白井裕一
この投稿はFacebookコミュニティ規定に違反しています
以前も、フェイスブックから投稿に関して警告された。
それが、以下の投稿。
約6年前に投稿したものだが、明らかに、特定の語句を検索させて抽出していることが想定される。
やはり、機械的に検索をかけて、集中的に告発している組織が有るのだろう。

しかし、この投稿で「コミュニティ規定違反」というのなら、そんな規定は、
「どうかしている」。

この投稿はFacebookコミュニティ規定に違反しています
あなたの投稿について
2020年4月12日日曜日 13:55
あなたの投稿は他の人には表示されません。



2014年9月13日投稿
先程、読売テレビの「ウェークアップぷらす」を視聴した。
東電福島原発の「吉田調書」に関する朝日新聞の誤報に関して、詳細に取り上げていた。
だから、いわゆる慰安婦問題の「吉田証言」に関しては、少な目の扱い。
但し、自分としては得るところが多かった。
アメリカ外交官だったケビン・メア氏がゲストで出演していた。
さぞかし、先般のいわゆる慰安婦問題の「吉田証言」誤報の件で、朝日新聞をけちょんけちょんに云うかと思ったら、「朝日新聞を弁護する訳ではありませんが、」と切り出した。
そして、「いわゆる慰安婦に関する、強制性の問題に関しては議論しない方が良い。『河野談話』にしろ、クアラスミ勧告にしろ、いずれも『吉田証言』以外の証言や証拠に基づいているので、『吉田証言』が虚偽だとしても全否定は出来ない。この問題は歴史学者に任せるべきだ。」と。
ここで、「アメ公が何を云うか!」と激怒してしまってはいけない。
むしろ深刻に受け止めるべきだろう。
いわゆる、強制連行かどうかという事柄は、海外に於いては最早、論点になっていないようである。
女性に対して、本人の意思に反するかたちで性行為を強制されたという点が争点にされているようなのだ。
こうなると、いわゆる吉見義明をはじめとする、左翼人権屋の主張と大差が無い。
これは、左翼人権屋の長年の運動の成果によって、国際世論に深く浸透してしまったということを意味する。
「国際世論は、まだ歴史の真実を知らないから誤解しているのだ。」と考え、こちら側が粘り強く教導していけば、全部ひっくり返せるという考えが有る。
だが、これは、ひょっとすると認識が甘いかもしれない。
今や、国際世論は、「戦時に於ける公的売春行為」そのものを指弾しようとしている可能性がある。
勿論、「戦時に於ける公的売春行為」は日本だけが行ったものではない。
だが、こちら側の話法の持って行き方によっては、「日本人は歴史的事実を何とか言いくるめて否定しようとしている。いわゆる歴史修正主義ではないのか。」という印象を持たれかねないかもしれない。
このような現実認識に立った場合、戦い方を根本から考え直さないといけないだろう。
最終的には、過去に、政府が、国軍が関与したかたちでの女性の人権侵害が有ったことは認め、謝罪しなくてはいけないかもしれない。
但し、事実誤認が甚だしく、また、意図的に日本を貶めようとした恣意的な情報操作が為されたことを主張しないといけないだろう。
あとは、いわゆる慰安婦問題は、大昔の過去の歴史的な問題であって、現在・今日の日本に於いては、公娼制度も廃止され、慰安婦は存在せず、また私的売春に関しても拡大しないように努力していることを主張すべきかもしれない。
つまり、過去と現在を切り離すのである。
これは、条件闘争のようでもあり、姑息に見える。
だが、既に、そこまで日本人は国際世論に於いて、追い詰められているということなのだろう。
怒りの矛先は、国際世論に断じて向けてはいけない。
むしろ、今迄の我々、日本人の保守派の怠惰こそが責められるべきかもしれない。
「河野談話」に関しても、国内と海外で運動を使い分けないといけないかもしれない。
日本国内では、あくまで政府や政治家を突き上げる為に、「河野談話の破棄もしくは撤回」を主張する。
だが、安倍政権が「河野談話」について何も為さなくても、それが安倍政権批判に転化してはいけない。
また、河野洋平の国会招致を求めても、「河野談話」の瑕疵の酷さを印象付けることに留めないといけないかもしれない。
実は、「『河野談話』は撤回してはいけない。」という意見を聞いたことがある。
それは、テキサス親父日本事務局の藤木俊一氏からである。
「既に、『河野談話』は歴史的な事柄になっている。これをいじくることは、国際的には認められない。」というのだ。
その時は、「そんなもんかなー。」としか思わなかったが、今朝のケビン・メア氏の発言を聞いて、俄然、深刻に受け止めなければいけないと思った。
今後、左翼側が取ると予想される戦術は、我々保守派を「歴史修正主義者」と云うレッテルを貼って悪印象を植え付けようとするものだろう。
「歴史修正主義」というと、ピンと来ない方が多い。
だが、それは、事実上「ネオ・ナチ」認定に等しい。
「ユダヤ人のホロコーストは無かった。」というような、妄説を主張する、頭の異常な奴等、人種差別主義者でありレイシストであると決めつけたいのである。
こうなると、こちら側は全く望まないにもかかわらず、ユダヤ人や黒人の人権団体とことを構える構図に引きずり込まれてしまうかもしれない。
そんなこんなを考えさせられた。

フェイスブックからこういう警告が来た。
しかし、これで警告されたら何も書き込めなくなるね。
しかも、投稿して、6年以上も経過した大昔の投稿である。
多分、検索を機械で処理して組織的にフェイスブックに告発しているのであろう。
いわゆる「ネトウヨのアカウントをバンさせる」活動であろう。

あなたの投稿について
今日 18:18
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白井 裕一
2014年3月9日
ついに朝鮮人は「パンドラの箱」を開けてしまったようだ。
平成26年3月9日日曜日朝日新聞9面国際面掲載記事より。
(以下引用開始)
「韓国も謝罪を」
元慰安婦が要求
ベトナム戦争の性暴力
 韓国人の元日本軍従軍慰安婦と支援団体代表らが7日、ソウルで記者会見し、ベトナム戦争に参戦した韓国軍による「ベトナム人女性に対する性暴力や民間人虐殺」について、「韓国政府が真相を究明し、公式謝罪と法的責任をとるように」と訴えた。
 会見した元慰安婦らは毎週水曜、ソウルの日本大使館前で「日本政府の公式謝罪と賠償」を訴え続けている。支援団体関係者が2月にベトナムを訪れ、ベトナム戦争時に韓国軍から性暴力を受けた女性や、その子供らと面会。女性たちは「社会で蔑視され、苦しい生活を余儀なくされている」と訴えたという。
 元慰安婦の金福童さんは「同朋が犯したことは韓国政府が解決すべきだし、知らないふりはできない」。支援団体の尹美香代表は「私たちが望むのは慰安婦の悲劇が繰り返されないことだ。日本政府に求めるだけでなく、我々自ら平和をつくりたい」と話した。韓国軍のベトナム戦争参戦時の行為に関しては、故・金大中大統領が2001年のベトナム訪問時の首脳会談で「ベトナムの人々に苦痛を与えたことを申し訳なく思う」と述べた。(ソウル=中野晃)
(以上引用終了)
まず、朝日新聞のくせにw「こども」を「子供」と表記したことを褒めたいwww「子ども」って変な表現だもんね。
それにしても、”性暴力”って造語の巧みさというか、トリッキーさというか、悪辣さを痛感しますなぁ。
”性暴力”ってどういう定義なのかね?
旧日本軍の「慰安婦」は、公共売春だった訳で、しかも彼女らには高給が支払われていた訳だ。
一方のベトナム人の方は戦場に於ける“強姦”だ。
云って見れば、双方の合意の上での商行為としての和姦と、強姦を糞味噌一緒くたにして弾劾している訳である。
それを可能にしたのが、”性暴力”という造語である。
ま、「女性の人権」とやらをあくまで追求するのであれば、日本は駄目で韓国は良し、って訳にはいかないことになる訳だが、どうもこれには裏が有りそうだ。
と云うのは、ベトナム戦争(正確には第二次ベトナム戦争)の時期と朴正熈政権の時期が重なるからだ。
ベトナム戦争は1960年12月から1975年4月30日までで、朴正熈政権は1963年から1979年までなのだ。
見事に重なる。
これは、韓国の親北朝鮮・左翼勢力にとっては格好の攻撃材料であって、ベトナムの女性問題を契機として、朴正熈の娘である朴現大統領を糾弾しようという深謀遠慮であろう。
ただ単に、ベトナム人女性に対する同情や贖罪意識に突き動かされた言動と単純に評価しないべきである。
http://www.asahi.com/articles/ASG374Q7LG37UHBI028.html


この他にも、こんな投稿が駄目とされた。

字幕【テキサス親父】慰安婦は売春婦!証拠はコレだ!と親父ブチギレの巻!
【動画解説】 以前より慰安婦問題に関して様々な事を調べているテキサス親父が最近発見したネット上に上がっている1944年に報告された「尋問調書」に注目した。しかし、ネット上にある物の中には、捏造された物が多く存在し、その米軍の報告書とされている物が本物であるかという疑問を持った。 そこで、以前も竹島問題で「マッカー...

http://www.youtube.com/watch?v=ggQaYD37Jm4


第16回 「従軍慰安婦問題」
今回から従軍慰安婦問題です。韓国は世界の売春婦の供給国であり「売春させてくれ」と売春婦デモがおこる国だ。日本大使館前の慰安婦像について、韓国への財政支援スワップ5400億を削減して元に戻すとしても9900億円もの支援をするわけだ、最低限この慰安婦像といわれているものの撤去を条件にすべきだ。従軍慰安婦像は世界中に建...

http://www.youtube.com/watch?v=Qba5GFUf_pI&feature=share

月刊誌「文芸春秋」令和二年1月号で、数学者の藤原正彦先生の「英語教育が日本を滅ぼす」という論文が掲載された。

さすがは藤原先生の論文であり、読み応えが有った。

詳細は、当該記事をお読み願いたいが、これに関連して私見を述べたい。

 

自分は、現在、論議を呼んでいる「大学入試改革」に対して懐疑的であった。

その理由は、「改革」と銘打つ割りには「不徹底」であるからである。

そもそもの発端は、産業界から求められる「新社会人」の「能力」に関して、変化が見られたからである。

従来は、社会人に相応しい「教養」や「常識」を記憶し尽くして来ることが望まれた。

もしくは、「受験勉強」という一つに「勝負」に対して、自己管理や節制、受験勉強に関する計画性や実行性を「受験合格」という「結果」でもって判断し得た。

つまり、受験偏差値の高い大学入試に合格出来た学生は、記憶力や思考能力といった頭脳の機能の他に、受験に対して日常生活を構成し直し、忍耐と自律する精神性に於いても優れている。

だから、優秀な「学生」であり、優秀な「社会人」の候補生である、とみなされた。

しかしながら、科学技術の長足の進歩により、人間の頭脳の機能を機械で代用可能に成って来たのである。

計算能力がそうであり、記憶能力についてもそうなってきた。

それは、従来、優秀と見なされた人間の頭脳に関して、計算や記憶に関しては機械(人工知能、AI)でもって代替可能な状況を迎えつつある、ということである。

ならば、今後、従来のような高等教育によって育成され、社会に輩出された「新社会人」たちは、人工知能と「競争」する形に成る。

そうなった時、人工知能に敗れて、リストラされてしまいかねない。

今後は、人工知能に代替出来ない(もしくは、出来にくい)分野に於いて卓越した能力を持つ「人材」が必要とされてくる、と云う訳である。

だから、ただ単に、「記憶力」が良い、という人はあまり相応しくない、とされた訳である。

そこで、大学入試に於いても、予想問題と模範解答を丸暗記するような受験優等生に有利な試験ではないかたちにしたい、ということになった。

では、どのようなかたちが良いのか?というと「アクティブラーニング」思考する能力を試験したい、と云う訳である。

そのために、マークシート方式の選択問題ではなく、記述式の解答様式にする。

とりわけ、英語に関しては、読み書き、聴き取り、発声、などを総合的に試験したい。

ということに成った訳である。

 

ところが、「大学入試」に於いて、「一番重要な点」である「公平性」に於いて、保障出来なくなって来た訳である。

まず、英語に関してだが、一つの「組織」が出題から採点に到るまで全部一括で運営出来るところが無かった。

そこで、既存の民間教育組織に「外注」するかたちにした。

ところが、その「外注先」が複数以上に多く成ってしまった。

これでは、受験生全員一律に順位を付けることが出来ない。

何故なら、実施する「試験内容」が、バラバラになってしまうからである。

さらに、民間教育機関は、全国各地に全て受験体制を網羅出来ている訳では無い。

そして、受験費用に関しても金額に差がみられる。

ここらへんは「調整不足」「準備不足」という点でもあるのだが、根本的にバラバラの試験を受けさせておきながら、点数に関しては全国一律でもって総合的に合否を評価する、ということに無理が有った。

また、国語と数学の記述式の答案に関しても、採点者は「アルバイト」「非正規雇用者」であり、入試採点の専門家ではない。

ということは、採点者が過去の学識経験によって妥当な多様的な採点評価を行うことは困難である。

つまり、「模範解答」の「マニュアル」に準拠したかたちで、自動的に採点していく方式しか現実的には運営出来ない。

だが、「模範解答」をそのまま採点に反映させる方法であるのであるならば、それは「予想問題と模範解答を丸暗記する」という従来の受験勉強のやり方が一番確実である。

事実上、本来の「大学入試改革」の「目的」は達成されない。

結論として、「大学入試改革」としては無意味である、と云わざるを得ない。

 

さて、ここで考えておきたいことは、大学入試の前提として掲げられている「試験の公平性」である。

現在、日本の試験の「公平性」とは、受験者が例えば1000人いたとするならば、1番から1000番まで、それこそ1点刻みで順番が算出可能である、という試験である。

つまり、出された設問を解答した場合、正答であれば決められた点数が加点される。

誤答であれば、加点されない。

もしくは、減点されて加点される。(丸ではなく、三角、という評価)

だが、解答された「内容」がとびきり優秀であった場合でも、事前に決められた点数以上の点数は加点されない。

それは、設問に関しても、模範解答にしても、解釈の幅が生じ得ない、決まりきったことがらでなければ設定出来ない。

もし、「こういう解釈も有り得る」といった流動性が有り得るかたちであったならば、採点の際に明確な採点が難しくなってしまう。

だが、「決まりきったことがら」を設問し、解答させるような試験は、事実上、記憶力の機能に依存することがらばかりに成る訳である。

様々な不確定要素を、類推と思考の果てに仮説を導き出す。

こういう思考能力の発揮を求められる「試験」は、極論を云えば、「公平性」が担保出来ないのである。

つまり、本当の意味で思考能力を問う試験を設定するのであるならば、受験生全員の順位が1番から最終番まで、1点刻みに明確に算出することなど出来なくなるのだ。

畢竟、合否の判断は、試験者、採点者の主観と裁量に依存せざるを得なくなる。

それは、従来の「大学入試」に対する「認識」から大きく逸脱する代物に成らざるを得ない。

だから、「大学入試改革」を徹底させようとするのならば、「公平性」から脱却・転換せざるを得ない。

ところが、受験生も教育関係者も、この「大学入試」の「公平性」に対して、懐疑することも否定することも出来ていない。

「公平性を守る」ということは大学入試に関して無謬の要素である、と思い込んでいる。

この「公平性」にこだわり続けるのであるならば、自分は、「大学入試改革」なんぞまだまだ「時期尚早」であると断ぜざるを得ない。

 

自分は、「大学入試」に関する「公平性」は、既に破綻している、と考えている。

まず1点は、「推薦入学」と「AO試験」である。

実は、自分も「推薦入学」だったので、入学してから一般入試で合格した友人から「お前はずるい」と云われたことが有った。

確かに、指摘された通りで、少なくとも英語に関しては、自分は一般入試で受験したならば合格など出来なかったであろう。

だが、一般入試の合格者と推薦入学の合格者、入学後、同じ講義や学習カリキュラムが出来ないくらい「基礎学力」に格差が有ったであろうか?

少なくとも、自分の母校の某私立大学の農学部では、無かった。

自分も友人も同じように進級できたし、卒業も出来た。

あくまでも「大学入試」の「公平性」を厳格に云うのであれば、「推薦入学」や「AO試験」での合格者は、入学後に「日陰者」扱いされなくてはいけない。

だが、あまりに基礎学力が劣っている学生はともかくとして、大学に入学した後は、「大学受験」とはまた違った「ジャンル」の「ゲーム」が始まった、と理解するべきであろう。

 

さらに云うと、もう1点。

「大学入試」は、必ずしも「能力」を「評価」出来ていない。

例えば、20世紀に於いて「世界的な天才」と云えば誰を想起するであろうか?

パブロ・ピカソであろうか?

ロバート・マクナマラであろうか?

やはり、アルバート・アインシュタインであろう。

だが、かのアインシュタインは大学入試に「落第」しているのである。

本当は不合格であったのだが、大学側の教授が物理などの得意科目の優秀さを評価して、1年間、「補習学校」で学習させることを条件に、合格させたのである。

もし仮に、アインシュタインが大学受験に失敗して大学進学出来ていなかったならば、かの「相対性理論」も世に出ることは無かったかもしれないのである。

 

人間の能力、才能というものをどのように評価していくのか。

これは或る面、永遠の課題、と云っても過言ではなかろう。

例えば、日本の文学の名作で、人気の有る「三人」の作家がいる。

夏目漱石と太宰治と宮澤賢治であるという。

だが、宮澤賢治は、多分、生涯に於いて「原稿料」や印税収入をもらったことが無い人であったろう。

宮澤賢治が死去した時、彼の肩書は「作家」ではなかった。

土壌改良をする石灰の販売営業員だった、という。

宮澤賢治の作品が世に知られ、文名がとみに上がっていったのは死後のことである。

しかも、死の直前に、以前に自費出版した童話集「注文の多い料理店」を、岩波書店の創始者である岩波茂雄に宛てて寄贈しようとしたところ、拒絶されたという。

現在、宮澤賢治の著作は岩波文庫でも刊行されているし、宮澤賢治に関する研究著書だって多数、岩波書店から発行されている。

 

自分は、最早、従来のような「大学入試」という「選別方法」は不要である、と考えている。

そもそも、「大学入試」は何故必要であったのであろうか?

それは、大学側の受験生受け入れ許容量に限界が有ったからである。

つまり、東京大学に10万人、100万人の入学希望者がいたとしても、それらの受験生を入学させるだけの収容能力が無いからであった。

だから、3000人ぐらいしか入学者がいないのである。

ところが、今後、状況は大きく変わる可能性が有る。

例えば、バーチャル・リアリティの技術が進歩していけば、講義というものは距離と収容の制限が無く成る。

現在の衛星中継によるサテライト予備校の授業の「進化系」である。

つまり、東京大学教授の講義を聴きたい学生は、東京大学の本郷校舎の講義室に着席しなくても聴講が可能に成るのだ。

さらに、講義の「コマ」に関しても、「東京大学」にこだわる必要性が無く成る。

例えば、法学部であるならば、「民法」は東大の教授、「刑法」は中央大学の教授、その他にも京都大学や北海道大学などといった様々な大学の講義を自由に聴講することが「技術的」には可能になるであろう。

さらに、もっと云えば、同時翻訳機能が進歩すれば、ハーバード大学やケンブリッジ大学、ソルボンヌ大学といった世界中の大学の最高峰の教授陣の講義を聴講することが可能になるであろう。

そうなると、シラバスやカリキュラムも、膨大な講義のコマ数の中から、学生が自由に選択して編集することが可能になるであろう。

そうなった時、現在の「学閥」やら「出身大学」に於ける「選別」ということに、意味が無く成って来るであろう。

勿論、実験や実習のというカリキュラムの於いては「実験室」などの「現場」へ行かなければVRでは限界が出て来るものもあるであろう。

だが、その「実験」や「実習」のコマの選択は、「早い者順」であったり、「抽選」であったり、教官による「試験」によって選別可能であろう。

 

このような「新世代の学び」の世の中に変わった時、「大学」は、入学出来たことが問われるのではなく、卒業(もしくは、修了)出来たことが問われて来ることになるであろう。

或る面、そういう「大学」の方が、「学び」という点に関しては厳格で苛酷であるのかもしれない。

さらに、「大学」に関わる教育者のありかたも厳しくなるであろう。

事実上、「大学」の枠組みが消失してしまう訳であるから、狭い研究室や大学の教授会の「ムラ社会」の力関係だけで保身出来るような状況ではなくなる。

勿論、一般大衆受けしやすい教授やコマばかりに人気が集中し、「カルチャースクール」化してしまう学問的劣化のリスクは生じて来るであろう。

だが、現在の日本の「徒弟制度」としか云いようがないような大学組織のありかたは大きく変わることとなると感じられる。

 

今回の「大学入試改革」に於いて、問題であると考えるのは、「英語」を活用する必要性が増したからである、という理由付けである。

要は、卒業後の仕事に於いて「英語」を使うことになるから、「大学」の段階でしっかりと学習させておけ、ということなのであろう。

確かに、「英語」はグローバル社会のビジネスワークに於いて多用される言語である。

言語とはツール(道具)であり、英語を使いこなせなければ仕事が出来ない、ということであろう。

また、職場によっては様々な国や民族から成る人々のよって構成されていく。

そうなった時、英語を「共通語」「公用語」として使用しなければいけない、ということであろう。

確かに、そうである。

だが、それはあまりに表層的な結論である。

つまり、現在、ビジネスに於いて、英語圏の企業が取引額が巨大であるから英語を「共通語」「公用語」にしよう、と云うことに過ぎない。

ならば、仮に、コンピューターの「5G」世代の技術開発競争に於いて、支那がアメリカを圧倒し、支那が「世界の覇者」に取って代わったならばどうするのか?

多分、英語教育などかなぐり棄てて北京語の教育を大人から子供まで課そうという大転換が生じて来るであろう。

さらに、欧米やアジアの人口増加率が鈍化していき、人口の増加、若年労働人口の増大、天然資源の有効活用が可能に成った場合、ひょっとするとアフリカが急激な経済成長を遂げる可能性だって皆無ではない。

もし、仮に、アフリカが世界経済の「成長点」に浮上したならばどうなるのか?

英語教育ではなく、スワヒリ語でも教育させていくようになっていくのであろうか?

結局、そういう功利的な目的意識によって語学教育を行って行こう、そういうことであろう。

だが、それで果たして良いのか?

 

ことほど左様に、英語の「話す」「聴く」という能力を高めたいのならば、日本国内に居ては駄目だろう。

 「大学進学」する学生は、全員、英語圏の大学に留学させるべきである。

 優秀な学生は、アメリカやイギリスに。

 「それなり」の学生は、フィリピンやインドへ留学させれば良い。

そして、大学入試は、留学先の大学の試験を受験させれば良い。

 英語は言語であり、ツール(道具)である。

 「使い込む」期間が無ければ、身に付くものではないだろう。

 日本国内に居たら、日本語が英語の」「邪魔」に成る。

そんなに「英語」「英語」と云うのならば、乳幼児から英語圏の外国で育成したら良い。

そうすれば、見事にネイティブな英語使いに成れる。

だが、それで良いのか?

かつて、いわゆる「帰国子女」が就職に於いてとても持て囃された。

だが、現在は、かつてほど「帰国子女」「帰国子女」と云われない。

まあ、既に「帰国子女」の数が多く成って、珍奇な存在では無く成って来たということもあるであろう。

しかし、「帰国子女」に対しての「幻想」が冷めたことも有ると思う。

 「帰国子女」は、「日本人」ではないのだ。

 確かに「日本人」なのだが、育って来た地域の「外国人」の感覚なのである。

ところが、日本の企業などでは、「帰国子女」とは、価値判断や感覚は日本人そのものなのだが、語学力に関しては英語圏の外国人と同じ、という誤解が有った。

つまり「ご都合主義」だったのである。

 語学力が英米人と同じであるならば、その感覚も英米人そのものである、ということに何故思い到らなかったのであろうか?

 

一方で、携帯型の自動翻訳機器の技術進化が著しい。

勿論、現在は「単語対単語」という段階から、少し、抜け出たぐらいのレベルである。

とてもではないが、「自動翻訳」という段階ではない。

だが、人工知能やITの技術革新は加速度的であり、対数関数グラフのような急激な進歩展開が予想され得るのである。

ただ単に、「正確な」翻訳であるのならば、いずれ自動翻訳機がある程度のレベルまで機能してくれるかもしれない。

そうなった時、「語学教育」とはいったい何が求められていくのであろうか?

 

自分が歯がゆくてならないのは、今回の「大学入試改革」に関わった「頭の賢い」お歴々の「ことば」に対する「意識」があまりにお粗末であるからである。

「ことば」とは、文化なのである。

そして、自己を規定し、確立させるアイデンティティーの重要要素なのである。

さらに、「ことば」は論理なのである。

論理的思考を行うためには、「ことば」でなければ無理なのである。

勿論、数学や物理学のように、数式でもって理論構築と証明を行っていく方法も有る。

だが、数学の証明問題がそうであるように、「ことば」と「数式」は不可分ではない。

やはり「ことば」に対する読解力や表現力がなければ、人間は知能が確立出来ないであろう。

そこに、日本人の大多数が抱いていた「言語」に対する認識の甘さを感じる。

 「言語」とは、文化であり、日常であり、価値判断基準であり、感覚であり、論理なのである。

 他国の言語を学習する、ということは、自分とは違う文化や日常や価値判断基準や感覚や論理を学習する、ということに他ならない。

だからこそ、言語を学び、研究するということは素晴らしく、尊いのである。

 現在の我々に於いて、決定的に欠落していることは、言語に対する敬意であり、畏怖であろう。

それは、言語だけに止まらない。

 知性そのものに対しても、敬意と畏怖が無いのである。

だからこそ、言語や知性に対する憧憬の念も薄いのである。

 有るのは功利的な、欲得づくばかり。

そんなことでは、「教養」なんか無縁な「えせエリート」を量産するだけである。

 国内の無知蒙昧な大衆どもは、それでも平伏してくれるかもしれない。

だが、外国の真のエリートからは侮蔑されて「おしまい」である。

そこのところの危機意識は無いのであろうか?

 丁度、ODECの各国の学力比較で、日本は「読解力」が低下した、という結果が出た。

 読解力が駄目、ということは、そもそも「問題文」が読み取れない、ということである。

 問題がちゃんと認識出来なければ、当然、正答なんか出て来よう筈が有り得ない。

 読解力に問題が有る、ということは、そもそも「言語」に対する意識が無いのである。

まずは、言語に対しての意識をしっかりと持つべきであろう。

 

冒頭の藤原正彦先生の論文に於いて、やはり、「国語教育」の重要性を説かれておかれた。

自分も同感である。

現在、我々の社会に於いて、長い文章を根気よく読み解いていく、ということをしなくなってきた。

それこそ、ツィッターのような断定的な云い切り、決め付けの文句で表現することばかり。

確かに「寸鉄人を制す」と云う。

だが、ツィッターのような「短さ」では、とてもではないが論理展開など満足に出来得ない。

間違い無く、我々の「国語能力」は劣化している。

さらに「ことば」ではなく、「映像」でもって満足させてしまう方向に行っている。

確かに、「映像」の方が楽である。

だが、「映像」は「流される」のである。

享受されたかたちで「流されてしまう」のである。

しかし、思考というのは、立ち止まり、制止し、踏み止まっている「時間」が絶対に必要不可欠なのである。

それを軽視し、感覚や意識が鈍化していったならば、いずれ、物事をしっかりと受け止めて理解し、思考することが出来なくなってしまうであろう。

繰り返すのだが、まず、母国語で満足に読解し、表現することが堪能でないのならば、いくら外国語を学習し、駆使しようとしても無理である。

母国語以上に、外国語の能力は向上する筈が無い。

例えば、英語に堪能な人は国語も堪能な筈なのである。

もし、英語に比べて国語があまりに能力が貧弱であったならば、その人は言語に於いては「外国人」である。

つまり、その人の母国語が英語に成ってしまったのであるからである。

そして、国語を疎かにし、言語を軽視したならば、論理性が欠落して失敗・挫折するのは当然の帰結である。

藤原先生が「英語教育は日本人を馬鹿にしてしまう」というのは、あながち暴論ではない。

勿論、英語教育が駄目なのではない。

「英語教育」に浮かれ踊り騒いでいる「意識」が愚かしいのである。

 

最後にはっきり云わせてもらう。

現在のような軽佻浮薄な意識であるならば、「英語教育」も「プログラミング言語教育」も「亡国への誘導」でしかない。

まずは、言語に対して敬意と畏怖を持つべきである。

現在、韓国のムン(文)・ジェイン政権の対日政策に関して、既に日本人は気持ちが冷めている。

だが、それこそ1990年代ぐらいまで、韓国に関しては「贖罪意識」一辺倒であった。

かつて、1986年第三次中曽根内閣当時の文部大臣であった藤尾正行が月刊・「文芸春秋」誌に、「韓国併合は合意の上に形成されたもので、日本だけでなく韓国側にも責任がある」等の発言が掲載されて問題となった。

当時、歴史教科書の記述に関して、いわゆる「歴史認識問題」が議論されていた。

いわゆる「政治的失言」という扱いでもって「辞任」を求められたのだが、藤尾大臣はこれを拒絶。

そこで、「罷免」された。

当時の内閣官房長官は護憲・ハト派の後藤田正晴であった、ということも作用していたようである。

往時を知る世代としては、現在の状況に関しては、驚きと感慨を持たざるを得ない。

 

それはさておき、自分は、日本人が韓国からの「贖罪」「謝罪」の要請に辟易したのは、現在の文政権に成ってからでは無いように感じる。

それは、パク(朴)・クネ政権の時だったと感じる。

2013年の3月1日の三・一独立運動記念式典で、

「(日本と韓国の)加害者と被害者という歴史的立場は、1000年の歴史が流れても変わることはない」と演説した。

この演説をきっかけとして、韓国で「千年恨」という言葉が流行したという。

だが、これで、少なくない日本人の意識の中で、韓国に対する「気持ち」が冷め果ててしまったような気が、自分はしている。

つまり、今後、いくら日本側が「謝罪」を繰り返したところで、1000年先までも恨みは消えない、と云うのである。

幾らなんでも、この「感覚」に対しては日本人にとって違和感が強かった。

「じゃあ、もう、いくら謝罪を繰り返したところで、許してもくれないし、和解するつもりは無いのだ」と感じてしまったのである。

まあ、韓国人に限らず、世界に於いては、歴史に関しての「意識」というのは、日本人のように「過去を水に流す」などという甘ったるいものはむしろ「例外」なのである。

「恨み」は「恨み」として、ずっと抱き続けているのである。

ただ、日本人の「悪いところ」で、それまでは「日本人と同じ感覚」でもって「謝罪」を繰り返していた。

だが、この2013年3月のパク演説でもって、「韓国人と我々は感覚が違う」ということを痛感してしまったのであろう。

そこで、一気に「気持ち」が冷め果ててしまったのである。

それこそ今迄は、「同じ人間同士なんだから」といった「慣れ合い」の気持ちだったのが、明確に、「異物」という認識に一変してしまったのである。

そうなると、日本人はあっという間に冷淡に変わる。

さらに、2015年12月末に、電撃的に「日韓合意」を取りつけて、さらに10億円もの大金を送付した。

ところが、その受け取った10億円の基金はムン政権に成ってから「凍結」され、どのように使われてしまうのかさえ先行きが不透明な状態に成ってしまった。

これで、韓国に対しての「擁護」の声が日本側から出にくくなってしまったのである。

現に、うちの家人はアンチ自民党で、現在の安倍政権のやることなすこと、全部批判をしている。

ところが、そんな「アベ政治を許さない!」という人間でさえ、「10億円ももらっておいて、約束を踏みにじるような韓国は許せない!」と云っているのである。

だから、韓国で「これは反日ではなく、反アベ政権なのだ!」と云い換えたところで、最早、遅過ぎるのである。

 

韓国という国家、というか、韓国の社会は、現在の日本人の意識の変化をちゃんと受け止めていなかった。

だから、従来通りの「やり方」が、今回、全く通用しなくなって、狼狽しているのであろう。

日本人というのは、いったん気持ちが冷め果ててしまうと、もう、振り向いてくれないし、耳も傾けてくれなくなる。

韓国側は、日本人に対する「一線を越えてしまった」という観が有る。

ここは、いち早く意識を転換させて対日姿勢を変えない限り、どんどん事態は悪化していくと思う。

それは日本にとって悪いことでもあるのだが、韓国にとっては最悪の状況をもたらすことに成りかねない。

これは、まずいと思う。

奈良県護国神社へ御祈祷をお願いしました!

母の祈祷札
母が、長年苦痛であった整形外科の症状を解決するために、手術を行いました。
一応、全身麻酔をかけたりしますので、「手術成功」の御祈祷をお願いすることにしました!
そこで、お願いをして、奈良県護国神社で御祈祷をしてもらいました!
奈良県護国神社の御祈祷のお札は、紙札と木札が有ります。
自分は木札をお願いしました。
御祈祷のお札とお守りを拝受致しました!
なお、お守りは「厄祓い」「安産祈願」「交通安全」「合格祈願」「病気平癒」など、祈願内容別に対応したお守りがセットに成ります。
そして、お送り下さった御祈祷札とお守りを病室に持っていきました。
手術は無事に終了しました。
後は、術後の回復を待っているところです。
奈良県護国神社の御祈祷のお蔭で、手術そのものは無事に済みました。
奈良県護国神社のご祭神のご加護をいただいて、助けてもらいました。
この場を借りまして、心より御礼・感謝申し上げます!

来る令和元年10月22日火曜日(本年限りの特別の祝日)午前10時から、奈良県護国神社では秋季例大祭が行われます。
本年は、「令和」の「御代替わり」で、最初の例大祭と成ります。
また、10月22日は天皇陛下の即位礼が執り行われ、国内外にご即位を宣明されます。
そのため、奈良県護国神社では、秋季例大祭と併せて「即位礼奉祝奉告祭」が斎行されます。
本当は参列させていただき、参拝したいのですが、遠方ゆえ叶いません。
ですので、祝意と崇敬の「気持ち」を「かたち」としてお送りしたいと考えております。

韓国の文政権は、本当に何がしたいのだろうか?

