何故、関ヶ原の戦いで、石田三成が敗れたのか?
ひとつの「見方」として、「石田三成があまりに切れ過ぎた」からである、と云う。
つまり、当時の大名の中で、彼よりも優れていた頭脳は他に居なかった、と。
確かに、かの徳川家康でさえ、こと「行政能力」「事務処理能力」に於いては、石田三成よりも劣っていたであろう。
ただ、既にその時の徳川家康は、豊臣政権の「重役」であったから、別に問題に成らなかっただけのことである。...
ならば、尚更、傑出した能力の持ち主であった石田三成が、関ヶ原の戦いで敗北しなくてはならなかったのだろうか?
それは、石田三成が己の「優秀さ」を自他共に認めていたからであろう。
別の云い方をすれば、周囲の人間が皆、「愚か」に見えてしまっていたのであろう。
残念ながら、こういう人は「個人プレー」では「敵無し」なのだが、「組織戦」に成った場合、途端に齟齬をきたす。
結局、石田三成が「天下の奉行」でいられたのは、太閤・豊臣秀吉の「ご威光」が有ったからである。
だから、秀吉在世時は、全て「想定通り」に事が進んだ。
しかしながら、太閤薨去後は、今迄の「順風」が一気に反転し、逆流したかのような惨状と成った。
或る面、石田三成ただ一人のみが、豊臣秀吉死後も「不変」であったのである。
だが、それゆえに、石田三成は、秀吉が残した「負の遺産」まで背負い込まざるを得なくなった訳である。
多分、従来通りに事が進まず、齟齬と破綻ばかりの有様に、彼の緻密な頭脳は許容範囲を超えてしまったのであろう。
こう考えると、「頭が良い」というのも、「良し悪し」ということになってしまう。


さて、小池百合子東京都知事にして、新党「希望の党」の代表である。
彼女の「胆力」と「魅力」は傑出している。
ただ、彼女のその「才智」の陰に「孤高」を感じ取れてしまうのは何故だろうか?
多分、彼女も「ずば抜けて過ぎている」のである。
だから、周囲の人間が皆、「腰抜け」で「無神経」にしか見えないのであろう。
だが、これは、決定的に「不幸」であろう。
何故なら、結局、小池百合子は、その賞賛も批判も悪罵も、全部、「独り占め」せざるを得ないからである。
全てを小池百合子は独りで抱え込まなくてはいけなくなるのである。
だが、「上手の手から水が漏れる」と云う。
どんな「超人的」な人間でも、全部独りで済ますことなど不可能である。
だから、只今、小池百合子は「無理」をしている。
ちょうど、今現在は「無理が通れば道理引っ込む」で、彼女のもくろみは当たりに当たり続けている。
だが、「無理」は「続かない」のである。
早晩、綻びが生じよう。
その時の「破綻」が、「彼女ただ独り」だけで済めばまだ良い。
もし、日本国家や日本国民諸共を「道連れ」にするようなことに成ってもらうことだけは、「ご免こうむる」。

いわゆる「野党選挙協力」と云う名の「野合」が急ピッチで「実現」されている。
だから、「野党の選挙態勢が整う前に、解散する」というのは、的外れ。
結局、組織が固く残っている日本共産党へ「依存」するというだけのこと。
日共の「候補」を降ろしてもらい、更に、選挙の実働部隊も「依存」しまくる、ということ。
つまり、民進党は日本共産党にとてつもない「負い目」を感じる破目に成る。...
事実上、民進党で当選した代議士は、共産党への「ご機嫌伺い」をするように化すだけのこと。
それは、現在の自民党の代議士のほとんどが、創価学会・公明党を無視出来得ないというのと同様。
結局、「カルト」政党が、大政党の首根っこを抑えつけてしまうということではないか?
今回の選挙、本当に甘くはいかないですぞ!

いわゆる「保守派」が何故、政治的な影響力を持ち得ないのか?
それは単純な話し、選挙に弱いからである。
いわゆる「保守派」と呼ばれる「政治家」は、こと選挙に関しては両極端である。
絶対に「落ちない」くらい選挙に強い、か、時たま偶然に「受かっちゃった」というくらいで後は落選続き、か。
で、選挙に強い「政治家」は、実は、いわゆる「保守派」内で「好き嫌い」が二分される。
何故嫌われるのか?というと「おもねっているから」。
つまり、票を得るために「筋を曲げている」と云うのである。
まあ、その指摘はあながち間違いではない。


いわゆる「保守派」には、「組織」が無い、と云う。
「組織」が無いから、集会や街宣に於いても、左翼に対して見劣りがするくらい「少人数」という惨状となる。
まだ、集会や街宣だと、「少人数」でもまだ「意気軒昂」に成れる。
だが、こと選挙と成ると現実は残酷である。
もう、当選はおろか、次点でさえ遥かに届かない。
すると、「選挙に落ちても大義は残る」などと「都合の良い」の表現を口にする。
それは単に「現実逃避」でしかない。
選挙に当選しなくても良い、ということであるならば、何も選挙に出る必要は無い。
集会と街宣をやっていればそれで良いではないか?


何故、いわゆる「保守派」は政治的影響力が無いのか?
それにひきかえ、創価学会・公明党や共産党の方が、遥かに政治的影響力が有る。
何故なのか?
彼等の云っていること、やっていることは、「正しい」とは云えない。
しかしながら、こと選挙に於いては、確実な実績を残している。
だからこそ、政治的影響力を有するのである。
ならば、この彼我の違いは何処に有るのだろうか?


自分は既に「保守」ではない。
だって、(自称)「真正保守」から、「お前は保守ではない。左翼の工作員だ。在日の創価信者だ!」と「認定」されたからである。
それ以降、自分は自分が「保守」であることを名乗るのをやめた。
(自称)「真正保守」という御仁から「お前は保守ではない。」と云われたからには、多分、実際に自分は「保守」ではないのだろう。
さらに、ろくに「国語」の「読解力」も無いくせに、極めて安直に他人を罵倒するのが「保守」ならば、そんな奴等と自分は一緒にされたくは無い。
むしろ、こちらから「保守」の盃を叩き返したい。
だから、自分は、もう、「保守」ではない。

ただ、一時期、「保守」だった期間が有ったので解るのだが、いわゆる「保守派」の連中は、本当に「付き合い」が狭い。
だって、土日のいわゆる「保守派」の集会やら講演会やらに行くと、会う人会う人、みんな同じなのであるwww.
「おや、先程もお会いしましたね。」という挨拶を、一日に何回も交わす訳である。
だから、「参加人数」の「のべ人数」と比べて、実数は多分、10分の1ぐらいだと感じる。
一方、創価学会・公明党や共産党の連中は、組織からの指導で、町内会やPTAの役員を率先して引き受けるように云われている。
民生委員なども、「是非やらせてもらえ!」と指導されている。
そして、独居老人などを見回り、また、借金苦で落胆している人には生活保護や公営住宅の入居を斡旋して回っているのである。
これが、選挙の時には、決定的な得票に成るのだ。
いくら、不特定多数に対して「正論」をがなり立てたところで、そんな「高尚」なもんは、みんな人々の頭の上を通り過ぎてしまうのである。
あまりにも「お高くとまって」おられるから、そんなナンセンスなことになる。


かつて共産党が、青年層を「オルグ」(組織化)する際に用いたのが「歌声運動」であった。
喫茶店で、みんなでロシア民謡などを大声で歌った訳である。
この歌った歌が「軍歌」や「文部省唱歌」でなかったところがミソである。
そうやって、当時のソビエト・ロシアに対する親近感を熟成させ、最終的には左翼大衆運動へ引き入れる手法であったのだ。
一方、現在のいわゆる「保守派」はどうなのか?
もう、はじめから終わりまで、ゴリゴリのもんしか参加しないし、主催もしないではないか?

さらに、そういう保守派の集会や街宣に「間違って」www参加してしまった青少年たちを、はじめはちやほやして持て囃すのだが、そのうち「本性」を丸出しにする。
「何だ、お前はそんなことも知らないのか?」
「何だ、お前みたいな若造が生意気な口をきくな!」
そうやって、青少年たちを押し潰して優越感に浸りまくる。
何時しか、青少年たちの足は遠のき、二度と顔を出すことは無く成る。
そして、彼等彼女等に対して、「ネトウヨ、最低!」というイメージを頭と心に刻み付ける結果と成る。
何故、そうなのか?
それは、いわゆる「保守派」の連中が、ただひたすら「まくしたてる」からである。
青少年たちの抱いている、心の中のもやもやを吐き出させ、受け留めるような「度量」が無いからである。
だから、折角、近づいて来た青少年たちも、すぐに「うざい」と感じて、二度と来なくなるのである。
まあ、その方が、「お互い」にとっては良いのだろうがwww


よく、いわゆる「保守派」は「組織」が無い、という。
だが、いわゆる「保守派」は、果たして本当に「組織」を望んでいるのだろうか?
自分は、本当の意味で、いわゆる「保守派」は、「組織」なんかどうでも良いと思っているとしか思えない。
要は、選挙の時の「票」であり、集会や街宣の時の「頭数」であり、出版即売会の時の「本の売り上げ」だけ、欲しいのである。
後は、不要なのである。
つまり、SNSでもって、「読んでくれなくても、見てくれなくても良いからとにかく必ず”いいね!”を押してね!」と云っているのと同じなのである。
「組織」を形成したり、仲間に引き入れたりするにあたっては、本当に「泥臭い」作業が不可避なのである。
そういった、「泥臭い」作業を、今の「スマート」で「高尚な」「意識が高い」いわゆる「保守派」のお歴々がやろうと思うだろうか?
絶対にしない。
そんな馬鹿げたこと、やる訳が無い。
だって、「大義のためには死んでも良い!」としか云わないのだから。
何かと云うと、「死ぬ死ぬ」と云う。
どんなことでも「決死の覚悟で!」と叫ぶ。
そんな、肩をいからせた人ばかりだから、「雑用」なんか絶対にしないのである。
みんなマイクを握りたがる。
みんな旗指物を振り回して大得意に成りたい。
いや、もう、そう云うのは、好きなだけおやりに成れば宜しい。


もし、いわゆる「保守派」が選挙に関わりたい、というのであれば、まずは、いわゆる「保守派」の「催し」に参加することを減らすことである。
そして、その分の空いた時間を、違う分野の人間関係の「場」に使うのである。
地域のサークルだったり、消防団だったり。
朝のラジオ体操や町内会のドブさらい。
多分、いわゆる「保守派」で、日々「決死の覚悟」の方々は、そういう「くだらない」ことには一切参加していないだろう。
だが、そういう生の人間関係の中からしか、はっきり云って選挙の得票と云うのは出て来ないのである。
そして、何よりも「聞き役」に徹すること。
徹し切ること。
「自分は、お前よりも知っているのだ、賢いんだ、立派なんだ!」とひけらかさないこと。
いわゆる「保守派」は、やたら滅多羅「正論」を浴びせかけるから、どうしようもなく鼻に付くのである。


ここまで、書いて来て、自分はいわゆる「保守派」が選挙に関わることには絶望的である。
いや、もう、選挙なんか、どうでも良いんでしょ?
だったら、「仲間内」だけで、楽しくやっていれば良いと思う。
選挙は、創価学会や共産党や労働組合に任せて。
で、「仲間内」だけで、「全く、こいつら民度が低過ぎる!」って吼えまくっていれば良いと思う。
その方が、お金も体力も時間も消耗しなくて、楽しく過ごせますよ!

関ヶ原の戦いとそれから15年後の大阪の陣について。
そもそもは、豊臣秀吉が、「軍事的」に徳川家康を圧倒出来なかった。
かの小牧・長久手の戦いに於いて、「戦闘」に於いては、豊臣秀吉は徳川家康を攻め潰すことが出来なかった。
その後、地震などの天災が有り、豊臣秀吉は、「軍事的」に徳川家康を屈服させることを断念し、外交交渉などの「非軍事的」なかたちで徳川家康を恭順させる道を選んだ。
ただ、豊臣秀吉の脳裏には、死ぬまで、徳川家康は「仮想敵」で有り続けた。...
まず、先祖以来の三河・遠江といった東海地方の領地から、関東八州の後北條氏の旧領へ、「領地加増」としながらも、遠方へ「転封」させた。
これで、徳川家康が「逆ギレ」したならば、「お取り潰し」で後顧の憂いが断てたのであろうが、徳川家康は堪忍して受諾する。
そして、当時では「日本最大の外様大名」の城下町として、江戸が誕生する。
古来、武士の心の拠り所であった「鎌倉」は、三方を山に囲まれ、前面の海は比較的狭く、260万石とも云われる徳川家康の城下町としては手狭であった。
それから、湿地帯でしかなかった「未開の土地」である江戸城の周辺は、大々的な「土地改良」が為される。
一方、豊臣秀吉は、「徳川家康包囲網」を敷く。
まず、北方の会津には、織田信長家中の「俊英」蒲生氏郷を配した。
彼は文武両道に秀でた、「戦国の俊英」であった。
人格も高潔であり、人望も厚かった。
だが、逆にそれゆえに、豊臣秀吉の本拠地、大坂や京都から遠ざけられ、徳川家康の「押さえ」として東北の要の地に封じられてしまう。
なお、蒲生氏郷は早逝してしまい、豊臣秀吉は、慌てて徳川家康の「押さえ」として、越後の上杉景勝を転封させることとなる。(なお、蒲生氏郷、上杉景勝は、徳川家康への「押さえ」であると共に、北方の伊達政宗への「押さえ」でもあった。)
さらに、徳川家康の旧領であった東海地方は、豊臣秀吉と関係の深い、中村一氏、山内一豊、福島正則といった「子飼い」の武将を配した。
また、上州から北信州にかけては、戦国時代から徳川家康と丁々発止の駆け引きを繰り広げた「謀将」真田昌幸の「本領安堵」させ、中山道の「押さえ」とした。
そして、関東でも常陸の佐竹家を存続させて、徳川家康を圧迫せしめたのである。
ところが、豊臣秀吉が薨去すると、「豊臣家」の内部でもって、対立が表面化する。
豊臣秀吉が生きている間は、「豊臣家」としての「内部矛盾」は、彼の「人格」がそれを体現し、また統制させていた。
だから、あらゆる諸問題も、豊臣秀吉の「御意向」というかたちで「解決」させられたのである。
これは無理からぬことで、豊臣秀吉は、尾張の「百姓」の出であるから、先祖代々の「譜代の臣」というものが存在しなかった。
つまり、豊臣秀吉の「同僚」「友人」「弟子」といった、極めて「近しい」、ウエットな人間関係が基礎と成る「組織」であった。
そのため、この「豊臣家」という存在は、必然的に豊臣秀吉という個人の人格に大きく依拠せざるを得ない「組織」と化した。
また、実は当の豊臣秀吉自身が、そういう「組織」に成る様に望んだところが見受けられる。
結果として、「後継者」として設定した豊臣秀次が「切腹」するかたちに成り、また、金吾中納言秀秋も小早川家へ養子入りしてしまった。
そして、「世継ぎ」の秀頼は、まだ幼子であった。
「関ヶ原の戦い」とは、「豊臣秀吉の不在」という「結果」であった。
NHK大河ドラマ「葵徳川三代」の原作者であった脚本家のジェームス三木が、当時の雑誌「ダ・カーポ」誌上に於いて、「関ヶ原の戦いの裏の主人公は、豊臣秀吉なんです。」と書いていたのを記憶している。
つまり、石田三成、福島正則、宇喜多秀家、小早川秀秋、などは明らかに、豊臣秀吉の「存在」を意識して行動している。
しかし、何もそれは「豊臣恩顧」の大名たちだけではない。...
徳川家康自身も、既に死んでいるとはいえ、絶えず豊臣秀吉の存在を意識せざるを得なかったであろう。
結局、豊臣秀吉の喪失という、あまりに「巨大な空虚」を中心として、双方がせめぎ合ったのが「関ヶ原の戦い」と云えよう。

「関ヶ原の戦い」以降、権力の中心は近畿地方から大きく東方へ移動することと成った。
かの建武の中興、足利尊氏・直義による足利政権から南北朝時代、室町幕府、さらに織田信長の岐阜や安土の政権、そして豊臣秀吉の大坂・京都(聚楽第)・伏見といった「権力の中枢拠点」は、ほぼ「畿内」に位置していた。
ところが、関ヶ原の戦いの以降、権力の実質の頂点は徳川家康に成り、彼の城下町であった江戸が「本拠地」と成る。
勿論、関ヶ原の戦いが勃発する以前のように、京都の伏見や大坂に居ても良かったのだろうが、大坂には豊臣秀吉の遺児・秀頼とその生母・淀の方が居た。
だから、大坂近辺に徳川家康が本拠地を構えることは憚られたのである。
結果として、関東の武蔵国・江戸に「権力の中枢拠点」が移転し、否応無く「まちづくり」が為されることと成った。
最終的に、「大坂冬の陣、夏の陣」に於いて、徳川幕藩体制が完成されるのであるが、これによって江戸という「城下町」は、「天下普請」というかたちで大々的な「まちづくり」によって、新たな巨大な「まち」と成るのであった。
さらに、天皇陛下や公家衆が残って居る京都や大坂と江戸を結ぶ「街道」が整備され、その途上である東海地方の名古屋も発展することと成った。
結果として、云えることは、「関ヶ原の戦い」と「大坂の陣」で徳川家康が勝利したことにより、日本の国土の開発が大きく東方へ及んだ、と云うことである。
もし、江戸が、単なる「外様の大大名」の「城下町」で過ぎなかったのであれば、江戸は現在の石川県金沢市のような規模までしか発展しなかったであろう。
「関ヶ原の戦い」が、もし、石田三成方「西軍」の勝利で終わっていたならば、その後の日本の国土の発展は、現在よりも大きく西に傾斜していたことだろう。
日本の国土の「中心」は京都と大坂に限定され、畿内より東へはなかなか及ばなかったと想定される。
むしろ、瀬戸内海から九州北部が、より一層開発されていただろう。
ただ、そうなると、いわゆる「西国」と「東国」の「格差」が、とてつもない程に拡大していたと思われる。
関東に江戸が在ったお蔭で、そのさらに東北部の「みちのく」は、距離的には江戸と京都・大坂とあまり変わらなくなったのである。...
もし、江戸がもっと小さな城下町でしかなかったならば、「みちのく」の開発も大きく遅れたことであろう。
また、明治以降も、「西国」と「東国」の「格差」があまりに拡大し過ぎていたならば、「日本」という「統一国家」としての「国民意識」を涵養させることが困難であっただろう。
最悪の場合は、東西で泥沼の内戦と成っていただろうし、「最大の国難」とも云える、対ロシア戦争をも戦い抜くことが不可能であったかもしれない。
「歴史」というものは、或る面、「必然」なのかもしれないのだが、「関ヶ原の戦い」が東軍・徳川家康の勝利で終わったことにより、「日本」の拠点が大きく東へ展開することが出来た訳である。
その結果、「日本」の発展は、より「平均的」に行われるように成ったのだと、自分は愚考する次第である。
つまり、「関ヶ原の戦い」は、現在の日本の国土の有り様そのものを決定付ける戦いであった、と云えよう。
勿論、その前提として、徳川家康が関八州へ「国替え」に応じたということが有ったからであるのだが。

(こんなもんですが、お楽しみ出来ましたか?www)

小林よしのりが遥か遠くに行ってしまった。
何とも残念である。
だが、彼が遥か彼方に活路を見出した「気持ち」は理解出来る。
彼は、間近で「いわゆる保守派」に「幻滅」したのである。
その「失望感」は、当初の「いわゆる保守派」への「思い入れ」が強固であった分、甚大であったのであろう。...
つまり、「アーティスト」としての小林よしのりには、あまりに「重過ぎる」「落差」であったのだと思う。
既に、自分も「保守ではなくなった」ので、なおさら、よく理解出来る。
ただ、自分は「転向左翼」なので、彼ほど「振り子の振れ幅」が大きくは成れない。
いったん「左翼」を経験している以上、例え「反米愛国」であっても、何処までが左翼との「境界線」なのか、何となく解るのである。
だから、「いわゆる保守派」から脱落したとしても、「左翼」にまで「回収」はされないのである。
もし、「左翼」に「回収」される時は、「再転向」をしなくてはいけないだろう。
但し、自分は、鈴木邦男も小林よしのりも「広義の保守」だと「認識」している。
現に、彼等が「反安倍政権」の「陣営」に居ることが、実は要所要所で「効いている」のである。
具体的にどう「効いている」のかは、敢えて書かない。
例え「指摘」したところで、「いわゆる保守派」にも、「左翼」にも理解は出来ないだろうからwww
それにしても、鈴木邦男や小林よしのりを「内包」出来得ない、「いわゆる保守派」の「体質」は、まさしく「左翼」の「相似型」であろう。
いわゆる(自称)「真正保守」の方々から早々に、「在日の創価信者」認定をされて、自分としては「勿怪の幸い」であると感謝にたえないwww

安倍総理が消費税増税を総選挙の争点にされると云う。
しかも、消費税増税の分を教育などの目的税にすると云う。
これは駄目である。
何故なら、消費税を「目的税」化してしまったならば、間違い無く、財政は「硬直化」する。
例え、消費税の税収が増加しても、使用項目が限定されてしまう以上、財政の中で「不足」が発生する。...
必然的に、「財政逼迫」と成り、さらなる増税が求められてしまう。
そもそも、「歳入」と「支出」というものは、融通性が無くてはならない。
「この収入はこの分野しか支出しない」というのは「税収」とするべきではないのである。
事実、「年金」がそうではないか?
あくまで「年金」に「支出」するために「支払ってもらう」から「保険料」なのである。
もし、どうしても「特定目的」のための徴収であるならば、「税」というかたちでは駄目であろう。
つまり、消費税の増税分を教育なり福祉なりに特化させるということは、土台、無理なのである。
結局、「教育目的」「福祉目的」で徴収した「筈」の「税」が、道路財源や産業振興の補助金に回されることと成る。
これは「財政」の硬直化を防ぐためには致し方の無いことである。
だが、この「内幕」が暴露された瞬間、それは「醜聞」と成る。
「国民に対して、教育や福祉だけに使うために増税したのに、何故、他の目的に流用したのだ!
これは、公約違反だろう!
国民を騙したな!」
このような指弾は免れない。
当然、内閣の支持率は急落する。
つまり、これは、事実上の安倍内閣の「自爆装置」そのものであろう。
例え、今回の総選挙でめでたく勝利出来たとしても、遠からず、この「自爆装置」が作動すれば、一気に命脈が断たれるだろう。
要は、消費税増税の目的税化とは「朝三暮四」であるということである。
「大衆は馬鹿だ!」と喝破したのは全学連の唐牛健太郎であった。
だが、選挙に勝利し、政権を強固にするには「大衆に依拠しなければならない」。
「大衆に依拠」するのであれば、大衆に対しては、やはり「敬意」と「畏怖」を持たなくては駄目だろう。
それは例え、「口先だけ」であろうとも、そうしなくてはいけない。
間違っても「大衆」を愚弄し、嘲笑したならば、いずれ、その「基盤」は崩壊することと成る。

(付記)
消費税を10%に増税するという。
但し、教育や福祉に使う、という。
さながら、貧困層へ火を放っておいて、後から消火活動に頑張るようである。
こういうのを「マッチ・ポンプ」と云う。
もしくは、「自作自演」か?www...
これで、「何と素晴らしい!」と云う程、日本国民は愚昧ではないぞ。

