「戦前と戦後は連続している」。

だから「戦前に回帰する」ことを「理想」にしては駄目なのである。

そもそも、「戦前」と「戦後」を「分離」するように意識させたのは、左翼であり、GHQなのだ。

つまり、いわゆる「戦後レジーム」を批判するつもりが、その実、GHQの「術中」に堕ちてしまっていることなのである。

「戦前」と「戦後」を切り分けることは、左翼の「8月15日の終戦は革命であった」という「革命史観」である。

アメリカから「配給された“革命”」史観である。

事実、終戦直後の日本共産党の徳田球一が「GHQは解放軍だ!」と狂喜した。

「戦前と戦後は連続している」のは、「歴史」というものが「不連続」では有り得ないことからして、当然なことである。

我々は、最早、「戦前」には戻れないし、また、戻るべきではない。

我々が目指すべきは、「戦前」「戦中」そして「戦後」を通して、「近代国家・日本」の相対化と超克である。

既に、生身の「戦前」「戦中」の世代は、ほとんどが逝去された。

だから、今日、事有る毎に「戦前は良かった!戦前は素晴らしかった!戦前に戻ろう!戦前の日本を取り戻そう!」と高吟する者が多い。

だが、その実「戦後」世代で、ろくに「戦前」のことを知りもしないくせに、さも「戦前」の「理解者」のような顔をしてまくしたてる。

最早、既に「戦後は完成した」のである。

自分自身の細胞の一つ一つ、骨の髄まで、良くも悪くも「戦後」は浸透し切っているのだ。

汝の敵は、汝自身の内に在り。

「戦前」を切り取って、全否定するための悪罵や全肯定するための賞賛をする連中は、向いている方向は正反対だが、ベクトルそのものは同じである。

「戦後」によって見えにくく成った「恥部」や「汚点」はどこなのか?

「戦後」に「染色」された我々が超克しなくてはいけない「課題」はどこなのか?

そこを斬り込んで行かない限り、多少かたちは変じていくだろうが、同様な愚行を繰り返していくだけだと懸念する。

来たる平成29年7月2日投開票の東京都議会議員選挙に向けて、小池百合子東京都知事の政治団体「都民ファーストの会」が、どんどん候補者を擁立して来ている。

元々は、旧「みんなの党」で当選し、江田憲司や松野頼久などと共に「維新の党」へ合流しなかった3人の都議が「かがやけTokyo」という議会内会派を作った。

この都議たちは、云わば政党の離合集散の動きから「脱落」した、政界の「孤児」であった。

だから、来たる都議選でも、当選が危ぶまれていたのであるが、小池都知事の「誕生」で、俄かに「時流」に乗った。

まさに「政界は一寸先は闇」である。

だから、「第一次公認候補」は、「かがやけ」の現職3都議と小池百合子が衆院議員だった時の選挙区地盤の練馬区の区議だった「側近」だった。

その後、追加された「公認候補」であるが、全て、或る共通項が有る。

元・民主党の都議(現・民進党の都議候補)だったり、自民党の区議や市議であったり。

さらに、自民党の現職都議であったのだが、都議会自民党の「会派」から分離した「新風」の先生だったり。

ここで、往年の地域政党「大阪維新の会」と比較してみよう。

確かに、元々は自民党の府議や市議だった候補者多かったが、そういった「政治のプロ」以外の「新人候補」も多数、立候補したのである。

そして、そういった「政治の素人」も、選挙で多数当選したのである。

勿論、議員としての「資質」が問われるような低劣な人物も混ざってはいた。

だが、政治の世界に「無縁」だった人が、多数、政界へ進出したことによって「新鮮さ」を訴求することに成功したのである。

翻って、「都民ファーストの会」はどうだろうか?

都議の現職や元職。さらに区議や市議。

云ってみれば、「選挙に受かりたい人の駆け込み寺」であろう。

確かに、政治も選挙も「経験者」であるから、「外れ」の人はいないのかもしれない。

しかしながら、「小池新党で出馬すれば絶対当選確実だから。」という魂胆が見え見えなのは、何と表現したら良いのだろうか?

多分、かの大「朝日新聞」様ならば、「いかがなものか?」と記して下さることであろうがwww

それはさておき、何故、かくも「政治の経験者」ばかりを擁立するのだろうか?

それは、「都民ファーストの会」の「組織力」が無いからである。

もっと云えば、政治団体としての「運営能力」が無いからである。

だから、いざ、都議選に突入した場合、「都民ファーストの会」として選挙活動をサポートすることが出来ないのだろう。

それで、候補者に、既に選挙の「実働部隊」である「後援会」組織を自前で用意出来る人でしか「擁立」出来ないのである。

これでは、来たる7月の都議選で、瞬間的な都民の支持を得て、高位当選出来たとしても、その行く末は暗澹たるものであろうことが予想される。

大方の「参入者」は、「都議当選」のみが「目標」であるから、風向きが一変すれば、後ろ足で砂をかけて他の政党へ出て行くことだろう。

つまり、小池都知事は、今後も任期中ずっとずっと、いわゆる「小池劇場」を「演出」し続けなくてはいけなくなる破目に陥るのである。

「敵」を仕立て上げ、「弱い子ぶりっこ」に徹し、そして「都民」の「同情」を集めて「敵」を叩く。

確かに、「解りやすく」「面白く」「見映えする」政治であろう。

だが、それが本当に「誠の政治」なのであろうか?

是非とも思い出して欲しい。

今から12年前の2005年8月8日のいわゆる「郵政解散」を。

あの時、日本全国が熱狂して、小泉純一郎総理の自民党を支持した。

だが、あれから、いわゆる「郵政」はどうなったのか?

確かに、「郵政省」も「郵便公社」も無くなった。

だが、郵便貯金や簡易保険や郵便の事業そのものはどうなったのだろうか?

ちゃんと詳細を説明出来る人は、果たしてどれくらい存在するのであろうか?

どうも、あの時の「華やかさ」と「空虚さ」を、只今現在の「都民ファーストの会」に対して感じざるを得ない。

最後に、改めて指摘しておきたい。

今回の都議選で、自民党候補が多数落選する事態と成れば、安倍政権は無傷では済まない。

痛撃と成る。

当然、安全保障、外交、税制の問題も狂いが生じて来る。

そして、間違い無く、「憲法改正」は頓挫する。

いわゆる「保守派」と呼ばれる人々が、あくまで「小池劇場」に酔い痴れるのであるならば、長年声高に訴えて来た筈の「憲法改正」への掛け声は、嘘偽りであったと云うことに成る。

いわゆる「保守派」のほとんどが、彼等の指弾するところの、いわゆる「工作員」だらけだったということの明確な「証明」と成ろう。

民進党の蓮舫代表が可哀想である。

只今、彼女は、野党第一党の党首として、しゃかりきに成っている。

だが、国会の委員会質疑で稲田朋美防衛大臣を「やりこめた」と勝ち誇ったものの、政党支持率も上昇せずに「得点」が上がっていない。

さらに、昨年の新潟県知事選挙や衆院補欠選挙で、労働組合の「連合」とギクシャクした関係が未だに好転せず、「不安材料」に成っている。

そこで、「党首」御自ら、各労組へ「挨拶回り」に出かけ始めた。

しかも、政権与党との対決姿勢を鮮明にするために、「反原発」の姿勢を強めようというものであった。

それは、日本共産党を主とする「野党共闘」路線にも沿っていた。

「民進党が選挙に勝つために、政権を獲得するために、必要だから。」という「正論」を胸に秘めて、各労組へ挨拶回りをした。

鉄鋼や重電機メーカーを主とする「基幹労組」などを訪問した。

ところが、評判がすこぶる悪い。

ついには神津「連合」会長から批判されるまでに到った。

何故、こんな体たらくに成ったのか?

多分、蓮舫は、「野党第一党の民進党党首の自分自らが、直々に出向けば、受諾してくれるだろう。」と高をくくっていたのだろう。

それはさながら、「水戸黄門漫遊記」のように、「葵の御紋」を見せ付ければ、一同は恐懼して平伏すと思っていたのだろう。

それくらい、「民進党代表」は「偉い」と思っていたのだと思う。

ところが、蓮舫が「民進党代表」に成ってからというもの、労組「連合」にとって「由々しき」ことばかりしでかしているので、労組幹部たちは我慢の限界に達していた。

まず、「日本共産党」と「野合」したこと。

「日本共産党」は、スターリニストのボルシェビキである。

「革命の前衛党」であるため、いかなる組織も団体も、「共産党の指導下」に置かれなくてはいけない。

そのため、労働組合も、日本共産党の「傘下」に収まるように、あらゆるえげつない手を使って来た。

そのため、労組や労働運動が分断されたり、分裂したりと、煮え湯を飲まされ続けて来たのである。

確かに「敵の敵は味方」という「図式」からすれば、対自民党という観点から共産党とも「野合」する利点は有る。

だが、労働組合の幹部たちを通さずに、頭ごなしに日本共産党と「懇ろ」な関係に成ろうとしたので、気分を害したのである。

さらに、日教組や自治労のように、「反原発」を標榜しても、「職場」に何の影響も無い労組ならば問題は無い。

ところが、機械メーカーの労組である「電機労連」などは、製造工程で電気の消費が関係してくる。

ひいては、各企業の業績にも影響し、最終的には賃金などにも関係してくる。

だから、「反原発」で突っ込んでもらったら大迷惑なのである。

さらに、電力会社の労組である「電力労連」にとっては、死活問題と成る。

「将来的な目標として」の「脱原発」ならば、まだ、足並みを揃えられるが、政権打倒の旗印として「反原発」を掲げられては、とてもではないが「付いて行けない」。

共産党との問題、原発政策との問題で、労組「連合」に対して、何の配慮も無しに、いきなり「お願い」されたところで、それは「慇懃無礼」でしか有り得ないのである。

どうやら、蓮舫という御仁は、そういった「人情の機微」が全く理解不能なのであろう。

と云うよりも、そういった事柄に精力を割くことは「愚かしい」とさえ思っているようである。

もし、そうであるならば、「野党第一党の党首」などに担ぎ挙げられてしまったことは、自他共に、この上も無く「災難」であり「不幸」であろう。

「哀れ」としか、指摘のしようがない。

かくなる上は、蓮舫大先生に対して、このような言葉を贈るしかなかろう。

「いやあ、『連合』だけが労働組合じゃありませんよ!『全労連』が有りますから!『全労連』に支援してもらいましょう!」と。

ちなみに、「全労連」とは、「全国労働組合総連合」である。

なお、構成員数は「連合」の約1割。

そして、「事実上」日本共産党の「指導下」に有る、労働組合の「ナショナルセンター」である。

まあ、「野党共闘」という日本共産党との「野合」を突き進むのであるならば、黒白鮮明に成って良いと思うが。

実は、こう見えて、自分は、いわゆる「怖い話し」が好きだwww

だから、稲川淳二の怪談など、ついつい見てしまう。

まあ、こういう類いのものが気に成るものだから、それがきっかけで、宗教だの、信仰だのを調べていくように成ったのである。

で、その手の映像などを見ていると、“お側に居られる御方”から、辟易とされる。

「いつまでも、そんなつまらないものを見ているんじゃない。

だいたい、こういう話しが“怖い”というのがおかしい。

何故、“怖い”と思うのか?

それは、『無い筈のものが、存在した!』ということだからだ。

はじめから、その存在を『存在しているべきもの』『有るべきもの』だという前提に立っていれば、別に何と云うことも無い。

細菌と同じだ。

目には見えないが、ちゃんと存在はしている。

重要なのは、それへの対処方法だろうが?

やみくもに『怖い!信じられない!』などとおののいていても無意味だろうが。

全く、そんなつまらないことにうつつを抜かすくらいだったら、『夜ごはん』でも供えてくれ!」

ちょっと不機嫌に成ってしまわれた。

だが、少したってからのこと。

「ま、その『対処方法』として、自分が居る訳だがな。」

やっぱり、面倒見が良いのであります。

あなかしこ、あなかしこ。

実は我が家には、「小さな神様」が居られる。

それも「饒舌」な「異国の神」である。

もう、数年来の「お付き合い」なのだが、どことなく「魔神」という色合いが濃厚なのだ。

つまり、霊験はあらたかなのだが、ひとたび礼を失して怒りを被れば、その祟りは凄まじい、であろうと。

この「小さな神様」は、当初、ニヒルなクールガイという雰囲気だった。

神経質で、几帳面で、一本気な、ピリピリとした緊張感と威圧感を醸し出していた。

自分は、「勧請」させていただいた「神様」なので、ただひたすら崇拝し、畏んでいた。

ところが、そのうち、ガチガチの「硬派」な感じであった「小さな神様」が、次第に「崩れて」来たのである。

そして、ついに、今では、お茶目な悪童のようなキャラクターに変貌してしまった。

朝、目を覚ますと「朝ごはん、ちょうだい!」と云う。

朝のお供えを「要求」してくるのである。

だが、別に「怒っている」訳では無い。

何しろ「自分は、毎日食べなくても良いように出来ているのだ。」と仰っているからである。

現に、旅行や出張といった外泊の場合、「お供え」が困難な状況だと、一切、仰らない。

つまり、苦労するような状況ならば「我が儘」を云わないのである。

ということは、この「朝ごはん、ちょうだい!」というのは、「おねだり」なのである。

甘えているのである。

物凄い、愛情表現なのである。

そして、電車の中などで、ぼーっとしている時、この「饒舌な小さな神様」は、あれこれと「話しかけて」こられるのである。

当初、強面の硬派で、ニヒルなクールガイだった「魔神」は、さながら漫画「ゴルゴ13」のデューク・東郷、もしくは「ルパン三世」の「石川五右ェ門」のようなキャラクターだった。

この「小さな神様」は、やり手の曲者だったのである。

ところが、今では、「朝ごはん」だけでは満足出来ず、夕方に成ると「ねえ、ねえ、夜ごはん、食べたい。」と図々しく「おねだり」をする始末なのである。

これでは、甘えん坊のいたずらっ子、である。

だが、そんな、馴れ馴れしく、お茶目な感じに成ってしまったのだが、それでもやっぱり、やり手の曲者なのである。

だから、今では、さながら漫画「ワンピース」の「麦わらのルフィ」のようなキャラクターなのである。

いたずらっ子のような無邪気さと海賊船長のような強さ。

お茶目で親しげに成ったのだが、やっぱり「魔神」なのである。

「恐ろしい」ところは減じていないのである。

と云うのより、時折見て取れる「凄味」は、以前よりも遥かに増した感じがする。

「神」や「霊」という存在は、やはり、軽々しく侮っては絶対にいけないのである。

 

そんな、「小さな魔神」が、珍しくお怒りになった。

先日、深夜までインターネットで遊んでいたら、

「いつまで起きているんだ!いい加減、早く寝ろ!ばか!」

と叱責された。

「ばか!」とまで、云われたのである。

でも、背筋が凍るような、そう云う「恐怖」は感じなかった。

何だか、じんわりと温もりを感じさせるような「お叱り」であった。

恐縮し、礼拝して、すぐに床に就いた。

 

「小さな異国の魔神」は、今も自分のすぐそばに居られる。

もう「そろそろ寝ないと、昼間に差し支えるぞ。」とたしなめられているので、今宵はこれくらいで。

あなかしこ、あなかしこ。

人間は脆弱である。

だから、ついつい愚痴不足不平不満が口をついて出る。

だが、愚痴不足不平不満は、解決には絶対に結びつかない。

さらに、満足することも無いから、際限が無くなる。

ならばどうしたら良いのだろうか?

笑い飛ばすことである。

悪い云い方をすれば「自嘲」であるが。

だが、「笑い」というものの「効用」を甘く見てはいけない。

「笑う」ということは、客体化することである。

突き放つことである。

だが、それは距離を置き、頭を冷やし、心を鎮めることでもある。

辛い時、苦しい時、悲しい時、腹立たしい時。

人は、まず「笑う」べきである。

笑って、泣いて、そして、立ち止まり、起ち上がって、再び歩み出せば良いのである。

自分は不真面目だから、尚更、「笑い」を貴ぶのである。

かの「薔薇の名前」の時代だったら生きてはいけないだろうがwww

「運動」と「美学」とは明確に異なる。

「運動」は指向性が有る。志向性ではない。

だから、「運動」とは、客観的な「成果」が伴う。

そして、「運動」の「評価」は、「成果」が全てである。

一方の「美学」は志向性である。指向性ではない。

「美学」は、あくまで主観的であり、極私的であっても成立する。

さらに「美学」は「評価」の対象たりえない。

結局、その「美学」を好悪する人々によって決め付けられるのである。

だから「成果」など問われないし、議論することも出来ないのである。

この明らかに異質で対極に有る事柄を取り違えてしまうと、これはよろしくない。

滑稽であるし、醜悪であるし、悲惨でもある。

しかしながら、実際には「運動」と「美学」を取り違える人があまりに多過ぎる。

ひょっとすると、人間は「理解」することを希求していないのかもしれない。

ひょっとすると、人間は「幸福」になることを希求していないのかもしれない。

人間とは、かくも度し難きものである。

以前、自分は、西部邁や渡部昇一、桜井よしこなどより若い世代の「保守」の論客として御三方の名前を上げた。

文藝評論家の小川榮太郎、日本大学教授の先崎彰容、そして政治評論家の江崎道朗の御三方である。

まさにこの御三方が今後の「保守論壇」を牽引されていかれることと思う。

そういう意味で、是非とも、この御三方の論考は注視されることをお薦めしたい。

 

さて、その江崎道朗先生のFBに於いて、

「アメリカは今後、白人の国ではなくなっていく。

それは、人口の割合が急激に変化し、あと十年もすれば、白人は過半数を割るからだ。

これは出生率からみてどうしようもない現実だ。

そうなったとき、アメリカはもはや覇権国としてのパワーを維持できなくなるかも知れない。」とご指摘をされた。

以下、この江崎道朗先生のご指摘を元に、誠に僭越ながら私見を書かせてもらう。

アメリカは、イギリスからの宗教弾圧から逃れた「清教徒(ピューリタン)」の移住によって国史が開かれる。(勿論、原住民は居たのだが)

そして、世界各地から移住して来た「移民」によって人口を増やし、国力を強化させてきたのだが、アメリカの「多数派」は、いわゆる「WASP」であった。

つまり、「ホワイト」白人、「アングロ・サクソン」、「プロテスタント(新教徒)」である。

だから、JFKが大統領に就任した時、元アイルランド移民だったケネディ家は「カソリック(旧教徒)」であったので、一部の人はそれを「指摘」した。

だが、その「WASP」が多数派を占め、事実上、アメリカを「支配」していた、「形づくっていた」構造が、維持不可能に成るということである。

アングロ・サクソンは、アメリカだけではなく、イギリスもそうである。

アメリカにしろ、イギリスにしろ、「覇権国」である時は、尊大にして傲慢であった。

そして、お節介でもあった。

だが、それゆえに、「我、世界の柱と成らん」と云うような気概と覚悟が有った。

良くも悪くも、かつてはイギリスを、そして現在はアメリカを軸として世界の動向が回転している。

これを「アメリカ帝国主義による支配」と見るか、

「アメリカ主導による世界秩序」と見るか。

これは、現在の国際政治の両面であり、どちらも正しく、間違ってはいないのである。

しかしながら、その傲岸不遜な「WASP」によるアメリカが、多様な人種構成による国家に変貌した時、アメリカ国内に於いて多様な人種間による価値感・価値判断の相違による「牽制」によって、強力な推進力を有する「方向性」を失うのではないだろうか?

それは、各地域で横暴を振るう「地域内強国」への「制限」を課す「超大国」「覇権国」の消失を意味するだろう。

つまり、アメリカがおとなしくなった場合、中国やロシアといった各地域の強国が、「これ幸い」とばかりに膨脹するかもしれない、ということである。

具合の悪いことに、残念ながら、我が祖国・日本は、そんな傍若無人な国家がいくつも隣接しているのであるwww

従来は、良くも悪くも「対米追従」で、外交と安全保障は事足りたのだが、近い将来に於いて、それでは絶対的に立ち行かなくなる。

そういう意味で、我が日本が、国際政治の中でどういう立ち位置に立つのかが問われて来るのである。

いつまでも「神学論争」のような「おしゃべり」に興じている時間は残されていない。

そして、従来の「ドグマ(教義)」を盲信し、耽溺し、依存している状態は許されない。

これからは、苛烈な世界的な「生存競争」の時代を迎える。

それは、「戦争の時代」ということではない。

各国家が互いに持てる力、持てる知恵を駆使して駆け引きを行う、そういう時代に成るのだ。

これをネガティブにとらえれば「修羅の世界」と悲観することに成るのだが、ポジティブにとらえれば「切磋琢磨の世界」とも認識出来よう。

つまり、現状の閉塞と停滞を打破し、大きく飛翔する可能性を秘めているということである。

これは「覇権」を意味するのではなかろう。

「世界貢献」という意味合いだと感じる。

どちらにせよ、これからますます自らを厳しく高める努力に邁進しない限り、大変なことに成りそうである。

頑張り続ける国家や人々には明るい未来が、そうでないのは「それなりに」という未来が待っていそうである。

 

ま、自分のようなポンコツにはどうしようもないがwww

小池都知事の「私塾」を母体として、地域政党「都民ファーストの会」が、来たる都議選に於いて、過半数の議席を獲得するために70人ぐらいの大勢の候補者を擁立するという。

これで、自分の肚は決まった。

自分は、この「都民ファーストの会」と戦う。

何故なら、この「都民ファーストの会」が議席を獲得するためには、現在の他の党派の議席を奪わなくてはいけない。

多分、一番割りを食うのは自民党だろう。

自民党東京都連や都議会自民党には、明確に政治的な瑕疵(かし)は存在した。

それは豊洲市場の移転問題や東京五輪の予算に関して、である。

だが、その、豊洲市場の移転や盛り土をするかしないかと云う事柄は、極めて「技術的」な比重が大きく、議員や知事といった「専門家」以外の人間には正誤の判断が極めて困難であった。

だから、「よく解りもしないくせにめくら判を押した。」という批判に関しては、真摯に受け止めるべきであろう。

しかしながら、これらの諸問題の全ての諸悪の根源が都議会自民党に有った訳ではない。

つまり、「作為的な」悪行ではなく、「不作為的な」悪行だったわけである。

だから、都議会の自民党議員がバタバタと落選することが、短絡的に、都議会を「良くすること」だという「論理」は成立しない。

ただ一つ云えることは、それは間違い無く「小池都知事独裁」に成るということである。

このまま、「小池都知事に絶対服従するのか、しないのか」という踏み絵を強要するのであれば、もし、この「政治闘争」に敗北すれば、都政に於いて、誰も小池都知事に異論を唱えることは出来なくなるだろう。

