平成28年7月24日、25日と新聞各紙の東京都知事選挙の情勢調査が出た。

各紙、ほとんど傾向は同じ。

1、首位は小池百合子

2、僅差で増田寛也、鳥越俊太郎が追う

3、自民・公明支持層では増田が小池を逆転、もしくは並ぶ

4、小池は無党派層の支持が一番多い

5、当初、無党派層の支持が見込まれていた鳥越は苦戦

平成28年7月19日の別記先述した拙文に書いた通り、ここまで小池百合子に人気が手中するとは想定外だった。

小池百合子への支持の高まりは、選挙戦終盤に成ってからも衰えを見せない。

かわりに、7月21日発売の週刊文春の醜聞記事の影響で、鳥越俊太郎が失速している。

また、増田寛也が、徹底した「組織固め」の選挙でもって、自民党と公明党の支持層を固めて来た。

多分、公明党支持層は、最終的には八割方、固め切るであろう。

問題は、自民党支持層で、自民党東京都連としては「増田」なのだろうが、国会議員や地方議員の「後援会」などに関与しないものの、世論調査に於いては「自民党支持」と表明している有権者は、自民党党員でない「増田」よりも自民党の代議士だった「小池」の方に馴染みが有るのである。

自民党支持層では、最終的には、その6割弱を「増田」、3割強を「小池」で分け合うのではなかろうか?

問題は、いわゆる「無党派層」で、「小池」がダントツで、「鳥越」がそこそこ。

「組織内候補」の「増田」は、からきしのようである。

やはり、弁舌の上手さでは小池百合子がダントツである。

しかし、「手堅さ」では、増田が評価出来よう。

その点、日増しに、鳥越俊太郎の駄目さ加減が露呈して来た。

結局、鳥越は、数秒間のTVワイドショーの「コメンテーター」のコメントしか話せない能力の持ち主であるということである。

例えば、

「やっぱり、待機児童を減らすには、介護職員の数を増やさないと。」と云うコメントは出来る。

だが、その後に、「では、具体的に、どういう政策でもって実現していくのか。」と云った段階に成ると、とたんに黙りこくってしまう。

つまり、たった数秒間の「コメント」だけしかひねり出せない頭脳なのである。

あとは、ひたすら「愛嬌」で勝負するしか、ないwww

これでは、あまりにも「神輿」が「軽過ぎる」のである。

現に、我が母は、頑固な左翼で、先日の参院選では、地方区では民進党の小川敏夫に、比例区は福島瑞穂に投票するような、何とも救い難い程「香ばしい」御仁である。

だが、そんな母をして、「どうも鳥越さんじゃあ・・・」とすっかり呆れている。

勿論、それでもなお、投票の際には鳥越に入れるだろうが、少なくとも他人に熱心に勧誘する意欲は無くなっている。

これは非常に重要なことで、当初、「鳥越」支持層とみられた人々の半分近くは、あまりの愚かしさに呆れ果てて、投票する意欲を無くしてしまったのである。

だから、例え、自分は投票しても他人へ勧誘することはしないだろうし、自分自身も棄権してしまうかもしれない。

「鳥越」陣営は、いわゆる週刊文春の「女子大生淫行」記事の悪影響だと激怒するだろうが、これは「駄目押し」に過ぎない。

それ以前に、ろくに街頭演説も出来ないような「無能」さを露呈したことが、「失速」「苦戦」の本当の理由だろう。

選挙戦終盤戦に入って、ようやく、街宣の数を増やしたが、ある日などは、一日に2回しか街頭に立たない日も有った。

選挙戦で街頭に立たない候補者で当選出来たのは、かつての青島幸男やコロンビア・トップぐらいで、後は皆無だった。

「関係者へ挨拶回りをしていた」などと言い訳しているが、そんなことは候補者がやるべきことではない。

選対の然るべき責任者が、きちんと挨拶回りをすれば良いことであって、候補者はとにかく人前に晒されなくては、全く意味が無い。
今回の東京都知事選挙で、痛感したのは、「1足す1が2に成らない」と云うことである。
つまり、鳥越俊太郎にしても、増田寛也にしても、政党や組織が寄り集まって、広範な支持母体を形成した筈にもかかわらず、実際は、「1足す1が0.8」ぐらいに成ってしまっている「惨状」である。
誠に、ここが選挙の難しいところである。
鳥越俊太郎は、いわゆる「無党派層」への支持が伸び悩んでいるので、ついに「組織」を固める戦略を取り始めたようである。
だが、共産党支持層は固められるが、民進党支持層はどうだろうか?
労組の「連合東京」が支持しなかったことは、ここに来て、ボディブローのようにジワジワとダメージに成っていると思う。
増田寛也は、選挙最終日まで、とことんまで「組織の引き締め」に尽力するだろう。
当然、小池百合子への「票」は切り崩されていくだろう。
ただ、その減った分を、小池百合子は、「無党派層」の支持獲得で補填している。
それゆえに、小池・増田・鳥越の三者が拮抗しつつ有り、その勝敗はどうなるかのか、皆目見当がつかない。

そこで、迷いに迷い、悩みに悩んだ自分は、選挙の投票先を、こうすることに決めた。

まず、投票は「期日前投票」をしないで、投票日に投票する。

そして、夕方に成ってから、投票率の数値を見て、投票する候補者を決めることにする。

投票率が上昇すれば、小池百合子に勝機が有るので、自分も小池百合子へ入れる。

だが、投票率が頭打ちに成るのであれば、固い組織の増田寛也へ入れる。

いやはや全く、苦労させられますわいwww

あまりに体調が絶不調なので、ついに近所の診療所へ駆け込んだ。
すると、診察結果は「夏風邪」。
どうりで、駄目な筈である。
昔から、「夏風邪は馬鹿がひく」と云われている。
まあ、自分が馬鹿であることは、先刻承知であったのだが、ちゃんとそれが実証されてしまった。
まあ、喜んでwwwばかりはいられない。
仕事を休む訳にはいかないので、誠に申し訳無いが、風邪が治るまで、ネットを開かないことにしようと思う。
もう、馬鹿で馬鹿でしょうがないから、ネットを開くと、ついつい、余計なことを書いてしまうのだ。
「馬鹿の考え休むに似たり」であるし。
多分、都知事選も、もう、これ以上「激変」はしないだろうし。
何も書かなくても良さそうだし。
と云うことで、しばし、不義理をさせていただきたく。
何卒、皆様、ご容赦の程。

もう二度と書きたくない「文章」が有る。

会社の昇格試験の小論文である。

この、会社の昇格試験の小論文と云うのは、全く自分の性分に合わない。

何故なら、徹頭徹尾、この文章を読む人間のことを念頭に於いて書かなくてはいけないからである。

そもそも文章というものは、人間同士の意志の伝達手段であるから、それが当然と云えば当然なのであるが、日本に於ける会社の昇格試験の小論文というものはそれが極端なのだ。

会社の昇格試験の小論文というものは、いくつかの設問、例えば「新規事業の今後の展開について述べよ」と云ったテーマに沿って文章を記述することである。

しかし、個人的な見解というものは、全く要求されていない。

既に、会社側、経営陣が「模範解答」を決定している。

だから、会社側、経営陣が欲しがるような文章表現でなければ、全く意味を為さない。

論拠として記載する事柄、小論文全体を印象付ける重要語句、そして論理展開と結論に到るまで、全て事前に事細かく決まっているのである。

後は、会社側、経営陣が、目に掛けている「優秀な」幹部候補生たちに、それとなく、

「昨年の経産省の経済指標のデータを引用しろ」

「『経営の効率化』『選択と集中』『キャッシュフローの健全化』は絶対に記載しろ」

こういった「ご指導」が内々に為されるのだ。

つまり、事前に「社内力学」に通じた上司に認められない限り、こういう「ご指導」は、まず受けられない。

だから、経営陣や人事とのコネクションが無い、ごくごく「普通」の社員は、どういう風に小論文を書いて良いのか、皆目見当がつかないのである。

事実上、この、会社に於ける昇格試験の小論文の選考基準は、試験実施の前段階で、ほぼ「決定終了済み」なのである。

後は、与えられた情報や上司からの示唆によって、どれだけ適格な文章表現が出来るかどうかということだけである。

このことに気が付いてから、自分は、全く社内の昇格試験に対して関心が無く成ってしまった。

この小論文の選考で決定的なのは、突飛で独創的な人間は徹底的に排除される、ということである。

「規格合格品」の人材しか、絶対に昇格出来ない。

能力も学歴も振るわない自分にとって、金輪際、昇格や昇進など無縁であると痛感した。

 

自分が書いて来ている「文章」は、ほぼ全て、他人を勘定に入れて書いていない。

ならば、何を意識して文章を書いているのか、と問われれば、それは自分自身である。

自分が書きたいことを書き、読みたいものを書く。

ただ、それだけである。

だから、自分の目で見て、評価に耐えられないような文章ならば、それは全部破棄してしまう。

結局、自分自身のみを評価基準として文章を書いているので、誠に以て「独り善がり」であると云えよう。

だが、それは致し方無いのだ。

何故なら、自分の拙文には「お客」が一人もいないからである。

勿論、文章を書き、ネットで公表をしている訳だから、「読者」という存在は有る。

だが、自分は、その方々からビタ一文頂戴していない。

まあ、一円の値打ちも無いような代物なのだから当然至極なのだが、「おひねり」一つも飛んで来ない以上、自分の好き勝手に書き殴っていて、何が悪いのだ。

これは、敢えて偽悪ぶって書いている「理由」であるがwww

本当のところ、文章にしろ、何にしろ、「表現」というものは、或る特定の人物を思い定めたかたちでなければ、結局、意味を為さないと自分は思うのである。

いわゆる不特定多数の、民衆とか、国民とか、子供達とか。

そんな曖昧模糊とした「対象」を意識して「表現」したところで、そんなもの、中途半端なピンボケの代物にしか絶対に出来上がらない。

むしろ、特定個人を想定して「表現」した方が、遥かに「伝わる」のである。

宮澤賢治の詩集「春と修羅」の中の絶唱、「永訣の朝」は、今まさに逝こうとする最愛の妹へ向けられた「言葉」であった。

この「永訣の朝」を記した時、宮澤賢治の脳裏には、愛する妹以外、誰も存在し得なかった筈である。

しかしながら、あくまで「妹」という特定個人に向けられた「言葉」であるがゆえに、著しく普遍的な説得力と共感を我々に与えることが出来得たのである。

また、英霊の御遺書が、肉親に宛てた「私信」に過ぎないのにもかかわらず、読む人の万人の胸を打つのは何故なのか?

或る特定の「個人」に焦点を絞り切ることによって、多くの人々の共感を得さしめるのである。

これは、他人に限らない。

自分自身という、或る特定の「個人」に徹底的にこだわり抜いた時、それは結果として単なる「独善」の枠を凌駕するのである。

自分に関して云えば、この世の中には、自分にそっくりな顔かたちの他人が二人居るという。

それと同様に、自分の趣味趣向に共感してくれる人間も、10人くらいは居るかもしれない。

だから、その、たった10人ぐらいの他人のみを対象に、自分は拙文を書いているのだ。

まあ、そのせいで、何時まで経っても自分は文章が上達しないのである。

ただ、これもそれも、一介の派遣労務者風情の手慰みに過ぎないので、どうか今後も、一笑に付して甘受して下されたい。

中山良昭先生のFBの書き込みに触発されて。
青森県の「じょっぱり」がさらに強烈に成ると「ごうじょっぱり」に成ります。かの歌手の淡谷のりこ先生や版画家棟方志功画伯の生涯を見れば一目瞭然です。特に棟方志功は「わだばゴッホに成る!」と自らを鼓舞し続けて、世界的な評価を得ました。なお、太宰治、寺山修司、伊奈かっぺいも。この三人は情熱的というより、なんだかスマートな感じ。ちなみに、同じ青森県でも、八戸と弘前などの津軽は、南部藩と津軽藩で異なります。戦国時代に、かつて南部氏の配下だった津軽為信が造反し、独立。いち早く、豊臣秀吉に恭順を示して「本領安堵」を得た。その経緯から、ひそかに豊臣秀吉の像を祀り、関ヶ原で敗北した石田三成の遺児をかくまいました。自分もかつて青森県で仕事に伺った時、八戸の方に、「津軽とは仲、良くないんだよねー」と。地方に行くと、歴史的な人間関係が強固に残って居ることが有ります。そう云う面で、東京もんは、歴史に関して鈍感な感じを受ける時も有ります。

昨日は終日、雨模様だった。

雨合羽を羽織って、懸命にお仕事をさせてもらった。

約10時間、雨天にもかかわらず汗だくで働き、クタクタに成って帰宅した。

帰宅して、何とは無しに、TVを見ていたら、「クローズアップ現代プラス」が始まっていた。

思わず見入ってしまった。

昨日、平成28年7月21日の放送は、「若者に広がる個人請負」という内容だった。

現在、日本に於ける雇用の状況は、約38%がいわゆる「非正規雇用」であると云う。

「非正規雇用」は、低賃金で身分が不安定であり、この状況である限り、持ち家など絶対に不可能であるし、結婚して子育てをすることさえ非常に厳しい。

だが、昨日の番組を見て、「非正規雇用」の方がまだ恵まれていると感じてしまった。

「個人請負」とは、いわゆる「個人事業主」である。

つまり、企業と「雇用関係」に有るのではなく、「業務請負」という「外注取引先」という形態である。

そうなると、「労働者」ではなくなるのだ。

「個人事業主」ということに成れば、「組織」の管理の下に入る訳ではないので、裁量権が増す。

つまり、時間や収入に於いて「自由」であると云える。

だが、「自由」と云う美名の裏には、「保護されない」という一面が有る。

つまり、「組織」に管理・拘束される代わりに保護されるのだが、フリーランスの「個人事業主」は保護の対象外とされるのである。

つまり、「自己責任」である。

この労働問題に対して「自己責任」という語句が用いられた場合、ほぼ全て資本家もしくは発注者側の「合理化」なのである。

つまり、業務従事者の「使い捨て」、賃金の抑制を「正当化」するための「屁理屈」である。

確かに、「個人事業主」による「個人請負」ならば、時間も収入も裁量権が自由だ。

しかしながら、個人と組織、特に大企業と「交渉」する場合、圧倒的に個人は弱い立場に成らざるを得ない。

「あなたの代わりは他にも幾らでも居るのだから。」と云われて、「契約」の条件はどんどん大企業側の都合に沿うかたちに押し切られてしまう。

結局、低報酬・重労働・長時間の条件を飲まされることに成る。

さらに、「雇用」関係ではない、事業者間の「契約」なので、一方的に「契約解消」に踏み切られても、現法制度では救済されることがほとんど無いと云う。

この「労働者」ですら、無い、というところに現在の就労状況が移行しつつあるというのは、なんと狡猾なことであろうか。

つまり、いわゆる社会主義運動などによって取り組まれて来た「労働運動」は、大きな転換点を迎えたと云って良かろう。

既に、日本の労働界、つまり労働組合運動に関しては、正規雇用者の割合の激減と非正規雇用者の割合の激増によって、事実上、その「成果」が限定的なものに貶められてしまった。

つまり、戦後の労働運動によって勝ち得て来た労働者の諸々の「権利」は、あくまで「正規雇用者」つまり「正社員」であることが前提であった。

ところが、資本家側が「非正規雇用者」の割合を激増させてしまったため、労働者の「権利」を保障される人々は、極めて限定的に変えられてしまったのである。

現に、派遣労務者である自分には、有給休暇は無い。

雇用保険には加入しているが、年金も健康保険も国民年金と国保である。

納税も給与からの源泉徴収ではなく確定申告である。

これは、「労働力は必要だが、組織の構成員としての面倒は見たくない」という企業側にとって、誠に好都合な形態なのである。

そして、その企業側の「ご都合主義」は、今や「非正規雇用」ですら煩わしくなり、「個人請負」というかたちに向かい始めた。

「個人事業主」と云うかたちに成ると、日本に於ける労働組合の主流である「企業別労働組合」にとっては「対象外」に成ってしまう。

まだ、パートやアルバイト、契約社員や派遣社員ならば労使交渉というかたちで関与出来るが、「個人事業主」ということに成ると「企業別労組」では対応出来ない。

「個人事業主」と云うと、「フリーランス」ということに成るが、この表現だとあまりにスマートな印象を与えるので、経営コンサルタントやライターなどの「今時(いまどき)」の「おしゃれ」で「インテリ」のイメージを持ってしまいがちである。

だが、我々に馴染みの有る「個人事業主」の表現は「ひとり親方」だろうwww

いわゆる個人の職人さんだ。

つまり、落語に登場する「熊さん八つぁん」である。

よく「江戸っ子は宵越しの金は持たない」と云われたが、それは「江戸」という都市の特殊性から来ていた。

徳川幕府という「軍事政権」の「首都」であった江戸は、各「大名」という独立した「軍団」が多数「駐屯」する「都市」であった。

そのため、都市の多くの割合に於いて「大名屋敷」が占める割合が高く、「都市住民」である「町民」は、その「大名屋敷」などから除外された、ごくごく限定的な地域へ押し込められるように居住するしかなかった。

しかも、元来が湿地帯であった過疎地帯であったのを、埋め立てや護岸工事など短期間で人工的に整備した「都市」であった。

そのため、いつもどこかで「普請中」つまり、工事中の都市であった。

当然、建設労働者が流入してくる。

だから、個人の大工や職人は、常に仕事が有って、しかも当時は「月給制」ではなく、「日払い」だったのである。

だから、その日に稼いだ金は、その日のうちに使い果たしてしまっても、明日に成ってまた工事現場で働ければ、ちゃんと日銭が入って来たのである。

さらに建設労働者は、ほぼ男性であった。

男性が日中、重労働で疲れ切っているのだから、食事などまでなかなか手が回らない。

当然、そういった職人相手の飲食産業が求められる。

そこから、居酒屋、寿司、蕎麦、天麩羅、といった日本の「ファーストフード」が誕生していくのである。

そして、「板前」という個人の職人が誕生し、また飲食業の原材料を提供する八百屋や魚屋が必要と成る。

「一心太助」や落語の「芝濱」の主人公といった個人の魚屋が江戸市中に多数存在した訳である。

そう考えると、我々の労働環境は、今まさに江戸時代まで引き戻されようとしているのである。

「宵越しの金は持たぬ」と聞くと、江戸の庶民は能天気でお気楽な身分だったような誤解をしがちだが、実はそうではなかった。

江戸の庶民には庶民の深刻な悲哀が存在していた。

また、木造住宅が密集していたこともあり、火事も頻発した。

皮肉にも、その頻発する江戸の大火が、恒常的な工事をもたらしてもいたのだが、焼け出された人々の苦難は筆舌に尽くし難い。

さて、平成の現在に話を戻すと、この「個人請負」の隘路に嵌まっているのは、圧倒的に若者たちであるという。

これは、あらゆる職場が若年層の労働力を希求しているからである。

また、若者は知識も人脈も乏しいので、「個人請負」の残酷な面が解らない。

更に、日本社会全体を蝕む「貧困化」が拍車をかけている。

自分が衝撃的であったのは、多くの有名大学の学生が風俗業界の「個人請負」に手を染めているということであった。

TV番組には某有名大学のバイオ工学(生命科学)を研究している大学生がホストで働いているというレポートだった。

自分も農学部だったので解るのだが、理科系の大学生は実験や実習などで長時間「拘束」されるのである。

つまり、部活動・サークル活動、遊びやバイトに時間を費やす余裕が無いのだ。

実験は、その準備などを含めると丸一日かかることもざらだし、実験室に泊まり込みに成ることも有る。

また、ちょっとしたコンタミネーション(汚れ)などの些細な手違いから、実験結果が「失敗」することが有る。

そういった場合は、原因を解明したのち、再度、実験をやり直さないといけない。

さらに、実験が無事に終了した後も、出て来たデータを計算し、解析し、そこから何らかの「報告」を導き出さないといけない。

また、実習の場合も、サンプルの採取に長時間を必要とする。

調査目標とする「物質」を採取する場合も有るし、「現象」を観察してデータを採取する場合も有る。

これも地道で愚直な作業である。

だから、ひとくちに「大学生」と云っても、文系と理系では、その「自由時間」には大差が有るのだ。

(ちなみに、そんな「多忙」な農学部大学生だったのに、サークルの「会長」もやり、各サークルの連合組織である「文化部連盟」の事務局長もやり、大学学部祭のスタッフの幹部もやって、さらに吉本隆明、カール・シュミット、網野善彦、呉智英、福田恒存、白川静、宮崎市定、立花隆などを読みふけり、池袋の名画座の文芸坐にも通いつめ、世田谷観音(特攻観音)・児玉神社・池上本門寺・中山法華経寺など神社仏閣を巡礼しまくっていた。

やっぱり相当「異状」だと、我ながら思うwww)

だから、理科系の大学生がごくごく短時間で高収入を得ようとするのならば、「夜の街」で働く術しか選択肢が無いのだ。

さらに、いわゆる「風俗業」は、自前で寮を完備していることが多いという。

つまり、短時間・高収入である上に、居住環境まで対応してくれる「アルバイト」と云うのは、本当に「貴重」なのだ。

だが、「ホスト」で精勤した挙句、急性アルコール中毒で、わずか21歳で命を落とした大学生も既に居たと云う。

よく、日本は天然資源に乏しいと指摘される。

その代りに、日本国民の勤勉さと優秀さでもって挽回していると云う。

だが、バイオ工学(生命科学)の研究に真剣に打ち込んでいる大学生が、「ホスト」で苦手な飲酒を無理やり自分に課しているという現状を見て、もう「この国」は本当に駄目に成ってしまったと悲嘆にくれざるを得ない。

この、現在、「ホスト」としてもがいている若者は、ひょっとしたら、将来、ノーベル賞受賞科学者に成っているかもしれないのだ。

勿論、あらゆる艱難辛苦を乗り越えて、めでたく栄誉を掴めれば良いのだが、それこそ苦手な飲酒で心身を破壊され、若くして早逝するような結末を迎えてしまったら、それは日本という国家、社会全体の重大な損失であろう。

若者たちを低報酬・重労働・長時間の隘路に追いやるような国家や社会に、明るい将来など絶対に有り得ない。

自分のような、40過ぎて、いまだに何の評価も無い、無能なポンコツは、或る面、最早諦めがつく。

だが、二十代、三十代の若者たちが、ただ単に働かされ、個人の能力や技術の習得や練磨の機会さえ与えられなければ、それは、国家、社会の責任問題であろう。

国家や社会や企業などの組織が、その維持継続や発展拡充を目指すのであれば、若者たちに対して、こんな仕打ちを許してしまってはいけない。

これは、現時点の瞬間的な暴利を得ることは出来るが、その後は破綻と衰亡が絶対的に用意されている。

何故、金の卵を産むガチョウをバラそうとしているのだろうか?