(さらに付記)
今回の衆院解散・総選挙の「大義」とは何だ?
また、「争点」とは何だ?
憲法改正?
消費税の増税?
はたまた、一院制にする?...
あまりに「問題提起」が可笑し過ぎるではないか?
今回の選挙は「政治と政権の安定化の構築」これに尽きるではないか!
つまり、予想される「未曾有(注・みぞうゆう、ではないwww)の国難」の襲来に備える為の「国家体制固め」のための「選挙」である筈。
だから、最終目的として、憲法改正は存在するのだが、今回の選挙の争点にしてはいけない。
今回の選挙は、あくまで「緊急避難」「緊急事態対策」のためのものである。
あとは、「好景気への最終仕上げ」でなくてはならない。
必然的に「消費税増税」なんぞ、有り得ない。
アクセルとブレーキを一緒に踏んでしまってどうするつもりなのだ?
国民は、現在、多面的な「将来への不安」を抱えている。
一つは経済的な不安。
そして、もう一つは国家安全保障上の不安。
この「国民の不安を払拭する」ということのみに、今回の選挙は傾注すべきなのだ。
「あれもこれも」と目移りすると、焦点がぼやけて、ピンボケに成る。
勿論、「いわゆる保守派」の常套句である、「選挙に負けても大義は残る!」と云い切ってしまうのであれば、自分はもう、何も云わないがwww

被害者意識を持った人間と云うのは厄介至極である。
自分は可哀想だから、ということで、何をされても感謝する気持ちが湧いて来ない。
それくらいされてもらって当然、と思う。
だって「被害者」なんだから。
そして、「被害者」なんだから、自分が何を要求しても、何をしでかしても当然だと思っている。...
だから、被害者意識を持つと、人間はとてつもなく酷薄に成る。
どんな残酷なことをしでかしても全く呵責を感じない。
いわゆる「悪人」のほとんどが、自分のことを「可哀想」と思い「被害者意識」を持った人間である。
では、そういう「悪人」から脱却するにはどうしたら良いのだろうか?
それは、「感謝」と「祈り」である。
どんな環境であれ、「感謝」と「祈り」を行い続けれていれば、この「被害者意識」を払拭出来る。
逆に、「感謝」と「祈り」が足りない人には、あまり近づかないことである。
何をされるか解らないからである。
こちらがあきれ返る程の酷い仕打ちをされても、向こうは平然としている。
「だって、あたしは可哀想な被害者だから」
厄介至極である。

ついに「衆議院解散・総選挙」と成る。
かくなる上は「是非に及ばず」である。
さて、「衆議院解散・総選挙」に打って出るということは、安倍総理は、「今こそ、好機」とご判断されたのであろう。
だが、この「好機」というものが曲者である。
例えば、かの惟任日向守明智光秀が水無月一日に京都本能寺に逗留中の織田信長を討つことを決意したのは、「今こそ、好機」と判断したからであった。...
そして、現に、明智光秀は首尾良く、織田信長を本能寺に於いて死に至らしめた。
世に云う「本能寺の変」である。
しかも、彼の「幸運」は連続する。
同日、京都の二条城に逗留中の、嫡子・織田信忠を死に至らしめることに成功する。
つまり、明智光秀は、織田家当主の織田信長だけでなく、後継ぎの長子・信忠まで殺せた訳である。
しかも、数日後には、かの名城・安土城も焼け落ちることと成る。
しかも、北陸の柴田勝家は上杉との戦いで釘付け、丹羽長秀や織田信孝は四国の長宗我部攻めのため、大阪あたりでもたついていた。
滝川一益に至っては、遠く、関東の上州に居たし、織田信長の同盟者であった徳川家康は、堺を見学中に、大慌ててで脱出し、伊賀越えで死にかかる。
もう、この上無い「好機」だった訳である。
だが・・・
その後の「歴史」は、ここで今更書くまでもあるまい。
結局、明智光秀の「好機」は、単に「織田信長を殺す」ということのみだった訳である。
織田信長を討った後に、「天下人」に成るという「好機」ではなかった、ということであった。
だから、「その時が好機であるか否か」は、後々に成ってみないと、何とも云えないところが有る訳である。
ここで、自分が思い出したのは、明智光秀が本能寺へ攻めかかる直前に、京都・愛宕山に於いて、おみくじを引いたという逸話である。
明智光秀が火伏の神で有名な愛宕山でおみくじを引いた際、「大凶」が出たと云う。
狼狽した明智光秀は、何度も何度もおみくじを引き続けた(らしい)。
そして、続けざまに「大凶」が出たという。
奇しくも彼の末路を知っている我々は、このおみくじの結果に納得してしまう。
だが、自分は、むしろ、その引いたおみくじが「大凶」であったことを重要視しない。
問題は、「大凶」というおみくじを引いた後に、何度も何度もおみくじを「引き続けた」ということこそが駄目だったと思うのである。
もし、仮に、その時の明智光秀が織田信長であったならば(まあ、織田信長を織田信長が討つ、というのもおかしな表現なのだが)、こうはならない。
多分、おみくじを引くのは1回のみ。
それが「大吉」であろうと、「大凶」であろうと、それで織田信長は肚を括ったであろう。
いざ、決戦という時、勝敗を決するのは「時の運」である。
「勝敗は時の運」と云うのである。
だが、その「時の運」というものは、実は我々自身で掴み取ることが出来る。
と云うより、「時の運」は我々自身で是が非でも掴み取らねばならない。
それは、「覚悟」だと思う。
やはり、「覚悟」を決め、徹底的に「戦い」に立ち向かうことであろう。
逆に「覚悟」が定まらなければ、どうしても「ふらつく」。
その逡巡が、一瞬の気の迷いと成り、決断を遅らせることとなる。
「拙速は巧遅に勝る」訳である。
覚悟を決め、後は、頭がのぼせ過ぎず、かといって、腰が引けることが無いように、頭脳と神経を研ぎ澄ますのである。
まずは、「覚悟」を決めなくてはいけない。
後は、只今この瞬間に、何を為すべきなのか。
このことに注力することであろう。
「決戦」の火ぶたは、事実上、切って落とされた。
今迄、我々が蓄えて来た「ちから」を、今こそ発揮するべき「時」であろう。
いざ、「出陣」である!!!

NHK大河ドラマ「おんな城主直虎」を見て。
ドラマの中で、山伏が出て来る。
この山伏は、無名の存在であるのだが、要所要所の「つなぎ」の役割をしている。
勿論、この山伏自身に武力など無い。
にもかかわらず、重要な役割を果たしているのである。...
この山伏を見て、「あ、ひょっとしたら、自分かも」とwww
自分は、修験道も好きだからwww

ひとくちに「学者」と云う。
だが、「学者」とはいったいどのような人間なのかどうか。
ただ単に「博識」である、と云う訳ではない。
日本に於ける、「東洋史」「支那史」の泰斗と云えば、京都帝国大学教授であった内藤湖南が有名である。
何故なら、そのあまりの頭脳明晰さゆえに、映画「コナン・ザ・グレート」がつくられ、「名探偵コナン」と呼ばれるようになったからである(と云うのは大ウソですwww)...
内藤湖南の学説で有名なのは、支那の王朝に於いては、既に宋代に於いて「封建社会から脱却した」というものである。
マルクス・レーニン主義の歴史観では、「アジア的停滞性」と指弾されているわけであるのだが、内藤湖南は独自の支那史研究を行っている。
その高弟が、同じく京都大学教授だった宮崎市定である。
彼の著作は中公文庫から多数出版されており、手に取り易い。
その宮崎市定が、「学者とは何か?」という「定義」をされている。
宮崎市定によると、「学者とは、一次資料を読み込んだ研究をした人間であり、どんなに物知りであったとしても一次資料に依らないのであれば、学者とは云えない」と云う。
この「一次資料」というのが重要である。
これは、何も「歴史学者」だけに限定されないだろう。
既に時代はインターネットで情報や知識を得、さらに検討と論議を同時に行うことが可能に成った。
だから、インターネット上の情報や知識もいずれは「基礎文献」と云う位置づけを得られるだろう。
ただ、インターネット上の情報や知識は、コピーと拡散が瞬間的かつ広範囲に可能であることが問題と成ろう。
つまり「出所不明」と云う問題点である。
少なくとも、現時点に於いては、「一次資料」というのは「紙媒体」もしくは、「編集者」や「発信者」の裏付けが取れるものでしか有り得ないと思う。

とにかく、宮崎市定の「定義」は自分としては肝に銘じている。

俄かに「衆議院解散・総選挙」の「報道」が過熱して来た。

平成29年9月16日土曜日の朝日新聞朝刊政治面(第4面)(東京第13版)に大きく、

「解散風 胸騒ぎの臨時国会」「野党苦境 年内なら政権に好機」「民進、準備手つかず」

との見出しである。

さらに、同紙のスポーツ面(第21面)の「週刊ポスト」(平成29年9月29号)新聞広告に於いても、

「安倍『10、22火事場泥棒総選挙』!」「自民『3分の2大圧勝』の悪夢」

「麻生も二階も『総理、今なら勝てますよ』と耳打ちした」

との見出しである。

その他の、読売新聞や産経新聞などの動向も気に成るのだが、現在、我が家は朝日新聞呑みの購読なので比較出来ない。

さて、これには「予兆」が有り、夕刊フジに於いて、平成29年9月14日木曜日(13日発売)号に於いて、「9,25解散強まる」との一面見出しが。

また、翌日の平成29年9月15日金曜日(14日発売)号に於いて、

「9月解散議席予測 自公300議席超」との一面見出しが掲載された。

こう見て来ると、「珍しく」かの朝日新聞が、産経の夕刊フジの「後追い」をしている「構図」と成る。

自分は既に、「現時点で解散・総選挙を行うべきではない。もし、解散・総選挙を強行するのであれば、消費税減税を即刻言明した後でなければ負ける」と書いている。

さて、何か「行動」が為された場合は、必ず、「意図」が存在する。

何故、今、かの朝日新聞が俄かに「衆議院解散・総選挙」の「可能性」について、大きく記事を掲載しているのであろうか?

つまり、「衆議院解散・総選挙」が「行われるのかどうか」ということよりも、「衆議院解散・総選挙」の「可能性」についての「記事」を掲載する、朝日新聞の「意図」がいかなるものであるのか?ということを注意して「読み解く」ことが必要である。

答えは至極簡単明瞭である。

先月8月から後から後から途切れることの無い、野党第一党の民進党からの国会議員の離党を睨んでのことであろう。

さらに、民進党代表に、いわゆる「保守系」とされる前原誠司が決まったことから、日本共産党「主導」wwwの「野党共闘」が頓挫していることが大変、大きく影響していると思う。

つまり、かの「朝日新聞」の「意図」はこうである。

「解散・総選挙が切迫して来た。かくなる上は、民進党・共産党などは一致団結せよ!そうしなければ、アベ政治をみすみす許すような結果になるぞ!」と。

いわゆる「解散・総選挙」風を「吹かせる」ことによって、現在の民進党の「流出」「解党」への流れを阻止し、さらに前原代表の意図とは反対に民進党と共産党などとの「野党共闘」体制を早急に構築させようとする、強烈な「ミス・リード」であると見るべきであろう。

但し、かの「朝日新聞」が金切り声で焦燥するということは、あながち、悪いことばかりでは無い。

ちなみに、時の総理が「嘘をついて良い」のは「衆議院・解散総選挙」の「時期」について「だけ」と云われているwww

今後の「状況」と「展開」によっては、一気に「総選挙」へ雪崩込む「可能性」も高まって来た。

かくなる上は、「準備」だけは怠るべきではなかろう。

なお、「衆議院解散・総選挙」の「可能性」を前面に押し出すことによって、かの山尾しおり代議士の醜聞記事が吹っ飛んでしまう流れが出来てしまうだろう。

ならば、ここはきちんと山尾代議士(まだ、彼女は衆議院議員を辞職していないのである)の醜聞に関して、「忘却」しないことである。

こここそ、インターネット言論の腕の見せ所であろう。

平成29年9月14日木曜日(13日発売)の夕刊フジの一面トップは、

「9・25解散 強まる」「山尾引き金」「与党を勢いづかせる前原民進党の体たらく」

であった。

既に、来たる10月22日に、青森県4区、愛媛県3区、新潟県5区の3カ所で補欠選挙が行われる。

そこへ、衆議院解散・総選挙をぶつけよう、というのである。

一時は、森友学園(籠池理事長)と加計学園の、国有地の払い下げや大学許認可に絡む「醜聞」と、南スーダンでのPKOに関する自衛隊の日報の破棄したのか、しなかったのかといった問題で、安倍内閣の支持率は急落した。

だが、8月3日の内閣改造を機に、「雰囲気」は和らいで来た。

元来が、「根拠薄弱」であった森友・加計の両学園の問題は、「政府内」での「トラブル」であり、安倍内閣そのものが問われる性質ではなかった。

また、PKOの日報の問題は、首相官邸・稲田防衛相・防衛相との連携が「まずかった」為の「失態」であった。

まあ、批判されても仕方ないのだが、さりとて、これで「倒閣」まで行ってしまうのはどうか?という問題であった。

一方、酷いのは野党であった。

野党第一党の民進党の代表・蓮舫氏が、突如、代表の辞任を表明。

さらに、一時は民進党の前身・民主党の幹事長だった細野豪志(山本モナ男www)が、突然の離党。

さらに、離党者が続出。

とどめは、先週の週刊文春に素っ破抜かれた「山尾しおり」の「ダブル不倫」発覚であった。

これで、野党第一党の民進党は、文字通り「グダグダ」である。

また、9月に代表戦を制して就任した、前原誠司が、所詮は「言うだけ番長」wwwなので、てんで「まとまらない」。

一応、「共産党との野合はしない」と云っているが、そんなもん、誰も信じてはいない。

選挙とは、畢竟、「相対的」な勝敗である訳で、例え自分が強くなくても相手がより弱ければ「勝てる」という「理屈」に成る。

とは云うものの、果たして、現時点(平成29年9月13日現在)でもって、解散を打って、「勝算」は見込めるのであろうか?

既に、9月11日と12日のNHKと読売新聞の世論調査に於いて、支持率はNHK50%、読売新聞44%に。不支持率はNHK39%、読売新聞36%と共に支持率が不支持率を上回った。

とはいえ、「何となく嫌な感じ」で「不支持」だったのが、「ほとぼりが冷めた」だけで、政権そのものに「勢い」が無い。

だから、自分としては、今、解散・総選挙を行ったら、まちがい無く「負ける」。

中には、「この北朝鮮有事の時こそ、民進や共産などの『平和ボケ』野党を圧倒出来る!」と「今こそ、絶好機会!」と云ってしまう人がいる。

そう云う人は「論理矛盾」が甚だしい。

そもそも、「北朝鮮有事」の時に、「解散・総選挙」なんぞ、やっては駄目だろうが!

それこそ、安倍総理が地方遊説中に、北朝鮮からの核ミサイルが発射されて、日本の何処かに着弾して数十万人が死傷したら、現在「危機管理に強い安倍政権」という「評判」は大暴落するであろう。

安倍政権が安全保障にシビアであるならば、政権の正当性の根拠である、「下院」衆議院の圧倒的多数を解散でもって解消し、権力の空白をつくり出すことは最も避けなくては駄目だろう。

あと、夕刊フジの当該記事にも有る通り、安倍内閣には懸念材料が有る。

「女性の支持が戻っていない」ことである。

なお、女性の支持を急上昇させる「秘策」は明確に存在する。

既に自分は何度も明言しているように、「消費税減税」である。

期限を区切って、現行の消費税8%を3%にしてしまう。(無論、消費税10%なんぞ絶対に有り得ない!)

もう、これだけで、主婦層の支持は高騰するだろう。

勿論、朝日新聞などは、「財政規律はどうする?」などと訳知り顔で批判するのだが、そもそも朝日新聞の経済政策に関する「論調」は経済的には「整合性」が無い。

まず、「国民目線で」などと「弱者救済」を訴えておきながら、一方で「前例の無い金融緩和政策はおかしい」などと批判する。

要は、朝日新聞は「安倍政権で日本の社会が豊かに成り、国民が幸せに成ること」が許せないだけなのである。

だから、経済政策としては「正しく」ても、安倍政権の経済政策だから「正しくない」のである。

もう、「反安倍政権が社是」だから朝日新聞の異状さは目に余る。

しかしながら、現時点に於いて、安倍政権は「消費税減税」を全く明言していない。

逆に、「ポスト安倍」を自認する岸田文雄新政調会長が「増税推進」を訴える次第である。

全く、こいつの本音は安倍政権をつぶしたいのだろう。馬鹿じゃないのか?

なお、一気に解散・総選挙にしないで、「補選のみ」で戦った方が、現時点では安倍政権には有利だと思う。

それは、「戦力」を「集中」出来るからである。

勿論、安倍政権に「勢い」が有るのならば、文字通り「余勢をかって」ということも可能であろう。

だが、現時点では安倍内閣の支持率がようやく上向いて来た「小康状態」に過ぎない。

ならば、確実に3つの補選の選挙区で「勝利」することを「選択」した方が賢明だろう。

と云うことで、自分は、現時点での衆議院解散・総選挙は「行うべきではない」し「行われない」だろうと思う。

まあ、今、やらないとは思うが。
もし、今、安倍政権が衆議院解散・総選挙を打つのなら、やめた方が良い。
選挙に負ける。
確かに、選挙とは相対的なものであるから、野党の民進党がガタついているうちに選挙に持ち込んでしまえば、「有利」に見える。
また、北朝鮮の「暴発」も、安倍政権の「国防重視」の取り組みに「追い風」と成っている。...
だから、「今が好機」に見える。
だが、肝心の「経済」はどうなのだ?
特に「国民の懐事情」はどうなのだ?
今夏は、東日本で、記録的な長雨だった。
東京は8月に入って21日間、連続の雨天である。
さらに宮城県の仙台市はもっと多い。
お蔭で、野菜は腐ってしまって出荷出来ず、野菜価格は高騰している。
さらに「夏物」を商売にしている各業者は、東日本に於いては、踏んだり蹴ったりである。
変に6月頃に、暑さが酷かったせいで、否応無く「夏季の売り上げの期待値」が上がってしまったのだ。
それが蓋を開けて見たら、散々な結果である。
もう、詐欺に遭ったようなもんである。
おまけに、北朝鮮の危機リスクで、株価は下がる、円相場は上がる。
これで、国民の生活が打撃を受けない筈が無いではないか?
少なくとも、例年通りの夏の暑さであった西日本はともかく、長雨で精神的にも肉体的にも経済的にも「ぐずついている」東日本地域に於いては、今、選挙をやったら、間違い無く「政権批判票」が増えるだろう。
もし、それでもなおかつ、解散・総選挙に打って出たいのなら、「国民の経済が元気に成るまで、消費税は絶対に増税しません!」と、さっさと表明してしまうことだ。
とにかく、国民の経済的な不安を取り除かなくては、「選挙」で絶対に支持は得られない。
変に小細工を弄したところで、そのあざとさは得票には結び付かない。
自分としては、「消費税8%据え置き」ではなく、時限で「消費税率引き下げ」を言明することである。
何も国会決議や法案決議まで持ち込むまでもない。
とにかく国民へ「公約」してしまうことである。
そして、消費税に関して議論を封じてしまえば、日本共産党も攻め所を失ってしまうのである。
さあ!決断せよ!

かつて、日本の政治史に於いて、幾度かの「ブーム」や「フィーバー」が有った。
日本社会党の土井たかこ委員長時代の
「売上税反対」を契機とした、「マドンナブーム」。
熊本県知事だった細川護煕が国政に復帰し、日本新党を結成した
「新党ブーム」。...
さらに、小泉純一郎内閣の電撃的な「郵政解散総選挙」による「刺客擁立」によって誕生した「小泉チルドレン」。
そして、民主党の政権獲得の象徴的であった「小沢ガールズ」。
「小沢ガールズ」は、選挙直前まで民主党代表だった小沢一郎が擁立させた女性候補者たちであった。
だが、見た目の華々しさとは裏腹に、これらの「ムーブメント」は、その「成果」があまりに貧困であった。
例外的に「新党ブーム」の時に当選した新人候補が、現在の日本政界の中枢に位置している。
先日、民進党の代表選を争った前原・枝野両人がそうだし、小池百合子東京都知事もそうである。
安倍総理も「新党ブーム」の候補者ではないが、「同期」である。
また、一時は地方政界へ転出した、山田宏、松沢成文といった政治家も現在国政に復帰されている。
だが、それ以外は、ほとんど、確たる「成果」を残せていない。
数年前に「第三極ブーム」が有った。
渡辺喜美の「みんなの党」や橋下徹の「日本維新の会」といった、自民でも民主でもない、「第三極」の新党の躍進であった。
だが、日本維新の会は、分裂と合流を繰り返し、今また「日本維新の会」として再出発をしている途上である。
一方の「みんなの党」は迷走し、渡辺喜美の「盟友」であった江田憲司は民進党の「重役」に収まってしまった。
当の渡辺喜美は、衆院選で落選し、「おおさか維新の会」に「拾ってもらって」国政復帰。
だが、また、飛び出してしまった。
そんな中で、いわゆる「第三極ブーム」での「成果」は、「政治家・和田政宗」を輩出したことだろう。
和田政宗は、かの社会党からの国会議員であった、左翼の重鎮・岡崎トミ子を落選させて当選した。
もう、これだけでも、その功績は大であると云っても良い。
さらに、「みんなの党」が空中分解した際、江田憲司にくっついて「寄らば大樹の陰」とばかりに民主党的な「野党」病に走ることが無かった。
また、組織の中で揉まれることを嫌がり、自前のサークル的な「政治集団」でモラトリアムに耽溺する道も選ばなかった。
政治家・和田政宗は、敢えて保守野党である、次世代の党へ入党し、日本のこころ党へと戦い続けた。
現在も、政治家・和田政宗は、「保守政治家」としての戦闘を鋭意続行中である。
自分から見て、いわゆる「みんなの党」の唯一の政治史的な「成果」は、政治家・和田政宗を輩出したことのみだと断言したい。
既に、先月、著書も出版され、健筆も振るわれている。
自分としては大いに期待をしたいと共に、支援を惜しまないつもりである。

民進党の前原新執行部の人事が発表された。
注目の「幹事長」人事は、山尾の「姉ちゃん」www。
まあ、テレビ映りは問題なかろう。
自分が気に成ったのは「選挙対策委員長」人事である。
馬淵澄夫から長妻昭に変わった。...
ご両人とも選挙に強い。
だが、二人の政治的信条は、正反対である。
長妻昭は、あまりに明瞭な左翼リベラルである。
自分は、この「人事」を見る限り、前原民進党が、日本共産党主導の野党選挙共闘路線を見直すことは有り得ないだろうと感じた。
だったら、枝野が代表に成って居た方が、「解り易かった」と思う。
これだと、一見、民進党は「保守化」したように見える。
だが、本当はそうじゃない。
まさに「羊頭狗肉」である。
多分、ほとんどの国民は騙されてしまうのだろうなあ。

日本が誇る、世界的なジャズ・トランペット演奏家の日野皓正が、指導していた中学生のドラム演奏中に、怒鳴りつけて引っ叩いた。

あくまで内輪の演奏会だったようだが、その時に撮影されていた映像がマスコミへ流出し、世間に露呈することと成った。

確かに、件の映像を目にすると、ちょっと衝撃的ではある。

案の定、世間は、日野氏の振る舞いに「横暴」、「虐待」といった非難の嵐と成った。

 

