いわゆる今上陛下の御譲位に関して。

自分が心底理解に苦しむのは、日本会議に密接な、いわゆる「保守派」の学者や言論人が、ほとんど今上陛下の御譲位に否定的であることである。

皇室典範の条文に無い

譲位された前天皇と新天皇でご皇室内で対立する危険性が有る

譲位ではなく摂政で良い

確かに、「理屈」としては、全て「一理有る」。

だが、今上陛下の「玉音放送」を拝した限り、摂政で対応する、と云うのは、陛下の大御心から乖離しているとしか感じられない。

これでは、「摂政」どころか、「そりゃ、殺生や!」であろうwww

現実に、天皇陛下でなければ為し得ない「お仕事」が存在する訳である。

具体的に挙げれば、「宮中祭祀」である。

外国からの要人との歓待と云った事柄は、極論すれば、「人臣」である総理や外務大臣でも「代わり」が出来る。

だが、「天神地祇」に祭祀を捧げられて、「皇孫」として、日本という国と国民の安寧と幸福を祈念される「お仕事」は、天皇陛下でなければ務まらない。

この「宮中祭祀」ということに関しては、「代わり」が居ないのである。

掌典職の「神主」が存在はするが、それはあくまで「儀礼」を斎行するだけである。

やはり、「皇孫」の「現当主」である、天皇陛下が祈念されてこそ、はじめて「天神地祇」は感応されるのである。

だが、その肝心要の「宮中祭祀」が、陛下の御公務軽減の真っ先の項目に指定されているのである。

嗚呼!やんぬるかな!である。

一方で、国民の相当な多数が、陛下の放送を視聴し、御譲位を支持している。

勿論、国民の大多数は、ご皇室の何たるかも、天皇陛下の何たるかも、ほとんど理解していない。

知らないし、解らないのである。

だが、今上陛下の玉音を拝聴し、瞬間的に感覚的に賛同したのである。

つまり、今上陛下の大御心を素直に受け止めたのである。

このことは、極めて決定的であると云わざるを得ない。

ここで、自分が愕然とするのは、この今上陛下の御譲位に関して、世間一般大衆といわゆる「保守派」の学者や言論人とで、決定的に乖離したことに有る。

つまり、世間一般大衆は今上陛下の御譲位を「賛成」し、いわゆる「保守派」の学者や言論人が「反対」する。

この「構図」が明確にされていくと、国民の大多数が、いわゆる「保守派」の学者や言論人に対して怪訝に感じるようになるだろう。

「何で、いつも『天皇陛下万歳!』って声高に訴えている保守派の人々が、このたびの今上陛下のお気持ちを反対するのだ?」と。

つまり、「理屈」では「天皇陛下が大事」と述べておきながら、天皇陛下のお気持ちを無視し、反対することを平然と云ってのける。

これでは、国民の大多数からは、納得されないだろう。
と云うよりも、この一点を以て、いわゆる「保守派」の学者や言論人のその他の事柄(歴史認識や英霊奉慰顕彰の問題などの)「主張」までもが、胡散臭く、全て嘘っぽく聞こえてしまうようになるだろう。
そうなると、いくら理路整然と論破したところで、「頭では解っても腑には落ちない。」というジレンマに陥る。
そして、ついには、「いわゆる『保守派』の連中が今上陛下を虐(いじ)めている」という「構図」で受け取られてしまうのである。
そうなると、いわゆる「保守派」そのものが、日本国民の大多数が「嫌悪」されることと成ろう。
必然的に、「憲法改正」を初めとした、あらゆる「運動」が座礁することと成る。
事は極めて重篤重大であると同時に緊急を要する。
このまま、今上陛下の大御心を踏みにじって、御譲位を阻止するのか。
それとも、今上陛下の大御心に沿い奉って、然るべき対応を講じるのか。
その分岐点に、今の我々は立たされている。
肚を括らねばならない。

只今現在、自分は「名刺」を持っていない。

勤め先は、派遣社員なので、名刺は無い。

また、いわゆるボランティア活動などに於いても、役職が無いので、名刺は無い。

以前は、実は、個人で名刺を作成していた。

それは、初対面の人と連絡先を教え合うに当たっては、名刺が便利だったことによる。

だが、いわゆる「保守派」の集まりに、自分は金銭的な問題から、ほとんど参加しなくなった。

現在、参加している集まりは、「クローズ」なところなので、名刺を出して自己紹介するという場面は皆無である。

だから、かつてのように、様々な方々と自己紹介をする必要性が無く成ってしまったのだ。

まあ、別に、以前のように個人の名刺を作っても良いのだが、最早、名刺を出す機会もほとんど無く成った。

あと、「名刺」を持っていないことで「良い」点が有る。

よく、「名刺」交換の時に、自分が「すいません。自分は名刺を持っていないのです。」と申し述べると、露骨に侮蔑の色を浮かべる人が居る。

「折角こちらは名刺を出してやってやるのに、お前は名刺さえ出せないのか!」と。

で、そういう手合いの人は、以後、お付き合いをしなくて良い人がほとんどである。

こういう人は、目の前に居る「人物」が一体どうであるのか、ということにほとんど関心が無い。

この「人物」が、どういう「肩書」で、どういう「評判」なのか。

こちらの方が、圧倒的に関心が有るのである。

只今現在、自分には何も無い。

全くの「素」の自分、「個」の自分でしかない。

そして、二言三言会話をしてみて、はたして「おつきあい」をするに値する「人物」か、どうなのか。

それしか存在しないのである。

で、現在の自分にとって、「おつきあい」をしたい人は、名刺の有る無しに固執しない人だけなのである。

だから、必然的に「名刺」が不要なのである。

今、自分は、侮蔑されようが、軽蔑されようが、見くびられようが、一切構わない。

「自分」そのものに対してよりも、「自分の『装飾』」に関心がある人は、現在の自分に対しては歯牙にもかけない。

あたかも存在しないが如く、無視してくれる。

それが良いのである。

と云う訳で、まだ、しばらくは「名刺」の無い日々を送っていこうと思っているwww

昨日、百貨店の高島屋へ「納品」の仕事で行った。

だが、そこで、受付でもって、「納品や工事などの業者は、名刺を提示せよ。」と云う。

いわゆる「身分証明書」の「運転免許証」を提示したのでは、駄目なのだと云う。

会社名と個人名が明記された「名刺」を出せ、と云うのだ。

自分は、派遣社員であるから、名刺は無い。

だから、「名刺が無い。」と云うと、あれこれと文句を云って来る。

今日のところは、何とか店内に入れてくれたが、次回からはどうなることやら解らない。

「名刺の提示」ということは、セキュリティ・チェックの度合いを上げることを意味するのだろう。

世界的なテロの横行などを勘案して、警備を厳重にすることに異存は無い。

だが、「名刺の提示」で、果たしてセキュリティが向上するのか?

つまり、訪問者の身元確認を厳格化していこうということに成るのだろうが、もし、本当に実効性の有るチェックを実施するのであれば、顔社員入りの「社員証」でなくては駄目だろう。

現在、「名刺」など、自宅のプリンターとパソコンで、いくらでも作成が可能だ。

かつては「山桜」のような専門会社に発注して作ってもらっていたが、現在、会社の名刺と云えば、社内の総務部などで作っているのではないだろうか?

さらに、駅頭で、「10枚¥1000」みたいな名刺作成自動販売機も存在する。

そして、キンコーズのようなサービスセンターに発注すれば、一日で「名刺」は出来る。

かつて、自分も「個人」の「名刺」を作って持っていた。

だから、かつてのように、「名刺」を持っているから「社会的な保障」を有するものでは無くなっている。

しかも、「名刺」を出したところで、警備担当の人間が、その「名刺」の「裏取り」の確認をちゃんとしているのか?というと、甚だ疑わしい。

本当に、訪問者の身元を確認したいのなら、出された「名刺」の連絡先にその都度電話を入れて、その会社に、「名刺」を出した該当人物が所属していることをちゃんと確認しなくてはいけない。

しかし、そんな煩雑なことを、警備担当者が出来る余力は無い。

だからその「名刺」のデータは、何か「事件」が発生した後に、事後確認の為の「データ」として使うことに成る。

だが、その時に、「名刺」に記載された会社名も人物名も住所も連絡先も全て「架空」であった場合、そこで「追及」は頓挫する。

結局、「名刺」を確認するだけでは、セキュリティ向上には、全く意味が無い、と云うことである。

多分、本来は、顔写真入りの「社員証」の提示を要求したのだろうが、それを実施すると、実際の納品業務が円滑に運営出来ないからだろう。

そこで、「名刺」ということで「妥協」したのである。

「妥協」というのは、あながち悪いものではない。

対立する「極論」同士を、何とか「合意」に持っていくための一種の「方便」なのである。

しかしながら、何事にも、「有効性」が問われなくてはいけない。

形式主義だけの「妥協」であるならば、それは単なる「自己満足」であり、「欺瞞」でしかない。

さらに、「名刺」が無い、という一点のみでもって立ち入りを拒絶するのである。

これは、明確に、名刺を作ってもらえない「派遣社員」に対する「差別行為」であり、「人権侵害」だと思う。

別に、自分は、高島屋百貨店に仕事上、入店を拒否されたところで、給与には支障が無い。

ただ、派遣先の正社員が「過重労働」を「強制」されるだけである。

こんな、かたちだけの、無意味で、いわゆる派遣社員を蔑視するような対応を得意気にしている高島屋百貨店に対して、自分は内心、激怒している。

だから、今後、絶対に高島屋百貨店には「お客」としては行かないことを決心した。

亡父は、生前、勤め先の近所だった高島屋百貨店を「贔屓(ひいき)」にしていて、よくいろいろなものを購入していた。

だから、自分も、それなりに「親近感」を持っていた。

だが、今日の仕打ちで、それも消失した。

どうせ、派遣社員のような低所得者など、はなから眼中に無いのだろうが。

もう、自分は絶対に高島屋百貨店ではビタ一文落とさない。

俳優の高畑裕太が逮捕された。

「性的暴行」と云うが、多分、強姦なのだろう。

あと数日で放映される日本テレビ系の24時間テレビに出演することも決まっていたのに、何たることか!

同じ「裕」ちゃんとして、大変嘆かわしい。

彼は、本質的には「いいやつ」なのだ。

だが、只今、御縄を頂戴することに成ったのは、ひとえに「勘違い」による。

「勘違い」を惹起させ、増長させたのは、皮肉にも「順境」だったことにある。

「追い風」が吹き、まさに「順風満帆」の「順境」だったゆえに、思い上がってしまったのである。

「逆境」は耐え難いほど苦しいものだが、実は、「これ以上は悪く成らない」という面も持ち合わせている。

「順境」は、誠に気持ちが良いものであるが、それがゆえに、足元をすくわれかねない。

ほとんどが、慢心による「自滅」である。

だから、実は「順境」の方が恐ろしいのである。

「登山」に於いて、登りは体力的にとても辛い。

だが、実は、山を降りる方が、危険度は高い。

楽ではあるが、危険である。

「順境」とは、まさにそうであろう。

「順境」、恐るべし。

昨日の深夜番組で、「瀬長亀次郎」の特集番組をやっていたので録画して、見た。

TV番組そのものは、月並みな左翼的な代物だったが、「瀬長亀次郎」を久しぶりに思い出すことが出来たことは、自分にとって収穫だった。

自分にとっての瀬長亀次郎は、沖縄全県区選出の日本共産党の代議士だった。

だが、元来は沖縄人民党の幹部で、米軍占領下の那覇市長も務めた。

日本本土復帰後は、日本共産党の代議士と成る。

沖縄人民党は、復帰後に日本共産党へ合流するが、そもそも沖縄人民党そのものが日本共産党の指導下に有った。

彼は、旧制高校を社会主義運動に参加していたことを理由に放校処分と成り、以降、一貫して尖鋭的なコミュニスト、共産党員だった。

だが、瀬長亀次郎は、単なる「共産主義者」の枠に収まらない、カリスマ性が有った。

現在、左翼活動家と云えば、福島瑞穂や辻元清美ぐらいの低劣なタマしか知らない、いわゆる「保守派」があまりにも多い。

かつては、左翼政治家でも、侮りがたい「大人物」は存在していた。

彼らは、政治信条に於いては、いわゆる「保守派」から見れば「敵」かもしれない。

だが、彼等の強さや大衆を魅了した魅力を分析することを怠れば、必ず政治的に敗北する。

左翼は、全員、「脳内御花畑」ではないのだ。

ちなみに、その一群の中に、野中広務も存在していると自分はとらえている。

民進党の代表選挙に関して。

蓮舫が出馬し、山本モナ男こと細野豪志が不出馬で、長島昭久も出ず。

「言うだけ番長」の前原が出馬を模索しているようだが、所詮は「噛ませ犬」でしかない。

知名度とカメラ映りが良く、組織も固めている蓮舫に勝てる対立候補はいない。

変に気負って出馬したところで、大惨敗をしたら、今後の負の政治的影響は甚大である。

だから、民進党という政党全体の浮上を考慮したならば、誰かしら対抗馬が出て、代表選挙を華々しく実施すべきだろうが、それを行えるだけの人材が払底しているのである。

かつての日本社会党の委員長選挙に於いて、土井たか子の無投票当選を阻止したのが、NHKの労組出身の上田哲だった。

かつての社会党でさえ、出て来る者が居たのだが、今の民進党はどうだか。

このままだと、前原も腰砕けに成って、無投票に成りそうである。

 

さて、現在の民進党の議員グループである。

 

民社協会グループ・10人(保守系)

政権戦略研究会(旧羽田孜グループ)・6人(保守系)

国のかたち研究会(菅直人グループ)・22人(左翼系)

新政局懇談会(横路孝弘グループ、旧社会党系)・10人(左翼系)

サンクチュアリ(赤松広隆グループ、旧社会党系)・約20人(左翼系)

凌雲会(前原誠司グループ)・16人(保守系)

花斉会(野田佳彦グループ)・8人(保守系)

リベラルの会(平岡秀夫・近藤昭一グループ)・6人(左翼系)

「日本グランド・デザイン」研究会(玄葉光一郎グループ)・10人(保守系)

素交会(大畠章宏、旧鹿野道彦グループ)・10人(保守系)

国軸の会(長島昭久グループ)・6人(保守系)

自誓会(細野豪志派)・9人(唯一の派閥)(保守系)

馬淵澄夫グループ・約5人(保守系)

旧維新の党グループ・23人(保守と左翼混在)

 

民進党の議員グループは、自誓会(細野派)以外は、「掛け持ち可」であるので、一人の議員が複数以上にグループに所属している。

なお、(保守系)(左翼系)と書いたのは、自分の「独断と偏見」であり、(保守系)グループの中でも、左派的な言動をする議員も存在する。

また、グループとして、左派的な決定をすることも有る。

あくまでも、「比較的として」という目安でしかないことを、敢えて、特記させてもらう。

 

さて、一見して気が付くのは、いわゆる(保守系)のグループの人数が比較的に少なく、(左翼系)の人数が多いこと。

つまり、左翼系の方が「結集力」が強いということに成るだろうか?

後は、民主党から民進党へ新党結成に成った際に、旧維新の党の議員はそのまま「ひとかたまり」の感じで、現在、党内力学上位置している。

ただ、旧維新の党も、比較的野党色が濃厚な江田憲司と、さほどではない松野頼久で温度差が激しい。

民進党内最大の議員グループという「かたち」に成ってはいるものの、江田・松野の両氏の仲違いは修復されておらず、分裂がちらついている。

また、今回平成28年9月5日の党代表選挙で、何とか存在感と発言力を高めたいばかりに、対蓮舫の候補を応援することを匂わせたりなど、あざといことをしている。

しかし、ここで気が付くべきことは、旧維新の党の連中は、所詮は橋下徹の「風」でもって当選出来ただけに過ぎないということである。

多分、次の衆院総選挙に於いて、旧維新の党のほとんどの議員が落選することだろう。

そうなると、民進党は、少なくとも3年以内には落選する連中の「胸三寸」でもって、党代表が決められてしまうという可能性が高いのだ。

 

あと、平成28年7月の参院選に於いて、いわゆる「野党統一候補」として地方区で当選した議員である。

何人かは、小沢一郎と山本太郎の生活の党に行ったり、独自の院内会派を結成したりしているが、民進党に入る議員も存在する。

で、これが問題である。

「野党統一候補」ということは、共産党や社民党といった左翼政党の選挙協力によって当選出来た訳なので、当然、彼等は左翼政党との連携を主軸に置く。

だから、今後、約6年間、彼等は民進党内に於いて、また参院内に於いて、絶えず左翼政党の方向へ引っ張る動きをすることは間違いない。

つまり、民進党として、自民党などの政権与党との協議を行う際も、今回平成28年に当選した参院議員が左翼政党との連携を強く主張することによって、それに民進党執行部が引きずられて非現実的かつ教条主義的な対応しか取れなくなる危険性が出て来るのである。

「野党統一候補」として当選した議員は、今後、長期間に渡って、いわゆる「左派バネ」を利かせることに成るだろう。

これは、今後、ボディブローのように国政に悪影響を与えていくことと思う。

 

自分は、パッと見の良い、蓮舫が代表に成ることで、自民党には結構な脅威に成ると思う。

自民党の選挙の強さは、あくまで、「バラバラの野党」と「不甲斐無い野党第一党」という条件が付帯した上での、相対的なものであって、絶対的なものではないからである。

だが、民進党も、根本的な政党としての再生改革は出来ないだろう。

ちょっと選挙に勝ったぐらいで、すぐに危機感を無くしてしまう。

つまり、もうどうしようもないくらい現状認識能力が欠落しているのである。

むしろ、おおさか維新の会の方が、間隙をぬって浮上するかもしれない。

 

おおさか維新が、現在の「安倍・菅シンパ」という関係性を維持するかどうかは、実は確固ではないと思う。

民進党がガタガタと成り、空中分解した際に、いわゆる民進党内の保守派を呑み込んでいくだろう。

そうなった時、自民党との「対決姿勢」を見せつけて、「野党第一党」への地位を民進党から簒奪する挙に出ると思う。

その時、労組「連合」はどう動くだろうか?

極めて流動的で、先行きは見通しが不透明である。

成ればこそ、いわゆる「保守政治」グループの確固とした地盤固めをしておかなくては駄目だと思う。

政治的な地盤が確固であるならば、政党や議員の離合集散は、それほど重大事にはならない。

我々がすぐにとりかかるべきことは、やはり、まず、足元を固めることである。

それは、誠に地味で泥臭い作業である。

だが、それを侮蔑したり忌避したりしては絶対にいけない。

昨日、千葉県市川市の遠壽院に於いて、施餓鬼法要に参拝しました。

遠壽院は、日蓮宗(注・日蓮正宗ではありませんwww)大本山法華経寺の塔頭です。

元来は、中山門流の祈祷道場でしたが、明治の廃仏毀釈の影響で、身延の積善坊流が途絶したことから、現在の日蓮宗の祈祷様式の「源流」に成りました。

法華経寺に日蓮宗としての「荒行堂」が設営されましたが、元来は遠壽院が祈祷根本道場荒行堂と云えます。

お施餓鬼の前に、表堂で、修法師の法楽加地を受けました。

実は、自分にとって、一番馴染みが深い神仏が鬼子母神様で、それから、神田明神平将門公、能勢の妙見菩薩、靖国神社の英霊、などなどの順番に成っています。

そのお施餓鬼法要の終了後、御住職からのご挨拶で、「これから、たいへんな時代に成る。思わぬ苦難が襲って来るのではないか。」というご指摘が有りました。

自分も、そんな予感がしています。

ですから、「準備」と「訓練」は怠らないようにすべきでしょう。

どのような苦難が襲って来るのかは、解りません。

ただ、このまま「太平楽」と云う訳には、いきそうにもありません。

心身共に鍛練が肝要かと思います。

どうも、最近、拙文が「偉そう」でいけないwww

だいたい、自分は三流私大農学部を、就職が決まったことを口実に「追い出される」ようにして「卒業」させてもらった馬鹿であるwww

しかも、英単語で「自転車」のスペルが正確に書けないくらい、語学力が無いのであるwww

そして、昨年、再就職活動を行った結果、エントリーが300社以上、一次面接が20社以上、二次面接が5社、全部不採用だったwww

つまり、企業の採用担当から駄目印を押されたのであるwww

こんな駄目な奴に対して、「先生」なんて敬称を奉っては、いけないと思う。

 

ということで、以下、自分の知的レベルが解るような拙文にするwww

 

よく「厨二病」の集まりで交わされるような話題を、今回、書かせてもらう。

 

学校のクラブ活動で、柔道部や空手部、ボクシング部などの部員は、格闘技を日夜練習している訳なので、当然ながら「喧嘩」は強い。

しかし、それ以外のクラブ活動をしている学生で、想定外の「喧嘩」の強さを持っていそうなクラブ活動は何だろうか?

自分が、雑誌の記事か何かで仕入れた情報だと、二つ有る。

一つは、ボディビルである。

とにかく、筋肉を鍛えるだけ鍛えまくっているので、そのパワーが比較に成らない。

ラグビーやアメフトの部員もパワーでは引けを取らないが、一見、細くて小さいように見える人間も、ボディビルをやっている部員は、見た目とは大違いのとてつもないパワーを発揮する。

だから、当然、「喧嘩」も強いのである。

もう一つは、ダンサーである。

これは意外に思えるかもしれない。

だが、ダンサーは、全身の身体を「表現」するために、複雑な動作を可能にしている。

関節や筋肉の一つ一つまで、意識を持って動かすことが出来るように練習している。

そういう面では、ダンサーの身体能力は、並みのスポーツクラブの部員よりも格段に優れていると指摘して間違いが無い。

確か、マイナーな格闘漫画で「軍鶏」と云う作品の中で、男性のバレエダンサーが格闘家に転向するエピソードが有ったように記憶している。

また、ブラジルの格闘技「カポエイラ」は、ダンスと不可分の形態である。

だから、ダンサーも「喧嘩」が強いのである。

 

以上、いかにも「厨二病」的な話題で書かせてもらった。

こういう知的レベルが、自分の本当のところなのであるwww

畏くも、今上陛下の「生前譲位」に関して。

既に、「賊軍合祀」に関しての拙文で言及しているので、簡潔に。
http://blog.livedoor.jp/soemon/archives/55534800.html

そもそも、「生前譲位」に関して、いわゆる「保守派」の論客が批判していることはおかしい。

まず、皇室典範に該当条文が無いとかについて。

それでは、「生前譲位」は、近代的法治主義の範疇で議論しよう、ということになる。

もし、そうであるならば、「悠久の歴史から連続するご皇室」や「天孫降臨から連なるご皇室」に依拠した「尊皇」の精神を否定しなくてはいけない。

何故なら、ご皇室の尊さは、近代的法治主義などを遥かに凌駕したものであるからである。

また、法律論に固執した場合、現行の日本国家の法制度との整合性が問われて来る。

現行の日本国家は、明確に「議会制民主主義」である。

ちなみに、戦前も「議会制民主主義」であったが、こと、ご皇室に関しては、厳格に峻別していた。

大日本帝国憲法に於いて「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」と記載されていたからである。

だが、戦後の日本国憲法に於いては、「議会制民主主主義」と君主であるご皇室との峻別が無くされた。

だから、政治状況によっては、「選挙」や「国民投票」によって、ご皇室に関する事柄を決めていく可能性も存在し得るのである。

自分は、むしろ、こちらの方を深く憂慮する。

皇室典範を日本国家の「法律」とするのではなく、ご皇室という中の「規約」や「定款」にすべきである。

いわゆる、企業や法人などの「規約」や「定款」ならば、日本国家の現行の法体系や法制度との厳格な整合性は要求されない。

ご皇室は、あくまで、国会から「超越」した存在でなくてはいけない。

もし、日本共産党が国会で大多数を占め、総理や衆参議長を占めた場合、ご皇室の有り方そのものを議論する場に出席をすることが可能に成る。

「国民から選ばれた代表だから」と云う理由に成ろうが、それで良いのか?

やはり、ご皇室に関わることは、ご皇室内でお決めになるのが妥当だと自分は思う。


次に、「生前譲位」が為されると、かつての上皇(太上天皇)や法皇といった存在が生じ、ご皇室内に分裂や対立の芽が出る、といった批判である。

ならば質問したい。

現在の今上陛下と皇太子殿下は、分裂や対立される危険性が有るのか?

すると、愚昧なネトウヨから「雅子妃ガー」とか「小和田家ガー」などと得意満面な口調で「説明」が為されるだろうが、まさか、それを根拠にされる訳ではあるまいな?

確かに、「歴史的」な観点に立てば、天皇と譲位後の前天皇の対立という可能性は生じてこよう。

だが、現在の日本国の「政体」は「議会制民主主義」なのである。

かつてのような、白河院の「院政」も、保元・平治の乱も起こり得る可能性は皆無である。

もし、天皇と譲位された前天皇との対立によって日本国内が分裂するとしたならば、その責任は、最早、ご皇室に有るのではなく、政府や国民に有る。

だから、「上皇ガー」などと云うのは、今後のご皇室での諸問題を全てご皇室に負わせてしまおうという、甚だ無責任でご都合主義な政府と国民であろう。


我々、下々の者は、畏き辺りのことは、あれこれと言挙げすることは不遜であり、不敬であるのである。

だから、黙っていれば宜しい。

それとも、「保守派」の論客であるならば、華族や皇族に等しいとでも云うのであろうか?

だから、何を云っても許されるとでも云うのであろうか?

所詮「尊皇愛国」というのは、そういうものなのであろうか?

