原発事故を契機とした脱原発運動の「リバイバル」wwwに参加し、一時期は尖鋭的な反原発の活動家だった。
その彼女が、反原発運動などから、左翼全体についての欺瞞性というか、愚昧さ、卑劣さに気が付いて、「回心」され、現在は「愛国保守」としての活動に邁進されているとのこと。
まあ、左翼からの転向手記ということなのだ。
一読の価値は有ると思うが、自分は只今未読である。
だから、「未読」のくせに、あれこれと云うのは筋違いも甚だしいのであるが、まあ、許して欲しいwww
何度も書いているが、自分は「転向左翼」である。
だから、はばかりながら、それこそ「SELDs」の若い衆なんかよりも、遥かに左翼に関しては知悉している(つもりだ)。
何なら、「アナ・ボル論争」やらディミトロフの「人民統一戦線」やら「プロレタリア文化大革命」やらを、「説明してみろ!」と云われたら、説明が出来る。
多分、「SELDs」の連中は、「反知性主義」やら「立憲主義」やらは、偉そうに御託を並べられるだろうが、その源流とも云える「左翼」イデオロギーそのものについては、ろくに説明は無理だろう。
「そんなことはない!」と抗弁するのなら、「構造改革派と労農派の説明をしてみろ!」と逆質問してやるwww。
閑話休題www
だから、今更、左翼が「パヨク」であって、駄目駄目なんだっていうのは、もう、よく解っているのだ。
しかしながら、問題なのは、現在、左翼に関する知識や常識が、ほとんど風化し尽くされてしまい、その凶悪さ、陰湿さ、悪辣さが理解不能になりつつあることである。
だからこそ、「パヨク」なんていう、「新語」を作って、嘲笑しているのだろうが、それは或る面、左翼そのものの矮小化に成っている。
つまり、左翼のおぞましさを軽視し、侮ってしまっているのだ。
確かに、現時点の日本国内の左翼のほとんどは、知的レベルに於いても、人間的資質に於いても劣化が著しい。
だが、左翼とはインターナショナリズムであり、グローバリズムなのである。
真の敵は、実は国外に居るのだ。
ならば、外国の左翼は「パヨク」なのかと云ったら、大きな間違いであって、彼らの狡猾さと酷薄さは、さながら「悪魔」のようであるのだ。
第一、かの20世紀の世界史は、事実上、左翼イデオロギーによって席捲された「世紀」だったのである。
レーニンやスターリンのボルシェビキ、毛沢東の中国共産党、朝鮮戦争などの金日成、ポル・ポトのクメール・ルージュ、フィデル・カストロとチェ・ゲバラのキューバ革命、ホー・チミンのベトナム戦争。
さらに、リビアのカダフィによる「緑色革命」、ペルーのセンデロ・ルミノソ、イラクなどの「バース党」も、全部、左翼である。
そして、何よりもムッソリーニのファシズム、ヒトラーのナチズムも左翼である。
そもそも、ナチスとは「ドイツ国家社会主義労働者党」なのだから。
つまり、かつて、世界中で左翼が人々を魅了し、陶酔させ、暴虐の限りをし尽くした訳である。
何故なのか?
やはり、そこのところを、本当に真摯に取り組んで行くべきではないのだろうか?
確かに、現在の日本人の左翼どもは「パヨク」で、侮蔑するだけで充分かもしれない。
だが、下手をすると、国外から、一見、真新しい装いをした「左翼イデオロギー」が流入した場合、左翼に対する知識も常識も皆無な日本人は、いわば全く免疫が無い状態なので、瞬時に罹患、発病、感染してしまう危険性が大きいのである。
現に、江崎道朗先生のご講演などによると、戦前のコミンテルンの時点から、既に日本の左翼は外国の左翼に完全に支配・操縦されていたというのである。
これは、中江兆民、幸徳秋水、大杉栄ぐらいまでは左翼人でありながらもナショナリストとしての一面を保持出来ていたが、山川均以降から、既に日本の左翼指導者は、ほぼ外国の左翼に操縦されていたのではなかろうか?
だから、それ以降から現在に至るまで、日本の左翼人は、とにかく「反日」であり、ナショナリストとしての側面を削ぎ落されてしまっているのではないだろうか?
(西尾末広、西村英一、春日一幸などは例外だろうが)
だからこそ、「パヨク」とつるんで、同じような低レベルな位置まで、いわゆる保守派が下りてしまっていてはいけないのである。
本当の意味での「政治闘争」は、高度な知的レベルが問われると同時に、「人間性」そのものまでも吟味されるのである。
単なる「賢しら」な小利口であざとい立ち回りでは、全く勝負にならないのである。
はっきり云って、「パヨク」だ何だと云っている段階ならば、いざと云う時の「正念場」では全然歯が立たないだろう。
まずは、意識の問題である。
そもそも左翼とは何なのか。
その源流までさかのぼり、根源的なところまで掘り下げたかたちで問い直していく意識を持ち得ない限り、いわゆる保守派は、新たな装いで攻めこんで来る「左翼」に必ず敗北するだろう。
自分は、そう云う意味で、本当に危機感を感じている。
「油断大敵」、である。

五月の連休も明けて、「日常生活」に「復帰」した。

ここ数日、初夏を思わせる日々が続いているが、「気候」を勘定に入れないにしても、ここ数日の自分の「日常生活」は「快適」である。

まず、「仕事」に復帰したのだが、勘も鈍らず、ミスもほとんど無かった。

やはり、身体に馴染んだ「仕事」の方が、肉体的にはともかくとして、精神的には非常に楽である。

また、大好きな筋トレも継続して行うことが出来て、すこぶる充実感が有る。

勿論、所詮は「非正規雇用」の「派遣社員」風情なので、それこそ、三か月先の「将来」も全く見通せない。

当然、「人生設計」云々など、出来よう筈がない。

だが、自分は、只今、それほど精神的に辛くはない。

数年前、大企業の正社員だった時、自分は毎日毎日が苦痛だった。

いつまでこの苦しみが続くのか、悶々としていた。

諸般の事情により、自分は、「研究開発部門」の「支援」をする部署に異動したのだが、自分は結局、その部署に適応出来なかったのだ。

外回りから総務などの内勤まで、一通りの「職場」の「業務」に適応して来た自分であったが、「研究開発部門」は、どうしても駄目だった。

何故なら、職場での上司や同僚の「会話」が、全く「理解不能」だったからである。

「化学」に関する専門用語が飛び交う中、自分は、何がどうなって、自分がどうしたら良いのか、皆目見当がつかなかったのである。

結局、自分は心身の許容限度を超過して「鬱病」を発症してしまった。

人事部には、異動願いを何度も何度も申し出て嘆願したが、組織が大きいと一人や二人の移動はかえって困難なのである。

全社的な組織改編でもない限り、自分はこの部署から抜け出すことは不可能だった。

だから、休職して、なんとか鬱病の症状が軽くなっても、職場と自分の関係は全く変化が無いので、結局、鬱病の症状がぶり返して、また休職せざるを得なくなったのである。

そして、ついに、会社側は「鬱病の快癒の見込み無し」と判断したのである。

勿論、正社員として会社に「しがみ付いて」いれば、安定した収入も、二十年後以降の人生設計も保持出来た。

しかしながら、自分は職場に於いては、既に「生きながらにして死んでいた」のである。

もう、限界だった。

本当に、いっそ南海電車の線路に飛び込んでしまおうかと幾度脳裏によぎったことか。

だから、自分は会社を辞めた時、正直云って、ほっとしたのである。

今の自分は、それこそ、派遣先の正規雇用の人間に、蔑まれたりすることも有る。

また、先述したように、来年、半年はおろか三か月先のことさえ不透明なのだ。

けれども、自分は、今、毎日が充実している。

一方、我が母は、毎日毎日、「やっぱり正社員を辞めるべきではなかった。」と繰り言を云う。

確かに、母からすれば、正規雇用の「安定」した「将来」が担保されていれば、何の「不安」も「心配」も無いのだろう。

だが、母は、自分が実際に、職場でどういう苦しみにのたうちまわっていたのか、そんなことは一切どうでも良いのである。

自分の「心配ごと」さえ無ければ、それで良いのである。

確かに、今の自分の非正規雇用の身分は、絶望的なまでに将来のことが思い描けない。

しかしながら、よくよく考えてみれば、二十年後、三十年後の「将来」が「確実」に「設計」可能であるという意識自体が、この2016年・平成28年現在に於いては全くの「幻想」に過ぎないのではないだろうか?

数年前まで、「世界の亀山モデル」と豪語していた家電メーカー大手のシャープは、結局、台湾企業に身売りした。

三菱自動車は日産・ルノーの傘下に入った。

東芝だって、今後、どうなるか解らない。

つまり、日本、というより世界有数の大企業でさえ、呆気無く「清算」されていく「時代」なのである。

シャープにしろ、三菱自動車にしろ、東芝にしろ、多分、少なくない人数が「退社」せざるを得なくなる訳である。

ならば、「自分は正社員でござい!」と安閑としていられる人間など、果たしてどれくらいいるのであろうか?

つまり、結局、誰しもが「板子一枚下は地獄」であることに代わりがないのだ。

大きな船であろうと、小舟であろうと、荒れ狂う大海原に於いては、何時でも転覆の危険性が付きまとうのである。

かくなる上は、諸行無常、生生流転が世の習いであると思い知るべきであろう。

何も、自分は、贅沢三昧をしたいわけでも、立身出世がしたい訳でもない。

ただ、生まれて来た以上は、世の中に対して何らかの貢献をさせて欲しいと希求するだけなのだ。

名誉も称賛も欲しいとは思わない。

いくばくかの、自由な「時間」と「金銭」を得て、尊敬すべき師や仲間と、愛する家族と共に、健康で生活出来れば、それだけで充分過ぎると思う。

多分、自分のような「価値観」は、以外と多くの「同時代」人が共有しているように思う。

だが、それは、間違いなく、消費を冷え込ませ、刹那的な意識を持たせることに成ると思う。

それは、間違いなく「マクロ経済」に於いて、深刻な転換を惹起せしめることであろう。

このまま、「俺たちには明日はない」と思わせる「社会」を「政治」が放置し続けるのであれば、日本社会は、様々なかたちで「変容」せざるを得ないだろう。

少なくとも、自分個人は、どうすることも出来ない。

ただ、毎日毎日を必死に過ごしていくしかない。

一日一日、日銭を稼いで、食費やら光熱費やらの支払いに充当させることで精いっぱいなのだ。

だから、「憲法改正」だとか「国防」だとか、本当に自分には「無関係」なことにしか感じられなくなって来ている。

「政治活動」に参加出来る、金銭と時間の余裕が有る人が、何かいろいろなさっているようにしか感じられなくなってきている。

朝から晩までずっと働いて、ギスギスした人間関係を何とか乗り越えて、ようやくプライベートの時間を手にした時、手元に有るごくごくわずかな「時間」と「金銭」を「国家」や「民族」や「平和」や「国防」に対して、果たして投じる気持ちが起こり得るのであろうか?

昨夏の国会周辺の安保法案反対の諸活動を行える「活動家」の多くは、年金生活者と学生だった。

中には非正規雇用などの「労働者」も居たようだが、本当に「時間」と「業務」に追いまくられているほとんどの「労働者」にとって、戦争も平和も所詮「他人事」なのである。

それは、結局、「民主主義」の「空洞化」に成るだろう。

「政治」に対して、あまりに「無関心」な人々に対して、「民度が低過ぎる」と侮蔑するのは尤もである。

だが、「文化的最低限の生活」が保障され得なければ、「政治」に対する「意識」の高まりなど、自分は無理だと思う。

もう、それくらい、この日本の社会の「本当」の「危機」は深刻化していると思う。

今日、仕事の始まりが早かったので、終了も早くなりました。

と云うことで、喜び勇んで、ジムへwww

しかしながら、今日は、全くの絶不調。

全然、重量が上がりません。

あんまり不甲斐無いので、途中でもう帰ろうかとも思いました。

しかし、晴れた日も有れば、雨の日も有る訳です。

こんなことでいちいち癇癪を起していてはいけません。

重量は上がりませんでしたが、頑張って満足いくまで鍛えました。

勿論、絶不調には絶不調の理由が有ります。

多分、疲労でしょう。

しかしながら、不調だからといって、トレーニングを断念してしまったら、ひと月に数回しかトレーニングが出来なくなってしまいます。

まさに、「ここが思案のしどころ」であります。

絶好調ではないけれど、しっかりと筋肉に刺激を与え続けることが、重要なのだと思います。

ゴールドジムでは、本当に筋肉を鍛え上げた御仁ばかりなので、やはり圧倒されます。

ボディビルダーの真横で、いくらヒーヒー頑張っても、それはもう「屁のつっぱり」にもなりません。

あんなマッチョと比較されると、自分の脆弱な身体がとてもみすぼらしく惨めに思えたりします。

しかし、それも、「ものは考えよう」です。

それこそミオスタチン欠乏症といった先天的な特異体質の人以外は、生まれながらにして筋肉モリモリの人はいません。

ということは、努力次第で、ボディビルダーの筋肉を手に入れることが出来るということの証しなのです。

周囲でトレーニングに打ち込んでいるとてつもないマッチョたちは、いわば「未来の自画像」なのです。

つまり、何時か自分もあのような筋肉を手に入れることが可能だということなのです。

ボディビルダーたちは、トレーニングに来ている自分のやる気を押し潰す存在ではなく、むしろやる気を喚起させる存在なのだと思い知るべきなのです。

自分は、全くもって、ポッコリお腹の「デブッチョ」「太っちょ」ですが、何とか頑張って早いうちに「マッチョ」を目指します!

せめて、半袖シャツを二の腕の筋肉でピチピチにしてみたいものです。

自分は、いわゆる「転向左翼」である。

だから、生粋の「保守派」や「右翼」とは、やはり決定的に異なる点が有る。

どうしても、シニカルでニヒルな視点に成らざるを得ないのである。

それは、一度、心底「真理」であり「正義」であると信じた「左翼」イデオロギーに幻滅し、「裏切った」という意識が有るからである。

左翼イデオロギーに、自分は「裏切られた」と痛感したから幻滅し、転向するに到る訳であるが、ただ、左翼陣営に居た際の「人間関係」に関しては、自分は「裏切る」ことに成るのである。

人間は、精神的に傷つくことを忌避すると、やはり、シニカルでニヒルに成ってしまいがちである。

だから、そういうシニカルでニヒルな面が、いわゆる生粋の「保守派」や「右翼」と云われる方々から見ると、鼻持ちならないように見えるのだろうと拝察する。

けれども、自分は、このシニカルでニヒルな面を持っていることに関して、何の恥じらいもない。

これは、自分の今迄の生きて来た人生の思想遍歴の結果の姿であって、それを否定されるということは、自分の今迄の生涯そのものを否定されることと同じであるからだ。

何人であろうと、自分の今迄の人生の歩みを全否定されて快諾する訳がない。

また、「ここの部分は良いが、ここの部分は、まだ左翼の残滓である。」と云う批判も有る。

それもまた、自分にとっては絶対に許し難いことで、「お前ごときにそこまで云われる筋合いは無い。」と云わざるを得ない。

なお、自分は、理論家ではない。

理論家にしては、あまりに不勉強だし、浅学菲才だからである。

勿論、実務家と云うほどの大したものではないが、ただ、いつも一兵卒として何が出来るかということを念頭に考えている。

だから、「絵空事」や「空理空論」は愚昧の極みだと思っている

まずは、実効性が期待出来る方策を考えるべきだと思っている。

逆に、実効性が疑わしい方策に関しては、容赦無く批判する。

ちなみに、自分は、批判はするが、誹謗中傷はしない。

今迄も一切してこなかったし、今後も絶対にするつもりは無い。

勿論、人格攻撃などしない。

かつて、チャンネル桜の水島氏への批判はしたが、あれは、ああ云う表現しか出来得なかったから、しているまでである。

為にする為の貶める悪罵はしていない。

よく、自分の書き込みなどを評して、「内部攪乱」だとか「士気阻喪を惹起させる」とか「利敵行為」だとか批判する。

しかし、それは、「それでは理屈に合わないではないか。」という「指摘」でしかない。

「批判」と「悪罵」の区別がつかないようでは、最早、「やんぬるかな」であろう。

だから、この頃は、あまり「筆誅」が少ないwww

もう、あれこれ指摘したところで、もう全然駄目なんだと思っている。

だから、自分のやれることは黙々と自分でやるし、それ以外のことは、もう、どうにでもしてくれていいと割り切っている。

自分は2003年に転向した。

かつて、西村修平が日本商工会議所や日本IBM本社へ抗議の街宣を仕掛けた時には、実は自分もその中に居た。

マイクを握ったことも有る。

いわゆる「行動する保守派」のデモや集会だって熱心に参加していた。

つまり、自分は「尖鋭的なネトウヨ」だったのである。

そんな自分が現在、主に金銭的な手元不如意が理由であるのだが、いわゆる保守派の集まりにほとんど不参加なのである。

何故か。

何故、そうなってしまったのか。

そこのところを、よくよく考慮して欲しい。

 

例えば、いわゆる「在日」の方々に対する「悪罵」について、だ。

「観念」として、つまり、一種の「幻想」としての「朝鮮人」なり「支那人」に対して、過激な表現を投げかける、と云うのは、全く推奨すべきことではないが、まあ、そんな「過ち」もしてしまうものだと感じる。

だが、生身の「朝鮮人」や「支那人」の目の前で、「お前はゴキブリだ!」と悪罵することに、何の躊躇も良心の呵責も感じないというのは、これは人間として最低だと思う。

それは、いわゆる「ヘイトスピーチ」だとか「レイシズム」だとか、そんな訳知り顔の屁理屈が論拠ではない。

単純に、人間としての品位の問題である。

人間として品位が無いということは、社会性が欠如していることである。

確かに、「観念」としての「朝鮮人」や「支那人」を「悪罵」しているのに、「実物」の生身の「朝鮮人」や「支那人」を「悪罵」出来なかったら、その行動には「論理的一貫性」「論理的整合性」は無くなる。

しかしながら、自らの「政治的行動」「政治的主張」の「論理的一貫性」「論理的整合性」を優先させるあまりに、「人間性」や品位、思いやり、惻隠の情といったものを押し潰してしまえるのであれば、それは、誠にナンセンスであろう。

もっと云えば、「政治的行動」「政治的主張」の「論理的一貫性」「論理的整合性」を優先させるために、道義や品位を無視し、押し潰してしまえる人間は、間違いなく、完全な「左翼的人間」である!