こういう「事実」が露呈した際、正直、自分は辟易とする。

いわゆる「体罰の是か?非か?」という、あまりに、陳腐化した論争の焼き直しのような既視感を感じるのだ。

自分としては、いわゆる「体罰」「愛の鞭(むち)」「鉄拳制裁」というものの「存在」や「意義」は認める。

何故ならば、そういった「暴力的指導」が、時と場合によって「効果的」であるという「事例」が認められるからである。

そもそも「人間」というものは、「論理的」ではない。

「情緒」や「感性」で左右される。

そして、その「情緒」や「感性」というものは、「恐怖」や「畏怖」という要素に強烈に反応するのである。

だから、時に、心身が縮み上がるような叱責を加えたり、直接に身体的な暴力を加える場合も有る。

ただ、この「暴力的指導」という「指導方法」は、難易度の高い「技術」を必要とするものであることを強く指摘しておきたい。

つまり、指導を加える「相手」の「気性」や「状況」をよくよく知悉し、分析した結果に於いて、或る特定の状況に於いては、「暴力的指導」を課した方が「最適」であると判断した上で、はじめて行うことが「許される」指導手法なのだと自分は考える。

そう云えば、2013年1月10日に、大阪市立の桜宮高校のバスケットボール部の主将(当時17歳)が自殺したのだが、それは顧問の教師がむやみやたらに「体罰」を加えていたのが原因だった。

これは、自分から見て、明確に「虐待」である。

まず、恒常的で、多発していること。

つまり、目が合って、言葉を交わすたんびに拳が飛んで来るような感じである。

これは「指導」とは呼べない。

単なる「衝動的な憂さ晴らし」である。

また、人間には、そのひとそのひと、それぞれの性癖が有る。

例え、蹴飛ばしてもケロリとして後に引きずらない人もいれば、ちょっときつく指摘しただけで頭を抱え込むほど苦悩する人もいる。

だから、「指導」とは、すべからく「相手」をよく知悉し、分析した結果の上で行うべきなのである。

それは、結果的に「自殺」にまで到ってしまった「相手」に対して、「暴力的指導」を加えることは、明確に間違っていた、と云わざるを得ない。

具体例を云うと、かつて、読売巨人軍のV9(1965年昭和40年から1973年昭和48年まで)という「黄金時代」が有った。

そのV9のヒーローと云えば、長島茂雄(長嶋茂雄)と王貞治である。

当時の監督は1961年昭和36年に就任した川上哲治だった。

(往年の「赤バットの川上」と云われた「打撃の神様」だった。って書いても若い人は全く解らないwww)

その川上監督は、あっけらかんとした長島に対しては、チームメイトが居並ぶ中、大声で頭から怒鳴りつけて指導をした。

一方、生真面目な王に対しては、一人別室に招き入れて、こんこんと教え諭したと云う。

まさに、「人を見て法を説け」ということである。

つまり、万人に共通の最適な指導方法というものは存在し得ない訳である。

人間と云うものは、十人十色、千差万別である。

指導する「相手」、個々に対して、それぞれ合致した「指導方法」でもって対応しなくては意味が無いのである。

 

さて、今回のジャズのドラム演奏である。

ジャズというのは、極めて「即興性」が重要視される音楽のジャンルである。

ピアノ、ベース、トランペットなどの各々卓越した演奏者が、その場、その時の「阿吽」の呼吸で、自在に演奏を変化させていくのである。

勿論、基礎となる譜面は存在する。

だが、ジャズのジャズたる醍醐味は、そのセッションによる「即興性」に有る。

ジャズに於いては、ハーモニーとしての合奏の合間に、各楽器のソロ演奏が挟み込まれる。

云ってみれば、そのソロ演奏の時が、その楽器の演奏者の「独壇場」と成る訳である。

だから、本来は脇役であるベースなどが、そのソロ演奏の時は主役と成る。

ただ、そのソロ演奏も、全体の合奏演奏の中のバランスの中ではじめて意味を為す。

もし、興が乗ったからといって、延々と一人の奏者が自分のソロ演奏に没頭してしまったら、そこでジャズという「音楽」そのものが崩壊してしまうのである。

いわゆる、進歩主義的な、左翼教師どもは、「子どもたちの個性や人権を最大限に尊重して」などと云う。

だが、はっきり云って、芸術の「舞台」、美の「世界」に於いては、「個性」も「人権」も「糞喰らえ!」なのである。

「ひとつの作品」としての完成度の高さこそが、唯一絶対の価値観なのである。

かの芥川龍之介は、短編小説「地獄変」に於いて、究極の美を描くためには愛娘が焼き殺されることも厭わなかった「絵師」を描いた。

かの岡本綺堂は、戯曲「修善寺物語」で、面打ち師は究極の面を打つために断末魔の愛娘の死相を必死に成って紙へ写し取った。

「芸術」とは、かくも狂おしく、呪わしいのである。

だが、それゆえに、万人の意識を奮い立たせ、酔わせるのである。

 

彼のドラムに没頭した中学生生徒は、多分、「その瞬間」、何かに憑りつかれたのであろう。

あまりに興に乗ってしまったので、時間が経つのを感じられなくなったのであろう。

だが、それではただ単に「狂態」を示しただけである。

「芸術」に於いては、「狂態」を示しても良い。

だが、それはあくまで「自覚的」かつ「制御可能」な、いわば「冷徹な狂態」でなくては駄目なのである。

ここのところを押さえなくては、何故、日野皓正が中学生の演奏中に舞台へ上がり込んで無理やり演奏を終了させようとしたのかが理解出来ないだろう。

 

自分は、今回の日野氏の行いが、単なる「虐待」であったとは見なさない。

何故ならば、あまりに目立ったからである。

もし、これが、閉鎖的な個室(ロッカー室など)での振る舞いで、しかも、多発し恒常的であったならば、まさしく「虐待」であろう。

だが、今回の日野氏の振る舞いは、敢えて、自らの「暴力性」を指弾されるリスクを冒しての振る舞いであった。

これは、利己的とは程遠い、「無私」の振る舞いだろう。

確かに、日野皓正は身体的に直接的な「暴力」を振るった。

だが、ラテン語に於いての「戦争」の意が「最終的な対話」であるように、「暴力」という代物に対して、短絡的に「思考停止」をしてはならないだろう。

日野皓正は、自らの「暴力的指導」への指弾を「引き取った」。

このことをよくよく受け止めるべきだと自分は考える。

 

なお、もし、この件によって、日野皓正が、以後学生たちへの「指導」が不可能にされてしまったならば、かのドラムを演奏した中学生は、きっと生涯を通じて責苦を感じることであろう。

あの時、自分が狂態を示さなければ、日野皓正は、音楽や演奏を通じた全人的な指導を継続出来たのに、と。

もし、「暴力を受けた中学生の心の傷を可哀想とは思わないのか?」などと訳知り顔で指弾するのであれば、そういう自称「良識派」の連中こそが、本当は彼個人が背負い込めないほどの「負い目」を押し付けることと成るだろう。

 

自分は、「暴力」を忌避する。

また、「体罰」も万能の指導方法だと思わない。

しかしながら、「暴力」をただ単に絶対悪と見なし、それを全否定することが「良識」であるという安直な思考停止の行い方に、自分は反吐が出る思いである。

先日、仕事で、たまたま或る運送会社のトラックが前に駐車していた。

で、そのトラックから、荷物を運び降ろしたりしていた。

自分の仕事もそうなのだが、いわゆるトラックの駐車禁止対策のために働く人間は、老人が多い。

トラックの助手席に座っている私服の人である。

ドライバーは、大抵、運送会社などの会社の制服を着ている。

だから、駐禁対策要員は、現在はほぼ老人が占めている。

で、先日、自分がたまたま目にした或る運送会社のトラックには、3名の会社の制服を着たスタッフが作業をされていた。

そこで、自分は衝撃を受けた。

多分、3名のうち、1名は運転手で、残りの2名はアシスタントなのだろうが、その全員が老人だったのである!

60歳代から70歳代の老人が3名、必死に成って荷物の上げ下ろしをされていたのだった。

 

自分は、現在の仕事柄、さまざまな場所へお邪魔する機会が有る。

警察署や消防署、税務署、市役所、病院、自動車製造工場。

そう云えば、某超巨大宗教団体の施設にも入ったことが有った。

そんな中で、某運送会社の施設内で、たまたま目にした貼り紙に、自分は衝撃を受けた。

「認知症チェックを受けましょう!認知症予防講習を受けましょう!」

これは、いくら何でも50歳代以下の人間が多数出入りする「職場」であるならば、あまり必要性の無い貼り紙だと思う。

 

以上、あくまで「状況証拠」に過ぎないのであるが、多分、我々の「物流の現場」に於いて、極めて深刻な状況が進んでいると感じる。

それは、従業員の「高齢化」である。

現に、自分のメールボックスに送信されてくる「転職サイト」の「求人依頼メール」は、運送会社とタクシー会社ばかりなのだ。

つまり、現在46歳のこの「ポンコツ」でさえ、「若手」なのだろう。

先日、工事現場の職人や警備員、マンションなどの集合住宅の管理人の「成り手」がいなくなって、いったん「引退」「リタイア」したような方々まで、引っ張り出されている状況のようである、と拙文に書いた。

さらに、ビルやトイレの清掃従業員もお年寄りが多い。

或る民有鉄道会社の駅のトイレの清掃員は「定年」が70歳なんだそうである。

昨日(平成29年9月1日)だったか、公務員の定年が現行の60歳から65歳へ引き上げられそうだ、という報道が有った。

だが、既に、現実問題は、職場によっては、70歳代でも働きたい人は働いてもらわないといけない状況に成っている。

ところが、「高齢者」の特徴として、いったん怪我や病気をすると、急激に体力が衰えてしまうということである。

つまり、先月まで元気に働いていた人が、翌月には寝たきり生活に急変してしまうことが有り得るのである。

現在、日本の産業社会の底辺に於いて、「老兵」たちが「最後の御奉公」とばかりに、必死で「戦線維持」のために奮闘されている。

だが、所詮は「老兵」である。

5年、10年と「戦線」を支え続けることは不可能である。

で、その「老兵」が去った後の「職場」には、その充当として、今のままの状況ならば、ほぼ全員が外国人に成るだろう。

既に、トイレなどの清掃員には、支那人が多数、働いている。

しかも、セキュリティカードが必要な「管理区域」内のトイレに、である。

具体的には、最先端技術の開発研究所、情報システムセンター、某官公庁など。

しかも、名札は「日本人」名だったりするwww

だが、自分が「失礼します」「お邪魔します」と挨拶しても、ろくに返答もしない。

時たま、耳にするのは明らかに支那語www

こういう「現状」を目の当たりにすると、「外国人移民断固受け入れ阻止!」なんて、もう、とうに「手遅れ」なのだと思う。

はっきり云って、既に「外国人移民」に関する「第一次防衛線」は、とっくに突破されてしまっていると自分は感じる。

だから、「水際で阻止する」「水際で食い止める」というような「意識」では、あまりに現状から乖離していると思う。

勿論、現状を短絡的に追認したり、ましてや自暴自棄に成ったりしたら、尚更、駄目なのだが。

とにかく、既に日本社会内の「人手」の問題は、どうしようもなく深刻なのだと思う。

特に、「底辺」に於いて、である。

まず、「現状」をきちんと正確に把握した上で、適切な対処方法を講じるべきだろう。

これ以上は、「お前の代わりなんぞ、いくらでも居る」という派遣労務者の自分には、残念ながら荷が重過ぎるので、答えられないのが無念である。

平成29年8月31日現在。

あくまで、それがしの独断と偏見である。

さて、自分の見るところ、最早、「小池百合子ブーム」は「収束」もしくは「終了」したと感じる。

何しろ、安倍内閣の支持率が急落したにもかかわらず、ちゃんとした「小池新党」(国政部門)の動きが出て来なかった。

確かに、若狭勝代議士が新政治団体を申請したのだが、事実上、「新党・今は独りぼっち」www

多分、水面下では、民進党や無所属議員を囲い込もうと云う慌ただしい動きが有ったのだろう。

しかしながら、結局、現在に至るまで、「新党・今は独りぼっち」は「そのまま」である。

民進党の山本モナ男、もとえwww、細野豪志が前のめりで離党したのだが、結局、「合流」せずに「漂流中」である。

それは、若狭勝の「新党」が「危なっかしい」と見たからであろう。

そして、それ以前に民進党を離党した長島昭久も、「合流」していない。

現在、小池百合子東京都知事の「表面上」の「側近」は、「都民ファーストの会」代表に復帰した「東京都知事特別秘書」で年収が約1400万円という野田数と、若狭勝である。

両人とも、「優秀」な御仁ではあろうが、「老練な政治家」というところまでは至っていない。

今のところ、都議会・都政を野田数が担当し、若狭勝は国政を担当するという「棲み分け」でもって平穏無事となっているが、もし仮に、小池百合子が本格的に「国政復帰」を目指す段階と成ったら、この微妙な「均衡」は崩壊するだろう。

野田数の政治的原動力とは、自民党(とりわけ都議会自民党)への「ルサンチマン」であろう。

「ルサンチマン」を原動力とする者は、剛直で破壊力に秀でるのだが、視野狭窄で、小回りが利かないきらいが有る。

今迄は、「都民ファーストの会」へは、「順風」ばかりが吹いていたが、その風向きが変われば、一気に失速しかねない。

若狭勝は、とにかく、自分で政治的成果を上げたいのだろう。

軽挙妄動が過ぎる。

逆を云えば、隠し事が出来ず、謀(はかりごと)をめぐらせることに長けていない。

そう云う面では「いい人」なんだと思う。

ただ、政治の世界に於いては、善人よりも悪人の方が「成果」を出すきらいが有る。

ここにきて、小池百合子東京都知事のマスコミへの露出が激減している。

勿論、なるべく「露出」を増やそうと、手を打っているようなのだが、以前のような精彩を欠いている。

というより、以前には存在していた「神々しさ」が消えている。

確かに、卓越した「巧さ」は失われていないのだが、逆を云えば、今では、その「巧さ」だけしか残っていないのである。

何とも形容しがたい、小池百合子東京都知事がまとっていた「渦(うず)」が消えてしまった。

やはり、昨年7月から都議選までの約一年間だけが、彼女にとっての「僥倖の時間」だったのかもしれない。

 

東京都民は、猪瀬・舛添の二代に渡る東京都知事の「ハズレ」ぶりに失望し、さらに、激怒したわけである。

その「製造者責任」として、自民党の東京都連と都議会自民党へ、「懲罰」といった意味合いで、東京都知事に小池百合子を選出し、さらに都議会に於いて、自民党を僅か22議席という「第三党」まで激減させたのである。

だが、これで、東京都民の欲求不満は、云わば、「解消」されたのである。

都議会に於いて、自民党をこれまでに無いほど減らしてしまったので、東京都民の溜飲は下がった。

後は、自民党の東京都連が「傲慢さ」や「非常識ぶり」を露呈しないかぎり、東京都の自民党は、「底を打った」感じと成ろう。

これ以上は悪く成り様が無い、と。

一方、野党第一党(である筈)の民進党は、てんで話に成らない体たらくぶり。

日本共産党は、ここにきて、その「高慢ちきさ」が鼻に付き始めた。

そうなると、「駄目比べ」では、まだ自民党の方が有利であるというところだろう。

 

そうなったならば、今後、取るべき方策は二つ。

一つは、安倍内閣を評価し、支持する者は、極力、安倍総理の下に結集すること。

二つは、あくまで、安倍内閣に否定的な者には、民進党や共産党へ一極集中させるようにしてはいけない。

日本維新の会や小池新党をも、「選択肢」として認識させるようにしなくてはいけない。

選挙とは、あくまで相対的な優劣の結果である。

敵より味方がちょっとでも有利であれば、それで「勝利」なのである。

 

小池百合子東京都知事は、これから3年間程は、じっくりと腰を据える覚悟なのではないだろうか?

現時点で、華々しく国政復帰をしたところで、「政権獲得」などは、夢のまた夢、であろう。

ならば、ここは、東京都知事としての政治的評価を高めることぐらいしか出来まい。

築地・豊洲の市場の問題も、結局は、元の鞘に収まりそうである。

「結局、この問題は何だったのだ?」と疑問を持たれようとも、とにかく、都議選で圧勝した、という政治的成果を挙げられた以上は、もう、それよりもさらに何かを欲するのは、ちと欲張り過ぎであろう。

勿論、小池百合子東京都知事は、「国政」に於ける「不確定要因」で今後も有り続けるであろうが、まずは、「一区切り」ついてしまったと感じる。

 

(さてさて、この自分の「見立て」が正しかったのか、間違っていたのか?

それは、これからの「お楽しみ」であろうwww)

夕方、或る本屋へ立ち寄ってみた。
で、月刊誌の売り場に行ってみて、驚いた。
何と、月刊hanadaも月刊WILLも月刊正論も「売り切れ」。
全く、姿かたちが見当たらないのだ。
どうも、おかしい!...
そう思って、左翼月刊誌・岩波の「世界」の下を探ってみたら、案の定、月刊hanadaの山であった。
つまり、明確な「悪意」による「営業妨害」であった。
絶対に、左翼どもが、「工作」したのである。
なお、この「営業妨害」を「現状維持」にしたのは、明確に書店店員がグルである。
左翼は図書館に多数「生息」しているが、本屋にもそれこそ、多数「生息」している。
まあ、逆にここまで姑息で卑怯な振る舞いをするというのは、左翼どもがいかに、保守系の月刊誌を脅威に感じているのか、という証しであろう。
ということで、心有る皆様方に「お願い」!
お時間が有ったら、本屋に立ち寄り、月刊誌販売コーナーを「巡回」して下さい。
で、もし、「営業妨害」が為されていたら、正しておきましょう!
いやあ、まさに、「頑張れ!敵も必死だ!」ですなあ。

本日、突然、「今月末日で、現在の現場は無くなります。」と会社から電話が有った。
まあ、来月から新しい次の現場を紹介してくれるから、食うに困ることは無いのだが。
でも、今迄、一生懸命、この現場で働いてきたのに、いきなりの「終了宣告」である。
何て云うのだろうか。
やっぱり、「帰属意識」というのが無くなる。...
もう、ただ、淡々と云われることだけをこなすような、そういう仕事ぶりに成らざるを得ない。
所詮、「派遣社員」なんぞ、「お前の代わりなんぞ、いくらでも居る」訳だから、都合が悪く成ったら、とっとと切り捨てれば良い訳だ。
そういう「使い勝手の良さ」こそが、「派遣社員」を使う最大の理由なのだろう。
要は「使い捨て」の「頭数」なのだ。
まあ、自分はそういう人間だから仕方ないか。
ただ、こういう「使い捨て」の人間ばかりが、この日本の社会の中で増え続けていけば、日本の中の各組織はどんどんと痩せ衰えていくことだろう。
「来月から来なくて良い。お前なんか要らない。」と云われ続けた人間が、いざと云う時に、一命を投げ出して「組織」のために尽くそうと思えるのだろうか?
この分だと、今後、日本人の中から「犠牲的精神」でもって殉じる人間はいなくなるだろう。
つまり、日本人はいずれ「特攻」なんか出来ない民族に成る、ということである。

来る9月10日に大阪府柏原市議会議員選挙が行われるが、それに清水文太さんが立候補される。
清水文太さんは、陸上自衛官として20年間奉職された。
いわゆる「叩き上げ」である。
だが、「現場」で絶えず、苦労に苦労を重ねて来られた方が、現在の政治状況を憂いて、ついに選挙へ出馬されたのである。
まだ、36歳である。...
是非とも、選挙必勝、高位当選を心よりお祈り申し上げたい。
で、その清水文太さんへせめてもの自分の「誠意」として、本日、東京の赤坂の「乃木神社」へ参拝して来た。
どうか、乃木希典大将のご加護が清水文太さんへ有りますように。


さて、何となく、気持ちが動いて、乃木神社で御神籤を引いてみた。
「凶」であった。
先日の靖国神社での御神籤と云い、本日の乃木神社での御神籤と云い、「凶」が続いている。
御神籤を引いて、「凶」の字を目にした時、正直、愉快ではなかった。
だが、じきに感謝の念が生じてきた。
だって、そうではないか?
「凶」の御神籤を引いたから、「凶」に成った訳ではないのだから。
元々、現在の自分の状況が「凶」だったのである。
御神籤は、ただ単に、現在の自分の状況を神様は教え示して下さっただけに過ぎない。
云わば、医者の診断によって発病した訳ではない。
発病した結果、医者の診断が出ただけのことである。
むしろ、「凶」であるならば、「凶」と御神籤が出た方が良い。
自分が「凶」続きなのは、多分、自分の「凶」が出現しているからなのだろう。
それは、自分の不徳の致すところであり、また、自分自身が背負っていた悪しき因縁など諸々が、「凶」なのである。
ならば、今のうちに、徹底的に「凶」を出しきってしまった方が良い。
今まさに、自分自身の「たなおろし」をしているのかもしれない。
そうであるならば、「凶」の御神籤を引いて、不快感を示すだけでは駄目だろう。
有り難く、感謝の祈りを込めて、押し頂くべきであろう。
自分は、この「凶」の御神籤を大切に持ち帰った。
ここしばらくは、この「凶」の御神籤を見返して、心身共に引き締めて行きたい。

そう云う意味でも、本日、乃木神社への参拝のきっかけを与えてくれた清水文太さんへは感謝の思いでいっぱいである。

自分がネット上でさまざまな「問題提起」をしていると、いわゆる「保守派」の連中から、「悲観論ばかり云うな」などと泣き言を云って来る。
さらには、「お前はそうやって我々の士気を阻喪させるつもりか!」などと逆恨みをする。
ついには、「お前は左翼の工作員だ!」と名誉棄損をしでかす。
もう、呆れて果てて、いちいち指摘する気も起きない。
そういう惰弱な連中に限って、事ある毎に、「決死の覚悟で!」などと口走る。...
よくもまあ、「決死の覚悟」の「大安売り」をするなぁ、と思う。
それに、「決死の覚悟」でもって「戦闘中」の(筈の)人間が、自分がちょこっと指摘したぐらいで「士気を阻喪」するようでは、本当の「政治闘争」に於いては、全く「戦力」に成らないではないか?
そんな「弱虫」「泣き虫」「いじけ虫」ならば、かえって味方の「足手まとい」に成ること必定なので、さっさと「おうち」に帰れ。
あ、所詮、「おうち」でネットのみの「活動」だから、「何を今更」だったかwww
そう云う訳で、このところ、極力、いわゆる「保守派」のコミュニティには書き込みをしないし、見に行きさえもしないようにしている。

まあ、実際に、いわゆる「保守派」内部に、左翼の「工作員」が潜入しているとは思うけど、真の「工作員」ほど、「工作員」としてバレバレの言動をする筈が無いではないか?
戦前の日本共産党のスパイMの「活動」を見れば、「工作員」がどのように立ち居振る舞うのか、解るだろうに。
むしろ、「問題発言」を一切せずに、さらに真っ先に「問題発言」を非難する「動き」に「同調」する奴が一番、怪しい。