「この国」の知的劣化は、本当に極まってしまった。

さて、こんな「個人請負」の「個人事業主」の味方は、全く皆無なのかと云うと、実はそうではない。

さすがに、ホストや個人のマッサージ師、個人の運送業者の支援組織は、自分は寡聞にして知らないが、いわゆる「ひとり親方」の職人さんに対する支援組織は知っている。

かつての全日土建の「全日本建設交運一般労働組合」である。

これは、建設業の「ひとり親方」の職人さんに対応するために、一人でも、失業者でも加入が出来る労働組合である。

実は、自分の知り合いで、熱心な自民党の支援者がいるのだが、その人もこの労組に入っていると云う。

その理由は、この労組の共済制度が他の共済と比較に成らないくらい手厚いそうなのだ。

ただ、この建交労は、ゴリゴリの日本共産党傘下の労働組合なのである。

日本共産党傘下の労働組合ナショナルセンター「全労連」の中核労組であり、この労組単独で、「憲法9条を守れ!」と云った政治活動も極めて活発かつ情熱的に行っているのである。

よく、ネトウヨが「なんで、ブサヨの共産党へあれだけ得票が有るのだ?」と愚痴っているが、まさに「愚痴」である証しなのであるwww

日本共産党へ投票する人の多くは、(と云うより、今やほとんどだろうが)マルクス・レーニン主義、ボルシェビキズム、科学的社会主義の左翼イデオロギーに心酔しているからではない。

県営住宅や市営住宅への入居の面倒や、生活保護申請への手ほどきなどをしてくれた、「一宿一飯の恩義」で投票しているのである。

また、それを「入り口」として、党員や活動家としてリクルートしているのである。

あとは、個人一人から加入出来る労働組合としては、「一般労組」が有る。

連合系、日本共産党傘下の全労連系、社民党支持の全労協系のそれぞれ、計3団体が存在する。

で、全労連や全労協が、強烈な左翼であることは一目瞭然であるが、問題は連合系の「一般労組」である。

何と!官公労の「自治労」の傘下なのである!!!

それこそ、日本社会党・総評の頃から、日教組と並ぶ、左派労組の双璧である自治労。

旧・民主党、現・民進党に於いても左派的な影響力を及ぼしている自治労の下に「一般労組」は所属している。

と云うことは、いわゆる個人の資格でもって、労働問題や貧窮に悩んでいる人々を救済してくれる組織は、ことごとく「左翼」であるという現実である。

今後、「個人請負」の身分で困窮する若者が増大すれば、それら「一般労組」へ助けを求め、ついには加入していく若者も必然的に増大していくだろう。

当然、政治的スタンスは「左翼」に成らざるを得ない。

もう、あらゆる面で、「この国」はどうかしている。

本当に救い難い。

嗚呼!!!

東京都知事選挙に関しては、親しい方々が二つの陣営に分かれてしまっているので、コメントするのが悩ましい。

と云うことで、選挙後まで、もうダンマリを決め込むつもりであったが、週刊文春の「炸裂弾」のせいで、そうも云っていられなくなった。

週刊文春の最新号で、鳥越俊太郎が、かつて女子大生と淫行に及んだと云う醜聞が素っ破抜かれた。

平成28年7月21日の夕刊紙各紙はこの鳥越候補淫行醜聞がトップの見出しである。

22日のTVのワイドショーでも、取り上げられることとなろう。

これは、強烈である。

特に、鳥越俊太郎という「候補者」の特質から云って、致命的なダメージである。

鳥越俊太郎という「候補者」の最大の特質は、「なんとなくいいひと」だった。

だから、政策通でもなく、知性の鋭さでもなく、雄弁さでも、頭の回転の速さでもなかった。

ひとえに、彼の「人間性」そのものが、最大の「売り」だったのである。

ところが、ここ最近ではなく、だいぶ以前の話であるとはいえ、女子大生に淫行に及んだということに成れば、「なんとなくいいひと」が実は「好色魔」であったということに成ってしまう。

舛添要一のあまりにせこ過ぎる「金銭使い込み」もげんなりとさせられたが、「淫行」とは。

二の句が続かない。

まだ、週刊誌の「疑惑」記事に過ぎないとも云えるが、それにしても鳥越候補も選対も、あまりに対応が稚拙である。

弁護士を立てて法的に訴えたというが、それでは世間が納得などする筈が無い。

記者会見を開いて、正々堂々と釈明をするべきだろう。

と云うより、ここで、どういった「記者会見」などのマスコミ対応が出来るかによって、候補者と選対の真価が問われて来る。

もっと指摘させてもらえれば、やりかたによっては、この醜聞と云う負のダメージを「反転攻勢」に切り替えることも不可能ではないのだ。

だが、鳥越俊太郎という人間は、そういった「伸るか反るか」の大舞台に耐えられるだけの頭脳と度胸がからきし駄目なのである。

現に、ただの街頭演説でさえ、まともにこなせず、グズグズのグダグダの体たらくなのである。

選対は、「ここまで人前に晒せない、どうしようもないタマだったのか!」と頭を抱えていることだろう。

その上に、さらに追い打ちをかけられたのである。

選挙戦の真っ最中でありながら、衆目に晒せないような無様な惨状と成ってしまった。

これは、予想外の「ブレーキ」であろう。

鳥越俊太郎は、「拒否感」を持たれたら、即アウトに成る候補者なのである。

嫌われていても、逆に、応援する支持者が興奮して士気が上昇するような、そう云う候補者とは程遠い。

いよいよ、小池百合子に「勝機」が出て来た。


一方、我が家の固定電話の留守録に、増田陣営からのメッセージが吹き込まれていた。

いよいよ自民・公明の「組織」がフル稼働して来たようである。

徐々に、増田ナントカの認識度が上がっていくことだろう。

さらに、都議会議員補欠選挙もはじまるので、4つの選挙区では、各都議候補が「鳥越」「増田」の名前を上げて行くと、「小池」が相対的に沈むことになる。


いよいよ都知事選挙の行方は混沌とし、全く先行き不透明に成ってしまった。

嗚呼、悩ましい、悩ましい。

 

 

どうも、ネットでの自分の知り合いの多くが、相次いで「小池支持」を表明し、その中には小池選対にも参画していく模様。

ここまで来たら、自分は、それに対しては批判はしない。

しかしながら、自分は、小池百合子という「人間」に対しての不信感が払拭出来ない。

だから、現時点で、支持も支援も出来ない。

皆様は、「外国人参政権」などの政策に関しての「理由」に小池支持を要請して来られる。

確かに、「文字」でもっての各候補者の「政策」を比較するのなら、結論として「小池百合子」なのだろう。

だが、都議会自民党と正面対決を標榜しているような感じでは、その実現性は薄いと感じる。

いたずらに「都政」が混乱するだけのような気がする。

かといって、やはり、「ますだおかだ」へ入れるのも抵抗感が有る。

まだ、選挙期間は約10日も有る。

その間に、選挙情勢がどうなるか、まだまだ予断を許さない。

ちなみに、自分は、自民党の某都議会議員の先生と懇意である。

だから、今回は、政策云々ということよりも、「義理と人情と浪花節」wwwが絡むので、小池選対に支援に入ることは、絶対に有り得ない。

ただ、自分の票を、誰に投じるのか、それはギリギリまで見極めてから決めようと思う。

自分は、ここ十年来、全ての選挙で「期日前投票」だった。

つまり、選挙告示日の時には、既に投票先が明確に決まっていたのである。

だが、今回の都知事選は、本当に本当に悩ましい。

むしろ、単純明快に、「小池が良い」「増田が良い」と云い切れてしまう方が、自分は変だと感じる。

と云うことで、現時点では、余程の事が無い限り、今後、都知事選に関して記述することは差し控えようと思う。

昨日は蒸し暑かった。

ジリジリという灼熱地獄ではなかったものの、酷暑であった。

もう、ヘロヘロである。

とは云いつつ、選挙戦たけなわの都知事選に関して、コメントしないわけにはいかない。

こういう時事ネタは、時機を逸すると、全く味気無くなるし、何よりも意味が無く成る。

実は、書きたいネタは、もう8つ程有るのだが、それらは特段、只今記す必要性が無いので、「寝かせて」いる。

とは云うものの、寝かせ過ぎて、すっかり忘れてしまう可能性も有るのだがwww

 

平成28年7月18日月曜日「海の日」。

産経新聞と毎日新聞が、大手新聞各紙に先駆けて、都知事選挙の序盤情勢の世論調査の記事を掲載した。

19日は「新聞休刊日」なので、20日ぐらいには、朝日や読売、日経あたりが各社世論調査を発表するだろう。

産経も毎日も、「小池リード」もしくは「小池、鳥越競い合う」で、「増田猛追」と成っていた。

つまり、現段階に於いて、小池百合子が「一番人気」であるという調査結果が出た。

自分は、散々、「小池百合子へは支持が集まらない」と書いて来たのだが、こういう調査結果が出た以上は、自らの不明を恥じて、一言お詫びを申し上げたい。

よく、玄人や事情通が、なまじ知識や情報を持ち過ぎているがゆえに、かえって世間一般大衆の動向をつかみ切れない「過ち」を犯すことが有る。

つまり「玄人ゆえの間違い」なのである。

自分は、玄人でも事情通でも無い、単なる「選挙オタク」に過ぎないのだが、まあ、世間一般大衆よりかは、多少、いっぱしのことを云える者である。

だが、明確に、今回の都知事選に関しては都民有権者の動向を読み間違えた。

このことについては、よくよく猛省をし、自己点検を行いたいと思う。

ただ、世論調査の結果が出てから、後付けでもって、「小池百合子一番人気」の根拠を述べさせてもらうならば、二つ。

一つ目は、自民党東京都連の油断と傲慢から来た「ノーコメント」が、世間一般大衆からの小池百合子への「判官贔屓(ひいき)」を生んだ。

つまり、小池陣営は、自民党東京都連の「決定」や都政運営の「見えにくさ」を声高に指摘したのだが、それに対して反駁せずに、黙殺したことが、かえって東京都民へ小池百合子側の主張の信憑性を与えてしまったのである。

二つ目は、増田ナントカが、候補者として、あまりに影が薄かったということだろう。

人間的にはそつが無くて、実務家なのだろうが、やはりインパクトに欠けるのである。

現に、自分でさえ、いまだにこの人のフルネームが思い出せないwww

このままだと、投票用紙には「ますだおかだ」って記名してしまいそうだwww

まあ、「ますだおかだ」だったら、有効票に成るかもしれないが、「まえだまえだ」まで到ってしまうと無効に成るだろうwww

それはさておき、現段階では、いわゆる自民支持層には、増田ナントカの名前が全然浸透されていないので、知名度の高い小池百合子に流れたと云えよう。

この世論調査結果を受けて、小池百合子支持の方々は「それ見たことか!」と欣喜雀躍されたことと拝察する。

だが、これで「めでたし、めでたし」に成らないのが、今回の選挙の大変辛いところである。

自分は、既に別記先述した通り、増田陣営は「組織」が担いだ候補である。

「組織」が担いだ以上、人気や支持率が劣勢であっても、それでもって「心が折れる」ことは、ない。

むしろ、これから、しゃかりきになって、「組織」を引き締めて、フル稼働させるのである。

特に、「都議会解散」を表明したことにより、また、来年6月に選挙を迎えるため、都議会議員各位は、知事選が、文字通り「他人ごと」では済まなく成ってしまった。

ここで、意地でも増田ナントカを当選させないと、今度は自分達に火の粉がかかる、と危機感を覚えたのである。

全力で選挙戦に走り出すだろう。

当然、系列の市町村議員も動き出す。

「組織」の選挙戦の特色は、候補者本人の良し悪しで投票行動が決まらないことに有る。

例えば、仮に、自分が「組織」内候補として、選挙に担ぎ出されたとしよう。

系列の地方議員や「先生」と呼ばれる各業界や地域の「名士」が、走り回るのである。

そして、「どうか、こいつを当選させて欲しい。自分の顔を立たせて欲しい。」と頭を下げて回るのである。

すると、地方議員や名士の方々に依頼された有権者は、「候補者については何も知らないけれど、○○先生への義理や付き合いが有るから」と云う理由で、投票行動を決めてくれるのである。

で、こういう「組織」を固める選挙と云うのは、「組織」が稼働するまで、或る程度、日数が必要なのである。

ちなみに、都知事選は2週間以上選挙期間が有って、実は国会議員の衆議院議員選挙よりも長いのだ。

だから、「組織」がフル回転するまでの猶予期間は、他の選挙に比べて、有ると云えば、有るということに成る。

しかしながら、わずか2週間余で、増田ナントカの名前を周知徹底させることが可能かどうかは、判断が難しい。

ただ、小池百合子が、マスコミなどの「空中戦」で「組織」に影響されない有権者の票を集め、一方で、増田ナントカが、徹底して「組織」票を固めた場合、自民・公明などの与党支持票が、ほぼ二つに等分されてしまう可能性が有る。

小池百合子が、無党派層、浮動票の大部分を取り込んで、鳥越、増田を圧倒出来れば、当選が見えて来るが、必死の形相で「組織」を固める増田ナントカが自民・公明の「組織」とは無関係な与党支持票を「奪還」するようになると、小池百合子への得票が目減りすることに成る。

最悪の場合、僅差で小池が鳥越に競り負けることも可能性大である。

小池陣営としては、都議会自民党や自民党東京都連への「批判」が、支持率トップの要因であったことから、今後も、その批判のボルテージを下げることは無いだろう。

だが、その「攻撃的」な姿勢は、都議会自民党に対して「怨念」「怨恨」を派生させてしまう。

これが極まると、都議会議員選挙に於いて、小池派の新党を立ち上げ、各選挙区に候補者を擁立する事態と成る。

これは、かつて橋下徹大阪府知事が、知事支持派の自民党府議5人と共に地域政党「大阪維新の会」を結党した先例を彷彿とさせる。

だが、「大阪維新の会」への大阪府民の「支持」は、現況の大阪に対するどうしようもない絶望感と閉塞感から出て来ている。

大阪府に比べて東京都は、全く恵まれている。

現に、東京都民は、絶望感や閉塞感を感じていない。

それは当然であって、何しろ2020年にはオリンピック・パラリンピックが開催されるのである。

だから、橋下徹のように、小池百合子は東京都民から激烈な支持を集めることは困難だと思う。

都知事選に当選出来るかどうかも、まだ、全く不透明であるし、また、当選後も、さんざん口撃した都議会へ、どのように接していくのか甚だ不明瞭である。

現時点での、産経新聞・毎日新聞の選挙戦序盤情勢の世論調査結果でもって、得意気に「ホルホル」してしまったら、投開票日には「哀号!」と絶叫することに成りかねないだろう。

小池百合子を支持する方々に於かれては、広範な東京都民への支持拡大を訴求すること共に、都議会との関係修復、関係構築へ着手されるべきであると候補者や選対へ上申すべきだと思う。

人間は理屈ではなく、好き嫌いで物事を決定する。

いくら選挙戦だからと云って、互いに抜き差しならない状況まで罵り合いをしては絶対にいけない。

本当の敵は、“革新統一候補”の鳥越俊太郎なのだから。

体調が最悪である。

頭痛がする、疲労感で身体が押し潰されそうだ。

しかし、明日から仕事だ。

もう、横に成って、身体を休めたい。

しかしながら、どうしても「一筆啓上仕り候」。

(だから、筆が乱れがちに成ることを何卒ご容赦の程)

 

東京都知事選挙が始まって、最初の週末である。

候補者の出馬表明が選挙の告示日ギリギリだったので、選挙活動のスパートが急だ。

一気にボルテージが上がってしまっている。

候補者や各陣営の選対、さらに各陣営の支持組織は、否応無く、しゃかりきに成っている。

それと同時に、インターネットでの応酬も激しさを増している。

だが、自分は、日に日に、この都知事選挙に対しての気持ちが冷えて来ている。

多分、この拙文でもって、都知事選挙に関する事柄を書くことを切り上げようかとも思っている。

あんまり冗漫に書くと、疲労困憊に拍車がかかるので、結論から述べる。

最早、都知事選挙に関して、侃々諤々と議論する時期は過ぎた。

後は、選挙結果が出てからである。

既に、自分は別記先述したように、現段階での独断と偏見では、“革新統一”の鳥越俊太郎が、最有力だろう。

それは、野党統一候補が成功した、と同時に、保守が分裂した、からである。

“革新統一”と保守統一の、有力候補同士の一騎討ちであったならば、五分五分の戦いである。

と云うより、比較的、「なんとなくアンチ自民党」と云う「市民」の割合が多い東京都では、それでも、“革新統一”候補の方が「有利」なのである。

それが、保守分裂である。

で、選挙戦が始まって早々、「小池百合子こそ、真正保守の候補だ!」と云う「論調」となってしまった。

まあ、諸悪の根源は、自民党東京都連の候補者選びの拙劣さに有るのだが、今更をそれを指摘したところで、どうしようもない。

自民党と公明党は、「組織」として、増田ナントカを擁立した。

「組織」を動かした以上は、最早、選挙戦を「途中棄権」なんてことは不可能である。

一方の、小池百合子陣営には、「組織」の決定など関係無く、各個人の判断で支持と支援を行っている。

これを下手に「組織」の論理でもって締め付けようとすれば、「組織」の基盤そのものが崩壊しかねない。

だから、あまりに激烈な締め付けはかえって逆効果と成る。

ただ、小池百合子陣営には、情熱的な個人が多数、加勢に参集して来た。

こうなると、小池百合子本人も引っ込みが付かなく成った訳で、最早、選挙戦途中で「降りて」、保守の候補者一本化ということは絶対に不可能だろう。

増田、小池共に、当落を度外視して、選挙戦を熾烈に戦い抜くであろう。

一縷の望みは、楽勝ムードで慢心した鳥越陣営が失言したり、高齢や候補者本人の「資質」の問題で体力や政治的能力への不安感が都民の間で高まった場合、相対的に「沈む」ことが有り得る。

だが、いわゆる「保守」の票が、増田、小池できれいに二分割されてしまった場合、やはり、“革新統一”候補の鳥越を凌駕出来ない可能性が高い。

 

最早、ここまで来たら、後は、各陣営の選対に委ねるしかない。

そして、都民の「選択」を待つしかなかろう。

今、考えるべきことは、もし、鳥越都知事が誕生した場合の後のことである。

いわゆる「保守派」の方々の「やりたい」運動は、「リコール運動」だろうが、そんな街頭やインターネットでの「大衆運動」では、鳥越都知事誕生後の「窮地」を打開することは不可能である。

今、我々が意識して考えていかなくてはいけない課題は、「都知事選挙」ではない。

来年6月に迫った「都議会議員選挙」である。

現在、都議会は、自民党と公明党で127議席中79議席(自民56、公明23)である。

野党は、44議席で共産党が17、民進党系2会派の合計で18、旧みんなの党の「かがやけTokyo」が3、生活クラブ生協の生活者ネットが3、その他合計3。

そして欠員が4で、この欠員は今回の都知事選で補欠選挙が当該各選挙区で実施される。

最悪、欠員4議席が全て、野党系に成ったとしも、79対48なので自民・公明で都議会は掌握出来る。

しかしながら、来年の6月に都議会議員選挙が有り、ここで都議会議員の顔ぶれがどのように変わるかによって、本当の意味での「都政」の今後が決定付けられることになる。

例え、鳥越俊太郎が東京都知事に成っていても、都議会の会派構成が現状とほとんど変わらないならば、都議会が都知事を抑え込んで、“革新系左翼”都知事の好き勝手を許さない。

だが、都議会自民党を批判し、対決姿勢を鮮明にした小池百合子が都知事に成れば、別の意味で、「都政」は混乱と膠着をきたし、ひいては都民の憤激と失望を惹起させ、「左翼」系野党への支持への遠因と成り得るだろう。

自分は、これから、誰が都知事に当選しても良いように、都議会議員選挙に向けて無い知恵を絞っていきたいと思う。

 

あと、「日本のこころを大切にする党」に関して。

組織を持たない、ミニ政党である「日本のこころ」が、推薦しようが支持を表面しようが、各陣営の選対にとっては、ほとんど「影響が無い」。

例えは悪いが、戦闘中に授与される「感状」のようなものだ。

有れば有り難いが、それが戦況や勝敗を決する要素には成り得ない。

また、「日本のこころを大切にする党」にとっても、都知事が誰に成ろうが、党としての影響は、ほぼ皆無であろう。

自前の公認候補であるわけでもないし、増田だろうが小池だろうが、「日本のこころを大切にする党」だけに限っては、どうでも良い話しだと思う。

だから、この都知事選に関連して、「日本のこころを大切にする党」をどうする、こうすると議論を戦わせたところで、私の目からは、何の意味も無いと思う。

まあ、ネトウヨはおしゃべりばかりするだけなので、良い意味でも悪い意味でも、何の影響も無いのかもしれないが。

これを契機に、離党するような者が出て来るかもしれないが、そういう御仁は、そもそもちょっとした些細な事柄でもって、離党するだのしないだのとまくし立てる性質だから、達観するしかない。

しかし、どうして「保守」はまとまることが出来ないのだ?

ただでさえ、小さくて少ないのに。

更に、細かく成ってどうするのだろうか?

