企業でも、各種団体でも、何処でも良い。

具体的な目標を設定し、成果を出すことを目的とした組織を「機能的組織」と云う。

それと対照的なのは、あくまでも参加メンバー間の親睦を深めることを目的とした組織を「親和的組織」と云う。

で、その「機能的組織」の於いて、何か、「プロジェクト」を立案する際に重要な事柄は何だろうか?

まず、「着想」である。

様々な「攻略点」が見出される中で、その中から実施する候補を絞り込み、最終的には一つに選択する。

その「攻略点」を決定する根拠として、「何故、この攻略点を攻略すべきなのか?」ということを説明するために、「着想」を語らなくてはならない。

さらに、その「着想」の背景として、「意義」が語られるべきである。

「何故、この攻略点を攻略するというプロジェクトが必要なのか?」という問いへの回答である。

この「意義」というのは、プロジェクトを遂行する上で、メンタル的には非常に重要である。

プロジェクトに限らず、人間が行う事柄は、大なり小なり、思い通りに事は運ばない。

そういうトラブルが発生した時に、ポジティブに前向きに取り組める姿勢を保持するには、当該プロジェクト遂行の「意義」が、確固としていた方が決定的な差と成る。

「着想」と「意義」によってプロジェクトの、いわば「ソフト」面での指針が出来たならば、後は具体的で緻密な「行程表」を作成し、その「行程表」に基づいた、予算、物資、人員、時間、空間の配分を構成させていかなくてはいけない。

さらに、その「行程表」を遅滞無く、かつ確実に遂行するための情報、知識、そして分析が必要である。

かつて、マルクス経済学に於いては、「上部構造」と「下部構造」という語句が使用された。

この語句を敢えて使用するとすれば、

「着想」や「意義」は「上部構造」である。

そして、それら「上部構造」を現実化させための戦略や戦術、ヒト・モノ・カネなどは「下部構造」と云えよう。

 

8月と云えば、つい数日前だった「8月15日」の「終戦の日」が有る。

そのため、戦争と平和に関してマスコミは意識的に取り上げて来ている。

その中で、NHKが、かの「インパール作戦」について番組を作った。

この番組について、いわゆる保守派は、またぞろ「NHKガー!」とやり玉にあげている。

NHKの番組の「つくりかた」や「見せ方」に関しては、ここでは敢えて自分は論じない。

問題は、当該NHKの番組への「批判」が、かの「インパール作戦」そのものへの「擁護」にまで及んでいることである。

これは駄目である。

NHKの番組制作の演出や見せ方に関して、視聴者への「ミスリード」が散見された、という「批判」ならば、首肯出来る。

ところが、「インパール作戦」そのものを「擁護」し、さらには「賛美」するような論調と成るならば、それは最早「贔屓(ひいき)の引き倒し」でしかない。

逆に、「敵側」から、「あのような大惨事の敗北を喫した、愚劣な軍事作戦を賛美するような、非人間的で愚かしい考えの危険な集団」という「レッテル」を貼られることと成る。

これは、まさに「敵の術数に嵌まる」ことである。

 

話しは、最初に戻るが、かの「インパール作戦」に於いて、その「着想」に間違いは無かった。

そもそも、日本が果てしない戦争継続の泥沼にはまっていったのは、満州から支那全土へ戦線が拡大したことである。

満州を安定化させるには、支那北部(北支)を抑えねばいけなかった。

そして、北支を抑えるには、南京の蒋介石を抑えねばならなかった。

ちなみに、その時には、ソ連(ソビエト・ロシア)は「日ソ不可侵条約」によって、いわば「友好国」であり、毛沢東の中国共産党(八路軍)は、「大長征」の末、南京周辺には軍事的勢力がほとんどいなかった。

そこで、絶えず、日本への軍事的挑発を繰り返して来た「支那」とは、蒋介石の国民党・中華民国であると、「認識」してしまった。

日本は「暴支膺懲(ぼうしようちょう)」と声高に叫び、蒋介石を叩くことしか考えなくなる。

そして、南京を占拠するのであるが、日本人は「島国」の人間なので、徹底した「撤退戦」を戦った経験が無い。

だから、その徹底した「撤退戦」の本当の恐ろしさを理解出来なかった。

支那人は「大陸」の人間なので、徹底的に戦略的な「撤退戦」を戦う意味も理解していたし、その覚悟も有していた。

だから、いくら日本軍が攻め込んで次々に勝利しても、際限無く撤退し続ける蒋介石には、いつまでたってもたどり着けないのである。

ついに、蒋介石は支那大陸の奥深い、重慶まで下がってしまう。

そこで、戦史的にも先駆的な「都市爆撃」という航空戦術でもって重慶を「空爆」するのであるが、重慶は陥落させられない。

何故なら、重慶よりも更に内陸部に、蒋介石を支援する「援蒋ルート」という軍事物資補給ルートが、米英ら連合国側によって形成されていたからである。

その「援蒋ルート」は、当時英国の植民地であった英領インド帝国からビルマ(ミャンマー)の北部を経由して重慶まで伸びていた。

一方の日本軍は、既に、ビルマを占領していた。

さらに、ナチスドイツからシンガポールに到着した、インド独立の闘士、「ネタジ」チャンドラ・ボースが在外印度人などを糾合して義勇軍を結成していた。

そこで、ビルマからインドへ攻め込み、「援蒋ルート」を断って、重慶の蒋介石を屈服させて、支那全土を完全に日本の勢力下に置く。

そして、支那に展開させている部隊を南洋のフィリピンやジャワ、スマトラなどへ投入しようと考えたのである。

さらに、1943年昭和18年11月5、6日の両日に渡って東京で開催された「大東亜会議」に於いて、インド独立が参加国によって同意されて「大東亜共同宣言」が採択される。

(参加国の首脳)

日本(大日本帝国)、東條英機首相(内閣総理大臣)

満州国、張景恵国務総理大臣

中華民国(南京政府)、汪兆銘行政院長

フィリピン共和国、ホセ・ラウレル大統領

ビルマ国、バー・モウ内閣総理大臣

タイ王国、ワンワイタヤーコーン親王(総理代理)

自由インド仮政府、チャンドラ・ボース首班

(なお、オランダ領インドネシアのスカルノは参加出来なかった。)

そこで、「インド独立」という「意義」が加わった。

しかしながら、それ以外の、いわば「下部構造」の具体的な戦略や戦術は、皆無であった。

まず、兵站に関して、全く考慮されておらず、むしろ意識的に無視していた。

「糧は敵によること」などと、食糧は敵から調達せよ、という、無茶苦茶な考えである。

結局、兵站、補給線を全く考慮しないために、「白骨街道」などと云われる無惨な状況と成る。

さらに、この無謀な軍事作戦の「立案」から「決定」、さらにその作戦の失敗による「対処」に関して、信じがたいような愚行が連続している。

端的に云うと、論理的検討が皆無。

議論の封殺。

意識的な無作為。

指揮命令系統の無責任。

人事の無責任。

これが、戦前の日本人の選りすぐりのエリート集団によって為された「事実」であり、「結果」である。

これは、もう、慄然とせざるを得ない。

 

「インパール作戦」は、どのように贔屓目(ひいきめ)に見ても、愚劣としか評しようがない。

ただ、一方で、「インパール作戦」は「愚劣」であるという「図式」だけを刷り込んでいこうとするならば、それもまた、「愚劣」としか云いようがない。

何故なら、そこには、「何故、インパール作戦が愚劣であったのか?」という分析も思索も存在しないからである。

つまり、「インパール作戦」=「愚劣」という「図式」のみであるならば、それは、「思考停止」そのものでしか有り得ない。

そう云う意味では、まだ我々は「インパール作戦」の真っただ中を「戦闘継続中」なのであろう。

我々は「インパール作戦」を指弾し、批判し、侮蔑し、嘲笑し、嫌悪し、忌避している。

だが、それは「インパール作戦」を我々自身の「糧(かて)」としてはいないのである。

「インパール作戦」とは、旧日本陸軍の恥部であった。

だが、それは、「あまりに日本的であり過ぎた」ためである。

だから、「インパール作戦」は姿かたちを変えて、何度も繰り返されようとしている。

つまり、先述したように、まだ我々は「インパール作戦」の真っただ中を「戦闘継続中」なのである。

ならば、必然的に、「インパール作戦」での尊い犠牲は、浮かばれていまい。

我々が、本当の意味で「インパール作戦」と真摯に向き合い、そこからこれからの我々日本人が学ぶべき「指針」を見出し、意識的に学習することが実現出来得た時こそ、本当の意味で我々の「インパール作戦」は「終結」することと成ろう。

そして、同時に、その時こそ、「インパール作戦」で散華された全ての御霊たちが浮かばれることが出来るのであろう。

 

NHKを批判するのは良い。

だが、それ「だけ」で良いのか?

我々が目指すべき「境地」はそこではないだろう。

もっと、しっかりしなくては駄目だ。

北朝鮮を巡る、軍事情勢が緊迫化している。

何故なら、北朝鮮は、核実験に成功しただけでなく、ついにICBM(大陸間弾道弾)を「保有」しつつある。

つまり、アメリカ本土へ直接、核弾頭の射程範囲内に到達し得たと云うことである。

これは、アメリカの咽喉元に、核兵器の「切っ先」を突き付けた訳である。

事ここに到っては、さすがのアメリカとて、遥か彼方の遠国のことと鷹揚に構えていられなくなった。

 

ここで思い出されるのは、かの毛沢東である。

彼は、朝鮮戦争や、その後の大躍進政策の破綻などによって、「中華人民共和国」の国力を大いに低迷させた。

大躍進政策(1958年から1961年)は、産業構造の重工業化と農業生産性の効率化を、いわゆる「大衆煽動」による「大衆運動」によって一気に実現しようとしたものであった。

極めて無謀であった。

何しろ、鉄鋼の生産量を、先進国並みに数年間で実現させようというものであった。

鉄鋼製鉄に於いては、高温度の溶鉱炉が必要不可欠であるのだが、それを大衆動員の大衆運動で「代用」しようとした。

それがかの悪名高き「土法炉」で、土をこねて作った「製鉄炉」である。

結局、膨大な屑鉄ばかりが出来た。

しかも、「計画通りの数字」にするために、農耕機具である、鍬や鋤(すき)なども溶かして屑鉄にしてしまったのである。

まさに、「狂乱」と云って良い。

この大躍進政策の失敗により、毛沢東は、「行政」の表舞台から引っ込まざるを得なくなる。

勿論、「革命・建国の父」である訳なので、そのカリスマ性は維持されていたのだが、「権威」は維持出来ても、「権力」は、劉少奇や小平、周恩来らの「実務家」に託す破目に成った。

この挫折が、5年後の1966年から1976年まで支那大陸全土に荒れ狂った「プロレタリア文化大革命」を惹き起こす遠因と成るのである。

毛沢東は、この「大躍進政策」と「プロレタリア文化大革命」によって、数千万人、もしくは1億人を超える人民の命を奪った。

まさに、「暗黒の天才」であるが、彼は、軍事面に於いては徹底した「リアリスト」であった。

彼の名言(迷言?)の中に、「例え、ズボンがはけなくなっても、核兵器開発は成功させる」というのが有った。

つまり、核保有国に成るためだったら、例え、国庫が空に成ろうが構わないという凄まじい「覚悟」であったのである。

結局、その狂おしいまでの「覚悟」のお蔭で、1964年に中共は核実験に成功する。

そして、「核保有国」に成り、さらにソビエト連邦と仲違いをすることに成ったことから、「中華人民共和国」は、アメリカの軍事的標的の優先順位が下がっていく。

つまり、約10年に渡る「プロレタリア文化大革命」という国内の「大混乱」状態が継続されても、国家が外敵から破壊され得なかったのは、ひとえに核兵器のお蔭である。

これは、現在の中国共産党の首脳部の共通意識として、確固たるものになっていよう。

それは、「核兵器を保有している限り、どんなに行政機構が破綻していても、国家として存続可能である」と。

 

この毛沢東の「路線」を、北朝鮮も数十年遅れてひた走っているだけなのである。

 

国連の核廃絶の動きも有って、核兵器廃絶のために、条約や決議や話し合いで解決すべきだ、という「正論」が相次いで主張されている。

この「平和への訴求」に関して、自分は懐疑的である。

何故なら、「あまりにも理性的である」からである。

実は、「理性的」であることは、残酷な結果を生むからである。

 

いわゆる「フランス大革命」1789年によって端を発する、「進歩主義」や「左翼革命思想」は、「人権」と「理性」を尊んだ。

人間は、あらゆる人間に「人権」が存在し、また「理性的」である、とされた。

そして、人間は「理性的」であるがゆえに、「正しいやりかた」(科学的な政治理論)に基づいていれば、必ず「成功する」。

「成功する」筈であった。

ところが、革命政府が行政を行うにあたり、様々な支障が生じて来る。

食糧が足らない。

市民が革命政府に対して不平不満を訴える。

工業生産の数値も上昇しない。

軍事作戦が失敗する。

外交交渉が難航する。

これらの諸問題が次々に発生する訳である。

そこで、革命政府は、この原因を、自らの「行政方針」や「行政手法」が拙劣であることを認められない。

何故なら、人間は「理性的」あり、さらに「絶対に正しい」「科学的な政治理論」によって「運営」されている革命政府が「間違える」筈が「有り得ない」のである。

これを「無謬性」という。

ならば、「理性的」な人間によって構成されている、国家や社会が、何故、支障をきたすのか?

それは、国家や社会を破綻させようと「真剣に」「生真面目に」活動している人間たちが存在するからである、という結論に到る。

それが「反革命分子」あり「反党分子」と云うことに成る。

つまり、「人間は理性的で、怠惰であったり、間違えたりはしない」という前提に立ってしまうと、あらゆるトラブルの発生は、人為的な作為に基づく「陰謀」の結果、とみなされるのである。

だから、「理性的」であろうとし、「正しさ」に厳格であればあるほど、残酷に成る。

「反革命分子」や「反党分子」の「存在」を「認識」してしまった以上、「粛清」の実施は不可避と成る。

左翼党派の「支配する空間」に於いて、「粛清」の嵐が吹き荒れるのは、その前提として、「理性的」で、正しくて、生真面目であるからである。

 

人間とは、「理性的」に、話し合えば、必ず、理解し合える。

そう、信じているし、信じたい。

だが、歴史を紐解いていけば、善意による言動が、想定外の反応を連鎖的に引き起こし、最終的にとてつもない醜悪な悲劇に到達する事例で満ち溢れている。

つまり、人間の「理性」を全ての「担保」に出来得ない訳である。

結局、「核兵器を全て無くしましょう」という呼びかけに全世界のほぼ全員が賛同する。

だが、その一方で、核兵器を保有する「国家」は、一向に減らないし、むしろ増加している。

この「論理矛盾」をどう受け止めるべきなのだろうか?

 

核兵器や核燃料は「ツール」(道具)に過ぎない。

ただ、「道具」である以上、「使用される」ことが前提と成っている。

だが、その「道具」は、「最終的」な「道具」なのである。

ひとたび「使用され」て、歯止めが利かなくなって「全面核戦争」と成るならば、確実に「地球」という存在は消滅する。

そして、人類も、生存はほぼ有り得ないだろう。

 

事実上、「話し合い」や「相互理解」といった、「ソフト」によって、「ハード」である「核兵器」や「核燃料」は、廃絶出来得ないでいる。

果たして「ソフト」は「ハード」を抑え込めないのだろうか?

この問いに、俄かには解答は出せない。

だが、一つの可能性として、「ハード」には「ハード」でなければ、対処出来得ないのではないか?という仮説である。

つまり、究極の「破壊力」である、「核爆発」を「無力化」するテクノロジーを開発する方向しか、今のところ、有り得ないのではないか?

 

自分は、人間とは理性的に徹し切れない存在であり、理性的に徹し切るべきでもない、と感じているので、結局、こういう結論に到ってしまった。

「良識」的でもないし、「正論」とは程遠いことであろう。

だから、不快に感じる人が多いと思う。

つくづく、因業な自分であると恥じ入るばかりである。

やはり、これは、きちんと書き残しておかなくてはいけない。

昨日、8月15日に、自分は例年通り、靖国神社に於いて助勤奉仕をさせていただいた。

だが、昨日、自分は、遅刻した。

しかも、定刻の1時間も遅く遅刻してしまったのである。

何故か。

「集合時間」を間違えたのである。

勘違いをしてしまったのである。

だが、何故、「集合時間」を間違えたのか?

それは、端的に云って、「甘え」である。

勝手知ったる、内輪の催しだから、という「甘え」が、「集合時間」を誤らせたのである。

これは、「狎れ」であり、おごり、たかぶり、慢心そのものである。

つまり、「勘違い」をしていたのは、何も「集合時間」だけではなかったのだ。

こんな自分が、「敬神崇祖」などと、よくも偉そうに云えたものである。

自分は、全く以て「到らない」奴だと思っていたが、ここまで愚劣であったのかと思うと情けなくて涙が出て来る。

改めて、この場を借りて、昨日の関係者各位に対して深くお詫び申し上げたい。

そして、何よりも、このいつまでたっても「到らない」自分であることを、靖国神社の英霊に対して、深くお詫び申し上げたい。

常日頃の大言壮語が聞いて呆れる。

結局、徳と誠が無いから、肝腎な時にしくじるのである。

ただ、昨日の8月15日に於いて、自らの「到らなさ」を気付かせてもらえたのは、ひとえに靖国神社の英霊の「お示し」であろう。

「お前は、全く、成っておらんではないか!もっと、しっかりせい!」

という「ご叱責」を、昨日、8月15日に頂戴したように、自分は感じる。

良きことも、

悪しきことも、

ただ、有り難く、感謝を以ていただくのみであろう。

改めて、猛省を自らに課したい。

合掌。

よく神社やお寺やパワースッポトなる場所へ参拝する人で、「ここはどういう御利益なの?」と云う人が居る。
御利益やお蔭と云うのは、確かに「頂ける」。
だが、問題は、御利益やお蔭を頂けるかどうか、ではない。
と云うのは、こちら側が、その御利益やお蔭を「頂ける」条件が
有るかどうかが問題なのだ。...
仏典(法華経)に「甘露の法雨」という。
この「甘露」とは、御利益やお蔭と(いささか乱暴だが)解釈して良いと思う。
だが、その降り注ぐ「甘露の法雨」を受け止められるだけの「器」なのかどうなのか?
論語では「君子は器ならず」というが、人間を評価する言葉として「器(うつわ)」というものが有る。
「あの人はリーダーとしての器ではない」という言い方や、
「器量」という言葉も有る。
だから、どんなに大量の「甘露の法雨」が降り注いでも、それを受け止められることが出来ずに、流れ落ちてしまう人がいるのだ。
それは、折角、御利益やお蔭を「頂いて」も「受け留められない」人である。
何故、御利益やお蔭が流れ落ちてしまい、頂けないのか?
それは、徳と誠が無いからである。
徳や誠が足りなければ、人間としての「器」は形成され得ない。
そして、「器」が小さければ、良いも悪いも、しっかりと受け留めることは出来ないのだ。
神社やお寺やパワースポットなる場所へ行くことは良いことである。
だが、その割には御利益やお蔭を頂けない人が居る。
それは、「あちらがわ」の問題ではない。
全て「こちらがわ」の問題である。
だから、自分は、己の徳と誠の無さを心底、恥じ入っている。

迷いに迷ったのだが、日曜日にも仕事を入れるようにした。
で、会社へ「某日の日曜日も出勤出来ます。」とメールしたところ、返信メールが来た。
「その日も出勤されると、10日以上連続出勤に成ります。過労が懸念されます。」と。
いや、全く、御説御尤も。
しかし、そうしないと、お金が足らなくなるから、やむを得ず、仕事を入れているのだ。...
この真夏に、日中の屋外の仕事を休日無しのぶっ通しで続けたいと望んでいる訳ではない。
本当は、休みたい。
出来れば、ゆっくり読書でもしたいのだ。
しかし、そんな「恵まれた」御身分じゃないんだよ。
もし、「過労」云々と指摘するのであれば、もっと時給を上げてくれ。
そうすれば、無理してまでも仕事を入れたりはしない。
致し方が無いから、他社の仕事を単発で入れられるように探してみる。
幸か不幸か、只今、「面接無しでOK!」という「求人」がごろごろ出て来ている。
いかに、薄給でもって酷使する「職場」が、満ち溢れているということだろうか?
それはともかく、確かに、この真夏に「休日無し」のスケジュールは「無謀」だと思う。
途中で、昏倒するかもしれない。
ま、そうなったら、そうなったでしょうがないだろう。