よく、自分が「指摘」すると、「お前は何様のつもりだ!」などと云う御仁が居る。
いやあ、何様と聞かれても、自分は三流私大の農学部出身で、現在、しがない派遣労務者でしか有り得ない、と思っている。
だから、自分は、「智の賢き」人間だとちっとも思っていない。
ただ、下賤で愚昧な自分で「さえ」指摘出来ることを、何故、賢明なる諸氏が狼狽するのかが理解に苦しむ。
多分、自分が「指摘」するようなことがらは、先刻、承知しているのが当然なのだろう。...
にもかかわらず、何故、誤魔化しているのだ?
何故、見て見ぬふりをしているのだ?
何故、故意の無作為をしているのだ?
本当は、愚劣ではないにもかかわらず、愚劣な立ち居振る舞いをし続けていれば、世間は「愚劣そのもの」としか理解してくれないだろうに。
逆に、もし、仮に、自分がまかり間違って、とんでもなく立身出世をしでかしてしまったならば、この御仁はどのように、自分に接して来るのだろうか?
それは誠に気の毒な状況となるであろう。
自分も心苦しい。
まあ、幸いにして、そんな「間違い」は起こらないだろうけれどもwww


自分としての、あくまで、現時点のスタンス。(平成29年8月27日日曜日22時現在)
いわゆる「小池新党」の国政組織について。
まだ、若狭代議士以外、どういう「組織」となるのか、さっぱり解りません。
また、都議会の「都民ファーストの会」とどう連携していくのかも未知数です。
まあ、いずれ野田数先生が「参謀総長」として、采配を振るう感じと成る可能性が濃厚ですが。...
ただ、都議選に於いては、自民党支持層が切り崩され、また、無党派層のほとんどを吸収しました。
この「先例」を、短絡的に参考とするならば、国政選挙に於いても、自民党支持層が相当数切り崩される可能性は有ります。
ただ、問題は、現時点に於いて、無党派層や、比較的ソフトな自民党支持層が、安倍総理に対して倦んでいること。
現時点で、総選挙を行い、さらに、いわゆる「小池新党」が「結党」されるとするならば、この安倍総理に倦んだ人々の支持をかっさらう可能性が大でしょう。
但し、この人々は、いわゆる「小池新党」が出来なくても、現時点であるならば、自民党には投票しないでしょう。
とにかく、いわゆる「小池新党」がどうのこうのと云うことに気を取られていては駄目です。
いかに、安倍政権と自民党が、国民と向き合うのか。
そして、国民の本当に、今、望んでいることがらを汲み取れるのか、と云うことの方が遥かに重要だと思います。

今日、自宅の在る地域の鎮守様の例大祭が行われる。
で、昨晩は「宵宮」であった。
自分は、ご祝儀を持参してお納めしてきた。
はっきり云って、今のこの時期に、5000円を包むというのは、正直、懐が痛い。
だが、年に1回のことであるから、無理をした。...
自分は、生き物に「霊」が存在するように、その土地土地にも「霊」が存在する、と素朴に考えている。
現に、「地霊」という言葉が有る。
中には、「何故、神社神道という特定の宗教施設が、その土地の『霊』そのものだと云えるのか?」という野暮な意見をするのも居るだろう。
だが、古来から我々のご先祖は、その土地土地の霊的存在を「神」として祭祀してきたのである。
個人個人には、それなりの「信仰」が有るであろうが、自分としては、この土地に住まわせてもらっている以上は、この土地の鎮守神社へ礼を尽くすのが「筋」だと思っている。
まあ、「霊的な家賃」と思えばしっくりいく。
自分は、大阪府泉大津市に住んでいた時も、自分の住所の鎮守様である、和泉二の宮「泉穴師神社」へ、お正月と例大祭の時には必ず参拝した。
で、お正月には清酒1升を、例大祭には御祝儀をお納めして来た。
それを、実家に戻ってからも続けているだけに過ぎない。
世間一般からすれば、自分のような人間は奇特なのかもしれない。
だが、例え「時代遅れ」で「古めかしい」、「迷信深い」奴だと嘲笑されようとも、自分は、これが「筋」だと思っているので、これからもきちんと続けていく。
(それはともかく、この御祝儀分の金額を稼がないと。
つくづく、自分の稼ぐ能力が無いことが哀しい。)

自分は現在、汗だくに成って一生懸命働いても、日によっては、手取りで6000円を割るような状態である。

もし、そういう状況で20日間働いたならば月収は12万円を割り込むことに成る。

自分は、このことに関して、「みじめ」だとも「憤懣やるかたない」とも思っていない。

これは、今の自分の年齢と能力に見合った「当然の稼ぎ」なのだと思っている。

と同時に、仮に今のような「労働環境」のまま推移していけば、いずれ、日本の社会の大多数の勤労者が、現在の自分のような「境遇」に堕ちるであろうと感じている。

つまり、いずれ、みんな、今の自分のような経済状況に成るのだ。

そう思うと、腹も立たない。

 

いわゆる「バブル景気」が破裂し、その後の延々と続く「デフレの氷河期」は、我が国・日本に於いてまさに「失われた20年」と成った。

このデフレのもたらした「結果」は、端的に表現するならば、国民への大幅な「賃下げ」であったと云えよう。

勿論、「賃下げ」という「行為」は、「直接的」には実行されていない。

ただ、「正規雇用者」と「非正規雇用者」の割合が、劇的に変化した結果による。

つまり、「正規雇用者」(正社員)であるならば、労働組合をはじめとした、さまざまな「障壁」が「賃下げ」の実行を「阻止」していた。

だが、「正規雇用者」ではない、「非正規雇用者」という「守られない存在」が、どんどん数を増して、ついには全雇用者の4割まで到った。

これは、事実上、「賃下げ」である。

つまり、日本の「職場」に於いて、徹底的に人件費の削減が為された結果である。

人件費が削減された結果とは、要は「雇用主」、(それは企業であったり、官庁や各種団体であったりする訳であるが、)その「雇用者」によって「搾取」された訳である。

それは、本来であるならば、勤労者、もしくは労働者、被雇用者に対して「賃金」というかたちで支払われるべき「富」が、「雇用主」によって「収奪」されたわけである。

つまり、「富」の「移転」である。

その結果、国民全体を見ていけば、「所得」が激減している、ということである。

さらに、国民の「所得」によって「課税」される「所得税」。

そして、その「所得税」によって算出される「住民税」も、激減している筈なのである。

自分は、数字に弱いので、これは是非、頭の良い他の方々にご確認をお願いしたいのであるが、ここ20年間の「取得税」や「住民税」の「総額」をグラフで追って行けば、「傾向」として、多分、「右肩下がり」の形と成っていよう。

勿論、リーマンショックなどの世界的な経済「事件」の影響で、多少のブレは有ると思う。

ただ、間違い無く、日本国民は、全体的に「貧困」化していると思う。

もし、「所得税」や「住民税」の「総額」に、変化が見られない場合は、「所得税」の総額や「住民税」の「総額」を「国民総数」で単純に割って見れば良い。

ざっくりとではあるが、国民の一人あたりの「所得税」「住民税」の「平均金額」が出て来るだろう。

多分、「右肩下がり」に成っていると思う。

それでも、「明瞭」に成っていなければ、いわゆる「貧富の格差」を指標する「ジニ係数」と照らし合わせてみれば良いと思う。

国民の多くが貧困層に堕ち、ごく一部の「勝ち組」が「所得」を増やしているのである。

 

国民の多くが「貧しく」成った場合、端的に云うと、「税収」が減る、と思う。

当たり前のことではないか。

お金の乏しい人々から、いくら「税金」を取り立てようと頑張っても、高が知れているではないか?

現に、自分は、かつて東証一部上場の企業の「正社員」だった頃は、所得税・住民税・厚生年金をきちんと納めていた。

だが、会社を「健康問題」で中途退社して以降、自分は「確定申告」した結果、「所得税」「住民税」が免除される「貧困層」へ堕ちた。

結局、きちんと納め続けて来たのは国民年金ぐらいなものである。

また、収入が激減し、さらに将来への保障がなくなってしまったため、消費も抑えるようになった。

つまり、物やサービスを「購入」することを減らしたわけだから、当然、「消費税」も納税金額は激減している筈である。

それに、自分は、煙草も酒もやらないので、それに関する「納税」もしていない。

ここまで見て云えることは、「正規雇用者」から「非正規雇用者」に変わってから、国や地方公共団体へ納める「金額」が激減したということである。

さらに、就職活動への「支援」というかたちで、「職業訓練」も受講した。

これは、国や地方公共団体から、事実上、「補助金」を「支払ってもらった」というかたちに等しい。

いわゆる「福祉サービス」を受ける、ということは、財政に対して「プラス」の存在から、「マイナス」の存在に変わった、と云うことに成るだろう。

 

たったひとりの「自分」でさえ、数十万円単位の「マイナス」が「財政」に於いて「発生」した訳である。

それが、何万人も存在すれば、もう、ただそれだけでも、「財政」に於いて看過出来ない由々しき事態と云えるのではないだろうか?

 

本来ならば、多くの国民に支払われるべき「富」が収奪された。

さらに、その多くの国民によって納められる筈の「税金」が収奪された。

誰によって収奪されたのか?

「雇用主」である。

その大多数は「企業」であるのだが、「富の収奪」を行って来たのは、何も「企業」だけではない。

官庁とて、「非正規雇用者」の割合を増やし、アウトソーシングと云う名の「外部発注」に依存して、人員を削減した。

勿論、現在の高度な情報化社会と、急激な時代の変化に対応するには、専門的に特化した「組織」(企業や団体)に「外部発注」することは、「適切」である。

だが、一方で、単に「経費節減」のために、安直に「外部発注」に依存する傾向であることを、はたして「否定」出来るのか?

結局、「資本の論理」「利潤の論理」でもって、突き進んでいるような感じを受ける。

勿論、企業にしろ、その他の組織にしろ、採算度外視の放漫経営をしていれば、早晩に破綻してしまう。

また、企業が倒産するようなことに成れば、社会の中へ一気に大量の失業者を放出することに成る。

だから、そういう意味では、今迄の「富の収奪」「富の移転」は、「緊急避難的な必要悪」であったと弁護することも出来よう。

 

だが、ある段階まで達した場合、「量の変化が質の変化へ転換する」ことと成る。

これを「閾値(いきち)」と云う。

既に、日本の社会は、この「閾値」に到達してしまったような気がする。

具体的に指摘させていただくならば、現在の若い世代の方々の「価値観」である。

あくまで、自分の周囲のごくごく狭い範囲内でのことなのだが、自分が接した若い世代の方々は、ほぼ全員、「組織」に対しての「期待値」が低い。

つまり、企業にしろ、国家にしろ、自分達のことを「きちんと守ってくれる」と思っていないのである。

そう云う面で、恐ろしく「冷めている」。

(ちなみに自分は、この傾向は、むしろ「良い」と評価しているのだが。)

この、自分が所属している「組織」に対して「冷めている」という「傾向」は、いわゆる「帰属意識」や「忠誠心」を稀薄化させる。

つまり、既に、若い世代に於いて、日本の企業や国家に対しての「帰属意識」や「忠誠心」が、著しく稀薄化して来ていると感じる。

そういう「状況」の中で、「死ぬ気で守り切れ!」とやみくもに叱咤したところで、全く効果は無いだろう。

だから、「組織」を「守る」ために「戦い抜く」ことへの「論理」や「説明話法」をきちんと提示しない限り、若い世代は「守備防衛戦」に全力で戦ってくれないと思う。

 

話しは変わるが、今日も酷暑の中、或る「工事建設現場」へ納品した。

そこで自分が驚いたのは、現場で働いている人々の「年齢」の高さである。

はっきり云って、「老人」ばかりが働いている。

さらに、現在、河川敷や道路沿いなどで、草刈りや街路樹の枝うちといった業務をたびたび目にするのであるが、その現場で働いている造園会社の人々や警備員も、はっきり云って「老人」ばかりである。

多分、5年後には、現在働いている人々は全員、足腰が立たない状態と成っているだろう。

さらに、現在、マンションの管理人の高齢化が著しい。

一戸建ての「御屋敷」が、どんどんマンションへ建て替えられて、マンションの数は凄まじい勢いで増加している。

一方で、マンションの管理人は、ほぼ60歳代ばかり。

ただ、その60歳代の方々のうち、人口に於ける割合が多い、いわゆる「団塊の世代」が、平成29年西暦2017年現在、その最後の方々でさえ68歳である。

マンションの管理人も、5年を待たずして、ごっそりと消えてしまうのである。

 

工事現場の職人さん、造園の職人さん、そして、マンションの管理人。

あと5年後には、現在、働いている方々は全部消えてしまう。

では、その後は一体誰が引き受けるだろうか?

はっきり云って、給与金額が現状とほぼ変わらないならば、若い「日本人」は誰も参入しない。

その代りに、全員が「外国人」で充当することとなる。

しかも、その大多数は、隣国の支那人だろう。

既に、コンビニの店員も、安い牛丼屋やラーメン屋の店員も、ことごとく「外国人」が受け持っている。

さらに、農業の現場に於いては、「研修生」と云う名の「薄給労働者」の「外国人」によって占められている。

はっきり云う。

この「現状」で、いったい「外国人労働者受け入れ断固拒否」など「可能」なのか?

「中国共産党からの人口侵略を阻止せよ!」と声高に叫んでいるのだが、既に、大量の支那人の「充当」によって、かろうじて「運営可能」な「職場」が到る所で発生しているのである。

それは、「賃金」が低過ぎて、「日本人」が忌避するからである。

だから、日本の産業の「下層部」に於いて、急激に、「外国人」(特に支那人)へ依存する傾向が進んでいるからである。

何故、「賃金」を上げられないのか?

それは、日本人の大多数が「貧困」であるために、1円でも安い物やサービスへ殺到するからである。

そして「低価格」を実現させるための「低賃金」に耐えられるのは、「外国人」(特に支那人)なのである。

 

ここまで書いて、自分が、再三にわたって「保守政治家が今、一番取り組むべき課題は貧困問題である!」ということに、もう、いい加減、納得して欲しいと思う。

 

最後に、いわゆる「増税容認論」について一言。

現在の北朝鮮情勢の緊迫化を受けて、日本の国防への取り組みが急がれることと成った。

そこで、「北朝鮮や尖閣の問題に対応するためには、防衛力を増加させなくてはいけない。

そのためには、防衛費の予算を増やさなければいけない。

ついては、増税(消費税増税)も容認するべきだ」と。

これは、一見、理にかなっているように見える。

さらに、「我が祖国・日本を守るためには、国民一人一人が自腹を切る覚悟で」といった、「犠牲的精神」の表明と、その鼓舞を意識しているのであろう。

だが、はっきり云って、これは愚論である。

まさに「敵の術数にみすみす嵌まっている」。

何故なら、この「論理」は、「財政に於ける防衛費を増加させるためには、増税する」ということである。

ならば、逆に、「財政に於いて、減税する場合は、防衛費も削減する」ということも認めた、と云うことに成る。

ここに、決定的な「陥穽」が存在している。

つまり、国家財政の増減と防衛費予算の増減が単純に「連動」している「構造」を認めてしまっているのである。

ならば、問い質したい。

そもそも、防衛費というのは、国家財政の増減によって数値を決めてしまって良いものなのであるのか?

そうではない筈である。

防衛費というものは、我が国・日本を取り巻く、軍事的な状況によって判断し、算出されるべきものである筈である。

つまり、例え、国家財政が逼迫しようとも、日本と云う国家を死守するためには、最低限、これだけの防衛費予算が計上されるべきである、という「意識」こそが、今、必要なのである。

だから、「現在の日本周辺の国際情勢が緊迫化している以上、他の予算項目の比重を変えてでも防衛費を増額させるべきである!」とだけ、強く、主張するべきなのである。

それを、「増税しても良い」という、云わなくても良い、余計な一言を付け加えてしまうから、結果として足元をすくわれるのである。

勿論、「防衛費を増やすためには、税収を増やさないと無理だ」と財務省あたりは絶対に反論する。

だが、「それを何とか防衛費を捻出するのが、財政当局の仕事であろうが!」と叱責しなくてはいけない。

 

それに、第一、「消費税」を増税したところで、それで、絶対に防衛費が増額されるという、何の確証も根拠も無い訳である。

どうせ、「他にも優先事項が有りまして・・・」なんて、テヘペロされて、誤魔化されるのがオチである。

 

そして、「増税」によって、一気に景気は減速し、国民の政権に対する期待は失望、そして激怒へと変わり、否応無く現政権の維持は不可能と成る。

そうなれば、「反安倍」、もしくは「非安倍」の人物が政権を担うこととなる。

さらに、それが、現在の与党の枠組みなのか、それとも、「政権交代」となって、野党に政権を簒奪されるのか、どちらかとなろう。

そうなったら、そもそも政権側から防衛費の増額を指示することさえ消え失せよう。

勿論、「とにかく話し合いで事態の収拾を」などという間抜けなことしか云わなくなるだろうし、それこそ「憲法改正」なんか、「はじめから無かったこと」にされてしまうだろう。

まさに、「良かれと思ってやったことが裏目に出る」ことと成るだろう。

 

結局、センセーショナルなことには飛び付くのだが、地味なことには気が付かないのであろう。

だが、地味であることは、必ずしも軽微であるわけではない。

軽視したり、無視することによって、それで問題が深刻化する危険性は充分に有る。

 

真の「国防」とは、まず、「国民」を「富ます」ことに有る。

そこのところを、もっと、「認識」してもらいたいと、自分は切望しているのである、

が・・・

久し振りに東京都千代田区麹町地区を巡った。
かれこれ10年ぐらい前に、仕事で麹町地区を歩き回ったことが有ったのだ。
かつて麹町地区は、いわゆる「御屋敷街」であった。
広い邸宅が幾つも並ぶ、高級住宅地であった。
自分が今から10年前に訪れた際には、既に、邸宅の維持が難しい感じであった。...
で、今、麹町地区を巡って、正直、驚愕した。
ことごとく、高級マンションなのである。
いけどもいけども、高級マンションが延々と立ち並んでいるのである。
多少、千代田区や各町内会の「指導」や「規制」が有るとは思うのだが、ここまで全面的に高級マンションに覆われてしまうと、全体的な「都市計画」の結果のようにさえ思えた。
多分、邸宅を維持出来なくなり、さらに相続税対策も有って、どんどん、高級マンションに変わっていったのだろう。
さらに、隣がマンションに成ったら、日蔭に成ったりするわけなので、古い邸宅のまま、と云う訳にいかなくなる。
早晩、その邸宅もマンションと化す。
それが、連鎖反応として麹町地区を覆ったのであろう。


しかし、これだけの「部屋数」がよくも埋まったものだと思う。
そこで、自分は或る別の事実に気が付いた。
いわゆる、三多摩地区の郊外型高級住宅地の「空き家問題」である。
「空き家問題」ではなかったのだが、マスコミで取り上げられたのは、多摩市桜ケ丘の高級住宅地である。
ここは、かのスタジオジブリのアニメ映画「耳をすませば」(近藤喜文監督)の舞台とも成った高級住宅地である。
だが、ここは、里山の上に位置し、最寄駅からは近いのだが、急峻な坂道を登らないといけないのだ。
つまり、足腰の強靭さが要求される訳である。
こういう立地条件は、高齢者には辛い。
かつては、作家・山田風太郎や、日本共産党議長の宮本顕治が住んでいたのであるが、今や、評価がガタ落ちなんだそうである。
その他、いわゆる三多摩地区の住宅地で、ちらほらと空き家が目立ってきている。
実は、我が家の近所も、相次いで、空き家が発生し、解体されて、更地に成った。
それは、高齢者の独居世帯の住宅だった。
独り残されたおじいちゃんが亡くなり、子や孫は離れて別に暮らしている。
だから、その高齢者がいなくなると、最早、その家は「空き家」になってしまうのだ。
たしかに、高齢者の一人住まいであるならば、二階建ての一戸建ては、ちと広過ぎるのかもしれない。
そこで、子供が独立した段階で、老夫婦だけの世帯が、一戸建ての住宅を売り払い、その売却益でもって、千代田区麹町地区の高級マンションへ移り住んでいるのかもしれない。
麹町の高級マンションであるならば、セキュリティは万全。
免震構造で、中には医師や看護師が常駐していたりするそうである。
また、フィットネスクラブや屋内プールまで有るという。
回覧板の代わりにマンション住民だけのLINEが有るという。
それに麹町だったら、美術館や博物館、劇場に映画館、野球場だってすぐに行ける。
それこそ、銀座や渋谷、六本木、新宿だって、自転車で行けるかもしれない。
ターミナル駅から1時間以上も電車やバスに乗って帰るよりも、余程、良い。
また、千代田区というのは、公民館などの住民サービスが、実は手厚いのである。
それは、企業の法人住民税が潤沢であるという理由である。


こう見てくると、かつて、郊外の一戸建てに住むというのが、人生設計の「到達点」であったのだが、今や、都心の高級マンションが、それに取って代わろうとしているようである。
第一、広い邸宅に使用人やお手伝いさんを住まわせることが出来るようなお金持ちというのは、そんなに居ない。
だから、ちょっとしたお金持ちは、むしろ、都心の高級マンションで、つつましやかに暮らす生き方を選択するのであろう。
これは、全体的に見るならば、東京という「都市」の「シュリンク」(縮小傾向)と成ろう。
都心から郊外へ、さらにその外側へ、という人の流れが、逆流しようとしているのである。
既に、大学のキャンパスが郊外から都心へ回帰している傾向と成っている。


あと、気に成ったのは、外国人の存在である。
麹町地区という、まさに皇居のすぐ隣りの地域なのであるが、そこらへんはどうなのであろうか?
外国人「勢力」の「拠点」と化してはいまいか?
自分は、この麹町地区に、多分、非合法の外国人対象の「民泊」が多数存在しているのではないか?と見ている。
ゲスの勘繰りであってほしいと願っている、のだが。

かの東條英機を「軍事ファシスト」などと得意げに批判する奴が居る。
こいつは、「ファシスト」とは何であるのか、さっぱり理解していない。
だから、平然と自分の無知を露呈して、恥じるところがないのだ。
既に、賢明なる諸君は百も承知であろうが、東條英機は「ファシスト」ではない。
ならば、日本に於けるファシストとは誰なのか?というと、中野正剛である。...
何しろ彼は、実際に1937年から38年にかけて外遊し、ムッソリーニにも、ヒトラーとも会っている。
そして、二人を高く評価していた時も有った。
さらに議会政治を否定し、政党の解消も主張した。
だが、大東亜戦争の戦局が悪化するに従って、中野正剛は東條総理に批判的に成って行く。
ついに東條内閣の倒閣運動を起すこととなり、東條内閣から睨まれる。
ついに微罪で逮捕される。
そこで、中野正剛は抗議の意を込めて割腹自殺して果てる。
ここまで書いて解るように、東條英機は「反ファシスト」なのである。
ならば、東條英機は何者なのか?というと、単に「軍人」である。
東條内閣とは、単に「戦時軍事内閣」であって、「ファシズム」ではない。


それと、よく「2.26事件以降、日本の民主主義は死んだ」などと云う。
もし、その「表現」が「正確」であるのならば、尚更、「ファシズム」など形成出来ようが無い。
そもそも「ファシズム」の母体は、「民主主義」なのだから。
考えても見よ。
王侯貴族や騎士や諸侯が統治していた「封建時代」に「ファシズム」は存在し得ていたのか?
皇帝や国王によって絶対的に帝国が支配されていた「帝国主義」に於いて、「ファシズム」は存在し得ていたのか?
「ファシズム」とは、「国民皆兵」「徴兵制度」と同じように、「民主主義国家」「民主主義社会」に成って、はじめて誕生し得た代物なのである。