つまり、口から出て来る「言葉」は「反左翼的」なものかもしれないが、その有り様、その行動、その存在そのもの自体が、既に完璧な「左翼」なのである!

皮肉なことに、「左翼」の政治手法を「活用」することによって、「行動する保守派」の運動が勃興したのであるが、いつしか「左翼」の「技術」だけではなく、「左翼」としての「人間性」」まで自分達の身体に染み込ませていってしまったのである。

ただ、悲しいかな、「左翼」を激烈に悪罵する割には、「左翼」に関しては「脳内御花畑」ぐらいしか知識を持ち合わせていないので、自分自身が何時しか、完璧な「左翼的人間性」に成ってしまったことの自覚、認識が全然持てないのである。

自分は、「転向左翼」だから、「左翼」を知っている。

だから、その「既視感」に、正直、愕然としているのである。

何が「戦後レジームの打破」だ。

骨の髄まで、既に「戦後」や「左翼的人間性」が染み込んでいるではないか。

自分も含めて、本当に、本当に猛省しなければいけない。

もっと、本来の「日本人」は美しかった筈だし、素晴らしかった筈だ。

それが、何故、こうまで醜悪に堕してしまったのか。

そこのところの「問題意識」を持つか、持たないか、ということが肝心なのだと、思う。

今日、朝から昼まで、ちょっとお出かけしました。

やはり遠出をしたので、心身ともにぐったりしていました。

ただ、筋トレを再開して、只今トレーニング熱が再燃!

何か、身体が重たい感じでしたが、夕方に思い切ってジムへ行きました。

今日の種目は「胸」。

筋トレを行う人のほとんどの方々が「大好物」の種目です。

しかし、自分は、「胸」が実は苦手です。

ほとんど重量が上がりません。

まあ、見方を変えれば、背中のパワーの伸びが異状なのかもしれませんが。

と云うことで、全く気負わず、淡々と「胸」を鍛えました。

すると、「何と云うことでしょう!」www

ジムからの帰りは、何とも爽快な気分でした!

トレーニングをする前は、あんなにヘロヘロだったのに。

こういうこともあるのですね。

以前、疲れ切っているところに無理やりトレーニングを強行して、つい、ベンチでうたたねしたことが有りましたwww

すぐに、這う這うの体で帰りましたが。

ですから、多少、気持ちが乗らなくても、取り敢えずジムに行って、ウェイトを挙げることですね。

で、もし、本当に疲労困憊していたら、重量は決して挙がりませんし、何しろ集中力が持ちません。

その時は、即刻、トレーニングを切り上げて帰宅すれば良いでしょう。

気温が急上昇した今日は、街中やジムで、「恰好良い身体」に方々をたくさん目にして来ました。

分厚く盛り上がった胸筋、広く広がった広背筋、そして半袖の袖口がピチピチの太い腕。

そのたんびに、「あの人は凄いなあ。格好いいなあ。きっと一生懸命鍛えているんだろうなあ。」と感嘆していました。

自分も、デブッチョからマッチョに変身出来るように、これから一生懸命頑張ります!

ドナルド・トランプ氏は5月4日CNNのインタビューで、「大統領就任後に日本に米軍駐留費用の全額負担を求め、応じなければ在日米軍の撤収を検討すると述べた。日韓が自主防衛のため核武装することを容認する考えも否定しなかった。」(産経ニュースより)と云った。

これを受けて、日本では大騒ぎである。

政府は困惑し、左翼どもは恐慌を来たし、ネトウヨは拍手喝采した。

あまりに、「おめでたい」ので溜息しか出ない。

まず、この「トランプ発言」をよく読んでほしい。

彼は、事実上、たった一つのことしか云っていないのだ。

それは、「米軍がわざわざ守ってやっているのだから、駐留経費は全部お前らが払え!」としか云っていない。

後の「駐留米軍の撤収も有り得る」「核武装を容認する」と云うのは、「米軍駐留経費を全額負担しろ!」と口に出してしまった「行きがかり上」言及しただけに過ぎない。

ならば、彼の本心はどうであるのか。

世界各国・各地域の駐留米軍は、国際政治上に於ける米国の発言力の源泉である。

それをみすみすゼロにするなんてことは愚かしい。

さらに、第二次世界大戦の「敗戦国」や「第三国」に対して、みすみす「核武装」を許す筈など、アングロサクソンの性質から云って到底有り得ない。

つまり、トランプ氏は、「やる訳が無い」「米軍撤収」と「出来る訳が無い」「核武装容認」を敢えてぶち上げて、揺さぶっているだけに過ぎない。

つまり、吹っかけるだけ吹っかけて、かましてみた、ということである。

よくよく「トランプ発言」を読んでみれば、すぐに解る筈だ。

何しろ、「核武装を容認」する国は、日本だけじゃないのだ。

あの!韓国も「核武装を容認する」と云っているのだ。

先日の総選挙では、与党内での「内部対立」などで大敗し、朴政権は既に「末期症状」「漂流状態」にある。

そんな韓国に、本当に「核武装」なんかさせて良いのか?

とてもではないが、現在の韓国に核兵器の管理なんか絶対不可能だろう。

無視してはいけない、重要なことは、その韓国と日本は同じレベルであるという認識なのである。

東アジアの新秩序形成のために、「日本だけ」が「核武装容認」ならば、色めき立っても良かろう。

だが、「日韓やドイツ」ということになれば、「核武装容認」への「本気度」や「真剣さ」は皆無であると云わざるを得ないだろう。

アメリカ人の本心はこうなのだ。

「やれるもんなら核武装してみろ!左翼や大マスコミが猛反対して、結局『お願いだから、核武装だけは勘弁して下さい!』って泣き付いて来るに決まっているだろが!」

実際、そうであるし、それが、悲しいかな、我が祖国・日本の現時点の現実なのである。

 

ならば、この「トランプ発言」に対して、どのように対応したら良いのか?

簡単明瞭である。

「自国の防衛は、自主防衛たるべきであるのが当然である。

いつまでも米軍の駐留に依存しては申し訳けないので、直ちに駐留米軍撤収後の安全保障体制の検討と対応に着手する。

また、我が国の核武装に関しては、日本の主権によって決定されるのであるので、米国からの容認は必ずしも必要としない。」と憮然として答えるのみである。

 

ま、とことんまで「お人好し」だから、自分は日本と云う国と日本人が大好きなのだが・・・

五月のゴールデンウィークというのは、実は「暑い」日が多いのです。
既に、日の出・日の入りの時間も増大していますし、湿度と照りつける日光の厳しさが少し弱いくらいで、晴天に恵まれると「初夏」の感じになります。
嗚呼、もう、春は過ぎ去ってしまったのであります。
季節が暑くなると、服装も変わってきます。
薄着になり、肌の露出が大きくなります。
そうなると、俄然、ボディビルダーが色めき立つと云うwww
冬の間も、みっちりと鍛えまくった筋肉を、満を持して世間に「公開」出来る、そんな季節が到来した訳でですwww
まあ、かの伝説的なクソ・ゲーwww「超兄貴」のように、ボディビルダーは「俺(の筋肉)を見てくれー!」と自己顕示欲のかたまりな訳ではありません。
ただ、あまりにも鍛え抜いた筋肉が巨大なので、やはり薄着になるとどうしても人目に付いてしまうのであります。
なお、トップビルダーの中には、大会のステージに上がる以外は、むやみに肌を露出しない御仁も多いとか。
ジムでも長袖長ズボンにパーカーまで上から着用している人もいるようです。
この理由としては、ライバルに現在の仕上がりを悟られないようにするためかもしれません。
まあ、ボディビルダーの筋肉量を間近に見たら、普通の人は圧倒されて、トレーニングどころではなくなりますから、周囲への気遣いからなのかもしれません。
で、タンクトップや半袖Tシャツを着る人が多くなると、やはり、二の腕の輪郭がよく認識出来るようになります。
自分は、今でこそ「メタボ親父」ですが、元来はガリガリの痩せっぽちでした。
さらに一人っ子のもやしっ子でしたので、腕力はからきし有りませんでした。
ですから、自分にとって、筋肉モリモリの太い腕は、本当に本当に憧れの存在でした。
食が細く、いわゆる腺病質の体質だったので、自分の腕は細くて頼りないものでした。
上腕二頭筋という「力こぶ」の筋肉は、発達させて肥大させないと扁平のかたちです。
だから、腕を曲げて二の腕に指を押し当てると、ちょこっと隆起させることが出来ます。
そんなことをしていました。
だから、学校の体育会系の同級生のマッチョな身体などを見ては、内心、尊敬と憧れの思いを抱いていました。
特に、太い二の腕への憧れは抑えがたく、丸太のように鍛え上げられた太い腕を触ってみたい気持ちさえ覚えました。
しかし、そんなことをしたら、筋肉モリモリのマッチョに、その太い腕でコテンパンにされてしまいます。
だから、夏場に、道行く人々の露わになった二の腕を目にするたびに、ラグビー部の学生やらのそれを見ると溜息をついていました。
ところが或る時、「自分自身の腕を鍛え上げて筋肉モリモリにしてしまえば、いくらでも触り放題だ!」ということに気が付いてから、自分は本格的にボディビルを始めたのです。
最初は、悲しいかな、3キロのダンベルでアームカールを始めました。
5キロのダンベルが持てなかったのです。
それが何時しか、それなりの重量まで達するようになりました。
とにかく、今でも、筋トレで一番打ち込むのは腕のトレーニングです。
ただ、その成果が、実は、あまり実感が湧きません。
よく「美人の顔は三日で飽きる」と云いますが、自分自身の腕も毎日、鏡で目にしているので、いつしか、何の感慨も浮かばなくなってしまったのです。
だから、正直云って、自分の腕がどれくらいなのか、よく解っていません。
でも、そんなこと、今の自分にはどうでもいいことです。
まだまだ自分の腕は貧弱で駄目だと思っているので、今でも腕のトレーニングは全力で取り組んでいます。
自分は今の腕の筋肉に全く満足していません。
今後も一生懸命精進して行きます!
とはいえ、やはり、他人の腕の筋肉はどうしても気になってしまうのです。
だから、目に留まった筋肉質の二の腕を見ると、ついつい感嘆するのです。
「ああ、格好良い、逞しい腕だなあ。」と。
その時も、当然、自分の腕のことなど、全く念頭に有りません。
ひょっとしたら、実は自分の腕よりも目の前の他人の腕の方が細い腕なのかもしれませんが、自分の脳裡に存在する「二の腕」は何時まで経っても3キロのダンベルをやっと持てる時の貧弱な腕の姿のままなのです。
だから、ちょっとでも筋肉質の二の腕を目にするたびに、感心してしまいます。
そして、「よし!自分もメチャクチャ、腕を鍛えまくるぞ!」と喝を入れるのであります。
しかし、今朝は一昨日、鍛えまくった上腕二頭筋と上腕三頭筋が、めちゃくちゃ筋肉痛です。
うむ、仕事、出来るのかな?www

今日も筋トレしました!
さて、先日、高畑淳子の息子の高畑裕太がTVに出ていました。
彼の仕草をみると、驚き方から何気無い表情まで、母親そっくりなのには驚かされましたwww
また、彼の感覚の突飛なこと、いわゆる「天然」と云われて、「笑われる」訳です。
でも、彼の真骨頂は、そのひたむきさにあります。
その一生懸命さにあります。
無知で不器用で勘違いばかりしていますが、何よりも一生懸命でひたむきである、その姿が、彼を今、人気者にしているのです。
これは「なんだかんだ云っても、彼は良い奴なんだ。」という評価なのです。
実は、世の中で生きていく上で、この「彼は良い奴なんだ。」という評価で充分なのです。
確かに、これ以上に何かを付け加える要素が有れば、それに越したことはありませんが、もう、「好感を持たれる」という時点で、彼の人生の前途は明るいと判断して間違い無いと思います。
後は、その信頼を裏切らないことでしょう。
実は、自分も新入社員の頃、「君は真面目だ。」と云われました。
「頭が良い」とか「器用」だとか「タフ」だとか、そういった形容詞ではなかったのです。
とにかく、「真面目」だと。
自分は、これを「社会人たる者、真面目でなければ有り得ない訳だから、『真面目』であるということは当然であって、何の特色でもない。多分、他に褒める要素が見当たらなかったので、『お前は何も褒めるところが無い、取るに足らない人間だが、自分は嫌いではないよ。』という意味で云ったのだろう。」と受け止めました。
とても悲しかったことを今でも思い出します。
自分は、とにかく、只今、この瞬間、瞬間に全力を尽くさなければ、生きている意味が無い、と考えています。
だから、後のことなど考慮せず、今、この時に全てを出し尽くすことを意識しています。
そのため、ペース配分が出来ずに、体調を崩したりすることが多く、本当に愚かしいのであります。
今日の筋トレもそうでした。
もう、最初からガンガン打ち込んでいったので、途中で意識がもうろうに成って来ました。
多分、このままコーチにビシビシと追い込まれてたら、嘔吐するか、卒倒したでしょう。
(うむ、体育会系の学生でなくて良かったwww)
ただ、振り返ったら、ジムのトレーナーの方から突然声をかけられました。
「ボディビルの大会を目指しませんか?」
「いやいや、お腹がこんなんなので、無理ですwww」
苦笑しました。
何でそんなことを云われたのか、よく解りません。
ただ、帰宅してから寝込みましたwww
今日はたまたま休みを取りましたらから良かったものの、明日は仕事です。
全く、自分って、馬鹿ですね!