日本に対して、過去の「戦争責任」を追及すれば「賠償金」がいくらでも、何度でも取れると考えているのだろうか?

そうであるとするならば、日本の社会の現状認識を間違えている。

現在の日本の社会に於いて、一昔のような「贖罪意識」は、相当、薄らいでいるのだ。

韓国や左翼たちは、日本に於いて「反動」や「歴史修正主義」「反知性主義」が蔓延している、という認識である。

それは、一部の極右の煽動によって広範な国民が騙されている、と云う認識なのであろう。

そうではない。

むしろ、逆である。

既に、戦前の生まれの世代はほとんどが死に絶え、良くも悪くも「日本が侵略した約十五年間のアジア・太平洋戦争」に関しての体験も知識も乏しく成っている。

それだけ、年月が経過して「遠く」成ってしまった。

かつては、反権力の立場から、反日・反天皇制というスタンスで、とにかく「日本が悪かった」という「贖罪意識」に染め上げられていた。

だが、「おじいさんやひいおじいさんの時代のことまで、何故、自分たちは責任を取らされなくてはいけないのだろう?」という素朴な違和感から、若い世代の中から「贖罪意識」にとらわれない状況が出て来たのである。

さらに、いわゆる左翼の論理が、無様に破綻していて、「批判する為の批判」でしかないことに気付かされた人々は、最早、左翼が高説する「贖罪意識」に従わなく成って来たのである。

そこへ、「日本は悪くなかった」という、保守派の論理が徐々に浸透して云った訳である。

だから、2010年ぐらいを境に、日本の社会に於いて、「もう、戦争責任を贖罪させられることに疲れ果てた」という心理が熟成されたのである。

もし、極右のプロパガンダによる煽動で国民が騙されているのならば、左翼側もよりプロパガンダ工作に注力すれば、失地を挽回出来ることに成る。

だが、そうは成っていない。

むしろ、左翼側はどんどん消耗していって、際限の無い後退戦を強いられている。

日本人の、特に若い世代に対して、いくら過去の戦争責任を追及したところで、かつてのような謝罪一辺倒の対処から大きく変わってしまっているのだ。

多分、中国共産党あたりは、この潮流の変化に気が付き始めていると思うが、韓国と北朝鮮は「まだまだやれる」という認識なのだろう。

「安倍政権が潰れれば、また、元に戻る」という認識なのだろう。

確かに、安倍政権が瓦解すれば、少なくとも現在のような「強硬姿勢」はやわらぐかもしれない。

だが、それこそ1990年代のような、日本人全体の「贖罪意識」は、最早、再現されないであろう。

日本人というのは、いったん肚を括ると、途端に意固地に成る。

今度は、意地でも譲歩や取引に一切応じなくなるだろう。

それが例え、日本の国益に反することに成ってでも、そうなるであろう。

自分はツィッターをやらない。

アカウントは有るのだが、ほとんど閲覧もしないし、自分からも投稿しない。
ツィッターは、よく「馬鹿発見器」と呼ばれる。
ツィッターによって、その「発信者」の頭の良し悪しが如実に露呈してしまうからである。
そう、自分がツィッターをやらないのは、「馬鹿がばれる」からwww

と云うのは嘘であるwww
自分が馬鹿なのは、既に、衆目の一致する周知の事実である。
だから今更「馬鹿がばれ」たところで、何のことはない。
では、自分がツィッターをやらない理由は何なのか?

それは、「短か過ぎる」から。

あの文字数制限では、論理展開が出来ない。

すると、どうしても、断定、決め付けの形に成らざるを得ない。

それが不快なので、自分はツィッターを自分から書かないし、他人のものも読まない。

自分がツィッターを使う場合は、「告知」や拙ブログ記事の「紹介」のみにしている。

現在の若者たちの多くが、ツイッターでもって「読み」「書き」していることに、自分は危惧している。

世の中や人情と云うのは、そんな単純にして簡潔で済ませられるものではない。

そう云えば、ビジネスの世界などで「1分で話せ」という課題が流行しているようである。

この意図は理解出来るし、その効用も否定はしない。

だが、何でもかんでも「1分で話せ」という枠にはめてしまうことに、自分は躊躇してしまうのだ。

 

そう云えば、日本陸軍・関東軍の参謀で、戦後は伊藤忠商事のトップとして財界で辣腕を振るい、中曽根内閣の「行政改革」などでもブレーンとして活躍した人物が居た。

瀬島龍三である。

ノンフィクション作家の保阪正康は、その論調は極めて左派・リベラル的であるものの、膨大な人数のインタビューを行って来た。

彼の著作の結論に対しての是非はともかくとして、彼が記した夥しい証言取材の記録は軽視してはならない。

その保阪正康が、瀬島龍三に対して、幾度もインタビューを行っている。

実は、瀬島龍三は大きな闇を背負っている。

大東亜戦争終戦時、彼は関東軍参謀として、ソ連軍との終戦交渉に立ち会っている。

だから、いわゆる「シベリア抑留」に関しての日ソ間の交渉について、知り得る立場にあった。

さらに、「シベリア抑留」中に、瀬島龍三は「東京裁判」のソ連の「証人」として法廷で証言をしている。

(個人的には、アガサ・クリスティーの「検察側の証人」を思い起こしてしまったwww)

だが、そんな瀬島龍三は、この「シベリア抑留」に関しての核心的な事柄には、ついに一切、証言することはなかった。

95歳という稀れに見る長寿を全うしたのだが、結局、彼は「シベリア抑留」に関しては「墓場まで持って行ってしまった」。

だが、瀬島龍三は、全く「シベリア抑留」に関しての証言を残さなかった訳では無い。

ただ、どうでも良い些末な事柄に関しては詳細な証言をするのだが、肝腎の核心的な事柄については一切、明確な証言をしなかった。

そういう意味で、やはり頭脳明晰であった、ということであろう。

また、瀬島龍三が、何故、戦中・戦後を通してその能力を評価されたのか?ということについて、保阪正康はこう説明している。

分厚いファイルいっぱいの膨大な資料を、紙切れ一枚にまで要約出来た、という。

これが、官僚としての能力の優秀さである、という。

 

確かに、「要約」することが出来る、ということは徹底した理解が無ければ不可能であろう。

つまり、「要約」の成立条件として、「理解」が担保されている訳である。

だが、注意しなくてはいけないのは、「要約」が、必ずしも「理解」を伴っていない場合が有ることである。

もっと云えば、「要約」というかたちを取りつつも、実際は「誘導」である場合が有り得る、ということである。

「要約」することによって、資料全体を読破してはじめて感じられる「雰囲気」「論調」と云うニュアンスが削ぎ落とされてしまう訳である。

そういう背景を考慮した場合、「要約」することを無批判に享受することが、果たして妥当なのであろうか?

 

勿論、自分のようなズルズルベッタリの長談義は、要領を得ずに解りにくいのであろう。

悪文の代表例みたいなものである。

だが、意を尽くしきれぬ、ということを読み手に感じさせてしまう、ということも時には必要なのではなかろうか?などと自分は思ってしまったりするのであるwww

 

ま、そんなこんなで、自分はツィッターをやらない。

そのうち、SNSからも撤退して、のんべんだらりと暮らしていくのかもしれないwww

韓国人・朝鮮人にとって「日韓併合」は、許せない過去なのだろう。
確かに、民族が南北に分断されている現状を思えば、憤懣やるかたないのであろう。
だが、「日韓併合」ではない場合は、どうなっていたであろうか?
ロシアか、支那に占領されていただろう。
当時の支那は、半ば内戦状態だったから、ロシア領になっていたかもしれない。...

もし、ロシアになっていたら、帝政ロシアから苛酷な重税が課せられていたろう。
ロシア革命後は、シベリア出兵のように、日本軍が攻めて来ただろう。
さらに、ソビエト連邦になれば、かのスターリンの大粛清が猛威を奮ったであろう。
第二次世界大戦が始まったならば、日本軍は、ヒトラーに呼応して、朝鮮半島へ攻め寄せたであろう。
そして、日本が敗戦した後は、再びスターリンのソ連になり、日本軍の占領下にいた、指導的な立場の人間は、全員、粛清されていただろう。
但し、その結果、南北に分断されることなく、プーチンのロシアになっていただろう。
勿論、「国語」はロシア語になっていた。


これが、支那に占領されていた場合は、第二次世界大戦開戦まで、軍閥や国民党、共産党が 相い争う際限の無い内戦状態が続く。
そして、日本軍に攻め込まれる。
日本敗戦後は、国共内戦となり、毛沢東の中華人民共和国になる。
朝鮮戦争は起こらないが、大躍進政策やプロレタリア文化大革命の猛威が吹き荒れることになる。
勿論、南北に分断されることはないが、習近平の中国共産党支配下になる。
「国語」は北京語になっている。
さらに、漢人が大量に植民されて、同化政策が徹底される。
そのうち、自分たちは「漢民族」という意識に転換させられてしまうだろう。


無論、日韓併合が無ければ、満州事変なども起こらない訳だから、日米開戦も無かったかもしれない。
とはいえ、日韓併合ではない場合の朝鮮半島は、現在のような南北分断にはなっていなかったであろうが、「赤化統一」されていたということであろう、
日韓併合を、あくまで否定する人は、今まで想像してきたような朝鮮半島を望んでいる、ということになるのだろう。

自分は、奈良県護国神社を崇敬している。

だが、だからといって、奈良県護国神社「だけ」が繁盛すれば良い、とは思っていない。

日本全国には、50社以上の旧内務省指定の各県の護国神社が存在している。

なお、北海道と岐阜県には3社、島根県や広島県、兵庫県には2社存在するなど各都道府県に1社存在する訳ではない。

また、神奈川県は、戦時中に空襲で焼失してから再建が為されず、唯一、旧内務省指定の護国神社が存在していない。

(現在、篤信の有志が、神奈川県護国神社の御再建に向けて、地道な活動を為さっておられるとのこと)

靖国神社は、良きにつけ悪しきにつけ、人々の耳目を集めている。

しかし、各県の護国神社に対しては、あまり関心が向けられていない。

自分も東京で生まれ育ったせいで、各県の護国神社に対しての認識が無かった。

だが、大阪に転勤し、地方から東京を見る状況に身を置いた時、護国神社を参拝することの尊さにようやく気が付かされたのである。

東京近郊の方はともかく、遠方の土地に居住される方々にとって、靖国神社はとても遠方に在る。

だが、戦争で亡くなられた方々の霊魂は、云わば、我々にとっての「ご先祖さま」であり、血縁関係であろうとなかろうと、やはり、きちんと拝まさせていただくべきものであると自分は感じている。

だが、現在、護国神社は、お社によっては、なかなか法人運営にご苦労されておられるところも有ると云われている。

地方の人口流出や経済活動の沈滞など、各県の状況はなかなか厳しい。

神社やお寺、墓地などの維持管理運営さえ不安な状況と成って来た。

各地域の氏神、産土神といった神社も、維持が難しい状況でもある。

しかし、護国神社は「氏子」が無く、いわゆる「崇敬者」のみによって支えられている。

護国神社へ心を寄せる人がいなくなってしまえば、護国神社の祭祀は途絶してしまうかもしれない。

また、現在、各家の先祖代々のお墓でさえ、「墓じまい」というかたちで撤去、処分する動きである。

護国神社に対しては、本当に厳しい状況である。

ただ、「お墓参りをしない人は、うわべだけの人」という分析が有る。

目につく表面上のことしか気に留めず、見えないところは放置してしまう性分の人が居る。

だが、そういう人は軽佻浮薄であり、じっくりとお付き合いをする人とは云えない。

やはり、目に見えない部分をきちんと意識して、ちゃんと対処している人というのは、お付き合いさせてもらうに相応しい人であると思う。

勿論、オカルトに傾倒して、非現実的な人であっては駄目なのだが。

そう考えてみると、過去の歴史認識や戦争の惨禍といったことがらはともかく、亡くなった方々の霊魂に対して、きちんと敬意を示すことを怠るような社会や時代に成ったならば、その将来は危うい、と云えると思う。

そういう意味で、全国各地の護国神社を、何とか「風化」させずに、祭祀がちゃんと行われ続けるようにしていかなくてはいけない。

そこで、それぞれの皆さんに関わり合いの有る護国神社を、どうか意識されて大切に護持していくようにお願いしたいのである。

各人には各々、関わり合いや御縁の有る護国神社が必ず存在する筈であり、気が付かない人は是非、見つけてもらいたいのである。

各人の出来る範囲のことがらで充分なのである。

そして、そこから、きっと「良い流れ」が生まれていくのだ、と自分は確信している。


来年がはじまって、すぐに、大学入試が行われる。

来年から大学入試「改革」が実施されて、特に英語教科について、大きく変化する。

それに際して、民間業者からの「出題」と「採点」を採用しようとしているのだが、はっきり云って、ちゃんと実施出来るのかどうか疑わしいレベルの体たらくである。

 

こんな状態であるならば、大学入試は「出来ない」だろう。

何故なら、日本人にとって「試験」は「客観的公平性」が絶対視されているからである。

つまり、仮に1000人受験した場合、1番から1000番まで、きちんと明示出来るようでなければ「納得しない」のである。

いくつもの民間業者から「出題」され、「採点」がされる。

それで、「試験」の「公平性」が保証出来るのか?

甚だ心許ない。

現在の日本の社会に於いて、「試験」は「公平性」が絶対である以上、こんな現状では、「試験」として成立しないであろう。

 

ただ、自分は、いわゆる「大学入試」が従来通りのままであって良いとは考えない。

何故なら、我々の「社会」が激変しているからである。

そもそも「教育」とは何か?

それは、子供たちを「理想の大人にするための行程表」なのである。

つまり、その社会なり、国家なり、共同体なり、組織なりにとって「理想の大人」像に仕立て上げるためのロードマップが「教育」なのである。

だから、「社会」が激変している以上、「社会」が求めている「理想の大人」像も否応無しに変わらざるを得ない。

当然、「教育」も現状維持のままで良い、と云う訳にはいかなくなる。

もし、「社会」が大きく変化していっているのに、「教育」が不変であったならば、「社会」が必要としている「大人」と「教育」によって育成される「大人」に齟齬が生じてしまうであろう。

その齟齬が、まだ些少な状況であるならば、「社会」に出てから微調整を施せば対処が可能である。

だが、その齟齬がどんどん大きくなってしまったならば、「需要」と「供給」に乖離が生じてしまうことに成る。

「社会」の方が、「教育」に対して、「もっと社会に合致した教育にしてくれ!」という要求が出て来る訳である。

 

では、何故、「社会」が激変しているのであろうか?

それは、科学技術の進歩による。

具体的に云えば、人工知能(AI)の加速度的な技術革新による。

つまり、技術の進歩により、人間の「能力」の「需要」が変化した訳である。

 

例えば、かつて目に見えた「もの」を、あたかも「ありのまま」のように描きだす技術は得難いものであった。

また、同じ「もの」(図形であったり、文字であったり)を「そのまま」写しとることは、やはり、難しかった。

ところが、写真や印刷の技術が発明されると、人間の能力はそれらは機械によって代用されて、「需要」の重要度が下がったのである。

計算もそうである。

かつては、算盤や暗算が出来る能力は重宝された。

だが、電卓が発明されてからは、算盤や暗算の能力の重要性は低くなってしまった。

それらと同様の状況が、もっと広範囲に及びはじめている訳である。

勿論、写真や印刷や電卓が発明されたからといって、必要とされる人間の能力はゼロにはならなかった。

それは、今後もそうであろう。

だが、従来、必要とされ、重要視されていた「能力」が、あまり必要とされなくなっていく「傾向」には、間違い無く成って行くであろう。

 

20世紀の社会とは、大量生産・大量消費、少品目・多量生産という傾向であった。

だが、今後は、少量生産・少量消費、多品目・少量生産という傾向に変わっていくであろう。

それは、化石燃料を主としたエネルギー源の枯渇への危惧やエネルギー消費による深刻な環境破壊という背景がある。

これは、規定された計画を正確に遅滞無く遂行する、という傾向からの脱却を意味するであろう。

これからは、多様化した要求に対して臨機応変に対応していく、という傾向であろう。

そうなると、決まりきった「ことがら」を丸暗記して正確に遅滞無く作業する、という業務よりも、ゼロから企画を生み出し、試行錯誤と臨機応変な対応を果断に行い続けていく、という業務に転換していく傾向に変わっていくのではないだろうか?

そうなると、「減点採点法」のような、ミスや間違いが無い、正確性よりも、いかに瞬時に本質的な対処を行えるのかが重要になっていくであろう。

だから、順番や表現の不適切さは致命的な欠陥とはみなされなくなっていくであろう。

まさに「拙速は巧遅に勝る」と云うことに成るであろう。

そのように価値判断基準が転換してしまったならば、正確さや正答への固執は、かえって悪影響を及ぼしかねない。

多少の粗相は目をつぶって、より効果的な対処を瞬時に、果断に繰り出して行く事の方が重要と成っていくかもしれない。

 

これは、「試験」そのものの「ありかた」が問われていくことであると思う。

既に、我々は、そこまでラジカル(根源的)な段階まで突入しているのではないだろうか?

となれば、「教育」に関しても、「大学入試」に関しても、ラジカルでドラスティックな変革まで踏み出さなくてはいけないのではないだろうか?

 

そもそも「大学入試」は何故、必要であったのだろうか?

それは大学に「定員」が存在したからである。

教室やキャンパスの収容人数には「上限」が有ったからである。

東京大学や京都大学、早稲田や慶応義塾といった大学に、志望者が全員入学させようとしたらキャパ・オーバーに成ってしまう。

その大学の「教育」の「質」を維持出来なくなってしまう。

だから、「定員」が設定され、「定員」から超過した人数を「落とす」ための「入学試験」が設定された訳である。

しかし、全国の大学が一元管理、可能であるならば、受験者の大学教育に必須な学力を試験するかたちでも問題が無いのではないだろうか?

いわゆるフランスのバカロレアなどはそういう「りくつ」であろう。

それは、志望する大学のための入学試験、ではなく、大学進学するために必要な学力を有しているかどうかの入学試験、ということになる。

それは、「免許」の「試験」に近くであろう。

だが、受験生の学力には差が有る。優劣が有る。

そして、優秀な学力を持った学生と、そうでない学力の学生を「同じ」カリキュラムで教育させていくのは「不可能」であるとされた訳である。

そこで、優秀な学生が進学する「優秀校」と、そうではない学生が進学する「それなりに校」wwwに大別されていった訳であろう。

 

だが、これからはどうなるのか?

まず、そもそも、「通学」する必要性が有るのであろうか?

既に、インターネットの動画配信で「講義」は視聴が可能である。

レポートの提出と添削は、メールで充分であろう。

課題図書や資料の貸し出しや閲覧は、ネットでの検索で事足りる。

ゼミナールのディスカッションも、チャットやTV会議で可能であろう。

いわゆる、実験や実習以外の科目は、最早、「通学」せずに「自宅」や車中などでも充分、実行可能であろう。

そうなれば、物理的な「定員」という限界は、最早、消失してしまうのではないだろうか?

つまり、ただ単に科目の「単位」を取得する、ということが「大学教育」である、とするならば、最早、「通学」も「下宿」も必要不可欠ではなくなるであろう。

さらに、VR(バーチャル・リアリティ)の技術が進歩すれば、その度合いはさらに強まっていくであろう。

 

これは、インターネットに接続出来れば、大学教育を受けられる、という状況である。

この状況に於いて、殊更に「大学入試」を設定して、受験生の優劣を1番から最終番まで提示する必要は無いのではないだろうか?

 

「大学入試」に於いて、「客観的な公平性」が絶対であったのは、「本当は合格し、入学出来ていた受験生が、不合格にされて進学出来ない」という「不正義」が有ってはならない、ということであったと感じる。

だが、「大学の定員」が、ほぼ「無制限」という状況に成れば、殊更、「大学入試」に於ける「公平性」が要求される重要度が下がっていくであろう。

今後は、数学に於いてはトップクラスであるが、地理に関しては劣等生、という学生でも、その教科ごとのレベルに対応したカリキュラムをインターネット上から選択して受講すれば、科目単位を取得することは可能であろう。

極端な話し、或る科目は東京大学で単位を取得し、或る科目は中洲産業大学で単位を取得する、ということも可能に成るであろう。

そうなったならば、最早、「出身大学校」でもって学生を評価する、という「ありかた」ではなくなっていくであろう。

 

勿論、「大学教育」は、「講義」や「ゼミ」、「レポート提出」だけではない。

やはり、実際に人と人とが出会い、同じ場所で同じ時間を「共有する」ということからでないと「学び得ない」ことが存在すると思う。

まさに「同じ釜の飯を食う」、「裸の付き合い」といった人間関係、交流の中から学び得ることは大きいと感じる。

 

だが、「そこまで」大学教育の「ありかた」が変わった状況の中で、従来の「大学入試」の「ありよう」を議論したところで、それにいかほどの意味が有るのであろうか?

確かに現状の「大学入試」のままでは、時代に取り残されてしまうであろう。

だが、かといって、民間業者の試験を導入したぐらいで、今後、ますます加速度的に激変していくであろう現代社会に於いて、何の足しに成るのであろうか?

それこそ、ペーパーテストでもって受験生を絞り込んで行く、という「前提」それ自体から脱却していく必要性が有るのではないだろうか?

それには、「大学入試」だけではなく、「高校教育」の「ありかた」とその評価に関しても議論していくべきであろう。

 

現に、アメリカの難関私立大学は、高校時代の成績と諸々の活動などを吟味し、さらに面接を課して、合否を決めている。

だが、その合否の決め方は、「公平性」が乏しいように見える。

けれども、「大学入試」による合否の選別も、実は「公平性」が担保されていない。

何故なら、既に、「推薦入学」している学生が、相当な割合で存在しているのである。

だから、日本の「大学入試」に於いて、「客観的な公平性」は、或る面、破綻している、と云っても過言ではないのかもしれない。

 

今迄、長々と駄文を書き連ねて来たのだが、「大学入試」は、最早、数か月後に実施が迫っている。

原理原則論でもって議論していたならば、とてもではないが、来年は間に合わない、であろう。

ならば、どうすべきなのか?

今のような、不完全な英語の入試であるならば、自分は英語の科目だけ入試を削除した方が良いだろうと思う。

事実上、英語の科目入試を「免除」するかたちになる。

これは大問題である。

しかし、現在のような不完全なかたちであるならば、実施した後、必ず、不具合が続出するであろう。

その際に、「不合格」とされた受験生に対して、どのように対応するつもりなのだろうか?

かといって、今年と同じような入試形態を、現時点から慌てて設定し直しても、最早、間に合わないであろう。

そうであるならば、「英語」の「科目」は「無し」でいくしかなかろう。

もし、英文科や国際学部のような英語の学力をシビアに評価する必要性の有る学校・学部は、独自に過去の問題集などから再編成した入試を課していくしかないだろう。

 

大学受験生諸君には、甚だ迷惑千万であろうが、「所詮、この世はままならぬもの」と諦観してもらいたい。

或る面、これは「社会勉強」であり、「人生のほろ苦い教訓」に成るであろう。

とても気の毒であるし、誠に申し訳けないとは思うのだが・・・

奈良県護国神社にお願いをして、母の御祈祷をしてもらうことにした。

母が、整形外科の「手術」をする。

長年の腰と臀部(お尻)の痛みを、根本的に解決するための「手術」である。

内科系の手術ではないので、多少、気が楽ではあるのだが、やはり「手術」は「手術」である。

何がどうなるか解らない。

そこで、自分が崇敬している奈良県護国神社で、母の「手術成功」の御祈祷をお願いした。

自分は、御祈願や御祈祷は、なるべく靖国神社や護国神社でお願いしている。

そうすることで、靖国神社や護国神社を財政的に下支えすることにも成る。

そして、やはり、自分にとって常日頃から崇敬している神社やお寺にお願いするのが一番、自然であろう。

 

そう云えば、先日、自宅の庭の灌木を伐採してしまった。

やはり、草木とはいえ「生命」である。

殺生をしてしまった以上は、然るべき「対処」をさせていただこうと思った。

奈良県護国神社では、「お浄めの砂」を頒布して下さっている。

本当は、参拝した上で拝受させていただくのが筋である。

だが、これも無理をお願いさせていただいた。

奈良県護国神社から「お浄めの砂」をお送り下さり、庭の伐採した灌木の跡に撒いた。

自分の気のせいなのかもしれないが、樹木を不用意に伐採すると手足に「障り」が出て来るようである。

よく、「ご神木」と呼ばれるような巨木に刃を入れると、実作業の従事者である植木職人や木こり、更に「持ち主」に「障り」が出て、最悪の場合、生命まで取られることが有ると云う。

やはり、「地鎮祭」などの神事や仏事は、無視してはいけないと思う。

 

奈良県護国神社には、本当にお世話になっており、大変恐縮している。

来月の10月22日には、秋季例大祭が斎行される。

残念ながら、参拝は難しいのだが、感謝御礼の気持ちを込めて「玉串料」だけでもお送りさせていただこうと思っている。

ビートたけしが「TVタックル」でもって、コメントをしたという。
「日韓関係がこんな状態なのに、TV局で韓流ドラマを放送しているなんて」と。

たけしも焼きが回ったな。
別に、韓国ドラマが放送されたところで、それが何?
それとも、韓国ドラマを視聴したら、それで現在の韓国の文政権に対して融和的に変化してしまうのか?
もし、そうなら、韓国ドラマが悪いのではなく、それで政治意識や歴史認識が 影響されてしまう人の「頭が悪い」のではないのか?
本当に、毅然とした態度がとれるのなら、
韓国ドラマを見ようが、
Kポップを聞こうが、
真露やマッコリを飲もうが、
タッカルビを食べようが、
微塵の揺るぎも生じない筈であろう。...
つまり、所詮、日本人の「毅然たる態度」なんてものは、「そんなもん」ということを吐露してしまった訳だ。

たけし、機を見るに敏だから、日和ったな。

糟糠の妻と別れるなど「老いらくの恋」でもって、どうもビートたけしの行状が「らしくない」。
耄碌しちゃったの?
何だか哀しいし、寂しい。

それはともかくとして。
自分が危惧していること。
韓国に対して、毅然と対応するのは、日本の国益と国民の生命と財産を守るため。
だが、「状況」が変わったら、どうする?
その時、あくまで、日本の国益と国民の生命と財産を守ることを「最優先」することを貫き通せるのだろうか?
「日本の国家よりも、憲法9条が大事」とか、...
「国益や国民の生命・財産よりも、名誉を死守すべき」などと、興奮することになりはしないか?

(でも、こういうコメントをすると、途端に「いわゆる保守派」からは石が飛んで来るwww
つくづく、保守派から追放されてホッとしているwww)


自分は、いわゆる「失われた世代」に対して、行政や企業が全面的に救済すべきであるとは思わない。

やはり、自助努力はしなければいけない。

だが、いわゆる「自己責任論」でもって、今迄、あまりに行政や企業が現実逃避をして放置し過ぎていた。

だから、敢えて救済論に偏るかたちで書いている。

ただ、「弱者」というのは、「情報弱者」であることがほとんど。

例え、努力して頑張っても、それが間違っていたり不充分であったりすれば、やはり成果は上がらないのだ。

どうも日本人は、「正誤」や「善悪」の二元論で断じることが多過ぎる。

「正しい」か「正しくない」か、という座標軸の他に、「巧拙」という座標軸が存在すると自分は感じるのだ。

だから、悪戦苦闘している人に対して、「お前は駄目だ」「お前は正しくない」という批判ばかりを叩きつけると、反発したり、意気消沈してしまったりする。

場合によっては、「正しいけれど、下手くそなんだ」「間違っていないけれど、不充分なんだ」という指摘をしなければいけない、と思う。

話しは戻るが、「失われた世代」を、全部丸ごと救済することは不可能であるし、行うべきでもない、と思う。

ただ、ピンポイントで効果的なアシストは絶対に行わないと駄目だと思う。

「失われた世代」は、日本の社会に於いて、それなりの割合と規模を有する。

自分が危惧しているのは、「失われた世代」が50歳代や60歳代にまで年齢が上昇した時、循環器系などの重篤な成人病を発症することである。

現在は、かろうじて自活出来ていても、脳梗塞や心疾患などで半身不随の状況に陥り、さらに初期治療が為されずに不可逆的な症状が重くなってしまえば、最早、社会福祉として面倒をみなければいけない状況に成るだろう。

現在、貧困ゆえに食生活が偏り、住居や衣服に関しても不充分な環境にあれば、風邪といった病気も医師に診てもらうことを断念し、薬店の販売薬さえ購入せずに我慢するしかない人もいるだろう。

そして、どんどん病状が悪化し、或る時突然、昏倒して病院に担ぎこまれるような事態に成るかもしれない。

そうなってからでは遅過ぎるのである。

成人病を予防するような方向へもっていかなくてはいけない。

ただ、健康と云うのは、将来に対しての希望が持てなければ意識を持てないと思う。

半ば自暴自棄の絶望的な状況に有った時、飲酒や煙草といったストレスを紛らわせる対象に依存したくなってしまうであろう。

だから、「酒や煙草に溺れるような奴は馬鹿だ」と断じたところで、何の解決にもならないのである。

「もっと美味しいお酒が飲めるように成りましょう」

「もっと美味しい煙草が吸えるようにしていきましょう」

といった切り口から、生活の見直し、人生の立て直しをはかっていかないといけないと思う。

「失われた世代」だけでも2百万人は下らないだろう。

その大群が、一気に要介護5といった重篤な障害を発症するような状況に陥ったら、日本の国家は内側から支えきれずに崩れ落ちてしまうであろう。

緊迫する安全保障問題対策も重要であるし、少子化対策だって軽視してはいけない。

だが、最早、中高年に突入してしまった「失われた世代」をピンポイントで補助していなければ、日本の国家、社会の底が抜け落ちてしまうと思う。

ただ、いわゆる「希望者を全員、正社員にすべき」や「最低賃金を高額にせよ」というのは不可能であると思う。

日本の企業や社会の「組織」のあり方そのものが、今、激変しようとしている訳で、1960年代に確率されたような「正社員」像は、最早、維持出来ないだろう。

自分は、ただの派遣労務者だから、具体的な改善策を提示することは出来ない。

だが、強いて上げるとするならば、せめて「居住」に関しての補助であろう。

一つは、「家賃補助」であり、公共による寮の整備である。

とにかく、ネットカフェや貸しコンテナ倉庫を「住居」にするしかないような状況下の人は、早晩、路上生活者に堕ちてしまう。

ただでさえ、人手不足が深刻化するにもかかわらず、一方で「働けない」人が出てしまうのは、情けないことである。

まずは、心身の健康を損なわない程度の最低限の救済を早急に整備しておくべきだと愚考する。

斉藤緑雨という明治時代の小説家が居る。

今では、彼の代表作が何なのか知る人はほとんどいない。

だが、彼は尽力しなければ、かの樋口一葉が後世まで広く知られることは無かった。

つまり、現在の5千円紙幣の肖像をもたらしたのは、斉藤緑雨と云うことに成ろう。

 

斉藤緑雨の小説は知られていないのだが、彼が当時の新聞紙上に掲載したアフォリズム(警句集)が、今日まで知られている。

「ギヨエテを、俺のことかとゲーテ云い」というのは、実は斉藤緑雨の手によるものであった。

その他にも、痛快なものが多々有る。

「貧を誇るは、富を誇るよりもさらに卑し」

「人は常に機会を待てども、機会は遂に人を待たず」

「鏡は悟りの具にあらず、迷いの具なり」などなど。

(なお、衒学趣味の押井守監督は、かの映画「イノセンス」にて、「鏡は・・・」の警句を引用している)

 

その中で、自分が馴染み深いのが、これである。

「按ずるに筆は一本也、箸は二本也。衆寡敵せずと知るべし」

やはり、文学にしろ、本や雑誌は売れなければいけないのである。

 

あまり論じる人を見受けないのだが、出版も立派な「経済活動」である。

やはり、売れなければ駄目なのである。

かつて、いわゆる保守系の書籍や雑誌は、本当に入手が難しかった。

そもそもが売れないから、近所の中小の書店で見かけることが無かった。

何しろ、産経新聞だって、自宅に取っている家庭が少なかった。

自分が小学校の頃の多摩ニュータウンでは、図画工作の授業で使うために「家から古新聞を持って来て下さい」と云われて、見てみると、朝日、読売、毎日、日本経済といった新聞は目に付いた。

しかし、産経新聞は、東京新聞よりも少なく、しんぶん赤旗よりも下だった。

ちなみに聖教新聞は、連載新聞小説「人間革命」などを切り抜いて保存するために、そういう家庭の子弟は持って来なかったようである。だから、目にした記憶が無い。

それくらい、保守系の言論媒体は「売れなかった」。

だから、保守的な言論は、「売れない」「無視される」「批判されても、反駁が周知されない」ますます「駄目扱いされる」、といった「悪循環」に陥っていた。

「諸君!」も「正論」も「サピオ」も、好事家だけが読むような、「趣味の雑誌」か業界雑誌みたいな扱いだった。

ところが、「月刊WILL」が創刊された頃から、次第に、いわゆる保守系の書籍が売れるように成って来た。

今では、「月刊WILL」や「月刊hanada」は、書店で平積みされて、2週間も経つとほぼ売り切ってしまっている。

かつて、政治や歴史などの専門書の書棚に行くと、ほぼ全てが左翼系の書籍で占めていた。

だが、今では、保守と左翼系で、ほぼ半々である。

図書館の司書や出版社の編集者の多くが左翼シンパであるように、書店の販売員もその多くが左翼シンパである。

事実、小川榮太郎先生の朝日新聞批判の書籍は、自分の行きつけの書店では、あまり目立たないところに配置されていた。

一方、左翼的書籍は、敢えて目立つ場所に置かれていた。

しかし、左翼的書籍は、売れ行きが悪いので、いつの間にか「返本」されて見かけなくなってしまうのである。

「月刊WILL」や「月刊hanada」は、最早、確実にはけていく「売れ筋商品」であるため、否応無く、目立つところに配置するしかなくなっている。

 

そう考えてみて、今、一部で話題と成っている、映画「主戦場」であるが、それも「この視点」で考察してみたら、面白いと考えた。

この映画「主戦場」というのは、日系アメリカ人のミキ・デザキという人物によるものである。

元々はユーチューバ―だったそうだ。

ユーチューバ―で、いわゆる「言論人」に出世したのは、「テキサス親父」こと「トニー・マラーノ」である。

彼は、アメリカの保守層の「一般人」の典型であり、その論説がニューヨークやロスアンゼルスなどの「民主党・リベラリスト」ジャーナリズムばかりを「アメリカの世論」もしくは「アメリカの良識」と思い込まされ続けていた日本人にとって、とても新鮮であったのである。

当初、自分が「テキサス親父」の存在を知ったのは、西村修平を通じてだった。

西村修平は、シーシェパードなどのアンチ捕鯨運動に関して、対抗運動にも注力していた。

そのいきさつで、「テキサス親父」を喧伝したのであろう。

だが、「テキサス親父」と彼をプロデュースしている藤木俊一は、西村修平と距離を置いた。

これは賢明な選択であった。

それから、夕刊フジにコラムを短期連載したり、来日して講演会を開催したり、書籍を出版したり、「言論人」としてのキャリアを形成出来た。

他にも、ユーチューバ―から「言論人」として認められたのが、KAZUYAである。

彼も書籍を出版し、週刊新潮でもコラムを連載している。


一方の左翼系はどうであろうか?