今日、仕事が予想外に早く終了した。
そこで、急遽、靖国神社へ。
「みたままつり」の昇殿参拝をさせていただきました。
昨年から、境内で、いわゆるテキヤの露店が無くなりました。
自分は、すっきりとして、とても良いと思います。
勿論、テキヤの露店も「祭礼」を構成する要素ですが、参拝もせずに、露店の周辺でたむろするだけの罰当たりが激増したため、やむなく「露店中止」に成った訳です。
そもそも「お祭り」は、神仏を参拝し、そのついでに「祝祭的な空気」を楽しむものです。
神仏を参拝しないのであるのならば、それは単なる「馬鹿騒ぎ」に過ぎません。
今日の「みたままつり」には、「肝試し」に来た支那人wwwも居ましたが、ほとんどが真摯に英霊に対して祈りを捧げる方々ばかりでした。
参拝者数は減ったでしょうが、これが本来の有るべき「ご祭礼」でしょう。
不埒者は、新宿の歌舞伎町でも渋谷のセンター街にでも行ったら宜しい。
自分は、大小の献灯を永年で申込み済みですので、今年も献灯が有りました。
なお、おみくじは、「吉」。
これは、注意深く振る舞え、ということでしょう。
諫言、肝に銘じて行きます。
我が祖父は、フィリピンで果てて、遺骨は戻りませんでした。
お墓の中には、祖父に関するものは何一つ納められていません。
ですから、祖父との「邂逅」は、靖国神社なのです。
どうも、ここ数年、祖父に対しては、「ごめんなさい。」としか言葉が出ません。
また、手元不如意であるのと、貧乏暇無しなので、参拝する頻度が減りました。
ですから、なおさら、「ごめんなさい、ごめんなさい。」と頭を下げ続けています。

いやあ、もう、東京都知事選挙に関して、書くのが嫌に成って来てwww


まず、別記先述した中で「小池百合子は何時から保守派に成ったのだ」と記述した部分について。

どうも、彼女は、「新しい歴史教科書をつくる会」に関わっていたとのこと。

また、いわゆる「従軍慰安婦」問題に関しても。

自分も、全ての保守派の運動を知悉している訳ではないので、ここの部分は訂正させていただきたい。

しかし、そこまで、いわゆる「愛国・保守」の「運動」に関わっていたのに、何故、ここまで印象が稀薄なのだろうか?

世の中には、「入会はしたが、入会しただけ」という手合いが存在する。

まあ、小池百合子氏は、自らの名前をひけらかしたりすることを好まない、極めて慎み深い御仁なのであろう。

だから、「保守派」の中でも、小池百合子氏への認識やシンパシーが稀薄なのであろうと推察しかない。

まあ、後は、日本新党、新進党、自民党と政党を渡り歩き、しかも、細川護煕、小沢一郎、小泉純一郎と、その時々の「権力者」の寵愛を獲得することに成功した。

それを単に「変節」と断じてしまうと、「転向左翼」としての自分にも批判が及ぶだろう。

人間は、その時々に応じたかたちで、最適な選択をしないといけない。

だから、小池百合子氏の「経歴」を「無節操」だと指弾してしまうのは、妥当ではないのかも知れない。

けれども、「寵愛」を受けるのに長けている割には、安倍内閣とはそりが合わない。

どうも、安倍政権の中枢は、「派閥」として、小池百合子氏を評価することを選択しなかった。

これは、或る面、小池百合子氏という人間性そのものをさえも工作可能であると、見なしたのかもしれない。

 

東京都知事選挙が始まって二日目だが、インターネットでのネトウヨ界隈では、「小池百合子マンセー、マンセー、マンマンセー!!!」の大賑わいである。

果ては、ヒロインだ、ジャンヌダルクだ、と。

「オルレアンの聖女」も、言葉のあやとは言え、誠に酷い扱いにされてしまった。

何故に、いわゆる保守派のお歴々は、小池百合子にご執心なのだろうか?

何でも、彼女の「政策」が「保守」なんだそうな。

例えば「外国人参政権反対」とか。

確かに、彼女の「政策」の「文言」は、明確に「保守」であろう。

だから、「政策」の「文言」のみで、判断するのならば、何も迷うことは無い。

しかしながら、小池百合子が云っているのである。

これが、中山恭子先生だったら、「なるほど、そうか!」と納得出来る。

しかしながら、小池百合子なのである。

彼女が、本心から、それらの政策を云っている訳が無いだろう。

だいたい、何時から彼女は「保守派」に成ったのだ?

今回の都知事選挙で、自民党の組織票があてに成らなくなったから、自民党から距離を置いている、いわゆる強烈な保守の個人票を糾合するしかなくなった。

だから、いわゆる保守派に迎合しているのに過ぎない。

つまり、選挙向けの方便で云っているのに過ぎない。

そんな彼女だから、めでたく東京都知事に当選した暁には、しれっと「君子豹変す」ること間違い無かろう。

自分が、小池百合子は「人間」として信頼出来ないと書いたのは、これなのである。


あと、これに関連して、日本のこころを大切にする党が、増田ナントカさんを推薦したことで、非難囂囂である。
別に、東京都知事選挙に於いて、我が党が「推薦」をする必要も無かったように思うが、今後の政界の「お付き合い」を考慮して、自民党へ恩を売ったのであろう。
だが、これで、かえって足元の「パンドラの箱」を開いてしまった。
「小池百合子マンセー」のお歴々の目には、怒髪天を衝く、裏切り行為と映った。
だから、参院選の敗北感から傷心が癒える間も無く、荒涼たる惨状に成ってしまった。
自分は、増田ナントカさんが、「真正保守」で、べた褒め出来る最良の候補者だとは云っていない。
だが、小池百合子は、それ以上に駄目なのである。
にもかかわらず、彼女の迎合作戦にやすやすと眩惑されてしまったいわゆる「保守派」って、・・・・・・

うーん、何なのだろうかなあ?

自分の目には、小池百合子では、首都東京を守ることは出来ないと思います。
彼女が当選したところで、都議会と泥仕合。
都議会は来年6月に任期が来ますので、知事不信任案なんか出しません。
つまり、来年6月まで、都政は混乱し続ける訳です。
その間、都民は、小池知事にも都議会自民党にも嫌気がさします。
そうなれば、来年6月の都議選では、都議会自民党と小池派候補と野党が入り乱れて戦います。
当然、自民党の議席は減ります。
逆に、民進党や共産党が増やします。
公明党は現状維持です。
ちなみに公明党は外国人参政権「大賛成」です。
都議会自民党の議席が減れば、その分、公明党の発言力が増します。
結果的に、公明党と民進、共産などの野党「連合」に包囲されて、都議会は外国人参政権「推進」に成ります。
都議選をやったばかりなので、解散なんか無理です。
多分、小池知事は「裏取引」をして、外国人参政権「容認」に成るでしょう。
それが、解り過ぎるくらい解るので、小池知事は、駄目です。)

現在、毎日、新宿三丁目界隈で「仕事中」www

で、仕事中の横を、物凄いマッチョが結構通り過ぎます。

しかも、プロレスラーよりも「ゴツイ」www

で、さらに、二人組で、ヒゲ。

プロレスラーよりも筋肉が異状に発達した男が二人連れ。

ちなみに、もう少し、歩いて行くと「新宿二丁目」に入ります。

うーむ、こんなゴリゴリマッチョに襲われたら、絶対に「手籠め」にされてしまいますわwww

まあ、あの方々は、こんな冴えないオッサンには、全く食指は動かないと思いますがwww


それはさておき。

一緒に仕事をしているドライバーさん。

車で移動中に、結構、会話が出来ます。

感じとしては、「特定支持政党無し」と云う、いわゆる「無党派層」のお方。

で、東京都知事選挙告示日での会話。

「都知事選で、誰に投票したら良いか、よく解りませんけど、小池百合子は有り得ないなあ。」と。

「無党派層」のほとんどが、小池百合子に投票する、って云うコメントがネットで飛び交っていますが、多分、「願望」でしかないと私は思います。)

いやあ、もう、東京都知事選挙に関して、書くのが嫌に成って来てwww

 


まず、別記先述した中で「小池百合子は何時から保守派に成ったのだ」と記述した部分について。

どうも、彼女は、「新しい歴史教科書をつくる会」に関わっていたとのこと。

また、いわゆる「従軍慰安婦」問題に関しても。

自分も、全ての保守派の運動を知悉している訳ではないので、ここの部分は訂正させていただきたい。

しかし、そこまで、いわゆる「愛国・保守」の「運動」に関わっていたのに、何故、ここまで印象が稀薄なのだろうか?

世の中には、「入会はしたが、入会しただけ」という手合いが存在する。

まあ、小池百合子氏は、自らの名前をひけらかしたりすることを好まない、極めて慎み深い御仁なのであろう。

だから、「保守派」の中でも、小池百合子氏への認識やシンパシーが稀薄なのであろうと推察するしかないだろう。

まあ、後は、日本新党、新進党、自民党と政党を渡り歩き、しかも、細川護煕、小沢一郎、小泉純一郎と、その時々の「権力者」の寵愛を獲得することに成功した。

それを単に「変節」と断じてしまうと、「転向左翼」としての自分にも批判が及ぶだろう。

人間は、その時々に応じたかたちで、最適な選択をしないといけない。

だから、小池百合子氏の「経歴」を「無節操」だと指弾してしまうのは、妥当ではないのかも知れない。

けれども、「寵愛」を受けるのに長けている割には、安倍内閣とはそりが合わない。

どうも、安倍政権の中枢は、「派閥」として、小池百合子氏を評価することを選択しなかった。

これは、或る面、小池百合子氏という人間性そのものをさえも工作可能であると、見なしたのかもしれない。)

今日、都内は大雨だった。

自分は、屋外での仕事なので、ずぶ濡れに成った。

また、勤務時間も長時間で、疲労困憊である。

「職業に貴賤は無い」筈なのだが、濡れ鼠で無我夢中で精勤しているところを時折、蔑むような一瞥をする人が居る。

大層な御身分なんだと思う。

それと、こちらが仕事で大忙しにもかかわらず、道を聞いて来る人が居る。

で、それが「住所」だけ、とか、「ビルの名前」だけ、だったりする。

だから、自分は、仕事中に道を聞かれた時は、「いやあ、よそから初めて来たのでさっぱり解りません。」と云って断ることにしている。

だいたい、作業中にもかかわらず、いきなりぶしつけに道を聞いて来る自分勝手な奴なのだ。

しかも頭が悪い人間なので、こういう手合いと付き合うとろくなことにならない。

いくら説明しても、絶対に解ってくれない。

方向音痴であり、結局埒があかないから、「そこまで案内してくれ。」などと言い出す。

で、いったん説明をし始めておいて、中途半端に放棄するというのは、人情として、なかなか抵抗感が有る。

しかし、こちらは作業を終了させるのに一刻一秒を争う状態なのだ。

だから、薄情だと重々承知の上で、最初から「出来ません。」と断るしかない。

で、断ると、あっさりと去って行く。

だから、別に自分でなくとも良いのである。

何から何まで、背負い込む必要は無いのである。

「世は情け」とは云うものの、「無い袖は振れない」。

悩ましいところである。

東京都知事選挙が始まった。

自分が仕事をしていたら、鳥越、増田、小池の三陣営の街宣車が通っていった。

今回の都知事選挙は、「駄目比べ」。

はっきり云って、投票したい候補者が皆無なのだ。

そういう意味では、選択肢たりえない候補者ばかり。

投票権を有してから、今回、初めて「棄権」と云う選択肢が脳裏に浮かんだ。

まあ、さすがに「棄権」はしないと思うが、そうなると、後は「消去法」でいくしかなかろう。

まず、“革新統一候補”の鳥越俊太郎は、投票したくない。

これは、「愛国・保守派」ならぬ「転向左翼」としての「意地」でもあるwww

で、次に、小池百合子も、絶対投票したくない。

政策がどうの、愛国者でどうの、都議会自民党のボス・内田茂に嫌われたからどうの、といろいろと云われている。

だが、自分の目から見て、彼女は「人間」として信頼出来ない。

だから、支持出来ない。

それに、都議会のボスに嫌われたから云々と云うのは、政治家としては「減点対象」であって「加点対象」ではなかろう。

要は、小池百合子もプライドが高過ぎて、根回しなどの組織内遊泳術が出来なかったと云う事。

だいたい、都議会のボスと不倶戴天の敵に成っているのなら、もし、都知事に成ったところで、都議会と事有る毎に対立して都政は大混乱に陥ってしまうではないか。

ならば、まだ、鳥越俊太郎の方が、小器用に都議会対策で立ち回れるだろう。

ということで、小池百合子に投票することは、自分は絶対に無い。

となると、ますだおかだ、もとえwww増田ナントカが残ってしまった訳で。

・・・・・、増田ナントカ、かあ・・・・。

ちなみに、小池百合子以外の候補が当選すると、韓国びいきに成るとか、指摘されている。

しかし、韓国人絡みの案件は、最終的には政府の管轄だろう。

安倍内閣さえしっかりしていれば、大丈夫だと思う。

(但し、安倍内閣が、しっかり対処してくれるかどうか?であるのだが)

どうも、「小池百合子支持」を主張する愛国・保守の方々は、「政治」や「選挙」に疎いようだ。

信義や大義は極めて大事であるが、それだけだと、政治的勝利や政治的目的の達成が不可能に成ってしまいがちである。

ついには、信義や大義に固執するあまり、政治的勝利や政治的目的達成への努力を「変節」呼ばわりし始める。

そういう浮世離れした方々は、竹林の七賢人のように、深山幽谷にでも籠って、気が済むまで仲間うちだけで気勢を挙げておれば宜しかろうと存ずる。

軽い頭痛がする。

全身の疲労感も酷い。

暑さに身体が参っているのだろう。


それはさておき、明日、平成28年7月14日に、東京都知事選挙の告示日を迎える。

いよいよ、東京都知事選挙の幕開けである。

だが、既に、勝負はついた、と自分は痛感する。

鳥越俊太郎の圧勝だろう。

まず、自民党系の候補が分裂した。

小池百合子元防衛大臣が出馬を表明。

だが、肝腎の自民党東京都連は、増田ナントカが意中の候補だった。

自民党東京都連、というより、都議会自民党の意向だろうが、その気持ちは解らないでもない。

遡れば、青島幸男が都知事に成って以降、都議会は都知事に振り回され続けている。

青島幸男は、タレント議員の左翼だったから都議会と摺合せをするようなことを、想定など不可能な人種だった。

次の石原慎太郎は、希代のカリスマであり、とてもじゃないが都議会が操縦出来るようなものではなかった。

石原都知事に対しては、都議会は、ただただ追認するしかなかった。

だが、石原慎太郎は、突如、国政に復帰する。

その後に担がれたのが、猪瀬直樹だった。

しかしながら、猪瀬直樹と云い、舛添要一と云い、彼等は勘違いをしてしまった。

「自分も石原都知事のような都知事に成りたい。」と。

しかしながら、石原慎太郎は、単なる「文化人政治家」ではないのである。

希代のカリスマであって、石原慎太郎だからこそ、帝王のような東京都知事の振る舞い方が可能だったのである。

ところが、それを、猪瀬も舛添も、身の程知らずも甚だしく、自分も石原都知事のように成れると思い込んでしまったのである。

カリスマでもない「人」が、カリスマのような立ち居振る舞いをすれば、畢竟、嘲笑と侮蔑の対象にしかならない。

結局、猪瀬と舛添は無様な末路を迎えた。

都議会自民党としては、最早、独断専行の都知事の「お守(おもり)はこりごりだ!」と悲鳴を上げたのであろう。

だから、常識的な人を選ぼうと考えたのだろう。

だが、それは、都議会自民党が扱いやすく、御しやすい人にしたい、今度こそ、都政の主導権は都議会が握りたい、という下心が有った。

当初、桜井ナントカという、ナントカ省の事務次官だった官僚を担ごうとした。

何でも、彼の息子が、アイドルグループ「嵐」のメンバーだという。

つまり、選挙戦で、「嵐」の桜井翔くんにマイクでも握ってもらおう、と考えていたのだろう。

そんなさもしい根性だから、当然ながら、固辞されてしまう。

自分は、この、桜井ナントカさんが有力候補だ、という報道を聞いて、何故、「有力候補」なのか理解出来なかった。

単に、嵐の桜井翔くんのパパ、というだけであったなら、もう、その根性の腐れ具合に辟易とする思いだった。

で、その次に出て来たのが、増田ナントカで、元・官僚で、元・岩手県知事で、元・総務大臣で、っていう人だった。

「いや、もう、そこまで勤め上げたら、だったら、何も今更、東京都知事に成らなくても良いじゃないの。」と思った。

多分、実務能力に長け、何と言っても、独断専行をするような無茶はしない「安全運転」の人なんだろう、と思った。

都議会自民党としては、まさに、絶好の「お神輿」だった訳である。

しかしながら、自分でさえ、フルネームが思い出せないくらいの知名度の低い、地味な御仁である。

どんなに、組織票を掻き集めて固めても、絶対に当選ラインに届かない、東京都知事選挙では、有望な候補とは言えまい。

そんな中で、安倍政権に成ってから、ずっと冷や飯を食わされて来た、小池百合子が大博奕に打って出た。

手順を踏んで、選挙戦に出馬しようとしても、絶対に事前につぶされると見切ったので、敢えて、横紙破りを決行した。

その状況判断と時期の見極めは、まさに「勝負師」の本領発揮と云えた。

だが、彼女は痛恨の致命的な間違いを起こした。

都知事選の出馬にあたっての「公約」のいの一番に、「都議会の解散」を挙げてしまった。

これは、彼女の本心、本音から出たものだろう。

しかしそれは、「私怨」「怨恨」から出たものである。

都知事選出馬を潰そうとした都議会自民党に対して、「恨み骨髄」であったとしても、それを一番目立つところに掲げてしまったら、やはり駄目である。

小池百合子としては、都議会自民党の意地悪なオヤジどもにいじめられる可哀想なヒロイン、という「構図」を作り上げたいようであったが、いきなり「都議会解散」と云う、「最終手段」を突き付けてしまったのでは、辟易してしまう。

事実上、これは、舛添が都知事を辞任する前に、悪あがきをした際に「都議会の解散」に言及したのと同じ印象を世間に与えてしまった。

つまり、「自分の云うことを聞かないなら、議会を解散して議員バッチを取り上げるぞ!」と恫喝、脅迫したのである。

このような「権力主義者」を、スマートな東京都民は一番嫌うのである。

小池百合子は、小泉純一郎や橋下徹のような、解りやすい敵対構図を示して、敵をやっつける態度をアピールすることで自分への支持を集めようと目論んだのであろう。

だが、そういう外連味の有る演出に耐えられるだけのキャラクターとしての魅力は、正直云って、小池百合子には足りない。

この作戦は間違いなく不発する。

いわゆる愛国・保守陣営からは、小池百合子の方が政治的スタンスや政策がどうのこうのと大層贔屓をされているが、人間的に見て、評価が出来ない以上、駄目である。

現に、舛添がそうであったではないか?

一方、対する野党側は、ここに来て、一気にまとまった。

一時は、石田純一なんていう、往時のトレンディ俳優を出して来たが、今と成っては、「真打登場」までの露払い、もしくは陽動作戦だったような気さえする。

鳥越俊太郎は、京都大学を出て、毎日新聞の記者だったという、輝かしい学歴と経歴を持っているのだが、その割には、知性に乏しい。

そこらへんは東大法学部卒の福島みずほも該当するのだが。

だが、鳥越俊太郎の「強み」は、「いい人そうに見える」こと。

この、「いい人」である、という利点は、意外と手強いのである。

知性派の敵であるならば、論争を仕掛けて論破することが可能である。

しかしながら、「いい人」というのは、その「愚かしさ」を含めて、得点の対象に成るのである。

彼が、一般社会常識さえろくに持ち合わせていなくても、世間一般大衆は愚昧とは見なさない。

「あら、人間臭くて良いじゃないの。」となる。

で、「いい人」の鳥越俊太郎と小池百合子を比較した場合、小池百合子の口八丁手八丁ぶりが、誠にあざとく鼻に付くのである。

だから、鳥越俊太郎対小池百合子ならば、鳥越俊太郎の圧勝である。

さらに、増田ナントカに到っては、てんで勝負に成らない。

多分、鳥越、小池、増田の三つ巴の戦いに成ったら、増田陣営は小池百合子を組織的に締め上げるだろうし、小池陣営は自民党東京都連の陰湿さをあげつらうことだろう。

結局、自民党系候補同士の泥仕合、潰し合いに終わる。

しかも、過去3回、都知事選で次点だった宇都宮健児が、立候補を取り下げた。

宇都宮は、多分、日本共産党の秘密党員だろうから、鳥越俊太郎は、労組の連合、立正佼成会、生長の家、民団、さらに日本共産党という組織に支えられて戦うことになろう。

組織、知名度、好感度、それらを有している鳥越俊太郎の圧勝は間違い無いだろう。


さて、鳥越俊太郎の圧勝の後である。

都知事は民進・日共などの「野党」系に成ったとしても、都議会は自民・公明が圧倒的な多数を占めている。

都議会が対決姿勢を強めて、都知事を揺さぶる事態に成るかもしれない。

だが、ここで、鳥越俊太郎の「いい人」が本領を発揮する。

ラガーマンらしく、多分、彼は選挙後に、「ノーサイドで、どうかよろしくお願いします。」と頭を下げて来るだろう。

そうなった時、あくまで与野党のガチンコ対決の図式を継続しようとすれば、早晩、都議会自民党・公明党が「ヒール(悪役)」と見なされてしまうだろう。

多分、オリンピックまで、鳥越俊太郎と「仲良く」やっていくしかなくなるのではないだろうか?


幸いなことに、鳥越俊太郎は高齢である。

どんなに粘っても最長、2期だろう。

それまで、「我慢の子」かな?


しかし、どこでボタンを掛け違えたのだろうか?

更に、小池百合子が選挙に出たため、彼女の選挙区の衆院補欠選挙をしないといけない。

この補欠選挙が果たしてどうなるのか?

その選挙結果次第では、先日の参院選の自民「大勝」も吹っ飛ぶ危険性が有る。

全く、政界とは「一寸先は闇」であると痛感せざるを得ない。

(注・労組の連合の「連合東京」は鳥越を推薦しなかった。多分、共産党が入り込んで来たから反発したのだろう。)

はやいもので、もう7月13日になる。

これは「新暦」の「お盆」である。

東京の都市部では、7月13日から16日までが「お盆」なので、施餓鬼法要やお墓詣りは、この時期に行う。

なお、英霊をお祀りする靖国神社では「みたままつり」が斎行される。

ただ、全国的には、「旧暦」の「月遅れ」の8月13日から16日に「お盆」を行う。

京都の大文字送り火は、まさにそうである。

まだ、今年(平成28年)は梅雨明けしていないのだが、既に、酷暑の日々である。

正直、労務者の自分は、しんどいwww

仕事をするので精一杯で、とても筋トレどころではない。

全く、惰弱で、情けない。

さて、夏本番ということに成れば、学校は「夏休み」に入る。

実は、この「夏休み」と云う「非日常」の期間は、心身の成長を促進させ得る「魔力」を有している。

場合によっては、「非行」に走るきっかけとも成るのだが、夏の暑苦しさは、生命力を旺盛にさせるのである。

「夏休み」と云えば、「課題図書」ということに成るのだが、これは世の生徒や学生にとって二重の嫌がらせに感じられていよう。

まず、読みたくも無い本を読まされる。

さらに、その後に、「読書感想文」なる難題が付加される。

課題図書を読み切るだけでも一苦労なのに、さらに作文まで要求されるのだから、それはそれはえらい迷惑だろう。

しかし、「課題図書」と云うのは、一生のうち、一度は目を通しておいて損は無い良書ばかりである。

食わず嫌いをしないで、是非とも、紐解いて下されたい。

課題図書ということになると、夏目漱石の「こころ」なんぞが課せられることが多いようだが。

もし、自分が、生徒・学生諸君へ「課題図書」を推奨するとしたらどうするだろうか?