2016年5月3日、アメリカの大統領選挙に於いて、ついにドナルド・トランプが共和党の候補指名を確実にした。

インディアナ州の予備選挙に於いて大勝し、共和党全国大会に於いての候補者指名の為の代議員数獲得が確実視され、更に2番手のテッド・クルーズ上院議員が選挙戦から撤退を表明したことから、最早、トランプ氏をひっくり返す者はいなくなったのである。

さて、インターネットのいわゆる「ネトウヨ」と呼ばれる方々の少なからぬ数で、ドナルド・トランプの評価が高い。

中には、率直に「トランプがアメリカ大統領に成って欲しい!」と表明する御仁も居られる。

あまりにも、政治的に純真(うぶ)過ぎると自分は苦笑している。

いわゆる「ネトウヨ」連のトランプ支持の論拠として、日本の核武装への容認などが挙げられている。

はっきり云って、現時点で、これらのトランプ氏の「発言」は全く論評するに値しない。

後々、「確か、あの時、トランプさんは『日本の核武装』を歓迎したではないか!」と詰問したところで、何の言質にも担保にもならない。

何故なら、トランプ氏の発言は、「不法移民対策にアメリカ・メキシコ国境に『壁』を築く!」とかローマ法王を非難したりしている。

つまり、日本に関係する「発言」も、所詮、「その程度の代物」と覚悟すべきであろう。

そもそも、ドナルド・トランプとは何者なのか?

やり手の不動産王で、TVのトーク番組の司会者だった「有名人」。

そして、何よりも、彼は「政治経験ゼロ」であることである。

政治経験が皆無であるということは、実績が無いというマイナス要因が有るが、逆に裏を返せば、政治的なしがらみが皆無であるということでもある。

つまり、政治的に「新鮮」であり「無垢」であるのである。

トランプ氏は、この政治家としての新鮮さと無垢であることを真正面に掲げて、今迄の共和党内の予備選挙を「正面突破」したのである。

当初、共和党内の大統領選挙予備選挙は混迷を深めていた。

飛び抜けた本命の候補者が不在で、10人を超える立候補者がしのぎを削っていたのである。

その中で、注目すべきなのは、ジョブ・ブッシュ元フロリダ州知事の早々の「失速」だった。

兄のジュニア・ブッシュ大統領よりも政治家としてははるかに有能であると、政界通では定評が有ったとされる彼であったが、選挙戦の最初から支持率が低迷し、早々に選挙戦からの撤退を余儀なくされた。

多分、今後、大統領選挙に出馬する可能性は無くなっただろうし、政治的には「終了」したのに等しかろう。

そんな、「どんぐりの背比べ」の共和党予備選挙に於いては、まず、候補者群の中から「頭一つ抜け出す」ことが絶対的に必要であった。

この「背景」を踏まえた上で、トランプ氏の「暴言」を見なくてはいけない。

つまり、トランプ氏は、とにかく、他の候補から自分を際立たせること、目立つことのみに専念したのである。

問題発言を繰り返すことで、マスコミの関心をさらった訳である。

さらに、その「暴言」の数々の「底」に共通して込められたメッセージは「自分は従来の政治的なタブーに束縛されない、自由で新鮮で無垢な『未来』の政治的指導者なのだ!」というものであった。

だからこそ、少なくない数の共和党員がトランプ氏を支持したのである。

トランプ氏の選挙戦略は単純明快である。

具体的な政策についての是非を問うことに、敢えて意味を持たせなかった。

それよりも、ドナルド・トランプという「人物」の魅力のみを大衆に訴求させることに専念したのである。

まさに「一点突破、全面展開」である。

一方の、クルーズ、ルビオといったライバル候補は、「政治家」として「誠実」に「政策論争」を仕掛けようとした。

だが、トランプは「個々の政策よりも、誰がアメリカ大統領として相応しいかで選ぶべきだ!」という戦略であったので、ハナから「政策論議」など噛み合う筈など有り得ない。

いわゆる、インテリや政治通と呼ばれる「玄人筋」からは、トランプなんぞは鼻白む存在でしかないのだが、いわゆる世間一般大衆にはトランプの「奇手」で十二分に通用したのである。

さて、自分は三流私大の百姓学部の樵(きこり)学科を何とか出させてもらったような人間なので、政治に関してはズブの素人である。

だから、政治学の碩学のように受け止められては困る。

その点をここで敢えて強調しておく。

自分は浅学菲才の最たるものであるが、そんな自分がアメリカの大統領史を思い浮かべてみると、(あくまで戦後だけだか)ある一つの共通項が有るように思う。

それは、「政治的新鮮さへの希求」である。

振り返ってみると、ルーズベルト大統領が戦時中に急逝し、副大統領だったトルーマンが繰り上がる。

その次は、欧州戦線の「史上最大の作戦」と云われたノルマンディー上陸作戦のアイゼンハワーが軍人から大統領に成った。

そして、若き上院議員だったケネディが、ベテラン政治家ニクソンを破って当選。

ケネディ暗殺後は、副大統領のジョンソンが繰り上がるが、その次は満を持してニクソンが当選。

だが、ニクソンはウォーターゲートの盗聴事件で辞任し、フォード副大統領が繰り上がる。

そして、ジョージア州知事だった「無名」の候補だったカーターが当選する。

だが、イラン革命におけるアメリカ大使館人質事件やソ連のアフガニスタン侵攻などの外交政策の「弱腰」「失敗」がたたって、レーガンに再選を阻止される。

レーガンは、元来がハリウッド映画の俳優で、スケジュールの関係で、かの名画「カサブランカ」をハンフリー・ボガードに代役した。

ハリウッドの「赤狩り」で「保守派」として鳴らし、カリフォルニア州知事と成った。

レーガンの次がシニア・ブッシュであり、アーカンソー州知事だったクリントン、テキサス州知事だったジュニア・ブッシュ、そして現在のオバマに至る。

ここまで履歴を見てみて、いわゆる「ワシントンDCのベテラン政治家」は、ジョンソン、ニクソン、フォード、シニア・ブッシュぐらいである。

地方政治の州知事から上がってくるか、また上院議員でも若手から中堅へ入る手前ぐらいである。

つまり、「政界」にドップリ全身が浸かっていたような候補者は、アメリカ国民が好まないと云えるのではないだろうか?

モンデールやジョン・ケリー、マケインといったベテラン国会議員は、党の指名候補には勝ち得ても大統領選挙本選挙に於いては敗北するパターンなのである。

その流れからいけば、今度のヒラリー・クリントンの当選は、結構、危ういと見るべきではなかろうか?

現に、ヒラリー・クリントンは、民主党の候補指名の予備選挙の段階で既に「苦戦」している。

「対抗馬」がいない選挙と云う図式であるからでもあるが、民主党の予備選挙そのものが盛り上がりに欠けている。

選挙が盛り上がらなければ、支持者は「興奮」出来ない。

やはり、支持者や国民の相当数を「興奮」させ、「熱狂」させなければ、選挙で勝利することは覚束無いだろう。

その点、トランプには、何が飛び出してくるか解らない、一種の「ワクワク感」が有る。

この「ワクワク感」こそが、共和党内の予備選挙を勝利させ、そして、ひいては大統領選挙本選挙に於いて大きく有利に働くことが予想される。

さて、ドナルド・トランプは共和党の候補として民主党のヒラリー・クリントンと対峙する構図と成った。

かつてのロス・ペローのような無所属候補が出て来る動きが見られないので、多分、トランプ対ヒラリーの一騎討ちの戦いとなろう。

「戦局」は新たな段階に入った。

だから、今後、ドナルド・トランプの発言は否応無く変化するであろう。

今迄のような、突飛で、聴衆が熱狂するような小気味良い演説から、間違いなく、次期大統領に相応しい、重みと権威を感じさせる演説に変貌していくだろう。

これは、多分、トランプ氏が当初から予想していたものかどうかは、自分は疑わしい。

自分は、多分、トランプ氏自身、共和党候補指名を勝ち取れるかどうか、五分五分だったと考えていたと思う。

つまり、選挙戦を撤退した場合の後まで、彼と彼の陣営はちゃんと事前に算盤を弾いていたと思う。

次の選挙に向けての布石にするのか、はたまた、マスコミ界の「寵児」として再び活躍するのか。

そこまでは計算の範囲内だったと思う。

だが、トランプはついに、大統領選挙本選挙への切符を手にした。

ならば、その様相は一変するであろうし、一変しなければ当選は困難だろう。

何故ならば、トランプ氏を小馬鹿にしている共和党の政治通や共和党・民主党のどちらかに決めかねている「浮動層」、さらにはヒラリー・クリントンに対して不満を抱く民主党支持層、これらの国民の支持を得られなければ到底当選は有り得ない。

だから、威勢の良い、毎度お馴染みの「トランプ節」は変わらざるを得ないだろう。

もしくは、選挙戦略を従来通りの手法でもって、あくまで「正面突破」をはかるにしろ、当選後のことを見据えてスタッフやブレーンの人選に本腰を入れるだろう。

つまり、ドナルド・トランプが、日本にとって好ましいか否かは、これからようやく議論が可能になるのである。

トランプが何を云ったかというよりも、トランプ陣営が誰に手を伸ばしているのか。

その「誰」がどんな政策や主義主張、思想信条を持っているのかが実は重要なのである。

アメリカ大統領というのは、或る面、「お神輿」であるところがある。

大統領を補佐するスタッフにどのような人選が為されるのか。

それをよくよく精査した上でなければ、本当の意味での「トランプ政権」を評価する意味が無い。

なお、所詮は他国の政治的指導者を選ぶ選挙でしかない。

この選挙は、あくまでアメリカの国益を第一として論じられるのだ。

だから、日本に関して、過度の期待は日本人の「甘え」でしかない。

「対米追従の性(さが)」と悪罵されても反論出来まい。

43日ぶりに筋トレをした翌朝であります。

ところどころ筋肉痛ですが、「痛」と云うより「快」でありますwww

確かに、筋肉が突っ張る感じなのですが、「不快」というよりも、「快感」であります。

やっぱり、筋トレは良いなあwww

よく、「ジョギング中毒」という御仁がおられます。

春夏秋冬、雨の日も風の日も、ひょっとしたら雪の日も、毎日必ずジョギングをする人がいます。

出張や旅行先でも実施する人がいます。

更には、通勤を「ジョギング」で行い、職場へは着替える人さえ、います。

何故、そこまで続けるのでしょうか?

何故、そこまで「執着」するのでしょうか?

それは、いわゆる「脳内麻薬」が分泌されて、「快感」を得られるからだと云います。

その理屈を応用するのならば、筋トレも「快感」を催す化学物質が体内で分泌されているのかもしれません。

けれども、それは「習慣化」による意識や心境の変化によるものだと思います。

さて、我々は現在「知性偏重」「理性偏重」に成っています。

いわゆる高度情報化社会に成ってから、ますますその傾向が顕著だと感じます。

しかしながら、人間は肉体を持った生命体です。

つまり「動物」としての側面を、もっと意識する必要があります。

それは、食事・睡眠・排泄・運動そして「性」の重要性を再認識することです。

人間の身体は、食事によって形成されます。

つまり、自分自身の身体は、自分自身が食べた食物によって構成されている訳です。

これは当たり前のことなのですが、世間一般のほとんどの人は、実は実感として解っていません。

自分もかつてはそうでした。

しかし、ボディビルをやりはじめ、筋トレを行い続けるにあたって、身に沁みて解りました。

タンパク質の摂取量を増やすことによって、体つきが激変したのです。

また、筋肉が付いたことから、精神的な変化も出て来ました。

パワーと瞬発力が増して来たので、テキパキと活動出来るように成ったのです。

また、クヨクヨと思い悩むことも少なく成りました。

やはり、食事・睡眠・排泄・運動を意識的に行うことによって、自己管理が出来るようになってくる訳です。

自己管理が出来るということは、自分自身の生活を主体的、主導的に行えるということです。

我々の一生は、実は毎日毎日の取るに足らない日常生活の累積です。

つまり、日々の日常生活が畢竟、自分自身の生涯を構成する訳です。

自分はボディビルから、この「日常」の重要性を学びました。

毎日毎日、プロテインを飲み、部位を変えて筋トレを行い、疲労感を覚えたらしっかりと休養する。

この積み重ねの果てに、筋肉は形成される訳です。

いきなり、ベンチプレス100キロを挙げようとしても、それは遺伝的に強い肉体を持った人以外はとても困難です。

しかし、数か月、数年と正確なトレーニングを実施していけば、大抵の人はベンチプレス100キロはそれほど不可能な目標ではありません。

また、筋トレとは、バーベルやダンベル、マシンをただひたすら上げ下げして、筋肉に刺激を与えることだとも云えます。

云ってみれば、バーベルを何万回上げ下げし、ダンベルを何万回上げ下げした累積が筋肉と成って現れる訳です。

しかしながら、一年間かけてバーベルやダンベルを上げ下げし続けるからこそ、筋肉は大きく成長する訳です。

一日のうちに一気に何万回もバーベルやダンベルを上げ下げしようとしたら、筋肉が大きくなるどころか、身体が破壊されてしまいます。

我々は、もっともっと「日常」の重要性を認識するべきなのです。

筋トレに限りません。

それは、受験勉強や読書といった「知的分野」に於いても同じなのです。

だから、何か人生の目標を立て、その実現を目指すのであるのならば、その目標に向かっての「行程表」を作るべきです。

そして、その「行程表」から、今日一日に行うべきこと、行えることを抽出し、一つ一つ着実に実行していくことです。

「千里の道も一歩から」です。

また、我々はあくまで「動物」であります。

「感覚」や「情緒」というものを無視したり、軽視してはいけません。

感覚を研ぎ澄まし、感情を制御し、為すべきことを一つ一つ着実に実行していかなければいけません。

そして、毎日毎日の「些末」なことの結果が、振り返ってみて、決定的な差異となって立ち現われて来ることでしょう。

自分は、これをボディビルから学びました。

ということで、今日も皆さん、筋トレに励みましょう!www

自分は貧乏なので、スマートフォンを持っていません。
いわゆるガラパゴス携帯電話しか持っていません。
そんな、時代遅れな人間です。

よく、スマホを見ている人を巷で見かけます。
その姿を見ていると、自分は、何だかとても「寂しそう」に感じます。
たった独りで、しかも無言で、ずっと表情も変えず、姿勢も変えることも有りません。
けれども、ひょっとしたら、LINEで、恋人と愛の語らいをしている真っ最中なのかもしれません。
もしくは、チャットで、たった今侃侃諤諤の大論争を戦わせているのかもしれません。
つまり、インターネットの向こう側には、遥かに広大な「世界」と交信されているのです。
でも、
でも、
自分は、とても「寂しそう」に見えてしまうのです。

自分は、多分、時代遅れなんだと思います。
自分も、いつかはスマホを持つことになるのかもしれません。
そして、きっと、「寂しそう」に一心不乱でスマホと向き合っていることでしょう。

FBでのお友達の割合が、「筋肉」関係が激増したので、ボディビルやフィジークやらプロレスやらトレーニング関連の情報が激増しました!
ま、これはこれで、極めて片寄っているのでありますがwww、いわゆる「ネット保守」の方々の「輪」の中に入っていると、「憲法改正」やら「国防の増強の緊急性」などが、さも「一大関心事」のように感じてしまいます。
けれども、世間一般大衆は、いわゆる「憲法」の「改正」について、ほとんど関心が有りません。
だからこそ、「もう、古臭いのだから、ちょこっと変えようよ。」といった感じの「説得」が一番、「有効」www
真剣に、「GHQがどうたらこうたら」と説明したところで、世間一般大衆は全く食指を動かしません。
逆に、左翼側は、「得体の知れない保守反動勢力が、水面下で陰謀を巡らしている」と云った印象操作、ミスリードを仕掛けています。
結局、「憲法」を巡る「改正論議」など為されることは絶望的で、昨年の安保法案の時と同様に、煽情的なイメージ操作、レッテル貼りとスローガンの絶叫しか為され得ないだろうということが、想定されます。
何と、反知性的なことでありましょうか?
ここに最近、持ち出されて来た「立憲主義」と云うものも、普遍的な要素と既に時代錯誤な因循固陋な要素とが有り、それを敢えて恣意的に混同させています。
技術革新とそれに影響されて変貌した国民の意識を無視した上で、国家と法律と権力の分立を論じたところで、それは空理空論に堕してしまいます。
また、かのモンテスキューが想定し得なかった、「第一権力」としての「大マスコミ」の偏向した独善的論調と体質も、もっと深く論議すべきでしょう。
はっきり云って、今夏の参院選は、「憲法」なんか争点に成り得ませんし、争点に無理やり仕立て上げたところで、左翼陣営に返り討ちに遇って無様な大敗北に終わるでしょう。
それは、ひとえに、保守陣営の自己分析の錯覚から来ています。
保守陣営は、第二次安倍政権樹立後、二度の衆院選と一度の参院選に勝利したことを論拠に、「保守陣営は強固である」と自惚れた訳です。
しかしながら、保守陣営が「強固」である、といった「論拠」は、はっきり云って「錯覚」に過ぎません。
ただ、野党の方が、相対的に駄目過ぎたので、「優位」に見えただけです。
野党が大同団結し、さらに、大衆的な人気を糾合出来得るような要素(指導者、政治的争点、スローガンなど)を入手した時、第二次安倍政権は一気に劣勢に追い落とされます。
客観的な情勢分析が出来なくなった、もしくは放棄した、いわゆる保守陣営に参院選で地滑り的大勝利は有り得ないでしょう。
せいぜい、「辛勝」レベルが関の山で、そうなると、その勝利の貢献者は多分、創価学会・公明党であり、二階俊博であり、谷垣禎一でありましょう。
第二次安倍政権は、決定的に「変質」するのではないでしょうか?
我々は、「ふりだしに戻る」ということに成ることを覚悟すべきでしょう。
それはひとえに慢心によって帰結したものであります。

