何かを意図して「活動」を始める場合、その「成果」が、社会など広範な影響を希求したいならば、「平凡」であることの重要性を努めて意識するべきだと思う。

どうしても、急進的で尖鋭的なかたちで、その「活動」の中心的なメンバーは次第に熱を帯びて行く。

純潔さと過激さを競い合うように成って行く。

だが、そうなると、それは何時しか「奇矯」なものに変じてしまうのだ。

渦中に在るコア・メンバーは、「前衛」だと自負するのだろうが、広範な世間一般大衆からは「非常識な変人ども」としかみなされない。

さらに過熱すると、「反社会的な危険思想」と断罪されることになる。

あくまで、「閉鎖的」で「自己完結」してしまえる代物であるのならば、究極まで突き詰めていく手法も有り得るだろう。

だが、社会を変え、世の中を正そうというのであるならば、どこかでごくごく「ふつう」の人の感覚を残していなくては、世間一般大衆からは支持されない。

勿論、「大衆に媚び諂え」というのとも違う。

ただ、自分たちの理論や主張が、どのように他人の眼に映っているのだろうか?という視点を意識して持たない限り、絶対にその「活動」は破綻すると思う。

「専門家」の害毒、「凡人」の効用。

今回のいわゆる「今上陛下の御譲位に関しての有識者ヒヤリング」に関して、そんなことを感じた。

今、「イクメン」が流行りなんだそうで。

で、「イクメン」たらんとするあまり、精神的負担に耐えかねて「うつ病」に成る人が出て来たという。

何だかなあ。

結局、一種の「強迫観念」なんじゃないだろうか?

つまり、強烈な「同調圧力」である。

「かくあるべき」というモデルケースに外れると、駄目の烙印が押される。

現在は、「男女共同参画」なので、「男性だって家事や育児もせよ」というのである。

しかし、一方で、「正規雇用者」は、否応無く、職場で超過勤務が常態化している。

何故なら、「人件費削減」「人件費圧縮」の傾向は続いているので、職場の「人員」は増加させても、「正規雇用者」は増やせないのである。

しかしながら、「非正規雇用者」は、会議やプレゼンなどに参加出来ない。

報告書や会議資料の作成、会計処理など、全部、「正規雇用者」が行うことに成る。

だから、既に、職場で疲労困憊している筈なのである。

そこへ持って来て、ようやく帰宅して、休暇に入ったと思ったら、家事・育児までやらないと指弾される雰囲気なのだ。

これはもう、「逃げ場」が無いと思う。

ただ、自分は、家事・育児を「しなくて良い」とは思わない。

家事・育児というのも、実際に行ってみると、意外と新鮮であったり、面白かったりするのだから。

要は、「無理をしないこと」であろう。

仕事も家庭も「無理をしないこと」。

どうせ今後の企業の組織構成は、いわゆる「管理職」を減らす傾向に有る。

だから、いくら一生懸命に精勤しても、「昇格」も「出世」もする可能性は低く成る。

さらに、労働賃金もグローバリズムの影響で、人件費の低い地域に引っ張られるから、上昇することはない。

いくら死にもの狂いで働いたところで、そんなに収入が増えることはないのだ。

また、「お前の代わりはいない」などと云われて働かされるのだが、そんなことはない。

代わりはいくらでもいるのだ。

だから、「精勤」はしても、決して「無理はしないこと」である。

家事・育児もそうである。

とにかく、抱え込まないこと。

どうしても上手く行かない場合は、役所などの公的サービスに相談するなど、「救援」を求める意識を持つ事である。

だいたい、倒れるくらい頑張ったところで、周囲は絶対褒めてなんかくれないのだ。

「もっと体調管理をしっかりとしてください。」と冷たく厳しく叱責されるだけである。

仕事は真面目に一生懸命にやるとしても、没我しないことである。

自分の代わりはいくらでもいるのだし、この業務を仕上げるために例え自分が過労で倒れたとしても誰も賞賛などしてくれないのだ。

「組織」は自分を「或る程度」は守ってくれるかもしれないが、「無制限」ではないのである。

また、いくら家事・育児に精魂込めて頑張ったとしても、「お父さん、下手くそだから。」と周囲は絶対に思っている。

だから、どこか冷めた感じで、仕事も家事も育児も頑張れば良いと、自分は思う。

いわゆる「今上陛下ご譲位」に関しての、政府の有識者へのヒアリングが終わった。

何と云うか、気持ちが晴れない。

馴染み深い、保守派の「先生方」のご意見はおしなべて「ご譲位反対」である。

まあ、確かに、御懸念の理由は解らないでもない。

では、いわゆる「皇室の制度」を厳守するあまり、今上陛下ご自身の大御心はいったいどうなるのだろうか?

確かに、悠久の歴史と伝統の天皇陛下やご皇室の永久の存続と安寧は自分も切望するところである。

だが、今上陛下ご自身のお気持ちからかけ離れたかたちでの「決着」を誘導しようとするならば、国民の大多数は絶対に納得しないだろう。

そして、「常日頃、『陛下、陛下』と口にしておきながら、肝腎の天皇陛下のお気持ちを踏みにじって平気な『保守派』というのは、なんて薄情なんだ!人としての心が無いのではないか!」ということに成ろう。

それは、いわゆる「保守派」の「主張」に対して、「胡散臭さ」を国民は感じさせることに成るだろう。

そうなれば、当然ながら、「憲法改正」に関しても、いわゆる「保守派」に対しての「主張」に対して不信感を抱かれることに成って行くだろう。

いわゆる「保守派」の「先生方」は、自分たちの「得意分野」だったので、何の意識も無しに率直に「主張」をされたのだろう。

だが、それが「陥穽」であったのだ。

国民の大多数は、そんな「専門的」な理屈や事例をいくら並べ立てたところで、先月に今上陛下ご自身の録画映像で見聞きし、感じたことの方を「正しい」と思うのだ。

このままだと、いわゆる「保守派」の「主張」は、「何だかおかしいぞ。」と思われてしまうだけである。

今まさに、「保守派」は、自滅の道を歩もうとしているようにしか、自分は思えない。

「過労で倒れる」って、やっぱり格好悪いと思う。

自分は、やるからには全力投球するしかないのだけれど、だから、それゆえに無理はしないようにしている。

「短期集中型」で、もう、「納期」が見えている状態の「繁忙」ならまだしも、後から後から仕事が入って来る「エンドレス」のような状況であったなら、ちゃんと管理しないと駄目だろう。

だから、「早朝から深夜まで業務」っていうのが既に「常態化」している「正規雇用者」に成るのは、最早無理かもしれない。

いっそのこと、みんなみんな、「過労」気味の人は退職したら良いと思う。

そうすれば、ようやく、職場や経営陣も根本的な解決に乗り出すだろうから。

(ただし、自営業はそうはいかないのだが)


日本の職場での「会議」、どうなんだろうか?

もう、オフィスで仕事することから何年もブランクが空いてしまったので、実情は解らないのだ。

まあ、「以前」よりかは改善されたこととは思う。

だけど、「残業はするな!」と云いつつ、「朝礼」やら「会議」が「長過ぎる」ので、「サービス残業」が常態化するのである。

「朝礼」は、そこの上長一人のスピーチで5分くらい、最長でも10分以内でけりをつけるべきだと思う。

部長が出て、課長が出て、副課長が出て、課長代理が出て、課長補佐が出て来るような「総員オンパレード」は馬鹿馬鹿しい。

さらに、スピーチも話す内容や題材が、あまりに多岐に亘るようであるならば、口述筆記してメールで一斉送信した方が良い。

どうせ皆、途中で「えーと、この話し、一体何を云いたいのだろうか?」と理解不能に成っている。

あと、「会議」も「報告」を延々とするようなものならやめた方が良い。

「会議」で必要なのは「合意」と「決定」であるので、それに向けての「舞台設定」を図るべきである。

「みんなの意見を聞いて」と云うのも重要だが、「合意」と「決定」に結びつかない「発言」は、邪魔でしかない。

だから、「会議」は、明確で単純化した選択肢を提示した上で行わないと、時間ばかりを浪費するばかりである。

勿論、「頭の体操」として、とにかく「話させる」場を設定することも必要だろう。

だが、それは、「会議」とは別に設定するべきであると思う。

 

自分は、ADHD(注意欠陥多動症)なので、思いついたことはすぐに意見表明してしまいがちである。

だが、発言してしまった後、どうも「場違い」だな、と感じた場合は、後はひたすら「実務」を行うことに専念する。

「会議」によっては、「発言」が許される「人物」があらかじめ「規定」されていることがあるからである。

何を発言したのか、ではなく、誰が発言したのか、が「会議」に於いては、重要なことが多い。

そういう「会議」ならば、自分は「お呼びでない」のである。


平成28年11月26日土曜日のTBS系「報道特集」の「日本会議」の特集を見ました。

故・筑紫哲也を信奉する金平キャスターの番組だから、まあ、ミス・リードの見事な事。

ただ、そこを予想して、ちゃんと「回答」された取材された方々には、本当にお疲れ様でした。

自分も、もしインタビューされたら、「ただの会社員です。何となくこの運動に賛同して参加してます。えー、この活動に参加して3か月以上は経っているかなあ?」って回答しますわwww

只今、腹が立っている。

朝っぱらから、ご機嫌斜めである。

ということで、以下は愚痴の類いであるので、ご多忙な方は割愛されたくwww

三日前の土曜日に健康診断に行った。

市の健康診断で、市役所から受診の督促状が来ていたからである。

で、近所の主治医の処に行ったら、「風邪をひいてますね。」と予想外の宣告を受けた。

出された薬を飲み始めてから、症状が次々と出て来た。

当初は水っ鼻が止まらないだけだったが、喉頭の腫れ、咳、倦怠感と次々に増えていった。

そして、昨日の夕方から下痢に成った。

嫌な予感がして、就寝したのだが、今朝に起床してからたて続けの下痢である。

下痢の頻発に成った場合、今の自分の「仕事」では決定的な支障と成る。

事務所勤務であるならばまだしも、車で移動ということになると業務に支障をきたすことに成る。

今日は、仕事を休まざるを得ない。

風邪の症状が「悪化」しているのは、病状を解決するための現象とも云える。

また、下痢の原因は細菌の感染や消化器の衰弱というよりも、抗菌剤(抗生物質)の副作用であろう。

抗菌剤のせいで、腸内の細菌バランスが崩れたためである。

初診の段階では、下痢の症状が無かったので、当然、腹部への薬は処方されていない。

今日、受診して、下痢止めや整腸剤を処方してもらえれば、明日には回復が見込めそうである。

だから、自分の立腹は、下痢によるものではない。

下痢が止まらないことから、やむなく、会社へ電話を入れた。

すると、「人手が足らないので、何とか出勤してほしい。」と云う。

駄目なものは駄目だし、それに無理をすれば、かえって派遣先のドライバーさんへ迷惑をかけることになる。

きっぱりと拒絶した。

すると「体調管理をしっかりして下さい。」と叱られた。

このやりとりの「背景」は解っている。

自分が、現在の仕事を始めさせてもらった昨年3月頃は、急病などの突発的な「休み」に対してあまり文句は云われなかった。

ところが、昨年の冬に成り始めてから、急に「休み」が取りにくく成って来た。

多分、派遣社員の「人員」が不足してきたのであろう。

アベノミクスの成果で、若年層に於いては、間違い無く雇用環境が改善されて来ている。

様々な職場で人手が不足して来ているのである。

だから、今迄は、自分の居る現在の職場のようなところでしか働けなかった若者たちが、どんどん「契約社員」なり、「正社員」に雇用されて、他社へ流出しているのである。

一方、自動販売機の設置数は、既に淘汰が進んだ結果の状況であるため、激減することは無い状態であるらしい。

つまり、自動販売機に関係する「業務」には、それ相当の人員が必要不可欠な状態なのである。

しかしながら、いまだにデフレは解消されていない。

自動販売機の利益率は上昇していないので、結局、経費は抑制・削減が求められる。

結局、人件費も抑制・削減することとなるので、「正社員」を増やすことは出来ない。

そして、アルバイトや派遣社員も増やせない。

何故なら、「時間給」だからである。

残業が発生した場合、「人件費」がかさむ。

その「人件費」も絶対的な金額ではなく、当初編成した「予算」に対して、あくまで相対的に見て増加・上昇しているように「見える」のである。

結局、「経営」の状態は、数値でしか判断していないので、個々の各項目に於いて、「対予算比」というかたちでチェックするしかない。

だから、アルバイトなどの非正規雇用者に対する「人件費」が「対予算比」に於いて、大きく当初見込みよりも増額した場合、「人件費」の抑制・削減へのプレッシャーがかかることに成る。

ついには、下請け業者への「外注」と云うことに成る。

下請け業者は「歩合制」ということなので、時間給制ではない。

当然、残業手当などは「無い」と云うことに成る。

これは、残業手当が存在しないということを意味しない。

そうであるならば労務法の違反となろう。

そうではなく、発注先の企業が残業手当を考慮しなくて良い、ということである。

下請け業者へ「外注」しているわけであるから、後は、その下請け業者の社内給与体系が独自に設定される訳である。

下請け業者は大企業ではないから、労働組合も存在しないだろう。

「就業規則」では、残業・休日手当の「記述」が有っても、「例外条項」が常態化しており、事実上、支払われていない可能性が高い。

結局、全体的で見るならば、人件費は増額・上昇されることが抑制されているのである。

これでは、デフレは解消され得ない。

一方で、若くて仕事が出来る「使える」人間は、どんどん流出し、残るのは自分のようポンコツばかりなのである。

仕事量は減らない。

しかし、人員は確実に減っていく。

派遣会社もさぞかし苦悩しているのであろう。

だから、「今日、休ませてください。」と云われて、「はい、そうですか。」と承諾出来ないのである。

「何とかなりませんか?」と云うしかないのだ。

そして、ここ最近は、「体調管理をしっかりしてください。」と云われる。

確かに、突然、穴を空けてもらったら人の振り分けが大変なのは事実である。

しかしながら、駄目なものは駄目だし、無理をすることはリスクを高めることになる。

だから、「今日、休まれると困るのだ。」と云われて、情にほだされて、頑張ってしまう人は「良くない」のである。

それは、善意であり、誠実さであるのだが、それは結局、組織の構造的問題を各自の奮闘努力によって糊塗しているだけに過ぎないのである。

日本人の大好きなものの一つに「突貫工事」が有る。

つまり、納期期限のギリギリに成って、無我夢中で仕上げることである。

そして、その業務やプロジェクトに参加した個々の人間の奮闘努力のお蔭で、どうにかこうにか「間に合う」のである。間に合って「しまう」のである。

だが、これは、経営的観点からみたら「邪道」「外道」であろう。

本来ならば、緻密な「行程表」を作成し、その「行程表」に基づいた流れで、粛々と業務を遂行していかなくてはいけない筈なのである。

その場、その時の突発的な、場当たりな対処は、臨機応変の即応性が有るという「美名」がかぶせられるが、実は単なる「無計画」な「行き当たりばったり」でしかない。

そして、それは、「経費の増大」となり、「赤字の増大」となり、「損失の増大」と成る。

業務の「無計画」は、利潤の減少に直結する。

それは、業務の非効率そのものを放置していることである。

つい先日、広告業界最大手の「電通」に於いて、東京大学卒の才媛の新入社員が過労の末に自殺に追い込まれた。

痛ましい限りである。

「東京大学卒だから」と決め付ける訳では無いのだが、やはり「泣く子も黙る」www天下の東京大学に入学し卒業出来た人間である。

将来が嘱望されて当然だろう。

そういう有為の若者を、その「社会貢献」への「入り口」の段階で磨り潰してしまうというのは、全く以て愚かしいことである。

まあ、以前から、「電通」という企業の過労体質は有名ではあったのだが、広告宣伝という極めてクリエイティブな業務が文字通りの「殺人的」な過労・多忙であるということが異状である。

よりクリエイティブな「仕事」をしようと思えば、ゆとりと遊び心が絶対的に必要不可欠であろうに。

それにかてて加えて、自殺へ追い込むまでの「人格攻撃」まで常態化しているというのならば、それはクリエイティブな成果とは無縁の「場」であろう。

自分は、「電通」を「特殊」な会社だとは思う。

だが、「極めて特殊」ではない、とも思う。

「電通」は、日本の大企業全体の一つの「症例」であり、そこから日本の大企業に共通する「病理」を分析し、解決策を見出していかなくてはいけないだろう。

話は、自分のことに戻る。

自分は、「仕事が出来ない」し、人間的にも「個性」が濃過ぎ、さらに四十歳代半ばで、特殊技能も知識も無く、過去に於いて目覚ましい業績も上げられなかったポンコツである。

だから、現在は派遣労務者を、何とか生業にしているのだ。

しかし、自分は、出来ないなりに一生懸命に仕事をさせてもらっているつもりである。

それを、体調不良による突発的な欠勤を咎められてしまうのは、確かに申し訳ないと思いつつも、何故、そこまで指弾されなくてはいけないのか納得がいかない。

何しろ、自分には有給休暇も無いし、雇用保険以外の社会保障は無いのだから。

それを「急に休まれても困る。」といわれて、本心から「すいません。」とは思えないのである。

自分は以前から、別記先述しているように、「人件費」が「固定経費」であるという「概念」である以上は、デフレは絶対に解消出来ないと思う。

「人件費」は「長期的投資」であり、企業などの各組織の永続的な維持の為の能動的かつ主体的な出費であることを「意識」するべきであろう。

現在、外国人労働者の受け入れを強く求める声が財界から上がり始めた。

確かに、「とにかく人手が足らない!」という悲鳴から起因しているのだが、それがさらなる人件費の抑制・削減を求めた上での結論であるのであるならば、それは外国人労働者への冒涜以外何ものでもなかろう。

「日本人は安くこき使えないから外国人で。」という「意識」であるならば、それは経済至上主義に立脚した「外国人差別」「外国人蔑視」であろう。

そもそも、日本人でさえ満足に「使いこなせない」職場が、言語も価値観も時間的感覚も倫理・道徳観も全く異なる外国人労働者を「使いこなせる」筈が無いだろう。

まず、業務に於ける、伝達も指示も曖昧模糊としている。

さらに、日本人の、しかも今や日本人の年配層でしか通用しない「常識」を振り回す。

そして、「空気を読め」「仕事は盗むものだ」という、「黙契」ばかりの職場には混乱と衝突しか有り得ないだろう。

日本の職場の効率性の無さ、世界的な労働生産性の低さはここに有る。

それは、日本人の勤労観が「神聖」であるからでもある。

日本の神話に於いて、天神も勤労される。

機を織り、鍛冶を行い、稲作に従事されるのだ。

だから、勤労は「神事」であり、勤労する「仲間」が一緒に居るということは、「祭り」に従事していることに等しい。

だから、残業時間に突入しても、仕事が有る人も無い人も、等しく「残らないといけない」「空気」に成るのは、「神事」に参加した人間が自分勝手に退出することが憚られるからである。

一方、欧米に於いては「旧約聖書」の「創世記」に於いて、エデンの園で何の苦しみも無く暮らしていたアダムとイブは、蛇(悪魔とされる)にそそのかされて善悪の知識の果実(りんごと云われる)を、「取って食べると死ぬであろう」という神の戒めを破って、もいで食べてしまった。

その「原罪」ゆえに、女に対しては産みの苦しみと夫からの支配を、アダムに対しては地から苦しんで食物を取ることと土にかえることを預言した(創世記316 - 19節)という。

つまり、「旧約聖書」によれば、人間の死と勤労は神から課せられた原罪からの罰であるのである。

だから、勤労は悪であり、「聖」と対立する「俗」であるのである。

だからこそ、「安息日」は「勤労してはならない」のである。

「勤労」することは「祈り」を妨害すること「悪事」なのである。

だが、再び日本に論考を戻すと、日本人は勤労の中に「祈り」を込めるのである。

「技、神に迫る」と云ったり、勤労に精勤することは、「祈り」そのものと成るのである。

日本人の「勤労観」は素晴らしいと自分は痛感するのであるが、だからといって、日本人の立ち居振る舞い、物事の考え方捉え方が全部、「問題が無い」と受け止めては絶対にいかない。

時と場合によって、長所と短所が逆転することも有るのである。

或る時の「強靭さ」が、或る時には「脆弱さ」として変転することが有るのである。

さて、「正社員」は長時間の「職場」への拘束を課せられ、非正規雇用者はそうではないのは、非正規雇用者は結局、その「職場」に於いて「よそ者」だからである。

「よそ者」だから、「神事」に列席することは許されないし、そして「神事」の「利益」を享受することも許されないのである。

この日本人の深層意識に有る「勤労意識」と、昨今の労働環境の状況を考慮するのならば、間違い無く正規雇用者は激減するであろう。

事実上、役所に於ける「キャリア」と「ノンキャリア」のような捉え方に成ると思う。

つまり、企業などのその組織に於いて、将来の経営陣候補者以外は、最早、正規雇用者にすることをしなくなるのである。

いわゆる「新入社員」は「若干名」と成り、後は非正規雇用者の群れに入るしかなくなる。

さらに、AI(人工知能)やロボットなどの技術革新のお蔭で、労働に対する対価は暴落するだろう。

つまり、いくら働いても働いても、到底財産が築けなく成るのだ。

さらに、あらゆる知的分野で「データ化」が進んで行けば、「データ化」はその複製と拡散は瞬時にしかも膨大な多量が可能であるので、知的価値の稀少性は皆無と成る。

事実上、知的分野に於ける「価値の創造」「富の創出」は有り得なくなるだろう。

結局、財産は、最早、今後、新たに創出されることは有り得なくなると思う。

そうなれば、現在の「資本の格差」が相続・継承され、加速度的に貧富の差が増大することに成るだろう。

一般大衆の所得は増加することは無い。

後は、その「貧しさ」の中から、いかに「生命の危機」と「精神の危機」を除去・回避していくかが問われていくだろう。

今後、目覚ましい豊かさは有り得ない。

後は、つつましやかな幸せ以外は、大多数の人間は望むべきもないのだ。

持ち家は激減するだろう。

賃貸暮らしが主流と成る。

また、日払い・不定期給与が一般化するだろう。

だが、これを悲嘆する必要は全く無い。

じつは、「借家暮らし、日払い」という江戸時代の庶民の暮らしそのものなのだ。

つまり、落語の中の「熊さん」「八つぁん」の暮らしである。

要は、江戸時代まで引き戻さるということである。

ただ、そこにAIやロボットなどが存在する訳である。

絶望することはない。

その時その時に応じた暮らし方をしていけば良い話しだ。

さながら、漫画やアニメの「銀魂」のようではないかwww

それはさておき、日本人のエリート教育の不味さは定評が有ってwww、有為な秀才ばかりを揃えた筈が、いつの間にか組織の破綻に到達した事例ばかりである。

大東亜戦争の惨敗もそうであるし、かつての花形大企業が経営不振で苦悶するのもそうである。

その「組織」の幹部は、皆、揃いも揃って「秀才」ばかりである。

また、将来を嘱望された幹部候補生が、様々な理由でドロップアウト(脱落)することもまま有る。

そうなった時、「若干名」の幹部構成が欠員して、至急に補充を必要とする事態と成るかもしれない。

ただ、日本の「現状」の組織運営を見たならば、せいぜい、傍系部署に左遷させられた人間を呼び戻すことぐらいが関の山だろう。

日本人は実は「才能」が好きではないのだ。

むしろ「お人好しの無才無能」を好むのである。

何故なら、「才能」は、時としては調和を乱すからである。

組織や社会の維持・発展を望むよりも、眼前の調和が第一であり、絶対であるのだ。

手段と目的の捉え方が、そうなのである。

だから、日本に於いて「才能」は、往々にして「異物」扱いに成る。

今後、日本人の優秀な子供達はどんどん海外の大学へ進学して行くだろう。

一方で、逆に外国人もどんどん日本に住み着いて来る。

そして、日本人と外国人との混血(ハーフ)も増えて来よう。

そうなった時、どうなるのだろうか?