やはり、「夏休み」なのだから、「夏休み」に関連した良書を薦めたい。

ジュール・ベルヌの「十五少年漂流記」(原題「二年間の休暇」)である。

これは、冒険小説であると共に、群集劇でもあり、少年たちの成長の物語でもある。

自分としては、中学生の諸君へお薦めしたい。

さらに、この「十五少年漂流記」を読んだ諸君には、数年後、高校生に成長した際には、今度は、ウィリアム・ゴールディングの「蠅の王」を必ず読了してほしい。

実は、自分が本当に読ませたいのは、この「蠅の王」なのであるwww

だが、いきなり「蠅の王」を読んでしまったのでは、この小説の本当の妙味は解らない。

まず、「十五少年漂流記」を読み込んだ上でなければいけないのである。

解る人なら、もう、ここまで書いてしまったら充分過ぎるだろう。

だから、これ以上は敢えて「説明」をしない。

自分の狙いが何なのか、知りたければ、是非、まず「十五少年漂流記」を読み、少し間隔を空けてから、必ず「蠅の王」を読了してほしい。

 

ちなみに、自分が中学・高校の時に読み漁った本は、

サキ

アンブローズ・ビアス

フレドリック・ブラウン

夢野久作

久生十蘭

川端康成「掌の小説」

だったwww

O・ヘンリーではなく、サキやビアスであるというところがミソであるwww

また、コナン・ドイルのシャーロック・ホームズよりも、G・K・チェスタトーンのブラウン神父が好きだった。

なお、サキはとびきりの美酒ではあるのだが、アルコール度数が極めて高いので、一気に読み上げると悪酔いするので、くれぐれもご注意下されたくwww

 

最後に、生徒・学生諸君の、この「夏休み」が、どうか、充実したものに成るように、自分は心から祈念するものである。

永六輔が亡くなった。

まずは、ご冥福をお祈り申し上げたい。

永六輔は、いわゆる政治的思想信条に於いては、明確に「左翼」であった。

憲法9条を評価し(9条の会のメンバー)、昨今のネトウヨ的な政治の潮流には反対だった。

ならば、永六輔は、「ブサヨ」と侮蔑してしまって良いのだろうか?

 

今、合併問題で揺れている石油元売り会社大手の出光興産。

この会社が、長年に渡って「提供」しているTV番組が、TV朝日系の「題名のない音楽会」である。

現在は、バイオリニストの五嶋龍が司会である。

しかし、そもそも、この番組は、作曲家・黛敏郎によって立ち上がったTV番組だった。

黛敏郎は、三島由紀夫、石原慎太郎と並ぶ、「極右」思想の文化人「スター」であった。

現在、にわかに安倍政権の「黒幕」と見なされ始めた「日本会議」の前身である「日本を守る国民会議」の議長でもあった。

その黛敏郎が、1997年に急逝した時、この「題名のない音楽会」の司会を臨時に務めて、「繋いだ」のが、実は永六輔だった。

つまり、黛と永は、親しい間柄であり、かつ、互いを深く理解しあっていたからこそ、こんなことが出来得たと云えよう。

 

また、和装を再評価する流れの先駆けでもあり、メートル法だけでなく尺貫法も重要だと主張し、捕鯨は日本の伝統であると擁護した。

 

ここまで読むと、狭量で単細胞で愚昧なネトウヨは、頭が混乱して、理解不能に陥る。

ならば、教えてやろう。

永六輔は、伝統を重んじ、保守的な日本主義者なのである。

但し、「反権力」の。

云ってみれば、永六輔は「江戸っ子」なのである。

そもそも、現在のご皇室は、京都から薩摩・長州に担がれて下って来られた存在で、それらに対して、仰々しくひれ伏すのは、いけ好かないのである。

つまり、関東人、「江戸っ子」の反骨精神なのだ。

だからこそ、保守主義でありながら、「アンチ」なのである。

 

彼の家系そのものは、江戸時代に長崎に渡って来た支那人の僧だ。

だから、彼を「在日」として排撃する「論拠」は、有ると云えば存在する。

だが、それを声高に主張すればするほど、己が愚昧さを露呈することに成る。

 

どうも、左翼と右翼は、「交叉することが有り得ない」と思い込んでいる人が多い。

まあ、そう、思い込まされているから仕方ないのだが。

確かに、左翼や右翼の「お偉方」にとってみれば、自分の手下である「構成員」が、左や右にそれぞれ移動してしまったら、そりゃあ、不機嫌に成るのが当然だろう。

だが、左翼と右翼の違いは、実は、そんなに単純ではないのだ。

 

自分が云えることはひとつ。

思想家や政治家は、その思想信条と行動が全てであるので、いわゆる「政治的スタンス」でもって評価したり、断罪しても、それは致し方無いところが有る。

だが、それ以外の、いわゆるアーティストやスポーツ選手などに関しては、「政治的スタンス」でもって、あれこれ指弾するのは、本当に愚かしい。

例え、教条的な左翼思想の虜であったとしても、その歌唱力や文筆の才、表現の卓越さが秀でていれば、それは文句無く、賞賛に値する。

逆に、自陣営内に属していたとしても、無能であるのならば、それは評価の対象にはならないのだ。

現に、三島由紀夫は、労働歌「インターナショナル」を高く評価していた。

確かに、あの歌は、群衆の意気を鼓舞する魅力を有している。

 

永六輔は、歌謡曲の作詞に於いて、「上を向いて歩こう」など、一世を風靡した。

また、ラジオ番組などで、「男おばさん」と呼ばれるような卓越した話術を駆使した。

そのセンスと才能に対しては、率直に評価しなくてはいけない。

 

極右のおじさんが、吉永小百合を心酔して、どこが悪いのか?

何故なら、彼が心酔しているのは、吉永小百合と云う「女優」であって、彼女の左翼的思想信条ではないからである。

むしろ、いわゆる政治的な集会に出て来て、名前を売ろうとする無能無才なヘボを、「政治的同志だから」という理由で贔屓するのは、明確なセクト(党派)主義であろう。

歌手ならば、その歌唱力で、

役者ならば、その演技力と存在感で、

ダンサーなら、その躍動感で、

作家ならば、その文筆力で、

音楽家ならば、その演奏技術と構想力で、

デザイナーならば、その美的センスだけでもって、勝負すべきだ。

自らの政治的スタンスでもって出世して行こうというのは、実は、左翼の「プロレタリア芸術論」である。

つまり、政治的イデオロギーが芸術的センスを「指導」するという構図を認めているのである。

それは、単に、自らの無能無才を、政治的に補填することによって、代償し、誤魔化しているのに過ぎない。

主に、そういう勘違いをしている愚か者は、左翼陣営にウジャウジャひしめいているが、どうも保守陣営にも跋扈しつつある。

嗚呼、やんぬるかな!

「戦い済んで、日が暮れて」ならぬ、戦い済んで、日が昇ったwww

第24回参院選の結果が出た。

手短に、評させてもらう。

自民党は、「大勝」した。

だが、比例区で19議席も獲得したということは、野党が駄目過ぎたせいでもある。

むしろ、改選議席数1の県選挙区では、野党統一候補に11も競り負けた。

沖縄、福島と二人の現職閣僚を落選させてしまった。

さらに、北海道では、3議席中2議席を民進に得さしめた。

山形の舟山康江や新潟の森裕子など、時代錯誤的な「オールド左翼」の候補だ。

にもかかわらず、当選させてしまったのは、それらの自民党の地方組織がいかに駄目になっているのかということの証左である。

一方、意外だったのは共産の伸び悩みだった。

事前の雰囲気では、3年前と同様に、地方選挙区で議席獲得が相次ぐと想定されていたが、「歯並びが悪い」www東京の山添拓だけにとどまった。

しかも、比例区も伸び悩んだ。

むしろ、比例区では民進党が予想以上に増やした。

自分は二ケタには乗らないと見ていたが、11議席である。

そして、東京でも、3年前は共倒れのゼロ議席が、今回は2議席を確保した。

民進は、惨敗したものの、復活の兆しを見せつつあるように思う。

多分、岡田克也執行部は交代するだろうから、民進は今後、手強くなると警戒した方が妥当だろう。

 

さて、日本のこころを大切にする党である。

自分としては、よく健闘した方だと思う。

東京選挙区では、社民党より多い得票だった。

だが、にもかかわらず、議席獲得に届かなかったのは、それが現在の党の「等身大」の実力の現れであると、真摯に受け止めざるを得ない。

ここで、いわゆる「戦犯探し」をしては駄目だと思う。

具体的には、党名変更の是非であるとか、選挙責任者の責任問題だとか。

はっきり云って、そんな、小手先のレベルで、劣勢をひっくり返せると思っていたら大間違いである。

得票数をドカンと増やせる魔法の杖は存在しない。

ここは、地道に党勢を拡大していくしか「道」は無い。

「急がば回れ」であろう。

とにかく、選挙活動に従事された方々には、心より感謝を申し上げ、慰労のご挨拶をお送りしたい。

ついに第24回参議院選挙の「選挙期間」が終了した。

そして、7月10日の投開票日を迎える。

丁度6年前、自分の拙ブログを確認してみると、実は「たちあがれ日本」に対しては、冷笑的であり、「保守票を分散させては断じていけない。自民党、特に山谷えりこ候補に投票すべき。」と書いてあったwww

まあ、当時は、安倍さんが総理に再登板するなんて想定外だったし、石原慎太郎も東京都知事でもって政治家として全うすると思われていた。

しかし、石原慎太郎は衆議院議員に復帰し、国会の予算委員会で質問に立った。

「たちあがれ日本」は、太陽の党、をはさみ、橋下徹と合流して日本維新の会へ。

だが、それから次世代の党、日本のこころを大切にする党に到った。

自分が、6年前から「変節」したのは、二つの理由が有る。

一つは、いわゆる「保守政党」が自民党だけでは、駄目であるということだ。

つまり、「保守政党」が二つ以上存在し、その「保守政党」が、或る時は協調し、或る時は刺激し合って、国政の流れを、現在の左翼的な非現実的「神学論争」から脱却せしめなくてはいけない、ということなのである。

保守政党が自民党だけであるならば、現在は、左翼的な政党がその対抗軸として、否応無く存在しなくてはいけなくなっている。

ところが、そんな「1955年体制」「米ソ冷戦構造」の残滓を存続させていては、これからの国際政治には全く対処出来ない。

少なくとも、国防や経済問題に関しては、議論が成立するだけの共通の土壌を有した政党同士で政権獲得を競争しなくては、スムーズな「政権交代」など有り得ない。

現状では、「政権交代」は、ほぼ「革命」に等しい程の「激変」を意味する。

それでは、有権者は、選挙のたんびに「究極の選択」を強いられることになるのである。

二つ目は、保守政党でありながら、いわゆる「貧困問題」に全力で取り組む姿勢を鮮明にした事。

今でこそ、安倍内閣も「一億総活躍社会を目指す」というかたちで、いわゆる「貧困問題」に取り組みはじめたが、それまでは、自民党をはじめとした、いわゆる「保守政治家」はおしなべて「冷淡」だった。

それは、敵対する左翼どもが、声高に「貧困問題」を主張することに辟易していたこと。

そして、いわゆる小泉内閣に於いて、竹中平蔵などの新自由主義者どもが、「自己責任論」をたてにとって、「経済的に上手く行かないのは、無能なのか、意欲が無いのかどちらかであろう。」と切って捨てていたせいである。

確かに、「困った、困った」と云っている人々を、全て面倒見ようとすると、自力更生が出来る人までも堕落させることに成るのではないか、という危惧は有る。

だが、既に、我が国と我々を取り巻く状況は、かつてとは一変し、極めて「苛酷」に変じてしまったのである。

だから、「貧困層に落ちた人間は、自分達で何とかしろ。」と言い切ってしまったならば、国民の相当数を切り捨てることに成ってしまうのである。

それは、貧富の差による、国民の二層分化、そして社会に於ける国民の連帯感の断絶を惹起させる。

貧富の差による、国民層の二極分化は、保守政治とは対極のものである。

そのような断絶した社会に於いては、ファシズム、アナキズム、ボルシェビキ、これら過激な左翼思想が先鋭化しがちなのである。

そして、20世紀の世界史を紐解けば、これら左翼思想によるイデオロギーの政治が、国家間の対立を煽り、戦争を惹き起こし、さらに自国民への「粛清」によって天文学的な数値の人命を殺戮したのである。

この歴史的事実から、我々は真摯に学習しなくてはいけない。

自分は、次世代の党が2014年の総選挙で惨敗を喫した時、次世代の党に対して絶望した。

しかしながら、2015年から、次世代の党、そして日本のこころを大切にする党に成ってからも、いわゆる「貧困問題」に全力で取り組む姿勢を出して来た。

ここに、自分は新しい「保守政治」の可能性を見出したのである。

だからこそ、6年前に「たちあがれ日本」に対して冷笑的であった自分が、日本のこころを大切にする党に対して全面的な支持を表明することに「変節」したのである。


さて、昨年の今ごろは、自分は参院選で、選挙活動をお手伝いさせていただく気持ちであった。

だが、いざ、「その時」と成ったら、家庭の事情などが噴出して、ろくに選挙活動の応援も出来なかった。

誠に申し訳無く思っている。

だから、せめてもの罪滅ぼしで、この拙文を書いているのである。


いよいよ、第24回参議院選挙の投開票日であるが、今回の選挙の「重要性」を是非とも指摘しておきたい。

新聞などでは、今回の参院選の争点は、「改憲勢力が発議に必要な3分の2以上獲得出来るか?」と決めつけている。

とんでもない「虚妄」であり「虚偽」である。

既に、自分は、何度も指摘しているが、「公明党・創価学会の議席を含んだ数値で、改憲勢力の議席数と見なすのは誤り。」なのだ。

公明党・創価学会は、憲法改正をするつもりは無い。

ただ、改正への手続き方法などに「手を加える」程度なら、賛成する、というレベルだろう。

いくら、自公連立政権だからといって、公明党・創価学会が、安倍総理の「気持ち」と全く同じであるかと云ったら、それは「ノー」だ。

だから、憲法改正の対象条文によっては、公明党・創価学会は、「改憲勢力」にも、「護憲勢力」にも、どちらにも転じ得るのである。

そこの重要な点を無視して、「改憲勢力ガー」と論理を構築する時点で、「欺瞞」としか言いようが無い。

では、今回の参院選の本当の「争点」は何か?

勿論、いわゆる「戦争法案」云々では有り得ない。

ならば、何か、と云うと、鮮明な「争点」は実は「不明」なのである。

ただ、ここで、本当に肝に銘じて欲しいのは、「今回の選挙で当選した議員は、今後、6年間、ずっと参議院議員であり続ける。」と云う点なのである。

「何だ、当たり前じゃないか。」とせせら笑ってはいけない。

確かに、衆議院選挙と違って、参議院選挙の結果によって、「政権交代」ということは起こらない。

だが、今回の参院選で当選した候補は、これから6年間ずっと参議院議員なのである。

衆議院議員ならば、衆議院を解散し、総選挙に成ってしまえば、その時その時の「政治状況」を反映した議席数へと「リセット」されるのである。

ところが、今回、参院選で当選した候補は、今後6年間はずっと国会議員なのである。

つまり、現時点で当選するだけの「根拠」や「理由」が、例え、1年以内に消滅したり風化したりしたとしても、選挙日の時点で「選択」された「候補」が、今後6年間、議席に座り続けるのである。

だから、3年後に、「何で、あんな奴が参議院議員なんだ!」と激怒したところで、もう、取り返しがつかないのである。

このことをよく考えてみれば、今後、6年間に、日本を取り巻く情勢がどうなるのか、甚だ不鮮明である。

しかし、そんな中で、今回、つまり平成28年7月10日の選挙で選ばれた参議院議員によって、将来、国政上に甚大なる悪影響を及ぼす「危険性」も存在し得るのである。

具体的に云えば、2、3年後に、国防上、極めて緊迫した状況に追い込まれた時、今回の参院選で「戦争法案廃止」「憲法9条を守れ」と絶叫し続けている候補が議員として国会に居た場合、どのような「作用」を起こすであろうか?

そこのところなのである。

現時点でどうこうというよりも、今後6年間、果たしてこの候補者に国政を任せて良いのかどうなのか、そこのところを十二分に慎重に吟味してくれなくては、とても「危うい」のである。
だからこそ、今回の第24回参議院議員選挙は、その選挙結果が後々まで、ボディブローのように効いてくるので、極めて重要なのである。
自分は、「棄権」することを全否定しない。
何故なら、「棄権」も、一種の「投票行動」の現れであるからである。
しかしながら、それはあまりにも「消極的」過ぎるものなのである。
さらに、「棄権」した以上は、事実上、国政に対する批判や批評に対して「説得力」が無くなることである。
だからこそ、なるべく「棄権」をせず、最適な候補が見当たらなければ、次善の候補者を「消去法」で選別し、どうか投票してほしい。
自分は、皆々様の、熟考の末の投票を切に祈念するものである。

ここ最近、自分が思うこと。

これから、社会に於いて、どんどん「人」が不要に成って行くのではないか、と。

只今現在、アベノミクスなどの経済・金融刺激政策などによって、ようやく、日本経済が停滞から抜け出しはじめ、人事採用も動き始めた。

事業所によっては、「人が足らない。」と云う悲鳴が上がっていると云う。

確かに、そうだと思う。

だが、一方で、自分は、これから、どんどん「人」が要らなくなる時代に成るのではないか、と云う感覚から逃れられない。

まず、現在の「会計」の概念として、人件費は「固定経費」であると云うテーゼが全く揺らいでいないこと。

つまり、人間を法人内、組織内に抱えれば抱える程、「固定経費」は増大し、経営を圧迫すると云う「ストーリー」が世間に刷り込まれているのである。

しかし、一方で、業務量には、それに見合った「人員」が必要不可欠である。

そこで、「社員」ではないが、「職場」内での「人員」ではある、と云う、人件費はなるべく支払わないで、仕事だけ従事してくれる「非正規雇用者」の数を増大させたのである。

はっきり云って、「非正規雇用者」は、その「職場」に於いては、「人」ではない。

業務を処理してくれれば、後はどうでも良いのだ。

何かのきっかけで、職場から切り離したり、差し替えたりするのは、思いのままなのだ。

「非正規雇用者」を職場内に多数使用することが当たり前に成ったら、実は、生身の人間である必要性は皆無である。

だから、人工知能とロボットの技術が進歩し、そのコストが損益分岐点を下回って、充分にペイ出来るように成ったならば、「非正規雇用者」は不要に成る。

職場には、人工知能とロボットだらけと成り、「人」は不要と成る。

その究極の姿は、「人」は個人投資家だけで、経営陣も従業員も顧客も法人投資家も、全て人工知能とロボットが運営する「企業体」だろう。

多分、その「企業体」は、物凄い「高収益性」の法人と成ろう。

だが、そんな「企業」に、果たして、意味が有るのだろうか?

「人」を必要としない、金儲けだけの「企業」ばかりに成った「社会」に、果たして、意味が見出せるのだろうか?

そのような「社会」に成った時、我々は、根源的な「問い」に直面することと成ろう。

「勤労」とは何なのか?

「生きる」とは何なのか?

「社会」に「寄与」するということは何なのか?

全てを人工知能とロボットに代行させてしまった後、「人」は何を行っていけば良いのか?

さらに、「ロボット」は、何も「金属製」や「プラスチック製」だとは限らなくなる。

「万能細胞」によって、タンパク質を自在に構成し、それこそ「3Dプリンター」によって、自由自在に精密な「細胞」を「合成」させて「ロボット」を製作することも実現可能であろう。

そうなれば、温もりが有り、絶えず成長し続ける「ロボット」が誕生することと成ろう。

その「ロボット」は、最早、「機械人形」と云うより「合成人間」と云う「感覚」に成るだろう。

その段階に到った時、「生命」とは何か、と云う、根源的な問いに、我々は否応無く直面することに成ろう。

ただ一つ云えることは、そんな時代に成れば、現在でさえ「派遣労務者」として貧困層に居る自分は、最早、完全に居場所が無いだろうということである。

まあ、その時まで、生き永らえていられるかどうかさえ、定かではないがwww

自分は、実は、営業や機器の据え付けの操作説明など、人前で「お話し」をする仕事が長かった。

だから、今でも、いきなり人前で、「これこれのテーマでしゃべってみろ!」と無茶振りされても、意外と上手くこなしてしまえるのであるwww

勿論、内心は、パニックで冷や汗ダラダラなのであるが。

で、自分が「説明」なり「講義」なりをさせていただく上で、「基盤」に成っているのは、やはり「落語」なのである。

つまり、自分にとって、プレゼンも演説も操作説明も、みんな「話芸」の範疇に含んでいるのである。

だから、「話芸」としての「スタイル」が整っているかどうか、ということに、意識が向けられているのだ。

だから、いきなり、自分の云いたいことを云ってしまうことは、あまり無い。

勿論、与えられた時間があまりにも少ない場合は、のっけから結論を述べて口火を切る手法も取り得るのだが、それなりに持ち時間をいただければ、全体の構成を考えてから話し始める。

事前に、「脚本」を作れる場合は、大筋はその流れで進めて行くが、いきなりアドリブで行く場合は、即座に簡単な全体構成の枠組みをでっち上げて、後は、その場その時の雰囲気で、話す事柄や口調のトーンなどの「要素」を詰め込んで行く。

そして、テンポの良さと声の強弱、そして、何よりも「間」である。

「話し手」と云うのは、ついつい、言葉をかぶせたがる。

「空白」の「沈黙」の時間が、瞬間でも入り込んでしまうことに恐怖感をおぼえるのである。

だが、何事にも、「余白」が必要で、時には、敢えて、「間」を挟み込まないといけない。

徳川夢声の「間」は、独特にして絶妙だったという「伝説」が有るが、やはり「間」というものは、努めて意識していかないと、設定することが難しい。

ただ、後は、場数である。

何度も何度も、いろいろな状況で「話す」機会を得ていれば、おいおいと何とか成ってしまうようになる。

そこらへんは、「亀の甲より年の功」と云ったところだろうか。

やはり、仕事に差し支えるので、携帯電話を確保した。

サービス店に行って、「機種変更」と云う手続きで、新しい携帯電話を入手した。

当初は、どうせなので、この際にスマートフォンへ変えようかとも思ったが、やはり、金額が高い。

相変わらずのガラケーにせざるを得なかった。

まあ、自分自身が、語学力が低過ぎる「ガラパゴス人間」だから、スマートフォンを所有するなどおこがましいのだ。

ガラパゴス人間には、ガラケーがお似合いなのであるwww

しかし、ガラケーとはいえ、機械を購入する訳なので、価格が約4万円だと云う。

給料が4万円減る見込みであるのに、更に、4万円の支出が新たに発生したのだ。

計8万円である。

これには、参った。

切り詰めるだけ、切り詰めるしかなかろう。

後は、神頼みだ。

花園神社で、「融通お守り」をいただいた。

自分は、何も大金を得たい、贅沢をしたい訳ではない。

出た分だけ、入って来てくれれば御の字なのだ。

まあ、つべこべ云わずに一生懸命働くしかない。

大きな高望みなどはせずに、ささやかな喜びを得ることを求めて、頑張るしかないだろう。

直接民主制、つまり、国民投票という代物が、いかに危なっかしいものなのか、今回の英国でのEU離脱を巡る国民投票がものの見事に証明してしまった。

「民主制」とは、「みんなの中の多数意見でもって決める」と云うことなのだが、この「みんな」とは、厳密にはどういう構成なのか、「多数」とはどのように定義するのか、実は、曖昧糢糊としていて、極めて「いい加減」なのである。

ただ、今回の国民投票に関して、

「僅差だったから」というのを「無効論」の根拠にしているところが有るが、約100万票という票差は、果たして「僅差」なのか?