自分は、現在、しがない「派遣労務者」である。

薄給だし、身分保障など皆無だし、やはり正規雇用で働きたい。

だが、自分の心の奥底で、「今更、正規雇用で働くのか・・・」と云う気持ちも、実は、有る。

現在の仕事で、飲料ベンダーのドライバーさんと一緒に仕事をさせてもらっている。

で、そのドライバーさんの勤務状況を聞いてみると、多忙なのである。

実務に関しては、自分もお手伝いをしているので解るのだが、それ以外の正社員だから従事しなくてはいけない「仕事」が有る。

それが、朝礼であり、会議であり、報告書作成と提出であり、人事の自己評価・業務目標の作成と提出であり、経費精算であり、業務研修である。

自分が派遣労務者に成って、唯一良かった点は、会議の出席と報告書の作成が無く成ったことである。

ちなみに、自分は実は、会議に出席して発言することは勿論、議長として仕切るのが上手いwww

また、報告書やプレゼン資料作成も得意なのであるwww

しかしながら、それらは、実は利潤を直接的にはもたらさない「仕事」なのである。

だから、やらなくて良いのであれば、それに越したことはないのである。

閑話休題www

正社員とも成れば、ただ、業務をしさえすれば良い、と云う訳にはいかない。

いずれは、後輩社員を指導したり、職場の管理なども考慮していかないといけない。

場合によっては、管理職として、指導や管理をする「仕事」もしないといけない。

だから、朝礼や会議や研修などなどの「仕事」をしていかないといけないのである。

ところが、主たる「業務」の勤務時間だけで、既に法定労働時間は超過しているのである。

それから、更に、「仕事」をしないといけない。

だから、どうしても過労気味に成らざるを得ない。

ついには、「自分からお金を払うから、どうか休ませて欲しい。」なんて気持ちに成る訳であるwww

 

現在の日本の職場環境は、やはり、異状だと思う。

かつては、自分も、早朝から深夜まで働くのが当然だと思っていた。

だが、卒倒する寸前まで働かないといけない正社員を、自分は、羨ましいとは思えなくなってしまった。

また、年齢が上がることによって、心身に無理がきかない状況となり、今後、更に年老いていけば、更に難しいことに成ると思う。

確かに、人間は働けるうちに、働けるだけ働くことが素晴らしいことだとも思う。

だが、その一方で、「働きたい」と勤労意欲の有る人が、非正規雇用でもって安く酷使されているのである。

つまり、少数の正規雇用者にあらゆる仕事が集中し、多数の非正規雇用者や失業者は仕事からあぶれているのである。

このまま、正規雇用者の過労の度合いが増したならば、自発的に正規雇用を辞めていく人間が出て来るだろう。

一方、現在の日本社会の構成は、あくまで正規雇用者を想定したものに成っている。

納税や健康保険、年金、皆そうである。

だが、非正規雇用が現状の約4割から5割、6割、7割と増加していけば、低所得者が増えて所得税などの納税額は減少し、厚生健保や厚生年金の組合員が減少してしまう。

そうなれば、健保や年金の制度も変容を余儀なくされ、国家予算も影響を逃れられない。

今、日本の社会は、大きな岐路に有る。

つまり、現行の正規雇用者を想定した社会の構造をどうするのか、ということである。

非正規雇用者が、このまま増加することを容認するのならば、現行の社会構造を抜本的に組み替えないと駄目だろう。

逆に、現行の社会構造を維持し続けるのであれば、非正規雇用者の増加を抑制しなければいけない。

とにかく、社会構造は「正規雇用者」に基づいた制度でありながら、実態は「非正規雇用者」が増加している、というミスマッチの中で、明確に利益を得ている者が存在しているのである。

それが「企業」ということに成ろうが、企業各社の個々のバランスシート上は問題が無くとも、国家や社会全体のバランスシートに成ると問題が生じて来る。

つまり「統合のパラドックス」と云われるような状況である。

現在の安倍政権は、アベノミクスや「一億総活躍社会」という政策で、模索を果敢に行っている。

必ずしも、全国民まで、その恩恵は現時点で及んでいないが、かつての民主党政権時よりかは遥かに良い。

また、いわゆる民主党、民進党の対案は、あまりに現実味が薄くて食指が動かない。

民進党は、所詮、「選挙対策互助組合」でしかないので、腰が定まらない。

だからこそ、労働組合がしっかりしないと駄目だろう。

とりわけ「連合」は、民進党を操作するだけで満足していては駄目である。

そもそも「連合」は、現在の非正規雇用者の増大の責任の一端を担う自覚を持たなくてはいけない。

「連合」の取り組み方が時代錯誤なままであるから、現状に合致せず、結果として成果が上がらないのである。

いくらアンチ自民党ばかりを叫んでいても、本当に弱い立場の国民を救うことは出来ない。

そういう意味で労働組合「連合」の責任は厳しく追及されなくてはいけないと思う。

ようやく、職場での「メンタルヘルス」に取り組む企業が増えて来た。

これは、良い傾向であると思う。

だが、単に、社員へ「メンタルヘルスチェック」を受けさせるのみを主眼としているのならば、あまりに認識が甘過ぎると思う。

いわゆる、企業がメンタルヘルスを無視出来なくなってきたのは、職場の中で精神疾患、とりわけ「うつ病」を発症する社員が増大し、休職する社員が多発して、業務に支障をきたすように成ったからである。

さらに、折角、「戦力」に成るまで「育成」してきた社員が、精神疾患が原因で退社する事態と成った。

そうなると、新たに社員の補充をして、更に「戦力」に成るまで「育成」しなければいけない。

そして、その間は、当該職場に於いては、欠けた社員の分の業務を、職場の残りの人員で何とか維持していかなくてはいけない。

だが、既に、各社員は手持ちの業務だけで限界をきたしており、更にその上に欠けた社員の分の業務を分担出来るような余力は残っていない。

最悪の場合、残った社員の中で、過労などが原因で精神疾患を発症し、どんどん「戦力」が減少して、最終的に職場の「戦線崩壊」をきたしてしまうのである。

だから、「メンタルヘルスチェック」でもって、「現状把握」をすると同時に、職場のあり方を変革する意識を持たない限り、結局、意味が無い。

自分も「うつ病」で休職したが、結局、人事異動は為されなかった。

だから、折角、「うつ病」が軽減しても、同じ職場に戻るだけなので、またしばらくすると再発してしまったのである。

結局、退社するしかなかった。

 

一方で、新入社員を採用する際に、メンタル耐性の有る無しを、採用の選考に於いて調査する傾向が出て来たという。

もう、失笑するしかない。

まず、メンタル耐性というのは、人間の特性の中のごく一面でしかない。

だから、メンタル耐性が有る人が、ビジネスに於いて、優秀であるかどうかは、また別問題であるということである。

勿論、アスリートのようなずば抜けた人間は、能力もメンタル耐性も全て兼ね備えている。

だが、そんな超人的とも云える能力を持った人物は、ごくごく少数である。

そんな逸材が採用試験に何十人も押し寄せて来ることなど、どの企業に於いても絶対に有り得ない。

また、物事というものは、全てに於いて「二面性」が有る。

繊細であるということは、弱さであるとともに、緻密さでもある。

だから、メンタル耐性が強い人ばかりの組織は、鈍感でがさつな人員ばかりに成る可能性が有ると云えよう。

そうなれば、メンタルヘルスに問題を抱える社員は発生しないが、その代り、企業の業績は悪化して倒産してしまうという、ブラックジョークのような事態と成ろう。

 

あとは、職場環境と個々人の資質の組み合わせによって、メンタルヘルスというのは変わってくるのである。

これは、自分の体感なのだが、何をストレスと感じるかは、個々人によって違いが有ると思うのである。

例えば、自分は、飛び込み営業からカスタマーコールサービスまでやってのけたが、その時は、「うつ病」を発症しなかった。

だが、研究所の中の仕事に変わってから、「うつ病」を発症したのである。

傍から見たストレスならば、飛び込み営業や電話対応の方が余程大きいように見える。

自分は、そういうストレスには耐えられた。

だが、研究所内の一室に籠って、自分にとっては訳が分からない専門的な技術開発の業務を延々と行うことは、結果として精神的に耐えられなかったのである。

だから、「試験」でもって、「ストレス耐性有り」とみなされても、時と場合によっては精神疾患を発症することは不可避であるということである。

つまり、リスクを回避することを前提にし過ぎてしまえば、本当の意味で業務に必要な人材を排除してしまう危険性が有ろう。

 

その一方で、ブラック企業による、「洗脳」とも云える社員操縦法が存在する。

有給休暇を取ることは、勤労道徳に反するような認識を植え付けているのである。

何故、そんなブラック企業が存続出来得るのだろうか?

そこまでして人件費を削減すれば、利潤が上がり、キャッシュフローも回って、企業経営は順調に成る、ということなのだろうか?

それは、認めたくない「事実」であるが、それは所詮「パラドックス(逆説)」でしか有り得ないと思う。

やはり近江商人の「三方良し」(自分良し、お客良し、世間良し)の精神でないと、いけないと思う。

 

日本人は、どうして、一面的な見方しか出来ないのだろうか?

「短所は長所」でもあり、「ピンチはチャンス」でもあるのだ。

減点法ばかりで評価し続けていけば、最終的には停滞と閉塞しかないだろう。

勿論、加点法ばかりでも破綻はする。

だから、減点法と加点法を組み合わせていくべきなのである。

多分、減点法ばかりに偏っているのは、「手抜き」をしているからだと思う。

本質を見抜いて、選別しようとする意識や意欲が無いのだ。

勿論、その能力も無いのだろうが。

 

自分は我が祖国・日本を愛するが、日本「最高!」と無邪気に高吟する気にはとても成れない。

現に、「劣等民族」(と、いわゆる「保守派」がみなしている)の朝鮮人や支那人に、国際世論形成や核兵器戦略に於いて、一方的にやられっぱなしではないか!

つまり、日本人は「劣等民族」よりも更に劣るということに成る。

このパラドックスを、どのように、いわゆる日本の「保守派」は説明してくれるのだろうか?

人は誰しもが順境を乞い願うものである。

敢えて逆境を望む者はほとんどいない。

だが、既に若年層からは「老いさばらえて」しまった自分から云わせると、人間にとって順境から得られることは、あまり無い。

順境に在る時、人は、ただ夢中に成って、突進するだけである。

仕事や勉学などに、ただひたすら没頭するのみである。

そこに一片の疑義も発生し得ない。

だが、変調をきたし、いつの間にか歯車がかみ合わなくなり、みるみるうちに悪いことが続くようになると、さすがに思い煩うように成る。

何故なのだ、どうしてなのだ、と、今迄は気にも留めなかったことや見過ごしてきたことまでも、次々と脳裏に浮かんで来るのである。

そうなってから、初めて、自分の本質やら自他との輪郭やら周囲の情景までもが、見えて来るのである。

地獄に突き落とされ、塗炭の苦しみにのた打ち回って、ようやく思い知らされるのである。

悲しいかな、人間というのは、骨身に沁みたことしか学習出来得ないのである。

他人から懇切丁寧に教示されたところで、そんなものは一晩寝てしまえばきれいさっぱり抜けてしまう。

だが、枕を濡らし、悶々として眠れぬ夜を過ごすような逆境の中から刻印された記憶というのは、死ぬまで忘れることは無い。

だから、人間は、逆境の時でしか成長出来得ないのである。

 

古来より「可愛い子には旅をさせよ」と云う。

今日、子供から青年まで、あまりに「指導」が行き届き過ぎているように思う。

「これをしてはいけない」

「かくあるべきだ」

などと、懇切丁寧に教育指導が為されている。

しかしながら、いくらその指導の背景の理論や根拠を説明したところで、指導を受けた方は、本当のところ、腑に落ちていないのである。

ただ、「そういうものなのか」と想定するしかないのである。

だが、焼けた鉄に触れて火傷して、初めてその熱さと危うさを知る。

水の中に突き落とされて、鼻から口から水を飲んで、初めてその苦しさと危うさを知る。

所詮、身体で感じたことでしか、人間は「身に付く」ことは有り得ないのである。

そうであるならば、「失敗」と云う経験は、それが致命的なものでない限りは、必ずしも回避すべきことではないと思う。

自分は、魯鈍で不器用だから、今迄配置された職場に於いて、最初は失敗ばかりしていた。

間違いやミスを連発し、その為「今度来た奴は全然使えない。」と必ず駄目印を押されていた。

だから、自分は担当部署が変わるたんびに、自分の愚かさと要領の悪さを呪い、もだえ苦しみ続けて来た。

だが、間違いという間違い、ミスというミスを、ことごとく体験し尽くしてしまうと、後は、いかにそういう失敗をしないようにするか、対策を講じていく。

すると、感覚的な失敗回避方法ではなく、意識的な論理性でもって失敗回避方法を確立していくので、「言語化」しやすいのである。

だから、後進の方々に指導する際に、支障が無いのである。

 

自分は、別記先述した通り、今迄の生涯は、失敗と挫折の連続だった。

だから、めぼしい財産も成果も持っていないのだが、もし、強いてあげられるとするならば、その失敗と挫折の中で、もだえ苦しんだ時の「記憶」であろう。

その記憶から導き出された教訓を論理的に整備していったならば、誠に逆説的ではあるのだが、一種の成功への「法則」を提示することが可能なのかもしれない。

 

腰が痛む。

自宅から数百メートルの最寄駅まで、歩行するのさえ、辛かった。

今日、自分は新たに年齢を重ねてしまったが、そんな「特別な日」にもかかわらず、気分は高揚出来ない。

だが、「人生万事塞翁が馬」である。

腰痛のせいで、仕事に出られなかったが、今日は、通過した台風や居座っている温帯低気圧のせいで、そこらじゅうで集中豪雨の天気だった。

もし、元気に通勤していたら、ずぶ濡れに成っていたかもしれぬ。

また、ほぼ一日、安静にしているしかなかったので、思わぬ休養が取れた。

だから、この腰の痛みも、満更、悪いことばかりではなかろう。

 

人は誰しもが順境を乞い願うものである。

敢えて逆境を望む者はほとんどいない。

そんな中で、かの山中鹿之助は、夜空の月に向かって

「我に七難八苦を与えたまえ」と祈った。

そして、その祈りは通じて、彼の人生は苦難の連続であり、その最期は敵方の騙し討ちによる凄惨なものであった。

また、大谷形部吉継は、文武の才に長けておりながらも、病に苦しみ、仲介や折衝といった「汚れ役」ばかりを担当し、最期は戦場の露と消えた。

だが、山中鹿之助も大谷吉継も、歴史にその名を刻むことが出来たのは、その不運・逆境の中で培った「能力」ゆえである。

それが後世の人々を魅了してやまない魅力の源泉なのである。

だから、自分の意のままにならぬことが多くても、決して自暴自棄に成ってはいけないのである。

ひょっとしたら、それは、神仏からの「贈り物」であるかもしれないのだ。

ただ、それを将来に於ける「糧」と出来るか否かは、その人の受け止め方次第で分かれて来よう。

世を恨み、他人を呪うばかりであったならば、その先に決して明るい展望など有り得ない。

 

逆境を合掌して拝受する、そういう「覚悟」の有る無しが、問われて来るのであろう。

昨晩から腰が痛い。

床に就いてみたものの、少し体を動かすと腰に痛みが走る。

寝返りさえ打てない。

額には脂汗が浮かんでいるが、それは暑さのせいだけではない。


本日、自分は、また一つ年齢を重ねてしまった。

SNS上では、数多くの方々からお祝いの言葉を頂戴した。

誠に恐懼と感謝に堪えない。

本来であれば、お一人お一人にご挨拶を返礼差し上げるべきところであるが、腰が痛む。

実はネットサーフィンどころではないのだ。

突然の腰痛発症の原因は不明で、特に捻った訳でも、重いものを変な姿勢で持ち上げた訳でも無い。

とんだ「誕生日プレゼント」であるwww


今月、つまり8月に入った頃から、自分は自分の年齢と人生に関して考え始めた。

自分は、既に「不惑」の年齢を遥かに過ぎてしまった。

自分は、子供の時から、どちらかというと「老成」してしまっていて、若々しい感じではなかった。

学生時代も、「青春を謳歌する」というような青年らしい日々を送っていた自覚は無かった。

ただ、振り返ってみて、「あれが、自分にとっての青春時代だったのだな。」と再確認している感じである。

そして、自分の今迄の生涯を振り返ると、失敗と挫折ばかりであったように思う。

世に云う「いたずらに馬齢を重ねる」とは、まさに自分のことを指すのであろう。

しかし、自分は自分の生涯に後悔はしていない。

何故なら、自分は、その時その時を出来得る限り懸命に生きて来たからである。

あの時、他に何が出来たか?と自問しても、あの時はあれが精一杯だったと言い切ることが出来る。

だから、後悔はしていないが、猛省はしている。

さて、本当に才覚を有する者は「栴檀は双葉より芳し」である。

齢四十を過ぎて、猶、未だ頭角を現し得ないのであるならば、最早「未熟」という表現は使えない。

「未だ熟さず」ではなく、ただ単に「熟さず」であろう。

1990年のNHKのドラマスペシャルに於いて、「不熟につき」というのが有ったのを記憶している。

(作:岸宏子/出演:小林薫、坂口良子/主人公は、江戸時代の伊勢伊賀の領主、藤堂家に仕える祐筆。お家騒動の際に事件の真相を記録した祐筆が、城代家老の邪魔となり解雇され、家も追われる。放送文化基金賞本賞。)

城代家老の息子役を黒田アーサーが演じ、その幼友達であり家来であったのが主人公の小林薫であった。

当初、藩政改革に目覚めた黒田アーサーに共感して、小林薫は奔走する。

だが、城代家老の地位を父から継承した黒田アーサーは、藩政改革を潰す側に転じる。

小林薫演じる、祐筆は「お役御免」と成り、解雇され、御家からも追われる。

その解雇を申し渡した書状の理由の一文に「不熟につき」と有るのである。

「未熟」であるならば、時が経てば「熟する」可能性が有る。

だが「不熟」であるならば、最早、展望は開けない。

改善の見込み無し、と見なされ、切り捨てられるのである。


自分は、いわゆる「体育会系」ではなかったので、後輩諸氏に対してえばり散らすということをして来なかった(と思うwww)。

だから、論語の「後世畏るべし」と云う言葉が好きであるし、肝に銘じている。

だが、その全文はこうだ。

「子曰わく、後生(こうせい)(おそ)るべし。焉(いずく)んぞ来者(らいしゃ)の今に如()かざるを知らんや。四十五十にして聞こゆること無くんば、斯()れ亦(また)畏るるに足らざるのみ。」

この最後の一文は、まさに自分のことを指していよう。

四十を何年も過ぎて、うだつのあがらない自分は、最早「畏るるに足らない」のである。


謡曲「敦盛」では、「人生五十年」と云う。

もし、そうであるなら、最早「余命」は数年しかないということになる。

まあ、これは、いくら何でも短期間すぎようが、そろそろ、死の瞬間から逆算して、残りの生涯の行程を思案していくことが必要と成って来るだろう。

単純に、今年が人生の「折り返し点」と仮定するならば、自分は九十歳まで生きることになる。

だが、九十歳まで生き延びられる自信は、自分には全く無い。

八十歳まで辿り着けるかどうか、というところが妥当な線ではなかろうか?

亡父は、結局、78歳で逝った。

自分も、亡父と同じくらいの寿命と試算するならば、既に残りの人生は35年を割り込んでいることになる。

最早、あれこれと思いつきや行き当たりばったりで、無軌道に人生を送る余地は無い。

そもそも人の一生は、何事かを成し遂げるには、あまりも短過ぎるのである。

但し、ただ単に無為に生き続けていくには長過ぎるだけに過ぎない。


余生、ということに成るのであれば、自分が何かに「成る」ということを主眼に於いて立ち居振る舞いをする時期はとうに過ぎていよう。

俳優でもそうである。

どんな「二枚目」も、年齢を重ねて来たならば、いずれは脇に回ってバイプレーヤーとしてアクセントを付ける役回りを演じることに成る。

ならば、自分は、今後の「生き方」として、絶えず後進の方々のことを考慮しながら立ち居振る舞いをしなくてはいけないだろう。

つまり、自分より年下の若い方々を下支えすることを念頭に置いて行動するということである。

勿論、時と場合によっては、自分ような浅学菲才・無芸大食な「小人」も、高いところに押し上げられるようなことが有るかもしれない。

だが、それで有頂天に成っては絶対にいけない。

もし、上に立たされるようなことに成ったのならば、目下の方々の「傘」と成るように意識しなくてはいけない。

若い方々の風除け、弾除けとして精勤し、そして然るべき時期が来たならば、何の未練も残さずに後進に託していかなくてはならない。

それが、この年齢まで「生き延びて来た」者としての、今後の立ち居振る舞いの肝要であろう。


今日、何を行い、明日、何を目指していくのか。

これからは、一日一日を大切にしていくように、心がけて行きたい。

SELDsが本日(平成28年8月16日)解散したと云う。
昨年、平成27年中は、いわゆる安保法案の国会審議を巡っての国会周辺デモなどで、彼等の存在は、一際目を引いた。
とりわけ、大マスコミは、左翼リベラルの新たな若い「奔流」と見なして、極めて期待感とリスペクトをにじませて報じていた。
だが、いわゆる安保法案が可決してしまって以降、SELDsは「往時」の勢いが無くなり、明らかに「失速」した。
博報堂のブランドデザイン若者研究所のマーケティング・アナリストの原田曜平によれば、「10代20代の若者の多くはSELDsに対して共感していない。自分たちより遠い存在に感じている。」といった報告をしていた。
つまり、SELDsは、若年層世代の中で「上滑り」していたのである。
だから、自分たちが最早「失速」してしまった「運動体」であることを、SELDsの連中は、自覚していたと思う。
なので、今日平成28年8月16日の「解散」は、彼等が「大馬鹿」ではないことの証しでもある。
ただ、昨年に、既存の左翼組織と合流し、既存の左翼組織とそのシンパ大マスコミの「寵児」に成った時点で、決定的に「陳腐化」してしまった。
もし、彼等が、共産党などと一線を画していたら、まだ、存続可能だったと思う。
但し、大マスコミから賞賛されることも無く、知名度は上がらなかったと思うが。
彼等は、機を見るに敏で、彼等からすれば、共産党などを「活用」したつもりだったのだろう。
だが、既存の政治の世界の構図の一部に組み込まれてしまった途端、旗幟が鮮明と成り、その結果、世人は彼等の立ち位置を左右軸の中での政治的位置づけの上で明確にしてしまった。
つまり、「レッテル」を貼り、「理解」してしまったのである。
そして、「解り易い構図」に当て嵌まってしまった途端、得体の知れない政治的なダイナミズムは消失してしまったのである。
これは、結局、彼等が、既存の左翼組織の「青年部」と見なされてしまったことを意味する。
だから、展望が無くなったのである。
そう云う面では、自分は、SELDsの「解散」を残念に思う。
結局、現時点に於いても、なお、日本の左翼・リベラルは「前時代的」な「運動体」に帰結、収斂してしまうのか、という落胆である。
確かに、左翼・リベラルが「新生」し、起死回生と成った場合、それは大いに脅威である。
だが、一方で、敵が手強くなったならば、それに相対する、いわゆる「保守派」も生まれ変わる契機と成る可能性が望めた。
しかしながら、SELDsがしぼんだことで、いわゆる「保守派」は、あまりに短絡的に凱歌をあげてしまった。
本当は、いわゆる「保守派」は、SELDsに「勝利」した訳ではない。
SELDsは、ただ単に「自滅」しただけに過ぎない。
SELDsは、自らの運動の展望が無くなったことを察知したので、素早く「手仕舞い」をした。
だから、「解散」したのである。
一方の、いわゆる「保守派」は、「解散」はしていない。
だが、それは、単に醜態を晒していることに無自覚なだけであり、展望が無いことについては全く同じである。
同じ「知的劣化」が進んでおりながら、彼等は自分たちの「限界」を自覚して、方向転換をはかり、再起を模索する道を選んだ。
一方の、いわゆる「保守派」はどうか?
目の前に有る、問題点や課題にちゃんと向き合っているのか?
目の前に存在する、問題点や課題から目を背け、無視をし、浮かれ騒いでいるだけではないのか?
ならば、いわゆる「保守派」は、「解散」すら出来ずに、立ち腐れし続けて行く道を選択しているのではないのか?

本日は8月15日で大東亜戦争終戦記念日だった。

今年、自分は靖国神社でご奉仕をさせてもらった。

参道脇でのご奉仕だったので、拝殿への参列者を目にしていた。

今年は、例年に無く、過ごしやすかった。

曇天で日差しが弱く、風も吹いていた。

靖国神社としては、水蒸気(ミスト)散布装置を設置するなど、熱中症対策の準備をされておられていたが。

自分は、こういう「雑用」が大好きであるwww

どうも、はたから見ていると、「とても活き活きとしている」ように見えるらしい。

自分としては、ただただ、無我夢中で一生懸命に没頭しているだけなのに過ぎないのだが。

 

「靖国神社」は、或る面、「舞台」である。

「靖国神社」に参拝することによって、或る面、脚光や賞賛を浴びることが出来るのだ。

それは、上は、閣僚級の政治家から、下は、有志のグループの主催者まで、みんなそうである。

それは、絶対的に「悪」であるとは云わない。

ただ、純真な礼拝行為が、見方によっては、或る人間の自己顕示欲を満たすための舞台装置に変容してしまう可能性が有る、ということである。

こんなうがった見方をするのは、自分が優れて犬儒的であるせいでもあるのだろうが。

だから、自分は、マイクを握ってとうとうとまくし立てるよりも、あっちへ走りこっちで頭を下げて回るような、そんな「裏方仕事」の方が性に合っている。

とにかく、我が祖父をはじめとする、我々の祖霊である「英霊」の間近で下働きをさせていただくことの喜びを今日一日堪能させてもらった。

 

天台宗の開祖にして、日本の仏教諸宗派の「源流」とも云える比叡山延暦寺を開かれた伝教大師・最澄は、その著書「天台法華宗年分学生式」(別名・山家学生式)に於いて、

「径寸(けいすん)十枚これ国宝に非ず、一隅を照らすこれ則ち国宝なり」とお示しになられている。

「一隅を照らす」とは「いちぐうをてらす」と読む。

「いちすみをてらす」ではないwww

この意味は、天台宗のHPによれば、

(「径寸」とは金銀財宝のことで、「一隅」とは今あなたのいるその場所のことです。

 お金や財宝は国の宝ではなく、家庭や職場など、自分自身が置かれたその場所で、精一杯努力し、明るく光り輝くことのできる人こそ、何物にも変えがたい貴い国の宝である。一人ひとりがそれぞれの持ち場で全力を尽くすことによって、社会全体が明るく照らされていく。自分のためばかりではなく、人の幸せ、人類みんなの幸せ求めていこう。「人の心の痛みがわかる人」「人の喜びが素直に喜べる人」「人に対して優しさや思いやりがもてる心豊かな人」こそ国の宝である。そうおっしゃっています。

 そして、そういう心豊かな人が集まれば、明るい社会が実現します。)

とある。

 

自分は、今日一日、下働きをずっとして来た。

だが、むしろ、それに充実感が有る。

一方、日章旗とマイクを両手に持って、いかにも「国士」然とはしていなかった。

だが、自分は、全く恥ずかしいなどと思っていない。

それは、自分なりに、靖国神社や英霊の「お役に立てた」ということを実感しているからである。

世間は、自分の今日の「有り様」をどう認識しているのか、そんなことはどうでも良い。

多分、今日、自分が靖国神社の境内に居たということさえ、無視されるだろう。

でも、それで良い。

英霊と心有る御仁たちが、自分の下働きを気に留めて下されば、むしろ、充分過ぎるくらいである。

自分は、自分の今居る場所で、自分の出来得る限りのことを懸命に務めれば、それで充分なのである。

それ以外のことは、実は、些末なことなのかもしれない。

 

自分は現在、一介の「派遣労務者」に過ぎない。

だが、現在の仕事の現場に於いて、自分は必要とされている。

明日は、「派遣労務者」としての仕事が有る。

薄給だが、この職場で、明日一日を一生懸命に勤め上げること。

これこそ「一隅を照らす」ことを実践することに他ならない。

ということで、あんまり夜更かしすると、明日の仕事に差し障るので、今晩はこれくらいで。

どうも日本人は「論争」が出来ない。
つまり、全部肯定するか、全部否定するか、どちらかしか出来ないと思い込んでいるのだ。
何故、そんな結論に成るのか?
それは、日本が極めて同質性が高いからである。
だから、「異論」が出にくいのである。そして、「異論」が出にくいがゆえに、「異論」が出て来ると激昂するのである。
だが、世界的に見ると、絶えず、異文化との軋轢が日常茶飯事なのである。つまり、「自分と貴方は違う。」という前提で物事をとらえているのである。
その世界的常識が、日本人には理解出来ない。
だから、「論争」が成立しないのである。支那や欧米など、彼等は、本音と建て前を明確に使い分けて「主張」する。
例えば、靖国神社については、支那人にとって、他人の祖霊信仰は批判するが、「祖霊信仰」そのものは批判しない。
何故なら、自分の家の「祖霊」は信仰するからである。
これと同じである。
だから、相手から批判をされて、何でも「真」に受けてはいけない。
狡猾な人間は、得てして「右を指さしておいて、内心は左を狙っている」のである。
額面通りに受け取ると駄目な場合も有るのである。
相手の真意は本当は何処に有るのか。
さらに、自分たちはどう立ち居振る舞うべきなのか。
そこをよくよく見極める必要が有る。
結局、「仲良く喧嘩する」やり方を修得するしかないのである。