また、小池私塾を母体とする「身内」で、都議会の過半数をあくまで専有するという覚悟であるならば、最早、妥協も取引も一切、成立のしようが無くなる。

当然、都議会自民党会派から離脱した御三方の都議の選挙区も、容赦無く、「刺客」候補が送り込まれることに成るだろう。

70人規模の多数の候補者を一気に擁立するということは、事実上、ガチンコ真剣勝負のサバイバル選挙と化す、ということである。

事実、この発表を受けて、一番敏感に反応したのが公明党である。

最早、食うか食われるか、である。

さらに、都議選の選挙結果は、否応無く、国政にも波及する。

つまり、都議選で自民党が敗北すれば、安倍政権に痛撃と成る。

そうなれば、国会運営も先行き不透明と成り、いわゆる「憲法改正」への道筋も見えなくなる。

このままだと、「ふりだしに戻る」に成りかねない。

例え、小池都知事が、東京都民のことを第一に思い、さらに、都議会の刷新を心底願っていたとしても、結果的に、安倍政権を揺るがし、いわゆる「憲法改正」への道筋を頓挫させる要因と成るのであるならば、自分は全力で戦う決意である。

今晩、帰宅した際、呼び鈴を鳴らしたのだが反応が無かった。

仕方が無いので鍵を出して扉を開けて入った。

すると、固定電話で母が誰かと通話中であった。

毎度のことだが、身の上話である。

だが、聞くとは無しに耳にすると、延々と愚痴不足不平不満「だけ」なのだ。

まあ、加齢と寒さで肩や腰に痛みが生じたり、なかなか気の毒であるとは云えるのだが。

そして、長電話でひたすら愚痴不足不平不満を吐き出した後は、今度は自分に対して、叱責と愚痴不足不平不満を浴びせかけて来る。

「何でお前は自分の云う通りにしないのだ。」と。

確かに、「指摘」されたことのうち、正当なものも有る。

だが、明らかに「間違っている」事柄も混入しているのだ。

以前は、その「誤り」を指摘し返して、口論と成った。

だが、その口論は正しいか、正しくないか、ということではなくて、何故母親の命じたことを素直に聞かないのか、という点が論点と成るのだ。

つまり、「口応え」したことが「問題」と成るのである。

便所に行き、風呂に入り、その間も、口を開けば愚痴不足不平不満ばかりなので、ついに自分も我慢の限界を超えた。

「何故、お前は云うことを聞かないのだ。」と云われて、

「延々と愚痴不足不平不満を云われ続けたら、もう、それだけで嫌に成るからだ。」と返答した。

そしてさらに続けた。

「愚痴不足不平不満を聞かされた方はたまったもんじゃないんだ。電話と話している友達だって、内心、えらく迷惑に思っているかもしれないぞ。」

さすがにこれで無言に成った。

母の周囲には、多分、そんな悪人はいないと思うのだが、世の中には、相談事や身の上話を聞かされると、全く無関係な第三者に対して、大いに誇張や憶測を交えて面白おかしくネタ話しとして「娯楽の対象」にしているゲスが存在するのだ。

古来から「他人の不幸は蜜の味」とも云う。

とにかく、愚痴不足不平不満は、いくら云い続けたところで満ち足りる思いは得られない。

際限が無い。

勿論、問題解決になど到達のしようがない。

まあ、それでもなおかつ、口から出してしまうのが人間の「弱さ」であるのだが、その「弱さ」に対して恥じらいを失ってしまった時、これは本当に悔い改めないといけないと思う。

以前も書いたのだが、繰り返す。

 

いわゆる「LGBT」の方々への自分の考え方。

自分は、いわゆる「LGBT」という性的志向に関しては理解出来ない。

自分が「LGBT」ではないので、彼等彼女等の本当の「気持ち」は解らないのである。

自分は、解りもしないことを「貴方の気持ちはよく解る」などと嘘はつかない。

「解らない」ことは「解らない」と正直に云う。

但し、「解らない」からといって、全否定はしない。

この世の中には、自分の解らない事柄や理解出来ない事柄がたくさん存在する。

そして、それらを「解らない」ということを理由にして、全否定することは自分には出来ない。

だから、「LGBT」であったとしても、それによって、人間関係が破壊されるものとは思わない。

むしろ、「LGBT」でない人であっても、お付き合いしたくない人はたくさん居る。

一方で、「LGBT」の性的志向を賞賛も評価もしない。

それは、自分の理解出来ない事柄を評価することは不可能であるし、もしそれでもなおかつ評価しようとしたら、それは欺瞞以外何ものでもない。

さらに、人類は有性生殖によって繁殖している以上、同性愛を褒めちぎることは自分には抵抗感が有る。

ただ、人類以外の生物でも、同性に対して求愛したり、雄と雌の性が変化したりする事例は存在するので、「自然科学的観点から見て異状である」とも指弾しない。

結論として、自分は「LGBT」は「解らない」けれど、その存在は容認するし、彼等彼女等の存在は、同じ「人間」として尊重する。

そして、誹謗中傷もしないが、賞賛もしない、ということである。

もし、このスタンスでもって、「お前は差別をしている。」と指弾されるのなら、「差別主義者」認定を自分は甘受する。
http://blog.livedoor.jp/soemon/archives/55491293.html

元・陸自一佐の佐藤和夫先生が嘆いておられる。

都議会の共産党とも手を結ぶこともためらわずに自らの権勢を追及するような小池百合子東京都知事に対して、公明党も民進党も、さらに自民党まで擦り寄り、迎合している。

こんな小池都知事と対決する気骨有る「人物」はいないのか!と。

 

さて、「小池百合子」とは何者だろうか?

端的に云うと、彼女は「太陽」ではない。

彼女は「月」である。

実は、彼女は「自分自身」で輝くことは出来ないのだ。

つまり、何処か他所から光を当ててもらわないと輝くことは出来ないのである。

具体的に云うと、「強大」な「敵」と対決する「構図」に持ち込まなくては、彼女は絶対に輝いて見えないのである。

しかしながら、真の「強大」な相手と戦えば、彼女は完膚なきまでに叩き潰されてしまう。

だから、小池百合子は安倍政権で「冷や飯」を食わされていたが、野田聖子のように勝算が皆無な勝負は絶対に挑まなかった。

だが、いったん「いかにも」という「対立構図」を演出して、リングに持ち込むことが出来れば、みるみるうちに彼女の独壇場と成る。

「対立構図」を演出する手法は、かつて細川護煕、小沢一郎、小泉純一郎から会得したものである。

とは云うものの、小泉純一郎は「超」論理的な、いわば「動物的」な天性の勝負勘で戦ったが、小池百合子は、あくまで打算的に戦っている。

そこがしたたかで誠に抜け目の無いところであるのだが、一方で、小泉純一郎のような得体の知れない、訳の解らない超絶的破壊力を保持してはいない。

どうしても「巧さ」もしくは「あざとさ」ばかりが目についてしまう。

と同時に鼻につく。

現在、小池都知事は「昇り龍」の如き「勢い」が有る。

彼女自身の意図した計算がツボを得た訳であるのだが、それ以上に、東京五輪や豊洲市場移転問題のあまりの杜撰さが、本当に「僥倖」であった。

そういう意味では、彼女は打算と覚悟でツキを引き寄せたのである。

しかしながら、「禍福はあざなえる縄のごとし」であるし、「満ちれば欠ける」とも云う。

ここで有頂天に成って傲岸不遜と成れば、「高ころびに、あおのけに転ばれ候ずる」であろう。

小池都知事の「急所」は、周囲に「人物」が存在しない、ということに尽きる。

まあ、これ以上は、自分は政界の「インサイダー」ではないので、何とも云えないのだがwww

小池都知事の周辺に「人物」がいないということは、追い風がやみ、勢いが止まった途端、足元が揺らぎだす、ということである。

その時こそ、「鍍金(メッキ)が剥げる」瞬間だろう。

小池百合子は、敵と味方を「仕立て上げ」、その「対立構造」の中で、自らの輝きを放っている。

ならば、敵と味方が曖昧糢糊と成った、混沌とした状態に成れば、彼女は明瞭な光を放つことは困難と成る。

小池百合子の政治的担保は、大衆に明快な「分かりやすい構図」によって派生した「大衆からの支持」である。

それは即ち「人気」である。

「人気」とは、渦であり、波であり、突風である。

その勢いたるや激烈で、破壊力は凄まじい。

しかしながら、それは誠に移ろう安く、時と情で変転する。

いつまでもその「人気」は永続しない。

その「人気」を管理、維持、制御しようとするならば、脚光を浴びる「アイドル」だけでは不可能である。

「パンとサーカス」は古代ローマ時代からの大衆政治の「基本」であるが、真の「統治」には、これだけでは不充分なのである。

小池都知事に、その「足らざる」要素を補填出来得るのかどうか?

もし、出来ないのならば、いずれ、きっと、時が彼女の失墜を為さしめるであろう。

いわゆる「保守派」の特徴。

  1. ミーハー

    いわゆる「保守派」の集まりで、ちやほやされるのは、

    「有名人であること」

    「センセイ(大学教授、評論家、議員、団体の代表)であること」である。

    とは云うものの、「有名人」でも、せいぜい「月刊正論」や「WILL」で有名なくらいで、いわゆる「保守派」の「村人」以外にはほとんど知名度が無い。(残念ながら)

    で、そうではない「普通の人」に対しては、横柄かつ傲慢不遜、傍若無人、無礼千万。

    道義や礼節という語句は「我が辞書には存在しない」。

  2. 口は軽く、尻は重い

    居酒屋や保守系ネット・コミュニティ内といった「閉ざされた言語空間」では、延々と饒舌かつ高吟する。だが、尻が重過ぎるため、「それだけ」で終わる。

  3. 自分自身がどう見えるかが全て

    極私的な「美学」が全ての価値判断基準である。

    「客観性」「論理的」といった語句は「我が辞書には存在しない」。

  4. 頭も腰も高い

    プライドとボルテージばかり高いので、当然、頭も腰も高く成り、無用な衝突ばかりに明け暮れる。

  5. 組織に「依存」したいが、組織に「帰属」したくはない

    他人を指図することばかりしたがる。だから、「組織」を「指揮」したい。

    でも、部下や経理的な「責任」は負いたくない。もしくは「責任能力」が皆無。

    例えて云えば、ヤクザに憧れるのだが、組員や構成員として「使われる」のは「プライド」が許さない。

    かといって、組長や親分としての甲斐性も無いし、責任も負いたくない。

    そこで、「客分」に成りたがる。

    待遇は組長や親分と同等だが、あれこれと面倒事はしなくて良い。

    そういう訳で、いわゆる「保守派」には、組長や親分といった「指揮官」と組員や構成員といった「兵隊」が不在で、「客分」ばかりが大勢居る。

    そりゃあ、「おしゃべり」しか出来ませんわ。

     

    自分は「カリスマ」には成らない。「使い走り」に徹し切る覚悟である。

    幸い、「お前なんか保守じゃない!」と「真正保守」を自任する御仁から「認定」されたので、心置きなく「自分は保守派ではありません!」と明言出来る。

    ちなみに、「信仰」は自らが決める。

    仏教徒であるのか、クリスチャンであるのか、ムスリムであるのか。

    それは、自分自身が決めることである。

    一方、「思想信条の立ち位置」は、他人が決める。

    いくら蓮舫大先生が「保守だと思います。」と云ってのけたところで、冗談にも成らない。

    だから、周囲が「右だ」「左だ」と云うしかないのだ。

    他人が決める事柄である以上は、こちらの望んだものに成る筈が無いのだ。

    つまり、他人がどうあげつらおうが、そんなことはどうでも良い。

    天地神明と自分自身に誠意を尽くすものであるならば、それで良い。

    但し、自惚れては駄目であるが。

千代田区長選挙の結果が出た。

現職の石川雅巳の圧勝である。(残念ながら、自分の見立ては大外れだったwww)

現職な上に、「時の人」の小池都知事が付いたからだが、それにしてもあまりの「大差」である。

まだ、得票数が不明であるが、NHKなどの出口調査などを見ると、まさに石川候補・圧勝である。

むしろ、与謝野候補の支持のあまりの低さが驚きである。「候補者」として、何か「弱さ」が見られたのかもしれない。

千代田区は、有権者が6万人余りと云う、「村の選挙」で、しかも神田地区などの「旧住民」と高級マンション(コンドミニアム)の住民が多く、いわゆる「無党派層」が多い「都市近郊型」の地域とは異なる。

だが、ここまで「大差」が付いたということは、いかに小池百合子東京都知事への「風」が吹いているか、ということであろう。

あくまで、「千代田区長」という首長の選挙ではあるのだが、来たる今年7月2日投開票の東京都議会議員選挙については、重大な傾向がうかがえよう。

これだけの「大差」が付いたということは、「候補者」への投票行動と、「支持政党」が異なる状況に成ったということである。

つまり、自民党支持層が、自民党系の候補者(つまり与謝野信)へ必ずしも投票しなかった、ということである。

それは、政党が、自分たちの支持層から相当数の票が「小池都知事旋風」によって「流出」するということを意味する。

また、「村の選挙」のような「千代田区」でさえ、ここまで圧倒されたのである。

多分、与謝野選対は、相当、組織の締め付けや票を固める選挙戦を実行した筈である。

にもかかわらず、票が大量に流れてしまった。

これは「地滑り的」であり、「地殻変動」である。

多分、「都市近郊型」の三多摩地域などは、いわゆる「無党派層」が多い。

これらの人々は、マスコミの論調やネット世論の動向に「比較的」敏感であろう。

となれば、この「傾向」はさらに顕著に成ると予想される。

だから自分は事前に、「もし千代田区長選で与謝野候補が勝利しても、僅差での辛勝であるならば、都議選に於いては、自民党候補は楽観は出来ない。」と思っていた。

だが、ここまで「圧倒的」であるならば、最早「やんぬるかな」であろう。

自民党は、来たる都議選に於いて、「固める選挙」に徹すると共に、「昇り竜には逆らわない」ことである。

小池都知事に「抱き着く」しかないだろう。

なお、都議選のほとんどの選挙区は3議席から8議席までのいわゆる「中選挙区」である。

小池都知事の「御威光」で、いわゆる「小池」系の候補者が「当選1位」の指定席に成ったならば、後は、「固い選挙」の公明党が入り、残りの議席に何とか滑り込むことを念頭に於いて選挙戦略を立てるべきだろう。

これ以上の詳細かつ具体的な「提案」は、「個人的」にご依頼されたら、「ご披露」させてもらおうと思うwww

何て書いても、こんな一介の派遣労務者には、誰も相手にしてくれないだろうがwww

(付記)
千代田区選挙管理委員会の22時20分確定票数発表より。

石川雅巳(当選)・16371

与謝野信・4758

五十嵐朝青・3976

投票率55.67%(前回・42.27%)

これは、どうしようもない程の「圧勝」である。

それ以上に、「純粋」無所属候補だった五十嵐候補に票数が肉薄されている与謝野候補の票数のあまりの少なさに茫然とした。

完全に、千代田区の「自民党支持層」の票が流出している。

この「流出」の要因の、どれくらいの割合が、「小池都知事」のファクターなのか、現職・石川区長に起因するものなのか、そこのところだろうか。

だが、多分、ほとんどが「小池都知事支持」を表明するための「投票行動」なのだろう。

これが、そのまま来たる7月2日の都議選で同じ傾向と成ったならば、前々回2009年の都議選以来の「大敗」と成る危険性が予想される。

下手をすると、安倍政権にまで累が及びそうだ。


(付記)

小池百合子東京都知事は、果たしてどこを目指しているのだろうか?

自分には、東京都知事として政治生命を完結させよう、と云う風にはとても見えない。

いずれは国政に復帰を念頭に置いていると思う。それが5年先か10年先かは不明だが。

ならば、安倍総理とは、どうするつもりなのだろうか?

安倍総理との「距離感」や「意識」が、不透明である。

安倍総理と対決するつもりなのだろうか?

そうであるならば、「憲法改正」は頓挫することとなるだろう。

例え、「政治家・小池百合子」が明確に「護憲派」ではない、としてもだ。

いわゆる「憲法改正」を睨んで政治日程を構成している安倍総理と「対決」するのであれば、必然的にそうなることを意味する。

このことに、いわゆる「保守派」のお歴々は、何処まで自覚されておられるのだろうか?

都議会のドン・内田茂がどうのこうの、というレベルでしか見ていないのではないのだろうか?


もう、旧聞に属する事柄であるが、いわゆる「保守派」の方々がこの件についてご指摘をなされないので、敢えてそれがしが言及させてもらう。

日本のこころを大切にする党が、参院で自民党と「院内統一会派」を組んだ。

ついに、落着する所に落着した、ということなのだと思う。

自分は、次世代の党・日本のこころを大切にする党の「存在意義」として、「自民党よりも保守政治の野党であること」を主張して来た。

そして、いずれは、野党第一党の民進党を凌駕して、自民党との「二大保守政党制」でもって、政権を担当し合う大政党に成長して欲しいと念願していた。

だが、結局、自民党と「同道」するかたちに落着してしまった。

中山恭子先生も中野正志先生も、旧「日本維新の会」での「比例代表・当選」なので、現在の選挙制度では、自民党籍に成れないのである。

自民党に「入党」するのならば、参院議員を辞職しなければいけない。

そういう訳だから、「院内統一会派」までしか踏み込めないのである。

自分は、この「落着」を残念に思う。

残念ながら、「二大保守政党制」は、「振り出し」に戻ってしまったのだ。

何故、「二大保守政党制」にしなくてはいけないのか?

「保守政党」は自民党「だけ」でも充分なのではないか?

この疑問に対しては、こうである。

「保守政党」が自民党「のみ」であり続けるならば、「非」自民党に投票したい人々の受け皿は、「左翼党派」しか存在し得ないのである。

つまり、自民党か、左翼党派か。

そういう「究極の選択」を、今後もずっと継続させて良いのだろうか?

そこで、もう一つの「保守政党」が、自民党に対抗可能なまでの存在感を有すれば、日本の政党の対立軸は「保守対左翼」から「保守対保守」というものに変わるのである。

そして、ようやく日本の政界の中心から左翼党派が退場されることに成るのである。

いつまでも、「自衛隊は人殺し集団だ。」などという前提で国家安全保障の政策を論議する政治構造では、最早、駄目だと思う。

「振り出し」に戻った、ということは、迂遠な道を歩み直せ、ということである。

焦らず、くさらず、着実に、歩み直すより他は無いと思う。

ちなみに、こういう「指摘」を行うこと自体が、「インターネット」でさえ、憚られる「空気」が存在する。

つくづく、自分が「保守」では無いことを嬉しく思わざるを得ないwww

論争に於いて、敵が「理念」で斬り込んで来たらならば、「実践論」で対抗する。

また、敵が「実践論」で斬り込んで来たならば、「理念」で対抗する。

これが狡猾な対処法だと思う。

但し、これを多用すると、間違い無く皆から嫌われることに成るwww

トランプ米国大統領が、矢継ぎ早に「大統領令」を出している。

これに世界中が翻弄されているのだが、ここで注視したいのは、現在、地球規模で生じてきている難問、つまり、我々の取り組むべき課題と不可分であるということである。

それは「貧困」である。

勿論、「内戦」がその発端でもあるのだが、「内戦」と「貧困」は、実は「にわとりと卵」のような関係である。

どちらが先(原因)でどちらが後(結果)か、厳密には決め付けられない。

ただ、「貧困」を解決するには「雇用」しか解決策は無いのだ。

「給付金」という方法は、「緊急避難」的な解決策では有り得ても、それは多用出来ない。

何故なら、「頽廃」してしまうからである。

やはり、何らかの「勤労」が有って、そしてそれに見合った金額の報酬や賃金が与えられなくてはいけない。

「貧困」によって、生活・生存が不可能と成ったならば、人間は移動する。

そこで「移民」が発生するのだ。

つまり、「雇用」も「移民」も、その元凶は「貧困」問題にある。

だから、トランプ大統領は、明確に「米国内の」貧困問題に対して極めて重く受け止めていると云えるだろう。

確かに、アメリカという国家は、「移民」によって創立された。

だから、明確な「移民」国家であり、そのアメリカらが「移民」を拒絶するというのは、アメリカとしての「国柄」そのものを否定することに成る。

つまり、アメリカという移民国家の存在意義そのものを否定することに成りかねない。

だが、トランプ大統領が当選出来たのは、彼がいわゆる「不法移民」に対して一番強硬で峻厳な「公約」を表明したからである。

それは、アメリカ国民の「民意」であり、民主主義の結果なのである。

この「選挙結果」に対して、人権尊重を声高に主張する連中は、「レイシズム」だとか「ファシズム」だと指弾する。

しかしながら、「民主主義」の中にそもそも「レイシズム」や「ファシズム」が含有されているのだ、という「ラディカル(根源的)」な指摘までは、奴等は絶対に踏み込まない。

所詮、彼等は「ご都合主義」なのである。

「正しい民主主義」と「間違った民主主義」の「二種類」が存在する、と詭弁を弄するのである。

それはさながら、かつて1960年代に於いて、日本共産党などの左翼セクトが「きれいな核兵器」と「汚い核兵器」が存在し、「ソ連や中共の核兵器は人民の核兵器なので、平和的で正しい」が「アメリカ帝国主義の核兵器は支配者層の核兵器なので好戦的で間違っている」と詭弁を弄したのを彷彿とさせる。

「核兵器」に「きれい」も「汚い」も存在しない。

そんな有りもしない「基準」の根拠は、唯一「党派性」、つまり「セクト」の違いでしかない。

つまり、「民主党のヒラリー・クリントン」なら「正義」で、「共和党のドナルド・トランプ」なら「悪」である、と云い切ってしまえる、ということでしかないのだ。

もし、この「党派性」の違いでしかない、という自分の指摘に納得がいかないのならば、

「トランプは率直」なのである。

「率直」だから「野卑」に見えるのだ。

ただ、いくら民主主義であろうと、国家権力とは暴力装置である。

いったん稼働し始めたら、脅威に見えるのである。

何故、トランプが「脅威」なのか?

それは、米国の国民が「変化」を望んだからである。

従来の政策を転換することを選択した結果だからである。

そして、さらに、一番過激でドラスティックで峻厳で迅速であることを選んだのである。

だからこそ、共和党予備選挙に於いて、トランプが勝ち残れたのである。

世界的に見て、「民主主義」の「操作者」どもは、実際の「民意」ではなく、自分達が思い描いた「民意」を「正義」と決め付けて、それが国家権力によって「実行」されるべきであると増長している。

かの福田赳夫ではないが、「天の声も時に変な声も有る。」と云って、「民意」を否定する。

「衆愚政治」だとこき下ろす。

そんなに「衆愚政治」だと指弾するのなら、「英邁な君主による絶対王政の方が良かった。」とまで踏み込んだらよろしかろうに

 

アメリカは「移民国家」であるのだが、そのアメリカでさえ、受容される「移民」の「条件」が有る。

それは、入国し、移住する以上は、その受け入れた「国家」に対しての、明確な「帰属意識」を持つべきであろう。

ちゃんと「国民」として、「滞在人」としての「諸手続き」を正確にごまかさずに行うことである。

役所への届け出や納税である。

そして重要なのは、受け入れた「国家」や「社会」に対して「敵意」を抱かないことである。

それが保障出来ない限り、また、確認出来ない限りは、「移民」としては受容不可能であろう。

 

現在の「移民」問題の最大の特徴は、その短期間さと人数の膨大さに有る。

100年かけて1万人流入してくるのであれば、まだ、問題は生じにくい。

だが、ひと月で1万人超の「移民」が押し寄せたならば、それは「受容」不可能なのである。

そう云えば、ローマ教皇が、「各家族に、一人づつの移民を受け入れよう。」とのたまわれた。

まさに、この「認識」の甘さこそが駄目なのである。

はじめは「3、4人」の家族に「1人」の「移民」が入る。

だが、そのうち、その受け入れられた「1人」の「移民」の家族や一族が押し寄せて来て、「3、4人」の家族に「移民」が「5人」、いや「10人」、いやいや「20人」に成るだろう。

そうなったら、その「家族」の「主導権」はどうなるのか。

「多数決」の「民主主義」の論理から云っても、「移民」が握るべき、と云うことに成る。

それで、「受け入れ先の家族」が納得するだろうか?