あくまで現時点であるが、海外の大学、具体例としてはハーバードだとかエールだとかUCLAだとかを卒業した若者は、間違っても日本の企業に「新入社員」で入ってはいけない。

潰されるか、追い出されるか、どちらかである。

そういう「無理解」な「場」に入るには、キャリアを積むしかない。

まず、海外で十年ほどキャリアを積む。

そして、「中途入社」へヘッドハンティングされれば良いのだ。

「無理解」であることに代わりは無いのだが、キャリアを積んでいる「だけ」で、「無理解」に平伏してくれるのである。

まあ、かつての「舶来品」に対する「心情」と同様である。

但し、日本の組織に於いては、どうあがいても「よそ者」であることを忘れてはいけない。

優秀であるかどうかは、問題ではない。

「生え抜き」であるかどうかが決定的なのである。

所詮、自分達は「客人神」でしかないと、割り切るべきであろう。

 

まあ、どちらにせよ、そういう雲上人の世界は最早自分には関係無いのでどうでも良いのだがwww

どうも愚痴が冗長過ぎたようである。

駄文、乱筆を何卒ご容赦の程。

フィデル・カストロが平成28年2016年11月25日に死去した。

1959年のキューバ革命の指導者であり、1962年のキューバ危機の原因となるソ連核ミサイル配備にも大きく関わった。

まさに、「米ソ冷戦」の主要人物であり、「20世紀の生き証人」であった。

ただ、彼の死を契機にして、「最後の社会主義国・キューバ」と云うような報道が有るが、間違いではないが、正確でもないと思う。

そもそも、フィデル・カストロという「革命家」を「社会主義者」「共産主義者」と一言で片づけてしまうことが、知的怠慢以外、何ものでもない。

フィデル・カストロは、「キューバ共産党」の「中央委員会第一書記」というトップではあったが、自分の眼からみると、彼は「共産主義者」というよりもあくまで「反米主義者」だったと感じる。

アメリカと、その傀儡である旧体制の支配層たちに対する憎悪が、「革命家」カストロの原点であろう。

米ソ冷戦構造という当時の世界情勢の中に於いて、「対アメリカ」という立場を取った場合は、結果的にソ連側・共産主義勢力へ身を寄せるしか活路は見出せなかった。

「対アメリカ」、というよりも「対欧米」という、植民地からの独立闘争を第二次大戦以降に志向した場合、民族主義(ナショナリズム)と社会主義の「複合」体制で戦うことがほとんどだった。

アフリカ・リビアに於けるカダフィ大佐の「緑の革命」や、イラクやその周辺国の政党「バース党」は、イスラムと社会主義による革命運動であった。

また、ミャンマーのアウンサン将軍やインドネシアのスカルノも、植民地解放・民族独立戦争として、多分に社会主義的であった。

インドに於いても、「ネタジ」チャンドラ・ボースが、大東亜戦争敗戦直後、ソ連へ亡命を意図したが航空機事故により客死することになった。

ベトナム戦争も、カンボジア内戦も、いずれも旧植民地宗主国やアメリカとの対決による図式であった。

だから、フィデル・カストロの「根っこ」は反米主義の民族主義者であるとみなすべきであろう。

ただ、アメリカと軍事的対立状態、戦時状態のままであったため、「戦時独裁」としてキューバは「共産党一党独裁」が正当化されたのである。

キューバとしてのナショナリズムが厳密に保障され得るのであるならば、アメリカとの平和的共存も可能であろうし、共産主義色を薄める「改革路線」を進めることにも成って行くと思う。

なお、フィデル・カストロは「無神論者」であるというが、キューバなどカリブ海周辺国の「民俗宗教」に関しては、「親和性」が有ったようである。

キリスト教カソリックに対しては、「対欧米」という対決姿勢から冷淡だったように感じる。

共産主義者は、冷徹なマキャベリストであるので、革命の成就の為ならば、ナショナリストにもインターナショナリスト(グローバリズム)にも、情況や時と場所によって変幻自在である。

そういう「ご都合主義的な使い分け」を行えることに、心理的な抵抗感が全く無い。

或る時は「民族自立」を訴え、或る時は「偏狭なナショナリズムを超克して汎世界的志向を」と云い出す。

だから、日本に於いても、ナショナリズム(民族主義)と社会主義イデオロギーが融合した場合は、社会主義「革命」が十分に現実化する危険性が有ったのである。

取り分け、日本の左翼が煽ったのは「反米」であり、「戦時独裁体制」を「天皇制」と刷り込んで「階級闘争史観」「身分解放闘争史観」を植え付けたのである。

だが、そのもくろみは、現時点に於いては、一応、頓挫している。

とは云うものの、左翼は全滅していないし、一方の保守派は様々な面での劣化が著しい。

一気に巻き返される危険性は大いに有る。

 

キューバと云えば、かの文豪、アーネスト・ヘミングウェイが思い起こされる。

ヘミングウェイの諸作はどれも名作であるが、1940年の「誰が為に鐘は鳴る」は1943年に映画化された。

原作の小説も、映画も共に今や「古典」であろう。

この題名の「誰が為に鐘は鳴る」は、元来は16世紀イギリスの詩人にして英国国教会の司祭であったジョン・ダンのものの一節であった。

「ゆえに問うなかれ 誰がために鐘は鳴るやと。其は汝がために鳴るなれば」と。

全文の和訳は下記の通り。

 

「誰がために鐘は鳴る」

 

 人は離れ小島ではない

一人で独立してはいない

人は皆大陸の一部

もしその土が波に洗われると

 ヨーロッパ大陸は狭くなっていく

 さながら岬が波に削られていくように

 あなたの友やあなたの土地が

波に流されていくように

誰かが死ぬのもこれに似て

我が身を削られるのも同じ

 なぜなら自らも人類の一部

ゆえに問う無かれ

誰がために弔いの鐘は鳴るのかと

 それが鳴るのはあなたのため

 

(浜野聡訳)

 

自分は、映画「誰が為に鐘が鳴る」を見終わった時、即座に、靖国神社の英霊のことを想起した。

「誰が為に鐘は鳴る」は、スペイン内戦の共和国軍側の人民義勇軍の兵士が主人公である。

だから、「左翼」なのであるが、我が身を顧みず、仲間の為に殉じるありかたは「共通」である。

だから、「誰が為に鐘は鳴る」を英雄的行動と賞賛しつつ、靖国神社の英霊を「犬死」とか「死を強制させられた犠牲者」だと悪罵するような「使い分け」を、自分は絶対に許せない。

我々の生命は、自分自身の個有の「生命」であると同時に、世界全体の大いなる存在と一体なのである。

他の殺生を禁じるのは、殺生が究極的には自らに向けられるからに他ならない。

一人びとりの「生命」は、一つ一つであるのだが、それは大きく「一つ」につながっているのである。

だが、近代的「個人主義」は、この「概念」を否定してしまった。

だからこそ、D・H・ロレンスは「現代人は愛せない」と喝破したのである。

現代人の孤独感、寂寥感が絶望的なのは、ひとえに、ここに起因しているのである。

どうも風邪をひいてしまったようである。

咽喉が腫れ、鼻水が止まらず、全身から疲労感が抜けない。

まあ、疲労感が抜けないのは、「いつも」のことでもあるのだがwww。

風邪をひく、もしくは、体調が悪くなることは、不本意である。

だが、「業病」と違い、風邪というのは畢竟、日常生活、立ち居振る舞いの結果である。

日常生活や立ち居振る舞いに、そもそも無理が有ると受け止めた方が宜しい。

人体は、これ一つの「小宇宙」である。

上がり調子の時もあれば、下がり調子の時もある。

その時々をよくよく見極め、然るべき対処を行うべきなのであって、一喜一憂したり、ましてや腹を立てるようなことはしてはいけないだろう。

風邪をひくのは、絶対的なことではない。

気候の変動など、自分を取り巻く環境の要素も大きい。

だから、風邪をひいたり、体調が悪くなったことで感情的に成ってはならない。

 

よく、「残念な報告」を耳にすると、途端に機嫌が悪く成る人が居る。

そういう人は、物事の本質を見ようとせずに上っ面だけで判断する愚か者だろう。

多分、「残念な報告」をする者が、「残念な報告」の元凶そのものだと思い込んでいるのである。

「そんな馬鹿な」と思われるかもしれないが、そういう愚者は実在する。

「残念な報告」をして来た人を厭うばかりでなく、「残念な報告」の根本である災厄そのものも厭うことで根本解決出来ると思い込んでいるのだ。

むしろ智者とは、「残念な報告」をして来た者を賞賛し、感謝するものである。

世の中に、あまりに愚昧な輩の誠に多きことよ。

昨日は、三島由紀夫大人の「憂国忌」であった。

以前、別記先述したとおり、自分は、三島由紀夫大人に対しては「半分しか支持出来ない」。

何故なら、三島由紀夫大人は、最終的に熊本の「神風連の乱」に到達してしまわれたからである。

「神風連」とは敢えて端的に無理やり云い切ってしまうと、「日本回帰、欧化拒絶」であろう。

これは、「心意気」や「精神的拠り所」というかたちであれば、自分は首肯可能である。

しかしながら、政治運動目標、もしくは軍事戦略として採用することに関しては、自分は理解も納得も不可能である。

政治運動や軍事戦略とは、結局、成果が全てである。

その過程や内面世界の純粋さや葛藤の辛さなどは、全く評価には成らない。

結局、三島由紀夫大人は、徹頭徹尾、「文士」としてあり続けたのである。

芸術家であるがゆえに、「美」に殉ずることが許され、様に成ったのである。

政治が醜悪なのは、「美」に殉ずることが困難だからである。

三島由紀夫大人は、政治や国防の改革を主張しながらも、最終的には自らが「美」への殉教者として「芸術家」として死ぬことに確信的だったと思う。

つまり、三島由紀夫大人は、あまりに見事に、自分の生涯をひとつの「小説」として完成させることが出来たのである。

「三島義挙」は、あまりに政治的ではなく、あまりに文学的であったのである。

だからこそ、世人は「三島義挙」に「酔える」のである。

そして、「三島義挙」から呪縛され、この「難問」に何年も何十年も取り組まざるを得なくなるのである。

逆に、あまりに「政治的」な代物には、明確に「賞味期限」が有るのである。

三島由紀夫大人が帰天されて、なんと46年である。

45年以上も歳月が経過してもなお、今現在も「三島義挙」が色褪せないのは、単なる政治闘争に止まらなかったからである。

世人は、「三島義挙」に究極の「美」を感じ、意識するがゆえに、今もなお、圧倒されるのである。

理詰めのロジック(論理)で構成されていないから、一向に古びないのである。

「三島義挙」に対しては、その「美」を深く深く受け止めるべきであろう。

だが、「美」を意識する以上は、それとは別に、具体的な論理と戦略の構築を目指して行くしかないだろう。

だからこそ、自分は、三島由紀夫大人に対して「半分しか支持出来ない」のである。

昨日、仕事でトラックの助手席に座って、新宿の街を走っていたら、新宿警察署の前で、今時のスポーツタイプの自動車が一時停車していた。

助手席から20歳代の若い女性が降りて行った。

運転席には、やはり20歳代の若い男性が運転していた。

何故、自分が注目していたのかというと、この、今時のスポーツタイプの自動車に靖国神社の交通安全磁石ステッカー型お札が貼られていたからであった。

以前は、車の後部に、神社・仏閣の交通安全ステッカーお札が貼られていることが多かったのだが、ここ最近は、ステッカー型のお札はあまり見ることが無くなった。

多分、車の後部ガラスや表面に、何も貼りたくない風潮に成ったのであろう。

その点、磁石ステッカーだと貼るのも取り外すのも容易なので、気に成らない。

それはさておき、自分が注目したのは、今時のごくごく普通の感じの若者が、何の気負いもてらいも無く、或る面、気軽に靖国神社の交通安全磁石ステッカー型お札を貼っていたことにある。

何故、そこを強調するかというと、自分が20歳代だった約20年前の昔では、考えにくいことだったからである。

靖国神社は「軍国主義の象徴」で、「右翼の集まるところ」で、「そんなものは古臭い、アナクロイズム」だったのである。

だから、靖国神社絡みのステッカーを貼るのは、さながら暴走族上がりの街宣右翼っぽい車しか有り得なかったのである。

だが、現在、若い世代にとって、靖国神社はごくごく普通の「有名な」神社に成りつつあるようである。

このことを批判的にとらえる人もいるだろうが、自分としては、取り敢えずこれを素直に喜びたいと思う。

とにかく、若い世代の方々に、馴染んでもらうことが重要なのである。

確かに、「歴史認識」や「政治的スタンス」など、批判的に取る人も多いだろう。

だが、亡くなった方々の魂に対して礼拝することを、何故、ああまでに悪しざまに云うのだろうか?

左翼は左翼なりに主義主張をするのは、別に良いだろう。

だが、何故、亡くなった方々の魂の「祭祀の仕方」まで、あれこれと批判されなくてはいけないのだろうか?

亡くなった俳優で司会者でもあった愛川欽也は、明確な左翼思想の持ち主だった。

だが、彼は毎年靖国神社の7月の「みたままつり」に於いて、献納ぼんぼりを出していた。

つまり、故・愛川欽也は、政治信条としては左翼ではあったが、靖国神社の英霊に対する崇敬の念は格別であったのである。

自分は、これはこれで「正しい」と思う。

それこそ「政教分離」を厳格に言い募るのであるのならば、政治的な論理でもって靖国神社を批判するのは、「政教分離」の主張と論理的整合性が破綻している。

だから、本当に「政教分離」の論理を貫徹するのであるのならば、

「靖国神社の附属博物館である遊就館の説明はおかしい。

しかし、宗教的祭祀施設である靖国神社そのものに関しては、一切批判は行わない。」

と成るべき筈なのである。

総理や閣僚の靖国神社参拝などは「政教分離」に反するとして批判するのだが、そもそも、その批判自体が「政教分離」に反してはいまいか?

要は、「ご都合主義」の「ダブルスタンダード(二重基準)」なのだ。

そういう、感情的な「論争」しか仕掛けられないから、知的劣化を露呈して、主義主張も政治運動も破綻していくのである。

知的誠実さが欠如した途端、知性は失われ、尊厳も失われる。

左翼・リベラルが、敵対陣営に対して「反知性主義」のレッテルを貼りまくって大得意に成っているが、あまりに性質の悪過ぎるブラックジョークである。

多分、彼等は鏡に写った自分自身を指弾していることに気が付いていないのであろう。

「天に唾する」とは、まさにこのことなのだと自分は思う。

蓮舫は懸命に、世間一般大衆から「親しみ」を得ようと必死のようである。だから、敢えて、プライベートを晒した訳である。だが、そのもくろみは当てが外れたようである。確かに、「身の上話」をすると、聞かされた相手は親近感を持ってくれることが多い。だが、話し方によっては、鼻白む結果に成ってしまうことも有る。多分、蓮舫は、視聴者や有権者を巨大な「群衆物」としか理解出来ていないのであろう。一人びとりの血の通った、生身の人間によって構成されているということが心の底では解っていないのだと思う。

だから、視聴者や群衆に対しては、「ここを押せば、こういう反応に成る」といったテクニック、手練手管で承知しているのである。

勿論、技術論で対処することは有効であるのだが、その成功は一面的な結果でしかない。

状況や条件の変化によって、即座に破綻し得る。

結局、うわべだけに捉われて、本質を見誤まっているのである。

蓮舫が政治的指導者としての今後は、やはり絶望的だろう。

所詮、陣笠議員止まり、というところだろうか。


蓮舫は多分「頭が良過ぎる」のだろう。だから周囲の人間が皆、愚かに見えるのであろう。だが、賢いばかりの人間と一緒に居たいと思う人は、まず、いない。後に続き、下支えをしようという人もいないだろう。単独行動で結果が出せるアスリートやアーティストやアカデミズムならば、それでも良かろう。だが、政治家や組織人としては致命的な欠陥でしかない。頭が良いに越したことはないのだが、やはり「過ぎたるは及ばざるが如し」であろう。

 

蓮舫の家族の現状の報道を見るにつけ、SFの古典と云われる「アルジャーノンに花束を」を思い出した。

かの「アルジャーノンに花束を」を読んで、何故、我々は感動するのだろうか?

それは、人間にとって一番大切なのは「知能」ではない、ということである。

賢さは無いより有った方が良いのであるが、それよりも何よりも大切なのは、人間としての「愛情」、つまり「思いやり」であるということであろう。

主人公は、知能の急激な低下と自らの死の訪れを予感しつつも、先に死んでいってしまった実験動物であるマウスのアルジャーノンへ花束を捧げて欲しいと頼むのである。

この情愛の優しさこそが、何よりも重要なのである。

智の賢きは生きていく上でのアイテムの一つに過ぎない。

「心」を失った者は、自他共に不幸である。

付記)

はからずも、蓮舫が自分の家族をマスコミに「晒した」お蔭で、自分は何となく「政治家・蓮舫」の「本質」が解ったような気がする。

以前から、自分は、何故蓮舫が政治家を目指したのか、よく解らないところが有った。

勿論、馬鹿じゃないし、見映えするし、街頭演説も上手いし。

だから、選挙にだって強いから連続当選出来た訳である。

しかし、「では、政治家・蓮舫は一体、何を目指しているのだろうか?どのような政治を実現しようと考えているのであろうか?」という問いが思い浮かんだ時、自分は、その解答が出て来なかった。

現に、今年平成28年7月の参院選で、蓮舫の選挙ポスターに於いて、唯一、自分の「政策」をポスターに明記していなかった。

つまり、投票用紙に記入するに当たって、最低限必要な候補者名・蓮舫しかポスターは訴求していなかったのである。

自分は、その選挙ポスターを目にした時、或る面感心し、或る面辟易とした。

そして、選挙後、蓮舫は民進党の代表と成り、4か月が経過した。

そこで、ようやく政治家・蓮舫の「本質」が理解出来たのである。

蓮舫は、具体的に実現したい政治や政策など、皆無なのだ。

ならば、蓮舫は、いったい何故参院選挙に立候補して参院議員に成ったのか?

さらに、野党第一党の民進党代表まで上り詰めたのだろうか?

結論として、蓮舫は、ただ単に、脚光を浴びたいだけだったのである。

賞賛され、拍手され、歓声を浴びる。

これが蓮舫の本当に求めていた到達点なのではないだろうか?

つまり、脚光を浴びるのであるのならば、芸術家であろうが、事業経営者であろうが、アスリートであろうが、宗教指導者であろうが、そのいずれでも良かったのだと思う。

ただ、単なるグラビアアイドル、テレビタレントであることに、蓮舫のプライドが満足出来なかったのであろう。

ということは、蓮舫にとって、グラビアアイドルもテレビタレントも蔑みの対象でしかなかったということである。

「自分は、こんな状態で馬鹿にされたくない。いつか世間を見返してくれる!」と。

蓮舫の中には、明確な上昇志向と差別意識が見て取れる。

だからこそ、蓮舫に対して辟易とする人間が出て来るのであろう。

議員や閣僚に成るには、まず、選挙に当選出来なくてはいけない。

だが、選挙に強いから、政治家として優れているのか、また、閣僚として相応しいのかというのは必ずしも云えないのである。

確かに蓮舫は選挙には強い。

投票行動を惹きつけるだけの「もの」を持っていることは確かである。

だが、それが政治家として相応しいものであるかどうか、というと大変疑わしい。

残念至極である。

自分は東京生まれの東京育ちである。

「東京」と一口に云っても、自分は三多摩地域のニュータウンで幼稚園から大学卒業まで住んでいたので、全然「都市住民」ではなかった。

小学生の時には、まだ近所でザリガニが取れた。

最寄駅までの途上でキジの鳴く声を聞くことも多かった。

また、両親のルーツは共に千葉県であって、夏休みに「田舎に帰る」と云っても、通勤電車で移動するだけで事足りた。

だから、小学生の時に、同級生が「新幹線に乗った」「飛行機に乗った」という話を聞くたびに、羨望を感じたものであった。

社会人に成って、ようやく、実家が遠距離である人のご苦労が理解出来た始末である。

切符が取れない、天候などによって行き来が遅延する、何しろ交通費が多額、などなど。

そういう意味で、自分は東京近辺しか「意識」していなかったのである。

 

社会人に成り、企業に勤務するように成って、自分はいきなり縁もゆかりも無い、「大阪」の営業所に赴任した。

父からの縁故入社という経緯も有り、自分は過剰にプレッシャーを感じていた。

「上手くやろう」「失敗は出来ない」という思いから、全身の緊張は過度であった。

当然、右も左も解らない、何をどう手を付けていいのか解らない、そんな状態で力み過ぎた訳だから、空回りに成らない筈が無い。

やればやるほど、頑張れば頑張るほど、ドツボに嵌まっていった。

まず、職場にかかって来た電話が取れない。

何とか受話器を取っても、どもったり、言葉遣いがてんで「日本語」に成らないのである。

一方、こちらから電話を掛ける時には、緊張と恐怖のあまり全身汗だくで手が震える。

こんな状態では「仕事」に成らないと判断されてしまうのは時間の問題だった。

「やっぱりコネで入って来た奴は使えない」と烙印を押され、職場に自分の居場所は無くなってしまった。

 

そんな、辛くて苦しくて悲しい時、自分を癒してくれたのは「大阪」の街であった。

梅田やなんばの街を歩き、食事を取っている時、苦しみと混乱しかない職場を忘れることが出来た。

結局、一年足らずで自分は関東へ引き戻されたのだが、自分にとって「大阪」の街は楽しい記憶しか残っていなかった。

自分が大阪営業所から離れてすぐに、大阪営業所内で交通費の不正受給の醜聞が露呈した。

つまり、「カラ出張」である。

所長は左遷され、先輩の一人は懲戒解雇。残りの先輩も全員処罰された。

だから、もし自分が大阪営業所で「いじめ」に合わず、先輩と「仲良く」やっていたら、自分も不正に手を染めて、処罰されていたと思う。

世の中は、結果的にどう転ぶか解らない。

また、職場の電話がろくに出来ない体たらくだった自分は、それから2年後には「カスタマーコールサービス」で精勤するように成った。

ユーザーからのクレームを聞き、なだめ、情況を聞きだし、最後は電話して来たユーザーに頼み込んで機器の故障を直してもらうところまで到達した。

人間というものは「変わる」のである。

「変われる」のである。

人間というものは、化けもするし、腐りもするのである。

ゲームのキャラクターのように、使えるキャラと使えないキャラの二つに大別されて固定化されている訳では無いのである。

 

その後、自分の所属していた部署が、「選択と集中」の経営方針のもと、他社へ「業務権譲渡」された。

「身売り」である。

営業部門の人員は全員「異動」することに成り、技術サポートチームと製造部門は2年間の「出向」と決まった。

この時の営業部門の職場の人心のすさみようは、目を覆わんばかりであった。

朝、職場のデスクに来ても仕事に成らない。

転職活動に明け暮れたり、まだ社内のインターネットへの規制が為されていなかったので職場で一日中ネットサーフィンしている者も居た。

幸い、自分は機器の修理に忙殺されていたので、黄昏(たそがれ)ている暇は無かった。

組織が崩壊して行く様をつぶさに見ることが出来たことは、むしろ良かったと自分は、今、思っている。

 

そして、「出向」期間が終わり、自分は「転籍」を拒否して「復帰」した。

だが、いわゆる「事業部制」の企業組織に於いて、トウの立った30歳過ぎの自分を引き取ってくれる部署はなかなか見つからなかった。

「事業部制」というのは、云わば、企業内企業で、その事業部に新卒で配属されたならば、定年退職するまでは事実上その事業部内でしか人事の異動が有り得ないのである。

だから、所属する事業部から違う部署に移る場合、ほとんどは上長や職場からダメ印の烙印を押されて追放された人ばかりであった。

当然、そういう人たちの受け入れ先の部署がどういうところであるかは、説明するまでもないだろう。

自分は、いきなり、大阪の「堺工場」内の研究所へ異動することと成った。

新しい職場は、上司も先輩方も、全員「いい人」ばかりであった。

その部署は、管理職であれ、非管理職であれ、花形で主流の部署から転出して来た人ばかりであった。

勿論、新卒からの生え抜きの人も居たのだが、その職場の多くの人が「追われて」「飛ばされて」来た人だった。

そういう人が多い部署は、「人の痛み」を知った人ばかりなので「やさしい」。

勿論、中には因業な性格の人も居たが、職場全体としては真面目で実直な「いい人」ばかりの職場であった。

だが、「研究支援」の職場だったので、製品開発や品質管理に関しての「専門知識」や技術が必要不可欠だった。

自分は不器用で、どちらかというと外回りの仕事の方が好きであったこともあり、どうあがいてもうまくいかなくなってしまった。

何しろ、上司と先輩の業務上の会話の内容が全く理解出来ないのである。

「専門用語」によって構成された会話は、自分にとってさながら異国の言葉のようであった。

ついに、この状況に自分の心が悲鳴をあげた。

朝、起床出来なくなったのである。

自分はすぐに精神科を受診した。

うつ病と診断された。

それも、昨今急増している新型うつ病ではなく、オーソドックスな旧来のうつ病であった。

医師から診断書が書かれて自分は休職することに成った。

発病からしばらくは、一日中寝る事しか出来なかった。

食事も取らず、布団から出るのは便所に行く時だけ。

うつ病の症状の多くは「不眠」であるのだが、自分は「過眠」という「睡眠障害」の症状だった。

あとは、文章の読解力が無くなった。

新聞を読んでも、一つ一つの単語としてしか読み取ることが出来ず、文章として理解することが出来なくなってしまったのである。

読書など到底不可能だった。

終日寝たきりの日々がひと月ぐらい経った後、ようやく自分は少し起き出して、外出することが出来るように成った。

そんな自分を癒してくれたのは、またもや「大阪」の土地であった。

貝塚市の水間観音、泉佐野市の犬鳴山倶利伽羅不動、能勢町の妙見さん、堺の路面電車も何度も乗った。

そして、自分は大阪の「名画座」に通い詰めるように成った。

通天閣の下の「新世界」に在る、小汚い、路上生活者が暖を取りに眠りに来るような「名画座」へ自分は通い詰めた。

上映される映画は、往年の時代劇と任侠ものばかり。

主演する俳優は、鶴田浩二、高倉健の二人ばかりで、時々、藤純子(後の冨士純子)や中村錦之介(後の萬屋錦之介)に成る時も有った。

さらに、今時のお洒落な名画座である九条の「名画座」にも通い詰め、そこでは主に往年の大映映画を見た。

「カツライス」こと勝新太郎、市川雷蔵の映画である。

「新世界」では往年の東映の、九条では大映や東宝、松竹の邦画ばかりを見続けた。

また、九条の名画座では寺山修司や岡本喜八の映画も見た。

だから、一年で200本以上の映画を結果として見ることに成ったのである。

何しろ、1960年代の映画がほとんどで、緒形拳や高橋英樹、北大路欣也、里見浩太郎、中村玉緒がまだ初々しい「若手」だったのである。

多分、今の二十代、三十代の方々には解らないと思うがwww

だから、ボロボロに成った自分を癒してくれたのは、「大阪」と往年の娯楽映画だったのである。

自分のうつ病は、結局、大阪では快癒出来なかった。

というのは、折角、職場復帰するまで回復しても、職場は発病前と同じだったからである。

勿論、総務人事へは、異動願いを必死に成ってお願いした。

しかし、会社は決して応じてはくれなかった。

ついには、父の前立腺がん、母の乳がんの発病を理由に異動を申請したのだが、「個人の希望の異動は認められない」という回答であった。

そして、自分のうつ病は再発をした。

うつ病が再発しては、回復・職場復帰を繰り返していくうちに、ついに総務人事から宣告を受けることに成った。

「いつまで会社に迷惑をかけるつもりだ。治る見込みは有るのか。」と。

この期に及んで、自分は腹を括った。

退職願いを提出し、受理されたのである。

自分は、十七年勤めた企業に対して、恨みは無い。

結果的に休職期間は合算して2年以上になるだろうし、これは現在の平均的な企業の福利厚生としては大変手厚い方だと思う。

中には、3か月休職しただけで退職を強要される企業も存在する。

それに比べれば、はるかに温情であることは間違い無い。

だが、自分は、十七年所属した企業に対して恩義は感じるが、未練は一切無い。

最早、しがみつくのも限界だったし、展望も全く開けなかった。

今から思えば、うつ病発症の主因は職場との不適合だった訳だから、もっと早く退社し、治療に専念して再就職を目指せば良かったのだろう。

四十歳を超えた今現在、自分は「企業」では不要な存在である。

 

それはさておき、今の自分が有るのは、辛い時、苦しい時に自分を癒してくれた「大阪」である。

自分は、大阪で生まれ育った訳でも無いし、地縁血縁が有る訳でも無い。

ただ、そんな「関東のよそ者」の自分を、「大阪」は優しく受け入れてくれた。

だから、本当に「大阪」には感謝している。

自分は退職後、逃げ帰るようにして「大阪」を離れた。

だが、今、また、「大阪」と様々なかたちで御縁をいただき始めた。

今後、また、「大阪」へ赴く機会がいろいろと有りそうである。

どうやら、優しい「大阪」の土地の方が、この自分を手放さないようである。

 

最後にこの場を借りて一言御礼を述べたい。

おおきに、「大阪」。

自分は、英語がからきしであるので英文のサイトを読解することが出来ない。

そして、英字新聞も読めないし、英語の原典も当然理解出来ない。

また、政治に関してはあくまで「素人」である。

だから、以下に書き綴る内容は、全く以て的外れかもしれない。

もし、誤りが有れば、是非とも碩学の御仁よりご指摘を賜りたいと恋願うものである。

 

ドナルド・トランプが「まさか」の大統領選挙に勝利した。

さらに、選挙戦勝利後は、選挙中から「豹変」して、「穏健」な発言に成って来た。

既に、来年1月の新政権発足に向けて「人事」の「仕込み」が為されている真っ最中である。

さて、ドナルド・トランプが投票日に、その優勢が報じられると、まだ開票が終了していないにもかかわらず、証券や通貨の相場が大荒れした。

世界中に衝撃が走ったのである。

何故なら、トランプの政治的メッセージは、従来の政治的常識から見ると、あまりに野放図に見えたからである。

だから、トランプ政権に成ったら、先行きが全く不透明で予測が不可能。

翻弄されると予想した訳である。

ところが、トランプ当選確定後、彼は「まとも」に成ってしまい、逆に、事前の予想を裏切る言動に、世界中が安堵して、証券や通貨の相場の混乱は収束した。

これを受けて、トランプ政権に対する「安心感」が生まれ、「保守政治勢力」の勝利であるという満足感まで出て来ている。

だが、果たして「保守政治勢力」は勝利したと云えるのだろうか?