昨日、平成28年8月14日のTBS系番組「関口宏のサンデーモーニング」内「風をよむ」にて。
法政大学総長の田中優子が、戦争体験の家庭に於ける継承の重要性を指摘した。
その中で、いきなり唐突に「靖国には(戦没者の霊)はいないんです!」と断定した。
前後の文脈に、何の脈絡も無く、唐突に、たったこれだけを挿入したのである。
何故、こんな乱調なコメントをしたのか?
理由は簡単である。
論理的に論証不可能だからである。
もし、丁寧に話し続けていったならば、論理的に破綻して、必ずボロが出る。
つまり、「法政大学総長」としてのアカデミックな肩書とは、およそ不釣り合いな愚昧さを露呈するので、長々とコメントしなかったのである。
しかし、この唐突なコメントの「挿入」は、云わば、「サブミナル効果」を狙った「印象操作」である。
彼女は、論理的に破綻していることを敢えて承知の上で、瞬間的な断定口調でもって、TV視聴者に対して「印象操作」を行ったのである。
誠に、唾棄すべき行為である。

いわゆる「霊的」なことがらについては、客観的な論理的実証が事実上不可能である。
そもそも、「霊魂」なるものが、存在するのか、存在しないのか。
その時点で、結論が分かれる。
そして、平成28年8月の時点で、この問題に決着をつけることは出来ていないのだ。
ならば、或る特定の場所に特定の「霊」が、存在するのか、存在しないのか、と云う問題を実証することはおよそ不可能である。
いわゆるアカデミズムな世界に身を置く「学者」が、論証不可能な事柄について、得意げに断言してしまうということは、事実上、「学者」として「失格」であることを露呈したことに等しい。

また、靖国神社を礼拝対象とし、心のよりどころにしている人々の心を踏みにじったのである。
これは、明確な「人権侵害」であり、「きわめて重篤な精神的苦痛を与えた」のである。
人権侵害を平気で行い、言葉の暴力でもって精神的な人身攻撃を確信的に行ったのである。
ここに、田中優子を代表とする、いわゆる「左翼リベラル文化人」の典型的な病理性が現れている。
奴等は、「人権」「平和」「平等」と声高に絶叫しているにもかかわらず、その性根は傲岸不遜で酷薄な、差別主義者で暴力肯定主義者なのである。
だから、必然的に、奴等の「人権主義」も「平和主義」も「民主主義」も、全部、「虚妄」であることを露呈してしまっているのである。
「語るに落ちた」とは、まさにこのことである。

自分は、「靖国神社に英霊が居る。」とは断言しない。
何故なら、それを論証することは出来ないからである。
但し、自分は「靖国神社に英霊が居る。」と信じているから、真摯な祈りを捧げているのである。
靖国神社を嫌う人や否定する人は、別に靖国神社に参拝しなくても良いし、靖国神社について言及しなくても良い。
ただ、靖国神社を参拝する人々のことを悪しざまに口撃し、靖国神社へ参拝することを強制的に阻止しようとすることは絶対にやめてもらいたい。
それは、断じて許すことは、自分は出来ない。

昨日、墓参した。

だいぶ、前回の墓参から間隔が開いてしまったので、草茫々に成っていたwww

我が家のお墓がこんな惨状なのだから、罰が当たるのである。

幸い、来月は、もう秋のお彼岸である。

来月も墓参することと成ろう。

日常に於いて、どうしても「モノ」「カネ」と云った物質的な事柄ばかりが課題に上る。

だから、そうではない事柄が、ついつい疎かに成るのである。

これを「霊」と云う言葉を用いると、昨今の風潮だと、途端に胡散臭い感じに成ってしまった。

「霊」という言葉が、それだけ不可解で冷静に議論出来る対象ではなくなってしまったからであろう。

否定的な立場を取れば、拒絶するしかない。

一方、肯定的に成れば、傾倒し、耽溺するように成ってしまう。

どちらも誤りである。

「霊」ではなく、それを「こころ」や「思い」と云う言葉にすればどうなるのか?

全く、ニュアンスが違ってくる。

だが、「霊」も「こころ」も「思い」も、実は変わりが無い。

かたちや物質ではなく、眼に見えない掴みどころが無い相手がどのように考え、思い、願ったのか。

そこのところを、自分のことと思って引き寄せて考えてみる。

些細なこと、あらぬ方向のことのように見えて、実はそれが「転換」への始動スイッチかもしれないのである。

只今、日本全国的に、旧暦のお盆である。

この世の中が、生きている者と物質だけで構成されている訳ではないと考えさせられる、貴重な機会である。

束の間の「日常生活」の「棚卸し」をして、今後の「日常生活」の改善を目指していけるのではないだろうか?

誤解。

日本人は、「相手の気持ちを斟酌して配慮する。」と云う。

だが、「斟酌」することで、本当に、相手の「真意」を理解したことに成るのか?

時と場合によっては、衝突を恐れず、論争することから逃げないことも必要なのではないのか?

互いに自分の「真意」を述べ合い、「本音」をぶつけ合う「段階」を経て、はじめて「落としどころ」を模索することが可能に成るのではないのか?

「相手の気持ちを斟酌して配慮する」と云いつつ、本当は、「相手」のことなど、何一つ「理解」してはいないのではないのか?

それは、単に、独り善がりの勘違いなのではないのか?

「配慮」したと云うのは、完全な上から目線であり、これは傲岸不遜なのではないのか?

何でも相手の云われるがままにすると、相手から侮蔑されるというのは、結局、何でも云われたことを受容するということと何でも云われたことを拒絶するということが同質であるからである。

つまり、本当の意味で相手の云うことを吟味していないから、受け止めていないから、脊髄反射的な短絡的な対応に成るのである。

そういう意味では、日本の「外交」は戦前も戦後も「一貫」しているのだ。

ただ、戦前は「傲慢」で、戦後は「卑屈」に成っただけに過ぎない。

ベクトルの向きは真逆に成ったが、その「本質」は「不変」なのである。

あ、誤解ではないか。

解っていて、敢えて間違っているのだから。

曲解。

只今、ネット上で、ちょっと「炎上」が発生している。

キャリアコンサルタントの櫻井樹吏氏のコラム記事「なぜイマドキ新入社員は定時で即帰ってしまうのか」を巡ってのことである。

http://diamond.jp/articles/-/98421

要は、「定時で退社してしまうような新人は、まだ職場に於ける帰属意識が稀薄である。

退社する前に、先輩や上司に『何かお手伝いすることは有りませんか?』という一言が出て来ない。」と批判的である。

これに対して、このコラム記事の読者から、「まず残業有りき、を奨励するのか?」と云った批判が上がった。

で、以下、「いっちょ噛み」wwwの「派遣労務者風情」の自分が、またもやいらんことを書くわけであるwww

自分は、「古い人間」なので、「昭和」の職場の雰囲気が解る。

夕方、終業の時報が鳴っても、職場から帰りにくい。

それは、何だか、「職場放棄」「戦線離脱」みたいな「罪悪感」が有ったからである。

これは、或る面、「アジア的停滞性」とも云える訳でwww、没個性的かつ連帯責任性とも云える。

つまり「職場に於ける、本日の自分の業務は既に終了してしまったのだが、職場の上司や同僚が退社出来ない以上、自分だけ職場放棄、戦線離脱してしまうのは心理的に抵抗が有る。」ということである。

つまり、明確な「業務命令」は提示されていないのだが、退社することが許されない、漠然とした強制、つまり「空気」が支配しているのである。

ただ、これは、云わば、職場に於ける「徒弟制度」「滅私奉公」の「空気」の残滓と指弾することも可能だが、もう一方で「職場内の同質・均一性」「仲間意識」「ムラ社会」と云った面も有る。

だから、「何となく」(ここが重要!www)残業に突入した場合、「じゃあ、ピザでも頼もうか?」みたいな発言が上司から出て来たりする訳である。

勿論、「正規」では「就業時間」はとっくに終了しているため、「納期までの仕上げの追い込み」や「クレーム対応などの緊急非常事態業務」と云った特別な「非日常的」な状況ではない、「何となく」残業に突入した場合、職場の空気は結構、弛緩しているwww

例えて云うと、学校生活の「放課後」みたいな感じに成ってしまっていたのである。

だから、上司や先輩ともよく雑談をしたりしたのである。

つまり、「昭和」の「残業」は、「何となく」突入してしまうグダグダな感じが象徴するように、弛緩した「ブレイク」な時間でもあった。

ただ、この「締りの無い」www「残業」は、職場内のコミュニケーションを熟成することに寄与していた。

だから、「残業」が終わっても、「じゃあ、『ご苦労さん会』をやろうか?」などと云い出して、赤提灯や居酒屋に同じメンツで連れ出てしまうことも多かった。

しかし、こう云った、或る面「狎れあい」とも云える没個性的連帯性は、「みんな働く同じ仲間」と云う大前提が有って、初めて涵養され得るものである。

既に、現在の職場に於いて、正規雇用と非正規雇用の断絶が存在している。

更に、非正規雇用でも、契約社員、パート、アルバイトと派遣社員で峻別される。

一方、正規雇用者内でも、人事移動の地域が「全世界・全国」と「特定地域内」と「現職場限定」によって「種別」が出来ている。

また、幹部候補生の「キャリア」と「兵隊」「陣笠」「人夫」の「ノンキャリア」に分かれる。

さらに、多人数・少種類の業務内容から少人数・多種類に職場環境が構造変化しているため、「ムラ社会的」な「みんな一緒」というライフスタイルは実情に合わなく成って来ているのである。

現に、フレックスタイム制度は一般化している。

さらに、「人件費」は「固定経費」という概念から、「残業」は「経費増大」でしかないという認識に成っている。

だから、業務状況によっては不可抗力として発生する「残業」に関しても、業務現場状況を一切無視したかたちで「残業をするな」と云う指示や指導が為されるのである。

現在の職場のありかたとしては、「残業」は指弾されこそすれ、奨励はされることは有り得ない。

むしろ、定時に成ったら、さっさと帰るくらいの方が、「経費節減」と云う点では望ましいのである。

しかしながら、一方で、新入社員は、まだ、業務に馴染んでいない。

つまり、本当は業務の区切りの悪いところであるにもかかわらず、「定時」なので帰ってしまう、ということも充分に起こり得るのである。

そうなった場合、それは「職場放棄」「戦線離脱」と云う風に取られかねない可能性が有る。

ただ、それを、新入社員に「要求」するべきではないだろう。

やはり、職場として、新入社員の管理や指導を行う上司や先輩として、きちんと誤解が生じないように指示をするべきだろう。

理由も無く、「何故、定時でさっさと帰った!」と激昂したところで、何の説得力も持たない。

もし、「定時」の後も、職場に留まることを強いるのであるならば、何故、定時で退社してはいけないのか、確固とした理由を説明するべきであろう。

それには、やはり、業務全体に関しての「言語化」をして、明確に説明が可能なものにしていかなくてはいけない。

そうしなくては、「何故、定時で退社してはいけないのか?」という疑問を払拭出来得ない。

現在の「新人」に対して、こんな対処の仕方しか出来ないのであれば、いわゆる職場のグローバル化には対応は不可能だろう。

今後、職場に於いて、多民族・多国籍・多言語の人間によって「混成」されるとするならば、「日本的」な「以心伝心」「察する」「空気を読む」「斟酌する」「忖度する」といった、さながら禅宗の「不立文字」のような「意思伝達」方法を保持し続けた場合、間違い無く破綻するであろう。

何故なら、いわゆる「常識」が「通用」しないからである。

それは、従来のような同質性や均一性の高い人間集団ではなくなるからである。

職場のグローバル化による多民族・多国籍・多言語の人々による「混成」の職場や組織を運営し維持していくには、各従業員のパーソナリティとバックグラウンドの「差異」の存在を前提とした上で考慮しなくては駄目である。

職場に集う従業員が、明確に、考え方や捉え方、価値判断や行動パターンまで千差万別であるということを前提に考慮した場合、従業員に於いて、何事につけ「理解」と「合意」と「決定」が確固でなければいけない。

つまり、業務に於いて、誤解や曖昧さを生じさせないためには、

・業務目的を単純明快化させる

・業務の系統と分担を明確化させる

・業務に於ける疑問点やアクシデントが発生した場合の対応(担当部署など)を明確化させる

・事有る毎に、「理解」と「合意」と「決定」を明確化させる

ことが必要不可欠であろう。

だから、新人が定時で退社したぐらいで不快感を表しては駄目なのである。

定時で退社してはいけないのならば、「残業」は申請した分は全部受理し、全額「残業」分の手当てと給与を支給すべきであろう。

現在、多くの職場で、「職場から定時で帰りづらいが、残業は無くせと云われる」と云うジレンマを抱えているようである。

全く、つまらない、バカげたことである。

もし、職場に定時を過ぎても居続けなくてはいけないのならば、その理由と何時間何分間まで居続けるべきなのか、明確に説明出来なくてはいけない。

つまり、業務に関して、曖昧な点が多過ぎるのである。

何となく、感覚的に、フィーリングでもって運営しているから、言葉で説明出来ないし、説得力が皆無なのである。

それは、必然的に、業務に対して根源的かつ徹底的な論考を課していないからである。

今、何をどうするのか。

それを一つ一つ揺るぎ無く、誤解が生じ得ないところまで突き詰めて論考しないからいけないのである。

それは、業務の有り方を論理的に掘り下げていない、つまり、感覚的、情緒的に済ませてしまっているから駄目なのである。

論理的でないため、それは個人レベルの「経験則」でもってしか根拠が無い。

だから、担当する人間が変わった時点で、従来の運営方法の「論理的根拠」が成立し得ずに、結果として破綻は不可避と成るのである。

だから、個人レベルの「経験則」を、一般化させ、誰しもが応用可能な普遍的な「方法論」まで高めなくてはいけない。

それには、明確な論理的な根拠と実証性が無くては駄目なのである。

ちなみに、自分は、定時に帰るのは大賛成である。

定時に帰るようにするということは、納期までに確実に間に合わせるということと矛盾しないのである。

但し、いわゆる「天才的芸術家タイプ」の人の仕事は別である。

だが、そんな天才肌の人はごくごく少数の人だけであり、また、そういう人はその「才能」に対して「人件費」が支払われるために、とんでもない「高給取り」だったりするのである。

そういう「特殊事例」は、一般化理論からは除外しないといけない。

どうでもいい話しであるwww

自分の大学時代、もう20年以上も昔のこと。

東京の地上波TVに、ピンとして、上岡龍太郎が「ようやく」出て来た。

「東京は嫌い。敵だ。」と云い、「ゴルフは嫌い。」「マラソン、嫌い。」と公言。

しかし、後年、全部、それを全て翻すwww

とにかく、早口で「屁理屈」をまくし立てる「話芸」は凄かった。

自分の好きな「芸人」は、ビートたけし、立川談志、そして上岡龍太郎。

全部、理屈っぽいwww

自分は生粋の東京人なので、本当の意味で、上岡龍太郎を「理解」することは出来ていないかもしれないが。

上岡龍太郎は、大橋巨泉の「セミリタイア」を踏襲して、2000年に引退。

以降は、横山ノックの葬儀に出て来たくらいで、芸能界の表舞台から完全に身を引いた。

残念ながら、彼の「話芸」を継承してくれる「芸人」はいまだに現れていない。

なお、引退して16年にもなるのに、どうしてこんなに憶えているのかというと、よく自分は「上岡龍太郎に似ている。」と云われたからwww

たまたま、風貌が似ているからなのか。

それとも、その扱いにくい狷介さが共通なのか。

本当のところはよく解らない。

しかし、頭が白く成って来たので、尚更、「似て来た」かもしれない。

どうでもいい話しであるwww

8月15日靖国神社参拝に関する諸情報まとめ(平成28年版)

(8月15日靖国神社・時系列)
午前6時・開門
午前8時15分・昇殿参拝受付開始(参集殿)
午前9時・遊就館開館
午前9時頃・英霊にこたえる会慰霊祭(御本殿・拝殿内)
午前10時・放鳩式(能楽堂前)
午前10時30分〜午後0時15分・第29回戦歿者追悼中央国民集会(外苑参道特設会場)
正午・黙禱(もくとう)、玉音放送
午後1時頃・靖国会忠霊祭(御本殿・拝殿内)
午後4時30分・遊就館閉館
午後5時・御本殿閉扉(拝殿前参拝は可能)
午後6時・閉門

8月15日の靖国神社は、近年、参拝者が十数万人も押し寄せる状況となっております。

皆様は、正午の黙禱の時刻に靖国神社の境内に身を置きたいと願っておられるのか、正午前後が一番混雑するように、個人的には体感しております。

但し、靖国神社の神門は午前6時に開門され、夜の午後7時に閉門となります。

早朝は、比較的参拝者が少ないので、拝殿で参拝をされたい方は、早起きをされて午前9時前ぐらいまでに参拝されるとすぐに参拝出来ると思います。

お仕事が有る方も、出勤前に参拝してもらえれば良いと思います。

早朝ですと、気温もまだ上昇しておらず、日差しも厳しくないのでお年を召した方やお子さんも体調のことを考慮すると良いと思います。

なお、夕方から夜にかけても参拝が可能です。

但し、午後5時頃に御本殿の扉が閉められてしまうので、出来れば朝のご参拝をお奨め致します。

拝殿前の社頭参拝も良いですが、この際、昇殿参拝されることをお奨め致します。
昇殿参拝受付・(3月〜10月)午前8時15分 〜 午後5時 ※最終受付 午後4時40分

昇殿参拝されれば、参集殿にて冷房が効いている中で待つことが出来ます。

個人ですと、玉串料¥2000からです。

団体になると、玉串料が一人あたり¥1000〜500になります。

当日は、チャンネル桜・頑張れ日本や西村真悟塾、my日本、ねずさんの集まりなどの諸団体が一緒に昇殿参拝されます。
(諸団体の集合場所、時間などは、各サイトなどでご確認下さい。)

当日受付なので、それらの諸団体の中に入って参拝すると、玉串料もお手軽ですし、手続きも簡単です。

勿論、10人以上仲間が集まりそうであれば、任意で団体をつくってしまい、昇殿参拝されても良いです。
(注!昇殿参拝希望者が多数になった場合、最終受付時間以前に8月15日分の受付を締切、終了することもあります!お申込み手続きはお早目に!)
昇殿参拝は、神門をくぐり、拝殿横の参集殿にて受け付けております。
拝殿前参拝の行列が出来ていたら、その行列の脇を通って、神門をくぐり、参集殿へ向かって下さい。


境内は基本的に禁煙です!遊就館前のスモーキングカーや外苑売店周辺などの指定された場所で喫煙して下さい。

便所は、外苑売店付近、遊就館内、遊就館前スモーキングカー隣(※平成28年8月中は工事中で利用不可)、靖国会館内などがあります。

飲料水の自動販売機は、外苑前売店と参集殿前、神池と駐車場前近辺にしか有りません。(靖国神社周辺・靖国通り沿いにコンビニがあります。)

昼間の境内は、物凄い混雑となり、飲み物の自動販売機もほとんど売り切れになってしまうと思われます。
(自販機ベンダーが特別対応してくれるようになり、改善されました!)

能楽堂横で、靖国神社崇敬奉賛会青年部「あさなぎ」が、麦茶の接待を実施する予定です。

そちらで、是非、咽喉を潤してもらえれば幸甚に存じます。

日中はとても暑くなるので、体調管理には留意したいものです。

能楽堂横には、看護師有志による「救護所」が設営されます。

もし、少しでも体調に異変を感じられたら、「救護所」に駆け込んで下さい。

御気分が悪くなったり、何かお気づきの点が有れば、最寄りの靖国神社の職員、もしくはガードマンに御声をお掛けください!

以前、手水舎の前で販売していた供花とお水の頒布は、無くなりました。

遊就館もとても混雑致します。

遊就館は午前9時から午後4時30分まで。

遊就館では、現在(平成28年12月11日(日曜日)まで)、特別展「時を超えた祖国への想い―軍人と共に歩みし軍属たち―」を新館1階特別展示室(遊就館内売店隣)で開催中です。
(趣旨)
 かつて「軍属」や「準軍属」として、軍人と共に祖国を護るために尊い命を捧げられた人達がいました。
その職務は多岐にわたりますが、ほとんどの方が文官・技術者・船員・看護婦・動員学徒等の方々です。
この度遊就館では、こうした後方支援や看護或いは銃後の護りに散華された英霊の御事績を御伝えするべく、特別展「時を超えた祖国への想い―軍人と共に歩みし軍属たち」と称して、支那事変から大東亜戦争終戦に至るまでの御遺品や関係史資料を展示公開する事と致しました。この特別展を是非御覧戴き、ひたすら愛する人々や家族そして我が国を護るという想いから、軍・官・民が一丸となって国難に立ち向かった史実に触れて戴くと共に、夫々の職務を全うされた英霊の崇高なる「みこころ」を感得して戴ければと存じます。

また、遊就館には映像上映ホールが二つ有ります。

期間限定で映画「氷雪の門」が平成28年8月2日火曜日〜8月31日水曜日まで上映。(遊就館映像ホール2)
「氷雪の門」は、樺太の真岡の郵便局の電話交換手だった女性たちの悲劇を描いた傑作映画です。
但し、封切り時、ソ連や日本国内の左翼からの圧力によって上映が中止された”幻しの名画”です!
【内容】
ロシア領サハリンと呼ばれるかつての樺太(からふと)。
昭和二〇年八月終戦時の混乱期に、この地は一〇万余の同胞を失った。
この映画は、ソ連の侵攻作戦の真っ只中、
最後まで通信連絡をとり、若い生命を投げうった
「真岡郵便局電話交換手」九人の乙女の悲劇を描いた真実の物語である。
監督・村山三男
出演・二木てるみ 鳥居恵子 岡田可愛 藤田弓子 南田洋子
     若林豪 黒沢年男 丹波哲郎 田村高廣 島田正吾他
【上映期間】
平成27年8月2日(火)〜8月31日(水)まで
※神社の行事のため休止となることがございますので、あらかじめご了承下さい。
【上映時間】
1日2回上映(120分作品)
《1》10:00 《2》13:00
※8月15日(土)は《1》9:30 《2》13:00 

もう一つの映像ホールでは(遊就館映像ホール1)

「靖国神社の祭りとこころ」

平成二十七年は、大東亜戦争終戦七十年の節目の年を迎えます。
より多くの方々に靖国神社をご理解いただけるよう、このたび映像を
制作いたしました。この機会に是非ご覧ください。

■期間  平成26年10月1日(水)より当分の間

■場所  映像ホール1
       ※「私たちは忘れない」は映画「氷雪の門」上映の為8月中は休映。

■上映時間
       1、10:00  2、10:30  3、11:00  4、11:30  5、12:00
       6、12:30  7、13:00  8、13:30  9、14:00  10、14:30
       11、15:00  最終15:30                 計12回
       ※遊就館の行事等のため、上映中止となることがありますので、
        あらかじめご了承ください
             ※常設展拝観券をお求めください

(参考資料)8月15日は上映されません
『私たちは忘れない―感謝と祈りと誇りを―』(50分作品)

【作品内容】
日清日露の大戦から大東亜戦争に至るまで・・・。
我が国近代史の戦争を、当時の貴重な映像で再現し、
東京裁判で歪められた歴史の真実に迫るドキュメント映画。
【企画制作】 日本会議 ・ 英霊にこたえる会
【後   援】 靖国神社

【上映時間】
1日6回上映
《1》10:00 《2》11:00 《3》12:00 《4》13:00 《5》14:00
《6》15:00〜15:50 (最終)
-------------------------------------------------------------
★元日のみ1:00より1時間毎に上映致します(最終は15:00)
-------------------------------------------------------------
みたままつり期間中
《1》10:00 《2》11:00 《3》12:00 《4》13:00  《5》14:00
《6》15:00 《7》16:00 《8》17:00 《9》18:00 《10》19:00〜19:50(最終)


【ドキュメント映画 私たちは忘れない】
感謝と祈りと誇りを
50分 カラー作品

この映画は、教科書ではおしえられてこなかった、皆さんのお子さんやお孫さんに見せてあげて下さい。
きっと、わが国への誇りが湧き上がってくるでしょう。

私たちの国には、明治維新以来、共に力を合わせて国難に立ち向かった、日本民族の誇り高い不屈の歴史があります。
かけがえのない命を国に捧げた、先人たちの悲しくも尊い歴史があります。
私たちは忘れません。国難に殉じた英霊たちへの感謝と祈りと、そして日本人の誇りを―。

・主な内容
◆明治維新を成功させ、欧米列強の脅威から日本の自主独立を守りぬいた日清・日露の大戦
◆アジア安定に寄与する日本、中国大陸で繰り広げられる排日運動と満州事変の真実を探る
◆盧溝橋で日本軍に発砲された中国側の一撃、あいつぐ攻撃を受けついに日中の全面戦争へ
◆支那事変の拡大を避けようとする日本、裏で中国を支援する米英仏ソ、ついに米国が日本の前面に
◆日本参戦を仕掛けた米国の陰謀、そして日本は隠忍自重しながらついに苦渋の開戦決断へ
◆日本を侵略国と断罪した東京裁判の不当性を暴き刑場の露と消えた「戦犯」の無念をふりかえる
◆戦局悪化の中、祖国日本の防衛のため玉砕、特攻と尊い命を捧げた若き将兵たちの想いに迫る

●語り/浜畑賢吉・上村香子 ●教育用映像・永久保存版 非売品
●企画・制作/日本会議・英霊にこたえる会 ●後援/靖国神社
この映画(ビデオ)は、非売品です。

英霊にこたえる会は、靖国神社への総理、閣僚等の公式参拝の定着を求める国民運動を進めております。
この運動を推進するためのご支援として“特別維持会費”(2,000円)を納めていただいた方にビデオを進呈
(送料一律400円だけご負担下さい)させて頂いております。ご協賛下さい。

◆申込方法
郵便振替で下記にお振り込みください。地元の当会の県本部、中央参加団体でも受け付けます。

◆申込先
「英霊にこたえる会特別維持会費」
〒102-0073  東京都千代田区九段北3-1-1  靖国神社 遊就館内
電話・ファクシミリ  03-3264-4610

◆送金先
 ○郵便局 郵便振替(申込書として取り扱います)
 ○口座番号 00150-3-184977
 ○口座名 英霊にこたえる会特別維持会費

◆要領
題名・口数・金額・送料(何口でも一律400円)・合計金額。氏名、住所、電話番号


なお、無料休憩所が有る靖国会館は、関係者の控え室などになるために、8月15日は(午前中は)一般の方は利用出来ませんのでご注意下さい。

8月15日はとても暑くなりそうなので、参拝の際には酷暑対策を万全になさって下さい。

それでは、8月15日に「靖国で会おう!」

(平成24年8月8日のものを再録し、一部加筆しました。)

※追記※

靖国神社での8月15日の行事は、午前10時からの「放鳩式」のみです。

能楽堂前で、白い鳩を大空に放ちます。

靖国神社では、白い鳩を飼育していますが、それらの白鳩を管理する為の「白鳩の会」という会が有り、年会費は¥1000です。
(入会されると記念品がもらえます。)

8月15日に入会を受け付けています。

8月15日に行われる慰霊祭は二つ。

朝の、英霊にこたえる会のものと、午後からの靖国会の忠霊祭です。

元来、8月15日に慰霊顕彰を行っていたのは靖国会だけでした。

外苑の参道に、英霊にこたえる会と日本会議の共同主催で、第29回戦歿者追悼中央国民集会が行われます。

過去には、金美齢先生や田母神閣下が登壇されました。

◆要  項
日時 8月15日(金) 午前10時30分〜12時20分(開場9時30分予定)
会場 靖國神社参道特設テント 入場無料・事前申し込み不要・先着順
お問い合わせ・日本会議事務局電話03−6906−8990 FAX03−5157−5657

なお、正午の時報に合わせて、是非とも黙禱をお願い致します。

境内の放送で、時報が流れます。

また、黙禱終了後に、今上陛下の玉音が放送されますので、これも謹聴致しましょう!