分母が大きいからと云って、100万票を「僅差」と言い切ってしまうのは、明らかに欺瞞であろう。

また、「そんなつもりで投票した訳ではない。後悔している。」という声を取り上げて、「再投票実施」の論拠にしているが、これも甚だおかしい。

「そんなつもりで」と云うが、今回の国民投票は、EU残留か、離脱か、という二者択一である。

これほど単純明快な選択肢は有り得ない。

にもかかわらず、自らの投票行動について「自己批判」を安直に行うのは、そもそも、そういう人間に投票権を付与する資格が有るのかどうなのか?と云った疑念が生じてしまうだろう。

だから、キャメロン首相が、「国民投票の再投票は有り得ない。」と明言したのは、圧倒的に正しい。

もし、「再投票」を容認したら、更なる泥沼にはまる。

国民投票を再投票して、もし、今度は「EU残留」が多数派を占めたら、二つの「国民投票」の結論が正反対で対峙することとなる。

民意というものは、その時々で変化するものではあるが、しかし、短期間で、結論が一変してしまうのであれば、英国国民の意識の余りの落ち着きの無さに、国際社会は不信感を抱くだろう。

また、再投票して、再び「EU離脱派」が多数を占めた場合、それでも、マスコミや残留派は、納得などしないだろう。

そうなれば、「EU残留」という「結論有りき」の出来レースとしての「国民投票」に成ってしまう。

だから、原則として、国民投票は1回こっきりにしなくては、その存在意義さえ疑念が生じるようなこととなろう。

結局、国民投票で決めてしまうことには、大変なリスクを負う、と云うことを、我々はもっと肝に銘じるべきだろう。

「代議制」「間接民主制」が、いかに先人の知恵によって構成されているのか、そこのところをもっと知的探求をしていかないといけないだろう。

今日から新しい仕事の現場と云うことで、精一杯、無我夢中で精勤していたら、何時の間にやら、携帯電話を落としていた。

ポケットに入れていたのだが、気が付いた時には、ちり紙しか入っていなかった。

気が付いた時は、ハッとしたけれど、それ以上の感情は起きなかった。

悲しいとも、腹立たしいとも。

そんなに衝撃を感じなかった。

それは、自分が「古い人間」だからだと思う。

自分には、毎晩、愛のささやきを交わす恋人が居る訳でも無いし、四六時中電話がかかって来ることも無い。

自分からご連絡を差し上げるぐらいしか、実は、使用していないのだ。

確かに、仕事で、毎日必要なのではあるけれど、そこはそれ、「所詮、派遣社員に過ぎない」からwww

携帯電話が無く成ってみて、ちょっと、ホッとしている自分が居る。

すぐに、携帯電話会社に電波を止めてもらったので、もう、電話としては機能していない。

ただ、今日からの現場は、新宿駅東口から歌舞伎町にかけてという、大変、柄の悪い歓楽街なので、多分、出て来ることは無いだろう。

しかも、車で移動していたので、何処で落としたのか、皆目見当がつかない。

一応、警察に紛失届は出したのだが。

まあ、そんな呑気なこともずっと云ってはおられないので、早々に新しい携帯電話を入手する算段をしないといけないだろう。

これを好機と捉えて、スマートフォンに切り替えても良いのだが、エレベーターの中でもスマートフォンをいじくる様を目にしているので、とても抵抗感が有る。

正直云って、自分は、ああは成りたくはないのだ。

自分のような、低能な人間は、一日のうちに、何もしないで、ぬぼーっと腑抜けている時間がどうしても必要なのだ。

で、その、ぬぼーっとしている時間に、だいたい3つから4つぐらい、書きたい文章のネタが浮かんで来て、書き出しから最後のオチまでの構成が出来てしまう。

だから、PCに向かって居る時は、既に完成している「文章」を、思い出しながらキー入力しているだけなのだ。

とは云うものの、鳥頭なので、三歩歩くと、きれいさっぱり忘れてしまうことがしばしばなので、実は、かたちに成っていない「文章」がそれなりに存在するのだ。

けれども、そういったものも、何とか思い出して、後日、かたちにしては居るのであるがwww

多分、スマートフォンにかかりきりに成ってしまったら、四六時中、「インプット」ばかりに成ってしまうだろう。

まあ、現在の自分は、いくら「アウトプット」したところで、ビタ一文にも成らないから、或る面、勿怪の幸いなのかもしれないがwww

本当は、明日にでも、新しい携帯電話の入手に着手すべきなのだが、ここ数日間は、携帯電話の無い「日常」を堪能してみたいのが、自分の本音であるwww

(ということで、ご連絡は、パソコンメールでお願いします。電報でも良いですよwww)

明日からの仕事の現場の開始時間が1時間30分も早まるので、自宅を出る時間も早くしないといけない。

更に、通勤電車に乗る時間も増えるため、その部分を考慮しないといけないし、ここ最近、人身事故や車両故障、信号故障、さらに急病人発生など、通勤電車の遅延が頻発している。

それらを考慮して、自宅を出る時間を逆算すると、起床時間と就寝時間も早めないと駄目である。

ネットで駄文を書いているとどうしても夜更かしをしてしまう。

だいたい、一文を書き上げるのに、平均1時間はかかる。

これ以上は速く書けない。

昨日の労組の文章も1時間半ぐらいかかった。

もう、長文の書き込みは、仕事が休みの日しか無理かもしれない。

まあ、いくら懸命に書き込みをしたところで、ビタ一文にも成らないのだから。

時折、自分の拙文が、一文字一円で販売出来ないだろうか?などと夢想する。

もし、それが実現したら、頭から湯気が出るまで、何万文字でも書き上げてやろうと思うのだが。

これも浅学菲才の哀愁である。嗚呼。

本日は、6月30日で、平成28年も半分が終わろうとしている。

かつて、6月の最終週には、株主総会の集中日が有った。

現在は、全体的に分散化しているようだが、かつては、いわゆる「総会屋」と云う、今で云うところの「経済ヤクザ」が幅を利かせていた。

株主総会は、事実上、企業に於いては「祭儀」のようなものである。

つまり、定められた「演目」を粛々とこなしていく。

いわゆる「シャンシャン総会」と云うもので、出席者による丁々発止の議論が為される「場」ではないのだ。

これは、日本に於いて、「会議」と名前がつく「集まり」に於いて、一種の「原則」と成っているwww

ならば、実際に「すりあわせ」を行うのは何処か、というと、アルコールや女性が付かないと格好がつかない「場所」で行われたりするのだwww

それはさておき、事実上「祭儀」である株主総会が「荒れる」ようなことは、絶対に回避したい。

その「心理」に群がっていたのが、「総会屋」だった。

「こういう情報が入っているので、株主総会に於いて、是非、質問したい。」と事前通告すると、会社側が慌てて懐柔に入る。

で、「総会屋」は、「ならば、うちの事務所が出している、経済情報雑誌が有るから、是非、購読して欲しい。」と云う。

会社側は、「資料費」もしくは「図書費」と云った名目で、必要経費で処理する。

「交際費」と云った、追及されやすい名目ではないのである。

また、「総会屋」側も、恐喝行為ではない、と弁解出来た。

現在も、少しはそういう遣り取りは残っているかもしれないが、最早、廃れたであろう。

そして、6月と云えば、「賞与」ボーナスの支給である。

元々は、企業の業績に応じて、利潤が出た分を、従業員へ還元する「臨時特別支給給与」が「賞与」である。

だから、会社が業績不振に成れば、「賞与」など支給出来ない筈なのだが、既に、従業員の家計の算段には、年二回の「賞与」を見込んだかたちでローンを設定したりしているので、余程の事が無い限り、「賞与」は支給される。

なお、今の自分は、「派遣社員」なので、「賞与」は無い。

 

只今、第24回参議院議員選挙の真っ最中である。

特に、民進党に勢いが無いので、日本共産党と組んで、ようやく与党と対抗出来るように成った。

民進党の支援組織は、労働組合である。

現に、比例区の候補者の大多数は労組の組織内候補である。

3年前の参院選に於いては、大島九州男が立正佼成会の全面支援で当選出来た以外は、全員、労組の候補だった。

つまり、民進党は、労組丸抱えの政党と云って過言ではないのだ。

とりわけ、参院選の比例区はその要素が濃厚である。

民進党は労組のナショナルセンターである「連合」が丸抱えであり、更に、共産党と組んでいる。

共産党には、傘下の労組ナショナルセンターである全労連が有る。

だが、自分は、ここで指摘しておきたい。

現在、日本の社会全体に暗澹たる影を与えているのは、貧困化への広がりである。

生活保護世帯の数が、過去最多を毎年毎年更新している。

この貧困化の流れの最大の原因は、「非正規雇用者」の割合と人数そのものの増大である。

つまり、「正社員」の割合と人数そのものが減少しているのである。

何故か。

それは、「正規雇用者」の人件費が、経営者側から見て、過重なリスクとして捉えられてしまっていることである。

つまり、各職場や部署に於いて、人員の数は増やしておきたいのだが、「正規雇用者」としての人件費はなるべく抑制したいのである。

これは、人員は増やしたいが人件費や社会保険費、福利厚生費などは支出したくない、ということである。

大変、「虫の良い話し」であるのだが、その二律背反を解決するために導入されたのが、「非正規雇用者」という派遣社員であり、契約社員、アルバイト、パート、嘱託と云われるものであった。

そこで、同じ、「労働者」に於いて、「正規雇用者」と「非正規雇用者」の二極分化が生まれたのである。

現在、「連合」などの労組は、「非正規雇用者」を「正規雇用者」へ転換するような運動を進めている。

だが、上手くいっていない。

また、日本の労働組合の構成は、企業別なので、産業や地域ごとではない。

だから、尚更、「非正規雇用者」を取り込めないし、組織化出来ないでいる。

そこで、指摘したいのは、いわゆる労組ナショナルセンターが主導して来た、「労働運動」の成果そのものが、「非正規雇用者」の割合と人数そのものの数を増加させ、ひいては日本社会の貧困化への原因に成っているということである。

労組にとって、絶対に譲れない一線は、労働組合員である労働者の雇用の絶対死守であった。

つまり、何が何でも首切りは許さない、という大方針が有ったのである。

だが、それは、人事採用の硬直化を生むことに成った。

ここで自分が感じるのは、現在の労働組合関係者に、猛省の色が感じられないことである。

自分達が今迄「構築」して来た、従来型の「古い」秩序の維持に固執している。

既に、「非正規雇用者」が全体の4割に成り、「数量の変化が質の変化へと閾値を突破」しつつある段階と成ったにもかかわらず、危機意識が欠如している。

さらに、労組ナショナルセンター内では、官公労である、自治労や日教組といった、左翼イデオロギーに偏向し過ぎている労組が「連合」内の政治対策のヘゲモニー(主導権)を握ってしまっている。

だから、抜本的な労働運動の見直しと立て直しに着手することよりも、いかに、自民党政権との対決姿勢を激化させていくかが最優先にされている。

「平和を守る」「憲法を守る」と絶叫する陰で、雇用の有り方や働き方の有り方への課題解決追求が鈍化しているのである。

日本共産党は、「ブラック企業を許さない!」と威勢が良いが、それは単に「資本家憎し」という、前時代的な左翼イデオロギーのテーゼを持ち出して来ているだけなので、抜本的な解決には到底成らない。

勿論、日本共産党は、実は「ブラック企業」の根絶を望んではいない。

「ブラック企業」が残存しているうちは、「ブラック企業」叩きを行う、「ホワイトナイト」として、「正義の味方」としてのキャラクターを演じ続けることが可能だからである。

かつて、トロツキストの新左翼の政治的理論指導者であった太田竜は、「賃上げ」ばかりを持ち出す日本の労組を批判した。

「日本の労働者への賃金が上昇する元手は、企業が海外の市民たちを搾取した結果であったならば、許し難いことだ。日本の労働者の賃金を下げてでも、海外の市民と連帯し、『解放』していこう!」と。

(だが、その太田竜も、最晩年は、ユダヤ陰謀史観に成ってしまったが。)

これはトロツキストの「世界永久革命論」を根拠とするインターナショナリズムである。

しかし、この視点以外からも、従来の日本の労働運動を根本から見直す必要性が有るのではないか?

アンチ自民党に固執し、野党第一党を牛耳ってきたことに酔い痴れている時代は、もう止めにすべきだろう。

労働組合の存在意義は、ますます重要さが増して来ると、自分は思う。

だが、反権力のセクト主義に凝り固まっているのであれば、労組の手助けを本当に望んでいる「労働者」を見殺しにすることに成るのではないかと、自分は深く憂慮している。

「論語」は、まさに、教訓の宝庫である。

その中の有名な一節に

「過ちては改むること憚る(はばかる)こと勿れ(なかれ)」

が有る。

「論語」学而編に有り、

「忠信を主とし、己に如かざる者を友とすること無かれ、過ちて則ち改むるを憚ること勿れ」である。

間違いに気が付いたならば、小さなプライドや意地にこだわらずに、速やかに改めるべきである、と云う意味である。

なるほど、その通りであろう。

だが、何事にも巧拙と真偽が存在する。

つまり、目指す方向は同じであっても、やり方に上手い下手や、表面的な上っ面を糊塗しただけの偽物と心底猛省した上での本物とが存在するのである。

 

現在、第24回参院選の選挙戦はたけなわであり、そのさなかのTV討論番組で与野党各党の政策責任者による討論が為された際に、日本共産党の藤野保史政策委員長が、防衛費に対して「人を殺すための予算」と発言した。

これは「失言」であるが、実は日本共産党の「本音」であり、まさに「馬脚を現した」発言であった。

その番組の時から、他党から一斉に批判された。

※(ちなみに民進党山尾政調会長は批判せずに黙認し、事実上、同調した!)

当初、日本共産党は、高をくくっていたが、他党からの批判と云うよりも、広範な国民からの違和感の表明を実感するように成って、大慌ててで「消火活動」を始めた。

藤野センセイは、初めは「発言の意図が曲解されている」とうそぶいていたが、陳謝をし、ついには、政策委員長を辞めざるを得なくなった。

さて、この「人事処理」をどう評価すべきなのだろうか?

「過ち」を素直に認めて、改めた、と評価すべきなのだろうか?

そうではなかろう。

この「問題発言」の批判の矛先が、日本共産党と云う「政党」全体に向けられるリスクに気が付いて、慌てて藤野センセイの個人的責任に転嫁したのに過ぎない。

つまり、「とかげの尻尾切り」なのだ。

「左翼」の党派は、原則的に「無謬性」である。

過ちや誤りを認めない。

間違いを認めた時点で、組織の根幹が揺らいでしまうからである。

それは、「左翼」が「理論」でもって、「合理的」に構築されている「組織」であると、決め付けているからである。

「党」の指導者は、即ち、「政治理論」の指導者でなければならず、党の「運営」などの過ちは、即ち「政治理論」の過ちに直結してしまう。

そういう硬直した、脆さを内包した組織であるのだ。

だから、間違いを認める場合は、「反党分子」なり「内部攪乱者」もしくは「理論学習の未熟な不徹底者」が起こした、「部分的」な問題へと「矮小化」されるのである。

だが、それは、問題の解決ではなく、隠蔽、もしくは逃避にしか過ぎない。

欺瞞である。

日本共産党は、今、まさに、国民を騙そうとしているのである。

そう云えば、吉良よしこ参院議員が、「戦争法案によって、海外で自衛隊員を、殺し・殺されないために、災害救助のために頑張ってくれた自衛隊員の為に戦争法案を廃案にしましょう!」と街宣で演説していた。

よくもまあ、「屁理屈と膏薬は何処にでも貼れる」と云うが。

日本共産党は、いわゆる「安保法案」が国会に上程される、遥か以前から、自衛隊に対して「人殺し」呼ばわりの名誉毀損を散々して来たではないか?

あれだけ、何十年にも渡って、自衛隊諸氏に対して悪罵を投げつけておいて、今更「何処の口が云うのか!」。

 

日本共産党も酷いのだが、東京都議会も駄目である。

いよいよブラジルのリオデジャネイロで、オリンピックが開催されるが、当初はそれに対して、都議会議員団が「視察」に行く予定だった。

だが、舛添都知事の辞任などによって、世間の目が極めて厳しくなった。

そこで、慌てて、「都議会として、リオへの視察は取り止めます。」と公表することとなった。

これを目にして、都議会の駄目さ加減に頭を自分は抱えた。

そもそも、地方議員や地方首長の視察旅行は、政策立案などの「研修」や視察先のVIPとの「親善」のために行うものである筈である。

つまり、東京都民の広義の「利益」のために、視察旅行を実施している筈なのである。

ところが、「何で、2500万円もかけて25人も出かける必要が有るのだ?」と云う「疑問」が生じた途端、即座に「取り止めます」と決定した。

それでは、事実上、「リオへの旅行は、都議会議員の慰労目的です。」と白状したのに等しいではないか。

もし、本当に、4年後の東京オリンピックに向けて必要不可欠な視察旅行であるのならば、予算額や参加人数の規模を大幅に縮小させてでも、絶対に実施しなければ理屈が合わなくなる。

ところが、「何で、行く必要が有るの?」と指摘されて、すぐに「取り止めます」と回答したら、そもそも、都議会議員の視察旅行そのものの存在意義、正当性が問われてしまうことにつながってしまうだろう。

だから、リオの五輪が終わった後でも、都議会で議員の視察旅行を行う際に、多分、日本共産党都議団が、「何でそんなことにお金を出すのだ!」と批判して来るに決まっている。

その時に、どう反駁をするのだろうか?

これは、あまりに拙劣な大衆迎合主義「ポピュリズム」であろう。

 

漢籍に於いては、「易経」(革卦)に於いて「君子豹変す」という一節が有る。

それは、「君子豹変す、小人は面を革む(あらたむ)」に由来する。

現代に於いては、この語句は、「節操が無い」と云った意味に成ってしまったが、本来は、君子と呼ばれるような人は、過ちを心から猛省して改めて行くが、小人と呼ばれるような人は上っ面のうわべだけを糊塗し、その本質は全く変化が無い、という対比の文章だった。

だから、過ちを認めて、「改めた」ところで、それが「君子」によるものなのか、それとも「小人」に過ぎないのか、雲泥の差が有ると云わざるを得ない。

 

日本共産党のそれは、まさしく「小人」のそれ、であろう。

そう云えば、共産党などのいわゆる「左翼」が、デモや集会の参加者へ、日当を支給している、という話が有った。

いやあ、それだったら、真面目に、その日当目的の為に、是非ともデモや集会に参加したいですわwww

今時、一日の日当で、1万円だ2万円だ、なんて、本当に有り得ない話であって、しかも、デモや集会で、「さくら」をしていれば、自動的に、しかも、振り込みじゃない、「取っ払い」の現金手渡しでいただけると云うのなら、そらあ、もう、有り難くいただきたいものである。

「お前は、良心を売り渡すのか!」と云う批判に対しては、「選挙の投票は、投票者の無記名で秘密ですから。」とだけ、回答しておきたいwww

ちなみに、いわゆる「一億総活躍社会」政策の一つとして、低所得高齢者世帯への3万円臨時給付に関して、「そんなバラマキはけしからん!」と批判する人が居る。

正直云って、我が家は、これで大変助かった。

有り難く、食費と光熱費に支出させてもらった。

確かに、3万円支給されて、パチンコにでも興じていたら、指弾されて当然だが、貧困層には本当に助かった。

そう云えば、かつて、民主党が、政権交代を勝ち得た際に公約した、全国高速道路無料化や「こども手当」は、結局どう「実現」出来ただろうか?