ほとんど存在していない。

強いてあげられるとするならば、リチャード・コシミズ(爆笑)ぐらいであろうか?

勿論、朝日新聞や「世界」、週刊金曜日などには、「それなりの若手言論人」が輩出されてはいる。

だが、そのほとんどが「大学准教授」といった研究職である。

つまり、「筆一本」では生計が成り立たないのであろう。

現在、左翼のブレーンのインキュベーターなのは、アカデミズムである。

つまり、大学やその系列の研究機関が、かろうじて左翼のブレーンたちを養っているのであろう。

 

そう見てきて映画「主戦場」のミキ・デザキの「立ち位置」はどうであろうか?

はっきり云って、日本で稼ごうとは考えていない、と感じる。

では?

多分、韓国と中華人民共和国であろう。

かの藤岡信勝先生が言及されておられるように、江川詔子が「保守系言論人とインタビューするテクニックを知りたい」と思った訳である。

長い間、保守系の言論人は、マスコミやジャーナリストから「取材」をされ、それに快く応じた結果、歪曲されたり、「ご都合主義」でもって「コメントを切り刻まれる」といった酷い仕打ちを受け続けていた。

だから、左派的な思想信条の持ち主からから取材を持ちかけられても、一切、謝絶することが多く成った訳である。

そういう状況の中で、ミキ・デザキは、自らの思想信条などの「背景」を伏せたまま、巧みに「映像」をせしめた訳である。
多分、他の「監督」だったら、これだけの「オールスターキャスト」を収められることは不可能であったろう。

現在、日本国内で於いて、いくら朝日新聞や週刊金曜日がヨイショしたところで、その興業結果はたかがしれていよう。

かつて、「言論弾圧だ」何だと話題に成った、映画「靖国」も、さほど興業的には数字が出なかったと感じる。

だから、ミキ・デザキの「主戦場」も、日本国内での「あがり」は、期待出来ない。

しかしながら、これにハングルや簡体漢字の字幕を付けて、韓国や中華人民共和国で上映すれば、反応は違ってくるであろう。

ソウルや北京、上海などでは一躍「時の人」に成れるかもしれない。

 

アメリカの下院議員に、日系のマイク・ホンダという政治家が居た。

だが、彼は、「票田」として韓国系の市民の支持が欲しかったから、徹底して「反日」のスタンスを取った。

ミキ・デザキも同じであろう。

ひとくちに「日系人」といっても、「日本」に対する「意識」は一様ではない。

そもそも、生粋の「日本人」でさえ、反日で自虐史観に没我してしまうのが多数存在する訳である。

「日系アメリカ人」が、「日本」に対して、さながら悪意を感じさせるような立ち居振る舞いをしたところで致し方なかろう。

それだけ、我々「日本人」が、あまりに「ウブ過ぎている」ということであろう。

いろんな意味で猛省すべきことが多い、と痛感する。

今日は、令和元年8月31日である。

曜日の配列の関係で、9月1日は日曜日。

だから、「新学期」は9月2日から始まる学校が多いだろう。

 

9月1日は、かの関東大震災が起こった日である。

東京を中心に、大勢の人命が失われた。

だが、今や「9月1日」は、多くの子供達が自ら命を絶つ、そんな日に成ってしまった。

 

振り返れば、自分は小学校から高校まで、毎年、8月の下旬は憂鬱であった。

8月31日は、毎年のように泣きながら過ごした。

夏休みの宿題を一気に片付けようとしていたからである。

時折、今年のように、曜日の配列のお蔭で9月に入ってから「新学期」が始まる年が有ると、とても有り難く思ったものであった。

まあ、それこそ、7月から計画的にペース配分をして宿題に取り掛かっていれば「泣きながら、やる」なんていう醜態にはならない。

だが、そんなに自律的に日常生活を制御出来るような子供は、そんなに数は多くない。

 

「夏休み」というのは、1か月以上も連続する「非日常」の期間である。

週末や連休といった「長さ」では、意識しなかった「日常」への違和感を覚えてしまう子供達が出て来てしまう。

それこそ7月上旬まで、ごく当たり前のように「登校」することが「日常」であったのが、「夏休み」という長期の「非日常」を過ごすうちに相対化されて、懐疑と不安が生じて来る。

また、緑の木々が繁茂していくように、セミやクワガタなどの昆虫が成虫に成って飛び回るように、子供達も心身共に「夏休み」の期間を通して成長を速めている。

心身の成長によって、今迄、見えなかったことや感じられなかったことを意識するように成って来る。

そうなると、最早、「何も解らない」状態には戻れない。

何故?

どうして?

そういう気持ちが湧き上がって来ることを抑えつけられなく成って来るのだ。

 

子供が成長する、ということは、生物として激変していくことでもある。

だから、子供達は絶えずアンバランスで不安定な状況に有る、と大人が意識しておくべきであろう。

大人に取って、子供達は「扱いにくい」代物であるし、一方、子供達も刻々と成長していく過程で、自分自身を持て余していく「意識」に捉われていくのだ。

 

そういう「危うさ」が、ぽっかりと陥穽と成って口を開く「瞬間」が「9月1日」なのであろう。

 

さて、自分は世間一般から見れば「駄目人間」である。

現在、「無職」であるし、50歳手前の大人として、恥ずべきものである。

だが、そんな「駄目人間」の「先輩」として、「新学期」の初日を絶望感でもって受け止めている子供達にエールを送りたい。

 

「新学期の学校へ行きたくない」という「気持ち」が生じて来たならば、まず、自分自身でその「気持ち」をしっかりと見つめ直すことである。

何故、学校へ行きたくないのか。

宿題が終わっていないから?

友達と喧嘩してしまったから?

クラスに行ったらいじめられるから?

教師とそりが合わないから?

クラブ活動に付いて行けなくなったから?

学習カリキュラムに付いて行けなくなったから?

家族(特に親)との関係が悪いから?

それとも、「何となく漠然と行きたくない」から?

 

もし、学校へ行こうとして「苦しい」と感じたならば、それは、結構、問題は深刻であると理解してほしい。

逆に、「何だか、気分が乗らない」といったレベルで済んでいるのならば、勇気を奮い起こして、とにかく学校へ行ってみることである。

やはり、「苦痛を感じる」ということは、何かしらの問題を抱えているのだと思う。

 

もし、学校へ行くことが「苦しい」のであれば、やはり、他人に相談するべきである。

それも、自分が想定可能な、出来得る限りの多くの人に相談すべきである。

まずは、両親。

祖父母や兄弟。

友達。

教師(クラス担任、クラブの顧問、保健室の先生など)。

塾や習い事の先生。

SNS上の「友達」。

「こども電話相談」。

これら、多くの人々へ、自分の「苦しみ」を相談してみることである。

自分の「苦しみ」を、自分だけで抱え込んでは決していけない。

 

勿論、両親は「とにかく頑張って学校へ行け」と叱り付ける場合も有るだろう。

また、「こども電話相談」のカウンセラーは、「苦しかったら無理をしないでも良い」とアドバイスしてくれるかもしれない。

相談する相手によって、回答がまちまちに成るであろう。

だが、その中から、選んでいけば良いと思う。

 

ここから先は、より具体的な話しをしたい。

 

もし、「宿題が終わらないから学校に行きたくない」と思っているのならば、まずは、出来るところまで宿題を終わらせよう。

そして、学校へ行って、「すいません。宿題が出来ていません」と謝ることである。

よく、「宿題なんか、別に無理してやらなくても良い」と無責任に甘言する大人がいる。

「駄目人間」の先輩としては、この甘言に乗っては絶対にいけない。

「宿題をやらなくていい」ということを認めてしまったならば、これからの人生に於いて、逃げたり、投げ出したりすることに成るからである。

ここは、歯を食いしばって踏ん張ることである。

勿論、「宿題が出来ていない」という事実は覆らない。

また、「夏休み」を過ごすことと、宿題をやることは、「セット」である。

これは、学校や教師との「約束」である。

この「約束」は、出来得る限り守らなくてはいけない。

そして、もしその「約束」を破ってしまったのならば、その責めは当然、甘受しなくてはいけない。

人間というのは、骨身に沁みないと思い知らないところが有る。

だから、「宿題が出来ていません」と云って登校し、大いに叱られ、大いに嘲笑され、大いに恥じて、大いに反省するべきである。

そして、「来年の夏休みこそは、ちゃんと宿題を終わらせるのだ!」と決意すれば良いのである。

 

新学期、登校することに「苦痛」を感じる場合は、深刻である。

その場合は、「とにかく頑張れば何とかなる」と云う訳にはいかない。

「頑張ならなくてはいけない」訳であるが、正しく、効果的に「頑張らなくてはいけない」。

物事には、何事も、原因が有り、根拠と理由が有る。

だから、何故、登校することに「苦痛」を感じるのかを、きちんと精査、分析しなければいけない。

 

そして、どうしても「学校へ行くことが苦痛である」というのであれば、緊急避難として「学校へ行かない」という選択が有る。

だが、「学校へ行かない」という選択は、あくまでも「通過点」であり、「最終目的地」にしてはいけない。

取り敢えず、新たな「第一歩」を踏み出すためのモラトリアム(執行猶予)と意識すべきである。

ただ、「学校へ行きたくない」から「行かない」で済ませてしまっては、勿体無い。

家でゴロゴロしていても良いのだが、そこで自分自身を内省する「期間」であると意識して欲しい。

例えば、いじめを受けていたとするならば、自分自身を鍛えていくことである。

いじめられる、と云うことは、自分自身に自己肯定感や自信が欠如していることから起因することが多い。

だから、取り敢えず、徹底して身体を鍛えてみることである。

ボディビルをはじめて筋肉量が増えれば、肉体的な暴力には対抗出来る。

また、精神的ないじめに対しては、読書である。

法律や心理学から始まり、小説や歴史書を徹底的に読み込んで行けば、いじめに耐えられるだけの精神世界を広げられる。

また、いじめを受ける「日常」とは異なる、別の自分の「居場所」をつくることである。

それが、スポーツや格闘技のジムであったり、図書館であったり、音楽やダンスのスタジオであったり。

それらは、或る種の逃避と代償行為であるかもしれないのだが、自室にこもって鬱々としているのに比べれば遥かに良い。

 

自分は高校1年から高校2年に成る時に、「留年」の危機に直面した。

苦手科目の英語の成績があまりに悪過ぎたからである。

クラス担任教師は何もしなかったのだが、自分が入っていたクラブの顧問の先生がとても心配して下さって、わざわざ保護者面談を設定してくれた。

こういう時、母は動転してしまって腰が引けてしまった。

代わりに、父が勤めを休んで保護者面談に行ってくれた。

そこで、父はこう云ったそうである。

「息子の祖父、つまり自分の父は、旧制高校で好きな教科しか勉強しなくて、最終的に放校処分に成りました。

云わば、隔生遺伝でしょう。

それに、長い人生において、1年2年の回り道は大したことはありません。

落ちるのであれば、どうぞ、落っことしてやってください」と。

そして、帰宅してから「おい。先生には、こう云っておいたぞ」と云われて、自分は納得してしまった。

最終的に、自分はギリギリ留年をしないで済むことに成り、進級出来た。

だが、自分は、本当なら「留年」していた筈であるし、大学進学も本当は出来ていない人間である、と自覚している。

 

新学期の登校を「苦痛」に感じる子供達へ。

君たちは、まだ、生れ落ちて間もない。

だから、もっと生き永らえるべきである。

また、ここまで生きてこれたことは、全て両親をはじめとした多くの方々のお蔭なのである。

生きている間に、その恩義に必ず報いなくてはいけない。

中には、親子の問題で苦しみ抜いている子供達もいることであろう。

だが、人生は長いし、世間は広い。

自分のようなポンコツが云うのも何であるが、人生は何度でもやり直しが出来る。

そして、生きていれば多くの苦しみも降りかかってくるのだが、喜びもまた多く感じられるのである。

やはり、生を受けた以上は、死ぬその瞬間まで、全力で生き抜いていくべきであろう。

 

それと、世の中には、自分が感じている以上に多くの方々が、あなたの存在を喜ばしく感じているのである。

だから、短絡的に死に急いでしまったならば、本当に多くの方々を悲しませることに成るのだ。

 

まずは、生き永らえることである。

そして、生き永らえたならば、より良く生きていくことを目指していこうではないか?

あなたがたよりも40年近く「駄目人間」として生き続けて来た自分が、駄目人間なりに励ましの言葉を贈らせてもらっている。

この拙文やこの拙文を書いている自分を嘲笑することはいっこうにかまわない。

だが、読者である、あなた自身については、絶対に嘲笑したり絶望してはいけない。

 

頑張っていきましょう。


産経新聞の「正論」コラムで、「大きな曲がり角にある英語教育」 文化功労者、慶応義塾学事顧問・安西祐一郎(令和元年8月29日木曜日)が掲載された。

これは、≪自ら表現する力に弱点≫と見出しが付けられた。

『今年の文部科学省「全国学力・学習状況調査(全国学力テスト)」で中学3年生に初めて英語4技能(読む、聞く、書く、話す)の調査が実施された。

その正答率は「読む」56・2%、「聞く」68・3%に比べ「書く」46・4%、「話す」30・8%が低かった。

問題の難易度などにも依存するので慎重な見方が必要だが、自分で表現を創り出す「書く」「話す」が低正答率であることは見過ごすことのできない点だ。』

とある。

現在、巷では、「2020」と云えば、「東京オリンピック・パラリンピック」がもっぱらである。

だが、2020年には、大学入試に於いて大きな「改造」が為される。

特に、英語に関しては、リスニングや発音などが重視され、従来の公共機関による大学入試問題作成と採点ではまかないきれず、民間業者へ委託していく、ということも予定されている。

「英語」が、大学入試で大きくその質的な変革が目指されたのは、「英語」の「語学力」に対する社会的な必要性がますます重要となり、とりわけ、より実用的な「英語」の「語学力」の需要が高まってきたせいであろう。

かつてのような「教養」としての「英文学科」と云うよりも、「言語ツール」としての「英語学科」としての意味合いが社会的に、(もしくは時代的に)求められているからである。

 

だが、ここで指摘されている「問題点」は、実は「英語」だけの「問題点」ではない、と気が付くべきである。

筆者の安西先生は意図的に「英語学力」のみに、論点を限定させているのかもしれないが、この産経新聞「正論」コラムで指摘されている「問題点」は、もっと深刻に考えるべきであろう。

この≪自ら表現する力に弱点≫という「指摘」は、大学入試の「改造」(敢えて、「改良」という言葉を使わないwww)のもう一つの柱である、「アクティブラーニング」にも関わる重要な指摘である。

つまり、従来の「知識詰め込み教育」からの「転換」を目指している訳であり、「知識吸収偏重」から「思考する能力の育成」を目指すということである。

それは、具体的には「インプット(入力)」の教育から「アウトプット(出力)」の教育ということであろう。

 

自分は、そもそもが、この「パラダイム設定」がナンセンスであると呆れ果てているのだが、それは、ここでは詳述しない。

 

この「インプット」から「アウトプット」へ、という「傾向」に着目していくならば、≪自ら表現する力に弱点≫というのは、何も「英語」という「教科」に限定されない、ということにすぐに気が付く筈である。

考えても見よ。

今、我々の「日常」に於いて、「自らを表現する」ことに対して、どれだけ「求められている」であろうか?

学校教育に於いては、いまだに教師が生徒に対して「一方通行」の「講義」を浴びせかける「座学」である。

つまり、延々と続けられる「インプット」の時間、である。

また、例え、「発表」なり「自説開陳」の機会が与えられたとしても、そこには絶えず「査定」が為される。

そこで重要視されるのは、「自分の意見を主張する」ということであっても、「いかに模範解答に接近させていくのか」という生真面目さである。

これは、「同調圧力」であろう。

例えば、熱心な日教組の教師の授業であるならば、その「クラス」での生徒の「主張」は、平和と人権と平等を左派リベラリズムの論理に合致したものでなければ評価されない。

どこかの国会議員のように、「武力によって奪われた領土は、再び戦争によって勝ち取らなければ戻って来ないのではないのか?」という「主張」をしようものなら、徹底的に「指導」されることとなろう。

つまり、「英語教育」に於いて≪自ら表現する力に弱点≫ということではない。

「英語教育」以前の、「国語教育」に於いて≪自ら表現する力に弱点≫なのである。

何故、そういうことに成るのか?と云えば、それは、日本のあらゆる社会や日常に於いて、「自らを表現し、自説を表明することを忌避させる同調圧力」が支配しているからである。

「空気を読め」という「マイルドな強制」は、まさにそうである。

 

いわゆる「アクティブ・ラーニング」という「教育」に対して、自分が懐疑的なのは、我々日本人自身が、心底、「アクティブ・ラーニング」の「能力」を求めているのかどうか信じられないからである。

そもそも、学校教育や家庭教育に於いて、子供達に自分の思いをちゃんと吐き出させて、さらにその上で、大人たちがしっかりと受け止めているであろうか?

そうでなければ、子供達や生徒達に対して「アウトプット」の方法論や技術を指導することなどしないだろうし、出来る筈など有り得ない。

そして、「もの云えば、唇寒し、秋の風」と云った「異論封殺」「同調圧力」の「空気」が蔓延していたならば、やはり「アウトプット」なんか為される筈がなかろう。

 

今、我々の社会に於いて、単なる流行や気分でもって「アクティブ・ラーニング」が持て囃されている。

だが、教育の場に於いて、特に大学入試対策として「アクティブ・ラーニング」を「学習させられる」のならば、それは「出題者の意図を忖度、配慮して、模範的な解答を、さも、自分のオリジナリティーのように修辞して表現すること」しか生まないだろう。

だから、自分は、いわゆる「アクティブ・ラーニング」の教育カリキュラムに変わったとしても、「教育者」の意識が従来通りであるならば、現在と大差の無い結果に成ると思う。

また、仮に、教育の現場、学校の「内部」で、めでたく「アクティブ・ラーニング」が「構築」されたとしよう。

だが、学生たちが大学教育なりで身に付けた「アクティブ・ラーニング」は、社会に出た時点で、年長者たちからの反発、軋轢を生むだけの代物と化すだろう。

多分、要領の良い、賢い若者ならば、社会人に成ってすぐに、「アクティブ・ラーニング」を捨て去っていくだろう。

さながら学生時代の金髪やらモヒカンなどといった髪形を、社会人に成った途端に捨て去ってしまうのと同じことに成る。

 

そもそも、日本人は「アクティブ・ラーニング」の中の「ディベート」を勘違いしている。

「ディベート」と云うのは、弁論術である。

それは、或る論点に関して「賛成」「反対」の論者に分かれる。

だが、その「賛成」「反対」の「役割り」は、直前に、「くじ引き」などで決めるのである。

つまり、自分の「感情」や「好悪」とは切り離して、純粋に技術的に、「賛成」「反対」の弁論を行う、と云う訳である。

だが、「討論」と云うと日本人は相手を屈服させ、論破させることが目的だと勘違いしている。

論破することが「勝利」だと、勘違いしている。

だが、「ディベート」と云うのは、そんな底の浅いものではない。

「ディベート」で、まず、何よりも重要なのは博識であることである。

いかに知識が豊富で潤沢であるか。

何故なら、例えば、或る「論理」を構築するにあたって、様々な根拠や論証を積み上げていく。

だが、いくら重厚で精緻な「論理」を構築したところで、その「論理」に合致しないデータや知識、情報が提示されたならば、瞬時に転覆することに成る。

もし、そういう「不都合な真実」を突き付けられた場合、「それはあくまで、特殊な例外事項であるから」とまぜっかえすことは出来るが、それはあまり上等な戦略とは云えない。

ここで、自分が敢えて強調しておきたいことは、「アウトプット」に於いて、その優秀さを担保するのは「インプット」の圧倒的な質量である、ということである。

だから、「インプット」と「アウトプット」を「対立事項」とする認識は、致命的に駄目なのである。

さらに、「ディベート」とは、対する論敵を論破することが重要なのではない。

むしろ、物事を多面的に、ニュートラルに見て、考察し、さらに理解を深め合って和合していくことこそが重要なのであろう。

多分、ピンと来ない人もいるであろうが、実は「論破して、議論に負ける」ということが有るのである。

論破する、ということは、討論する相手が絶句することである。

だが、それは、ただ単に「これ以上討論を続けない」という「現象」でしかない訳であり、議論それ自体の勝敗とは無関係の場合が有る、のである。

具体的に云うと、発言した人間の「品位」や「人間性」や「信頼感」が疑われるような「発言」が飛び出した場合、敢えて「反駁しない」訳である。

つまり、議論の「内容」に関してジャッジメントしてもらうのではなく、論者の「人間性」それ自体を評価対象に「すり替えて」しまう訳である。

そういう「敵方の土俵」に据えられてしまった場合、どんなに精緻な理屈を繰り出したところで、最早、胡散臭くあざといものとしか感じられなく成ってしまう訳である。

さらに、関連して云うと、「論破」されること「だけ」を回避する為には、議論をしないことなのである。

敵対する論者に対して、あらかじめ、その人間性を否定するような「レッテル」を貼り付けて決め付ける。

そして、あとは、延々と情緒的な繰り言ばかりをまくしたてる。

すると、議論はあたかも白熱しているようであるのだが、その「内容」は全く以てスカスカ。

巨大な虚無、と云うことに成る。

 

自分は、いわゆる「アクティブ・ラーニング」そのものを否定している訳では無い。

むしろ、これから「アクティブ・ラーニング」をしっかりと学ぶ若者がいなければ、日本人は他国の「下請け作業」しかさせてもらえなくなってしまうであろう。

勿論、日本人は敢えて「下請け作業」に「特化」する、と覚悟していくのならばそれもまた良いだろう。

だが、日本人の中の独創的な人材が、その才能を開花させ、そしてその才能によって生み出された「ことがら」によって、多くの人々や社会が多くの利益を享受することが出来るのならば、やはり、「アクティブ・ラーニング」は必要と成っていくであろう。

ただ、今、日本の教育行政や日本の産業界の中枢が、どのような若者たちを求めているのか、今一つ鮮明でないような気が自分はしている。

現時点で間違い無く云えることは、従来のような大学教育では限界である、ということだけ。

そして、「アクティブ・ラーニング」を教育の主軸に据えるのならば、それに対応したかたちでの「大人たち」の受け入れ態勢を準備する必要があるであろう。

どうも、大学入試を改革する問題は、子供や生徒の問題「だけ」だと矮小化している。

そうではない。

「教育」を変革するということは、国家や社会そのものを変革していくことに他ならない。

「教育」が変わっていったならば、いずれ否応無く、社会全体も変わらざるを得なくなっていく。

若い世代を忌々しく感じていた年長の世代たちも、年月が経ち、年老いていったならば、いずれはその「忌々しい」世代たちに依存して行かざるを得ない訳である。

それほど、「教育」というのは重要事項なのである。

既に自分は何度も指摘しているように、

「教育とは、その共同体(国家、社会、民族、地域、組織など)が理想とする大人像を完成させるための工程表(ロードマップ)である」からである。

だから、これからの日本の社会に於いて、どのような「大人」が求められているのか。

そこが確固していない限り、いつまでたっても「教育」の足元が定まらないことに成るのだ。

現時点に於いて、「アクティブ・ラーニング」を確実に身に付けさせていくとするならば、大学受験を海外の名門難関大学に設定することであろう。
そして、大学卒業後、就職は日本では行わないこと。
まず、海外で然るべきキャリアを形成してから日本の職場に入らなければ、多分、潰されるか「宝の持ち腐れ」に成ると思う。
だから、優秀で裕福な家庭の子弟は、早期から海外への大学進学を見据えて戦略を練るべきであろう。
後は、いわゆる「ギフテッド」と目される、特異的な才能を持った子供達を日本と云う国家が戦略的に海外へ留学させていくことであろう。
自分は、日本国内に於いて、いわゆる「ギフテッド」と呼ばれる特異的な才能の持ち主が現状に於いて育成可能であるとは感じられない。
むしろ、現時点では、欧米に奨学金を付けて留学させて送り込む方式の方が、投資金額に見合った成果が上げられると思う。
実は、日本人の若者の海外への留学生数は減少しているという。
ただでさえ、「内向き」の状況なのだから、日本国内で何とかしようと思っても、多分、成果が上がらないと思う。
多分、日本で「アクティブ・ラーニング」が本当に確立出来るのは、20年後ぐらいかもしれない。
その時には、これから海外へ戦略的に留学させた子供達が、優秀な次世代と成って成長しているであろう。
その「次世代」に期待するしかない、と思う。

フェイスブックで、また、アカウント停止。
「めくら滅法」が、ヘイトスピーチ認定。
馬鹿馬鹿しい。

自分はこう見えて「恥ずかしがり屋」「シャイ」である。

「自己愛」が無い、とは云わないが、かと云って自分の「写真」を撮りまくるのは嫌である。

以前からそうであったが、ここ最近は、或る「自論」から自発的には「写真」や「動画」を自分自身に撮影することをしないようにしている。

 

海外の或る学者は、自分自身の「データ」を日々、記録し続けている、という。

動画で逐一自分自身を撮影し、自分自身の「データ」を記録し続けている、という。

その目的は、コンピューター、AI(人工知能)そしてそれらを搭載した「アンドロイド(人間型ロボット)」に自分の「データ」を「入力」させよう、というのだ。

つまり、自分の死後に、自分という「人格(キャラクター)」を「アンドロイド」に移し替えて、事実上の「不老不死」を得よう、と云うのである。

云ってみれば、生身の肉体としての「人格」は死滅するわけであるが、「データ」化された「人格」は、「アバタ―」としての「アンドロイド」に移し替えられて、未来永劫まで生き続ける、と云う訳である。

自分は、この或る学者の「構想」を知って慄然とした。

つまり、「人格」とは、その「人物」の「データ」と「行動パターンの確率」によって「構成」される、という「認識」なのだろう。

「人格」を「データ化」する。

これは何を意味するのであろうか?

現在、「データ」化された「もの」は、瞬時に「コピー(複写)」され、「拡散」される。

「データ」には、事実上、「オリジナル(原本)」と「コピー(複製)」の違いは無い。

印刷物の「初版第一刷」と「第十刷」の違いは、「管理上」の違いぐらいしか意味を持たない。

「第一刷」と「第十刷」に於ける「差異」をいくらあげつらったところで、ほとんど意味を為さない。

そこで、「オリジナル」の決定的な「優位性」や「絶対性」は、「相対化」されて無意味に成る。

さらに、インターネット上を拡散されることにより、同一のものが一斉に多発することに成る。

「陳腐化」するのは不可避であろう。

いずれ、我々の「文明」は、生身の「人格」でさえも「データ化」して「メモリーサーバー」に貯蔵するようにしていくのではないだろうか?

さしあたりは、VR(バーチャルリアリティ)によって、ほとんど「記録映像」と変わらない「再現映像」ならぬ「再生映像」が創作されるであろう。

何しろ、その「人格」に関する「データ」とその「行動パターンの確率」によって導き出された「様子」は、ほぼその「人格」そのものを「再現」させ、シュミレーションすることに成る。

さらに、3Dプリンターが、現在の化学樹脂だけではなく、いずれタンパク質やアミノ酸レベルまで加工・製作可能に成っていけば、遺伝子工学との組み合わせで、「柔らかくしなやかで温もりの有る」アンドロイドを誕生させることに成るであろう。

と成れば、その「人格」の「自意識」に於いては、「断絶」が感じられるかもしれないが、他者の「視点」からは、あたかも「連続」した「人格」としか感じられないかもしれない。

それでは、さながら山田風太郎の「魔界転生」の「魔界衆」ではないか?

「魔界転生」とは、島原の乱で無念の死を遂げた天草四郎時貞が甦り、南蛮伴天連妖術を駆使して、既に死人と成った英雄・豪傑(宮本武蔵など)を蘇らせて徳川幕府転覆を謀る、という傑作「伝奇時代小説」である。

今迄、2度も実写映画化され、沢田研二が天草四郎役で主演をし、「角川映画」として大ヒットした。

そのような「状況」に成った時、「人間の死」とは何なのであろうか?という極めてラジカルな問題に直面するであろう。

さらに、ここまで来れば、アンチエイジングなどという概念ではなく、老化した身体を丸ごと捨て去って、若々しい「アバタ―」の身体へ「人格」を移し替えていけば良いことに成る。

まさに「不老不死」が実現してしまうであろう。

だが、「不老不死」を得た「人類」は、必然的に「生殖活動」に対する「意識」も変容せざるを得ない。

何故なら、人間は老いて、病み、そしていずれは死滅していくからこそ、次世代を生み、育てていくことが「当然」であった訳である。

しかし、自分たちが「不老不死」の存在になってしまったならば、敢えて、子供を産み、育てる必要性が無く成ってしまうことに成りはしまいか?

 

自分の「妄想」は、どんどん暗鬱な感じに成っていくのでこれくらいにしておきたい。

つまり、あまりにも「自分」に関するデータを残してしまったならば、将来に於いて、自分の預かり知らぬところで、自分の「人格」を「再現」されて、複製されてしまうのではないか?という危惧である。

勿論、自分のようなポンコツを何人複製させたところで、つくだ煮にも、キャンプファイアーの焚き付けにも成りはしない。

だが、やっぱり、何となく「嫌」なのである。

自分自身の肉体が死滅したならば、きれいさっぱり後腐れが無いように終わって欲しい。

自分の「データ」と「行動パターンの確率」でもって、再現されたら、その「人格」はいったいどういう立ち居振る舞いをしでかすのであろうか?