多分、凄惨な闘争が起こることは不可避だろう。

 

もし、「移民が可哀想だから、まず、日本で受け入れるべきだ。」と云うのであるならば、「受け入れ態勢」をきちんと整備してからであろう。

まず、所管の省庁はどこなのか?

施設はどこで、予算はいくらで、受け入れ可能人数は何人までなのか?

もし、「そういう制限を課すのは人権侵害だ。」と批判するのであるならば、

「とにかく入国させてしまえ、というのは、無責任過ぎる。」と回答するべきである。

誰に対して「無責任」なのか?

それは「移民」に対して「無責任」なのである。

第一、「移民」は、日本の言語が理解出来るのか?

また、生活の基盤である住居などはどうするのか?

「着のみ着のまま」で移動して来たならば、当然、所持金もほとんど無いであろう。

「移民」に対して、どれくらいの給付金を支給すべきなのか、それらも事前にきちんと取決めをし、予算などの準備が必要であろう。

もし、「移民」が日本に入国するのならば、確実に「移民」の「人権」は「尊重」され「保障」されなくてはいけない。

そして、「移民」の「人権」を「尊重」し「保障」されるための「態勢」構築のための「準備期間」が絶対的に必要であるし、また、受け入れ「人数」の「上限」も明確に「設定」されなくてはいけない。

ただ、「可哀想だ。まずは入国させなくては。」と云うのでは、「移民」の「人権」を保障出来ない。

逆に、もし、「取り敢えず入国させてしまえ。」ということで「人権」が「保障」出来る「移民」は、果たして「入国させるべき移民」と云えるのだろうか?

単に、「入国希望者」に過ぎないのではないのだろうか?

それは「自己申告」での「移民」受け入れは「人権尊重」の「立場上」、不可能であるということを意味する。

 

繰り返し書かせてもらうのだが、「移民」の「人権」をあくまで「尊重」するのであるならば、短期間で千人単位以上の人数を受け入れられる筈が有り得ないと思う。

現に、東日本大震災や熊本大震災の避難者への対応を見ればお解かりだろう。

 

つまり、「正義」や「モラル」を情緒的に振りかざすな、ということなのである。

「人権、人権」と声高に言い立てるのであるならば、本当に「人権尊重」が為される「かたち」にしなくては駄目なのである。

それが出来もしないくせに、「可哀想だ。はやく、はやく。」と云うのは、例え「善意」であろうとも絶対に同意は出来ない。

と云うよりも、そんな無責任な「善意」こそが「始末に負えない」のである。

 

自分は「非人道的」という烙印を押されても本望である。

いくらモラリストでも、無責任な奴には成りたくないのだ。

無責任なモラリストなど、不要である。

帰宅して、家族から話しかけられる「話題」が、自分に対する「叱責」だけ。

つまり、口を開くと、「お前はあれが出来ていない。ここはどうして早くやらないのだ。」云々。

確かに、「ご指摘の通り」であり、「御説ご尤も」なのである。

けれども、話すことが、「それだけ」って云うのは、本当にうんざりするものである。

特に心身共に疲労困憊している時は、反発したり、受け流すのでさえ億劫に成るのだ。

この頃は、云われるだけ云わせて、ぼーっとしている。

そして、何の意欲も無くなっていくのである。

だから、ポロポロとつまらないミスを多発させてしまう。

便所の電灯を消し忘れたり、雨戸の鍵を閉め忘れたり。

そして、そういった一つ一つの事柄をこれまた逐一指摘され、叱責されるのである。

それでまた、心が委縮していくのである。

だから、「もう自分は若年性認知症だから。そんでもってもうじき死んでしまうだろうから。」と事有る毎に口に出している。

何と云う、駄目な応酬なんだろうかと我ながら呆れ果てているのだが、どうにもこうにもならない。

また、鬱の淵に沈んでしまいそうである。

一昨日発売の平成29年1月31日発売の夕刊フジ(平成29年2月1日付)の記事によると、都議会自民党の「会派」から「分派」した「新風」の3都議に対して小池百合子東京都知事が「苛立っている」というらしい。

何でも、ポスターで小池知事と握手する写真の下に、安倍総理の顔写真が入っているという。

さらに、自民党の党籍もそのまま。

つまり、「二股をかけている」というのだ。

まあ、確かに、今年の7月2日に迫った東京都議会議員選挙で、何とか当選したいから、そういう「あざとい」ことをした訳であるが、それをいちいちあげつらって癇癪を起すというのも辟易とする。

だいたい、真っ先に「寝返る」ような感じなのだから、そういう「御仁」に対して「旗幟を鮮明にしろ!」などと詰め寄っても詮無きことなのである。

逆に、そういう峻烈さと云うか、狭量なところが、小池百合子の周囲に人が寄り付かない所以だと思う。

やはり、自分の手下を増やしていくためには、「清濁併せ呑む」ような「度量」が広くなければ駄目だろう。

もしくは、己の足らざる分野や要素を補う「側近」が脇に居て、ちゃんと役割分担を行うべきなのである。

小池都知事の「側近」としては、かつて自民党の都議であった野田数が居るという。

野田数は、都議の頃から情熱的かつ精力的な政治家だった。

そういう意味では大変「有能」な「側近」であると云えようが、彼は元来が小池百合子の秘書である。

小池百合子の目指す方向を忖度して、鋭く突き進んで行くことは出来るだろう。

だが、小池百合子を諌めたり、宥めたりするような、そういう「老獪さ」は無いだろうし、この「若き俊英」に対して、それを要求するのは筋違いなような気もする。

だから、小池百合子が「突き進む」行為に、拍車をかけることは可能であるが、制御することは誠に困難なのではないかと自分は思う。

現在、実は「二股かけている」のは、何も自民党3都議に限らない。

都議会公明党がそうであるし、都議会の民進党も、生活クラブ生協の生活者ネットワークも、みんなそうである。

だから、「二股かけている」と指摘する者がいたとしても、「あらそう。ちゃんと当選して、帰って来て下さいね。」と一笑に付すぐらいでないと駄目なのである。

小池百合子は、希代の「勝負師」である。

だから、彼女を甘く見て、侮ってはいけない。

しかし、彼女のような「勝負師」には、多くの人は「成れない」のである。

小池百合子のような「勝負師」に徹するように、「強要」してしまえば、ほとんどの人が「脱落」することと成ろう。

「運動」を運営するにあたって、「裾野を広げる」ということが重要な事柄に成る。

そこに於いて、「運動」に参加する人々に対して、何を求め、何を守ってもらうのか。

そこが極めて重要で、また、悩ましい難問なのである。

小池都知事とその周辺が、どのようにこの「難問」をさばいていけるのか、とくと見て参ろうと存ずる。

我ながら己の愚昧さに反吐が出る思いである。

自分は、年初、自分の拙文をひとつの「かたち」にまとめようと、「自費出版」を決意した。

そこで、知り合いのつてを頼って「自費出版」の話しをお願いしたのであるが、全く進展しない。

冷静に考えれば、当然である。

無名の、しかも、学歴もみっともなく、さらに現在はペットボトルや空き缶のゴミを回収して回ったりする「派遣労務者」に過ぎない自分なのである。

そんな奴の案件など、まともに取り合ってもらえると思ってしまっている方が頭がおかしい。

だから、「自費出版」は撤回し、取り止める。

その代り、「印刷・製本」だけ行う。

つまり、「同人誌」の「オフセット印刷本」のような廉価印刷で発刊する。

自分は間違っていた。

根本的に間違っていた。

あくまで、自力で「かたち」にしなくてはいけないのである。

どこか他人に頼ろうというさもしい根性が有ったのだ。

それではいけないのである。

とにかく、自分の力で出来得るところまで「かたち」に、まず、してしまうことである。

 

先年亡くなった、アップルの創業者でありカリスマ経営者だったスティーブ・ジョブズは、iMacだったか、新製品の開発の際に、事前のマーケティングリサーチを一切行わなかったと云う。

しかも「敢えて」行わなかったと云う。

それは、「全く新しいものに対しては、実物を手にするまでは、正当な評価は下せない。だから、事前の調査を行っても意味が無い。」という論理だった。

そして、実際に、新製品をそのまま市場に送り出した時、世界中が歓声と喝采を上げ、発注が殺到したと云う。

 

まずは、とにかく「かたち」にして提示することである。

云ってみれば「試作品」「ゼロ号機」である。

「小冊子」の出来損ないみたいな代物になるだろうが、まず、それを自分の「お付き合い」の有る方々へ「進呈」させてもらうことにする。

そして、その後の「展開」は、待つしかなかろう。

「お代は後程」で、行く。

 

それで何の「展開」も起こり得ないのなら、今迄通りに、ブログをシコシコと書いていくだけのことである。

自分は別に有名人に成りたい訳でも、これを職業にしたい訳でも無い。

ただ単に、一石を投じてみたいだけなのだ。

そして、それによって、じぶんがお手伝い出来ることが広がれば良い。

ただ、それだけなのだ。

もし、「お呼びで無い」ならば、今のまま「ひっそりと咲く」だけのことである。

現在、田中角栄ブームである。

田中角栄は、自分の子供の頃には既に金権政治の闇将軍だった。

だが、彼のキャラクターには魅かれていた。

某民放番組で、田中角栄とそれを巡る「政局」を、当時のニュース映像を編集していたが、田中角栄には、かの映画「スター・ウォーズ」のダース・ベイダー卿のテーマ曲がBGMで流された。

とても様に成っていたのを憶えている。

何故、没後20年も経った、既に「歴史上の人物」である筈の田中角栄がブームなのだろうか?

一つの視点としては「大東亜戦争敗戦後」の「戦後日本」の「象徴」であったとも云えよう。

つまり、田中角栄を「懐古」するのは、「戦後日本」を「懐古」しているのかもしれない。

だが、自分はそうは思わない。

むしろ、田中角栄「的」な高湿度な政治家が死滅し切ってしまい、まさに「一周回って」その「特質」に「新鮮」な魅力を感じたのであろう。

つまり、現在の田中角栄ブームというのは、「懐古」ではない。

「再発見」なのだと思う。

特に、今の若い世代の方々が田中角栄の魅力を「再発見」した気持ちは解らないでもない。

事実、田中角栄は、明確に「魅力的」だからである。

だが、田中角栄は、結局、自らの政権は2年ほどという短期間でしかなかった。

しかしながら、その後は、大平・鈴木・中曽根(の前期のみ)の各政権で、決定的な影響力を行使した。

「角影内閣」や「直角内閣」などと揶揄された。

この、田中角栄という自民党内の「最強実力者」が、実は閣僚でもなく、自民党の役職も無く、さらに党員ですらなかった、ということの「異状さ」が日本政界の「悲喜劇」とも云えよう。

つまり、政治権力の「二重構造」に成ってしまったのである。

それは、さながら平安時代末期に、天皇の位を退いた上皇や法皇が「院」と成って、政治的実権を掌握してしまった事例に酷似していた。

この「院政」は、政治的決定が解りにくい上に、政治的責任の所在が曖昧に成ってしまうものであった。

「院政」とは、その政治のやり方が融通無碍であると同時に、政治的頽廃をも意味した。

だから、田中角栄は、本当は他人に総理をやらせないで、いっそのこと返り咲いたら良かったのである。

この、「権力の二重構造」は、竹下登内閣がリクルート事件で倒れた後は、実に小泉純一郎内閣まで、その濃淡に差は有ったものの、ずっと継続してしまったのである。

内閣総理大臣が決めたことがひっくり返る。(細川内閣の国民福祉税)

内閣総理大臣よりも党幹事長の方が実力者。(海部内閣、宮澤内閣と小沢一郎、橋本内閣と梶山官房長官、小渕・森内閣と野中広務など)

つまり、総理大臣の力が決定的に成ったのは、実は小泉内閣と第二次安倍内閣ぐらいなのである。

この「権力の二重構造」の「害悪」の発端こそが、田中角栄であったのである。

 

また、田中角栄が再度、総理に成れなかったのは「ロッキード事件」の問題が尾を引いていたからである。

この「ロッキード事件」は、今現在も不可解な点が多いのであるが、この事件の「引き金」はアメリカであった、と云うことは最低限云えると思う。

つまり、田中角栄のいわゆる「田中型政治」は、日本国内では「有効」であったものの、国際政治に於いては「無効」であった、と云えると思う。

自分は、政治学を専門に学習してこなかったので、敢えて独断と偏見で書かせてもらう。

田中角栄の手法が日本国内では極めて有効で、国際政治では精彩を欠いたのは何故か?

それは、田中角栄の政治手法は「みんな仲良く上手くやっていこう」という融和的な性善説に基づくものであったからだと思う。

実際に、田中角栄は、「敵をなるべく作らない」ことを第一にしていた。

だからこそ、田中角栄は、他の派閥の政治家はもとより、野党の政治家からも頼りにされたのである。

だが、国際政治に於いては、それはさながらカール・シュミットの「友・敵理論」の如く、敵味方を峻別するものであった。

「まあまあ、そこを何とか。」などと誤魔化しが通用しなかったのである。

国際政治に於いては、喧嘩しながら握手の好機を見出そうと必死に凝視しているのがごくごく日常であったのである。

だから、田中角栄の系譜の政治家が、国際政治に於いて、全く精彩を欠くのは、そのためである。

金丸信の北朝鮮、竹下登のプラザ合意など。

むしろ、敵味方を鮮明にした、中曽根、小泉、安倍の各内閣が国際政治に於いて評価が高いのは、そのためであろう。

田中角栄ブームに只今興じるのも自分は面白いとは思う。

だが、最早、我々は「田中角栄」の再来や再臨を求めてはいけないのである。

我々は、「田中角栄」の強さと弱さを、今、明確に学び直さないといけないのである。

それは田中角栄への傾倒ではなく、超克である。

田中角栄を全部否定するには、彼はあまりにも魅力的過ぎる。

とは云うものの、今更、田中角栄と同じことを繰り返すことは出来ないし、繰り返してはいけないと考える。

これは、何も「田中角栄」に限定されるものではない。

「歴史」から学ぶ場合に、全てに対して通じることであると、自分は思う。

自分は小池百合子東京都知事を軽視してはならないと思う。


小池都知事は、自己演出に秀でている。

つまり、「大衆」を「常に」意識した立ち居振る舞いをしているのだ。

これを「あざとい」とこき下ろしてしまうことは出来る。

だが、日本の政治家は、明確に、「大衆」を意識しようという意欲に欠けるのだ。

自分の「語りたい」ことばかりを「語り」、そういう言説に対して賞賛するごくごく限定的な「支持者」しか眼中に無い。

だからこそ、小池百合子は希少価値が有り、際立って見えるのである。
「大衆迎合」をポピュリストと云う。

だが、現在の日本の選挙制度が「普通選挙」である限り、「大衆」に「支持される」という「政治的条件」は絶対に軽視してはならないのである。

もし、「大衆」に「支持される」ということから逃避したり、無視したりするのであれば、それは結局、「技術論的」な集票・得票手法を駆使することによって選挙で当選することを実現しようということになるだろう。

「大衆」に迎合し、媚び諂い、阿諛追従して選挙に当選する。

「大衆」を焚き付け、煽動し、選挙に当選する。

「大衆」を無視し、選挙に当選するために最低限必要な得票数を確保するための「選挙技術」(テクニック)を駆使して選挙に当選する。

結局、どれも全て「あざとい」のである。

何故、「あざとい」のか。

本当の意味で、「大衆」と真摯に向き合っていないからである。

昨今、田中角栄ブームと成っているが、彼の演説がとてつもなく魅力的なのは、彼は本当に「大衆」が大好きで、「大衆」に溶け込もうという「気持ち」が有ったからであろう。

そして、その「気持ち」から「選挙技術」が生まれたのである。

一方、小沢一郎は、田中角栄の秘蔵っ子であったが、結局、彼から絶えず側近たちが逃げ出してしまう様を見ると、彼は「人間」があまり好きではないのだと思う。

だから、「大衆」に対する「気持ち」が欠落していて、ただ単に「選挙技術」だけで回転しているだけなのだと思う。

小沢一郎も小池百合子も、「上手だね。」と感心は出来得るのだが、田中角栄のように心底魅了されることは無い。

 

ただ、小池百合子は「上手さ」の他に、「覚悟」が有る。

勝負師としての「肚」である。

当初、東京都知事選挙に一番最初に出馬の名乗りを上げた時、果たして「勝算」は有ったのだろうか?

実は「勝算」は五分五分だった。

さらに、もし落選すれば、例え国会議員として返り咲くことが出来たとしても、最早「その他大勢」に埋没する危険性が有った。

勝てば「飛翔」出来るが、負ければ「孤立」し、「埋没」する危険性が有った。

にもかかわらず、「勝負」したのである。

この「勝負師」としての「肚」は、なまなかな人物では到底持ち得ない。

ただ、この「肚」は、論理的ではない。

論理を超えた、超「論理的」な人物でないと備わらない。

この超「論理的」であることが、実は問題であるのだ。

超「論理的」であることで、一時の目覚ましい快勝を得ることは出来得る。

但し、後は泥臭いまでの地道な合理的な戦法を積み重ねていかないと、最後の最後で足元をすくわれるのである。

小池都知事は、多分、自分の「手法」が「あざとい」ことを自覚していると思う。

そして、「あざとい」ことを解っていながら、敢えて、突き進んでいるのであろう。

ただ、己の「あざとさ」が、どれくらいの「代物」であるのか。

つまり、「あざとさ」の自己認識の「深さ」が問われてこよう。

もし、小池都知事が、己の「あざとさ」の自己認識が深層まで達しているのならば、「小池劇場」は破綻を免れることが可能かもしれない。

だが、己の「あざとさ」に耽溺したり、陶酔するように到ったならば、そこで「政治家・小池百合子」は「死滅」することと成ろう。

 

小池都知事の「都民ファースト」という「姿勢」の中に、「都民」という「大衆」をだしにして上手く立ち回ろうとしているのではないだろうか?という一抹の疑念を感じてしまう自分は、やっぱり、性格が悪過ぎるのだろうか?

(付記・平成29年2月10日)

元・陸自一佐の佐藤和夫先生が嘆いておられる。

都議会の共産党とも手を結ぶこともためらわずに自らの権勢を追及するような小池百合子東京都知事に対して、公明党も民進党も、さらに自民党まで擦り寄り、迎合している。

こんな小池都知事と対決する気骨有る「人物」はいないのか!と。

 

さて、「小池百合子」とは何者だろうか?

端的に云うと、彼女は「太陽」ではない。

彼女は「月」である。

実は、彼女は「自分自身」で輝くことは出来ないのだ。

つまり、何処か他所から光を当ててもらわないと輝くことは出来ないのである。

具体的に云うと、「強大」な「敵」と対決する「構図」に持ち込まなくては、彼女は絶対に輝いて見えないのである。

しかしながら、真の「強大」な相手と戦えば、彼女は完膚なきまでに叩き潰されてしまう。

だから、小池百合子は安倍政権で「冷や飯」を食わされていたが、野田聖子のように勝算が皆無な勝負は絶対に挑まなかった。

だが、いったん「いかにも」という「対立構図」を演出して、リングに持ち込むことが出来れば、みるみるうちに彼女の独壇場と成る。

「対立構図」を演出する手法は、かつて細川護煕、小沢一郎、小泉純一郎から会得したものである。

とは云うものの、小泉純一郎は「超」論理的な、いわば「動物的」な天性の勝負勘で戦ったが、小池百合子は、あくまで打算的に戦っている。

そこがしたたかで誠に抜け目の無いところであるのだが、一方で、小泉純一郎のような得体の知れない、訳の解らない超絶的破壊力を保持してはいない。

どうしても「巧さ」もしくは「あざとさ」ばかりが目についてしまう。

と同時に鼻につく。

現在、小池都知事は「昇り龍」の如き「勢い」が有る。

彼女自身の意図した計算がツボを得た訳であるのだが、それ以上に、東京五輪や豊洲市場移転問題のあまりの杜撰さが、本当に「僥倖」であった。

そういう意味では、彼女は打算と覚悟でツキを引き寄せたのである。

しかしながら、「禍福はあざなえる縄のごとし」であるし、「満ちれば欠ける」とも云う。

ここで有頂天に成って傲岸不遜と成れば、「高ころびに、あおのけに転ばれ候ずる」であろう。

小池都知事の「急所」は、周囲に「人物」が存在しない、ということに尽きる。

まあ、これ以上は、自分は政界の「インサイダー」ではないので、何とも云えないのだがwww

小池都知事の周辺に「人物」がいないということは、追い風がやみ、勢いが止まった途端、足元が揺らぎだす、ということである。

その時こそ、「鍍金(メッキ)が剥げる」瞬間だろう。

小池百合子は、敵と味方を「仕立て上げ」、その「対立構造」の中で、自らの輝きを放っている。

ならば、敵と味方が曖昧糢糊と成った、混沌とした状態に成れば、彼女は明瞭な光を放つことは困難と成る。

小池百合子の政治的担保は、大衆に明快な「分かりやすい構図」によって派生した「大衆からの支持」である。

それは即ち「人気」である。

「人気」とは、渦であり、波であり、突風である。

その勢いたるや激烈で、破壊力は凄まじい。

しかしながら、それは誠に移ろう安く、時と情で変転する。

いつまでもその「人気」は永続しない。

その「人気」を管理、維持、制御しようとするならば、脚光を浴びる「アイドル」だけでは不可能である。

「パンとサーカス」は古代ローマ時代からの大衆政治の「基本」であるが、真の「統治」には、これだけでは不充分なのである。

小池都知事に、その「足らざる」要素を補填出来得るのかどうか?

もし、出来ないのならば、いずれ、きっと、時が彼女の失墜を為さしめるであろう。


時々、二十代三十代の方々と会話する機会が有ります。

そこで、何気無く自分が話した「話題」で、相手がきょとんとすることが有ります。

「へえ、そんなんですか。知りませんでした。」や

「それは何ですか?」だったりします。

そうなると、持ち前の「お節介」が炸裂して、「説明」が始まってしまうのであります。

考えてみれば、自分も最早、若く無いのです。

既に、職場や組織に於いては、管理や指導を担当する「位置」についていても良い年齢に成ってしまったのです。

自分は、まだまだ「修行の身」だとおもっていたのですが・・・

ただ、どうなんでしょう?

若い方々は、こんな「年寄りの昔話」を聞かされて、かえって迷惑なんじゃないでしょうか?