3月22日以来なので43日ぶりの筋トレ。
勿論、プロテイン摂取もしていなかったので、体重も5キロ減。
腹部のタプタプは変わっていないので(無念!)その分、筋肉量が減ったこと、間違い無し。
今日は、日本全国的に「祝日」だったのですが、自分は「お仕事」。
「労務者」としての「お仕事」復帰でありました。
ひと月以上、「お仕事」から離れていたので、勘が鈍っているのでは、と戦々恐々でしたが、ま、粗相もせずに無事に「任務完了」出来ましたwww
その後、「くらやみ祭り」で大賑わいの東京都府中市の府中の街までやって来て、GGで「筋肉祭り」をwww
今日は、自分が一番張り切る種目、腕のトレーニングをしました!が・・・・・
嗚呼!何ということでしょう!
悲しいくらい、軽い重量しか挙げられません!
心なしか、上腕部が貧弱に成ってしまった感じ。
トホホホのホ、であります。
ま、体育会系の学生じゃあるまいし、トレーニングを最優先には出来ないのであります。
全く、「賽の河原の石積み」ですが、また「一から出直し」です。
何とか、夏までには、ゴツイ腕に成りたいなぁ・・・・

熊本県の地震が一向に収まる気配が無い。
少しづつ、破壊されたインフラが復旧しつつあるが、「復興」への道のりはあまりに遠い。

さて、新聞などでも、こういうことを云い出す人が皆無であることに自分は本当に本当に違和感が有る。
このたびの熊本県と大分県での大地震は、かの東日本大震災に勝るとも劣らない程の激甚災害であろう。
ただ、津波と原発の事故が無かったので、何となく「軽く」見られているような気がする。
食料や飲み水にも事欠き、住む場所さえ無いという状況の中で、熊本県内ではたして「選挙」など出来得るのだろうか?
それどころではないだろうが。
気が付けば、参議院選挙は7月に行われると云う。
既に7月10日投開票という具体的な日程まで上がって来ている。
だが、ちょっと待って欲しい。
本当に「選挙」なんてやっている場合なのだろうか?
既に、あれほど世間を騒がせていた「衆参ダブル選挙」という憶測は、この大地震以後、一気にトーンダウンした。
当然である。
頻発する余震に怯えながらなんとか生きている熊本県の被災者の方々の横で、大音量で街宣車で移動して行くなどという光景は顰蹙しか買わない。
ならば、熊本県などは限定して延期する、と云う案も有るが、そうなったら全国比例代表の投票はどうなるのか、ということになる。
また、被災した熊本県だけを切り捨てるのか!という批判が出て来よう。
かくなる上は、参議院選挙そのものを一年延期すべきだ。
憲法の規定だとか、何だとか、反対意見を並べ立てるだろうが、そんなもん、所詮は人間が勝手に決めた「約束事」でしかない。
人間が決めたことならば、人間が変更することは、何の不可能なことではあるまい。
今、大切なことは、憲法改正でも、立憲主義を守ることでも何でもない!
激甚災害で困窮している同朋、熊本県の日本国民を救うことである。
「そんなことをしたら、参議院議員の改選議員が任期切れになります。」と反駁する奴が出て来よう。
何、心配ご無用である。
参議院は、半分が「欠員」で宜しい。
参議院のうち、非改選の議員は残って居るのだから、半分の非改選議員のみで参議院を運営すれば宜しかろう。
「そんな無茶な。」と云われるかもしれない。
だが、困窮している熊本県の国民、我らの同朋を助けることを、まず最優先にすると肚をくくれば、後は全部が些末な事でしかなかろう。
それとも、生き死にがかかっている熊本県の被災者の「生命」よりも、そんなに「選挙」が大事なのか?
それこそ、本末転倒ではないのか?
日本全国で、「国政選挙」なんざやっとる場合じゃないぜ!
只今、今日が、いわゆる「例外状況」なのである。
政治家も含めて、日本国民が全員、肚をくくることだ。
多分、「畏きあたり」もこの「決断」を諒とされること、間違いなかろうと拝察する。

先日、武州御岳山を参拝したことを書いたが、関東地方(特に武蔵の国の地域)特有の「オオカミ信仰」に絡めて、「金神」信仰を書いた。
「金神」という凶悪な方位の祟り神が、赤沢文治(川手文治郎)に神懸った時、「方位や日柄は無意味である。」と説く「天地金乃神」という福神に大転換した。
これが金光大神が創唱した「金光教」である。
ここから、従来、注目されていなかった神が、宗教的カリスマによって「再発見」される、もしくは「憑依」することによって「現出」する「新宗教」の源流が出て来る。
勿論、その前段階として、神道家による「天御中主神」の「再発見」が有る。
「天御中主神」は
「天地初發之時、於高天原成談勝天之御中主訓高下天、云阿麻。下效此、次高御產巢日叩⊆○產巢日叩此三柱端圈∧退悍胆坐而、隱身也。」
とあるように、天地の初めに三柱の神が出現し、その中の最初の神が「天御中主神」であり、三神はそれぞれ「独り神」で、じきに「お隠れ」に成ったとする。
なお、「日本書紀」に於いては、国常立尊が該当する。(「古事記」に於いては「神七世」の最初の神、国之常立神と同神か)
「古事記」に於ける「造化三神」とされるが、事実上、名前だけ記載されて、その性格や事績など、一切記述が無い神である。
ところが、逆に「何も書かれていない」という点から、「どのような後付けの解釈が可能」であるwwwという「裏技」が捻出された。
中世の日本の宗教に於ける理論的な優位性は、まだまだ仏教側が強力であり、神道側からの理論的攻勢は小規模であった。
真言密教の「両部神道」や天台密教の「山王神道」の「本地垂迹」理論が一般化しており、神道の神と仏は表裏一体とする「信仰体系」が出来上がりつつあった。
また、天台宗比叡山延暦寺や日蓮宗から、神道の日本の天神地祇も「護法善神」であるとみなした「法華三十番神」という信仰が生まれる。
太陰暦では、ひと月は三十日なので、ひと月の三十日間の一日一日の担当をする「守護神」として神道の日本の天神地祇が「指定」されたのである。
ついたちが「熱田大明神」、二日が「諏訪大明神」で、と三十の神々が割り振られたのである。
さらに、神道の主祭神とされる天照大神でさえ、「雨宝童子」という造形が為された。
そう云う面では、神道側は、理論体系や神話体系の創出と云う面で完全に圧倒されていたのである。
そんなさなか、伊勢の神宮に於いては、逆に「神が主、表で、仏が従、裏である」とする「反本地垂迹」理論を打ち出すのだが、その神道理論は伊勢の神宮でも外宮の社家である度会氏によって構築された。
伊勢の神宮は内宮と外宮で構成されており、内宮は天照大神がお祀りされているが、外宮は豊受大神である。
そうなると、内宮と外宮では外宮の方がやや劣る感じに成らざるを得なかった。
そこで、度会氏は、外宮の祭神である豊受大神を「実は『古事記』の天御中主神、『日本書記』の国常立尊であった」という「解釈」を打ち出すのである。
度会氏は、仏教側への「本地垂迹」理論への反駁と同時に、内宮への対抗心から「太古神」である「天御中主神」の「再発見」を行ったのである。
その後、吉田兼倶に於ける「吉田神道」に於いて、神道の新たな主祭神として「大元尊神」を創唱する。
「太元尊神」とは「古事記」の「天御中主神」と「日本書紀」の「国常立尊」を(総称)したものであった。
さらに、吉田兼倶は、京都の吉田山の吉田神社に太元宮という八角形の異様な社を建立し、さらに、「伊勢の神(天照大神)が飛翔し、降臨された。」と云って、伊勢の神宮の信仰まで併呑しようとまでする。
吉田家は江戸時代に於いて、各神社の神の位や各神社の社家の位階のお墨付きを与える、家元のような立場に君臨する。
更に平田篤胤は、禁書であったキリスト教関係の書物から、「造物主」「万物の創造神」という観念に大きく影響され、「霊之御柱」に於いて、天御中主神・高皇産霊神・神皇産霊神の造化三神が記紀神話に於いて該当すると説いた。
これらの流れから、否応無く、「天御中主神」はどんどん畏敬される存在と成っていったのである。
さらに、「天の神」という漠然とした定義から、陰陽道や道教から仏教へ取り入れられた「星の神」(北極星と北斗七星を神格化)である「尊星王」「北辰妙見菩薩」「鎮宅霊符神」と習合されるのである。
また、仏教の「十二天」の一つである「水天」にちなんだ「水天宮」も安徳天皇や平清盛夫人・二位の尼と共に天御中主神が祭祀されることとなった。
なお、江戸時代に於いては、支那に於ける「天」の概念も神道教学に何らかの影響を与えたことが想定される。
中世の吉田神道から、いわゆる「国学」までの「中継ぎ」として、吉川惟足の吉川神道や山崎闇斎の垂加神道が上げられる。
これらの神道教学は、対仏教への理論構築に於いて、儒学を援用した。
いわゆる「儒家神道」とも呼ばれる訳であるが、その中に、支那に於ける「天」の概念も組み込まれたと考えるべきであろう。
日本人に於ける「天」は、夏目漱石の「則天去私」や西郷南洲隆盛の「敬天愛人」のように、漠然とした宇宙観そのものという概念である。
しかしながら、支那に於ける「天」とは、「易姓革命」の根拠とも成る、恣意的な存在であった。
つまり、「人格」を保持する、形而上の崇拝対象、至高至尊の「神」と云う概念であったようである。
なお、道教に於いては、至高神として「三清」という三柱の神(元始天尊、太上道君、太上老君)が元々は存在していたが、その下に「天帝」玉皇上帝が居る。
この玉皇上帝という神の存在も、支那人に於ける「天」の「人格神」としての捉え方の現れであろう。

同じく、記紀神話に於いて、ほとんど記載が無い神として、菊理媛神(白山比彗膺澄砲海函崘鮖蛎膰現」があげられる。
この菊理媛神は「古事記」には記述は無く、「日本書紀」本文にも無く、「日本書紀」の「一書」に一文だけ登場する。
伊弉諾尊と伊弉冉尊が、死別後に黄泉の国で再会し、伊弉冉尊の変わり果てた姿を見て逃げ出したところ、泉平坂(よもつひらさか)で相争うときに、まず、泉守道者(よもつちもりびと)が伊弉冉尊の言葉を取り継ぐ。
その後、「是時、菊理媛神亦有白事。伊奘諾尊聞而善之。」と有り、菊理媛神は何かを伊奘諾尊を申し上げて、伊奘諾尊がそれを喜んで褒めたと云う。
つまり、菊理媛神が何を話したのかは一切記述が無いのである。
だが、そんな菊理媛神は白山神社の祭神として、全国各地で祭祀される神と成って行くのである。

「金神」信仰は、最終的に、日本の現代につながる「新宗教」の「源流」、「大本」に出現する。
1892年明治25年2月3日に「出口なお」という女性に「艮(うしとら)の金神」が神懸り、「三千世界一度に開く梅の花、艮の金神の世になりたぞよ。神が表に現れて三千世界の立替え立直しを致すぞよ。」(大本神諭・お筆先)と自動手記によって顕現した。
後に、娘婿と成る、出口王仁三郎の審神者により、出口なおに降りた神は「国常立尊」であるとされた。
これは「太古神の復活」による「新しき世界の創造」を意味した。
また、従来の神社神道に於ける神々が、「太古神」たる「国常立尊」を追い出し、「鬼門」の艮(うしとら)(北東)の方位へ「幽閉」したとする。
そして、長年、「隠されていた太古神」が、たった今「顕現した」という「新たな神話体系」が創唱されたのである。
「金光教」の「天地金乃神」や「天理教」の「天理王命」も、いわゆる「記紀神話」とは異なる「神話体系」であったが、まだ「記紀神話」と並存可能なかたちであった。
しかしながら、「大本」に於いては、出口王仁三郎によって「整備」された「新たな神話体系」は、「記紀神話」を転換させ得るだけの要素が有った。
出口王仁三郎に、そこまでの意図が有ったかどうかは不明であるが、結果として、「記紀神話」による皇統を主軸とする明治国家・大日本帝国の根幹を転覆させ得る危険性が有るとみなされて、二度にわたる徹底的な宗教弾圧が課せられることとなるのである。

出口王仁三郎は、とにかく桁外れなカリスマであり、アイデアマンであった。
新聞社を買収して傘下に置き、新聞や出版、映画の制作まで行った。
いわゆるメディア布教を大々的に実施したのは「大本」を嚆矢とする。
(勿論、浄土真宗本願寺派・西本願寺が「反省会雑誌」をつくり、後の「中央公論」誌と成るのだが、現代にまでつながるメディア布教は、やはり「大本」が「元祖」であろう。)
さらにエスペラント語を学ぶなど、世界を見据えた視点が有った。
実際に、支那の紅卍会という道教系新宗教と提携するなど、型破りな活動を行った。
ただ、スサノヲによって旧秩序を破壊し、ミロクによって新世界を創造する、といった感じの「終末思想」と「千年王国革命思想」を内包していた。
「世の立て替え、立て直し」という「終末思想」「千年王国革命思想」は、支那に於ける弥勒菩薩下生の「白蓮教」に通じる、キリスト教的な救済感を大衆へ訴求させていた。
だからこそ、大正時代から戦前期の日本に於いて、爆発的な信者数の激増をもたらしたのである。
更に、大著「霊界物語」などに有る様に、祖霊信仰や先祖供養も「神道式」で取り入れており、仏教の代替としても大いに機能した。

出口王仁三郎によって「再発見」された「埋没神」は、まだ存在する。
「伊豆能売(いずのめ)」神である。
「古事記」の中で、伊邪那岐命が伊邪那美命の死後に黄泉の国に行った後、そのあまりの変貌ぶりに恐れを為して逃げ帰った後、黄泉の国の穢れを禊ぎ祓うために筑紫日向之橘小門之阿波岐原に於いて「禊ぎ」を行う。(祓詞の原典)
その禊ぎの際に、様々な神々が誕生する。
最後には、天照大神、月読命、素戔嗚命の「三貴神」の誕生となるのだが、その前段に、「住吉大神」三神が誕生する。
そして、その住吉神の誕生の前に、「伊豆能売」が誕生する。

於是詔之「上瀬者瀬速、下瀬者瀬弱。」而、初於中瀬墮迦豆伎而滌時、所成坐談勝八十禍津日訓禍云摩賀、下效此。、次大禍津日叩∈‘齶端圈⊇蠹其穢繁國之時、因汚垢而所成断啓毀蕁次爲直其禍而所成談勝団照毘字以音、下效此、次大直毘叩⊆^貌η曙煉叩幷三談蕁0飽焚嫉融以音。次於水底滌時、所成談勝底津綿津見叩⊆…貪之男命。於中滌時、所成談勝中津綿津見叩⊆|翕之男命。於水上滌時、所成談勝⊂緜徒津見訓上云宇閇、次上筒之男命。