ここまで来ると、慄然とする、というより茫然自失するしかない。

ま、と云う訳で、そんな愚にもつかない理由で、現在、あまり写真にも写りたくも無いし、動画にも出たくない気持ちなのである。

頭、イカレテいますねwww

父に前立腺癌が見つかり、精密検査を受けた。

そして、検査結果から「前立腺癌よりも大動脈瘤が見つかったので、そちらの方を優先させましょう」と云うことに成った。

大動脈瘤が見つかって、数年間、「経過観察」だった。

いよいよ大動脈瘤破裂のリスクが上がって来た為、手術を受けることに成った。

本人も、「ちょっと切ってもらってすぐに退院出来る」と高を括っていた。

だが、手術後、父の体力は一気に消耗してしまった。

あれだけ声が明瞭だった父が、全く声が出なくなってしまった。

父との意思疎通が、突然、不可能になってしまったのである。

 

父が元気であった時、「自分の葬式は、直葬で良い。お金をかけなくて良い」と云っていた。

本人もちょっとした軽口の類いというつもりだったと思う。

だが、自分は、たまたまこの言葉を記憶していた。

 

父の入院が長引いていくにつれて、父の友人たちが毎日のように入れ替わり立ち代わりお見舞いに来た。

だが、父の急激な衰えに衝撃を憶え、さらに最早、寿命が尽きようとしている様を否応無く感じさせる状況であった。

父の友人たちは無念そうに帰っていった。

 

父が入院して3か月が経った頃、自分が独りで見舞いに行った。

その時、父は、本当に久しぶりにはっきりとした声を発した。

「葬式は」

だが、全力で絞り出した声は、そこで途切れてしまった。

後が続かなかった。

だが、自分にとってはそれで既に充分だった。

父が意図していることは、すぐに理解出来た。

そこで、自分は答えた。

「申し訳けないけれど、直葬には出来ないよ。

あんなに、お父さんのお友達が引っ切り無しにお見舞いに来てくれるのだから。

やはり、お友達の皆さんのお気持ちを考えると直葬には出来ない。

でも、なるべく質素でお金がかからないようにするから」と。

すると、父は満足そうに眼をつぶり、深く何度もうなずきながら枕に頭を沈めて眠り込んでしまった。

 

それから、父が声を発することは無かった。

そして、約ひと月後の8月14日払暁、父は逝った。

 

それから、葬儀屋や葬祭場などを手配し、30人弱の参列者を想定した「家族葬」を執り行った。

「無宗教」方式で、結局、120万円ぐらいかかった。

ただ、父が入っていた郵便局の簡易保険の保険金が下りて、まかなうことが出来たのである。

 

葬儀の難しさは、葬儀が「本人の意向」では済まされない点にあるだろう。

何しろ、「主役」は死んでしまっていて、当日は本人が仕切ることなんて出来ないからである。

だから、故人が希望した通りの葬儀にならない場合が出て来ても仕方が無い。

 

ちなみに、百姓の小倅から関白太政大臣といった「位人臣を極めた」、太閤・豊臣秀吉公。

戦国三大英傑の一人であるのだが、ただ一人、「天下人」として相応しい壮麗な葬儀が行われてはいなかった、と云われる。

秀吉公が薨去されて、石田治部少三成を筆頭とする「五奉行」は、京都東山の阿弥陀が峯に、没後8か月後経ってから、ご遺骸を運び、密葬したという。

まだ、朝鮮出兵の対外戦争が継続中であり、「国家最高権力者」の死は、直ちに公表が出来なかった。

その後は、内府・徳川家康公と石田三成などの豊臣政権「執行部」との権力闘争が激しさを増していくうちに、葬儀をどうするか、ということが暗礁に乗り上げてしまったようなのである。

万事が派手好きで、寂しがり屋であった豊臣秀吉公のことである。

故人の希望としては、大規模で壮麗な葬儀を希望していたのであろう。

ところが、石田三成が葬儀の状況を記録したとされる、「虚構」の「豊臣秀吉公御葬送行列次第」作成しか実施されなかった。

勿論、全く、「葬儀」が為されなかった訳ではないであろうが、「天下人」としての豪華絢爛たる「葬儀」は実施されなかったようなのである。

故人としては、多分、忸怩たる思いであろうことが、容易に想像がつく訳である。

これも、葬儀が生き残った者たちによる儀礼であることから、故人の意に沿わないかたちのものに成っても致し方が無い、と云えよう。

自分の父や母方の祖母の「金銭感覚」。

他人に対して「贈り物」をする時は、いくら高額に成っても全く「惜しい」と感じない。

むしろ、喜んでもらえたことに、いくばくかの恥ずかしさを感じながらも満ち足りた思いを抱く。

逆に、自分に対しては、みんな「ぜいたく」に感じてしまう。

自分は、そこに「利他」と「廻向」の「意識」を感じる。

「廻向」とは「回す」「振り向ける」ということである。

よく「先祖回向」と云うが、これは、自分自身の「善業」によって得られた「功徳」を亡きご先祖の御霊へ「振り向ける」ことを指す。

自分も以前は、「廻向」といえば「先祖回向」しか思い至らなかったのだが、ここ最近、ようやく、あらゆることに「廻向」が有る、と気が付いた。

つまり、微笑みを浮かべ、腰を低く頭を下げ、他人に対して思いやりの有る言葉を投げかけていれば、それらは全て、巡り巡って最終的に自分に回って来るのである。

逆に怒りや憤懣を浮かべ、乱暴し放題で、他人に対して悪罵を投げ付けていれば、それらは全て、巡り巡って最終的に自分に回って来るのである。

だから、他人に対して、本当に思いやりを持って蕩尽したお金は、いずれ巡り巡って自分に回って来るのである。

勿論、「何時か自分に与えてもらえる」という打算が有っては台無しに成る。

ただ、その時は、他人の為に一切を「捨てる」意識で捧げ尽くす。

でも、それは、何時か、必ず、思いもよらぬ「かたち」で自分に回って来る。

だから、「惜しい」とは思わない。

一方、自分の為だけに使ったお金は、「その場限り」。

その先の展望は、無い。

勿論、自分自身で「落とし前」を付ければ良い話しなのだが。

だから、自分も、自分に対して「使う」場合は、何だかとても「勿体無い」ように感じてしまう。

逆に、人様の為に「使う」場合は、果断に使い切ることが出来る。

今の時代にはそぐわない金銭感覚なのかもしれない。

でも、自分は、間違ってはいない、と思う。

だから、いつまでたっても「貧乏暇無し」なのだろうが。

但し、不思議と「融通がつく」のだ。

出た分は、どうにかこうにか入って来る。

だから、何だかんだで帳尻が合う。

結構、世の中というのは、良く出来ているものなのだ、と思う。

8月15日が来る。

自分は例年通り、靖国神社へ参拝する。

そこで、自戒を込めて各位にお願いを申し上げたい。

どうか、靖国神社境内に入ったら、朝鮮人、韓国人の悪口を云うのは一切控えようではないか。

理由は、明瞭である。

靖国神社にお祀りされておられる「英霊」、ご祭神の中には、朝鮮半島にルーツを持つ御霊が多数、居られるからである。

勿論、「英霊」にとっては「大日本国帝国臣民」であった、という「意識」であろうが、だからといって朝鮮人、韓国人の悪口を耳にして愉快なお気持ちでおられるとは到底思えない。

他の場所ならいざ知らず、靖国神社の境内に於いては、ただひたすら静かに慰霊と感謝報恩の祈りを捧げたいと思う。

令和元年、日韓の関係が「最悪」と云われる程、悪化している現状であるからこそ、尚更、肝に銘じておきたい。

英霊に、いわゆる「戦犯」は存在しない。

御霊は全て「靖国の神様」である。

そのように信じるのであるならば、尚更、不用意な言葉遣いはどうか御慎み願いたい。

繰り返すのだが、敢えて、自戒を込めて各位に心からお願い申し上げたい。

靖国神社に参拝するということは、神霊の大前に参るということなのであるから。

(8月15日靖国神社・時系列)
午前6時・開門
午前7時・昇殿参拝受付開始(参集殿)
午前9時・遊就館開館
午前9時頃・英霊にこたえる会慰霊祭(御本殿・拝殿内)
午前10時・放鳩式(能楽堂前)
午前10時30分〜午後0時15分・第33回戦歿者追悼中央国民集会(外苑参道特設会場)
正午・黙禱(もくとう)、玉音放送
午後1時頃・靖国会忠霊祭(御本殿・拝殿内)
午後1時30分第5回靖国の心を未来へ!感謝の心をつなぐ青年ファーラム(外苑参道特設会場)
午後4時30分・遊就館閉館
午後5時・御本殿閉扉(拝殿前参拝は可能)
午後7時・閉門

※靖国神社は雨宿りをする場所が少ないので、ご参拝は「昇殿参拝」を強くお奨めします!
※超大型で強い「台風10号」の直撃が予想されます。

靖国神社公式HP
http://www.yasukuni.or.jp/

8月15日の靖国神社は、近年、参拝者が十数万人も押し寄せる状況となっております。

皆様は、正午の黙禱の時刻に靖国神社の境内に身を置きたいと願っておられるのか、正午前後が一番混雑するように、個人的には体感しております。

但し、靖国神社の神門は午前6時に開門され、夜の午後7時に閉門となります。

早朝は、比較的参拝者が少ないので、拝殿で参拝をされたい方は、早起きをされて午前9時前ぐらいまでに参拝されるとすぐに参拝出来ると思います。

お仕事が有る方も、出勤前に参拝してもらえれば良いと思います。

早朝ですと、気温もまだ上昇しておらず、日差しも厳しくないのでお年を召した方やお子さんも体調のことを考慮すると良いと思います。

なお、夕方から夜にかけても参拝が可能です。

但し、午後5時頃に御本殿の扉が閉められてしまうので、出来れば朝のご参拝をお奨め致します。

拝殿前の社頭参拝も良いですが、この際、昇殿参拝されることをお奨め致します。
昇殿参拝受付・(3月〜10月)午前8時15分 〜 午後5時 
※8月15日は午前7時から午後4時30分まで受け付け
※最終受付 午後4時30分

昇殿参拝されれば、参集殿にて冷房が効いている中で待つことが出来ます。

個人ですと、玉串料¥2000からです。

団体になると、玉串料が一人あたり¥1000くらいになります。

当日は、チャンネル桜・頑張れ日本や西村真悟塾、my日本、ねずさんの集まりなどの諸団体が一緒に昇殿参拝されます。
(諸団体の集合場所、時間などは、各サイトなどでご確認下さい。)

当日受付なので、それらの諸団体の中に入って参拝すると、玉串料もお手軽ですし、手続きも簡単です。

勿論、10人以上仲間が集まりそうであれば、任意で団体をつくってしまい、昇殿参拝されても良いです。
(注!昇殿参拝希望者が多数になった場合、最終受付時間以前に8月15日分の受付を締切、終了することもあります!お申込み手続きはお早目に!)
昇殿参拝は、神門をくぐり、拝殿横の参集殿にて受け付けております。
拝殿前参拝の行列が出来ていたら、その行列の脇を通って、神門をくぐり、参集殿へ向かって下さい。


境内は基本的に禁煙です!靖国会館前休憩所や外苑売店周辺などの指定された場所で喫煙して下さい。

便所は、外苑売店付近、遊就館内、靖国会館前休憩所、靖国会館内などがあります。

飲料水の自動販売機は、外苑前売店、靖国会館前休憩所内、神池と駐車場前近辺にしか有りません。(靖国神社周辺・靖国通り沿いにコンビニがあります。)

昼間の境内は、物凄い混雑となり、飲み物の自動販売機もほとんど売り切れになってしまうと思われます。
(自販機ベンダーが特別対応してくれるようになり、改善されました!)

能楽堂横で、靖国神社崇敬奉賛会青年部「あさなぎ」が、麦茶の接待を実施する予定です。

そちらで、是非、咽喉を潤してもらえれば幸甚に存じます。

日中はとても暑くなるので、体調管理には留意したいものです。

能楽堂横には、看護師有志による「救護所」が設営されます。

もし、少しでも体調に異変を感じられたら、「救護所」に駆け込んで下さい。

御気分が悪くなったり、何かお気づきの点が有れば、最寄りの靖国神社の職員、もしくはガードマンに御声をお掛けください!

以前、手水舎の前で販売していた供花とお水の頒布は、無くなりました。

遊就館もとても混雑致します。

遊就館は午前9時から午後4時30分まで。

遊就館には映像上映ホールが二つ有ります。

期間限定で映画「氷雪の門」が令和元年8月1日木曜日〜8月31日土曜日まで上映。(遊就館映像ホール2)
「氷雪の門」は、樺太の真岡の郵便局の電話交換手だった女性たちの悲劇を描いた傑作映画です。
但し、封切り時、ソ連や日本国内の左翼からの圧力によって上映が中止された”幻しの名画”です!
【内容】
ロシア領サハリンと呼ばれるかつての樺太(からふと)。
昭和二〇年八月終戦時の混乱期に、この地は一〇万余の同胞を失った。
この映画は、ソ連の侵攻作戦の真っ只中、
最後まで通信連絡をとり、若い生命を投げうった
「真岡郵便局電話交換手」九人の乙女の悲劇を描いた真実の物語である。
監督・村山三男
出演・二木てるみ 鳥居恵子 岡田可愛 藤田弓子 南田洋子
     若林豪 黒沢年男 丹波哲郎 田村高廣 島田正吾他
【上映期間】
令和元年8月1日(木)〜8月31日(土)まで
※神社の行事のため休止となることがございますので、あらかじめご了承下さい。
【上映時間】
1日2回上映(120分作品)
《1》10:00 《2》13:00
※8月15日(土)は《1》9:30 《2》13:00 

もう一つの映像ホールでは(遊就館映像ホール1)


『私たちは忘れない―感謝と祈りと誇りを―』(50分作品)

【作品内容】
日清日露の大戦から大東亜戦争に至るまで・・・。
我が国近代史の戦争を、当時の貴重な映像で再現し、
東京裁判で歪められた歴史の真実に迫るドキュメント映画。
【企画制作】 日本会議 ・ 英霊にこたえる会
【後   援】 靖国神社

【上映時間】
1日6回上映
《1》10:00 《2》11:00 《3》12:00 《4》13:00 《5》14:00
《6》15:00〜15:50 (最終)


【ドキュメント映画 私たちは忘れない】
感謝と祈りと誇りを
50分 カラー作品

この映画は、教科書ではおしえられてこなかった、皆さんのお子さんやお孫さんに見せてあげて下さい。
きっと、わが国への誇りが湧き上がってくるでしょう。

私たちの国には、明治維新以来、共に力を合わせて国難に立ち向かった、日本民族の誇り高い不屈の歴史があります。
かけがえのない命を国に捧げた、先人たちの悲しくも尊い歴史があります。
私たちは忘れません。国難に殉じた英霊たちへの感謝と祈りと、そして日本人の誇りを―。

・主な内容
◆明治維新を成功させ、欧米列強の脅威から日本の自主独立を守りぬいた日清・日露の大戦
◆アジア安定に寄与する日本、中国大陸で繰り広げられる排日運動と満州事変の真実を探る
◆盧溝橋で日本軍に発砲された中国側の一撃、あいつぐ攻撃を受けついに日中の全面戦争へ
◆支那事変の拡大を避けようとする日本、裏で中国を支援する米英仏ソ、ついに米国が日本の前面に
◆日本参戦を仕掛けた米国の陰謀、そして日本は隠忍自重しながらついに苦渋の開戦決断へ
◆日本を侵略国と断罪した東京裁判の不当性を暴き刑場の露と消えた「戦犯」の無念をふりかえる
◆戦局悪化の中、祖国日本の防衛のため玉砕、特攻と尊い命を捧げた若き将兵たちの想いに迫る

●語り/浜畑賢吉・上村香子 ●教育用映像・永久保存版 非売品
●企画・制作/日本会議・英霊にこたえる会 ●後援/靖国神社

なお、無料休憩所が有る靖国会館は、関係者の控え室などになるために、8月15日は(午前中は)一般の方は利用出来ませんのでご注意下さい。

8月15日はとても暑くなりそうなので、参拝の際には酷暑対策を万全になさって下さい。

それでは、8月15日に「靖国で会おう!」

(平成24年8月8日のものを再録し、一部加筆しました。)

※追記※

靖国神社での8月15日の行事は、午前10時からの「放鳩式」のみです。

能楽堂前で、白い鳩を大空に放ちます。

靖国神社では、白い鳩を飼育していますが、それらの白鳩を管理する為の「白鳩の会」という会が有り、年会費は¥1000です。
(入会されると記念品がもらえます。)(只今、期間限定のご創立150周年特別版を授与)

8月15日に入会を受け付けています。

8月15日に行われる慰霊祭は二つ。

朝の、英霊にこたえる会のものと、午後からの靖国会の忠霊祭です。

元来、8月15日に慰霊顕彰を行っていたのは靖国会だけでした。

外苑の参道に、英霊にこたえる会と日本会議の共同主催で、第33回戦歿者追悼中央国民集会が行われます。

過去には、金美齢先生や田母神閣下が登壇されました。

「第33回戦歿者追悼中央国民集会」主催・日本会議、英霊にこたえる会
◆要  項
日時 8月15日(木) 午前10時30分〜12時20分(受付午前9時30分予定)
会場 靖國神社参道特設テント 入場無料・事前申し込み不要・先着順
お問い合わせ・日本会議事務局電話03−6906−8990 FAX03−5157−5657
(登壇者)
田久保忠衛(日本会議会長)
寺島泰三(英霊にこたえる会会長)
櫻井よしこ(ジャーナリスト)
伊藤俊幸(元・海上自衛隊海将)
宇都隆史(自民党参議院議員)ほか

また、引き続き「感謝の心をつなぐ青年フォーラム」を開催します。
(会場にて、参加される方の受付が有ります)

「第5回 靖国の心を未来へ!感謝の心をつなぐ青年フォーラム」
日時 8月15日(木) 午後1時30分〜(受付正午30分予定)
会場 靖國神社参道特設テント 入場無料・事前申し込み不要・先着順
(登壇者)
ジェイソン・モーガン(歴史学者)
我那覇真子(ジャーナリスト)ほか
司会・半井小絵(女優・気象予報士)


なお、正午の時報に合わせて、是非とも黙禱をお願い致します。

境内の放送で、時報が流れます。

また、黙禱終了後に、今上陛下の玉音が放送されますので、これも謹聴致しましょう!

昇殿参拝は、希望者が多いため、午後2時頃には締め切られてしまう可能性も有りますので、個人参拝の方は早めになさって下さい。

チャンネル桜や西村真悟塾、my日本、その他有志の団体が昇殿参拝を行いますので、そちらに参加されますと玉串料、¥1000くらいで昇殿参拝が出来ます。

個人ですと、¥2000以上になります。

通常は、昇殿参拝時には、遺族が参拝する際には祝詞が奏上されて、英霊の御名前が読み上げられます。

また、玉串奉奠もなされますが、8月15日は参拝希望者が膨大なため、これらが簡略化されます。

どのように簡略化されるかは臨機応変になりますが、じっくりと昇殿参拝をなさりたい方は、8月15日以外の普通の日になさって下さい。
(例大祭やみたままつり、お正月も通常とは異なります。)

御朱印は参集殿で受け付けます。
¥300です。
なお、当日、御朱印帳を忘れた方は紙でお渡しすることも出来ます。
¥1000で御朱印帳をいただくことも出来ます。
ご創建150周年記念の特別ご朱印帳は¥1500です。
御朱印帳入れは¥2000です。

おみくじは、2種類有ります。
文章のみの¥100のものと、小さな御守りが中に入っている¥300のものが有ります。
個人的には、¥300のおみくじをひくと大吉だったことが多かったですwww

絵馬は、拝殿前の神札所か参集殿内で入手出来ます。
願い事を書く、普通の絵馬と桜の花のかたちの2種類有ります。
ペンも置いてありますので、記入して奉納することが出来ます。
「絵馬」とは、古来、神仏に馬を奉納した故事に倣い、生物の馬の代わりに「絵馬」を奉納して、神仏に祈願することです。
ですから、いたずら書きのようなことをすると罰が当たりますよ!

遊就館前で、茶寮結(ゆい)のかき氷が販売されますので涼がとれます。

但し、参集殿から拝殿前付近までは飲食は遠慮して下さい。御神前ですから。

ソフトクリームは遊就館の喫茶店・結(ゆい)と外苑の茶店で食べられます。

靖国神社のお土産物について。

参集殿・御守り、お神酒、お菓子
遊就館売店・書籍・DVD・CD、グッズ、お菓子
外苑茶店・グッズ、お菓子

靖国神社でのお土産に花あられが加わりました。

今迄は、お饅頭やゴーフレッドなど、甘い物系ばかりだったので、あられは美味しそうです。

中村屋の謹製で、¥1000で頒布されています。

この他にも、
「靖国ゴーフレッド」(風月堂)、
「白鳩の祈り」(アーモンドをホワイトチョコでくるんだお菓子)
「靖国ぼうろ」(宝来屋)(和製クッキーのぼうろ)、
「靖国コインチョコレート」(平成26年7月17日現在、品切れ。再販売するかどうかは不明)
お神酒は、只今、ご創建150年記念限定版が、¥2000で頒布。(円筒の箱入り)
<お神酒「靖国」(平成26年4月1日から値上がりして¥1200になりました。悪しからず。)
が有ります。>
なお、令和元年8月現在、特別版のお神酒が頒布中(ご創建150周年記念)
(春季お花見の時限定の新宿中村屋謹製の「うすあわせ・桜味」も有ります。)

ちなみに、春秋の例大祭やお正月などの限定された時にしか頒布されないのが「桜饅頭」(宝来屋)です。

桜の花を塩漬けにしたものが載ったお饅頭で、甘さ控えめでとても美味しいお饅頭です!!!

もし、初詣などで靖国神社へ参拝された際に「桜饅頭」が頒布されていたら、迷わず速攻で入手して下さい!!!

絶対にこの桜饅頭は期待を裏切らない、大変な美味です!!!

靖国神社でのお土産品は全部¥1000です。

(自衛隊関連のお菓子も販売しております。)
(海軍カレーや海軍コーヒーなども販売されています。)

(なお、安倍総理のお饅頭などの政治家ネタのお菓子は、外苑の茶店でのみ販売されています。遊就館売店や参集殿などでは頒布されていませんのでご注意下さい!)

あと、英霊にこたえる会が作成している「靖国カレンダー」ですが、既に来年の令和2年のものが参集殿個人受付で入手可能です。
また、8月15日は外苑のテントで頒布しています。

「靖国カレンダー」は、あくまで、英霊にこたえる会の年会費¥500を納めてもらった代償として頒布するものですので、厳密では”販売”ではありません。

ですので、「靖国カレンダー」は遊就館売店にも、外苑の茶店にも販売していません。
※(但し、参集殿にて「靖国カレンダー」は頒布するように成りました!)

東京赤坂の乃木神社社務所でも入手可能です。

各県の護国神社でも入手可能な所も有ります。

(ご不明な点は、英霊にこたえる会へお問い合わせ下さい。)
http://eireinikotaerukai.com/

靖国神社の周辺は、8月15日は厳戒警備がされます。

左翼どもの襲来に備えてということと、隣接する武道館で政府主催の追悼式典が行われるためです。

道路の交通規制がなされるので、地下鉄や電車での参拝をお願いします。

また、靖国神社への入り口は正面の神門のみとなり、靖国通りに面した南門は閉鎖されています。

靖国神社の周辺は、コンビニや飲食店が以前より増えました。

ただ、8月15日はお盆休みということもあって、休業しているところも多いです。

お昼ご飯を食べたり、飲み会をしたい場合は、市ヶ谷や飯田橋、神保町まで移動されるか、あとは思い切って渋谷や新宿まで行ってしまう方が良いと思います。

地下鉄九段下駅から上がってくると、途中の坂道で、たくさんの団体がビラを配布したり、署名活動を行っています。
興味の有る方は、そちらも寄ってみて下さい。

左翼・反天連のデモが組織されるため、九段下の交差点は厳戒態勢となります。
保守派のカウンターも有ります。ご注意ください。

なお、靖国神社内でのマスコミの取材は、靖国神社が許可した腕章やバッチが無い場合は、無許可です。
左翼の「週刊金曜日」などがゲリラ的に取材している場合がありますので、ご注意下さい。

(地方から来られる方へ。)
東京駅からは乗り換え無しで靖国神社へ来ることは出来ません。

東京駅からJRで行こうとすると、「市ヶ谷(いちがや)」駅か「飯田橋(いいだばし)」駅に行かないといけません。

東京駅を下車して、地下道を少し歩くと東京地下鉄の「大手町(おおてまち)」駅が有ります。

そこの地下鉄東西線に乗ると、最寄駅の「九段下(くだんした)」駅に行けます。(中野、三鷹方面行き、です)
¥170です。(スイカ、パスモなど電子マネーカードだと¥165)

市ヶ谷と飯田橋はJR総武線各駅で黄色いカラーの電車です。

JR総武線各駅は、新宿・御茶ノ水・秋葉原を通って千葉方面に行きます。
その為、東京駅から直接乗り入れしていません。
東京駅からは、中央線(オレンジのカラーの電車で高架のホーム)に乗って(新宿、立川、高尾方面行き)、御茶ノ水駅で乗り換えます。
御茶ノ水駅だと、ホームを4番線に中央線、3番線に総武線各駅停車が止まりますので、ホームを歩いて渡るだけで乗り換え出来ます。(総武線各駅停車は、中野、三鷹方面行き)
中央線で乗り換えないと、飯田橋・市ヶ谷を通過して四谷まで行ってしまいますので注意して下さい。

飯田橋駅ですと、新宿・中野方面先頭方向の出口が靖国神社への最寄出口になります。
なお、飯田橋駅と靖国神社の途中に、若い女の子の「婚活」の御利益で有名な東京大神宮があります。
東京大神宮は伊勢神宮の東京での遥拝所でした。ですから、伊勢神宮の東京支店みたいなもんです。

東京駅からタクシーで靖国神社へ行く方法も有ります。
それほど金額は高くならないと思いますが、当日は、先述した通り、8月15日は靖国神社や武道館の周辺は交通規制がなされるので、出来るだけ電車の方が良いでしょう。

靖国神社HP交通案内
http://www.yasukuni.or.jp/access.html

(以上、取りとめが無くなりましたが、8月15日靖国神社参拝の手引きでしたwww)
(2015年7月22日に書いたものを加筆致しました)

靖国神社へ行こう!(動画)
https://www.youtube.com/watch?v=Erto9mxp16M

2018、靖国神社へ行こう(動画)
https://www.youtube.com/watch?v=qydU54fZcJk

奈良県護国神社・令和元年戦没者慰霊祭のお知らせ

令和元年「奈良県護国神社戦没者慰霊祭」のお知らせ

 

月遅れのお盆に入りました。

今年は、平成から令和へ御代替わりをして、最初の「8月15日」を迎えます。

靖国神社をはじめ、全国の護国神社に於いて戦没者の慰霊祭を行います。

是非とも、現在の我々の平和と繁栄は、先人、祖先の尊い犠牲によって築かれたことを忘れてはいけません。

報恩感謝の念を持って慰霊の祈りを捧げさせていただきましょう。

当日は大型で強い台風10号が西日本に接近上陸するとのことですが、時間のある方は是非ご参列頂き先の大戦(大東亜戦争「支那事変含む」・日清、日露)で祖国、家族のために殉じられた英霊に心の底から感謝申し上げたいと思います。

 

日時)令和元年8月15日木曜日、午前10時より

場所)奈良県護国神社拝殿

 

奈良県護国神社(旧内務省指定)

住所・奈良県奈良市古市町1984

電話・0742(61)2468

交通機関)JR、近鉄の奈良駅より奈良交通バスにて「護国神社」下車、すぐ

駐車場)境内に駐車場、有り

便所や清涼飲料水の自動販売機、有り

奈良県護国神社の杜は椿の杜であり、椿ゆかりの他社には見られないお守りが有ります。

御朱印、有り。御朱印帖、有り。

浄めの砂、ご神水、有り。

その他、伊勢の神宮大麻、奈良県護国神社大麻、火の用心のお札、厄除け・交通安全・安産・病気平癒などのお守多種、有り。

受付時間)社務所の受付時間は、午前9時から午後4時まで。

なお、祭事斎行時には、お問い合わせの電話に出られないことも有ります。

 

現在、ホームページやSNSの対応はしておりません。悪しからずご了承下さいませ。
2014062421000000
2014062316380000
奈良県護国神社交通安全お守り大
2018040713540000
2016062920360000

令和初日・奈良県護国神社御朱印

自説を主張するにあたって。

やはり、「肩書」が全てである。

「東大卒」とか、「セールス・ナンバーワン」という「キャッチコピー」も同様である。

結局、「何を云ったか、ではなく、誰が云ったか、が全て」なのである。

東京大学教授がこう云った。

国会議員がこう云った。

大企業の経営者がこう云った。

だからこそ、その発言は傾聴する価値が有るのである。

何処の馬の骨とも解らぬ、市井の凡人が何を指摘したところでどうなることか。

まずは、「肩書」を得ることである。

どんなかたちであれ、いったん「肩書」が定まれば、後は多少頓珍漢でも何となく耳を傾けてはくれる。

だから、結局は「悪名は無名に勝る」なんていうことに成るのだ。

現実問題として、最近の「状況」は上記の通りであろう。

 

さらには「鬼面人を驚かす」ということであろうか。

つまり、過激で煽情的な極論の方が突飛である分、印象に残るのだ。

そりゃあ、はじめは嫌悪されまくる訳だが、一方で心酔する者も出て来る。

敵をつくると味方も出来てくる。

だが、それが極まると、どぎつい割りには薄っぺらな代物ばかりが跳梁跋扈する惨状と成る。

誠実で丁寧であろうとすると、物足りなく感じられていくのだろう。

 

名を売るには狂躁の醜態を晒した方が手っ取り早い。

だが、瞬時に有名に成ると、最早、思索を深めていくことが許されなくなる。

否応無く、狂態を呈して、知性の劣化を晒し続けなければ「味方」が納得しない。

狂人の中で、独り「まとも」で居続けるのは酷だ。

ゾンビの群れに取り囲まれたら、自分もゾンビと化してしまうしか、事実上、選択肢は有り得ないではないか。

今回の第25回参議院議員選挙に於いて、既成政党の比例区の得票が激減していた。

特に、自民党、公明党、立憲民主党は、獲得議席数を確保しながらも、得票を減らしてしまった。

これは、軽視してはならない。

特に、「業界団体」の「組織内候補」の得票数に注視したい。

例えば、日本医師会である。

6年前の第23回参院選での羽生田俊は、24万9818票。

3年前の第24回参院選での自見英子は、21万562票。

ところが、今回、羽生田俊は、15万2807票である。

3年前と比較して約6万票も減らし、6年前と比べれば、同じ候補者にもかかわらず約10万票も減少させてしまった。

確かに、東京選挙区に移った武見敬三の選挙支援に忙殺された、といった面も有るだろうが、選挙区と比例区とは別である。

何故、ここまで減少してしまったのか?

一つは、事前の選挙予測報道で、比例区の投票先がダントツで自民党が多かった、ということも有るのかもしれない。

だから、無党派層、かつての「浮動票」が棄権してしまったために、自民党の比例区の票が減少した、とも云えよう。

だが、「非拘束名簿式」である以上、「個人名」の得票が、その支援団体の「組織力」を測るバロメーターに成り得る。


さらに、無惨なのは日本歯科医師連盟であろう。

組織内候補が出馬する党派が、自民党に成ったり、民主党に成ったりと翻弄された。

2007年の第21回参院選では、自民党から石井みどりが22万8165票を獲得。

2010年の第22回参院選では、当時の政権与党であった民主党から西村正美が10万932票。

2013年の第23回参院選では、29万4148票を自民党の石井みどりが獲得。

だが、2015年に西村正美と石井みどりの両後援会への寄付金に関して「迂回違法献金」事件が発覚し、歯科医師会会長などが逮捕された。

そのため、2016年の第24回参院選では、元・東京都杉並区長で、衆議院議員も歴任した山田宏を支援して14万9833票で当選した。

そして、今回、兵庫県の候補者を組織内候補として擁立しようとしたのだが、出馬断念。

選挙間近になってから比嘉奈津美を擁立したのだが、11万4596票で落選してしまった。

かつては、30万票に迫るほどの大量得票をさせるだけの「組織力」を誇った訳であるが、組織内候補擁立の党派が変わったり、政治献金の醜聞が露呈したりして、かつてほどの「集票力」が期待出来なく成って来ている、と自分は思える。

選挙と云うのは、とてつもない「消耗戦」である。

出馬するには、もしくは、候補者を擁立させるならば、絶対に当選させるような戦略と計算が出せなければ、駄目である。

「やってみなければ解らない」といった脳天気なようでは絶対にいけない。

(脳天気なプチナショが云うのも何なのだがwww)

次回、3年後の参院選に於いては、3年前に支援した、知名度、政治的実績、政治的手腕、いずれも定評の有る山田宏が改選を迎える。

やはり、ここは、山田宏を継続して「組織内候補」として支援し続けることが堅実であろう。

それとも、これから3年かけて新たに「組織内候補」を擁立させて、当選圏まで到達出来るような「組織票」を積み上げていけるであろうか?