昇殿参拝は、希望者が多いため、午後2時頃には締め切られてしまう可能性も有りますので、個人参拝の方は早めになさって下さい。

チャンネル桜や西村真悟塾、my日本、その他有志の団体が昇殿参拝を行いますので、そちらに参加されますと玉串料、¥500で昇殿参拝が出来ます。

個人ですと、¥2000以上になります。

通常は、昇殿参拝時には、遺族が参拝する際には祝詞が奏上されて、英霊の御名前が読み上げられます。

また、玉串奉奠もなされますが、8月15日は参拝希望者が膨大なため、これらが簡略化されます。

どのように簡略化されるかは臨機応変になりますが、じっくりと昇殿参拝をなさりたい方は、8月15日以外の普通の日になさって下さい。
(例大祭やみたままつり、お正月も通常とは異なります。)

御朱印は参集殿で受け付けます。
¥300です。
なお、当日、御朱印帳を忘れた方は紙でお渡しすることも出来ます。
また、¥1300で御朱印帳をいただくことも出来ます。

おみくじは、2種類有ります。
文章のみの¥100のものと、小さな御守りが中に入っている¥300のものが有ります。
個人的には、¥300のおみくじをひくと大吉だったことが多かったですwww

絵馬は、拝殿前の神札所か参集殿内で入手出来ます。
願い事を書く、普通の絵馬と桜の花のかたちの2種類有ります。
ペンも置いてありますので、記入して奉納することが出来ます。
「絵馬」とは、古来、神仏に馬を奉納した故事に倣い、生物の馬の代わりに「絵馬」を奉納して、神仏に祈願することです。
ですから、いたずら書きのようなことをすると罰が当たりますよ!

遊就館前で、茶寮結(ゆい)のかき氷が販売されますので涼がとれます。

但し、参集殿から拝殿前付近までは飲食は遠慮して下さい。御神前ですから。

ソフトクリームは遊就館の喫茶店・結(ゆい)と外苑の茶店で食べられます。

靖国神社のお土産物について。

参集殿・御守り、お神酒、お菓子
遊就館売店・書籍・DVD・CD、グッズ、お菓子
外苑茶店・グッズ、お菓子

靖国神社でのお土産に花あられが加わりました。

今迄は、お饅頭やゴーフレッドなど、甘い物系ばかりだったので、あられは美味しそうです。

中村屋の謹製で、¥1000で頒布されています。

この他にも、
「靖国ゴーフレッド」(風月堂)、
「白鳩の祈り」(アーモンドをホワイトチョコでくるんだお菓子)
「靖国ぼうろ」(宝来屋)(和製クッキーのぼうろ)、
「靖国コインチョコレート」(平成26年7月17日現在、品切れ。再販売するかどうかは不明)
お神酒「靖国」(平成26年4月1日から値上がりして¥1200になりました。悪しからず。)
が有ります。
(春季お花見の時限定の新宿中村屋謹製の「うすあわせ・桜味」も有ります。)

ちなみに、春秋の例大祭やお正月などの限定された時にしか頒布されないのが「桜饅頭」(宝来屋)です。

桜の花を塩漬けにしたものが載ったお饅頭で、甘さ控えめでとても美味しいお饅頭です!!!

もし、初詣などで靖国神社へ参拝された際に「桜饅頭」が頒布されていたら、迷わず速攻で入手して下さい!!!

絶対にこの桜饅頭は期待を裏切らない、大変な美味です!!!

靖国神社でのお土産品は全部¥1000です。

(自衛隊関連のお菓子も販売しております。)

(なお、安倍総理のお饅頭などの政治家ネタのお菓子は、外苑の茶店でのみ販売されています。遊就館売店や参集殿などでは頒布されていませんのでご注意下さい!)

あと、英霊にこたえる会が作成している「靖国カレンダー」ですが、既に来年の平成28年のものが参集殿個人受付で入手可能です。
また、8月15日は外苑のテントで頒布しています。

「靖国カレンダー」は、あくまで、英霊にこたえる会の年会費¥500を納めてもらった代償として頒布するものですので、厳密では”販売”ではありません。

ですので、「靖国カレンダー」は遊就館売店にも、外苑の茶店にも販売していません。

東京赤坂の乃木神社社務所でも入手可能です。

各県の護国神社でも入手可能な所も有ります。

(ご不明な点は、英霊にこたえる会へお問い合わせ下さい。)
http://eireinikotaerukai.com/

靖国神社の周辺は、8月15日は厳戒警備がされます。

左翼どもの襲来に備えてということと、隣接する武道館で政府主催の追悼式典が行われるためです。

道路の交通規制がなされるので、地下鉄や電車での参拝をお願いします。

また、靖国神社への入り口は正面の神門のみとなり、靖国通りに面した南門は閉鎖されています。

靖国神社の周辺は、コンビニや飲食店が以前より増えました。

ただ、8月15日はお盆休みということもあって、休業しているところも多いです。

お昼ご飯を食べたり、飲み会をしたい場合は、市ヶ谷や飯田橋、神保町まで移動されるか、あとは思い切って渋谷や新宿まで行ってしまう方が良いと思います。

地下鉄九段下駅から上がってくると、途中の坂道で、たくさんの団体がビラを配布したり、署名活動を行っています。
興味の有る方は、そちらも寄ってみて下さい。

左翼・反天連のデモが組織されるため、九段下の交差点は厳戒態勢となります。
保守派のカウンターも有ります。ご注意ください。

なお、靖国神社内でのマスコミの取材は、靖国神社が許可した腕章やバッチが無い場合は、無許可です。
左翼の「週刊金曜日」などがゲリラ的に取材している場合がありますので、ご注意下さい。

(地方から来られる方へ。)
東京駅からは乗り換え無しで靖国神社へ来ることは出来ません。

東京駅からJRで行こうとすると、市ヶ谷か飯田橋に行かないといけません。

東京駅を下車して、地下道を少し歩くと地下鉄の大手町駅が有ります。

そこの地下鉄東西線に乗ると、最寄駅の九段下に行けます。¥170です。(スイカ、パスモなど電子マネーカードだと¥165)

市ヶ谷と飯田橋はJR総武線各駅で黄色いカラーの電車です。

JR総武線各駅は、新宿・御茶ノ水・秋葉原を通って千葉方面に行きます。
その為、東京駅から直接乗り入れしていません。
東京駅からは、中央線(オレンジのカラーの電車で高架のホーム)に乗って、御茶ノ水駅で乗り換えます。
御茶ノ水駅だと、ホームを4番線に中央線、3番線に総武線各駅が止まりますので、ホームを歩いて渡るだけで乗り換え出来ます。
中央線で乗り換えないと、飯田橋・市ヶ谷を通過して四谷まで行ってしまいますので注意して下さい。

飯田橋駅ですと、新宿・中野方面先頭方向の出口が靖国神社への最寄出口になります。
なお、飯田橋駅と靖国神社の途中に、若い女の子の「婚活」の御利益で有名な東京大神宮があります。
東京大神宮は伊勢神宮の東京での遥拝所でした。ですから、伊勢神宮の東京支店みたいなもんです。

東京駅からタクシーで靖国神社へ行く方法も有ります。
それほど金額は高くならないと思いますが、当日は、先述した通り、8月15日は靖国神社や武道館の周辺は交通規制がなされるので、出来るだけ電車の方が良いでしょう。

靖国神社HP交通案内
http://www.yasukuni.or.jp/access.html

(以上、取りとめが無くなりましたが、8月15日靖国神社参拝の手引きでしたwww)
(2015年7月22日に書いたものを加筆しました。)

新しい現場に成ったので、だいぶ稼げるように成った。

が、「好事魔多し」で、何と!派遣先の管理職からお達しが出た。

「今後、派遣社員には一切残業をさせないように。」

一応、自分も8時間以上勤務した場合、通常の時給の上に残業手当が付加される。

と云っても百円玉2枚ぐらいなんだがwww

まあ、それでも、自分にとってはとても有り難かったのだが、それを止めろと云う。

「経費節減」と云うことだろうが、しかし、現場の状況をよく見てみれば、必ずしも人件費の削減に直結するのかどうだか疑問である。

と云うのも、派遣社員の自分が「お手伝い」することで、正規雇用の正社員のドライバーさんの業務が軽減されて、その分、就労時間が短縮される訳である。

ところが、派遣社員の自分が、業務の途中で帰されると、残った仕事は全部ドライバーさんでやらないといけなくなる訳である。

そうなれば、必然的に、正規雇用の正社員のドライバーさんの就労時間は増加する訳である。

そこで、非正規雇用の派遣社員の時給と正規雇用の正社員の時給とどちらが高額なのか?と云う問題に成る。

少なくとも、契約社員と正社員では、間違い無く正社員の方が時給は高い。

だが、派遣社員は、派遣社員本人に支払われる「時給」の上に、派遣会社自体の「管理料」が乗っかる訳である。

そうなると、意外と派遣社員を使うのは、安価ではないのかもしれない。

派遣社員の良さは、後腐れの無いところだ。

つまり、「もう人手は充分だ。」ということに成れば、即座に「切れる」のである。

最近、この業界の状況は変わりつつ有るように、自分は見える。

他社の車に乗っている従業員を見ると、若い制服を着た従業員二人体制に成っている。

つまり、派遣社員ではなく、契約社員や正社員に切り替えているのではないか?

多分、アベノミクスの「一億総活躍社会」に関する雇用政策などで、従業員の新規雇用に関して優遇処置が有るのかもしれない。

また、派遣社員のデメリットは、人員の「質」が安定しない点である。

既に、様々な業種で時給が上昇して来ており、若年層の就労者は、より時給の高い業種に移動している感じである。

さらに、正規雇用の正社員や正社員登用を謳った契約社員に移動しているのであろう。

だから、結局、自分のような老いたポンコツしか残らなく成って来ているのであろう。

時給あたりの金額の差がどれくらいなのかは不明だが、正規雇用の正社員の残業時間はなかなか削減は困難だが、派遣社員だったら即座に実現可能である。

「手の付けやすいところから」実行していることは間違い無い。

まあ、どちらにせよ、派遣社員である限り、アベノミクスの恩恵に浴することなど絶望的で、貧困から脱却は不可能であるということが見事に証明された訳である。

いやあ、もう、何処か、自分を雇ってくれるところは、無いのかなあwww

ポンコツだから、お呼びじゃないんだろうなあwww

明確にアベノミクスのお蔭で、ここ数年来、若年層の求人採用が活発化して来た。

勿論、採用の抑制と正規雇用者の削減が、ついに限界まで到った時期とも符合したのだとも云えよう。

だから、企業に於いては、若者の採用に躍起に成って来ている。

だが、いざ、採用まで漕ぎ着けても、新入社員が短期間で退職することが多発しているようである。

いわゆる「ミスマッチ」なのだと云うのだが、かと云って、いわゆる「インターンシップ」を導入したところで、この短期間で退職してしまう若者の続出を解決することに成るかどうか、自分は甚だ疑問に思う。

自分は、しがない派遣労務者でしかないので、本当のところは、皆目見当がつかないのだが、よく巷間で云われている事柄で、「今度、入って来た新人は使えない。」と云う愚痴である。

この手の愚痴は、そこかしこで耳にするのであるが、このセリフを耳にすると実は自分は首筋が寒くなる思いがするのだ。

と云うのも、自分が新入社員だった頃、実際に自分は、そういう風に云われていたのである。

自分は、思うように業績が上がらない中で、必死になって頑張ったのだが、陰では「もう、早く辞めてもらえば良いのに。」と云われていたとのこと。

まあ、それでも、結果として何とか17年も勤続出来た訳で、社内の出世頭では無かったが、まあ、一応「戦力」にまでは成れたのである。

そんな、元「使えない」奴が、以下、論考を進めさせてもらう。


いわゆる、「使えない奴」と云うのは、ミスが多いのと、指示通りに出来ないことを指す。

で、ミスが多く、指示通りに出来ない奴には、大別して二つのタイプが居る。

一つは、肩の力が入り過ぎているタイプ。

このタイプは、クソ真面目で不器用な奴である。

つまり、業務に関することの全てに於いて、全力で取り組もうとして力み過ぎてしまうのである。

ところが、何事も幹と枝葉が有る。

しっかりと注意深く行う部分とさらりと流してしまって問題無い部分と存在する訳である。

ところが、その力の入れ方の加減が、クソ真面目で不器用な奴は解らないのだ。

また、例え、理解出来たとしても、「力を抜く」という部分が、「手を抜く」という不謹慎な行為に思えてしまって、どうしても納得出来ないのである。

そして、人間の集中力と云うのは、長時間維持出来ないので、肝腎なところで疲れ切ってしまって、気が抜けてしまうのである。

当然、ミスや失敗を犯す。

さらに、時間が恐ろしくかかってしまう。

当初、指示した内容のうち、終了出来たのはほんの少しで、しかも間違いだらけだったりするのだ。

そこで、「駄目」の烙印を押されるのである。

こういうクソ真面目で不器用な手合いには、「速くしろ!」と急かしたり、「しっかりしろ!」と圧力をかけると、どんどんパニックに陥って、ドツボに嵌まってしまう。

だから、急かしたり、プレッシャーをかけてはいけない。

まず「深呼吸して、肩の力を抜け。」と諭して、

後は「ゆっくりで良いから、間違わないように一つ一つやってみろ。」と云う。

そして、「ちゃんと出来るように成ったら、速く出来るようにしてみろ。」と指示するのだ。

すると、根は真面目な人間なので、ひとつひとつ、丁寧に着実に仕事を進めていくように成る。

さらに、業務の全体像や流れが把握出来てくると、緩急や加減が理解出来て来るので、仕事のめりはりが出来て来る。

ついには、仕事の遅滞が無く成って、充分に仕事を頼める人間に成長するのである。


もう一つは一人合点をするタイプである。

このタイプは、実は「天才型」のタイプである。

つまり、このタイプは、既に自己流の仕事のスタイルを完成させてしまっているのだ。

ただ、あくまで、仕事に習熟しておらず、業務の全体像まで把握出来ていない状態で、一人合点、独り善がりで仕事のスタイルを完成させてしまっているので、当たり外れが生じてしまうのである。

だから、たまたま、我流の仕事のスタイルが合致している部分は大成功するのだが、全然実状に合わない部分は大ポカに成ってしまうのである。

このタイプに、「しっかりしろ!」とか「云われた通りにやれ!」と叱責したところで、絶対に受け付けない。

むしろ、へそを曲げてしまって、尚更、頑なに自分のスタイルに固執することに成る。

ならばどう対処するのか、というと、徹底的に理詰めで、論理的に、ロジックでもって固めていくしかない。

つまり、何故、ひと手間余計に加えないといけないのか。

その工程を加える原因と論理的な背景、そして、明確で決定的な結果。

これらを理詰めで説得していくのである。

で、このタイプは元々馬鹿ではないし、また自主的に動いて行く傾向が有るので、いったん、業務のコツを理解してしまうと、後はどんどん自律的に動いて行くのだ。

だから、あれこれと事細かに指示を出さなくても、テキパキと仕事をこなして行く、「手のかからない」人間に成っていく。


結局、「人を見て法を説け」ということである。

勿論、世の中には、何の指導もしなくても、どんどん能力を発揮出来る、優秀な人間も確かに存在する。

だが、そういう才人は、圧倒的に数が少ないのである。

だから、結局、「使えない奴」を、何とか使いこなしていくしかないのである。

それを、「あいつは使えない。こいつも駄目だ。」と愚痴不足を云っているのは、実は、「自分は人を使いこなせません。自分は人を育てることが出来ません。」と白状していることに他ならないのである。

まあ、元「使えない奴」が云っていることだから、何の説得力も無いのかもしれないが。

そして、最早、この論考を実際に実践することも、自分は到底有り得ないことなのであろうが。

まあ、以上、一笑に付して下されれば、自分としては諒としたい。

改造内閣の世耕経済産業新大臣が、「新卒の一括採用はいかがなものか?」と疑義を表明だと。

さらに、脳学者の茂木氏が、「学業に専念させる意味でも、通年採用にすべきで、新卒の一括採用は見直すべき。」と同調。

何だか、なあ。

自分は、ただの派遣労務者でしかないから、難しいことは解らない。

特に、海外の、アメリカや欧州での採用実態に関しては、詳細は解らない。

だが、あくまで、日本に関してについて、一言。

結論から云うと、いわゆる大企業の正社員の採用に関しては、この平成28年現在でも、いまだに「終身雇用」の慣行が残っている、ということである。

既に、「年功序列」や「企業内大家族主義」という、昭和30年代からの「高度経済成長期」の企業人事構造が破壊され尽くされているにもかかわらず、「終身雇用」だけは、申し訳程度に維持されている。

だが、その「終身雇用」も、老親の介護や本人・家族の重病発症によって、退職を余儀無くされる事態が多発している。

だから、既に、企業の人事構造に於いては、「戦後は終わった」「昭和は終わった」のである。

しかしながら、「年功序列」「終身雇用」「企業内大家族主義」という企業の人事構造が、何故、確立されたのか?

それは、日本人の性分に合致していたからに他ならない。

殆んど人種が同じで、「在日」の人も日本語を話せて日本人的な阿吽の呼吸を理解可能な人が多かった。

そういう「同質性」が高い社会構造であったのと、初等教育(小・中学校)の教育が優秀で、人材的に能力の偏りが少ないことも有って、職場に於いては「仲間意識」を涵養しやすかった。

つまり、社員はみんな同じ、だからみんなで知恵を出し合う「改善提案」などが生まれて来たのである。

一方、欧米は、階級社会であったり、移民などの異民族・異人種が多様に混在するために、「阿吽の呼吸」を忖度することが困難だった。

そこで、いわゆる「マニュアル」でもって、徹底的に業務内容と守備範囲を明記し、それ以外の事柄は「踏み込んではならない」とクギを刺した。

さながら、日本の自衛隊法規wwwである。

この「マニュアル」による社員の管理は、明確に、社員間に区別が有る。

つまり、頭脳労働者と肉体労働者である。

だから、肉体労働者は、頭脳労働者の分野に口出しすることは、「越権行為」であるのだ。

日本の企業は、高度経済成長期が終了し、それを何とか「夢よもう一度!」とあがいたのが「バブル景気」だった。

そして「バブル景気」が破裂し、「リストラ」という外来語で「首切り」が横行。

今日の、非正規雇用者の増大に到った訳である。

日本の企業体質は、根本的には同質性の高い、「ムラ社会」のままである。

いわゆる「生え抜き」が主流で、中途採用は、銀行から送り込まれたような人間以外は、傍系に配置されていた。

結論から云って、企業の人事部が、確固たる人事評価基準を確立出来得ていないことが、中途採用の数を抑制的にしているのである。

つまり、新卒入社以来ずっと勤続し続けている社員と、転職を繰り返している人間と、その二人を比較した時、どのように評価出来るのか、ということである。

「生え抜き」の社員は、愛社精神や帰属意識が強い。

しかし、「業務能力」ということで比較した時、幾つもの職場を経験した人間の方が優秀であるかもしれない。

一方、転職を繰り返している人は、「仕事はデキる」のだが、クセが有って、組織の中では浮いてしまうような人間かもしれない。

だが、この二人を明確に、評価出来ない限り、中途採用は出来ない。

例え、中途採用をしたとしても、その後の昇進や部署の配置など、どう対処していいのか解らなくなる。

だから、中途採用は、40歳までなのである。

それ以降は、余程の実績を残したカリスマ的なスーパー社員でない限り、採用されることは有り得ない。

それは、各社内での人事評価基準が、あくまで新卒採用の「生え抜き」の社員を想定したものしか確立出来得ていないからである。

だから、必然的に、日本の企業は、このグローバル経済の席巻する渦中に居るにもかかわらず、見事に「ガラパゴス化」しているのである。

勿論、いわゆる帰国子女や外国人留学生の採用割合を増大させて、グローバル化に対応しようとしているが、欧米のような流動的な中途採用の形態には成らない。

また、さらに由々しきことは、社員教育の問題である。

IT業界では「ドッグイアー」と呼称されるように、絶えず、業界内、企業間の状況は激変している。

そういう変化の激しい環境の中で、じっくりと社員を「仕込んでいく」ということは難しい。

特に、日本的な職場はそうである。

日本人は、いわゆる「職人気質」という特質が有る。

これは、細部へのこだわりと感覚を研ぎ澄ますことによって業務技術を身体に染み込ませて行く、つまり、業務技術の「肉体化」を求める傾向が強い。

しかしながら、非言語的な、感覚的な段階まで細部にこだわっていくために、習熟まで長時間を必要とするのだ。

さらに、「仕事のやり方は盗め」と云うようなスタイルだと、個々人の解釈幅が広く成り過ぎて、誤解が生じやすい。

そして、勘の良い人と鈍い人では、理解が大きく異なることに成る。

だから、物凄く秀逸な「職人」を生み出すことは出来るのだが、その裏で、後継者を育成する時間が長くかかり過ぎる上に、10人育てても大成するのはたった一人、という誠に効率の悪い方法でもあるのだ。

そのため、日本の各職場に於いては、業務のIT化という技術革新による背景とともに、従来的な「職人気質」の研修を実施しようとして、社員教育が事実上、暗礁に乗り上げてしまったのである。

要は、後継者に対して、業務内容の継承を明確な「言語化」が為されない場合、業務の指示なども含めて、極めて個人解釈の裁量に依存する結果と成るのである。

そこで、誤解や勘違いが不可避と成るのだ。

そして、結果として「数字」が上がらなかったり、上司や先輩の感覚的な「受け」が悪い場合、「使えない」という烙印を押されてしまうのである。

現在、「新人は3年で辞める」というのが風潮らしい。

だが、それは、企業側が、ちゃんと社員を育成していないせいだと思う。

日本に於いて、教育(特に高等教育)の有り方がブレ続けているのは、その目的が確固でないからである。

「教育」とは、「その社会に必要とされる理想の大人像への行程表」である。

つまり、「教育」を施す子供達に対して、理想の社会像と理想の大人像を明確に提示出来得なければ、「教育」はぼやけてしまうのである。

社員の研修も全く同様である。

現在の職場に於いて、どのような社員が求められているのか。

その理想像を明確に指示し、「言語化」することによって、曖昧な解釈が生じないように、しっかりと規定しなくてはいけないのである。

だが、そこのところがふらついているから、社員を育成出来ないのである。

これは、先述したように、確固たる社内人事評価基準が確立されていないということである。

機能的な組織に於いては、その組織が何を目的にするのかを厳密に明確化しなくてはいけない。

さらに、その目的を達成するためには、具体的かつ厳密な戦略を立てなくてはいけない。

そして、その戦略を実行するための精緻な行程表を作らなくてはいけない。

結局、何が肝要なのかが曖昧糢糊としているから、ついつい情緒的な決断に陥ってしまうのである。

「新卒の一括採用」見直し云々などより、もっと検証し、改善すべきところは他にたくさん有るだろう。

着手が簡単なところで、「取り敢えず、云ってみた。」というのであれば、あまりに愚かしいと感じる。

どうやら「うつ病」が再発したようである。

6月末から現在8月のはじめまで、疲労感、倦怠感が辛く、精神状態は沈鬱。

次第に、食事に味気が感じられなくなってきた。

「うつ病」の代表的な症状は不眠であるのだが、かつて自分の場合は過眠という症状で出た。

不眠と過眠では、まるっきり正反対なようであるが、「睡眠障害」というくくりでは、同じである。

いくら睡眠を多めに取っても、全く疲労感が解消されないのは、やはり、肉体的な不具合もさることながら、精神的にも支障をきたしていたということである。

いったん「寛解」した「うつ病」が何故、ぶり返したのか?

まあ、その要因は様々で、複合的なものであると思う。

だから、どれか一つの要因を取り除いたところで、根本の解決にはならないだろう。

また、「発病」というのは、相対的なものである。

身体の免疫や抵抗力といった、発病原因を撥ね退けるだけのパワーが有れば、発病まで到らない。

ただし、過労やストレスなどで、免疫や抵抗力がパワーダウンしていた場合、防御は破られてしまうのである。

そうはいうものの、自分にとって、明確に精神的に辛かったのは、母の小言と愚痴であった。

朝、起床し、夜、就寝するまで、母と一緒に居る間、間断無く聞かされる小言と愚痴。

これが、本当に本当に、自分には耐えられなかった。

家を出て、働いていた方が、全然楽だった。

何故なら、仕事場では、自分の人格まで全否定されるようなことは絶対に無かったからである。

だが、家に居れば、後から後から小言が浴びせかけられ、それが途切れたと思ったら、今度は愚痴不足が延々と続いていく。

愚痴不足というのは、例え、自分と無関係であると解っていても不快なものである。

愚痴を聞かされた方は、本当に迷惑である。

だから、自分は、なるべく愚痴不足は吐かないように意識している。

愚痴不足は、自他共に、毀損する「負の言葉」である。

もし、どうしても愚痴不足を漏らさずにはいられなくなったら、笑い飛ばすしかない。

自分自身とその身の回り全てを「笑い」で突き放した方が、どれだけ、生産的であることか。

最近、「毒親」という流行(はやり)言葉が有る。

さしずめ、我が家も「毒親」ということに成ろう。

だが、「毒親」と言い切ってしまうことに、自分は違和感が有る。

残念ながら、親の要素は子供に遺伝するのである。

つまり、「毒親」の負の要素は、間違い無く、子供にも継承されているのだ。

ならば、この「毒親」の負の要素の遺伝と云う、冷徹な現実から目を背けた場合、「毒親」の「負の連鎖」は絶対的に不可避であろう。

母の「毒」は、間違い無く、自分自身の体内にも含有されているのである。

このことは、強く肝に銘じて、猛省を期したい。

「家庭」とは、人生に於ける「母港」である。

日々、仕事や学校に出て行く。

だが、所詮、この世はままならぬことばかり。

疲労と憂鬱をしこたま抱えて、帰宅することがほとんどである。

だが、帰宅して、「家庭」で安らぐことが出来なかったら、どうなるのか?