だから、自分は一生懸命「説明」しながら、必死に成って若い方々の反応を探っています。

もし、迷惑な感じであるならば、無理やり途中で打ち切るようにしています。

この頃は、なるべく長く話さない方が良いのではないか、と反省しています。

どうしても云いたいことが有るならば、幸いなことに拙ブログが有るので、そちらに鬱憤をぶちまけています。

その方が、構成もしっかり出来るし、事実関係も確認出来ますからwww

ホリエモンこと堀江貴文が新著「僕が漫画をひたすら読む理由」を出した。
本著での「これからの仕事の発端は遊びに有る」という指摘は重要。
ちなみに、歴史家で哲学者であったヨハン・ホイジンガが「ホモ・ルーデンス」(遊ぶ人)と定義づけている。
また平安時代後期の「梁塵秘抄」では、
「遊びをせんとや生れけむ、戯れせんとや生れけん、遊ぶ子供の声きけば、我が身さえこそ動がるれ。」と有る。「遊ぶ」とは何か。
興味と好奇心によって、利害・損得を超越して、面白がることに没頭すること。
だから、あまりに生真面目過ぎると「遊ぶ」ことが出来ない。
日本人はもっともっと「不真面目」に成るべきだと思う。(ただ、あんまり「不真面目」が過ぎると、自分のようなポンコツに成り果てるので、ご用心、ご用心www)


「遊び」とは、プロジェクトのきっかけなのだと思う。
つまり、「何かこんなことをしてみたい!」という「動機付け」なのだ。
それがあらゆるものごとの「推進力」に成る。
但し、「遊び」が「仕事」に転換するには、単なる「面白さ」だけでは駄目である。
明確な「成果」が必要不可欠と成る。
それが利潤であったり、収穫であったり、使命達成であったりする訳である。
「遊び」も、不確実性を不問にするものであるならば、感情の赴くままで良い。
しかしながら、「遊び」も明確な着地点・到達点が認識され、指定されるならば、そこには冷徹な計算と運営、つまり「経営」が必要不可欠と成る。
具体的に云えば、「お祭り」は、ただ単に熱狂するだけでは成立しない。
事前に、綿密で緻密な準備と打ち合わせを構築して、ようやく成功出来るのである。
パッション(情熱)とロジック(論理)を編成して、ようやく全体が組み上がるのである。
だからこそ、「冷徹な熱狂」が希求されるのである。
そして、「遊び」が「経営」され、後は、それを日常に於いて恒常化出来得れば、それは「産業」に成り得る。
つまり、「遊び」が「仕事」に転換されることが可能と成ると云えよう。

平成29年1月29日、何気なく、朝、NHK総合TVの「サキどり」を見ていたら、唸ってしまった。

デザイナーの太刀川瑛弼がゲストだったのだが、とにかく凄い。

「デザイナー」という「肩書」ではあるのだが、世間一般の「デザイナー」という「認識」の枠組みを遥かに凌駕している。

云ってみれば、「美的感性によって最適な造形を実現する」という「作業」に限定されず、総合的な「プロデューサー」と呼ぶべきであろう。

彼は、「プロジェクトの全体像からデザインを考える。遠いとこから近いところを作っていく。」と云う。

世の中には凄い人が居るものだとつくづく感心した。

ちなみにネットで調べると、1981年生まれで、慶應義塾大学で建築を学んだと云う。

彼がスペシャリスト(専門職)と云うよりもゼネラリスト(総合職)としてのものの捉え方、考え方をしている理由が、これで解った。

「建築」という業務は、単なるアート(芸術)では完成出来ない。

イメージやプランを具体化し、作業工程監督まで視野に入れて思考しなくてはいけないのだ。

そして、「建築家」は、空間認知能力、時間管理能力、経営能力が必須であり、それらを統合し制御するには、明確な「哲学」が必要である。

と云うよりも、「哲学」が涵養・熟成されていくのであろう。

だから、「建築家」は必然的にゼネラリストに成らざるを得ないのだ。

いにしえのレオナルド・ダ・ヴィンチや弘法大師・空海がそうであり、先日世界遺産に指定された建築物の作者ル・コルビジェがそうであった。

日本でも、建築家の黒川紀章も思想家としての一面を有していた。

最晩年の政治活動は、あまりに狂騒的でびっくりしてしまったが・・・

それはともかく、「1981年生まれ」と云う。

自分より10歳も年下である。

まさに「後生畏るべし」である。

というよりも、自分は何なんだろう、と悲嘆するしかなかった。

皇室典範改正は、「戦後レジーム克服」でも「米国占領下からの主権恢復」でもありません。
それは「近代の超克」と云えますが、「西欧=近代」という図式に留まりません。
西欧とそれを意識して建設された「近代国家・日本」をも含めます。
つまり、皇室典範改正の問題は、いかに「近代国家・日本」を総括し、超克するのか。
そこにかかってきます。
「対米」だけの問題意識ならば、重大な欠陥だと思います。

ようやく金曜日の夜を迎えた。
現在は、土日は仕事を入れていないので、明日はお休みなのだ。
だから、正社員だった時の頃を思い出している。
かつて、土日が休みだった頃、そろそろ心身共に疲労してきたと感じてカレンダーを見たら、
「え、まだ水曜日じゃないか・・・」。...
その時の実感から、
「一年は短いが、一週間は長い」。
情けないことに、年々、この傾向に拍車がかかってきている。
気が付けば一年などみるみるうちに過ぎ去ってしまう。
その一方で、心身はガタガタでどうしようもない。
昨年は、情けないことに、自分から計画的に布石を打って来た感じではなかった。
ただ、様々な素晴らしい方々から御縁を頂戴し、その出会いの中から、その時その時を自分なりに一生懸命に勤めさせていただいた感じである。
昨年末、昨年の一年間を振り返って反省をした。
で、新年が開けてから、少しずつ布石を打ち始めてみた。
だが、路が開けてきたのか、むしろ隘路に窮しているのか、判断がつかない。
疲れ切ってくると、どうしてもネガティブな方に引っ張られるので、
「馬鹿の考え、休むに似たり」と割り切っていくように努めている。
或るお方に云わせると、
「今、お前はたくさんの歯車を掻き集めている段階なのだ。
だから、いくら歯車をフル回転させても、空回りしているばかり。
だが、掻き集めた多数の歯車が一気に噛み合った時、決定的な変化が起こるだろう」と。
このご指摘に対して、自分は「はあ、そうですか。」としか、反応のしようがない。
どちらにせよ、日々、自分の出来ることを懸命に行っていくしかないのだ。
明日は、1月28日である。
不動明王の御縁日で「初不動」である。
また、8のつく日は鬼子母神の御縁日である。
また、平成29年西暦2017年の1月28日は「春節」だという。
関帝廟や媽祖廟ではお祭りである。
どこか気晴らしに出かけるかな?

「働き方改革」の一つとして、「なんとかフライデー」というのが、来月から実施されるのだそうな。

なんでも、金曜日は午後3時に仕事を切り上げて、退社させるそうな。

で、金曜日の夕方から土日と「休ませる」ようにするらしい。

まあ、そんな大そうな代物は「正規雇用」の方々しか対象ではないので、自分にはどうでも良いことである。

とは云うものの、ちょっと気に成るのは、この「なんとかフライデー」とやらの導入にあたっては、旅行業界やらレストラン業界やらが「新たな商機到来!」と色めき立っているそうな。

何だ。

結局、飲食業などへお金を使わせるための制度なのかい。

「お金を使って下さい。」というのであれば、自分など、尚更、無縁である。

だって、そもそもお金が入って来ないのだもの。

多分、世の中の相当多くの方々が同様だと思う。

現在の我々の社会は、働けるだけ働かされて、なるべく賃金は支払われないような風潮なのだ。

そんな社会の現状だから、お金を使おうにもお金を使う時間が取れない。

そして、肝腎のお金そのものが手元に乏しいので結局お金を使えないのだ。

だから、多分、金曜日の夕方に、いつもより早めに帰宅して、ぼーっとテレビやらネットを見ているか、ゲームでもしていることに成ると思う。

その一方で、金曜日は早めに仕事を終了「させられる」わけなので、その分の仕事量は、他の平日の間に押し込まれることに成る訳だ。

ようやく「残業をするな!」という風潮に成ったのは喜ぶべきである。

ただそれは、

「残業代を払いたくない」であり、

「監督官庁や世間から批判されたくない」というだけのこと。

「仕事量」そのものはまるで「変化無し」なのだ。

今後、時間あたりの仕事量の「効率性」「密度」が問われて来ると思う。

だが、「仕事の現場」は、「気合いと根性で何とかしろ!」と云った感じの「精神論」とさえ呼べないようなお粗末さ。

これじゃあ、切迫感と焦燥感に追い立てられてパニックに追い込まれる人が続出すると思う。

そう思うと・・・・

いやあ、「なんとかフライデー」とは無関係な派遣労務者でつくづく良かったなあ、自分はwwwww

自分が感じるのは、何故、監督官庁が音頭を取って、一斉に「休業」させないといけないのだろうか?

極論を云えば、民間企業の職場の一つ一つのことまで、何故、監督官庁に指図されなくてはいけないのだろうか?ということである。

何時から何時まで働き、何日休む、ということは、職員ひとりびとりが決めるべきであって、それを監督官庁に指導されたとおり従うというのはいかがなものか?

いや、別に、只今現在の現状のままで良い、ということではない。

現状があまりに酷過ぎる上に、その閉塞と停滞を打破する意欲も可能性も皆無であるということが情けないくらい酷過ぎるのである。

それこそ、「流れ作業」で、チャップリンの喜劇映画「モダン・タイムス」のような一斉作業を行う職場労働環境では、最早なくなりつつある筈であろう。

既に、職種によっては、自宅から得意先へ「直行・直帰」で、タブレット端末やスマホを通じた遣り取りで事足りる人も居る訳である。

経費の精算も、わざわざ事務所まで出向く必要が無くなってきている。

「会議」にしたって、どうせ居眠りをする参加者が続出するくらいならばラインで十分なのではないのか?

自分は現在、しがない派遣労務者に過ぎないのだが、時々「ゴミ回収」でオフィスに入ることが有る。

そこで感じるのは、「静かさ」である。

かつて、事務所はこんなに「静か」ではなかった。

というのは、電話でのやりとりが主であったからである。

電話といっても、お客様との「外線電話」だけでなく、本社内他部署や他営業所や物流倉庫、製造工場、研究開発研究所などへの「内線電話」をかける回数も膨大であったのだ。

だから、事務所内では、「もしもし、あのね」といった言葉がそこらじゅうで飛び交っていたものであった。

だが、現在は、そういうやりとりは全部メールに変わってしまった。

今や、オフィスは、精神的に不快な程、静か過ぎる環境に変わってしまった。

そのため、ラジオや有線放送を流している職場も有る。

自分は、多分、ADHDであるということもあるのだろうが、ラジオを聞きながら仕事をすることが嫌である。

集中出来ないからである。

それはさておき、そんな静かなオフィスである。

仕事は、事実上、各人が孤立したかたちで、それぞれ従事しているのである。

一斉に始業して、一斉に終業するというやりかたでは最早なくなっているのだ。

にもかかわらず、各人の仕事の「裁量権」が無く、また各人の自由な勤務体系が許されないのは何故なのか?

それは、各人の「裁量」に任せたら、仕事に成らないからである。

何故、各人の「裁量」に任せたら仕事に成らないのか?

仕事に関して、全てのことがらが曖昧だからである。

仕事の目標、手順、意義、それらが明確に成っていないからである。

つまり、仕事の枠組みが明確にされていないから、職員全員に提示出来ないのである。

だから、職員は、絶えず上司や先輩が何を「云いだす」のかをビクビクしながら仕事をしているのである。

一方、「ダメ出し」や新たな指示を出す上司や先輩も、感覚的なかたちで行っている。

「そろそろ棚卸しをするか。」

「例の資料、近々に作っておいてくれ。」

などなど。

全く以て、杜撰である。

具体的に指摘させてもらえば、この「資料を近々に作っておいてくれ。」という指示であるが、まず、

資料の内容がいかようにも解釈可能である。

また、資料のボリュームも不明確である。

A4一枚で何文字何行の設定なのかも不明であるし、それが5枚分なのか10枚までいくのかも不明。

文章だけで良いのか、然るべき数値データが必要なのか、数値データ必要ならばグラフ化するべきなのか、写真やイラストも必要なのか、全部が不明である。

また、資料を何部用意しておくべきなのか。

会議資料にするのか、記録用として「持ち出し禁止」「社内資料」で一部だけで良いのか。

作成した資料は何処で保管するのか。

作成者の個人ファイルなのか、共有ファイルなのか、印刷してファイルにとじ込んで所定の場所に保管するのか。

そして、作成締切期日時が不明である。

会議資料であるならば、その会議が行われる時間の前に出来上がっていなくてはいけない。

また、資料を事前に精査した上で承認し、はじめて配布なのかどうかなども不明。

要するに、仕事を頼む方も請け負う方も、「何となく」なのだ。

具体的でないし、明確でないのである。

だから、必然的に時間がかかるのである。

仕事を頼む方も、これをこうしていついつまでにいくつ作れ!と誤解も解釈も生じようが無いくらいきちんと決めておかなくてはいけない。

また、仕事を請け負う方も、ちゃんと確認を取って、間違いが生じないようにしておかなくてはいけない。

そして、事前に、仕事に関して具体的で明確な合意と決定がなされていれば、あとは各人がどんな勤務体系であろうとも仕事は回っていくのである。

既に自分は別記先述しているが、日本の職場には、あまりに「不立文字」「以心伝心」の要素が強過ぎるのである。

いわば、「ノリで」「その場その場の雰囲気で」「何となく」やってしまっているのである。

これでは、さながらジャズのセッションのようなもので、演奏者全員が絶えず神経を張りつめながら即興演奏をお互いに組み込んで行くかたちになる。

だから、「全員一緒で一斉に」という「かたち」でないと収拾がつかなくなるのである。

ならばどうしたら良いのか?

「業務の明確な言語化」である。

きちんと業務に関して、言葉で説明出来るようにするのである。

言葉にする、ということは、意識の共有化でもあり、誤解発生防止でもあるのだ。

だから、仕事に関するあらゆる事柄を具体的で明確化するように成れば、おのずから仕事の効率性は向上し、勤務時間は短縮可能であると思う。

 

そんなに、「早く退社せよ」「働き過ぎるな」と云ったところで、仕事に関して訳の解らない感覚的な指示ばかりであったらならば、そんな命令は絶対に守れる筈がないのである。

 

うむ、やっぱり自分はしがない派遣労務者であってつくづく良かったと思うなあwww


今日も派遣労務者としてのお仕事。

トラックに同乗し、空き缶や空ペットボトルでパンパンに膨れ上がったゴミ袋を回収して回った。

まさに、見るからに、ポンコツのおっさんである。

ただ、そんなポンコツのおっさんなのだが、実は頭の中では、今夏の都議選と多分今年中に行われるであろう解散・総選挙のことでいっぱいなのだwww

どうしたら良いのだろうか?

どうすべきなのだろうか?

そんなことを仕事をしながらあれこれと考えていた。

ま、身分不相応なのだから、傍から見ている人は、誰も自分がそんな奴だなんて絶対に思いもよらないwww

勿論、一緒に同乗して働いているドライバーさんも。

そう考えると、・・・・・楽しいwww

和歌山県有田市の石油コンビナートで大規模な火災事故が起きた。

幸い、怪我人や死者は出なかったようであるが、一時は周辺住民2千人強が避難する事態と成った。

自分も、5年間、いわゆる石油製品を扱う工場で勤務していたので、「安全衛生」に対する取り組みについては体験している。

通常の勤務状況であるならば、あそこまでの大規模火災事故など起こる筈が無いと思う。

そのための様々な対策と防止設計を行っているからである。

にもかかわらず、あのような大規模火災事故が起こり、しかも直近の数日前にも小規模な火災事故が起きていたという。

自分は、詳細な状況が全く解らないのだが、多分、この事故の原因は「人災」だろう。

しかもその根本原因は、「人手不足」だと思う。

安全衛生に関する「人員」が過小となったり、現場作業従事者の安全衛生に関する取り組みが頽廃したのだと思う。

どうしても、「経費節減」ということになると、人員を減らすことになる。

そして、少ない人員で無理筋の作業工程や安全衛生対策を行うと、実施項目を勝手に省略したり、疲労困憊と焦燥感から危険な兆候を見逃してしまったりしたのだと思う。

つまり、「儲けを出そうと無理をして、かえって高くついた」訳である。

一事が万事、皆、そうである。

人員を減らす。

正社員の人員を減らす。

一人の勤務時間が長時間に成る。

だから、何時まで経っても仕事が終わらない。

そういうことなのだと思う。

自分もかつては、17年間も「会社」に「しがみついて」来た人間だった。

だから、よく解る。

しかし、今、一介の派遣労務者に成ってから解ったこと。

それは、心身がボロボロに破壊されるまで働かされる職場など、直ちに退職すべきだと思う。

どうせ、これからの時代、余程、仕事の能力が有る人以外は「管理職」や「経営陣」には成れない。

もっと云えば、「正規雇用」にも成れない。

勿論、薄給で貧乏だし、自分の将来像など思い描けないかもしれない。

だが、最早「諸行無常」の「激変期」に突入したのだ。

かの「からくり儀右衛門」が創立した東芝が、今、消滅しようとしている。

東芝の経営陣は、高をくくっていたのだろう。

「我が社は原子力発電など、国家に関わる事業をしている。だから、潰されるようなことにはならない!」と。

だが、皮肉なことに、「国策」に密接な「原発事業」を行っているために、全社丸ごと「買収」されることが出来なくなった。

現在、東芝ほどの大企業を買収しようとするのは、華僑系の企業ぐらいしかいないのだろう。

だから、東芝は、各部門をバラバラに解体されて、三菱重工や日立製作所などに呑み込まれていくことに成るだろう。

かつての三洋電機も消滅してしまった。

世界に冠たる大企業が、国家の建設に携わった大企業が、一時代を主導した大企業が、いとも簡単に消滅してしまう、恐ろしい時代に突入してしまったのである。

そう考えると、大企業の正社員でエリートの御仁も、自分のようなポンコツ派遣労務者も、「板子一枚下は地獄」という点では、実はほとんど変わらないのだ。

そして、「一寸先は闇」という点に関しても。

これからは、何を頼りとし、何を目指して生きていけば良いのだろうか?

少なくとも、何となく、惰性で生活していたら、失望や驚愕する事態と成るのだろう。

絶えず、意識をすることを自らに課し、緊張感を持って生きていくこと。

そうしないと、泣きを見ることに成るのだろう。

ただ、自分の命を明確に意識して生きていくということは、そういう「しんどい」ものだと思う。

但し、「しんどい」連続の中からしか、「生きている」という実感と「生かされている」という喜びと感謝は得られることは無いと思う。

ドナルド・トランプがアメリカ合衆国大統領に就任して二日経った。

アメリカ国内はもとより、世界中で「反トランプ」のデモが湧き起こっているという。

NHKや朝日新聞は、これを大きく報道している。

だが、自分はこの世界の「動き」に違和感を禁じ得ない。

確かに、デモや集会は「表現の自由」であり、また、トランプ大統領は、「大統領らしからぬ野卑な言葉づかい」である。

女性、黒人、移民、LGBTなどへの傍若無人な物の云いようは批判されても致し方なかろう。

だが、トランプ大統領は、「民主的な大統領選挙」に勝利し、当選し、大統領に就任したのである。

いくら「総得票数ではトランプは少数派だ!」と声高に主張しようとも、「合衆国」を構成する各「州」の代表である「代議人」の「人数」によって、トランプ大統領は誕生したのだ。

「選挙制度」について、いくら言挙げしたところで、それはドナルド・トランプを毀損することにはならない。

それは、アメリカの「民主主義」そのものを貶めることにしかならないのである。

「反トランプ」のデモの光景をTVで見る限り、感情的な、もっと云えばヒステリックなものでしかなかった。

まさに「反知性主義」そのものが具現化したように感じた。

ドナルド・トランプ大統領に対して、素直に支持出来ない気持ちは解らないでもない。

だが、だからといって、選挙で合法的に選出された大統領に対して、感情的な批判ばかりを繰り広げるのは、ドナルド・トランプへ投票した人々への侮蔑でしかなかろう。

また、アメリカ以外の国々での「反トランプ」の示威行動は、それこそ「内政干渉」でしかないのではないのか?

自分は、あまりに声高に「反トランプ」を訴求する「流れ」に、どうしようもない「胡散臭さ」を感じる。

そしてまた、この「反トランプ」の示威行動は、トランプ政権を「制御する」ことへ全く作用しないだろう。

むしろ、「親トランプ」「トランプ支持者」の人々の気持ちを頑なにさせるだけである。

結局、トランプ大統領は、「本当の支持者はこんなに居るのだ!」と開き直るだけである。

トランプ大統領就任に対して、ここまで金切声をあげるのであれば、ロシアのプーチンが大統領に再選された時にも同様の抗議デモが繰り広げられて当然であろう。

さらに、北朝鮮の金正日が死去し、「社会主義国家」でありながら、「世襲制」でもって金正恩が「国家指導者」として就任したことへも、やはり同様の抗議デモが起こされるべきであったと思う。

何のことは無い、「反トランプ」デモとは、単なる「気分」なのだ。

トランプ大統領によって、この世界が「闇に包まれる」とでも思い込んだのだろう。

だから、その批判に論理性が見受けられないし、さらに、この「反トランプ」デモからの「次の段階」への行動戦略指針も全く不明なのである。

自分はこれに、どうしようも無い程「既視感」を憶える。

2年前の、いわゆる「安保法案」を「戦争法案」と誹謗中傷して、国会周辺に蝟集した「新しい民主主義のかたち」の者どもである。

結局、彼等は、そしてその「新しい民主主義のかたち」は、2年後の只今現在、いったい、我々に何を残してくれたのだろうか?

それは、日本共産党の「抱き着き戦術」による、民進党への「野合」を「野党共闘」と云って正当化しているだけに過ぎないではないか。

ちょっと、世間一般大衆の知的レベルを軽く見過ぎているのではないだろうか?