ここは、まさに「思案のしどころ」であろう。
自分は、困難だと個人的には感じる。

今回の参院選でも、各党の政策の中で「最低賃金の引き上げ」「最低賃金を¥1000に」というのが有った。

それらの「社会的要請」により、最低賃金がまた増額されることと成り、東京と神奈川では最低賃金が、全国でも先駆けて¥1000を超過する見通しである。

これは、画期的でも有り、「遅きに失する」とも云えるくらいであるのだが、これでいわゆる「非正規雇用者」の経済的な貧困が解決されるか?といえば、「ノー」であろう。

例えば、自分は「派遣社員」であるが(今日までだけどwww)、「残業」はほぼ無かった。

本当は残業をしてでもお金を稼ぎたかったのだが、法定労働時間の8時間が来ると現場から帰るように申し渡された。

そして、ここ1年の現場は、その8時間も働かせてもらえる日はほとんど無く、6時間で帰らされる日が多かった。

それは、「仕事量」が「減らされた」訳ではない。

「仕事量」は、8時間かかる時と同じなのだが、6時間で終了させられるように駆り立てられている訳である。

だから、便所や食事などの時間を削らない限り、とても6時間では終わらない。

さらに、天候によって、労働効率に違いが出て来る。

自分の場合だと、この夏の酷暑である。

春秋の快適な季節と比べると、どうしても労働効率が下がらざるを得ない。

特に今年は湿度が多雨のため心身に堪えた。

そのため、作業中に、数量の勘定が出来なくなり、何度も確認をしないと作業を間違えてしまう危険性が生じた。

労働時間を短縮するために作業速度を上げなくてはいけないのだが、かといってミスをする訳にはいけない。

これでも、指示伝票の商品の取り違いをしてしまうことが頻発した。

今回、母が持病の手術をするなど、家庭の事情により「休職」する選択をしたのだが、「退職」扱いである。

勿論、また働くことを申し出れば「採用」されるのだが、一旦「退職」することで、今迄のキャリアがチャラになる訳だから、或る面、従業員にとっては不利であろう。

 

自分が危惧しているのは、日本の各職場に於いて、目に見えにくい「バックヤード」の部分で著しい劣化が進んでいることである。

某百貨店のバックヤードでは、信じられないくらいの乱雑さと汚れ具合が従業員にとって「当たり前」に成っていた。

昼ごはんも、金銭と時間の余裕が無い為に、カップラーメン1個で済まし、飲料も使いまわしたペットボトルに水道水を入れている人を多数、見かけた。

今迄は、トラックのドライバーが商品の積み込みを行っていたので、商品を降ろす際には何処に何が有るのか把握していたのだが、その「商品の積み込みだけ」を「外注」したせいで、ドライバーでさえも納品する商品が何処に何が積んで有るのか解らない状況と成ってしまった。

しかも、「商品を降ろす」という作業が念頭に無い意識で積み込みをするため、いざ商品を降ろす際に手間取る状況に成った。

自分は、前の現場で、トラックに積み込まれた商品をいったん全部降ろして、商品を取り出しやすい配置で積み直したところ、その現場の巡回台数が1日あたり1台余分に回ることが出来るように成った。

つまり、1か月で20台以上の作業効率を上げることに成り、1営業日分の余裕が生まれたのである。

これは自分自身、実際に行ってみて驚いてしまうほどの労働効率の改善であった。

一方、現在の現場では、商品の積み込みが極めて乱雑で、段ボール箱が凹んでいたり、千切れていたりしている。

さらに、変な持ち運びをしている為に、箱が表裏とも半開きの状態になっているものも有り、作業中に箱の底が抜けて商品を地面にぶちまける大参事になったりしている。

これで、相当数の商品が納品出来ない状況に成っている。

さらに、商品の積み込み配置に「法則性」が無く成り、思わぬ場所に思わぬ商品が無理やり突っ込んであるように成ってしまった。

だから、それこそ、こわごわと積み込まれた商品をいったん降ろして積み直し、箱が半開きのものはガムテープで応急処置をしなければいけない「作業」が増えてしまった。

これで、労働時間を短縮させなくてはいけない訳だから、無理というものである。

多分、現時点では、「正社員」の「積み込み」にかかる「残業代」分が、「外注」によって人件費削減と成っている。

だが、労働現場では状況が悪化し、自分のような比較的習熟している従業員でさえも限界を感じて離職する選択をするに到っている。

 

今後、日本の社会は「少子高齢化」社会が一層極まり、「人手不足」の傾向は変わらないだろう。

一方で、米中の貿易戦争や消費税増税といった経済不安によって、現在の「実感無き好景気」は間違い無く萎むと思う。

だから、人件費は否応無く現在よりも削減せざるを得ない。

多分、「最低賃金」が増額されれば、「外注の外注」が「前提」に成ってしまうだろう。

勿論、「外注の外注」先は「個人事業主」である。

また、「非正規雇用者」は「時給制」だから、8時間の仕事を5時間や4時間で仕上げるように駆り立てられるだろう。

だから、いくら「最低賃金」が増額されても、貧困は解決されない、という現象が起こると思う。

 

自分が現在危惧しているのは、日本の職場に「コーチング」が欠如しているように感じるからである。

適切な指示がなされず、コミュニケーションが無い。

「速く、上手くやれ」といった抽象的な目標だけ提示され、後はただ「数字」を突き付けて急かされるだけ。

こういう職場は、いずれ破綻すると感じる。

よく、外国人労働者や機械化でもって省力化出来ると楽観している人がいるかもしれないが、大間違いである。

外国人労働者に「空気を読め」と云っても通じない。

例えば、自分は或るコンビニで、産経新聞を買おうとしたら外国人労働者がとまどってしまい、焦燥のあまり、当てずっぽで「¥180」とレジに入力した。

自分は、「値段が違うよ。産経新聞はここにバーコードが有るから」と指で示すと、嬉しそうに訂正をして、バーコードを読み取らせていた。

ここで、頭から叱り付けても問題は解決しない。

むしろ、新たに感情的な問題が発生してしまう。

やはり、低賃金で外国人労働者を雇用するのならば、日本人以上にきめ細かな作業手順を指導する必要が有る。

さらに、機械化に於いても、事前に緻密な作業手順のコードを設定してソフトを開発し、入力しなければ絶対に想定したようには動かない。

つまり、人件費を削減するためには、きめ細かな職場での「コーチング」が必要不可決な段階に変わりつつあるのである。

最早、かつての「日本的」な「良きに計らえ」「適当に」という、事実上「指示として成立していない指示」では通用しない職場労働環境に成りつつある。

今後、日本の経営者や管理職が、現在のような「空気」の感覚で外国人労働者を雇用し続けるのならば、早晩、「彼ら」にとって都合の良いように解釈をして制御不能に成るであろう。

そして、いざ、懲罰しようとすると、「あなたは明確な指示をしなかった。自分は解らなかった。知らされていなかった。これは不可抗力であって、自分には責任を負う必要が無い」と開き直るであろう。

現在は、問答無用で「解雇」という荒っぽいやり方が横行しているのだが、外国人労働者の数が増え、職場や業界内での割合が上昇していけば、そんな「やり方」は通用しなくなる。

今後は、零細経営者たちが、外国人労働者たちから吊し上げられ、追い込みを掛けられて破滅していく惨状が多発していくであろう。

まさに「因果は巡る」と云うことに成る。

はっきり云って、今後、外国人労働者を雇用する「旨味」は薄れていくだろう。

また、全ての職場で「全機械化」など有り得ないし、もし、それが実現したならば、真っ先に「解雇」されるのは本社の管理部門の方だろう。

過去のデータを分析し、今後の傾向を導き出す「だけ」ならば、人工知能(AI)の方が適しているからである。

 

今後は、我々の業務をいかに「言語化」し、適切な「コーチング」が出来得るかが極めて重要と成ろう。

今迄、安直に切り捨てていた人々を戦力として用いるように出来なければ、多勢に無勢の「戦線崩壊」と成るであろう。

一口に「少数精鋭」主義というが、それが単なる「人員の使い捨て」でしかなければ、「アウトソーシング」やネットでのクラウドでの人員募集も破綻してしまう。

まさに「一周回って」という観が有るが、やはり、結局は「人次第」なのである。

組織の論理や経理の理屈だけでは、経営は破綻する。

そういう時代が、今まさに到来しようとしている、と自分は考える。

政治家の言動に関して。


政治家が、国会質問やマスコミなどでの発言を行う。

それに、ネット上でのツィートなども含まれる。

極論を云えば、政治家は「演技者」である。

大衆や支持者から「どう見られているのか?」ということを絶えず意識していかなくてはいけない。

だから、「天然」な受け答えを率直にしてしまう人は、政治家としては不向きであると思う。

つまり、自分の一挙手一投足、立ち居振る舞いに対して、どのような反応が生じて来るのかを絶えず意識出来るようでなければいけない。

例えば、アメリカのトランプ大統領がそうである。

彼の言動は一見型破りで無茶苦茶だが、その裏には緻密な計算が働いている。

奇手奇策と云えなくもないが、そうでなければ、彼は合衆国大統領には成り得なかった。

彼は下品で気まぐれで勉強嫌いかもしれないが、ただの愚か者ではない。

日本に於いては、自民党幹事長の二階俊博がそうである。

惚けているのか、とぼけているのか判然としない受け答えは、まさに「老獪」と云える。

その老獪さこそが、彼の現在の存在意義そのものと云って過言ではない。

だから、政治家は、具体的に誰の目に、どのように映っているのか?ということを絶えず意識していかなくてはいけない。

それは「偽善者」であると批判されるであろうが、「演技者」にとってはそれも或る種の「賞賛」であると受け止められる。

 

なお、いわゆる「ネット保守」層を意識してしまう政治家がいるが、保守言論人ならいざ知らず、政治家としては全く駄目である。

理由は、現時点に於いて、「ネット保守」層の票数では、「当選出来ない」からである。

今年の統一地方選挙や参院選でよくよく思い知らされたではないか?

今迄、「ネット保守」層を意識して政治家や政党、政治団体が多数、選挙に出馬した。

だが、そのほとんどが惨敗で、その候補者たちは「死屍累々」であった。

一方、「NHKをぶっ壊す!」の公約だけの「NHKから国民を守る党」が、統一地方選挙で数十人を超える当選者を輩出させ、参院選では得票率2%を超過し、自民党の候補者と競り勝って立花代表が、まさかの国会議員当選と「政党要件」をもぎ取った。

つまり、「ネット保守」層を意識した候補者よりも、「NHKをぶっ壊す!」だけの候補者の方が支持された訳である。

これで、いわゆる「真正保守新党」構想が、現時点に於いて、いかに非現実的であるかが解ろう。

何故、そうなるのか?

それは、「ネット保守」層が、「統一行動」を取れない現状に有る。

いわゆる「ネット保守」層が、或る特定の一人の候補者に対して集中して投票してくれるのならば、当選の可能性は有り得る。

だが、現在「ネット保守」陣営内は、好悪、好き嫌いの感情的な対立関係で複雑怪奇な人間模様に成り果てている。

一致して唯一の候補者を当選させる、という流れに持って行けないのだ。

例えば、日本文化チャンネル桜の水島総監督と倉山塾の憲政史家の倉山満先生が「ご一緒で仲良く」なんてことは有り得ない。

結局、目指す政治的方向で一致点が見出せたとしても、「別々に進んで、共に討て!」(レーニン)ということに成ってしまう。

だから、現時点に於いては、「ネット保守」層「だけ」を意識して選挙は当選出来ない。

だから、「ネット保守」層「以外」の人々の支持を獲得しない限り、当選は不可能である。

 

また、「ネット保守」層の人々が好むのは過激で尖鋭的な言動である。

「もっとやれ!もっとやれ!」と煽り立てる連中ばかりなのだ。

その証拠に、日本維新の会から今回の参院選の比例区から出馬予定であった、元フジテレビアナウンサーの長谷川豊は、過激な発言が致命傷と成って「立候補辞退」へ追い込まれてしまった。

つまり、「保守系ユーチューバ―」であれば問題視されないのだが、いざ、選挙の候補者と成れば「不適切」であると判断された訳である。

ただ単に、選挙の「賑やかし」や道化や盛り立て役に徹するのならば、良いだろう。

だが、議席を狙うとするならば現時点では駄目なのである。

やはり、「ネット保守」層以外の「頼り甲斐の有る」層から堅い支持を獲得するためには、意識して抑制された表現をするしかないのである。

現在、日本と韓国との関係は悪化している。

これに関して、指摘したい点をいくつか。

 

まず、朝日新聞などが「これ以上、日韓関係が悪化することは日本の国益を損なう」と云う。

かの朝日新聞が「国益」である。

あまりに可笑しくて思わず吹き出してしまった。

今迄、朝日新聞の「行状」は、ことごとく「国益を損なう」ことだらけではなかったか?

それを今さらながら「日本の国益を損なう」である。

いや、本当は「日本の隣国の国益を損なう」と云うのが本音だろう。

但し、韓国にとっては「国益を損なう」かもしれないが、「共和国」こと北朝鮮や支那・中共にとっては、必ずしも「国益を損なう」ことにはならない。

そう云う面では、朝日新聞は日本経済新聞に比べると、非常に自分たちの「意図」が解りやすいので、良いwww

 

一方、政府の輸出品目手続きの優遇処置停止に関して、その尻馬に乗って「もっとやれ、もっとやれ」と煽り立てている馬鹿がいる。

例え、「好ましい」と思っていても、大っぴらにはしゃぎ回らないのが、日本人の「美徳」である。

政府や各関係機関に対して、「毅然とした外交を切望する」という意思表明を内々に打診するのは良いが、ネットや街頭で、大声でがなり立てるのは全く「日本的」ではない。

むしろ、「かの国」らしい行状である。

よく、左翼や「かの国々」に対して悪罵を投げ付ける御仁がおられるが、その行状は、傍から見ていると、むしろ左翼や「かの国々」の人々と酷似している。

あまりに「そっくり」なので、或る種の「愛情」さえ感じさせられる。

まあ、憎悪と偏愛は紙一重なので、多分、そうなのであろう。

 

戦争とは「最終的な対話」である。

貿易戦争も歴史認識論争も「対話の一環」である。

どこかで「着地点」を見出さなくてはならない。

勿論、それは安直な妥協を意味しない。

どの時点でどのように落着させるのか?

それには、情緒的な思い込みが有ってはならない。

現在の嫌韓感情は、かつての無条件かつ反射的な贖罪意識と構造は同じである。

ただ、ベクトルの向きが真逆であるだけなのだ。

どのようなかたちであれ、韓国は日本の「隣国」である。

好むと好まざるとに関わらず、何らかの関係性は生じて来る。

だから、安直に「断交」などと口にすべきではない。

もっと、したたかに、狡猾にならなくてはならない。

それに、日本と韓国の「狭間」に位置する「人々」が存在する。

そういう人々を短絡的に切り裂いていくのは、先々のことを考えていくと賢明な行いとは云えない。

本当なら「味方」に付けておくべき人々を、無理やり「敵方」へ追いやる結果と成る。

それこそ、「日本の国益」にはならない。

何処を何処まで「突いて」いくのか。

もっとシビアで戦略的でなければいけない。

 

現在は、韓国は反日感情で凝り固まっているが、自分はいずれ「反転」すると予想している。

それも韓国からではなく、まず、北朝鮮から親日に反転する。

そして、北朝鮮に追随するかたちで、大慌ててで、日本に「抱き着いて」来るであろう。

その時に、果たしてビジネスライクに「突き放す」ことが出来るのか?

いわゆる保守派は、情緒的で「お人好し」ばかりだから、情にほだされると途端にグダグダに成る。

「情けは人の為ならず」であるが、頭の中ではちゃんと算盤勘定はして欲しい。

第25回参議院議員選挙で、本当に重要なことは何か?と云えば、それは「投票率」である。

総務省の発表で48.8%である。

つまり、2人に1人は「棄権」した、ということである。

まあ、「棄権」も一種の「投票意思表示」であるから、処罰するかどうかといった議論をすべきではなかろう。

また、電子投票といった投票の「やり方」についての指摘も有った。

自分は「社会的弱者」を救済するのは「政治」である、と考えるので、「社会的弱者」が投票しやすいような技術的努力は行うべきであると考える。

それはさておき、この「低投票率」に対して、政治家や政党関係者はもっと深刻に受け止めるべきであろう。

別に、「一票の格差」やら、「はたして選挙として成立すると認められるのか」といった指摘ではない。

この、今回「棄権」した人々が、次の選挙に一斉に投票行動を起こしたら、選挙結果が一変する、と云う可能性である。

それは「ポピュリズムの嵐」とも形容出来よう。

例えば、投票率が5%でも上昇し、さらに、その増加した分の投票が一気に或る特定党派へ集中した場合、選挙結果は大旋風が巻き起こるであろう。

現にその「兆し」は今回、見受けられた。

山本太郎の「れいわ新選組」は、敢えて「山本太郎を当選させない」という、「予定調和」を打破したドラマを設定したことによってムーブメントを巻き起こした。

そして、さらに、山本太郎が落選することによって、このドラマは「つづく」ことに成功したのである。

今回、現行の公職選挙法の規制によって、「れいわ新選組」は、その「破壊力」を社会全体に周知させること無く選挙戦が終わってしまった。

だが、山本太郎が落選し、さらに「れいわ新選組」が「政党要件」を満たしたことにより、次回の選挙から、その「破壊力」がTVや新聞を通じて一気に波及していくことに成る。

個人として、山本太郎が参議院議員に当選するよりも、遥かに獲得出来る政治的成果は大きい。

これは、かつて、橋下徹が大阪府知事でありながら、大阪府の自民党を飛び出した地方議員と共に「大阪維新の会」を結成したのと同じくらいの「挑戦」であった。

いわゆるタレント出身の知事は、横山ノックが居り、青島幸男が居た。

だが、議会は既成の政党の地方議員の上に「乗っかる」かたちであった。

その方が、遥かに楽だったからである。

だが、橋下徹は、松井一郎などと共に自民党大阪府連へ叛旗を翻して挑戦した訳である。

やはり、勝負に出た、という覚悟と気迫が政治的勝利を引き寄せたところは有ると感じる。

だから、年内にも行われるであろうと云われる衆議院解散総選挙に於いて、まだ記憶に新しい「れいわ新選組」山本太郎の出馬は、間違い無く甚大な破壊力を持った「ポピュリズムの嵐」と成り得る。

今、もし、山本太郎が杉並区の東京8区から出馬したら、さしもの石原伸晃であっても小選挙区では落選してしまいそうである。

 

今回の参院選で、大幅に議席を減らしたのは自民党である。

だが、敗北したように感じられないのは、厄介至極である。

さらに厄介至極なのは、議席を9議席から17議席まで、ほぼ倍増させた立憲民主党である。

だが、立憲民主党こそ、今回の選挙で徹底的に反省を行うべきである。

何故なら、立憲民主党は、本当は「もっと勝てた」筈なのであった。

例えば、比例区で云えば、事前の週刊誌などの各議席獲得予測では、12議席以上、という見立てであった。

ところが、実際は二桁に届かずに8議席に終わった。

民進党だった2016年第24回参議院議員選挙では、1175万965票、獲得議席は11であった。

立憲民主党としては、791万7719票。

国民民主党としては、348万1053票。

両党合わせても、1139万8772票である。

政党支持率から云えば、特に「無党派層」からは、もっと立憲民主党は得票が有って当然であった。

つまり、もっと「勝てる筈」の選挙を「失速」させてしまった原因は何か?

やはり、山本太郎の「れいわ新選組」であろう。

さらに「地味」に負けていたのは、日本共産党である。

日本共産党は、8議席から7議席に議席を減らした。

しかも、埼玉県選挙区で定数が1増になったお蔭で、21年ぶりに共産党の議席を獲得出来たにもかかわらず、である。

その代りに、かつての「金城湯池」であった大阪府でとりこぼし、比例区でも1議席減で、現職の仁比聡平を落選させてしまった。

日本共産党は、2016年では、601万6194票(小数点以下切り捨て)で、今回は、448万3411と150万票も減らしてしまった。

つまり、山本太郎の「れいわ新選組」は、野党統一に埋没した日本共産党と、政権獲得の為に本気で「獲りに行く覚悟が無い」立憲民主党から無党派層や左派シンパ層から票を引き剥がしていった、と云えよう。

(なお、これに関しての記事をJ−CASTニュースで見つけたので、ご参考までに。)

「れいわ」「N国」の票は、どこから来たのか? 影響を受けた政党は...

https://www.j-cast.com/2019/07/22363203.html?p=all

 

既に朝日新聞などで記事に成っているのだが、自民党の比例区の票は減らしてしまった。

3年前は2011万4788票(小数点以下切り捨て)で、2000万票を超えていた。

今回は、1771万1862票で、240万票も減らしている。

一方、維新は、515万3584票(小数点以下切り捨て)で、今回の490万7844票より多かった。

公明党も、3年前の757万2960票(小数点以下切り捨て)から、653万6336票と100万票以上減らしている。

つまり、「低投票率」のお蔭で議席数を増やすことが出来た訳である。

自民党は、今回、30名を超える多数の候補者を擁立させ、しかも、かつての「みんなの党」や旧「民主党」などの国会議員経験者を立てて比例票の掘り起こしに躍起に成った訳である。

にもかかわらず、240万票も減らしてしまった、ということは、真摯に受け止めるべき数字であろう。

また、共産党、公明党といった「組織型政党」に於いても、かつてほどの集票力が望めなく成って来ている。

特に、公明党の集票力が落ちて来ており、小渕内閣の頃からの「自公連立」「自公選挙協力」でもって政権を維持させて来た選挙戦略が、このままだと維持出来なくなる可能性が出て来た。

つまり、公明党・創価学会の「票」によって当選出来ていた選挙が、勝てなくなりつつ有る訳である。

自民党や、いわゆる「保守派」は、誠に迂遠ではあるのだが、草の根の保守層を形成させていく地道な作業を実施していくべきであると考える。

ネットや街宣で浮かれ騒いでいる余裕など、無い。

 

自分が危惧しているのは、世界的に吹き荒れている「ポピュリズムの嵐」である。

「嵐」というよりも「津波」と云っても過言ではない。

7月21日には、ウクライナに於いても国会議会選挙が実施された。

既に、喜劇俳優ゼレンスキーが大統領選挙で大勝し、当選してしまった。

只今、ウクライナは、ロシアのプーチンにしてやられて、クリミア半島を含む「東部地域」を新ロシア派に占拠されてしまった。

つまり、現在、ウクライナは国土を分割されるといった「非常事態」である。

にもかかわらず、というかむしろ、だからこそ、「ポピュリズム」が吹き荒れて、政治的には全くのズブの素人のゼレンスキー氏が大統領に成ってしまった。

そして、ウクライナ議会選挙で、ゼレンスキー大統領の新党が第1党に成る、躍進ぶりである。


ヨーロッパを見れば、「ポピュリズム」の業火で、既成政党は「焼野原」である。


イタリアに於いては「五つ星運動」と「同盟」(かつての「北部同盟」)による連立政権である。

かつてイタリアには、「西側最大最強」と云われたイタリア共産党が有った。

そこで、キリスト教民主党や共和党、社会党、民主社会党といった中道左派4党が「非共産党」というかたちで連立して、首相は各党派の「回り持ち」という、ズブズブのグダグダの政治が続いた。

(日本の、○都府みたいですなwww)

だが、1992年にイタリア政官財界の汚職が摘発され、タンジェントポリと呼ばれる汚職摘発、政界刷新の動きが起こり、それが後にベルルスコーニの「フォルツァ・イタリア」や「北部同盟」「国民同盟」という保守系の新党を誕生させていく。

また、左派政党も、1995年に「オリーブの木」で大同団結して、政権を獲得する。

だが、政治的な「くせもの」ベルルスコーニに、イタリア議会は翻弄され続ける。

2009年に喜劇俳優のベッペ・グリッロによって創立された「五つ星運動」が、ベルルスコーニの保守陣営と「オリーブの木」以来の民主党系左派陣営の対立構造に割って入り、大衆的な人気を勝ち得て政権を獲得した。

まあ、イタリア議会は、この約30年間をかけて、かつての既成政党を消滅させていく「過程」であったような感じさえして来る。


隣国のフランスでも、保守系のド・ゴール派の党派と社会党、共産党の左派陣営が保革で競い合った。

社会党からは、ミッテラン、オランドと大統領を輩出した。

ミッテラン大統領の時に、議会多数派が保守となり、首相はシラク、バラディールと続いた。

また、ミッテランの後に、大統領となったシラクも、社会党のジョスパンが首相であった時機も有った。

これを「コアビタシオン」と云い、フランス語では「同居」「同棲」の意で、「保革共存政権」と呼ばれた。

だが、その社会党のジョスパンが2002年の大統領選挙で、右翼の「国民戦線」ジャン=マリー・ルペンの後塵を拝する番狂わせが起こり、決選投票に進めなかった。

思えば、既にこの頃から、フランスに於いても、保守、左派の既成政党の土台が崩れ始めていたのであろう。

それから移民2世のサルコジ、社会党のジョスパンと目まぐるしく政権は変わった。

そして、元・社会党のエリートであったマクロンが、新党「アン・マルシュ(前進!)」を結党し、大統領選挙で当選する。

さらに、議会選挙でも新党「共和国前進」の候補者が多数派を占め、既成政党は保守、左派共にガタガタに成った。

だが、その後、反マクロンの国民運動が吹き荒れることと成る。

 

さらに、隣国のドイツでは、保守、キリスト教民主同盟の長期政権のコール政権の後に、左派、社会民主党のシュレーダー政権となり、その後、キリスト教民主同盟のメルケル政権と成った。

その間に、キリスト教民主同盟と社会民主党との「大連立」が有った。

その原因は、中道政党の「自由民主党」の凋落である。

保守のキリスト教民主同盟は、地域政党のキリスト教社会同盟と共に、自由民主党と連立を組むかたちで政権を維持して来た。

また、時には、「緊急避難」的に、左派の社会民主党とも「大連立」を組んだ。

しかし、そのうちに、キリスト教民主同盟、自民党、社会民主党といった既成政党に飽き足らない国民が出て来た。

それが「緑の党」を生んだ。

だが、近年のドイツ連邦議会に於ける問題は、旧東ドイツ出身のメルケル首相が、移民に対して同情的であり、寛容な移民政策を堅持して来たことに有る。

そのうちに、保守層から、「ドイツのための選択肢」という新党が結成され、移民政策の見直しを訴えて、キリスト教民主同盟の右側を切り崩していったのである。

現在、政党の勢いは、左派の「同盟90・緑の党」と保守の「ドイツのための選択肢」が有り、その間に挟撃された既成の大政党の支持が減少していく、ということである。

まさに、左右からの「ポピュリズム」によって既成大政党が痩せ細り始めて来た訳である。

 

イギリスに到っても、2大政党制と云いつつ、保守党と労働党の割合が低下しつつ有る。

具体的には、かつてスコットランドは労働党の強い地盤であったのだが、スコットランド国民党が議席を獲得して来ている。

さらに、保守層では民主統一党が最強硬派であり、中道の自由民主党と組んでも政権安定に届かない。

また、労働党も、党首が中道的であったトニー・ブレアのような政治家ではなく、ジェレミー・コービンという最左派の民主社会主義者。

だから、保守党政権とは、妥協点が見出しにくい。
このたび、新しい首相に就くボリス・ジョンソンも、金髪で過激な言動と云う点で、さながらイギリスのトランプのようである。
(かつて、ボリス・エリツィンというポピュリストも居ましたなwww)

 

アメリカにしても、この「ポピュリズムの嵐」は吹き荒れている。

かつて、先日亡くなった実業家ロス・ペローが民主党、共和党とは別の「第三の候補」として出馬した。

だが、ロス・ペローは惨敗した。

一方、実業家ドナルド・トランプも、共和党の大統領選挙予備選挙に名乗りを上げたのだが、当初は全くの「ダーク・ホース」扱いだった。

むしろ、フロリダ州知事を歴任したジェブ・ブッシュの方が政治的手腕に優れているとも云われた。

だが、ジェブ・ブッシュは支持が失速。早々と選挙戦から撤退する。

それから、ドナルド・トランプの予想外の快進撃が始まり、ついに民主党のヒラリー・クリントンと一騎討ちと成った。

だが、ヒラリー・クリントンを破り、当選してしまう。

ドナルド・トランプへは、旧来の共和党支持者の中でも不満を表明する者が多いという。

現に、亡くなったジョン・マケイン上院議員はトランプ嫌いで有名だった。

或る面、共和党は、ドナルド・トランプという「ポピュリズムの嵐」に「乗っ取られた」とも云えよう。

だが、その「ポピュリズムの嵐」を自党へ「取り込んだ」ことにより、大統領選挙に勝利することが出来た、とも云えるのではないだろうか?

 

今迄、長々と各国の「ポピュリズム」に関して言及して来たのは、この日本に於いても「ポピュリズムの嵐」が巻き起こり得る、ということである。

よく「安倍1強」とか「一強多弱」と云われる。

これは、実は正確ではない。

「安倍一弱、その他もっと弱」www

つまり、自民党にも実は「勢い」が無いのである。

その証拠に、今回の参院選で「一人区」と云われる各県での選挙区は、「野党統一候補」という、野合と打算の産物である、「アンチ自民」しか政策の無い「虚無」の候補者に10敗もしている。

しかも、総理と官房長官が首相官邸をカラにして各選挙区を飛び回ってテコ入れをしても、なお、及ばなかった訳である。

決して「選挙に強い」訳では無い。

それに、選挙の中盤の予測では、「沖縄、岩手、愛媛、秋田、長野」ぐらいが「野党優勢」と云われたが、後の「山形、新潟、滋賀、大分、宮城」は「自民優勢」と云われたのである。

だが、結局届かなかった、というのは、「候補者の質」という事柄まで考慮していかないと駄目だろう。

7月22日月曜日、投開票日の翌日の産経新聞のコラムで、滋賀県の二之湯武史候補が選挙戦中に遅刻をしたといった不手際が散見された、という。

産経新聞では珍しい苦言ぶりであった。

今回の「一人区」「10敗」を奇貨として、6年後には「勝てる候補」をしっかりと擁立してもらいたいと願う。

それはともかく、現在の自民党の国政選挙の「連続勝利」は、野党の「駄目さ加減」に救われている点が大きい。

2012年12月衆院選は、3年に渡る民主党政権のグダグダぶりが原因である。

2013年7月参院選は、やはり、民主党政権からの「政権奪還」とアベノミクスの成果のお蔭である。

2014年12月の衆院選は、「抜き打ち」とも云える解散による勝利であり、

2016年7月の参院選は、比例区や複数以上の選挙区で手堅く議席を確保出来たためによる勝利。

2017年10月の衆院選は、最大野党の民進党が、代議士全員、小池百合子東京都知事の「希望の党」から出馬する、という「奇策」に討って出たところから始まり、小池都知事の「排除の論理」から枝野「立憲民主党」が結党。前・民進党は分裂状態で選挙戦に突入した訳である。

これらを思い返せば、野党が駄目過ぎたから自民党が勝利して当然の選挙結果であった、と云えよう。

勿論、安倍政権も支持率が落ちないように緻密に苦心して来た訳であるが、ここに来て「長期政権」ゆえの劣化現象が感じられる。

憲法改正と消費税増税を、同時に、一気に実施しようというのである。

今回の参院選は、勝利出来たが、それで消費税増税が国民から支持された、と云い切るのならば、安倍政権は令和元年の「年内」中に立ち往生するであろう。

「憲法改正」を口走りながら、憤死していく、と予感する。

 

間違い無く、山本太郎の「れいわ新選組」は、このままだと衆院選に於いて二桁台の議席を獲得しかねない。

下手をすれば、維新、共産よりも議席を獲得しかねない。

一方、元祖・ポピュリスト、橋下徹の政界復帰が有り得る。

さらに、来年の東京都知事選挙、東京オリンピック・パラリンピックを睨んで、小池百合子東京都知事が「リング乱入」の可能性有り。

そうなった時、いくら安倍総理でも「党首の顔」としてはインパクトが弱く見えてこよう。

勿論、岸田文雄、石破茂、野田聖子なんか担ぎ挙げたところで「ポピュリズムの嵐」に吹っ飛ばされるであろう。

最悪、「ポピュリズムの津波」で、根こそぎ、既成政党がなぎ倒されてしまいかねない。

それには、対「ポピュリズム」の「論理」と「話法」をきちんと構築していくことである。

つまり、「政治的な知性の力」でもって、理論武装することである。

そうでなければ、ポピュリズムの上っ面の「屁理屈」でふっ飛ばされてしまうであろう。

 

今、まさに、政治家と国民の覚醒と研鑽が望まれる。

「事件」というのは、パッと見で判断は出来ない。

その「事件」の重大さ、深刻さは、後々に成ってからでないと判然としない場合が有る。

 

日本郵政グループの「かんぽ生命」に於いて、不正販売が横行していたことが明るみに成った。

保険の契約内容に於いて、保険契約者に不利な条件で販売がなされたり、保険料の二重取りが有ったりした。

どちらも、営業担当者への過重なノルマ達成へのプレッシャーから惹き起こされた、と云う。

もし、そうであるならば、これは「自殺行為」に等しい。

「かんぽ」とは、簡易保険のことであり、かつての郵便局が取り扱う簡易型の保険であった。

貯蓄型生命保険であったと云える。

自分もかつて学資保険を親が掛けてくれて、大学進学の際にはお世話に成った。

また、父も簡保に入り、我が家の家計からすると過重な毎月の保険料を、必死に成って支払い続けた。

最終的には父の死後、入院治療代と葬式や墓地改修などの多額の出費を簡保からの保険金で賄うことが出来た。

そういう意味では、大変自分たちはお世話に成った保険であった。

だが、そんな「かんぽ」で、詐欺同然の不正が起こってしまった。

これは、「かんぽ」にとって致命的なミスであると思う。

そもそも「かんぽ」は、郵便局が取り扱う比較的小規模な保険である。

保険としての「商品」は、保険料がとても安価である訳でもないし、また保障に関しても限定的である。

そんな「かんぽ」という「商品」がたくさん契約されたのは、「郵便局で取り扱っている保険」であるという、安心感、信頼感であった。

その「信頼」を裏切ってしまった訳である。

「かんぽ」という「商品」の最大の「強み」を潰してしまったといって良い。

この信頼の喪失は、じわじわとダメージになっていくであろう。

既に、外資系の「アフラック」から、販売委託していたことについて「調査」の申し入れがなされた。

「かんぽ生命」は、その特長を自ら損なってしまったのである。

 

かつての郵政事業は、日本郵政グループということで、「日本郵便」「ゆうちょ銀行」「かんぽ生命」の3社体制になっている。

「一応」別会社なので、郵便局に行っても、混雑時に「日本郵便」側の窓口の職員は、「ゆうちょ銀行」や「かんぽ生命」側の窓口へ応援に回ってくれないことが目に付く。

そのまた逆も然り。

しかし、小さな地元の郵便局でこういう光景を目にすると、やはり釈然としないものを感じてしまう。

かつての「郵政省」の頃の「郵便局」の方が良かった、と単純に思ってしまう。

自分が「正社員」だった頃、「見積書」を取る時は、さすがにFAXに変わっていたが、「請求書」は封書郵便で来た。

そして、「請求書」と一緒に同封された「納品書」へ、署名捺印して返送したりした。

ところが、現在、「見積書」はメールの添付ファイルであろう。

それこそスマホで、電車や営業車内でも確認出来るように成っている。

「請求書」は「社判」の捺印が有るので、メールで「正式文書」扱いしているのかどうか不明だが、いつまでも封書郵便でやりとりしていくことは無いだろう。

業務用に於いても、私信に於いても、「郵便」を使用する数量は減少していく。

だから、「日本郵便」の売上や収益を上げていくのは至難の技である。

また「ゆうちょ銀行」にしても、電子マネーやネットバンキングがさらに一般化していけば、現在の異常なまでの超低金利と相まって、なかなか収益を上げていくのは難しい。

畢竟、「かんぽ生命」の頑張りが期待される訳だが、そこへ今回の不正販売という醜聞である。

「日本郵政」グループの収益の牽引車であった「かんぽ生命」が失速すれば、「日本郵政」グループ全体の経営状況が悪化していくことに成って行くだろう。

 

さて、先日、令和元年7月21日投開票された第25回参議院議員選挙では、自民党の全国比例代表選挙区でもって3位に上位当選したのは「柘植(つげ)芳文」候補で、得票数は600,189票であった。

自民党は「特定枠」で2名を設定していたので、事実上の1位当選である。

(ちなみに、「和田まさむね」候補は5位、288,080票で当選!)

この柘植芳文議員は、全国郵便局長会に支援されて当選した。

かつて「全国特定郵便局長会」(全特)であり、全特のOB会「大樹全国会議」は「郵政政策研究会」と共に郵便局長のグループである。

その「集票力」は絶大で、業界団体組織票では最多と云われる。

(なお、郵便局職員は労働組合「全逓信従業員組合」(全逓)を組織。日本社会党の田辺誠、大出俊といった大物代議士を輩出。現在は、JP労組に。)

その「全特」は、小泉純一郎の郵政民営化に対して、亀井静香らの「国民新党」結党でもって対抗した。

しかし、現在の参議院議員選挙全国比例代表制は、個人名での当選は至難の技なのである。

例えば、比例代表制が「非拘束名簿式」に変わってから100万票を超える得票数だったのは、2001年第19回参議院議員選挙の際の自民党・舛添要一で、1,588,862票が有る。

(ちなみに、公明党は、党名ではなく、個人名での投票を徹底化させている。

そのため、個人得票の最高は、第20回の浜四津敏子で1,822,283票、

第19回の山本香苗1,287,549票、

第21回の山本香苗1,027,546票が有る。)

大昔の「全国区」は、まさに全国的知名度が物を云う選挙制であり、100万票を超える候補が結構、出現した。

石原慎太郎、田英夫、青島幸男、安西愛子、山東昭子、宮田輝、中山千夏など。

だが、一方で、堅い組織に支えられた候補も居り、鳩山威一郎、上田哲、鹿島守之助、玉置和郎といった当選者である。

最近で、堅い組織票の下支え無しに全国比例代表区で当選出来たのは、第24回参議院議員選挙の青山繫晴の481,890票が最多であろう。

だから、今回の「れいわ新撰組」の山本太郎の992,267票を獲得したのは驚嘆すべき「現象」なのである。

で、比例代表区で、それこそ「個人」の力でもって1議席獲得しようとするならば、約100万票は必要に成る訳なのである。

今回の「NHKから国民を守る党」は、政党名票で841,224票、個人名票で146,661票で、合計987,885票の得票が有ったので1議席を獲得出来た訳である。

「全特」は、その集票力でもって、国民新党を下支えして来たのであるが、2010年の第22回参議院議員選挙に於いて、長谷川憲正を406,587票を得たものの落選してしまった。

これ以降、どんなに堅い組織票が有ろうとも、有名人であろうとも、「無風」の状態であるならば、比例代表区で当選するには、それ相当の政党の公認候補に成らないと困難である、というのが「常識」に成った訳である。

そして、「全特」は自民党へ組織内候補を送り込むことを「復活」させ、柘植芳文、徳茂雅之の二人の組織内議員を誕生させた。

 

現在、「日本郵政」グループは、「全特」によって自民党からは2名の参議院議員、「JP労組」によって立憲民主党からは1名の参議院議員を誕生させるだけの「政治力」を持っている。

だが、「かんぽ生命」の不正販売という致命的な醜聞によって、下手をすると「日本郵政」という巨大な企業体が崩壊してしまう可能性が出て来た。

これは、やはり安穏としてはいられないであろう。

現時点に於いて、やはり「日本郵政」グループは、その業務内容が既に時代の潮流に合致していなく成り始めている。

郵便事業も、金融業も、保険業も、現在の企業体を維持出来るだけの収益を上げられそうな先行きの見通しは大変厳しい。

ならば、「日本郵政」グループを「現状維持」させていくことに固執してしまうことではいけないと感じる。

では、「日本郵政」グループの将来像はどうあるべきなのであろうか?