「伊豆能売」は、ただ単に、名前だけが記載されるのみで、後は全く不明である。
どんな性格で、どんなご事績が有ったのか、一切が不明なのである。
しかも、「命」も「尊」も「神」も付されていない。
(ちなみに、後々、大国主神と少名毘古那神が出会う際に、「海の向こうからやって来た小さな神はスクナヒコナ神である。」と教えた案山子の博識な神「久延毘古(くえびこ)」にも何も付記されていないがwww)
だから、全く謎の神なのである。
「メ」とあるので、女神かもしれない、というくらいである。
だが、「伊豆能売」は、出口王仁三郎の「大本」に於いては弥勒菩薩と成り、「大本」の幹部であった岡田茂吉によって開かれた「世界救世教」に於いては観世音菩薩とみなされるのであった。
「埋没神」が救世救民の慈悲深い「仏」として「再発見」され、新しい姿で顕現したのである。
しかも、岡田茂吉は昭和10年に「大日本観音会」を発会する。
これが「世界救世教」のルーツであり、昭和25年に改称している。
だから、世界救世教に於いては「伊豆能売」は礼拝の対象であり、現在、包括宗教法人「世界救世教」を構成する三派のうちの一つは「世界救世教いづのめ教団」である。

岡田茂吉の「世界救世教」から、「お手かざし」という「祈祷」手法が一般化した。
元陸軍軍人で、世界救世教の布教師だった岡田良一(光玉)が「L・H陽光子友乃会」を発会し、後に「世界真光文明教団」となる。
その礼拝対象は、御親元主真光大御神(みおやもとすまひかりおほみかみ)(教団では主(ス)の神と言われている)と伊都能売大国魂大国主之大神(いずのめおおくにたまおおくにぬしのおほかみ)であると云う。
なお、「世界真光文明教団」から「崇教真光」が派生する。
当然、「崇教真光」も礼拝対象は同一である。
また、1980年代に於いて、駅前・大学施設近辺などで「あなたの健康と幸せをお祈りさせて下さい」と、通行人に声をかけ、額に手をかざす宗教行為を行う街頭布教がたいへん積極的に行われていた。
「原理」や「霊感商法」(壺、印鑑、珍味、高麗人参、メッコールなど)の「統一協会」(世界基督教統一神霊協会)(現在は世界平和統一家庭連合の改称)と並んで、世の顰蹙を買っていたのが、神慈秀明会であった。
ここは世界救世教からの分派の教団であったが、1997年に組織体制が一変してから強引な布教は無くなった。
滋賀県で有名なMIHO MUSEUMは、神慈秀明会の美術館である。
この神慈秀明会の主催神は「大光明(みろくおおみかみ)」だそうである。

なお、「大本」からは、谷口雅春の「生長の家」や友清歓真の「神道天行居」、「日月神示」(「ひふみ神示」「一二三神示」とも)の岡本天明、日本心霊科学協会の浅野和三郎も輩出している。

ちなみに、「大本」とは直接の関係は無いが、PL教団は、お富士講の「扶桑教」の流れをくんだ「ひとのみち教団」をルーツとする神道系の教団である。

また、ここ数年、有名に成り出した「身曾岐神社」は、かの「ゆず」のメンバー北川悠仁の母親(北川慈敬)が教祖の神社である。
だが、「かむながらのみち」教団は、神仏混淆の色合いが強い、「解脱会」から派生したものである。

現代日本の「新宗教」の流れは大別して二つ有る。
そのうちの一つが、今迄列記して来た、「太古神の再発見」である。
そしてもう一つの流れは、法華系・日蓮系の諸教団である。
こちらに関しては、また別の機会に記述させていただきたい。

自分は、本当は政治学を勉強したかった。
だが、英語の点数があまりに悪過ぎて、自分は大学進学さえ、絶望的であった。
そんな自分を受け入れてくれたのが、農学部の林学科だったのである。
こういう「不本意」なかたちで入学した者は、だいたい進学しても「不適応」を起しがちであるという。
他大学などへもう一度受験し直したり、もしくは中途退学してドロップアウトしてしまう者もいる。
だが、自分は、農学部林学科へ「恩義」を感じた。
だから、お世辞にも勉強熱心とは云えなかったものの、農学部林学科に対して侮蔑することなど有り得なかった。
愛着を持って、実習にも、実験にも参加した。
だから、何とか卒業まで漕ぎ着けたのである。

振り返って見て、自分は農学部林学科で学べたことは大変有り難かったと感じる。
政治学や歴史学や宗教学は、社会人に成ってからでも、通信教育学部に入れば学習は可能である。
だが、チェーンソーやら測量の実習を行う林学の学習は、農学部林学科に入学しなければ不可能だったのである。
劣等生だった自分が、今現在も林学科で習ったことで身に付いているのは、「生態学」に関すること。
そして、長期的スパンで物事を捉えることの重要性である。
林業は農業と違い、その収穫は苗木を植栽して少なくとも数十年後のことである。
また、山林は「枝打ち」「下草刈り」といった人手が入って、切れ間無く「手入れ」をしなければいけない。
自然は放置したままでは絶対的に駄目になるのである。
よく、「自然保護」と云う。
だが、それはアマゾンの原生林のような熱帯雨林地帯はそうであるが、我が祖国・日本の山林は違う。
日本の山林は、ほぼ全てが、我々の先人の手が既に入っており、日本に於ける「原生林」など存在し得ない。
逆を云えば、我々のご先祖たちが、気の遠くなる程太古の昔から営々と管理し、お世話をして来たからこそ、現在の山林が有るのである。
だが、自分が大学に在学中、既に日本に於ける「林業」は破綻していた。
ラワン材などの外国産の外材に席捲されて、日本の林業は木材を切り出せば切り出す程、「赤字」に成ってしまっていた。
だから、自分も就職先に林業関係のところを目指すことは出来なかった。
「林業」が破綻した、ということは、日本人が数十年から百年先を見越して物事を考えることを放棄したということを意味している。
そして、自分たちの手で、自分たちの国土を「守る」意識を失ったことを意味している。
山林は、実は陸地だけを保持しているのではない。
山林から流れ落ちる「河川」には、山林によって落ちてきた「落ち葉」「落枝」などによって形成された「腐葉土」から漏れ出て来た「栄養分」が溶け込んでいる。
そして、「河川」から注がれた「水」によって沿岸部の「海」に、山林からの「栄養分」が供給されていくのだ。
だから、「大漁」を目指す為には、山々に「植林」をしなくてはいけない、ということになるのである。
つまり、「林業」を破綻させたということは、農業も水産業も破綻させることに行き着くのである。
そのことに、我々日本人は、あまりにもあまりにも無自覚であり過ぎるのである。

4月も晦日となり、いよいよゴールデンウィークに突入した。

先帝陛下の誕生日「昭和の日」は、床屋に行ってボサボサ頭を刈った後は、帰宅して午睡した。

と云うより、夜昼構わず眠りこけたと云うのが正しいwww

だから、4月29日は無為に過ごしたwww

4月30日、自分は東京都青梅市の山奥に向かった。

武蔵国御岳山に登ったのである。

神社神道に於いても、実は、日本全国各地に各地域の「信仰」が存在する。

例えば、関東に於いては「八方除け」と云う「信仰」が有る。

実は、近畿などの西日本には「八方除け」は無いそうである。

「八方除け」と云うのは「方位除け」とは異なる。

「方位除け」とは、旅行などで移動する際に、方位の吉凶を見て、お祓いや祈祷をすることである。

陰陽道や風水、道教といったところから取り入れられた「信仰」で、暦などの「歳徳神」や「金神」「大将軍」「土公神」などの独特の神々が存在する。

ちなみに「金神」は「金精」から来ているとも云われるが、激烈な祟り神であり、「金神」が居る方角を触ると死人が出るような祟りが有るとされてきた。

江戸時代に於いては取り分け、この「金神」信仰が庶民に流布して恐れられた。

「歳徳神」も「金神」も毎年移動する。

「歳徳神」が位置する方角を「恵方」と呼び、現在では節分の際の「恵方巻き」で知られている。

「金神」も移動するので、「金神」の居る方角を工事したりすると障りが出て来るとされた。

特に、岡山県での「金神」信仰は根強かった。

元来、岡山県は、吉備真備や芦屋道満といった陰陽師が多数存在した地域であった。

「牛頭天王」の起源とも云える広峰神社は、すぐ隣の播磨国姫路である。

なお、「金神」信仰が極限まで沸騰した為か、金光大神の「金光教」が誕生する。

つまり、祟りや災禍をもたらす「金神」が、「方位も吉日も無意味である。」と説く福の神「天地金乃神」へと一転するのである。

祟り神・悪神が、実は太古神にして根本の大神であると云う「信仰」の大転換が、江戸末期以降から現在に至るまでの、いわゆる「新宗教」の源流と成る。

「金光教」「天理教」「大本」は、少なからず、この「金神」信仰の転換から誕生している。

そして、「大本」の聖師・出口王仁三郎から新聞や出版、映画製作や海外布教と云った現在の新宗教の布教戦略などに引き継がれている。

実際に、生長の家の谷口雅春師や世界救世教の岡田茂吉師は「大本」の幹部だった。

だから、「お手かざし」の「真光」系の宗教団体もその源流は「大本」から来ている訳なので、世界救世教も真光の諸教団も、神道の形式を踏襲するかたちとなっている。

(あ、こんなこと書いていたら夜が明けてしまうwww)

で、関東地方、特に武蔵の国(埼玉県、東京都、神奈川県)に於いての独特の「信仰」として「オオカミ」信仰が有る。

ヤマトタケルノミコト(日本武尊)が東征の途上、武蔵の山(山梨県の県境から東京都西多摩郡、埼玉県秩父地方一帯)で道に迷ったところ、山犬(狼)に助けられると云う「伝承」から「オオカミ」信仰は派生したとされる。

だが、元々、武蔵の山の「神」として、もしくは「神」の眷属、「使い」としてニホンオオカミが畏怖され、崇められていたのであろう。

ヤマトタケルノミコトは「後付け」のような気がする。

現に、ヤマトタケルノミコトは、オオカミ信仰の神社の「箔を付ける」ぐらいで、庶民の主たる信仰対象は「お狗さま」こと「大口眞神」なのである。

武州御岳山、秩父の三峯神社や宝登山神社などでは「ご眷属拝借」として「大口眞神」の箱札が下される。

そして、一年後には古札を返却し、新しい箱札を拝領するのである。

「お狗さま」の御利益は、盗難除けや田畑の害虫除けなのであるが、実は「憑き物落とし」が特色なのである。

「憑き物」とは、狐や狸、蛇、猫などのケモノの霊が憑りついて悪さをするのであるが、特に「狐憑き」が名高い。

狐憑きを解決するには、憑りついた弧霊を「稲荷神」として祀り上げるか、もしくは天敵である狼の霊である「大口眞神」によって追い出してもらうか、どちらかだった。

だから、武蔵の国では、実際にニホンオオカミの頭蓋骨を祈祷で使用したりしたと云う。

で、実は、我が家も「大口眞神」の箱札が有るwww

で、昨年は4月15日に拝領したので、既に丸一年が経過してしまった。

普通の神札なら、それなりにお目こぼしが期待出来るが、「狼」のお札なのである。

やはり、そこらへんはきちんと対処しないとまずいだろう、と云うことで、4月末日までに、大慌てで箱札を担いで武州御岳山へ急行したのである。

ちなみに、GWに突入していたので、武州御岳山はハイキングやらトレッキングやらの観光客でごった返していた。

でも、祈祷をお願いする人は少なかった。

ちなみに、御祈祷をお願いした際に、神主さんから「お宅さんは、講に所属されていないようですが?」と聞かれた。

どうやら「大口眞神」の箱札を個人で所望するのは珍しいらしい。

と、云うことで、疲れた身体に鞭打ちながらwwwお札を拝領して帰って来たのである。


うむ。

やっぱり、自分って、変な人だwww

(拾遺)
全く自分は迂闊だった。
「八方除け」の話しから切り出しておいて、肝心の「八方除け」に関しての記述が皆無であった。
下書きを一切しないで書き進めてしまうから、こういう間抜けをやらかすことになる。
「八方除け」とは、四方八方の方位に中心を加えて九の枠を設定する。
そして、その九つの枠にそれぞれの生まれた年の「星」を当てはめていくのである。
「星」とは、一白水星、二黒土星、三碧木星、四緑木星、五黄土星、六白金星、七赤金星、八白土星、九紫火星、といった「四柱推命」の占いに関するものである。
よく「五黄の寅」と云うが、これは干支(十干十二支)の「丙午」と同様に、「気の強い男勝りのジャジャ馬の女性」と云った意味である。
その九星が順繰りに八方の方位と中心を一年ごとに移動していくのだが、中心にはまってしまった「星」が、俗に云う「八方塞がり」となり、それを解消する為の御祈祷として「八方除け」が有るのである。
関東に於いては、神奈川県の寒川神社が「八方除け」の神社として名高い。
東京都だと、武蔵国大国魂神社がそうなのだと云う。
厄年の「厄除け」に加えて、「八方除け」を気にすると、数年置きに神社でお祓いをしないといけないことになるのであるwww
ちなみに、二黒土星の自分は今年が「八方塞がり」なので、「八方除け」をしないといけないのかもしれない。
なお、東京の府中にはGGが有るので、武蔵国大国魂神社で、「八方除けお守り」を新年早々にいただいては、いる。

 

約ひと月、インターネットから隔絶した環境だったので、まあ、いろいろと「堪って(たまって)」いるwww
だから、何を書き出して良いのか、ちょっと困っている。
実は、今、一番書きたいことが有るのだが、そういう代物は、逆にすぐに書いてはいけない。
迸(ほとばし)るように書き進めていくと、書いている途上で、自分自身、何が何だか分からなくなってくるのだ。
だから、文章化するに当たっては、少し冷却期間を設けないといけない。
いわゆる「寝かせる」のである。

で、その代わりに、亡父のことどもを書いておきたい。

父が逝って3年が経とうとしている。
だが、日に日に、亡父の凄さを思い知らされている。
実体としての父が消えてしまったが故に、父の内面そのものに対しての意識を持つように成って来たからである。
父の「眼」からは何が視えていたのだろうか?
何処まで、どれくらい見通して、見抜いて、見切っていたのだろうか?
一つ一つ思い起こしてみると、慄然とする時が有る。

亡父との会話は短かった。
ほとんど、二言三言で終わった。
それは、その会話に関しての背景・経緯・根拠・理由・思い入れ等といったくどくどと長たらしい説明がほとんど不要だったからである。
例えば、金銭の無心に関して。
自分が父に対して一番金銭の無心をしたのは大学時代だった。
自分の大学生活は、結構多面的であったが、その中でとりわけ「学部祭」のスタッフとして活動したことが大きなウェートを占めていた。
或る一つのプロジェクトの為に、どういうかたちで、どういう流れで「仕事」をしていったら良いのか。
その過程で、自分はどういう役割を果たし、立ち居振る舞いをしたら良いのか。
そう云った事柄を、あくまで「真似事」「ごっこ」ではあったが、体験することはのちのち自分にとって大きな財産と成った。
だが、その際に、交通費やら外食費など、結構出費がかさんだ。
また、さらにアルバイトが出来る時間的・体力的余裕が無かったので、財布の中はいつも空ケツだったのである。
だから、ことあるたびに金の無心をする破目となった。
母に頼み込むと、生真面目な母はあれこれと詮索をし、その上、お説教まで追加されるので、次第に鬱陶しくなっていった。
一方、父はというと、「お金が無い。」と云うと、理由など一切聞かずに「いくら要るんだ?」と聞き返し、さらに自分が必要とする金額よりも多少、色を付けて渡してくれた。

一事が万事、父との会話はそうだった。
父の口癖は、「結局、それは」というもので、開口一番がそれだったことがしばしばだった。
また、会議などでも、「まず、結論を申し上げます。」と切り出すことが多かった。
だから、父の発言は簡潔で明快だったので、自分は瞬時に理解可能だった。
畢竟、父との会話は二言三言で済んでしまったのである。

ところが、世の中に出て見て、やたらめったら、くどくどと長たらしく話しを続ける人が多いことに気が付いた。
さらに、膨らませるだけ膨らませた話しの内容は、無秩序かつ整合性に欠けて、結局のところ、曖昧模糊とした意味不明なものに堕してしまっている「残念」なことが多過ぎることに驚かされたものである。