一言で云って、全然、公約を実現出来ていなかったではないか。

これは、「詐欺」であろう。

だから、そういう嘘やごまかしをしていた民進党へ投票するような人は、政治的センスを疑わざるを得ない。

ついに明日は6月30日です。

明後日からは7月に入り、本年も「後半戦」へ突入します。

さて、6月に自分は仕事の現場が変わりましたが、7月に、また、新しい仕事の現場に変わることに成りました。

と云うのは、5月までの現場に比べて、現在の現場での給与の試算金額を比較すると、約4万円以上減額に成ることが解ったからです。

現在、所得税や雇用保険などを控除した後の給与は、だいたい20万円前後。

年金と健康保険は、別途、国民年金と国民健康保険へ個人として納入しています。

そんな中で、いきなり、4万円を超えるお金が入らなくなりますので、自分は愕然としました。

何故、そんな無茶苦茶なことに成ったのかと云いますと、5月までの現場と6月からの現場では、担当される正社員さんの仕事の処理速度が違うのです。

現場が違うと云うことも有りますが、一緒にお仕事をさせていただく正社員さんの仕事の処理速度に格段の差が有るのです。

ですから、6月に入ってから、仕事の終了時間は早まりました。

しかし、自分は「派遣社員」で「時給制」です。

時間が短く成れば、その分、給金は減額されます。

一方、正社員さんは、固定の月給ですから、効率的に速く仕事を切り上げて、早めに終了させても、給金は変わりません。

なお、業務時間は先月に比べて、短縮されましたが、かと云って仕事が楽に成った訳ではありません。

むしろ、時間当たりの業務の密度が濃くなり、過酷に成りました。

5月までは、お昼のお弁当を食べる時間が有りましたが、今月からはろくに昼ごはんも食べる余裕も無くなりました。

結局、車での移動時間に、丸呑みするように食事をするしかなくなりました。

収入が激減することが予見出来たので、副業やダブルワークも考慮しました。

しかし、労働時間が短縮されたからと云っても、肉体的にも精神的にも酷使されていますので、もう45歳に成ろうとしている自分には、もう一つ別の副業を行えるだけの余裕は有りませんでした。

そこで、派遣会社に相談し、7月からは別の現場を紹介してもらうことに成りました。

もし、来月の7月からも引き続き、同じような感じであったなら、自分は「転職」せざるを得ないと覚悟していました。

ただ、7月の現場も、実際はどうなのか、まだ解りませんので、派遣会社から派遣社員契約書の更新を求められましたが、7月の新しい現場の状況を実際に判断した上で、現在、猶予してもらっている状態です。

いわゆる「非正規雇用」の労働者には、「所得保障」なんて皆無な訳です。

「正規雇用」であるならば、配置転換や人事異動でもって、数万円単位の給金が激減することは、ほぼ有り得ません。

有ったとしても、外回りの営業職から内勤に変わった際に、「外向手当」のようなものが無くなる場合です。

しかし、いわゆる「外向手当」は、内勤の「残業手当」に相当するものですから、「外向手当」が無く成っても、給与金額が激減することは有りません。

しかも、元々の固定給が有る訳ですから、例え減額されたとしても狼狽する程のことは無いのです。

しかし、「非正規雇用」では、まるまる給金が減るのです。

ちなみに、自分は、現在「有給休暇」は存在しません。

つまり、働いた時間分の給金しか入らないのです。

いつまで、この仕事で食べていくのか、先行きは全く不透明ですが、かといって、最早、「正規雇用」の可能性は皆無であると自分は覚悟しています。

ただ、一年先、二年先のことを考えてもどうしようもないので、今は来月の支払いをどうするのか、ということのみに専念して懸命に頑張ることにしています。

よく「埋もれた才能」と云う。

だが、この語句は、実はおかしい。

違う表現で示してみれば、「丸い三角」と云った感じである。

そもそも、「才能」というものは、他人がその有無や程度を決めるのである。

「いやー、自分、めちゃくちゃ才能が有って!」なんて自己申告しているのは、ただ単に勘違いをしている「痛い」人だ。

だから、「才能」というものは、必然的に、他人から見出されなければ「成立」しないのである。

つまり、世にいう「埋もれた才能」と云うのは、過去完了形でしか、ない。

だいぶ時間が経って、改めて、「才能」が見出された場合、本来は「評価」されるべき「才能」が「評価」されずに潜在化している「期間」を評して、「埋もれた才能」と云うのである。

で、「埋もれた才能」と指摘される場合、それは、既に「手遅れ」なのである。

「才能」を有していた人物が死去し、残された「遺作」や「遺産」に対して賞賛が寄せられる。

だから、「才能」そのものに対しては、もう、既に「手遅れ」なのである。

だが、我々は、「才能」に対しては、いつも、いつも「手遅れ」なのである。

その「才能」の真価と得難さを理解出来得た頃には、もう、既に「才能」は事切れて久しいのである。

何故、我々は、「才能」に対して迂闊であるのだろうか?

それは、「才能」が「同時代」からかけ離れているからである。

「同時代」の遥か先に進み過ぎているのか、もしくは時間軸そのものを超越しているのか、どちらかであるからである。

人間は、空間と時間の制約の中で生きている。

だから、その「同時代」の尺度から逸脱してしまった代物は、評価不可能なのである。

但し、ごくごく少数の、時代の先読みが可能な人、普遍的な尺度で価値判断を下せる人のみが、「才能」に付いて行けるのである。

そういった人が、「才能」を発掘していくのである。

「才能」の有る無しは、結局、「他人事」でしかない。

だから、「才能」が有るから、「表現」をするのか?

そんな捉えどころの無い、曖昧模糊とした代物を「根拠」にしているようでは絶対に駄目だろう。

つまり「才能」の有る無しなど、どうでも良いのだ。

ただ、「表現」をしたい。

いや、「表現」をしなければ、生きてなどおられない。

そこまでの「狂おしさ」、因業な「情念」こそが、「表現」に対する「意欲」の「根拠」であり、原動力であろう。

勿論、その底流には、強烈な自負とプライドが存在する。

だが、その「自分には絶対的に才能が有る!」と云う「思い」には、何も論理的な裏付けは無い。

第一、誰それが、己が「才能」を認めてくれたから、そんな程度の賞賛で、四六時中、「表現」に没頭していく「情念」の噴出が為される道理が有り得ないではないか?

自己の内側に、制御不能の得体の知れない「代物」が棲息し、突発的にのた打ち回る。

その「産物」が、「表現」という「才能」の発露と成るのだ。

巷間では、「天才」は「気まぐれ」だと云う。

だが、それは、彼自身が意図したものでも、計画したものでも、ましてや念願したものでもない。

ただ、どうしようもなく、突き動かされてしまった、その結果でしかない。

だから、「天才」は、畢竟、自分自身を制御出来ないのである。

それはそれで、「気の毒」なことではないだろうか?

六月にして、既に酷暑であります。
一日、一生懸命働いて、クタクタで帰宅したところ、母から郵便物を渡されました。
6枚の選挙用のハガキ。
で、全部、「日本のこころを大切にする党」からwww
内訳をご紹介すると、中山成彬選対から、2枚。そのうち1枚は母宛て。...
西村真悟選対から3枚。
そして、党本部から1枚。
それぞれ、ハガキの推薦人が有り、コメントも記述されていました。
いやあ、頂戴したハガキの枚数分、自分に投票用紙が有ったなら良いのですが、誠に残念ながら、自分には選挙区1枚、比例区1枚しか無いのです。
しかも、同居する母は、元・日教組教師のゴリゴリの左翼なので、間違い無く、共産党へ入れます。
残念ながら、母を説得することは不可能なので、母の票は「日本のこころを大切にする党」へは入りません。
自分は、2003年から2014年までは、極めて広範囲に、いわゆる「保守派」の集まりに参加していたので、いろいろなところに「足跡」が残っている訳です。
で、その「足跡」の結果が、この選挙ハガキに成ったようです。
実は、2014年2月の東京都知事選挙の際も、田母神選対から7枚ぐらい選挙ハガキが来ましたwww
その時は、選挙ボランティアで、1000枚単位のポスティングをしていた自分でした。
結局、何が云いたいのかというと、いかに、いわゆる「保守派」の実際の人数が少ないか、ということです。
保守派の集まりなり、グループなりの、「のべ人数」で勘定すると、それなりの数量なのですが、実際は、相当数の「重複」が有るということなのです。
つまり、一人でいくつもの集まりなりグループに掛け持ちをしている訳なのです。
だから、事前の「票読み」と、実際の開票数が著しく乖離してしまう、ということが起こるのでしょう。
じゃあ、どうしたら良いのか、ということに成りますが、
「残念ながら、自分には、よく解りません。」
ということにしておきます。嗚呼。

(追記)
この拙文を書いた翌日に、また一通、西村真悟選対から選挙ハガキが到着。
合計、7枚に成ったwww

いわゆる、安倍「原理主義者」は、今回の参院選は「三分の二確保を至上命題」と云う。

何を勘違いしているのだろうか?

以前も別記先述したが、「改憲勢力が三分の二」と云うのは、左翼側が、国民と自分たちの支持層への危機意識を煽るために、引き締めを図るために意図的にミスリードしているだけに過ぎない。

そもそも、「改憲勢力」って云うのを、ちゃんと説明出来るのか?

創価学会・公明党の議席を勘定に入れてしまった時点で、欺瞞以外の何物でもなかろう。

ならば、自民党一党だけで、「三分の二」を議席獲得可能なのか?

沖縄県や福島県など、現職閣僚の参議院議員が落選の危機に追い詰められているような惨状なのである。

いわゆる、選挙区一人区で、相当な「とりこぼし」が有るだろう。

更に、北海道では、自民一人に民進二人と云う体たらくらしい。

比例区では、18議席ぐらい上積み出来そうということだが、自民党としては比例区での「伸びしろ」は少ない。

そんなに「三分の二」にこだわるなら、比例区よりも選挙区を何とかすべきではないか?

また、おおさか維新を「改憲勢力」に勘定しているが、おおさか維新には「地力」と「勢い」を感じるものの常に「危うさ」がつきまとう。

現に、江田憲司と一緒に成って、「維新の党」だった時が有るではないか?

さらに、東京選挙区で田中康夫を擁立した時点で、明明白白ではないか?

おおさか維新には、大衆迎合主義とマキャベリズムに傾き過ぎる感が有る。

だから、本当に「改憲」への段階へ、賛同してくれるかどうか、甚だ疑わしいと指摘せざるを得ない。

更に、もっと云えば、肝腎の自民党自体が、どれくらい「改憲」で覚悟を決めているのだろうか?

公明党が反対し、おおさか維新が逡巡したら、自民党内の議員の中で「流動化現象」が必ず起こるだろう。

ならば、絶対に「改憲」でひるまないのは、「日本のこころを大切にする党(略称・日本)」だけしか、有り得ないではないか。

自民党が、変調をきたした時、真正保守の野党として、党の外から喝を入れる。

それが出来るのは、「日本のこころを大切にする党(略称・日本)」以外有り得ないではないか?

それに、百歩譲って、現在、衆参両院で三分の二を「改憲勢力」で占めたところで、国民投票の段階で、間違いなく、護憲派に惨敗するだろう。

昨年のいわゆる「安保法案」の国会審議に於いて、自民党が推薦した有識者から「違憲」発言が飛び出すなど、ふんどしは緩み切っているし、安倍政権の支持率は急降下した。

今、「改憲」へ突っ込んだら、絶対に勝算は無い。

それは、いわゆる「保守派」が、きちんと大衆運動をして来なかった為である。

「改憲」への「国民運動」を盤石なものまで構築出来得ないのならば、残念ながら、いまだ「改憲」の時機は尚早であると指摘せざるを得ない。

「改憲」双六の「上がり」は目前に見えるが、とてもではないが、上がれない。

もう一周、迂遠なようだが、回って来なければ「上がり」には入れないだろう。

ならば、確固たる「保守」の勢力の基盤を固めなくてはならない。

それも、自民党以外の組織で。

だからこそ、「日本のこころを大切にする党(略称・日本)」を、どんなことが有っても、存続させなくてはいけないのである。

中山恭子代表を東京都知事選挙へ擁立しよう、とか、自民党と合流せよ、とか、もう「論外」と云わざるを得ない。

疲労が溜まってくると、大概、気鬱の兆候と成る。

何て、自分は駄目なんだろうか、と。

愚昧で、非力で、下手くそで、惰弱で。

自分自身へ、呵責の無い、悪罵を投げつける。

すると、いつもお世話になっている御仁から、一言が入るのだ。

「あのなあ、お前のことを一番軽蔑して、その真価を見くびっているのは誰か、解るか?」

「・・・・・」

「お前自身なんだよ!他者に対しては、賞賛も批判も、ズバリ正鵠を射ているくせに、事自分自身に成ると、全く駄目じゃないか。」

「・・・・・」

「さらに、まずいことに、そういう『駄目な自分』像に狎れているんだ。溺れているんだ。

もし、駄目だと痛感するなら、瞬時にその対策を考え、着手すべきじゃないか!」

「・・・・・」

「お前が駄目だ、とするならば、そこだけだな。後は、お前は全然駄目じゃないし、間違っていない。

確かに、現時点では、『日の目を見ていない』のだが、それに対して、お前は一つ一つ着実に布石を打っているのだ。

その努力と布石は、いつか必ず花開き、実を結ぶ。

だから、焦らず、腐らずに、無理をせずに、じっくりと努めていけば良いのだ。

なあ、もう、自分自身を貶めて、精進することから逃げる『言い訳』にしてくれるな。」

涙がジワリと湧いて来た。

明日から、頑張ろうと、本当に思う。

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「水無月大祓(みなづきおおばらえ)式」

早いもので、今年もあと数日で半分を終えようとしています。

マラソンで云えば、一年の「折り返し点」に成ります。

古来より、一年の上半期の最終日、6月30日と一年の最終日である大晦日12月31日に、それぞれ「大祓(おおばらえ)式」を行いました。

6月の古い呼び名を「水無月(みなづき)」と云ったので、6月30日に斎行されるのを「水無月大祓式」と云い、大晦日に斎行されるのを「師走大祓式」と呼びました。

また、「水無月大祓式」は、梅雨の季節から、酷暑の夏本番を無事に健康に過ごせるように、「夏越しの大祓式」とも呼ばれました。

古来、日本の於いては、「罪穢れ(つみ・けがれ)」が、人間にとって「災い」の原因と考えられました。

「罪穢れ」とは、人体に於ける垢(あか)や家屋などの埃(ほこり)や塵(ちり)のようなもので、知らず知らずに溜まってしまうマイナス要因です。

この「罪穢れ」を、自分の分身である、紙製の人形(ひとかた)・形代(かたしろ)へ移し替えて、「最初」の状態に「リセット」することで、「過去」を「清算」し、「再出発」を行うことが「大祓式」なのです。

生身の人間の代わりに、人形を用いる「魔術」は、古くは「厭魅(えんみ)」と呼ばれ、養老律令「賊盗律」で禁じられたように、古代の人々に流布しました。

これは、後代の江戸時代に於いて「丑の刻参り」の「呪いのわら人形」と云う形に受け継がれていきます。

なお、3月の桃の節句のひな人形も、元来は、「流しひな」と云い、この「大祓式」の形代のように、自分に降りかかる災厄を身代りに成って引き受けてもらうためのアイテムでした。

大祓式には、「茅(ち)の輪」をと云う、草の葉で作られた大きな輪をくぐります。

茅には薬効成分が有り、薬効成分の有る植物、例えば桃や豆などは魔を払う、聖なる霊力を有すると考えられてきました。

ですので、「茅の輪」でもって、茅の持つ「聖なる力」でもって、浄化されるのです。

また、茅の輪をくぐる際には、言霊(ことだま)の霊力も駆使します。

水無月大祓式には、

「水無月の 夏越しの祓(はらえ)する人は 千歳(ちとせ)の命 延(のぶ)というなり」

と云う、和歌でもって言祝ぎ(ことほぎ)ました。

さらに、「大祓詞」と云う「祝詞(のりと)」を天神地祇へ奏上し、祓え浄めていきます。

「大祓詞」は、「祓詞」よりも長文で、ざっくりと説明すると、前半は何故「祓え給い浄め給う」ことが必要なのかを説明し、後半部は、祓った「罪穢れ」がどのようなプロセスで「処理」されるかが説明されています。

ちなみに、茅の輪をくぐる際に、「蘇民将来(そみんしょうらい)」と唱えてくぐる場合もあります。

これは、武塔神と蘇民将来を巡る「神話」から来ています。

武塔神は、異国の「異神」であり「疫病神」「流行り病の神」で、金神・牛頭天王(祇園社)の別名で、スサノヲ尊のことであるとされています。

巡行し、漂泊する「荒神」であり、「旅をする荒ぶる神」ということでスサノヲ神と「習合」しました。

その、武塔神を、貧しいながらも自宅に招き入れて歓待した蘇民将来に対して、「蘇民将来の子孫であるという目印を掲げれば、その家には疫病を入れない。」と約束するのです。

それから「蘇民将来子孫也」という「護符」が生まれます。

真夏の疫病を逃れる「呪術」として、蘇民将来の「神話」も「習合」していったものと思われます。

さて、この「水無月大祓式」は、最寄の神社でも、有名神社でも行っています。

ですので、神社を参拝してみると、申し込むことが出来ます。

また、何処の神社へ行ったら良いか解らない場合は、各県の神社庁へ問い合わせをしてみて下さい。

ちなみに、自分は、毎年、懇意にしている「奈良県護国神社」にお願いしています。

遠隔地に住んでいるので、郵送で人形・形代をいただきます。

形代に、自分の息を三回吹きかけて、自分の身体を撫でます。

そして、自分の中に溜まってしまった「罪穢れ」を形代に背負ってもらいます。

形代には、自分の名前と年齢を記入します。

「奈良県護国神社」では、自動車の形代も有り、交通安全と無事故祈願も行えます。

自動車の場合は、運転者の氏名とプレートナンバーを記入します。

玉串料は郵便振り込みで、人形・形代もしくは車形は返信用封筒で郵送します。

「奈良県護国神社」のお近くならば、6月30日午後4時より、拝殿前の斎場に於いて、神事を執り行います。

大きな「茅の輪」も設営されていますし、ご参列の方には特製「潔斎の湯」が特別に授与されます。

さらに、大祓人形祈願を申し込まれた人(自分は郵送と振り込みで申し込みました。)は、翌日7月朔日(さくじつ)1日に、御本殿に於いて「家内安全」「無病息災」「交通安全」の御祈祷を斎行します。

そして、後日、御祈祷済みのお札が郵送されます。

お申込みは、電話0742−61−2468、奈良県奈良市古市町1984まで。

昨日、早々に第24回参院選の期日前投票をした。

選挙区は自民党公認候補で、比例区は日本のこころを大切にする党(略称・日本)公認候補の個人名をそれぞれ記名し投票した。

選挙区では、確実に安倍政権を支持する為に自民党公認候補へ。

比例区は、日本のこころを大切にする党(略称・日本)の公認候補へ。

比例区に於いては、最悪の場合、日本のこころを大切にする党は、当選者を出せないかもしれない。

しかし、「得票率2%」を超えれば、「政党要件」を達成出来る。

だから、例え「死に票」に成ろうとも、日本のこころを大切にする党へ比例区には絶対に投票すべきである。

今、日本のこころを大切にする党を「消滅」させてはいけない。

何故なら、日本のこころを大切にする党は、政策や「志(こころざし)」でもって結集した「政党」だからである。

打算や保身で離合集散している政党ではないのだ。

だからこそ、絶対に存続させなくてはいけないのだ。

自分の絶不調の原因が判明した。

「熱中症」である。

雨が続いていたので、まさか、と思っていたが、6月中にして早くも「夏バテ」である。

情けない限りである。

だが、屋外で作業をしている者には、避け難いことで、丁度、巷では参院選まっさかりである。

選挙の関係者各位には、是非とも、ご自愛の程。

 

さて、今朝(平成28年6月24日)の新聞各紙は、早くも参院選の序盤情勢の記事が載った。

押し並べて、「与党(自民・公明)で過半数確実」であった。

毎日新聞など、左派系は「改憲勢力で三分の二確保か?」とも。

だが、そもそも「改憲勢力」と云う語句の内容自体が問題である。

自民党と日本のこころを大切にする党、そして、おおさか維新の議席数を計上するのは、まだ首肯出来るが、公明党を「連立政権与党」だからと自動的に含めてしまうのは、はたしてどうなのか?

あの、昨夏の内容の乏しい「安保法案」を巡る状況に於いても、公明党は抵抗をしたのである。

マスコミや世間の耳目は、いわゆる「安保法案」の国会審議の最中の国会周辺デモと云った、「目に見える」「解りやすい」構図に集まりやすい。

だが、本当の意味での「安保法案」の議論の「肝」は、実は、国会審議に到る以前の与党間協議にこそ存在していたのである。

短絡的に、「改憲」と云うが、9条を変えるのか、改憲への手続きに関する条文を変えるのか、それとも全然現在では巷で話題に成っていない事柄、例えば「家族」や「民法」に関する条文を変えるのか、様々な状況が想定される。

だから、改憲論議に上程される「条文」如何によって、公明党は「改憲勢力」にも「護憲勢力」にも転じる可能性を秘めている。

さらに、もっと指摘させてもらえば、肝腎要の自民党自体が、全議員が「改憲」に賛成とは限らないのである。

つまり、自・公プラス他の政党でもって「改憲勢力三分の二」と云うのは現時点では、全く根拠薄弱な、ナンセンス(無意味)な「数値」でしか有り得ない。

要は、安倍政権与党の参院議員議席数を増やさないように、新聞が「ミスリード」するために、「改憲勢力三分の二」などと書きたてているに過ぎないのだ。

姑息にして卑劣である。

それはさておき、新聞各紙の選挙情勢調査の結果が出ると、ここ数年は、ほとんどその大勢は、その情勢調査の傾向が選挙結果と成って実現している。

以前は「アナウンス効果」と云われて、「自民党有利」と報じられると、世に云う「判官贔屓(ひいき)」で、自民党以外の政党に投票される、報道とは逆の作用が働くことが有った。

しかし、ここ数年は、「自民党有利」と報じられると、「それなら自民党へ入れよう」と云う、「バンドワゴン効果」と云う「勝ち馬に乗る」傾向に成っている。

政党比例区に於いては、自民党と共産党に支持が集まっている。

また、地方区に於いては、一人区に於いて、野党統一無所属候補が健闘している県がいくつも有る。

これは、安倍政権の是非という面よりも、野党統一候補が有利な県は、もともと自民党が駄目過ぎるのである。

前回は、自民党の駄目さ加減を、野党候補の乱立でもって逃げ切っていただけであって、自民党の地方組織の劣化そのものが主因である。

 

そんな中で、平成28年6月23日に、英国の国民投票に於いて、「EU離脱」票が過半数を超えて、英国のEU脱退が決定した。

マスコミでは「僅差だ」と報じているが、100万票以上の差は「僅差」とは云えまい。

これは、ここ数年、世界中の水面下で変化が起きていた「グローバリズムへの反感」が、明確なかたちとして顕現したことを意味するだろう。

世界社会への理想論と大資本の論理でもって、世界中を席巻し続けて来た「グローバリズム」が拒絶されたのである。

今回の英国国民投票の結果を、英国民の暗愚さや地域的特殊事例であると断じて「矮小化」しては絶対にいけない。

また、フランスの国民戦線などを取り上げて、「極右」だとか「国粋主義者」だとか、はたまた「レイシスト」認定して批判する傾向が有るが、それは、全くの「ミスリード」である。

さて、「グローバリズム」経済への痛撃であったせいで、只今、株式市場も為替相場も大荒れである。

だが、これは、あながち悪影響だけにはなるまい。

北朝鮮のミサイル実験の成功のニュースと共に、只今現在、日本は「国難」の渦中に在るという、図式が明確に成ったからである。

そこで、意外にも大きな影響力を持ってくるのが、過去3年間の「民主党政権」であろう。

ここに来て、いわゆる「アベノミクス」そのものが、吹っ飛びかねない惨状さえ想定される事態と成ったが、これが安倍政権へのマイナス要因に成らない。

もし、民進党が、一度も政権を担当していなかったのならば、「どうか政権を担当させて下さい!」と云う主張に、根拠は薄弱ながらも、国民の多くは投票する可能性が有った。

だが、3年間の「民主党政権」は全くのスカであり、何も評価すべき点が無かった。

しかも、民進党の首脳陣は、その民主党政権の時の顔ぶれとほとんど変わり映えがしていない。

だから、自民党への批判票は、民進党の頭を飛び越えて、ほとんどが共産党へ集中してしまっているのである。

そして、「国難襲来」と云う事態と成ったため、現在、地方区で自民党と互角の戦いをしている野党統一無所属候補にとっては、逆風となるであろう。

「まずは、政権を安定させなければ、この世界的な経済危機は絶対に対処出来ませんよ!」

「野党統一候補と云っていますが、当選したら、いったい何処の『会派』に所属するのですか?