「日本郵政」グループにとって、唯一無二の存在は、日本全国に張り巡らされた「郵便局」のネットワークである。

自分はかつて農学部生であったので、実習の授業の際に郡部へ行くことが有った。

そして、郡部へ行くと、金融業者は郵便局か農協しか見当たらなかったのである。

今後は、確かに、インターネットによるメールと電子マネー決済が行き渡るであろうから、金融業や郵便事業の「拠点」としての役割は薄れていくかもしれない。

しかし、日本という国家と社会は、どんどん少子高齢化により、人口が減少していく。

特に高齢者の割合が増えていく。

そうなった時、役所以外の拠点施設の存在というのは、大変貴重なものと成っていくであろう。

既に、新聞の宅配販売所は、新聞配達サービス「だけ」で生き残ろうと思っていない。

エアコンなどの修理や不用品の引き取りなどの「地域の便利屋」として、生き残りを模索し始めている。

新聞の宅配販売所は、それだけ地域社会の住民を熟知しているからこそ、そういった「地域の便利屋」としての業態へシフトしやすい訳である。

だが、新聞の宅配販売所は、あくまで「小規模経営」の企業体であることがほとんどである。

それに対して、郵便局は、「日本郵便」という大規模な企業体である。

新たなインフラ整備なども可能であろうし、政府などからの支援も引き出しやすい。

新聞の宅配販売所は、廃業や撤退が有り得るであろうが、「郵便局」は、「拠点をあくまでも確保する」という覚悟さえ「日本郵便」と政府、国民が共有出来れば維持が可能であろう。

現在の「郵便局」の全国的なネットワークは、これから新たに作り上げようとしても絶対に不可能であろう。

取り扱う「サービス業態」が変化しようとも、絶対に現在の「郵便局」の拠点は維持すべきであると、自分は愚考する。

それこそ、現在、収益源である「かんぽ生命」という会社そのものさえ売却しても良いから、全国の「郵便局」は守るべきである。

だから、自分は「郵便局」が、再び国有化されて「公共サービス機関」に戻ることも拒否しないのである。

上下水道と郵便局は、「公営」で良いと自分は思っている。


(令和元年8月1日、追加付記)

郵便局の中で。
郵便局で契約社員として採用された人には、
「営業ノルマを達成出来たら、正社員にしてあげる」
と、煽り立てていたそうである。
この「正社員」という殺し文句は、絶大な効果を発揮した。...
一方で、「そこまで無理やり働かされるのならば、契約社員のままで良い」と腹を括った人もいる、という。
どちらにせよ、このままだと、どちらの選択をした人も、リストラされてしまいそうである。
日本郵政は、国有化しない限り、現状維持は無理だろう。
今回の醜聞で、「かんぽ生命」は潰れると思う。
一番、犠牲が少なく出来る方法は、
「かんぽ生命」を身売りする。
日本郵政の株を全部買い戻す。
株式上場を廃止する。
日本郵便とゆうちょ銀行を再国有化する。
日本郵政を、かつての郵便事業から、地域への総合サービス事業へ移行、転換させていく。
現状の郵便、金融、保険事業に固執する限り、日本郵政の経営破綻は、不可避であろう。

不適切な発言かもしれないのだが。
「かんぽ生命」の醜聞は、詐欺商法と指弾されても過言ではない。
「かんぽ生命」の保険商品そのものは、今と成っては、国内・外資・共済を含めて、ずば抜けて特色の有る「商品」とは云い難い。
つまり、「かんぽ生命」の「かんぽ」の特質は、「郵便局の保険」という信用力、信頼感、馴染深さ「だけ」であった。
云ってみれば、それは「古き良き村落共同体」的な「身内意識」から来ていた。...
そして、それは「郵便局」という、「御国」の「信用力」の「残滓」でもあった訳である。
それを、根底から覆した訳である。
最早、「かんぽ」にこだわる根拠も理由も失われてしまった。
多分、「かんぽ」そのものの商品としての社会的な「有効期間」「余命」は、最早5年から10年ぐらいであろうと危惧されたのであろう。
しかしながら、かといって、全く「背景」の異なる金融機関出身の経営者に丸投げして、安直な「ノルマ過重営業」と云う「ど根性」「イケイケ」の商法で切り抜けようとした結果、この体たらくである。
金の卵を産む鵞鳥をみすみす殺してしまった。
今迄は、「御国」の「郵便局」の「簡保」という、前時代の「ノスタルジー」で「眩惑」されていたのが、瞬時に興醒めした訳である。
これからは、星の数ほど溢れかえっているその他の「保険」の中に埋没していく。
ならば、「かんぽ生命」を今更「復活」させようとしても詮無きこと。
確かに、ここ1、2年は「かんぽ生命」の収益でもって日本郵政グループの「数字」の底上げを図るしか無いのだろうが、それは単にその場限りの応急処置でしかない。
繰り返すのだが、今、我々が本当に「死守」すべき「もの」は何か?
それは「かんぽ生命」ではない。
日本全国、津々浦々にまで張り巡らされた「郵便局」と郵便ポストのネットワークである。
「かんぽ生命」は、それこそ他の保険会社によって、もう一度作り直すことが可能であるが、「郵便局」のネットワークは一度破壊されたら、再び一から作り直すことは不可能である。
これは、日本の社会にとって極めて深刻な損失に成ると予感する。
少なくとも、「政治」の世界に於いては決定的な現象を生む。
かつて「特定郵便局」と云われた、全国の大部分の「郵便局」がどんどん潰れていけば、先月の参院選で柘植芳文候補が得票した60万票という巨大な「票田」が消失することに成る。
ただでさえ、「業界団体」の「組織票」が先細りしているのである。
創価学会・公明党の得票数だって万単位で激減している。
「選挙目当て」と指弾されるかもしれないのだが、政府・自民党は、よくよくこの「かんぽ生命」と日本郵政グループの取り扱いに細心の注意を払って欲しい。

テレビ番組、特に夕方のニュース番組で、グルメ特集ばかり放送している。
しかし、自分は、外食なんかほとんど出来なくなってきている。
ま、弁当持参の方が健康にも良いし。
だから、いくらテレビで放送しても、以前より営業効果が出なくなっているのではないかな?
あんまり情報量が多過ぎると、だんだん印象に残らなくなる。...
グルメ特集番組が増えたのは、制作費がかからないからだろう。
カメラさえ回しておけば、セットも大道具も要らない。
しかし、社会の所得格差は、急激に深刻化していると思う。
そのうち、グルメ特集なんか見たくない!という要望があちこちから上がって来るのではないのか?
自分なんか、一食1500円を超えるのを見たら、嗚呼、高嶺の花だ、と感じて一気に興味が無くなる。
あと、仮処分所得が比較的多い人は多忙な場合が多い。
だから、使えるお金は有っても、店まで足を運ぶ時間が取れない。
つまり、グルメの情報は知っても、ほとんどの人が食べに行かない結果になるのかも。
ならば、早晩、グルメ特集は廃れていくのかも。
今後、グルメ特集に代わり得る題材は何か?
自分は、安売り特集だと思う。
キュウリが安い、トマトが安い、サンマが安い、イワシが安い、がんもどきやつみれが安い。
グルメよりも、安さを全面に出した特集の方が、視聴者の食い付きは遥かに強いだろう。
要は、みんなが貧しくなっている、というだけのことなのだ。
国民の所得が増えるようにしない限り、デフレは解決しない。

拙ブログの人気ランキングを見て驚いた。
自分の認識では、保守系のブログが、かつては、ずらりと上位を占めていた。
今は、真逆である。
いわゆるネトウヨ批判ばかり、安倍批判ばかりのブログばかりが、上位を占めている。
つまり、既に、ネットの世界の一部は、間違い無く、左翼系が幅をきかしているのだ。

...

ならば、左翼系が多数派なのかというとそれは違うだろう。
もし、左翼系が多数ならば、左翼系の雑誌が廃刊したり、販売不振で困窮することはない筈だから。
つまり、以前より、左翼系の人数は減っている。
あるいは、雑誌などの有料メディアにお金を使えないくらい、懐事情が悪く成った。
だから、無料のネットのブログを読むことしか出来ない。
ブログのプレビューの数はそれなりに多くても、人数としては多くはない。
もし、人数も多ければ、選挙の際に同じ主張をする党派や候補が多数当選している筈だ。
かつて、ネトウヨがネット上で幅をきかしていたが、選挙の結果は大惨敗であった状況と構造は同じである。

だが、ネットでムーブメントを起こせば、早晩、リアルなかたちでムーブメントが巻き起こる。
次に来るのは、左翼全盛か?
もし、そうだとするなら、もう少し知的レベルを上げて欲しい。
今の左翼ブログは、まさしく「愚者の楽園」でしかないからだ。

かつて、竹下派「経世会」が全盛期、派閥のドンであった金丸信が竹下派の幹部たちを評した有名な言葉が有る。

無事の橋本(龍太郎)

平時の羽田(孜)

乱世の小沢(一郎)

大乱世の梶山(静六)

俗に「竹下派七奉行」と呼ばれた幹部たちである。

やはり、優秀な人物であっても、その人の特質と云うものが、状況によって「向き不向き」が有るということであろう。

橋本龍太郎や羽田孜は、上座に座らせておくと「座りが良い」。

「育ちの良さ」といったところであろうか?

一方の、小沢一郎や梶山静六は、神経の緻密さと豪胆さを兼ね備えた勝負師、武闘派。

だから、荒っぽい状況の方が向いている、ということであろう。

 

まだ、参院選の投開票日は明日なのだがwww、国民民主党が「気の毒」である。

多分、惨敗であろう。

衆院選のような、狭い選挙区ならば、政治家個人の力量でもって当選をもぎ取れる。

だが、全県区や全国比例区といった広大な選挙区だと、候補者個人の力量だけでは如何ともし難い。

やはり、政党そのものの高い支持と好印象が大きな要素に成る。

代表の玉木雄一郎は、優秀で好人物なのだろうが、その「育ちの良さ」が、今回は裏目に出ている。

そもそも、5月3日の憲法記念日の護憲派の集会で、「令和」という元号を演説の中で使用したら、聴衆から「令和って云うな!」と野次が飛ばされる始末。

これは、玉木雄一郎が悪い。

全共闘の「青春懐古」の左翼老人たちに向かって、元号を持ち出したら「天皇制の残滓じゃないか!」と目くじら立てられるのがオチであろう。

玉木雄一郎は、そういう「感覚」には疎いのである。

また、東京選挙区の候補者が、宇宙開発に関係が有るということで、往年の人気アニメ「機動戦士ガンダム」のコスプレをしてしまう。

多分、広告代理店から入れ知恵されて弄ばれたんだろうが、それをまともに受け入れて実行してしまう「感覚」も、残念としか云いようが無い。

とにかく、玉木雄一郎代表のやること為すことが、ことごとく「残念」であり、「気の毒」としか言いようが無くなる訳である。

勿論、天真爛漫な玉木雄一郎だから、国民民主党の代表に就けた訳なのだろう。

だが、本当はもっと緻密で性格が悪いwww人物が代表だった方が「政党」としては良かったのかもしれない。

どちらにせよ、多分、代表辞任の責任を取らされるであろう。

旧同盟系の民間労組の組織内候補が軒並み落選し、浄土真宗西本願寺派からの推薦まで入手した立正佼成会推薦の大島九州男も落選してしまうかもしれない。

労組「連合」内の均衡が激変してしまうのではなかろうか?

玉木雄一郎は、いずれは党派の旗頭に成るべき人物であったことは間違いなかったと思う。

だが、それが、現時点の国民民主党であるべきであったか?というと、そうではなかった、と思う。

そういうことで、「残念」であり、「気の毒」としか言いようが無い。

また、それは野党陣営全体にも言えることでもあり、ひいては国政そのものに於いても言えることでもあった。

やはり、時と場というものの巡り合わせは、極めて重要であり、決定的な要素なのだろう。

参院選比例区に於いて、自分は「和田まさむね」候補を支持する。
理由は、「言論の自由を守るため」だ。
「和田まさむね」は、街頭演説中、演説を妨害するための暴力を受けた。
これだけでも、言論の自由の危機である。
それを、ネット上で訴えたら、愛知県のTBS系列のCBCというテレビ局の公式ツィッターで「売名行為」と決め付けられた!!
マスコミの民放テレビ局が、暴力による言論封殺を冷笑しながら肯定したのだ!!
これは、絶対に看過してはならない!!
政治的信条がどのようなものであれ、言論の自由は絶対に守られなくてはいけない。
もし、「和田まさむね」が落選するようなことがあれば、次の選挙で、街頭演説妨害が多発することになる。
また、日本人は、古来から「判官ひいき」という、いじめられた人を応援する美徳が有る。
自分は、「和田まさむね」を支持する!!
どうか、同じ気持ちを持たれて、投票行動をなさる方が一人でも多くなりますように、心よりお願い申し上げます!!

うちの母は、典型的な左翼シンパ。
何をどう説得しても、「自民党には入れたくない」。
だが、そんな「良識的左派」だが、いわゆるLGBTに関しては、露骨に「気持ち悪い」という。
マツコ・デラックスさえ、嫌いだという。
確かに、いわゆる保守派は、性的マイノリティに対して偏見が強烈だ。...
「生物として、異常」などと、不用意に云う。
だが、ダイバーシティーだ、多用的価値観だ、と御託を並べ立てるわりには、左翼も「純潔」志向が強い。
自民党が、性的マイノリティに対して持ち上げている様が胡散臭げに感じられるのと同じくらい、左翼政党の売り文句も甚だ信用出来ない。
要は、得票に繋がれば良いという魂胆見え見えである。
だったら、次回の参院選の比例区から、性的マイノリティの候補を自民党から擁立させて、上位当選させてしまえば良い。
すぐに、政府と自民党の態度が一変するだろう。

消費税増税反対を主張する政党と候補者がいる。
だが、それらの政党や候補者に投票し、当選させても、消費税増税は阻止出来ない。
共産党は、消費税廃止まで主張してきて、現在よりも多数の議席を獲得した時期も有ったが、消費税は廃止もされず、税率さえ下げられなかった。
さらに、野党各党は、むしろ一致する政策の方が少ない。
選挙では、アンチ自民党で一致したが、たったそれだけである。...
当選してから、いったいどうするつもりなのだ。
参議院は、解散が無く、任期も6年という長期間である。
現時点の気まぐれで、投票してしまったら、政治の混乱だけを産むと自分は思う。
自分は、むしろ、自民党を最大限肥大化させて、内部分裂を促した方が、遥かに現実的だと思う。
ただ単に、反対の意志表明をしても駄目だ。
だから、自民党の衆議院議員の事務所へ、「自民党の候補に投票するが、消費税増税は反対。衆院選は、消費税増税反対の候補に入れる」と通知するのだ。
そちらの方が、余程、効果的であろう。
明日の参院選は、皆様各位の貴重な自分の一票を、確実に最大限の効果が出せるように投票して欲しいと、自分は願っている。

選挙の際、ついついこちら側の主張ばかりに時間を費やしてしまいがち。
だが、こういう時こそ重要なのは傾聴の姿勢。
相手の目を見て、短時間ではあっても、きちんと要望を受け止めること。
野党に支持が広がらないのは、彼らが自己主張ばかりで国民からの声にきちんと傾聴していないから。


参院選で。
安楽死の会なる、諸派の選挙違反が酷い。
東京選挙区の公営ポスター掲示板に比例区のポスターを貼りまくっている。
なお、安楽死の会は、3年前は、「支持政党なし」という諸派の関係者が幹部らしい。
証紙の転売目的の為の選挙戦出馬か?...

ま、自分は選挙に関しては素人なので、よく解りません。

いよいよ、今週末は、参院選の投開票日。
是非とも、若い世代の投票をお願いしたい。
ただでさえ、若い世代は人数が少ない。
それに、投票率が低いならば、政治家は若い世代のことを無視して、年寄り優先の政治ばかりになる。
あきらめてはいけない。...


なお、少ない人数で多数に勝つには、攻撃目標を一点に集中することである。
具体的には、与党の当落線上の候補に集中して「当選させる」こと。
すると、その参議院議員は、若い世代の要望を無視出来なく成る!!
好き嫌いや印象で、野党候補に肩入れしてはいけない。
野党議員は、当選しても予算も法案も実現出来ない。
また、世界に目を向ければ、日本国内で内輪揉めをしているような余裕は無い。
だから、選挙区と比例区で政党を変えて、与党と野党、それぞれに投票するようなこともいけない。
自民党と立憲民主党をそれぞれ投票すれば、選挙結果はカオス(混沌)となる。
政治は、選挙結果によって束縛される。
選挙によって形成された政治によって決定されたことは、国民全員に影響が及ぶ。
だからこそ、投票して欲しい!!
若い皆様、何卒宜しくお願い申し上げます!!

野党統一候補、という。
だが、共産党と社民党と立憲民主と国民民主党は、政策の整合性が有るのか?
ただ単に、アンチ自民・公明というのならば、それは当選するためだけの野合に過ぎない。
さらに、当選後は、院内会派はどこに所属するんだ?
やはり、そこまできちんと表面すべきだ。...


それと、野党の中で、このまま維持出来そうな政党はどこなのだ?
選挙中と選挙後で、あまりに変貌し過ぎたならば、それは有権者を騙したことにならないか?
そう考えると、いわゆる野党統一候補なる存在は、欺瞞としかいいようがない!!

れいわ新撰組が、何故、山本太郎を当選させようとしないのか?
山本太郎を当選させたら、それで、れいわ新撰組の物語が、終わってしまうから。
山本太郎を当選させずに、年内には有るであろう、衆院選まで「引っ張る」つもりなのだ。


立憲民主党は、大変もったいないことをした。
2年前の結党時の、清新さ、を失ってしまった。
確かに、民主、民進の頃は、野合とも云えるほど、結集を優先した。
だから、それゆえに、ピンぼけになってしまった。
その反省から、独自、孤高を通した。...
だが、それは、左派支持層内の支持奪い合いにとどまった。
だから、現在の立憲民主党は、共産党や社民党の支持層を取り合いしているだけなのだ。
立憲民主党が伸びても、左派全体の大きさは変わらない。
一方、山本太郎のれいわ新撰組は、党名に、令和の元号を取り入れるなど、既存の左派の範疇を超越した、意欲が感じられる。
清新さでは、立憲民主党よりも、れいわ新撰組の方が勝っている。
だから、ポピュリズムが炸裂した時、れいわ新撰組が立憲民主党を圧倒するだろう。
だが、その時、左派は本当に焼け野はらになると思う。

比例区で立憲民主党が二桁になりそうだという。
多くて12議席。
信じられない。
一時期の勢いが無いのに。
ただ、共産党のような拒否反応を示す感じではないこと。...
あと、自民党以外、という選択肢としては、解りやすいからだろう。
なんとなく、ふわふわとした支持が集まりやすいのだろう。
だとすれば、国民民主党が気の毒である。

山本太郎の恐ろしさは、彼が役者であること。
だから、山本太郎が、何らかのかたちで潰されても、第二、第三の山本太郎を擁立して来る可能性が有ることであろう。


参院選、東京選挙区。
野末陳平のポスターが公営掲示板にちゃんと貼られている。
誰が貼ったのだろう?
こうなると、泡沫候補扱い出来なくなる。
どこの組織が支えているのかな?


戦後日本が「平和」だったのは、憲法9条のお蔭「だけ」ではない。
それプラス「日米安保条約」とアメリカの「核の傘」と自衛隊による。
確かに、憲法9条によって、「日本から」の「戦闘」は防止された。
だが、外敵からの「侵略」は、日米安保条約とアメリカの核兵器と自衛隊の存在が有ったからこそ、防止出来たのである。
だから、「完全なる対米自立」と「防衛費削減」には、「核武装」しか有り得ない。...
「日米安保条約破棄」「軍事的対米自立」「軍事費削って福祉に回せ」と主張する「政党」は、事実上、「政権を取ったら核武装します」と云うことである。
ド・ゴールのフランスが核武装と原発に固執したのは、アメリカからの自立のため。
北朝鮮が核開発を止めないのは、国防費の「対費用効果」が一番安上がりだからである。
国民をだましてはいけない。

以前に、或る雑誌記事で。
公明党の関係者の言葉。
選挙には、勝ち、と、負け、
と、負けない、が有る。
重要なのは負けない選挙をすることだ、と。...
で、負けない選挙とは何か、というのは、ここでは、敢えて、わかりません、と書いておく。
ただ、選挙に勝ち過ぎると、むしろ後で禍根を残す。
かつて、土井たか子の日本社会党が大勝した。
公明党や民社党もそれなりに勝てれば良かったのだが、社会党の独り勝ちだった。
そこを当時の自民党幹事長だった小沢一郎に衝かれた。
PKOの問題などで、社会党から公明党や民社党は引き剥がされ、社公民連立政権構想は瓦解してしまう。
この故事から考えると、今回の参院選でダブル選挙にしてしまうと、自民党は大勝出来るが、公明党や維新はどうであろうか?
少なくとも国民民主党は、壊滅してしまいかねない。
そこで、寸止めしたのかもしれない。
選挙は、負けなければ良いわけで、勝ち過ぎてはいけないからだろう。

7月6日今朝、新聞各社の序盤戦選挙予測が掲載。
自民党堅調、とでた。
改憲条件の三分の二が確保出来るかどうか、という。
これは、或る面ナンセンスで、そもそも公明党を改憲勢力としてあてにしているところに、無理が有る。
あまり指摘されていないが、現実は、そうなのだ。...
自民党有利ということで、かえって油断して駄目になる可能性は有るが、ここ数年の選挙予測は正確なので、ほぼ予測通りだろう。
予測が難しいのは、れいわ新撰組。
全くの新党であり、支持層は、ネットユーザーの無党派層だろう。
ネットユーザーの政治的動向は、衝動的で急激に支持を拡大させるところに、ある。
彼らが動き出せば、既存の政治組織など、太刀打ち出来ない。
れいわ新撰組が大化けすれば、立憲民主党や社民党は、その影響が直撃する。
現時点で予測不能なのは、そこだけだろう。
立憲民主党が健闘したところで、脅威ではない。
かつての民主党や日本社会党の再来でしかない。
だが、れいわ新撰組が大化けしたら、イタリアやフランスのように、既存政党は、焼け野原になりかねない。
そちらの方が、恐ろしい。


7月4日山本太郎が東京選挙区から出馬しなかった理由が解った。
選対の組織力が無いのだ。
というのは、自宅近くの公営選挙ポスター掲示板に「れいわ新撰組」候補のポスターが掲示されていなかったからである。
自宅近くの掲示板には、自民の丸川・武見、公明の山口、日共の吉良、社民、幸福実現だけ。
国民民主や日本維新などもまだ貼られていなかった。...
考えてみれば、6年前の選挙も、組織力というよりも、民主系候補の自滅とその間隙をぬうかたちで波に乗って当選出来た。
だから、あくまで広範な大衆からの支持を風や波というかたちで引き起こさない限り、当選ラインには到達出来ない。
で、同じ、ムーブメントを惹き起こすなら、今回は全国規模の比例代表で起こそう、ということなのだろう。
多分、山本太郎は、街頭宣伝のインターネット動画配信に傾注するかたちで、広範な大衆からの支持を掘り起こそうとするだろう。
なお、多分、山本太郎は是が非でも参院選で当選しようと考えていない、と思う。
とにかく、「れいわ」から一人でも比例で当選させればそれで良いのだ。
山本太郎自身は、むしろ、年内にも実施されるかもしれない、衆議院・解散総選挙に出馬して代議士に当選出来れば良い、と考えているふしが感じられる。
非常に戦略的で、巧みである。

7月4日
今、新宿駅西口に山本太郎の街宣を見た。
雨天のため、聴衆は多くない。
だが、このネット社会で実際の聴衆の数は、最早意味が無い。
重要なのは、山本太郎の迫力である。
はっきり言わせてもらう。...
これは凄い。
間違いなく大化けする。
立憲民主党は食われるぞ。

ポピュリストとしては、橋下徹よりも小池百合子よりも、山本太郎の方が、上に成るかもしれない。
橋下徹も小池百合子も、天才なのだが、それゆえに孤高で独善なのだ。
だから、増長して自滅するリスクが有る。
一方、山本太郎は天才ではないが、素直な役者なのだ。
だから、監督や演出家がしくじらない限り、自滅することがない。...
だから、山本太郎の方が、長持ちするだろう。

若者たちよ、投票に行こう!
確かに、選挙の投票は、まだるっこしいし、かったるいし、面倒くさい。
でも、若者たちの投票率が低かったらどうなるのか?
政治家たちは年寄りの意見ばかり聞いてしまうようになる。
老人の要望ばかりが優先される政治に成ってしまう。...
それで、本当に良いと思う?
期日前投票も出来るから、是非、投票に行こう!

参議院議員選挙、比例区は「和田まさむね」!







いよいよ気温が高い季節を迎えて、自分の仕事も「繁忙期」に入った。

だが、「人件費」をかけたくないのため、自分の現在の現場は、1年を通して「8時間」を超えることが無い。

その分、「1分」あたりの仕事の過重量が凄まじい。

それこそ、便所も食事も取る時間が取れなくなる。

だが、そこは慣れたもので、自分は便所に行く時は行かせてもらうし、昼食も割り切って食べている。

だから、周囲に気兼ねするような人は、便所も食事も取れないだろう。

現に、自分も、この仕事を始めた当初は、便所に行かせてもらうことをなかなか言い出せずに、何度も失禁寸前の苦しみを味わった。

それはともかく、心身がクタクタに成るまで働くことに成るのだが、どんなに頑張っても所得が増える可能性は皆無である。

それに、どんなに手際良く仕事をしようとも、どんなに正確な作業に成るように創意工夫をしようとも、「昇給」も「ボーナス」も無い。

だって、そもそも「有給休暇」が無い。

そして、こういう仕事を継続したところで、スキルが向上することなど無い。

これが「非正規雇用者」の「実際」である。

 

現在、既に大企業をはじめとして「人員整理」が始まっている。

いわゆる「バブル経済期採用」の世代が50歳代となり、企業にとっては「お荷物」に感じられて来たのであろう。

特に、「人件費」を早急に削減したいのであろう。

どこもかしこも、「早期退職勧奨」である。

そして、「ミドル世代の転職」などと持て囃されているのだが、その行先は、「非正規雇用者」である。

一応、「働き方改革」ということで、「残業無し」の状況と成っているのだが、その分「低所得」なのである。

 

この「短時間労働」「低所得」「各種手当等皆無」という傾向は、今後、老若男女、全ての世代を通じて一般化するであろう。

それに、「非正規雇用者」の数が多いのは「公務員」もそうなのである。

「有期嘱託」といった、誠に「不安定」な身分の「職員」が、現在、各役所で数を増やしている。

 

これは何を意味するのであろうか?

所得は増えようが無いから、消費を極力抑制せざるを得ない。

また、スキルが何時まで経っても向上することが無いから、職場での「人員の質」が向上しない。

一方で、「人手不足」のため、「非正規雇用者」に嫌われたくないため、現在、あらゆる「職場」で「叱る」指導が忌避されている。

自分の現在の「現場」で、トラックの荷物の積み込みが他の「非正規雇用者」に外注されているのだが、いつまで経っても粗雑な作業が改善されることが無い。

また、「正社員」や「中間管理職」の絶対的な人員の減少で、一人あたりの仕事量が過重となり、とてもではないが、様々な小まめな「指導」が行き届かない。

また、「働き方改革」のお蔭で、「残業」は出来ないので、どんどん「仕事」を切り詰める方向に進んでいる。

だから、より「効率的」な仕事を行うための、改善提案やそのための準備が出来にくくなっている。

だから、各職場の非効率的な状況がいつまでたっても改善されることなく、結局「根性、根性、ど根性」の力技で乗り切るしかない。

 

「非正規雇用者」に成って、「良かった」ことは、

会議に出なくて良い、

報告書を書かなくて良い、

改善提案書を書かなくて良い、

職場研修に出なくて良い、

経費精算をしなくて良い、といったところである。

多分、そのお蔭で、「正社員」が代わりに全部を行っているのであろう。

そのうち、「現場」は「非正規雇用者」に全部外注して、「正社員」はずっと会議室と事務所のパソコンの前を行き来するだけで忙殺されていくのであろう。

すると、「現場」から全く「乖離した」作業依頼が頻発することが予想される。

なお、「外注」は、よほど「管理」がしっかり出来ていないと、事前に想定した「成果」が上がらないものである。

そういった「業務管理」といった作業をきちんと意識して「外注」をしているのかどうだか。

 

このままだと、本当に大変な状況に成っていくのではないだろうか、と危惧している。

世間で「優秀」と見なされる人々は「会議は踊る」ばかり。

現場の「非正規雇用者」は、バラバラの各作業をやみくもに乱雑にこなすだけ。

「経費」を徹底的に削減している「にもかかわらず」、いつまでたっても「利潤」が出ない。

いったい、「富」が何処に消え去ってしまうのであろうか?

 

最後に、「非正規雇用者」は、消費を切り詰めるだけ切り詰め、健康であれば、意外と忙殺されることもなく、結構、「充実」した毎日を送れることが自分は解った。

消費税増税で、景気は冷え込むであろうが、人手不足は無く成らない。

ということは、「非正規雇用者」の「仕事」が無くなることは無い。

むしろ、各経営者が着手出来ることは、給与金額と各種手当等でもって「固定経費」がかさむ「正社員」を削減することだけだろう。

だから、そのうち、「正社員」は、「管理職」とその「管理職」の「候補生」しかいなくなると思う。

後は、全員、「非正規雇用者」への外注である。

だが、「非正規雇用者」は、職場や企業の将来を考慮することなど「無い」。

だから、かつて江戸時代の幕末に、長崎の町人と会話したオランダ人医師ケンペルが、長崎港に押し寄せたロシア軍艦の脅威に対して日記に書いたように成るであろう。

「迫り来るロシア軍艦の脅威に対して、長崎の町人に、『この件についてどう思うか?』とたずねたところ、彼等はきょとんとして絶句していた。

そして、しばらくしてこう答えたのである。

『それは、お侍がお考えになることです。我々、町人が考えることでは有りません』と。」

ケンペルは、内心、呆れ果て、さらに軽蔑したという。

「ロシア軍艦が襲撃して来たならば、侍だろうと町人だろうと区別無く襲われてしまうであろうに」と。

「正社員」と「非正規雇用者」の出現は、各職場に於いて、事実上の「封建主義」が「復活」したことと云えよう。

「明治維新」は、「草莽屈き」ということで、士農工商の「四民」が皆、侍としての気概を持つことによって為された。

そして、その意識は、後の国民皆兵「徴兵制」へと繋がって行った。

だが、現在、「非正規雇用者」の増大は、職場の運営や企業の経営に関して、無関心にさせる方向に成っている。

それは、ひいては日本社会全体の「独立自律」という意識を無くさせる方向に成っている。

ただ、いずれ「非正規雇用者」さえも、人件費削減ということで、個人請負事業主への外注という傾向に成っていったならば、変わっていくであろう。

「個人事業主」ということに成れば、否応無く「自活」の意識に成らざるを得ない。

但し、それは、利己主義、エゴイズムの横行というかたちになるであろう。

場合によっては、裕福で強大な「外敵」に「追従する」というかたちに成るであろう。

しかし、愚かな天使と狡猾な悪魔と、どちらが「取り引き」可能か?と云えば、まだ狡猾な悪魔の方であろう。

消費税増税から開始される、日本社会の荒廃は、社会や帰属組織への無関心から利己主義・エゴイズムの横行を経た後、ようやく「独立自律」という「段階」へ到るのかも、しれない。

これはあくまでも、自分の個人的な予感である。

今、我々は文明史的な激変期の中を生きつつあるのではないだろうか?