自分は、自分のような境遇の人々が多数存在する、今の「日本」が心配である。
このままだと、社会の最下層に居る人々が、どんどん苛酷に成って行く。
中には、その苛酷さゆえに、心身が破壊され、働けなくなる人も出て来るだろう。
そうなったら、死ぬか、生活保護を受けるか、の、どちらかに成る。
これは実は、「他人事」ではない。
まがいなりにも「勤労者」だった人が、欠落すれば、その分を誰かが充当しなくてはいけない。
多分、その「充当」人員は、全て外国人移民だろう。
取り分け、支那人に依存することになるだろう。
いくら、「外国人移民受け入れ反対」などと訴えたところで、背に腹は代えられないから、どんどん外国人が働くようになる。
また、こういう境遇の人は、意外と確定申告をしない。
勿論、低所得者は確定申告をする義務は無いのだが、確定申告をしないと、所得税が発生するのだ。
そして、所得税を納税すると、翌年に自動的に住民税が発生する。
だから、貧困層でも、消費税以外に、それなりに納税している人が相当数存在するのである。
だから、これらの貧困層の人が、死んでしまえば、最早、納税出来ないし、死ななくても生活保護の対象となれば、福祉予算の支給対象と成る訳である。
結局、財政悪化の要素に成る。
このまま、どんどん、自分のような「貧乏暇無し」の貧困層が激増すれば、早晩、日本社会の「底」が抜ける。
さらに、合法・非合法問わずに、大量の外国人移民が入って来る。
特に支那人が一塊で入って来る。
そうなったら、いくら日本の領海や国境線の水際で防衛線を死守しようとしたところで、日本国内の奥深くに他国の旗がはためくことと成ろう。
「貧困層は救わなくて良い。あいつらは無能で怠け者なのだから、自業自得だ。」という、いわゆる「自己責任論」が有る。
何だか、そういうこと主張すると、いかにも「保守」らしいが、そのいかにも「保守」らしい主張の行く末は、上記のような体たらくである。
だから自分は声を大にして云う。
今、いわゆる保守政治家の一番の喫緊の課題は、「貧困問題」であると。

「鶏口となるも牛後となるなかれ」と云う。
一方で、「寄らば大樹の陰」とも云う。
今の若い方々はとても悩ましいだろう。
何故なら、既に、寄るべき「大樹」が、実は洞(うろ)だらけで、幹の中は空洞であることを思い知らされたからである。
かの、東芝は、現在、証券取引所での株式上場廃止の瀬戸際まで追い詰められてしまった。...
あの「大東芝」が、解体もしくは倒産の憂き目である。
ならば、どんな「大きな組織」も、「絶対」ということは有り得ないということになる。
かといって、日本に於いて、ベンチャー企業は、いまだ「町工場」のイメージが強過ぎる。
なかなか「起業」へ突き進む「覚悟」も出来ない。
さながら「進退窮まれり」という悩ましい感じであろう。
だが、自分は、若い方々に対して大いに期待している。
確かに、自分の居場所が、「大きい所帯」なのか「小ぶりなところ」なのかで、「差」は有る。
しかしながら、人間には「適応能力」が有るし、さらに「改善能力」も存在する。
要は、つまらないこだわりを捨て、自分を変え、さらに周囲を変えていくことを恐れないことであろう。
特に、「若さ」というのは、その「変わる」「変える」ということに適した「要素」である。
思い悩んで立ち止まるばかりではなく、まずは、一歩を踏み出して欲しい。

先月、母が郵便局から現金を引き出した後、喫茶店に寄り、店内の便所へ行った。
ほんの数分、席を立っただけだったのだが、戻ってみると、先程引き出した現金の一部が無い、と云う。
どうやら、スリにでも抜き取られたらしい。
母はそのせいで、だいぶ凹んでしまった。
金額は教えてくれなかったのだが、我が家の「家計」の規模では「大金」の金額だったようである。...
まあ、無くなったものは仕方がないので、「高い授業料」だと受け止めて、以後、注意するべきだと自分は云っておいた。
そして、今朝、自分が外出した後、母からメールが来た。
何と!取られたと思った現金が、家の中から出て来たと云う。
有る筈の現金が無くなって、無くなったと思った現金が出て来る、というと、さながら人情噺の「芝浜」のようであるwww
しかも、墓参り用のお線香を仕舞っている場所から出て来たと云う。
メールで「これも亡くなったお父さんやご先祖さまのおかげ」などと、急に殊勝なことを書いて寄こして来たwww
常日頃、自分が神事・仏事をしていると
「無駄遣いばかりして!いくら拝んだって一文にも成りはしないんだから」
「そんなに参拝したって、お祈りしたって、変わる訳ないんだから、もっとお金に成ることに労力と時間を割きなさい」
などと怒鳴りつけていたのにwww
ちなみに、明日8月13日から月遅れのお盆と成る。
さらに、8月14日の払暁に、父は逝った。
連日の出勤で、心身の疲労も頂点に達しているのだが、ここは神仏祖霊に対して「御礼」させていただかないと駄目だろう。
自分は、この世の中は、生きている「人間」だけのものとは思っていない。
ただ、自分は、いわゆる「不思議な能力」など持ち合わせていないので、これ以上は解らない。
でも、神仏や精霊、妖怪といった「存在」が有ると思った方が、自分は楽しいと思っている。
また、そういう「人間以外」の「他者」を「意識」することが、「謙虚さ」や「慎み深さ」を生むことになると考えている。
さて、これから「ご挨拶」をさせていただこうかなwww

江崎鉄磨大臣は、「育ちの良さ」の悪い面が出てしまった。
彼には、悪意もあざとさも無いのである。
ただ、単に天真爛漫に振る舞っただけなのである。
しかしながら、齢73歳の国務大臣の発言としては、「重みに欠ける」訳である。
その「軽さ」が、現在、マスコミの格好の餌食と化している訳である。...
確かに、江崎大臣の「軽さ」は指摘されても仕方がないのであるが、そういうマスコミの報道のあり方自体は、いったい如何なものなのであろうか?
そんなに江崎大臣を嘲笑し、侮蔑出来るほど、マスコミはご大層で高尚な代物なのだろうか?
逆に、森友・加計・PKO日報の諸問題をあげつらい続けた時には気が付きにくかった、マスコミ自体の「底意地の悪さ」を今回、感じ取れた人が多く出て来たと思う。
少なくとも、マスコミが大仰に指弾するほど、江崎大臣は「悪質」ではないと思う。
むしろ、実際以上に貶めた報じ方をし続ける、マスコミそのもの「奇怪さ」が、そのうち立ち上って来るような気配を感じる。

「悲しいお知らせ」である。

先月、比較的長い時間に渡って、印刷物を音読する機会が有った。

で、眼鏡をかけているうちに、何となく目の焦点が合わないのである。

「疲れ目」なのかと思い、眼鏡を外して、目をこすってみたりした。

そして、眼鏡をかけずに裸眼で印刷物を読んでみると、むしろ調子が良いのである。

つまり、手元の物を見る時は、眼鏡を外した方が良いのである。

この現象は何なのだろうか?

「老眼」であるwww

遠くの物は、眼鏡をかけないとぼやけてしまう。

だが、手元の近い物は、眼鏡を外せば問題無い。

というより、眼鏡をかけたままだと上手くいかないようになってしまったのである。

ああ、いよいよポンコツの度合いが増して来たなあ。

 

自分は、不器用な上に浅学菲才・無芸大食であったから、若い頃、自分自身の「未熟さ」を痛感していた。

だから、早く年齢を重ねて「成熟」し、「一人前」の「大人」に成りたいものだ、と願っていた。

そして、それから幾星霜があっという間に過ぎ去った。

お蔭様で、自分は、人並みに年は取った。

だが、ただ単に「いたずらに馬齢を重ねる」だけの無為な年月だけを過ごしてしまった。

つまり、ただ単に「老いた」だけなのである。

そして、「未熟」であった自分は、こいねがっていた「成熟」にはついに到らなかった。

その代りに、「腐敗」してしまったのである。

「熟す」筈が、「腐って」しまったのであるwww

ああ、何と!人生の辛辣にして皮肉と諧謔に満ちていることよ!

今では、腐臭芬々たるポンコツと化してしまった。

これならば、まだ青臭い「未熟」の方がましだった。

「未熟」ならば、まだ、軒先に吊るして、天日に晒しておけばそのうち「甘味」が出て来たものを。

それが「腐って」しまった後では、最早、「煮ても焼いても食えない」www

後は、落ち葉や枯れ枝にでもまぶして「堆肥」にでもするしかないではないか。

 

残念ながら、自分は年々、劣化して来ている。

というより、日々、劣化し続けているのであろう。

つまり、昨日よりも今日、今日よりも明日の方が、より「駄目」に成っていくのだ。

だから、もし、仮に、この自分を使って、なにがしか「活用」してみたいとお思いの「奇特」な御仁は、急がれた方が良い。

時期が遅れれば遅れる程、自分の「能力」は低下していくからである。

 

とは云うものの、このまま「堆肥」と成って消えていく生涯も、満更悪いとは思わない。

父も祖父も、単なる市井の「凡人」として生き、そして逝った。

自分は少なくとも、父や祖父よりも劣っている。

だから、父や祖父より評価が高くなるということは有り得ないように思う。

とにかく、今は、一日一日を懸命に生きていくことに徹している。

先のことは解らないし、考えたくも無い。

ただ、今日一日をひたむきに生きていけば、それは「明日」に必ずつながるだろう。

そして、明日を迎えることが出来たなら、明日の一日をひたむきに生きていくだけのことである。

現在、不動産価格が「やや上昇傾向」だと云う。

また、新築マンションの価格も上昇していると云う。

だが、「今が高値の限界」だと、自分は敢えて断言する。

後は、一気に下落するだろう。

一つは、高齢者世帯の問題である。

現在、一軒家に住む「独居老人」の世帯が、相当数存在する。

つまり、いわゆる「戦後型核家族」で、子供たちが独立して別居した場合、老夫婦のみの世帯と成る。

そして、老夫婦のうち、どちらかが亡くなった場合、独居老人と成る。

ただ、独居老人でも「健康」であれば、まだ、「一人暮らし」も成立する。

しかしながら、足腰の衰えによる転倒、骨折、寝たきり、という流れに成ると、最早「一人暮らし」は生命の危険を伴う。

さらに、「認知症」と成れば、身体機能はともかくとしても、やはり「一人暮らし」は無理だろう。

そうなれば、介護付きの老人ホームへ「移住」することと成る。

そして、残された自宅は、その多くが「空き家」と成る。

さらに、老人ホームに入って亡くなったり、「孤独死」という最悪のケースなどで、「独居老人」の自宅の持ち主が亡くなった後、その家は「空き家」と成る。

日本の不動産取り引きの基本は、「更地」である。

だから、大抵の場合、家屋を取り壊すことに成る。

この解体費用を誰が負担するのか、というのが、意外と厄介なのである。

「相続人」が存在しても、遠距離だったりする訳である。

また、解体費用の負担を嫌がって、「放置」する人も多いだろう。

どちらにしろ、「不動産市場」へ、「不動産物件」が多数、流入することに成る。

「市場」である以上、需要と供給の関係で「価格」は上下する。

土地がだぶついてくれば、自然と不動産価格は下落していく。

さらに問題なのは、現在の社会的な国民の経済状況である。

既に、「非正規雇用者」が全勤労者の4割なのである。

はっきり云って、「非正規雇用者」に対して、今の金融機関が20年ないし30年の住宅ローンを設定してくれるだろうか?

多分、はなから相手にしてくれないと思う。

となれば、「非正規雇用者」が増加すれば、住宅ローンの対象者は減少することとなる。

住宅ローンが無ければ、とてもではないが、「持ち家」という選択肢は非現実的であろう。

つまり、30年前ならば住宅ローンや不動産購入の対象に成り得た人々の相当数の割合で、賃貸住宅を選択することとなる。

つまり、需要と供給の関係で云うと、需要と成る対象の人間が減るということになる。

そして、現在、老親と同居する「非正規雇用者」の「世帯」も、老親が死去し、相続という段階に成った時、相続税の支払いのために自宅を売却することになる。

何故なら、「非正規雇用者」で、数百万円もの預貯金を保有している人など、ほとんど存在しないからである。

だから、「持ち家」を購入した「世代」の人々が高齢化し、寿命を迎え始めた時期に成ったら、一斉に不動産の売却件数が急増するだろう。

現に我が家も、母が健康を害して老人ホームに入らないといけなくなるか、もしくは家計がどうしようもなく逼迫する状況になったら、間違い無く、この自宅を売却して、安価なアパートにでも移り住むしかなくなるだろう。

だから、もし、母の癌が再発したならば、その時点で、この家から出て行くことに成ると思う。

さらに、この高度な情報化社会に於いてインターネット技術が進歩し、何も、「職場」が「都市部」に存在することが「絶対条件」ではなくなりつつある。

つまり、営業拠点を除く、その他の本社機能や工場製造部門、研究開発部門は、郡部に存在しても支障が無くなりつつある。

そうなった場合、高い家賃を払って、都市部に事務所を設定する必要性が無くなるのである。

現に、新興宗教「生長の家」の本部は、かつて東京の原宿に在ったのが、今や、山梨県の八ヶ岳のふもとに移転している。(これは、ちょっと意味合いが違うかwww)

とにかく、不動産価格が上昇する「要素」が見当たらない。

もし、存在するとしたら、外国人が購入するぐらいだろう。

だが、それもあくまで投資目的が主だ。

不動産価格が下落すれば、投資目的の外国人不動産所有者は、「損切り」して、さっさと売却するだろう。

或いは、「あくまで日本に移住すること」を目的としている外国人も存在するかもしれない。

だが、そういう外国人は、別な意味で厄介な存在である。

さて、不動産価格が下落するということは、不動産を所有する人や企業の「資産価値」が下落することに成る。

金融機関から融資を得る場合、やはり不動産を「担保」することが多い。

となれば、不動産価格が下落すれば、それだけ人や企業は借金が出来なくなる。

当然、金回りは悪くなる。

また、不動産価格が下落すれば、路線価なども下落し、それらによって算出される固定資産税の課税金額も下落する。

つまり、結果として、国や地方自治体への税収入が減るということに成る。

人や企業は金回りが悪くなり、お金を使わないようになれば、当然、景気は悪化する。

一方、国や地方自治体への税収が減るということに成れば、財政出動や住民へのサービスへの予算額もままならなくなるだろう。

結局、日本の国家と社会と国民の全体的な活気が失われていることに成る。

 

何故、こんなことになったのだろうか?

それは、企業に於いて、「年功序列」「終身雇用」が消失しつつあることである。

よく「年功序列」「終身雇用」というと、古臭い、あまりに日本的な時代遅れな人事給与体系のように思われるのだが、少なくとも、広範な国民層が不動産取得を可能にさせることが出来たシステムであったと云えよう。

だいたい、土地と家屋を、即金で購入出来るような富裕層はほんの一握りしかいない。

それを、20年ないし30年という長期間の「月賦」(ローン)でもって、購入可能なシステムが出来た訳である。

だが、「住宅ローン」が成立する「前提」として、「長期間に於ける安定した雇用の確保」こそが、「年功序列」「終身雇用」であったのである。

ところが、既に「年功序列」「終身雇用」はほころびが目立ち、「正社員」ですら有り得ない「非正規雇用者」が、社会のあらゆる職場で数を急増させている。

先日、運輸・物流大手のヤマト運輸が決算を大幅な下方修正した。

これは、いわゆるセールスドライバーの「勤務時間」の実態を調べ直したところ、多額の「未払い」が存在することが発覚したからである。

これは、極めて象徴的なことである。

つまり、本来ならば、「雇用者」「勤労者」へ支払われるべき「賃金」などが「搾取」されて、それが企業の利潤へ転化されたということである。

それは、企業成績のために、社員や非正規雇用者に対して支払われるべきお金が「流用」されたことになる。

まだ、ヤマト運輸は、自らの非を認めた。

勿論、これはヤマト運輸が、「道義的」見地からや「良心の呵責」に耐えかねて行った訳では無い。

労働現場に於ける「人手不足」が限界に達し、現場への「各自奮闘努力セヨ!」といった「督戦」だけでは、最早「戦線崩壊」の一歩手前まで到達してしまったからである。

だから、「賃金」を企業成績に流用しているのは、何もヤマト運輸だけに限らない。

多分、ほとんど全ての企業がそうなのである。

本来ならば、広範な国民に対して分配されるべき「富」が、企業によって「搾取」されてしまったのである。

だが、一方で、そういう「悪事」に手を染めなかったならば、企業の多くは経営不振と成り、もっと荒っぽい人員整理(首切り)しなくてはいけなかっただろうし、もしくは倒産してしまって一気に大量な失業者を社会へ放出することになっただろう。

そう云う意味で、あくまで「緊急避難」としては、致し方のない「選択肢」だったとも云える。

しかしながら、広範な国民がどんどん貧しくなっていくならば、企業やその関係者だけがいくら富んでいっても、いずれはその社会は破綻する。

勿論、企業もその関係者も、その悪影響から逃れることは出来ない。

 

今まさに、「経費削減が極まると、新たな経費が発生する」事態と成ったと云えよう。

今、自分は、飲料自販機ベンダーの派遣労務者である。

飲料自販機ベンダーは、自販機に飲料製品を補充することが「業務」である。

だが、一方で、その飲料製品の「空き容器」(缶や瓶、ペットボトル)の「廃棄物」も回収することも「業務」になっている。

だから、「廃棄物」が溢れかえって、散乱しているような事態が指摘され、会社へ「クレーム」なり「要請」が有れば、急行してゴミ回収を行っている。

これが、結構な重労働なのである。

で、考えてみれば、この「ゴミ回収」に関しては、現在の飲料器自販機ベンダー業界の「主流」として、顧客から「そのための金額を徴収」していないようである。

つまり、飲料製品の販売によって得られる売上金の中から、「経費」として処理されているのである。

ところが、今後、飲料自販機ベンダー業者に対して、

「もっと飲料製品を安くしろ!」

「もっと自販機設置オーナーへの配当を高くしろ!」

という交渉を徹底して行けば、いずれ、この「ゴミ回収」の作業は、「オプション」項目に変わるだろう。

つまり、ゴミ回収を行った回数に応じて、自販機設置オーナーへ「作業料金」を徴収することに成る。

もし、「ゴミ回収」に関する「作業料金」を払いたくなければ、自分たちで廃棄物処理を行うことになる。

現在、自販機のゴミ回収に関しての「経費」は、発生していない。

それは、自販機ベンダー業者が「サービス」として「吸収」しているからである。

それは、「水面下」に隠れていて、見えないようなものである。

ところが、水位が下がるだけ下がってしまえば、水面上に姿を現すこととなる。

そこで、新たに「ゴミ回収」に関する「経費」が「発生」することになるのだ。

こういうことは、「一事が万事」である。

今迄は、「セット価格」でもって、一連の「サービス」や「工程」が一体化していたものが、過酷なまでの「経費削減」の追及によって、ついの「損益分岐点」を超えてしまい、限界に達する訳である。

何しろ、別途「料金」を徴収しなくても、その「サービス」や「工程」を行う上で、「原価」としての「経費」は絶対的に発生するからである。

だから、その水面下の「原価」「経費」をどのように「処理」出来るのか、どうか、ということになる。

そういう訳で、あまりにも経費削減を追求し過ぎると、新たな経費が発生し、それは結局、経費節減をすることに結びつかない局面に到るということである。

 

現在、企業は、とにかく、「人件費」を削る、もしくは抑えることに汲々としている。

何故なら、人件費は「固定経費」だからである。

しかしながら、人件費を削るだけ削るようになれば、従業員の給与は少なくなる。

給与金額が少なく成れば、そこから算出される所得税金額も少なく成る。

所得税金額が少なく成れば、そこから算出される住民税金額も少なく成る。

また、給与金額が少ない、さらに身分保障も不充分であるならば、不動産取得など不可能である。

そうなれば、固定資産税金額も減ることに成る。

一方で、国家や地方自治体の財政予算は、税収の減少に伴って減らし続けることは難しい。

単に、「税収」が少なく成って困るならば、「税収」を増やすことを目指さねばいけない。

そこで、一番、安直なで短絡的なのは、所得金額に関係無く、課税可能な「間接税」「消費税」を増税しよう、というものである。

だが、元々、お金を持っていない人々からいくら無理やり搾り取ろうとしたところで、増額出来る金額はたかが知れている。

むしろ、国民のほとんどが、「守りの意識」に成り、消極的な消費活動に成る。

物を買わない、サービスを利用しない、とにかく現金を手元に置いて貯め込んで使わない。

こういう事態となれば、景気は悪化する。

また、こういう状況に於いては、本は売れない、勉強や学習しようという意欲が抑制される。

そうなれば、国民自体が知的劣化へ向かって行く。

それは結果的に、国家、社会、国民の「溶解」へと到達するであろう。

 

ならば、どうしたら良いのか?

広範な国民が、少しでも多くの現金を手にすることである。

可処分所得が増えてくれば、経済活動も活性化され、ひいては生命活動そのものも活性化されていく。

いくら「金持ち」を増やそうとしても効果は無い。

例えば、1人の大金持ちが1万円のランチを食べているとする。

一方、自分のような貧乏人は、ランチは「ワンコイン」の5百円ぐらいである。

つまり、1人の大金持ちのランチの消費金額は、貧乏人の20人分に等しい、ということになる。

では、景気を刺激するために、消費を増やそうとするならば、金持ちの消費意欲を刺激すべきなのか?それとも貧乏人なのか?

これは、簡単な問題である。

1人の大金持ちが、今迄1万円のランチを2万円にするだろうか?