ならば、父はどうやって「話し」をしていたのだろうか?
多分、事前に「話す」事柄を全て頭の中でいったん思い浮かべていたのであろう。
だから、開口一番に結論を切り出すことが可能だったのだと思う。
後は、会話する相手の反応を見ながら、付加すべき事柄や話す速度、そして会話全体の時間量まで調整可能だったのである。

そう考えると、亡父は極めて頭の回転が速く、感覚が鋭く、視野は広く俯瞰的で、更に細部に至るまで目配りが利き、洞察力に秀でて瞬時にその本質を見抜き、おまけに抜群の記憶力を持っていたのではないだろうか?
ならば、或る面、とてつもなく「恐ろしい」人だったと、今にして、思う。

だが、父は、そういった「剣呑」さを微塵も感じさせなかった。
朴念仁で、単なる「呑気な父さん」に見えた。
だから、父は誰からも愛されたし、そして、時には見くびられ、軽く見られたと云う。

ただ、自分が会社員の時に、非常にお世話になった上司は、父の正体を見抜いていた。
上司は、学生時代は暴走族の”幹部”wwwで、それこそ喧嘩に明け暮れていた不良だった。
だが、会社員になってからは猛烈な仕事人間となったし、勝負強さと喧嘩上手なところが有った。
とても親分肌で、課長の時に、上司である部長に対して「この件に関しては白井は悪くありません!」と云い切って、部下である自分をかばってくれたことが有ったと云う。
そんな男気の有る、御仁が「お前のお父さんは、絶対に怒らせてはいけない人だ。」と云ったのである。
これは自分も解っていた。
父は何よりも優しい人で、また穏やかな人だった。
ちょっとやそっとで激怒する人ではなかった。
ガミガミと口うるさく怒鳴り散らすようなことは絶対にしない人だった。
しかしながら、いったん怒らせると、一刀両断、バッサリと斬り捨ててしまう人だった。
もうこうなると、土下座しようが泣き落としをしようが、一切許してくれない。
頑固一徹でテコでも動かないのだった。
つまり、父は単なる「お人好し」ではなかったのである。

父はあれこれと目に付くことが有ったのだろうが、それをくどくどとあげつらうことは無かった。
本当は、それこそ幸田露伴のように、細かいところまでいろいろと指摘したかったのかもしれない。
だが、「うちのかみさんが細かくあれこれ云うものだから、俺は云うのは止めた。
母親がくどくど云うのに、更に父親まで云い出したら、子供は逃げ場が無くなる。
だから、俺は何も云わない。」と。
父は全部全部気が付いていながら、敢えて、全てを肚の内に収めていたのである。
また、肚の内に収めることが出来た人だったのである。

そのかつての上司から「お前はお父さんとは全然比較にならない。」と叱責されていた。
確かに、今、亡き父と自らを並べてみれば、悲しいかな「不肖の愚息」と慨嘆せざるを得ない。

だが、生前、父はこんな自分のことをこう評してくれていた。
「お前は大したもんだ。
俺よりもたくさん修羅場をくぐって来ている。
それにあれこれといろんなところに頭を突っ込んでどんどん人脈を広げていっている。
これは俺には出来ないことだ。」と。

亡父は、自分が宗教と政治とボディビルに傾倒することに関しては全く否定的で理解不能であったが、それ以外はほとんど意見が対立することは無かった。
買い物、食器洗い、洗濯といった家事も苦も無くやってのけた。
取り分け「買い物」は大好きで、歳末には築地の市場まで喜々としてわざわざ買い出しに行った。
「買い物」好きは、実は祖父もそうだったので、これはうちの「血」なのだろう。

そう云えば、父は英語が得意科目だった。
ただし、逆に国語や歴史などは苦手だったらしく、「俺は漢字は英和辞典で憶えた。」wwwと云っていた。
一方の自分は、英語がからきしで、赤点ばかり。
残念ながら、語学力も遺伝することは無かった。

改めて、亡父のことどもが思い起こされる。
と同時に、自らの不甲斐無さに忸怩たる思いに駆られるのであった。

先程、帰宅した。
只今、あれこれと記述する気持ちが起こらない。
書きたいことが皆無なのではなくて、むしろ、いったん書き始めたらきりが無くなりそうだから、敢えて、「書かない。」

と、云うことで、当たり障りの無いwww下らないことを。

雨が上がった。

自分の手元には、23年前に千葉県市川市の中山法華経寺で購入した日蓮宗信徒用の経本が有る。

法華経の他に、日蓮大聖人の著作、「御妙判」が付加されている。

日蓮正宗や、その教学を基にしている創価学会ではこれを「御書」と呼んでいる。

自分が好きな一節は、

「天晴れぬれば地明らかなり。法花(ほっけ)を知る者は世法を得べきか(略)」

である。

「観心本尊抄」の中の一節であるが、何と云っても「天晴れぬれば地明らかなり。」と云う、この一節が脳裏に染み込むのである。

だから、雨の後の晴天を仰ぎ見るたびに、思わず自分は「天晴れぬれば地明らかなり」とつぶやいてしまうのである。

自分は不勉強なので、今夜のところは、これ以上は記述しない。

まあ、こんなもんである。

さるお方(エテ公にあらず)のご厚意で、実家から遥か彼方の「参籠所」から一筆啓上仕り候。

 

新入社員の皆様、社会人の仲間入り、誠におめでとうございます。

本来ならば、昨日41日にお祝い申し上げるべきところでしたが、「嘘」扱いされると嫌だったのでwww本日にさせていただきました。

 

これから社会の一員として、希望と不安に胸を膨らませておられることと拝察致します。

さて、これから、自分が配属された職場の業務の“研修”をした後、徐々に馴染んでいかれることと思います。

その中で、自分に配属された職場の業務に関して、「得手」と感じるか、「不得手」「苦手」と感じるか、別れてくると思います。

特に就職活動に於いて、意欲的あれば有るほど、現実の現場の状況に直面した時、その受け止め方は激しいものに成ります。

自分の「期待」通りであるならば、勤労意欲も湧いてきますが、実は往々にして事前に想定したものとかけ離れている場合が多いものです。

その時、「失望」し、勤労意欲が減退し、ついには「転職」という道を選んでしまう人がいます。

自分はどちらかというと古い人間なので、やはり、「石の上にも三年」という考え方です。

但し、当世は、転職に転職を重ねてキャリアアップを積み重ねていくのが良いのかもしれません。

どちらにせよ、自分は、「仕事というものは自分の好き嫌いで行うべきではない」と考えます。

仕事というものは、その業務や職場によって、既に、役割分担が存在します。

ですから、例え、自分が不得意な仕事でも、自分が嫌いな仕事でも、まずは、一生懸命取り組むべきだと思います。

或る人が、社交的で、いわゆる「営業的な」仕事が適性が有ったとしても、その職場が、「営業支援」のような人員を求めているのであるならば、まずは必死に成って「営業支援」の仕事に専念すべきでしょう。

仕事というのは、まずは、「与えてもらう」ものです。

そして、その中から、自分で仕事を発見し、自分から仕事を作り出して仕事を獲得していくことが求められていくのでしょう。

だから、まずは、自分に課せられた業務をひたすら頑張ることです。

 

なお、自分は、この「参籠所」に入った時、もっと渉外的な業務をやりたかったのでした。

しかし、どうも、ここでの自分の役割は、守備的なサポート業務のようだと察知しました。

これからは、意識を切り替え、今、自分のいる「場」の中での自分の役割を一生懸命に果たしていきたいと思います。

自分は、外回りも、内勤も今ではそれなりにこなせますが、最初はそれぞれ苦手なところは有りました。

けれども、その中で試行錯誤を繰り返し、べそをかき、冷や汗脂汗をかきながら、どうにかこうにか仕事を覚えていきました。

つまり、自分に与えられた仕事を、選り好みせずに、必死に真面目に受けて頑張った結果が、外勤も内勤も苦も無くこなせるようになったのです。

自分のやりたい仕事ばかりに固執すると、自分自身の可能性の幅を狭めてしまいます。

とにかく、好き嫌いをしないで、何でもやってみることです。

しかしながら、どうしても、何をやっても上手くいかない仕事もあります。

その時は、上司と相談しましょう。

たいていの上司は、どうしても駄目な場合は、仕事の担当を変えてくれます。

もし、仕事を変えてくれない場合は、「まだまだ頑張りが足りない。」ということです。

焦らず、くさらず、やけを起こさず、一生懸命に頑張っていきましょう。

その苦労の中からしか、本当の意味での仕事の醍醐味は味わうことが出来得ないのであります。

何らかのプロジェクトを企画し、その成功・実現に向かって突き進もうとすると仮定する。

それには、まず、そのプロジェクトの目的、目標を明確化し、とことんまで掘り下げるべきである。

そもそも、このプロジェクトの存在意義とは何か。
何を目的とし、何を目標とし、何を獲得しようと想定しているのか?

この点を、しっかりと明確化し、参加者一同に周知徹底すべきである。
何だか、「形而上学」的で、理屈に偏重している感じがするかもしれない。
だが、このプロジェクトの意義、目的、目標、到達点を明瞭にしない限り、そこから逆算されて導き出され得る「具体的な行動項目」がぼやけてしまうのである。
具体的な行動項目が不鮮明に成ると、着手する手順が混乱するのである。

人間には、
1)やりたいこと
2)やれること(出来ること)(可能なこと)
3)やるべきこと
の3種類が有る。
これが、明瞭に成っていないと、具体的な行動項目の順番がぐちゃぐちゃになってしまうのである。

往々にして有るのは、「今、やるべきこと、よりも、今、やりたいことを優先する」。
あとは、「たまたま目に留まったこと」「たまたま思いついたこと」から着手する。
ただ、それは、「仕事」の全体像を見据えた上での、「優先順位」に合致したものでは、ない。
思いつきや気まぐれで、後で処理すれば良いことを、一番最初に持って来てしまうのだ。
そして、本当に、只今すぐに着手しなくてはいけない、要緊急対応の行動項目が後回しにされて、結果として間に合わずに駄目にしてしまうのである。

息せき切って、大慌ててで、後先考えずに突っ走ってしまうと、往々にして暗礁に乗り上げてしまうのだ。

素早く着手することが、全てのケースに於いて有効とは限らない。
特に、色んなところから参集して来たような「混成部隊」の場合が、そうである。

よくよく注意したいものである。

平成28年3月23日水曜日から25日金曜日まで朝日新聞朝刊に「日本会議研究・憲法編」が上中下の3回連載された。
掲載箇所は政治面ではなく、第3面の総合面。
朝日新聞としては、相当な力の入れよう。
既に、以前から、朝日新聞は「日本会議」に関して、長文の記事を掲載している。
産経新聞でさえ、ここまで詳細な「日本会議」の記事を掲載していない。
だから、場合によっては、朝日新聞の読者の方が、産経新聞や読売新聞の読者よりも「日本会議」のことを知っているかたちに成りかねないだろう。
勿論、朝日新聞のことだから、「SELDs」なんかとは取り上げ方や切り口が全然違う。
明確な「悪意」と云うか、ミスリードの悪臭がプンプンと臭い立つのであったwww
ただ、「腐っても鯛」でwww朝日新聞の記者は、他紙に比べて優秀だし、勉強熱心だと思う。
まず指摘したいのは、朝日新聞が、「仇敵」と睨んだのが「日本会議」であるという点。
西暦2000年代以来、いわゆる「ネット右翼」「ネット保守」による、「右傾化」の流れは、西村修平を嚆矢とする「行動する保守派」によって牽引されて来た。
その中に、日本文化チャンネル桜の水島総、在特会の桜井誠が居て、さらに田母神俊雄なども加わった。
在特会が、その活動を開始した当初は、いわゆる左翼側陣営の狼狽ぶりは凄かった。
何しろ、在特会は、或る面、徹底的に「大衆の中から勃興した政治運動」だったからである。
つまり、極めて人間の心理の奥底に存在する「よそ者は出て行け!」という感覚から発露した大衆政治運動であったので、「大衆の海」に依拠している筈の左翼にとって、衝撃であったのである。
ところが、在特会の論調が、煽情的なものがほとんどで、更に下品であったと云うことが致命的に成った。
「品位に欠ける」と云うのは、それだけ人間心理の奥深いところから直接的に噴出して来ているとも云えるのだが、左翼はそこを衝いて来た。
感情的で下品なのであるならば、左翼側も下賤で下卑た反駁をすれば充分だと「学習」してしまったのである。
そして、「ヘイトスピーチ」やら「レイシスト」やらの「レッテル貼り」をし、後はひたすら罵詈雑言、悪罵の応酬と成ったのである。
もう、こうなると、さながら「怪獣大戦争」なので、ニュートラルな広範な大衆は、「どっちもどっちで、両方、駄目」と云う結論に至ってしまった。
だから、在特会も、往時のような勢いを持ち得なく成って来ている。
更に、西村修平、水島総、田母神俊雄といった「ネット保守」の寵児たちも、その「恥部」が露呈されてしまい、その影響力は加速度的に低下しつつある。
結局、「ネット保守」の運動は、大いに盛り上がって、ネット世論の中ではそれなりの足跡を刻み込んで来たが、政治的成果と云う点では、あまり大きなものが少ない。
勿論、皆無である訳ではないのだが、費やしたエネルギーの割には「対費用効果」が少ないきらいが有ったのである。
その点、「行動する保守派」からは「きれいごと保守」と侮蔑されていた「日本会議」の方が、地味で目立たない分、着実に成果を一つ一つ上げて来たのである。
いわゆる「署名運動」や地方議会での意見書採択など、そういった地道な活動は、派手で外連味には欠けるものの運動が「後退」することが少なかったのである。
もっと云えば、仲間割れや同士討ちと云った愚行も起きなかったのである。
現在、いわゆる「保守派」は、「ネット保守」と「旧来保守」に大別出来よう。
「ネット保守」は、主にインターネットに於いての「発信力」を武器とする。
一方の「旧来保守」は、日本遺族会や自衛隊の隊友会、そして愛国保守の宗教団体の組織力、人と人とのつながりを武器としている。
政治運動の連続性や持続性ということを見ていくと、いわゆる「ネット保守」は尖鋭化し過激化する割りには、短時間でピークを迎えてしまいがちである。
或る面、泥臭い、地縁血縁、利権絡みの組織や団体の方が、穏健で生ぬるい代わりに長い期間に渡って継続・維持されるということである。
結局、そうなると、政治家が支援団体や「票田」として選択するのはどちらか、と云えば、もう迷うことはなかろう。
朝日新聞も同じである。
朝日新聞が、本当の意味で脅威と感じ、全力を挙げて叩くべき「標的」としたのが「日本会議」だったのである。
朝日新聞が「日本会議」を攻撃する手法として繰り出して来たのは、「日本会議は特定の反動的宗教ファシズム、つまり、軍国主義的なカルトによって支配されている」と云う「構図」づくりである。
確かに、「日本会議」に関するブレーンや主要なスタッフは、宗教団体「生長の家」の関係者や信者だった。
だから、「生長の家」イコール「戦前的軍国主義カルト」という図式でもって、「日本会議」自体を貶めたいようである。
だが、現在の「生長の家」教団は、三代目の谷口雅宣に成ってから、脱原発・エコロジーへと明確に舵を切った。
そして、長らく、東京の原宿に在った教団本部を、山梨県北杜市に移転させた。
そう云った、朝日新聞のミスリードに、都合の悪い「事実」は一切書かれていない。
こういう悪辣さが、なんとも「朝日新聞らしい」のである。


しかし、「五体不満足」だった乙武くんは、実は「五人じゃ不満足」だったんですねwww

いやあ、不倫相手が五人だなんて。奥さんを入れたら合計・六人の女性と姦通していた訳でしょう?