まあ、トランプ政権が実現することになるので、勝利は勝利だろう。

だが、それは、ドナルド・トランプという「トリックスター」による「奇手」「奇策」の「勝利」であろう。

つまり、アメリカ国民は、「保守」だから、「共和党」だから投票した訳では無い。

あくまで、突拍子も無い、「破天荒」なドナルド・トランプだったから投票したのである。

つまり、折り目正しい、上品な、常識的で無難な安定感の有る、いわゆる「保守本流」の「共和党」候補であったならば、多分、ヒラリー・クリントンには勝てなかったのではないか?

これは、つまるところ、アメリカに於ける「保守政治」そのものが、アメリカ国民にとって倦んでいる、食傷気味に成っているということを意味しているのではないか?

だから、ドナルド・トランプ政権の後、つまり、最長で8年後には、「アンチ・トランプ」を主張する極めてリベラルな民主党候補が勝利する可能性は濃厚であろう。

以前も指摘したのだが、アメリカの大統領選挙に於いては、むしろ「国政のベテラン議員」という「プロの政治家」は忌避、嫌悪、拒絶される傾向が強いのである。

思い起こせば、かのオバマ旋風もそうだった。

「チェンジ」を合言葉に、颯爽と登場したバラク・オバマは、政権発足当初はまばゆいばかりに光り輝いているように「見えた」。

しかし、あと約2か月で退陣する只今現在、「政権末期」という点を考慮しても、あまりに精彩を欠いているように感じられる。

これは、バラク・オバマは、間違い無く「新奇性」が感じられた。

新鮮さと何が出来るか先行き不透明な「ワクワク感」が有った。

だが、退陣間近な只今現在に於いて、結局、バラク・オバマは、「新奇性」だけしか無かったのではないのか?

そういう幻滅感ではないのか?

自分は、オバマ政権とトランプ政権を「同様」であると主張する訳では無い。

ただ、選挙戦に勝利出来た要因の一つとして、トランプが「ワシントンDCの住人」ではなかったということ。

つまり、「政界にズブズブ」の旧勢力の候補ではない、と見なされて選挙戦に勝利出来た、という点だけは共通しているように自分は感じるだけである。

今後、トランプ政権が、世界平和や経済・社会の安定に寄与するものであってほしいと切望する。

とにかく、「ドナルド・トランプ」という強烈な「キャラクター」、(これには「政策」も含まれているのだが)この「キャラクター」による訴求方法によってアメリカ国民の支持を固めていったと云えよう。

自分はこれに「既視感」が有る。

それは、既に十数年前の話に成るのだが、当時の日本の総理候補(自民党総裁候補)であった小泉純一郎が、「自民党をぶっ壊す!」と絶叫して、自民党総裁選挙に圧勝した時と重なって見えるのである。

小泉政権は、「保守政権」だったと云い切ってしまえるかどうかは、はなはだ微妙である。

だが、小泉政権は約5年という比較的長期の政権と成ったのである。

しかしながら、小泉政権下、明確に自民党は「破壊」され、「変容」を余儀なくされた。

そして、最終的には民主党大勝、政権交代という「惨事」に帰結したのである。

アメリカに於けるドナルド・トランプ政権も、従来型の安定感の有る「共和党候補」では、とてもではないが選挙戦に勝てないので、敢えて「奇策」で勝利したのであれば、それは「地力」ではない「うわべだけ」の「強さ」でしかないのであろう。

これは、或る面、明確に「保守政治勢力」の退化、劣化を意味しているのではないのか?

ならば、このドナルド・トランプ政権誕生も、「目出度さも、中くらいなり」と性根を据えていかないと駄目なのではないだろうか?

自分は、ドナルド・トランプ政権が駄目だと云うのではない。

アメリカの「保守政治勢力」そのものが、「危機」なのではないか?

そういう危惧なのである。

今後、ネットでの(特にSNS)での「おつきあい」というのが、重要度を増すと思う。

ただ、実際に、お会いしてみるということの重要性はいよいよ揺るがないとも思う。

特に、「同じ釜の飯を食う」という体験は、極めて重要だと思う。

「食べる」という「行為」は、決定的なのである。

 

ここ2年ほど、経済的な理由で、いわゆる保守の方々の集まりから遠のいている。

あとは、いわゆる保守の方々は、「序列」「ヒエラルキー」が有るのだ。

「過去の運動歴」だとか、「所属団体」だとか、「議員」「大学教授」「大学教員」「評論家」「作家」「ユーチューバ―」などなど。

そういう「肩書」や「名声」が大好きなのである。

だから、かつての一時期、日本文化チャンネル桜に出演した人物は、いわゆる保守の方々の集まりでは、「名士」扱いだった。

なんだかんだ云って、結局「有名人」が大好きなのであるwww

その点、今の自分は、いわゆる保守の方々が喜ぶような「肩書」は全く無い。

さらに、かてて加えて、正社員を辞めて、派遣労務者に成っている。

こんな奴、「取るに足らない」と思われて当然である。

例えば、かつて靖国神社崇敬奉賛会青年部「あさなぎ」の仲間だった某氏は、久しぶりにお会いして、当方が会釈しても全く無視する始末。

「あんなに頭の良い人がどうしてこんなことを。」と寂しい限りである。

まあ、甲斐性が無いということは、こういうことなのであろう。

現在、自分は名刺を持たない。

名刺を作ったところで、氏名と連絡先しか書けないからである。

それでも、以前は、名刺を作っていたが、現在は、潔く、きれいさっぱり「無し」にしている。

名刺が無いとほとんど良いことが無いのだが、利点が有るとすれば、本当にお付き合いをさせていただきたい御仁だけが残ることであろう。

「有名人」や「肩書」でもってでしか評価しない人にとっては、今の自分など、会釈をする価値も無いのだ。

だが、そんななかで、この自分という裸の本性をそのまま評価して下さる御仁だけが、手を差し伸べて下さるのである。

こういう方々こそ、自分が本当にお付き合いをさせて欲しいと恋願う御仁なのである。

自分は別に、「先生」と呼ばれたいとは思わない。

ただ単に、「仕事」が出来ればそれで良いのだ。

「道具」として使われ、それなりのお役が立てれば、もう、それで「男子の本懐」これに優るものは無かろう。

現に、拙ブログは訪問者数が少ない。

しかし、意外と読んでいる人は読んで下さっている。

ならば、もう、それ以上、何を望むのか?

別に、訪問者数に応じて、手数料が入る仕組みに成ってはいないし。

有名に成れば成ったで、いろいろ有ろうが、全部が全部良いことづくめと云うわけではない。

だから、焦らず、腐らず、今自分が出来得ることをひとつひとつ精一杯に努めていく。

これしか有り得ないし、これで良いと思う。

その「結果」がどうなるのかは、後は他人が決めてくれる。

そういう意味では、自分のあずかり知らぬことである。

自分の出来ること、自分のやるべきことは、全力で行う。

しかし、自分の手出しの出来ぬことは、他人に任せるしかない。

例え、それがどういう結果に成っても、甘受しなくてはいけない。

他人の評価が、つまるところ、自分の行って来たことの結果なのであるから。

我々にとって、自分の眼で見て、耳で聞いて、肌で感じたことが「実感」と云う。

そして、「実感」が累積することによって「経験」と成り、その他の知識や理屈で補強されることによって、あらゆる自分に関わる事柄への価値判断の目安と成る。

だから、自分の見聞きし、感じたことが一番、確固とした根拠に成る。

成る筈なのである。

だが、自分の眼で見たものが、自分の耳で聞いたものが、実は、現実に存在していないものであった場合、「自己」が依拠している自分自身の五感が如何に頼り無いものであるかと愕然とする。

そんな不可思議な体験が、つい先日、有った。

 

山梨県の身延地方は、南アルプス連峰のふもとである。

JRの身延線か、高速バスしか公共交通手段が無い。

だが、身延は日蓮宗の総本山身延山久遠寺が在り、その門前町である。

日蓮大聖人が佐渡の流罪を赦されて、支援者で身延地方の豪族(地頭)波木井(南部)実長公を頼って草庵に身を寄せられた。

日蓮大聖人は、「国主諫暁」をはじめとした、自らが先頭に立って布教活動する生き方から、法華経弘通の後継者を育成する方針へ転換された。

そして、日蓮大聖人はその最晩年を甲州身延の山里で過ごされ、現在の日本の「法華経信仰」の基礎を築かれたのである。

その身延山久遠寺からさらに山奥に進むと七面山が在る。

七面山は霊山として古来から信仰と修行の山であった。

山岳修験の霊場として存在していたのだろうが、日蓮大聖人が身延にお入りに成られて以降は、法華経信仰の聖地と成った。

法華経信仰をする者には、法華経擁護の諸天善神の守護が有る。

法華経擁護の諸天善神で有名なのは、法華経陀羅尼品第二十六で「五番神呪」とも云われる陀羅尼を発せられた、(二聖)薬王菩薩、勇施菩薩、(二天)毘沙門天、持国天、鬼子母尊神十羅刹女と法華経普賢菩薩勧発品第二十八で陀羅尼を発せられた普賢菩薩である。

だが、法華経を説かれた霊鷲山には、膨大な仏や菩薩、龍神(八大竜王)、魔神、夜叉羅刹に到るまで参集されたことから、法華経擁護の諸天善神はもっと多い。

映画「男はつらいよ」で有名な葛飾柴又の題経寺の帝釈天。

京都北山松ヶ崎の大黒天。

摩利支天、尊星王北辰妙見大菩薩(鎮宅霊符神)、二十三夜大月天、宇賀神、大威徳稲荷大明神、さらに法華経信仰に篤い武将だった加藤清正公も霊神としてお祀りされている。

そして、七面大明神、もしくは七面天女と呼ばれる福の女神が居られる。

七面大明神は、実は七面山の紅龍神であり、妙齢の女神である。

法華経を信仰する者の困難を開く為の鍵を右手に持ち(施無畏の鍵)、左手にあらゆる望みを叶える宝珠(如意珠の玉)を持つ。

七面大明神は、福の神の弁財天や吉祥天、厳島大明神(別名・宗像三女神、田心姫神(たごりひめ)、湍津姫神(たぎつひめ)、市杵島姫神(いちきしまひめ))と同じであるとされる。

つまり、水や芸事や財福などあらゆるご利益をもたらして下さる福の神なのである。

この七面大明神は、法華経信仰の者以外にも、特に江戸時代に於いて広く信仰された。

街中にも、七面大明神をお祀りする御堂が各地に建てられたのだが、その御堂に引っ掛けて、言葉遊びから「七面倒(しちめんどう)」(七面堂)と云う言葉が生まれたという説も有る。(諸説有り)

だから、法華経にずっと関わって来た自分としては、大阪府の能勢の妙見さんと奥身延の七面山にはいつかは参拝したいと念願していたのだった。

 

七面山には、自分がまだ江戸川区に住んでいた時に自家用車で参拝した。

もう、かれこれ二十数年も前の話しである。

まだ、自分は二十代の青年だったのだが、朝、車で出発した。

時期が何時だったのか、もう、忘れてしまった。

暑くもなく、寒くも無かった記憶なので、春ごろだったと思う。

七面山のふもとに到着したのが、午前10時頃だったと思う。

そこから、一気に山道を登っていった。

途中で白装束の行者さんの行列とすれ違った。

七面山は、新宗教団体の霊友会の開祖久保角太郎師が篤信されていたこともあり、いわゆる「霊友会系教団」の信徒さんたちが団体参拝登山をされている。

で、団参される方々は、「御来光礼拝」をされる為、夜に参籠されるのである。

だから、前日に登山して一泊し、払暁に富士山を拝みながら御来光を待つのである。

そして、御来光参拝が終わった後に山を下るのである。

自分は、参籠する予約の仕方も解らなかったので、とにかく、七面山まで行くことしか念頭に無かった。

自分は、ひたすら早口でお題目をあげながら、必死に成って登って行った。

そして、ついに七面大明神をお祀りする敬慎院に到着した。

一般的な「七面山登山」のスケジュールと異なるので、あまり参拝者はいなかった。

自分はすぐに「御開帳」をお願いして、参拝をした。

確か、御堂の中には参拝者は自分ただ独りだったように記憶している。

聞き慣れた法華経の速い読経がはじまり、火打石の切り火の音がしたので、平伏した。

御開帳と成り、晴れて七面大明神様が現れた。

七面大明神様の「像」は、予想以上に大きく、その御尊顔は真っ白であった。

満面の笑みをたたえておられ、そのお口からは白い可愛らしい歯まで確認出来た。

まさに美しい妙齢の女神の「像」であった。

すると、耳元で女性の声で、「この子、可愛い!」と云うのが聞こえた。

他に、誰もいないので、多分、自分のことを指しているのらしかったのだが、何とも気恥ずかしい感じだった。

喜色満面の「像」のお姿は、自分の目の奥に、深く焼き付けられた。

そうこうしているうちに、読経が終わり、この至福の時間も終わりと成った。

再び平伏し、「御開帳」は終わった。

自分は、七面山のことを事実上、何も知らなかったので、池が二つ有り、奥之院も別に在るということも一切知っていなかった。

だから、御開帳が終わった後は、そそくさと下山してしまったのである。

下山の時も、とにかく、一心不乱にお題目を上げながら下りて行った。

どうにかこうにかふもとまで辿り着き、自分の車に戻って、いざ発進しようとした時、ヘッドランプが点灯していることに気が付いた。

実は、七面山のふもとに来る途中で、やや暗がりのところが有ったので、ヘッドランプを点灯させてしまったのである。

ところが、ヘッドランプを消さずに七面山に登ってしまったのだ。

当然、バッテリーが枯渇してしまい、エンジンがかからない。

すぐに電話で車のトラブル対応サービスを呼ぶしかなかった。

土日の、しかも、山奥である。

だいぶ待った。

どうにかこうにか、バッテリーを交換して、車を動かすことが出来た。

全く不運と云うしかないのだが、今、振り返ってみると、これは神仏のお計らいだったように感じる。

というのは、自分は、七面山の後に、身延山久遠寺まで参拝しようと考えていたのである。

後日、調べてみたら、このスケジュールはあまりに無茶苦茶だったのである。

ただでさえ、七面山の登山下山で足が疲労しているのに、さらに身延山久遠寺まで回っていたら、疲労困憊の極と成り、下手をすれば帰路で事故を起こしていたかもしれなかったのである。

だから、バッテリーが上がって、そのまま帰宅することに変更したので、かえって良かったのである。

ちなみに、その時の車には法華経寺鬼子母神様の交通安全のお守りを祀っていたのである。

多分、法華経擁護の諸天善神同士の「連携プレー」だったのだろう。

 

あれから二十余年も経ってしまった。

その間、自分は大阪へ転勤したり、車を手放したりしたので、七面山に登ることは無かった。

七面大明神様への「不義理」に対して、大変後ろめたい気持ちが有ったのであるが、何しろ七面山はフラリと出かけられるような場所ではない。

「いつかは再び参拝したい!」と念願していたのだが、残念ながら、ただ虚しく年月だけが過ぎ去っていった。

それが、今年に入って、七面山登山をされる方々の中に加われるご縁が出来た。

そのため、その団参の中に混じることで、二十年来の念願が実現することと成った。

二十余年ぶりの七面山は、変わっていたような、変わっていなかったような。

変わっていたのは、以前は、登山道の脇には、掌サイズの小旗に「南無妙法蓮華経」のお題目が書かれた「千本旗」が何本も刺さっていた。

だが、今回、その「千本旗」を見ることはなかった。

その他は、変わっていない感じだった。

団参の皆様には、大変、良くしてもらい、本当に感謝の念でいっぱいだった。

そして、敬慎院に到着し、ついに念願の「御開帳」と成った。

聞き慣れた法華経の読経の後、まじまじと七面大明神様の「像」を拝したのだが、自分は茫然とした。

まるで、前回の「像」とお姿が異なっていたのである。

実際の「像」がどうであるのかは、ここでは敢えて詳述しない。

是非、七面山敬慎院へ参拝され、「御開帳」をされて欲しい。

そして、実際の「像」がどうであるのか、そこで、直接、ご確認してほしい。

お坊さんが、「以前、この敬慎院は火事に成り」と云われたので、後で、お札やお守りの授与所に行って、別のお坊さんに確認してみた。

「何時ごろ、火事に成ったのですか?」

「今から200年ほど前のことです。」

自分は、何が何だか訳が解らなくなってしまった。

自分は、「ここ二十年の間に火事に成ってしまったのではないか?だから、御像の御姿が異なって見えたのではないか?」と考えてしまったのである。

ところが、御堂から火が出たのは、遥か昔の200年も前のことであったのである。

つまり、二十余年前も、そして現在も、「像」は変わりが無かったということに成るのだ。

 

多分、自分は、七面大明神様の「像」を、何か、他のものの画像と記憶が混同してしまったのであろう。

二十余年前の「御開帳」の際に目にしたものと、他の場所の他のモノの有り様を取り違えてしまったのだろう。

そうでなければ、説明がつかない。

それとも、二十余年前に自分が「御開帳」の際に見たモノは、七面大明神の「像」ではなかったのだろうか?

ならば、極めて鮮明に細部まで脳裏に印象深く記憶している「映像」は、一体、何を見ていたのだろうか?

 

人間の眼、とりわけ自分の眼が、いかにいいかげんな代物であることか。

それを痛感した。

とにかく、また、近いうちに七面山に登らせていただこうと思う。

自分の眼がどんなにいい加減なものであろうとも、間違い無く、七面山は自分のことを温かく迎えてくれた。

現に、御来光を礼拝した際には、それはそれは見事な御来光のお出ましをいただいたのである。

それを「根拠」とするのは、論理性に欠けるのかもしれないのだが。

けれども、自分にとっては、それで充分過ぎると感じるのである。

今日は、晴天に恵まれた。

だが、頭の中が何か停滞している感じである。

ちょっと疲れているのかも。

帰りの電車も、寝過ごしている訳じゃないのだけれど、乗り越したりして、馬鹿馬鹿しいほど時間を要した。

 

ということで、以下、いつもよりも輪をかけて拙文であることを、あらかじめ、お詫び申し上げておく。

 

金曜日の11月11日だったか、朝のニュース番組のエンタメコーナーで、四人組バンドの「Alexandros」がインタビューを受けていた。

というより、ボーカルとギターの川上洋平の独壇場だったのだが。

インタビュアーとのやりとりの二言三言を聞いて、ずば抜けた頭の良さを感じた。

頭の回転の速さ、鋭さ、さらに表現力や感性に到るまで、まさに圧倒的である。

何でも、作詞も作曲も両方担当しているという。

また、調べてみると、帰国子女で英語が堪能。

おまけに広告代理店で営業として勤務していた経歴が有るという。

まさに口八丁手八丁の感じで、才気煥発とはこういう人を指すのであろう。

あとの三人のメンバーがほとんどコメントしないのは、多分、この川上氏がとにかく凄過ぎるからかもしれないと感じた。

脳学者の茂木健一郎が、「ずば抜けた才能の有る奴は、初対面でも会って二言三言聞いただけで解る。」と云っていた。

自分も、この意見に首肯出来る。

ただ、こういう人は、入試に例えて云えば、100点満点を取ってしまうだけではなく、「評価点」まで加点したら、100点満点中120点とか取ってしまうような無茶苦茶な人である。

だから、合否の境界線でしのぎを削るような、そういう採点で際どい状況に成ることは無い。

ただ、こういうずば抜けた人、まあ、「天才」と呼んで良い人は、周囲の人が圧倒され、翻弄されることが多い。

自分は以前から何度も書いているのだが、「天才は、その存在自体が既に『事件』なのである」。

だから、バンドのメンバーやマネージャーの方々は、さぞかし大変なのかもしれない。

そう云えば、先程、NHKで宮崎駿の番組をやっていたが、このじいさんも、身近にいたら、さぞかし因業ジジイだと思うwww

ただ、極めて魅力的で愛嬌の有る、因業ジジイなのだ。

圧倒され、振り回され続けるのだが、それでも、周囲の人間が不思議と嫌いにならない。

そういった「人間味」も含めて、「才能」と云えるのかもしれない。

 

しかし、これから、ますます、英語とITに堪能でないと生きていけない世の中に成っていくのだろうか?

英語がからきしな自分には、本当に肩身が狭い。

まあ、自分は「使い走り」の「下支え」に徹し切る覚悟なので、英語と無縁な持ち場で粛々とやっていけば良いと肚を括っている。

それから後は、他人が評価するだけのこと。

ジタバタしても仕方が無い。

 

ちなみに、自販機ベンダーの仕事で、数か月ほど仕事をさせてもらったやり手のチーフが、抜擢昇進されて栄転した。

その方が、飲み会の席で、ポツリと「そう云えば、白井さんって凄いよね。」とつぶやいたそうで。

何処が凄いのか、よく解らない。

解らないことは、あまり考えないようにしているので、自分の何処が凄いのか、解らないままである。

広告代理店最大手の電通の新入社員が自殺した。

東大卒の美人な女性だった。

様々な面で、将来が嘱望される次世代の担い手だった。

ところが、彼女は、自ら命を絶ってしまった。

こういう事件の報道を見ると、やりきれない思いがする。

 

自分は現在、しがない派遣労務者である。

手取りの金額も少ないし、将来のことなど全く展望出来ない。

さらに、仕事の内容には、真面目で体力が有れば、誰でも出来る業務である。

自分の今迄の経験や知識などを生かして、思う存分に仕事をする感じではない。

とは云うものの、いわゆる「正規雇用」の人々の勤務状況を見聞きすると、この電通の新入社員ほどではないにしても、早朝から深夜まで働きづめの感じなのである。

確かに、「働くことは生きている喜び」だと自分は思うのだが、そうは云うものの、日本の「正規雇用」の勤務状況は、あまりに酷過ぎるような気がする。

はっきり云って、作業効率が悪過ぎる。

だいたい、会議や報告書と会議やプレゼンの資料作成に費やす時間が長過ぎるのである。

そもそも、「会議」とは、何を行う「コト」なのか、全く理解出来ていない人があまりに多過ぎる。

「会議」とは、いったい何を行うべきなのか。

実は、「会議」は、報告や質疑応答や提案を発表する場ではない。

報告は、報告書で充分だし、その要旨だけならメールで事足りる。

質疑応答も、当事者同士で確認作業を行えば充分である。

もし、何処へ質問したら良いのか不明であるならば、その時こそ、管理職や本社の保管部門の腕の見せ所であろう。

提案も、社内イントラネットのメールで充分であろう。

ならば、関係者が全員雁首揃えて参加する「会議」で絶対に行わなくてはいけないことは何か?