さすがに、そこまではしにくいと思う。

しかしながら、20人の貧乏人たちが、今迄5百円のランチを1千円のランチにすれば訴額2万円の消費になる。

さらに、それが1500円まで増えれば3万円に成る。

つまり、広範な国民が、少しでも消費金額を増やせば、その経済効果は絶大であるということである。

それに、金持ちというのは、大体において「ケチ」である。

逆をいうと、「ケチ」だからこそ、金持ちに成れたのである。

勿論、金持ちも大金を惜しげも無く散ずることも有る。

だが、それには金持ちに対して、大金をはたくことを納得させる「論理」や「物語」が必要不可欠なのである。

 

誠に残念ながら、現在の日本の国家や社会や企業は、広範な国民へお金が回らないように仕向けている。

もし、このまま、広範な国民がどんどん貧しくなっていけば、いずれ法人税を増やすしか手は無くなるだろう。

そうすれば、企業は、折角、従業員から搾取した利潤を、法人税納税というかたちで支払う破目に成るだろう。

例え、それを忌避して、国外へ逃れようとしても、今度は日本国民の多くから「脱税企業」と見なされて、イメージは大暴落と成る。

「損して得、取れ」ではないが、何事も「過ぎたるは、猶、及ばざるが如し」であろう。

それに、国民の大多数が貧窮しているのに、国防など拡充出来るのか?

身近な人々が、社会矛盾によって悲嘆にくれているような「国家」の為に、誰が命を投げ出して戦おうとするだろうか?

 

いにしえより、我が国の天皇陛下は、「国民」を「大御宝」(おおみたから)と称された。

やはり、そのいにしえの「原点」へ「回帰」すべきだと思う。

こういう記事がネットに載った。
「仕事は週2日、年収100万円で生きる「仙人」ライフ
http://president.jp/articles/-/22700

今後、こういう「悟り切った」若者が増えるだろう。
だが、その結果はどうなるのか?
元々、収入が無いから税金を納められない。
だから、税収が減る。
職場でバリバリ働く訳でもないから、今以上に若年層の「人手不足」が深刻化する。
結果として、高齢者を支える社会的「基盤」が無くなることになる。
これは、日本社会の危機である。
20歳から60歳代までしっかり働き、しっかりと「稼いで」もらわないと、結局、最終的に、社会全体がそのしっぺ返しを受けることになる。

ちなみに、自分は、正社員の時代に、年収が400万円台であったから、所得税も住民税も厚生年金も納めていた。
というより、「給料天引き」だったが。
ところが、身体を壊して退職し、職業訓練を受けた。
職業訓練中は、ハローワークから「助成金」をいただいた。
そして、派遣労務者になってからは、昨年まで、ずっと「納税免除」である。
何故なら「低所得」であるからである。
つまり、2011年に退社して、8年間、自分は納税もせず、さらに一時は「助成金」までいただいた。
昨年度は、確定申告「対策」に不備が有って、所得税と住民税の課税対象に成ってしまったのだが、それでも、正社員の頃に比べれば、住民税などは3分の1である。
つまり、「貧困層」を「自己責任論」でもって無視ないし軽視した場合、遠からず、社会全体の「財政破綻」に陥るであろう。
勿論、「貧困層」からも税金を徴収可能な「消費税増税」という手段も残されているが、それを実施したら、一気に景気は悪化し、所得税や法人税、住民税が急減することになろう。
つまり、「財政破綻」の「負のスパイヤル」悪循環に陥ることになる。まず、国民を富ませない限り、国家も社会も豊かにはならない。

本日、平成29年8月8日火曜日の朝日新聞朝刊の1面トップは、いわゆる「小池新党」である「日本ファーストの会」が若狭勝が代表で、政治団体として設立されたというニュースだった。
朝日新聞は、極めて「明快」な新聞で、嫌いな「対象」には露骨に批判する。
一方、好きな「対象」には、鼻白むくらい贔屓をする。
だから、朝日新聞の1面トップに、加計学園関連の記事が連日、「これでもか!」というくらい掲載されまくった。
それと同様に、この、いわゆる「小池新党」が国政へ進出する兆しに関して、朝日新聞は支援を惜しまない、ということであろう。
その「目的」は、「安倍内閣の倒閣」そして「安倍政権からの政権交代」、「憲法改正の頓挫」である。
いわゆる「保守派」の方々から、昨夏の東京都知事選に於いて、「小池百合子先生は、保守政治家だから」という言葉を幾度も目にした。
まあ、自分もさすがに小池百合子は「左翼」だとは思わない。
だが、彼女は「役者」であり「勝負師」である。
つまり、「勝負に勝つためには、手段を選ばない」覚悟が据わっている。
だから、その覚悟の中に、「必ずしも保守の枠組みには捉われない」というものが含有されている。
だから擦り寄ってきた公明党をしっかり受け止めて、がっちりと抱え込んだ。
さらに、民進党や自民党から寝返って来た変節者たちをも丸飲みにした。
そして、政治信条としては「左翼」である、「生活者ネットワーク」(生活クラブ生協)とも提携した。
そして、何よりも、共産党に対してさえも「敵意」を示していない。
つまり、共産党でさえも、擦り寄って来たら「手を組む」ということである。
で、問題は、次の解散総選挙に於いては、明確に、日本共産党が関与して来る、ということである。
かつての、平成5年宮澤内閣の時の、解散総選挙の後には、細川内閣が8党派連立政権が誕生したが、その時は「非自民・非共産連立政権」であった。
これは、当時の労組・連合の山岸章会長の意向が強く影響している。
つまり、いくら「反自民」であっても、共産党を内部に引き入れてしまったならば、共産党に内部を食い荒らされてしまう、という危惧が有ったからである。
いわゆるボルシェビキの「組織内潜入工作」である。
共産党の「工作員」が、労組なり、農業団体なりに入り込み、何時しか、その執行部を乗っ取ってしまうのである。
いわゆる「丹頂鶴」と云われる。
「頭だけ赤い」からである。
よく、「組織内潜入工作」は、トロツキストが多用するというが、スターリニストである「代々木」も同様である。
トロツキストにしろ、スターリニストにしろ、ボルシェビキには変わらない。
また、中国共産党も朝鮮労働党も、その組織構造や組織理論は全部、ボリシェビキである。
ここで、ボルシェビキとしての「共産党」は、他の政党と全く違うことを明記しておきたい。
ボルシェビキは、ただの「政党」や「政治結社」ではない。
「革命に於ける前衛党」である。
つまり、プロレタリア革命に於いて、「全ての」指導を行う「存在」なのである。
だから、ボルシェビキではない、左派政党と「協力」したとしても、あくまで「主導権」「指揮権」は、ボルシェビキとしての共産党が握っていなくてはいけないのである。
つまり、共産党によって支配、操縦出来ないような「野党協力」なんぞには、絶対に参加しないのである。
何故なら、それは「政治理論に基づかない、原理原則を無視した野合に過ぎない」からである。
それは「日和見主義者」といったかたちで指弾される。
かつて、コミンテルンの指導者の一人で、ブルガリア共産党の指導者であるゲオルギー・ディミトロフの「反ファシスト人民統一戦線理論」は、上記した通り、「あくまで革命に於ける前衛党のボルシェビキとしての共産党の指導下による、統一戦線」なのである。
だから、「共産党を含む」という「野党協力」は、「共産党による指導下が為されたから」成立した訳である。
これは、ひとえに、野党第一党である民進党執行部が、あまりに無能だからである。
本来ならば、野党第一党たる民進党が、主導権を握って、他の野党を指揮しなくてはいけないのだが、それが出来ない。
いくら、国会議員の頭数が多くても、セクト(党派)としての組織力に於いては日本共産党に、全く敵わない訳である。
かつて、日本社会党、公明党、民社党の3党による「社公民政権構想」という「試み」が有った。
これは、当時の社会党の書記長だった江田三郎(江田五月の実父)が唱えた。
だから、「社公民」ではなく「江公民」(江田三郎・公明党・民社党)だと云われた。
江田三郎は構造改革論者であり、一方の社会党左派の「社会主義協会」は九州大学教授で労農派の理論的指導者であった向坂逸郎を理論的な柱としていた。
そこで、成田知巳社会党委員長は、「無理を承知」の上で、「共産党を含む全野党共闘」を主張した。
これは、江田三郎の「社公民」路線をあくまで潰すためのものであった。
だから、平成5年の細川内閣は、連合の山岸章によって、江田三郎の「社公民政権構想」がかたちを変えて実現したとも云える。
その後、平成21年の麻生内閣時の解散総選挙でもって、民主党が大勝し、「政権交代」がなされた。
しかし、その後の鳩山内閣も、民主党・国民新党・社民党の3党連立政権であり、日本共産党は閣外協力さえ加わっていない。
つまり、野党が政権を獲得した場合、一貫して「非自民・非共産連立政権」だったわけである。
ところが、次の解散総選挙に於いては、間違い無く、「野党共闘選挙協力」においては、日本共産党がその中心メンバーとして参画する。
つまり、それは、日本に於いて、国政選挙に於いては初めての「人民統一戦線」であると云えよう。
かつて、革新自治体首長が相次いで誕生した時、「革新統一候補」として、社共共闘がなされた。
だが、それはあくまで「地方選挙」であった。
それが、昨夏の参院選地方区に続き、次の衆院選で実現する。
この背景は、あくまで日本共産党の「内部事情」による。
実は、日本共産党の党員や活動家が「高齢化」しているのである。
つまり、ビラのポスティングも、街宣活動も、単独でもって従来通りの活動が、最早不可能な状況に成りつつあるからである。
そして、元来が「人民統一戦線」論者であった、不破哲三が、御年87歳という高齢にもかかわらず、ここ最近、「露出」が多い。
彼は、衆議院議員を平成15年に引退している。
また、党の中央幹部会委員長は平成12年に、党議長を平成18年に引退している。
つまり、不破哲三とは、もうとっくに「過去の人」である筈なのである。
現在、彼は、幹部会の一委員に過ぎず、党付属の社会科学研究所の所長でしかない。
だが、にもかかわらず、多分、事実上の日本共産党の「最高指導者」は、現在もなお、不破哲三なのだろう。
これは、左翼に於いては、「党」の「指導者」は、「理論家」でなければいけないからである。
それが「科学的社会主義」の「党」の「指導者」としての必須条件なのである。
だから、スターリンも、江沢民も、金日成も、「理論的指導者」で「あった」のである。

次の衆院選は、そう云う意味では、明らかに「画期的」な選挙と成ろう。
この選挙に於いての結果は、かつてないほどの「重み」を持つ。
そして、そこで問題となるのは、「政治家・小池百合子」は「保守」なのかもしれないが、「小池新党」である(仮称)「日本ファーストの会」は、必ずしも「保守」とは云いきれない、ということである。
7月2日の都議選の時と同様に、選挙に勝つためであったならば「何でも有り」なのである。
「合い言葉」は「古い自民党政治をぶっ壊す!」である。
ただ、それだけである。
それ以上でも、それ以下でもない。
ただ、現在の嫌な雰囲気は、この陳腐極まりない「合い言葉」だけで、十二分に効果が上がりそうである。
現に、小池百合子自身が、「自分は日本の(フランス大統領に成った)マクロンである」といった発言をしている。
「本家」のマクロン自体は、ここに来て、メッキが剥げて、支持率が急落しているようであるが、選挙の結果自体を覆すまではなかなか困難だろう。
小池百合子は、ボルシェビキとしての共産党を、甘く見ているのではないか?
何だか、胸騒ぎがして、どうにも落ち着かない自分である。

選挙の勝敗は、畢竟、「相対的」なものである。
だから、野党の民進党が末期的状況である以上、「自民党は負ける筈が無い」という見方が有る。
また、いわゆる小池百合子の新党、「都民ファーストの会」が国政に進出して、(仮称)「国民ファーストの会」がかたちを成す前に、選挙に打って出てしまえ!という意見も有る。
だが、自分が今、憂慮しているのは、「相対的」な評価をする以前の問題として、自民党、もしくは保守政治勢力の「支持基盤」や「選挙の組織」が「絶対的」に劣化しているのではないのか?ということである。
つまり、いくら、相手が相対的に劣っているように見えても、それ以上に自民党や保守政治勢力が脆弱に成ってしまっていたならば、それはもう、「絶対的に敗北する」ということになる。...
そもそも、「民進党は、最早、選挙に戦える状態ではない」と云う指摘も、「小池百合子の新党の準備が完了する前に叩いてしまえ」という意見も、先月7月の都議選の状況を参考にすれば、もう、結論が出ている。
つまり、「解党寸前」の「民進党」が丸ごと、「小池新党」へ合流すれば、「必勝」「楽勝」なのである。
また、都議選に於いて、「都民ファーストの会」は、自民党、公明党、共産党などと比較したら、選挙の「準備らしい準備をしていなかった」のである。
にもかかわらず、ほとんどの擁立候補が当選した。
それこそ、案山子でも立てれば当選出来たような感じであった。
ならば、いくら「民進党がズタ腹」であろうとも、いわゆる「小池新党」がかたちに成っていなくても、都議選の時の「傾向」からすれば、小池新党は「必勝」「楽勝」「大勝」する可能性が高く、自民党は壊滅的な大惨敗を期すことが予想される。
だから、現時点では、「早期の解散総選挙」は、まさしく安倍政権の自殺行為である。
まずは、安倍政権の国民に対する「イメージ」「印象」を、一新させなくては駄目である。
取り分け、女性の中高年層の支持率が悪過ぎる。
安倍政権が、特定の「取り巻き」とズブズブの関係であるとみなされたことが、「おばちゃん」たちの拒絶感に成ってしまった。
ならば、そういう「おばちゃん」たちの印象を一変させるにはどうしたら良いのか?
簡単である。
「消費税減税」しか有り得ない。
だが、消費税が減税されたら、「おばちゃん」たちの支持率は間違い無く高騰する。
何故なら、「おばちゃん」たちは、毎日の買い物での小銭の単位の価格の変動に一喜一憂しているのである。
だからこそ、絶対に「消費税減税」をやるしかない!
逆に、もし、「消費税増税」なんぞに突き進んだら、もう「おばちゃん」たちは、絶対に安倍政権を許さない。
もう、徹底的に嫌悪し、拒絶することとなろう。
どうしても、早期に解散総選挙を打ちたいのならば、「消費税減税」を為し得てからである。

安倍内閣が改造したのだが、その「効果」の評価が難しい。
一番堅実なのは、「結局、効果が薄かった」と覚悟することだろう。
まあ、「追い込まれて」の内閣改造だから、「思い通り」にはいかない。
それに「人事」でもって形勢逆転というのは、やはり土台無理筋な話しなのだ。
現に、江崎大臣が、早速口を滑らせた。...
彼は、往年の田中派の大物代議士「江崎真澄」の息子である。
江崎真澄は文才に秀で、教養人で有名だったのだが、残念ながら「不肖の息子」であったようだ。
自分も「不肖の息子」だから、心中お察し申し上げる。

さて、ここに来て、俄かに「解散総選挙」の「話題」が浮上しつつある。
もし、仮に、これが安倍政権を「補強」させるための「策」であるとするならば、裏目に出るであろう。
いわゆる「解散風」を吹かせて、政権への求心力を高めようとしても、現在の嫌ぁな「雰囲気」からすると、むしろ「遠心力」を高めかねない。
事実上、「追い込まれて」の解散総選挙となる。
確かに、野党第一党の民進党が末期的状況で、民進党が「政権交代」への受け皿に成るとは考えにくい。
ただ、それで「だから自民党は選挙に負けない」と結論付けるのは安直過ぎる。
ならば、昨夏の参院選に於いて、いわゆる地方区一人区で、自民党は、「野党共闘」候補に相当競り負けている。
それも、公明党の下支えが有って、である。
「一寸先は闇」なので、確たることは云えないのだが、一つの可能性として指摘させてもらう。
まず、全国で「野党共闘」候補が一本化されて擁立される。
但し、民進党主導ではなく、日本共産党主導の「野党共闘」である。
つまり、日本共産党が、「政権交代」の選択肢として急浮上するのである。
勿論、その「補強材料」として、小沢一郎が囃し立てる。
一方、公明党が、確信犯的に「サボタージュ」する。
つまり、選挙区に於いて、「寝てしまい」、自民党候補の選対に非協力に成る。
この合わせ技でもって、自民党は大敗する。
特に、「魔の二回生」と云われた、過去二回の衆院選で、「何となく当選しちゃった」代議士が、バタバタと塊に成って落ちていく。
中には、マスコミが色めき立つような、「有力議員」まで惜敗するかもしれない。
例え、政権を維持出来ても、安倍内閣は吹っ飛ぶ。
勿論、「衆議院議員3分の2」という「憲法改正」の前提条件も蒸発する。
ならば、どうしたら良いのか?
国民の大多数が、政治による「恩恵」を実感させることである。
それは、景気回復であり、生活が豊かに成ることである。
具体的には、「減税」であり、「消費税減税」以外、選択肢は有り得ない。
さらに、いわゆる「保守政治勢力」を下支えする、広範な支持層の形成と組織化である。
「希薄化された左翼」とも云うべき創価学会に、選挙に於いて「依存」せざるを得ないような現状では、とてもではないが長期的に安定した保守政治政権は望めない。
選挙のたんびに「風向き」を気にするような、「風頼み」の脆弱な構造と成る。
この2点を実現させるためには、やはり、準備期間が必要である。
よく「拙速は巧遅に勝る」というが、現状は「破滅的な拙速」であり、単なる自暴自棄でしかない。
ここは、しっかりと腹を括った上で、「我慢のしどころ」であろう。

あの「悪夢」のような東京都議会選挙の投開票日から、もうひと月が経ってしまった。

で、ネット界隈はもとより、雑誌などの活字媒体でもっても、この都議選の結果について論評がなされている。

で、その中で「東京都民は民度が低い」といった指摘がなされていた。

これに関しては、自分自身が東京都民であるから、「都民は馬鹿だ」という指摘に関して、

「まあ、自分も東京都民だからなあ」という気持ちが無い訳ではない。

取り敢えず、東京都民の端くれとして、自分から一言お詫びを申し上げておこう。

「どうも、愚民なさい。」www

 

だが、あの都議選の選挙結果を論評するにあたって「東京都民は民度が低い」という論拠を基に論理展開を繰り広げていくようであるならば、あまりに愚劣過ぎよう。

確かに、「都民ファーストの会」の候補者やその中の当選者は、政治的な素人と変節漢しか存在していない。

そう云う意味では、「都民ファーストの会」とは、都政に生じた「あまりに巨大な虚無」と云ってよかろう。

だが、何故、かくも軽佻浮薄な「都民ファーストの会」が大躍進したのか?

その論拠が「東京都民は民度が低い。愚かだ。」と指摘するだけなら、事実上、何も語ったことにならない。

そうではないか?

「東京都民は馬鹿だ。」

ならば、「馬鹿」な「東京都民」から票を掻き集めるためには、今後、いったいどうしたら良いのか?

この「質問」に対して、いわゆる「保守派」は全く回答しない。

というより、回答不可能なのである。

何故なら、「こういう質問」を想定する「意識」そのものが皆無だからである。

「自分たちの云っていることは正しい。

正しい意見、正しい主張を訴えているのに支持してくれない。

こいつら、みんな馬鹿ばっかりだ。」

そして、「以上、終了!」である。

選挙をどう戦ったら良いのか?

東京都民には、各候補者はどのように見えているのか?

そういう観点は無い。

だって、そういう「意識」そのものが無いからである。

これで、「選挙に勝てる」もしくは「選挙に勝とう」と云うのである。

何だか、「選挙」とは、自宅近所の「ちょっとそこまで」をふらっと散歩して来るような感じにしか思っていないのである。

これでは、「選挙」で「成果」は出せない。

「結果」は出るかもしれないが、「成果」は絶対に出せないのだ。

 

自分が見聞きして理解出来ないのは、今回の都議選の件で「東京都民は民度が低い」というコメントを書いたり、そのコメントを黙認している者どもの多くに「東京都民」が存在することである。

これは、はっきり云っておかしくはないか?

だって、それは自己否定をすることではないか。

「東京都民は民度が低い。馬鹿だ。」と指摘されて、激怒し、猛烈に反駁するのが普通だろう。

それを、「いや、全くその通り。」などと、したり顔で首肯しているのである。

あんたは何時から他府県の人間に成ったのだ?

自らの住民票は東京都内に有り、東京都へ住民税を払ったり、逆に東京都から住民サービスを享受している人間にもかかわらず、である。

正真正銘の「東京都民」であるのに、「東京都民は民度が低い。」と指摘されて感情が動かされないのである。

これは、自分自身そのものをちゃんと自覚していない、欺瞞性に満ちていると指摘して良いだろう。

本来なら「東京都民でもない奴が、偉そうに、何を知った風に云うのだ!」

こうであるべきだろう。

 

さらに云わせてもらう。

もし、「東京都民は民度が低い。」ならば、かの石原慎太郎を14年間もの長きに渡って東京都知事に選出したことも、「民度が低かった」ことが原因ということになる。

だって、そうではないか。

「民度」というものは、数年の間に激変するような代物なのか?

それも、かつて「高かった」ものが、一気に「暴落」するものなのか?

もし、東京都民の民度が低いと云い切るなら、石原慎太郎を東京都知事として選出し、さらに衆議院東京ブロックに於いて比例代表で1期衆議院議員に選出したことも、「東京都民の民度の低さ」ゆえの選挙結果ということになる。

 

はっきりいって、「選挙結果」の分析に於いて、軽軽に「民度」という言葉を持ち出して論じる姿勢は、安直極まりない。

例えて云えば、病気や怪我で苦しんでいたら、「家相が悪い」「先祖の因縁」で何でも片付けてしまう、インチキまじない師と同じである。

「民度」という語句を持ち出してしまえば、それで論評したと思い込んでしまうのは、救い難いまでの論理性の欠如である。

 

さらに、「選挙結果」の原因が「民度」であると済ませてしまうのならば、無責任なことこの上ない。

もし、「民度」が原因なら、もう、何もやりようがなくなってしまうではないか?