例えば、「組織」という「構造」に関して、今、我々は大きな構造変革を迎えつつあるように感じる。

現在、我々の社会で問題になっているのは、「正規雇用者」(正社員)と「非正規雇用者」の「格差」の問題である。

この「格差」は、あまりに大き過ぎる。

単に「月収」の金額の多寡というだけにとどまらない。

「正規雇用者」の「従業員」であるならば、「労働3法」でもって守られている。

ムチャクチャ乱暴な「解雇」など、許されない。

また、厚生年金や厚生健康保険組合などの福祉面でも手厚い。

「正社員」に成れば、「定年」まで何とか「身分保障」が約束される、のだ。

ところが、それゆえに企業側にとって、「正規雇用者」を抱え込むことは、それだけの「固定経費」を抱え込むことに成る。

だから、「経費節減」という観点から見れば、極力、「正社員」の数を削減した方が良い、と云うことに成る。

いわゆる「バブル景気」が弾け飛んで、すぐに着手されたのは、「リストラ」と云う名の「中高年正社員」の「首切り」であった。

いわゆる「年功序列」「終身雇用」という給与人事体系のために、「中高年正社員」は、その労働生産性に比して割高の給与金額を設定されていた。

「労働賃金減額」という選択肢は、労働組合からの強硬な反対が有り、選びようが無かった。

そこで、かたちの上で「依願退職」に追い込むか、給与人事体系が「異なる」別会社へ「出向」もしくは「転籍」させて、事実上の「賃下げ」を実施した。

新入社員の募集を絞り込んで、「正社員」の「供給」を削減した。

ところが、「正社員」の数を減らして、いくら「固定経費」である「人件費」を削減しても、まだ、「赤字」が解決出来なかった。

ついに「職場」の人員が欠乏し、絶対的なマンパワー不足に陥った。

最早、「人員削減」を行い続ければ、「戦線崩壊」に成りかねない。

しかしながら、「正社員」は増やせない。

そこで、「頭数」は充当するのだが、「経理」上の「正社員」は増やさない、という「都合の良い」手法を選択した。

それが「非正規雇用者」である。

勿論、以前から「臨時雇用者」というかたちで「アルバイト」「パート」という雇用形態は存在した。

しかし、それをもっと常態化し、人事・労務管理がしやすいようにしたのが「非正規雇用者」であったのである。

これは見方を変えれば、本来、「正社員」である「従業員」に対して支払われるべき「富」が、「企業」によって「搾取」「簒奪」された、とも云えよう。

だが、そうでもしなければ、企業各社は倒産していたかもしれない。

そういう意味では、緊急避難的な窮余の一策で有るべきであった。

ところが、日本経済のデフレ・不景気があまりに長期間、継続し過ぎた訳である。

最早、かつてのような「正社員」が職場の大多数を占める、「職場構造」が回復出来ないまでに「非正規雇用者」に依存する状況に成ってしまった訳である。

 

2012年12月の自民党・第二次安倍内閣誕生から、いわゆる「アベノミクス」金融経済政策によって、「失われた20年」のデフレ・不景気に解消の「兆し」が見えて来た。

だが、デフレが解消される前に、消費税増税が為された結果、経済は停滞を余儀なくされた。

あれから、一応、「好景気」は経済統計数値上は「継続」しているのだが、その恩恵と実感は国民の大多数まで行き渡っていない。

現在、空前の「人手不足」と云われる。

かの「バブル景気」よりも、新卒社会人に対する求人倍率は驚くほど低くなっている。

現在、企業各社は、若くて優秀な人員を採用するために必死になっている。

だが、そこへ、日本社会全体の問題である「少子高齢化」という危機が影を落としている。

「少子高齢化」の傾向は、既に数十年前から指摘されていた。

だが、いわゆる「団塊の世代」の子供たち、第二次ベビーブームの「団塊ジュニア」が結婚・出産の適齢期を迎えれば、それなりの出生率の上昇が見込めた。

ところが、誠にタイミングが悪く、第二次ベビーブームの「団塊ジュニア」の世代がちょうど就職を迎えつつ有る時期の最中に、「バブル」景気が弾けた。

第二次ベビーブームの前半世代は、かろうじて「正社員」に成ることに有りつけたのだが、後半の世代は「超氷河期」の就職を余儀無くされ、「非正規雇用者」の境遇に甘んじることと成った。

そして、そのまま年月がむなしく過ぎていき、今や、「非正規雇用者」の高年齢化が進んでいる。

結局、「非正規雇用者」のまま、「正規雇用者」(正社員)に成ることが出来ずに、老いていっている。

まだ、親と一緒に実家で同居している「非正規雇用者」は、それなりに「可処分所得」が有るのだが、都市部に独り暮らしで下宿している者は、本当にカツカツの貧困層に陥っているケースも有ると云う。

よく、「何故、結婚して出産をしないのか?昭和20年代、30年代はもっと貧乏だったのに」という年配者からのお叱りが有る。

だが、当時は、日本社会全体が貧しい上に、「村落共同体」とも云うべき古い互助社会が都市部や地方を問わず存在していた。

だが、高度経済成長期に、それらは「古臭い」ということでどんどん忌避され、破壊されていった。

さらに、社会全体に、何とも形容出来ないが「明るさ」が有ったと考える。

しかし、今は、容易に隔絶され孤立する個人に陥る状況にある。

或る面、コンビニなどの「流通サービス」の豊かさが、結婚と出産への道を阻害してしまったのかもしれない。

この「豊かさの中の貧困」の結果、第三次ベビーブームは幻しに成ってしまった。

これから、日本の社会全体が、どんどん、「人が少なくなる」。

かといって、利潤は減っていくであろうから、「正社員」という雇用形態でもって人員を抱え込むことが経理上、可能であるかどうか、甚だ疑わしい。

それと、現在のIT技術の進歩が大きな要因と成りそうな気がする。

例えば、「ウーバーイーツー」である。

これは、スマートフォンなどにアプリをダウンロードすると、個人でもって料理の配達が可能になるのだ。

これは、料理のデリバリー配達システムが、個人で極めて簡便に実施出来るのである。

これは、自動車の運行デリバリーと共に、画期的なことである。

問題は、この料理の配達をしたり、自動車の運転を行う「個人」が、どういう「扱い」とみなされるのか?と云うことに成る。

まず、企業に「採用」され、「雇用契約」を結んでいる訳ではない。

だから与えられる「報酬」も、「給与」ではない。

云ってみれば、出来高払いの「個人事業主」である。

この「個人請負」「個人事業主」と云うことに成ると、それは「フリーランス」であり、「身分保障」も「所得金額保障」も不可能であろう。

つまり、かつてならば、企業の人事部が何らかのかたちで「求人」をし、「採用」をし、「雇用契約」を結び、「給与」を支払う、という「構造」であった。

だが、IT技術の進歩により、最早、バラバラの個人が、スマホなどのアプリによってかつての「企業の人事部」を代行して、直接、「業務」に直結させることが可能に成ってしまった訳である。

現在、AI(人工知能)によって、企業の人事部や経理部の業務のほとんどが代行可能ではないか?と云われている。

しかし、現状は、さらにもっと先に、そしてラジカルな段階まで踏み込んでいると自分は予感している。

このウーバーイーツーに関しては、労働組合設立の動きが有る。

だが、この新しい「就業形態」に関して、従来の労働組合のかたちでどれだけ対処可能であるかどうか?

ただ、既に、海外に於いて、アプリによる個人の業務代行に関して、集団訴訟が行われて、原告側が勝訴した判例が出ている。

新たな「大資本家企業体」に対する、「法廷闘争」が始まっているのであるが、これからは政治や立法というかたちでの「政治闘争」が今後、世界的な潮流に成るであろう。

ただ、ここで重要なのは、今後、「雇用」とはいったいどういう形態を指すのか、というラジカルな問題である。

例えば、かつて、デザイナーは印刷会社やデザイン会社に「就職」もしくは「契約」した上でクライアント(顧客)からの発注に応じていた。

だが、今や、スマホのアプリでもって直接、発注を受けられる状況に成っている。

あとは、税務処理や年金や健康保険の処理であるが、これらもITソフトやアプリを使った極めて安価な代行サービスが一般化すれば、最早、企業に雇用されなくとも煩雑な手間が省ける状況になることが予想される。

そうなると、企業は必ずしも「正社員」を必要としなくなる可能性が出て来るのではなかろうか?

自分は、先日、30歳代の会社経営者(の子弟)の方からお話しを聞いたことが有る。

現在、企業を経営する上で、「人を雇うということが一番の経営リスクに成ってしまっている」という。

そして、「可能な限り、外部発注にしてしまった方が安心出来る」と云われた。

何故なら、「雇用しても、すぐに辞めてしまうから」ということであった。

現在、空前の「人手不足」で、若くて優秀な人員は、まさに「引く手あまた」なのである。

それこそ、それなりの人材であるならば、何処でも採用してくれる訳である。

そうであるがゆえに、ちょっとした些細な職場でのトラブルでもって嫌気がさして、いとも簡単に退職してしまう事例が後を絶たないらしい。

だから、その会社経営者の方が、「この人を事業のパートナーとして雇いたいのだが、いつ、突然、辞めてしまうのかが不安で求人することに踏み切れない」と、嘆いていたのであった。

こういう話を耳にすると、一昔の「就職氷河期」とはまた違った意味で「不幸な時代」であろう。

自分は現在、派遣労務者であるが、その前は大企業の正社員として10数年勤続していた。

だから、一つの企業なり職場なりに勤続し続けることによって、はじめて身に着けられる「スキル」というものは存在すると感じている。

このまま行くと、下手をすれば、「資本の論理」と「個人の気儘さ」ゆえに、砂粒のようなバラバラな個人が、ITアプリによって、その都度その都度「業務」を「委託」される、という労働形態が一般化しそうな勢いである。

だが、それは「時間的な自由」と同時に、「低所得」の危険性をはらんでいる。

そもそもGAFAと呼ばれる、世界的な超巨大企業のうち、アップルは別として、あとのグーグル、アマゾン、フェイスブックは、実は究極の「薄利多売」の業務構造ではないだろうか?

特にアマゾンはそうであろう。

アマゾンのサービス1件あたりの粗利は、実は微々たるものであろう。

だが、それこそ億単位の超大量の取り扱いゆえに、凄まじい巨利を得ているのである。

まさに、桁外れの「取扱い量」こそが、事実上の「独占企業体」とも云える程の収益構造と社会的影響力を行使可能な源なのである。

この企業格差は、絶対的で、市場への新規参入への余地を生じさせないほどの圧倒的な感じさえ受ける。

さらに、アマゾンもグーグルも、その企業内変革の意欲が凄まじい。

現状に満足することなく、現在得られた巨利をもって、先行投資に対して全く躊躇していない。

これでは、ますます他社との差が広がる一方であろう。

このままだと、現在の韓国のように、サムスンのような超巨大財閥が経済界に君臨し、残りは零細な個人請負事業主ばかりに成ってしまうだろう。

 

戦後の日本社会に於いて、企業に就職すれば、それなりの「富」を形成することが可能に成った。

その「富」とは、預貯金であり、生命保険であり、マイホーム(不動産)であった。

だが、現在の「非正規雇用者」の給与水準であれば、預貯金は困難である。

生命保険も「団体取扱い」といった加入は有り得ず、またマイホームを取得するための住宅ローンを設定することも不可能である。

自分のように、クレジットカードを新たにつくることさえ出来ない事例が有るのだ。

住宅ローンはおろか、自動車のローンだって「非正規雇用者」は組めないだろう。

さらに、「労働者」ではない、「個人請負事業主」に到っては、労働基準監督署でさえ守ってくれないのである。

所得の格差、貧困層の増大はまさに不可避であろう。

 

自分が危惧しているのは、現在、「人件費」を「固定経費」ととらえるあまり、人員を抱え込むことを「経営リスク」と思い込み過ぎていることである。

何故、それを危惧しているのか、といえば、世界の軍事史に於いて、「傭兵」が「国軍」として一般化していない、ということがあげられる。

かの古代ローマ帝国に於いては、軍隊は「傭兵」であった。

「傭兵」と「奴隷」が武装して戦っていた。

だが、アジア系のフン族、さらにゲルマン人の「民族大移動」によって、ローマ帝国(西ローマ帝国)が滅亡する。

それは、高度な文明を持った西ローマ帝国が、或る面、「蛮族」に軍事的に敗北したからである。

何故、軍事的に敗北をしたのか?

それは、「傭兵」と「自国軍」の違い、であろう。

「傭兵」は、あくまで「雇われ」であるから、自らの心身と生命を犠牲にして戦うというところまで徹底で出来なかった。

だから、蛮族の「決死の覚悟」の前に、敗れ去ったのである。

また、フランス大革命の後、フランス軍が欧州全土を敵に回して戦っただけではなく、果てにはエジプトやロシアまで攻め込めたのは何故か?

全国民という「階級」を超越したかたちで、「革命」を守るための「国民皆兵」が為されたからである。

「平等」が「軍隊」を生み、「徴兵制」を整備し、「総力戦」へと導いた訳である。

やはり「機能的な組織」に於いて、明確な「帰属意識」を持たない限り、成果を上げられる組織は維持出来ないだろう。

例えば、我々が中世の日本史の合戦の記述を読んで、どうにも釈然としないところが有る。

それは、或る合戦で「寄せ手の軍勢、約5万騎」などという記述が有る。

ところが、その「大軍勢」が、戦局が転換した途端、「供回り、僅か200騎あまり」などと激減する訳である。

当初「50000騎」だったのが、一気に「200騎」まで、消失してしまうのだ。

これが、「現在の」我々には理解出来ない。

だが、実際は、元々が付和雷同した烏合の衆に過ぎず、当初は「勝ち戦」だから味方に馳せ参じた訳なのだが、一転して「負け戦」と見るや瞬時に逃げ散じてしまった訳である。

これは、「現在の」我々の「意識」からすると「卑怯」である。

だが、中世の日本に於いては、「卑怯」であるのが、云わば「常識」であったのだ。

では何故、「卑怯」なのが「常識」に成ってしまったのであろうか?

それは、権威と権力の支配構造が稀薄化したことによる。

そして、権威と権力の支配構造が稀薄化したことにより、社会的に人々の帰属意識が稀薄に成ったからである。

では、何故、権威と権力の支配構造が稀薄化したのであろうか?

よく「権力とは人事と予算である」と云う。

この「人事」と「予算」に「武力」を加えれば、「権力」の3要素と云えよう。

この「人事」と「予算」とは、「御恩と奉公」であり、ギブ・アンド・テイクの関係性に成る。

つまり、しっかりと働いた分に相当した報酬や評価が与えられなければ、忠誠心という「帰属意識」は稀薄化する訳である。

かの「承久の乱」に於いて、「権威と権力の正当性」から云えば、全く揺るぎようがない京都の後鳥羽上皇方に対して、鎌倉の北条泰時が軍事的に圧勝出来得たのは、源頼朝が東国武士をはじめ、全国の武士の「待遇改善」を成し遂げたからである。

つまり、「御恩と奉公」なのである。

また、「建武の中興」により、御醍醐帝が執政をなされたが、その後、足利尊氏に京都を追われて吉野に落ち延びられることとなったのは何故か?

皇統の象徴である「三種の神器」も保持し、御醍醐帝こそが、まごうことなき正統な「朝廷」であるにもかかわらず、南北に皇位が並立するような異常事態に到ったのは何故か?

それは、御醍醐帝の「人事」と「予算」が、最早、「時代錯誤」であったからである。

もし、仮に、御醍醐帝が足利尊氏と「妥協」し、尊氏側の意見を取り入れたかたちで「建武の親政」を行っておられたならば、その後の日本の歴史は根本から異なっていたであろう。

場合によっては、「明治維新」という、極めてドラスティックな権力構造転換は不可能であったかもしれない。

何故なら、天皇陛下や朝廷の「支配構造」が、徳川幕藩体制のように「形骸化」しておらず、いわば「旧権力体制」の「一員」とみなされて、「革命運動」の象徴に担ぎ出しにくく成っていたかもしれないのだ。

そうなると、日本の「近代化」は実現せずに、最悪、欧米列強の植民地に成っていたかもしれない。

 

このように考えてみたならば、現在の我々が置かれた状況をどう見たら良いのであろうか?

戦前のような、国家に対する「忠義」や「滅私奉公」という意識は無い。

そして、「村落共同体」に代行しえた「企業」や「職場」への「帰属意識」も、かつてに比べれば著しく稀薄化している。

さらに、IT技術の進歩により、組織に必ずしも帰属しなくとも、生活の糧を得ることが可能に成って来た。

だが、そうなった時、いったい我々は自分自身を「何者」であると規定するのであろうか?

考えてみよう。

あなたはいったい何者なのだ?

お前は何の何なのだ?

そう問いかけられて、何と返答出来るであろうか?

人間は社会的な動物であり、何らかの帰属している「群れ」が有る。

その「群れ」は、組織であったり、多くの人々の評判や評価であったりする。

例えば、全くの「天下御免の素浪人」であろうとも、「芥川賞作家」であれば、それはそれで「何者である」という「よすが」に成り得る。

だが、価値観が多様化し、帰属可能な組織の求心力が稀薄化して来た場合、我々個人個人は、いったい何をもってして自分が何者であるかを認識し、規定することが出来るのであろうか?

それは、大げさな表現で書けば「アイデンティティの揺らぎ」であり「アイデンティティの稀薄化」につながってはいかないであろうか?

我々人間は、特に我々日本人は、他者との「関係性」に於いて、自分自身の「位置付け」と「自覚的評価」を行っている。

その自分自身への認識の「ありかた」が揺らぎはじめているのだと自分は予感するのである。

ただ、その「不安感」や「心許なさ」は、「遊離している個人」であると云えると同時に「自由自在な個人」であるとも云えよう。

つまり「何者でも無い自分」が「何者にも成り得る自分」である「状況」を、これから迎えつつあるのかもしれない。

これは或る面、「しんどい」ことであり、或る面「楽しい」ことでああろう。

 

令和元年6月23日の朝日新聞朝刊に、AI(人工知能)によって、インターネット上から「人材の発掘」が行われつつある、と云う記事が掲載されていた。

つまり、過去のSNSなどの「発信」内容を解析して、求人採用に活用しているのだ、という。

2009年に、スーザン・ボイルが英国の素人発掘TV番組で、その歌唱力の才能を見出された後、その評価を絶対的にしたのはインターネットの動画配信であった。

今や、歌手やダンサーといったパフォーマーは、インターネットの動画サイトやインスタグラムからいくらでも出現可能な状況と成っている。

つまり、昨日までただの無名な市井の凡人が、翌日には世界が賞賛する傑出した才能に一変する時代が到来したのである。

これが果たして良いことなのか悪いことなのか、「時代遅れ」の自分は、即断しかねる。

だが、この傾向は最早覆ることは有り得ないし、むしろ今後、一層加速、過熱していくことであろう。

才能と感性(センス)の発掘が極めて簡便と成り、そのマーケティングも瞬時に世界規模で実現可能な状況が、これから到来するのだ。

 

ただ、一方で、「仕事」や「職場」の現状は、そうおいそれとは激変出来ない。

今、各「職場」で行われつつあることは、「業務」の細分化であろう。

つまり、「正規雇用者」(正社員)の行う「業務」と「非正規雇用者」が行う「業務」に細かくバラバラにされているのではないだろうか?

勿論、そうすることで、「業務」全体の労働生産性は「金額的」には達成出来ると思う。

だが、そこに自分は陥穽(落とし穴)を感じる。

自分が現在、働いている現場では、倉庫からトラックまでの商品の積み込みを、全部、アルバイトにやらせることに成った。

ところが、その積み込みがあまりにも酷いのである。

まず、パワーが無いせいなのか、商品をしょちゅう落とした形跡がみられる。

さらに、積み込みも、「ただ、積み込めば良い」としか考えていないから、いざ、現場で商品を降ろす際に、本当にやりにくいのである。

商品の種類ごとにきちんとまとめて積み込んでくれないと、結局、いったん商品を全部降ろして再び積み直さないと作業が手間取るのである。

現在、自分は、全部ではないのだが、一部、商品をいったん降ろしてから、再び積み直している。

そうしないと、作業のたんびに、いちいちどこにどの商品が有るのか探して回らないといけないのだ。

これは、あくまで「極私的」な限定された「事象」に過ぎない。

だが、業務のアウトソーシング(外注)の現場では、こういう現象が多々見られるように想像する。

これは、結局、「経費(人件費)は削減出来たが、業務の作業効率は悪化した」ということであろう。

それは、最終的に「各現場の各担当者個人の頑張りと創意工夫に依存する」結果と成っていよう。

だから、「優秀」で「勤勉」な「担当者個人」に、「業務」が依存していることを意味するであろう。

これは「属人的」である。

そうなると、その頑張っている「担当者個人」が抜けた場合、業務それ自体に影響が出て来る可能性が生じる。

これは、「リスク」と呼べなくはないだろうか?

 

だいぶ、内容が散漫な駄文に成ったので、そろそろ切り上げたい。

自分が今、予感しているのは、IT技術による我々の社会の「中世」化である。

かつての「中世」の時代のような、既存の権威や権力が稀薄化し、揺らぎはじめていく。

さらに、我々自身が特定の帰属意識を持つことが稀薄化し、一個人として遊離し、或る面、自由自在な動き方をするように成る。

当初は、既存の大組織にとって「都合の良い」状況に感じられる。

人員を極めて安上がりに酷使可能になるからである。

だが、それゆえに、いずれは既存の大組織それ自体を蝕み、その支配秩序構造を崩壊させていく方向へ進んでいくであろう。

それが、無秩序な混沌と頽廃を生むのか、それとも新たな才能と社会構造の新生を促すのであるか、それは両側面を持つことであろう。

とにかく、文明史的な大転換の時代を迎えつつ有る。

既存の固定観念にとらわれることが一番最悪であろう。

柔軟な意識と貪欲な好奇心と学習意識をもって、新しい時代に立ち向かっていくべきであろう。

演芸TV番組「笑点」の「終身名誉司会者」だった故・桂歌丸師匠。

その歌丸師匠でさえ、「怒ることと叱ることの違いって何なのだろう?」と仰っていた。

「怒られる」ことと「叱られる」こと。

「感じ」としては、「違い」が有ることは感じられるのだが、いざ「説明」を求められると言葉に窮してしまう。

よく巷(ちまた)で説明されていることは、

「叱る、というのは論理的」で、「怒る、というのは感情的」というものである。

自分は、ADHD(注意欠陥多動症)で不器用な人間だから、それこそ、長年に渡って「怒られ」「叱られ」続けて来た。

だから、「怒られる」ことと「叱られる」ことに関しては、その経験の豊富さから云って、まさに「人後に落ちない」自信を有するwww

まあ、そんなことで勝ち誇ったところで、へのつっぱりにも成りはしないのだが。

それはさておき、「論理的」であるから「怒っている」訳では無い、という「説明」には承服しかねる。

例えば、粘着気質の屁理屈屋の標的にされると、それこそ30分、60分と延々と長時間に渡って、ネチネチと抉り出すような「お小言」を喰らわされる。

嫌味や皮肉や当てこすり。

確かに「論理的」なのだが、陰湿かつ気が滅入るような物の云い方なのである。

これを「叱責」とは、理解したくない。

だから、自分は、「叱る」ことと「怒る」ことの違いをこのように考えた。

「叱る」こととは、「その行為を否定する」。

「怒る」こととは、「その人格を否定する」。

だから、「叱られた」場合は、その言葉遣いなり立ち居振る舞いなりを「改めれば」、「否定」はされなくなる。

一方、「怒られた」場合は、「人格攻撃」であるから、解決策としては「消えろ」「死んでしまえ」に到達してしまう。

具体例を云えば、「何をバカなことを云っているのだ!」は、「言葉遣い」」という「行為」を否定しているので「叱る」ことに該当する。

だが、「何を云っているんだ、このバカ!」だと、「人格」を否定しているので「怒る」ことに該当する。

同様に、「はやくしろ!」ならば「行為」に対してなのだが、「何だ、こののろま!」ならば「人格」攻撃である。

そう見ていくと、「叱る」方は、「行為」に関しての批判なので、その批判する指摘事項は明確であり、解決策が見出しやすい。

一方、「怒る」方は、「人格」攻撃なので、「駄目」の烙印を押すだけで、その後の展開が望めない。

さらに、「叱る」方は、「人格」までは否定しないので、相手に対して一定の敬意と配慮が存在している。

一方の「怒る」方は、相手に対して軽蔑の念しか感じられない。

だから、「叱られた」場合は、その批判される「行為」に関して、真摯に受け止めるべきであろう。

一方、「怒られた」場合は、ただ単にこちらに対して「悪意」を向けて来ている割合が高いので、どんなに恩着せがましく、親切そうに云って来たところで、ちゃんと取り合う必要はない。

世の中には、誰彼時間と場所を選ばずに鬱憤晴らしのはけ口にして、恬として恥じることが無い「邪悪」な人間も存在するからである。

とはいえ、人間は何事も「受け取り方次第」であるので、そんな「邪悪」な人間からも「気づき」と「学び」を得られることが有る。

これもまた「人生に於けるトレーニング」だと割り切って、受け流したら良い。

 

なお、「行為」に対する「批判」ならばちゃんと受け止めるべきだが、「人格」そのものへの「批判」であるならば、まともに取り合わなくても良いのは、「他人の言」だけではない。

自分自身への反省や評価も、また、同様である。

現在、いわゆる「ひきこもり」の問題がにわかに脚光を浴びて来ている。

だが、これは、「自己肯定感」があまりに低過ぎることが根本の問題である。

何故、「自己肯定感」が持てないのか?

それは、あまりに非現実的な理想像に自分自身を当てはめようとする「無理」から来ていると思われる。

等身大の、ありのままの自分自身の「像」を「受け入れる」ことから始めるべきだ。

何が足らなくて、何が出来ないのか、ではなく、何を有し、何が出来得るのか、をまずは虚心坦懐に「認知」することであろう。

「人間」は「社会的な動物」である以上、各々がそれぞれの役割分担を行えば良いのである。

逆にいくら「優秀」だからといって、何から何まで全てを背負い込もうとするのは、「正常」とは云えない。

そういう全部自分で抱え込もうとする人は、一切合切「抱え込んだまま」いずれ自滅していく。

だから、周囲の者たちが、無理やり「引き剥がす」ような意識でないと、早晩、残念な結果に成ってしまうであろう。

令和元年6月11日火曜日、朝日新聞朝刊の一面トップは「衆参同日選挙回避へ」。

実は、朝日新聞は前日の夕刊の一面トップも「衆参同日選挙回避へ」だった。

我が家は、朝日新聞の他に産経新聞も取っている。

で、産経新聞の一面トップも「衆参同日選挙回避へ」だった。

朝日新聞が、衆参同日選挙を嫌がっているのは理解出来る。

何故なら、野党側の選挙の準備がまだ完全ではないからである。

特に、立憲民主党と国民民主党という旧民主党、旧民進党の両党の「近親憎悪」が激し過ぎる。

とてもではないが、「轡(くつわ)を並べて」一致団結して戦う、という気持ちに成れそうもない。

だから、野党側としては、出来得れば、衆参ダブル選挙は忌避したいところなのだろう。

朝日新聞が一面トップで大きく書き立てたのは、「そうあって欲しい」という「願望」も込められている、のかもしれない。

だが、一方の産経新聞も奇しくも同じ内容の記事である。

これは如何に?

つまり、最早「衆参ダブル選挙は無くなった?」

ここで重要なのは、「衆参ダブル選挙」というのは、あくまで「奇手」「奇策」であることである。

むしろ、「衆参ダブル選挙」が「常態化」してしまったならば、国会の「二院制」そのものの存在意義が問われてしまうことと成ろう。

そうなったら、参議院の「ありかた」自体が議題に成りかねない。

さて、「奇手」「奇策」とは、その「意外性」こそが肝要である。

つまり、敵方の意表を突く、というところに最大のポイントが有る。

となれば、「衆参ダブル選挙は無くなった」と思わせておいて、一気に勝負に出てしまった方が、「より効果的」であるとも云えよう。

政治の世界は「一寸先は闇」である。

ここ数日間が、「神経戦」の頂点かもしれない。

ここ数日、いわゆる「高齢者」による自動車事故の事件が多発している。

そのため、「高齢者」のドライバーの自動車運転免許の「返納」が議論されている。

ただ、自分は、ここで、我々日本人に陥りがちな欠点に気が付いた。

日本人は、生真面目過ぎるゆえに、善悪で議論を限定しがちなのである。

つまり、「もう、高齢者なのだから、運転技術や認識能力が衰えたのだから、自動車の運転はやめろ!」と結論を出したがるのである。

ならば、問いたい。

何故、高齢者のドライバーが存在するのか?

それは、「必要性」が有るからである。

自家用車の運転を封じられてしまったならば、その後の「移動手段」に困るからであろう。

例えば、自家用車ならば「ドア・ツー・ドア」で以て移動が出来る。

しかし、電車やバスなどの公共交通機関であるならば、待ち時間や乗換などが必要に成る。

また、高齢者は足腰やひざなどに痛みが出て来る場合が有る。

そうなると、そもそも「歩行する」ということが辛くなるのだ。

その点、自家用車の運転ならば、座席に座ったまま移動が出来る。

そう見て来たならば、この高齢者ドライバーの問題は、ただ単に高齢者のドライバー「だけ」の問題ではないのである。

都市の交通システム設計や国民のライフスタイル全体の問題が「水面下」に大きく存在しているのである。

それに、都市部はともかく、ちょっと都市郊外に出てしまえば、路線バス交通網は整備されていない。

それこそ、「2時間に1本」の路線バスや「1日に5、6本」といった路線も存在する。

さらに、食料品を買い物に行く際に、電車やバスであるならば「まとめ買い」が大変である。

これからの夏場、暑い季節に必要な飲料商品など、1リットルを超えたら持ち運びが大変である。

これは、現状の日本の社会や都市の構成が、高齢者のドライバーを残存させるように「仕向けている」と指摘出来るであろう。

つまり、高齢者のドライバーによる交通事故のリスクを、高齢者のドライバーそのものを無くすことによって軽減させることには、無理が有ると自分は感じる。

ならば、技術的な面でもってリスクの軽減をはかることこそ、まず着手すべきであろう。

例えば、現在、ブレーキとアクセルのペダルの踏み間違いが頻発している。

ならば、アクセルは手動のギアに付け替え、足で踏むペダルはブレーキのみに限定させてしまえば、ペダルの踏み間違いは起こらない。

また、ブレーキだと思って、アクセルを急激に強く踏み込んでしまうことによる暴走事故を減らすために、アクセルは急激に強く踏み込んでしまった場合でも高速が出ないように設定を付加するのである。

あとは、速度が50キロ以上出せないようにしてしまう、とか。

さらに、車体の周囲にセンサーを付加し、運転操作に遅れや間違いなどを逐次、記録するのである。

そして、あまりに運転操作にミスが頻発する場合に、「警告レポート」が出て来るようにするのだ。

そうすれば、高齢者ドライバーもその周囲の人々にも、「感覚」的な印象ではなく、「数値」としてのデータとして、リスクのレベルを明示させることが可能に成るであろう。

やはり、まずは、これらの技術的なリスク軽減対策を十分に講じた上で、「果たして、高齢者が自動車を運転するべきなのか、どうか」といった原則論的な議論を行うべきなのではないだろうか?

どうも、日本人は、安直に原則論的な倫理議論で結論を求め過ぎる。

しかしながら、世の中には善悪・正誤といった原則論的な座標軸の他に、巧拙といった技術論的な座標軸も存在しているのである。

技術やシステムによってリスクが軽減出来るのであれば、まずはそこから実現を志向していくべきであろう。

いつまでも「配給する軍靴の大きさに足を合わせる」ような時代錯誤は、いいかげんに止めるべきであろう。

令和元年6月3日に金融庁が、「人生100年時代」を見据えて、95歳までの老夫婦が暮らしていくには、2000万円の金額が不足するであろう、と試算が出来たことを公表した。

だが、これは、「年金収入に頼った場合」ということである。

これは、いろいろな論議を呼んだ。

例えば、「公的年金制度の不備を個人に押し付けるのか?」といった批判である。

しかし、自分は、それ以上に、この金融庁のプレス発表に対して、懐疑的である。

まず、「現役時代から長期積立型で国内外の商品に分散投資することを推奨」という。

つまり、どんどん、投資をしなさい、ということである。

だが、何故、どんどん投資をしなさい、なのか?

それは、現在、日本銀行の金融政策によって、利子がほとんどゼロであるからである。

かつては、「公定歩合」と云い、日銀から各金融機関への資金の貸し出しの金利が有った。

そして、各金融機関は、それに金利や利子を乗せて法人や個人へ投融資をして利益を得た。

だが、現在は「金融緩和政策」により、利子がほとんど付かない。

そのため、地方銀行をはじめ、金融機関は利益を上げることに大変苦労している。

それに電子マネーやら仮想通貨やらという時代に、今更、振り込み手数料でもって稼ぐ時代でもない。

最早、金融機関は、法人や個人からの投資信託での手数料や委託料でもって稼ぐしか活路を見出せなくなってしまった訳である。

ちなみに、TVのCMで、最近、金融機関のCMはほとんどが投資信託についてのCMであろう。

かつては、新規口座開設や住宅ローンについて宣伝をしていた。

勿論、預貯金をしたところで利子がほとんど付かないから、高利回りを考えたら投資信託しか選択肢は無い。

とはいえ、有価証券に関しての金融商品知識は証券会社の方が強い。

銀行各社にとっては、不動産資産の投資信託をより個人から獲得することが、儲けることの早道なのだ。

そこで、6月3日発表の「2000万円」という金額である。

この金額は、持ち家(マイホーム)を投資信託にぶち込んで得られる金額とほぼ合致するのではないのか?

もし、これが「不足金額1億円」などとなったら、もはや大多数の個人は手が届かない。

だが、「2000万円」ならば、相当数の国民が「到達可能」な金額である。

つまり、より多くの個人に対して、「今から、マイホームを抵当に入れて投資信託しましょう!」と煽動しているのではないだろうか?

そんな「ゲスの勘繰り」をしてしまうのであるwww

 

だが、この「老後の備え」に関しては、少なくとも自分個人は肚を括っている。

まず、現在の自分のような「派遣社員」という「非正規雇用者」に於いて、2000万円もの金融商品を購入するだけの可処分所得は、無い。

毎月、毎月の家計の支払いでかつかつなのである。

さらに、あまりにも長期的なスパンでの事柄なので、「不確定要因」が多過ぎるのだ。

そもそも、現在の我々を取り巻く世界的な経済状況は、不動産であれ有価証券であれ、10年以上の遠い将来に対して、確固たる確実性の有る金融商品が「構成」可能なのであろうか?