大なり小なり、いずれの「家庭」にも、問題は存在している。

しかし、帰宅への家路の歩調が重くなるようでは、いずれ難破は免れないだろう。

「家庭」という、人生に於ける「母港」が、「火宅」と化してしまっていたら、船は延々と外洋を漂流するしか術は無い。

とにかく、近日中に、受診をするつもりである。

母は、猛反対である。

「もし、精神科への通院が会社に知れて解雇されたらどうする。」

「お金はどうする。」

何だ。所詮、金なのか。

子供の健康など、どうでも良いのか。

だから、母の気持ちなど、一切無視する。

自分の命は自分で守るしかない。

「うつ病」の恐ろしいところは、発作的な自殺衝動に有る。

突発的に自殺を決行してしまうことにある。

特に、「うつ病」の症状が軽く成ってからの方が危険度は高い。

本当に「うつ病」が重篤となれば、身体を動かしたりすることさえ出来なくなる。

つまり、自殺さえ出来なくなるのだ。

病気に関しては、早期発見・早期治療に限る。

早々に治療していきたい。

二階俊博が自民党の幹事長に成った。
かの田中角栄は、「総理よりも自民党幹事長に成った方が面白い」と言ってのけた。
自民党の幹事長とは、かくも重要なポストである。
問題は、安倍内閣であるにもかかわらず、二階俊博が幹事長に成ったこと。
つまり、自民党内の、いわゆる保守派の政治家で、二階俊博を凌駕するだけの「人物」が居なかったということ。
勿論、菅官房長官が移動しても良かったのだろうが、そうなると、今度は「じゃあ、官房長官は誰が務まるのだ?」と云うジレンマに陥る。
二階俊博自民党幹事長とは、極めて「剣呑」な選択であろう。
この安倍総理の大博打が、吉と出るか、はたまた凶と出るのか?
とにかく、自民党内のいわゆる保守派と云われる国会議員の現状が露呈した訳である。
今後の課題であろう。

自分はツィッターをやらない。

それは、入力出来る文字数があまりに少な過ぎるからである。

あの、七十五文字ほどの分量に、様々な情報や知識、論理展開などを盛り込むことは不可能である。

ツィッターでの表現は、結局、直截的、断定的に成らざるを得ない。

そして、その論調や表現方法は、刺激的で過激で極端に走りやすくなる。

それゆえに、書き手の性分が問われて来る。

「馬鹿発見器」との異名は、まさにそうである。

そう、実は、自分の馬鹿が露呈するから、ツィッターをしないのであるwww



そして、自分は、最早、特段、フォロワーを増やすつもりはない。

そりゃあ、ネットで公表している以上は、多くの方々の目に触れることを望んではいる。

だが、いくらフォロワーの数が多少増えたところで、自分には、何ももたらさない。

今、自分が拙文を書き殴っているのは、単に「書きたいから書いている」だけ。

だから、PVのほとんどが、実はパソコンのキーボードで遊んでいる猫だったとしても、全然自分はかまわないwww



FBやSNSは、実は長文読解には不向きな媒体である。

だが、まあ、自分は頓着せずに拙文を掲載していた。

どうも、自分の拙文の長さに迷惑している方々が多数おられるようである。

「そんなに嫌なら、友達をやめてしまえば?」と開き直ってしまおうかと思ったが、それも非人情であろう。

と云うことで、拙文は、いったん拙ブログにアップして、FBにはリンクを貼ることにさせてもらう。

なんだか、拙ブログに「誘導」しているようで忸怩たる思いであるが、スマートフォンで延々と下手くそなのを読まされるのは、酷なのであろう。

どうか、ご了承下されたく。



さて、本題に入る。

月刊日本という、「一応」www保守系のオピニオン雑誌が有る。

何故、「一応」と銘打ったかというと、「反米愛国」の色合いが濃厚なのである。

今では、ネトウヨ界隈では全く相手にされていない亀井静香を取り上げていたりするのが、「特色」である。

その最新号、平成28年8月号に於いて、石原慎太郎と亀井静香との特集対談で「靖国神社は西郷ら賊軍を祀れ」という記事を掲載している。

これがきっかけなのかどうかはわからぬが、いわゆるネット保守の方々の中でも、「靖国神社に『賊軍』とされた戦没者を合祀せよ。」と云う意見が出て来ていると云う。

この問題は、何も目新しいものではなかった。

古くは、戦前の武闘派日本共産党の幹部で、転向後に大物右翼に成った田中清玄は、福島県会津地方の出身だったこともあり、「俺は靖国神社は好きじゃないんだ。だって、薩摩・長州の奴ばかり祀っているから。」などと云っていたという。

ちなみに、会津藩士は全く靖国神社へ合祀されていない訳ではない。

いわゆる禁門の変・蛤御門の変に於いて、薩摩藩と共に長州藩の侵攻を防戦した際に戦死した会津藩士は合祀されているのである。

しかし、後年の戊辰戦争に於いて、会津鶴ヶ城と共に散っていった会津の人々は靖国神社には合祀されていない。

それどころか、戦争直後、会津方の死者の骸(むくろ)を弔うことさえ禁じられたのである。

会津人にとって、まさに「恨み骨髄」である。

だから、いわゆる奥羽越列藩同盟に参加してしまった東北地方の各藩に於いては、戊申戦役での死者をどのように「慰霊」するか、苦慮せざるを得なかった。

具体的には、各県の護国神社に於いて、どうするのかという問題であった。

各県の護国神社は、靖国神社の分社したものではないので、そのお社ごとで判断されていった。

自分が、「靖国神社に賊軍の戦没者を合祀すべきだ」という論考を目にしたのは、菅野覚明という曹洞宗の僧籍の神道学者(東京大学名誉教授・皇學館大學教授)が、確か雑誌「諸君!」に寄稿した論文だった。

つまり、「明治維新に於いて、官軍と賊軍という日本国内に於いて断絶が生まれてしまった。もう、歴史的和解と融合がなされるべきである。それには、靖国神社に賊軍とされた戦没者を合祀すべきである。」と。

よく、昨今、「戦後レジームの克服」「戦後体制からの決別」ということが主張される。

だが、実は約三十年も前から評論家の呉智英は「明治から疑え」と主張して来た。

つまり、現在の我々の思想的な課題の大元は、やはり明治維新まで遡及しなくてはいけない、という指摘である。

まさしくその通りである。

ちなみに、戦後左翼文化人の筆頭である丸山真男は、丹念に福沢諭吉を研究していた。

思想的な課題と共に、「魂」の問題、慰霊の問題として、戊申戦役の戦没者や西南戦争など各地での反乱での戦没者の慰霊をどのようにするべきなのか。

そこのところが、やはり、問われてきたのである。

また、現在の靖国神社の徳川康久宮司が、戊申戦役に於いて、官軍・賊軍ではなく、西軍・東軍という表現をされた、ということも、一つのきっかけではあったろう。

だが、徳川宮司は最後の徳川幕府の将軍・徳川慶喜のお血筋である。

「私見」として、そういう表現をしたところで、自分はむしろ、この方が当然至極に思える。

さて、「状況証拠」として、この「戊申戦役に関しての和解」と云う「流れ」は、確実に存在すると自分は感じる。

靖国神社の歴代の宮司の中で、奥羽越列藩同盟に参加してしまった盛岡・南部藩の末裔である南部宮司、そして、現在の徳川宮司と、いわゆる「賊軍」の末裔出身の宮司と成っている。

これは、明らかに、「畏き辺り」の確固とした「御意志」を感じざるを得ない。

しかしながら、さりながら、それを以てして、「靖国神社に賊軍を祀れ」と決め付けてしまって果たして良いのだろうか?

結論を云うと、良くない。

と云うより、許されない。

どうも、巷の多くの方々が、靖国神社のことを曲解している。

靖国神社は、「国民の神社」だと勘違いをしているのだ。

確かに、「国民総氏子」の「国民が心を寄せ、国民が護持すべきお社」であることは間違い無い。

だが、靖国神社は、畏くも「天皇陛下の神社」なのである。

「戦没者・殉難者の慰霊顕彰を行う」ことで、天皇陛下と国民との紐帯の役割を果たすための神社なのである。

つまり、伊勢の神宮や明治神宮と云ったお社と同様に、「天皇陛下の神社」なのである。

祭祀をどうする、御祭神をどうする、これらに関しては、あくまで天皇陛下がお決めに成ることであって、我々下々の者が言挙げすること自体「おこがましい」のである。

勿論、陛下の大御心は、仄聞するしか有り得ないのであるが、それゆえに、尚更、我々国民は、言を慎むべきなのである。

ちなみに、陛下の大御心というと、いわゆるA級戦犯合祀に関しての宮内庁長官だった「富田メモ」の件が持ち出される。

さらに、いわゆるA級戦犯合祀の後、天皇陛下の「御親拝」が途絶えたことを「指摘」する者もいる。

とりわけ、左翼系が大得意で指摘する。

だが、昭和天皇陛下の大御心は、いわゆる「富田メモ」だけでは判断は不可能である。

誰しも、最終的な結論にたどり着くまでは、考え方や感情が揺れることは、まま有ることである。

昭和天皇陛下の大御心が果たしてどうであったのかは、もっと総合的かつ多角的に検証していくべきであろう。

また、天皇陛下の「御親拝」が途絶えたのは、三木総理の「私人による参拝」と云う屁理屈が元凶である。

天皇陛下に於かれては、「私人」ということは有り得ない。

また、天皇陛下のご参拝に関して、左翼系が訴訟を起こす危険性が有る。

そうなれば、天皇陛下が「被告」にされかねない。

そんな申し訳無いことは、絶対に出来ないので、それゆえに「御親拝」が「遠のいた」である。

結局、左翼による、いわゆる「靖国問題」はマッチポンプであって、自分たちで火を付けて於いて「火の手が上がった!大火事だ!大変だ!どうしてくれる!」と大騒ぎをしているのだ。

そして、「この問題を解決するには、歴史認識を反省し、謝罪と賠償を」などと言い募っているのである。



この「靖国神社賊軍合祀要求」に関して読み取れるのは、現在の我々の救い難いまでの「戦後民主主義意識」の浸透ぶりである。

つまり、「戦後民主主義は完了した」のである。

この「靖国神社賊軍合祀要求」しかり、

「今上陛下生前御譲位批判」しかり、

はたまた「皇太子妃雅子妃殿下批判」しかり。

これらは、明確に「不敬」である。

陛下やご皇室に関することに対して、我々、下々の者どもが、あれこれと言挙げすること自体が、「身の程知らず」の「勘違い」なのである。

口では、「草莽崛起」などと、幕末・明治維新の志士を気取っているが、その実、「国民の象徴に関する問題に対して議論するのは国民の当然の権利だ!」と主張しているのに過ぎない。

つまり、スタイルは「尊皇愛国」の保守派を気取っているのだが、性根は骨の髄まで「戦後民主主義」に染まっているのである。

それとも、自分は「国民」ではなくて「皇族」の一員だとでも思っているのであろうか?

あれこれと論じたり、走り回ったりすることは尊い。

しかしながら、時には沈黙し、平伏し、有り難く押し戴くことも必要なのである。

それが、「保守」ではないのか?

軽々しく「戦後レジームを打破せよ!」と高吟している輩に限って、自らを省みることはほとんど無い。

そして、安直に、短絡に、「戦前に戻れ」などと云う。

満州事変、支那事変を「終結」出来ず、さらに大東亜戦争で大惨敗をしたのである。

「戦前」が全部良かった訳が無い。

「戦前」に於いて、素晴らしい面も多々有ったことは真実である。

だが、その素晴らしい面を全て消し去ってしまうほどの失敗、間違い、欠陥が「戦前」には確固として存在していたのである。

だからこそ、「戦前」で生まれ、「戦前」で育って来た多くの人々が、いわゆる「戦後」を生み出し、「抱きしめた」訳である。

このことの「意味」をしっかりと受け止めなくては、本当の意味での「戦後の超克」は有り得ない。

自分の考える「戦後の超克」とは、「戦後の相対化」である。

自らの内に根付いて、浸透している「戦後」を「相対化」すること無しには、絶対にいわゆる「戦後レジームの打破」など不可能である。



いわゆる「歴史認識」やら「政治的判断」やらは、「魂の問題」に関与させては絶対にいけない。

慰霊顕彰に関しては、お祀りした以上は、末代まで祭祀を継続し続ける。

そして、我々下賤な者どもは、畏き辺りからの仄聞を平伏して、黙って押し戴くしかないのである。

身の程を知るべし。

そして、自らの「戦後」を直視すべし。

(付記)平成28年8月4日記す
昨日、いわゆる「靖国神社への賊軍合祀論」に関して全面的に批判した。
合祀をする、しない、といったことの是非ではなく、そもそも、合祀に関して議論すること自体が「不敬」であると批判したのである。
これは、当然、特定の英霊に対する「分祀」についても同様であって、いわゆる「A級戦犯」とされる英霊(法務死殉難者)についてあれこれ論じることは、やはり「不敬」である。
「不敬」であることに無恥でいるということは、即ち「左翼」であると指弾して間違い無い。
つまり、(自称)「保守派」の性根は「左翼」と云うことに成る。
関連して、いわゆる今上陛下の生前ご譲位に関して、日本会議などの保守派から批判が出ている。
その根拠としては、
「皇室典範」を無視している。
明治時代に於いて、いわゆる「外部の強制された譲位」を防止するために「終身天皇」が定められた。
これらが批判の根拠と成っている。
だが、まず「皇室典範」に照らしての批判については、いわゆる近代的法治主義に根拠を求めたものである。
もし、この論拠にあくまで立脚するのであれば、いわゆる「保守派」は、「二千有余年も続く、悠久の歴史を重ねた皇統」、さらに「天照大神から連なる、神代からの皇統」という根拠を切り捨てなくてはいけない。
天皇陛下やご皇室の尊さは、まさに我が日本国の数千年来の歴史・文化・伝統の大本に有ることにある。
そして、何よりも「祭祀王」としての「祈る元首」としての本質が有る。
これらは、近代的法治主義でもって規定することは不可能であり、そぐわない。
だから、立憲主義がどうのこうのと批判することが「机上の空論」に過ぎないと同様に、的外れである。
さらに、「外部からの強制された譲位」に関しては、そのような畏れ多い惨状に成らないように、しっかりと国家体制と国民意識を確立することが本筋だろう。
陛下が譲位されるか、されないか、ということを決め付けるのは、それは国民や政府の責任転嫁であり、怠慢だと思う。
むしろ、いわゆる「生前ご譲位」が憚れたのは、かの「院政」や「南北朝」のように、ご皇室内が分裂することへの危惧であろう。
つまり、天皇と上皇(太上天皇)との対立が、危惧されるがゆえのことである。
しかしながら、現在の天皇陛下とご皇室は「内閣の助言と承認」でもって「管理」されている。
もし、天皇と上皇の対立が生じたとするならば、その責任は、ご皇室内と云うより、政府や国民に全て帰されるものであろう。
やはり、何よりも、今上陛下の大御心に沿い奉ることこそが、国民として当然のことと自分は思う。

さて、いわゆる「賊軍合祀」に関して、「原則論」を述べたが、以下は「実践論」として批判を加える。
何事も、理論と実践が両立出来ていなくてはいけない。
理論ばかりを振り回すと誇大妄想に陥る。
また、実践ばかりに執着するとあまりに些末になるか、無難な「事勿れ主義」に成る。
理論と実践の双方に目配りが出来て、初めて「成果」が上がるのである。
これから、仮に「賊軍の合祀が決まった」とする。
どのような経緯で、といったことは、敢えて触れない。
あくまで、合祀をすることが決まった、と云う仮定で論考を進めて行く。
靖国神社や護国神社に於いて、「合祀」するには、
・招魂
・霊璽簿作成
この2点が必要不可欠である。
招魂に関しては、大東亜戦争などの招魂を斎行していた「招魂祭庭」は、現在、駐車場に成ってしまった。
だが、それ以前の「招魂祭庭」は現存しているので、そちらで「招魂」の祭典を斎行することに成る。
問題は、霊璽簿の作成である。
靖国神社や護国神社に於いては、「護国の英霊」という一つの「神様」では、ない。
「坂本龍馬命」「高杉晋作命」といった、個々の御御霊の「集合体」である。
神道に於いて、神様を数える際には、「柱」と「座」が有る。
ほとんどの神社に於いては、「一座・一柱」である。
だが、靖国神社に於いては「二座・二百四十六万六千余柱」なのである。
二座のうち、一座は北白川宮の御二方の親王殿下である。
それ以外の英霊は、全てもう一つの一座に鎮まる。
しかしながら、新たに合祀される「賊軍の御御霊」はどうなるのか。
多分、二座のうちの北白川宮さまではない、一座に「合祀」されることと成ろうと思う。
だが、ひょとすると、もう一座追加して、そこにお祀りすることだって想定可能である。
そして、賊軍として亡くなられた方々を、お一人お一人、「祭神調査」を実施しなくてはいけない。
お名前や出自など、全て調べ上げなくては、霊璽簿に記載することは出来ない。
そして、霊璽簿が作成出来なければ、本当の意味で、靖国神社のご祭神として「合祀」することは「完了」しないのである。
この、亡くなられた方々お一人お一人を調べ上げなくてはいけない、と云う点が、いわゆる「慰霊碑」や「供養塔」とは決定的に異なるのである。
で、問題は、その「祭神調査」をどのように実践するのか、ということになる。
具体的に指摘するならば、何処がそのコスト、費用を負担するのか、ということである。
はっきり云って、現在の靖国神社に、そんな余裕は皆無である。
お金も人員も全く対応不可能である。
もし、いわゆる「賊軍合祀」をあくまで実現させるのであれば、それこそ、数十億円単位の資金を必要とするであろう。
そんな莫大なお金を、いったい全体どうやって搔き集めるというのであろうか?
口先で、「賊軍合祀」を主張するのは簡単である。
だが、いざ、それを実現させるようとすれば、どれだけ難儀なことか。
勿論、「戊申戦役などで亡くなられた御御霊」ということで、投網をかけるように「招魂」をすることは可能であろう。
実際に、大東亜戦争直後の招魂祭に於いて、大東亜戦争の戦没者の御御霊を一括して「招魂」してご本殿の相殿にお祀りしている。
そして、お名前などが判明した御御霊を、秋季例大祭の前夜の「合祀祭」に於いて、ご本殿の相殿からお遷しして、「合祀」しているのである。
だから、賊軍とされた方々の御御霊を御本殿の相殿にお祀りすることは可能であろう。
だが、戦没されて百年以上も経過してしまった現在、「霊璽簿」の作成は困難を極め、それは「合祀」途中の状態で停滞してしまうことに成ろう。

さて、靖国神社の境内に於いて、実は現時点で「西郷ら賊軍」の御御霊は既にお鎮まりされておられる。
ご本殿には「合祀」されてはいないのだが、境内の「鎮霊社」に於いて、既にお祀りされているのである。
そして、現時点で、靖国神社の神職によって、懇ろに祭祀が斎行されているのである。
今回のいわゆる「賊軍合祀」論争に関して、この靖国神社に於ける「鎮霊社」の存在を評価しないで行われていることに、自分はとても違和感が有る。
「鎮霊社」の存在を知らずに論じているのならば、それは怠慢であり、知っていて論じないのは、悪意を感じる。
合祀の云々を得意げに高吟される前に、まずは鎮霊社へ真摯な祈りを捧げてみよ。

最後に、いわゆる靖国神社の「合祀」の諸問題の中に、「自衛官殉職者」の問題が有る。
既に、各県の護国神社に於いては、自衛官の殉職者の合祀まで実施しているお社が存在する。
だが、靖国神社に於いては、まだ、自衛官の合祀は為されていない。
この件について、「由々しきこと」と論じる方々が多いことは承知している。
自分としても、自衛官殉職者の合祀は当然だと思う。
だが、「神社に神をお祀りする」ということは、もっと長い長い年月のスパンで考えていかなくてはいけない。
かの保元の乱の結果、讃岐に流され、憤死された崇徳上皇は、西暦1164年に亡くなられたが、西暦1868年慶応4年8月18日の明治天皇即位の際に、京都へ御御霊をお招きして白峯神宮を造営された。
何と!700年以上も経過しているのである!
勿論、その間、「雨月物語」など、日本人の多くが「日本最大の怨霊」として畏怖していたのであるが。
また、大化の改新で名高い、中大兄皇子こと天智天皇は、西暦672年に崩御されたが、近江神宮に神霊としてお祀りされたのは昭和15年西暦1940年のことである。
何と!1250年以上も経過した後のことである!
つまり、誰を神としてお祀りして、どの神社にお祀りするのかという問題は、実は10年や20年という単位で論じることは相応しくないのである。
だから、自分は、短期的スパンでは悲観的に、長期的スパンでは楽観的に考えている。
つまり、一年後二年後に、自衛官の合祀は、ほぼ絶望的だろう。
しかしながら、100年後に於いては、必ず、合祀されていることと自分は確信している。
そして、例え100年後に合祀されたとしても、神々の世界の時間の単位から云ったら、全く問題に成らないのである。
だから、現時点の我々にとって、合祀をどうするこうする、といった問題はあまり重要ではない。
むしろ、50年後、100年後、1000年後まで、いかに靖国神社を存続させていくか、こちらの方が明確に重要な課題であろう。
何を論じ、何に取り組んで行くのか。
そこのところを間違わないことが、今、真に我々に求められているのである。

毎日毎日、仕事は一生懸命従事している。

だが、仕事が終わると、もう疲労困憊。

ネット検索するのさえ、苦しい。

まして読書したり、筋トレしたりなど、無理だ。

連日、着ているシャツから塩を吹くくらい働いているのだが、あまりに薄給である。

自分は、今、一体何をしているのだろう。

そういう疑問がよぎる。

しかし、どんなかたちであれ、働いて稼がなくては生活が出来ない。

つべこべ云っている余裕など無いのだ。

根源的に物事を思索することは極めて重要だが、目の前の課題を一つ一つ解決していくことも極めて重要である。

「筆は一本、箸は二本、衆寡敵せず」とは斉藤緑雨であるが、まさしくその通り。

今現在の自分の収入源は、派遣労務者の仕事なのだ。

つまり、「この国」の「この社会」にとって、自分が果たすべき役割は、今のところ、派遣労務者の仕事なのである。

それに対して、あれこれ云ったところで、詮無きことだ。

ただ、ある日突然、「お座敷」がかかることが有るかもしれない。

その時に、ちゃんと「踊れる」ように、意識だけは保っていきたい。

何事も、「意識」だけは、しっかりしていれば何となく恰好が付くものだ。

自分の今迄の経験から、それで何とか成ると云えるのである。

本日は、東京都知事選挙投開票日。

自分は、迷いに迷って夜7時半ごろに、ようやく投票へ行った。

今日も仕事だったせいか、疲れ切ってしまって、実は誰に投票したのか記憶が定かではないwww

「ますだおかだ」だったような、小池徹平だったようなwww

但し、鳥越俊太郎には投票しなかったのは確かである。

それはさておき、自分は、当初から小池百合子を徹底的に批判した。

その結果が、小池百合子の圧勝である。

もっと接戦に成るかと思ったのだが、それほど、鳥越も増田も候補者としては出来が悪かったのだと思う。

自分も、近所の投票所に行き、投票用紙に記名する段に成って、「そもそも、どうして増田寛也は、東京都知事選挙に立候補したのだろうか?」と云う疑問点が、ぶり返してしまった。

そもそも、当初、自民党東京都連は「桜井パパ」が「最適」として来た。

それを固辞されて、増田である。

ここらへんの候補者選出の経緯が、本当に闇の中である。

そして、小池百合子からの「告発」。

これは、東京都民の反骨精神、判官贔屓の感情を強烈に刺激した。

だから、いくら組織を引き締めても、かえって反発されるだけだったような気がする。

それにしても、週刊文春の内田茂都議の特集記事は大変興味深かった。

「首領(ドン)」に成るための経緯というものを調べてみるのは、なかなか興味深い。

読売新聞のナベツネ(渡辺恒雄)に関しての「メディアと権力」(魚住昭)は大変面白かった。

それはさておき、池上彰の特番で、下村博文代議士が増田選対を代表してインタビューに答えていたが、最悪だった。

あまりにも「悔しさ」が前面に出過ぎていた。

小池百合子が、それこそとんでもない「食わせ者」であることが事実だとしても、あまりに彼女に対する嫌悪感をにじませてしまうと、かえって絶対的に「悪者」に見えてしまう。

まさに、小池百合子が選挙戦で「刷り込んで行った」、傲岸不遜な底意地の悪いオヤジ像を忠実に表していた。

小池百合子が自民党からの推薦を云々ということに関して、「手続き上の問題」と誤魔化そうとしたが、あまりに下手くそな嘘だった。

見ている視聴者は、「やっぱり自民党東京都連は闇が深い」と感じてしまったろう。

結局、そこなのである。

自民党東京都連の内輪の皮膚感覚と世間一般大衆の皮膚感覚の、あまりに大きな乖離。

まさに、そこを的確に衝くことによって、小池百合子は無謀とも思える選挙戦を圧勝で飾れたのである。

今後の小池百合子新東京都知事の動向は、不透明だが、それはさておいても、自民党東京都連は、あまりに「やり方」が不味過ぎる。

それは、先日の参院選東京地方区の自民党二人目の候補者選出の遅滞ぶりがそうであった。

幸い、朝日クンが若くてイケメンで長身だったから、彼自身のキャラクターで当選を勝ち得たから良いものの、これは自民党東京都連としては「責任問題」が浮上して当然過ぎるくらいの失態であろう。

内田茂都議は、「ドン」と云われるだけあって、なかなかのタマなんだろうが、どうも「喧嘩」が下手くそな感じを受ける。

むしろ、かの野中広務の方が、遥かに「喧嘩上手」だった。

そこらへんを書き始めると、長くなるので別の機会に譲る。

最後に、小池百合子東京都知事選挙圧勝を予想出来得なかった、自らの不明を恥じ、一言、お詫びを申し上げる。

「鳥越俊太郎」とは、はたして「何」なのだろうか?

「何者」では、ない。

「何」なのか?