厳密に云うと、「ファシズム」と「ナチズム」は決定的に異なるのだが、それを承知の上で、敢えて云わせてもらう。
ナチスのアドルフ・ヒトラーの政治的台頭を忌み嫌ったのは、何も、共産主義者や社会民主主義者といった「左翼」だけではなかった。
古き良き「ドイツ帝国」を懐かしむ「帝国主義者」たちも、ヒトラーを毛嫌いしたのである。
何故なら、ヒトラーは高貴な家柄の出身でもなかったし、それにオーストリア人だったからである。
そんな「身の程知らずの小男」を何故、ワイマール体制ドイツ共和国大統領にして良いのか?と。
そこで、狡猾なヒトラーは、この「二正面作戦」を「各個撃破」することで克服する。
右の「帝国主義者」に対しては、頭を低くして恭順の意を示した。
ヒトラーは、「帝国主義者」や「資本主義者」たちの「走狗」でしかない、という「ふり」をした。
一方、共産主義者に対しては、レームの突撃隊をけしかけて強面ぶりを顕わにした。
そこで、ドイツの「保守派」は、ヒトラーにころりと騙されてしまったのである。
ヒトラーを連立政権の総理に担いでしまうのである。
その後は、ヒトラーの独裁政権、第二次世界大戦へと歯止めが効かずに驀進することと成ってしまった。


「ファシズム」の「ファッショ」とは「束ねる」という意味である。
だから、「統合主義」とか「統制主義」という「翻訳」の方が、正確なのかもしれない。
で、マルクス・レーニン主義は、「階級闘争史観」であるので、「労働者階級」(プロレタリアート)に依拠し、さらに「革命に於ける前衛党」=「ボルシェビキ」によって指導される、という構造である。
つまり、「階級」と「セクト」(党)が重要項目なのである。
一方の、「ファシズム」は、いわば「階級闘争史観」に於ける「労働者階級」(プロレタリアート)の語句の代わりに、「民族」や「国家」が代用されているのに過ぎない。
だから、「ファシズム」とは、あくまで「社会主義」の範疇に含まれるのである。
つまり、「ファシズム」とは、広義の「左翼思想」に含まれると云って過言ではない。
現に、「ナチス」とは「国家社会主義労働者党」もしくは「国民社会主義労働者党」の略称ではないか。


いわゆる共産主義者がファシストを天敵視するのは、云ってみれば「近親憎悪」の関係性である。
代々木系の民青と革マル、中核派が火花を散らすのと同じ。
創価学会と顕正会と大石寺が相容れないのと同じ構図なのである。
だから、いわゆる「保守派」が、「ファシストと共闘する!」と云った場合、それは「日和見主義者」と指弾されるべきなのである。


そう云えば、かつて、デモ行進の後の「主催者御礼挨拶」と云う名の「大演説」で、水島総が、「中共のファシストが!」と大声で叫んでいたがwww
中国共産党は、ファシストではなくて、コミュニストであり、マオイストなのである。
ここまで来ると、「このファシストが!」と云うのは、「お前の母ちゃん、出べそ!」と同レベルの罵倒でしかなくなる。
まあ、水島総は「アーティスト」だから、これでも「ご愛嬌」。
でも、これが政治学者やコメンテーターだったら、これはいただけませんなあ。

自分が派遣労務者に成って、良かったこと。


1)会議や打ち合わせに参加しなくて良い。
かつて自分は、会議に出ると、ズバズバ斬りまくっていた。
或る時、折角まとまりかけた「会議」を、自分が引っ掻き回すだけ引っ掻き回したせいで、「議決」する筈の件が引っ繰り返ったことが有った。...
いや、もう、若気の至りで・・・
さもなくば、居眠りした上に、いびきをかく。
最低であるwww
だから、仕事上で「会議」というのに参加しなくて良く成って、大変、良いwww


2)報告書を書かなくて良い。


3)仕事上のメールを確認しなくて良い。
はっきり云って、10通以上、溜まったら、もう、気分がげんなりする。
そんな、300通も、400通も送られて来ても、はたしてさばけるのだろうか?
しかし、現在、「正社員」と云われる身分の方々は、ちゃんと対処されているようなのである。
もう、感心するしかない。
自分は無理だろうなあ。
だから、「正社員」に採用されないのかwww

かつての新潟県山古志村の村長であった、長島忠美代議士が急逝された。
まずは、ご冥福をお祈り申し上げたい。
さて、これで、10月20日の衆院選補欠選挙が3つに成ってしまった。
これは、安倍内閣にとって、「正念場」である。
この補欠選挙の結果によっては、安倍内閣はとどめを刺されてしまいかねない。...
これは、大事である。
こんな状態ならば、「憲法改正」も「消費税増税」も、「時期尚早」である。
ここは、態勢を立て直す時だ。
また、9月1日には民進党の新しい代表が選任される。
「たかが民進党が」と侮る事勿れ。
だって、「たかが森友学園が」「たかが加計学園が」「たかがPKOの日報が」と高をくくっていた結果が、現在の危機的状況なのである。
民進党だって、「大化け」しかねないぞ。
また、民進党の代表に、前原が仮に当選出来たとしても、日本共産党主導の「野党共闘」候補と云う名の「反ファシスト統一人民戦線」候補が、選挙で「旋風」を起せば、民進党は完全に日本共産党の「下請け」「翼賛勢力」に成り下がるであろう。
文字通り、「一難去って、また一難」である。
性根を据えて、「消費税減税」を、まず、実現させるべきである!

平成29年8月21日月曜日の「大」朝日新聞「様」の朝刊コラム「天声人語」は必読である。
端的に要旨のみを書けば、「日本固有の元号は時代に合わないから廃止を検討せよ」という。
さすがは、「大」朝日新聞「様」である。
既に、西暦と併用されて、実用に於いては支障が無いにもかかわらず、「敢えて」こういう「問題提起」をして下さる。
誠にもって敬服する。...
自分も、この「時代に合わないから廃止を検討せよ」という指摘には首肯する。
ならば、この際だから、「時代に合わないもの」は、全部、「廃止せよ」と訴求したら良い。
まずは、「日米安保条約」である。
既に米ソの冷戦構造が「終了」して何年も経っている。
国際情勢、軍事情勢は複雑さを増し、「安全保障」とは「集団的安全保障」が「当たり前」に成って来た。
ならば、アメリカと日本という二国間の安全保障条約など、最早、「時代に合わない」。
また、アメリカという外国に国防を依存し続けている軍事的異常状態をいつまでも継続し続けるのも「時代に合わない」。
対米追従から脱却し、真の日本の独立を勝ち取るのである。
そして、勿論、「日本国憲法」とりわけ「憲法9条」も「廃止」せよ。
今更、「専守防衛」など「幻想」に過ぎまい。
何しろ、超高速で飛んで来る核ミサイルをどうやって「国内」だけで制止出来るのだ?
「1発だったら誤射かもしれない」が、その1発の核ミサイルが人口密集地域に着弾したならば十数万人の生命が蒸発することと成る。
しかも、核ミサイルを保有しているのは、ここ最近に成ってから北朝鮮だけではない。
中華人民共和国やロシアは、数十年前から核ミサイルをごまんと保有している。
それらの照準が、日本に向けられていない筈がないではないか?
だって、米軍の基地が有るのだから。
それと、「非核三原則」も「時代に合わない」から「廃止」せよ。
日本共産党の主張である、「軍事費を削って、福祉に回せ」という政策を実現するには、最低限の兵力でもって、最大限の国防の効果を上げる必要が有る。
通常兵力を削減しつつも、防衛効果を上げるには、核兵器による核武装しか有り得ないではないか?
現に、だからこそ、国家財政が破綻寸前で、国民が多数、餓死するような北朝鮮が核武装にひた走っているではないか?
つまり、日本共産党は、ずっと以前から、事実上、「核武装」を暗に主張していた訳である。
さすが「科学的社会主義」を堅持し、高偏差値の「頭の良い」人材が豊富な日本共産党である。
その政治的主張の真意を理解するには、相当な「読解力」が要求される訳である。
そして何よりも、紙媒体の「新聞」を「廃止」せよ。
これも、最早、「時代に合わない」。
現在、電車やバスの中で、紙媒体の「新聞」を読んでいる人間はいったい何人いるのだ?
数えられるくらいのほんの一握りではないか?
しかも、そういう人間が読んでいる紙媒体の「新聞」は、聖教新聞か、しんぶん赤旗であることが多いのである。
「大」朝日新聞「様」なんか読んでおられるような人間はいない。
まあ、「日本唯一の高級紙(ハイクオリティペーパー)」であるから、通勤や通学に電車やバスを利用するような庶民は購読していないのであろう。
黒塗りの高級自動車でもって送り迎えしてもらえるようなセレブ以外はお読みになっておられないからであろう。
この際だから、何も「元号」だけに限定させずに、「時代に合わない」ものは、全部全部「廃止を検討させよ!」と新聞紙面上にお書きに成るべきだろう。
そうでなければ、誠に中途半端で、恣意的で、論理的整合性が無いではないか?
これでは全く、「大」朝日新聞「様」の、「お名前」が泣きますぞ。

企業でも、各種団体でも、何処でも良い。

具体的な目標を設定し、成果を出すことを目的とした組織を「機能的組織」と云う。

それと対照的なのは、あくまでも参加メンバー間の親睦を深めることを目的とした組織を「親和的組織」と云う。

で、その「機能的組織」の於いて、何か、「プロジェクト」を立案する際に重要な事柄は何だろうか?

まず、「着想」である。

様々な「攻略点」が見出される中で、その中から実施する候補を絞り込み、最終的には一つに選択する。

その「攻略点」を決定する根拠として、「何故、この攻略点を攻略すべきなのか?」ということを説明するために、「着想」を語らなくてはならない。

さらに、その「着想」の背景として、「意義」が語られるべきである。

「何故、この攻略点を攻略するというプロジェクトが必要なのか?」という問いへの回答である。

この「意義」というのは、プロジェクトを遂行する上で、メンタル的には非常に重要である。

プロジェクトに限らず、人間が行う事柄は、大なり小なり、思い通りに事は運ばない。

そういうトラブルが発生した時に、ポジティブに前向きに取り組める姿勢を保持するには、当該プロジェクト遂行の「意義」が、確固としていた方が決定的な差と成る。

「着想」と「意義」によってプロジェクトの、いわば「ソフト」面での指針が出来たならば、後は具体的で緻密な「行程表」を作成し、その「行程表」に基づいた、予算、物資、人員、時間、空間の配分を構成させていかなくてはいけない。

さらに、その「行程表」を遅滞無く、かつ確実に遂行するための情報、知識、そして分析が必要である。

かつて、マルクス経済学に於いては、「上部構造」と「下部構造」という語句が使用された。

この語句を敢えて使用するとすれば、

「着想」や「意義」は「上部構造」である。

そして、それら「上部構造」を現実化させための戦略や戦術、ヒト・モノ・カネなどは「下部構造」と云えよう。

 

8月と云えば、つい数日前だった「8月15日」の「終戦の日」が有る。

そのため、戦争と平和に関してマスコミは意識的に取り上げて来ている。

その中で、NHKが、かの「インパール作戦」について番組を作った。

この番組について、いわゆる保守派は、またぞろ「NHKガー!」とやり玉にあげている。

NHKの番組の「つくりかた」や「見せ方」に関しては、ここでは敢えて自分は論じない。

問題は、当該NHKの番組への「批判」が、かの「インパール作戦」そのものへの「擁護」にまで及んでいることである。

これは駄目である。

NHKの番組制作の演出や見せ方に関して、視聴者への「ミスリード」が散見された、という「批判」ならば、首肯出来る。

ところが、「インパール作戦」そのものを「擁護」し、さらには「賛美」するような論調と成るならば、それは最早「贔屓(ひいき)の引き倒し」でしかない。

逆に、「敵側」から、「あのような大惨事の敗北を喫した、愚劣な軍事作戦を賛美するような、非人間的で愚かしい考えの危険な集団」という「レッテル」を貼られることと成る。

これは、まさに「敵の術数に嵌まる」ことである。

 

話しは、最初に戻るが、かの「インパール作戦」に於いて、その「着想」に間違いは無かった。

そもそも、日本が果てしない戦争継続の泥沼にはまっていったのは、満州から支那全土へ戦線が拡大したことである。

満州を安定化させるには、支那北部(北支)を抑えねばいけなかった。

そして、北支を抑えるには、南京の蒋介石を抑えねばならなかった。

ちなみに、その時には、ソ連(ソビエト・ロシア)は「日ソ不可侵条約」によって、いわば「友好国」であり、毛沢東の中国共産党(八路軍)は、「大長征」の末、南京周辺には軍事的勢力がほとんどいなかった。

そこで、絶えず、日本への軍事的挑発を繰り返して来た「支那」とは、蒋介石の国民党・中華民国であると、「認識」してしまった。

日本は「暴支膺懲(ぼうしようちょう)」と声高に叫び、蒋介石を叩くことしか考えなくなる。

そして、南京を占拠するのであるが、日本人は「島国」の人間なので、徹底した「撤退戦」を戦った経験が無い。

だから、その徹底した「撤退戦」の本当の恐ろしさを理解出来なかった。

支那人は「大陸」の人間なので、徹底的に戦略的な「撤退戦」を戦う意味も理解していたし、その覚悟も有していた。

だから、いくら日本軍が攻め込んで次々に勝利しても、際限無く撤退し続ける蒋介石には、いつまでたってもたどり着けないのである。

ついに、蒋介石は支那大陸の奥深い、重慶まで下がってしまう。

そこで、戦史的にも先駆的な「都市爆撃」という航空戦術でもって重慶を「空爆」するのであるが、重慶は陥落させられない。

何故なら、重慶よりも更に内陸部に、蒋介石を支援する「援蒋ルート」という軍事物資補給ルートが、米英ら連合国側によって形成されていたからである。

その「援蒋ルート」は、当時英国の植民地であった英領インド帝国からビルマ(ミャンマー)の北部を経由して重慶まで伸びていた。

一方の日本軍は、既に、ビルマを占領していた。

さらに、ナチスドイツからシンガポールに到着した、インド独立の闘士、「ネタジ」チャンドラ・ボースが在外印度人などを糾合して義勇軍を結成していた。

そこで、ビルマからインドへ攻め込み、「援蒋ルート」を断って、重慶の蒋介石を屈服させて、支那全土を完全に日本の勢力下に置く。

そして、支那に展開させている部隊を南洋のフィリピンやジャワ、スマトラなどへ投入しようと考えたのである。

さらに、1943年昭和18年11月5、6日の両日に渡って東京で開催された「大東亜会議」に於いて、インド独立が参加国によって同意されて「大東亜共同宣言」が採択される。

(参加国の首脳)

日本(大日本帝国)、東條英機首相(内閣総理大臣)

満州国、張景恵国務総理大臣

中華民国(南京政府)、汪兆銘行政院長

フィリピン共和国、ホセ・ラウレル大統領

ビルマ国、バー・モウ内閣総理大臣

タイ王国、ワンワイタヤーコーン親王(総理代理)

自由インド仮政府、チャンドラ・ボース首班

(なお、オランダ領インドネシアのスカルノは参加出来なかった。)

そこで、「インド独立」という「意義」が加わった。

しかしながら、それ以外の、いわば「下部構造」の具体的な戦略や戦術は、皆無であった。

まず、兵站に関して、全く考慮されておらず、むしろ意識的に無視していた。

「糧は敵によること」などと、食糧は敵から調達せよ、という、無茶苦茶な考えである。

結局、兵站、補給線を全く考慮しないために、「白骨街道」などと云われる無惨な状況と成る。

さらに、この無謀な軍事作戦の「立案」から「決定」、さらにその作戦の失敗による「対処」に関して、信じがたいような愚行が連続している。

端的に云うと、論理的検討が皆無。

議論の封殺。

意識的な無作為。

指揮命令系統の無責任。

人事の無責任。

これが、戦前の日本人の選りすぐりのエリート集団によって為された「事実」であり、「結果」である。

これは、もう、慄然とせざるを得ない。

 

「インパール作戦」は、どのように贔屓目(ひいきめ)に見ても、愚劣としか評しようがない。

ただ、一方で、「インパール作戦」は「愚劣」であるという「図式」だけを刷り込んでいこうとするならば、それもまた、「愚劣」としか云いようがない。

何故なら、そこには、「何故、インパール作戦が愚劣であったのか?」という分析も思索も存在しないからである。

つまり、「インパール作戦」=「愚劣」という「図式」のみであるならば、それは、「思考停止」そのものでしか有り得ない。

そう云う意味では、まだ我々は「インパール作戦」の真っただ中を「戦闘継続中」なのであろう。

我々は「インパール作戦」を指弾し、批判し、侮蔑し、嘲笑し、嫌悪し、忌避している。

だが、それは「インパール作戦」を我々自身の「糧(かて)」としてはいないのである。

「インパール作戦」とは、旧日本陸軍の恥部であった。

だが、それは、「あまりに日本的であり過ぎた」ためである。

だから、「インパール作戦」は姿かたちを変えて、何度も繰り返されようとしている。

つまり、先述したように、まだ我々は「インパール作戦」の真っただ中を「戦闘継続中」なのである。

ならば、必然的に、「インパール作戦」での尊い犠牲は、浮かばれていまい。

我々が、本当の意味で「インパール作戦」と真摯に向き合い、そこからこれからの我々日本人が学ぶべき「指針」を見出し、意識的に学習することが実現出来得た時こそ、本当の意味で我々の「インパール作戦」は「終結」することと成ろう。

そして、同時に、その時こそ、「インパール作戦」で散華された全ての御霊たちが浮かばれることが出来るのであろう。

 

NHKを批判するのは良い。

だが、それ「だけ」で良いのか?

我々が目指すべき「境地」はそこではないだろう。

もっと、しっかりしなくては駄目だ。

北朝鮮を巡る、軍事情勢が緊迫化している。

何故なら、北朝鮮は、核実験に成功しただけでなく、ついにICBM(大陸間弾道弾)を「保有」しつつある。

つまり、アメリカ本土へ直接、核弾頭の射程範囲内に到達し得たと云うことである。

これは、アメリカの咽喉元に、核兵器の「切っ先」を突き付けた訳である。

事ここに到っては、さすがのアメリカとて、遥か彼方の遠国のことと鷹揚に構えていられなくなった。

 

ここで思い出されるのは、かの毛沢東である。

彼は、朝鮮戦争や、その後の大躍進政策の破綻などによって、「中華人民共和国」の国力を大いに低迷させた。

大躍進政策(1958年から1961年)は、産業構造の重工業化と農業生産性の効率化を、いわゆる「大衆煽動」による「大衆運動」によって一気に実現しようとしたものであった。

極めて無謀であった。

何しろ、鉄鋼の生産量を、先進国並みに数年間で実現させようというものであった。

鉄鋼製鉄に於いては、高温度の溶鉱炉が必要不可欠であるのだが、それを大衆動員の大衆運動で「代用」しようとした。

それがかの悪名高き「土法炉」で、土をこねて作った「製鉄炉」である。

結局、膨大な屑鉄ばかりが出来た。

しかも、「計画通りの数字」にするために、農耕機具である、鍬や鋤(すき)なども溶かして屑鉄にしてしまったのである。

まさに、「狂乱」と云って良い。

この大躍進政策の失敗により、毛沢東は、「行政」の表舞台から引っ込まざるを得なくなる。

勿論、「革命・建国の父」である訳なので、そのカリスマ性は維持されていたのだが、「権威」は維持出来ても、「権力」は、劉少奇や小平、周恩来らの「実務家」に託す破目に成った。

この挫折が、5年後の1966年から1976年まで支那大陸全土に荒れ狂った「プロレタリア文化大革命」を惹き起こす遠因と成るのである。

毛沢東は、この「大躍進政策」と「プロレタリア文化大革命」によって、数千万人、もしくは1億人を超える人民の命を奪った。

まさに、「暗黒の天才」であるが、彼は、軍事面に於いては徹底した「リアリスト」であった。

彼の名言(迷言?)の中に、「例え、ズボンがはけなくなっても、核兵器開発は成功させる」というのが有った。

つまり、核保有国に成るためだったら、例え、国庫が空に成ろうが構わないという凄まじい「覚悟」であったのである。

結局、その狂おしいまでの「覚悟」のお蔭で、1964年に中共は核実験に成功する。

そして、「核保有国」に成り、さらにソビエト連邦と仲違いをすることに成ったことから、「中華人民共和国」は、アメリカの軍事的標的の優先順位が下がっていく。

つまり、約10年に渡る「プロレタリア文化大革命」という国内の「大混乱」状態が継続されても、国家が外敵から破壊され得なかったのは、ひとえに核兵器のお蔭である。

これは、現在の中国共産党の首脳部の共通意識として、確固たるものになっていよう。

それは、「核兵器を保有している限り、どんなに行政機構が破綻していても、国家として存続可能である」と。

 

この毛沢東の「路線」を、北朝鮮も数十年遅れてひた走っているだけなのである。

 

国連の核廃絶の動きも有って、核兵器廃絶のために、条約や決議や話し合いで解決すべきだ、という「正論」が相次いで主張されている。

この「平和への訴求」に関して、自分は懐疑的である。

何故なら、「あまりにも理性的である」からである。

実は、「理性的」であることは、残酷な結果を生むからである。

 

いわゆる「フランス大革命」1789年によって端を発する、「進歩主義」や「左翼革命思想」は、「人権」と「理性」を尊んだ。

人間は、あらゆる人間に「人権」が存在し、また「理性的」である、とされた。

そして、人間は「理性的」であるがゆえに、「正しいやりかた」(科学的な政治理論)に基づいていれば、必ず「成功する」。

「成功する」筈であった。

ところが、革命政府が行政を行うにあたり、様々な支障が生じて来る。

食糧が足らない。

市民が革命政府に対して不平不満を訴える。

工業生産の数値も上昇しない。

軍事作戦が失敗する。

外交交渉が難航する。

これらの諸問題が次々に発生する訳である。

そこで、革命政府は、この原因を、自らの「行政方針」や「行政手法」が拙劣であることを認められない。

何故なら、人間は「理性的」あり、さらに「絶対に正しい」「科学的な政治理論」によって「運営」されている革命政府が「間違える」筈が「有り得ない」のである。

これを「無謬性」という。

ならば、「理性的」な人間によって構成されている、国家や社会が、何故、支障をきたすのか?

それは、国家や社会を破綻させようと「真剣に」「生真面目に」活動している人間たちが存在するからである、という結論に到る。

それが「反革命分子」あり「反党分子」と云うことに成る。

つまり、「人間は理性的で、怠惰であったり、間違えたりはしない」という前提に立ってしまうと、あらゆるトラブルの発生は、人為的な作為に基づく「陰謀」の結果、とみなされるのである。

だから、「理性的」であろうとし、「正しさ」に厳格であればあるほど、残酷に成る。

「反革命分子」や「反党分子」の「存在」を「認識」してしまった以上、「粛清」の実施は不可避と成る。

左翼党派の「支配する空間」に於いて、「粛清」の嵐が吹き荒れるのは、その前提として、「理性的」で、正しくて、生真面目であるからである。

 

人間とは、「理性的」に、話し合えば、必ず、理解し合える。

そう、信じているし、信じたい。

だが、歴史を紐解いていけば、善意による言動が、想定外の反応を連鎖的に引き起こし、最終的にとてつもない醜悪な悲劇に到達する事例で満ち溢れている。

つまり、人間の「理性」を全ての「担保」に出来得ない訳である。

結局、「核兵器を全て無くしましょう」という呼びかけに全世界のほぼ全員が賛同する。

だが、その一方で、核兵器を保有する「国家」は、一向に減らないし、むしろ増加している。

この「論理矛盾」をどう受け止めるべきなのだろうか?