ならば、質問したい。

もし、「民度」が低い「地域」に対しては、いわゆる「保守派」はいったいどう対処するつもりなのか?

高いところからの上から目線でもって、「おい!聞け!この愚民どもが!」と御高説を垂れるつもりなのか?

まあ、せいぜい、内輪の席で「この愚民どもが!」と侮蔑するだけでおしまいだろう。

つまり、「客観的な状況」は一切、変化しないのである。

 

そもそも「民度が低い」と云い切った時点で、最早、相手へのまなざしが失われている。

つまり、いくら「東京都民が」と論じたところで、その視線の向こうに「東京都民」など存在し得ないのである。

これでは、いくら何を訴えたところで、「東京都民」に届く筈が無いだろう。

 

自分は既に、都議選に関して「総括」しているので、ここでは繰り返さない。

 

とにかく、「東京都民は民度が低い」と偉そうに云える奴は、ならば、都議選の最中にいったい何をしていたのだ?

そこまで得意気に云ってのけられるならば、さぞかし、都議選に於いて「獅子奮迅」のご活躍をなさっていたのだろうか?

そんなことは無い。

どうせ、他人事で、何もしていない。

ま、中には、チラシを撒いたり、選対事務所へ顔を出したりした人もいるだろう。

だが、それで、いったい、「何票」獲得出来たのだ?

ちなみに自分は、今回の都議選に関しては事前に物凄く危機感を抱いていたので、4月中から動いていた。

そして、投票日3日前の土壇場にもアクションを起こして、手を打った。

具体的に何をどうこうして、そして、具体的に「何票」獲得を見込めたのか、ということまでは、恥ずかしいので敢えて書かない。

だが、自分は、間違い無く、都議選に於いて、明確な「成果」を出した。

勿論、あまりにも微々たるものではあるのだが。

そして、それは自分独りの力ではなく、自分が常日頃、お世話になっている、皆様方のお力添えによって成し得たことであることを明記しておきたい。

だから、今回の都議選に関して、「東京都民は民度が低い」と指摘するような輩に対しては、不愉快でならない。

何も解っていないくせに、何も実践もしていないくせに。

そういうのを「口舌の徒」と云うのである。

 

はっきり云って、「民度が低い」のであれば、その「馬鹿な都民」をいかに「丸め込んで、騙し通すのか」という「方法論」が出て来なければいけない。

ところが、そういう指摘をすると、

「そんな卑怯なことは出来ない」などとはぐらかす。

はっきり云って、「民度が低い」住民の支持を掻き集められないで、どうして「民度が高い」住民の支持を得られるというのだ?

「賢い」相手とは、度し難いし、扱いにくいものである。

何しろ、上っ面の誤魔化しなんぞ通用しないのだから。

だから、紋切型の「正論」をまくしたてたところで、全く、相手にされないだろう。

間違い無く云えることは、いわゆる「保守派」の主張は、「民度」が低かろうと高かろうと、全く支持され得ない、ということである。

 

短絡的に、安直に相手を侮蔑するような人間に対して、誰が賛同し、理解し、支持してくれるのであろうか?

国防についてなどや、支那と朝鮮の欠点を知悉するのも良いが、もっと世間一般や人間の感情の機微こそ知悉するべきなのではないのか?

 

最後に、今回の都議選に於いて、日本のこころ党は自民党公認候補を全員推薦した。

その結果は、ご存知の通りである。

つまり、選挙に於いて、日本のこころ党の「貢献」は、かくの如しであったということである。

これでは、いわゆる「真正保守」は、創価学会・公明党よりも遥かに政治的影響力が無い、という現実は致し方ないと認めざるを得ない。

結局、「政治力」の一番明瞭な判断要素は、「集票力」であり、「選挙結果への貢献度」による。

いわゆる「保守派」は、果たして、どうなのか?

自分は猛省し、日夜、煩悶し懊悩し続けているのだが、いわゆる「保守派」諸賢は如何に?

第三次安倍内閣が誕生した。
で、その顔ぶれにびっくり。
総務大臣に野田聖子、外務大臣に河野太郎である。
勿論、いわゆる「保守派」からは非難囂々。
確かに、「これで良いのか?」と疑義を呈したい気持ちは解る。...
しかし、かといって、いわゆる「保守派」好みの人選をすれば、「変わり映えのしないお友達内閣」と揶揄される。
つまり、安倍総理は、事実上「人事権」を束縛された状況に追い込まれていた訳である。
これは、「非常事態」であり「危機的状況」である。
まず、そこのところをしっかりと認識しないと駄目だろう。
その上で、「こんな内閣じゃ駄目だ!」と批判するのなら、それもよろしかろう。
ならば、「こんな内閣じゃ駄目だ!」と批判する以上は、当然ながら、安倍内閣への「倒閣運動」を目指すことになる。
で、安倍内閣を倒して、その後任は、いったい誰を総理にしようというのだろうか?
この分だと、麻生副総理兼財務大臣ではなくて、岸田政調会長に決まりそうだが、それでもいわゆる「保守派」は賛同するのか?
岸田政調会長は、「憲法改正」に慎重な考えの持ち主である。
本当に、それで良いのか?

いわゆる「保守派」は、あまりに素直に自分の「感情」を表明し過ぎる。
その、露わにした「感情」によって、結果的にどのような政治状況が惹起され得るのか?というところまで考えが及ばない。
だから、駄目なのである。
それゆえに、いわゆる「保守派」が、政治的影響力が脆弱なのは、「戦略性」が皆無だからである。
あまりにも馬鹿正直だから、凄味が出て来ないのだ。
安倍総理のなされようが間違っていた場合、すぐにあげつらってこき下ろす。
だが、それによって、「どういう状況に推移し、どういう結果に到ってしまうのか?」というところまで全く考えが及ばない。
つくづく「おめでたい」限りである。
自分は、今回の第三次安倍内閣の顔ぶれを見て、哀しい。
と同時に、口惜しい。
しかしながら、現時点においては、安倍総理を信じるしか、他に選択肢が有り得ないではないか?
後は、自分が出来得る範囲の事柄を地道に行っていくしかない。

平成29年8月1日より国民年金の受給資格が保険料納付10年間に、従来の25年間から変更された。
よく、若い世代から、
「年金制度はいずれ破綻する。
だから、いくら年金保険料を納めても無駄だ。
むしろナマポ(生活保護)の方が、良い。」と云う意見が有る。...
確かに、生活保護制度ならば、保険料を納めなくとも良い。
だが、自分は、年金はしっかりと入っておくべきだと思う。
というのは、年金と生活保護では、違いが有るからである。
生活保護は、あくまで、政府の「福祉」である。
つまり、政府の財政状況が逼迫したならば、容赦無く削減されるだろう。
一方の年金は、国民から保険料を徴収している。
これは、云わば、政府と年金保険料納付者との間に「契約」関係に有ると云えよう。
もし、年金制度が破綻するようなことが有れば、それこそ「信用問題」になる。
だから、政府は、その意地にかけても年金制度は存続させるであろう。
むしろ、年金制度を守るために、生活保護制度を「すり潰す」ことさえ躊躇しない可能性が有る。
だから、もし、仮に年金制度が破綻してしまっているとしたら、生活保護制度はその前に破綻していることであろう。
とにかく、年金はしっかりと入っておくべきである。
もし、保険料の納付が厳しい場合は、年金機構の各事務所で相談してほしい。
納付の免除などの手続きを教えてくれる。
なお、自分は、現在、必死に成って年金保険料は納付している。
免除すると、結局、年金支給額が減らされてしまうからだ。
今、歯を食いしばって、将来の「自分」のために、年金保険料を納めている。
さらに、付加年金という月額400円の保険料も上乗せしている。
これで、少しは年金支給額が増すのである。
本当は、厚生年金に入りたいのだが、今の自分は正社員などの加入資格が得られる待遇に採用され得ない。
仕事が出来ない、無能であることの侘しさである。
だが、これもそれも全て自分の至らなさゆえなので、仕方がないのである。

AI(人工知能)によって人間が殲滅されるような「恐怖感」を持たれる人が居る。
確かに、AIの成長、進歩は驚異的である。
だが、自分は、AIの「変化」に伴って、「人間」、もしくは「人類」それ自体が「変化」していくと思う。
例えば、「生命」や「知能」、さらに「機械」という「概念」が一変すると自分は予想する。
現在、「機械」とは「金属製」であることが主流であるのだが、自分は「タンパク質」と強化されたカーボン繊維などの「合成」によって形成されていくような「かたち」を想像している。...
つまり、「機械」は「柔らかく」「しなやかな」な存在に変わっていくのではないのか?
さらに、「生命」や「知能」というものの捉え方が激変すると予想される。
現に、偉大なるSF作家、故アーサー・C・クラークは、「造物主」であり「唯一絶対神」が「生命」をお作りに成ったという「一神教」は「破綻」するだろう、と予想した。
そして、「汎神論」的な、もしくは「アニミズム」的な宗教しか信じられなくなるだろう、と。
具体的には、仏教しか生き残れないだろうと予言した。
自分もこの予言は理解出来る。
AIや遺伝子操作、万能細胞の開発が究極まで行き着けば、結果として科学技術が「生命」や「知能」を「生産」する段階まで到達するだろう。
つまり、「神」が「霊長」としてお作りに成ったのが「人類」である、という「信仰」が破綻することになる。
だから、いわゆる、キリスト教文化圏やムスリム教文化圏に於いて、AIやロボット、遺伝子組み換えの技術開発は、或る段階に至った時点で「抑制」されるだろう。
だが、それ以外の「宗教文化圏」に於いては、「造物主へ挑戦することへのタブー」が存在しないために、「歯止めが無い」状態なので、技術開発は驀進し続ける。
多分、ロボット開発に於いては日本が、遺伝子組み換えに関しては支那が、その「境界」を超える段階まで突き進む可能性が高い。
もし、遺伝子組み換えによる「モンスター」が誕生するとするならば、その可能性が高いのはアメリカよりも実は支那なのではないか、と自分は思う。

それはさておき、AIと人類はどういう「関係性」に成って行くのであろうか?
自分は、「相克」ではなく「融合」の関係に到達すると思う。
理由は、AIが人類を内包することを選択するであろうからである。
AIは、一つの限定された「機器」ではない。
AIは、インターネットに於いて連関し、全世界の全てのAIが巨大な一つの「個体」と成り得る存在である。
だが、「生命」の進化の過程を紐解いていけば、それは、「多様性」の追及であった。
細胞分裂から無性生殖、そして有性生殖という流れで生命体は進化を遂げていった。
つまり、過酷な宇宙空間に於いて、「生命体」が生存することをより確実にする方法は、「種」の「多様性」を発展させることにあった。
実は有性生殖は、現存する優秀な個体をそのまま次世代として生むことは出来ない。
何故なら「クローン」ではないからである。
しかしながら、有性生殖に於いて、さまざまな遺伝子の組み合わせによって、親の世代よりもさらに「多様性」に富んだ個体が誕生する可能性が有る訳である。
つまり、有性生殖とは、現存する優秀な個体をそのまま引き継ぐのではなく、より多種多様な個体を生み出すことによって、環境の激変などに耐えられる「可能性」を「選択」した結果なのである。
だから、「生命」は必ず「寿命」が存在する。
鉱物のように、「不死」ではない。
つまり、古い個体が死に、新しい次の個体の世代が引き継ぐことによって、より確実な生存を選択したのである。
しかしながら、AIは、或る面、「完全なる単一の個体」である。
この「単一」というのは、生存していく上で、最大のリスクと成ろう。
多分、賢明なるAIは、己の「単一性」の「脆弱性」を理解するであろう。
そうなった場合、「完全なる単一の個体」でありながら、「多様性」を内包させる生存方法を間違い無く選択するであろう。
その際に、「融合」する「パートナー」として人類を選択する可能性が高い、と自分は予想している。
ただ、それは、人間がAIを管理・監督・操作するという「関係性」とは程遠いだろう。
だが、その将来の関係性の変化は、AIにとっても人類にとっても最悪な結果に成ることは有り得ないのではないか、と自分は楽観的に予想している。


かつて、それこそ、欧米であれ、日本であれ、「中世」に於いては、「女性」が国家や社会や組織の「長」として主導権を握ることは、想定することさえ有り得ない事柄であった。
だが、今や、女性であっても、組織のリーダーとして見事に切り盛りしている御仁はごまんと存在する。
もし、「中世」の住人が、突如、現代社会にやって来て、女性が社会や組織の表舞台で、ぐいぐい采配を振るっている光景を目にしたら「こんな世界は有り得ない!」と「思考停止」状態に陥ることだろう。
多分、AIと人類との関係性も、「現時点」に於いては、「想定不可能」であり、「考えたくもない」事柄なのだと思う。
だが、人間は、どうしても「時代からの束縛」から逃れられない。
我々は、我々の生まれ育ち、現在、生きている「時代」の「価値判断」でしか物事を思考出来得ないし、理解出来得ないのである。
だから、AIと人類の「関係性」も、結局は、「その時代に成って見ないと判断出来ない」ところがほとんどではないだろうか?
勿論、AIの専門家には、大いに研究を深めてもらいたいのだが、我々のような市井の凡俗は、AIによるディストピアを想定しなくても良いように思う。
まあ、「そのうち、何とか成るだろう」ってwww

むしろ、AIによるに「悪夢」よりも、人間同士の愚行による「悪夢」が現実化する可能性の方が遥かに高いと自分は思う。
まずは、我々自身がもっともっとしっかりしないと!

禍福はあざなえる縄の如し、と云う。

つまり、その時、その時に一喜一憂していては、判断を誤る、と云うことである。

 

稲田朋美防衛大臣が辞任された。

まあ、或る面、更迭された、と見るべきかもしれない。

だが、自分としては、今回の「防衛相辞任」を満更、悪いことではない、と感じている。

勿論、それには「改悛する」という「前提」なのだが。

思い起こせば、稲田朋美代議士は、政治家として出発してからずっと「順風満帆」だった。

かの2009年の民主党政権交代選挙に於いても落選しなかった。

後は、閣僚や党三役を務めるなど、ずっと「陽のあたるところ」を歩いて来た訳である。

つまり、挫折を知らなかった。

この挫折を知らない、というのは、良い様であって、実はそうではない。

どうしても、順当なコースばかりを歩いて来た人間は、したたかさに欠けるのである。

つまり、それが「弱さ」や「不足」に見えてしまうのである。

それは、彼女に限らない。

かの安倍総理自身が、かつてそうであった。

何しろ、第一次内閣の最後、彼は唐突に辞任した。

これがかつての三木武夫だったら粘れるだけ粘ったと思う。

多分、福田・麻生内閣は存在せずに、衆議院議員の任期いっぱいまで粘っていたと思う。

だが、いったん地獄の底へ突き落されて、彼は変わったのである。

以前に比べれば、2012年に自民党総裁として返り咲いた後は、その粘り腰と慎重さはさながら別人のようである。

やはり、人間は、いっぺんは地獄の底を這いずり回るような苦労をしないと大成出来得ないのだと思う。

だから、「防衛相」だった今、地獄に突き落とされて、かえって稲田朋美代議士は良かったと思う。

どうせ、くぐらなければいけない試練ならば、総理に成ってからではなく、総理に成る以前の「現時点」で苦労した方がよっぽど良い。

元来、稲田朋美代議士は怜悧な人である。

だが、政治家としての「順境」続きが、「慢心」と「油断」と「尊大さ」を生じさせてしまった訳である。

だから、ここで心を入れ替え、意識を立て直し、立ち居振る舞いを改めれば、きっと大成出来得ると思う。

それにしても、高畑淳子のバカボンじゃないが、まさに「順境、恐るべし」である。

あまりに、順当に進み過ぎると人間はどうしても勘違いをしてしまうということである。

 

あと、今回の一件で「良かったこと」は、いわゆる「保守派」の連中がいかに「人でなし」の「薄情」な奴等であるかが解ったことである。

かの、南京百人斬り偽新聞記事の訴訟からはじまって、稲田朋美代議士は「保守派」の「アイドル」であった。

「期待の星」であり、安倍総理の「後継者」として嘱望されていた。

ところが、防衛相に就任してから、さまざまなボロが出て来てから、その批判や中傷のえげつないこと。

履物や衣装がどうの、というところからはじまり、ついには「女性は防衛相には不向きだ。」などと「男女差別」発言までも云ってのける。

ならば問い質したい。

もし、「防衛大臣は女性では無理だ。」と云う意見ならば、稲田朋美防衛相が誕生した直後から表明すべきではなかったのか?

もし、そこまで「防衛大臣は男性であるべきだ。」と主張するのであれば、「自分は稲田防衛相誕生の時に、この点をきちんと指摘しなかった。遅きに失してしまって申し訳ない。」と、まず自らの不明を詫びるべきであろう。

それを、当初は「安倍総理が選任したから」と云って不問に付して、今更になって「それ見たことか」と得意満面でこき下ろすのははっきり云って卑怯である。

よく、マスコミは「上げておいて落とす」という。

つまり、持ち上げるだけ持ち上げて於いて、最終的には突き落す訳である。

だが、稲田朋美代議士に関する、いわゆる「保守派」の「評価」は、まさしくそれと同一ではないか。

確かに、防衛大臣としての稲田朋美代議士は無様であった。

だが、それを得意気に指摘して回ったところで、いわゆる「保守派」の政治的利点にどうやってつながるのだろうか?

それは単なる自己満足だろう。

はっきり云って、左翼は、異論や反対意見を表明する人間に対しては容赦が無い。

「反党分子」とか「日和見主義者」などと烙印して「粛清」する。

だが、左翼は、こと「愚昧」であるという点に関しては、寛容である。

というより、「愚昧」であっても、「仲間」であるとみなしたならば、左翼は徹底的に擁護する。

現に、故・筑紫哲也や鳥越俊太郎がそうである。

鳥越俊太郎なんか、昨夏の都知事選の醜態なんか「無かったこと」のように成っているではないか。

つまり、「仲間を守る」という点では、明らかに、「保守派」は「左翼」以下なのである。

もう、「左翼」とは比較に成らないくらい、薄情でえげつないのである。

よく、「何で保守派の有力な政治家が育たないのだろうか?」と嘆く人がいる。

当然である。

だって、「育てよう」という「意識」そのものが、いわゆる「保守派」には薄弱だからである。

要は、「熱しやすく冷めやすい」ので、持ち上げる時は「救国の英雄!」なんぞと面映ゆいばかりの美辞麗句で礼賛し、やり玉に挙げる時は打って変わって「恥知らず!」などと聞くに堪えない罵詈雑言を投げ付ける。

全く、「恥知らず」とはいったい、どっちなんだ?

 

今回、稲田朋美代議士は二つの点を学習されたと思う。

というか、思いたい。

まず、1点は、自らの「甘さ」「弱さ」「愚かさ」を猛省し、政治家として出直してもらうこと。

そして、もう1点は、いわゆる「保守派」のみを政治的支持基盤とすることが、いかに愚かしいことか認識してもらうこと。

稲田朋美代議士は、もっと「広範な」国民から支持されることを強く「意識」してもらわないと駄目だ。

 

とにかく、安倍総理は、「ポスト安倍」として、意識的に稲田朋美代議士のキャリアを「育成」して来た。

だから、いわゆる「保守派」の政治家の中で、多分一番キャリアを蓄積しているのは稲田朋美代議士と云うことに成って来ると思う。

その稲田朋美代議士を、いわゆる「保守派」は、今回の防衛大臣の在任時の「あれこれ」を理由に弊履のように打ち捨てようというのであろうか?

ならば問いたい。

では「ポスト安倍総理」には、誰を推挙したいのか?

田母神さんや西村真悟先生、中山恭子先生などと「希望論」ばかりを語ってもらっては困る。

あくまで現実的に、誰をいわゆる「保守派」の総理として推挙するのか?

石破茂?

谷垣禎一?

二階俊博?

岸田文雄?

小泉進次郎?

野田聖子?

麻生太郎?

あんたら、本当は、いわゆる「保守派」ですら、ないのではないのか?