それは、「合意」と「決定」である。

「合意」と「決定」が為されない「会議」は、明確に無意味である。

「合意」と「決定」が為される事無く、ただ単に定期的に実施される「会議」が有るとすれば、そんなものは直ちにやめてしまうべきである。

それと、報告書や資料も、極力、簡潔にまとめるべきで、分量やカラフルさなど視覚に訴えるような情熱があふれ出ているようなものは駄目である。

肉や魚の「量り売り」をしている訳ではないのだから、量が多ければ良い訳では無い。

また、上司や先輩の「ダメだし」も、劣悪なものが多過ぎる。

例えば「うーん、何か、微妙に違うんだよねー。やり直し!」というような、「ダメだし」が多過ぎる。

これでは、一体、どこがどのように駄目なのかがさっぱりわからないし、どのように改善したら良いのかも不明である。

これで、途方にくれない人間の方が、逆に異状だと思う。

現在の日本のあらゆる職場に於いて蔓延しているのは、業務の指示や引き継ぎの「言語化」が全く以て不完全なのである。

というより、破綻している。

何をどのように、しかも、具体的いつまでに仕上げるべきなのか。

そういった業務に関する事柄、全てに於いて、曖昧模糊としており、いかようにも解釈が可能な惨状なのである。

で、往々にして、「そんなの、実際にやっていればそのうち解るから。」とか

「そこらへんは自分の頭で考えろ。」などとはぐらかしておしまいである。

これでは、明確に「説明責任」を果たしていない。

こういう職場の「空気」と云おうか、「カルチャー」と云おうか、そういう「土壌」であるならば、絶対に「国際化」や「外国人労働者受け入れ」など不可能であろう。

こういう、「以心伝心」「察する」「空気を読む」といった運営方法は、極めて「同質性」の高い「共同体」でなければ成立しないのである。

そもそも、民族も国籍も異なるメンバーが参入して来た場合、従来の「常識」というものは最早成立しない。

何故なら、育って来た環境も背景も決定的に異なっているからである。

だから、今後、我々の職場は、業務に於ける指示や引き継ぎは、明確な誤解や各自の勝手な解釈が発生する余地が無いまでに厳格に「言語化」されたものでなければ、最早、成立しないだろうと思う。

そうなると、経営陣や管理職の業務への意識や取り組み方自体が厳しく問われて来るだろう。

果たして明確に、論理的かつ具体的な指示が出来るかどうか。

それは、経営陣や管理職が、深く広くその業務を追求し続けていかなければ無理なのである。

何となく、情緒的な、フィーリングだけの意識や取り組みであるならば、そこから出て来る「ことば」は、どうしても曖昧模糊としたものでしかなくなるのである。

結局、何をやりたいのか、何を目指しているのか。

そこらへんを明確に出来ないから、焦点が定まらず、無駄な動きが多過ぎてしまうのである。

 

自分は、正直云って、自分の持てる「能力」を全て打ち込めて、発揮出来るような、そんな「職場」で働いてみたい、と望んでいる。

しかしながら、昨今の「正規雇用」の方々の、あまりの過労ぶりに、自分は二の足を踏んでしまうのである。

そういう自分だって、6年くらい前までは、それが当たり前であったのだが。

もう、そんなに、働きづめに働くのは、止めてしまって良いような気がする。

頭が良くて、器用で、弁が立って、活発な優秀な御仁は、「24時間戦」ってもらえれば良いと思う。

だが、インテリでもない、愚直な魯鈍の自分は、もう、そんな酷使には耐えられない。

だから、もう、「正規雇用」に成れなくても良いような気持ちなのである。

二十代、三十代の優秀な一握りの若者は、大いに働き、大いに稼げば良いと思う。

だが、もう、自分は、大金を得ようとも思わないし、地位も名誉もどうでも良くなっている。

ただ、自分自身が納得出来る「仕事」が出来れば、それで良い。

だから、もう、「正規雇用」で働きたいとか、正社員の人から侮蔑されても腹が立たなくなった。

それに、早晩、現在の「正規雇用」という有り方も維持は出来なくなる。

多分、「働き方」の仕組みや運営方法が激変することと成ろう。

そして、それは、大多数の事実上の「賃下げ」というかたちに落ち着くと思う。

今後、企業はどのような有り方に成っていくのだろうか?

それに関しては、別時に別記させていただこう。

今夜の処は、これにて何卒ご容赦の程。

自分はインテリではない。

まず、学歴が駄目。三流私大の農学部卒だ。

 次に、単純労働の派遣労務者であること。

 昨日も、オフィスビルで、空き缶や空きペットボトル満杯のゴミ袋を運び出しているところを中年ビジネスマンが蔑みの目で見ていた。

 多分、相当な高学歴で、お仕事も大変御出来になるのであろうが。

だから、自分は、インテリではない。

 問題なのは、そのインテリではない自分よりも知的劣化が著しい御仁があまりに多過ぎることにある。

もっと皆の衆、しっかりしてくれ!



自分は派遣労務者なので、「時間給」である。

だから、作業を一生懸命速く出来るように頑張ってしまうと、速く成れば速くなるほど、結果的には、勤務時間が短縮されてしまい、結局、手取りの賃金が減ることになる。

このことに気が付いて、正直、愕然とした。

ところが、もっと驚いたのは、他の派遣労務者の中には、「時間調整」をして、敢えて、長時間労働に成るようにペース配分をしている人が居ると云うのだ。

確かに、ちょっと計算高い人は、そういう小賢しいことをしてしまう。

自分も、正直云って、金が欲しい。

しかしながら、かといって、意図的に勤務時間を長引かせるようにするのは、それはさしづめ怠業(サボタージュ)であろう。

自分には、そういう真似は性に合わないので、いつも全力で出来得る限り速く仕事をするようにしている。

さらに、後片づけから、灰皿の吸い殻のゴミ取りに到るまで、気が付いたことは全部やる。

まあ、そんな感じだから、それなりに速めに仕事が上がることに成る。

勿論、手取りは減る訳だが。

今日も、自分は出来得る限り、一生懸命にお仕事をさせていただいた。

時計を見ると、勤務時間が8時間に、まだだいぶ足らなかった。

マイナス¥500くらいに成るのだろうと、覚悟した。

すると、「8時間で付けといて良いですよ。」と。

大変有り難いことである。

自分は、不器用で愚直でしか有り得ないのだが、意外と世間は捨てたものではないのである。

 

この頃、ようやく、「急がば回れ」という言葉の真意が理解出来るようになった。

頭が良いことを鼻にかけて、うまい具合に立ち回ろうとすると、往々にしてとんでもないドジを踏むことに成る。

一方、愚直に、一つ一つを積み重ねるように行っていくと、確かに時間はかかるのだが、着実なのである。

そして、結果的に、どちらがリスクが少ないのかというと、それはじっくりと時間をかけて地道に行った方なのである。

情けないことなのだが、自分は、ようやく己の愚かしさと不器用さと惰弱さを自覚出来つつあるのである。

文字通り、「遅きに失した」ところであるが、それでも、まだ気が付いただけ、良しとする他はないだろう。

我々はいつも「手遅れ」なのである。

だから、大慌ててで、挽回をはからないといけない破目に成る。

しかしながら、急を要することほど、「急がば回れ」であろう。

「急いてはことを仕損ずる」のである。

ドナルド・トランプが、投票日直前の世論調査などの「下馬評」を覆して、アメリカ大統領選挙に勝利した。(敬称略)

自分は平成28年5月5日の「端午の節句」の日に、トランプについて書いている。

ドナルド・トランプ氏、共和党指名を確実に

http://blog.livedoor.jp/soemon/archives/55507721.html

その中で、こう書いていた。

(以下引用開始)

自分は浅学菲才の最たるものであるが、そんな自分がアメリカの大統領史を思い浮かべてみると、(あくまで戦後だけだか)ある一つの共通項が有るように思う。

それは、「政治的新鮮さへの希求」である。

(中略)

つまり、「政界」にドップリ全身が浸かっていたような候補者は、アメリカ国民が好まないと云えるのではないだろうか?

モンデールやジョン・ケリー、マケインといったベテラン国会議員は、党の指名候補には勝ち得ても大統領選挙本選挙に於いては敗北するパターンなのである。

その流れからいけば、今度のヒラリー・クリントンの当選は、結構、危ういと見るべきではなかろうか?

(以上引用終了)

一介の派遣労務者のおっさんにしては、なかなかの出来であるwww

ならば、自分は、ドナルド・トランプの当確を予想していたのか、と云うと、残念ながらそうではなかった。

やはり、ヒラリー・クリントンの勝利を予想していた。

但し、僅差での辛勝で。

何故なら、ドナルド・トランプの発言が、あまりに下品だからである。

正直で嘘をつかない本音の候補、と云えば格好良いが、自分にとって、彼のコメントは次第に聞いていて辟易とするものであった。

政策に関してはともかくとして、一人間として評価出来るかどうか、ということに成ると自分は駄目だった。

5月5日の拙文でもこう書いていた。

(以下引用開始)

トランプはついに、大統領選挙本選挙への切符を手にした。

ならば、その様相は一変するであろうし、一変しなければ当選は困難だろう。

何故ならば、トランプ氏を小馬鹿にしている共和党の政治通や共和党・民主党のどちらかに決めかねている「浮動層」、さらにはヒラリー・クリントンに対して不満を抱く民主党支持層、これらの国民の支持を得られなければ到底当選は有り得ない。

だから、威勢の良い、毎度お馴染みの「トランプ節」は変わらざるを得ないだろう。

もしくは、選挙戦略を従来通りの手法でもって、あくまで「正面突破」をはかるにしろ、当選後のことを見据えてスタッフやブレーンの人選に本腰を入れるだろう。

つまり、ドナルド・トランプが、日本にとって好ましいか否かは、これからようやく議論が可能になるのである。

(以下引用終了)

自分としては、ヒラリー・クリントンとの「一騎打ち」の段階で、彼は、「選挙戦術」を「変える」だろうと思っていた。

予備選挙の時と同様に、刺激的かつ煽情的な問題発言を繰り出していくやり方は、「本選挙」に於いては、「下品」だと思ったからである。

やはり、次期アメリカ大統領を選択する際に、「品格」という点を問われなくてはならない。

だが、ドナルド・トランプは、結局、「正面突破」で「本選挙」も貫徹した。

これは大変、リスキーな選択だったと思うが、彼と彼の選対は、あくまで「ドナルド・トランプ」という「キャラクター」の終始一貫性、論理的整合性こそを最優先にしたのである。

結果としては、このやり方は成功した。

5月5日の拙文で、自分はこうも書いている。

(以下引用開始)

トランプ氏の選挙戦略は単純明快である。

具体的な政策についての是非を問うことに、敢えて意味を持たせなかった。

それよりも、ドナルド・トランプという「人物」の魅力のみを大衆に訴求させることに専念したのである。

まさに「一点突破、全面展開」である。

一方の、クルーズ、ルビオといったライバル候補は、「政治家」として「誠実」に「政策論争」を仕掛けようとした。

だが、トランプは「個々の政策よりも、誰がアメリカ大統領として相応しいかで選ぶべきだ!」という戦略であったので、ハナから「政策論議」など噛み合う筈など有り得ない。

(以上引用終了)

今回の大統領選挙は、「史上最低の候補対史上最悪の候補の対決」と称されたが、つまり「駄目比べ」だった訳である。

結果としては、大統領夫人(ファーストレディー)、上院議員、国務長官として、長年に渡って「政界の中心に位置」して来た、いわば「ワシントンDCの住人」だったヒラリー・クリントンへの不信感、嫌悪感が拒否感と成って、投票行動に現れたということに成るだろう。

それはさておき、何故、自分はトランプ当確を予想出来なかったのか?

一つは、彼の「キャラクター」が、アメリカ国民には支持出来得たが、日本人の自分には嫌悪感をおぼえた、この差異だと思う。

あとは、今回の大統領選挙での選挙人獲得の両党の分布図を見て納得したのだが、ヒラリー・クリントンの民主党はアメリカ東海岸と西海岸のカリフォルニア、さらにシカゴの州(イリノイ州)ぐらいしか獲得出来ていなかった。

つまり、その他のアメリカ合衆国の大部分をドナルド・トランプの共和党が押さえたのである。

ちなみに、ごくごく一般的な日本人にとっての「アメリカ」は、ボストンであり、ニューヨークであり、シカゴであり、ロサンゼルスであり、サンフランシスコであろう。

つまり、日本人が漠然と意識している「アメリカ」は、極めて民主党系に偏っているのではないだろうか?

例えて云えば、沖縄県や北海道の「有権者」ばかりにインタビューをして、「第二次安倍政権をどう評価しますか?」と質問して回っているようなものである。

多分、「経済・金融政策はともかく、安倍政権は危険な感じがするので支持出来ない。」と云ったようなコメントが多く成るだろう。

しかしながら、そのコメントを「根拠」にして、日本での国政選挙の結果を予測した場合、衆参両院で圧倒的大多数を獲得出来得た選挙結果を想定不可能だろう。

説明がつかないのである。

それと同様だと思う。

比較的、政治的にも経済的にも文化的にも程度の高い地域ばかりでの印象を聞いていたならば、本当の意味での政治的傾向を把握し分析することは出来ないだろう。

そういう意味では、我々日本人は、本当の「アメリカ」の広さを理解出来ていなかったように感じた。

インテリは、確かに、社会的には先導的な地位に在る。

しかしながら、インテリ自体は、実は人数は少ないのだ。

圧倒的大多数の「大衆」が、インテリに対して、不信感や嫌悪感を持ち始めた場合、インテリが主導する「流れ」は、頓挫するのである。

ドナルド・トランプを大衆迎合主義やデマゴギーと指弾するむきが有るが、それ以上に、いわゆる政治的なインテリ層、とりわけモラリストたちの欺瞞性こそ、猛省すべきではないだろうか?

それは、そっくりそのまま日本に於いても該当するだろう。

いわゆる、左翼・リベラルの政治運動が、何故、ことごとく挫折し、敗退するのか。

そこには、根本的な病理的要因に起因しているのであると、自覚すべきだろう。

(あ、只今、母が、「ビタ一文にも成らないのだから、いいかげんパソコンで遊ぶのは止めろ!」ときつい叱責がwww。ということで、今晩はこれにて失礼!)

折角なので、効果てきめんの「魔法の呪文」をお教えしよう。

「魔法の呪文」と云えば、「アブラカタブラ」や「エロイムエッサイム」といった類いが有名であるが、そんな解読困難なものではなくて、しかも、効果絶大な「魔法の呪文」が実は存在する。

「ありがとう」である。

一読して、呆気にとられたかもしれないが、実は、これは本当に凄い言葉なのだ。

さらに、加えて「お蔭さまで」を云うと、相乗効果が有る。

「ありがとう」とは、感謝の言葉である。

何かプレゼントをもらった。

やさしくしてもらった。

そういう心地良い体験をした時、思わず口からこぼれる言葉である。

しかしながら、この世はままならぬものであり、世知辛いものである。

いつもいつも希望通りに事は運ばない。

すると、ついつい、愚痴不足、不平不満が口から突いて出て来るのだ。

この、愚痴不足、不平不満というのが、大変よろしくない。

云われた方は、当然ながら不機嫌に成るのだが、云った方も、それで気分爽快に成ることが、実は皆無なのだ。

愚痴不足、不平不満というのは、無意識に出てしまうものである。

だが、結果的に、愚痴不足、不平不満は、云った方も聞いた方も、全員、毀損してしまう「呪詛」なのである。

ならばどうしたら良いのか。

とにかく、頭が空っぽの状態だろうが何だろうが、取り敢えず、「ありがとう」と口に出してみるのだ。

「ありがとう、ありがとう、ありがとう、ありがとう」と。

そのうち、目についた「対象」に対して、「ありがとう」と云ってみる。

「お日様ありがとう。雀さんありがとう。便器さんありがとう。」

そして、会う人、会う人に対して、「ありがとう」と云う。

はじめは恥ずかしいし、馬鹿げているように見えるので、口に出せない。

しかし、それなら、口を閉じたままで良いので、心の中で「ありがとう」と云うのである。

そのうち、いつでもどこでも、何に対しても「ありがとう」と云えるように成ってくるのである。

すると、ここが本当に摩訶不思議なところなのだが、そのうちに、自分に対しても周囲から「ありがとう」と云われるように成って来るのである。

勿論、ただ単に「ありがとう」と云い続けるだけで、そうなる筈が無い。

ところが、何につけても「ありがとう」と云い、思うようになると、まず、腹が立たなくなる。

さらに、相手や周囲の状況が見えてように成って来る。

「ああ、今、自分にとって不快なことが有るけれど、それには様々な事情や背景が有ったのだ。」と解るように成って来るのだ。

そのうち、相手や周囲が喜んでくれるような立ち居振る舞いが、何となく、解るように成って来るのだ。

あとは、みんなが喜んでくれるような言動を一生懸命に実行していけば、自然の成り行きで、自分に対しても「ありがとう」と云われるように成るのである。

聖書にも「与えてもらいたければ、まず、自分から与えよ」と説いている。

誰しも、欲しいものを与えてもらいたいのが望みである。

しかし、「欲しい、欲しい」と貪って(むさぼって)いたならば、いつまでもその欲望は満たされることは有り得ないし、また、本当の意味で「与えられる」ことも無いのである。

「回向」(えこう)と云う言葉が有る。

それは、自らの善行(ぜんこう)や功徳(くどく)による利益(りやく、「りえき」ではない)を他人に振り向けることである。

一般的には、亡き人に対して、生きている者が読経や供養をすることによって「追善回向」することを指す。

だから、「回向」は、亡くなった方々の霊や魂にだけ、「良いこと」が振り向けられると思いがちである。

確かに、「回向」をすれば、供養された霊魂が「満たされる」。

ところが、「回向」の本当の真価は、その「回向」がさらに回り回って、自分のところに戻って来ることに有る。

つまり、他人に対して「一方通行」の「流れ」ではないのである。

ぐるっと回って、最終的には、発した自分へ還って来るのである。

実は、還って来るのは、良いことだけではない。

悪いこと、禍々しいこと、呪わしいこと、忌まわしいこと。

これらも自分から発したからには、巡り巡って、回り回って、最終的には全部自分に還って来るのである。

結局、自分自身で、後始末をすることに成るのである。

相手に投げつけた筈の飛礫(つぶて)が、いつの間にか、自分に飛んで来るのである。

だから、相手に対して捧げた贈り物が、いつの間にか、自分の対して贈られて来るのである。

まずは、「ありがとう」と思ってみる。

そして、「ありがとう」と口に出してみる。

さらに、目の前の「対象」に対して「ありがとう」と投げかけてみる。

ついには、会う人、会う人に対して「ありがとう」と云うように成る。

はじめは「ありがとう」と口に出すことだけなのだが、そのうちに、身体の立ち居振る舞いが、「ありがとう」という「意識」で動き出すのである。

だからこそ、「ありがとう」は最強の「魔法の呪文」なのである。

是非とも、今すぐ、実施されると宜しかろうと存ずる。

何でも、「大学受験改革」なんだそうで。

大学入学試験を記述式にしていこう、と云うのだそうな。

これは、いわゆる欧米の有名大学、ハーバードだとか、エールだとか、ケンブリッジだとか、オックスフォードだとかを意識したもののようである。

それらの海外の大学を「意識して」というよりも、間違い無く「追随」「後追い」であろう。

早速、実務的な面で難問が生じている。

採点である。

入試の採点をどうするのか?

採点する大学側の人的な余裕が無い。

勿論、お金も無い。

そこで出て来たのが、「外注」である。

もう、あまりにおかしいというか、馬鹿馬鹿しいというか。

最早、失笑も溜息も出ない。

確かに、世界的な評価で云えば、海外の大学、とりわけ米英の大学がハイレベルと云うことに成るのだろう。

解りやすい「ものさし」で云えば、ノーベル賞の受賞学者の出身大学である。

いくら、日本国内で「東京大学」だ、「京都大学」だ、早稲田、慶応、と云ったところで、ハーバードやオックスフォードなどと比較されると、途端に精彩を欠いてしまう。

そして、今後、「モノからコトへ」という時代の流れからいけば、今以上に優秀な人材、優秀な頭脳の「価値」が問われて来ることに成るだろう。

そうなった時、現在の、日本の「大学」は、本当に高度な人材育成や研究機関として機能しているのだろうか?

そういうことなのだと思う。

だからこそ、現在、世界の「大学」の頂点に位置する米英の有名大学を見習って、まずは、その「入試」の「やりかた」を「導入」してみよう、ということである。

こういう「方策」を採用した人間を、自分は、賢いのか、愚かなのか、判断がつかない。

多分、「要領が良い」という面では、誠に賢明なのだが、ことの本質や結果としての有効性というものを見据えた上での評価であるならば、誠に愚かしいと思う。

そもそも、米英の有名大学は、「入学試験」で学生を選別しないのである。

あくまで、大学の講義、カリキュラムに付いて行けるだけの「学力」を有しているのか、ということしか、「入学試験」では見ていない。

それよりも、英米の有名大学の「スタッフ」は、徹底的に、その入学志望の受験生の「個人的資質」を吟味するのだ。

高校時代の成績は勿論、クラブ活動や生徒会などのボランティア活動。

家族背景や交友関係、趣味趣向や性格、行動パターンまで、徹底的に吟味している。

勿論、それには、手間も時間も必要であるので、莫大な経費がかかる。

ペーパーテストといった、「紙切れ」でもって、しかも「マークシート」の読み取りで、機械的に、1点刻みで順位がつけられるような、そんな安上がりな選考方法と違うのである。

さらに、記述式の解答用紙の採点にあたっては、どうしても採点者の「主観」や「センス」が出てしまう。

つまり、厳密な客観的な採点は不可能に成るのである。

だから、極端な話、合格者と不合格者の違いを「説明」出来ないのである。

「何故、彼女は合格出来て、彼は不合格だったのか?」

それを「説明」出来ないのである。

勿論、クラブ活動やボランティア活動などの実績、小論文などの出来不出来、これらを総合的に評価した結果の決定なのだが、しかし、それを万民に対して「説明」し、果たして「納得」してもらえるだろうか?

それは不可能である。

そもそも、高校時代のクラブ活動での実績や功績の「評価」と科目による「学力」の「点数」は、「比較」も「合算」も、厳密には不可能だからである。

極端な話、高校野球の硬式野球部で甲子園に優勝した部員の中で、高偏差値の有名大学への入学を認めるか認めないか、ということである。

もし、それがスコアラーだったら、しかも、たった一人で、それも監督から全面的に任されていた部員だったら、自分は、見どころが有ると評価するだろう。

で、いわゆるアングロサクソンの評価の仕方は、こういう青年は、「合格」にするのである。

一方の日本人は、そんな身体能力による「スポーツ推薦」にも成らないような奴は、どうでも良いのである。

日本人は生真面目なので、100人全員受験したら、1位から100位まで1点刻みで順位が明確に付けられなければ駄目だと思っている。

「こいつは見どころが有るから、合格!」

「なんか、こいつを見ていてもときめきが無いので、不合格。」

こういう「選別」をすると、極めて「気まぐれ」なようで、納得がいかないのである。

だが、実は、東京大学にギリギリで合格した受験生と、あと一歩で不合格に成った受験生と、どれだけ「能力」に明瞭な差異が認められるか、と云えば、ほぼ「誤差の範囲内」であろう。

勿論、入試や面接の「本番」に弱い、といったそういう「資質」や「能力」の違いは見受けられるだろうが、それで合否の一線を画すと云うのは、実は「不自然」なのである。

一方、世の中には、桁外れに突出した能力を持った人物が存在する。

そういう人間は、それこそ、二言三言会話しただけで、だいたいその凄まじさを「感じる」ことが可能である。

「あ、何かよく解らないけど、この人、凄いや。」

こういう人は存在するのである。

で、いわゆるアングロサクソンは、そういう「人物」と接した場合、そこで「評価」を下すのである。

わざわざ、ペーパーテストを持って来て、

「一応、『決まり』なので、受験して下さい。」なんて間抜けなことはやらないのである。

ただ、勿論、こういうやり方で、「はずれ」は遭遇する。

萩本欽一が、ジミー大西を評して、「あの子、天然だったのね。」とつぶやいたというが、まあ、同じようなものだろう。

「才能」だと思っていたら、単なる「性癖」だった、という奴である。

だが、数値で当てはめることが困難な事柄を比較評価する場合は、こういうリスクは、絶対的に不可避なのである。

そこらへんは、アングロサクソンも覚悟の上で運営しているのだ。

ただ、よく考えてみれば、1点刻みで順番や序列を導き出して、そしてそこで線引きをしてみた結果が、本当に妥当な人材の選別と云い切れるのだろうか?