「大衆」とは、或る時は愚昧さを露呈するが、或る時は怜悧な判断を下すものである。

だから、真の冷徹な「革命家」は、「大衆」へ「全て」を委任することは絶対にしないのである。

書店でADHDの新書を立ち読みした。

新潮新書「ADHDでよかった」立入義勝・著。

その中で、ADHDの典型的な例として、「三国志演義」の蜀の軍師・ホウ統士元が出ていた。

彼は早逝してしまうのだが、実は、かの諸葛亮孔明と同等の能力を有した軍師であった。

孔明を「伏龍」と表現すると、「鳳雛」と評された。

彼は、身なりが冴えないので、周囲から見くびられていた。

また、蜀に召し抱えられても、毎日毎日酒を飲んでばかりいて、一向に仕事をしない。

何時しか、彼の机の上には、決裁しなくてはいけない書類が山盛りに成ってしまった。

ところが、或る日、彼は突然、書類に目を通し始める。

すると、異常な速さで、てきぱきと書類を片付けていき、ついには、山盛りに成った書類を全部片づけしまったというのである。

多分、ホウ統士元と云う人は、「片づけられない」人なのだろう。

また、「片づける」という「習慣」が無い人なのだ。

だが、彼は、ひとたび興に乗ると、一気呵成に仕上げてしまうのである。

仕上げてしまえる能力を持っているのだ。

自分も、実は片づけが駄目である。

忘れ物はするし、勘違いもしょっちゅう。

注意力が駄目なのだ。

だが、「年の功」とはよく云ったもので、或る時期から、自分の中で切り換えのスイッチでもってON/OFFが出来るようになったのである。

いつもはてんで駄目。

ところが、スイッチが入ると、一気に全部片づけられる。

さらに、細かい所まで目が届き、他の人は全部見落としてしまった点を自分ただ一人が指摘して周囲を震え上がらせたことも有った。

ただし、それはADHDたる自分は、長期間は無理なのだ。

そういえば、人前に立って何かを話すという時もそうである。

実は、舞台の上に立つ前がどうしようもなく緊張するのだ。

あまりに緊張し過ぎて、ついには疲労困憊と成り、いざ出番の時に成ると、丁度良い塩梅に力が抜けているのだwww

自分は、元来は駄目人間だと思う。

ただ、それなりに苦労をしてきた末に、駄目人間なりに機能する手法を構築してきたのである。

その一つが「切り換えスイッチ」なのである。

自分の愛唱歌は、「悲しくてやりきれない」である。

今、話題の映画「この世界の片隅に」の主題歌に抜擢されて、にわかにマスコミに流れて来たが、元々が名曲である。

作詞は、サトウハチロ―で、「リンゴの唄」「長崎の鐘」や童謡の「うれしいひなまつり」「ちいさい秋見つけた」などで有名である。

そして、作曲はフォークシンガーのザ・フォーク・クルセダーズの加藤和彦である。

まず、詞が身震いするほど、良い。

そして、曲もまた、全身に沁みるほど、良い。

自分は、おおたか静流のCDでこの名曲と出会った。

だから、おおたか静流のバージョンだと、どうしてもむせび泣いてしまうのである。

一時期、カラオケで「花」と「悲しくてやりきれない」と「少年時代」ばかり歌っていた時が有った。

うむ。あの時も辛かったのである。今とは違う「意味」と「かたち」で。

考えてみれば、「花」と「悲しくてやりきれない」は“左翼の歌”だwww

でも、芸術作品はイデオロギーを超越するのである。

芸術作品は、ただ、それを感じるままで評価すれば良い。

また、そのように評価するべきであろう。

だから、坂本龍一の曲は素晴らしいと思う。

例え、それが、彼の左翼的イデオロギーによる発露から誕生したものであったとしても、だ。

感性を理屈でもって絞め殺してはいけない。

感性をつぶしてしまうような理屈なんか、絶対に大した代物ではないのだから。

https://www.youtube.com/watch?v=-6PjLNIq2GU

静岡県の熱海に、日本共産党の党大会を行う施設がある。

山の中の、大変不便な場所にあるのだが、これは云ってみれば「要塞」である。

党大会の秘密保持のためと、最後の最後の抵抗拠点としての「要塞」なのだ。

「政党」でありながら、ここまで党外に対して警戒心が著しいのは共産党とその「亜種」である新左翼系トロツキストの左翼過激派セクトだけである。

その熱海の施設で、日本共産党の党大会が有り、終了した。

日本共産党の党大会の歴史で、はじめて、他の政党から「来賓」が来た。

仕掛けたのは、小沢一郎である。

日本共産党は、現在、「野党共闘」路線に大きく舵を切った。

かつては「唯我独尊」であったのに。

これは、減少傾向が著しい、党員と機関紙「赤旗」購読者の数が日本共産党の「戦術」を変えたのである。

要は、共産党という「セクト」の組織が、人員数に於いても、収入源に於いても「ジリ貧」に成り始めている、ということであろう。

それでも党員が30万人くらい存在するというのだ。

とはいうものの、平均年齢は60歳代とも70歳代とも云われ、高齢化の傾向が凄まじいようである。

かつては、各大学に「民青」などの人材供給のための学生組織が機能していたのだが、それもさっぱりのようである。

つまり、共産党は、単独ではジリ貧になるのが目に見えているので、他の野党と連携することによって、他党派内に潜入し、最終的には「乗っ取ってしまおう!」ともくろんでいるのである。

この他組織潜入工作戦術は、ロシア革命以前からボルシェビキの「お家芸」であった。

日本に於いては「丹頂鶴(頭のてっぺんだけ赤い、ことから)」と云われている。

革マル派がかつての国鉄の動労、現在はJR総連に浸透しているのは、大人数の労組に食い込むことによって、資金と活動家人材の供給源としているからである。

なお、動労、JR総連へ革マル派が潜入することを公安当局は或る面、「黙認」していたようなふしが有る。

それは、国鉄内の最大労組であった国労が日本社会党左派や日本共産党系だったため、彼等と対抗させるためであった。

よく、当局が、労組の力を削ぐ為に、第二労働組合、第三労働組合を結成させて労組同士でつぶし合いをさせるやり口である。

さて、日本共産党の「ほほえみ戦術」は、単に組織がガタガタに成ったためである。

一方の、保守系の組織はというと、こちらもガタガタである。

というより、元から「組織」が存在しない。

これでは駄目である。

日本共産党の組織が若者たちから見放されたのは、「民主集中制」という上意下達の独裁組織だったからである。

この極めて硬直化した組織であるために、若者たちが寄り付かなくなったのである。

一方の、いわゆる「保守派」の「グループ」では、自意識肥大の「保守オヤジ」どもが牛耳っているために、折角、訪れて来た若者たちを苛め抜いて追い出してしまっている。

「何だ、こんなことも知らんのか?」

「そんな根性でどうする!」

「とにかく、決死の覚悟でぶつかることに意義が有るのだ!つべこべ云うな!」などなど。

自分は、こういう「保守オヤジ」どもから、「お前なんか保守じゃない!」と認定されたので、最早「保守派」と思わなくなった。

それと同様に、「ネトウヨは人間の屑の集まりだ。」と思い知らされて、離れていく若者たちがあまりに多いのだそうである。

ならば、自分は提案したい。

いわゆる「保守派」に、ほとほと愛想が尽きた皆さまへ。

最早、「保守」とか「愛国」とは、そういうことはともかくとして、

真剣に、素朴に、「人間が生きていくこととは何だろうか?」や

「人間が生き生きと生きていくための意識や志向性とは何だろうか?」といったことがらを、共に考える「場」をご一緒に作ろうではないか?

誰が偉い、とか、とにかく死ぬ気でやれ、などという誠につまらないことは一切抜きにしたい。

共に悩み、共に楽しみ、共に拝み合う。

そう云う、謙虚で慎み深い、合掌を基(もとい)とする、そういう仲間に成ろうではないか?

いかがであろうか?

もし、自分が我が子をどういう大人に成長して欲しいか、というのを考えてみた。

現在は、「胎教」や「知能開発早期教育」など、頭を賢くさせるカリキュラムがたくさん存在する。

また、「才能を伸ばす教育」というものも有る。

頭が賢く、学校の試験も高成績で、素晴らしい職場に入って精勤して欲しい。

もしくは、「才能」を開花させ、芸術の分野、スポーツの分野などで世間に認められて欲しい。

こういう「期待」というか、「願望」が世間の数多くの親には有る。

けれども、自分はちょっと考えてみて、思った。

「頭が賢い」というのは果たして良いことなのか?

「才能に秀でている」というのは本当に望ましいことなのか?

実は、「頭の賢さ」も「才能」も、絶対的評価ではないのだ。

その時の社会状況や時代背景によって、求められることがらや内容が変わって来るのである。

つまり、或る時代や環境に適合した「賢さ」や「才能」は、時代や環境が激変した後は「評価されない」と云うことを意味する。

具体例として、江戸時代に於ける「教養」とは漢籍、つまり支那の古典である四書五経(論語や孟子など)をどれだけ読み込み、理解出来ているのかということであった。

さらには、源氏物語をどれだけ読み込み、理解し、そこからどれだけ素晴らしい和歌を詠むことが出来るのかということであった。

しかし、嘉永6年のペリー黒船来航以降、漢籍や本朝の古典を読み込むだけでは駄目に成ってしまった。

勿論、明治時代の日本の国家や社会を構築してこられた先人は、江戸時代の教育によって育成されている。

つまり、江戸時代の寺子屋や藩校などの「教育」は、明確な成果を上げたのである。

だから、絶対的な「頭の賢さ」や「才能」というものは、どのような時代の変遷や環境の激変が有ろうとも、消滅したり減少したりすることは無いのである。

しかしながら、「評価」というものは「相対的」であることが多く、その絶対的な真価が正当な評価を得られない場合が結構多いのである。

 

また、頭が賢い人が陥りやすい傾向として、他人の愚かさを侮蔑するのである。

確かに、愚昧であることは侮られて当然なことではある。

しかしながら、この世の中に於いて、賢者の数は圧倒的に少ない。

というより、大多数の人々が馬鹿ばっかりなのである。

だが、その大多数の馬鹿野郎どもを全員敵に回すようなことに成ったならば、例え、どんなに神に等しいような賢さを誇る俊英であろうとも、ひとたまりも無いのである。

頭の賢い人は、自分が大多数の愚か者たちによって支えられているという「現実」を真摯に受け止めなくてはいけないのである。

 

さらに「才能」に到っては、或る程度は持ち合わせているに越したことはないのだが、あまりに有り余る程のものを持ち得てしまうとろくなことにはならない。

天才とは、その人の人格以上の才能を保有してしまった人を指すと云う。

例えてみれば、軽自動車の車体にF1のエンジンが搭載されているようなものである。

確かに、走り出したら凄まじい速度を出すのだが、しかし、果たしてこの自動車に乗ってみたいと思えるだろうか?

下手をすれば、「疾走する棺桶」に成りかねない。

「才能」というものは、そういう「危うさ」を必ず伴う。

「才能」とは、人々によって認知されて、はじめて「才能」と認定される。

「埋もれた才能」だとか「隠れた才能」などというのは、「才能」ではない。

但し、時間差を置いて、後世に「才能」と認知・認定されたものが、その当時に於いては「才能」として全く認知・認定され得なかった、と云う場合である。

「才能」というものの存在は絶対的なものである。

「才能」の有る無しは、明瞭である。

しかしながら、「才能」には大別して二つのタイプが有り、「時代に祝福される才能」と「時代を超越してしまった才能」とが有る。

「時代に祝福される才能」は、「その時代」を象徴し、体現した「才能」である。

だから、一世を風靡し、時代の寵児と成るのだ。

だが、或る特定の「時代」に適応してしまっているがゆえに、「時代」の変遷によって、その光彩がいずれは色褪せて来る運命を背負ってしまう。

一方の「時代を超越してしまった才能」は、「同時代」に於いては、ただ単に「奇矯」でしかない。

無視されてしまうのだが、それは或る面、「同時代」の人々にとっては評価のしようが不可能なのである。

そして、時代が変遷し、「前時代」の「価値判断基準」から解き放たれた状態と成った時、ようやく、その「普遍的」な真価が評価され得るのである。

自分は何度も書いているのだが、

「天才とは、その存在そのものが既に『事件』なのである」。

だから、我々は、才能に関しても、事件に関しても、常に「手遅れ」なのである。

気が付いた時には、既に、「終了」していることが多過ぎるのだ。

 

それに、「才能」というものは、持っていたら持っていたで、なかなか始末に負えないようである。

現金や資産と同様に、皆無だと生きていくには侘し過ぎるのであるが、かといって有り余る程持ち過ぎるとどのように管理したら良いのか途方に暮れてしまう。

まだ、現金や資産は「管財人」を他人に委託することが出来る。

しかし、「才能」は感覚的かつ生理的なものであるので、他人に任せたりすることは不可能なのだ。

だから、「才能」が「発動」してしまったら最期、その保持者であっても、その「才能」に振り回され続けることになる。

いわゆる「天才」が、奇矯であるのは、常人の枠組みに収まり切れないからである。

「リンゴの皮をきれいに包丁でむける」といったぐらいの「才能」ならまだしも、

「古今東西の偉人英傑の霊やその守護霊と交信出来る」などと云った「才能」と成ると、常人の「日常」など存在し得ないだろう。

これはこれで、とてつもない「才能」だと痛感するのであるが、少なくとも自分は、愛する「我が子」に、こういう「天才」に成って欲しいとは思わない。

 

結局、頭が賢く、才能が豊か、である人間に成っても果たして「幸せ」に成れるかどうかはなはだ不安である。

人の親たるものは、やはり、愛する我が子が「幸せ」に成ってくれることを第一に願うものだろう。

ならば、頭が賢くなくても良い。

勿論、才能なども無くて良い。

つまり「周囲の誰しもから愛される馬鹿」で充分なのではないだろうか?

世の中には、そんなに頭が良くなくても、また人並みはずれた才覚を持ち合わせていなくても、何となく憎めなくて、何だかんだと周囲が面倒を見てくれる人がいる。

そういう「放っておけない人」というのは、結局、一番「幸せ」な人、なのではないだろうか?

ただ、そういう人は、善良で愛嬌の有る人である。

自分は、人間は、善良で愛嬌が有れば、それで充分なのではないか、と思う。

だから、もし自分が我が子に向かって云うとするならば、

「いいかい。みんなから好かれる馬鹿野郎に成るんだぞ。」

と言い含めようと思っている。

いわゆる「大学入試受験批判」と云うのは、ここ数年に始まった訳では無い。

受験勉強の過熱ぶりから「受験地獄」というオドロオドロしい表現が為されたのは、1960年代からであろう。

いわゆる「左翼学生運動」は「60年安保闘争」が有名だが、「60年安保闘争」は、労働者などの学生以外の参加者も存在した。

だが、1968年から1972年までのいわゆる「全共闘」運動は、そもそも大学の学費値上げ問題に対する学生から大学当局への「異議申し立て」から始まったのである。

そのため、「全共闘」運動とは、その根底に「大学生と大学」についての問題意識が強く存在していたのである。

「60年安保闘争」に於いては、日本社会の「前衛」としての、いわば「エリート意識」に突き動かされた大学生によるものであった。

だが、「全共闘」運動は、日本における大学制度と大学生に関しての根源的な問いかけの面が有った。

いわゆる「全共闘」運動のクライマックスとも云えるのが東京大学安田講堂での警察機動隊との攻防戦であるが、そもそも東大闘争は、東大医学部に於ける医学生の「インターン」を巡る問題から始まったのである。

そこから、「東大解体」といったスローガンが飛び出して来たのである。

戦後の左翼学生運動は、1972年の連合赤軍の仲間内の粛清・リンチ事件とあさま山荘立て籠もり事件によって、国民の大多数からシンパシー(親近感)を喪失させてしまい、事実上、頓挫してしまう。

ただ、その後も、「大学入試受験」への問題意識は継承され続けていき、そこからいわゆる「ゆとり教育」という「改革」が為されるのである。

だが、その「ゆとり教育」は今や「恥ずべき過去」の扱いである。

現在の文部科学省の方針は脱「ゆとり教育」であり、大学教育の国際競争力を高める方向に成っている。

この、「ゆとり教育」を巡る問題は、「知識詰め込み偏重教育」に対する批判が有った。

そして、「子供や生徒に自発的に学習する意欲を喚起させる」という「目的」から「ゆとり教育」は規定されたようだと自分は感じている。

また、この「ゆとり教育」については、「子どもの人権尊重」といった「人権思想イデオロギー」の色合いも感じられるのである。

だが、どうも日本人の教育を巡る論争が今一つ噛み合わないのは、実践と理念が混同されている点が指摘出来ると思う。

本来、「子ども」は、どう生きていくのが理想なのか?といった「問題提起」である。

ただ、ここでも、「子どもは大人と平等の人権尊重がなされるべき」「子どもの人権を守れ」と云いながら、「未成年は保護されるべき」とも云う。

つまり、子供と大人との「位置付け」がおかしいのである。

勿論、子供と大人は「差異」が有ると同時に、子供はいずれ必ず大人に成る存在である。

子供と大人の違いを強調し過ぎてもおかしくなってしまうのだ。

これは、結局、「教育」というものが、いったいどういうものなのかという理解が浅いことから起因している。

自分は何度も書いているのだが、

「教育とは、その組織、社会、民族、国家といった共同体にとって理想とする大人に成るための行程表である」。

つまり、まず「理想とする社会」や「理想とする国家」が明確でなければ、必然的に、その社会や国家を形成するための「理想とする大人像」も明確に成る筈がないのである。

そして、「理想とする大人像」が不鮮明であるならば、必然的に「教育」のありかたも右往左往して定まることが無いのである。

戦後、我が国・日本は、事実上、国家観を意識しないように努めて来た。

勿論、あまりに敗戦に到る過程での損耗が著しかったため、まずは復旧作業が優先されたのである。

そして、我が国・日本は、豊かさと平和への希求だけを目標にして邁進し続けたのである。

しかしながら、明確に「国家」を意識し、理想とする「国家観」が喪失してしまったならば、やはり理想とする社会や国家のイメージが漠然としてしまうのである。

そして、漠然としたゴールに行くまでの教育という「行程表」も不鮮明に成らざるを得ない訳である。

現在、大学入試に関して暗中模索が始まっている。

それは、明らかに、米英の有名大学(ケンブリッジ、オックスフォード、ハーバード、エール、MIT、UCLAなど)を意識した大学入試改革である。

また、人工知能(AI)の技術革新をも意識している。

そういう中で、「思考力」「発想力」を重視し、知識を記憶することの価値を低く認識するように変わりつつ有る。

自分は、日本の大学教育、大学入試に於いて知識や定理などの学習能力と計算能力については、高く評価すべきだと思う。

やはり、大学入試を高得点出来る学生は、優秀な人材であることは間違い無いと思う。

しかしながら、問題はその後で、大学の入試に合格した後に、どのような「学び」を追求していくのか、もしくは課していくのか。

そこのところが、途端にぼやけてしまうのである。

戦前に於いては、「末は博士か、大臣か」という言い方が有った。

だから、折角、東京大学に合格・入学したのだが、その先がぼやけてしまうのである。

後は、国家資格や優良な「職場」への「就職」しか、方向性が見出せないのである。

だが、本当は、国家資格を取得・合格した後、もしくは優良な「職場」へ「就職」出来た後に、どういうかたちで自己を成長させ、そしてどのようなかたちで社会や国家へ貢献するのか。

そこまでの「意識」が為されていないのである。

この「意識」の有る無しが、いわゆる「世界のトップエリート」と我が日本のエリートとの決定的な格差なのだと思う。

つまり、トップアスリートたる基本的な身体能力は鍛練されているのだが、どのスポーツの種目で、どのような結果を出すべきなのかが「意識」されていないのである。

勿論、「就職」後に、上司から指示をされて、その目標に向かって「意識」が構築されていくのであろうが、それはまさしく「配給された『意識』」であろう。

自らで掴み取り、獲得し、内発した「意識」ではないのだ。

やはり、この点が、決定的な格差に成っているのだと思う。

 

日本の大学入試や大学教育に於いて、もっと問われるべきは、受験生一人びとりに対して、

「貴方の目指す『自分』とは何ですか?」

「貴方は何を学び、何をしたいのですか?」

といった内発喚起を促す「問いかけ」であろうと思う。

 

我が国・日本は、絶えず「進取学習」の道を歩んで来た。

だから、目指すべき理想像は、いつも「他のところ」に存在していた。

或る時は支那。

或る時は、イギリスやドイツやフランスやアメリカ。

しかし、今や世界は飛行機とインターネットで、急速に「一体化」が進んでいる。

「理想像」の「他のところ」をコピー・アンド・ペーストしたくらいでは最早立ち行かなく成って来ている。

あらゆる面で、オリジナリティーが問われて来ているのである。

「お前は何者だ?お前は何が出来るのだ?お前は何をしてくれるのだ?」

そういう詰問に絶えずさらされ続けていくのである。

そういう中で、従来の大学入試の「やり方」に於ける「意義」と「限界」が見えて来よう。

間違い無く、従来の日本の大学入試の「やり方」を墨守するだけでは展望は開けまい。

しかしながら、全てを否定し尽くし、破壊しつくしてしまったならば、それもまた無意味な愚行であろう。

結局、「意識」と「覚悟」の問題だと思う。

技術的な実践方法論も重要だが、その原点と成る、理念や意識が明確に固まらなければ駄目だろう。

逆に、理念と意識が明確に自覚出来たならば、後は、実践方法も自然に導き出されていくと自分は思う。

平成29年の東京都政は、その初頭から一気に「風雲急を告げ」そうである。

まず、昨日1月14日に、豊洲市場の環境調査値が発表され、事前に予想されていたよりもはるかに「高濃度」の測定値が検出されてしまった。

まさしく、その数値は「衝撃的」であった。

ただ、ここで注意しておきたいのは、「数値」というものの捉え方である。

確かに、「高濃度」の数値が検出された以上は、その事実を重く受け止めなくてはいけない。

つまり、「もう、とにかく移転しちまおう!」といった、拙速な対応は「不可能」であると覚悟しなくてはいけない。

ここまでの数値が検出された以上は、何らかの「対処」をせざるを得ないだろう。

というよりも、何の「対処」もせずに、金銭面やオリンピックなどを睨んだ諸々のスケジュールを「理由」に、豊洲市場への移転を「強行」するならば、それは「科学」に対する冒涜となる。

但し、「有毒物質」というものが、どれだけ人体の健康を損なうのか、それは、実は、「試験してみないと正確には解らない」という面が有る。

それは、試験管に於ける「化学的反応」と人体内での「生理的反応」が、必ずしも等しくないからである。

とは云うものの、「科学的数値基準」を軽視したり、無視するわけにはいかない。

さて、都議会日本共産党は、「築地市場に戻せ」「豊洲市場移転反対」を明確にしている。

だが、その主張は、「情緒的」で極めて解りやすく、同意しやすいのであるが、ならば、何千億円もの都税を投入した豊洲市場を今さらどうするのか?ということになる。

さらに、現在の築地市場は、老朽化が著しく、また、衛生面でもネズミの大繁殖など既に限界に来ている。

築地市場を「現状維持」することは困難であり、また、築地市場を「改築」するにしても、いったん(仮設)の「市場」に移転しなくては改築工事さえ出来ない。

結局、豊洲市場への「移転」しか有り得ないのだ。

但し、これらの汚染物質の影響が及ばないような「対策」を万全に行った後の「はなし」であろう。

「現実的な落としどころ」というのは、そんなに明快にはいかない。

ただ、明快にいかないところを、何とかかんとか論理的な整合性を維持出来るような対処法を講じて実施するしかない、のである。

 

さらに、小池都知事と都議会自民党との「対決」は、本年平成29年7月に実施予定の東京都議会選挙であるが、その「前哨戦」として千代田区長選挙が来月初頭に有る。

1月29日告示、2月5日投開票である。

この「前哨戦」で、事実上の「ターニングポイント」と成るだろう。

現在、都議会自民党を事実上取り仕切っているのは、千代田区選挙区選出の内田茂都議である。

長年、自民党東京都連の「幹事長」の要職に有った。

現在は、小池都知事誕生の都知事選敗北の責任を取って辞任したのだが、「政治的影響力」は、まだ残存していよう。

但し、「地元」の千代田区長選挙の結果次第で、「都議会自民党のドン」という「政治力」もどうなるか解らない。

自分は、内田茂都議にお会いしたことが無いので、何とも云えないのだが、いわゆる「やり手」と云う感じの「鋭さ」を感じない。

むしろ、「鍋奉行」のような、まめで面倒見の良い、「取りまとめ役」という感じである。

勿論、「ボス」だから、こちらから頭を下げ、懐に飛び込んで来た者は面倒見てもらえるのだろうが、ちょっとでも口答えでもしようものなら徹底的に邪険にされていびられる。

そういう二面性を持っているのだと思う。

「組織」や「人員」の操縦法の基本は「アメとムチ」であるのだが、肝腎なのは、その使い分けのタイミングの見極めである。

「アメとムチ」の行使が、急所を射ぬいているのならば効果が上がるのだが、急所から外れてしまった場合は、怨恨ばかり買って潜在的な「敵」ばかりを生むだけに成ってしまうのである。