 

核兵器や核燃料は「ツール」(道具)に過ぎない。

ただ、「道具」である以上、「使用される」ことが前提と成っている。

だが、その「道具」は、「最終的」な「道具」なのである。

ひとたび「使用され」て、歯止めが利かなくなって「全面核戦争」と成るならば、確実に「地球」という存在は消滅する。

そして、人類も、生存はほぼ有り得ないだろう。

 

事実上、「話し合い」や「相互理解」といった、「ソフト」によって、「ハード」である「核兵器」や「核燃料」は、廃絶出来得ないでいる。

果たして「ソフト」は「ハード」を抑え込めないのだろうか?

この問いに、俄かには解答は出せない。

だが、一つの可能性として、「ハード」には「ハード」でなければ、対処出来得ないのではないか?という仮説である。

つまり、究極の「破壊力」である、「核爆発」を「無力化」するテクノロジーを開発する方向しか、今のところ、有り得ないのではないか?

 

自分は、人間とは理性的に徹し切れない存在であり、理性的に徹し切るべきでもない、と感じているので、結局、こういう結論に到ってしまった。

「良識」的でもないし、「正論」とは程遠いことであろう。

だから、不快に感じる人が多いと思う。

つくづく、因業な自分であると恥じ入るばかりである。

やはり、これは、きちんと書き残しておかなくてはいけない。

昨日、8月15日に、自分は例年通り、靖国神社に於いて助勤奉仕をさせていただいた。

だが、昨日、自分は、遅刻した。

しかも、定刻の1時間も遅く遅刻してしまったのである。

何故か。

「集合時間」を間違えたのである。

勘違いをしてしまったのである。

だが、何故、「集合時間」を間違えたのか?

それは、端的に云って、「甘え」である。

勝手知ったる、内輪の催しだから、という「甘え」が、「集合時間」を誤らせたのである。

これは、「狎れ」であり、おごり、たかぶり、慢心そのものである。

つまり、「勘違い」をしていたのは、何も「集合時間」だけではなかったのだ。

こんな自分が、「敬神崇祖」などと、よくも偉そうに云えたものである。

自分は、全く以て「到らない」奴だと思っていたが、ここまで愚劣であったのかと思うと情けなくて涙が出て来る。

改めて、この場を借りて、昨日の関係者各位に対して深くお詫び申し上げたい。

そして、何よりも、このいつまでたっても「到らない」自分であることを、靖国神社の英霊に対して、深くお詫び申し上げたい。

常日頃の大言壮語が聞いて呆れる。

結局、徳と誠が無いから、肝腎な時にしくじるのである。

ただ、昨日の8月15日に於いて、自らの「到らなさ」を気付かせてもらえたのは、ひとえに靖国神社の英霊の「お示し」であろう。

「お前は、全く、成っておらんではないか!もっと、しっかりせい!」

という「ご叱責」を、昨日、8月15日に頂戴したように、自分は感じる。

良きことも、

悪しきことも、

ただ、有り難く、感謝を以ていただくのみであろう。

改めて、猛省を自らに課したい。

合掌。

よく神社やお寺やパワースッポトなる場所へ参拝する人で、「ここはどういう御利益なの?」と云う人が居る。
御利益やお蔭と云うのは、確かに「頂ける」。
だが、問題は、御利益やお蔭を頂けるかどうか、ではない。
と云うのは、こちら側が、その御利益やお蔭を「頂ける」条件が
有るかどうかが問題なのだ。...
仏典(法華経)に「甘露の法雨」という。
この「甘露」とは、御利益やお蔭と(いささか乱暴だが)解釈して良いと思う。
だが、その降り注ぐ「甘露の法雨」を受け止められるだけの「器」なのかどうなのか?
論語では「君子は器ならず」というが、人間を評価する言葉として「器(うつわ)」というものが有る。
「あの人はリーダーとしての器ではない」という言い方や、
「器量」という言葉も有る。
だから、どんなに大量の「甘露の法雨」が降り注いでも、それを受け止められることが出来ずに、流れ落ちてしまう人がいるのだ。
それは、折角、御利益やお蔭を「頂いて」も「受け留められない」人である。
何故、御利益やお蔭が流れ落ちてしまい、頂けないのか?
それは、徳と誠が無いからである。
徳や誠が足りなければ、人間としての「器」は形成され得ない。
そして、「器」が小さければ、良いも悪いも、しっかりと受け留めることは出来ないのだ。
神社やお寺やパワースポットなる場所へ行くことは良いことである。
だが、その割には御利益やお蔭を頂けない人が居る。
それは、「あちらがわ」の問題ではない。
全て「こちらがわ」の問題である。
だから、自分は、己の徳と誠の無さを心底、恥じ入っている。

迷いに迷ったのだが、日曜日にも仕事を入れるようにした。
で、会社へ「某日の日曜日も出勤出来ます。」とメールしたところ、返信メールが来た。
「その日も出勤されると、10日以上連続出勤に成ります。過労が懸念されます。」と。
いや、全く、御説御尤も。
しかし、そうしないと、お金が足らなくなるから、やむを得ず、仕事を入れているのだ。...
この真夏に、日中の屋外の仕事を休日無しのぶっ通しで続けたいと望んでいる訳ではない。
本当は、休みたい。
出来れば、ゆっくり読書でもしたいのだ。
しかし、そんな「恵まれた」御身分じゃないんだよ。
もし、「過労」云々と指摘するのであれば、もっと時給を上げてくれ。
そうすれば、無理してまでも仕事を入れたりはしない。
致し方が無いから、他社の仕事を単発で入れられるように探してみる。
幸か不幸か、只今、「面接無しでOK!」という「求人」がごろごろ出て来ている。
いかに、薄給でもって酷使する「職場」が、満ち溢れているということだろうか?
それはともかく、確かに、この真夏に「休日無し」のスケジュールは「無謀」だと思う。
途中で、昏倒するかもしれない。
ま、そうなったら、そうなったでしょうがないだろう。

自分は、自分のような境遇の人々が多数存在する、今の「日本」が心配である。
このままだと、社会の最下層に居る人々が、どんどん苛酷に成って行く。
中には、その苛酷さゆえに、心身が破壊され、働けなくなる人も出て来るだろう。
そうなったら、死ぬか、生活保護を受けるか、の、どちらかに成る。
これは実は、「他人事」ではない。
まがいなりにも「勤労者」だった人が、欠落すれば、その分を誰かが充当しなくてはいけない。
多分、その「充当」人員は、全て外国人移民だろう。
取り分け、支那人に依存することになるだろう。
いくら、「外国人移民受け入れ反対」などと訴えたところで、背に腹は代えられないから、どんどん外国人が働くようになる。
また、こういう境遇の人は、意外と確定申告をしない。
勿論、低所得者は確定申告をする義務は無いのだが、確定申告をしないと、所得税が発生するのだ。
そして、所得税を納税すると、翌年に自動的に住民税が発生する。
だから、貧困層でも、消費税以外に、それなりに納税している人が相当数存在するのである。
だから、これらの貧困層の人が、死んでしまえば、最早、納税出来ないし、死ななくても生活保護の対象となれば、福祉予算の支給対象と成る訳である。
結局、財政悪化の要素に成る。
このまま、どんどん、自分のような「貧乏暇無し」の貧困層が激増すれば、早晩、日本社会の「底」が抜ける。
さらに、合法・非合法問わずに、大量の外国人移民が入って来る。
特に支那人が一塊で入って来る。
そうなったら、いくら日本の領海や国境線の水際で防衛線を死守しようとしたところで、日本国内の奥深くに他国の旗がはためくことと成ろう。
「貧困層は救わなくて良い。あいつらは無能で怠け者なのだから、自業自得だ。」という、いわゆる「自己責任論」が有る。
何だか、そういうこと主張すると、いかにも「保守」らしいが、そのいかにも「保守」らしい主張の行く末は、上記のような体たらくである。
だから自分は声を大にして云う。
今、いわゆる保守政治家の一番の喫緊の課題は、「貧困問題」であると。

「鶏口となるも牛後となるなかれ」と云う。
一方で、「寄らば大樹の陰」とも云う。
今の若い方々はとても悩ましいだろう。
何故なら、既に、寄るべき「大樹」が、実は洞(うろ)だらけで、幹の中は空洞であることを思い知らされたからである。
かの、東芝は、現在、証券取引所での株式上場廃止の瀬戸際まで追い詰められてしまった。...
あの「大東芝」が、解体もしくは倒産の憂き目である。
ならば、どんな「大きな組織」も、「絶対」ということは有り得ないということになる。
かといって、日本に於いて、ベンチャー企業は、いまだ「町工場」のイメージが強過ぎる。
なかなか「起業」へ突き進む「覚悟」も出来ない。
さながら「進退窮まれり」という悩ましい感じであろう。
だが、自分は、若い方々に対して大いに期待している。
確かに、自分の居場所が、「大きい所帯」なのか「小ぶりなところ」なのかで、「差」は有る。
しかしながら、人間には「適応能力」が有るし、さらに「改善能力」も存在する。
要は、つまらないこだわりを捨て、自分を変え、さらに周囲を変えていくことを恐れないことであろう。
特に、「若さ」というのは、その「変わる」「変える」ということに適した「要素」である。
思い悩んで立ち止まるばかりではなく、まずは、一歩を踏み出して欲しい。

先月、母が郵便局から現金を引き出した後、喫茶店に寄り、店内の便所へ行った。
ほんの数分、席を立っただけだったのだが、戻ってみると、先程引き出した現金の一部が無い、と云う。
どうやら、スリにでも抜き取られたらしい。
母はそのせいで、だいぶ凹んでしまった。
金額は教えてくれなかったのだが、我が家の「家計」の規模では「大金」の金額だったようである。...
まあ、無くなったものは仕方がないので、「高い授業料」だと受け止めて、以後、注意するべきだと自分は云っておいた。
そして、今朝、自分が外出した後、母からメールが来た。
何と!取られたと思った現金が、家の中から出て来たと云う。
有る筈の現金が無くなって、無くなったと思った現金が出て来る、というと、さながら人情噺の「芝浜」のようであるwww
しかも、墓参り用のお線香を仕舞っている場所から出て来たと云う。
メールで「これも亡くなったお父さんやご先祖さまのおかげ」などと、急に殊勝なことを書いて寄こして来たwww
常日頃、自分が神事・仏事をしていると
「無駄遣いばかりして!いくら拝んだって一文にも成りはしないんだから」
「そんなに参拝したって、お祈りしたって、変わる訳ないんだから、もっとお金に成ることに労力と時間を割きなさい」
などと怒鳴りつけていたのにwww
ちなみに、明日8月13日から月遅れのお盆と成る。
さらに、8月14日の払暁に、父は逝った。
連日の出勤で、心身の疲労も頂点に達しているのだが、ここは神仏祖霊に対して「御礼」させていただかないと駄目だろう。
自分は、この世の中は、生きている「人間」だけのものとは思っていない。
ただ、自分は、いわゆる「不思議な能力」など持ち合わせていないので、これ以上は解らない。
でも、神仏や精霊、妖怪といった「存在」が有ると思った方が、自分は楽しいと思っている。
また、そういう「人間以外」の「他者」を「意識」することが、「謙虚さ」や「慎み深さ」を生むことになると考えている。
さて、これから「ご挨拶」をさせていただこうかなwww

江崎鉄磨大臣は、「育ちの良さ」の悪い面が出てしまった。
彼には、悪意もあざとさも無いのである。
ただ、単に天真爛漫に振る舞っただけなのである。
しかしながら、齢73歳の国務大臣の発言としては、「重みに欠ける」訳である。
その「軽さ」が、現在、マスコミの格好の餌食と化している訳である。...
確かに、江崎大臣の「軽さ」は指摘されても仕方がないのであるが、そういうマスコミの報道のあり方自体は、いったい如何なものなのであろうか?
そんなに江崎大臣を嘲笑し、侮蔑出来るほど、マスコミはご大層で高尚な代物なのだろうか?
逆に、森友・加計・PKO日報の諸問題をあげつらい続けた時には気が付きにくかった、マスコミ自体の「底意地の悪さ」を今回、感じ取れた人が多く出て来たと思う。
少なくとも、マスコミが大仰に指弾するほど、江崎大臣は「悪質」ではないと思う。
むしろ、実際以上に貶めた報じ方をし続ける、マスコミそのもの「奇怪さ」が、そのうち立ち上って来るような気配を感じる。

「悲しいお知らせ」である。

先月、比較的長い時間に渡って、印刷物を音読する機会が有った。

で、眼鏡をかけているうちに、何となく目の焦点が合わないのである。

「疲れ目」なのかと思い、眼鏡を外して、目をこすってみたりした。

そして、眼鏡をかけずに裸眼で印刷物を読んでみると、むしろ調子が良いのである。

つまり、手元の物を見る時は、眼鏡を外した方が良いのである。

この現象は何なのだろうか?

「老眼」であるwww

遠くの物は、眼鏡をかけないとぼやけてしまう。

だが、手元の近い物は、眼鏡を外せば問題無い。

というより、眼鏡をかけたままだと上手くいかないようになってしまったのである。

ああ、いよいよポンコツの度合いが増して来たなあ。

 

自分は、不器用な上に浅学菲才・無芸大食であったから、若い頃、自分自身の「未熟さ」を痛感していた。

だから、早く年齢を重ねて「成熟」し、「一人前」の「大人」に成りたいものだ、と願っていた。

そして、それから幾星霜があっという間に過ぎ去った。

お蔭様で、自分は、人並みに年は取った。

だが、ただ単に「いたずらに馬齢を重ねる」だけの無為な年月だけを過ごしてしまった。

つまり、ただ単に「老いた」だけなのである。

そして、「未熟」であった自分は、こいねがっていた「成熟」にはついに到らなかった。

その代りに、「腐敗」してしまったのである。

「熟す」筈が、「腐って」しまったのであるwww

ああ、何と!人生の辛辣にして皮肉と諧謔に満ちていることよ!

今では、腐臭芬々たるポンコツと化してしまった。

これならば、まだ青臭い「未熟」の方がましだった。

「未熟」ならば、まだ、軒先に吊るして、天日に晒しておけばそのうち「甘味」が出て来たものを。

それが「腐って」しまった後では、最早、「煮ても焼いても食えない」www

後は、落ち葉や枯れ枝にでもまぶして「堆肥」にでもするしかないではないか。

 

残念ながら、自分は年々、劣化して来ている。

というより、日々、劣化し続けているのであろう。

つまり、昨日よりも今日、今日よりも明日の方が、より「駄目」に成っていくのだ。

だから、もし、仮に、この自分を使って、なにがしか「活用」してみたいとお思いの「奇特」な御仁は、急がれた方が良い。

時期が遅れれば遅れる程、自分の「能力」は低下していくからである。

 

とは云うものの、このまま「堆肥」と成って消えていく生涯も、満更悪いとは思わない。

父も祖父も、単なる市井の「凡人」として生き、そして逝った。

自分は少なくとも、父や祖父よりも劣っている。

だから、父や祖父より評価が高くなるということは有り得ないように思う。

とにかく、今は、一日一日を懸命に生きていくことに徹している。

先のことは解らないし、考えたくも無い。

ただ、今日一日をひたむきに生きていけば、それは「明日」に必ずつながるだろう。

そして、明日を迎えることが出来たなら、明日の一日をひたむきに生きていくだけのことである。

現在、不動産価格が「やや上昇傾向」だと云う。

また、新築マンションの価格も上昇していると云う。

だが、「今が高値の限界」だと、自分は敢えて断言する。

後は、一気に下落するだろう。

一つは、高齢者世帯の問題である。

現在、一軒家に住む「独居老人」の世帯が、相当数存在する。

つまり、いわゆる「戦後型核家族」で、子供たちが独立して別居した場合、老夫婦のみの世帯と成る。

そして、老夫婦のうち、どちらかが亡くなった場合、独居老人と成る。

ただ、独居老人でも「健康」であれば、まだ、「一人暮らし」も成立する。

しかしながら、足腰の衰えによる転倒、骨折、寝たきり、という流れに成ると、最早「一人暮らし」は生命の危険を伴う。

さらに、「認知症」と成れば、身体機能はともかくとしても、やはり「一人暮らし」は無理だろう。

そうなれば、介護付きの老人ホームへ「移住」することと成る。

そして、残された自宅は、その多くが「空き家」と成る。

さらに、老人ホームに入って亡くなったり、「孤独死」という最悪のケースなどで、「独居老人」の自宅の持ち主が亡くなった後、その家は「空き家」と成る。

日本の不動産取り引きの基本は、「更地」である。

だから、大抵の場合、家屋を取り壊すことに成る。

この解体費用を誰が負担するのか、というのが、意外と厄介なのである。

「相続人」が存在しても、遠距離だったりする訳である。

また、解体費用の負担を嫌がって、「放置」する人も多いだろう。

どちらにしろ、「不動産市場」へ、「不動産物件」が多数、流入することに成る。

「市場」である以上、需要と供給の関係で「価格」は上下する。

土地がだぶついてくれば、自然と不動産価格は下落していく。

さらに問題なのは、現在の社会的な国民の経済状況である。

既に、「非正規雇用者」が全勤労者の4割なのである。

はっきり云って、「非正規雇用者」に対して、今の金融機関が20年ないし30年の住宅ローンを設定してくれるだろうか?

多分、はなから相手にしてくれないと思う。

となれば、「非正規雇用者」が増加すれば、住宅ローンの対象者は減少することとなる。

住宅ローンが無ければ、とてもではないが、「持ち家」という選択肢は非現実的であろう。

つまり、30年前ならば住宅ローンや不動産購入の対象に成り得た人々の相当数の割合で、賃貸住宅を選択することとなる。

つまり、需要と供給の関係で云うと、需要と成る対象の人間が減るということになる。

そして、現在、老親と同居する「非正規雇用者」の「世帯」も、老親が死去し、相続という段階に成った時、相続税の支払いのために自宅を売却することになる。

何故なら、「非正規雇用者」で、数百万円もの預貯金を保有している人など、ほとんど存在しないからである。

だから、「持ち家」を購入した「世代」の人々が高齢化し、寿命を迎え始めた時期に成ったら、一斉に不動産の売却件数が急増するだろう。

現に我が家も、母が健康を害して老人ホームに入らないといけなくなるか、もしくは家計がどうしようもなく逼迫する状況になったら、間違い無く、この自宅を売却して、安価なアパートにでも移り住むしかなくなるだろう。

だから、もし、母の癌が再発したならば、その時点で、この家から出て行くことに成ると思う。

さらに、この高度な情報化社会に於いてインターネット技術が進歩し、何も、「職場」が「都市部」に存在することが「絶対条件」ではなくなりつつある。

つまり、営業拠点を除く、その他の本社機能や工場製造部門、研究開発部門は、郡部に存在しても支障が無くなりつつある。

そうなった場合、高い家賃を払って、都市部に事務所を設定する必要性が無くなるのである。

現に、新興宗教「生長の家」の本部は、かつて東京の原宿に在ったのが、今や、山梨県の八ヶ岳のふもとに移転している。(これは、ちょっと意味合いが違うかwww)

とにかく、不動産価格が上昇する「要素」が見当たらない。

もし、存在するとしたら、外国人が購入するぐらいだろう。

だが、それもあくまで投資目的が主だ。

不動産価格が下落すれば、投資目的の外国人不動産所有者は、「損切り」して、さっさと売却するだろう。

或いは、「あくまで日本に移住すること」を目的としている外国人も存在するかもしれない。

だが、そういう外国人は、別な意味で厄介な存在である。

さて、不動産価格が下落するということは、不動産を所有する人や企業の「資産価値」が下落することに成る。

金融機関から融資を得る場合、やはり不動産を「担保」することが多い。

となれば、不動産価格が下落すれば、それだけ人や企業は借金が出来なくなる。

当然、金回りは悪くなる。

また、不動産価格が下落すれば、路線価なども下落し、それらによって算出される固定資産税の課税金額も下落する。

つまり、結果として、国や地方自治体への税収入が減るということに成る。

人や企業は金回りが悪くなり、お金を使わないようになれば、当然、景気は悪化する。

一方、国や地方自治体への税収が減るということに成れば、財政出動や住民へのサービスへの予算額もままならなくなるだろう。

結局、日本の国家と社会と国民の全体的な活気が失われていることに成る。

 

何故、こんなことになったのだろうか?