勿体ぶらずに、いきなり結論から云う。

「鳥越俊太郎」とは「筑紫哲也のエピゴーネン(亜流)」である。

そもそも、彼がTVに出て来たのは、筑紫哲也がTBS系のニュース番組「ニュース23」のキャスターに決まったからである。

事実上、これは、TBSによる朝日新聞・テレビ朝日からの「引き抜き」だった。

何しろ、筑紫哲也は朝日新聞の編集委員だったのだから。

そこで、筑紫哲也は、テレビ朝日に於ける自分の「代役」として、サンデー毎日の編集長だった鳥越俊太郎を「引き抜いた」のである。

既に、TBSと毎日新聞グループは系列関係ではなかったが、まあ、「元をたどれば」ということでは、同じ「ムラ」ということに成ろう。

そこで、朝日と毎日の「トレード」のような形式に持ち込み、「恨みっこ無し」ということにさせた訳である。

で、鳥越俊太郎は、事実、テレビ朝日系列に於いて、「筑紫哲也のエピゴーネン」としての役割を果たした。

だが、時代は移り変わり、「筑紫哲也」そのものも病死してしまった。

ここで、TVに於ける左翼的文化人の典型であった、「筑紫哲也」とは何であったのかを問い直したい。

「筑紫哲也」は、弁舌に秀でていた訳でも無く、また当代随一の名文家でもなかった。

碩学というような大学者でもなく、「寸鉄人を制する」ような諷刺家でも評論家でもコメンテーターでもなかった。

ただ、彼はハンサムで、スマートで、人当たりが良かった。

つまり、「なんとなくいいひと」だったのである。

「多事争論」といった、自分独りの場合は、それなりに気の利いた感じに「絵」に成ったが、インタビューや討論といった他人との掛け合いに成ると、あいづちだけしか様に成らないような稚拙な応対しか出来なかった。

だから、筑紫哲也は、「同志」や「お友達」との「対談」しか満足に出来得なかった訳で、丁々発止のやりとり、敵対する相手と切り結ぶような緊張感の有る「仕事」は不可能だったのである。

だが、「神輿は軽くてパーが良い」と、かつて小沢一郎が海部俊樹を総理に担ぐ時に喝破したように、左翼陣営にとって、ハンサムでスマートなだけの筑紫哲也は大変扱いやすく、使い勝手が良くて、重宝がられたのである。

ところが、その「筑紫哲也」そのものが、或る面、忘却の彼方に消えつつある。

多分、今の20代の若者諸君にとって、何故、「筑紫哲也」があれほどまでに左翼人や世間一般大衆から敬慕されていたのか、さっぱり理解不能なのだと思う。

オリジナルの「筑紫哲也」が既に評価の対象にすら成っていない現在、そのエピゴーネンに過ぎない「鳥越俊太郎」が、その才覚などで評価され得ることなど有り得ないだろう。

但し、「大衆は馬鹿だ」(唐牛健太郎)から、「鳥越俊太郎」の「なんとなくいいひと」に、いまだに「眩惑」されてしまうのではないかと、自分は危惧していたのである。

ところが、平成28年の「大衆」は、「鳥越俊太郎」に飛び付かなかった。

彼の「本性」や実体を見抜いたのかどうか、それは定かではない。

しかし、少なくとも東京都民の多くは、彼を知事として選出することをあきらめたのである。

「鳥越俊太郎」の敗北とは、畢竟、現時点の左翼陣営全体の敗北である。

そもそも、「鳥越俊太郎」に、「結集」してしまったことの愚かしさを指摘せざるを得ない。

結局、左翼陣営が誇示出来る候補者は、現時点では、「鳥越俊太郎」が「最良」という体たらくなのである。

勿論、だからといって、いわゆる「保守派」が優れている訳でも無い。

要は、右も左も現時点の日本の政治に於ける「人材」が「払底」しているように見える、と云う「惨状」である。

勿論、「埋もれた人材」は存在している。

だが、そういった有能有意の人物が、政党や政治団体の「選択肢」の中に入って来ないということなのである。

つまり、「人を見る目が無い」と云うことなのだろう。

これは、とことんまで堕ち切らないと、この惨状から底を打つことは不可能なのかもしれない、が。

「ポケモンGO」がついに日本上陸。

端的に指摘させてもらうと、「仮想空間(バーチャル)の現実(リアル)化」。

違う表現ならば、「バーチャルとリアルの境界線の低下」か。

これは、大きな時代の転換点に成る予感がする。

既に、通勤電車内で、紙媒体の書籍や雑誌、新聞を読む人が皆無に成った。

もともと、日本で主流のブランケット版の新聞は、あの混雑した通勤電車内に於いては「大き過ぎた」のである。

だから、たたんで読むしかなかった。

けれども、スマートフォンでの電子版なら、いちいちページをめくったりする必要は無い。

いったん、電子化された活字を読むことに抵抗感が無くなったら、電子書籍への心理的抵抗は無くなるだろう。

電子書籍の最大の利点は、場所を取らないこと。

紙媒体の書籍に於いて、その蔵書は、場所を取る上に、重量が凄いことに有る。

その点、電子書籍は、いくら増えても、タブレット端末のみ。

あとは、ディスプレイによる眼への負担の問題が残る。

まだまだ、紙媒体に比較して、眼に対しての負担は大きいと思う。

長期間、長時間の読み込みの結果、疫学的にどのような結果が出るのか。

どちらにしろ、確実に、あらゆる「モノ」と「コト」がデータ化される傾向に拍車がかかろう。

データ化された映像や音声などは、いずれ、サングラスのような端末に表示される形と成り、まぶたの瞬きや視線の移動などを補足することで、現在の「クリック」やキー入力に相当する動作を担うことに代わろう。

究極的には、脳内へ直接インターネットがアクセスする、人間の個体の脳の「電脳化」であろう。

だが、そうなった時の、「ハッキング」や「ウィルス」の問題は、「人格」の操作や破壊、つまり「洗脳」と違いが無くなるだろう。

どうも、技術の進歩があまりに速過ぎるように感じる自分は、やはり「時代遅れ」なのだろうか?

まだ、今月は、あと5日間残っているのだが、既に、先月の稼ぎと今月の今日(26日)までの見込みの稼ぎを比較すると4万円強も違うことが判明。

この分だと最終的には、7万円くらい違うことに成るかも。

派遣社員の所得の如何に不安定なことか。

やはり、派遣社員の身分ならば、「人生設計」は不可能だと思う。

平成28年7月24日、25日と新聞各紙の東京都知事選挙の情勢調査が出た。

各紙、ほとんど傾向は同じ。

1、首位は小池百合子

2、僅差で増田寛也、鳥越俊太郎が追う

3、自民・公明支持層では増田が小池を逆転、もしくは並ぶ

4、小池は無党派層の支持が一番多い

5、当初、無党派層の支持が見込まれていた鳥越は苦戦

平成28年7月19日の別記先述した拙文に書いた通り、ここまで小池百合子に人気が手中するとは想定外だった。

小池百合子への支持の高まりは、選挙戦終盤に成ってからも衰えを見せない。

かわりに、7月21日発売の週刊文春の醜聞記事の影響で、鳥越俊太郎が失速している。

また、増田寛也が、徹底した「組織固め」の選挙でもって、自民党と公明党の支持層を固めて来た。

多分、公明党支持層は、最終的には八割方、固め切るであろう。

問題は、自民党支持層で、自民党東京都連としては「増田」なのだろうが、国会議員や地方議員の「後援会」などに関与しないものの、世論調査に於いては「自民党支持」と表明している有権者は、自民党党員でない「増田」よりも自民党の代議士だった「小池」の方に馴染みが有るのである。

自民党支持層では、最終的には、その6割弱を「増田」、3割強を「小池」で分け合うのではなかろうか?

問題は、いわゆる「無党派層」で、「小池」がダントツで、「鳥越」がそこそこ。

「組織内候補」の「増田」は、からきしのようである。

やはり、弁舌の上手さでは小池百合子がダントツである。

しかし、「手堅さ」では、増田が評価出来よう。

その点、日増しに、鳥越俊太郎の駄目さ加減が露呈して来た。

結局、鳥越は、数秒間のTVワイドショーの「コメンテーター」のコメントしか話せない能力の持ち主であるということである。

例えば、

「やっぱり、待機児童を減らすには、介護職員の数を増やさないと。」と云うコメントは出来る。

だが、その後に、「では、具体的に、どういう政策でもって実現していくのか。」と云った段階に成ると、とたんに黙りこくってしまう。

つまり、たった数秒間の「コメント」だけしかひねり出せない頭脳なのである。

あとは、ひたすら「愛嬌」で勝負するしか、ないwww

これでは、あまりにも「神輿」が「軽過ぎる」のである。

現に、我が母は、頑固な左翼で、先日の参院選では、地方区では民進党の小川敏夫に、比例区は福島瑞穂に投票するような、何とも救い難い程「香ばしい」御仁である。

だが、そんな母をして、「どうも鳥越さんじゃあ・・・」とすっかり呆れている。

勿論、それでもなお、投票の際には鳥越に入れるだろうが、少なくとも他人に熱心に勧誘する意欲は無くなっている。

これは非常に重要なことで、当初、「鳥越」支持層とみられた人々の半分近くは、あまりの愚かしさに呆れ果てて、投票する意欲を無くしてしまったのである。

だから、例え、自分は投票しても他人へ勧誘することはしないだろうし、自分自身も棄権してしまうかもしれない。

「鳥越」陣営は、いわゆる週刊文春の「女子大生淫行」記事の悪影響だと激怒するだろうが、これは「駄目押し」に過ぎない。

それ以前に、ろくに街頭演説も出来ないような「無能」さを露呈したことが、「失速」「苦戦」の本当の理由だろう。

選挙戦終盤戦に入って、ようやく、街宣の数を増やしたが、ある日などは、一日に2回しか街頭に立たない日も有った。

選挙戦で街頭に立たない候補者で当選出来たのは、かつての青島幸男やコロンビア・トップぐらいで、後は皆無だった。

「関係者へ挨拶回りをしていた」などと言い訳しているが、そんなことは候補者がやるべきことではない。

選対の然るべき責任者が、きちんと挨拶回りをすれば良いことであって、候補者はとにかく人前に晒されなくては、全く意味が無い。
今回の東京都知事選挙で、痛感したのは、「1足す1が2に成らない」と云うことである。
つまり、鳥越俊太郎にしても、増田寛也にしても、政党や組織が寄り集まって、広範な支持母体を形成した筈にもかかわらず、実際は、「1足す1が0.8」ぐらいに成ってしまっている「惨状」である。
誠に、ここが選挙の難しいところである。
鳥越俊太郎は、いわゆる「無党派層」への支持が伸び悩んでいるので、ついに「組織」を固める戦略を取り始めたようである。
だが、共産党支持層は固められるが、民進党支持層はどうだろうか?
労組の「連合東京」が支持しなかったことは、ここに来て、ボディブローのようにジワジワとダメージに成っていると思う。
増田寛也は、選挙最終日まで、とことんまで「組織の引き締め」に尽力するだろう。
当然、小池百合子への「票」は切り崩されていくだろう。
ただ、その減った分を、小池百合子は、「無党派層」の支持獲得で補填している。
それゆえに、小池・増田・鳥越の三者が拮抗しつつ有り、その勝敗はどうなるかのか、皆目見当がつかない。

そこで、迷いに迷い、悩みに悩んだ自分は、選挙の投票先を、こうすることに決めた。

まず、投票は「期日前投票」をしないで、投票日に投票する。

そして、夕方に成ってから、投票率の数値を見て、投票する候補者を決めることにする。

投票率が上昇すれば、小池百合子に勝機が有るので、自分も小池百合子へ入れる。

だが、投票率が頭打ちに成るのであれば、固い組織の増田寛也へ入れる。

いやはや全く、苦労させられますわいwww

あまりに体調が絶不調なので、ついに近所の診療所へ駆け込んだ。
すると、診察結果は「夏風邪」。
どうりで、駄目な筈である。
昔から、「夏風邪は馬鹿がひく」と云われている。
まあ、自分が馬鹿であることは、先刻承知であったのだが、ちゃんとそれが実証されてしまった。
まあ、喜んでwwwばかりはいられない。
仕事を休む訳にはいかないので、誠に申し訳無いが、風邪が治るまで、ネットを開かないことにしようと思う。
もう、馬鹿で馬鹿でしょうがないから、ネットを開くと、ついつい、余計なことを書いてしまうのだ。
「馬鹿の考え休むに似たり」であるし。
多分、都知事選も、もう、これ以上「激変」はしないだろうし。
何も書かなくても良さそうだし。
と云うことで、しばし、不義理をさせていただきたく。
何卒、皆様、ご容赦の程。

もう二度と書きたくない「文章」が有る。

会社の昇格試験の小論文である。

この、会社の昇格試験の小論文と云うのは、全く自分の性分に合わない。

何故なら、徹頭徹尾、この文章を読む人間のことを念頭に於いて書かなくてはいけないからである。

そもそも文章というものは、人間同士の意志の伝達手段であるから、それが当然と云えば当然なのであるが、日本に於ける会社の昇格試験の小論文というものはそれが極端なのだ。

会社の昇格試験の小論文というものは、いくつかの設問、例えば「新規事業の今後の展開について述べよ」と云ったテーマに沿って文章を記述することである。

しかし、個人的な見解というものは、全く要求されていない。

既に、会社側、経営陣が「模範解答」を決定している。

だから、会社側、経営陣が欲しがるような文章表現でなければ、全く意味を為さない。

論拠として記載する事柄、小論文全体を印象付ける重要語句、そして論理展開と結論に到るまで、全て事前に事細かく決まっているのである。

後は、会社側、経営陣が、目に掛けている「優秀な」幹部候補生たちに、それとなく、

「昨年の経産省の経済指標のデータを引用しろ」

「『経営の効率化』『選択と集中』『キャッシュフローの健全化』は絶対に記載しろ」

こういった「ご指導」が内々に為されるのだ。

つまり、事前に「社内力学」に通じた上司に認められない限り、こういう「ご指導」は、まず受けられない。

だから、経営陣や人事とのコネクションが無い、ごくごく「普通」の社員は、どういう風に小論文を書いて良いのか、皆目見当がつかないのである。

事実上、この、会社に於ける昇格試験の小論文の選考基準は、試験実施の前段階で、ほぼ「決定終了済み」なのである。

後は、与えられた情報や上司からの示唆によって、どれだけ適格な文章表現が出来るかどうかということだけである。

このことに気が付いてから、自分は、全く社内の昇格試験に対して関心が無く成ってしまった。

この小論文の選考で決定的なのは、突飛で独創的な人間は徹底的に排除される、ということである。

「規格合格品」の人材しか、絶対に昇格出来ない。

能力も学歴も振るわない自分にとって、金輪際、昇格や昇進など無縁であると痛感した。

 

自分が書いて来ている「文章」は、ほぼ全て、他人を勘定に入れて書いていない。

ならば、何を意識して文章を書いているのか、と問われれば、それは自分自身である。

自分が書きたいことを書き、読みたいものを書く。

ただ、それだけである。

だから、自分の目で見て、評価に耐えられないような文章ならば、それは全部破棄してしまう。

結局、自分自身のみを評価基準として文章を書いているので、誠に以て「独り善がり」であると云えよう。

だが、それは致し方無いのだ。

何故なら、自分の拙文には「お客」が一人もいないからである。

勿論、文章を書き、ネットで公表をしている訳だから、「読者」という存在は有る。

だが、自分は、その方々からビタ一文頂戴していない。

まあ、一円の値打ちも無いような代物なのだから当然至極なのだが、「おひねり」一つも飛んで来ない以上、自分の好き勝手に書き殴っていて、何が悪いのだ。

これは、敢えて偽悪ぶって書いている「理由」であるがwww

本当のところ、文章にしろ、何にしろ、「表現」というものは、或る特定の人物を思い定めたかたちでなければ、結局、意味を為さないと自分は思うのである。

いわゆる不特定多数の、民衆とか、国民とか、子供達とか。

そんな曖昧模糊とした「対象」を意識して「表現」したところで、そんなもの、中途半端なピンボケの代物にしか絶対に出来上がらない。

むしろ、特定個人を想定して「表現」した方が、遥かに「伝わる」のである。

宮澤賢治の詩集「春と修羅」の中の絶唱、「永訣の朝」は、今まさに逝こうとする最愛の妹へ向けられた「言葉」であった。

この「永訣の朝」を記した時、宮澤賢治の脳裏には、愛する妹以外、誰も存在し得なかった筈である。

しかしながら、あくまで「妹」という特定個人に向けられた「言葉」であるがゆえに、著しく普遍的な説得力と共感を我々に与えることが出来得たのである。

また、英霊の御遺書が、肉親に宛てた「私信」に過ぎないのにもかかわらず、読む人の万人の胸を打つのは何故なのか?

或る特定の「個人」に焦点を絞り切ることによって、多くの人々の共感を得さしめるのである。

これは、他人に限らない。

自分自身という、或る特定の「個人」に徹底的にこだわり抜いた時、それは結果として単なる「独善」の枠を凌駕するのである。

自分に関して云えば、この世の中には、自分にそっくりな顔かたちの他人が二人居るという。

それと同様に、自分の趣味趣向に共感してくれる人間も、10人くらいは居るかもしれない。

だから、その、たった10人ぐらいの他人のみを対象に、自分は拙文を書いているのだ。

まあ、そのせいで、何時まで経っても自分は文章が上達しないのである。

ただ、これもそれも、一介の派遣労務者風情の手慰みに過ぎないので、どうか今後も、一笑に付して甘受して下されたい。

中山良昭先生のFBの書き込みに触発されて。
青森県の「じょっぱり」がさらに強烈に成ると「ごうじょっぱり」に成ります。かの歌手の淡谷のりこ先生や版画家棟方志功画伯の生涯を見れば一目瞭然です。特に棟方志功は「わだばゴッホに成る!」と自らを鼓舞し続けて、世界的な評価を得ました。なお、太宰治、寺山修司、伊奈かっぺいも。この三人は情熱的というより、なんだかスマートな感じ。ちなみに、同じ青森県でも、八戸と弘前などの津軽は、南部藩と津軽藩で異なります。戦国時代に、かつて南部氏の配下だった津軽為信が造反し、独立。いち早く、豊臣秀吉に恭順を示して「本領安堵」を得た。その経緯から、ひそかに豊臣秀吉の像を祀り、関ヶ原で敗北した石田三成の遺児をかくまいました。自分もかつて青森県で仕事に伺った時、八戸の方に、「津軽とは仲、良くないんだよねー」と。地方に行くと、歴史的な人間関係が強固に残って居ることが有ります。そう云う面で、東京もんは、歴史に関して鈍感な感じを受ける時も有ります。

昨日は終日、雨模様だった。

雨合羽を羽織って、懸命にお仕事をさせてもらった。

約10時間、雨天にもかかわらず汗だくで働き、クタクタに成って帰宅した。

帰宅して、何とは無しに、TVを見ていたら、「クローズアップ現代プラス」が始まっていた。

思わず見入ってしまった。

昨日、平成28年7月21日の放送は、「若者に広がる個人請負」という内容だった。

現在、日本に於ける雇用の状況は、約38%がいわゆる「非正規雇用」であると云う。

「非正規雇用」は、低賃金で身分が不安定であり、この状況である限り、持ち家など絶対に不可能であるし、結婚して子育てをすることさえ非常に厳しい。

だが、昨日の番組を見て、「非正規雇用」の方がまだ恵まれていると感じてしまった。

「個人請負」とは、いわゆる「個人事業主」である。

つまり、企業と「雇用関係」に有るのではなく、「業務請負」という「外注取引先」という形態である。

そうなると、「労働者」ではなくなるのだ。

「個人事業主」ということに成れば、「組織」の管理の下に入る訳ではないので、裁量権が増す。

つまり、時間や収入に於いて「自由」であると云える。

だが、「自由」と云う美名の裏には、「保護されない」という一面が有る。

つまり、「組織」に管理・拘束される代わりに保護されるのだが、フリーランスの「個人事業主」は保護の対象外とされるのである。

つまり、「自己責任」である。

この労働問題に対して「自己責任」という語句が用いられた場合、ほぼ全て資本家もしくは発注者側の「合理化」なのである。

つまり、業務従事者の「使い捨て」、賃金の抑制を「正当化」するための「屁理屈」である。

確かに、「個人事業主」による「個人請負」ならば、時間も収入も裁量権が自由だ。

しかしながら、個人と組織、特に大企業と「交渉」する場合、圧倒的に個人は弱い立場に成らざるを得ない。

「あなたの代わりは他にも幾らでも居るのだから。」と云われて、「契約」の条件はどんどん大企業側の都合に沿うかたちに押し切られてしまう。

結局、低報酬・重労働・長時間の条件を飲まされることに成る。

さらに、「雇用」関係ではない、事業者間の「契約」なので、一方的に「契約解消」に踏み切られても、現法制度では救済されることがほとんど無いと云う。

この「労働者」ですら、無い、というところに現在の就労状況が移行しつつあるというのは、なんと狡猾なことであろうか。

つまり、いわゆる社会主義運動などによって取り組まれて来た「労働運動」は、大きな転換点を迎えたと云って良かろう。

既に、日本の労働界、つまり労働組合運動に関しては、正規雇用者の割合の激減と非正規雇用者の割合の激増によって、事実上、その「成果」が限定的なものに貶められてしまった。

つまり、戦後の労働運動によって勝ち得て来た労働者の諸々の「権利」は、あくまで「正規雇用者」つまり「正社員」であることが前提であった。

ところが、資本家側が「非正規雇用者」の割合を激増させてしまったため、労働者の「権利」を保障される人々は、極めて限定的に変えられてしまったのである。

現に、派遣労務者である自分には、有給休暇は無い。

雇用保険には加入しているが、年金も健康保険も国民年金と国保である。

納税も給与からの源泉徴収ではなく確定申告である。

これは、「労働力は必要だが、組織の構成員としての面倒は見たくない」という企業側にとって、誠に好都合な形態なのである。

そして、その企業側の「ご都合主義」は、今や「非正規雇用」ですら煩わしくなり、「個人請負」というかたちに向かい始めた。

「個人事業主」と云うかたちに成ると、日本に於ける労働組合の主流である「企業別労働組合」にとっては「対象外」に成ってしまう。

まだ、パートやアルバイト、契約社員や派遣社員ならば労使交渉というかたちで関与出来るが、「個人事業主」ということに成ると「企業別労組」では対応出来ない。

「個人事業主」と云うと、「フリーランス」ということに成るが、この表現だとあまりにスマートな印象を与えるので、経営コンサルタントやライターなどの「今時(いまどき)」の「おしゃれ」で「インテリ」のイメージを持ってしまいがちである。

だが、我々に馴染みの有る「個人事業主」の表現は「ひとり親方」だろうwww

いわゆる個人の職人さんだ。

つまり、落語に登場する「熊さん八つぁん」である。

よく「江戸っ子は宵越しの金は持たない」と云われたが、それは「江戸」という都市の特殊性から来ていた。

徳川幕府という「軍事政権」の「首都」であった江戸は、各「大名」という独立した「軍団」が多数「駐屯」する「都市」であった。

そのため、都市の多くの割合に於いて「大名屋敷」が占める割合が高く、「都市住民」である「町民」は、その「大名屋敷」などから除外された、ごくごく限定的な地域へ押し込められるように居住するしかなかった。

しかも、元来が湿地帯であった過疎地帯であったのを、埋め立てや護岸工事など短期間で人工的に整備した「都市」であった。

そのため、いつもどこかで「普請中」つまり、工事中の都市であった。

当然、建設労働者が流入してくる。

だから、個人の大工や職人は、常に仕事が有って、しかも当時は「月給制」ではなく、「日払い」だったのである。

だから、その日に稼いだ金は、その日のうちに使い果たしてしまっても、明日に成ってまた工事現場で働ければ、ちゃんと日銭が入って来たのである。

さらに建設労働者は、ほぼ男性であった。

男性が日中、重労働で疲れ切っているのだから、食事などまでなかなか手が回らない。

当然、そういった職人相手の飲食産業が求められる。

そこから、居酒屋、寿司、蕎麦、天麩羅、といった日本の「ファーストフード」が誕生していくのである。

そして、「板前」という個人の職人が誕生し、また飲食業の原材料を提供する八百屋や魚屋が必要と成る。

「一心太助」や落語の「芝濱」の主人公といった個人の魚屋が江戸市中に多数存在した訳である。

そう考えると、我々の労働環境は、今まさに江戸時代まで引き戻されようとしているのである。

「宵越しの金は持たぬ」と聞くと、江戸の庶民は能天気でお気楽な身分だったような誤解をしがちだが、実はそうではなかった。

江戸の庶民には庶民の深刻な悲哀が存在していた。

また、木造住宅が密集していたこともあり、火事も頻発した。

皮肉にも、その頻発する江戸の大火が、恒常的な工事をもたらしてもいたのだが、焼け出された人々の苦難は筆舌に尽くし難い。

さて、平成の現在に話を戻すと、この「個人請負」の隘路に嵌まっているのは、圧倒的に若者たちであるという。

これは、あらゆる職場が若年層の労働力を希求しているからである。

また、若者は知識も人脈も乏しいので、「個人請負」の残酷な面が解らない。

更に、日本社会全体を蝕む「貧困化」が拍車をかけている。

自分が衝撃的であったのは、多くの有名大学の学生が風俗業界の「個人請負」に手を染めているということであった。

TV番組には某有名大学のバイオ工学(生命科学)を研究している大学生がホストで働いているというレポートだった。

自分も農学部だったので解るのだが、理科系の大学生は実験や実習などで長時間「拘束」されるのである。

つまり、部活動・サークル活動、遊びやバイトに時間を費やす余裕が無いのだ。

実験は、その準備などを含めると丸一日かかることもざらだし、実験室に泊まり込みに成ることも有る。

また、ちょっとしたコンタミネーション(汚れ)などの些細な手違いから、実験結果が「失敗」することが有る。

そういった場合は、原因を解明したのち、再度、実験をやり直さないといけない。

さらに、実験が無事に終了した後も、出て来たデータを計算し、解析し、そこから何らかの「報告」を導き出さないといけない。

また、実習の場合も、サンプルの採取に長時間を必要とする。

調査目標とする「物質」を採取する場合も有るし、「現象」を観察してデータを採取する場合も有る。

これも地道で愚直な作業である。

だから、ひとくちに「大学生」と云っても、文系と理系では、その「自由時間」には大差が有るのだ。

(ちなみに、そんな「多忙」な農学部大学生だったのに、サークルの「会長」もやり、各サークルの連合組織である「文化部連盟」の事務局長もやり、大学学部祭のスタッフの幹部もやって、さらに吉本隆明、カール・シュミット、網野善彦、呉智英、福田恒存、白川静、宮崎市定、立花隆などを読みふけり、池袋の名画座の文芸坐にも通いつめ、世田谷観音(特攻観音)・児玉神社・池上本門寺・中山法華経寺など神社仏閣を巡礼しまくっていた。

やっぱり相当「異状」だと、我ながら思うwww)

だから、理科系の大学生がごくごく短時間で高収入を得ようとするのならば、「夜の街」で働く術しか選択肢が無いのだ。

さらに、いわゆる「風俗業」は、自前で寮を完備していることが多いという。

つまり、短時間・高収入である上に、居住環境まで対応してくれる「アルバイト」と云うのは、本当に「貴重」なのだ。

だが、「ホスト」で精勤した挙句、急性アルコール中毒で、わずか21歳で命を落とした大学生も既に居たと云う。

よく、日本は天然資源に乏しいと指摘される。

その代りに、日本国民の勤勉さと優秀さでもって挽回していると云う。

だが、バイオ工学(生命科学)の研究に真剣に打ち込んでいる大学生が、「ホスト」で苦手な飲酒を無理やり自分に課しているという現状を見て、もう「この国」は本当に駄目に成ってしまったと悲嘆にくれざるを得ない。

この、現在、「ホスト」としてもがいている若者は、ひょっとしたら、将来、ノーベル賞受賞科学者に成っているかもしれないのだ。

勿論、あらゆる艱難辛苦を乗り越えて、めでたく栄誉を掴めれば良いのだが、それこそ苦手な飲酒で心身を破壊され、若くして早逝するような結末を迎えてしまったら、それは日本という国家、社会全体の重大な損失であろう。

若者たちを低報酬・重労働・長時間の隘路に追いやるような国家や社会に、明るい将来など絶対に有り得ない。

自分のような、40過ぎて、いまだに何の評価も無い、無能なポンコツは、或る面、最早諦めがつく。

だが、二十代、三十代の若者たちが、ただ単に働かされ、個人の能力や技術の習得や練磨の機会さえ与えられなければ、それは、国家、社会の責任問題であろう。

国家や社会や企業などの組織が、その維持継続や発展拡充を目指すのであれば、若者たちに対して、こんな仕打ちを許してしまってはいけない。

これは、現時点の瞬間的な暴利を得ることは出来るが、その後は破綻と衰亡が絶対的に用意されている。

何故、金の卵を産むガチョウをバラそうとしているのだろうか?