民進党ですか?共産党ですか?

それさえ、決めていないような、無責任な候補を、これから6年間も国会議員にさせてしまって本当に良いんですか?」と。

 

今回の参院選は、各党の「駄目比べ」の様相であったが、ここに来て、風向きが一変した。

結局、「どの政党が頼りがいが有るのか?信頼出来るのか?」と云うことが、「争点」に急浮上したのである。

そうなれば、おのずから、結論は決まってこよう。

 

但し、安倍政権を下支えし、より強く後押しするには、安倍政権の政権与党である自民党だけを増やしても、実は、意味が無い。

何故なら、自民党の中には、「アンチ安倍」の議員だって、ごまんと在籍しているのだから。

かといって、公明党に投票するのは「論外」。

そうなると、本当の意味で、安倍政権を「支援」してくれる、そして、時と場合によっては厳しく「諌める(いさめる)」野党の存在こそが絶対必要不可欠であると云えよう。

この「健全野党」は、自分は、やはり「日本のこころを大切にする党(略称・日本)」だと思う。

おおさか維新も、安倍政権と気脈を通じてはいるが、こと、政策に関しての立ち居振る舞いは、おおさか維新に対しては、どうしても「危うさ」と「あざとさ」を感じてしまうのだ。

やはり、ここは「日本のこころを大切にする党(略称・日本)」への投票を、強く訴えたいと思う。

日本のこころを大切にする党は、単なる安倍政権への「追従」をしてはいない。

経済弱者、貧困層への取り組みと、若者世代への取り組みのひたむきさは、日本共産党と同じレベルである。

「現実的な国家運営」と云う政治姿勢を保持している上で、弱者への政治的救済を強く主張する「日本のこころを大切にする党(略称・日本)」は、自民党に飽き足らない国民にとって、最適な政党であると自分は思う。

 

水無月の大祓も近付いて来た。

皆々様に於かれては、どうか、くれぐれもご自愛の程を、宜しくお願い申し上げる。

昨日、土砂降りの中で仕事をしていたせいか、今日は、体調が絶不調である。

当然、筋トレどころではない。

さて、人間は、自分が生き物であると痛感する時というのは、決まって、病気や怪我などの時である。

つまり、体調が変調をきたした時、ようやく「健康」の有り難さを痛感するのである。

ごくごく当たり前の「日常」が、どれだけたくさんの「下支え」によって、構築されているのか、身に沁みて思い知るのである。

自分は、アレルギー体質なので、喘息から鼻炎から皮膚炎から全部「お付き合い」をしている。

自分にとっては、「体調が良くない」と云うのが、「前提」に成っている。

だからこそ、いろいろと気を付けるのである。

古代ギリシャの頃より、「健全なる肉体に健全なる精神は宿る」と云われているが、あながち間違ってはいない。

やはり、健康的な肉体でないと、明朗快活な精神状態には成れないからである。

だから、体調がおかしくなってくると、精神状態も思わしくなくなってくる。

要は、「ネガティブ」に成ってくるのだ。

だから、体調が悪く成ったら、すぐに休養を意識的に取って、「調整」をしないといけない。

どうもホワイトカラーは、人間は頭脳だけで業務を遂行出来ると勘違いをしている。

人間が、生身の肉体であるということが、あまりに軽視され過ぎている。

勿論、肉体の体調と業務の工程が齟齬を来すことは、往々にして発生する。

そこで、精神力でもって、何とか「追い込んで」やり遂げてしまう場合も有る。

だが、それは、所詮「無理やり」なのである。

「無理」と云うのは、何故「無理」なのかと云うと、恒常的には不可能だからである。

1回こっきり、もしくは2回ぐらいまでは、何とか「無理」の踏ん張りが出来る。

ところが、1回「無理」が達成出来ると、それが当然の基準にされてしまうのである。

あとは、心身の消耗が過度に成ったり、業務の精度を劣化させて間に合わせたり、と云ったかたちで「歪み」が生じて、構造的な問題形成に深化していってしまうのだ。

その点、本当に賢明な人は、1回「無理」が達成した場合でも、次回からは決して「無理」をしないように、用意周到に設定するのである。

「あの時は、たまたま上手く行っただけであって、それを当然の基準にしてはいけない。」と。

これは、成功体験に眩惑されずに、ことの本質を見抜ける人でないと理解出来ない。

ちなみに、これが出来た代表的な人物は、かの織田信長である。

彼は、寡兵でもって、田楽狭間・桶狭間の戦いで、敵陣に奇襲攻撃を仕掛けて、見事、敵将・今川義元の御首級を取った。

だが、織田信長は、敵よりも少ない兵力で攻撃を仕掛ける戦いを、これ以後、一切行わなかった。

敵軍に攻撃を仕掛ける際には、必ず、敵軍勢よりも兵数を多く確保してから行ったのである。

凡人は、たまたま上手く行った「僥倖」を、希少なものであると理解出来ないのである。

「あの時上手く行ったから、大丈夫。」と慢心してしまうのだ。

そして、最終的に、「破綻」するのである。

そう云えば、織田信長も、「戦争準備」に関しては、「慢心」しなかったが、こと「家臣への人心掌握」と云う点では、「慢心」してしまった。

「破綻」という「陥穽」のあまりの大きさに、慄然とする。

よくよく用心することが肝要なようである。

いよいよ、本日から第24回参議院選挙が告示される。

7月10日までの18日間の選挙戦が始まる。

しかしながら、はっきり云って、全く以て「盛り上がりに欠ける」。

かと云って選挙が白けている理由が、明確な訳でもない。

むしろ、その逆で、「投票権が18歳に引き下げ」られたし、共産党が独自候補を取り下げたことから、選挙区の一人区に於いては野党統一候補が揃い踏みした。

一方で、いわゆる「改憲勢力」による、衆参両院での「3分の2」の議席を確保出来るかどうか、と云う、大きな「正念場」でもある。

にもかかわらず、世間一般大衆は、ほとんど関心を示していない。

勿論、選挙に行くことを「拒絶」している訳でもない。

しかしながら、何が何でも、自分の一票に投票で「選挙」を、ひいては「政治」を決定付けようと云う、意欲がわき上がって来ないのである。

だから、何となく、惰性でもって、「まあ、取り敢えず、選挙へ行くか・・・」と云う意識なので、現状に対して「政治的」に明確な「立ち位置」を有する人は、共産党なり公明党なりに投票し、そうでない人は、何となく自民党へ投票する。

そんな、感じだと思う。

だから、比例区では自民党が手堅く当選させていくだろう。

選挙区に於いては、今回の選挙での「風向き」と云うよりも、各県の自民党の構造的な問題が当落を決定するだろう。

つまり、県内の自民党が、不協和音を発するような駄目な県は、野党統一候補に競り負けてしまう、と。

ただ、それは、安倍政権やアベノミクス云々の是非と云うよりも、単純に、自民党という政党の劣化に関しての地域差が主要因である。

そう云う意味では、選挙を巡る「ムーブメント」も「風」も存在していないので、組織力と、今迄の政党に対しての「評価」そのものが、選挙の当落を決定付けるのだと思う。

 

さて、よく、愛国・保守の候補者が選挙で苦杯を舐めた際に、「組織が支援してくれなかったから。」と云う文句が漏れて来る。

確かに、民進党には労働組合のナショナルセンターである「連合」が、公明党には創価学会が、そして共産党には、自前の傘下組織がたくさん支援している。

また、自民党には、土建業界などの各業界の支援が有り、更に、宗教団体や安倍総理「マンセー」の「ネトウヨ」まで支援している。

ところが、いわゆる愛国・保守の候補者には、「組織」が支援してくれない、と。

だから、結局、インターネットでもって、「憂国」の「草莽」諸氏に依存せざるを得ないのである。

しかし、いわゆるインターネットでの呼びかけでもって参集したボランティア諸氏は、ひたむきで高潔で無私の好人物ばかりであるものの、皆、「個人」としての参加である。

つまり、例えば、5人のボランティアが駆け付けて来たならば、一人びとり5種類の、各自に対応して、指揮したり管理したりしないといけないのだ。

例えば、ポスターを貼る、選挙用のハガキを書く、政党ビラを配布する。

これを、単発的に、依頼することは、至極簡単である。

「ポスター貼ります!」「ポスティングさせて下さい!」

こういう申し出の有った人に、ポスターやビラを渡せば良いのだ。

だが、それだけであるならば、特定の狭い地域にしかポスターが貼られていなかったり、ビラも同じ地域を重複して配布してしまったり、そう云う、非効率的な動き方に成ってしまいがちなのである。

つまり、「人手が足らないから、ボランティアを募る」ためには、ボランティアを指揮・管理出来る有能なスタッフが、その押し寄せて来るボランティアの人数に見合った数だけ在籍していなければいけないのである。

しかし、「ボランティア急募!」と切羽詰っている陣営には、そのボランティアを有機的に活用出来るだけのスタッフそのものが枯渇しているのである。

そうなると、結局、「組織」が下支えしてくれない限り、「選挙」らしい「選挙」というものは、実行不可能に成ってしまうのである。

ならば、「組織」はどうやったら、「確保」出来るのだろうか?

一つは、自前の組織、つまり、党員や後援会会員を大量に確保し、組織化することである。

もう一つは、既存の他の組織の支援を得ることである。

どちらも一朝一夕には完成出来得ないものである。

ただ、自前の組織の構築に物凄い、時間と労力を必要とすることは理解出来ても、既存の他の組織の支援に関しては、どうも安直に考えている向きが濃厚である。

「自分達の訴えている政策に賛同してくれるならば、その組織は、全力で支援してくれる筈だ。」と。

これは、とんでもない勘違いである。

どのような組織であれ、組織全体の支援を得るためには、「推薦状」やら「組織を挙げて支援する」と云う言質を取ったところで、それはあまりにも不十分なのである。

或る組織の支援を本当に得ようと狙うのであるならば、その組織に対して、常日頃から誠心誠意のお付き合いをしていなくては駄目なのである。

選挙直前に成って、いくら揉み手しいしいで愛想笑いを浮かべたところで、その組織の末端の構成員に到るまで選挙活動に協力してくれる筈が無いのである。

また、「組織」の方だって、所詮は「票目当てに接近して来た」と云うのは、折込済みである。

但し、その「組織」の方へ、「先生が、そこまでお付き合いして下さるのだったら、我々もひと肌脱がしてもらいましょう。」と思わせないといけないのである。

だから、「何で、あそこは選挙に支援してくれないのだ!薄情な奴らだ!」と逆恨みするようでは、そもそも選挙に出ること自体、無理筋なのだと思う。

 

自分は、只今、夏のシーズンを迎えて、仕事が繁忙期に入った。

心身共に、過酷である。

実は、自分自身が、選挙どころではない感じなのである。

そんな中、せめてもの気晴らしが、ジムでの筋トレである。

で、ジムに行くと、そこに集う人の頭の中は、ボディビルやフィジーク、ベストボディの大会に関しての事柄でいっぱいなのだ。

だから、ただでさえ盛り上がりに欠ける参院選に対しての関心は、高くない。

こういう書き方をすると、愛国・保守のうるさいオヤジどもは、「この『脳みそ筋肉馬鹿』どもめ!」と侮蔑の態度を取る。

だが、一方の筋トレトレーニーからすれば、「訳の解らんことを興奮して怒鳴り散らしている、むかつくオヤジどもが!」と成るのだ。

だから、一部の筋トレトレーニーは、関心を払ってくれても、大多数の方々は意識もしてくれないだろう。

ここに、現在の愛国・保守の運動の決定的な欠陥が有る。

自分たちの主張を「賞賛」し、「支援」してくれなければ、蔑みの対象にしかしない。

まさしく、「選民思想」であり、右の「前衛理論」である。

だが、そんな高慢な態度ならば、「大衆と共に」の創価学会・公明党にも、「多数派の形成」のために無党派・ノンポリをオルグ(組織化)することに傾注する「左翼」各党派にも、全く勝てない。

そして、地縁・血縁・取引先という「しがらみ」でからめ取って行く自民党にも勝てない。

 

今日からの参院選は、全く盛り上がりに欠ける感が有るが、しかし、国民は政治に対して、全く不感症に成っている訳ではないのだ。

現に、「メンタルが強過ぎる」舛添要一を東京都知事の座から引きずり降ろしたのは、国民の激怒である。

だから、国民の政治に対する関心は、ちょっとしたきっかけでもって、瞬時に燃え上がるのである。

つまり、火の気は無いものの、既に可燃ガスが充満している状態なのである。

ちょっとした火花でもって、一瞬にして大炎上する危険性をはらんでいるのだ。

だから、国民が何を望み、何に対して不満や不安を抱いているのか。

そこのところを注意深く察知していかなくては、選挙には絶対に勝てないだろう。

「正論」ばかりを金切声で絶叫したところで、誰も聞く耳を持ってはくれないのだ。

 

最後に。

選挙告示直前に、青山繫晴氏が、突如、自民党から出馬することに成った。

これは、結構、重大事だと思う。

特に、いわゆる愛国・保守の層への訴求力は大きいと思う。

また、関西ローカルのニュース番組などで、近畿圏での認知度が高いことも、極めて重要だと思う。

愛国・保守で、近畿圏で、しかも比例代表の候補、ということに成ると、日本のこころを大切にする党の西村真悟先生と支持層が重なってしまうのだ。

青山氏が立候補したことにより、西村真悟先生が得票に於いて悪影響を被らないことを、自分は心より祈念している。

今日は、一昨日の胸のトレーニングのせいで、上腕三頭筋がちょっと張っていたのですが、腕を鍛えることにしました!

自分は、もう、腕力がからきしに弱かったので、逞しい腕が、それはそれは憧憬の対象でした。

漫画「北斗の拳」や「キン肉マン」がブームに成った頃が自分の世代でした。

なお「ドラゴンボール」は自分より、年下の方々が一番影響を受けたと思います。

自分の世代は鳥山明と云えば「ドクター・スランプ」でしたからwww

で、何時しか、その太い腕の筋肉に触ってみたい欲求が生じて来たのですが、自分がキュートな女性なら許してくれるでしょうが、こちとら、もやしっ子の野郎ですので、もし、その思いを実際に行動に移したら、多分、マッチョはその極太の腕でもって完膚無きまでに自分を殴り倒してしまうでしょう。

自分は、筋肉モリモリのマッチョに憧れと同時に恐怖も感じていたのです。

しかし、26歳の時に、「ならば自分の腕を鍛え上げて筋肉モリモリにしてしまえば、触ろうが、揉みほぐそうが、誰も文句は云われない。」と云うことに気が付きました。

それから、本格的にトレーニングを始めたのです。

ですから、腕のトレーニングは、自分にとって、とても格別な思い入れが有るのです。

だいたい、一般的に、トレーニングを各部位に分割する際に、「腕だけの日」を設定する人はあまりいません。

胸と上腕三頭筋、背中と上腕二頭筋という組み立て方をするのが一般的です。

しかし、自分は、敢えて「腕だけ」のトレーニングの日を設定し、しかも三頭筋と二頭筋の種目を交互に実施する、いわゆる「スーパーセット」で、とことんまで追い込むやり方にしています。

ちなみに、忙しかったりして、トレーニングの頻度が少なく成っていた時は、気が付くと、得意種目の背中と大好きな腕しか鍛えていない週も有りましたwww

ここ最近、トレーニングが、追い込めていなかったのか、あまり筋肉痛が起こりませんでした。

ところが、今日は、只今、上腕二頭筋が焼けるような筋肉痛を感じています。

正直、「やったね!」と云う気持ちwww

既に、晴れた日は、焼けつくような暑さに成ってきました。

外に出ると、ほとんどの人が半袖です。

ということは、「腕フェチ」wwwの自分には、もう、たまらんわけでありましてwww

通り過ぎる人の中で、半袖の袖口が上腕の筋肉でピチピチに成っている様子を目にすると、もう、息を呑んでしまうのであります。

「凄いなあ。格好良いなあ。鍛えているんだなあ。」と。

そして、そのたんびに、「よし!自分も腕のトレーニングを頑張るぞ!!!」と決意する訳です。

ちなみに、他人の腕の筋肉には、目ざとく反応するのですが、鏡に写った自分の腕に関しては、全然食指が動きません。

「ああ、こんなもんね。はいはい、頑張って、もっと鍛え上げていきましょう。」と。

だから、何時まで経っても、褒めてもらえない、可哀想な扱いなのですwww

それに、自分の脳裏に有る、自分の腕の筋肉は、3キロのダンベルを必死に成って持ち上げようとしていた頃の状態のままなのです。

だから、いつもトレーニングの時には、「このヘタレ筋肉が!クソ筋肉が!」と悪罵を投げ付けています。

そのうち、我慢の限界を超えた、自分の腕の筋肉が「謀叛」を起こすかもしれませんwww

けれども、自分の腕の筋肉は、黙々と徐々にではありますが、パワーアップをしてきています。

けなげな奴だと思いますwww

まあ、こんな自分でも、日々、思い悩むことは有る訳ですwww

しかし、いろいろとくよくよしていても、諸問題が一瞬で氷解することなど不可能です。

ひとつひとつを片付けていかない限り、前進は有り得ません。

そういう意味で、筋トレは、自分にとって最適です。

バーベルやダンベルやマシンと向き合う時、ただひたすらトレーニングに没頭出来るからです。

それは、一種の「現実逃避」なのかもしれませんが、物事を正確に見定めるには、その対象物にあまりにも近付き過ぎてはいけません。

かえって、焦点がぼやけてしまうのです。

なお、「無心」に成るには、一つのことに没頭しないと駄目なのだそうです。

座禅を組んでも、なかなか「無心」の境地には成れません。

むしろ、お題目やご真言を一心不乱に唱え続ける方が、一切「邪念」が入る余地が無いそうです。

自分は、既に、いわゆる「保守派」の方々から「裏切り者」「異端児」認定されているのでwww、そういう方面とめっきりお付き合いが減りました。

ただ、こんな自分でも、お声をかけて下さる「保守派」の御仁も少しは居られます。

で、だいたい、日本の保守勢力の現状に対して、「悲憤慷慨」って感じに成る訳です。

まさに立正安国論の冒頭の一節、「接客来りて嘆いて曰く」なんであります。

幻滅した。

失望した。

期待外れだった。などなど。

もう、誰を信じて良いのか解らない、と云われます。

自分は、その慨嘆について、激しく同意致します。

しかしながら、その一方で、自棄を起こしたり、「みんなみんな馬鹿ばっかりだ!」と叫んだりする様を見ると、「まだまだ修行が足らんなあ」と苦笑しております。

何故なら、自分は「転向左翼」だから。

つまり、ロマンチストが絶望の淵に飛び込んで、そこから抜け出た時はニヒリストに成っている訳ですwww

「虚無」という段階に於いては、「経験者」なんですよ。

しかし、ニヒリストに留まらずに、今度は、いわゆる「保守派」として活動をして来ています。

だから、幻滅も失望も全部飲み込んだ上で、了解した上で、活動を続けているのです。

そういう意味では、極めてしたたかで、曲者でもあるのですよwww

自分自身を「曲者」呼ばわりしてしまうのも、何なのですが、何事も経験を積んでいると云うことは「強さ」に成ります。

只今現在の、いわゆる「保守派」の現状は、一見、荒涼たる「焼野原」のように見えます。

かつての豊穣さと、勢いの凄さを記憶している人は、その激変ぶりに落胆しています。

しかし、自分から云わせれば、かつての「豊穣」さも、「勢い」も、全部、内輪の人間の自惚れと勘違いに過ぎなかったのです。

荒涼たる「焼野原」は、今最近に始まった訳ではありません。

ずっとずっと、今に至るまで、根本のところは何も築けていなかったのです。

だから、何も絶望も落胆もする必要は無いのです。

ま、失笑くらいはしても良いでしょうがwww

何故、破綻と挫折を繰り返すのでしょうか?