「雑用」は、あらゆる「仕事」への「導入」である。
「雑用」を厭う人に、「仕事」なんぞ回って来る筈が有り得ない。

ネットの日刊SPA!に於いて「実家暮らしで働かず、やる気も欲もない若者たちの日常生活に密着」という記事を見た。
https://nikkan-spa.jp/1366309
これが現在の若者たちの「大多数」では、勿論、ないのであろう。
だが、既に、「貧困であることに慣らされ、貧困から脱却することに対して無力感をおぼえている若者たち」が一定数、存在しているという「現実」である。
一つ確実に云えることは、将来に絶望している若者が存在する社会や国家の行く末が明るい筈は有り得ないということである。
いわゆる「自己責任論」で、彼等を切り捨てることは容易である。
だが、将来に絶望した若者を「人間のクズ」と見なして切り捨てたところで、何の解決にならない。...
むしろ、その切り捨てて、取るに足らない、存在しない「存在」として看過された後、彼等は間違い無く、「社会不安」の温床と化す。
いわゆる欧米でのイスラム過激派テロの活動家は、単にイスラム圏からの移民の子弟のみであると括れない。
むしろ、社会的に疎外されている若者の多くの割合が、イスラム圏からの移民の子弟であったからである。
飢餓と寒さと社会からの侮蔑を受けた若者たちが、報復のために牙を剥く事象は歴史を紐解けば、嫌というほど散見する。
貧困層の若者たちが、反社会勢力や革命勢力の「人員供給源」と成るのは明瞭である。
社会不安を防止しようと願うならば、まず、若者たちから貧困と疎外感を払拭させることである。
いくら核武装をし、空母を何隻も保有出来得たところで、これでは、国家の内部から溶解していくことと成ろう。
何度も云う。
今、「保守政治家」が一番取り組むべき問題は「貧困問題」である!と。

蓮舫大先生が、民進党代表をお辞めに成るという。
また、ついに稲田防衛大臣もお辞めに成るという。
ご両人とも、文字通りの「満身創痍」。
政治的キャリアに「汚点」を残してしまう誠に不本意な結果と成ってしまった。
お二人に共通することは、表面は強気に見せておきながら、その実、守りの姿勢しか出来なかったこと。...
だから、嘘と誤魔化しで押し通そうとする醜態を晒す破目に陥った。
結局、そのお蔭で、野党第一党の精彩は見る影も無く消え失せ、野党陣営は今や野党第二党の日本共産党が主導権を握っている始末。
また、自衛隊や防衛省に対する国民の「信頼感」を失う結果と成った。
両者とも、その「罪万死に値する」。
やはり、人間はその出処進退が肝心なのだと痛感した。
御二方とも、あまりにお辞めに成るのが「遅きに失した」。
無論、お二人にとって「針のむしろに座らされた思い」であったとは思う。
誠にお気の毒とは拝察するのであるが、政治に於いては結果責任である。
それはさておき、この荒涼たる「焼野原」をいったい誰が、どうしたら良いのだろうか?
適役の後任者の名前が、双方共に思い浮かばない。
蓮舫、稲田の両氏がポストに座り続けることは不幸であったが、そのポストへ次に誰が座るべきなのか結論が出ないということも不幸である。
ただ、議会制民主主義の国家に於いては、その国民の選択の結果が全てである。
こういう時こそ、国民は政治に対して冷笑的に成ってはいけない。
国民は、政治家を指弾するだけではなく、自分たち自身も猛省し、試行錯誤をする意識を持たなくては駄目だ。

労組・連合が、先日、政府などへ合意を申し出た、いわゆる「一部業種の残業ゼロ化」に対して撤回することを決めた。
まあ、自分としては、労組としては、当然の結論なのだろうと感じた。
ただ、奇しくも、その同じ日に、大手企業を中心とした「テレワーク」実施のニュースが流れた。
この「テレワーク」とは、パソコンなどを使い、職場ではなく、自宅で業務を行うことである。
いわゆる「在宅勤務」と云うことに成る。...
これは、まさに絶妙な取り合わせだと自分は感じた。
つまり、通信技術の格段の進歩により、近い将来に於いては、特にホワイトカラー(事務・営業職など)では、必ずしも「職場」に集まる必要性が低く成る、ということである。
そうなれば、「出勤」という語句そのものが無くなるかもしれないのだ。
それは、「家庭」に於いて「勤務」することである。
そのように勤務方法が変化した場合、給与を巡る諸制度も否応無く変わらざるを得ないだろう。
まず、法定交通費である。
それこそ、平日週5日間、職場へ通勤する必要性が無くなる訳だから、「定期代」での交通費の支給は無くなる。
つまり、出社した日数分の交通費の清算、ということになる。
また、大手企業に於いては、昼食代の「補助」が出たりする。
それは、かつての社員食堂の制度の名残でもあるのだが、それもその存在意義そのものが無くなるのでカットされるだろう。
そして、「在宅勤務」「テレワーク」に於いて、「法定勤務時間」や「残業の発生」をどのように認定するのであろうか?
一つの目安として、パソコンの起動時と終了時の電源オン・オフの時間を記録して、それを「勤務時間」とするというものである。
だが、パソコンやネットに於いて、完璧に「業務」と「プライベート」を峻別することが可能であろうか?
つまり、現在、「職場」に「出勤」している状態であるならば、「職場」のパソコンで、天気予報や地図や電車などの時刻表を確認することは、「業務」であれ、「プライベート」目的であれ、問題にされない。
それこそ、自分が新入社員だった20年以上も前は、インターネットの黎明期であったから、「ネットサーフィンは会社でやるもんだ。」wwwというオッサンがたくさん存在していた。
それこそ、巨大掲示板「2ちゃんねる」やアダルトサイトを仕事そっちのけで訪問していたオッサンがたくさん居たのである。
だが、そのうち「職場」のパソコンから特定サイトがアクセス禁止出来る設定がなされるようになって、そういう不心得のオッサンはいなくなったのだが。
しかしながら、今後、「在宅」でもって、パソコンやネットを使った「業務」に於いて、「勤務時間」を明確に労務管理することは不可能に成ると思う。
例えば、ネットを使って「勤務中」に、突然、宅配業者が来た場合、その応対の時間は「勤務時間」なのか、「休憩時間」に成るのか?
また、同居する子供や老人の面倒を突発的に見なければいけない場合、それは「休暇」申請すべきなのか、「勤務時間」にしてしまって良いのか?
どちらにせよ、もし、厳格に「在宅勤務」の「労働時間」を算出し、それをもとに「時間給」を算出しようとするならば、ネット上に於いて、「在宅勤務」状況を管理・把握出来ないといけなくなるだろう。
だが、それは、見方を変えれば、企業が各社員の家庭を「監視」することでもあると云えよう。
これはさしずめ、ジョージ・オーエルの「1984年」の「テレスクリーン」の現実化であろう。
つまり、各企業の人事部がさしづめ「ビックブラザー」と云うことに成るのであろうか?www
それはさておき、これは「勤務評定」と個々人のプライベートの相克と云うことに成ると思う。
つまり、あくまで「労働時間」を正確に算出するためには、会社側にプライベートな面も全部把握してもらっても構わない、ということになる。
だが、現実は、そう云う方向には進まないだろう。
結局、「残業」は無くなることになる。
となれば、何をもってして「給与金額」を算出することになるのか?
それは、その社員が関与した「業務」によって得られた「収益」から算出するしかなくなるだろう。
となれば、今迄のように漫然と「職場」に出社して、ボーっとしていても毎月必ず決まった金額の「給与」が支払われるということはなくなるだろう。
だが、それは、現在の「労働者」の「賃金」の感覚からすると、著しく「フリーランス」に近い。
それは、今後、あらゆる「職場」に於いて、短期間のスパンに於いて収益性を重要視する傾向を意味する。
何故なら、収益が上がらなければ、給与を算出する「根拠」が薄弱化するからである。
多分、収益が上がらなくとも、労使交渉で、最低限の月給金額は保証されることになるのだろうが、将来は、従来とは比較にならないほど、「収益性」を意識した勤務体系に変貌していくことが考えられる。
ただ、そうなると、長期的スパンでもって「業務」に取り組む、そういう姿勢を持った「職場」が存在しなくなってしまう危険性が有る。
とにかく、「その商品は売れるのか?」
「そのプロジェクトで、確実に儲かるのか?」
ということばかりを会議で議論される状況と成るだろう。


今回の労組・連合の「ニュース」は、労働運動における理念と実践の相克を感じさせる。
確かに、従来の労働運動の「軌跡」からして、その理念ならば「残業ゼロ」の可能性がどんなに軽微なものになろうとも、存在する限りは断固反対するのが当然であろう。
だが、時代は否応無く急激に変遷しつつある。
理念ばかりを振り回したところで、最終的には現状追認することに追い込まれれば、それは「労働運動」の敗北を意味する。
一方、実践を第一として突出したものの、結局、今回の問題は、労組・連合としての意思決定の「プロセス」の問題に矮小化されてしまった。
確かに、「民主主義」とは、畢竟、「プロセス」(方法手順)なのであるのだが。
「民主主義」とは「みんなで考え、みんなで決めて、みんなで守る」ことにある。
だから、「合意」と「決定」と「実行の厳守」は絶対不可欠なのである。
ところが、往々にして「実行しないことを決めた!」ということをやってしまうのである。
今回の労組・連合の「合意撤回」は、まさに「実行しないことを決めた!」と表明しているのに過ぎない。
だが、それで果たして、日本最大のナショナルセンターとしての連合の果たすべき役割を果たしていると云い切れるのだろうか?
最早、既に、労働の「現場」は、劇的に動いているのである。
これ以上、「後退戦に次ぐ後退戦」を続けていて良いのだろうか?
残念ながら、しがない派遣労務者に過ぎない自分には、何となく「違和感」を憶える、ということぐらいしか云えない。
明確な指針を示せないのは誠に申し訳無いのだが、浅学菲才で無芸大食な自分には、ここまでが現時点では限界である。
もっともっと頭が賢い方々に頑張ってもらいたいと願うのみである。

仙台市長選挙で民進党・共産党などが担いだ候補が当選した。
この候補は、元代議士だった訳だから、「知名度」が有った。
一方の自民党系の候補は新人。
この差がまず、有ったと思う。
ただ、やはり、選挙を仕切る事務方としての自民党県連が劣化しているという構造的な欠陥が深刻な問題として指摘出来ると思う。...
自民党の各都道府県連が、機能不全に陥っている。
その証拠に、昨年7月の参院選で、定数1の各県で自民党はだいぶ負けている。
特に東北地方は秋田以外は負けている。
さらにその後の新潟県知事選、静岡県知事選、千葉市長選、奈良市長選などといった各首長選挙でも負けている。
そして、都議選での過去最悪の大惨敗。
それにもっと云えば、大阪府もそうである。
自民党大阪府連が駄目過ぎるから、大阪維新の会に勝てないのである。
現在、自民党が政権を維持出来ているのは、衆議院各小選挙区に於いて、衆院議員の事務所や後援会がしっかりと機能しているからである。
ところが、その衆院小選挙区より広範囲な単位に成ると、途端に駄目に成る。
それは、選対を統括すべき県連が機能していないからである。
自民党本部から、相当な喝を入れない限り、全国的に駄目な感じに成って行くだろう。
大変、由々しきことである。

いわゆる「共謀罪」で国民が激怒せずに、いわゆる「森友」「加計」で国民が激怒したのか?
やはり、国民の暮らしが経済的に辛いのである。
生活が苦しいのである。
だから、安倍総理の「お友達」ばかりに便宜がはかられているような感じを受けると、腹が立った訳である。
こんな状態で、憲法改正なんか無理だ。...
だって、国民は、今や、安倍政権からのいかなるメッセージをも聞く耳を持たなくなってしまったからである。
ならばどうしたら良いのか?
「衣食足りて礼節を知る」である。
まず、国民に腹いっぱい食わせることである。
そのためには、大幅な減税政策を電撃的に行うこと。
小出しでは絶対駄目。
「戦力の逐次投入」は、かのガダルカナル戦の大失敗でその駄目さがよく解るだろう。
景気は心理である。
国民を驚愕させるぐらいの減税政策を打たなければ絶対に駄目。

マスコミとは、「商売」である。

だから、収益が上がることを第一の目標にしている。

「いや、マスコミは“商売”ではない!」と反駁される方には、往年の呉智英の文章をよく読んでみることである。

呉智英は書いている。(以下、あくまで自分のうろ憶えの内容。なので引用にあらず。)

「マスコミが商売である証拠として、新聞、TV,ラジオ、みんな広告をとっている。

しかし、広告を載せないマスコミが理想であるという。

ならば、現に広告を一切載せないマスコミが、本当にマスコミの理想なのか?

日共の赤旗だって、創価学会の聖教新聞だって広告を載せている。

だが、中核派の機関紙『前進』や革マルの機関紙『解放』には、ほとんど広告が無い。

ならば、広告を載せないマスコミが理想であるというなら、過激派の機関紙こそがそうであるという結論に成ってしまう。

それはやっぱり、おかしいだろう」と。

つまり、マスコミは商売であるから、まだ、世間一般大衆と接点を持ち得ている、とも云えよう。

だが、商売ということは、「とにかく売れれば良い」ということである。

それは、事実よりも読者・視聴者が待ち望んでいる「ことがら」を報じることを優先する、ということである。

さらにもっと進めば、読者・視聴者の価値判断を誘導することを主眼に置く、ということである。

ここまで来ると、「報道」というよりも「宣伝工作」(プロパガンダ)と云った方が正確だろう。

俗に「社会の木鐸」という。

何故、こんなことに成るのか?

それは、「啓蒙主義」だからである。

啓蒙主義とは、知的エリートが「無知蒙昧」な馬鹿な「民衆」の「蒙」を「啓く(ひらく)」ことから啓蒙なのである。

つまり、大衆に依拠し、大衆を教導するということなのだが、ならば、自分たちはその「大衆」なのかというと、それは違うのである。

そこには、大衆への慈善の感情と侮蔑の感情がない交ぜに成っているのである。

それは、大衆への抜きがたい「差別意識」が強固に存在している。

そして、この「差別意識」は、左翼党派の「前衛理論」「革命に於ける前衛党」という概念に結晶化する。

今のマスコミは、大衆へ自分たちの「商品」を買わせようと売りつけているのであるが、その実、大衆なんぞいかようにも振り回すことが可能だと思い上がっている。

 

マスコミとアカデミズムの最大の欠陥は「製造者責任」が問われないことである。

作ったら作りっ放し。

もし、その「商品」によって、「消費者」が「被害」をこうむる、もしくは、精神的、肉体的な苦痛を訴えたところで、一切知らん顔なのである。

 

いにしえより「地獄への道は、善意と云う名の石によって敷き詰められている」という。

マスコミが誘うのは地獄なのか?

はたまた楽園なのか?

ただ、その楽園は「愚者の楽園」であろうことは容易に想像がつくのである。

日本のアカデミズムが、何故、いつまでも「左翼全盛」のままなのか?
それは、教授会の独立性が強過ぎるため。
つまり、左翼の教授が、自分の「後継者」たる若手の研究者を大学で雇用させるにあたって、全部「左翼」を推薦するからである。
かつて、東大教授だった上野千鶴子は、国際基督教大学(ICU)の準教授だったカン・サンジュンを東大へ引っ張って来た。
そして、東大教授と成ったカン・サンジュンは、その「東大ブランド」の威光を背景に、マスコミの寵児と成る。...
一方、東大教授だった西部邁も同じように保守系の後継者を東大につくろうとしたのだが、つぶされた。
そこで激怒した西部邁は東大教授を辞めて、秀明大学教授に成ったり、評論家ならぬ批評家に成る。
今後、高等教育の場が、現行の「大学」の形態である必要性は、無い。
ネット上に設定しても良い訳だ。
そこで、絶対に「障壁」に成るであろうことが予想されるのは、文部科学省である。
許認可権を振り回して、省益エゴ丸出しの醜態を晒すことだろう。
考えて見れば、今の「森友」「加計」のスキャンダル(とされる騒動)は、文科省絡みである。
ただ「上に政策有れば、下に対策有り」で、意欲的な国民ひとりひとりがどんどん開拓していけば良い。
役所なんぞ、結局「現状追認」しか出来ないのだから。

上手くいかない時(逆境)には、「人間としての修行をさせてもらっている」と思え。
上手くいっている時(順境)には、
「人間として、試されている(試験されている)」と思え。


なお、自分はずっとずっと修行ばっかりで、いつになったら試験を受けられるのだろうか?
このままだと、受験すること無く、死んでしまいそうだwww

何度も云う。この期に及んで、何故、消費税を減税しないのか?
「消費税増税にしないと財政が破綻する」と云う。
ならば反駁したい。
消費税を増税して、本当に税収が増額されると信じているのか?
国民の消費意欲は冷え込み、企業は設備投資と賃上げや賞与の増額を断念し、景気は一気に萎む。...
当然、消費税も法人税も所得税も住民税も自動車所得税も、全部全部激減する。
さらに云わせてもらえば、もし仮に、財政破綻したところで、「それが何か?」。
「国際的な信用が云々」などと云うのであるなら、このように表明すれば良い。
「財政破綻を回避するために、ODAや円借款など全部引き揚げさせてもらいます。勿論、国連の各機関への”お支払い”も打ち切ります。
だって、無い袖は振れませんから。」
と云ってのければ良い。
文字通り、世界経済に於いて、我が国・日本の経済は「大き過ぎてつぶせない」筈だからだ。
だから、日本の国家財政がどうのこうの云うのは、どうでも良い。
それよりも、国民の家計である。
国民の生活が破綻し、国民が生きる意欲を失ってしまったならば、早晩、経済も国家も破滅する。
国民有っての国家であることを忘れてはいけない。

あのギリシャを巡って、国際経済が右往左往したのである。
日本がケツまくって「つぶせるならつぶしてみやがれ!」って開き直ったら、世界は黙ります。

よく、財務省の悪口を見聞する。

だが、そもそも、財務省は「税金を取り立てる」ための「役所」なのである。

だから、課税しないことを財務省自身が容認してしまったならば、レゾンデートル(存在意義)が失われてしまうのだ。

そこで、財務官僚は必死こいて増税することを実現させようとしているのである。

問題は、現在の財務省の「増税」政策が、結果として国家税収を増額達成出来るのかどうか、甚だ疑わしいところに有る。

つまり、消費税率を上げれば、税収が本当に増えるのかどうか?ということである。

多分、好景気は破裂して、暗転し、消費は冷え込み、各企業の収益は吹っ飛ぶ。

消費税収は勿論のこと、所得税、法人税、住民税、何から何まで税収は激減する。

そこで、大慌ててで「補助金」を投入することに成る。

だが、自分で火を放っておいて、「火の海」にまで燃え広がってしまったら慌てて消火活動に急行する、というのは俗に「マッチ・ポンプ」と云う。

もしくは「自作自演」という奴だろうか?

結局、「増税して補助金をばらまく」というのは、単に財務省の「仕事」を増やし、財務省の「権限」を強めるだけなのである。

まさに「省益」の追及、そのものであろう。

 

また、極東情勢が緊迫化しているにもかかわらず、隙有らば防衛費を抑制し、あわよくば削減まで持ち込みたいと財務省は目論む。

だが、他の官庁からの予算要求を削りに削りまくるのが、そもそも財務省の「仕事」であり、財務省そのもののレゾンデートル(存在意義)なのである。

だから、財務省が職務に怠慢である訳でも、勘違いをしている訳でもないのである。

 

ならば、何故、そんな愚かしい事態に到ってしまうのであろうか?

それは、結局、政治家の問題である。

政治家と官僚の「関係」が拙劣だから、やること為すこと、裏目に出るのである。

例えば、じゃあ「財務官僚はクソだ!」と唾棄したところで、財務官僚を凌駕出来るような「仕事」を政治家は出来るのか?

不可能である。

もし、政治家が財務官僚と「張り合おう」とするならば、財務官僚と同等の規模と能力を有した「官僚機構」を政党内に保有しなければいけなくなる。

だが、それは「二重行政」であり、「壮大な無駄」を意味する。

 

また、財務官僚を牽制するために、敢えて経済産業省の官僚をけしかけたりする。

これもまた、愚かしいことである。

そもそも、財務省と経産省は、「持ち場」が違うのである。

その担当領域が異なる官庁同士を競わせてしまえば、否応無く、無益な軋轢しか生まないだろう。

「財務省には負けられるか!」

「経産省には好きにさせない!」

と、意地の張り合いと成り、国家行政のトータルバランスが軋む結果と成ろう。

 

また、よくあるパターンなのであるが、

政治家で「政策通」を自任する御仁が居る。

大抵が東大やら京大、早稲田・慶応といったきらびやかな学歴を持ち、頭脳優秀にして、意欲に富んだ御仁が多い。

ところが、それゆえに「政策論争」に於いて、「官僚」たちと「競争」したがるのである。

「俺の方が、お前らよりもよっぽど知っているのだ、解っているのだ!」とやってしまう訳である。

だが、それをやってしまうと、官僚は嫌がるのである。

何故なら、それは官僚のレゾンデートル(存在意義)そのものを否定することに成るからである。

だから、もし仮に高圧的に出ているものの、実は政策については丸きり「無知」であることが解れば、官僚はすっかり侮蔑する。

ろくに資料も出して来なくなる。

木で鼻をくくったようなぞんざいな扱いと成る。

で、逆に、官僚よりも遥かに「能力」が高いと解ると、すっかり萎縮して、ついには拗ねてしまう。

「そんなにご存知ならば、もう、先生の方で勝手におやりください。」と。

これでは、どちらにしても政治的成果はあがらない。

やはり、官僚はツール(道具)なのである。

しかも、恐ろしくプライドが高い、高慢ちき(笑)なツール(道具)なのである。

だから、如何に、その官僚との「関係」を上手に構築するのか、ということを政治家は第一に心掛けるべきであろう。

 

政治家は、官僚に対して「頭脳」で勝負しようと思わないことである。

政治家が官僚と勝負するべきなのは、頭ではなく、むしろ肚である。

つまり、政治家が官僚に対して勝負すべきなのは「覚悟」と「心意気」である。

だから、政治家は官僚に対して、

「おい、もし、それでどうしようもなくなったら、お前は腹を切れるのか?

どうなんだ!