例えば、かつて企業の株券で、一番確実だったのは電力会社の株券だった。

「倒産」なんか、まず、「有り得ない」と信じられていた。

だが、東日本大震災による福島原発の事故により、東京電力は当時の民主党・菅直人政権によって、「倒産」「解散」の瀬戸際まで追い詰められた。

また、国際的な石油メジャー企業にしろ、自動車会社にしろ、「石油」に代わる代替燃料エネルギーが一般化したならば、現在のような株価が維持出来る筈が無い。

逆に「水素」エネルギーを開発するベンチャー企業の株価が暴騰することとなろう。

確かに、「堅実」な預貯金だけでは心もとないのであるが、かといって、その他の投資商品でもって資産運用することが「正解」であるとは、自分はとても信じられない。

あくまでも、投資金融商品は「ワンオブゼム」の、数有る選択肢の中の一つでしかない。

それを、滅多矢鱈に「投資」「投資」と声高に煽り立てるのは、どうしても悪意ある作為を感じざるを得ない。

 

ならば、どうしたら良いのだろうか?

まず、「浪費」はやめることである。

それと、自分が本当にお金を使いたいところに集中・特化してお金を使うことを選択すべきだ。

技術や知識を身に着けたいのならば、そういった教育や訓練に関する「出費」は惜しんではいけないだろう。

自分に関しては、「健康」これに尽きる。

自分の心身の「健康」に関しては、少々「贅沢」をしても、戦略的にお金を使いたい。

 

自分は、今後、個人の所得金額は増加する可能性が見当たらない。

勿論、中には時代の先読みが出来て、新産業や新技術を開発や運用を行うことが出来て、「財」を得られる個人も出現すると思う。

しかしながら、そういう「成功者」は、ほんの一握りにすぎない。

残りの「その他大勢」は、どうやっても「慎ましやか」に生活していくしかないのではないか?と考える。

それに、今後は、不動産にしろ自動車にしろ、「シェア」することが多数派に成るかもしれない。

本だって、データ化されてしまい、蔵書のために広いスペースを確保する、ということが徐々に無くなっていく可能性が有る。

つまり、現在、我々が「必要経費」としている支出が、技術革新によって軽減される可能性も有り得ると思う。

 

それと「人生100年」というが、全員が全員、100歳まで生き永らえられる訳ではない。

60歳代で死ぬ人もいれば、70歳代で死ぬ人も存在するのである。

自分などは、もし、どうにもこうにもお金が無くなってしまったならば、その時は潔く、死んでしまえば良い、と考えている。

自分として、精一杯、出来得る限りの「生」を生き切った上で、最早、お金が尽きてしまったならば、もう、それ以上「余命」は要らない、と考える。

仮に、その「最期の時」が50歳代であった、としても、である。

だからこそ、自分は今、「その日」「その日」を出来得る限り、精一杯過ごさせていただけるように意識して努めているのである。

「長寿」は、喜ぶべき慶賀であるのだが、自分はただ単に「長寿」であることよりも、より良き「生」を「生き切る」ことこそを目標としている。

またまた、また、支那・中共についての私的考察をしてみたい。

 

さて、現在の世界各国の政府中枢の人々の中で、一番危機意識を持っているところは何処であろうか?

まずは、北朝鮮であろう。

しかしながら、よくよく考えてみれば、北朝鮮には「逃げ場」が有る。

恥も外聞もかなぐり棄てて、韓国に「下ってしまう」道を選べば良い。

つまり、北朝鮮の「国家」丸ごと「脱北者」と化して、韓国政府に庇護を求める選択肢が無い訳ではなかろう。

では、それ以外のところは何処か?

それは、支那・中共であろう。

支那・中共の最大の懸念材料は、「内戦」であろう。

つまり、人民の鬱積した不満が爆発したことを契機に、各地方の「実力者」たちが、国家を「分割統治」してしまうことである。

或る面、支那大陸を統治出来たのは、国民党ではなく共産党であることは「必然」であったのかもしれない。

「一党独裁」「民主集中制」という、極度の中央集権体制を政治理論的に正当化し得たのは、ボルシェビキズムであった。

階級闘争による武力革命を指導する前衛党が「共産党」である。

国民党は、軍人出身であった蒋介石の時には、軍事ファシズム的であったが、その子息の蒋経国の時代から軟化しはじめ、ついには李登輝の時代に、直接選挙による総統選挙が実施されるに到った。

もし、仮に、国共内戦でもって蒋介石の国民党が勝利出来得たとしても、アメリカの資本主義国家群からの「圧力」でもって、国会議員の選挙なり、国家元首である総統の選出選挙を実施した可能性が高い。

だが、それゆえに、支那大陸の各地方に於いては、「遠心力」が働いて、分離独立への気運が生じた可能性が有ろう。

さらに、蒋介石が仮に支那大陸全土を掌握した場合、自らの「核保有」「核武装」に執着したであろうか?

多分、日本や韓国のように、米軍基地を駐留させ、米軍の「核の傘」の下に入ってソ連と対峙する道を選択したのではなかろうか?

もっとも、フランスのド・ゴールのように、あくまで自前の「核保有」「核武装」を目指した可能性も無い訳ではない。

それはともかく、支那・中共が「核保有」「核武装」に執心だったのは、毛沢東による。

毛沢東は、はやくから、アメリカのみならず、ソ連からもその影響下から抜け出したいと望んでいた。

そして、米ソの両陣営から独立するには、「核保有」「核武装」しか有り得ない、と覚悟した訳である。

そして、「例え、(国家の資産を使い果たして)ズボンがはけなくなっても、核兵器開発に邁進する」と云い切った。

その結果、凄まじい執念の賜物で、毛沢東は核弾頭を手に入れることになる。

支那・中共は、いまだ、貧しく、技術力も劣っていた。

だが、それでも、自前の「核保有」「核武装」を成し遂げたのである。

この意味は決定的で、支那・中共で、プロレタリア文化大革命という、とてつもない国家の混乱状態が何年もの長期間に渡って継続されても、ソ連も米国も支那・中共へ軍事介入しようとはしなかった。

それは、支那・中共が核保有国であり、そこへ軍事介入すれば、「核戦争勃発」のリスクを冒すからであった。

逆を云えば、毛沢東は自前で核兵器を保有することで、何の憂いも無く、全力で国家内の権力闘争にうつつを抜かすことが可能に成ったのである。

核保有国は、軍事介入を受けない。

これは、支那・中共にとって決定的なことであった。

だが、支那・中共にとって、「内戦」の危険性は、ずっと継続している。

だから、当初は、ボルシェビキズムによる人民公社などの国家と経済の両方の強権統治でもって国家の統一を維持しようとした。

だが、毛沢東没後の小平の路線は、国家の強権統治は維持しつつも、経済の強権統治は改めて、資本主義経済の世界と直結する選択を行った。

支那・中共における「改革・解放」とは、経済を発展させて人民の不満を解消し、国家を富ませることで強化させる、という路線であった。

そして、その路線は、見事に成功している。

ついに、世界第二位の経済大国にまで上り詰めた。

支那・中共を富ませたのは、欧米をはじめとする世界各国からの「投資」であった。

つまり、世界中の資本を呼び込むことによって、急速な経済成長と技術革新を成し得た訳である。

だが、トランプ政権によって、ついにアメリカの支那・中共に対する警戒心、というより敵愾心かもしれないが、が表面化して、いわゆる米中貿易戦争が始まったのである。

 

だが、世界広しと云えど、支那・中共の政府中枢の人々ほど、危機意識と焦燥感に駆られている者はいないだろう。

何故なら「わしは止まると死ぬんじゃぁ」(間寛平www)。

経済に於いても、軍事・警察に於いても、絶えず成長と増強をはかっていかない限り、現体制の秩序を維持することは出来ないのだ。

まさに、「変わらないためには、まず、自分自身が変わらなくてはならぬ」ということである。

支那・中共は、今では前時代的とも云える、ボルシエェビキ的な一党独裁体制を死守しつつも、それ以外のあらゆる事柄に於いて、貪欲に変革することを惜しまなかった。

それが、今や、アメリカを焦らせるほどの技術力を有することに成ったのである。

勿論、それは他から先端技術を「盗み取る」ことによって達成された。

しかし、何よりもスピード優先の為には、なりふり構う余裕は無かった。

 

現在の米中の貿易戦争によって、最終的には支那・中共側が、譲歩し、アメリカに屈服して「取り引き」に応じるであろう、と見込まれている。

だが、それは、少し楽観的過ぎてはいまいか?

やはり、「喧嘩」に於いては、「覚悟」が勝敗を決めるのである。

アメリカの国家の「えげつなさ」は折り紙付きであるのだが、それ以上に支那・中共の政府中枢の危機意識と焦燥感が勝った場合、アメリカが支那・中共をねじ伏せることが出来ないかもしれない。

最後の最後で凌ぎ切ってしまう、そういう可能性も有り得るだろう。

さらに、ITの技術の他に、遺伝子操作の技術も支那・中共は、その研究技術開発のために、物凄い傾斜的な資本投下をしているという。

場合によっては、とてつもないバイオ強化されたモンスター兵士を「開発」させてしまうかもしれない。

 

しかしながら、支那・中共の政府中枢の懊悩は深い。

もし、仮に、支那・中共が、「核攻撃」にも耐えられるバイオ強化されたモンスター兵士を保有出来たとする。

それにより、軍事的に於いて、米国はおろか、世界中を相手に戦争をしても勝てる条件を持ち得たとする。

だが、それで支那・中共の将来は約束されない。

何故ならば、支那・中共の国家統治には、「正当性」と人民の支持と敬意が存在しないからである。

折角、遺伝子操作で生み出した最強のバイオソルジャー部隊が、「反革命闘争」を起こして、支那・中共政府打倒に立ち上がってしまうかもしれない。

そうなったら、膨大な支那の人民も味方につくであろう。

だから、支那・中共当局が、いかにインターネットの「全て」を支配出来ようとも、核攻撃にも耐えうるモンスター兵士を配下に持とうとも、国家統治に対する憂愁と懊悩は全く解消され得ないであろう。

最悪の場合、本当に世界中の人々から敵と看做されて、攻撃されてしまうかもしれない。

何時か、何処かで、支那・中共の驀進を停止させなくてはいけない。

しかも、それは、支那人自身の決断と覚悟によるものでなければ駄目であろう。

果たして、支那人は、自らを守るためだけの驀進から降りることが出来るであろうか?

 

人間の残虐性の歯止めを無くさせるのは、欲望と恐怖であるという。

このままだと、支那もろとも世界中が「破滅の淵」に身を投じてしまいそうだ。

この愚行を押し止めることが出来るのは何だろうか?

自分は、哲学だと思う。

しかも、「祈り」による哲学だと思う。

果たして、「間に合う」のだろうか?

詳述すると長文に成るので、誤解を恐れず、手短に。

企業の「旬」の年数が減少傾向と成り、企業の「終身雇用」が解消されていく傾向と成った。

「副業容認」とは、企業が「正社員」でさえも、「雇用の維持確保」を放棄したことと表裏一体なのである。

社会全体の従業員の割合に於いて、「非正規雇用者」が増える、ということは、労働賃金が抑制される、と云うことの他に、「身分の不安定化」を意味する。

「非正規雇用者」は、事実上、不動産取得、つまりマイホームを持つことは絶望的と成る。

住宅ローンが組めないからである。

さらに、「終身雇用」があらゆる面で解消されていけば、「正社員」と云えども住宅ローンが組めなくなるだろう。

そして、現在、設定されている住宅ローンでさえ、返済出来ない事例が出て来て、あちこちでマイホームを「差し押さえ」られる事態と成る。

今後、個人が住宅を取得する意欲も可能性も激減するだろう。

さらに、いわゆる「8050問題」により、高度経済成長期に「正社員」としてマイホームを取得出来た「世帯」のうち、子供が「非正規雇用者」などの経済的な要因などで「親子同居」しているケースで、ついに「最終局面」を迎える。

マイホームの所得者である親の世代が、死亡もしくは高齢化により、マイホームを処分せざるを得なくなる。

その子供たちは、マイホームを買い換える経済的な余裕が無いため、賃貸住宅に移る。

不動産も「商品」である。

「商品」は、「市場」の需要と供給によって価格が決まる。

不動産の個人の需要が減少し、供給が増えれば、当然、価格は下落傾向と成る。

一方、不動産価格は、各企業の「資産」数値にも影響する。

各企業は、業務業績が好調であったとしても、不動産資産の数値が下落してしまえば、当然、企業決算の財務諸表数値は影響を受ける。

不動産資産の数値下落分を充当させるために、現金を回さざるを得ない。

当然、「経費節減」で、人件費などを直撃する。

これが「不動産デフレ」ということになるだろうが、多分、来年の2020年のオリンピックが終了してから短期間で一気に下落するかもしれない。

そうなると、企業にとって、不動産を保持し続けることが経営上のリスクに成りかねない。

不動産価格の下落傾向に歯止めがかからない、という「社会的傾向」が見えてきた時点で、企業各社も「損切り」覚悟で、不動産を投げ売りし始める。

(勿論、不動産の立地条件にもよるが)

いずれ、不動産は、企業にとってのパソコンのように、所有からリースするものに変わっていくだろう。

かつてパソコンも各企業が購入して、各社の資産台帳に計上した。

だが、パソコンは、その他の事務機器や製造工機と異なり、数年単位でスペックが切り代わっていく。

だから、パソコンの資産台帳簿価は、急激に下落していく。

減価償却の扱いをするにあたって、大変煩わしい。

そこで、今や、パソコンはリースしてもらうものに成っている。

それが、今後、不動産に於いても、起こり得るのではないだろうか?

不動産価格が急落する、ということは、社会における「資産価値」が急激に喪失していくことを意味する。

かつて、個人の家計に於いて、資産を形成する方法には二つ有った。

一つは、従業員の労働賃金によって、マイホームを取得し、預貯金を増やすことであった。

だが、非正規雇用者の増大と終身雇用が消えることによって、多分、企業に勤務することによって資産を形成することは困難になるであろう。

あとは、親よりも前の世代から受け継いだ不動産を相続することであった。

だが、不動産価格が下落していく一方であるならば、不動産は「負動産」と化し、所有しても負債にしかならない可能性が出て来る。

そうなれば、不動産の「相続放棄」続出の可能性が有る。

個人も企業も不動産を買わなくなったならば、どうなるのか?

外国人が大挙して不動産の買い取りを「引き受けてくれる」であろう。

いくら、「外国人の不動産所得制限」を設定したところで、そんなものは一時しのぎである。

間に名目上の日本人を仲介させて、最終的には「支配」してしまうだろう。

たかが、個人の家計が厳しくなる、という認識では甘過ぎる。

日本の国家・社会そのものの「底」が抜け落ちてしまうであろう。

我々、個人レベルで対処可能な事柄は何か?

処分可能な不動産は、なるべく速やかに売却して現金化する。

出費を極力抑制し、借金をしない。

具体的には「大きな買い物」をしない。

不動産購入のためにローンを組まない。

自動車もリースにする。

また、「定期購買」する「商品」の出費金額を抑制する。

保険も、特約をむやみやたらに付加せずに、極力シンプルなものを選択して月々の保険料金を抑制する。

嗜好品も我慢する。

酒や煙草などをやめて、その分、「健康」に関する出費に転換する。

ジムなどに通い、適度な運動を習慣化する。

病気(特に成人病)の発症リスクを抑制して、医療費がなるべく発生しないように意識する。

物品は、極力、購入せずに借りるかシェアするようにする。

人生の喜びと満足は、金銭や物品の介在しないかたちで得られるような意識に変える。

とにかく、今後、我々、国民の一人一人の所得金額が増加する可能性は、自分としてはほとんど考えられない。

だから、収入が増えない以上、支出は徹底的に抑制すべきである。

間違い無く、「デフレ」が来る。

しかも、今迄以上の凄まじい「デフレ」が来る。

商品とサービスが、どうにもこうにも「売れない」、惨憺たる状況が来る。

そして、その「デフレ」は、「消費税」増税によって「開始」される。

しかし、そんな経済的な惨状に成ったとしても、我々が瞬時に全員「死滅」する訳ではない。

その時、その状況による「幸せな日常生活」は存在し得る。

性根を据えて取り組めば、死中に活はいくらでも得られる。

絶望と不安ではなく、希望と覚悟をもって乗り越えていこう。

幻冬舎の社長がツィッターで、或る作家の書籍の実売部数を暴露したことで問題となり、釈明に追われた。

その前段として、或る作家が執拗に百田尚樹先生の「日本国紀」に関して批判をネット上で繰り広げていた、ということがある。

まあ、百田尚樹先生の「日本国紀」は売れに売れていて、多分、その或る作家は嫉妬心で心身を焦がしまくったのであろう。

単なる「男の嫉妬」であるのだが、それでは「私怨」ということになるので何とも恰好が悪い。

そこで、「反権力」「反権威」という「公憤」の装いを施した。

百田尚樹は国家権力におもねり、国民を間違った歴史観に誘導しようとしている云々と。

だが、「反権力」=「良識」と云うのは、既に破綻した短絡思考である。

それに、百田尚樹先生は、「歴史書」を書こうとした訳ではない。

啓蒙的な「読み本」を書こうとされたのだ。

そして、その意図は達成されて、この出版不況という時代に於いては、驚異的な部数が売れているのである。

それに対して、毎日新聞などが噛みついた。

「実売部数を暴露するなど許せない」と。

確かに、新聞各社にとって、自分たちの新聞実売部数を暴露されたら、それこそ経営が成り立たない。

だからこそ、厳しく筆誅を下した訳である。

しかし、これらの騒動を見聞して、全く気持ちが晴れない。

本が売れない、という現状がまず暗澹とした気持ちにさせる。

さらに、「保守的な本」が売れることに対する、過剰なまでの反感。

醜悪である。

かつては、左翼的な反権力的な本でなければ売れなかったのである。

ところが、今は、そういう「良識的」な本が、本当に売れない。

ならば、その理由は何故なのか?

一つは、広範な大衆が「良識的」な本を読みたがらなくなった、ということである。

つまり、大衆が馬鹿に成った?

いわゆる左翼どもが、ほんの少し前に声高に囃し立てた「反知性主義」とやらのせいなのであろうか?

いやいや、「反知性」的であるのは、何もここ最近にはじまった話では無い。

それこそ、左翼全盛の時代から、まともな「知性」なんざまともに省みられてなどいなかったのだから。

要は、「反知性」的な広範な大衆どもが、かつては左翼の本を訳も解らずに買いまくり、今では保守の本を買い漁っている、という「見立て」が妥当な評価だろう。

ただ単に、「反権力」的な本が、現在の大衆からは飽きられている、ということである。

だから、左翼文化人どもがいくら本を出しても、さっぱり儲からないのだ。

 

しかしながら、保守派の本だってこの先どうなるか解らない。

と云うより、「只今絶頂」の時なのだろう。

現在、保守月刊論壇雑誌、「月刊ハナダ」「ウィル」「正論」の購読者は、高年齢者層が多いと云われる。

確かに、毎月千円近い雑誌を購入し、それを隅から隅まで読破するには、お金も時間も余裕が有る人でなければ無理である。

その条件を満たせる人は、

定年退職されて定職に就いていない。

基礎年金の他に、厚生年金や企業年金といった「二階建て」以上の年金収入が有る。

もしくは、自営業が儲かっている。

こういう「高齢者」層であろう。

だから、5年後に成ったら、いわゆる「保守派」の講演会ビジネスが維持出来なくなると思う。

会場まで来られる元気な人がいなくなるからである。

そして、10年後には、雑誌や書籍が売れなくなって、いわゆる保守言論ビジネスは破綻するだろう。

それを回避させるためには、現在の若者世代の所得収入金額を安定して多く得られるような社会構造にするしかない。

さもなくば、貧困化した若者世代は、大衆迎合的な左翼思想に雪崩を打って堕ちていくであろう。

そういう意味では、現在の「イケイケ」の保守言論も、解決すべき課題が多いと云わざるを得ない。

「ドクター・ストレンジ」は、アメリカン・コミック「マーベルコミックス」のヒーロー、アベンジャーズのメンバー。
一方、「ドクター・ストレンジラヴ」は、鬼才スタンリー・キューブリックの代表作の一つ。
邦題では「博士の異常な愛情」とされる。
但し、原題はやたらと長たらしくて、
「博士の異常な愛情 または私は如何にして心配するのを止めて水爆を愛するようになったか」...
「Dr. Strangelove or: How I Learned to Stop Worrying and Love the Bomb」である。
主演は、「怪優」ピーター・セラーズ。
しかも、三役を演じ分けての大活躍で、必見の名画である。

それはともかく、かつて1970年代から80年代に於いて、世界全面核戦争への恐怖は現在とは比較に成らない。
それこそ、五島勉の「ノストラダムスの大予言」が驚異的なベストセラーに成った背景も、世界全面核戦争による「人類全滅」に対する恐怖感が社会と時代の全体を覆い尽くしていたからである。
ところが、現在、かつてのような世界全面核戦争への恐怖感はあまり感じられ無い。
実際は、核兵器そのものの数量は、かつてとあまり変化が無い、にもかかわらず、である。
この彼我の違いは、米ソの冷戦対決が無くなった、ということでしかない。
かつての「資本主義体制」と「社会主義体制」は、驚異的なまでに差異と対決が感じられた。
やはり、それは「経済体制」が全く隔絶されていた、ということが大きい。
勿論、「資本主義体制」国家と「社会主義体制」国家の間に、全く経済関係が皆無であった訳ではない。
しかしながら、現在の米ソや米中の経済関係は密接にして不可分であり、共依存ともいうべき濃厚な関係性である。
つまり、地球を何度も破壊し得るだけの核兵器が世界中に備蓄されているままでありながら、その一方、かつてのような世界全面核戦争勃発に対する恐怖心が感じられていないのは、「何だかんだ云いながら、最早、米ロも米中も全面対決なんか出来ない」という認識が有るからであろう。
但し、米ロに関してはともかく、米中の「対決」は、今後、どのように推移していくのであろうか?
間違い無く、中共が「世界第二位」の「経済大国」に大化けしたのは、欧米各国をはじめとした中共への「投資」のせいである。
だから、中共を肥え太らせたのは、先進国をはじめとした世界各国の経済的なエゴである。
そして、今、アメリカのトランプ政権は、今後の世界の「覇権」を念頭に入れて、米中の貿易「戦争」に突入した。
そして、現段階の見立てでは、「長期的には中共は追い込まれる」であろう、という予測である。
しかしながら、かつて、アメリカから「締め出された」宇宙開発の分野に於いては、既に中共は「自力開発」の目途が立ってしまった。
5GのITの分野などに於いても、既に中共は地力を付けてしまっているかもしれない。
さらに、遺伝子組み換えに関しては、ひょっとすると中共が世界で一番「先進」している可能性も疑われている。
何故、そんなことが考えられるのか?というと、支那の宗教倫理観は、一神教的な「造物主」信仰が稀薄であるからである。
つまり欧米では、「生命は神の領分」という、宗教的タブーが研究者たちの間にも濃厚に存在しているのである。
だが、支那に於いては、「造物主」的存在は稀薄であり、さらに共産主義革命後は、「目的の為ならば、あらゆる手段が正当化される」価値観に成っている。
だから、中共体制の維持の為ならば、「あらゆる技術開発」が「正当化」されている可能性が考えられる。
ということで、ひょっとすると、「バイオハザード」のダークファンタジーは、アメリカではなく、中共に於いて「現実化」されるかもしれない。
もし、そのようなディストピアが現実化されたとしたら、その時の「救世主」として「ドクター・ストレンジ」が大活躍してくれるのだろうか?
それとも、「ドクター・ストレンジラヴ」が大活躍してくれるのだろうか?www

往復書簡のやりとり、といったかたちでない以上、「議論」には必ず「第三者」である「群衆」が存在する。

で、「議論」に於いて、重要なのは、実はこの「群衆」の存在である。

実際、「議論」の勝敗は「群衆」が決める。

だから、「議論」は、「論破」を目指してはいけない。

「論破」しようとすると、「鼻につく」。

結局、「群衆」からは支持されない。

だから、「議論」は、「納得」もしくは「同意」に持ち込ませることである。

勿論、当の「議論の相手」が、「納得」も「同意」もしてくれる可能性など皆無である。

だが、この「意図」こそが、「議論」の審判者である「群衆」の心をつかむのである。

 

「スピーチ(演説)」の際、ついつい自分の頭の鋭敏さを主張しがちである。

だが、人間は、頭の賢さでもって支持を、得てしてしてくれないものである。

それよりも、「こいつは、あんまり頭が良さそうではないけど、どうやら悪いことはしなさそうだ」と思わせた方が余程良い。

実際に、自分は「そのとおり」だからwww、お蔭様で、何とか今迄、世間を通らせてもらえている。

丸山穂高代議士の「舌禍」「失言」問題に関して。

まず、「日本維新の会」「大阪維新の会」は、実は、「舌禍」「失言」問題に関しては、極めて「峻厳」な処分を下す党派である。

「酷薄」と云っても良い。

橋下徹、松井一郎という、挑発的発言を駆使して来た政治的指導者によって率いられて来た党派「にしては」、という「感じ」がしない訳ではない。

だが、見方を変えれば、その「発言」が挑発的傾向が強いがゆえに、より稚拙な「舌禍」「失言」問題に関しては、峻厳かつ酷薄な処断に躊躇しない、のであろう。

それこそ、西村真悟代議士に対する「除名」処分から始まって、「維新」は、「舌禍」「失言」問題に関しては、本当に厳しい。

それは、「維新」という「党派」が、公明党や共産党のような「強固な支持基盤」を有していない、という明確な自覚を持っているせいであろう。

だから、いかに「ふわっとした支持層」に愛想を尽かされないように、細心の注意を払っているのだと、自分は考える。

 

で、丸山穂高代議士の「発言内容」に関しての「論考」であるが、ここで敢えて指摘したいのは、「論理で勝って、議論に負ける」という「状況」が存在することである。

つまり、論理的に「正しい」のか「誤っている」のか、というところで勝負しても、「議論全体の感触」としての「勝負」で、どのように「審判」されてしまうのか、ということである。

はっきり云って、今回の案件は、「分が悪過ぎる」。

勿論、「論理性」という土俵で戦っても良いのだが、残念ながら「広範な大衆から無視される」論理である。

だから、その「論理」は、クローズされた、限定された「層」の中の「人々」の間では、首肯され支持され得る。

だから、「業界内での営業」には「有効」である。

だが、広範な大衆の支持や共感を勝ち得るには、あまりに無意味で無力なのである。

このクローズされた「閉ざされた論理性」は、右だけでなく左もそうである。

右も左も、先鋭化・過激化していけばいくほど「大衆性」を失って「閉ざされていく」。

勿論、「閉ざされた論理性」であっても、例えば「第3インターナショナル」に於ける党派論争の場合のようであれば極めて有効である。

しかしながら、「国民投票」といった、「セクト(党派)の論理」を前提とした議論でない場合は、無意味で無力なのである。

そこのところを見極められるかどうか、というのが、結構重要なのだと自分は感じる。

平成最後、令和最初の「ご朱印」騒動www
かの明治神宮では、五月一日の「ご朱印」の行列が「10時間待ち」wwwにも成ったそうな・・・
で、その後、ネットオークションで明治神宮の令和元年五月一日付の「ご朱印」がたくさん出回ったそうな。
これに関して、埼玉県神社庁など「神社関係者」から「実際に参拝されずに拝受することに意味は無い」といったコメントを発した。
いわゆる、「信仰心」の有る人ほど、このコメントを「そのまま」肯定している。...
自分も、この「コメント」の真意は理解出来る。
だが、「実際に参拝しなければ駄目」と「断定」してしまうのは乱暴だと感じる。
現に、遠隔地の崇敬者からの要望に応えるために、御祈祷札は「郵送」しているではないか?
中には、「お守りは、参拝してから拝受すべきです」と断り書きをしている寺社も存在しているのだが。
しかしながら、「実際に参拝しなければ駄目」というのは、歴史的には合致していない。
それこそ大昔、交通手段が乏しく、人間の往来がなかなか難しかった頃。
山伏や御師と呼ばれる漂泊の宗教者がお札などを全国各地に配って歩き回ったのである。
また、昔は「講」と云って、同じ信仰を持つ者たちが集まり、その「代表者」が参拝をして、「講」の信者全員分のお札をいただいて帰って来た。
だから、「実際に参拝しなければ駄目」と云うのは、乱暴な論なのである。
また、病気や怪我で参拝に行けない人の為に、代わりに拝受して来た場合は駄目なのだろうか?
これもまた、許されて然るべきであろう。
では、「判断基準」は何か?
それは、「祈り」であり「信仰」である。
そこに「祈り」が存在するのか?
「信仰」が存在するのか?ということであろう。
仮に、「令和元年五月一日」の「明治神宮」の「ご朱印」を、ネットオークションで入手した人が居たとしても、その人が、毎年必ず明治神宮に参拝をし、崇敬心が篤い人であったならば、自分は許されると考える。
いくら篤信な人であっても、必ずしも「令和元年五月一日」の「ご朱印」を拝受出来るとは限らないからである。
但し、「祈り」や「信仰」に重きを持つ人は、あまり「物欲」にはこだわらない。
だから、明治神宮に対しての崇敬心がとても篤い人であっても、必ずしも「令和元年五月一日」の「ご朱印」にはこだわらないのである。
むしろ、プレミア価格やコレクションとしての面ばかりに傾倒してしまう人が、ネットオークションだろうが何だろうが、「とにかく手に入れたい!」と血眼になるのである。
それに、ここまで「ご朱印」ブームと化したのは、「ご朱印」を出す社寺の方にも原因が有る。
「期間限定」の「ご朱印」を出したり、「特別作製」した「ご朱印帳」を販売したり、そうやって「営業努力」を重ねて来た訳ではないか?
そこまで「ご朱印」ブームを過熱させておいて、いざとなったら、したり顔で冷や水をぶっかけるのは、まさに「マッチポンプ」であろう。
現に、「ご朱印」をきっかけとして、神社やお寺の参拝者が増え、認知度も上がった訳である。
或る面、「欲」で人々を惹きつけて来た訳であるが、そこから先にどうやって「祈り」の「段階」へ教導していくかが、宗教者としての意識と覚悟が問われて来るであろう。
あくまで大衆が「制御可能範囲内」で実利をもたらしてくれたらならば不問に付す、というのでは、完全に「資本の論理」に屈しているであろう。
我々人間は生身であり、金銭のやり取りの中で生きている。
それは「宗教」の組織も専従者も同じである。
だが、だからといって「頽廃」を許してはいけない。
どこに「けじめ」をつけるのか?
ここが問われているのである。

本日、元号が「令和」と改まり、「令和元年五月一日」と成った。
この記念すべき日に、記念する「証し」として、自分は靖国神社の「ご朱印」を拝受したい、と思った。
昨日は、平成最後の日であったので、こちらも靖国神社での「ご朱印」がいただきたかったのであるが、仕事が入っていたので、仕事の現場の近くであった、武蔵の国総社・大国魂神社でもって「ご朱印」をいただいた。

何だかんだで、昼過ぎに自宅を出て、JRの飯田橋駅を下車した。
「ついでに、東京大神宮のご朱印もいただいていくか」などと軽い気持ちであったのだが、飯田橋駅を降りて、すぐに愕然とした。
日本歯科大学附属病院の角を曲がって、すぐのところから東京大神宮まで延々と「ご朱印」待ちの大行列だったのであった!
まあ、東京大神宮は、「婚活に御利益有り」と云うことで、女性陣に大層「崇敬者」が多い。
そういうこともあって「激混み」だったのだろう、と高を括っていた。
ところが、靖国神社へ入って、参集殿前を目にした時、ギョっとした。
大群衆が「固まって」いたのである。
良く見てみると、行列がつづらおりに成っていたのである。
そして、その行列の最後尾は、参集殿の裏手の「到着殿」(閣僚などのVIPが参拝時に出入りする特別な入口)まで伸びていた。
どうやら待ち時間が1時間や2時間ではききそうにもなかった。
しかしながら、「改元」の「機会」は、そうそう来ない。
だから、腹を括って行列に並んだ。
既に、午後3時の「夕御饌祭」の大太鼓が鳴らされた直後の時刻であった。
すると、しばらくして「昇殿参拝を為さる方は、こちらへ」という「ご案内」が有った。
何でも、「昇殿参拝をする人は、参集殿の中でご朱印が受けられる」ということであった。
これは、「ご朱印」だけしか考えなければ、待ち時間を無視した「狡い」行為のように感じられる。
だが、そもそも「ご朱印」とは、仏教のお寺へ写経を奉納(納経と云う)する際の、お寺からの「受取証」であった。
だから、昇殿参拝、正式参拝を行う人が「特別待遇」を受けても、何のおかしさも無い。
それに自分は、それこそ靖国神社へ「毎月」昇殿参拝をしたいくらいの気持ちなのである。
まさに、「渡りに舟」であった。
多分、これも英霊のご配慮であろう。
どうやら、
「何だ、お前。数十年に一度ぐらいしか巡り会えない、大層めでたい『御代替わり』の初日に、ちょろっと『ご朱印』だけもらって帰っちまうつもりなのか?
いつからそんなケチな料簡になっちまったんだ。
どうせ、他もこんな大騒ぎだ。
ちょっと寄って、上がっていきなよ」とwww(何故か、べらんべえ調www)
そこで、事前に想定外の昇殿参拝をさせていただいた。
で、昇殿参拝をさせていただいて、感想は「良かった」。
多分、自分と一緒に昇殿参拝をされた方々は、常日頃、神社での正式参拝など為さったことが無いのであろう。
修祓の時も、玉串奉奠の際も、あからさまに不馴れな行状であった。
だが、今日の「ご朱印」のお蔭で、期せずして、神事に親しむ機会を得られた訳である。
これこそ、英霊という神々との「ご縁」であろう。
中には、昇殿参拝の申込みをしても、「ご朱印」をもらったら、そそくさと出て行った人も居た。
多分、「次の神社」が有るのであろう。
確かに、「ご朱印」と云うのは、人間の「蒐集意欲」をそそる点が有る。
だが、「ご朱印」は、ただ「集める」ことが「良い」訳ではない。
肝心なのは、「ご朱印」という「かたち」を得ることによって、天神地祇や神々様との「ご縁」をいただくことに有ろう。
それは、お寺での「ご朱印」でも同様である。
神仏との「ご縁」をいただくこと、神仏と「つながる」ことこそが肝心なのである。
だから、何でもかんでも入手することが「正当化」される訳が無いのである。

昨日も書かせてもらったのだが、ご朱印やおみくじやお守り・お札をいただくにあたって