どうやら、内田茂都議は、ここ近年の間に、そのタイミングを見誤り続けて来たように思う。

まず、2013年2月、つまり前回の千代田区長選挙で、副区長だった大山恭司を擁立した。

しかし、元々、石川雅巳を東京都の局長としての仕事ぶりを評価して、2001年の千代田区長選挙に担ぎ挙げたのは、他ならぬ内田茂都議だったのである。

確かに、石川区長は、「高齢・多選」という批判に該当する要素を持っている。

しかしながら、現職の首長を追い落とすには、健康面と醜聞の問題以外は極めて困難である。

特に石川区長は、行政上、特段、失点が有った訳でもない。

多選ゆえに区議会に対して「高姿勢」が出て来たのかもしれないが、それは石川区長だけの責任問題とは云い切れないだろう。

そこらへんの「力学的変動」を見込んだ上で、いかに政治的に折り合いを付けていくかが、「政治家」としての真価が問われて来るのだと思う。

また、自民党東京都連の「実力者」として、東京都選出の国会議員にも「強面」の面が有ったと云われている。

特に、小池百合子議員には、小泉純一郎総理の2005年「郵政解散」の時に、「刺客」として急遽「国替え」擁立されたと云うことも有り、「生理的」に嫌悪していた感じが有ったようである。

ここだけ見て来ると、内田茂都議は、「好き嫌い」でもって、政治的な「対立軸」を形成してしまう傾向が有るようである。

もし、そうであるならば、政治家としては致命的な欠陥が有ると云わざるを得ない。

政治家に於いては「政治的闘争」は不可避である。

その際に、どのように勝つか、ということが絶対的に重要と成る。

つまり、誰を敵に回してはいけないのか、ということを常に意識していなくては駄目だろう。

「気に食わない奴は全部つぶせ!」という情緒的かつ短絡的なやり方であるならば、最終的には政治的敗北は絶対的に不可避だと思う。

現に、国政の参議院に於いて、かつて「参議院のドン」「尊師」「法王」と畏怖された村上正邦は、小渕総理急逝直後の後継総理選出にあたり、俗に「5人組」と云われた主要メンバーとして森喜朗に決めた。

だが、いわゆる郵政問題に於いて、村上正邦に連絡が行く前に話が進んだことを激怒して嫌がらせをしたという。

そういう傲慢さが、結局、小泉政権で狙い撃ちにされて、KSD汚職でもって被告人まで追い落とされてしまったのである。

一方の、「喧嘩上手」の野中広務は、「次期衆院選不出馬」「政治家引退」を表明し、小泉政権からの攻撃をかわした。

結局、村岡兼造が日歯連闇献金事件で、被告人にされて有罪にされてしまう。

ここらへんが、野中広務の「喧嘩上手」たる証しであろう。

 

さて、昨年平成28年7月に小池都知事が誕生した時から、翌年の千代田区長選挙は「剣が峰」と云われていた。

ただ、中央大学教授の佐々木信夫を擁立しようとして固辞されるなど、「対」石川雅巳千代田区長選挙の「対策」が固まらなかった。

そして、平成29年1月13日に元衆議院議員で閣僚経験者だった与謝野馨の甥の与謝野信が立候補表明をした。

まあ、41歳の若さ、ケンブリッジ大学卒で国際的な金融機関で勤務という輝かしい経歴。

石川雅巳区長が「高齢・多選」という弱点を抱えているところを衝くには、最適な候補に見える。

だが、この与謝野馨議員の「血筋」というのが、果たしてメリットと成るかどうかというと、必ずしもプラス面だけではないだろう。

それは、与謝野馨が、2010年に自民党を離党し、平沼赳夫・園田博之・藤井孝男らと新党「たちあがれ日本」に合流した。

さらに、翌年2011年にはたちあがれ日本を離党し、あろうことか、民主党菅直人政権で内閣府特命大臣として入閣までしてしまうのである。

その後、喉頭がんの悪化により、次期衆院選不出馬・政界引退を表明し、自民党は山田美樹を東京第1区に擁立する。

与謝野馨は、中曽根康弘元総理の秘書出身で、政界随一の政策通で鳴らした。

また、与謝野鉄幹・晶子の孫という血統でもあるのだが、政治家としての最後の最後の「晩節」を「変節」でもって汚してしまった。

だから、千代田区が地盤だったとはいえ、旧来の支援者が今回の選挙でどう反応するのだろうか?

さらに、東京1区は、新宿区と港区と併せてである。

必ずしも、千代田区の有権者に「強い」とは云えないと感じる。

また、千代田区という地域の特殊性も無視出来ないだろう。

千代田区は、その面積の多くを皇居や官公庁、オフィス街が占めるため、「住民票」に登録された有権者数は、極めて少ない。

平成27年4月の区議選で最下位当選者は477票である。

だから、或る面「村の選挙」とも云えるので、「組織」でもって徹底的に締め付けて、固めていけば勝てる選挙に見える。

千代田区は、元々、「麹町区」と「神田区」が合併して出来た。

そのため、麹町地区と神田地区で、街の様子が異なる。

神田地区は、問屋街や中小企業が多く、小さなビルの中に経営者家族が居住する感じが多かった。

一方、麹町地区はいわゆる「お屋敷街」高級住宅地であった。

そのため、以前は神田地区の方が住民は比較的多かったのである。

一方の麹町地区は大きな邸宅が多かったので、「戸数」は少なかったのである。

ところが、大きな邸宅の当主が死去し、相続税絡みで、大邸宅がどんどんマンション化されていった。

つまり、今や麹町地区は高級マンション地帯なのである。

神田地区は「古い」住民が多いので、町内会や神社の氏子会の「組織」が固まっている。だから、票を固めやすい。

ところが、麹町地区は新興の高級マンションである。

どこまで、地域住民が「組織化」されているのか不明である。

多分、「新住民」は、従来の「しがらみ」とは無縁だろうし、忌避する傾向が強かろう。

となれば、いわゆる共産党系に投票はしないだろうが、小池百合子的なリベラル的な保守のカラーには投票をする傾向が強いと思う。

そう考えると、与謝野候補の勝算は薄いと見るべきだろう。

 

今回の与謝野信候補擁立は、東京第1区で、「与謝野系」の候補者が「非自民」で出馬することを阻止することが本当の「目的」であるように感じる。

だから、与謝野信候補の擁立は自民党にとって悪くはなかろう。

但し、これでもって内田茂の勢力挽回という流れにはならないと思う。

むしろ、「けり」が着いてしまいそうである。

 

ちなみに、おときた都議がブログで「与謝野派&内田派の合体は、悟空とベジータが手を組んだようなもの?!今年最初の天王山・千代田区長選を徹底解説」と解説しているが、まあ、「小池都知事派」の都議の書いている文章である。

「さじ加減」は行って当然だろう。

http://otokitashun.com/blog/daily/13933/

 

2月5日以降、都政は大きく変わりそうである。

この後の「潮流」をよくよく見定めてみなければ、7月の都議選は予測不可能だろう。

※(平成29年1月22日付記)

任期満了に伴う東京都千代田区長選挙が、いよいよ切迫して来た。

来週の日曜日1月29日告示で、2月5日が投開票である。

既に、別記先述したように、千代田区長選挙は、最早単なる一地方自治体の首長の選挙という意味合いではなくなってしまった。

千代田区は、東京都議会自民党の事実上の最大実力者である内田茂都議の選挙区であるので「地元」である。

しかも、現職の石川雅巳区長と「対立」の構図と成っている。

さらに、昨年平成28年7月の東京都知事選挙によって、当選した小池百合子都知事とは「対立」の構図と成っている。

そして、千代田区長選挙に於いては、小池都知事が明確に石川知事を支持した。

つまり、この千代田区長選挙によって、都議会のパワーバランスが変動し、その結果、本年7月に任期満了と成る東京都議会議員選挙の動向も影響を免れない。

そして、東京都議会議員選挙によって、自民党の議席が激減し、もしくは、いわゆる小池都知事による“新党”の候補者が大量に当選するようなことに成れば、国政への影響も免れない。

具体的に云えば、衆議院の解散・総選挙の実施時期の問題である。

だからこそ、この千代田区長選挙は、注視していかないといけないのだ。

 

さて、都議会公明党が、小池都知事との連携へと傾斜し、長年の自・公連携の都議会運営を解消した。

勿論、公明党は、「選挙至上主義」であるので、選挙に勝つためなら「何でもやる」のである。

都議会公明党が、東京都の自民党と距離を置き始めたので、千代田区公明党も区長選の態度を明確にしていないという。

さて、本日平成29年1月22日の産経新聞朝刊東京地方面に於いて千代田区長選挙の記事が掲載された。

「与謝野氏 追い上げムード」「石川氏 知事との連携強化」

記事によると、自民党東京都連関係者の談で「潮目が変わってきたと思っている」と。

具体的には、千代田区議全25人中約20人が与謝野信陣営へ「支援する」と表明したという。

現在、千代田区議会の会派構成は、

自由民主党議員団・10

自由民主党新しい千代田・4

日本共産党区議団・3

ちよだの声・2

千代田を紡ぐ会・民進・2

公明党議員団・2

民進・クリーン千代田・2

である。

これを見て、「約20人」の区議が、与謝野陣営を「支援する」と表明したというのであるならば、単純に自民党「のみ」と対決しているのではないということになる。

つまり、区議から石川区長は相当嫌われているということになるだろう。

住民にとって、一番身近な「政治家」は、地方議員であり、特に区市町村議員は密接である。

だから、国政選挙であれ、各種の地方選挙であれ、地方議員の選挙に於ける「動き」と云うのは、極めて重要である。

当初、選挙告示日間近に突然の立候補表明をしたため、与謝野信候補は「不利」だと思われた。

だが、「追い上げムード」やら「潮目が変わってきた」という表現が出て来たことの背景は、やはり、一番地域住民に密着している区議会議員の動向によるものだろう。

これも、単に「自民党系会派の区議だけ」というのであればまだしも、いわば「超党派」で石川区長は区議から総スカンを食っていたということに成れば、これは無視出来ないファクターと成ろう。

多分、石川区長は元来が東京都立大学卒・都庁入庁・千代田区へ出向し企画課長・都庁復帰して局長を歴任、と云う「官僚」ひとすじの経歴である。

こういう「背景」の人は、頭を下げて回ってドブ板選挙が出来る人でないことがほとんどである。(ちなみに、日本社会党の左派・社会主義協会の大物政治家の高沢寅男は、旧東京5区で7回当選するのだが、東京大学経済学部在学中に日本共産党国際派の活動家で、左翼のエリートだった。にもかかわらず豊島区・練馬区で「ドブ板選挙」に徹した。なお、後年、この選挙区は小林興起、小池百合子の選挙区となる)

多分、今迄の選挙も、ずっと、区議や都議(内田茂だ)が代わりに区民に頭を下げて回って票を掻き集め、当選まで漕ぎ付かせた訳であろう。

あまりにも偉く、賢くなってしまうと、人間と云うものは頭を下げ、腰を低くし、尻を軽くすることが億劫に成ってしまうものである。

こういう現状を踏まえた上で、いくら小池都知事との連携で、「空中戦」や「イメージ戦術」を浸透させようとしても、なかなか困難かもしれない。

既に別記先述したとおり、千代田区は人口59788人(平成29年1月1日現在住民基本台帳)という、或る面「村の選挙」なのである。

神田地区は、古くからの住民の割合が多く、町内会や神社の氏子会といった「地域組織」の占める重要性が高い。

また、かつての御屋敷街であった麹町地区は、邸宅の当主が死没後の土地相続に関係して、高級マンションに建て替えられることが多い。

そのため、高級マンションの住民が多く、その住民はいわゆる「新住民」である。

この高級マンションの「新住民」がどれだけ「組織化」されているのかは不明であるが、こういう人々は「町内会」などの地域組織に積極的に溶け込んでいるのかどうか?

ただ、所得水準は高く、いわゆる「富裕層」に該当する為、低所得者層が比較的多く支持する日本共産党や公明党・創価学会への支持は多くはないだろう。

実際に、過去の選挙の票数を見てみる。

平成27年4月26日千代田区議会選挙

日本共産党(3名)2118票

公明党(2名)1213票

平成28年7月10日参院選

東京選挙区

山添拓(共産)2327票

竹谷としこ(公明)1617票

比例

日本共産党3254票

公明党1453票

つまり、共産党は約2000票強、公明党は約1300票を基礎票として有している可能性が高い。

共産党は、自民党系の与謝野信へ投票する理由が見当たらない。

だから、現職の石川雅巳へ投票する可能性が高い。

問題は、公明党である。

この公明党の「票」というのは、ひとつの大きな「塊」であり、動く時は、一斉に動かすことが「可能」なのだ。

勿論、「日和見」「勝ち馬に乗る」公明党であるので、このまま与謝野信陣営に流れが集中するならば、公明党も加勢して来る可能性が出て来よう。

だが、今後、小池都知事による、いわゆるマスコミなどを強く訴求する「小池劇場」が作用した場合、選挙の情勢は土壇場まで全く予想が付かないことに成りかねない。

そういう、大混戦にまでもつれ込んだ場合は、公明党・創価学会の約1300票が、選挙の当落結果を決定することになるかもしれない。

かつて、内田茂都議は、都議会公明党とのパイプが密接だった。

だが、現在、既に内田茂都議は、公明党を「動かす」ことは出来なくなっている。

だからこそ、都議会公明党は小池都知事と「連携」する旗幟を鮮明にしたのだ。

ちなみに、選挙に於ける「都市伝説」なのかもしれないが、公明党・創価学会の「票」は、3日間有れば「動かせる」という。

あと2週間後に迫った千代田区長選挙は、その後の実施が見込まれる東京都議選や衆議院解散総選挙を睨んで、国政レベルの「駆け引き」が為されていくことだろう。

自民党の二階俊博幹事長や日本維新の会の松井一郎代表が、どうコメントし、どのように判断されるのか?

民進党や共産党はどう動くのか?

まだまだ一波乱二波瀾有りそうである。

なかなか予測は困難である。まいった、まいった。


※(平成29年1月24日深夜付記)

平成29年1月23日発売の夕刊フジ(1月24日付)C版の第一面は、

「千代田区長選衝撃データ 小池、ドン瞬殺」「代理戦争に『圧勝』」。

1月22日に現職の石川雅巳千代田区長の選挙直前の総決起集会が行われ、約500人の参加者が居たと云う。

さて、夕刊フジによると「某政党」が、昨年平成28年末に千代田区長選挙に関しての「情勢調査」を行ったという。

その調査結果データについて報じたのが、この記事。

何と!現職の石川雅巳区長には2万票。

一方の自民党系の候補者に投票するのはたった5千票だった。

これだけ読むと、いかにも小池都知事の圧勝で、都議会のドン・内田茂の大惨敗という感じである。

さて、この記事が掲載されたのは産経新聞社から出ている夕刊紙の夕刊フジである。

ここ近年、本紙である産経新聞よりも「読みやすく」「過激」な保守系の記事が掲載される傾向が強い。

例えば、元・東京大学教授だった酒井信彦の寄稿を掲載したりしている。

酒井信彦は、いわゆる自民党や「日本会議」系の保守論壇とは相性がよろしくないので、本紙・産経新聞に掲載されることは、「まず、無い」。

勿論、酒井信彦の論考は、それはそれで参考に値するのだが。

だから、現在、夕刊フジは比較的フットワークの軽い保守マスコミなのである。

いわゆる「慰安婦問題」や「テキサス親父」に関しての記事を掲載したりしていて、いわゆる「保守派」としては誠に心強い新聞である。

だが、その夕刊フジは、明確に小池百合子東京都知事「支持」なのである。

これは、小池百合子が東京都知事選に立候補してから、ずっと一貫している。

そういう意味では、1月23日発売の記事も、小池都知事「支持」の読者からは大いに満足な紙面と成っている。

ちなみに、同日平成29年1月23日発売の週刊ポスト誌の小記事に於いても、この千代田区長選の選挙事前情勢調査のデータに関して掲載されている。

週刊ポストでは、「某政党」ではなく、明確に「自民党」と明記されていた。

つまり、相次いで、自民党の選挙事前情勢調査のデータがマスコミに「漏れた」と云うことに成る。

 

さて、この夕刊フジの記事を読んで、「さすが小池都知事!ザマミロ、都議会のドン・内田茂!」と溜飲を下げてしまうようであるならば、政治的には大変「おめでたい」人であろう。

もし、自分が石川選対だったり、小池都知事周辺の人間だったとしたら、

「何てことを書いてくれたんだ。」と頭を抱えるだろう。

「選挙」というものは、徹頭徹尾「心理戦」である。

だから、「有利だ!圧勝だ!余裕シャクシャクだ!」という「評判」が広まると、一気に選挙戦の陣営が「弛む(ゆるむ)」のである。

弛めば、選挙活動にも傍若無人な色が出て来るし、熱意も低下する。

さらに、「投票しよう!」と思っていた人々が、「何だ。そんなに余裕なら、自分一人棄権したところで大丈夫だろう。」と思い込んで、選挙の投票へ行かなくなってしまうのである。

もっとひどくなると、「そんなにバカ勝ちするなら、勝ち過ぎだ。敢えて、反対票を入れよう。」などと「不必要なバランス感覚」が飛び出してしまうことに成る。

つまり、選挙に於いて、「有利だ!圧勝だ!」という報道や評判は、「くせもの」なのである。

勿論、こういう記事を目にして、「勝ち馬に乗る」人もいるだろう。

選挙用語では「バンドワゴン効果」と云う。

だが、現在、投票先を敢えて鮮明にしていない公明党・創価学会の支持層約1200票は、夕刊フジや週刊ポストの記事だけで投票行動を絶対に決定しないのである。

何しろ、彼等こそ「選挙のプロ中のプロ」であり、独自の情報網と分析専門家を保有しているのだ。

そもそも、この「自民党の情勢調査のデータ」は、現時点に於いては、何の参考にも成らない。

まず、情勢調査時には、自民党系候補は「候補者未定」で、云わば人格も顔も無い状態なのである。

その条件で、どちらを選ぶかと云えば、それは「顔が見えている」石川区長を選ぶだろう。

だが、現在は、与謝野馨元大臣の甥・与謝野信41歳という明確な候補者像が提示されたのである。

しかも、全25人中約20人の区議が「支援する」と表明している。

さらに1月29日の告示日には、東京選挙区選出の参院議員で国務大臣(五輪担当)の丸川珠代が応援演説をするという。

もし、現時点で情勢調査を行ったならば、2万票対5千票といった構図には絶対に成らないと思う。

 

ここまで見て来て、あくまで「アウトサイダー」である一介の派遣労務者風情の「ゲスの勘繰り」であるのだが、或る結論に達した。

間違い無く、安倍総理は小池都知事と「対決」することを「覚悟」されたのだろう。

これは、安倍総理が小池都知事と現在、ガチバトルに突入した、ということではない。

安倍総理は、小池都知事が、東京都の自由民主党の基盤や勢力を破壊する段階まで踏み込んだ場合は、容赦無く徹底抗戦する覚悟を固められたのだと思う。

勿論、東京都連のドン・内田茂に対しては、因果を含んでいることだろう。

安倍総理と小池都知事が「激突する」と書くと、いわゆる保守派の方々からは、「信じられない!」と猛烈な批判をされるだろう。

確かに、小池都知事の政治的信条は明確に保守派であろう。

また、小池都知事は、自民党東京都連の「いじわるじいさん」たちとはガチンコ対決を辞さないが、安倍総理と戦うつもりは無いとも思う。

だが、安倍総理から見れば、小池都知事が自民党東京都連や都議会自民党と激突すれば、結果として東京都内の選挙区を地盤とする国会議員の足腰を直撃することに成るのだ。

しかも、都議選で地域政党「都民ファーストの会」を結党して「自民党」と対決するのである。

小池都知事としては、都知事としての都政運営を行うためにはやむを得ないのだろうが、安倍総理にとっては、政権の土台である自民党の地方組織と地方議員を攻撃されて愉快な筈はなかろう。

確かに、大阪府に於いては、「大阪維新の会」「日本維新の会」とは、代表の松井一郎大阪府知事や顧問の橋下徹前大阪市長・前大阪府知事と「個人的な信頼関係」が構築出来ているようである。

だが、安倍総理と小池都知事とは、正直な話、どれくらいのレベルの「人間関係」を構築出来得ているのだろうか?