自分は、「選別」のリスクを、採点者が回避するための便宜だと思う。

つまり、入試の点数を提示出来れば、後は、採点者の介入する余地は無くなるからである。

一方で、採点者の主観やセンスが介入する余地が出て来た場合、それが私情や取引といった頽廃が派生するリスクが出て来る。

だから、生真面目な日本人は、肌が合わないのである。

そう云えば、かつて、故・立川談志が笑点で「漫談」をやった時、

「たくさん、大学に寄付金を収めた奴は、賞賛して表から入学させてやれば良い。一方、貧しくて、受験料だって満足に収められないのだが、学力が優秀な奴は、裏からこっそり入れてやれば良い。」と云っていた。(ユーチューブに上がっていたwww)

これが、まさに米英の有名私立大学のやりかたそのものなのである。

いわゆる「上流階級」の子弟は、多少馬鹿でも入学させるのである。

一方、インド人だろうが、支那人だろうが、頭脳明晰な青年ならば、「特待生」「奨学金付与」でもって面倒を見る訳である。

自分は、ここに徹底した「能力主義」を見ると同時に、「民主主義」や「平等主義」への懐疑を見る。

つまり、「人間は元来平等な頭脳、能力を持ち、後天的な学習や努力、研鑽の結果が入学の合否の決定的条件であるべきだ」とは、思っていないのである。

「能力の有無、才能の発露の有無は、既に選別が可能である。また、学習意欲や努力、研鑽も、『努力し続ける』才能というかたちで評価、選別が可能である。」と。

ここには、「能力」と、そこから導き出される「成果」「実効性」というものが、徹底的に問われているのである。

そして、「金持ちの子弟」を合格させるのは、法人としての大学の経営を安定させるためであり、異民族だろうと異国人だろうと不問で優秀な人材を合格させるのは、組織や共同体としての大学に知的な刺激と波紋を加えて活性化をはかるという意図である。

さて、問題は、我が日本の大学である。

はっきり云って、日本の「大学」というか、日本の「社会」は、そういう「人材登用」や「人材選別」を行っていない。

というか、行うつもりがさらさら無いのである。

かつて、別記先述したが、企業の昇格試験でもって、小論文と面接が課せられたが、用意された「設問」ごとに、絶対に使用する「語句」と「短文」と「数値」と「結論」まで決まっていた。

「選択と集中」「効率化」といった言葉は必ず使わなくてはいけなかった。

だから、そういう「模範解答」にどれだけ「接近」しているかで、合否は決まるのである。

そうなると、事前に、その「模範解答」に関する「情報」を内々に入手出来ない限り、絶対に高得点は有り得ない訳であり、必然的に合格も昇格も不可能に成る。

自分は、以前、勤務していた企業で、人事部からのコネクションが途絶した部署に配属されたことを認識した時点で、いわゆる管理職への可能性が皆無に成ったことを自覚した。

元より、課長や部長に成ることを念頭に置いて働いていた訳では無かったが、これで完全に諦観してしまうことに成ったのである。

日本という社会において、目指すべき目標は、あらかじめ「決定済み」なのである。

あとは、その「目標」に向かって、突き進むだけなのだが、その進行過程に於いても、前例を踏襲し、セオリー通りの予定調和の進行展開を要求されるのである。

だが、今や、世界は、地球は、どんどん狭くなり、日本だアメリカだヨーロッパだ、などと御託を並べていられる牧歌的な時代はとうに過ぎ去った。

これから我々は、あらゆる面で文明史観的な、根源的なパラダイム転換、激動期に突入しようとしている。

その激動期に直面して、さながら「伝統芸能」を継承するような「意識」で、果たして対処可能なのだろうか?

まあ、だからこそ、日本も、アングロサクソン的な「大学」を目指そうということに成ったのだろうが、今更、ハーバードやオックスフォードの「追随」をしたところで、そんなものは「二番煎じ」に過ぎない。

本当に優秀な青年は、日本の大学なんぞ目もくれずに、ハーバードやオックスフォードを受験して、入学して行くことだろう。

つまり、アングロサクソンの真似をしたところで、優秀な青年は日本の大学には入らない、と云うことに成る。

ならば、どうすべきなのか?

ここまで来て、やっと言えることは、日本の大学ならば、「日本」らしい人材育成を模索していくしか有り得ない、と云うことである。

つまり、ハーバードやオックスフォードといった大学では適合出来ない青年を育成する、そこしか、可能性は有り得ないと思う。

結局、日本に於いて、異能や異才は持て囃されないのである。

勿論、日本に於いて、異能や異才が生まれない、と云うことは無い。

ただ、日本に於いての異能や異才は、アングロサクソンと比較すると、相対的に評価が低いのである。

だから、日本で生まれた、異能や異才は、どんどん海外へ飛躍して、日本から脱出した方が良いと思う。

北斎、写楽、広重、若冲などなど。

海外で凄まじいリスペクト受けてから、日本では大慌てで評価したのである。

結局、日本では、「変わっている」ものは、評価不可能なのである。

みんな真面目過ぎるから、素直に「面白がる」ことを恥じるのである。

だから、日本に於いて、とにかく企画をつぶされたクリエーターは、どんどん日本を見限って海外へ雄飛した方が良いだろう。

逆に、日本に於いては、愚直さ、緻密さ、丁寧さを突き詰めていく技術や人材を育成することに「特化」すべきだろう。

こういう技術や人材を育成するのは、日本人の極めて得意とするところである。

かつて今西錦治は、自然生態学から「棲み分け理論」というものを提唱した。

だから、日本はアングロサクソンと同じことを目指すべきではないのである。

ただ、旧態然とした、大学教育や大学入試をそのまま維持、固執するのは駄目だろう。

何度も書くが、「教育とは、その社会・組織・共同体が理想とする大人への行程表」である。

だから、「日本」が、世界的にどういう役割と「ありかた」を具体的に目指していくのか、志向していくのかが、根源的に問われて来るのである。

世界の、他のどこでも有り得ない「日本」を、どのように見定めていくのか。

まず、そこから結論付けない限り、目指すべき日本の「大学」も、そのための「入試」も、全く思い描くことは不可能だろう。

ま、自分は、「語学力」がからきし駄目なので、日本でも、海外でも、評価されることは無いでしょうがねwww)

自分は或る面、執念深いwww

極めて粘着質であるwww

諦めないのである。

この世の中は、ままならないのが当たり前なので、理想と現実は乖離してばかりである。

だが、自分は諦めない。

とにかく、まずは、目の前に有る、自分の出来得ることをとにかく一生懸命に取り組む。

これしかないのだ。

但し、今、目の前に有る「日常」を「こなす」ことだけに没頭してはいけない。

頭の片隅には、必ず「大望」を残しておかなくてはいけない。

日常は、日々不変で停滞と閉塞しているように見える。

だが、情況は絶えず刻々と変じているのだ。

だから、千載一遇の好機と云うのは、必ず到来するのだ。

問題は、そのチャンスをしっかりと掴み(つかみ)取れるかどうかなのである。

そして、チャンスをものにしたならば、後は、そこからどう展開をさせていくかである。

いにしえより「天の時、地の利、人の和」と云い、「天地人」を「三才」と称する。

チャンスを得ても、「地」である足元、そして「人」である仲間や同志が貧弱であれば、一時上昇してもじきに失速してしまう。

だから、好機到来までは、愚直に、懸命に、足元を固め、人の和を築いていくしかないのである。

よく、奇をてらったり、気の利いたことをやってみることが、人々に認めてもらえる「近道」だと考えがちである。

つまり、「才能」が有れば良いのだ、と。

だが、「才能」というと、ついついエキセントリックなものだと思いやすい。

違う。

そんな、尖っただけの代物など、実は大したことはないのだ。

凡庸であることは、無能ではない。

ただ、凡庸であることで頽廃し怠惰に成ることに甘んじるから駄目なのである。

例え、凡庸であっても、凡庸に徹し切り、凡庸を突き詰めていったならば、それは必ず非凡に変じる。

日々の日常の大切さを自分は筋トレから学んだ。

毎日毎日、プロテインを飲み、トレーニングをし、休養を取る。

その継続の結果が強靭で巨大な肉体に成るのである。

何事もそうである。

只今この時の瞬間を懸命に生きずして、どうして一生を懸命に生きることに成るのだ。

便所掃除でも、ゴミ拾いでも、その時、その時に一生懸命に取り組めば、それは非凡な人物への導入に成ろう。

以上、勘違いなのかもしれないのだが、そう信じて、今日も自分はあれこれと些事に対処している。

平成28年10月28日に、国連での核兵器禁止条約が委員会で採択された。

その中で、「戦争に於ける唯一の被爆国」である我が日本が反対を表明した。

これに対して、非常に評判が良くない。

確かに、日本は被爆国として、核兵器の悲惨さを他のどこの国よりも痛感している。

にもかかわらず、何故、核兵器の存続を容認するような態度を表明したのか。

この、「批判」は極めて明瞭かつ良識的なものである。

だが、自分は、極めて明瞭で良識的であるがゆえに、この「批判」には同意出来ない。

だから、自分は国連での日本の核兵器禁止条約採択反対の表明を支持まではいかないのだが、それを批判だけする気にも成れない。

自分は、国際政治に関しては全くの無知であるので、多分、間違っているのだと思う。

ただ、この核兵器禁止条約やら核兵器軍縮条約といった「動き」が、全て人間の「善意」によって成立しているように感じられる為、そこに限界を自分は感じる。

人間は善悪の両面を持っている。

だから、人間の持っている「悪意」を勘定に入れずに物事を決めようとすると、ほとんどの場合、破綻する。

そして、人間の「善意」のみで立脚した理論だとか約束事は、それが破綻をきたしそうになった時、歯止めの効かない残虐性を露呈する。

いわゆる「革命思想」がそうである。

「性善説」が駄目なのも、そうである。

「革命思想」の前提と成るのは、「性善説」と「理性主義」と「知性主義」である。

人間は、「清く、正しく、美しく」ある存在であると云う前提に立っている。

だが、現実の人間は、必ずしもそうではない。

ズルしたり、怠けたりするのである。

ところが、「性善説」や「理性主義」や「知性主義」の前提に立っていると、この人間の怠惰な面が、理解不能に成る。

人間とは、そもそも、善人で、理性的で知的存在である、という前提に立っている。

だから、正義を論理的に説得すれば、理解して当然なのである。

ところが、それが実現出来ない場合、その理由は一つに結論付けられる。

意図的な妨害である。

「革命」に対して、慎重であったり、不同意であったり、怠惰であった場合、それは、倒錯した善意に基づく、理性的で知的な結論による行動、つまり「反革命」「反党分子」「妨害工作員」であるとしか理解出来ないのである。

善意で生真面目であることの害毒とは、まさにこのことであり、左翼が駄目なのは硬直化した「性善説」「理性主義」「知性主義」だからなのである。

確かに、核兵器は、ひとたび使用されれば一発で万単位の人命を奪う。

さらに、報復攻撃が為されれば、核爆発によって発生する大量の放射性物質や灰塵などが、地球環境を激変させ、生物が生存不可能な「死の惑星」に一変させてしまう可能性をはらむ。

だが、核兵器を禁止にして全てが解決するのだろうか?

ここで指摘しておきたいのは、いわゆる「大国」と呼ばれる国、米ソ英仏中印といった国々が核兵器を保有したことにより、いわゆる「大国」同士の直接戦闘の戦争が無くなったのである。

それまでは、技術的、経済的に先進的で、豊かな「大国」同士が、頻繁に交戦していたのである。

文字通り、「戦争」が「最終的な対話」であり、一種の「政治外交交渉」でもあったのである。

ところが、核兵器の存在によって、いわゆる「大国」同士は、核兵器を互いに撃ち合うことなど不可能になってしまったのである。

そういう面で、いわゆる「大国」同士の直接対決を決定的に阻止することに貢献したのは、核兵器なのである。

この「皮肉」をどう受け止めたら良いのだろうか?

核兵器を使用させないように、あらゆる対処をすることの必要性を自分は認める。

だが、「条約で決めたから」というだけであるならば、後々、禍根を残すような気がする。

原発も核兵器も、そりゃあ、無いに越したことはない。

しかしながら、「人間」の「悪意」という側面からも、どうか考慮してもらいたい。

いわゆる「平和運動」が、「善意」のみであるから、結果として必然的に破綻するのである。

人間の「悪意」をよくよく攻略してもらわないと、やはり、地に足が着いていないような感じが自分は見受けるのである。

自分は、財産も才能も体力も名声も、おまけに彼女も皆無なのであるがwww、唯一、「縁」だけは恵まれている。

ひょんなことから、とてつもなく素晴らしい御仁と知己を得ることが出来たり、また、接する人の大多数から可愛がってもらって来た。

勿論、中にはきつく厳しくされたことも有ったが、それは、自分が到らない為なので、辛い思いをしてもそれは致し方の無いことであった。

だから、時に「鬼」のように感じた人も、それは「修行」の課程であると納得出来ている。

とは云うものの、世の中には、どうにもこうにも合わない人がいる。

さらには、明確に「邪悪」な人も存在する。

だから、自分はいじめられたり、疎んじられたりすることも多々有った。

時には、あまりの仕打ちに「怨み骨髄」の思いで煩悶する時も有った。

だが、誠に不可思議なことに、偶然が重なった結果なのだろうが、かつて自分をいじめたり、疎んじたりした人たちは、みんな自分の思い通りに成っていないのである。

或る人は懲戒解雇に成り、或る人は既に亡くなってしまった。

また、或る人は、自分の望むような職場に配属されずに苦悶しているという。

だから、自分はいじめられても、疎んじられても、もう、恨めしく思わなくなった。

あとは、ただひたすら、自分を大切にして下さる方々に対して、精一杯の御恩報じをさせていただくことに専念する意識に成ったのである。

「人を呪わば穴二つ」

例え、理不尽な仕打ちを受けても、天地神明に恥じぬ行いをし続けていれば、自分が手を出さずとも、神仏がそれなりのお計らいを必ず為されるのである。

良い種を撒けば、良い花が咲き、良い実が成る。

悪い種を撒けば、悪い花が咲き、悪い実が成る。

どちらにしろ、成った結果は甘受しなくてはいけない。

幸いにして、自分の周囲には素晴らしい方々ばかりなので、神仏の意を違えるような道に迷うことはなさそうである。

自らの智の賢きにあらず。

また、我の力にあらず。

全て、皆々様方のお導きのお蔭であると思い、感謝に堪えない。

自分は「政界」に関してはズブの「素人」である。

自分は、「政界」に於いて、今迄、まともに働いたことが無い。

せいぜい「お手伝い」をさせてもらったぐらいでしかない。

だから、「政界」の「実情」を知らない。

「何も知らない愚か者」である。

だから、敢えて云わせてもらう。

自民党東京都連、そして、東京都議会自民党は、いわゆる小池百合子東京都知事の選挙を支えた七人の豊島、練馬区議への離党勧告を即刻に破棄せよ。

様々な経緯やいきさつが有ろうことは拝察出来る。

だが、いくらそれを詳しく説明したところで、大多数の東京都民は絶対に納得してはくれない。

既に、若狭勝衆議院議員への処分は事実上“完了”した。

そして、小池知事の選挙区であった補欠選挙では、「自民党公認」として若狭勝を担いだのである。

もう、勝負は決着したのである。

これ以上、後を引きずれば、確実に「遺恨」に成る。

具体的には、来年6月の都議選で、火を吹くことに成る。

小池百合子が、左翼政治家ならばいざ知らず、そうではない。

いつまでも内輪揉めをしている場合ではなかろう。

はっきり云って、自民党の各都道府県連は、全国的に組織劣化をきたしている。

その証拠に、今年7月の参院選に於いて、選挙区では東日本地域に於いては「惨敗」だった。

北海道では、民進党が2議席獲得し、東北地方は秋田県を除いて全県敗北。

新潟県も長野県も山梨県も野党候補に競り負けた。

にもかかわらず、参議院の3分の2を自公などのいわゆる「改憲勢力」が占められた。

それは、全国比例と都市部で確実に議席を増やしたからである。

とはいうものの、その都市部に於いても、東京都連は知事選で「完全無所属」の小池百合子に大惨敗した。

さらに、大阪府連では、「おおさか維新の会」(日本維新の会)の橋下徹と「大阪都構想」の「住民投票」で、日本共産党と「野合」した。

「大阪都構想」に関しては、様々な「理屈」が有ろうが、しかし、自民党と共産党が一緒に成っているというのは、どうにもこうにも理解不可能である。

そして、10月16日の新潟県知事選挙である。

自分は、一介の派遣労務者に過ぎないし、東京都在住で、新潟のことなどとんと見当がつかない。

だから、新潟県知事選挙の実態は、「全く関知していない」と、ここでは敢えて書かせてもらう。

だが、仄聞する限り、公明党・創価学会に加えて、連合新潟という労組まで味方に付いていながら、結果として5万票もの大差で惨敗したのである。

これは、選対本部が駄目だったと云うよりも、自民党新潟県連そのものが組織として機能していないのだと思う。

結局、今の自民党は、各衆議院議員の「後援会」組織の頑張りだけで、政権を獲得出来ているのだろう。

だから、小選挙区での選挙戦では対応出来るのだが、全県レベルの選挙、具体的には知事選挙や参院選選挙区では、ろくな選挙戦が出来ていないのである。

現在は、民進党など野党側の方が、更に組織として体を成していない為に、あくまで「相対的」な勝利を得ているのに過ぎないのだ。

つまり、自民党は「絶対的」に選挙に強い訳ではないのである。

とにかく、県連レベルで、組織を「仕切れる」人物が払底したのだろう。

ちなみに、組織を「仕切る」のと「牛耳る」のとでは、異なる。

何処が異なるかと云えば、無私であるか、我執であるかの違いである。

例え、組織を切り盛りするのであっても、ついつい、「俺が、俺が」が感じられるようであるならば、遠からずその組織は破綻する。

まさしく「俺が、俺が、の『我』(が)を捨てて、お蔭、お蔭の『下』(げ)で暮らせ」であろう。

最早、自民党の各都道府県連は、自力再建は無理だろう。

党本部から強権が付与された「軍政官」が任命、派遣されて荒療治をしない限り、絶対に立ち直れないと思う。

変に、その地方、その地域の「事情に精通」していない方が、ドラスティックに改革は断行可能だ。

 

まあ、自分は「政界」に関しては、まるっきりのズブの「素人」である。

以上、どうかご笑覧下されたく。

まあ、もう、自分は正規雇用で働けないような気がするので、あれこれ書いてもナンセンスなんだがwww

平成28年10月現在、失業率は改善している。
だが、それはあくまで非正規雇用であって、正規雇用は頭打ちなのである。
既に、自分は何度も書いているのであるが、「人件費」を「固定経費」という「認識」に立っている以上は、「正規雇用」が拡充されることは有り得ないと思う。
「経費」である以上は、それは「削減」の対象であり、「抑制」されることが望ましい。
だが、既に、業務の現場に於いて、限界を超えた人員削減と新規採用抑制が為されてしまった為、「戦線維持」のためには、どうにもこうにも人手が必要と成ったのである。
しかし、「人件費」(給与)はなるべく支払いたくない。
とは云うものの、人手は必要である。
そこで、「正社員」は増やせないのだが、「人員」は調達する、という奇手に出た。
つまり、社員ではないけど、業務を担当してくれる人を調達して来た訳である。
これが「非正規雇用」の人々であり、これは「人件費削減」の為に行っているのである。
これは、事実上、「賃下げ」である。
本当は、雇用者側、経営者側は、「賃下げ」をしたいのだ。
しかし、「正社員」は企業別労働組合ががっちりと付いている。
「賃下げ」を実施しようものなら、労組から激烈に突き上げられる。
だから、労組に加入していない、もしくは加入出来ない「もの」でもって代用した訳である。
語弊が有ることを承知で、敢えて書かせてもらうと、「非正規雇用者」は、「社員」でもないし「身内」でもない。
だから、会議に出席する必要も無いし、詳細な報告書も提出しなくても良い。
改善・提案などして欲しくないし、研修だって本当は課したくない。
ただ単に、安く、働いてくれればそれで良いのだ。
そして、景気が悪く成って、業績が厳しくなったら、何も云わずに辞めて欲しいのである。
だから、「非正規雇用者」が「正規雇用者」になることは、無い。
むしろ、「正規雇用者」そのものを激減させて、ほぼ全員を「非正規雇用者」に代えてしまう風潮に成るだろう。
事実上、戦後日本の労働運動の成果は消滅することと成る。
そして、もし、これを法律や行政指導などでもって、強制的に「解決」しようとしたならば、多分、AI(人工知能)とロボットの導入を早めることに成るだけである。
最早、職場に「人間」は「不要」なのである。
何故なら、「人間」に支払う「人件費」よりも、AIやロボットという「設備」が減損する「減価償却費」の方が、遥かに割安だからである。
だから、利潤をとことんまで追求していくのであれば、「人間」なんかきれいさっぱりいなくなった方が、格段に数字は良く成るだろう。
ここまで自分が書いてきた事柄を読んで、「おかしい」「変だ」と思う筈である。
何故なら、パラドックス(逆説)だからである。
企業にしろ、職場にしろ、それらは人間社会の中に含まれる構成要素である。
だが、人間によって構成される社会に於いて、人間が不必要に成るというのは、あまりに倒錯している論理矛盾であろう。
人間が存在するから人間社会が構成され得るのである。
ということは、「富」や「利潤」というものも、本質的には、「人間」しか生み出し得ない、のである。
投機的なマネーゲームにしろ、そこに「人間」のリアルな「暮らし」から遊離したものであるならば、それは所詮砂上の楼閣であり、時代のあだ花でしかないだろう。

そもそも「富」とは、何なのだろうか?
現在、世界の大富豪と云われている人々の多くは、過去の資産の蓄積による人と新たな産業のベンチャー企業の創設者によるものとに大別出来よう。
そして、ここ数年来で、急激に富を増やしている大富豪は、全てIT絡みである。
スマホアプリの開発などといった、情報機器関連の開発やサービス運営でもって成功した人々である。
これらの産業の特徴は、比較的、初期投資が少額であること。
広大な敷地の工場や事務所が不要で、原材料や完成製品の移動や在庫といった「物流」も小さい。
つまり、差益率が比較的高いので、売上額が伸びれば伸びるほど、どんどん儲かる仕組みなのだ。
その極端な例が、動画サイトで一世を風靡した「ピコ太郎」である。
「PPAP」という動画が、評判が評判を呼び、あっという間に億単位の再生回数にまで到達してしまった。
そして、その動画再生によって発生した「広告収入」は、多分、2000万円を超える、と試算されたのである。
自分は、現在、毎日身を粉にして働いて、とても1日1万円も稼げない。
仮に、毎日、身を粉にして働いても7年間もかかるのである。
ところが、「ピコ太郎」は、わずか2、3か月で、動画再生の広告収入だけで、2000万円を稼いだのである。
平成28年10月末日現在、「ピコ太郎」は「時の人」であり、TV番組にも引っ張りだこである。
彼は、突然、世界中から認知され、莫大な大金を得たのである。
これが、ネットビジネスに於ける、凄まじさの一例であろう。
そうなると、もう、「一個あたりいくらの儲け」といったような勘定では、どうにもこうにも追いつかないだろう。

ここ数年の我々の社会に於いて、急激に、モニター(画面)が身近に成ったと云えよう。
かつてモニターと云えば、映画館のスクリーンであり、TVのブラウン管だった。
だが、スマートフォンやダブレット端末、更に液晶モニターの技術革新とその普及により、壁一面に大画面が設置されることも珍しく無く成って来た。
そうなると、広告宣伝にしろ、注意喚起周知徹底にしろ、かつてはポスターといった「静止画」であったのだが、それらが全て「動画」に置き換わったのである。
今後は、あらゆる場所で、「動画」が放映され、再生される時代と成ろう。
となれば、「動画」や「映像」を作成する需要(ニーズ)が否応無く急増するであろう。
そして、優れた「動画」や「映像」を制作出来る人間や組織が、広告宣伝費であれ、鑑賞料金であれ、使用許可費であれ、制作受注費であれ、莫大な金額を得られることとなるだろう。
かつて、コピーライターやデザイナー、イラストライターが、求められたが、今後は、それらの代わりに映像制作技能と抜群のセンス(感性)を持ったクリエイターに取って代わられるだろう。

だが、一方で、我々の周囲はあらゆるものや事柄が「データ化」されてしまう。
映像であれ、数値であれ、言語であれ、全てがデジタルデータと化してしまう。
だが、「データ」は、複製と拡散が極めて容易なのである。
つまり、どんなに優れた素晴らしいコンテンツであろうとも、それが「データ化」されてしまったならば、瞬時に複製(コピー)され、添付(ペースト)され、インターネット上で拡散されてしまうのである。
いくら発信元が削除や閉鎖されたところで、いったんネット上に拡散されたならば、際限無いコピーによって、どんなことが有っても消去は不可能に成ってしまうのである。
そして、複製と拡散によって、いわゆる著作権者に対する使用料や印税が支払われることは、いずれ成立しなくなるかもしれない。
つまり、ネット上の「データ」に対して、その制作者、作り手に対して、お金を支払うということは直接的には成立しなくなると思う。
いわゆる紙媒体の出版による「作品」の提供は、本や雑誌や新聞を購読するというかたちで対価が明確に支払われた。
だが、インターネット上に於いては、正規のかたちでの課金制によるものの他に、違法コピー(海賊版)の発生を根本的に防止することは不可能である。
そうなれば、コンテンツの制作者、作り手は、「元」が取れなくなるだろう。
自分は、最終的に、コンテンツの制作者を金銭的に支援する方法は、ファンクラブの会費制、もしくはパトロンしか有り得ないだろうと思う。
かつていにしえの日本に於いては、漂泊の文学者が多数存在した。
歌人の西行法師、連歌師の宗祇、俳諧の松尾芭蕉。
彼等は「旅に行き、旅に死す」生涯であったが、彼等の路銀(旅行費)や宿泊費、逗留費は、結局、全て現地の弟子や支援者、ファンが持ったのである。
つまり、西行や宗祇や芭蕉という「才能」に心酔し、その「人物」に惚れ込んで、歓待した訳である。
その当時、彼らの作品を所持するには「書き写す」しかなかった。
つまり、出版され、製本された紙媒体の「製品」を購入することによって、コンテンツ制作者への支払いは出来なかったのである。
そして、これからの我々も、かつてのような、「販売部数何万部」というような数字は意味を持たなくなるだろう。
更新回数、再生回数、訪問者回数といった数値が、その代りとなるであろうが、その数値の増大によって、コンテンツ制作者へ金銭的な収入が直接的にもたらされるか、というとそれは違うだろう。
違法にコピーする事例も多発するだろうから。
ならば、今後は、やはり、コンテンツ制作者を金銭的に支えていく仕組みとしては、個々の「作品」に対する属物的な支払いではなく、そのコンテンツ制作者自身の「才能」や「人物」に対する支援としての属人的な支払いに成っていくと自分は思う。