一人、二人の「不倫」関係だったら、まだ、物憂げな大人の「情愛」って感じですけど、五人!とも成ると、もう、汗がほとばしり、躍動感ばかりがかんじられます。

「道ならぬ愛のささやき」を交わすと云うよりも、文字通りの「性交」をたて続けに実行した感じですわ。

これは、もう、精力絶倫としか言いようが無く、更に、極めて野性的な雄々しさを感じます。

自分にとっての乙武くんは1998年の、まだ大学生の頃の著書「五体不満足」の表紙の写真が鮮烈ですね。

小さな車椅子にちょこんと乗っている姿は、痛々しくも衝撃的でした。

ただ、さらに世人の耳目を引いたのは、その写真の彼の表情がとても明朗かつ自信に満ち溢れていたことです。

つまり、彼は、自らの四肢の障害を意識していない。

自分は不幸だと可哀想な身の上だと感じていない。

そういう、陽性なあっけらかんとした感じが「障害は不便です。しかし、不幸ではありません」というフレーズに成った訳です。

乙武くんは、四肢には恵まれなかったかもしれませんが、「生命力」と云う点では、常人の量をずば抜けて凌駕するものであったように感じられました。

ただ、「生命力」とは「生」の力であり、それは「性」の力でもあった訳です。

どうも昨今の「障碍者」に対しては、「清く正しく美しく」といった、いわゆる「美談」に落着させようという力学が働いています。

これはひとえに、「人権思想」「差別反対」の良識有る正義感が、それを強いています。

けれども、「障碍者」と云えども、脱糞する訳です。

もっと云えば、性的な欲求が高まることが往々にして有る訳です。

ですから、あまり表沙汰に出来ない問題として、「障碍者の性処理」の問題が、実は確固として存在する訳です。

障碍者と云えども、やはり、健常者と同様に、性的欲求が昂進される時が有る訳で、実際には、障碍者に対してのその手の「サービス」が存在しうる訳です。

そう云えば「障碍者と云えども、欲望・煩悩まみれ」と云えば、かの名優・勝新太郎の代表作である「座頭市」であろう。

勝新太郎と云えば、「悪名」の河内もんの朝吉親分や「兵隊やくざ」といったキャラクターが思い起こされるが、やはり「座頭市」ほど見る人の脳裏に深く刻み込まれるほどの魅力を持ったキャラクターは空前絶後であろう。

現に、人気漫画「ワンピース」には「座頭市」そのまんまという登場人物が出て来ている。

「座頭市」という、視覚障碍者(盲人)のヤクザ(侠客)が存在したということは、作家・子母澤寛が随筆・聞き書き「ふところ手帖」内の「座頭市物語」が元だと云います。

しかしながら、現在の「座頭市」像は、映画の脚本家や演じた勝新太郎によって練り上げられた一種の「ヒーロー」像なんです。

自分が、俳優・勝新太郎の「演技」に戦慄したのは、確か「座頭市海を渡る」だったか、で、座頭市が船の中で幼子を連れた母娘親子と旅路を同道するストーリーでした。

旅の途上で、幼い女の子が急の高熱を発して寝込みます。

勿論、旅人の母親に薬代を出せるほどの持ち合わせが有りません。

そこで、座頭市が賭場で博奕に勝ちまくって大金をこしらえます。

そして、意気揚々と熱冷ましの頓服薬を懐に入れて宿へ戻る途上、大損をさせられた賭場の堂元のヤクザたちが座頭市を待ち伏せします。

勿論、たかがチンピラ風情が何人束に成っても、座頭市の相手では有り得ません。

バッタバッタと切り倒されてしまいます。

ところが、その乱闘のさなかに懐に入れた筈の薬の小箱が無くなってしまいました。

座頭市は大慌ててで、辺りを半狂乱で手探りをします。

ところが、肝腎の薬の小箱は、座頭市の指先のすぐそばに落ちています。

だが、座頭市は目が見えないので解らない。

もう、右往左往しながら手探りを繰り返し、さながら蜘蛛がゆっくりと足を伸ばして這っていくように、するすると掌を這わせていった時、ようやく薬の小箱が指の先に当たるのです。

このシーンを目にした時、自分は全身に寒気が走るような感動を覚えました。

映画「座頭市物語」は、先行する映画「不知火検校」の影響を受けています。

視覚障碍者の杉の市が、その桁外れな悪辣さから、ついには盲人最高の地位である「検校」まで上り詰めるという、「ピカレクス(悪漢)」物語。

そのふてぶてしいまでの「極悪」を勝新太郎はとことん演じ抜き、単なる「二枚目俳優」から「銀幕の大スター」に脱皮して、市川雷蔵と並び称される大映の二枚看板「カツライス」と呼ばれるまでに成るのです。

ちなみに、中村玉緒は彼の愛妻ですwww

閑話休題www

障碍者と云えども、雄々しく、品行方正に生きている訳ではない訳です。

障碍者と云えども、一人の「人間」であり、良くも悪くも障碍者ではない人たちと共通の性癖を持ち得ている訳です。

乙武くんは、人一倍、エネルギッシュで活発だった訳ですが、それにしても不倫相手が五人というのは常軌を逸しています。

単なる精力絶倫というより、セックス依存症のような病的な感じさえします。

よく「英雄、色を好む」と云いますが、今の時代に性欲絶倫であることを政治的指導者の「美徳」ととらえる向きは少ないでしょう。

むしろ、性的欲望に放埓であるというマイナスイメージしか有り得ないでしょう。

残念ながら、乙武くんは選挙で勝ち抜ける可能性が一気に萎んでしまいました。

特に、この醜聞が出る前の「良い子」キャラからの落差が激しいので、尚更、参院選出馬は困難に成りました。

残念ながら、参院選に出ようとする「有名人」は、往々にして「過不足」が著しい御仁が多いのです。

だいたい、野党から出ようか、自民党から出ようか、両睨みだったと云うから、政治信条云々よりも、「まず当選有りき」だったようです。

そんな腐れ根性だったら、もし、当選出来たとしても、政策論争そっちのけに成ってしまうでしょう。

「政治家」じゃなくて「性事家」wwwに成ってしまうかもしれなかったのです。

こうなったら乙武くんは、肚を括って、是非、風俗評論家にでもなって、障碍者から見た「性風俗」を大いに語って欲しいものです。

「有名人」が選挙に出て勝利出来得るのは、ひとえに、その「イメージ」の印象です。

「なんとなく良い人そうじゃん。」と云った、あまりに情緒的な感覚的な理不尽さが投票への根拠に成るので、「蓋を開けてみたら、実は下衆の極みでしたwww!」と云うのでは、「最早これまで」でしょう。

夏の参院選はまだまだ一波乱が有りそうです。


「悲しいお知らせ」wwwと云いますか、藪から棒に、皆様にご連絡が有ります。

実は、「山籠もり」と云いますか、「出稼ぎ」と云いますか、急遽、自宅を離れて「お仕事」をさせていただくことに成りました!

自分は、ガラパゴス携帯電話しか持っていないので、自宅から離れてしまうとインターネットでの書き込みが出来ません。

と云うことで、しばらくの間、FBもブログも、「交信遮断」の状態に成ります。

期間は、約ひと月ぐらいです。

その間、皆々様方には不義理をさせていただきます。

多分、うるさいのがいなくなって、さぞかし清々されることと拝察致しますがwww、「期間工」が終了しましたら、また、帰宅します。

まあ、特段、ご報告するほどの「土産話」は期待出来そうもないので、その点は悪しからずご了承願います。

折角の桜の開花も「花冷え」で、調子が狂いました。

しかしながら、春の季節は、間違いなく、たけなわを迎えつつあります。

満開の桜のように、皆様方の幸せが大いに花開きますように。

また、幽玄な桜吹雪のように、感慨深い充実した日々が送れますように。

それがしは、ちょっと離れたところから心よりご祈念申し上げます。

こんな自分をいつも気に掛けて下さる心暖かな皆々様方と我が祖国・日本のますますの発展と幸福を切に願いまして、「出発の辞」とさせていただきます。

それでは、また。

自分は栄誉を我が生涯の目的としていない。
今更、ちやほやされたところで、シニカルに染まった性格はどうしようもない。
自分は、檀上の貴賓席に座りたいとは思わない。
むしろ、スタッフジャンパーを羽織って、ドタバタと走り回っている方が性に合っている。
自分は、「仕事」が出来れば、もう、それで充分なのだ。
あとは、いくばくかのお金さえ有れば、云うこと無しなのだ。

終戦直後の文壇で「政治と文学」が論争に成っていました。

敗戦後のGHQの占領によって、戦前の左翼が一斉に復活しましたので、文壇もことごとく左翼文化人ばかりとなりました。

そこで、平野謙・荒正人対中野重治を代表とする「政治と文学」論争が繰り広げられました。

この論争は、「文学者と云えども政治からは逃れられない」とか「文学者の良心として政治に関与すべきだ」みたいな良識的な感じに思えるが、その実は、戦前の「プロレタリア文学」運動の焼き直しに過ぎない。

つまり、共産主義イデオロギーの「下部構造が上部構造を決定する」ことから、文学も政治的な指導によって書かれるべきである、ということであった。

つまり、日本共産党のプロパガンダとしての文学が一番優れていると云った、今になってみたら失笑しか出ない、くだらない論争だった。

唯一、福田恒存が「一匹と九十九匹と」という、新約聖書を引用して、「文学は政治では救済し得ない部分を救済すべき」と云う、至極当然の正論を書いた。

現在では、福田恒存の初期の評論作品の代表作と成っている。

自分の私見としては、「政治」を「文章化」した場合、それは「論説文」のかたちをとらざるを得ない。

だから、結論が確固として存在し、その結論に至る道程は明瞭至極でなくては悪文に成ってしまう。

しかしながら、「文学」に於ける、詩歌や小説は、必ずしも論理的整合性や論理的一貫性が至上命題とは成らない。

「文学」には「文学」の役割が有り、「政治」には「政治」の役割が有る。

政治と文学を一緒くたにする、その時点で、立派なボルシェビキたる証しだと、自分は理解する。

いわゆるLGBT、性的少数派と云われる方々についての言説について自分から一言。
まず、全否定はしません。
よく「同性愛者は異状者。生物としておかしい。」といった文章を、そのまんま、ネットで書き散らしてしまう御仁が居ます。
これに対して、ヘイトスピーチだとか、差別発言だとか、いわゆる「良識派」「人権派」からの猛烈な批判が浴びせられます。
自分は、どちらも駄目だと思います。
何故、駄目かと云うと、傲慢だから。
つまり、「正論を云っているのだから、自分は絶対的に正しい!」って云うのが悪臭ふんぷんたる感じなの。
やっぱり、「云い方」「書き方」ってのが有る訳ですよ。
「同性愛者は異状者」って書いちゃうのは、下手糞で恥じらいが無い、つまり洒落にならないから駄目なの。
そう云うのを、以前は「野暮」って呼んでました。
男性が男性に対して恋愛感情を抱いてしまう。
また、男性なんだけど、いわゆる「男性的な格好」には生理的な違和感が有って、女性的な格好でないとどうしようもない。
こういう人が現に存在する訳です。
ただ、自分はそういう人は、「業が深い」と云うことで同情は出来ます。
しかしながら、その真情まで果たして理解出来得るかというと、正直云って、理解までは出来ません。
所詮、解りもしないことを「貴方のお気持ちはよくよく解る。」などと口に出せませんし、口に出すべきではないでしょう。
犯罪行為まで到らない、あくまで個々人としての性癖ならば、自分はそれを尊重し、許容します。
しかしながら、自分にはどうしても理解が出来得ないので推奨、礼賛までは出来かねます。
これが自分としての、いわゆるLGBTの方々に対する「意識」です。
同性を好きに成ったり、自分の肉体的な性別ではない性別に根ざした生き方を選択することを、自分は個々人の性癖として尊重し、許容します。
それは、その方々のお一人お一人の生き方、スタイルを尊重し、許容することから起因しています。
しかしながら、人間は有性生殖による生命体です。
男性と女性の婚姻によって、子孫を世代継承させていかなくてはいけません。
つまり、男性と女性の異性に於ける交際や家族というものが、基本でなければいけないのです。
これは原則的に絶対に譲れないものです。
だから、同性間と異性間を全く同じに扱って良いのか。
これには、正直云って、違和感が有ります。
ですから、基本は基本として、基礎は基礎として、あくまで尊重すべきであります。
但し、「特例」も容認すべきである、と。
この「特例」と認識することを、「異状視する差別意識の現れだ!」と指弾するようであるのならば、自分はその態度には賛成出来かねます。
なお、いわゆるLGBTの方々が「才能」に秀でていることが多い傾向が有ることは、率直に評価し、敬服致します。
但し、それと性癖自体に関する評価、意識は同一では有り得ませんし、混同してはいけないと自分は思います。

いわゆる「ネット保守」の救い難いのは、ちょっとでも自論と異なると、瞬時に激昂すること。
そして、短絡的に人格攻撃まで及ぶこと。
こんなんじゃ、「議論」なんぞ、そもそも絶対に成り立ち得ない。
だから、「ネット保守」のコミュニティって、論調が単調で単色なんですよ。
ちょっとでも毛色が変わった感じのが紛れ込むと、もう、狂態を示して、袋叩きですわ。
典型的な「全体主義」ですわ。
そのうち「一つの民族、一つの国家、一人の総統」って絶叫するようになるのでしょうなあ。
だから、どんなに情報や知識が「豊富」でも、所詮「単色」なので「色彩」に深みが無い。
必然的に論理展開も深まらないし、広がらない。
「そうだ、そうだ!」
「いいね!いいね!」
「マンセー、マンセー!」
これが木霊のように延々と応酬されていくだけ。
この光景に、自分は、どうしようもないくらいの既視感を抱くのだけど、とどのつまり「なーんだ、左翼と同じじゃないの。」ってこと。
「反党分子、戦線攪乱工作員を粛清、断固打倒せよ!」って云う訳www
ただ、幸いなのは、現在、左翼の方が、ネット保守よりも病状が重篤なので、相対的に見て保守の方が「優勢」に見えるだけのこと。
元々、左翼の方が勉強熱心で学習意欲も豊富だし、論理的整合性を重んじる、と云う「建前」だから、そのうち「建前」通りに成ってしまったら、現在の「ネット保守」の知的水準ではとてもじゃないけど太刀打ち出来なくなっちゃうんだろうなあ。
だから、今のうちに、様々な仮説や論考に耐え得るような知的訓練を意識的に課していかないと、絶対に駄目だと思う。
「種の多様性」が重要であるのは、生態学の「いろは」。
「知」の世界に於いても、全くその通り。

一昨日の土曜日くらいから鼻風邪気味。
今日は平成28年で初のお墓詣りで、お墓の草引き。
あと、自宅の掃除、便所掃除、食器洗い、洗濯物を取り込んで折り畳み、納豆をかき混ぜたwww
何だかんだで疲れましたwww
筋トレは明日からやり直します。
そうそう、またまたFBで友人が減り始めましたwww
何か、社会時評みたいのを書くと、てきめんですわwww
ま、どうやら「保守系」のお友達が減って、「筋肉系」のお友達だけが残っていくようなので、「勿怪の幸い」、・・・かな?