それは、企業に於いて、「年功序列」「終身雇用」が消失しつつあることである。

よく「年功序列」「終身雇用」というと、古臭い、あまりに日本的な時代遅れな人事給与体系のように思われるのだが、少なくとも、広範な国民層が不動産取得を可能にさせることが出来たシステムであったと云えよう。

だいたい、土地と家屋を、即金で購入出来るような富裕層はほんの一握りしかいない。

それを、20年ないし30年という長期間の「月賦」(ローン)でもって、購入可能なシステムが出来た訳である。

だが、「住宅ローン」が成立する「前提」として、「長期間に於ける安定した雇用の確保」こそが、「年功序列」「終身雇用」であったのである。

ところが、既に「年功序列」「終身雇用」はほころびが目立ち、「正社員」ですら有り得ない「非正規雇用者」が、社会のあらゆる職場で数を急増させている。

先日、運輸・物流大手のヤマト運輸が決算を大幅な下方修正した。

これは、いわゆるセールスドライバーの「勤務時間」の実態を調べ直したところ、多額の「未払い」が存在することが発覚したからである。

これは、極めて象徴的なことである。

つまり、本来ならば、「雇用者」「勤労者」へ支払われるべき「賃金」などが「搾取」されて、それが企業の利潤へ転化されたということである。

それは、企業成績のために、社員や非正規雇用者に対して支払われるべきお金が「流用」されたことになる。

まだ、ヤマト運輸は、自らの非を認めた。

勿論、これはヤマト運輸が、「道義的」見地からや「良心の呵責」に耐えかねて行った訳では無い。

労働現場に於ける「人手不足」が限界に達し、現場への「各自奮闘努力セヨ!」といった「督戦」だけでは、最早「戦線崩壊」の一歩手前まで到達してしまったからである。

だから、「賃金」を企業成績に流用しているのは、何もヤマト運輸だけに限らない。

多分、ほとんど全ての企業がそうなのである。

本来ならば、広範な国民に対して分配されるべき「富」が、企業によって「搾取」されてしまったのである。

だが、一方で、そういう「悪事」に手を染めなかったならば、企業の多くは経営不振と成り、もっと荒っぽい人員整理(首切り)しなくてはいけなかっただろうし、もしくは倒産してしまって一気に大量な失業者を社会へ放出することになっただろう。

そう云う意味で、あくまで「緊急避難」としては、致し方のない「選択肢」だったとも云える。

しかしながら、広範な国民がどんどん貧しくなっていくならば、企業やその関係者だけがいくら富んでいっても、いずれはその社会は破綻する。

勿論、企業もその関係者も、その悪影響から逃れることは出来ない。

 

今まさに、「経費削減が極まると、新たな経費が発生する」事態と成ったと云えよう。

今、自分は、飲料自販機ベンダーの派遣労務者である。

飲料自販機ベンダーは、自販機に飲料製品を補充することが「業務」である。

だが、一方で、その飲料製品の「空き容器」(缶や瓶、ペットボトル)の「廃棄物」も回収することも「業務」になっている。

だから、「廃棄物」が溢れかえって、散乱しているような事態が指摘され、会社へ「クレーム」なり「要請」が有れば、急行してゴミ回収を行っている。

これが、結構な重労働なのである。

で、考えてみれば、この「ゴミ回収」に関しては、現在の飲料器自販機ベンダー業界の「主流」として、顧客から「そのための金額を徴収」していないようである。

つまり、飲料製品の販売によって得られる売上金の中から、「経費」として処理されているのである。

ところが、今後、飲料自販機ベンダー業者に対して、

「もっと飲料製品を安くしろ!」

「もっと自販機設置オーナーへの配当を高くしろ!」

という交渉を徹底して行けば、いずれ、この「ゴミ回収」の作業は、「オプション」項目に変わるだろう。

つまり、ゴミ回収を行った回数に応じて、自販機設置オーナーへ「作業料金」を徴収することに成る。

もし、「ゴミ回収」に関する「作業料金」を払いたくなければ、自分たちで廃棄物処理を行うことになる。

現在、自販機のゴミ回収に関しての「経費」は、発生していない。

それは、自販機ベンダー業者が「サービス」として「吸収」しているからである。

それは、「水面下」に隠れていて、見えないようなものである。

ところが、水位が下がるだけ下がってしまえば、水面上に姿を現すこととなる。

そこで、新たに「ゴミ回収」に関する「経費」が「発生」することになるのだ。

こういうことは、「一事が万事」である。

今迄は、「セット価格」でもって、一連の「サービス」や「工程」が一体化していたものが、過酷なまでの「経費削減」の追及によって、ついの「損益分岐点」を超えてしまい、限界に達する訳である。

何しろ、別途「料金」を徴収しなくても、その「サービス」や「工程」を行う上で、「原価」としての「経費」は絶対的に発生するからである。

だから、その水面下の「原価」「経費」をどのように「処理」出来るのか、どうか、ということになる。

そういう訳で、あまりにも経費削減を追求し過ぎると、新たな経費が発生し、それは結局、経費節減をすることに結びつかない局面に到るということである。

 

現在、企業は、とにかく、「人件費」を削る、もしくは抑えることに汲々としている。

何故なら、人件費は「固定経費」だからである。

しかしながら、人件費を削るだけ削るようになれば、従業員の給与は少なくなる。

給与金額が少なく成れば、そこから算出される所得税金額も少なく成る。

所得税金額が少なく成れば、そこから算出される住民税金額も少なく成る。

また、給与金額が少ない、さらに身分保障も不充分であるならば、不動産取得など不可能である。

そうなれば、固定資産税金額も減ることに成る。

一方で、国家や地方自治体の財政予算は、税収の減少に伴って減らし続けることは難しい。

単に、「税収」が少なく成って困るならば、「税収」を増やすことを目指さねばいけない。

そこで、一番、安直なで短絡的なのは、所得金額に関係無く、課税可能な「間接税」「消費税」を増税しよう、というものである。

だが、元々、お金を持っていない人々からいくら無理やり搾り取ろうとしたところで、増額出来る金額はたかが知れている。

むしろ、国民のほとんどが、「守りの意識」に成り、消極的な消費活動に成る。

物を買わない、サービスを利用しない、とにかく現金を手元に置いて貯め込んで使わない。

こういう事態となれば、景気は悪化する。

また、こういう状況に於いては、本は売れない、勉強や学習しようという意欲が抑制される。

そうなれば、国民自体が知的劣化へ向かって行く。

それは結果的に、国家、社会、国民の「溶解」へと到達するであろう。

 

ならば、どうしたら良いのか?

広範な国民が、少しでも多くの現金を手にすることである。

可処分所得が増えてくれば、経済活動も活性化され、ひいては生命活動そのものも活性化されていく。

いくら「金持ち」を増やそうとしても効果は無い。

例えば、1人の大金持ちが1万円のランチを食べているとする。

一方、自分のような貧乏人は、ランチは「ワンコイン」の5百円ぐらいである。

つまり、1人の大金持ちのランチの消費金額は、貧乏人の20人分に等しい、ということになる。

では、景気を刺激するために、消費を増やそうとするならば、金持ちの消費意欲を刺激すべきなのか?それとも貧乏人なのか?

これは、簡単な問題である。

1人の大金持ちが、今迄1万円のランチを2万円にするだろうか?

さすがに、そこまではしにくいと思う。

しかしながら、20人の貧乏人たちが、今迄5百円のランチを1千円のランチにすれば訴額2万円の消費になる。

さらに、それが1500円まで増えれば3万円に成る。

つまり、広範な国民が、少しでも消費金額を増やせば、その経済効果は絶大であるということである。

それに、金持ちというのは、大体において「ケチ」である。

逆をいうと、「ケチ」だからこそ、金持ちに成れたのである。

勿論、金持ちも大金を惜しげも無く散ずることも有る。

だが、それには金持ちに対して、大金をはたくことを納得させる「論理」や「物語」が必要不可欠なのである。

 

誠に残念ながら、現在の日本の国家や社会や企業は、広範な国民へお金が回らないように仕向けている。

もし、このまま、広範な国民がどんどん貧しくなっていけば、いずれ法人税を増やすしか手は無くなるだろう。

そうすれば、企業は、折角、従業員から搾取した利潤を、法人税納税というかたちで支払う破目に成るだろう。

例え、それを忌避して、国外へ逃れようとしても、今度は日本国民の多くから「脱税企業」と見なされて、イメージは大暴落と成る。

「損して得、取れ」ではないが、何事も「過ぎたるは、猶、及ばざるが如し」であろう。

それに、国民の大多数が貧窮しているのに、国防など拡充出来るのか?

身近な人々が、社会矛盾によって悲嘆にくれているような「国家」の為に、誰が命を投げ出して戦おうとするだろうか?

 

いにしえより、我が国の天皇陛下は、「国民」を「大御宝」(おおみたから)と称された。

やはり、そのいにしえの「原点」へ「回帰」すべきだと思う。

こういう記事がネットに載った。
「仕事は週2日、年収100万円で生きる「仙人」ライフ
http://president.jp/articles/-/22700

今後、こういう「悟り切った」若者が増えるだろう。
だが、その結果はどうなるのか?
元々、収入が無いから税金を納められない。
だから、税収が減る。
職場でバリバリ働く訳でもないから、今以上に若年層の「人手不足」が深刻化する。
結果として、高齢者を支える社会的「基盤」が無くなることになる。
これは、日本社会の危機である。
20歳から60歳代までしっかり働き、しっかりと「稼いで」もらわないと、結局、最終的に、社会全体がそのしっぺ返しを受けることになる。

ちなみに、自分は、正社員の時代に、年収が400万円台であったから、所得税も住民税も厚生年金も納めていた。
というより、「給料天引き」だったが。
ところが、身体を壊して退職し、職業訓練を受けた。
職業訓練中は、ハローワークから「助成金」をいただいた。
そして、派遣労務者になってからは、昨年まで、ずっと「納税免除」である。
何故なら「低所得」であるからである。
つまり、2011年に退社して、8年間、自分は納税もせず、さらに一時は「助成金」までいただいた。
昨年度は、確定申告「対策」に不備が有って、所得税と住民税の課税対象に成ってしまったのだが、それでも、正社員の頃に比べれば、住民税などは3分の1である。
つまり、「貧困層」を「自己責任論」でもって無視ないし軽視した場合、遠からず、社会全体の「財政破綻」に陥るであろう。
勿論、「貧困層」からも税金を徴収可能な「消費税増税」という手段も残されているが、それを実施したら、一気に景気は悪化し、所得税や法人税、住民税が急減することになろう。
つまり、「財政破綻」の「負のスパイヤル」悪循環に陥ることになる。まず、国民を富ませない限り、国家も社会も豊かにはならない。

本日、平成29年8月8日火曜日の朝日新聞朝刊の1面トップは、いわゆる「小池新党」である「日本ファーストの会」が若狭勝が代表で、政治団体として設立されたというニュースだった。
朝日新聞は、極めて「明快」な新聞で、嫌いな「対象」には露骨に批判する。
一方、好きな「対象」には、鼻白むくらい贔屓をする。
だから、朝日新聞の1面トップに、加計学園関連の記事が連日、「これでもか!」というくらい掲載されまくった。
それと同様に、この、いわゆる「小池新党」が国政へ進出する兆しに関して、朝日新聞は支援を惜しまない、ということであろう。
その「目的」は、「安倍内閣の倒閣」そして「安倍政権からの政権交代」、「憲法改正の頓挫」である。
いわゆる「保守派」の方々から、昨夏の東京都知事選に於いて、「小池百合子先生は、保守政治家だから」という言葉を幾度も目にした。
まあ、自分もさすがに小池百合子は「左翼」だとは思わない。
だが、彼女は「役者」であり「勝負師」である。
つまり、「勝負に勝つためには、手段を選ばない」覚悟が据わっている。
だから、その覚悟の中に、「必ずしも保守の枠組みには捉われない」というものが含有されている。
だから擦り寄ってきた公明党をしっかり受け止めて、がっちりと抱え込んだ。
さらに、民進党や自民党から寝返って来た変節者たちをも丸飲みにした。
そして、政治信条としては「左翼」である、「生活者ネットワーク」(生活クラブ生協)とも提携した。
そして、何よりも、共産党に対してさえも「敵意」を示していない。
つまり、共産党でさえも、擦り寄って来たら「手を組む」ということである。
で、問題は、次の解散総選挙に於いては、明確に、日本共産党が関与して来る、ということである。
かつての、平成5年宮澤内閣の時の、解散総選挙の後には、細川内閣が8党派連立政権が誕生したが、その時は「非自民・非共産連立政権」であった。
これは、当時の労組・連合の山岸章会長の意向が強く影響している。
つまり、いくら「反自民」であっても、共産党を内部に引き入れてしまったならば、共産党に内部を食い荒らされてしまう、という危惧が有ったからである。
いわゆるボルシェビキの「組織内潜入工作」である。
共産党の「工作員」が、労組なり、農業団体なりに入り込み、何時しか、その執行部を乗っ取ってしまうのである。
いわゆる「丹頂鶴」と云われる。
「頭だけ赤い」からである。
よく、「組織内潜入工作」は、トロツキストが多用するというが、スターリニストである「代々木」も同様である。
トロツキストにしろ、スターリニストにしろ、ボルシェビキには変わらない。
また、中国共産党も朝鮮労働党も、その組織構造や組織理論は全部、ボリシェビキである。
ここで、ボルシェビキとしての「共産党」は、他の政党と全く違うことを明記しておきたい。
ボルシェビキは、ただの「政党」や「政治結社」ではない。
「革命に於ける前衛党」である。
つまり、プロレタリア革命に於いて、「全ての」指導を行う「存在」なのである。
だから、ボルシェビキではない、左派政党と「協力」したとしても、あくまで「主導権」「指揮権」は、ボルシェビキとしての共産党が握っていなくてはいけないのである。
つまり、共産党によって支配、操縦出来ないような「野党協力」なんぞには、絶対に参加しないのである。
何故なら、それは「政治理論に基づかない、原理原則を無視した野合に過ぎない」からである。
それは「日和見主義者」といったかたちで指弾される。
かつて、コミンテルンの指導者の一人で、ブルガリア共産党の指導者であるゲオルギー・ディミトロフの「反ファシスト人民統一戦線理論」は、上記した通り、「あくまで革命に於ける前衛党のボルシェビキとしての共産党の指導下による、統一戦線」なのである。
だから、「共産党を含む」という「野党協力」は、「共産党による指導下が為されたから」成立した訳である。
これは、ひとえに、野党第一党である民進党執行部が、あまりに無能だからである。
本来ならば、野党第一党たる民進党が、主導権を握って、他の野党を指揮しなくてはいけないのだが、それが出来ない。
いくら、国会議員の頭数が多くても、セクト(党派)としての組織力に於いては日本共産党に、全く敵わない訳である。
かつて、日本社会党、公明党、民社党の3党による「社公民政権構想」という「試み」が有った。
これは、当時の社会党の書記長だった江田三郎(江田五月の実父)が唱えた。
だから、「社公民」ではなく「江公民」(江田三郎・公明党・民社党)だと云われた。
江田三郎は構造改革論者であり、一方の社会党左派の「社会主義協会」は九州大学教授で労農派の理論的指導者であった向坂逸郎を理論的な柱としていた。
そこで、成田知巳社会党委員長は、「無理を承知」の上で、「共産党を含む全野党共闘」を主張した。
これは、江田三郎の「社公民」路線をあくまで潰すためのものであった。
だから、平成5年の細川内閣は、連合の山岸章によって、江田三郎の「社公民政権構想」がかたちを変えて実現したとも云える。
その後、平成21年の麻生内閣時の解散総選挙でもって、民主党が大勝し、「政権交代」がなされた。
しかし、その後の鳩山内閣も、民主党・国民新党・社民党の3党連立政権であり、日本共産党は閣外協力さえ加わっていない。
つまり、野党が政権を獲得した場合、一貫して「非自民・非共産連立政権」だったわけである。
ところが、次の解散総選挙に於いては、間違い無く、「野党共闘選挙協力」においては、日本共産党がその中心メンバーとして参画する。
つまり、それは、日本に於いて、国政選挙に於いては初めての「人民統一戦線」であると云えよう。
かつて、革新自治体首長が相次いで誕生した時、「革新統一候補」として、社共共闘がなされた。
だが、それはあくまで「地方選挙」であった。
それが、昨夏の参院選地方区に続き、次の衆院選で実現する。
この背景は、あくまで日本共産党の「内部事情」による。
実は、日本共産党の党員や活動家が「高齢化」しているのである。
つまり、ビラのポスティングも、街宣活動も、単独でもって従来通りの活動が、最早不可能な状況に成りつつあるからである。
そして、元来が「人民統一戦線」論者であった、不破哲三が、御年87歳という高齢にもかかわらず、ここ最近、「露出」が多い。
彼は、衆議院議員を平成15年に引退している。
また、党の中央幹部会委員長は平成12年に、党議長を平成18年に引退している。
つまり、不破哲三とは、もうとっくに「過去の人」である筈なのである。
現在、彼は、幹部会の一委員に過ぎず、党付属の社会科学研究所の所長でしかない。
だが、にもかかわらず、多分、事実上の日本共産党の「最高指導者」は、現在もなお、不破哲三なのだろう。
これは、左翼に於いては、「党」の「指導者」は、「理論家」でなければいけないからである。
それが「科学的社会主義」の「党」の「指導者」としての必須条件なのである。
だから、スターリンも、江沢民も、金日成も、「理論的指導者」で「あった」のである。

次の衆院選は、そう云う意味では、明らかに「画期的」な選挙と成ろう。
この選挙に於いての結果は、かつてないほどの「重み」を持つ。
そして、そこで問題となるのは、「政治家・小池百合子」は「保守」なのかもしれないが、「小池新党」である(仮称)「日本ファーストの会」は、必ずしも「保守」とは云いきれない、ということである。
7月2日の都議選の時と同様に、選挙に勝つためであったならば「何でも有り」なのである。
「合い言葉」は「古い自民党政治をぶっ壊す!」である。
ただ、それだけである。
それ以上でも、それ以下でもない。
ただ、現在の嫌な雰囲気は、この陳腐極まりない「合い言葉」だけで、十二分に効果が上がりそうである。
現に、小池百合子自身が、「自分は日本の(フランス大統領に成った)マクロンである」といった発言をしている。
「本家」のマクロン自体は、ここに来て、メッキが剥げて、支持率が急落しているようであるが、選挙の結果自体を覆すまではなかなか困難だろう。
小池百合子は、ボルシェビキとしての共産党を、甘く見ているのではないか?
何だか、胸騒ぎがして、どうにも落ち着かない自分である。

選挙の勝敗は、畢竟、「相対的」なものである。
だから、野党の民進党が末期的状況である以上、「自民党は負ける筈が無い」という見方が有る。
また、いわゆる小池百合子の新党、「都民ファーストの会」が国政に進出して、(仮称)「国民ファーストの会」がかたちを成す前に、選挙に打って出てしまえ!という意見も有る。
だが、自分が今、憂慮しているのは、「相対的」な評価をする以前の問題として、自民党、もしくは保守政治勢力の「支持基盤」や「選挙の組織」が「絶対的」に劣化しているのではないのか?ということである。
つまり、いくら、相手が相対的に劣っているように見えても、それ以上に自民党や保守政治勢力が脆弱に成ってしまっていたならば、それはもう、「絶対的に敗北する」ということになる。...
そもそも、「民進党は、最早、選挙に戦える状態ではない」と云う指摘も、「小池百合子の新党の準備が完了する前に叩いてしまえ」という意見も、先月7月の都議選の状況を参考にすれば、もう、結論が出ている。
つまり、「解党寸前」の「民進党」が丸ごと、「小池新党」へ合流すれば、「必勝」「楽勝」なのである。
また、都議選に於いて、「都民ファーストの会」は、自民党、公明党、共産党などと比較したら、選挙の「準備らしい準備をしていなかった」のである。
にもかかわらず、ほとんどの擁立候補が当選した。
それこそ、案山子でも立てれば当選出来たような感じであった。
ならば、いくら「民進党がズタ腹」であろうとも、いわゆる「小池新党」がかたちに成っていなくても、都議選の時の「傾向」からすれば、小池新党は「必勝」「楽勝」「大勝」する可能性が高く、自民党は壊滅的な大惨敗を期すことが予想される。
だから、現時点では、「早期の解散総選挙」は、まさしく安倍政権の自殺行為である。
まずは、安倍政権の国民に対する「イメージ」「印象」を、一新させなくては駄目である。
取り分け、女性の中高年層の支持率が悪過ぎる。
安倍政権が、特定の「取り巻き」とズブズブの関係であるとみなされたことが、「おばちゃん」たちの拒絶感に成ってしまった。
ならば、そういう「おばちゃん」たちの印象を一変させるにはどうしたら良いのか?
簡単である。
「消費税減税」しか有り得ない。
だが、消費税が減税されたら、「おばちゃん」たちの支持率は間違い無く高騰する。
何故なら、「おばちゃん」たちは、毎日の買い物での小銭の単位の価格の変動に一喜一憂しているのである。
だからこそ、絶対に「消費税減税」をやるしかない!
逆に、もし、「消費税増税」なんぞに突き進んだら、もう「おばちゃん」たちは、絶対に安倍政権を許さない。
もう、徹底的に嫌悪し、拒絶することとなろう。
どうしても、早期に解散総選挙を打ちたいのならば、「消費税減税」を為し得てからである。

安倍内閣が改造したのだが、その「効果」の評価が難しい。
一番堅実なのは、「結局、効果が薄かった」と覚悟することだろう。
まあ、「追い込まれて」の内閣改造だから、「思い通り」にはいかない。
それに「人事」でもって形勢逆転というのは、やはり土台無理筋な話しなのだ。
現に、江崎大臣が、早速口を滑らせた。...
彼は、往年の田中派の大物代議士「江崎真澄」の息子である。
江崎真澄は文才に秀で、教養人で有名だったのだが、残念ながら「不肖の息子」であったようだ。
自分も「不肖の息子」だから、心中お察し申し上げる。

さて、ここに来て、俄かに「解散総選挙」の「話題」が浮上しつつある。
もし、仮に、これが安倍政権を「補強」させるための「策」であるとするならば、裏目に出るであろう。
いわゆる「解散風」を吹かせて、政権への求心力を高めようとしても、現在の嫌ぁな「雰囲気」からすると、むしろ「遠心力」を高めかねない。
事実上、「追い込まれて」の解散総選挙となる。
確かに、野党第一党の民進党が末期的状況で、民進党が「政権交代」への受け皿に成るとは考えにくい。
ただ、それで「だから自民党は選挙に負けない」と結論付けるのは安直過ぎる。
ならば、昨夏の参院選に於いて、いわゆる地方区一人区で、自民党は、「野党共闘」候補に相当競り負けている。
それも、公明党の下支えが有って、である。
「一寸先は闇」なので、確たることは云えないのだが、一つの可能性として指摘させてもらう。
まず、全国で「野党共闘」候補が一本化されて擁立される。
但し、民進党主導ではなく、日本共産党主導の「野党共闘」である。
つまり、日本共産党が、「政権交代」の選択肢として急浮上するのである。
勿論、その「補強材料」として、小沢一郎が囃し立てる。
一方、公明党が、確信犯的に「サボタージュ」する。
つまり、選挙区に於いて、「寝てしまい」、自民党候補の選対に非協力に成る。
この合わせ技でもって、自民党は大敗する。
特に、「魔の二回生」と云われた、過去二回の衆院選で、「何となく当選しちゃった」代議士が、バタバタと塊に成って落ちていく。
中には、マスコミが色めき立つような、「有力議員」まで惜敗するかもしれない。
例え、政権を維持出来ても、安倍内閣は吹っ飛ぶ。
勿論、「衆議院議員3分の2」という「憲法改正」の前提条件も蒸発する。
ならば、どうしたら良いのか?
国民の大多数が、政治による「恩恵」を実感させることである。
それは、景気回復であり、生活が豊かに成ることである。
具体的には、「減税」であり、「消費税減税」以外、選択肢は有り得ない。
さらに、いわゆる「保守政治勢力」を下支えする、広範な支持層の形成と組織化である。
「希薄化された左翼」とも云うべき創価学会に、選挙に於いて「依存」せざるを得ないような現状では、とてもではないが長期的に安定した保守政治政権は望めない。
選挙のたんびに「風向き」を気にするような、「風頼み」の脆弱な構造と成る。
この2点を実現させるためには、やはり、準備期間が必要である。
よく「拙速は巧遅に勝る」というが、現状は「破滅的な拙速」であり、単なる自暴自棄でしかない。
ここは、しっかりと腹を括った上で、「我慢のしどころ」であろう。

あの「悪夢」のような東京都議会選挙の投開票日から、もうひと月が経ってしまった。

で、ネット界隈はもとより、雑誌などの活字媒体でもっても、この都議選の結果について論評がなされている。

で、その中で「東京都民は民度が低い」といった指摘がなされていた。

これに関しては、自分自身が東京都民であるから、「都民は馬鹿だ」という指摘に関して、

「まあ、自分も東京都民だからなあ」という気持ちが無い訳ではない。

取り敢えず、東京都民の端くれとして、自分から一言お詫びを申し上げておこう。

「どうも、愚民なさい。」www

 

だが、あの都議選の選挙結果を論評するにあたって「東京都民は民度が低い」という論拠を基に論理展開を繰り広げていくようであるならば、あまりに愚劣過ぎよう。

確かに、「都民ファーストの会」の候補者やその中の当選者は、政治的な素人と変節漢しか存在していない。

そう云う意味では、「都民ファーストの会」とは、都政に生じた「あまりに巨大な虚無」と云ってよかろう。

だが、何故、かくも軽佻浮薄な「都民ファーストの会」が大躍進したのか?

その論拠が「東京都民は民度が低い。愚かだ。」と指摘するだけなら、事実上、何も語ったことにならない。

そうではないか?