ネット上での「コンテンツ」に対する経済的な効果、新たな「資産」の誕生は巨額な「富」を生むだろう。
だが、果たして、コンテンツ制作者への「富」は与えられるのだろうか?
自分はとても悲観的である。
ネット上に於いては、無料で「鑑賞」可能で無料で「複製」も「拡散」も可能である以上は、コンテンツ制作者への支払いは成立しないだろう。
ならば、コンテンツ制作者は、制作費や制作への手間暇がかけられなくなるだろう。
そうなれば、お金がかかるような大掛かりできらびやかなコンテンツの制作は困難に成るだろう。
結局、どんどん質の劣化が酷く成る悪循環となるかもしれない。

文明や文化は、必ずしも、一方通行的に「進化」「発展」していくものではなさそうである。
これから、人類における、知的かつ美的なコンテンツは、どんどん縮小再生産の流れと成っていくだろう。
人類は今後「退化」していくような気がしてならない。

企業や職場に於いて、「人間」が「不要」に成り、「データ化」されたコンテンツに対しては複製と拡散が蔓延することによりコンテンツそのものが陳腐化していき、「富」としての価値を激減されていくのである。
人類は、新たな「富」を生み出せなく成り、かつての「富」の蓄積を有し、もしくは継承・相続する「資産家」とその他大勢の「貧困層」に大別されていくのであろう。

あとは、日本人の組織人事や人材育成に関して書き記していきたかったのだが、このまま続けると、派遣労務者としての業務に差し支えるので、ここらで終了させてもらう。
現在、自分の収入源は、肉体労働しか無い。
いくら文章書いたり、気の利いたことを話したりしたところでビタ一文も生まない。
だから、疲れ果ててしまっても、自分は何も得ることは無い。
本当にバカバカしい限りである。
ただ、そういう愚行がやめられないのだ。
ほとほと因業なことである。

本日、10月末日を以て、現在の仕事の現場は「終了」した。

明日からは、この現場(と云うよりルート)は、下請けのドライバーさんとアシスタントさんが担当する。

だから、派遣された自分は、「用済み」に成った。

まあ、派遣会社に登録しているので、仕事が無くなる訳ではない。

「明日から何処の現場に行かされるのだろうか?」

また、どんな人と一緒にお仕事をさせてもらうのだろうか、と云った不安を抱いていた。

すると、自分の携帯電話が鳴って、会社から明日以降の現場の通知が来た。

何と!ルートは変わるのだが、派遣先の事業所は変更無しだったのである。

また、今度担当される正社員さんは、以前、休日当番でご一緒させていただいた方だった。

どうやら、先方から「御指名」を頂戴したようなのである。

こんなポンコツでも、「御指名」を頂けたのである。

感慨深くも有り、と同時に身が引き締まる思いである。

どんな些細なことでも、自分の今迄のやって来たことが評価されたことは嬉しい。

人間、「使われる」うちが「花」である。

自分は、特殊な技能やノウハウを持ち合わせている訳でもないし、きらびやかな学歴も経歴も無い。

資格も業績も大したことは無い。

だからこそ、腰を低く、尻を軽くして、指示されたら素直に迅速に一生懸命に精勤するしか無いのだ。

自分は、不器用で魯鈍である。

とは云うものの、時折「そうは云っても、満更、自分も馬鹿じゃないだろう。」と慢心することが有る。

そのたびに、ズッコケて猛省しきりなのであるが。

ただ、自分は生まれてこの方、一度も自分のことを「偉い」と思ったことは無い。

だから、例え、「偉そう」な立ち居振る舞いが有ったとしても、それは自分が「偉い」と思って行っているのではない。

単純に、馬鹿なだけなのである。

そこのところは、どうかお含み願いたい。

人間、「叱られる」うちが「花」であるし、「使われる」うちが「花」なのである。

昨日、素晴らしいご高話を拝聴したので、是非、書き留めておきたい。

 

或る中学生の女の子が、登校拒否に成ってしまった。

朝、学校へ行かなくてはいけない時間に成ると、どうしても心身がままならなくなる。

どうにもこうにも成らなくなって、悶々と苦悩していたという。

そんな或る時、「自分が居ることによって周囲の人が喜んでくれるように心がけてみましょう。」というアドバイスをいただいた。

彼女は、このアドバイスを真正面から受け止めたのである。

彼女は、毎朝、自宅の神棚と仏壇の前で、「今日、自分が居ることで周囲の人が喜んでもらえるような人に成りますように。」と手を合わせるように決心したのである。

それから、幾星霜の年月が流れた。

登校拒否で苦悶した中学生は三十路近い女性に成長した。

或る時、ちょっとした雑談で、常日頃、継続している「習慣」が話題にのぼった。

毎朝のジョギングや寝る前の読書など、長年、自分の日常生活に組み込まれた「習慣」をお互いに披露し合ったのである。

そして、かつて登校拒否だった女性が、「私、中学生の頃からずっと続けていることが有るのよ。」と切り出した。

「私は、毎日、『今日、自分が居ることで周囲の人が喜んでもらえるような人になりますように』と神仏にお祈りしているのよ。」と。

すると、聞いていた相手は、一瞬黙りこくった。

「だから、あなたは、仕事場でもどこでも、会う人会う人、みんなから明るく親しげに声をかけてもらえるんだ。」

 

自分はこのお話しを拝聴して、感動した。

と同時に、自らの至らなさを反省するしかなかった。

この女性は、毎日、毎日、神仏に対して祈りを捧げると同時に、人として生きていくにあたっての「意識」を常に高めていたのである。

だから、彼女は、劇的に変わることが出来、苦しみの境遇から脱却出来得たのである。

さあ、果たして、自分はどうか。

自分はいったい、何を「日常」の中で継続しているのだろうか?

食って寝て排泄して、ぐらいしかしていないのかもしれない。

何事も「意識」が肝要である。

明日からでも、「意識」を変えていこう。

知識として、情報として「知る」だけでは駄目である。

「実践」してこそ、意味が有るのだ。

自分は大学生の時、様々な本を乱読したのであるが、その中で立花隆を徹底的に読んで行った。

立花隆は、まあ、「左翼」だとか「トンチンカンだ」と云った批判が有る。

しかしながら、彼は非常に該博であり、勉強熱心であることは否定出来ない。

というより、そこを押さえずにただ単に知ったかぶりで批判するようであるならば、絶対に立花隆には勝てないだろう。

取り分け熟読したのは「日本共産党研究」「革マルVS中核」「田中角栄研究」であった。

最近、いわゆる田中角栄への再評価が凄まじい。

彼が人間的魅力に富んだ、政治的「天才」であることは否定しない。

だが、何故、田中角栄は短期政権で終わったのか。

また、「闇将軍」というかたちでの「権力の二重構造」の中での、日本政界「最高実力者」として「君臨」しなければいけなかったのか。

つまり、何故、再び総理に返り咲けなかったのか。

これらを含めて、田中角栄の限界と弱点をも十分に認識し直さないといけない。

過去の芸術家を再評価するのであれば、リスペクト(賞賛)だけでも良かろう。

伊藤若冲は凄かった、田中一村は凄かった。

それでも良い。

だが、政治家は違う。

良い点も悪い点も、全部、明確化した上で、厳密に評価の俎上に載せなくてはいけない。

単なる「田中角栄マンセー」では、「懐古趣味」でしか、ない。

 

まあ、それはさておき、立花隆の諸々の著作を耽読していく中で、印象に残っている一冊が有る。

講談社文庫の「青春漂流」である。

これは、かつて青年向け雑誌だった「スコラ」誌で連載された、人物伝である。

当時も、「無名」の人物を追っていたのだが、その中に後にソムリエ世界一に成った田崎真也が居た。

それはそれで、たいへん、面白い「人間模様」が読み取れる。

その最後の「あとがき」で、立花隆は九州に飛ぶ。

そこで、弘法大師・空海が、遣唐使の船団に乗船する湊の旧跡に立つのである。

立花隆は、今まさに飛翔して行く将来有望な若者の象徴として、玄界灘を旅立つ若き日の空海に言及したのである。

そして、立花隆は指摘する。

遣唐使の一員として旅立つ前の、歴史的には「空白」の期間こそが空海にとって重要だったのだ、と。

空海は渡唐して、わずか1年ぐらいで密教仏教の神髄を修得してしまうのである。

空海が、桁外れな天才であったことは事実であるのだが、そこまで短期間で修了出来得たのは、やはり、唐へ渡る以前の日本に於ける「雑密」と云われた山岳修験などでの修行の蓄積が作用したのではないだろうか?

つまり、人間は、世に出てから勝負なのではない。

世に出るまでが、勝負なのである。

世に出るまでに、どれだけの蓄積を成して来たのか。

どれだけの「仕込み」をして来たのか。

それが、いざ、脚光を浴びた時に、全部、出て来るのである。

だから、訳も分からず、身分不相応なかたちでスポットライトを浴びる「幸運」を浴すると、後々、大変苦労することに成るのだ。

結局、花も実も、撒いた種の分しか咲かないし実らないのである。

そういう面では、「不遇」であるということは、満更「不幸」ではあるまい。

それだけ、「仕込み」をじっくり出来る時間を得た、とも云えよう。

 

ただ、自分のように、「仕込み」のまま、「賄い(まかない)」で食べられてしまいそうな場合も有るのでwww

「挨拶」は「交わす」という。

だが、ニヒリストでシニカルな自分は、「挨拶」は「片道通行」だと思っている。

要は、自分からさせていただければ、もう、それで充分なのである。

そして、相手も、実はそうだから、はた目から見ると、さながら「呼応している」ように見えるのに過ぎない。

こちらから「挨拶」をして、向こうが「挨拶」をしてくれないことに腹を立てたり、訝しげに思ってはいけない。

ひょっとしたら、相手は只今悩み事で気が動転していて周囲に一切気が回らないのかもしれない。

もしくは、自分の「挨拶」の声量が低過ぎて、相手は聞き取れなかったのかもしれない。

或いは、たまたま自分の顔が、相手にとって恨めしい人間に瓜二つだったのかもしれない。

「挨拶」が「交わされる」のを「当然」と思うと、不機嫌の沸点が下がってしまう。

「挨拶」が「交わされる」ことが「成立」したことを「幸い」と受け止め、感謝するべきであろう。

日が昇り、また沈む。

晴れた日も有れば、雨風に見舞われる日も有る。

身も凍える厳しい冬も何時しか華やかな春と成る。

うだるような酷暑の夏も何時しか実り多き秋と成る。

これを「当たり前」ととらえ、少しでも不快感を覚えると愚痴不足、不平不満で心身が充たされてしまう。

そうではないのだ。

ごくごくたまたま、得難い「幸い」であったと受け止めるべきであろう。

何事も「有り難い」と受け止められれば、感謝の思いと成り、心身に波風が立つことは無く成る。

これは「欺瞞」ではない。

生きていく上での「知恵」である。

来月から仕事の現場が変わることに成った。

何処に行くのかは、まだ不明なのだが、現在の現場から外れることは決定している。

理由は、現在、自販機ベンダーの会社の正社員さんがドライバーなのだが、そのドライバーを代行業者が下請けするというのである。

そこで、作業助手である派遣社員も、下請け業者の方で独自に手配するため、自分は「不要」に成ったのである。

トラック運転手の「下請け」と聞いて、いわゆるトラック運送関係の業界に関わりの有る人以外は、ピンと来ないだろう。

だが、これは一言で云えば、「ドライバーの人件費の削減」である。

本当は、ドライバーの人件費を削減して、固定経費を削減したいのである。

だが、「正社員」に対して、これ以上「賃下げ」などは要求出来ない。

そんなことをすれば、労働組合や労働基準署が許さないだろう。

そこで、「外注」した訳である。

自分は、長らく、こういう配送業の内情を知らなかったので驚いたのだが、ひとくちに「トラック運転手」と云っても実は重層的な構造に成っており、下層部に成れば成る程、過酷な条件に成って行くのであろう。

下請け会社は、自販機ベンダー会社の正社員の「賃金体系」とは、当然のことながら異なる。

だが、その下請け会社が喜んで受注する仕組みは、「歩合制」なのである。

つまり、担当する自販機の売上額、もしくは収益額の何%かが、下請け会社の取り分に成るのである。

そうなると、下請け会社のドライバーは、短時間でより効率良く巡回が出来れば、それに応じたマージンが入ることに成る。

自分は、下請け会社のドライバーの方とお会いすることも無いし、また、そこの「給与体系」まで確認することは不可能なのだが、「出来高払い」の「歩合制」ということに成れば、それは時給や残業手当、深夜・休日手当などといった取決めが、ほぼ意味を持たないものであると推察する。

つまり、「会社員」ではあるのだが、労働組合による団体交渉によって、人事部がきっちりと構成していく賃金給与体系の枠組みには含まれないのである。

むしろ「個人事業主」の集合体、フリーランスの“組合”のようなものなのである。

これは、「個人請負」ではないだろうか?

確かに、結果を出せれば出しただけの収入が得られる。

だが、仕事は当然、苛酷なものと成る。

既に自分は、別記先述しているのだが、現在の我々の社会は既に「正社員」という雇用形態が破綻しつつあるというように感じる。

「破綻」という表現に語弊が有ると云うのであれば、ほぼ「変容」し尽くされつつあるのだ。

企業の経営としては、固定経費や負債などを見込み、そこから売上金額の目標見込みを算出して、利益、利潤を割り出して行く。

だが、年度末に近付くにつれて、売上金額目標が当初の見込みを下回り、さらに原材料費や光熱費などが上昇した場合、どこかで帳尻を合わさなくてはいけない。

そこで、人件費なのである。

人件費を削減すると、眼に見えて、ドラスティックに効果が上がる。

だから、どんどん業務を「外注」していくのである。

結局、当初は、全てを「正社員」が担っていた業務を、契約社員、派遣社員、パート、アルバイト、嘱託といった「給与賃金体系」の枠外の「よそ者」へ、どんどんと任せていくのである。

そして、ついには、下請け会社へ、全部丸ごとやらせてしまうのである。

大企業が、「分社化」をする場合も、とどのつまりは「人件費の削減」「賃下げ」である。

つまり、どんどん人を安くこき使うことばかりに熱を入れているのである。

このままだと、早晩、その企業の「幹部候補生」以外は「正社員」ではなくなり、その他大勢は「非正規雇用」の「従業員」に成っていくだろう。

戦後日本の労働運動の成果は、事実上、雲散霧消することと成ろう。

だが、果たして、この「流れ」で本当に良いのだろうか?

自分が古臭い時代遅れの人間だからかもしれないが、釈然としないのである。

仕事が出来て、優秀な、ほんの一握りの「正社員」だけが、かつての労働運動の果実を享受し、その他の平凡な大多数の人々が「非正規雇用」の境遇で、不安定な身分と薄給にあえぐ貧困層に落ちるのである。

そして、そのエリートたる「正社員」は、二十代の時期でもって確定し、四十代を超過した者には全く可能性が無いのである。

さらに、「正社員」に成れたとしても、業務の過労から来る心身の不調、発病、怪我などで退職へ追い込まれかねない。

また、老親の介護や家族(特に伴侶の)看病などで、介護離職に追い込まれる可能性は大いに有り得る。

そして、ひとたび「正社員」から転落したならば、二十代や三十代前半の若さならば「正社員」への道がまだ残されているが、自分のように四十代を超過した者には、その可能性はもはや絶望的である。

これは、必然的にマクロ経済、国家財政を直撃することと成ろう。

多分、財務省などは現在、四十代、五十代の人口の人数に、「正社員」としての平均給与金額を掛け算して、この世代の「総収入額」を算出する。

そして、その「総収入額」に所得税率や住民税率を掛け算し、厚生年金保険料、厚生健康保険組合費、介護保険料をも算出していくのである。

そこから、国家財政や地方自治体の財政の収入金額を見込んで行く訳である。

ところが、「非正規雇用」や「個人請負」といった身分に落とされ、事実上の労働賃金が減少、低下され、その人数が大多数を占めたならば、財政収入金額も当然ながら激減することと成ろう。

そうなれば、国家予算も地方自治体の予算も、否応無く、切り詰めざるを得なくなるだろう。

昨今、年金制度への不信感から、年金の保険料納付をしない人が増えているという。

そして、生活保護でもって面倒を見てもらおうという意識がまん延して来ている。

これは、極めて甘い認識だと云わざるを得ない。

「年金」と云うのは、いわば日本国政府が、加入者から年金保険料を納付してもらっているのである。

だから、これは日本国政府が「契約」を結んでいることに他ならない。

ならば、いわゆる年金制度が破綻し、既に年金保険料を納付した国民に対して、ビタ一文年金を支払わなければ、それは即ち「契約不履行」つまり「違約」したことに成る。

これは、「信用問題」なので、結局、日本国政府は、どんなことがあろうとも、なりふり構わず、「年金制度」という「かたち」だけは死守することだろう。

一方の生活保護は、日本国憲法の条文に根拠を持つ社会福祉制度であるのだが、生活保護制度の具体的かつ詳細な取り決めは、行政府の裁量に任されている。

敢えて、刺激的な表現をするならば、生活保護制度とは、日本国政府が「善意」で実施しているのである。

ならば、日本国政府の国家財政が危機に瀕した緊急非常事態に成った場合、あくまで「極論」ではあるのだが、多分、年金制度の維持を優先して、その残りの予算で生活保護制度を「運営」していくことに成るだろう。

生活保護制度への予算金額は削減されるであろうから、現在のように、現金を給付する方式では、生活保護対象者の生命を維持することは難しくなるだろう。

多分、生活保護対象者は、厚生労働省が管理する「施設」へ移住させられ、集団的に生命維持を管理される。

そして、現金は給付されずに現物給付と云うかたちに成るだろう。

そうしなければ、生活保護費の増大を抑制出来ないからだ。

こう考えていくと、「ディストピア」という誠に悲観的な暗黒の未来社会像という「結末」しか用意されないのだろうか?

あと、重要なのは、これからの国家や社会、組織にとって、「必要とされる要素」の再定義である。

現在、日本の社会に於いて、「人材」として評価される判断基準は、さしづめ高偏差値の有名大学を卒業した者、であろう。

だが、社会情勢は激変している。

そして、急激に進化している技術革新が、さらにそれに拍車をかけている。

ITからはじまり、AI(人工知能)、ロボット、VR(バーチャルリアリティ、仮想現実)、ゲノム組み換え、自動運転システム、ドローン、3Dプリンターなどなど。

これらの新技術や新素材の発明と汎用化が徹底されるに当たっては、否応無く、産業構造や社会構造は激変せざるを得ない。

新たな富を手中に収める者も居れば、従来の生業が破綻して淘汰される者も出て来る。

そして、何よりも深刻なのは、あまりの「急変」に人間の「意識」や「道徳律」が追いつかないであろう、という危惧である。

あまりに自己の周囲が「激変」するあまり、自分自身を見失い、そしてインモラルな、「頽廃」が人々に蔓延する。

そうなった時、人間の破壊衝動への発火点は著しく低下し、ほんの些細な煽動(デマゴギー)によって暴走し、暴力の奔流と成って世界中を席巻することと成ろう。

この21世紀は、またしてもかつての20世紀のごとく、暴力と革命と戦争の世紀に堕してしまうかもしれない。

今まさに、根源的な、ラディカルな問題探求への思索が要求されている。

しかし、人間は、より深く、精緻な論考を行うには、衣食住が保障されていなければ無理なのである。

「赤貧洗うが如し」といった、貧困層が激増した場合、大衆は「考える」ことを放棄する。

解りやすく、明瞭な煽動(デマゴギー)に同調することに対して、何の後ろめたさも躊躇も感じなく成る。

その後は、際限の無い暴力の連鎖が繰り広げられるであろう。

さて、自分はしがない派遣労務者に過ぎない。

また、浅学菲才にして無芸大食な愚か者でしかない。

だから、漠然とした危機感を表明することは出来得るのだが、その解決策たる処方箋までは提示出来得ない。

ただ、一人びとりが、性根を据えて危機意識を持つこと。

そして、自分たちの家族や友人や仲間たちと手を取り合い、絆を深め合い、知恵を出し合い、助け合っていくことを強く強く意識し、目指して行くこと。

これしか有り得ないのではないだろうか。

そして、その土台と成るのは、我々の先祖達が継承して来た「伝統」であり「習俗」であり「倫理」であり「礼儀」であり「覚悟」であり、そして「信仰」であると自分は思う。

 

嗚呼、これ以上駄文を書き連ねていると、明日の派遣労務者としての仕事に支障をきたす。

「馬鹿の考え休むに似たり」

今晩はこれくらいで、何卒ご容赦のほど。

つい数日前に、高島屋百貨店の某店の納品へ行った。

以前、指摘させてもらったエレベーターホールの貼り紙が、ようやくきちんとされていた。

(以前書いたものはこちら)

http://blog.livedoor.jp/soemon/archives/55541874.html

だが、その下に、真新しい別の貼り紙が外れてペラペラしていた。

結局、これでは何も解決出来ていないと云わざるを得ない。

自分は何も「貼り紙をきちんと貼るべきだ」と指摘しているのではない。

明らかに、あまり人目に付かない場所の貼り紙ならば、破れていようが外れていようが、そこまでは突こうとは思わない。

ただ、明らかに社員や納入業者の人目に付く場所で、貼り紙が外れているにもかかわらず、それを放置してしまって平気であるということの「意識」の問題なのである。

明らかに、現在、新たに貼り紙が外れていることが視界に入っているにもかかわらず、社員の誰一人、セロテープで留めようともしない。

自分は、ここに「硬直した組織」を見た。

自分が、何故、ここまで指摘をするのかというと、高島屋百貨店は「接客業」だからである。

それも、ハイソな、物品を販売するというよりも接客の高質なサービスに満足してもらって稼いでいる「百貨店」だからである。

もし、それが工事現場の飯場だったらここまで指摘はしまい。

さらに書かせてもらうならば、今や、いわゆる「百貨店」という「産業形態」そのものが存続の危機に立たされている。

ここ数年は、外国人(とりわけ支那人)が大挙して来店し、根こそぎかっさらっていくような「爆買い」をすることによって、驚異的な売り上げが出た。

しかしながら、中共政府が関税をいじったせいで、さしもの「爆買い」も萎んでしまった。

いわゆる「百貨店」の売上金額は、どんどん減少している。

その証拠に、自分は、ここ最近、何時、「百貨店」で買い物をしたのか、全く記憶が無い。

つまり、それくらい、「百貨店」で買い物をしたことが無いのである。

勿論、高級外車で乗り付けて来るような資産階級の人々は買いに来ている。

だが、それだけでは現状の店舗は維持出来まい。

利益率のことを考えれば、そういう資産家たちには外商部で対応してしまった方が、確実に利潤が上がるだろう。

千葉県千葉市の千葉三越をはじめとした、地方店が相次いで閉店しているが、こんなのは、さながら「飢えたタコが自分の足を食って空腹を満たす」ようなものである。

旗艦店と云われる都心の中核店舗に集中させていくようであるが、それが本当に「反転攻勢」「起死回生」への道筋と成り得るのであろうか?

自分ははなはだ疑問に感じる。

今、いわゆる「百貨店」業界で勤務されている人々は、どれだけ危機感を持っておられるだろうか?

「今後の見通しは甘くないだろう。」といったレベルの「意識」しか持ち得ていないのではないだろうか?