桜の開花時期が話題に成る頃と成り、まさに春本番の到来である。
そして、大学生諸氏にとっては就職活動の時期と成った。

昨日も、電車の中で、大学生諸氏たちが今後の自分たちの将来について話題にしていた。
何と無しに耳にしていると、
「その仕事は、10年後には消えているんじゃないか?」
と云った話題だった。

先日、韓国人の囲碁の名人とコンピュータが五番勝負の対局をしたが、1勝4敗と云う衝撃的な結果だった。
いわゆる「2045年問題」と云われる、人工知能の驚異的な進化により、人間社会の在り方は劇的に変貌せざるを得ないだろう。
技術革新は否応無く、産業構造の変化を強いていくからである。
鉄道から自動車へ運輸・物流の主役が交代すると同時に、エネルギーも石炭から石油に転換していった。
かつて「黒いダイヤ」と謳われた石炭産業は一気に衰退し、石炭産業に関わる人々は職を追われることに成った。
先日、世界遺産の候補に名乗りを挙げた、長崎県の「軍艦島」も、いわゆる「廃墟マニア」には良く知られていたものの一般的にはあまり関心が少なかった。
その「軍艦島」もかつての炭鉱跡地である。
地方自治体に於いて、事実上「破産」しているのは、北海道の夕張市であるが、此処もかつては炭鉱の町だった。
あと、自分にとって衝撃的であったのは、写真フィルムの消滅である。
かつて、写真はフィルムに焼き付け、それを現像していた。
だが、デジタルカメラの誕生により、写真は画像データ化され、あとはプリンターで出力すれば良く成った。
だから、かつて何十億円、いや何百億円という規模の写真フィルムの「業界」は、全てが消失することと成った。
イーストマンコダック、富士フィルム、小西六といった写真フィルムメーカーは、否応無く、転身を余儀なくされた。
現在、富士フィルムは化粧品会社として知られるようになってしまった。
自分の子供時分には、全国各地の観光地名所には、「フジカラ―」「サクラカラー」の印字が為されたベンチが幾つも設置されていたものであったのに。
技術革新による産業構造の激変によると、もう、「値下げ」やら「新商品開発」と云った営業努力、企業努力は全く意味を持たなくなってしまう。

そう云った意味で、現在、マスコミなどで「あと何年で消える職業」と云った話題がセンセーショナルに報じられている。
だが、ちょっと待って欲しい。
例えば、「あと10年後には消える職業」と云うのは、裏を返せば「あと10年くらいは存続する職業」だとも云えるのではないだろうか?
つまり、現存する職業を凌駕する技術革新が為される、その時まで、現存する職業は社会からは必要とされる訳である。
「あと10年後には消える」としても、「只今すぐに消え失せる」訳ではないのだ。
しかも、その「10年」は「5年」かもしれないし、場合に寄っては「30年」かもしれないのだ。
これはもう、実際に成ってしまうまで解らないことなのである。

確かに、「先細り」が見えている「職業」に就いてしまえば、将来は不安定であろう。
だから、少しでも確実な「安全牌」を手にしたいというのは人情として当然だろう。
けれども、「安全牌」は、本当に存在し得るのだろうか?
また、「安全牌」が存在し得たとしても、全ての人々が先行きが保証され得ると断言出来るのだろうか?
例え、10年後も確固として存続している職業に就けたとしても、10年後もその職業に携わっていられると云い切れる保証は実は無いのである。
その職場に於いて、「人員整理」が為されたら、必然的に「貧困層」に突き落とされる人が出て来るのであるのだ。

今後は、ますます「激動」「激変」の時代と成ろう。
何を信じ、何を頼みとしたら良いのか、本当に難しい時代と成ると思う。
ならば、何かに依存し、すがり付くような、そんな気持ちでは駄目なのだと自分は考える。
要は、「覚悟」の問題であろう。
有為転変は世の習いであり、その激流の中でも自らを見失わないように肚をくくる。
それには柔軟な頭脳と強靭な心身こそが必要不可欠であろう。
上っ面の変化に一喜一憂していてはいけないと思う。
何が「本質」なのか。
そこをよくよく見極めていく心構えこそが、今後の時代の生き抜く術であると自分は予感している。

数日前、平成28年3月17日木曜日朝刊の朝日新聞の一面トップ見出しは「官製春闘 ベア失速」だったwww

これは、トヨタ自動車などの労使の「春闘」の集中回答日の定昇(ベア)金額が、昨年より下回ったことを受けての報道である。
何だか、とっても嬉しそうに朝日新聞は書いているwww
確かに、安倍政権が、いわゆる「アベノミクス」の成果を決定的にするために、労働賃金の上昇を促してきた。
つまり、「政治」が先導している(煽動ではない)ため、いわゆる「官製」という表現に成ったのであろう。
しかし、それを云ったら、円安による為替差額と株価上昇による保有株式の資産価値などを背景にしながらも、企業内部留保金ばかりを貯め込んで、一向に労働賃金上昇に踏み切らない企業経営者(財界)と、それに唯々諾々と追従している労組は、一体何をしているのだ、ということになろう。
勿論、世界の経済状況は風雲急を告げており、原油価格などの不安定要素から、場合によっては2008年のリーマンショックと同等の大規模金融クライシスの到来だって危惧されているのだ。
脳天気に「賃上げ」なんか出来るか、という言い分も否定し切れない。

ただ、現在、派遣社員の自分にとっては、定昇金額など、とんと関係が無い。
つまり、労働組合に守られた、「正社員」だけが甘受出来る、僥倖に過ぎないのだ。
既に、全労働者の構成割合の中で、「正規雇用」の「正社員」の割合はどんどん減って来ている。
つまり、「正社員」のみが「賃上げ」されたところで、日本社会全体の経済刺激要素としては、もう、だいぶ限定的であると云えるのではないだろうか?
「正社員」には、給与も増額される。
しかも、「正社員」は、厚生年金や厚生健康保険、雇用保険も漏れなく加入される。
また、福利厚生として、配偶者手当、家族手当、住宅手当、通勤交通費などなども付加される。
そうそう、有給休暇だって有るのだ。
一方、派遣社員の自分は、年金だって国民年金だし、国保である。
諸々の手当てなんか一切無いし、有給休暇さえ無い。
多分、こんな状況だったらクレジットカードだって加入申請は通らないだろう。
クレジットカードさえ保有出来得ないのだから、銀行での長期のローンなんて考えられない。
だから、住宅ローン、教育ローンなどなど全く「想定」すら不可能なのだ。

先日も、仕事で「正社員」のドライバー様との雑談で、ドライバー様は今後の「人生設計」について思案されていた。
マイホームを購入して、子供は何人欲しい、そのための預貯金額はどれくらいで。
自分は、もう、こういう話題には一切関与出来なくなった。
何故なら、自分は今や半年後の自分の将来像さえ不鮮明なのだから。
とにかく、毎月毎月の支払いをどう切り抜けていけば良いのか。
もう、これしか脳裡に浮かばないのである。
将来に対する絶望的なまでの先行き不透明感。
こんな状態で、人生設計だの「大きな買い物」だの、もう、無理である。
だから、「消費」に関しては、最早、目先の事柄しか考えられない。
何を食べて、何を楽しむのか。
こう云う、情けない思いの人間が、今、この日本国中にどんどん増加しているのである。
こういう「貧困層」は、消費をしたところで、それは日本社会全体を好転させるような「消費」に結び付かない。
大抵、パチンコや酒食で散財してしまうのだ。
いわゆる「文化的」な「消費」は、せいぜい「スマートフォン」の通信費ぐらいだろう。
それだって、通信ゲームだったりするのだ。
このままだと、間違い無く、日本国民の「劣化」が加速度的に進むだろう。
将来のこと、自分の身の回りよりももっと広くて大きな「社会」や「国家」や「地球」についての関心、意識は脳裡から消え失せるだろう。
刹那的、享楽的な事柄しか脳裡に浮かび得ない。
それ以外、それ以上の事柄を意識することに耐えられない人々に、日本社会は満ち満ちてしまいかねない。

自分の身の上話から云わせてもらうと、40歳を過ぎると、もう、「正規雇用」は絶望的だと思う。
逆に、40歳を超えて、「正規雇用」にまで到達し得る人は、独立して「起業」可能なような飛び抜けて優秀な御仁だけである。
今更、企業の中に入って、企業という「ムラ社会」の一員として溶け込んで行くことは、最早絶望的である。
何故、日本社会において、そして企業の正規雇用において40歳以上の人間が採用されないのか。
それは、日本の社会に於いての人材評価基準が明確化されていないからである。
つまり、44歳で「新入社員」に成った人間には、どの要素とどの部分を評価し、そして、その評価基準に合致した給与金額が幾らになるのか、試算が不可能なのだろう。
結局、30歳代から定年までの「コース」の流れの中で、44歳や45歳の給与額が試算可能なのである。
但し、それを云ったら、新卒から定年までの各年齢における、給与金額の査定基準も、実は明確ではないのだろう。
それは、新卒新入社員は、あくまで「見習い」で「ご奉公」の期間であるから、給与金額は抑制する。
しかし、社内の勤続年数が累積していけば、長年の「ご奉公」への論功行賞として給与金額は積み上がっていく。
これが、古き良き日本型経営の「年功序列」「終身雇用」の給与体系であったのだ。
だが、その「年功序列」「終身雇用」の給与体系が崩壊し去った後でも、その観念だけは残滓として染み付いているのだ。
だから、40歳代や50歳代の人間を新たに「正規雇用」で採用したら、どういう査定基準で給与金額を決定して良いのか解らないのだろう。
年齢給をそのまま転用したら高額になるし、勤続年数による評価に基づいたならば今度は低額に成り過ぎてしまう。
ならば、面倒くさいから、いっそのこと若い人ばかりを採用し、後は「非正規雇用」で安くこき使ってしまえば後腐れが無い。
そういうことなのだと思う。
日本に於ける金融業の融資基準が、単に担保主義に過ぎないのであって、真の意味での「融資評価基準」が確立され得ていないという指摘と同じなんだろう。
結局、「自分自身」の価値判断でもって評価する「責任」に耐えられないのであろう。
だから、データや担保ばかりに依存するのである。
雇用の採用基準に於いても、今迄の売り上げ成績などのデータが決定的なのであろう。
だが、データというのは、その背景や条件設定によって、いくらでも変わり得るのである。
データは、往々にして嘘をつくのである。
だが、そんな頼り甲斐の無い「データ」に依存することで、自分自身の価値判断への責任追及を回避しているのである。

只今現在、日本社会に於いて、経済的な断絶が、社会意識としての決定的な断絶として「転換」しつつあると痛感する。
つまり、既に、日本社会の少数派に成りつつある「正規雇用」の人々は、「人生設計」が可能である。
だが、徐々に多数派に増大しつつある「非正規雇用」の人々は、既に将来を意識することさえ絶望し、諦観している。
ここで重要なのは、かつて一世を風靡した新自由主義の「自己責任論」である。
つまり、「非正規雇用」などの「低所得者層」は、怠惰で勤労意識が低いため、その結果として所得が増えないのだというのである。
だが、実際は、かつて「正規雇用」だった人々が、アクシデントによって、一気に貧困層に堕ちてしまう。
そして、一度「貧困層」に堕ちてしまった人々は、二度と再び「正規雇用」に復帰することは有り得ない、この絶望的な現実である。
自分自身の病気や怪我、事故、家族の介護などのアクシデントによって、いつでも、「正規雇用」の人々は失業して「貧困層」に沈み込んでしまう、そういう不安定な状況にあるのである。
そして、勤労意欲や実務能力とは無関係に、「正規雇用」から転落した人々の多くは、「非正規雇用」として安価でこき使われるしか有り得ないのだ。
さらに、削減されるだけ削減された「正規雇用」の人々に圧し掛かる仕事量の重さである。
最早、「各自奮闘努力セヨ」と云った無責任な指揮では「戦線崩壊」の限界を迎えつつある。
「貧困層」に沈み、将来への意識さえ持つことが叶わなくなるにもかかわらず、「正規雇用」の過労さに耐えられない人々が出て来よう。

そうなれば、必然的に、日本社会の底が抜けることに成ると思う。

只今喫緊の課題は、日本社会の将来を想定可能な状態まで、所得格差を減らすことであろう。
そして、国民の一人一人が将来に対する期待感を熟成可能なような明るい社会背景を整えることであろう。
それは、共助、共存、共生、共働の社会だと自分は思う。

いわゆる「官製春闘」では不充分だ。
だが、かといって「官製春闘」を冷笑することが、賢明な訳でも、勿論、有り得ないのである。

とにかく、「貧困問題」こそが、喫緊の課題であり、それにはまず消費税の増税は絶対にしてはいけない。

いやあ、学歴って実は「云ったもん勝ち」だったんですねwww
ショーン・マクアードル川上氏を巡る報道を知るにつれて、そんな思いがしてきました。
ただ、ここで見落とされている重要な点が有ります。
要は、ショーンKという御仁は、実は学者でも経営コンサルタントでも何でもなかった訳です。
単に「自称」のバタ臭いおっさんに過ぎなかった訳です。
しかしながら、TVなどのコメンテーターとしては、「充分過ぎるほど重宝がられた」訳です。
つまり、TVなどのコメンテーターの知的レベルって云うのは、ほとんど無視して良いということなのでしょう。
何となく、世間一般大衆が相槌を打ってくれるような、当たり障りの無いコメントを繰り出していれば、マスコミ業界では充分過ぎるほど食べていける、という現実が露呈されてしまった訳です。

そうか、そうなのか。

じゃあ、ここで訂正させていただこう!
実は自分は、三流私大の百姓学部の樵(きこり)学科・卒ではなくて、有名私立大学の「博士」号を取得しているのである!
さらに、政治・宗教・文化コンサルタントで、既にいくつもの”団体”と”契約”結んでいるのだ!
どや!
どないや!wwww
但し、中洲産業大学卒、バカ田大学博士課程修了で、各団体との”契約”も「自分の方から会費を納入している」。wwwww

いやあ、こんな「経歴詐称」だったら、しない方がましですわwww

自分は、只今、しがない派遣社員に過ぎない。
だからどうだと云う訳ではないが。
自分は、現在、ドライバー様の補助の仕事をさせていただいている。
当然、ドライバー様とは二人きりに成る時間が有るので、自然と雑談に成る。
自分は、自分の話したいことを話すようではない。
子供の時は、それはもう、酷くてwww、ずっと話したい事柄を垂れ流しで話し続けていたが、何時しか、相手の反応を見て会話をするように成った。
だから、同乗するドライバー様によって、話す話題も全部変えている。
折角の「一期一会」なのだから、そこのところはちゃんと配慮はしないといけないだろう。
まあ、自分は、英語以外はwwwそれなりに話題に事欠くことは無いので、政治・経済・文化・筋トレ、そしてアニメや下ネタに至るまで、面白可笑しく雑談をさせていただいている。
だが、たったお一人、一切、会話をしないドライバー様が居る。
始めは、それなりにこちらから水を向けてみたのだが、反応が芳しくない。
どうも、あれこれと話をするのが億劫な性質なように思えた。
そういう、寡黙な御仁に対しては、そっとしておく方が良い。
だから、自分は、仕事に関すること以外は一切口にしないようにした。
幸いにして、車にはカーラジオが有る。
それを聞いていれば、それはそれで気分が紛れるものである。
だが、仕事をご一緒にさせていただくうちに、このドライバー様の「性分」が把握出来て来た。
要領が良く、仕事は正確かつ迅速に仕上げられるし、無駄が無い。
仕事が「出来る」優秀な御仁だった。
だが、それゆえなのかもしれないが、派遣社員たる自分に対して軽く見ているところが感じられた。
つまり、「この派遣社員風情が」と下に見ているのである。
確かに、正社員にさえ採用され得ないような「無能」な奴が、いわゆる「派遣社員」にしか成れないのである。
かく云う、自分とて、全くその通りなのだから。
だから、自分が「無能」であることは否定しないし、率直に甘受する。
しかしながら、無能な人間だからと云う理由で、馬鹿にして当然だと云うのは果たしてどうなのだろうか?
無能だから、馬鹿だから、だからぞんざいに扱って良いのだろうか?
このドライバー様は、理屈では「良くない」と知っているのだろうが、肚の中では「当然だ」と思っている。
だから、自分が、ちょっと気の利いた発言をしたら怪訝な顔をしたのだ。
残念ながら、こういう手合いの人間は、どんなに賢くとも、仕事が出来ようとも、器用で処世術に長けていようとも、もう、何を云っても駄目である。
どんな言葉を投げ掛けても、決してこの人の心の奥底には届くことは有り得ないのだ。
だから、自分はもう、このドライバー様とは仕事以外の会話は一切しないことに決めた。
気の毒だが、こういう姿勢で人との接し方をしていたら、いずれ苦労することに成ろう。
相手によって、自分の言葉遣いや接し方を豹変させていく。
やっている当人は、さぞかし上手く立ち回っているつもりだろうが、そういう上っ面の処世術で褒めてくれるような人は、実は大した人ではない。
本当に物事の道理を見極めることが出来て、組織の長に成るような「大人物」に対しては、そんな小器用な小細工は瞬時に見破られてしまう。
また、何かの拍子で、本性が露呈した際、その評価は大暴落することになる。
本当に認めてもらいたい「大人物」に一目置かれるのは、或る面、愚直である方が望ましい。
誰彼等しく、物腰柔らかく丁寧で情愛に溢れた人ととの接し方を出来るような人でなければ、「一流」の人物からは評価してもらえないのである。
だから自分は、もう、社会人に成る前から、掃除のおばちゃんだろうとその場所のお偉いさんだろうと、全部同様に、丁寧に、真情を込めて接するように自分自身に厳しく課して来た。
それが本当に有効性が有るのかどうか、正直云って、自分もよく解らない。
だが、自分は、或る人に対してはぞんざいにし、或る人に対しては慇懃に接するような、そんな器用に立ち回ることが出来ないのだ。
幸いにして、この流儀で、今のところ、致命的な失敗はしていないので、多分、この生き方で間違っていないと思っている。

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