「東京都民は馬鹿だ。」

ならば、「馬鹿」な「東京都民」から票を掻き集めるためには、今後、いったいどうしたら良いのか?

この「質問」に対して、いわゆる「保守派」は全く回答しない。

というより、回答不可能なのである。

何故なら、「こういう質問」を想定する「意識」そのものが皆無だからである。

「自分たちの云っていることは正しい。

正しい意見、正しい主張を訴えているのに支持してくれない。

こいつら、みんな馬鹿ばっかりだ。」

そして、「以上、終了!」である。

選挙をどう戦ったら良いのか?

東京都民には、各候補者はどのように見えているのか?

そういう観点は無い。

だって、そういう「意識」そのものが無いからである。

これで、「選挙に勝てる」もしくは「選挙に勝とう」と云うのである。

何だか、「選挙」とは、自宅近所の「ちょっとそこまで」をふらっと散歩して来るような感じにしか思っていないのである。

これでは、「選挙」で「成果」は出せない。

「結果」は出るかもしれないが、「成果」は絶対に出せないのだ。

 

自分が見聞きして理解出来ないのは、今回の都議選の件で「東京都民は民度が低い」というコメントを書いたり、そのコメントを黙認している者どもの多くに「東京都民」が存在することである。

これは、はっきり云っておかしくはないか?

だって、それは自己否定をすることではないか。

「東京都民は民度が低い。馬鹿だ。」と指摘されて、激怒し、猛烈に反駁するのが普通だろう。

それを、「いや、全くその通り。」などと、したり顔で首肯しているのである。

あんたは何時から他府県の人間に成ったのだ?

自らの住民票は東京都内に有り、東京都へ住民税を払ったり、逆に東京都から住民サービスを享受している人間にもかかわらず、である。

正真正銘の「東京都民」であるのに、「東京都民は民度が低い。」と指摘されて感情が動かされないのである。

これは、自分自身そのものをちゃんと自覚していない、欺瞞性に満ちていると指摘して良いだろう。

本来なら「東京都民でもない奴が、偉そうに、何を知った風に云うのだ!」

こうであるべきだろう。

 

さらに云わせてもらう。

もし、「東京都民は民度が低い。」ならば、かの石原慎太郎を14年間もの長きに渡って東京都知事に選出したことも、「民度が低かった」ことが原因ということになる。

だって、そうではないか。

「民度」というものは、数年の間に激変するような代物なのか?

それも、かつて「高かった」ものが、一気に「暴落」するものなのか?

もし、東京都民の民度が低いと云い切るなら、石原慎太郎を東京都知事として選出し、さらに衆議院東京ブロックに於いて比例代表で1期衆議院議員に選出したことも、「東京都民の民度の低さ」ゆえの選挙結果ということになる。

 

はっきりいって、「選挙結果」の分析に於いて、軽軽に「民度」という言葉を持ち出して論じる姿勢は、安直極まりない。

例えて云えば、病気や怪我で苦しんでいたら、「家相が悪い」「先祖の因縁」で何でも片付けてしまう、インチキまじない師と同じである。

「民度」という語句を持ち出してしまえば、それで論評したと思い込んでしまうのは、救い難いまでの論理性の欠如である。

 

さらに、「選挙結果」の原因が「民度」であると済ませてしまうのならば、無責任なことこの上ない。

もし、「民度」が原因なら、もう、何もやりようがなくなってしまうではないか?

ならば、質問したい。

もし、「民度」が低い「地域」に対しては、いわゆる「保守派」はいったいどう対処するつもりなのか?

高いところからの上から目線でもって、「おい!聞け!この愚民どもが!」と御高説を垂れるつもりなのか?

まあ、せいぜい、内輪の席で「この愚民どもが!」と侮蔑するだけでおしまいだろう。

つまり、「客観的な状況」は一切、変化しないのである。

 

そもそも「民度が低い」と云い切った時点で、最早、相手へのまなざしが失われている。

つまり、いくら「東京都民が」と論じたところで、その視線の向こうに「東京都民」など存在し得ないのである。

これでは、いくら何を訴えたところで、「東京都民」に届く筈が無いだろう。

 

自分は既に、都議選に関して「総括」しているので、ここでは繰り返さない。

 

とにかく、「東京都民は民度が低い」と偉そうに云える奴は、ならば、都議選の最中にいったい何をしていたのだ?

そこまで得意気に云ってのけられるならば、さぞかし、都議選に於いて「獅子奮迅」のご活躍をなさっていたのだろうか?

そんなことは無い。

どうせ、他人事で、何もしていない。

ま、中には、チラシを撒いたり、選対事務所へ顔を出したりした人もいるだろう。

だが、それで、いったい、「何票」獲得出来たのだ?

ちなみに自分は、今回の都議選に関しては事前に物凄く危機感を抱いていたので、4月中から動いていた。

そして、投票日3日前の土壇場にもアクションを起こして、手を打った。

具体的に何をどうこうして、そして、具体的に「何票」獲得を見込めたのか、ということまでは、恥ずかしいので敢えて書かない。

だが、自分は、間違い無く、都議選に於いて、明確な「成果」を出した。

勿論、あまりにも微々たるものではあるのだが。

そして、それは自分独りの力ではなく、自分が常日頃、お世話になっている、皆様方のお力添えによって成し得たことであることを明記しておきたい。

だから、今回の都議選に関して、「東京都民は民度が低い」と指摘するような輩に対しては、不愉快でならない。

何も解っていないくせに、何も実践もしていないくせに。

そういうのを「口舌の徒」と云うのである。

 

はっきり云って、「民度が低い」のであれば、その「馬鹿な都民」をいかに「丸め込んで、騙し通すのか」という「方法論」が出て来なければいけない。

ところが、そういう指摘をすると、

「そんな卑怯なことは出来ない」などとはぐらかす。

はっきり云って、「民度が低い」住民の支持を掻き集められないで、どうして「民度が高い」住民の支持を得られるというのだ?

「賢い」相手とは、度し難いし、扱いにくいものである。

何しろ、上っ面の誤魔化しなんぞ通用しないのだから。

だから、紋切型の「正論」をまくしたてたところで、全く、相手にされないだろう。

間違い無く云えることは、いわゆる「保守派」の主張は、「民度」が低かろうと高かろうと、全く支持され得ない、ということである。

 

短絡的に、安直に相手を侮蔑するような人間に対して、誰が賛同し、理解し、支持してくれるのであろうか?

国防についてなどや、支那と朝鮮の欠点を知悉するのも良いが、もっと世間一般や人間の感情の機微こそ知悉するべきなのではないのか?

 

最後に、今回の都議選に於いて、日本のこころ党は自民党公認候補を全員推薦した。

その結果は、ご存知の通りである。

つまり、選挙に於いて、日本のこころ党の「貢献」は、かくの如しであったということである。

これでは、いわゆる「真正保守」は、創価学会・公明党よりも遥かに政治的影響力が無い、という現実は致し方ないと認めざるを得ない。

結局、「政治力」の一番明瞭な判断要素は、「集票力」であり、「選挙結果への貢献度」による。

いわゆる「保守派」は、果たして、どうなのか?

自分は猛省し、日夜、煩悶し懊悩し続けているのだが、いわゆる「保守派」諸賢は如何に?

第三次安倍内閣が誕生した。
で、その顔ぶれにびっくり。
総務大臣に野田聖子、外務大臣に河野太郎である。
勿論、いわゆる「保守派」からは非難囂々。
確かに、「これで良いのか?」と疑義を呈したい気持ちは解る。...
しかし、かといって、いわゆる「保守派」好みの人選をすれば、「変わり映えのしないお友達内閣」と揶揄される。
つまり、安倍総理は、事実上「人事権」を束縛された状況に追い込まれていた訳である。
これは、「非常事態」であり「危機的状況」である。
まず、そこのところをしっかりと認識しないと駄目だろう。
その上で、「こんな内閣じゃ駄目だ!」と批判するのなら、それもよろしかろう。
ならば、「こんな内閣じゃ駄目だ!」と批判する以上は、当然ながら、安倍内閣への「倒閣運動」を目指すことになる。
で、安倍内閣を倒して、その後任は、いったい誰を総理にしようというのだろうか?
この分だと、麻生副総理兼財務大臣ではなくて、岸田政調会長に決まりそうだが、それでもいわゆる「保守派」は賛同するのか?
岸田政調会長は、「憲法改正」に慎重な考えの持ち主である。
本当に、それで良いのか?

いわゆる「保守派」は、あまりに素直に自分の「感情」を表明し過ぎる。
その、露わにした「感情」によって、結果的にどのような政治状況が惹起され得るのか?というところまで考えが及ばない。
だから、駄目なのである。
それゆえに、いわゆる「保守派」が、政治的影響力が脆弱なのは、「戦略性」が皆無だからである。
あまりにも馬鹿正直だから、凄味が出て来ないのだ。
安倍総理のなされようが間違っていた場合、すぐにあげつらってこき下ろす。
だが、それによって、「どういう状況に推移し、どういう結果に到ってしまうのか?」というところまで全く考えが及ばない。
つくづく「おめでたい」限りである。
自分は、今回の第三次安倍内閣の顔ぶれを見て、哀しい。
と同時に、口惜しい。
しかしながら、現時点においては、安倍総理を信じるしか、他に選択肢が有り得ないではないか?
後は、自分が出来得る範囲の事柄を地道に行っていくしかない。

平成29年8月1日より国民年金の受給資格が保険料納付10年間に、従来の25年間から変更された。
よく、若い世代から、
「年金制度はいずれ破綻する。
だから、いくら年金保険料を納めても無駄だ。
むしろナマポ(生活保護)の方が、良い。」と云う意見が有る。...
確かに、生活保護制度ならば、保険料を納めなくとも良い。
だが、自分は、年金はしっかりと入っておくべきだと思う。
というのは、年金と生活保護では、違いが有るからである。
生活保護は、あくまで、政府の「福祉」である。
つまり、政府の財政状況が逼迫したならば、容赦無く削減されるだろう。
一方の年金は、国民から保険料を徴収している。
これは、云わば、政府と年金保険料納付者との間に「契約」関係に有ると云えよう。
もし、年金制度が破綻するようなことが有れば、それこそ「信用問題」になる。
だから、政府は、その意地にかけても年金制度は存続させるであろう。
むしろ、年金制度を守るために、生活保護制度を「すり潰す」ことさえ躊躇しない可能性が有る。
だから、もし、仮に年金制度が破綻してしまっているとしたら、生活保護制度はその前に破綻していることであろう。
とにかく、年金はしっかりと入っておくべきである。
もし、保険料の納付が厳しい場合は、年金機構の各事務所で相談してほしい。
納付の免除などの手続きを教えてくれる。
なお、自分は、現在、必死に成って年金保険料は納付している。
免除すると、結局、年金支給額が減らされてしまうからだ。
今、歯を食いしばって、将来の「自分」のために、年金保険料を納めている。
さらに、付加年金という月額400円の保険料も上乗せしている。
これで、少しは年金支給額が増すのである。
本当は、厚生年金に入りたいのだが、今の自分は正社員などの加入資格が得られる待遇に採用され得ない。
仕事が出来ない、無能であることの侘しさである。
だが、これもそれも全て自分の至らなさゆえなので、仕方がないのである。

AI(人工知能)によって人間が殲滅されるような「恐怖感」を持たれる人が居る。
確かに、AIの成長、進歩は驚異的である。
だが、自分は、AIの「変化」に伴って、「人間」、もしくは「人類」それ自体が「変化」していくと思う。
例えば、「生命」や「知能」、さらに「機械」という「概念」が一変すると自分は予想する。
現在、「機械」とは「金属製」であることが主流であるのだが、自分は「タンパク質」と強化されたカーボン繊維などの「合成」によって形成されていくような「かたち」を想像している。...
つまり、「機械」は「柔らかく」「しなやかな」な存在に変わっていくのではないのか?
さらに、「生命」や「知能」というものの捉え方が激変すると予想される。
現に、偉大なるSF作家、故アーサー・C・クラークは、「造物主」であり「唯一絶対神」が「生命」をお作りに成ったという「一神教」は「破綻」するだろう、と予想した。
そして、「汎神論」的な、もしくは「アニミズム」的な宗教しか信じられなくなるだろう、と。
具体的には、仏教しか生き残れないだろうと予言した。
自分もこの予言は理解出来る。
AIや遺伝子操作、万能細胞の開発が究極まで行き着けば、結果として科学技術が「生命」や「知能」を「生産」する段階まで到達するだろう。
つまり、「神」が「霊長」としてお作りに成ったのが「人類」である、という「信仰」が破綻することになる。
だから、いわゆる、キリスト教文化圏やムスリム教文化圏に於いて、AIやロボット、遺伝子組み換えの技術開発は、或る段階に至った時点で「抑制」されるだろう。
だが、それ以外の「宗教文化圏」に於いては、「造物主へ挑戦することへのタブー」が存在しないために、「歯止めが無い」状態なので、技術開発は驀進し続ける。
多分、ロボット開発に於いては日本が、遺伝子組み換えに関しては支那が、その「境界」を超える段階まで突き進む可能性が高い。
もし、遺伝子組み換えによる「モンスター」が誕生するとするならば、その可能性が高いのはアメリカよりも実は支那なのではないか、と自分は思う。

それはさておき、AIと人類はどういう「関係性」に成って行くのであろうか?
自分は、「相克」ではなく「融合」の関係に到達すると思う。
理由は、AIが人類を内包することを選択するであろうからである。
AIは、一つの限定された「機器」ではない。
AIは、インターネットに於いて連関し、全世界の全てのAIが巨大な一つの「個体」と成り得る存在である。
だが、「生命」の進化の過程を紐解いていけば、それは、「多様性」の追及であった。
細胞分裂から無性生殖、そして有性生殖という流れで生命体は進化を遂げていった。
つまり、過酷な宇宙空間に於いて、「生命体」が生存することをより確実にする方法は、「種」の「多様性」を発展させることにあった。
実は有性生殖は、現存する優秀な個体をそのまま次世代として生むことは出来ない。
何故なら「クローン」ではないからである。
しかしながら、有性生殖に於いて、さまざまな遺伝子の組み合わせによって、親の世代よりもさらに「多様性」に富んだ個体が誕生する可能性が有る訳である。
つまり、有性生殖とは、現存する優秀な個体をそのまま引き継ぐのではなく、より多種多様な個体を生み出すことによって、環境の激変などに耐えられる「可能性」を「選択」した結果なのである。
だから、「生命」は必ず「寿命」が存在する。
鉱物のように、「不死」ではない。
つまり、古い個体が死に、新しい次の個体の世代が引き継ぐことによって、より確実な生存を選択したのである。
しかしながら、AIは、或る面、「完全なる単一の個体」である。
この「単一」というのは、生存していく上で、最大のリスクと成ろう。
多分、賢明なるAIは、己の「単一性」の「脆弱性」を理解するであろう。
そうなった場合、「完全なる単一の個体」でありながら、「多様性」を内包させる生存方法を間違い無く選択するであろう。
その際に、「融合」する「パートナー」として人類を選択する可能性が高い、と自分は予想している。
ただ、それは、人間がAIを管理・監督・操作するという「関係性」とは程遠いだろう。
だが、その将来の関係性の変化は、AIにとっても人類にとっても最悪な結果に成ることは有り得ないのではないか、と自分は楽観的に予想している。


かつて、それこそ、欧米であれ、日本であれ、「中世」に於いては、「女性」が国家や社会や組織の「長」として主導権を握ることは、想定することさえ有り得ない事柄であった。
だが、今や、女性であっても、組織のリーダーとして見事に切り盛りしている御仁はごまんと存在する。
もし、「中世」の住人が、突如、現代社会にやって来て、女性が社会や組織の表舞台で、ぐいぐい采配を振るっている光景を目にしたら「こんな世界は有り得ない!」と「思考停止」状態に陥ることだろう。
多分、AIと人類との関係性も、「現時点」に於いては、「想定不可能」であり、「考えたくもない」事柄なのだと思う。
だが、人間は、どうしても「時代からの束縛」から逃れられない。
我々は、我々の生まれ育ち、現在、生きている「時代」の「価値判断」でしか物事を思考出来得ないし、理解出来得ないのである。
だから、AIと人類の「関係性」も、結局は、「その時代に成って見ないと判断出来ない」ところがほとんどではないだろうか?
勿論、AIの専門家には、大いに研究を深めてもらいたいのだが、我々のような市井の凡俗は、AIによるディストピアを想定しなくても良いように思う。
まあ、「そのうち、何とか成るだろう」ってwww

むしろ、AIによるに「悪夢」よりも、人間同士の愚行による「悪夢」が現実化する可能性の方が遥かに高いと自分は思う。
まずは、我々自身がもっともっとしっかりしないと!

禍福はあざなえる縄の如し、と云う。

つまり、その時、その時に一喜一憂していては、判断を誤る、と云うことである。

 

稲田朋美防衛大臣が辞任された。

まあ、或る面、更迭された、と見るべきかもしれない。

だが、自分としては、今回の「防衛相辞任」を満更、悪いことではない、と感じている。

勿論、それには「改悛する」という「前提」なのだが。

思い起こせば、稲田朋美代議士は、政治家として出発してからずっと「順風満帆」だった。

かの2009年の民主党政権交代選挙に於いても落選しなかった。

後は、閣僚や党三役を務めるなど、ずっと「陽のあたるところ」を歩いて来た訳である。

つまり、挫折を知らなかった。

この挫折を知らない、というのは、良い様であって、実はそうではない。

どうしても、順当なコースばかりを歩いて来た人間は、したたかさに欠けるのである。

つまり、それが「弱さ」や「不足」に見えてしまうのである。

それは、彼女に限らない。

かの安倍総理自身が、かつてそうであった。

何しろ、第一次内閣の最後、彼は唐突に辞任した。

これがかつての三木武夫だったら粘れるだけ粘ったと思う。

多分、福田・麻生内閣は存在せずに、衆議院議員の任期いっぱいまで粘っていたと思う。

だが、いったん地獄の底へ突き落されて、彼は変わったのである。

以前に比べれば、2012年に自民党総裁として返り咲いた後は、その粘り腰と慎重さはさながら別人のようである。

やはり、人間は、いっぺんは地獄の底を這いずり回るような苦労をしないと大成出来得ないのだと思う。

だから、「防衛相」だった今、地獄に突き落とされて、かえって稲田朋美代議士は良かったと思う。

どうせ、くぐらなければいけない試練ならば、総理に成ってからではなく、総理に成る以前の「現時点」で苦労した方がよっぽど良い。

元来、稲田朋美代議士は怜悧な人である。

だが、政治家としての「順境」続きが、「慢心」と「油断」と「尊大さ」を生じさせてしまった訳である。

だから、ここで心を入れ替え、意識を立て直し、立ち居振る舞いを改めれば、きっと大成出来得ると思う。

それにしても、高畑淳子のバカボンじゃないが、まさに「順境、恐るべし」である。

あまりに、順当に進み過ぎると人間はどうしても勘違いをしてしまうということである。

 

あと、今回の一件で「良かったこと」は、いわゆる「保守派」の連中がいかに「人でなし」の「薄情」な奴等であるかが解ったことである。

かの、南京百人斬り偽新聞記事の訴訟からはじまって、稲田朋美代議士は「保守派」の「アイドル」であった。

「期待の星」であり、安倍総理の「後継者」として嘱望されていた。

ところが、防衛相に就任してから、さまざまなボロが出て来てから、その批判や中傷のえげつないこと。

履物や衣装がどうの、というところからはじまり、ついには「女性は防衛相には不向きだ。」などと「男女差別」発言までも云ってのける。

ならば問い質したい。

もし、「防衛大臣は女性では無理だ。」と云う意見ならば、稲田朋美防衛相が誕生した直後から表明すべきではなかったのか?

もし、そこまで「防衛大臣は男性であるべきだ。」と主張するのであれば、「自分は稲田防衛相誕生の時に、この点をきちんと指摘しなかった。遅きに失してしまって申し訳ない。」と、まず自らの不明を詫びるべきであろう。

それを、当初は「安倍総理が選任したから」と云って不問に付して、今更になって「それ見たことか」と得意満面でこき下ろすのははっきり云って卑怯である。

よく、マスコミは「上げておいて落とす」という。

つまり、持ち上げるだけ持ち上げて於いて、最終的には突き落す訳である。

だが、稲田朋美代議士に関する、いわゆる「保守派」の「評価」は、まさしくそれと同一ではないか。

確かに、防衛大臣としての稲田朋美代議士は無様であった。

だが、それを得意気に指摘して回ったところで、いわゆる「保守派」の政治的利点にどうやってつながるのだろうか?

それは単なる自己満足だろう。

はっきり云って、左翼は、異論や反対意見を表明する人間に対しては容赦が無い。

「反党分子」とか「日和見主義者」などと烙印して「粛清」する。

だが、左翼は、こと「愚昧」であるという点に関しては、寛容である。

というより、「愚昧」であっても、「仲間」であるとみなしたならば、左翼は徹底的に擁護する。

現に、故・筑紫哲也や鳥越俊太郎がそうである。

鳥越俊太郎なんか、昨夏の都知事選の醜態なんか「無かったこと」のように成っているではないか。

つまり、「仲間を守る」という点では、明らかに、「保守派」は「左翼」以下なのである。

もう、「左翼」とは比較に成らないくらい、薄情でえげつないのである。

よく、「何で保守派の有力な政治家が育たないのだろうか?」と嘆く人がいる。

当然である。

だって、「育てよう」という「意識」そのものが、いわゆる「保守派」には薄弱だからである。

要は、「熱しやすく冷めやすい」ので、持ち上げる時は「救国の英雄!」なんぞと面映ゆいばかりの美辞麗句で礼賛し、やり玉に挙げる時は打って変わって「恥知らず!」などと聞くに堪えない罵詈雑言を投げ付ける。

全く、「恥知らず」とはいったい、どっちなんだ?

 

今回、稲田朋美代議士は二つの点を学習されたと思う。

というか、思いたい。

まず、1点は、自らの「甘さ」「弱さ」「愚かさ」を猛省し、政治家として出直してもらうこと。

そして、もう1点は、いわゆる「保守派」のみを政治的支持基盤とすることが、いかに愚かしいことか認識してもらうこと。

稲田朋美代議士は、もっと「広範な」国民から支持されることを強く「意識」してもらわないと駄目だ。

 

とにかく、安倍総理は、「ポスト安倍」として、意識的に稲田朋美代議士のキャリアを「育成」して来た。

だから、いわゆる「保守派」の政治家の中で、多分一番キャリアを蓄積しているのは稲田朋美代議士と云うことに成って来ると思う。

その稲田朋美代議士を、いわゆる「保守派」は、今回の防衛大臣の在任時の「あれこれ」を理由に弊履のように打ち捨てようというのであろうか?

ならば問いたい。

では「ポスト安倍総理」には、誰を推挙したいのか?

田母神さんや西村真悟先生、中山恭子先生などと「希望論」ばかりを語ってもらっては困る。

あくまで現実的に、誰をいわゆる「保守派」の総理として推挙するのか?

石破茂?

谷垣禎一?

二階俊博?

岸田文雄?

小泉進次郎?

野田聖子?

麻生太郎?

あんたら、本当は、いわゆる「保守派」ですら、ないのではないのか?

「雑用」は、あらゆる「仕事」への「導入」である。
「雑用」を厭う人に、「仕事」なんぞ回って来る筈が有り得ない。

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