「この国」の知的劣化は、本当に極まってしまった。

さて、こんな「個人請負」の「個人事業主」の味方は、全く皆無なのかと云うと、実はそうではない。

さすがに、ホストや個人のマッサージ師、個人の運送業者の支援組織は、自分は寡聞にして知らないが、いわゆる「ひとり親方」の職人さんに対する支援組織は知っている。

かつての全日土建の「全日本建設交運一般労働組合」である。

これは、建設業の「ひとり親方」の職人さんに対応するために、一人でも、失業者でも加入が出来る労働組合である。

実は、自分の知り合いで、熱心な自民党の支援者がいるのだが、その人もこの労組に入っていると云う。

その理由は、この労組の共済制度が他の共済と比較に成らないくらい手厚いそうなのだ。

ただ、この建交労は、ゴリゴリの日本共産党傘下の労働組合なのである。

日本共産党傘下の労働組合ナショナルセンター「全労連」の中核労組であり、この労組単独で、「憲法9条を守れ!」と云った政治活動も極めて活発かつ情熱的に行っているのである。

よく、ネトウヨが「なんで、ブサヨの共産党へあれだけ得票が有るのだ?」と愚痴っているが、まさに「愚痴」である証しなのであるwww

日本共産党へ投票する人の多くは、(と云うより、今やほとんどだろうが)マルクス・レーニン主義、ボルシェビキズム、科学的社会主義の左翼イデオロギーに心酔しているからではない。

県営住宅や市営住宅への入居の面倒や、生活保護申請への手ほどきなどをしてくれた、「一宿一飯の恩義」で投票しているのである。

また、それを「入り口」として、党員や活動家としてリクルートしているのである。

あとは、個人一人から加入出来る労働組合としては、「一般労組」が有る。

連合系、日本共産党傘下の全労連系、社民党支持の全労協系のそれぞれ、計3団体が存在する。

で、全労連や全労協が、強烈な左翼であることは一目瞭然であるが、問題は連合系の「一般労組」である。

何と!官公労の「自治労」の傘下なのである!!!

それこそ、日本社会党・総評の頃から、日教組と並ぶ、左派労組の双璧である自治労。

旧・民主党、現・民進党に於いても左派的な影響力を及ぼしている自治労の下に「一般労組」は所属している。

と云うことは、いわゆる個人の資格でもって、労働問題や貧窮に悩んでいる人々を救済してくれる組織は、ことごとく「左翼」であるという現実である。

今後、「個人請負」の身分で困窮する若者が増大すれば、それら「一般労組」へ助けを求め、ついには加入していく若者も必然的に増大していくだろう。

当然、政治的スタンスは「左翼」に成らざるを得ない。

もう、あらゆる面で、「この国」はどうかしている。

本当に救い難い。

嗚呼!!!

東京都知事選挙に関しては、親しい方々が二つの陣営に分かれてしまっているので、コメントするのが悩ましい。

と云うことで、選挙後まで、もうダンマリを決め込むつもりであったが、週刊文春の「炸裂弾」のせいで、そうも云っていられなくなった。

週刊文春の最新号で、鳥越俊太郎が、かつて女子大生と淫行に及んだと云う醜聞が素っ破抜かれた。

平成28年7月21日の夕刊紙各紙はこの鳥越候補淫行醜聞がトップの見出しである。

22日のTVのワイドショーでも、取り上げられることとなろう。

これは、強烈である。

特に、鳥越俊太郎という「候補者」の特質から云って、致命的なダメージである。

鳥越俊太郎という「候補者」の最大の特質は、「なんとなくいいひと」だった。

だから、政策通でもなく、知性の鋭さでもなく、雄弁さでも、頭の回転の速さでもなかった。

ひとえに、彼の「人間性」そのものが、最大の「売り」だったのである。

ところが、ここ最近ではなく、だいぶ以前の話であるとはいえ、女子大生に淫行に及んだということに成れば、「なんとなくいいひと」が実は「好色魔」であったということに成ってしまう。

舛添要一のあまりにせこ過ぎる「金銭使い込み」もげんなりとさせられたが、「淫行」とは。

二の句が続かない。

まだ、週刊誌の「疑惑」記事に過ぎないとも云えるが、それにしても鳥越候補も選対も、あまりに対応が稚拙である。

弁護士を立てて法的に訴えたというが、それでは世間が納得などする筈が無い。

記者会見を開いて、正々堂々と釈明をするべきだろう。

と云うより、ここで、どういった「記者会見」などのマスコミ対応が出来るかによって、候補者と選対の真価が問われて来る。

もっと指摘させてもらえれば、やりかたによっては、この醜聞と云う負のダメージを「反転攻勢」に切り替えることも不可能ではないのだ。

だが、鳥越俊太郎という人間は、そういった「伸るか反るか」の大舞台に耐えられるだけの頭脳と度胸がからきし駄目なのである。

現に、ただの街頭演説でさえ、まともにこなせず、グズグズのグダグダの体たらくなのである。

選対は、「ここまで人前に晒せない、どうしようもないタマだったのか!」と頭を抱えていることだろう。

その上に、さらに追い打ちをかけられたのである。

選挙戦の真っ最中でありながら、衆目に晒せないような無様な惨状と成ってしまった。

これは、予想外の「ブレーキ」であろう。

鳥越俊太郎は、「拒否感」を持たれたら、即アウトに成る候補者なのである。

嫌われていても、逆に、応援する支持者が興奮して士気が上昇するような、そう云う候補者とは程遠い。

いよいよ、小池百合子に「勝機」が出て来た。


一方、我が家の固定電話の留守録に、増田陣営からのメッセージが吹き込まれていた。

いよいよ自民・公明の「組織」がフル稼働して来たようである。

徐々に、増田ナントカの認識度が上がっていくことだろう。

さらに、都議会議員補欠選挙もはじまるので、4つの選挙区では、各都議候補が「鳥越」「増田」の名前を上げて行くと、「小池」が相対的に沈むことになる。


いよいよ都知事選挙の行方は混沌とし、全く先行き不透明に成ってしまった。

嗚呼、悩ましい、悩ましい。

 

 

どうも、ネットでの自分の知り合いの多くが、相次いで「小池支持」を表明し、その中には小池選対にも参画していく模様。

ここまで来たら、自分は、それに対しては批判はしない。

しかしながら、自分は、小池百合子という「人間」に対しての不信感が払拭出来ない。

だから、現時点で、支持も支援も出来ない。

皆様は、「外国人参政権」などの政策に関しての「理由」に小池支持を要請して来られる。

確かに、「文字」でもっての各候補者の「政策」を比較するのなら、結論として「小池百合子」なのだろう。

だが、都議会自民党と正面対決を標榜しているような感じでは、その実現性は薄いと感じる。

いたずらに「都政」が混乱するだけのような気がする。

かといって、やはり、「ますだおかだ」へ入れるのも抵抗感が有る。

まだ、選挙期間は約10日も有る。

その間に、選挙情勢がどうなるか、まだまだ予断を許さない。

ちなみに、自分は、自民党の某都議会議員の先生と懇意である。

だから、今回は、政策云々ということよりも、「義理と人情と浪花節」wwwが絡むので、小池選対に支援に入ることは、絶対に有り得ない。

ただ、自分の票を、誰に投じるのか、それはギリギリまで見極めてから決めようと思う。

自分は、ここ十年来、全ての選挙で「期日前投票」だった。

つまり、選挙告示日の時には、既に投票先が明確に決まっていたのである。

だが、今回の都知事選は、本当に本当に悩ましい。

むしろ、単純明快に、「小池が良い」「増田が良い」と云い切れてしまう方が、自分は変だと感じる。

と云うことで、現時点では、余程の事が無い限り、今後、都知事選に関して記述することは差し控えようと思う。

昨日は蒸し暑かった。

ジリジリという灼熱地獄ではなかったものの、酷暑であった。

もう、ヘロヘロである。

とは云いつつ、選挙戦たけなわの都知事選に関して、コメントしないわけにはいかない。

こういう時事ネタは、時機を逸すると、全く味気無くなるし、何よりも意味が無く成る。

実は、書きたいネタは、もう8つ程有るのだが、それらは特段、只今記す必要性が無いので、「寝かせて」いる。

とは云うものの、寝かせ過ぎて、すっかり忘れてしまう可能性も有るのだがwww

 

平成28年7月18日月曜日「海の日」。

産経新聞と毎日新聞が、大手新聞各紙に先駆けて、都知事選挙の序盤情勢の世論調査の記事を掲載した。

19日は「新聞休刊日」なので、20日ぐらいには、朝日や読売、日経あたりが各社世論調査を発表するだろう。

産経も毎日も、「小池リード」もしくは「小池、鳥越競い合う」で、「増田猛追」と成っていた。

つまり、現段階に於いて、小池百合子が「一番人気」であるという調査結果が出た。

自分は、散々、「小池百合子へは支持が集まらない」と書いて来たのだが、こういう調査結果が出た以上は、自らの不明を恥じて、一言お詫びを申し上げたい。

よく、玄人や事情通が、なまじ知識や情報を持ち過ぎているがゆえに、かえって世間一般大衆の動向をつかみ切れない「過ち」を犯すことが有る。

つまり「玄人ゆえの間違い」なのである。

自分は、玄人でも事情通でも無い、単なる「選挙オタク」に過ぎないのだが、まあ、世間一般大衆よりかは、多少、いっぱしのことを云える者である。

だが、明確に、今回の都知事選に関しては都民有権者の動向を読み間違えた。

このことについては、よくよく猛省をし、自己点検を行いたいと思う。

ただ、世論調査の結果が出てから、後付けでもって、「小池百合子一番人気」の根拠を述べさせてもらうならば、二つ。

一つ目は、自民党東京都連の油断と傲慢から来た「ノーコメント」が、世間一般大衆からの小池百合子への「判官贔屓(ひいき)」を生んだ。

つまり、小池陣営は、自民党東京都連の「決定」や都政運営の「見えにくさ」を声高に指摘したのだが、それに対して反駁せずに、黙殺したことが、かえって東京都民へ小池百合子側の主張の信憑性を与えてしまったのである。

二つ目は、増田ナントカが、候補者として、あまりに影が薄かったということだろう。

人間的にはそつが無くて、実務家なのだろうが、やはりインパクトに欠けるのである。

現に、自分でさえ、いまだにこの人のフルネームが思い出せないwww

このままだと、投票用紙には「ますだおかだ」って記名してしまいそうだwww

まあ、「ますだおかだ」だったら、有効票に成るかもしれないが、「まえだまえだ」まで到ってしまうと無効に成るだろうwww

それはさておき、現段階では、いわゆる自民支持層には、増田ナントカの名前が全然浸透されていないので、知名度の高い小池百合子に流れたと云えよう。

この世論調査結果を受けて、小池百合子支持の方々は「それ見たことか!」と欣喜雀躍されたことと拝察する。

だが、これで「めでたし、めでたし」に成らないのが、今回の選挙の大変辛いところである。

自分は、既に別記先述した通り、増田陣営は「組織」が担いだ候補である。

「組織」が担いだ以上、人気や支持率が劣勢であっても、それでもって「心が折れる」ことは、ない。

むしろ、これから、しゃかりきになって、「組織」を引き締めて、フル稼働させるのである。

特に、「都議会解散」を表明したことにより、また、来年6月に選挙を迎えるため、都議会議員各位は、知事選が、文字通り「他人ごと」では済まなく成ってしまった。

ここで、意地でも増田ナントカを当選させないと、今度は自分達に火の粉がかかる、と危機感を覚えたのである。

全力で選挙戦に走り出すだろう。

当然、系列の市町村議員も動き出す。

「組織」の選挙戦の特色は、候補者本人の良し悪しで投票行動が決まらないことに有る。

例えば、仮に、自分が「組織」内候補として、選挙に担ぎ出されたとしよう。

系列の地方議員や「先生」と呼ばれる各業界や地域の「名士」が、走り回るのである。

そして、「どうか、こいつを当選させて欲しい。自分の顔を立たせて欲しい。」と頭を下げて回るのである。

すると、地方議員や名士の方々に依頼された有権者は、「候補者については何も知らないけれど、○○先生への義理や付き合いが有るから」と云う理由で、投票行動を決めてくれるのである。

で、こういう「組織」を固める選挙と云うのは、「組織」が稼働するまで、或る程度、日数が必要なのである。

ちなみに、都知事選は2週間以上選挙期間が有って、実は国会議員の衆議院議員選挙よりも長いのだ。

だから、「組織」がフル回転するまでの猶予期間は、他の選挙に比べて、有ると云えば、有るということに成る。

しかしながら、わずか2週間余で、増田ナントカの名前を周知徹底させることが可能かどうかは、判断が難しい。

ただ、小池百合子が、マスコミなどの「空中戦」で「組織」に影響されない有権者の票を集め、一方で、増田ナントカが、徹底して「組織」票を固めた場合、自民・公明などの与党支持票が、ほぼ二つに等分されてしまう可能性が有る。

小池百合子が、無党派層、浮動票の大部分を取り込んで、鳥越、増田を圧倒出来れば、当選が見えて来るが、必死の形相で「組織」を固める増田ナントカが自民・公明の「組織」とは無関係な与党支持票を「奪還」するようになると、小池百合子への得票が目減りすることに成る。

最悪の場合、僅差で小池が鳥越に競り負けることも可能性大である。

小池陣営としては、都議会自民党や自民党東京都連への「批判」が、支持率トップの要因であったことから、今後も、その批判のボルテージを下げることは無いだろう。

だが、その「攻撃的」な姿勢は、都議会自民党に対して「怨念」「怨恨」を派生させてしまう。

これが極まると、都議会議員選挙に於いて、小池派の新党を立ち上げ、各選挙区に候補者を擁立する事態と成る。

これは、かつて橋下徹大阪府知事が、知事支持派の自民党府議5人と共に地域政党「大阪維新の会」を結党した先例を彷彿とさせる。

だが、「大阪維新の会」への大阪府民の「支持」は、現況の大阪に対するどうしようもない絶望感と閉塞感から出て来ている。

大阪府に比べて東京都は、全く恵まれている。

現に、東京都民は、絶望感や閉塞感を感じていない。

それは当然であって、何しろ2020年にはオリンピック・パラリンピックが開催されるのである。

だから、橋下徹のように、小池百合子は東京都民から激烈な支持を集めることは困難だと思う。

都知事選に当選出来るかどうかも、まだ、全く不透明であるし、また、当選後も、さんざん口撃した都議会へ、どのように接していくのか甚だ不明瞭である。

現時点での、産経新聞・毎日新聞の選挙戦序盤情勢の世論調査結果でもって、得意気に「ホルホル」してしまったら、投開票日には「哀号!」と絶叫することに成りかねないだろう。

小池百合子を支持する方々に於かれては、広範な東京都民への支持拡大を訴求すること共に、都議会との関係修復、関係構築へ着手されるべきであると候補者や選対へ上申すべきだと思う。

人間は理屈ではなく、好き嫌いで物事を決定する。

いくら選挙戦だからと云って、互いに抜き差しならない状況まで罵り合いをしては絶対にいけない。

本当の敵は、“革新統一候補”の鳥越俊太郎なのだから。

体調が最悪である。

頭痛がする、疲労感で身体が押し潰されそうだ。

しかし、明日から仕事だ。

もう、横に成って、身体を休めたい。

しかしながら、どうしても「一筆啓上仕り候」。

(だから、筆が乱れがちに成ることを何卒ご容赦の程)

 

東京都知事選挙が始まって、最初の週末である。

候補者の出馬表明が選挙の告示日ギリギリだったので、選挙活動のスパートが急だ。

一気にボルテージが上がってしまっている。

候補者や各陣営の選対、さらに各陣営の支持組織は、否応無く、しゃかりきに成っている。

それと同時に、インターネットでの応酬も激しさを増している。

だが、自分は、日に日に、この都知事選挙に対しての気持ちが冷えて来ている。

多分、この拙文でもって、都知事選挙に関する事柄を書くことを切り上げようかとも思っている。

あんまり冗漫に書くと、疲労困憊に拍車がかかるので、結論から述べる。

最早、都知事選挙に関して、侃々諤々と議論する時期は過ぎた。

後は、選挙結果が出てからである。

既に、自分は別記先述したように、現段階での独断と偏見では、“革新統一”の鳥越俊太郎が、最有力だろう。

それは、野党統一候補が成功した、と同時に、保守が分裂した、からである。

“革新統一”と保守統一の、有力候補同士の一騎討ちであったならば、五分五分の戦いである。

と云うより、比較的、「なんとなくアンチ自民党」と云う「市民」の割合が多い東京都では、それでも、“革新統一”候補の方が「有利」なのである。

それが、保守分裂である。

で、選挙戦が始まって早々、「小池百合子こそ、真正保守の候補だ!」と云う「論調」となってしまった。

まあ、諸悪の根源は、自民党東京都連の候補者選びの拙劣さに有るのだが、今更をそれを指摘したところで、どうしようもない。

自民党と公明党は、「組織」として、増田ナントカを擁立した。

「組織」を動かした以上は、最早、選挙戦を「途中棄権」なんてことは不可能である。

一方の、小池百合子陣営には、「組織」の決定など関係無く、各個人の判断で支持と支援を行っている。

これを下手に「組織」の論理でもって締め付けようとすれば、「組織」の基盤そのものが崩壊しかねない。

だから、あまりに激烈な締め付けはかえって逆効果と成る。

ただ、小池百合子陣営には、情熱的な個人が多数、加勢に参集して来た。

こうなると、小池百合子本人も引っ込みが付かなく成った訳で、最早、選挙戦途中で「降りて」、保守の候補者一本化ということは絶対に不可能だろう。

増田、小池共に、当落を度外視して、選挙戦を熾烈に戦い抜くであろう。

一縷の望みは、楽勝ムードで慢心した鳥越陣営が失言したり、高齢や候補者本人の「資質」の問題で体力や政治的能力への不安感が都民の間で高まった場合、相対的に「沈む」ことが有り得る。

だが、いわゆる「保守」の票が、増田、小池できれいに二分割されてしまった場合、やはり、“革新統一”候補の鳥越を凌駕出来ない可能性が高い。

 

最早、ここまで来たら、後は、各陣営の選対に委ねるしかない。

そして、都民の「選択」を待つしかなかろう。

今、考えるべきことは、もし、鳥越都知事が誕生した場合の後のことである。

いわゆる「保守派」の方々の「やりたい」運動は、「リコール運動」だろうが、そんな街頭やインターネットでの「大衆運動」では、鳥越都知事誕生後の「窮地」を打開することは不可能である。

今、我々が意識して考えていかなくてはいけない課題は、「都知事選挙」ではない。

来年6月に迫った「都議会議員選挙」である。

現在、都議会は、自民党と公明党で127議席中79議席(自民56、公明23)である。

野党は、44議席で共産党が17、民進党系2会派の合計で18、旧みんなの党の「かがやけTokyo」が3、生活クラブ生協の生活者ネットが3、その他合計3。

そして欠員が4で、この欠員は今回の都知事選で補欠選挙が当該各選挙区で実施される。

最悪、欠員4議席が全て、野党系に成ったとしも、79対48なので自民・公明で都議会は掌握出来る。

しかしながら、来年の6月に都議会議員選挙が有り、ここで都議会議員の顔ぶれがどのように変わるかによって、本当の意味での「都政」の今後が決定付けられることになる。

例え、鳥越俊太郎が東京都知事に成っていても、都議会の会派構成が現状とほとんど変わらないならば、都議会が都知事を抑え込んで、“革新系左翼”都知事の好き勝手を許さない。

だが、都議会自民党を批判し、対決姿勢を鮮明にした小池百合子が都知事に成れば、別の意味で、「都政」は混乱と膠着をきたし、ひいては都民の憤激と失望を惹起させ、「左翼」系野党への支持への遠因と成り得るだろう。

自分は、これから、誰が都知事に当選しても良いように、都議会議員選挙に向けて無い知恵を絞っていきたいと思う。

 

あと、「日本のこころを大切にする党」に関して。

組織を持たない、ミニ政党である「日本のこころ」が、推薦しようが支持を表面しようが、各陣営の選対にとっては、ほとんど「影響が無い」。

例えは悪いが、戦闘中に授与される「感状」のようなものだ。

有れば有り難いが、それが戦況や勝敗を決する要素には成り得ない。

また、「日本のこころを大切にする党」にとっても、都知事が誰に成ろうが、党としての影響は、ほぼ皆無であろう。

自前の公認候補であるわけでもないし、増田だろうが小池だろうが、「日本のこころを大切にする党」だけに限っては、どうでも良い話しだと思う。

だから、この都知事選に関連して、「日本のこころを大切にする党」をどうする、こうすると議論を戦わせたところで、私の目からは、何の意味も無いと思う。

まあ、ネトウヨはおしゃべりばかりするだけなので、良い意味でも悪い意味でも、何の影響も無いのかもしれないが。

これを契機に、離党するような者が出て来るかもしれないが、そういう御仁は、そもそもちょっとした些細な事柄でもって、離党するだのしないだのとまくし立てる性質だから、達観するしかない。

しかし、どうして「保守」はまとまることが出来ないのだ?

ただでさえ、小さくて少ないのに。

更に、細かく成ってどうするのだろうか?

今日、仕事が予想外に早く終了した。
そこで、急遽、靖国神社へ。
「みたままつり」の昇殿参拝をさせていただきました。
昨年から、境内で、いわゆるテキヤの露店が無くなりました。
自分は、すっきりとして、とても良いと思います。
勿論、テキヤの露店も「祭礼」を構成する要素ですが、参拝もせずに、露店の周辺でたむろするだけの罰当たりが激増したため、やむなく「露店中止」に成った訳です。
そもそも「お祭り」は、神仏を参拝し、そのついでに「祝祭的な空気」を楽しむものです。
神仏を参拝しないのであるのならば、それは単なる「馬鹿騒ぎ」に過ぎません。
今日の「みたままつり」には、「肝試し」に来た支那人wwwも居ましたが、ほとんどが真摯に英霊に対して祈りを捧げる方々ばかりでした。
参拝者数は減ったでしょうが、これが本来の有るべき「ご祭礼」でしょう。
不埒者は、新宿の歌舞伎町でも渋谷のセンター街にでも行ったら宜しい。
自分は、大小の献灯を永年で申込み済みですので、今年も献灯が有りました。
なお、おみくじは、「吉」。
これは、注意深く振る舞え、ということでしょう。
諫言、肝に銘じて行きます。
我が祖父は、フィリピンで果てて、遺骨は戻りませんでした。
お墓の中には、祖父に関するものは何一つ納められていません。
ですから、祖父との「邂逅」は、靖国神社なのです。
どうも、ここ数年、祖父に対しては、「ごめんなさい。」としか言葉が出ません。
また、手元不如意であるのと、貧乏暇無しなので、参拝する頻度が減りました。
ですから、なおさら、「ごめんなさい、ごめんなさい。」と頭を下げ続けています。

いやあ、もう、東京都知事選挙に関して、書くのが嫌に成って来てwww


まず、別記先述した中で「小池百合子は何時から保守派に成ったのだ」と記述した部分について。

どうも、彼女は、「新しい歴史教科書をつくる会」に関わっていたとのこと。

また、いわゆる「従軍慰安婦」問題に関しても。

自分も、全ての保守派の運動を知悉している訳ではないので、ここの部分は訂正させていただきたい。

しかし、そこまで、いわゆる「愛国・保守」の「運動」に関わっていたのに、何故、ここまで印象が稀薄なのだろうか?

世の中には、「入会はしたが、入会しただけ」という手合いが存在する。

まあ、小池百合子氏は、自らの名前をひけらかしたりすることを好まない、極めて慎み深い御仁なのであろう。

だから、「保守派」の中でも、小池百合子氏への認識やシンパシーが稀薄なのであろうと推察しかない。

まあ、後は、日本新党、新進党、自民党と政党を渡り歩き、しかも、細川護煕、小沢一郎、小泉純一郎と、その時々の「権力者」の寵愛を獲得することに成功した。

それを単に「変節」と断じてしまうと、「転向左翼」としての自分にも批判が及ぶだろう。

人間は、その時々に応じたかたちで、最適な選択をしないといけない。

だから、小池百合子氏の「経歴」を「無節操」だと指弾してしまうのは、妥当ではないのかも知れない。

けれども、「寵愛」を受けるのに長けている割には、安倍内閣とはそりが合わない。

どうも、安倍政権の中枢は、「派閥」として、小池百合子氏を評価することを選択しなかった。

これは、或る面、小池百合子氏という人間性そのものをさえも工作可能であると、見なしたのかもしれない。

 

東京都知事選挙が始まって二日目だが、インターネットでのネトウヨ界隈では、「小池百合子マンセー、マンセー、マンマンセー!!!」の大賑わいである。

果ては、ヒロインだ、ジャンヌダルクだ、と。

「オルレアンの聖女」も、言葉のあやとは言え、誠に酷い扱いにされてしまった。

何故に、いわゆる保守派のお歴々は、小池百合子にご執心なのだろうか?

何でも、彼女の「政策」が「保守」なんだそうな。

例えば「外国人参政権反対」とか。

確かに、彼女の「政策」の「文言」は、明確に「保守」であろう。

だから、「政策」の「文言」のみで、判断するのならば、何も迷うことは無い。

しかしながら、小池百合子が云っているのである。

これが、中山恭子先生だったら、「なるほど、そうか!」と納得出来る。

しかしながら、小池百合子なのである。

彼女が、本心から、それらの政策を云っている訳が無いだろう。

だいたい、何時から彼女は「保守派」に成ったのだ?

今回の都知事選挙で、自民党の組織票があてに成らなくなったから、自民党から距離を置いている、いわゆる強烈な保守の個人票を糾合するしかなくなった。

だから、いわゆる保守派に迎合しているのに過ぎない。

つまり、選挙向けの方便で云っているのに過ぎない。

そんな彼女だから、めでたく東京都知事に当選した暁には、しれっと「君子豹変す」ること間違い無かろう。

自分が、小池百合子は「人間」として信頼出来ないと書いたのは、これなのである。


あと、これに関連して、日本のこころを大切にする党が、増田ナントカさんを推薦したことで、非難囂囂である。
別に、東京都知事選挙に於いて、我が党が「推薦」をする必要も無かったように思うが、今後の政界の「お付き合い」を考慮して、自民党へ恩を売ったのであろう。
だが、これで、かえって足元の「パンドラの箱」を開いてしまった。
「小池百合子マンセー」のお歴々の目には、怒髪天を衝く、裏切り行為と映った。
だから、参院選の敗北感から傷心が癒える間も無く、荒涼たる惨状に成ってしまった。
自分は、増田ナントカさんが、「真正保守」で、べた褒め出来る最良の候補者だとは云っていない。
だが、小池百合子は、それ以上に駄目なのである。
にもかかわらず、彼女の迎合作戦にやすやすと眩惑されてしまったいわゆる「保守派」って、・・・・・・

うーん、何なのだろうかなあ?