自分は、そうは思わない。

このままだと、「百貨店」業界そのものの「底」が抜けるような事態に成りかねないと思う。

だから、「百貨店」業界の「何番目」の「ブランド」だ、「順位」だ、などと口にしたところで何の意味も無く成ってしまうと思う。

かつて、一つの「産業形態」そのものがほとんど消失してしまった事例が有った。

「写真フィルム」業界である。

富士フィルム、小西六(コニカ)、コダックといった大企業が存在していた。

だが、技術革新によってデジタルカメラが普及してしまったことから、最早、写真フィルムはその「歴史的役割」を終えてしまった。

かつて、世界に冠たる巨大企業だったイーストマン・コダックは、写真フィルムに固執したため没落した。

一方、富士フィルムは、今や化粧品や健康食品、医療機器メーカーに変じてしまった。

だから、「業界」そのものが淘汰、消失するような事態と成った場合、いくら「業界」トップブランドであると勝ち誇ったところで、最早、何の意味も無いのである。

そういう危機的な、まさにクライシスとも云える重大局面を迎えつつ有る時、硬直した組織や硬直した仕事意識であるならば、その前途はとても開けるようには思えない。

激動期に於いては、あらゆる前例や常識が揺さぶられ、依拠出来なくなっていく。

そうなった時、何とか生き残っていくためには、感覚を研ぎ澄ませ、論考を突き詰めて、論証を地道に積み重ねていくしかないのである。

「硬直化した組織」や「硬直化した仕事意識」の遠因の一つは過労に有る。

多忙過ぎて疲弊しきった人間は、最早、最低限のルーチン作業しか不可能なのである。

一歩踏み込んで、新奇の業務改良といった創意工夫を生み出す「余裕」が無いのである。

そして、過労の元凶である多忙の原因は、絶対的な人員の欠乏と非効率的で非合理的な「仕事」が多過ぎるのである。

会議の為の会議、内容よりも目方や分量で評価される報告書や会議資料、個人の趣味趣向で極められたデータベース。

結局、「やらなければいけないこと」よりも「取り敢えずやれること」「自分がやりたいこと」を取り違えているからであろう。

間違い無く、あと数年のうちに、超高速化した技術革新によって、世界的な社会構造の大激変がもたらされるだろう。

それはAI(人工知能)とロボットによるだろう。

既に、数年前から我々の世界は、あらゆるものが「データ化」される時代に突入した。

映像も動画も音声も言語も、全てデジタル化され「データ化」されてしまった。

「データ化」されるということとは、その複製と拡散が極めて安易に成ったということを意味する。

つまり、オリジナル(原本)とコピー(複製)というものの違いが、ほとんど消失したことを意味する。

さらに、拡散することにより、或る一つのデータが、瞬時に、全世界中の何千万、何億という端末媒体へ供給されることと成るのだ。

そうなった時、「物品」を所有するという「こと」自体の意味合いも、必然的に変化せざるを得ないだろう。

そこで、「物品」を販売し、購買するということそのものの意味合いや捉え方が、従来とは一変するであろうと覚悟すべきだろうと思う。

既に、「百貨店」業界に於いては、「物品の販売」ではなく、ショッピング(購買行動)への過程の体感、つまり高度な接客サービスに対して顧客は金銭を支払っているのである。

いわゆる「モノからコト」ということになるのだ。

現在の「百貨店」業界に於ける店舗の主流は、商品の現物をより効果的に陳列し、店内の装飾や音響・光量などの効果でもって購買意欲を促進させ、丁寧で洗練された従業員の接客対応によって顧客の満足度を向上させている。

だが、最早、商品の現物を陳列することに固執していては駄目だろう。

もし、自分が「百貨店」業界に関わっていたならば、ヴァーチャルリアリティ(VR)の技術を大胆に取り入れた店舗に変えることを提案する。

そもそも人間は何に対してお金を払うのだろうか?

かつては「物品」だった。

きらびやかな装飾品であったり、新技術による電気製品だったりした。

だが、世界全体が「データ化」してしまっていく以上、「物品」そのものの価値や魅力は相対的に暴落していくだろう。

さらにVRの普及によって、必ずしも「物品」でなくとも「データ」さえ供給されれば、顧客は満足感を得られる状態になるだろう。

ならば、これからの人間は何に対して金銭を支払うのだろうか?

自分は、「人間の五感に訴えること」と「生きていくにあたっての物語(ストーリー)」であると思う。

これらについて詳述すると、明日の派遣労務者としての業務に支障をきたすことになるので、今日の処は割愛させていただく。

とにかく、「神は細部に宿りたまう」のであり、絶えず自分自身の感覚を研ぎ澄ませ、思索を深め、意識を明確に持つことによってあらゆる状況の変化に即応出来るような姿勢を構築していかなくてはいけないのである。

にもかかわらず、上っ面のところを取り繕うだけでは、最早、先は見えたようなものだろう。

ちなみに、自分は、近々、現在の現場から異動することと成った。

これは、自分の仕事ぶりがお粗末であったからではない。

単に、経費節減が理由である。

だから、もう、高島屋百貨店へ納品しに行くことも無くなる。

後のことは、知り得ることもないだろうし、また、知りたいとも思わない。

はい、左様なら、である。

昨晩、小池百合子東京都知事による「政治塾」に関して、いわゆる「政治塾」に関して批判をした。

自分は、実際に、「政治塾」の実態を知った上ではないにもかかわらず、である。

そこで、或る「政治塾」の存在を思い出した。

平沼赳夫先生が主宰された「かけはし塾」である。

で、以下、昨晩自分が書いた拙文の論旨を訂正させていただきながら、書き進めていきたいと思う。

「かけはし塾」は、保守の新党である「たちあがれ日本」に於いて、党主であった平沼赳夫先生の政治的意志を後継するための有為の若者を育成するために設立された「政治塾」だったと云う。

残念ながら、自分は、「かけはし塾」の詳細を知らない。

ただ、仄聞する限りでは、多分、現状に於いて、この「かけはし塾」が、いわゆる「政治塾」の一番の理想的なケースであったのではないか、と思われる。

「かけはし塾」には、明確な目標と理念が有った。

それは、保守政治家としての「平沼赳夫」に続く、という「軸」が有ったのである。

そこから、論理構成や政策立案などといった、具体的な展開が明瞭に描き得たのである。

一方、おおさか維新や小池都知事の「政治塾」には、実は、そう云った確固たる政治的な「軸」が、自分には見出せ得ないのである。

「大阪都構想」や「(東京都)都民ファースト」が、政治的な「目標」と云うことになるのだろうが、「大阪都構想」はあまりに限定的であり、「都民ファースト」はあまりに抽象的である。

そこから、論理構成や政策立案などといった具体的な展開に持って行くには、一段階不足している。

ただ、それは、それらの「政治塾」の「旗頭」である橋下徹や小池百合子の、或る種の「解りにくさ」から起因している。

つまり、橋下徹や小池百合子が、政治的には「何者」なのか、実は判然としないことにある。

ただ、政治的な色合いが鮮明でないことが、世間一般大衆には新奇な魅力として認識されているのである。

また、橋下徹や小池百合子は、共に「抵抗者」「改革者」としてのキャラクターを確立出来ている。

つまり、政治的には「正体不明」でありながら、キャラクターとしては明瞭で解りやすいことが、世間一般大衆にとって強烈に共感され得るのである。

しかし、世間一般大衆には、解りやすくても、「政治塾」としての方向性は定まらないのである。

だから、その「政治塾」の出身者が目出度く選挙で当選した後に、情けない醜態を晒したりした訳である。

一方の「かけはし塾」は、少数精鋭で、明確な方向性を持って教育が為されたようである。

勿論、平沼先生の後に続く人材を育成する訳だから、選挙に出る事は目標であった。

だが、「かけはし塾」はマスコミが飛び付き、囃し立てることも無く、ひっそりと終了した。

だから、「かけはし塾」を足掛かりにして、とにかく選挙に当選出来れば良い、という自己顕示欲と上昇志向を満たしたいような輩はほとんどいなかったようである。

一方の、いわゆる「政治塾」は、橋下徹や小池百合子のネームバリューに吸い寄せられ、さながら夜中の街灯に虫たちが群がるような状態である。

とにかく、「時の人」の「七光り」で選挙に当選しよう、ということばかりが先に立っているような気がする。

残念ながら「かけはし塾」には、もう参加することは出来ない。

しかしながら、いつか、どこかで、そのような稀有な僥倖が再来するかもしれない。

自分は、最早、年齢を取り過ぎたので「お呼び」ではないが、十代、二十代、三十代の青年諸氏には大いに可能性が残っている。

是非とも、「本物」に触れて、研鑽に励んで下されることを念願してやまない。

そういう「本物」は、実は、ひっそりと存在している。

ただ、真剣に「出会い」を求める努力を続けていけば、必ず「ご縁」がもたらされるように自分は思う。

がんばりましょう。

小池百合子を中心とした政治塾を発足させるとのこと。

以前に、橋下徹の大阪維新の会も「政治塾」をつくった。

自分は、「政治塾」なるもので学んだことが一切無い。

そもそも、政治に関して、系統に基づいた「専門教育」さえも修学していない。

大学は林学だったし、その後はうだつの上がらない会社員をやっていた。

だから、「政治」を語り、論じるに当たっては、ちゃんとした専門教育を修めないと駄目なのだとも思う。

ただ、「小池政治塾」に関して、自分は全く食指が動かなかった。

「政治塾」の何たるかを全く理解していない自分が云うのも、甚だおかしいのだが、どうも「政治塾」とは、単に、新党の「選挙立候補者」の「育成」の場のように感じる。

もっと云えば、「選別」の場であるような感じである。

つまり、「政治塾」を無事に「修了」すれば、後は選挙に出馬することが「前提」に成っているような感じがするのである。

だが、今、(ひょっとしたらかなり昔からかもしれないのだが)、政治に志しを抱く方々は、ほとんどがマイクを握って語りたがる人ばかりなような気がする。

勿論、選挙戦を戦うわけだから、演説の一つも出来なければ話しにならないだろう。

だが、情熱と才能を有した方々が全員、選挙戦の候補者として立つべきなのだろうか?

今、自分が一番危惧しているのは、みんなみんな「お神輿」の上に乗りたがる人ばかりなような気がするのである。

田中角栄は、かつてこう云ったと云う。

「駕籠に乗る人、担ぐ人、そのまた草鞋をつくる人」と。

今、日本の政治の現場に於いて、圧倒的に不足しているのは「お神輿」に乗る人ではないと思う。

「お神輿」を担いだり、「お神輿」が通る先々で路上を掃き清めて行くような人が、決定的に不足しているのだと感じる。

だからこそ、晴れて当選したものの、普通の「一国民」としての常識さえ持ち得ていないような醜態を晒すことに成るのではないだろうか?

 

自分は、とにかく「使い走り」に徹し切ることに決めた。

だが、「使い走り」に固執するつもりは無い。

「使い走り」に徹し切った上で、周囲が自分をどのように評価して下さるか如何である。

周囲が「そろそろ神輿に乗れ」と云って下さるなら、それはそれで肚をくくる。

「使い走り」がお似合いである、と周囲が認めるならば、そのまま「使い走り」を真摯に勤め上げるだけである。

 

自分は、只今現在、単純作業の派遣労務者である。

だが、自分は、今の仕事を恥じていない。

不満とも思っていない。

取り敢えず、今は、この仕事を一生懸命に務めるだけである。

はっきり云って、仕事の選り好みをするような人間が「大仕事」が出来る筈が無いと思う。

ゴミ拾いだろうが、便所掃除だろうが、そういった仕事を完璧に勤め上げられるだろうか?

大それたことを高吟するのも結構だが、ゴミ拾いや便所掃除の一つも満足に出来ない人間が、選挙に受かろうなんて思い上がりも甚だしいような感じが自分はする。

 

いわゆる「政治塾」なるものが、単なる選挙への候補者発掘の場であるのならば、顔写真による風貌とスタイル、若さ、そして、政党本部からのシナリオを忠実に演じられるだけの記憶力と素直さ。

これだけで充分なのではないか?

残念ながら、自分は、これらの項目全てに該当しない。

顔はふやけたオッサン顔で、スタイルも悪い。

もう若くは無いし、政党本部からのシナリオにも全面的には従わないだろう。

さらに、お金も、出自も、出身大学も全くお話しにならない。

それこそ、芸人の又吉さんのように芥川賞でもいただかなければ、「一発逆転」は無理だと思う。

だからこそ、まずは「使い走り」に徹し切らないと、展望が開けないのである。

 

多分、世人の多くは、そのあまりの迂遠さを嘲笑するだろう。

だが、自分は、この地に足が着いたやり方しか出来得ないし、また、これが結局一番の近道なのだと信じている。

結果はすぐには出ない。

しかし、そんなことは先刻承知の上のこと。

結果を急がずに、着実に布石を打つ。

魯鈍で惰弱な自分には、この道しか、無い。

以前も書いたのだが。

左翼と右翼の位置関係は、直線上の対極に在るのではない。

左翼と右翼は、実は円環状の上に位置している。

だから、極左と極右は、実は近しい。

突き詰めていけばいくほど、近く成る。

或る面、恐ろしくも有り、不可解でも有り、滑稽でさえ有る。

その関係性は、さながら「生と死」のようでもある。

全くかけ離れた対極の位置に在るように見えて、実は表裏一体であるという。

だから、イデオロギーを巡る問題は難しい。

複雑にして怪奇に見える。

ただ、虚心坦懐に、誠心誠意でもって臨めば、おのずと真理は見えて来る。

転向左翼の自分は、そう感じている。

頭が良い人にありがちな落とし穴について。

「頭の良い人」とされる特徴として、その「速さ」があげられよう。

理解、分析、決断。

これらがパッパと出来てしまうのである。

いわゆる「頭の回転が速い」と云われる特徴である。

だから、「頭が良い人」と「自己認識」している人が失敗する場合の多くは、横着から来ている。

つまり、とにかく速く結果を出そうとするのである。

しかしながら、いきなり全部仕上げようとすると、どうしても無理が生じる。

往々にして、しくじるのである。

実は、先日、仕事場で、これにあてはまることが有った。

或る人は、頭がずば抜けて良い。

だが、手先がそれに追いつかないのである。

だから、ケアレスミスが頻発する惨事と成る。

一方の自分は、単にせっかちで粗忽者の注意欠陥多動症(ADHD)の人間なので、やはり、いきなり衝動的にやってしまう。

当然、上手くいかない。

だが、失敗の連続の中で、一つ一つ、小さな工程を積み重ねていくことで、確実に成功出来るやり方が解って来る。

そして、次第に愚直に、一つ一つの作業を行っていくことで、それなりのスピードアップと正確性を両立出来るように成って来るのである。

だから、あんまり「頭が良過ぎる」のも考えものであろう。

地道な作業が、遅滞していてまだるっこしく感じられるのであろう。

但し、本当に怜悧な人は、自分の愚かさを強く自覚しているものである。

だからこそ、例え失敗しても、すぐに軌道修正が可能なのである。

自分はしがない派遣労務者に過ぎない。

だからかもしれないが、ちょっとした「仕事のコツ」を知る機会を得ると、とても嬉しい。

先日も、とあるラーメン屋に於いて。

女性の店員さんが、ラーメンどんぶりにご飯茶碗やコップなど、テーブルを埋めていた一人前分の食器を、器用に積み重ねて、片手で運んでいた。

やはり、片手が空いていないと、困る状況が有るのだろう。

こういうちょっとした創意工夫を知ると、自分はなんだか得をしたような気がする。

まあ、こんな「些末」なことばかり気にしているから、大したことも出来ない。

ま、自分は「使い走り」に徹し切る覚悟ですからwww

新潟県知事選挙、負けた。
勝てる選挙をみすみす落した観である。
これは、極めて深刻に受け止めるべきだと思う。
つまり、いわゆる「無党派層」を掴みきれなくなっているのである。
そして、さらには、基盤と成る「保守層」が、まとめきれていない。
つまり、支持基盤が崩壊しているのである。
これでは到底勝てない。
現状分析をし、理論・政策・組織形成などの全面的な戦略の描き直しをしなくてはいけない。

これで、衆院補欠選挙も結果が読めなく成って来た。
取りこぼしも、大いに有り得る。
そうなれば、平成28年末から平成29年1月にかけて、想定されている「衆議院解散総選挙」の実施も棚上げ、先送りに成るだろう。
下手をすれば、「任期満了」まで、引っ張れるだけ引っ張るような、惨状に陥るかもしれない。

今回の新潟県知事選挙の結果で、民進党代表の蓮舫は、ポイントをゲットした。
このままだと、蓮舫は、民進党を蘇生させた「ジャンヌ・ダルク」に成りかねない。

嗚呼!!!

大きなプロジェクトを行う上で重要なのは、事前の「仕込み」と事後の「後始末」である。

特に、「後始末」は絶対に疎かにしてはならない。

プロジェクトによっては、当初の期待通りの結果が出ない場合がある。

だが、それでも「後始末」はきちんとしなくてはいけない。

というよりも、駄目な結果であったならば、なおのこと、「後始末」をきちんとしなければ絶対にいけない。

プロジェクト“終了”で茫然自失したり、意気消沈したり、自暴自棄に成ったりして、ろくに「後始末」もせずに、「夜逃げ」のように撤収してしまうようでは、絶対に駄目である。

「後始末」が出来て、はじめて、次につながるのである。

世間は、或いは、周囲は、プロジェクトの結果云々は当然のことながら、その「後始末」がしっかりと出来ているのかどうか、注視している。

「後始末」は、辛い。

心身にとても堪える作業である。

だが、その「後始末」がきちんと出来たならば、必ず、再起は見込める筈である。

ことわざにもあるではないか。

「立つ鳥、後を濁さず」と。

 

「後始末」がきちんと出来る為には、どうしたら良いのか。

それは、プロジェクト全体を俯瞰的にとらえ、全体の構成と「流れ」を理解していなければ、無理である。

今回のプロジェクトの「後始末」は、実は、次のプロジェクトの「仕込み」に続いているのである。

そこまで、冷静に見通せているかどうか、であろう。

さらに、心身のタフネスが問われてくる。

プロジェクト終了と共に、緊張の糸が切れてしまい、一気に崩れ落ちてしまうようでは「後始末」は出来ない。

「後始末」は、「後始末」として、誠意をもって完遂する意識、覚悟を持っていなくては駄目だと思う。

平成28年10月14日金曜日、つまり本日、新潟に民進党代表の蓮舫が乗り込んで来た。

16日投開票の新潟県知事選挙で、共産党・社民党・生活の党(自由党に変えるとか)推薦の野党統一候補の応援のためである。

新潟県知事選挙は、現職が突然の不出馬と成り、長岡市長だった森候補と、自民党などから何度も選挙に出て落選して来た米山候補のほぼ一騎打ちと成った。

当初は、保守系の森候補の楽勝と思いきや、共産党などの「脱原発」勢力が支援する米山候補に並び、むしろ僅差で負けそうである。

米山候補は、元々が自民党だったせいで、新潟県民にほとんどは「保守系」に見える。

また、選挙公報にも、「現職知事の後継」を掲げているかわりに、共産党や社民党などの推薦の事実を一切明記していない。

米山候補は、次の衆院選で、民進党から出馬する候補者だった。

だが、それを振り切って県知事選挙に鞍替えしたのである。

そういう複雑怪奇な経緯が有るため、本日10月14日まで、民進党は米山候補を応援することを表沙汰にせず、隠して来た。

ところが、米山候補が森候補に競り勝つ可能性が高く成ったため、突如、応援演説をしに乗り込んで来たのである。

まさに「機を見るに敏」ではあるが、こういうことを「日和見」という。

結局、「勝ち馬に乗り」、新潟県知事選挙の勝利のおこぼれに預かろうという、誠に誠にさもしい根性なのである。

ちなみに、労働組合の「連合新潟」は森候補を推薦している。

つまり、蓮舫や江田憲司が米山候補側にすり寄ったのは、民進党全体での意思統一を行った結果ではない。

「勝てば官軍」で、選挙に勝てば、誰も文句は云わないだろうと高をくくって、見切り発車したのである。

さて、米山候補自身は、元来が自民党だったから「保守」かもしれない。

だが、今回の県知事選挙は、事実上、共産党などの左翼政治運動家によって仕切られている。

つまり、左翼に担がれて当選することに成る訳で、そうなったら、選挙の実働部隊だった共産党などの意向を無視するような「保守系」の政策や主張など、事実上不可能だろう。

候補者は「保守」で、選対は「左翼」というのでは、まさしく「羊頭狗肉」であろう。

「看板に偽り有り」ということである。

そして、本日、民進党の蓮舫が、恥ずかしげも無く、いけしゃあしゃあと乗り込んで来た。

パッと見は、リベラルな市民的な政治候補に見えてしまう。

だが、本当は、ゴリゴリの左翼なのである。

しかしながら、何故、そんなゴリゴリの左翼がここまで選挙で優勢なのだろうか?

多分、選対が、ほぼ共産党なので、かえって「少数精鋭」で意思統一が明確であり、無駄で曖昧な動きが無いのであろう。

そう考えると、いかに保守陣営が腑抜けなのか、慄然とする思いである。

もう、森候補の選対だけに期待しては駄目だ。

心有る人々が、一人びとり、自覚と信念を持って決起しなくてはいけないだろう。

もう、本当に時間が無い!

まさに、今が正念場である!

今日、自分は、感激を味わっている。

 

世の中の常として、「『何を云ったか』で評価せず、『誰が云ったか』で評価する」ものである。

会議がそうである。

会議で出て来た意見の良し悪しではなく、その会議の参加者の誰が云ったのか、と云うことで、だいたい会議の決定は決まってしまうものである。

だから、現実から乖離しているような人が発言力や影響力が強い場合、その会議での決定は往々にしてナンセンスなものに成る。

だから、「『誰が云ったか』で評価せず、『何を云ったか』で評価する」ことが出来る人は、本当に少ない。

そして、そういう人だからこそ、結果が出せるのである。

 

今日、自分は、そういう素晴らしい人が自分の身近に居られることに気が付き、とても感激してしまった。

有り難いことである。

平成28年7月10日が第24回参議院議員選挙であった。(以下敬称省略)

その結果、自民党は定数242議席中121議席と成り、連立して政権を構成する公明党は25議席と成った。

それに、おおさか維新の会(現・日本維新の会)12議席、日本のこころを大切にする党3議席、そして、憲法改正に理解を示す無所属議員を加えると、憲法改正の発議となる「3分の2以上」162議席を上回った。

安倍晋三内閣は、衆参共に圧倒的な多数派を形成し、長期政権が現実味を帯びて来た。

だが、「好事魔多し」で、舛添要一東京都知事の金銭疑惑による辞職で、東京都知事選挙が真夏に行われた。

自民党と公明党は、増田寛也元岩手県知事を擁立したが、自民党代議士であった小池百合子の出馬により、「保守陣営分裂選挙」という事態と成った。

結果は、小池百合子の圧勝で、「自民党・公明党陣営」は選挙に負けたのである。

その後、民進党の代表は、重苦しい岡田克也の代わりに、「花の有る」蓮舫に変わった。

さらに6月22日には鳩山邦夫代議士が死去していた。

都知事選に出馬して失職した小池百合子の選挙区と共に、衆議院議員の補欠選挙が行われ、本日、平成28年10月11日が告示日だった。

そんななさ中、実は、既に選挙戦も終盤に成っている「選挙」が有る。

「新潟県知事選挙」である。

元々は現職の泉田裕彦県知事の続投かと思いきや、地元県新聞紙の新潟日報の報道姿勢や論調を理由に、突然、不出馬と成った。

既に県知事選には、新潟県長岡市長だった森たみおが出馬表明していた。

そもそも、新潟県知事選挙が屈折したものに成ったのは、5年前の東日本大震災の福島原発危機を契機とした、「脱原発」の動きで有る。

新潟県にも、東京電力の柏崎刈羽原発が存在する。

つまり、東京都民などの東京電力から電気を供給されている市民は、新潟県の原子力発電所からも送電してもらっている可能性が有るのである。(現在は定期点検中)

新潟県内の原発は、新潟県民以外は「他人事」であるように思えるが、実はそうではないのだ。

その柏崎刈羽原発を巡って、再稼働に対して反対したのが泉田知事だったのである。

この泉田知事の「脱原発」に対する「姿勢」が、新潟県知事選挙を複雑なものにしていった。

泉田知事が立候補すれば、保守系が離脱し、かわりに「脱原発」陣営が支持する構図に成りそうであった。

しかし、泉田知事が選挙を不出馬にした為、有力候補は森たみお、一人、と見られていた。

ところが、元々は自民党の政治家だった米山隆一が、民進党衆議院議員選挙候補から鞍替えして、県知事選挙に出馬した。

そこへ、共産党、社民党、生活の党なども「共闘」し、「野党統一候補」として一気に急浮上して来た。

米山は、かつて衆参のいくつもの選挙を出ていたが、ことごとく落選していた。

東大卒で、医師で弁護士という経歴でもある。

そこへ、「脱原発」「TPP反対」「泉田知事の路線を継承する」といったことを掲げて戦ったところ、共産党の固い組織力にも支えられて、事前の予想とは異なり、大接戦に成ってしまった。

既に、10月9日の朝日新聞などの選挙情勢記事に有るように、保守系の森たみおは、野党統一の米山隆一と互角の戦いに成ってしまった。

いくつかの選挙情勢調査分析を行っている中では、既に共産党が推薦する米山隆一が優位に成ったという結果も出ているとのことである。

ここで注意しなくてはいけないのは、野党統一候補と云いつつも、元は自民党出身でもあり、「保守」の経歴を持っていることである。

それこそ、「全労連」の役員といった、バリバリの野党活動家ではないため、有権者は、野党統一候補に対して、「民進党公認」や「共産党単独推薦」の候補者と比べると、違和感、嫌悪感、抵抗感が無いのである。

何度も選挙に出て(落ちてはいるが)それなりに「知名度」が有り、政策もさほど過激ではなさそうだ、ということで、支持率がぐんぐん急上昇しているのである。

だが、ここで、待って欲しい。

今回は、日本共産党が推薦し、さらに、共産党系の各組織がフル回転して選挙戦を戦っているのである。

候補者本人は「保守」なのかもしれないが、選挙の実働部隊は共産党が相当な割合を担当しているのである。

もし、当選した後、新県知事は、間違い無く、日本共産党へ配慮した政策や政治的行動を示すであろう。

「脱原発」は明白であるが、問題は、新潟県という地域の日本国内に於ける「地政学」的な、もっと云えば防衛上に於ける重要な位置であるということである。

日本海という海を介してはいるものの、北朝鮮・韓国・ロシア・中国といった外国と接している。

現に、北朝鮮の拉致被害者の横田めぐみさんは、新潟県で拉致されている。

また、新潟市内では、中華人民共和国の総領事館の広大な土地取得の問題も有る。

さらに、青山繫晴によって世間で知られるようになった「メタンハイドレード」も新潟県沖の海底に埋蔵されている。

つまり、今、この国際軍事状況が流動化し、大変に不安定な危機的状況に於いて、「国境の県」「国防の最前線」とも云える「新潟県」に於いて、日本共産党や社会民主党からの強い影響力が見込まれる「県知事」が誕生する可能性が極めて高く成ってしまったのである。

これは、ひとえに、保守系の油断や慢心から来ている。

7月の参院選挙で、改憲勢力が「3分の2」を占めたということで、もう、すっかり有頂天に成ってしまっている。

だが、その7月の参院選で、新潟県選挙区は、野党統一候補である、生活の党の候補に自民党公認候補は惜敗しているのである。

新潟県は、かつて、田中角栄を生み、稲葉修、高鳥修、桜井新、白川勝彦といった自民党の大政治家を多数輩出した。

だが、暴れ川だった信濃川のせいで、新潟県は貧しく、冬の間は雪に閉ざされる苦労を味わって来た。

そのため、新潟県は農民運動も盛んであり、かつての日本社会党の支持者も膨大に存在していた。

だが、そういった日本社会党支持者だった人々を、田中角栄は、自分の個人後援会「越山会」へ、どんどんと呑み込んでいったのである。

つまり、新潟県は、必ずしも「保守王国」ではないのである。

田中角栄をはじめとした先人たちが、社会党支持者を切り崩し、取り込んで行った結果だったのである。

だから、現在の新潟県で自民党が今一つ精彩を欠くのは、有権者が野党候補支持へと流出することを阻止出来ないためである。

現時点で、故・鳩山邦夫の福岡6区、小池百合子の東京10区の衆院補選は、自民党系の候補者が優位に立っている。

だが、この新潟県知事選挙で、保守系の森たみお候補が惜敗するような事態と成れば、10月23日の衆院補選にも、間違い無く影響が及ぶ。

さらに、7月の参院選で、盤石と成った安倍政権そのものをも痛撃することにも成ろう。

たかが地方選挙、県知事選挙、と侮っては絶対にいけない。

現に、沖縄県知事選挙に2014年、翁長雄志が当選してから、沖縄県の国会議員は、衆参全てが野党系に成ってしまった。

自民党の代議士は九州・沖縄ブロックの比例復活であり、現職閣僚だった島尻安伊子は7月の参院選で惨敗した。

下手をすると、今後新潟県に於いても、国政選挙に於いてこのような「ドミノ現象」が起こらないとも限らない。

まさに、今こそが、「正念場」である。

新潟県知事選挙は10月16日が投開票日である。

どうか、皆々様、心して奮起して下されたい!!!