もし、自分なら潔く、腹を切る。

腹を切る覚悟が有るのか、無いのか、どっちなんだ!」

こう迫った場合、大抵の官僚は白旗を上げるだろう。

 

結局、現在の日本の国家運営がおかしくなっているのは、政治家の「覚悟」と「心意気」が成っていないからである。

では、「覚悟」と「心意気」を修得するにはどうしたら良いのか?

自分は、「畏れ(おそれ)」と「祈り」だと思う。

まず、「畏れ」と「祈り」が有ってこそ、人間は明確な「使命感」を覚醒することが可能である。

やはり、最終的には、人間の心の「軸」が、どれだけ確固としたものなのか、ということが問われて来るのだと、自分は考える。

よく、有り余る「能力」や「才気」の持ち主が、不遇であることがある。
そこで、文字通り「不遇をかこつ」ことに成るのであるが、不遇には不遇の根拠が有る。
人間として「徳」が無いのだ。
やはり、人間は、最後の最後は「徳」の有る無しで評価が決まる。
幾ら才気煥発にして怜悧この上無くとも、「徳」が無い人間は、やはり世間から疎んじられる。...
また、疎んじられて当然だと思う。
もし、自分が「不遇」であると感じているのならば、決して愚痴不足不平不満を口にすべきではない。
むしろ、自らの不徳を深く恥じ入るべきであろう。
だから、只今、自分は己の不徳を深く恥じている。
少しでも徳を積み、精進に励まなければ、ただでさえ浅学菲才で無芸大食な自分は、ついには何処にも居場所が無くなってしまうだろう。


人間として本当に幸せに生きていけると思うのは、天才でも秀才でもないと自分は思う。
天才は、常人には見えないものが見え、聞こえないものが聞こえ、解らないものが解ってしまうからである。
だから、天才は「生き辛い」のだ。
秀才は、絶えず自他の能力差を比較することに汲々としがちであり、日々、優越感と劣等感が入れ替わり、泰然自若となることが難しい。
むしろ、周囲から愛される馬鹿の方が、最終的には幸せな一生を送れるように思う。
まさに宮澤賢治の記すとおり、「でくのぼう」が「ほんとうの幸い」を得られるように思う。


ただ、底抜けの「馬鹿丸出し」でもいけないのである。
「行徳のまな板」という語句が有るが、東京近郊である、千葉県の行徳では「ばか貝」が採れることから駄洒落が生まれた。
つまり「ばか(貝)」が当たって、まな板が擦れてしまった。
それで、馬鹿なのに世間擦れして、擦れっからしに成ってしまったのを「行徳のまな板」と云うのである。
馬鹿のくせに、擦れてしまったら本当に救いようがなかろう。

まさに、今の自分は「行徳のまな板」である。
本当に、性根を入れ替えないといけないと痛感する。
もう、手遅れなのかもしれないのだがwww

現在、間違い無く「国家権力内部での暗闘」が始まっている。

所謂、「森友学園問題」、「加計学園問題」、さらに「PKO自衛隊日報問題」、全て、官僚側からの内部情報流出が無ければ、世間に出て来ることは有り得ないだろう。

つまり、「国家権力」の内部から、安倍内閣を打倒しようという蠢動が始まったと云える。

何故、そんな愚かしい「同士討ち」をおっ始めたのだろうか?

それは、野党が全然駄目だからである。

特に、野党第一党の民進党があまりに愚昧過ぎて、失笑も出ないくらいだからである。

だから、どんなに「内輪揉め」をエスカレートさせても、民進党へ政権交代なんか絶対に有り得ないからである。

それで、安心して安倍総理を揺さぶり、倒閣しようとしているのだ。

 

ならば、この状況を打開するには、敢えて「逆張り」をしてみれば良い。

一番簡単なのは、蓮舫・野田佳彦の民進党現執行部を総退陣させる。

小池百合子東京都知事の地域政党「都民ファーストの会」へ、政策連携を持ちかける。

勿論、都民ファースト側の「言い値」を丸呑みする。

そして、「三顧の礼」を以て、橋下徹を招聘し、現在は非議員であるのだが、敢えて、民進党代表に就任してもらう。

これで、一気に「政治」に対する国民の「気持ち」が一変する。

国民の中から「もう一回、政権交代をやらせてみようか?」という「空気」が生まれる。

最悪、この劇薬が効き過ぎて、安倍政権崩壊、政権交代という状況に到るかもしれない。

だが、そうなる前に、国家権力内部の「獅子身中の虫」が誰なのかがあぶり出されてくるだろう。

そこで、適切に「処置」出来れば、ズルズルと内閣支持率と政党支持率が下落していくことは阻止出来るだろう。

 

問題は、「もう、安倍さんは充分だから、そろそろ他の人に代わってもらおう。」と安直に考える奴が出て来ることである。

しかも、いわゆる「保守派」の中から続出することである。

一番有りがちなのは、「同じ保守の麻生さんに再登板してもらおう。」という意見である。

政治家「麻生太郎」がいわゆる「保守派」なのかどうか、というのは、実は議論が分かれる。

自分は、「麻生太郎」が総理に成ることは断固反対である。

その理由は、政治家としての彼自身、というより、前財務大臣が総理に昇格する、ということが駄目なのである。

 

いわゆる「保守派」は、左翼リベラルよりも遥かに「善良」で「おめでたい」人ばかりなので、本当に危ういと思っている。

自分は現在、しがない派遣労務者である。

派遣労務者に成りたい、と望んで成った訳では無い。

ただ、転職活動で、懸命に「正社員」を希望して頑張っていたのだが、結局、何処も採用されなかったのだ。

或る人は、「正社員に成れないのは、人間的に欠陥が有るからだ。」と言い放った。

内心、「この人は何てデリカシーの無い人なんだろう。」と思ったのを今でも決して忘れていない。

まあ、その人の指摘も満更間違いとは云えないのだろうが。

 

さて、アベノミクスのお蔭で、現在の日本の労働市場は「人手不足」だという。

確かに、或る職種などでは、人手不足が深刻な問題と成っている。

ただ、もっと問題なのは、勤労所得が低過ぎることにある。

根本的な問題として、現在、求人件数の相当な割合が「非正規雇用」であることだ。

また、例え「正規雇用」であっても、それは退職者が続出する、定着率の低い職場である。

いわゆる「ブラック企業」と呼ばれるところである。

こういう「ブラック企業」は、

長時間労働を強要しつつも「残業」として計上しなかったり、

交通費などの諸経費を落とさないで全部社員の自腹を切らせたり、

到底達成不可能なノルマを課したりしている。

そう考えてみれば、「ブラック企業」は、例え「正規雇用」だとしても、その労働に見合った充分な勤労所得が支払われていない、ということが云えよう。

いわゆる「非正規雇用」は、勤労所得が低い。

勿論、その低額な賃金に「相当する」ような「業務内容」である、と指摘も出来る。

しかし、例え、「比較的楽な仕事」であったとしても、現在のような勤労所得金額であるならば、いわゆる「非正規雇用」の人々は、経済的には極めて脆弱な立場から抜け出すことは出来ない。

かつて、「稼ぎに追い付く貧乏無し」と云われた。

それは、一生懸命に働けば貧窮することは無い、ということである。

だが、一方で石川啄木が絶唱したように

「働けど 働けど なお我が暮らし 楽に成らざり じっと手を見る」

という現実が有る。

いわゆる「バブル景気」が破裂した後、我が国・日本は「失われた20年」という「デフレの暗黒」に包まれた。

その「デフレの暗黒」の時代を生き抜くために、各企業は「固定経費」の中で、一番劇的に削減が見込める「人件費」に手を付けた。

終身雇用・年功序列という年齢が上がるごとに給与金額が加算されるという「制度」を背景に、中高年社員の早期解雇を奨励した。

それは単なる「首切り強要」なのだが、元来は「再構築」と云う意味の英単語「リストラクチャリング」を持ち出してきて、「リストラ」と言い換えた。

亡父の話しだと、長年、ずっと赤字続きの某事業部が、或る年だけ、黒字に転じたことが有ると云う。

その年は、入社同期だった「部長」と「課長」が定年を迎えて、退職したからであった。

つまり、たった2人の管理職が退職しただけで、長年に渡ってどうにもこうにも達成できなかった「黒字化」が、いとも簡単に、あっさりと「達成」出来てしまったのである。

これはもう、「リストラするに限る」と経営者ならば誰しもが思って当然だろう。

それから、「リストラ」を大規模に実施し、新入社員数を抑制することによって、「固定経費」である「人件費」はどんどん削減出来た。

だが、それでも、まだ「経費削減」を行わないと経営的な「数値」が改善出来ない。

ところが、職場に於いては、既に省力化が限界まで達し、これ以上人員を削減してしまったら、業務稼働に支障が生じる段階まで来てしまったのである。

人件費は削減したいのだが、人手は必要である。

この矛盾した二律背反を解決する「裏技」として、「非正規雇用」が多用され始めたのである。

つまり、職場に於いては「人手」では有るのだが、「社員」ではない。

「社員」ではないので、給与を支払う必要が無い。

「派遣社員」は、「外部発注」なので、企業間の商取引でしかない訳である。

ここまで見て来ると、いわゆる「デフレの暗黒」は、労働者からの搾取によって企業が生き延びられて来た時代なのである。

つまり、本来ならば労働者に支払われる筈の「賃金」が、企業経営に吸い取られてしまった訳である。

勿論、企業が倒産するようなことになれば、労働者は失業し、賃金そのものが受け取れなくなる訳だから、やむを得ないことであったとは云えよう。

しかしながら、世界的に見て、あらゆる全ての企業に於いて「倒産」のリスクは存在し、経営者は絶えず「経営不安」を感じ続けている。

例え、どんなに好業績を挙げていても、経費削減と万一に備えて企業内の内部留保金を貯め込むことにブレーキがかけられないのである。

それは、当然、社員の採用と賃金の上昇を抑制する要素として重くのしかかってくる訳である。

もっと云えば、最早、企業は自社内に人員を抱えることのリスクに耐えられなくなってしまったのだ。

自社内に人員を抱えることを忌避することに成ったのである。

つまり、極力、「社員」を少なくする「圧力」が働くような、そういう風潮に成ったのである。

 

ここで敢えて話題を変える。

自分が、いわゆる派遣労務者に成って「変化」したこと。

まず、可処分所得が激減した。

もう、「お金が無い」と思わない日は存在しなくなった。

一方、時間の余裕は出来た。

そして、何よりも、仕事に関して「考える」ことが無くなった。

何故、仕事に関して「考える」ことが消え失せたのか?

それは、職場に対する帰属意識が無くなったからである。

ただ、職場に対する帰属意識が無くなってしまう理由が有った。

それは、派遣労務者は、職場や業務に関して口をはさめない、ということである。

云ってみれば、派遣労務者に「頭脳」は不要なのである。

ただ、指示されたことを正確に、迅速に実行出来れば、後は一切が不要なのである。

だから、指示されたことだけ、限定された枠組みの中だけ、働ければ良いのである。

また、それ以外は許されていないのである。

そこで自分は、

「これ以上は、自分は口をはさめません」

「ここから先は、自分には出来ません」

という言葉をおぼえることに成った。

まあ、云われた方は「無責任」なように感じるかもしれないのだが、

しかし、派遣労務者というのは、所詮そういう「役割」なのである。

それは、先記したように、「職場に於いては『人手』では有るのだが、『社員』ではない」ためである。

当初、この境遇について、自分としては虚しさややりきれなさを感じていた。

だが、そのうち、その「無責任」さが、何とも気楽に思えて来たのである。

思えば、派遣労務者に成って一番良かったことは、会議や研修に出席しなくて良くなったのと、報告書や業務改善提案書、会議資料を作成し、提出しなくて良くなったことである。

そして、金銭の取り扱いをしなくて済むようになったことである。

そうなったら、必然的に、「派遣先」の「企業」に対して、思い入れだとか帰属意識は全く無くなる。

いろいろ気が付いたり、忠告したいことが有っても、口に出す気持ちが無くなる。

だって、「あっしには関わり合いのねえことでござんす」なのだから。

 

かつて司馬遼太郎の随筆で、江戸時代末期・幕末の頃に、オランダ人医師ケンぺル(だったと思う)来日した時の記録について書かれていた。

彼は、長崎の商人たちと親しくなり、談笑する仲に成った。

その時の会話で、

「最近、ロシアの船やその他の欧米列強の船が日本近海に出没し始めて来た。

ロシア船は開国、自由貿易を要求して来た。

あなたがたは、この状況について、どう思われますか?」

と訪ねた。

すると、長崎の商人は、きょとんとしてしまった。

そして、「それは、お侍がお考えに成ることでございます。」と回答した。

この回答にケンぺルは驚愕する。

と同時に呆れ果て、侮蔑の感情まで生じてしまうのである。

「そんな、もし、ロシア船が長崎に攻め込んで来たら、侍だろうと商人だろうと、関係無く、大変な目に遭うだろうに」と。

ケンぺルは、幕末の日本人に対して失望したのである。

これは「封建主義」だからである。

現行の社会秩序を維持することが大前提であるため、身分や家柄によって、行動は勿論のこと、思考や意識まで制限されることが要求されていた「社会」であったのである。

だが、それを明確なかたちで否定し、破壊したのは吉田松陰の「草莽崛起(そうもうくっき)」の概念である。

現在、明治維新を全否定する「歴史観」が一部で流行しているようであるが、明治維新が無ければ、間違い無く、日清・日露戦争には勝利出来なかった。

西郷南洲隆盛を葦津珍彦は「永遠の維新者」と評した。

もし、西郷隆盛が鹿児島の城山で自決せずに、明治政府を打倒出来たと仮定したならばどうであったのだろうか?

少なくとも、西郷隆盛や鹿児島の「私学校」にシンパシーを抱いていた熊本の神風連の「維新」像でもって、日本国家を建設しようとしたならば、自分は後年の日清・日露戦争に勝ち抜くことは出来得なかったように思う。

とにかく、この「草莽崛起(そうもうくっき)」という、「人間の行動は、その思想に依拠するべきであって、身分や家柄は関係無い」という概念が無ければ、江戸幕府は終了しなかった。

そう云う意味で、「草莽崛起(そうもうくっき)」論とは、「革命理論」そのものである。

ただ、この「草莽崛起(そうもうくっき)」論が存在したからこそ、高杉晋作は「奇兵隊」を生み出すことが出来得た。

もし、「奇兵隊」が存在しなければ、事前の兵力差が圧倒的に有った、幕府の「長州征伐」を撥ねかえすことは不可能だったろう。

つまり、「お侍」同士の対決では、「衆寡敵せず」だった筈なのである。

ところが、「草莽崛起(そうもうくっき)」論という組織化軍事理論が構築出来得ていたため、百姓(単なる農民ではない)から神官・僧侶、相撲取りに到るまで「奇兵隊」に参加した訳である。

そして、長州閥の山縣有朋が明治新政府陸軍の中枢を占めることにより、日本陸軍は徴兵制を敷くことに抵抗感が低くなったのである。

勿論、西南戦争に於いて、徴兵制によって成立した軍隊によって、幕末期に於いて日本最強と云われた薩摩藩士を打倒出来得たことも、「徴兵制度」の実用性を実証することになったのである。

 

話しは、元に戻る。

現在の我が国・日本の労働者の約4割が「非正規雇用者」だという。

さらに、いわゆる「雇用者」と見なされない、「個人請負」というかたちで、「個人事業主」というかたちで、事実上の「業務代行」をしている人々も大勢存在する。

多分、この傾向は止まらないだろう。

いわゆる「正規雇用者」「正社員」は、どんどん減っていく。

さらにその数少ない「正規雇用者」の中には、企業や社会のグローバル化によって、いわゆる「外国人」の「正社員」が増えていくだろう。

「外国籍」という、いわゆる「在日」ではない。

現在、「在日」として話題にのぼるのは、日本の社会に幼少期から成人するまで長年に渡って生活して来た「外国籍」の人々である。

彼らは、「国籍登録」は「外国人」であるが、日々の対人関係に於いては日本人と変わりが無く、コミュニケーションを行うに当たってのギャップが存在しにくい。

ところが、これからの「在日外国籍」の人々や、帰化して日本国籍を取得した人々は、その価値判断や立ち居振る舞いは、日本人のそれと異なる点が存在する。

このような状況の変化に於いて、日本人同士の「空気を読め」「忖度」「察する」ということを前提としていたならば、いずれ多人種間の衝突は不可避と成ろう。

結果として云えることは、日本のあらゆる「職場」に於いて、「帰属意識」が稀薄化することである。

「帰属意識」が稀薄化するということは、「他人事」に感じ、「無責任」と「無関心」が横行することに成る。

日本の社会秩序とは、結局、その「均一性」「同質性」に有った。

「全員が天皇陛下の赤子」であり、「八紘一宇」であるという、古き良き時代の日本社会の「村落共同体」のような共同意識は、完全に破綻しつつある。

だから、「職場」がつぶれようが、「社会」が破綻しようが、「国家」が滅亡しようが、自分達には「無関係」であるという「意識」が大多数に成っていくのだろう。

 

東洋に於ける、善政の理想像は、「鼓腹撃壌(こふくげきじょう)」であった。

つまり、民百姓は政治による社会秩序の恩恵を自覚する事無く、ただ、無心に自分たちの「幸福」を満喫している、という状況である。

これは、若者が「政治」に高い関心を抱く社会の方が不幸である、という指摘と、或る面、通じている。

「政治」というものが、あまりに「自覚」される社会というのは、或る面、危機に瀕していると云えよう。

だが、民百姓が、「政治なんて全く関係無いのさ」と云ってのけられるのは、古代支那の聖王の国家だからこそである。

現在の我が国・日本は、議会制民主主義の国家・社会である。

その国民の「民度」に比例し、その「民度」に相応しい国家・社会となってしまうのである。

「自分達には関係無い」と思い込んでしまう人々が大多数を占めた国家・社会には、必然的にダイナミズム、脈動感は失われていくだろう。

そんな、消極的で受動的な虚無が蔓延する国家・社会とは、まさに「黄昏」と形容するに相応しい。

「日出ずる国」は、今まさに、国家・社会そのものが「日没」を迎えようとしている。

 

自分にはその危うさがよく解る。

だが、最早、自分は何一つ出来そうも無い。

だから、自分が出来ないことを別の人に託すほかない。

特に、若い世代に期待する。

そのために、自分は、せめて、こうやって何の得にもならない拙文を書き残しているのだ。

願わくば、この拙文が、後進にとって参考の足しに成らんことを。

世の中には、自分なんぞよりも遥かに賢い人は大勢居る。
また、自分より博識な人も大勢居る。
しかしながら、もし、自分がそれなりに評価をいただいているのならば、それは、愚直を通し続けて来たからだと思う。
また、利他行を第一に意識して、常日頃の立ち居振る舞いに気を付けていたからだと思う。
たったそれだけのことなのである。...
別に大したことではない。

むしろ、凄かったのは亡父の方だ。
彼は、自分の「鋭さ」を決して振り回さなかった。
周囲に対して、その「鋭さ」を突きつけないようにしていた。
だから、ほとんどの人が亡父の「鋭さ」に気が付かなかった。
これは、大変、凄まじいことである。
亡くなってしまってから、ようやく自分は、気が付きはじめた。
いつも自分は「遅い」のだ。
もっと頭の回転が速く成れると良いのだが思うようにならないのがもどかしい。

日本最大のナショナルセンターである「連合」が揺れている。

いわゆる高度に専門的な業種に限っては残業を無制限容認しようという法制度を、「連合」が「容認」したという。

勿論、民進党は断固反対だし、参加労組の多くも「残業ゼロを認めるな!」と激昂している。

自分としては、この「高度に専門的な業種に限って」云々ということについて、今一つ理解が出来ていないので、その是非を結論付けることが出来ない。

ただ、いわゆる労組や左翼政党による「労働運動」は、完全に後手後手に回っている。

それは、我が国・日本をとりまく環境の激変に、「労働運動」が付いて来られなくなっているためである。

勿論、安直な「現状追認」「現状肯定」は、無能であり、誠実さに欠けると云えよう。

だが、一方で、「出来高払いの歩合給」や「個人請負」といった新たな「働き方」が急増し、従来の「正規雇用者」を主とした「雇用体系」が最早、少数派に成ってしまった現在、昔ながらの労使交渉では、労働者全体に対応出来なくなってしまっている。