自分の目には、小池百合子では、首都東京を守ることは出来ないと思います。
彼女が当選したところで、都議会と泥仕合。
都議会は来年6月に任期が来ますので、知事不信任案なんか出しません。
つまり、来年6月まで、都政は混乱し続ける訳です。
その間、都民は、小池知事にも都議会自民党にも嫌気がさします。
そうなれば、来年6月の都議選では、都議会自民党と小池派候補と野党が入り乱れて戦います。
当然、自民党の議席は減ります。
逆に、民進党や共産党が増やします。
公明党は現状維持です。
ちなみに公明党は外国人参政権「大賛成」です。
都議会自民党の議席が減れば、その分、公明党の発言力が増します。
結果的に、公明党と民進、共産などの野党「連合」に包囲されて、都議会は外国人参政権「推進」に成ります。
都議選をやったばかりなので、解散なんか無理です。
多分、小池知事は「裏取引」をして、外国人参政権「容認」に成るでしょう。
それが、解り過ぎるくらい解るので、小池知事は、駄目です。)

現在、毎日、新宿三丁目界隈で「仕事中」www

で、仕事中の横を、物凄いマッチョが結構通り過ぎます。

しかも、プロレスラーよりも「ゴツイ」www

で、さらに、二人組で、ヒゲ。

プロレスラーよりも筋肉が異状に発達した男が二人連れ。

ちなみに、もう少し、歩いて行くと「新宿二丁目」に入ります。

うーむ、こんなゴリゴリマッチョに襲われたら、絶対に「手籠め」にされてしまいますわwww

まあ、あの方々は、こんな冴えないオッサンには、全く食指は動かないと思いますがwww


それはさておき。

一緒に仕事をしているドライバーさん。

車で移動中に、結構、会話が出来ます。

感じとしては、「特定支持政党無し」と云う、いわゆる「無党派層」のお方。

で、東京都知事選挙告示日での会話。

「都知事選で、誰に投票したら良いか、よく解りませんけど、小池百合子は有り得ないなあ。」と。

「無党派層」のほとんどが、小池百合子に投票する、って云うコメントがネットで飛び交っていますが、多分、「願望」でしかないと私は思います。)

いやあ、もう、東京都知事選挙に関して、書くのが嫌に成って来てwww

 


まず、別記先述した中で「小池百合子は何時から保守派に成ったのだ」と記述した部分について。

どうも、彼女は、「新しい歴史教科書をつくる会」に関わっていたとのこと。

また、いわゆる「従軍慰安婦」問題に関しても。

自分も、全ての保守派の運動を知悉している訳ではないので、ここの部分は訂正させていただきたい。

しかし、そこまで、いわゆる「愛国・保守」の「運動」に関わっていたのに、何故、ここまで印象が稀薄なのだろうか?

世の中には、「入会はしたが、入会しただけ」という手合いが存在する。

まあ、小池百合子氏は、自らの名前をひけらかしたりすることを好まない、極めて慎み深い御仁なのであろう。

だから、「保守派」の中でも、小池百合子氏への認識やシンパシーが稀薄なのであろうと推察するしかないだろう。

まあ、後は、日本新党、新進党、自民党と政党を渡り歩き、しかも、細川護煕、小沢一郎、小泉純一郎と、その時々の「権力者」の寵愛を獲得することに成功した。

それを単に「変節」と断じてしまうと、「転向左翼」としての自分にも批判が及ぶだろう。

人間は、その時々に応じたかたちで、最適な選択をしないといけない。

だから、小池百合子氏の「経歴」を「無節操」だと指弾してしまうのは、妥当ではないのかも知れない。

けれども、「寵愛」を受けるのに長けている割には、安倍内閣とはそりが合わない。

どうも、安倍政権の中枢は、「派閥」として、小池百合子氏を評価することを選択しなかった。

これは、或る面、小池百合子氏という人間性そのものをさえも工作可能であると、見なしたのかもしれない。)

今日、都内は大雨だった。

自分は、屋外での仕事なので、ずぶ濡れに成った。

また、勤務時間も長時間で、疲労困憊である。

「職業に貴賤は無い」筈なのだが、濡れ鼠で無我夢中で精勤しているところを時折、蔑むような一瞥をする人が居る。

大層な御身分なんだと思う。

それと、こちらが仕事で大忙しにもかかわらず、道を聞いて来る人が居る。

で、それが「住所」だけ、とか、「ビルの名前」だけ、だったりする。

だから、自分は、仕事中に道を聞かれた時は、「いやあ、よそから初めて来たのでさっぱり解りません。」と云って断ることにしている。

だいたい、作業中にもかかわらず、いきなりぶしつけに道を聞いて来る自分勝手な奴なのだ。

しかも頭が悪い人間なので、こういう手合いと付き合うとろくなことにならない。

いくら説明しても、絶対に解ってくれない。

方向音痴であり、結局埒があかないから、「そこまで案内してくれ。」などと言い出す。

で、いったん説明をし始めておいて、中途半端に放棄するというのは、人情として、なかなか抵抗感が有る。

しかし、こちらは作業を終了させるのに一刻一秒を争う状態なのだ。

だから、薄情だと重々承知の上で、最初から「出来ません。」と断るしかない。

で、断ると、あっさりと去って行く。

だから、別に自分でなくとも良いのである。

何から何まで、背負い込む必要は無いのである。

「世は情け」とは云うものの、「無い袖は振れない」。

悩ましいところである。

東京都知事選挙が始まった。

自分が仕事をしていたら、鳥越、増田、小池の三陣営の街宣車が通っていった。

今回の都知事選挙は、「駄目比べ」。

はっきり云って、投票したい候補者が皆無なのだ。

そういう意味では、選択肢たりえない候補者ばかり。

投票権を有してから、今回、初めて「棄権」と云う選択肢が脳裏に浮かんだ。

まあ、さすがに「棄権」はしないと思うが、そうなると、後は「消去法」でいくしかなかろう。

まず、“革新統一候補”の鳥越俊太郎は、投票したくない。

これは、「愛国・保守派」ならぬ「転向左翼」としての「意地」でもあるwww

で、次に、小池百合子も、絶対投票したくない。

政策がどうの、愛国者でどうの、都議会自民党のボス・内田茂に嫌われたからどうの、といろいろと云われている。

だが、自分の目から見て、彼女は「人間」として信頼出来ない。

だから、支持出来ない。

それに、都議会のボスに嫌われたから云々と云うのは、政治家としては「減点対象」であって「加点対象」ではなかろう。

要は、小池百合子もプライドが高過ぎて、根回しなどの組織内遊泳術が出来なかったと云う事。

だいたい、都議会のボスと不倶戴天の敵に成っているのなら、もし、都知事に成ったところで、都議会と事有る毎に対立して都政は大混乱に陥ってしまうではないか。

ならば、まだ、鳥越俊太郎の方が、小器用に都議会対策で立ち回れるだろう。

ということで、小池百合子に投票することは、自分は絶対に無い。

となると、ますだおかだ、もとえwww増田ナントカが残ってしまった訳で。

・・・・・、増田ナントカ、かあ・・・・。

ちなみに、小池百合子以外の候補が当選すると、韓国びいきに成るとか、指摘されている。

しかし、韓国人絡みの案件は、最終的には政府の管轄だろう。

安倍内閣さえしっかりしていれば、大丈夫だと思う。

(但し、安倍内閣が、しっかり対処してくれるかどうか?であるのだが)

どうも、「小池百合子支持」を主張する愛国・保守の方々は、「政治」や「選挙」に疎いようだ。

信義や大義は極めて大事であるが、それだけだと、政治的勝利や政治的目的の達成が不可能に成ってしまいがちである。

ついには、信義や大義に固執するあまり、政治的勝利や政治的目的達成への努力を「変節」呼ばわりし始める。

そういう浮世離れした方々は、竹林の七賢人のように、深山幽谷にでも籠って、気が済むまで仲間うちだけで気勢を挙げておれば宜しかろうと存ずる。

軽い頭痛がする。

全身の疲労感も酷い。

暑さに身体が参っているのだろう。


それはさておき、明日、平成28年7月14日に、東京都知事選挙の告示日を迎える。

いよいよ、東京都知事選挙の幕開けである。

だが、既に、勝負はついた、と自分は痛感する。

鳥越俊太郎の圧勝だろう。

まず、自民党系の候補が分裂した。

小池百合子元防衛大臣が出馬を表明。

だが、肝腎の自民党東京都連は、増田ナントカが意中の候補だった。

自民党東京都連、というより、都議会自民党の意向だろうが、その気持ちは解らないでもない。

遡れば、青島幸男が都知事に成って以降、都議会は都知事に振り回され続けている。

青島幸男は、タレント議員の左翼だったから都議会と摺合せをするようなことを、想定など不可能な人種だった。

次の石原慎太郎は、希代のカリスマであり、とてもじゃないが都議会が操縦出来るようなものではなかった。

石原都知事に対しては、都議会は、ただただ追認するしかなかった。

だが、石原慎太郎は、突如、国政に復帰する。

その後に担がれたのが、猪瀬直樹だった。

しかしながら、猪瀬直樹と云い、舛添要一と云い、彼等は勘違いをしてしまった。

「自分も石原都知事のような都知事に成りたい。」と。

しかしながら、石原慎太郎は、単なる「文化人政治家」ではないのである。

希代のカリスマであって、石原慎太郎だからこそ、帝王のような東京都知事の振る舞い方が可能だったのである。

ところが、それを、猪瀬も舛添も、身の程知らずも甚だしく、自分も石原都知事のように成れると思い込んでしまったのである。

カリスマでもない「人」が、カリスマのような立ち居振る舞いをすれば、畢竟、嘲笑と侮蔑の対象にしかならない。

結局、猪瀬と舛添は無様な末路を迎えた。

都議会自民党としては、最早、独断専行の都知事の「お守(おもり)はこりごりだ!」と悲鳴を上げたのであろう。

だから、常識的な人を選ぼうと考えたのだろう。

だが、それは、都議会自民党が扱いやすく、御しやすい人にしたい、今度こそ、都政の主導権は都議会が握りたい、という下心が有った。

当初、桜井ナントカという、ナントカ省の事務次官だった官僚を担ごうとした。

何でも、彼の息子が、アイドルグループ「嵐」のメンバーだという。

つまり、選挙戦で、「嵐」の桜井翔くんにマイクでも握ってもらおう、と考えていたのだろう。

そんなさもしい根性だから、当然ながら、固辞されてしまう。

自分は、この、桜井ナントカさんが有力候補だ、という報道を聞いて、何故、「有力候補」なのか理解出来なかった。

単に、嵐の桜井翔くんのパパ、というだけであったなら、もう、その根性の腐れ具合に辟易とする思いだった。

で、その次に出て来たのが、増田ナントカで、元・官僚で、元・岩手県知事で、元・総務大臣で、っていう人だった。

「いや、もう、そこまで勤め上げたら、だったら、何も今更、東京都知事に成らなくても良いじゃないの。」と思った。

多分、実務能力に長け、何と言っても、独断専行をするような無茶はしない「安全運転」の人なんだろう、と思った。

都議会自民党としては、まさに、絶好の「お神輿」だった訳である。

しかしながら、自分でさえ、フルネームが思い出せないくらいの知名度の低い、地味な御仁である。

どんなに、組織票を掻き集めて固めても、絶対に当選ラインに届かない、東京都知事選挙では、有望な候補とは言えまい。

そんな中で、安倍政権に成ってから、ずっと冷や飯を食わされて来た、小池百合子が大博奕に打って出た。

手順を踏んで、選挙戦に出馬しようとしても、絶対に事前につぶされると見切ったので、敢えて、横紙破りを決行した。

その状況判断と時期の見極めは、まさに「勝負師」の本領発揮と云えた。

だが、彼女は痛恨の致命的な間違いを起こした。

都知事選の出馬にあたっての「公約」のいの一番に、「都議会の解散」を挙げてしまった。

これは、彼女の本心、本音から出たものだろう。

しかしそれは、「私怨」「怨恨」から出たものである。

都知事選出馬を潰そうとした都議会自民党に対して、「恨み骨髄」であったとしても、それを一番目立つところに掲げてしまったら、やはり駄目である。

小池百合子としては、都議会自民党の意地悪なオヤジどもにいじめられる可哀想なヒロイン、という「構図」を作り上げたいようであったが、いきなり「都議会解散」と云う、「最終手段」を突き付けてしまったのでは、辟易してしまう。

事実上、これは、舛添が都知事を辞任する前に、悪あがきをした際に「都議会の解散」に言及したのと同じ印象を世間に与えてしまった。

つまり、「自分の云うことを聞かないなら、議会を解散して議員バッチを取り上げるぞ!」と恫喝、脅迫したのである。

このような「権力主義者」を、スマートな東京都民は一番嫌うのである。

小池百合子は、小泉純一郎や橋下徹のような、解りやすい敵対構図を示して、敵をやっつける態度をアピールすることで自分への支持を集めようと目論んだのであろう。

だが、そういう外連味の有る演出に耐えられるだけのキャラクターとしての魅力は、正直云って、小池百合子には足りない。

この作戦は間違いなく不発する。

いわゆる愛国・保守陣営からは、小池百合子の方が政治的スタンスや政策がどうのこうのと大層贔屓をされているが、人間的に見て、評価が出来ない以上、駄目である。

現に、舛添がそうであったではないか?

一方、対する野党側は、ここに来て、一気にまとまった。

一時は、石田純一なんていう、往時のトレンディ俳優を出して来たが、今と成っては、「真打登場」までの露払い、もしくは陽動作戦だったような気さえする。

鳥越俊太郎は、京都大学を出て、毎日新聞の記者だったという、輝かしい学歴と経歴を持っているのだが、その割には、知性に乏しい。

そこらへんは東大法学部卒の福島みずほも該当するのだが。

だが、鳥越俊太郎の「強み」は、「いい人そうに見える」こと。

この、「いい人」である、という利点は、意外と手強いのである。

知性派の敵であるならば、論争を仕掛けて論破することが可能である。

しかしながら、「いい人」というのは、その「愚かしさ」を含めて、得点の対象に成るのである。

彼が、一般社会常識さえろくに持ち合わせていなくても、世間一般大衆は愚昧とは見なさない。

「あら、人間臭くて良いじゃないの。」となる。

で、「いい人」の鳥越俊太郎と小池百合子を比較した場合、小池百合子の口八丁手八丁ぶりが、誠にあざとく鼻に付くのである。

だから、鳥越俊太郎対小池百合子ならば、鳥越俊太郎の圧勝である。

さらに、増田ナントカに到っては、てんで勝負に成らない。

多分、鳥越、小池、増田の三つ巴の戦いに成ったら、増田陣営は小池百合子を組織的に締め上げるだろうし、小池陣営は自民党東京都連の陰湿さをあげつらうことだろう。

結局、自民党系候補同士の泥仕合、潰し合いに終わる。

しかも、過去3回、都知事選で次点だった宇都宮健児が、立候補を取り下げた。

宇都宮は、多分、日本共産党の秘密党員だろうから、鳥越俊太郎は、労組の連合、立正佼成会、生長の家、民団、さらに日本共産党という組織に支えられて戦うことになろう。

組織、知名度、好感度、それらを有している鳥越俊太郎の圧勝は間違い無いだろう。


さて、鳥越俊太郎の圧勝の後である。

都知事は民進・日共などの「野党」系に成ったとしても、都議会は自民・公明が圧倒的な多数を占めている。

都議会が対決姿勢を強めて、都知事を揺さぶる事態に成るかもしれない。

だが、ここで、鳥越俊太郎の「いい人」が本領を発揮する。

ラガーマンらしく、多分、彼は選挙後に、「ノーサイドで、どうかよろしくお願いします。」と頭を下げて来るだろう。

そうなった時、あくまで与野党のガチンコ対決の図式を継続しようとすれば、早晩、都議会自民党・公明党が「ヒール(悪役)」と見なされてしまうだろう。

多分、オリンピックまで、鳥越俊太郎と「仲良く」やっていくしかなくなるのではないだろうか?


幸いなことに、鳥越俊太郎は高齢である。

どんなに粘っても最長、2期だろう。

それまで、「我慢の子」かな?


しかし、どこでボタンを掛け違えたのだろうか?

更に、小池百合子が選挙に出たため、彼女の選挙区の衆院補欠選挙をしないといけない。

この補欠選挙が果たしてどうなるのか?

その選挙結果次第では、先日の参院選の自民「大勝」も吹っ飛ぶ危険性が有る。

全く、政界とは「一寸先は闇」であると痛感せざるを得ない。

(注・労組の連合の「連合東京」は鳥越を推薦しなかった。多分、共産党が入り込んで来たから反発したのだろう。)

はやいもので、もう7月13日になる。

これは「新暦」の「お盆」である。

東京の都市部では、7月13日から16日までが「お盆」なので、施餓鬼法要やお墓詣りは、この時期に行う。

なお、英霊をお祀りする靖国神社では「みたままつり」が斎行される。

ただ、全国的には、「旧暦」の「月遅れ」の8月13日から16日に「お盆」を行う。

京都の大文字送り火は、まさにそうである。

まだ、今年(平成28年)は梅雨明けしていないのだが、既に、酷暑の日々である。

正直、労務者の自分は、しんどいwww

仕事をするので精一杯で、とても筋トレどころではない。

全く、惰弱で、情けない。

さて、夏本番ということに成れば、学校は「夏休み」に入る。

実は、この「夏休み」と云う「非日常」の期間は、心身の成長を促進させ得る「魔力」を有している。

場合によっては、「非行」に走るきっかけとも成るのだが、夏の暑苦しさは、生命力を旺盛にさせるのである。

「夏休み」と云えば、「課題図書」ということに成るのだが、これは世の生徒や学生にとって二重の嫌がらせに感じられていよう。

まず、読みたくも無い本を読まされる。

さらに、その後に、「読書感想文」なる難題が付加される。

課題図書を読み切るだけでも一苦労なのに、さらに作文まで要求されるのだから、それはそれはえらい迷惑だろう。

しかし、「課題図書」と云うのは、一生のうち、一度は目を通しておいて損は無い良書ばかりである。

食わず嫌いをしないで、是非とも、紐解いて下されたい。

課題図書ということになると、夏目漱石の「こころ」なんぞが課せられることが多いようだが。

もし、自分が、生徒・学生諸君へ「課題図書」を推奨するとしたらどうするだろうか?

やはり、「夏休み」なのだから、「夏休み」に関連した良書を薦めたい。

ジュール・ベルヌの「十五少年漂流記」(原題「二年間の休暇」)である。

これは、冒険小説であると共に、群集劇でもあり、少年たちの成長の物語でもある。

自分としては、中学生の諸君へお薦めしたい。

さらに、この「十五少年漂流記」を読んだ諸君には、数年後、高校生に成長した際には、今度は、ウィリアム・ゴールディングの「蠅の王」を必ず読了してほしい。

実は、自分が本当に読ませたいのは、この「蠅の王」なのであるwww

だが、いきなり「蠅の王」を読んでしまったのでは、この小説の本当の妙味は解らない。

まず、「十五少年漂流記」を読み込んだ上でなければいけないのである。

解る人なら、もう、ここまで書いてしまったら充分過ぎるだろう。

だから、これ以上は敢えて「説明」をしない。

自分の狙いが何なのか、知りたければ、是非、まず「十五少年漂流記」を読み、少し間隔を空けてから、必ず「蠅の王」を読了してほしい。

 

ちなみに、自分が中学・高校の時に読み漁った本は、

サキ

アンブローズ・ビアス

フレドリック・ブラウン

夢野久作

久生十蘭

川端康成「掌の小説」

だったwww

O・ヘンリーではなく、サキやビアスであるというところがミソであるwww

また、コナン・ドイルのシャーロック・ホームズよりも、G・K・チェスタトーンのブラウン神父が好きだった。

なお、サキはとびきりの美酒ではあるのだが、アルコール度数が極めて高いので、一気に読み上げると悪酔いするので、くれぐれもご注意下されたくwww

 

最後に、生徒・学生諸君の、この「夏休み」が、どうか、充実したものに成るように、自分は心から祈念するものである。

永六輔が亡くなった。

まずは、ご冥福をお祈り申し上げたい。

永六輔は、いわゆる政治的思想信条に於いては、明確に「左翼」であった。

憲法9条を評価し(9条の会のメンバー)、昨今のネトウヨ的な政治の潮流には反対だった。

ならば、永六輔は、「ブサヨ」と侮蔑してしまって良いのだろうか?

 

今、合併問題で揺れている石油元売り会社大手の出光興産。

この会社が、長年に渡って「提供」しているTV番組が、TV朝日系の「題名のない音楽会」である。

現在は、バイオリニストの五嶋龍が司会である。

しかし、そもそも、この番組は、作曲家・黛敏郎によって立ち上がったTV番組だった。

黛敏郎は、三島由紀夫、石原慎太郎と並ぶ、「極右」思想の文化人「スター」であった。

現在、にわかに安倍政権の「黒幕」と見なされ始めた「日本会議」の前身である「日本を守る国民会議」の議長でもあった。

その黛敏郎が、1997年に急逝した時、この「題名のない音楽会」の司会を臨時に務めて、「繋いだ」のが、実は永六輔だった。

つまり、黛と永は、親しい間柄であり、かつ、互いを深く理解しあっていたからこそ、こんなことが出来得たと云えよう。

 

また、和装を再評価する流れの先駆けでもあり、メートル法だけでなく尺貫法も重要だと主張し、捕鯨は日本の伝統であると擁護した。

 

ここまで読むと、狭量で単細胞で愚昧なネトウヨは、頭が混乱して、理解不能に陥る。

ならば、教えてやろう。

永六輔は、伝統を重んじ、保守的な日本主義者なのである。

但し、「反権力」の。

云ってみれば、永六輔は「江戸っ子」なのである。

そもそも、現在のご皇室は、京都から薩摩・長州に担がれて下って来られた存在で、それらに対して、仰々しくひれ伏すのは、いけ好かないのである。

つまり、関東人、「江戸っ子」の反骨精神なのだ。

だからこそ、保守主義でありながら、「アンチ」なのである。

 

彼の家系そのものは、江戸時代に長崎に渡って来た支那人の僧だ。

だから、彼を「在日」として排撃する「論拠」は、有ると云えば存在する。

だが、それを声高に主張すればするほど、己が愚昧さを露呈することに成る。

 

どうも、左翼と右翼は、「交叉することが有り得ない」と思い込んでいる人が多い。

まあ、そう、思い込まされているから仕方ないのだが。

確かに、左翼や右翼の「お偉方」にとってみれば、自分の手下である「構成員」が、左や右にそれぞれ移動してしまったら、そりゃあ、不機嫌に成るのが当然だろう。

だが、左翼と右翼の違いは、実は、そんなに単純ではないのだ。

 

自分が云えることはひとつ。

思想家や政治家は、その思想信条と行動が全てであるので、いわゆる「政治的スタンス」でもって評価したり、断罪しても、それは致し方無いところが有る。

だが、それ以外の、いわゆるアーティストやスポーツ選手などに関しては、「政治的スタンス」でもって、あれこれ指弾するのは、本当に愚かしい。

例え、教条的な左翼思想の虜であったとしても、その歌唱力や文筆の才、表現の卓越さが秀でていれば、それは文句無く、賞賛に値する。

逆に、自陣営内に属していたとしても、無能であるのならば、それは評価の対象にはならないのだ。

現に、三島由紀夫は、労働歌「インターナショナル」を高く評価していた。

確かに、あの歌は、群衆の意気を鼓舞する魅力を有している。

 

永六輔は、歌謡曲の作詞に於いて、「上を向いて歩こう」など、一世を風靡した。

また、ラジオ番組などで、「男おばさん」と呼ばれるような卓越した話術を駆使した。

そのセンスと才能に対しては、率直に評価しなくてはいけない。

 

極右のおじさんが、吉永小百合を心酔して、どこが悪いのか?

何故なら、彼が心酔しているのは、吉永小百合と云う「女優」であって、彼女の左翼的思想信条ではないからである。

むしろ、いわゆる政治的な集会に出て来て、名前を売ろうとする無能無才なヘボを、「政治的同志だから」という理由で贔屓するのは、明確なセクト(党派)主義であろう。

歌手ならば、その歌唱力で、

役者ならば、その演技力と存在感で、

ダンサーなら、その躍動感で、

作家ならば、その文筆力で、

音楽家ならば、その演奏技術と構想力で、

デザイナーならば、その美的センスだけでもって、勝負すべきだ。

自らの政治的スタンスでもって出世して行こうというのは、実は、左翼の「プロレタリア芸術論」である。

つまり、政治的イデオロギーが芸術的センスを「指導」するという構図を認めているのである。

それは、単に、自らの無能無才を、政治的に補填することによって、代償し、誤魔化しているのに過ぎない。

主に、そういう勘違いをしている愚か者は、左翼陣営にウジャウジャひしめいているが、どうも保守陣営にも跋扈しつつある。

嗚呼、やんぬるかな!

「戦い済んで、日が暮れて」ならぬ、戦い済んで、日が昇ったwww

第24回参院選の結果が出た。

手短に、評させてもらう。

自民党は、「大勝」した。

だが、比例区で19議席も獲得したということは、野党が駄目過ぎたせいでもある。

むしろ、改選議席数1の県選挙区では、野党統一候補に11も競り負けた。

沖縄、福島と二人の現職閣僚を落選させてしまった。

さらに、北海道では、3議席中2議席を民進に得さしめた。

山形の舟山康江や新潟の森裕子など、時代錯誤的な「オールド左翼」の候補だ。

にもかかわらず、当選させてしまったのは、それらの自民党の地方組織がいかに駄目になっているのかということの証左である。

一方、意外だったのは共産の伸び悩みだった。

事前の雰囲気では、3年前と同様に、地方選挙区で議席獲得が相次ぐと想定されていたが、「歯並びが悪い」www東京の山添拓だけにとどまった。

しかも、比例区も伸び悩んだ。

むしろ、比例区では民進党が予想以上に増やした。

自分は二ケタには乗らないと見ていたが、11議席である。

そして、東京でも、3年前は共倒れのゼロ議席が、今回は2議席を確保した。

民進は、惨敗したものの、復活の兆しを見せつつあるように思う。

多分、岡田克也執行部は交代するだろうから、民進は今後、手強くなると警戒した方が妥当だろう。

 

さて、日本のこころを大切にする党である。

自分としては、よく健闘した方だと思う。

東京選挙区では、社民党より多い得票だった。

だが、にもかかわらず、議席獲得に届かなかったのは、それが現在の党の「等身大」の実力の現れであると、真摯に受け止めざるを得ない。

ここで、いわゆる「戦犯探し」をしては駄目だと思う。

具体的には、党名変更の是非であるとか、選挙責任者の責任問題だとか。

はっきり云って、そんな、小手先のレベルで、劣勢をひっくり返せると思っていたら大間違いである。

得票数をドカンと増やせる魔法の杖は存在しない。

ここは、地道に党勢を拡大していくしか「道」は無い。

「急がば回れ」であろう。

とにかく、選挙活動に従事された方々には、心より感謝を申し上げ、慰労のご挨拶をお送りしたい。

このページのトップヘ

見出し画像
×