 

以下、新潟県議会議員の石塚健先生からの寄稿を掲載させていただく。

(以下引用開始)

 

中国総領事館問題、北朝鮮の拉致事件――。我が国の国防を考えたとき、新潟は非常に重要度の高い地域です。

 

その新潟で現在、県知事選挙が行われています(投開票は今月16日)。

 

自民党などが推薦する森たみお候補と、共産党(および社民党、生活の党)などが推す候補の事実上の一騎打ちとなっていますが、状況は非常に厳しいものになっています。

 

調査によっては、共産党推薦候補がリードしているという状況です。危機感を通りこえ、恐怖さえ感じる毎日です。

 

そして、我々は「この新潟に共産党がコントロールする県知事を誕生させてはならない」、「共産党の赤旗を県庁に立てさせてはならない」との思いで必死に戦う毎日を送っております。

 

残り1週間。是非とも全国の志を同じくする皆様に、支援の輪を少しでも広げていただきたく、心よりお願いをする次第であります。

 

何卒よろしくお願い申し上げます。

 

(以上引用終了)


(平成28年10月14日追記)

平成28年10月14日金曜日、つまり本日、新潟に民進党代表の蓮舫が乗り込んで来た。

16日投開票の新潟県知事選挙で、共産党・社民党・生活の党(自由党に変えるとか)推薦の野党統一候補の応援のためである。

新潟県知事選挙は、現職が突然の不出馬と成り、長岡市長だった森候補と、自民党などから何度も選挙に出て落選して来た米山候補のほぼ一騎打ちと成った。

当初は、保守系の森候補の楽勝と思いきや、共産党などの「脱原発」勢力が支援する米山候補に並び、むしろ僅差で負けそうである。

米山候補は、元々が自民党だったせいで、新潟県民にほとんどは「保守系」に見える。

また、選挙公報にも、「現職知事の後継」を掲げているかわりに、共産党や社民党などの推薦の事実を一切明記していない。

米山候補は、次の衆院選で、民進党から出馬する候補者だった。

だが、それを振り切って県知事選挙に鞍替えしたのである。

そういう複雑怪奇な経緯が有るため、本日10月14日まで、民進党は米山候補を応援することを表沙汰にせず、隠して来た。

ところが、米山候補が森候補に競り勝つ可能性が高く成ったため、突如、応援演説をしに乗り込んで来たのである。

まさに「機を見るに敏」ではあるが、こういうことを「日和見」という。

結局、「勝ち馬に乗り」、新潟県知事選挙の勝利のおこぼれに預かろうという、誠に誠にさもしい根性なのである。

ちなみに、労働組合の「連合新潟」は森候補を推薦している。

つまり、蓮舫や江田憲司が米山候補側にすり寄ったのは、民進党全体での意思統一を行った結果ではない。

「勝てば官軍」で、選挙に勝てば、誰も文句は云わないだろうと高をくくって、見切り発車したのである。

さて、米山候補自身は、元来が自民党だったから「保守」かもしれない。

だが、今回の県知事選挙は、事実上、共産党などの左翼政治運動家によって仕切られている。

つまり、左翼に担がれて当選することに成る訳で、そうなったら、選挙の実働部隊だった共産党などの意向を無視するような「保守系」の政策や主張など、事実上不可能だろう。

候補者は「保守」で、選対は「左翼」というのでは、まさしく「羊頭狗肉」であろう。

「看板に偽り有り」ということである。

そして、本日、民進党の蓮舫が、恥ずかしげも無く、いけしゃあしゃあと乗り込んで来た。

パッと見は、リベラルな市民的な政治候補に見えてしまう。

だが、本当は、ゴリゴリの左翼なのである。

しかしながら、何故、そんなゴリゴリの左翼がここまで選挙で優勢なのだろうか?

多分、選対が、ほぼ共産党なので、かえって「少数精鋭」で意思統一が明確であり、無駄で曖昧な動きが無いのであろう。

そう考えると、いかに保守陣営が腑抜けなのか、慄然とする思いである。

もう、森候補の選対だけに期待しては駄目だ。

心有る人々が、一人びとり、自覚と信念を持って決起しなくてはいけないだろう。

もう、本当に時間が無い!

まさに、今が正念場である!


こんなことを書くと、「論理的ではない」と決め付けられてしまうだろうがwww

 

今、家を出て、電車に乗ったり、街や駅を歩いていくと、外国人とすれ違わない日は皆無に成ってしまった。

余程、辺鄙なところ以外、今や、日本の各地で外国人とすれ違う。

単に、訪問したり、移動中である人も居るだろうが、中には居住している人も必ず居るだろう。

かつては、支那人や朝鮮人が比較的、目についた。

だが、今や、東南アジア系の人々も多い。

さらに、インド人やアラブ人、イラン人(ペルシャ)、トルコ人、そして黒人も欧米出身ではなくアフリカから直接来ている人も多い。

勿論、欧米人、南米人、ロシア人など、世界中から数多くの人々が我が日本に来ているのである。

まあ、みな、仲良くしているのだが、かといって、全くトラブルが存在しない訳でもない。

何しろ、育って来た環境が大きく異なるのである。

誤解や行き違いが存在しない訳が無い。

そうなった時、やはり、「衝突」が発生するだろう。

一番わかりやすいのは、暴力や犯罪といったかたちだと思う。

だが、実は、眼には見えない「衝突」というものが、有る。

それは「呪い」である。

何と馬鹿馬鹿しいことか、と侮ること勿れ。

まだ、世界の国々や地域によっては、「呪術」というものが根強く存在するのである。

人々の価値判断や行動指針の基底として、「呪い」が大きな存在として意識されているのである。

だから、日本人が海外へ行った際に、この「呪術」的な要素に関して、信じるところまではいかないにしても、頭から全否定し、さらに侮蔑するような「意識」であった場合、現地の住民と齟齬を来す元凶に成りかねない。

現地の住民が、「呪い」や「呪術」の存在を大いに意識しているのであるのならば、その現状を前提にして「現実的」な対応をしなくては不適切に成る。

日本人だって、今では「科学的」にお高く留まっているが、そうは云っても、建設土木の工事の開始前には「地鎮祭」を行う。

事故や凶事が起これば、「お祓いでもしようか?」と云うことに成る。

車に交通安全のお守りをぶらさげ、店や事務所には商売繁盛のお札を祀る。

また、工場によっては、お稲荷様が在るところも有る。

現に、自分がかつて勤務していた工場にもお稲荷さんが有った。

そこで面白かったのは、タイだかインドネシアだかから研修に来ていたグループが、お稲荷さんを見つけて、彼等なりのやりかたで丁重に参拝していた姿を見たことである。

インドネシアはムスリムなのだが、ムスリムも「霊魂」を否定しない。

「精霊」(ジンと云う)の存在はコーランにも明記されており、ムスリムであっても、ムスリム以前の土俗的な精霊信仰は、消え去っていない。

それは、欧州に於いても、古代エジプトやケルト、ドロイドなどの古代信仰が、黒魔術・白魔術・赤魔術という「オカルト」として受け継がれている。

 

さて、ここで、あくまで「可能性」として、「仮定」として論考を進めていきたい。

日本における外国人の絶対的な人数が、居住であれ、滞在であれ、通過・移動であれ、激増している現状を踏まえたならば、確率的に云って、外国人とのトラブルの発生も激増していることが云えよう。

それは、暴力であったり犯罪であったりする。

だが、必ずしも外国人が加害者であるわけでもない。

また、外国人の方が「強者」で「勝者」であるわけでも無い。

中には、日本人の「仕打ち」に涙を呑んで泣き寝入りしている外国人も存在することだろう。

そして、そういう外国人の中には、「直接的」な報復が困難な場合は、「呪詛」を選択する「常識」や「価値観」を持つ「習俗」の人々も存在するのである。

つまり、呪術師に依頼して、日本人を呪詛する外国人も存在する筈である。

これは、良い悪いでもなく、また、人種差別でもなく、この西暦2016年の現代に於いてもなお、「呪術」の存在を信じている人々がそれなりに居る、ということを踏まえた上での推論である。

では、「呪詛」をかけられた日本人はどうなるのだろうか?

「呪詛」の高度なものは、「呪詛」をかけたということさえも気付かれないようにすることが多い、という。

だから、「呪詛」をかけられた方は、「呪詛」の存在そのものまで意識が出来ない。

さて、問題は「呪詛」を、どう、捉えるべきかと云うことに成る。

「呪詛」が存在するか否か、という問いには、「呪詛」を行い、さらにその意図と効果を信じる人間が存在する以上、「呪詛」は明確に存在する。

だが、問題は、「呪詛」が、具体的に実効性が有るのか無いのか、と云うことに成るだろう。

心理学的な解釈としては、「お前を呪ってやる!」と通告することによって、心理的な圧迫、脅迫を行い、そのストレスで以て心身に不具合を生じる、という構図で説明する。

だが、高度な「呪詛」は、相手に悟られぬように秘するものが多い。

となると、心理的なプレッシャーによる効果は認められなくなる。

ならば、「呪詛」は、単なる「悪意」や「妄想」に留まり、実効性は無い、と即断して良いのか?と云うことに成る。

自分は、いわゆる「祈願成就」の効果が存在する以上、「呪詛」の効果も存在すると考える。

現在の科学技術や科学理論に於いて、いまだに説明が不充分なところは、とても多い。

だが、経験則や、統計データ的に見て、「加持祈祷」によって実効性が有ったと体感し、納得することが多いのも、世の中の多くの人の傾向だろう。

だからこそ、我々は、合格祈願や厄除けや交通安全、商売繁盛の加持祈祷をお願いする訳である。

その「ご祈願」が、身内に対するプラスの効果を意図するものであるのに対して、「呪詛」は敵対する他者に対してのマイナスの効果を意図するものである。

プラスの効果の存在を信じる以上、マイナスの効果の存在を信じないというのは、論理的に成り立たないだろう。

ここまで推論を進めて来たからには、「呪詛」そのものの存在と実効性の存在を前提にして、実際的な対処を考慮していくべきであろう。

人間は、「相手にとって良かれ」と思って行ったことが、かえって相手に不快感や誤解を生じさせることがまま有る。

つまり、「悪意は必ず相手に通じるが、善意は必ずしも相手には通じない」ことが多々有る。

そういうことで、自分に対して、思いもかけない「悪意」やら「怨み」やら「憎悪」が向けられることが発生する。

そういう「理不尽」な仕打ちに対して、具体的には「呪詛」に対する然るべき対処を事前に念頭に置いておくべきであろう。

なお、「呪詛」を行うのは、必ずしも外国人とは限らない。

日本人でも、何かと云うと「呪詛」をやりたがる不埒者が存在する。

だが、今後、外国人との「衝突」が激増していくなかで、「呪詛」という存在をも意識していくべきであろうと思う。

 

では、「呪詛」をかけられたら一体どうしたら良いのか?

現在の、近代国家の刑法に於いて、「呪術的」な事柄のみでは「犯罪」として認定されず、刑事罰は課せられない。

と成れば、「呪詛」に対抗するには、それなりの対処法でないといけないだろう。

では、「呪詛」に対抗する「オカルト」的な対処方法はどうしたら良いかと云えば、自分は観世音菩薩様に助けてもらうのが良いと思う。

いわゆる「観音経」というお経が有るが、実はこれは「法華経」(妙法蓮華経)の「観世音菩薩普門品第二十五」という一部分のことである。

その「観音経」の中に、「呪詛諸々の毒薬に身を害せんと欲せられん者、彼の観音の力を念ぜば、還って本人に著(つき)なん」と有る。

(呪詛諸毒薬、所欲害身者、念彼観音力、還著於本人)

また「念彼観音力、衆怨悉退散」「彼の観音の力を念ぜば、諸々の怨(あだ)悉く(ことごとく)退散せん」とも書かれている。

だから、「南無観世音菩薩」と念じ、「呪詛諸毒薬、所欲害身者、念彼観音力、還著於本人」「念彼観音力、衆怨悉退散」と念じれば、「効果」が期待出来るのではないかと思う。

あとは、規則正しい生活を送り(快食快眠快便)、整理整頓、清潔感を持って室内の換気や掃除を小まめに行い、他者に対して感謝の気持ちを持つように心がけていけば、いかなる「呪詛」も、必ずやその「効力」を失うことであろう。

 

結局、感謝と利他と礼拝を心がけておれば、物質的な問題であれ、非物質的な問題であれ、全て対処が出来て、「有効」であるのではないかと、自分は愚考するものである。

 

最後に確認させてもらうが、自分は「外国人が日本人を呪詛するものである」と決め付けているのではない。

ただ、外国人によっては、「呪詛」の実効性を強く意識している習俗を持った地域の人が居り、そういう人は、トラブルに遭った場合、「呪詛」を「意識」しやすい、ということである。

日本人だって、そういう「呪詛」を好み、傾倒、没頭している嫌な奴が存在するのだ。

だから、「呪詛」に負けないように、さらに「呪い」を「打ち返す」ばかりではなく、「祝い直し」て、八方丸く収まるように望むような、慈悲深い「心」を持てるように努めていくべきなのだろうと思うのである。

よく、「信仰しているくせに、何故、不幸なのだ?」という指摘が有る。

そして、「それは信仰が間違っている」

「信心が足らない」

そういう結論に誘導される。

だが、それは「信仰すれば、全て自分の思いのままに成る」という前提から出て来る結論である。

しかしながら、そうであるならば、「信仰することで何一つ苦労しなくて、良い。」と云うことに成る。

だが、それは、本当に「良い人生」なのだろうか?

例えて云えば、「我が人生」という名の「ゲーム」に於いて、「信仰」という「最強のアイテム」を手にしてしまったら、いわゆる「無敵モード」wwwでの「ゲーム」「プレイ」に成ってしまうのである。

つまり、何の手ごたえも感じる事無く、呆気無くゲームをクリアしてしまうのである。

ならば、そんなゲームをやり続けたいと思うだろうか?

本当にゲームに夢中に成るには、クリア出来るか出来ないか、そのきわどいところでないと面白みが無かろう。

「人生」も、実は、そんなもんなのかもしれない。

「信仰」は、或る面、人間を強靭にする。

だが、「信仰」をする人間には、「試練」と「修行」が課されると云う。

だから、「信仰」することが、必ずしも「日々平安」「無事」と云うことに成らないことも有ると云えよう。

結局、「我が人生」を終える際に、自他共に「納得」出来るかどうかが、「結論」に成るのだろう。

と成ると、現時点の自分は、「論理展開」の「途上」に過ぎない訳であって、果たして「結論」がどのように着地するのか、まだ全く解らない状態なのである。

とてもしんどいし、情けない思いではあるが、まあ、焦らず腐らずに踏ん張っていくしかないだろう。

逆に、「早見え」が過ぎると、後は「死ぬ」しかなくなってしまうかもしれないしwww

一昨日、突如、右ひざを痛めた。

だから、現在、階段が降りる時、とても苦労している。

まあ、身体の不具合なので、愉快ではない。

だが、それで腹立たしいとも思わない。

40歳も過ぎれば、身体のあちこちでガタがくるのは必然的である。

「参ったなあ」とは思うが、「参った」なりに、何とかその日その日を送っていくしか仕方が無い。

右ひざが痛むからと云って、三食美味しくいただけるし、脱糞も快調。

睡眠もぐっすりと取れた。

別に、命が消える訳でも無い。

仕事だって、何とかこなせる。

現に、昨日ははしごに登って行う仕事以外は全部出来た。

だから、明日も右ひざを庇いながら、仕事に行く。

不運や不幸は、必ずしも破滅にはならない。

不運や不幸によって「破滅した」と思い込むことによって、はじめて「破滅」する。

不運や不幸を、いかに受け止めて、いかに解釈していくのか。

支那の故事にも「人間万事塞翁が馬」と云う。

また「禍福はあざなえる縄のごとし」とも云う。

さらに、もっと云えば、人間は結局、骨身に沁みたことしか自分の血肉にはならないのである。

順境で成長した人間が果たして世の中にどれくらいいるのか?

やはり、苦しんで、もだえて、這い上がった人でないと、人間としての厚みに欠ける。

「若い時の苦労は買ってでもせよ」とは、まさにこのことである。

重要なのは、決して「つぶされない」こと。

ちなみに、自分が何故「つぶれなかった」のかと云うと、自分の卑小さをよくよく自覚していたからである。

つまり、人間よりも「尊い存在」を信じていたからである。

自らの卑小さを自覚し、自分よりも高次の至尊な存在を敬うこと。

具体的には、それは、「信仰」である。

「信仰は力である」ということを、自分は、頭ではなく体で納得している。

体感としての「信仰」は、論理的には低次元かもしれないが、極めて強靭である。

魯鈍な自分がしたたかに生きていくには、これしかないのである。

そりゃあ、自分の願ったとおりに「こと」が運べば、嬉しい。

だが、世の中の全ての人が、自分の願ったとおりに成って欲しいと望んでいる。

「世界平和」などと云った、漠然とした「理想」は、万民共通の願いではあるが、より具体的な事柄を恋願った場合、その願いは必然的に相克関係と成る。

例えば。

宝くじの一等賞に当たりたい。

東大法学部に合格したい。

高校野球・甲子園で優勝したい。

だが、誰かの願いが成就する時、それ以外の大多数の願いは無念の涙として費える。

となれば、「ままならぬのが当然」と覚悟するしかなかろう。

とは云うものの、「ままならぬ」のだからはじめから断念してしまうのであれば、それはどんなに賢しらに気取ったところで、所詮「負け犬」でしかない。

結局、自らが恋願い、求めてやまないことをあきらめずに踏ん張ることが尊いのだろう。

勿論、「求める」のであるのならば、「結果」が出せなくてはいけない。

だが、「結果」が出ないことにより、腐ってしまっては駄目である。

愚痴不足は自他共に毀損する。

些事に一喜一憂せず、だが、執念深く決してあきらめずにやりとげていくこと。

これが、人生に於いて肝要であるのではないだろうか?

いろいろと人生で見聞きして来て、自分は決めた。
「小さなカリスマ」には成らない。
あくまで、「使い走り」でいく。
とにかく、「使い走り」に徹し切る覚悟だ。
その後は、周囲の方々がお決めに成ることである。...
自分があれこれ思い悩むべき事柄ではない。

週刊ポストの記事が酷い。

「靖国神社創立150周年の時に、幕府方・西郷隆盛の合祀がなされる」といった見出しだが、内容は、かの亀井静香らが、靖国神社へ「要請書」を提出したということ。

つまり、亀井ら政治家が、靖国神社へ勝手に願い出ただけのこと。

まあ、現在の徳川宮司が、かの徳川慶喜のお血筋なので、徳川宮司は幕府方に同情的ではある。

だが、それをもってして、「賊軍合祀」という決め手にはならない。

この「賊軍合祀」に関しては、自分は既に別途先述している。

簡単にまとめると、まず、靖国神社は、「日本国民の神社」ではない。

「明治天皇の思し召し」で創立された神社であり、「天皇陛下の神社」なのである。

つまり、「御物」だと理解すべきなのだ。

ただ、戦後、GHQによって、天皇陛下やご皇室の「財産管理」の体制を破壊されてしまった。

GHQは、日本占領の当初は、「皇室解体」を目指していたのである。

だが、その方針は「皇室利用」に変更された。

ご皇室は、「存続」することと成ったが、それは「破壊」を中途で停止したかたちでの「存続」であった。

だから、法律や制度上に於いては、全く以て不備だらけである。

そのため、本当ならば、ご皇室や天皇陛下に「帰属」すべき「もの」や「こと」が、不可能になっているのである。

靖国神社も、戦後行政制度上、「一宗教法人」と成っているが、本来は天皇陛下へ「お返し」すべきなのである。

従って、ご祭神の「合祀」に関する事柄も、天皇陛下がお決めに成ることである。

勿論、いわゆる「A級戦犯」合祀に関しての問題などが持ち出されるが、「筋道」としては、この「合祀」に関しては、天皇陛下の大御心を仄聞するしかない。

従って、「合祀」に関して「議論する」ことは、おこがましいのである。

 

また、実施作業の面でも不可能である。

靖国神社への「合祀」には、亡くなった人物お一人お一人、つまり合祀されるおみたま一柱一柱ごとに、詳細な「ご祭神調査」が必要と成る。

出生地や戸籍、そして死没した場所。

所属した組織(藩や隊など)。

そして、役職や階級である。

これらを全て調べ上げなくては、「合祀」への手続きまで進めないのである。

しかも、戦没して既に100年以上も経過しているため、根拠と成る資料も散逸、もしくは失われている可能性が高い。

その上、万単位での人数である。

これらを全て勘案すれば、物凄い作業量と成り、それらを実行するためには膨大な人員と費用が必要と成る。

多分、数十億円単位の費用が必要と成ろう。

現在の靖国神社には、そんな余裕は無い。

だから、「招魂」は出来ても、「合祀」までは絶対に不可能である。

そこのところを、亀井静香らは全く無視している。

 

さらにもっと指摘するならば、既に「賊軍」のおみたまは、靖国神社に於いて祭祀されている。

境内の「鎮霊社」に於いて、徳川幕府方の戦没者も西郷隆盛などの反乱士族も全てお祀りされている。

そして、只今現在、既に、靖国神社の神職によって懇ろに祭祀されているのである。

この「鎮霊社」を、何故、無視するのだろうか?

「賊軍合祀」を要求するのであれば、まずは「鎮霊社」の祭祀を、もっと盛大なものにしていくなど、手始めに出来ることから願い出るべきではないのか?

 

これは、勘違い・心得違いでしかないので、その思いはともかくとして、結局はかたちには成らないだろう。

それを、さも「実現可能」なように書きたてる週刊誌の愚昧さに、反吐が出る思いである。

 

靖国神社へのいわゆる「賊軍合祀論」について

http://blog.livedoor.jp/soemon/archives/55534800.html

気が付いたら、今月は「行事」がてんこもり。

あれもこれもと目白押しである。

だから、どうしてもスケジュール調整が必要である。

で、こういう場合、最終的には「身内」に「泣いてもらう」しかない。

実は、今月は、我が祖父の命日が有り、靖国神社で永代神楽祭を斎行する。

これに、自分が参列しないといけないのだが。

で、本日、遊就館の泰緬鉄道の蒸気機関車の清掃奉仕が有ったので、靖国神社で「玉串料」だけ納めて来た。

「おじいちゃん、ごめんね。」と念じつつ。

我が祖父は、エキセントリックで無茶苦茶な人だったようだが、情の濃い、しかも、ずば抜けて頭の良い人だったらしい。

だから、そこらへんは、多分許してくれると思う。

ただ、やっぱり、寂しい思いをするだろうなあ・・・

この頃、「書きかけ」の拙文が増えてしまって困っている。

そもそも、時間が無い。

さらに事前に想定していたよりもだらだらと長文化して来ていつまでも仕上がらない。

タイムリーな時事ネタが出て来るので、それを優先する。

だから、結果的にいくつもの「書きかけ」の拙文がたまるのである。

才能の有る人ならば、いつでも続きを書き上げられるのだろうが、自分のように「興に乗って」勢いで書き上げている菲才は、しばらく時間を置くと「冷めて」しまう。

さながら「冷めたたこやき」である。

「冷めたたこやき」はレンジでチンすればいいのだが、「書きかけ」の拙文の続きをやり直すのは、なかなか上手くいかない。

玄人は、そこらへんをきちんと出来ておられるのだろう。

「生業に出来る」「出来ない」という「一線」は、大方、そこらへんなんだろうと痛感する。

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