特に、「個人請負」というかたちと成ると、「雇用」契約ではなく、受発注契約と成る。

つまり、「個人事業主」に対しての「契約」関係と成る訳である。

勿論、雇用保険やら解雇通知など不要と成る。

何かトラブルが有っても労働基準監督署や労働組合に相談する訳にはいかなくなる。

今度は、公正取引委員会に相談し、いわゆる「下請けいじめ」の問題に成ってくるだろう。

なお、ここで重要なのは、現行法体系に於いて、「個人請負」とみなされた「経済的弱者」が、どのように法制度上で「戦える」のか?ということである。

多分、公取委に相談する、ということがらも、知らない人がほとんどだと思う。

だから、現時点に於いては、何かトラブルが発生しても、「泣き寝入り」しているケースがほとんどだと思う。

なお、公取委が本気で摘発に動くと「怖い」らしいwww

自分が営業部門の時に、発注先下請け業者からの請求書を経理部に提出するのを、うっかりと忘れてしまった時、後日、経理部長からガンガン叱られたことが有る。

「何だお前は!もし、“下請けいじめ”だ、って公取委に訴えられて摘発されたら、どうするつもりだ!」と。

それはさておき、いわゆる雇用関係、労使関係は、急激に変化している。

何故そうなったのかと云えば、IT技術の進歩による。

それこそ、1970年代などの東映ヤクザ映画などでは、朝の駅前にヤクザの「手配師」という人間が居て、工事現場などへ「日雇い人夫」を募って、さばいていた。

で、工事現場や港湾などへはトラックの荷台に載せられwww給与は「日払い」である。

勿論、工事現場監督からは「手配料」として、ヤクザへお金が支払われる。

もしくは、そこの「現場」自体がヤクザの管轄だったりしていた。

ところが、今や、スマホとインターネットでもって、個人と企業は、従来とは比較にならないほど簡単に接触可能と成った。

或る「現場」や「プロジェクト」に、何人、どのような経歴や職能を有しているのか、などを検索や入力するだけで、「日雇い」の短期契約が可能に成ったのである。

そして、この「契約」を、あくまで「個人請負」という「個人事業主」対「企業」という契約関係にしてしまえば、単なる「業務受発注契約」でしかなくなる。

従来のような「労使契約」をスル―してしまえる訳である。

これは、事実上、過去の「労働運動」の成果を消滅させ、無意味にしてしまうことに成ろう。

これを、法制度や人権問題、倫理規定でもって縛り上げることは可能であろうが、やはり相当な多数の「経済的弱者」が「搾取」されることを防ぐことは困難だと思われる。

既に、企業に於いては、総務・人事部でさえ、「ホールディング」という包括企業体の中の構成子会社に成っている。

つまり、「正規雇用者」自体が、かつてのような「一律の雇用賃金体系」ではなくなっているのである。

問題なのは、その人が働いたことに対して、いくら報酬を支払うべきなのか?ということである。

かつて、人事評価でもって「流行」した「成果主義」というものが有った。

だが、この「成果主義」というものも、実際は、人事評価を行う管理職の「好き嫌い」や印象でもって決定される要素が高いことが解った。

売上や業績に対する「貢献」とひとくちで云ってしまえるのだが、そもそも売上や受発注契約そのものが、偶然性や時代の「気分」「流行」に多分に影響される。

また、前任者が「仕込んでいた」ものが、後任者の「業績」とカウントされることも有る。

(例えば、阪神にしろ、楽天にしろ、野村克也が監督時代に若手を一から育成して来たのである。そして、ようやく若手が一人前に育った時には、監督は星野仙一に成っていたwww)

これは、本当に難しいのである。

だから、かつて、あれほど訴求された「成果主義」は、何となく曖昧なかたちで誤魔化されてしまった。

勿論、売上データや上司・部下・同僚・得意先などといった多方面からの「人事評価制度」など、改良は加えられているのであるが、それでもなおかつ、自分の人事評価に関して満足し、納得している人は少ないだろう。

現在、まさに「過渡期」である。

そのため、労使の契約や被雇用者としての身分保障、人事評価による賃金給与額の決定に到るまで、グチャグチャの混沌状態に有る。

ただ、そう云う中で、「人件費」は「固定経費」であるという経理的な「テーゼ」が存在する以上は、「人件費」は絶えず、企業業績の調節弁として削減の対象に見なされる訳である。

自分は、早晩、現在の「正規雇用者」は、その企業体の経営陣の幹部候補生以外は成れなくなると思う。

そして、大多数の人間は、その「仕事」に関してのみ、募集され、呼び集められて「プロジェクトチーム」を結成し、その「プロジェクト」の出した利潤の中から、事前の「契約」条件に従って「分配」される方式に成っていくと思う。

そうなると、どうなるのか?

つまり、日払いや短期契約と成る。

云ってみれば、江戸時代の落語の「登場人物」である、熊さん・八つぁんの「身分」に成る訳である。

人情噺の傑作「芝濱(しばはま)」の主人公、勝は魚屋である。

それも一心太助と同じで、天秤棒を担いで、毎朝、河岸(かし・魚市場)に仕入れに云って、そこで買い付けた魚を街中で売りさばいていた。

だから、その日の朝、「今朝は気分が乗らねえ。」とか何とかぬかしてふて寝してしまうと、「魚屋休業」に成ってしまうのである。

ただ、翌朝、性根を入れ替えて仕事に励もうと決心すれば、また魚屋に成れる。

自由気儘であるし、経済的には不安定である。

こんな「経済的身分」の人が社会の大多数を占めてきたならば、「ローン」というものが組めなくなるだろう。

何しろ、長期的な経済的保障が何も無い訳だから。

クレジットカードのリボ払いだって、審査が難しくなる。

当然、自動車のローンも「不可能」な人が出て来る。

ましてや、住宅ローンなんぞ、もう、ほとんどの人が組めなくなるだろう。

だから、今後は、「住宅」と云えば、「賃貸」しか意味をなさなくなる。

また、車も売れなく成る代わりに、シェアリングで、「使用権」を一日や数時間、拝借するだけに成る。

だから、自分のように「向う傷を恐れないwww」ような下手くそな運転しか出来ない奴は、拝借使用料が高く設定されることだろうwww

 

とにかく、今後、勤労所得でもって一財産作れるような、そんな時代ではなくなる。

みんなみんな、勤労所得は抑制される。

だが、一方で、「購入」から「拝借」、「所有」から「借用」が主と成るので、必ずしも大金を有しなくても良くなる。

先日、中日新聞に於いて、フェミニストの上野千鶴子センセーが「日本はみんなで貧しく成れば良い」と発言して物議をかもした。

だが、自分は、30年以上も前に、ビートたけしが、「もう、これからはみんな貧乏に成るしかないんじゃないのか?」と発言していたことを記憶している。

この「みんな貧乏に成れば良い」と云うのは、或る面、「左翼思想」の「軸」である。

だが、この「みんな貧乏に成れば良い」と云うのは、実は、どうしようもない「虚妄」であるのだが、これに関しては、別途詳述したいので、今回はこれ以上論じない。

で、間違い無く、社会の大多数は勤労所得が抑制され、しかも、長期間の給与保障が無くなるので、経済的に著しく不安定に成る。

さらに、この上に、ロボットやAI(人工知能)の労働市場への参入が有るので、尚更、勤労所得の削減は決定的に成ろう。

そうなると、勤労所得だけでは「破産」する人が続出するだろう。

いわゆる「ベーシックインカム」という、「国民としての最低限の所得を国家政府が保証し、支給する」という社会制度も視野に入って来ることと成る。

だが、現金を労働の対価以外に支給されるというのは、人間の精神衛生上、非常に悪い。

やむにやまれずの「緊急避難」的対処方法だとしても、ただ単に現金を与えられるという「関係」は、どうしても「卑しさ」が生まれてしまう。

だから、いかに、国民の「生命権」を保障しつつも、精神衛生上、毀損が無いような社会制度を構築していくのか。

これは喫緊の課題にして、大変な難問だと思う。

 

一方で、社会全体の「富」や「財」は、大多数が蒸発してしまう訳では無い。

「富」や「財」は存在し続け、また、蓄積されていく。

ただ、偏在していくのである。

一人の人間が、使い切れない程の大金、財産を保有してしまうことに成る。

また、社会全体の「富」や「財」の大部分を、ほんの一握り少数の人々によって所有されることと成ろう。

そう云う人たちは、既得権益と新技術、新業態を発明し生み出して「産業化」した人間だけであろう。

富は偏在し、「階級格差」は生じ、社会全体が保有財産の多寡によって分断されていく。

 

これは、ディストピア(暗黒の未来像)なのだろうか?

まあ、でも、未来の人々も、貧しい人は貧しいなりの「幸せ」を堪能出来ると思う。

そう、信じたいものである。

(多分、自分はそれを目にすることは無いかもしれないがwww)

もうそろそろ「頃合い」だろう。

稲田防衛大臣が、あまりにも痛々しい。

見るに耐えない。

さながら、ホームランを打たれまくって、さらに全ての塁にランナーが居る状況のピッチャーのようなものである。

稲田朋美代議士についての評価をここで議論するつもりは、自分は無い。

ただ、ここまで窮して、さらに「世評」が固定化してしまった以上は、いったんベンチに下がらせるべきだろう。

 

なお、いわゆる「保守派」の方々で、稲田朋美防衛大臣の能力や資質を得意気にこき下ろしている御仁が結構多い。

まあ、自分も「適任である」と強がりを云うつもりはない。

しかしながら、「女性は防衛大臣にするべきではない」といった主張を繰り広げるならば、事実上、稲田朋美代議士のキャリアは、いわゆる「軽量閣僚止まり」でしかない、と決め付けてしまうことを意味する。

そうなれば、最早、今後、稲田朋美代議士は、キャリアをステップアップすることを認めないということを主張することになろう。

まあ、政治家「稲田朋美」は、所詮、「その程度だった」と決め付けてしまうのも、個々人の「見解」の範疇だとも云える。

だが、そうであるならば、安倍総理の「後継者」は誰が成るのだろうか?

石破茂か?

彼は、過度に細部にこだわる部分を有する反面、驚くほど迂闊な点が同居している。

残念ながら、安倍総理の後任としては、勘違いが甚だし過ぎる。

ならば、岸田外務大臣か?

彼は、堅実である。

これは大いに評価されて然るべきである。

しかしながら、彼は「護憲派」であり、毒にも薬にも成らない、退屈な人である。

ならば、麻生太郎の再登板か?

彼は高齢であるし、何よりも財務大臣として、財務省・財務官僚の色に馴染み過ぎた。

もし、彼が総理に成れば、人情として、財務官僚の意を汲む政策に舵を切るだろう。

それは、「財政均衡」「財政健全化」という美名の「増税」「財政削減」である。

これは、「日本」という国家・社会・国民が、全てシュリンク(縮小化)されることを強いる道である。

それは「財務省栄えて国滅ぶ」ということである。

ならば、野田聖子か?

ならば、二階俊博か?

ならば、小泉進次郎か?

ちなみに、小池百合子は東京都知事と内閣総理大臣を「兼任」不可能である以上、論評するに値しない。

彼女が、今、都知事の座を捨てて国政に復帰しようとすれば、東京都議会は、瞬時に「学級崩壊」と化す。

直前まで東京都知事だった小池百合子が、都政の混乱を尻目に、いけしゃあしゃあと国政復帰したら、その時点で、彼女の「政治的神話」は地に堕ちることと成る。

だから、賢明な彼女は、「是非、総理に成って下さい!」と要請されても「時機が悪い」と判断して固辞するだろう。

ならば、橋下徹か?

彼は、「政界引退」をした現時点に於いても猶、「当代最強の大衆政治家」としての輝きを失っていない。

また、彼自身も、あの細川護煕のように枯淡の境地に没入していない。

だから、或る面、橋下徹が、総理に一番近い人間であると云えるかもしれない。

ただ、現時点に於いて、彼は単なるTVタレントでしかない。

さあさあ困った。

安倍総理の後継者は誰なのか?

安倍総理の政治的遺伝子を継承してくれる有力な候補者は一体誰なのか?

ここで、いわゆる「保守派」にとって、手持ちのカードがあまりにも少な過ぎることを思い知らされることと成ろう。

つまり、手札を切ろうとしても、手持ちのカードそのものが無いのである。

はっきり云って、現時点のポスト安倍総理の最有力候補者は、「安倍晋三」その人、ご本人なのである。

「ポスト安倍は、安倍晋三」という、あまりに笑えない現実。

この分だと、安倍総理は「出がらし」に成るまで退陣出来ない、ということである。

そう云う、あまりにお粗末な現状の中で、稲田朋美代議士を安直に批判するのは「いかがなものか?」。

それとも、稲田朋美をつぶして野田聖子に「日本初の女性内閣総理大臣」に成って欲しいのだろうか?

もし、そうだとしたら、いわゆる「保守派」とは、ほとんど左翼リベラルと差異が無いと云うことに成るだろう。

東大新卒の新入女性社員が、過労による自殺でお亡くなりになられた事件を契機として、「過労死」「残業」「働き方改革」といったキーワードが論じられるようになった。

だが、自分のような、派遣労務者は、いわゆる「労働効率性の向上」と云うことは、望めないように思う。

と云うのは、自分は、現在、「時給」である。

完全な「時給」である。

つまり、「労働時間」が「8時間」ならば「8時間分の給与」が計上され、「7時間30分」ならば「7時間30分の給与」が計上される。

だから、「労働効率性の向上」をはかるために、一生懸命に働けば働くほど、「給与金額が減少する」という「パラドックス」が発生する。

一方の「正規雇用者」の「派遣先の正社員」は、残業や深夜・休日の勤務には「手当」が出るが、基本的に「月給」である。

つまり、「労働効率性の向上」によって、今迄「8時間」かかっていた作業を「7時間」なり「6時間30分」で終了出来るように成れば、企業にとっても、「正社員」にとっても「改善」されることとなる。

勿論、1時間くらい早めに勤務が終了したぐらいで、給与金額が減少されることなど「有り得ない」。

しかしながら、派遣労務者である自分は、「労働時間」が「効率化」されることによって「時間短縮」されたならば、給与金額は減少する。

だから、今迄1日8時間の現場だったのが、1日6時間の現場が変わった途端、月に4万円強の減少に成った。

一昨年は、夏場は残業が多く、1日に9時間や10時間の日も有ったのだが、現在は、8時間を割ることの方が多い。

「労働時間」が短縮された訳だから、収入は減ったのだが、心身の負担は軽減されたように思える。

だが、実は、心身の負担は大いに増した。

と云うのは、今迄、残業に成ってしまうような「仕事量」を、無理やり8時間内で達成しようとするように成ったからである。

つまり、「仕事量」そのものは変化無し、で、「労働時間の短縮」は要求されている。

となれば、作業の速度を上げる、か、作業以外の時間を徹底的に削減する、のどちらかしか有り得ない。

具体的な「状況」を書くことは出来ないのだが、この「状況」で労働基準監督署の査察が入ったら・・・・

だから、本当は、もっともっと一生懸命に作業を行うべきなのだと思うのであるのだが、それこそ、心身の限界いっぱいまで精勤したところで、むしろ、給与金額が激減する訳なので、否応無く、士気は阻喪される。

結局、「ほどほどの頑張り」しか、しなくなる。

まあ、さすがに作業速度を遅くして、時間「満額」の給与をせしめようとまでは思わないが。

とにかく、「頑張れば頑張る程、給与が減額される」という「パラドックス」が改善されない限り、自分の現在の「職業」は「労働時間の効率性の向上」ということは実現しないだろう。

こういうおかしな矛盾点が、労働現場ではあちこちで続出しているのだろう。

なお、自分は、自分の現在の境遇に対して「感情的」にはならない。

何故ならば、いずれ、「みんな」が現在の自分のような「労働条件」に成っていくだろうから。

単に、今の自分は、「時代の先取り」をしているのに過ぎない。

いわゆる「人件費」が「固定経費」であるという「意識」や「概念」が改まらない限り、「労働条件」や「労働環境」は悪化するばかりであろう。

この「蓮舫民進党代表の二重国籍」問題は、いみじくも「人権」と「国家安全保障」について、どれほど理解出来ているのかを明瞭にする、いわば「リトマス試験紙」であった。
いわゆる「プライバシー」を持ち出してきて、「戸籍を公表することを強いられることは人権侵害だ!」と云う。
だが、そもそも、「基本的人権の尊重」を担保してくれるのは、一体何なのか?
それは、(現時点に於いては)「国家」である。
つまり、「国家」が、自国民や居留及び入国外国人に対して、「人権を保障する」ことによって、初めて「人権」は保障され得るのである。...
現に、「国家権力」が毀損され、統治能力が失われた「地域」は、内戦状態、無法地帯と成り、弱肉強食の「万民の万民に対する闘争状態」(ホッブス)と成る。
当然、「基本的人権の尊重」など全く保障され得ない。
一方、「国家」の最高指導者層に於いて、他国の国籍や影響下に有ると疑われる人物が参入することは、必然的に「国家安全保障」が根底から破壊される事態が想定されることとなる。
つまり、「人権」やら「多様性」云々など、切迫した国防問題に関しては、全く議論の余地が無いのである。
繰り返す。
「人権」や「多様性」を現時点に於いて担保することが可能なのは、「国家権力」のみである。
勿論、「国家権力」の「暴走」という事態の可能性は否定しない。
だが、それは、「戸籍」の公表を拒絶したり、一国の最高権力指導者の有力候補としての国会議員・公党の党首の二重国籍を容認することで、防止も克服も出来る訳ではない。
敢えて、論点をずらして開き直り、「弱者の恫喝」を行うのは、左翼の常套戦略術である。

いよいよ、バーチャルリアリティー(VR)の「遊園地」が各地で開業した。

東京の新宿・歌舞伎町でも、旧東急ミラノ座跡地にVRの「遊園地」が開業し、大賑わいだそうである。

自分は、また一段階、我々は「時代の目盛」を進んでしまったように感じる。

このVRの「遊園地」は、それこそ、ジェットコースター系からお化け屋敷系から、ついには疑似恋愛(壁ドン)まで、バリエーションに富んでいる(らしい)。

だが、このVRの「遊園地」の利点は、

土地の広さや狭さに左右されない

安全である

初期費用がかからない

リニューアルが容易

ということに成るだろう。

現時点では、VRの技術が、まだ「こなれていない」為に、制作期間も長くかかるだろう。

だから、まだ、経費が相当かかる「段階」だと思う。

だが、技術の進歩や量産化の目途が立てば、一気に「損益分岐点」は変わって来る。

「リアル」な従来型の「遊園地」と比較して、その利潤率と顧客満足度は段違いに成る可能性が有ろう。

そうなれば、「リアル」な「遊園地」は、いずれ「前時代的」な代物と化すかもしれない。

 

自分は、VRに於いて危惧しているのは、人間の感覚器官(眼・耳)に対する事前想定外の「負担」による身体の症状である。

また、現実以上の興奮や感激が、脈拍や血圧などへ過度の負担を生じさせる可能性が有り得る。

 

ただ、もっと危惧することは、「現実」と「疑似現実」とが、並列する「選択肢」と化すことである。

つまり、「疑似現実こそが、自分にとっての真実である」という「受け止めかた」「意識」の派生である。

この「疑似現実こそが、自分にとっての真実である」というテーマを、明瞭に訴求したのが、大ヒット映画「アバタ―」であろう。

つまり、「生身」の自分(現実)ではなく、「アバタ―」としての自分(疑似現実)こそが「真実」である、と。

そして、映画「アバタ―」のラストシーンは、生身の自分がアバタ―へ「変成」もしくは「転生」するところで終わっている。

さらに、脳内での疑似現実で「活動的」であるのだが、現実の身体は「寝たきり」である、という設定を描いたのが、やはり大ヒットした映画「マトリックス」シリーズである。

また2010年の映画「インセプション」でも、夢と現実が入り乱れる設定のストーリーであった。

 

まさに、現実と夢(疑似現実)(仮想現実)(VR)が、主従関係ではなく、対等な並存する選択可能な関係に変わろうとしているのだ。

そうなった場合、否応無く、意識と肉体との位置付け、捉え方も影響されるだろう。

精神と肉体は、別々なもの、対極に有るものとの認識しがちであるが、精神と肉体は密接な関係に有る。

だから、肉体が変化した場合、必然的に精神や意識も変化することから逃れられない。

思春期の子供から青年への「第二次成長期」が、「多感」な青春時代であるのは、ホルモンの分泌などで肉体が急激に変貌するからである。

また、老化や発病、怪我などによって身体機能が低下した場合も、精神や意識、思考回路も青年の時とは一変して来る。

だが、現実と夢(VR)の境界が曖昧糢糊として行った末は、精神と肉体との境界や関係性も従来通りにはいかなくなるだろう。

 

そうなった時、我々は、何をもって行動を決定し、何を根拠に認識をしていくのであろうか?

 

まあ、我々東洋人にとっては、かの荘子の「胡蝶の夢」が馴染深い。

「胡蝶の夢」に於いては、人間と胡蝶と、その存在や「生」に優劣は無い。

人間が胡蝶に成った夢を見ているのかもしれないし、

胡蝶が人間に成った夢を見ているのかもしれないのである。

この「無為自然」の境地へ、これからの我々は、猛スピードで突進して行こうとしているのであろうか?