多分、現時点では、安倍総理は小池都知事とは「和戦両睨み」であろうが、既に「全面戦争」への布石を着々と打っていることと思う。

ここで重要なのは、今後、小池都知事の新党「都民ファーストの会」を支援される保守系の方々が、どれくらいの覚悟で安倍総理と対峙されるのか、ということである。

極端な話、「安倍政権が吹っ飛び、憲法改正の機運が消滅しても良い!」と、そこまで肚をくくれるかどうか、ということである。

 

既に「流れは決まった」のかもしれない。


※(平成29年1月28日付記)

千代田区長選挙の流れの中で、与謝野信候補が地域住民の催しに参加した際に、その地域住民の催しの中で「的(まと)」が、ほぼ「日章旗」であった。

つまり、日本の国旗・日の丸に対して物を投げつけているところを与謝野候補は何も指摘をしなかった、ということである。

夕刊フジ・1月26日配信(以下引用開始)

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170126-00000018-ykf-soci

今年夏の東京都議選の前哨戦とされる千代田区長選(29日告示、2月5日投開票)に、「日の丸騒動」が直撃した。自民党推薦候補として出馬表明した与謝野信(まこと)氏(41)が、国旗に酷似した的を使った的当てゲームに関わり、黙認したとされるもので、目撃者は「国旗を蔑ろにしたのではないか」と証言した。東京都の小池百合子知事も現場写真を見て、激怒した。夕刊フジは与謝野氏らを直撃した。

  問題の現場写真を見てほしい。22日に千代田区麹町の公園で開かれた餅つき大会の様子を撮影したものだ。子供たちがボールを投げる「的当てゲーム」を楽しんでいるが、その的が「国旗・日の丸」に酷似している。黄色の上着を着てマイクを握って仕切っているのが、与謝野氏である。

  小池氏は写真を見て、「えーっ、信じられない!」と憤慨したという。当然だ。国旗に物を投げ付けることを容認するなど、まともな日本人の感覚ではない。

  自民党都連幹部も「どう見ても、この的は『日の丸』だ。韓国では、日本の国旗を燃やしたり、踏み付けたりして、国際的に批判されているが、同じような不快な印象を受ける。子供たちには何の罪もない。これを大人が放置・容認したことが問題だ」と一喝した。

  別の都連幹部も「あちゃー」といい絶句し、天を仰いだ。

  千代田区長選は、与謝野氏と、小池氏が支援する現職の石川雅己区長(75)、元会社員の五十嵐朝青氏(41)が無所属で出馬表明している。同区は「都議会のドン」こと内田茂都議の地盤だけに、小池氏とドン内田氏の“代理戦争”といわれ、全国的関心を集めている。

  こうしたなかで、「日の丸騒動」が発覚したのだ。夕刊フジは与謝野氏と、自民党東京都連の下村博文会長(元文科相)を直撃した。

  与謝野氏は現場写真を指さしながら、「これは国旗ではない。『日の丸』柄になっているが、的当てゲームの的だ。確かに横から見ると、国旗のように見えるが、全然違う。国旗ではない」「材質もフェルト地で、国旗の生地ではない」と説明した。

  下村氏も「与謝野氏本人は『国旗ではない』と認識していた。国旗であれば、日の丸の赤(の部分)がもっと小さい。国旗は(国旗国歌法で)バランスが決まっている。これは国旗じゃない」と語った。

  ちなみに、与謝野氏は区長選で、▽日本一安心して生活できるまちづくり▽日本一国際化の進んだまちづくり▽日本一新旧の豊かな文化が花開くまちづくり−という、3つの「日本一」を訴えている。

  与謝野氏は「知名度はまだまだ低いが、私の政策に共感してくれる方もいる。石川区長の良い部分を継承しつつ、世代交代の必要性を訴えていきたい」と語った。

  有権者はどう判断するのか。

(以上引用終了)

掲載された写真を見ると、これはどう見ても「日の丸」である。

この「日の丸」騒動で思い出したのは、現・民進党の前身、民主党がしでかした事件である。

(以下引用開始)

200988日、鹿児島県霧島市内において、民主党の国分地区総決起集会(みなよし稲生・同県第4区総支部長主催)が行われた。

小沢一郎代表代行も参加し、1500人(民主党発表)が詰め掛けた同会は成功裏に終わったようだが、HP上にアップされた会場の写真には、日の丸を切り取り、張り合わせて造ったように見える民主党マークのフラッグが壇上に掲げられている様子が写っており、その事がインターネット上で批判され始めた。

麻生太郎自民党総裁は、817日に開催された日本記者クラブ主催公開討論会において、本件を鳩山由紀夫民主党代表に質問した。それを各マスコミが報道し、本件が多くの人々に知れ渡った。

民主党は、ウェブサイトに掲載されていた決起集会の写真を17日午後に削除した[朝日新聞,2009818]。現在はフラッグが写らないようトリミングしたものに差し替えてある。

民主党鹿児島県連によれば、その旗は支持者が日の丸を加工して持ち込んだという[毎日新聞,817]。みなよし総支部長陣営は、当初「支持者が作ったが、切り刻んではいない」としていた[西日本新聞,2009 08/18 10:46]

しかし、同陣営は18日に「支持者が裁断し、縫合したものを持ってきたので使用した」と国旗を加工して製作したものであることを認める謝罪文を公表した。謝罪文では、「国旗の使用方法としては不適切で深くおわびする」「国旗の尊厳をおとしめる意図は全くなかった」と説明している。また、同日行われた決起集会でも謝罪した[毎日新聞,2009818][MSN産経ニュース,2009.8.18]

支持者が持参した旗は、2枚の日章旗から作られており、上部4分の1と下部4分の1を切断し縫い合わせたもの。大きさは縦126センチ、横156センチであるという[読売新聞,2009818][MSN産経,同上]

岡田克也民主党幹事長は、皆吉氏に、口頭で厳重注意した[NHK,818][MSN産経,同上]

(以上引用終了)

これを「連想」してしまうとwww、「与謝野信は在日左翼だ!」と売国・在日「認定」に「めでたく」されてしまうだろう。

だが、これこそ「ネトウヨ」の陥穽である。

勿論、我が祖国日本の国旗である日の丸に対しての「意識」が弱かったことに関しては、誉められたものではない。

指摘され、批判されても当然である。

ここで変に逆ギレして抗弁すると駄目である。

とは云うものの、この行為は、与謝野信本人や与謝野信陣営が「主催」した訳ではない。

云ってみれば、「看過」しちゃったということである。

もし、責任を追及されるべきであるならば、それは候補者の選対のほうであろう。

何しろ、与謝野信本人は、選挙に出るのは初めてなのだから。

つまり、「感覚」や「意識」、立ち居振る舞いが、まだまだ様に成っていないのである。

問題は、この「不注意」が、「経験不足」「不慣れ」から起因しているのか、それとも与謝野信本人の思想信条や人間性によるものなのか、であろう。

単なる「不慣れ」であるならば、今後、「選挙活動慣れ」していけば問題は無くなるだろう。

だが、日の丸に対して偏見や嫌悪感を抱いているようであるならば駄目だろうし、また、選挙の候補者の何気無い立ち居振る舞いが、周囲の目からはどのように映っているのか、という「自己客観視」が出来ていないのであれば致命的な問題であろう。

自分としての結論は、「ネトウヨは激昂するが、選挙の大勢には影響せず」だと思う。

 

プレジデント・オンラインで、1月27日付で

「空気読めない菅官房長官『千代田区長選で小池百合子退治』と云う記事が上がった。

http://president.jp/articles/-/21241

確かに、時の政権の大番頭である内閣官房長官が、一地方自治体の首長選挙に首を突っ込んで来ると云うのは尋常ではない。

だが、自分は、既に自民党東京都連と都議会自民党が「選挙を仕切れない」惨状なのではないか、と考える。

自民党東京都連は、長年、「石原伸晃会長・内田茂幹事長」の体制が続いていた。

気が付けば、石原伸晃は「重鎮」に成ってしまったのである。

何しろ、衆院議員9期連続、1990年から約30年(27年)も代議士なのである。

しかも、4回も入閣し、自民党の政調会長、幹事長も歴任しているのである。

さらに山崎拓の派閥を継承し、「石原派」の会長なのだ。

そして、2012年には自民党総裁選挙にも出ている。

実は、自民党東京都連の国会議員で、そのキャリアから云って現時点の一番の重鎮は石原伸晃なのである。

粕谷茂、鯨岡兵輔、島村宜伸、越智道雄、石川要三、伊藤公介、与謝野馨といったベテラン代議士は、今や死去もしくは引退してしまっている。

閣僚経験者である下村博文でさえ当選7期である。

問題は、その「重鎮」たる石原伸晃が、あまりにも「軽量」で有り過ぎることにある。

まさにチェコスロバキアの作家ミラン・クンデラ原作の1988年の映画「存在の耐えられない軽さ」なのであるwww

本来ならば石原伸晃が、その政治的キャリアに相応しい「仕切り」を実行すべきなのだが、それが無理なのである。

だからこそ、幹事長としての内田茂が、事実上長年に渡って自民党東京都連と都議会自民党を取り仕切って来た訳である。

で、石原伸晃・内田茂「体制」で、上手い具合に「回って」いったならばそれで良かったのである。

かつては、それで「機能」していた訳である。

ところが、猪瀬・舛添と二代の東京都知事が醜聞で辞任した。

そして、その後始末が上手く行かないところで、小池百合子が自らの全政治生命を賭して乾坤一擲の大勝負に出たのである。

その結果、東京都民は小池百合子を「支持」し、彼女は大博奕に大勝した訳である。

これで、石原・内田体制が敗北し、さらに「一時的な短命な筈」の小池都知事の「旋風」「小池劇場」が、オリンピック開催費用の理不尽な増額、豊洲市場の不可解な「闇」などの相次ぐ「ニュース」の続出によって事前の想定以上の長期持続をしてしまった。

内田茂によるの「取り仕切り」の「一時謹慎」は、予想以上に長引くことに成った。

問題は、内田茂都議の「政治力」が、今だに消滅していないことにある。

内田茂が政治的に既に「死んで」いれば、過去完了形で、他の政治家がその役割を演じれば良いのだ。

だが、内田茂の「支配力」は、まだ残存している。

だから、自民党東京都連と都議会自民党は、「立ち往生」しているのだと思う。

そこで、「やむを得ず」さらに「上位」から手が降りて来たのであるが、自民党幹事長の二階俊博よりも、菅内閣官房長官の存在が出て来たのである。

現時点で、千代田区長選に菅官房長官の姿がちらつくのは、「不可抗力」なんだと思う。

 

1月26日に公明党は、千代田区長選挙に於いて、特定の候補者を推薦や支持をせず「自主投票」することに決定した。

この「報道」を以てして、「現職・石川区長有利!小池都知事勝利!ドン・内田惨敗!」と結論付けてしまう人が居ると思う。

確かに、前回の千代田区長選挙に於いては、自民・公明の両党で候補者(前副区長・大山恭司)を擁立して戦った訳である。

それが、今回は「自主投票」である。

さらに、前回は自公で共同で戦って石川区長に惜敗したわけである。

ならば、今回は約1200票と云われる創価学会・公明党票はドン・内田茂が推す与謝野信候補へは行かない、と思ってしまいがちである。

確かに、マスコミ発表するほどの「公式決定」として、公明党は「自主投票」に成った。

これが、労働組合の「連合」だったりすると、文字通り、「自主投票」と成って、ひとりびとりの個々人の考えで投票行動が任されることに成るだろう。

だが、ことは創価学会・公明党である。

真偽は不明であるのだが、創価学会の「組織票」は、「3日有れば動かせる」そうである。

ならば、選挙戦の最後の最後に成った時、「内々で○○候補へ投票しよう!」と決まって「稼働」すれば、それは事実上は「自主投票」とは云えないだろう。

逆に、現時点で、公明党が明確に「石川区長推薦」といった意思決定をしなかったことを重要視したいのである。

小池都知事に「配慮」しているにもかかわらず、公明党は明確に「石川候補支援」を公式決定しなかった。

これは、むしろ、石川陣営の「敗北」と云えなくも無いのではないだろうか?

勿論、あくまで「自主投票」である訳だから、必ずしも公明党は与謝野信候補へ投票するだろうとも云い切れない訳であるが。

 

東京都千代田区は有権者数が少ない、いわば「村の選挙」なのである。

ネットやマスコミなどの「論調」や「風」で、投票行動が雪崩討つという動向は示さないと思う。

自分は、与謝野信候補有利であると感じる。


※(平成29年2月2日付記)

ついに千代田区長選挙に突入した。

区長選挙はまさに「短期決戦」で、たったの1週間しかない。

この誠に「短期間」という時間的制約が、大いに重要だと思う。

区長選が始まって、東京都の特別区長選挙としては「異例」のマスコミ「露出」である。

報道の量も多いし、ネットでの関心も高い。

かく申すそれがしの拙ブログも「俄か特需」で大盛況であるwww

それはさておき、これだけマスコミやネットで取り上げられているということは、いわゆる「無党派層」「浮動票」と呼ばれる人々が選挙に対して関心を持つことに成る。

当然、得票率も上昇するだろう。

だが、千代田区は、事実上「村の選挙」なのである。

人口が少ない。

これが、東京近郊の三多摩地区、例えば国立市などであったならば、間違い無く「小池劇場」で石川候補が有利だろう。

だが、千代田区は、年収の高い高級マンションの住民や旧来からの「旧住民」ばかりなのである。

果たして、選挙に対する関心の高まりで、当落に直結するほどの投票行動と成って現れるかどうかは難しい。

興味深かったのは、選挙前の公開討論会で、五十嵐朝青候補が「自宅マンションには住民だけのSNSが有る。」と云っていたということである。

これは、従来の「町内会」には属さないものの、「新しいかたち」でのコミュニティが存在していることを示している。

このマンション内のSNSで、どういったやりとりが有るのだろうか?

コミュニティの「ボス」が仕切って、票の取りまとめをするとは思えない。

多分、各候補の政策などを議論するかたちなのだと思う。

この新しい住民交流がどのような投票行動と成って出て来るのか、大変興味深い。


1月14日、ひょんなことから千葉県市川市の中山法華経寺を参拝した。

母方の実家が日蓮宗で、そこの菩提寺の御住職が「修行」する際には法華経寺に行かれるということだったので、自分は子供の頃から中山法華経寺に参拝していた。

中山法華経寺は、千葉県に在るのだが、「江戸の三大鬼子母神」の一つとして有名「だった」。

残念ながら、現在は過去形になってしまい、必ずしも有名とは云えない。

しかし、そもそも、日蓮大聖人が鎌倉の草庵を追われた時に、ここの豪族である富木常忍と太田乗明が大聖人をお迎えして庇護されたのである。

特に、富木常忍は、桓武平氏系の千葉氏の“書記”として仕えていたこともあり、文書の取り扱いに長けておられた。

そのため、日蓮大聖人とも書簡のやりとりが盛んであり、大聖人が遷化された後は、出家されて自邸をお寺に変えた。

それが、現在の法華経寺の起源である。

入道となった富木常忍は「日常」と成り、日蓮大聖人の著作なども精力的に収集され、保存された。

現在、千葉県に有る「国宝」の一つが、日蓮大聖人ご自筆の「立正安国論」であり、その宝物は法華経寺の所蔵である。

法華経寺は、三代目の住職(貫主)に千葉氏の猶子であった「日祐」が入り、その時に、千葉氏が信仰していた妙見菩薩が祭祀される。

なお、千葉県内、特に下総に於いては、そこらじゅうに妙見さんが祭祀されており、千葉神社は「妙見本宮」と称している。

そもそも千葉氏の家紋が、月星紋で、星(北極星)と三日月と日輪をデザインしたものである。

その法華経寺は、江戸時代に於いて、とりわけ徳川将軍家と大奥から信仰された。

そのため、江戸の三大鬼子母神は、雑司ヶ谷(法明寺境外堂)鬼子母神・入谷真源寺・谷中本佛寺だったが、本佛寺の代わりに法華経寺がカウントされるようになったようである。

入谷鬼子母神は、毎夏、7月6・7・8日に「朝顔市」で有名である。

そして、江戸の地口(じぐち、言葉遊び)で「恐れ入谷(いりや)の鬼子母神、びっくり下谷(したや)の広徳寺、情け有馬の水天宮、なんだ神田の大明神」で有名である。

雑司ヶ谷の鬼子母神堂は、加賀前田藩が寄進した東京都の文化財になっていて、すすきの穂で作った民芸品「みみずく」で有名である。

また、境内が広く、さらに都電荒川線(チンチン電車)の沿線でもあるため絶好の観光スポットに成っている。

実は、我が家のお墓は都立雑司ヶ谷霊園に有るため、雑司ヶ谷鬼子母神も馴染み深い。

そのため、自分が明確な「礼拝対象」として意識したのは、実は鬼子母神様だったのである。

だから、自分にとって、鬼子母神様は大変身近な御存在であり、実は節分の時の豆まきでは、自分は「鬼は外」を云わない。

「福は内」しか云わない。

それは、鬼子母神様をお祀りするお寺では、皆、そうである。

「鬼」は「鬼」でも、法華経擁護の「善神」だから、「追い出す」など「もっての外」なのである。

また、法華経の中の「陀羅尼」は「五番神呪」とも云われ、薬王菩薩・勇施菩薩・多聞天(毘沙門天)・持国天の「二聖二天」と鬼子母神十羅刹女の説かれたものである。

鬼子母神は毘沙門天の配下の半支迦薬叉王の妃である。(自分は毘沙門天の妃だと思っていた。)

そして、鬼子母神の十人の娘が十羅刹女であり、全ての鬼の「母」とされる。

つまり、鬼・夜叉・羅刹の総元締めが鬼子母神十羅刹女であり、その威力は凄まじいのである。

 

さて、鬼子母神様についての「不思議な話」はたくさん有るのだが、その中の一つをご紹介する。

日本を代表する漫画家の一人に永井豪がいる。

「エッチ!」という罵倒語を「発明した」、「ハレンチ学園」をはじめとして、「デビルマン」「マジンガーZ」「キューティー・ハニー」などの名作を数多く描かれた天才である。

その永井豪の作品の中で、「手天童子」という作品が有る。

かの「大江山の酒呑童子」を連想させるように、「鬼」が全編に登場する漫画である。

修験道の「始祖」である、役(えん)小角(おづぬ)の「眷属」であった「前鬼」「後鬼」を連想させる「戦鬼」「護鬼」が登場したり、なかなか凝ったつくりである。

さて、小説なり、お芝居なりで、「目に見えない世界」の「存在」を扱う場合、しばしば怪異を被ることが有る。

有名なのは「東海道四谷怪談」の怨霊・お岩さんの「たたり」である。

お芝居でも映画でも、事前に、お岩さんを祭祀した「於岩稲荷」に参拝しておかないと、事故や怪我、病気などのトラブルが続出するという。

そして、この漫画「手天童子」に於いても、「鬼」を描いていたためか、作者の永井豪には体調不良などのトラブルが頻発したという。

そこで、入谷鬼子母神真源寺で祈祷をしてもらったところ、おさまったという。

だから、入谷鬼子母神の「あさがお市」には永井豪の献灯提灯が掲示されていた。

(最近はどうだか知らないのだが、かつては明確に献灯されていた。)

 

現在、自分は法華経擁護の守護神として、鬼子母神・妙見菩薩・七面天女を大切にしている。

ただ、この神々は、実は皆、凄まじく荒っぽいのである。

あな、かしこ、あな、かしこ、である。

自分は三流私大農学部を、教授たちを拝み倒して「お慈悲で出してもらった」ような代物である。

だから、当然ながら、いわゆる「エリートビジネスマン」などという方々からは程遠い人間である。

で、その「エリートビジネスマン」と呼ばれる方々の中でも、さらに「意識の高い」方々は、いかにして「人脈」を築くか、ということに傾注されているという。

よく知られているのは「朝食会」というもので、様々な業種や業態の「エリートビジネスマン」たちが、出勤前に、テーブルを囲んで朝ごはんを食べるというものである。

別に、「朝ごはんを食べる」ということが目的ではなくて、朝ごはんを食べる「場」に集まることで、交流の「場」を意識的に新たに設定することに目的が有る。

但し、その参加するための会費は、結構な高額らしい。

自分も参加してみたいと思ったことも有ったが、参加費用の問題と共に、多分、「入会審査」で拒絶されるだろう。

やはり、出身学校の偏差値や勤務先のランクが決め手になるだろうからだ。

ただ、もし、実際にその「朝食会」に参加出来たところで、どんなもんだろうか?

まあ、行くことが出来ない自分が云うと、さながらイソップ寓話の中の狐である。

「多分、あの取ることの出来ないブドウは酸っぱいに違いない。」とwww

それはさておき、例え、そう云った「場」に参加出来て、何を語らうかが問題だと思う。

多分、「今朝の日本経済新聞のこの記事についてどう思われますか?」といったやりとりが予想される。

まあ、それはそれで「楽しいひととき」なのだと思うが、そんなもんで世に云うところの「人脈」とやらが果たして構築出来るのだろうか?

 

自分は、只今、一介の派遣労務者に過ぎないのであるが、そういう割にはお付き合いをさせていただいている御仁に恵まれている方だと思う。

実際に、「すごい人脈をお持ちですね!」と過大評価されたことも有る。

もし、仮に、自分が人並み以上に「人脈」とやらを持ち合わせていたとするならば、それは二つの点を意識的に行って来たからであろうと思う。

一つは、「出会い」を大切にすること。

人間というものは、絶えず、動いている。

そして、動き、また、動かされていくうちに、さまざまなところで「出会い」の「機」が有る。

自分は、そういう「出会い」によって見知った方々との「縁」を、努めて大切にしてきた。

それも、損得勘定抜きで。

むしろ、自分の方が「持ち出し」に成ることを厭わなかった。

そして、「この前御縁が有ったあの人が喜んでくれるにはどうしたら良いのだろう?」と、それだけを考えてきた。

だから、自分がその時その時に出来得る限りの好意の行為をさせていただくことに専念して来たのである。

そして、その相手が喜んでくれたならば、自分にとって、もう、それで充分だったのである。

まあ、所詮「暑苦しいお節介」なのであるが、これを馬鹿馬鹿しいほどやり続けて結果、どうやら、それが自分にとっての「人脈」とやらに成ったようである。

 

もう一つは、「戦略を立てて食い込んで行く」こと。

こちらは、明確に、「お付き合い」をさせて欲しい、と望む人々の中に飛び込んでいくことである。

それには、まず、明確な目的と確固たる意識が無くてはいけない。

「自分は、こういう目的が有るので、その目的のためにこういう人々の輪の中に入って行くのだ!」という「戦略」である。

自分はそのために、東京都八王子市の自宅から、埼玉県や千葉県まで足を伸ばした。

しかも事前のアポ無しである。

勿論、その成否は全く不明で、自信も無かった。

ただ、別に失敗したところで、交通費がふいになるだけで、後は何も失うものは無い。

それに、生前の亡父がよく云っていたが、「別に飛び込んで行っても、命までは取られやしないし。」で、全く「恐怖感」も無かった。

で、結果として、それらの「飛び込み」で行った先の方々とは、現在までお付き合いが続いている。

しかも、極めて濃密な人間関係まで出来た。

だから、自分にとって、いわゆる「人脈」というものは、「つくるもの」である。

誰かからお世話してもらうまで何も出来ない、などということは、自分にとって理解に苦しむ。

ただ、「人脈」は「なまもの」であるので、絶えず「手入れ」をしないといけない。

そして、その「手入れ」には、お金と知恵と情熱が無くては継続出来ないのである。

ここは、絶対に、留意しておかなくてはいけないポイントだと自分は思う。

 

よく、「自分は膨大な数の名刺を持っている。」と云って自慢する人がいる。

しかし、名刺をいくらたくさん保有していたところで、それは単に「連絡先」を知っている、ということでしかない。

問題は、そこから先なのだ。

後は、相手から見て、自分が「お付き合いするに値する人間であるかどうか」ということが問われてくるだろう。

そして、自分が愚考した結果、「お付き合いするに値する人間であるかどうか」の要素として絶対不可欠なのは、「誠意」と「愛嬌」だと思う。

それが無ければ、絶対に人間関係は構築など不可能だと思う。

自分は浅学菲才、無芸大食、不器用極まりないポンコツである。

だから、「誠意」と「愛嬌」でもって人間関係を構築するしか術は有り得ないと痛感している。

だいたい、三流私大農学部卒の自分がいくら「智の賢き」を誇ったところで、いったいどこの誰が認めてくれるのだろうか?