少なくとも、我々が従来、確固として依拠して来た「ことがら」、価値観だとか、倫理観といったものが、徹底的に、根源的に問い直される事態と成ろう。

それは、「常識」が崩壊することである。

その状況を、自由自在、融通無碍と捉えるのか。

もしくは、混沌、混乱、紊乱、頽廃と捉えるのか。

判断が分かれて来るだろう。

自分は、なかなか厄介な、難問だと予感する。

自分は、安倍総理に対して、「憲法改正を諦めろ」とは云っていない。
ただ、「焦ってはいけない」と云っているだけだ。
客観的に見て、現時点で、「憲法改正」への勝負を仕掛けたところで、「国民投票」で敗北する可能性が濃厚なのである。
ならば、やはりここはじっくりと腰を据えて、態勢を整えるべきであろう。
「急いては事を仕損じる」のだ。...
だから、自分は、「今こそ千載一遇の好機!何が何でも正面中央突破だ!」とやみくもにけしかける連中は、どうも護憲派の「工作員」のような気がしてならない。
ま、いわゆる「真正保守」って自称している方々から見れば、自分の方こそ「工作員」に見えるのだろうけどwww

先月6月の終わりの頃。
仕事で、トラックに同乗していると、道端で都議選の選挙カーが街宣をしていた。
その周囲には、その陣営の支持者と思われる人々が取り囲んでいた。
「全く。この暇人どもめ。良い身分だな!」とドライバーさんが吐き捨てた。
この人は、東京都民で、都議選の有権者。...
でも、彼にとって選挙は「他人事」なのである。
ここが、非常に重要な問題点なのである。
つまり、選挙に関心の無い人が相当数存在する訳である。
で、今回の都議選で、選挙に関心を抱いた人の大多数が、「都民ファーストの会」へ雪崩れ込んだ、ということ。
だから、まず、「選挙に関心を抱きつつも、支持政党が固定していない層」の支持を如何に獲得するのか、ということが重要。
そして、さらに、選挙に関心を持っていない人を引き込むような「雰囲気」をつくり、そこから支持を得られるようなムーブメントを生み出すようにすることが望ましいのである。
「選挙に関心の無い奴は、”寝ていれば良い”」といった、かつての森喜朗のような「認識」であれば、ひょんなきっかけで圧倒的な多数の「無党派層」の投票が雪崩れ込んだ場合、全く、太刀打ち出来ないことに成ってしまう。
地方自治体の首長や議員の選挙は、「固める選挙」(票数が勘定可能な固定的な党派の支持者を固めていく選挙)で勝てる割合が高いのであるが、都市部では「無党派層」「浮動票」の割合が多いので、思い通りにはいかない。
また、ここ数年は、いわゆる郡部でも、かつてのような「締め付け」で票を確保することが困難に成って来た。
そこのところを、やはり、深刻に受け止めないといけない。
特に今回の都議選は、旧来の自民党支持者の層が、相当数、流出している。
云わば、「底が抜けた」訳である。
では、何故、自民党支持層が相当数、切り崩されたのだろうか?
そこのところを、やはり、きちんと精査して、対処しないと、間違い無く、国政選挙にまでも飛び火するであろう。
猛省しなければいけない。

保守派って、セクト(党派)じゃないから。
「自民党」って、「党」じゃないでしょう?www.
だって、所属議員が、(自主憲法制定という)「政党綱領」を無視して各自勝手に動き回っているのですからwww

何故、安倍内閣の支持率が激減したのか?
国民の大多数が、景気回復に疑念を持ち始めたからだ。
つまり、森友・加計の両学園の「スキャンダル」報道は、単なる「きっかけ」に過ぎない。
それ以前に、国民の大多数が、安倍内閣に対して冷めてしまったのだ。
飽いて来て、倦んで来たのである。...
だから、あんな下らない「ミスリード」「印象操作」でもって「成果」が出てしまったのだ。
安倍総理は、国会閉会中審議に全力投球するべきではない。
勿論、木で鼻をくくったような対応をして良い訳ではないのだが、いくら、国会閉会中審議に対して懇切丁寧な対応を行ったところで、国民は全く評価をしないだろう。
それよりも、景気拡大刺激政策を徹底的に打ち出すべきだ。
それは、財政出動と減税である。
もっと具体的に云えば、期限付きで消費税率を5%に引き下げることである。
だから、経済同友会の「消費税率を上げろ」なんていう提言なんか、もっての外である。
そこまで「財政健全化」が重要なら、企業法人税を上げれば良い。
そして、所得税の累進課税制度を以前の税率に戻せば良い。
安倍総理よ、今こそ、正念場である。
肚を括れ。
憲法改正はその後だ。

「夏風邪は馬鹿がひく」という。
まさしくその通りで、只今、風邪をひいている。
ただ、厄介なのは、そのせいで喘息の症状に火がついてしまったこと。
息苦しくて、頭が朦朧としている。
しかし、休む訳にはいかない。...
自分に、最早、「有給休暇」など存在しない。
だから、ただでさえ、少ない「手取り」の目減りを防ぐためには、無理をしないといけない。
なお、いわゆる「電通事件」や「働き方改革」のお蔭(?)で、「残業」は全く無くなった。
勿論、そのせいで、数万円の収入減である。
しかも、「残業はしてはいけない。でも仕事の量は変わらない。むしろ増えている」ため、仕事の密度がえらいことになってしまった。
便所や食事に割く時間が無くなった。
業務終了時間が「絶対的」に成り、「ケツ」が動かせなくなったので、心身共に焦燥させられている。
結果として、過重労働を強いられ、しかも、収入は格段に減っている。
だから、極力出費を削減するしかない。
これでは、消費なんか増やせないし、景気だって良く成りようがない。
デフレは維持されるか、むしろ、加速するだろう。
だから、ほんの一握りの「正規雇用者」や「資本家」しか、景気拡大には寄与出来ないだろう。
所得格差、貧富の格差は増大するだろう。
だから、経済同友会が「消費税増税」を提言したというニュースには辟易とした。
こいつらはそろいもそろって大馬鹿者である。
消費税を増税したら、経費も原価も上昇するから経営を直撃する。
消費は停滞し、景気は一気にしぼむ。
勿論、各企業の業績は総崩れに成る。
それで、各企業の経営陣が、その責任を取って「腹を切る」のであればまだしも、何とか利潤を出す為に、「経費節減」を名目に、人件費に手を付ける。
結局、大多数の国民が窮する破目に成る。
「財政健全化」などと訳知り顔で提言しているのだが、所詮、「朝三暮四」の猿以下の知能だ。
そんなに「財政健全化」が急務ならば、企業法人税を増税すれば良い。
さらに、所得税の累進課税を以前の制度に戻せば良い。
1000万円の所得の有る人が80%税金で取られても200万円も残る。
100万円しか所得が無い人が10%税金を取られたら90万円しか残らない。
所得格差は2倍以上だ。
役人は、税金をがっぽり取って、そして、それで都合が悪く成ったら補助金で調整しようとする。
結局、役人の「許認可権」を行使することを拡大化させることばかりを望んでいるのだ。
だが、補助金行政は、必ずしも機能しない。
むしろ、減税政策の方が、遥かに景気を刺激する。
かくなる上は、安倍総理は肚を括って、減税政策に打って出るべきだ。
具体的には、期限付きで消費税率を5%に戻す。
もう、これしかない。
金融政策では、最早、限界だから。

気が付けば、昨日から「お盆」である。
東京都内は、「新暦」で行うので、7月13日から16日までが「お盆」ということになる。
靖国神社に於いては、「みたままつり」が斎行されて、大いに華やかである。
ただ、「お盆」というと、やはり「月遅れ」の「旧暦」の「お盆」でないとしっくりこない。
我が家は、父方も母方もルーツは千葉県なので、「お盆」というと8月のイメージしか思い浮かばない。...
さて、「お盆」というと、若い世代の方々は、ピンと来ないかもしれない。
せいぜい、花火大会が有ったり、露店が出たり、という「イベント」絡みの感じしか持てないのかもしれない。
「お盆」と云えば、「盆踊り」であるが、実は、これは生者と亡き人の魂との「邂逅(かいこう)」「出会い」の「場」なのである。
越中八尾の「おわら風の盆」は、編笠を深くかぶって踊る。
パッと見は、誰が躍っているのか解らない。
ましてや、宵闇の薄暗がりの中で踊る訳である。
踊っている人が、誰だか解らない、ということが実は重要である。
つまり、何者か判然としない踊り手の中には、「この世成らぬ存在」が紛れ込んでいても不思議ではないのだ。
つまり、「盆踊り」とは、生者と死者とが、共に踊り交わる「場」なのである。
(勿論、誰が誰だか解らない、といういうことから「夜這い」が頻発する「性の交わり」の「場」でもあったのだがwww)
日本に於ける「お盆」とは、亡き人の魂が、自分たちの家に帰って来る「時」である。
だから、「祈り」と「感謝」を強く意識しなければいけない「筈」なのである。
その、日本古来の原始的な魂に関する習俗と、仏教の「盂蘭盆会」(うらぼんえ)が「習合」して、現在の「お盆」と成った。
だから、「お盆」の時は、「魂」を大切にしなくてはいけない。
地域によっては、漁師が海に出ずに漁を控えるという。
亡父も子供の頃に、「お盆」の時期に、セミやトンボをトリモチで採りまくっていたら、祖父にこっぴどく怒られたという。
かつての我々は、盆と正月と春・秋のお彼岸は、「特別」な「存在」であった。
現在、我々にとっての「お盆」とは、最早、稲川淳二の「怪談」のシーズン、ぐらいにしか「意識」されていないのかもしれない。
そう云えば、10月末日の「ハロウィン」は、古代ヨーロッパに於ける「亡者の魂が帰って来る日」のお祭りであった。
つまり、「西洋」の「お盆」なのである。
だから、「かぼちゃのランタン」は、「盆提灯」であり、「迎え火」「送り火」なのである。
日本に於ける「ハロウィン」の浸透ぶりはだいぶ進んで来たのだが、仮想パーティばかりが意識されている。
それは「クリスマス」がケーキとシャンパンと鶏肉とプレゼントで楽しむばかりとしてしか意識されていないのと同様である。
だが、そもそも「クリスマス」とて、西洋における「冬至」のお祭りである。
「一陽来復」のお祭りなのである。
お祭りは楽しい。
何故、楽しいかと云えば、それは「非日常」の「特別」な日だからである。
だが、何故、「特別」なのか。
それは、神仏諸霊と「交流」するから「特別」なのである。
だから、「祈り」と「感謝」が皆無な「お祭り」とは、単なる「から騒ぎ」「馬鹿騒ぎ」に過ぎない。
せめて、盆と正月と春・秋のお彼岸は、慎み深く、「祈り」と「感謝」を心掛けたいと、自分は切に思うものである。

自分は「転向左翼」だから、かつては「左翼」だった。

で、一昔前の「左翼」にとっての「スター」は、筑紫哲也であった。

だが、筑紫哲也は、実はそんなに頭が良くないwww

鋭さに於いては欠けるところが有った。

そこは、「左翼」内でも「共通認識」されていた。

ならば、「左翼」に於ける「賢人」とは誰なのだろうか?

鶴見俊輔や小田実などが有名であったが、やはり「頭の良さ」という点では加藤周一が挙げられるだろう。

何しろ、彼は東京帝国大学医学部卒の医学博士でありながらも、文藝評論家であり、政治評論家でもあった。

さらに、ベルリン自由大学やミュンヘン大学の客員教授など、海外の大学で教鞭を取った。

どこぞの「センセー」みたく、海外の大学(主に中共やアフリカなどの発展途上国の大学)の「名誉博士」という「紙切れ一枚」の“学者”とは全く比較に成らないのである。

しかも、先日お亡くなりになられた渡部昇一先生と同じ、上智大学の教授でもあり、立命館大学の客員教授も務めた。

また、いわゆる「朝日新聞文化人」の筆頭で、朝日新聞夕刊紙上に於いて「夕陽妄語」という時評コラムを、(前身の「山中力叩廚魎泙瓩襪函烹隠坑沓糠から死去する2008年まで、延々と連載し続けていたのである。

勿論、朝日新聞の「大佛次郎賞」や「朝日賞」の栄誉も浴した。

自分も高校生時代にNHK教育テレビで特集番組だった「日本・そのこころとかたち」を、ビデオにまで録画して繰り返し視聴したものである。

まさに、典型的な「戦後進歩主義的文化人」「朝日・岩波・NHK文化人」であった。

だが、そんな左翼文化人の「最高峰」とも云える加藤周一の名前を、自分は、最近、見聞きすることが無いのである。

あの朝日新聞紙上に於いても、そんなに取り上げられていないのだ。

せいぜい、立命館大学に於いて、「再評価」のためのシンポジウムを開催するぐらいである。

自分の高校生時代の「現代文」の教科書に、彼の随筆が載っていた。

「日本文化とは雑種文化である」といった内容の短文である。

この「雑種文化」という「認識」が、いかにも「左翼」そのものであり、「日本文化」というものの「独自性」を「一般化」することによって、結果として「貶めていく」構図である。

だが、彼の生前のあまりにも輝かしい経歴や肩書、栄誉の数々が、今や、全く忘却の彼方に消え失せている。

何故なのだろうか?

これを、単に「加藤周一」という「個人」の問題に矮小化してしまっては、ことを見誤ると自分は思う。

「加藤周一」は、いわゆる「戦後左翼文化人」としての「限界」を超えられず、「陳腐化」して「時代遅れ」に成ってしまった。

このように、いわゆる「保守派」は、「決め付けたい」のだろうと思う。

だが、必ずしも、そうとは云い切れない。

それに、いわゆる「保守派」は、そもそも「加藤周一」をちゃんと「読み込んでいる」のだろうか?

原典に当たらないくせに、いっぱしの「批判」だけは行う、と云うのは、不誠実そのものである。

もっと端的な表現をすれば、馬鹿である。

馬鹿は論争なんかしてはいけない。

それはさておき、何故、「加藤周一」が死蔵されているのか?

それは、現在の「左翼」が、「加藤周一」を「使いこなせない」だけに過ぎない。

つまり、現在の「左翼」は、一昔前の「左翼」の論説を「使いこなせな」くなっているのだろう。

その代りに、低音ボイスで女心を鷲掴みにするカン・サンジュンとか、

「安倍総理は人間じゃない!」と云った、アカデミズムから程遠い低劣な主張しか出来ない山口二郎とか、

そういうアホでも振り回せるような「左翼文化人」の論説しか「使いこなせなくなっている」のであろう。

まさに、「知的劣化」そのものである。

ただし、その「愚者の群れ」という左翼セクトの現状も、頑迷な左翼老人どもが高齢化するに従って「改善」されていくように思う。

 

左翼は、ちゃんと「オルグ」(組織化)をする。

しかも戦略的に緻密に行う。

若者を引っ張り込み、「育成」して、世の中に出して行くのだ。

だから、ここ最近、若手の左翼学者、左翼ジャーナリストがどんどんマスコミなどで「紹介」されている。

しかも、著書を出版し、講演会を催し、しかるべき教員のポストに「押し込んで行く」。

そうやって、地道に「後継者」を「つくっている」のである。

一方の保守は、当初はちやほやして「お客様」扱いをしてくれるのだが、そのうち「先輩風」を吹かし、「序列」がどうのこうのと指摘し始める。

そして、ついには、「生意気だ」「無礼者」「勘違いばかりしている」などと批判を浴びせかける。

結局、まだ「市場規模」が比較的小さな「保守論壇」という「論壇マーケット」内での「商売敵」として意識するようになり、嫉妬や侮蔑の応酬を繰り広げることと成る。

そこには「オルグ」や「育成」などという「意識」は微塵も無い。

ただ、「左翼論壇」は、結局「セクト」(党派)であるため、「党中央」の「ガイドライン」の範疇内での論説しか認められない。

つまり、自由闊達、天真爛漫な論理展開が制限される訳なので、折角、笛や太鼓の鳴り物入りで世間に押し出された若手の左翼文化人も、絶えず「党中央」の顔色をうかがうばかりなので、やはり「精彩を欠く」訳である。

だから、単なる無名の「あんちゃん」「ねえちゃん」だった若者が、瞬時にマスコミの寵児と成って大出世することも出来るのだが、陳腐化して、一気に「つまらない」奴に成って行くのも必然的なのである。

ただ、折角、若い有望な「芽」が出ても、嫉妬に狂ってひたすら潰して回る保守のオヤジども達に比べれば、遥かに大衆への訴求力は甚大である。

ここ数日、母からの悪罵が、無い。
以前にも増して、足腰の痛みが酷い為である。
今では、肩まで痛むという。
あまりに体中が痛むので、睡眠もよく取れないらしい。
そのため、癇癪を炸裂させるまでもなく、睡眠不足で朦朧としているようなのだ。
誠に気の毒であると思う。
ただ、一方で、別の「気持ち」も有る。
さすがに「いい気味だ」とは思わないが、実は内心、ほっとしている。
以前は、仕事で疲労困憊した後に、就寝する時まで、延々と悪罵を投げつけられていて、本当に憔悴する感じだった。
そういう思いをしないで済むように成ったというだけでも、自分は本当に有り難いと思っている。

母は、「どうして、こんなに痛い目に遭うのだろう?」と繰り言を云う。
だが、自分は実は、何となく、思い当たる節が有る。
それは、愚痴・不足・不平・不満ばかり口にし過ぎるせいだと思う。
いつも、カリカリ、イライラしていれば、心身共に良い筈が無いと思う。
仏教用語の中の「三毒」の「貪・瞋・痴」で、「瞋恚(しんい)」という。
どうしようもない「怒り」の感情が心身を焦がすのである。
勿論、周囲は堪ったものではないのだが、本人とて苦しい限りである。
この「瞋恚」の業火から脱却するにはどうしたら良いのか?
それは、慎みと感謝の心を持つように心掛けることであると思う。
物事は、何事も「二面性」が有る。
「湿気」は、「潤い」であると共にジメジメ、蒸し蒸しという一面を持つ。
率先的な人は、軽率である面も有るし、慎重な人は臆病な面も指摘出来る。
ただ、それをどのように「評価」するか、であろう。
はじめから「悪い」と決め付ければ、「悪い」点しか見えてこない。
だが、ちょっと見方を変えれば、満更「悪い」ことばかりではないのである。

そう云えば、昔、「病気治し」で有名な或る「霊能力者」についてのエピソードで、こんな話しが有ったそうである。
「自分は、体中のあちこちが痛くてとても辛いのです」と。
すると、霊能力者は、「あなたはいつも怒っていませんか?まずは、腹を立てないようにしなさい」とアドバイスをしたという。
すると、長年悩んでいた「痛み」だけではなく、家庭内不和などの人間関係の問題まで解決出来たという。
何でもかんでも人間の「内側」ばかりを「根本原因」にしてしまってはいけないのかもしれないのだが、「変える」ことが出来るのは結局「自分自身」しかいない。
他人は「変える」ことは出来ないが、自分は「変える」ことが出来る。
だから、まず、自分を「変える」ことを「意識」するべきなのだろう。

安倍内閣の支持率が急落している。

これは、いわゆる森友学園、加計学園の問題が「原因」だと云う。

確かに、大マスコミの「印象操作」にしてやられた、という面は大きい。

だが、改めて考えてみると、森友学園や加計学園の問題が「重大」な問題とは云えない。

もし、「利益供与」や「便宜斡旋」という明確な「認定」が可能であるならば、東京地検特捜部がとっくに動き出していなくてはおかしい。

にもかかわらず、司法の領域が全く反応示さないのは、どうしても「起訴立件」が無理であるからであろう。

つまり、城の本丸は取り囲めても、城内へは一歩も攻め込めない状況なのである。

だから、安倍内閣の支持率が急落した「主因」は、実は別に存在すると認識した方がよかろうと考える。

結論から云うと、結局、国民の多くが安倍内閣に対して「倦み出した」のである。

つまり、安倍内閣に対して「飽き」が生じ始めた、ということである。

一方、当の安倍内閣そのものも、何時しか「狎れ」が生じ、弛みやたるみが出て来たのである。

油断大敵である。

厄介なのは、「倦み」や「飽き」という「現象」は、説得も論破も不可能なことにある。

「何となく嫌な感じ」という代物なので、むきになって挽回しようと焦っても、結局、上滑りしてしまうだろう。

じゃあ、どうしたら良いのか?

お気楽な「派遣労務者風情」の自分ならば、敢えて、「奇手」を打つことを提案する。

唐突に、石破茂へ政権を「禅譲」する。

当然、準備不足で、しかも「総理の器」としては不適な彼のことである、政権運営は混乱する。

これに乗じて、瀕死の状態だった民進党の蓮舫・野田執行部は俄然、強気の国会戦術を取る。

国会は停滞し、内閣不信任案が上程される。

石破茂総理は、解散・総選挙で起死回生を図ろうとする。

そこで、安倍前総理などが自民党から集団離党。

松井一郎の日本維新の会へ合流。

橋下徹も電撃的に「政界復帰」し、日本維新の会は、安倍・松井・橋下の三人の共同代表体制を構築する。

ここで、一気に「政界」の「潮目」が変わる。

小池百合子は、石破とは組めるが、安倍・松井・橋下とは組めない。

東京都庁内から出られずに「雪隠(せっちん)詰め」と成る。

石破茂は解散・総選挙でも勝算が見込めず、内閣総辞職する。

そして、自民党・公明党・日本維新の会の三党連立政権と成り、新生「安倍内閣」が誕生する。

どうだい!

あまりに荒唐無稽だろうwww

ただ「鬼面人を嚇す(おどす)」と云うのは、(やりようによっては)極めて有効だと、自分は思うが。

 曽野綾子さんが、「電気が通じていない地域に、民主主義は成立しない。」と云っておられた。
実は、政治思想や政治体制と、科学技術と社会的インフラ整備の「関係性」は極めて重要。
いわゆる論理破綻した政治理論のほとんどは、科学技術や社会的インフラ整備を軽視しているものばかりである。

石破茂がここに来て、俄かに「尖がった発言」をし始めた。
惜しむらくは、石破茂という御仁は、あまりに迂闊であるということである。
必要以上に細部に拘るところが目に付くので、どうもそのようには一般的に思われていないようだが、実は彼は、迂闊過ぎるのである。
やっぱり、所詮、ボンボンなのだな、と思う。

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