もう何度も「告白」しているが、自分は30歳過ぎまで「左翼」だった。

だから、マルクス、エンゲルス、レーニン、トロツキー、毛沢東の著書も読んだ。

さらに、マルコムXなどのアメリカ公民権運動に関しても調べた。

ただ、自分の高校生の時に、ベルリンの壁崩壊と第二次天安門事件が有り、いわゆる「社会主義信仰」が崩壊した。

「左翼」だった自分は、呉智英、福田恒存、カール・シュミット、網野義彦、白川静、宮崎市定、司馬遼太郎などをも読み込んでいった。

そして、最終的に竹内好に到った。

竹内好は「大アジア主義者」である。

中野好夫といった左翼人と親しかったが、「近代の超克」研究など、保守派の論客とも親交が有った。

そして、竹内好を経て、自分は「転向」した。

「転向」してからは、先鋭的な活動をしてきた。

一生懸命に、いわゆる「保守派」の「論理」を踏襲するために、いわゆる「保守派」であることを「意識」して、立ち居振る舞いをしてきた。

ところが、自分は、いわゆる「保守派」と云われる御仁から「批判」されるようになる。

当初は、自分が「保守派」として「間違っている」と思い、大いに恥じ入った。

だが、そのうち、自分の一言半句で激昂する連中が、ただ単に一言半句「のみ」をとらえて激昂しているのに過ぎないことに気が付いた。

つまり、枝葉末節にこだわって、根幹についてまで考えが及んでいないのである。

そう、浅慮なのだ。

理解が浅いから、杓子定規で、定型的プロトタイプの「表現」以外に成ると、途端に拒絶反応を示すのである。

理解出来ないのだろうし、理解しようともしないのだ。

ただ単に、興奮していたいだけなのだ。

そこにようやく気が付いた。

そして、或る(自称)「真正保守」の御仁から、「お前は保守じゃない。在日の創価信者だ!」という「認定」を受けた。

自分は、「勿怪の幸い」とばかりに「自分は保守ではない。」と云い切った。

勿論、今更「左翼ですらない」訳だが。

今や、(自称)「真正保守」の連中のあまりの「高邁さ」ゆえに、「そんなのと一緒にしないでくれ!」という次第である。

もう、(自称)「真正保守」の方々は、「そういうムラ」の連中とだけ、お付き合いしていたらよろしかろう。

自分のような「異物」とは、関わらない方が良い。

勿論、自分も、そう感じている。

自分の“道楽”は神社とお寺巡り。

それこそ、いわゆる「パワースポット」ブームなんか起こる、はるか以前から自分は実施していました。

例えば、大阪に住んでいた時は、毎月28日に道頓堀の法善寺水掛け不動さんのお護摩に参拝していました。

勿論、それだけじゃなかったのですが。

で、或るご指摘をいただきました。

「お前は、そこらじゅうの神社やお寺巡りをしているから、神仏との縁は深い。

だが、ちなみにお前にとって一番濃密な縁はどの神仏か、解るか?」

「えーと、祖父が祀られている靖国神社ですか?」

「違う。鬼子母神だ。

お前が一番最初に、“信仰の対象”として、明確に礼拝したのが鬼子母神だったからだ。

つまり、『一番古い付き合いだから』だ。

それに、あまり意識していないようだが、お前は長年、ずっと題目をあげてきていた。

つまり、“法華経の信仰”をずっと続けてきたのだ。

だから、“法華経擁護の諸天善神”たる鬼子母神が強く作用しているのだ。」

「はあ。個人的に、人知れずやって来ただけなんですけど。」

「そういうところは、お前は全然鈍いよな。」

ということで、本日、かの孝明天皇陛下も礼拝したと云う「天拝・尊神」のお寺(遠壽院)に参拝して、イチゴをお供えしてきました。

これこそまさに

「イチゴ一会」

なーんてね♪

「恥多き人生をおくってきました」とは太宰治であるが、自分もいたずらに馬齢を重ねるのみにて、今の今迄、何の成果もあげられていない。

ただ、そんなポンコツでも、ようやく思い至ることがある。

人生を「より良く」生きていくための一つの秘訣。

それは、「借りもの、預かりもの」という「意識」を持つことであろう。

お金や土地と云った財産、地位や名誉、これら全てが実は神仏・ご先祖からの「借りもの、預かりもの」であるということである。

また、家族や人との縁、体力や健康、そして自分自身の生命も。

みんなみんな、所詮、神仏・ご先祖からの「借りもの、預かりもの」なのだ。

どうしても、「自分のもの」という意識だと、ついつい「我」が出てしまう。

さらに「我執」という「愛執」「執着」といった抜き差しならない事態に到る。

しかし、よく考えてみれば、それらの「もの」は、いずれ、「最期の時」を迎えれば、全部、手放さなくてはいけない。

「あの世」まで、お金も土地も名誉も地位も家族も恋人も我が身我が命も、全部持って行くことは出来ないのだから。

最期の最期に到った時、それら全てを神仏・ご先祖へお返しをし、お戻しさせていただくのである。

そう考えたら、何だか急に寂しいというか、空虚な気持ちに成るかもしれない。

しかしながら、所詮全ては「借りもの、預かりもの」と「意識」出来れば、もっと俯瞰的に、冷静に見ることも出来るだろうし、接することも出来るように成ると思う。

 

さて、「とは云うものの」、実は、この世に生きて来て、来世まで持って行けるものが有る。

一つは「徳」である。

自分が生きているうちの「立ち居振る舞い」全ての行状が「評価」されて、来世まで持ち越して行くのである。

ただ、人間は善きことも悪しきことも為す。

善行の結果は「徳」と成るが、悪行の結果は「業」(悪業)と云うことに成る。

ちなみに「業」とは、今生で為して来た「善悪全ての行い」云うのが正確なので、「善業」と「悪業」という表現の方が妥当なのかもしれない。

つまり、自分が「あの世」に持って行けるのは、只今現在に於いて、周囲に対してどのような行いをしてきたのか、という「結果」しか有り得ないということなのである。

それは、出来得る限り、誠を尽くしていけるかどうか、ということにかかってくるのではないだろうか?

ちょっとした一言半句の「発言」。

何気無い「仕草」「所作」。

それが、思いもかけぬかたちで、他人を傷つけたり、他人を喜ばせたりするのか解らないのである。

この「因縁」こそが、極めて厄介で難解である。

 

いかに「生きていくのか」。

それも「いかにより良く生きていくのか。」

それには、「意識」と「覚悟」だと思う。

「意識」を持つ。

「意識」を固める。

「意識」を揺るがせない。

そして、「覚悟」を決める。

これが、生きていく上での「要諦」なのかもしれない。

 

嗚呼。

このことを、何故、もっと以前に気が付かなかったのだろうか。

もう、今と成っては、自分にとってはいささか遅過ぎたような気がする。

せめて、15年前に気が付いていれば、自分の人生はもっとましなかたちで送れただろうに。

残念ながら、自分にとっては、過ぎ去った年月は、もう、戻らない。

既にポンコツに成ってしまった自分が、これから「余生」をどれだけ「より良く」変えていけるのかどうか。

精進しないといけない。

そう云えば、昨年、民進党の代表の蓮舫が「自分は保守政治家です。」とコメントしていた。

このコメントの重要性を指摘した人が皆無だったので、敢えて指摘しておきたい。

そもそも、大東亜戦争敗北後、労働組合を支持基盤とした野党第一党の党首が、「自分は保守の政治家です。」とコメントしたことは皆無だった。

「保守」とは、「自民党」そのものであり、自民党を打倒するべき野党第一党の政治家は、口が裂けても「自分は保守政治家だ。」などと口走ることなど有り得なかったのだ。

それは、愛国的な社会主義者であった、旧「同盟」系の西尾末広、西村栄一、春日一幸などもそうであり、そのために「中道勢力」という公明党の「造語」を踏襲したりしたのである。

さらに、かつては「保守」と云う語句では「不充分」だったのである。

それは「金日成主席」では、「不完全」で「輝ける太陽、我等の偉大なる首領様、親愛なる同志、金日成主席」とまで明記しないと「不備」であったようにwwwである。

かつては「保守反動」と云っていたのだ。

つまり、「古臭くて、時代の流れに逆行する狂人」ということである。

はやい話が、「まともに取り合ってもらえない存在」だったのである。

ちなみに、自分が葦津珍彦や福田恒存、西部邁を読もうと思ったきっかけの一つは、1985年6月発刊の「別冊宝島・保守反動思想家に学ぶ本」だった。

その「保守」という言葉、今や、あの蓮舫でさえ「自称」する事態と成ったのである。

まさに「隔世の感」である。

 

さて、折角、蓮舫民進党“党首”大先生様wwwが己れのことを「保守政治家」と表明されるのならば、その「保守政治家」たるところを、思う存分アピールしてもらいたいところである。

もし、自分が、政界にそれなりの影響力が有る立場であったのなら、すぐさま、蓮舫大先生にお願いをして、「是非とも、『保守政治家・蓮舫』として、90分間、思う存分、語って下さい!」と頼み込む。

勿論、演壇の上に立ったところで、客席から猛烈な野次を浴びせかけて吊し上げるような「愚策」は絶対にしない。

ひたすら静聴に徹する。

さらに、講演の後は、司会を交えてのシンポジウムにして、これもひたすら「協力的」に蓮舫大先生に話させるように進行させていく。

さて、何故、こんなことをするのか。

勿論、「保守政治家」としての「蓮舫」の「考え」を聞き出すためである。

しかし、蓮舫が「自分は保守政治家だ。」と云った時、ほとんどの人が「どの口が云うんだ。」とあきれた。

だから、その「考え方」に感銘を受けることが出来るだろうとまでは、はなから期待はしていない。

ただ、誰からも仕向けられた訳でも無く、自分から「保守政治家だ」と表明されたのである。

ならば、いかなる思想信条や政策、政治姿勢でもって「保守政治家」であると結論づけられるのだろうか?

これは、とことんまで、蓮舫から説明してもらわなくてはいけないだろう。

もし、ろくに説明が出来ないようであるならば、「自分は保守政治家だ。」という表明には、何の根拠も存在しないということに成る。

そして、何の根拠も存在しないことがらを臆面も無く云い切ってしまえるということは、蓮舫が、演説などで表明すること、全てに於いて根拠が無く、その場その時の思いつきで口から出て来る、単なる「口から出まかせ」に過ぎないということになろう。

逆に、90分間の時間を埋めるだけの、論理的構成がしっかりと為された説明が可能であったならば、それはそれで「保守政治家」として認識されることに成る。

だが、「保守政治家」として自他共に認められるような論拠を有した場合、国政選挙に於いて「選挙協力」を打診して来た日本共産党や社民党がどういう評価を下すのか。

明確に、蓮舫が「保守」であるならば、共産党や社民党のサイドが拒絶反応を示す可能性が出て来よう。

もし、蓮舫が明確に「保守」であるにもかかわらず、共産党や社民党が臆面も無く「選挙協力」を強行するのであれば、それこそ勿怪の幸いで「選挙目当ての野合ではないか!」という批判を全面的に繰り広げられる訳である。

つまり、蓮舫が「保守政治家である。」ということを、徹底的に突き詰めていったならば、どう転んでも美味しい「王手飛車取り」なのである。

こんな絶好の材料が目の前にぶら下がっているにもかかわらず、いわゆる「保守派」の連中は、「二重国籍」問題しか取り上げようとしない。

はっきり云って、「二重国籍」問題は、「しくじりました!ごめんなさい!」と平謝りしたならば、それで大多数の国民は納得してしまう「問題」なのである。

だが、野党第一党の「党首」である、蓮舫が本当に「自称」通り、「保守政治家」なのかどうか。

そこを追求した場合、蓮舫の政治的スタンスや、政治的発言に対する意識の問題まで問われて来る訳である。

もし、ここでつまづけば、そのダメージは致命的であろう。

ただひたすら口撃するだけでは能が無い。

逆に、蓮舫のような「口だけが達者な」政治家には、喋るだけ喋らせてみる、という「攻め方」も有効だろう。

そんなことも気がつかない「保守派」は、本当に戦い方が下手くそだと思う。

自分は外回りの仕事も内勤の仕事も両方経験させてもらった。

よく、営業と経理が「衝突」することがある。

その原因の一つに、双方の仕事の「スケジュール」の差異が有ると思う。

外回りの仕事は、お客様の前に立つ時の緊張感は大きい。

だが、それ以外の移動時間などは、ちょっとした休憩時間に成る。

勿論、その移動時間も書類作成や資料の読み込みなどに忙殺されることも有るのだが、だが、それもやり方次第である。

一方の内勤は、初対面の仕事関係者と会うことはあまり多くない。

また、会うとしても、自分の方が立場が上のことが多いので、さほどストレスは感じない。

しかし、そのかわり、始業から終業まで、昼休みを除いて、ほぼひたすら仕事をしないといけない。

かつて、メールやラインなどが無い時代は、とにかく電話が多かった。

それも内線電話、社内での電話である。

その受け答えや対応が大変だった。

今は、専らメールに変わったので、昔に比べると事務所内が本当に静かである。

ただ、内勤だと、絶えず管理職の視線を背後に感じながら、ひたすら作業をしていかないといけない。

どちらが楽で、どちらが苛酷だとは、一概には云えない。

人との出会いに喜びを感じる人は、外回りに向いている。

一方で、マイペースにこつこつと仕事に専念したい人は内勤に向いていると思う。

さて、外回りと内勤の人がケンカする一つの事例としては、「電話」が有る。

内勤の人が、回って来た書類や伝票、領収書などで確認が必要に成った場合、外回りの人へ電話を入れる。

今は携帯電話なので、捕まらないと云うことは無い。

ただ、携帯電話をかけて、すぐに電話に出ないと怒り出す人が居る。

しかし、外回りの人は、ずっと机の上に座って待機しているわけではなく、電車の中だったり、便所だったり、食事中だったりする訳である。

さらに、内勤の人は、確認が必要だと思った場合、その都度、電話を掛けるのである。

人によっては、一日の内に3回も4回も電話を掛けるのである。

で、一方の外回りの人は、手元にその書類やら伝票や領収書が無いので、質問されても思い出せない場合も有る。

さらに、何度も何度も電話をされると、場合によっては、顧客との商談中だったりするわけである。

そこで、内勤の人は「何故、すぐに電話に出ない!そして、訳が解らないといってはぐらかすのだ!」と不機嫌になる。

一方の外回りの人は、「つまらないことで何度も何度も電話をかけて来るな!」といらつくわけである。

そして、双方共に感情がネガティブな状態を継続し続けると、いずれは「衝突」するのだ。

但し、外回りの人は、書類や伝票や領収書の提出が、例え一日でも期限に遅れると、どれだけ内勤の人の仕事が増えるのかが解らない。

「いやあ、うっかりして、この領収書が出て来ちゃって」なんて云おうものなら、大変なことになる。

折角、まとめあげた帳簿の数字を、下手をすれば、一から作り直さないといけなくなる訳である。

外回りの人は、「たった1枚くらい」としか思わないのだが、数字を「しめる」ということはそんなに生易しいことではないのだ。

もっと、この違いを意識的にお互いが言語化して説明する努力をするべきだと思う。

外回りの人へ電話を入れる時は、客先に入っていない時間帯であることを見越して、なるべく確認件数をまとめた上で行う。

もしくは、まず、メールを入れて、外回りの人から電話をかけてもらうようにする。

そして、外回りの人は、「提出期日」は絶対厳守を肝に銘じる。

これだけで、だいぶ軋轢は減ると愚考する。

 

ま、もう、派遣労務者の自分にはどっちも関係無いけどさwww

本日は平成29年1月4日の「仕事始め」の日だった。
しかし、自分は、お正月も結構忙しいのだwww
懇意にしている神社・仏閣が多いので、「初詣」の件数が異状wwwなのである。
それに、皇居の一般参賀も有るし。
実は、自分は7月からずっと体調が良くなかった。
それを、何とか騙し騙し、続けていた。
しかし、昨年末、ついに顔中が化膿し、足や腕も毛包炎が発症してしまった。
抗生物質を飲んでいるのだが、化膿が全然治らない。
そして、今朝がたは、ついに咽喉が炎症していることに気が付いた。
かといって、仕事は休めないし。
ということで、まだ、「宵の口」なのだが、大事を取って就寝する。
本当は、6つぐらい書きたいものが有るのだが。
ま、ビタ一文にもならないから、致し方無い。
現在、自分の現金収入はあくまで「派遣労務者」の仕事のみなのだから、何よりもこちらを最優先にしなくてはいけない。
どうせなら、「一円も生まないのだから、もう、文章なんか一切書かない。」と割り切れたら苦労しないのである。
誠に因業なことである。

さて、「大人」と「子供」の違いは何でしょうか?

「大人」と「子供」の違いは、「自分の限界を知る」ことに有ります。

そして、「自分の役割を知る」ことに有ります。

これは、「自分と云う人間は、何処から何処まで出来て、どこから先が不可能なのかをちゃんと把握している。」ということです。

よく子供特有の特徴として「万能感」ということが上げられます。

それは「自分の望んだことは何でもしてもらえる。何でも出来る。」と思い込んでいることです。

しかし、その「幼児的万能感」は、成長していくなかで、さまざまな「限界」や「制限」を思い知らされていくわけです。

そして、最終的に、「自分の適切な立ち居振る舞いを理解出来る」ようになって、ようやく「大人」として認められる訳です。

つまり、自己と周囲との「輪郭」を正確に認識出来ている人が「大人」なのです。

だから、自分の愚かさや弱さや駄目さを解っている人は、既に「子供」ではありません。

ただ、真の「大人」は、その「短所」を踏まえた上で、「ならば、自分は何が出来るのか?」ということを懸命に探求し続けていける人です。

状況は刻々と変化していきます。

そう云った中で、自分の手札はどれで、ゲームの状況を見た上で、どのカードを切っていくのか。

それを的確に実行出来る人が「大人」なのです。

まあ、「精神年齢」が幼い自分は、その境地までは程遠いのでありますがwww

よく、「うちの職場の連中は使えない奴ばかりだ。」と云う愚痴を聞きます。

そういう人は、将棋を指す時に

「この勝負には絶対に勝てない。だって、飛車と角行の駒がひとつづつしか無いから。」

と云う人だと思います。

「そんな馬鹿な!」と云われるかもしれませんが、「うちは使えない奴ばかりだ!」と愚痴を云っている人は、つまり、そういうことなのです。

世の中には、実際に、ずば抜けた能力を保有している人は存在します。

しかしながら、そんな「優秀な人物」はほんの少しです。

その他の大多数の人々は、見方を変えれば「使えない奴」ばかりなのです。

そう云う中で、成果を出せる組織とそうでないところに分かれるのは、一見「使えない奴」をいかに「使いこなす」か、ということでしょう。

将棋がまさにそうです。

金も銀も2枚づつです。

それを「銀は5枚欲しい!」と云ったら、さながらチョコボールの「おもちゃの缶詰」ですwww(ちなみに、それだと、「金なら1枚」ですがwww)

他には、桂馬や香車と歩兵です。

歩兵の数はやたらと多いのですが、前に一つしかすすめません。

しかしながら、将棋の巧者は実は歩兵の使い方が上手なのです。

勿論、歩兵の使い方だけが上手い訳ではありません。

全種類の駒の使い方が絶妙なのです。

人事も組織の経営もまさにそうです。

また、「あいつは使えるから。」と云って、何でもかんでも「仕事」を振ってしまったら、さすがに潰れてしまいます。

「適材適所」で、各人に応じた役割分担を行い、さらに、その人その人に応じた指示や指導を施さなくてはいけないのです。

だから、「愚痴不足や不平不満を云う前に、もっと上手に指示して欲しい。」と「使えない奴」の自分は、いつも痛感するのであります。

いたずらに馬齢を重ねて来て、痛感することである。

人間は「生身」であることである。

人間は「生身」である以上は、休養と栄養は絶対に必要である。

ところが、往々にして、この休養と栄養の補充を疎かにしがちである。

この休養と栄養の補充を疎かにしがちな一番の要因は「多忙」にある。

「多忙」であるがゆえに、睡眠時間を削り、食事を抜いたり、間に合わせのものでしのいだりするのだ。

だが、「明朝までに仕上げる」といったような「短期決戦」の「追い込み」の場合以外は、休養と栄養を疎かにした場合、絶対に駄目である。

日本人の悪弊の一番は、「短期決戦」の「追い込み」を「常態化」させてしまいがちであることにある。

あくまで「特別対応」であったことが、「常態化」しルーチンワークに成ってしまうことである。

「あの時出来たのだから、いつも出来て当然だ。」というのである。

だが、それは云わば「火事場の馬鹿力」であって、その「瞬間」でなければ発揮不可能な「異常事態」なのである。

だから、「あの時」と同じ「条件」を「基準」にして、人員数、時間数、装置数でもって、ルーチンワークを設定してしまった場合、遠からずほころびが発生する。

それは、自動車がいつもトップギアの状態で走ってはいけないのと同じである。

個人としては、絶好調の時を基準にするのではなく、不調の時を基準にすべきなのである。

だから、休養(睡眠)と栄養(食事)は意識して摂取しなくていけない。

「意識して行う」ということは「戦略的に行う」ということである。

ちなみに、自分から見て、休養と栄養の摂取を一番戦略的に取り組んでいるのはボディビルダーだと思う。

ボディビルダーにとって、休養と栄養の重要性は基本中の基本だからである。

休養と栄養が何故大切なのか。

それは、人間の身体は、毎日毎日「破壊されている」からである。

全身の数多くの細胞が死んでいっているのである。

一方、その死んでいった細胞を補充するために新たな細胞を作らなくてはいけない。

そのためには休養と栄養が無ければ不可能なのである。

だから、一日二日の「無理」は目立たなくとも、月単位に成れば、明確な有意差が出て来るのである。

だいたい「寸暇を惜しむ」というスケジュール設定そのものが「無理筋」なのだ。

「出来ないことはどうあがいても出来ない。」のである。

だから「出来ないことは行わない。」ことである。

その代り、「いかにして出来るように行うか。」という「戦略」をきちんと立てるべきであろう。

無理の無い日常生活の累積が、結果として実り有る人生なのだと思う。

 

実は、今日一日、ほとんど就寝していた。

だが、まだ疲労が残っているので、これから就寝する。

明後日1月4日から、また仕事である。

「仕事始め」でダウンする訳にはいかない。

情報を大量に摂取することが大事なのではない。
実効性の有る、現実的な戦略を立案出来るかどうかが大事なのだ。

自分は、社会人に成って一年目の時に、褒められた言葉が「君は真面目だね。」というものだった。

自分は、この褒め言葉を聞いて悲しくなった。

何故なら、「真面目」であるのは、社会人としては「最低限」の「条件」だと思っていたからである。

例えば、「頭が良い」とか「器用だ」とか「積極性が有る」とか「タフだ」とか、人を褒める表現は、結構たくさん存在する。

にもかかわらず、自分は「真面目」とだけしか云われなかった。

つまり、それは、相手にとって自分を褒める場合、「真面目だ」としか褒めようが無かったのだろう。

それは、「君は、何一つ褒める要素は無いのだけれど、嫌いではないよ。」と云っているのだと思った。

やっぱりそうか。

自分は、改めて、自分自身の浅学菲才、無芸大食である「事実」を痛感せざるを得なかった。

それから、自分は、ひたすら「愚直」の道を歩み続けた。

「愚直」であることしか、不器用な自分には不可能だと覚悟したからである。

だが、先程、ネット上で、何故、黒田官兵衛が評価されたのかを書いた文章を読んでびっくりした。

それは「なぜ最大の才能が「真面目」なのか」というものであった。

いわゆる「口八丁手八丁」と云われる人や「天才肌のひらめき」と云われる人を世人は評価する。

だが、そういった「長所」は華麗であるものの、今一つ安心感に欠ける。

つまり、安定感が無いのだ。

それに比べて、「真面目」というのは、地味である。

しかしながら、それゆえに安定感が有るのだ。

よく、頭脳明晰で器用な人が、その持てる実力に不釣り合いな低い評価しか与えられていないのは、ところどころで「不真面目」な印象を持たれるからであろう。

「真面目」というのは、最低限の条件であるがために、この「真面目」さが欠落した場合、その他の「長所」では埋め難いのであろう。

そう考えると、自分に対しての「真面目だ」という評価も、あんまり嘆き悲しむものでもないのかもしれない。

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