それは、現状分析と的確で精緻な戦略と運動組織の構築が、全く意識の上に自覚されていないからです。

夢破れてニヒリストに成ってしまったことに対しては、自分は祝意を表します。

ようやく、現実にちゃんと向き合う好機を得られたのですから。

後は、本当の「振り出し」から、いかに「上がり」まで「双六」を構築していき、駒を進めて行くかでしょう。

大志や仁義を志向しつつも、奸智に長けたニヒリストに成るべきだと、自分は思います。

「メンタルが強過ぎる」www舛添要一が、ついに東京都知事を辞職することと成った。

ここで、都議会自民党と完全に対決することに成れば、政治生命はおろか、文化人タレントとしても生業が出来なくなると痛感したからであろう。

所詮、「身過ぎ世過ぎ」なのだ。

さて、世間の関心とは誠に移ろいやすく、既に巷の話題は「都知事選に誰が出るか?」である。

いち早く、民進党代表代行の蓮舫の名前が出て来た。

いやはや、彼女も何時の間にやら、ずいぶんと大仰な代物に成ったものである。

だって彼女は、かつては、ビートたけしと「たけし軍団」の日曜日の昼間のTV番組で、熱湯風呂で「熱い!熱い!」って番組出演者が悲鳴を上げているのを笑って見ていたのだからwww

とにかく、東京都知事選挙と云うのは、「異常」な「選挙区」で、それは、有権者数があまりに多過ぎて、さらに、浮動票・無党派層の票があまりに多過ぎる為、いくら「組織票」を積み上げても、絶対に当選ラインに届かないと云う、無茶苦茶な「選挙区」なのである。

そもそもは、1995年に、鈴木俊一都知事の後継として、内閣官房副長官(官僚側)だった石原信雄が、自公社などの鉄壁の組織票で固めて出馬したのだが、参議院議員だった青島幸男に惨敗したことが始まりであった。

また、4年後の1999年も国連事務次長だった明石康を自民・公明で擁立したが、石原慎太郎の電撃的な出馬によって、惨敗してしまった。

それ以降、東京都知事選挙に於いては、「有名人でないと、勝てない。」と云う「構図」が出来てしまったのである。

この件について、いわゆる「政治家」や「政党」に対しての批判は、もう、そこらじゅうに溢れているので、敢えて触れない。

むしろ、自分は、東京都民の有権者のあまりの政治的な愚劣さを指摘したい。

つまり、選挙に於ける、「立候補者」への関心が無さ過ぎるのである。

もっと云えば、「選挙」自体への「責任感」も欠如しているのである。

そうでなければ、名前だけ知られている「有名人」と云うだけで「投票基準」に乗せてしまう、そんな安直な投票行動には成らない筈である。

もっと、立候補者について関心を持って、よくよく吟味をしてから投票すべきなのである。

只今、共産党や民進党、そして朝日新聞などは何かと云うと「立憲主義」を持ち出して来る。

いわゆる「安倍政権」が、憲法などの法令や国民主権と云う国家の「政体」そのものを毀損していると批判している。

しかしながら、ならば、時の政権に対して、本当に国民は真摯に「対峙」しているのであろうか?

何処から何処までが許容範囲で、何処から先が指弾すべき「国家権力の暴走」であると規定するのか?

その判断基準は何なのか?

結局、「左翼」側の情緒的なヒステリーに付和雷同して、デモや集会などの「直接行動」に出る事が、「立憲主義」を「守る」活動であると云うのである。

これは、或る面、「立憲主義」への立派な「冒涜」であろうが。

確かに、安倍政権だって、おかしな、納得出来ない「部分」や「決定」が存在する。

だから、そういう批判すべき点は、明確に指摘しなくてはいけない。

しかしながら、いわゆる「アベ政治」と云う、十把一絡げのレッテル貼りの批判ならば、それは、盲信追従とベクトルの向きが真逆なだけで、その「性質」は「同一」である。

 

結局、「政治」に関する「言葉」の「魅力」が暴落し切っているのだろう。

「政治家」が主張する「言葉」が、政策であれ、信条であれ、全て「票目当て」の媚び諂いとしか、有権者には受け取れなくなって来ているのである。

ただ、「代議制」の国家に於いては、有権者が「政治家」を「選出」するのである。

何も、アメリカや財務省から「供給」される訳ではない。

有権者が一人一人、意識を高め、性根を据えない限りは、「浜の真砂は尽きるとも、世に盗人の種は尽きまじ」と云うことに成ろう。

「政治家や政党が駄目だ。」と訳知り顔で高踏的な態度では、何時まで経っても、事態は変わらない。

むしろ、政治家や政党を督励するようなかたちで、国民が立ち居振る舞いをしないと、根本的な解決は望めないだろう。

仕事が終わって、ジムへトレーニングしようと思ったのですが、実は、全身に疲労感が有りました。

まあ、強行してしまっても良かったのでしょうが、敢えて今日は「お休み」にしました。

自分の体調について、その良し悪しを感じ取ることは、年齢が上がって来るに従って、とても重要に成って行きます。

ほんの些細な変化や兆候を見逃さずに、感じ取れるような、感覚の鋭さと云うのは、是非、獲得しておきたいものです。

要は、「意識」の有る無しだと思います。

自分は只今、しがない「派遣労務者」に過ぎない。

さしたる頭脳も感性も知識も情報も技術も不要な、ただひたすら汗をかいて肉体を酷使するのみの仕事が生業である。

まあ、浅学菲才、無芸大食の自分には相応しいのだろうが。

それはさておき、いわゆる「非正規雇用」の人員が、現在、あらゆる日本の職場で、その割合を増加させている。

何故、「非正規雇用」が増加しているのか?

その理由は、“調整”しやすいからである。

ひとくちに“調整”と云うが、有り体に云えば解雇しやすいということに尽きる。

更に、福利厚生や社会保障などの経費も払わなくて良いし、派遣社員ならば人材派遣会社が、総務や人事、経理といった一切の管理を代行してくれる。

だから、発注先の組織(企業や団体など)はとても使いやすいし、後腐れが無くて、大変重宝しているのである。

そして、何よりも、人件費を抑制出来る。

こんな「素晴らしい」ことは無いwww

一方、「非正規雇用」の人員は、職場によって違いは有るとは思うが、自分の関係した事例で書かせてもらうと、大抵、会議や研修に参加することは無く、月報のような報告書を提出することも要求されない。

工場や工事現場などでの「安全衛生」に関する会議や研修は例外として参加が要請されるが、それ以外はお声がかからない。

それは、「非正規雇用」の人員は、「組織の構成員」ではないからである。

もっと云えば、出入りの外部の人間でしかないのだ。

だから、そんな「よそ者」に「改善提案」も「意見具申」もしてもらう必要は全く無いのだ。

特に、派遣社員は、いきなり職場を変更させられることが多々有るので、畢竟、その職場や組織に対しての帰属意識や忠誠心など涵養される筈が無い。

折角、職場や組織に愛着が芽生えた頃に、いきなり違う現場へ飛ばされるのだ。

必然的にドライな感覚と態度に成らざるを得なくなる。

 

さて、「組織」の中で、このような「帰属意識」が稀薄な、ドライな感覚の人員の割合が増大した場合、その「組織」はどうなってしまうのだろうか?

自分がすぐに脳裏に浮かんだのは、「西ローマ帝国の滅亡」であった。

ここで、本題に入る前にちょっと指摘しておきたいのだが、我々日本人は、西洋史に関して圧倒的に知識が無い。

「足りない」と云うレベルではなく、事実上「皆無」と云って良い。

それゆえに、例えば、「皇帝」と云う「存在」に対する「理解」や「印象」が、欧米人と東洋人では決定的に異なるのである。

我々、東洋人にとって「皇帝」とは、秦の始皇帝であり、本朝の天皇陛下のことが脳裏に浮かぶ。

つまり、各地域の「王家」や「族長」を「統合」し、その頂点に君臨する「名家」が「皇帝」であると。

だが、欧米人にとって、「皇帝」とは、かの古代ローマ帝国の「皇帝」を意味することが当然である。

しかしながら、欧米の歴史に於いて、いきなり「古代ローマ帝国」が始まる訳ではないのである。

「ポリス」と呼ばれるギリシャの都市国家によって、その「市民」の「合議制」のよって運営された「民主主義国家」の歴史が、先に存在しているのである。

その後、ギリシャが没落して、ローマに実権が移行した際も、ローマはローマ「市民」の代表による「元老院」と云う「議会」によって統治されている「民主主義国家」であったのである。

しかし、希代の英傑・ユリウス・カエサルを経て、元老院が承認した「皇帝」による「帝政」と成るのである。

だから、別名「執政官」とも称される訳である。

つまり、欧米に於いては「民主主義」が「皇帝」を誕生させている「歴史」が「基礎」に成っているのである。

この西洋史の「大前提」を我々東洋人の日本人は全く抜け落ちているので、かのフランス大革命での軍事的英雄であった、ナポレオン・ボナパルトが後年「皇帝」へ「即位」してしまうことに、とても違和感を覚えてしまうのである。

西洋史に於いては、「帝国主義」の生みの親は「民主主義」であると云う、「歴史的背景」が存在するのである。

だから、現代世界に於ける、いわゆる「共和制国家」の「大統領」と云うのは、一般国民に於ける「普通選挙」を経ているものの、西欧に於ける「皇帝」的な「性質」を濃厚に保持しているのである。

つまり、カール・シュミットの「大統領の独裁」と云った論理展開も、ごくごく当然の帰結なのである。

今後、欧米人と様々なかたちで意見交換や論争と云う場面が頻発していくと予想される。

その際に、同じ一つの語句を挟んで、世界的な地域差によって解釈や印象が決定的に異なっている状況が発生することが想定される。

現に、日本人とアメリカ人に於いて、同じ「皇帝」と云う語句についての印象は全く違うことが解る。

ならば、欧米人と渡り合っていくには、必然的に、その文化や信仰や歴史を踏まえた上でなければ、全くトンチンカンな交渉と成ろう。

「無知」であると云うことが、いかに罪深いことであるか、よくよく肝に銘じておかないといけない。

 

さて、閑話休題であるwww

 

西欧世界に君臨した「ローマ帝国」は、その広大な版図ゆえに、絶大な「遠心力」が作用して、ついに東西に「分割」される。

だが、西ローマ帝国は、フン族をはじめとする異民族、蛮族の侵攻を契機として、最終的には滅亡をする。

「文明帝国」が一蛮族の侵攻でもって、結果的に国家の崩壊にまで到ってしまうというのは、西洋史をよくよく理解していないと釈然とし難い。

ローマ帝国が、蛮族・フン族に戦闘に於いて敗北したのは騎馬操縦能力の差による。

実は、砲兵の戦争における比重が増すまで、騎兵の軍事的な破壊力は絶対的なものであった。

だから、如何に、馬を乗りこなすのか、という点が軍事的には人類史に於いては、長らく決定的だったのである。

成吉思汗のモンゴル大帝国の桁外れな破壊力の源泉は、その卓越した騎馬操縦能力に起因する。

だがそれは、云うなれば、「ハード面」に於ける要素で、「ソフト面」に於ける要素としては、この蛮族特有の相対的な「前時代的」な古臭さが重要だったのである。

蛮族と云うのは、現在の云い方で云うと「部族社会」である。

「族長」と云う「部族」のリーダーが居り、そこに血縁関係と主従関係が絡み合った、渾然一体の一つの巨大な運命共同体なのである。

その部族には、厳密な「個人」と云う「概念」は存在せず、「部族」の中のヒエラルキー、序列秩序や関係性の中の「一部位」として存在しているのである。

だから、部族の中の若者は、自分一人の「意思」で行動を決定出来ない。

何故なら、あくまで「部族」の中の「パーツ」に過ぎないからである。

そして、「部族」の意思決定は、「族長」が行う。

だから、「族長」の号令一下、部族の者は全員がまとまって統一行動を行うのである。

そして、部族の中の一人は、あくまで部族の中の一部分であるので、一人の部族の者の生き死には、最終的には、部族全体の「生命」に回帰していく。

つまり、部族の為に「犠牲」に成ったならば、その個人の生命は、部族全体の「生命集合体」へ回帰するだけなので、消滅することは無いのである。

だから、部族の中での個々の生き死にはあまり意味が無く、部族の個人個人は、部族全体の為に、自分の身命がどうなろうとも勇猛果敢に戦うのである。

一方の、文明帝国たるローマ帝国側は、傭兵で対抗していたと云う。

傭兵と云うのは、「戦争の専門家(プロフェッショナル)」であるから、当然、戦闘にも長じている。

だから、緒戦に於いては、傭兵の方が戦闘に勝利するのが当然である。

しかしながら、傭兵は、あくまで「雇われ」の身分である。

支払われる契約金に見合った「仕事」はするが、どうやっても「割の合わない」状況に成った場合、傭兵は戦場に踏み止まることをしなくなる。

「ここは一旦退却して、次の好機を待とう。」と云う、「合理的」な判断を下すのである。

ところが、土壇場の、「生命のやり取り」といったギリギリの惨状に成った場合、「合理的」な対処方法よりも、「情緒的」な対抗方法の方が凌駕することが多いのである。

要は、「肚を括った」方が勝利する訳であって、所詮、傭兵にとっての戦争は「他人事」でしかないのである。

やはり、「艦と命運を共にする」とか「城を枕に全員討ち死にする」と云った「決意」が、戦闘能力と成って作用し、引いては戦闘の勝利へ結実するのである。

 

翻って見て、現在、「非正規雇用」の人員の割合が、増大するだけ増大した場合、いざ、組織の存亡の危機に直面した場合、一気に「士気阻喪」「戦線崩壊」「組織壊滅」へと急転直下するであろう。

やはり、「仲間意識」「身内意識」を涵養させていかない限り、「組織」の維持存続は不可能だと思う。

また、「組織」への帰属意識や忠誠心を確立させていくには、「御恩と奉公」であろう。

つまり、「組織」がその「構成員」に対して、然るべき報酬や身分の保障などをきちんとしない限りは、人間は自らの持てる力を全て出し切って「組織」に対して貢献することなど有り得ないだろう。

 

現在、あらゆる職場に於いて、一見、たくさんの勤労者が居るようでいて、実は「社員」はほんの少数しか存在しないように成りつつある。

だが、それが、我々にとって、いずれどのような結果をもたらすのか、まだ、不明である。

ちなみに、「災厄」とは、いざ、それに見舞われてみて、はじめて理解出来るものであることがほとんどである。

自分は、とても危惧している。

 

ちなみに、今や、「組織」の「有り方」そのものが、大きく転換しつつあるように感じる。

これからの未来の「組織」は、はたして、どのような「有り方」に変貌していくのだろうか?

これ以上書き続けて行くと明日の仕事に支障来たすので、今晩はこれにて、何卒ご勘弁の程をwww

一日のうちに、無心に成って、身体を鍛えられるということは、幸いであります。

これは、時間とお金と健康と周囲の理解が有って、ようやく可能に成るのですから。

この各要素の一つでも欠けたら、トレーニングは出来ません。

また、トレーニングに限らず、これが読書や学習、懇親などでも、皆、当てはまります。

自分は、26歳から本格的にジムに通い始めてから、約20年弱、今迄に10回ぐらい、トレーニングの継続断念、中断、そして再開を繰り返して来ました。

体調を崩したり、職場が転勤に成ったり、父親の介護をしたり、職業訓練に通う為だったり。

だから、ささやかながらも、自分の好きなことに打ち込めるということは、それだけで、本当に幸せなのです。

勿論、自分自身の意志の力も決定的ですが。

「良く生きる」と云うことは、一日一日のスケジュールを主体的に管理していくことの積み重ねです。

「流されてしまう」生活に成ったら、結局、何も出来ません。

一日のうちに、絶えず、自分は何を今、為すべきであるのか。

そして、自分は生きていく中で、一番やり遂げたいことは何なのか。

このことを問い続け、確認し続けないと、日常生活の一日は、あっという間に過ぎて行きます。

例え、業務で多忙であっても、健康を崩して闘病中であっても、この2点を問い続け、確認し続ける限り、何時か必ず、自分の目指す軌道に復帰することは可能です。

それが出来ないのは、「日常生活」に流されていくことを受容し、「敗北」を認めた場合です。

自分は、粘着気質なのでwww諦めが悪いのであります。

だから、いまだに、筋トレを継続しているのです。

よく四十歳過ぎのことを「不惑」と云う。

これは、「論語」為政編の「四十にして惑わず」から来ている。

この一節は、「子曰く「吾 十有五にして学に志し 三十にして立ち 四十にして惑わず 五十にして天命を知る 六十にして耳順(したが)い 七十にして 心の欲する所に従いて矩 のり を踰(こ)えず」。」である。

つまり、孔子が、自らの人生を回想した際に、出た言葉である。

だから、「これは、孔子のような天才のことであって、平凡な人間には当てはまらない。」と云い訳したいところだが、そうはいかないwww

同じく「論語」陽貨編に於いて、

「年四十にして悪(にく)まるるは、其れ終わらんのみ。」と有る。

これは、四十歳にもなって人格の成熟の兆しが見えず、人から「あれは駄目だね」と言われて、人に慕われることがない。そんな人間はもう終りだと。

さらに、「論語」子罕編に於いては、自分の好きな一節が有る。

「後生(こうせい)畏るべし。焉(いずくん)ぞ来(きたる)者の今に如かざるを知らんや。四十五十にして聞こゆることなくんば、斯(こ)れ亦(また)畏るるに足らざるのみ。」

これは、年下の若輩者と侮ってはいけない。若者には可能性が有り、長じて、才能を開花させる者が出て来る、と。

だが、その後が辛辣である。

四十歳五十歳を超えて、目に留まるところがないような者は畏敬するに足らない、と。

以上は、孔子の「論語」から引いたが、かのリンカーンも有名な名句を残している。

「40歳を過ぎた人間は、自分の顔に責任を持たなくてはいけない。」

先程も、洗面所で己の顔を見て来たが、相変わらず、締りの無い顔であったwww

 

残念ながら、今年の8月で、自分も四十路の半ばを過ぎることに成る。

全く、情けない限りである。

やはり、四十歳を過ぎて来たならば、そろそろ、自分の年下の面倒を見ることを自分の使命と心得ないといけない年齢だろう。

いわゆる「青年」から「壮年」の中に入り、自らの研鑽や精進だけに没頭するのではなく、後輩諸君を先導する立場として、立ち居振る舞いをしないといけない。

しかしながら、今の自分は、二十歳代の「正社員」から「派遣社員」と云うことで、もう、侮蔑の対象でしかない。

まあ、就職活動を必死にした結果が、この体たらくだから、やっぱり「駄目」な奴なんだろうと思う。

組織の中に所属していれば、まだ、年下の方々へ、何かしら出来ることも有るのかもしれないが、現在、自分は組織の中で働く境遇ではない。

だから、或る面、「気楽な身分」なのである。

とは云うものの、こんな自分にもいくばくかは良心の呵責というものは存在するのであって、時折、「指導」じみたことを口走ったりする。

ところが、人間と云うのは、所詮、「何を云ったか、よりも、誰が云ったか、が重要」なので、やはり、何か「発言」をする際には、「聞き手」が拝聴の気持ちを起こさせるだけの「肩書き」が絶対的に必要なのである。

例え、どんなに「正鵠を射た」至言を述べたところで、今の自分ならば、大抵の人は「お前には云われたく無い。」と云われるのがオチである。

ただ、本当に、物事の真価を見抜ける人は、自分の「発言」を掛け値無しで、ありのままに評価して下さる。

まあ、解る人に解ってもらえるのならば、もうそれで「以て瞑すべし」であろう。

 

実は、最近、正規雇用に採用されることに拘りが、本当に無くなって来た。

確かに、正規雇用に成れば、身分も安定し、将来への「人生設計」さえも可能に成る。

だが、今の日本で、「正規雇用」と云うのは、「身も心もプライベートも全部、職場に捧げろ」と云うことが大前提に成っている。

それこそ、早朝から深夜まで、ずっとずっと「仕事漬け」ということなのだ。

休暇だって、業務の都合でどんな風になるか解らない。

何も、自分は、多忙や激務が出来ない訳ではない。

「働け」と命じられたら、いくらでも働く。

だが、現在の「正規雇用」の人間のとてつもない「多忙」さは、単に、「人減らし」が根本原因なのだ。

つまり、本来なら、十人で行う業務を、八人なり七人でもって、無理やり回転させていこうと云う無理筋が前提に成っているのである。

それは、やはり、異状なのではないか?

確かに、人件費が固定経費の中の占める割合は大きく、この先行き不透明な経済状況のもとで、経営陣はむやみやたらに人員を増やせない。

だが、最早、かつてのような昭和30年40年代のような「高度経済成長」が望めず、さらにデフレ圧力が絶えずかかっている現在に於いては、景気の動向とは無関係に雇用を厳守していくというのは、とても困難なのだと思う。

つまり、企業の業績が良い時は、どんどんアグレッシブに採用をし、業績が悪化した途端、ドラスティックに解雇をしていく。

こういう、アメリカ式の雇用形態を取り入れざるを得ないかもしれない。

現行の日本に於いては、「雇用の絶対死守」が大前提に有る為、基本的に、学生新卒の新入社員を一斉に採用し、定年まで勤続してもらうようにしている。

で、もし、それで手が回らない部分が出て来たら、「非正規雇用」の人員を調達して、何とか糊塗する。

これをずっと続けているのだ。

だが、ついに、「非正規雇用」の割合が4割近くまで上昇してしまった。

つまり「量の変化が質の変化に転換する」ような、云わば「閾値(いきち)」を超えてしまったのである。

これは、身分の安定と比較的高収入が保障された6割の人間と、貧困層に落ちるかもしれない予備群の4割に、現在、日本の社会は二分化されつつあるのだ。

一方で、その6割の人間には、「過労」が義務付けられている。

そして、6割の「勝ち組」も、自身や家族のちょっとしたアクシデント(病気・事故・介護など)によって、瞬時に貧困層へ脱落しかねない。

そして、一度、貧困層に落ちた家族は、「勝ち組」への復活はほぼ絶望的であると云う冷徹な現実である。

また、過労があまりに酷過ぎる為に、「正規雇用」と云う「安定」を捨てて、「貧困層」に成ることを、敢えて選択する人間も出て来ていると思う。

確かに、人間なんぞ「起きて半畳、寝て一畳」だから、その欲望を切り詰めるだけ切り詰めていけば、意外と「お金」は必要ではない。

ただ、持ち家(不動産)、車と云った「大きな買い物」に消費意欲が無く成れば、マクロ経済の影響は甚大に成っていくだろう。

更に、住民税や国民保険、国民年金まで滞納するような世帯が、生命保険や損害保険に加入することなど絶望的である。

2020年の東京オリンピックが終わった途端、とてつもない不景気が襲来することとなろう。

現時点に於いて、生活保護世帯は過去最多を計上しているのである。

生活保護制度自体が破綻するのは、最早不可避だろう。

現在の生活保護制度は、生活保護費を支給するやり方である。

だが、独り暮らしのアルコール中毒患者やギャンブル中毒の人には、ケアが行き届かない。

多分、生活保護制度を抜本的に立て直すとしたら、生活保護世帯を一括して囲い込む方式に成ると思う。

指定した集合住宅に移住させる。

食事は、食堂で無料で配給する。

料理と云うのは、個人で調理すると、実はコストが高く成るのだ。

だから、集合させて、大量に一括で調理する。

医療も、看護師や医師が常駐し、無料で診察し、入院も無料にする。

そのかわり、現金は一切支給しないのである。

行政が全部、面倒を見る代わりに、現金は一切持たせない。

そうすることで、管理などの業務は増えるが、生活保護の為の予算は管理が可能と成り、抑制出来ることに成るだろう。

だが、それは、「収容所」である。

左翼やリベラリストは、猛反対するだろうが、実は、もし、左翼が政権を取ったら、増大し過ぎた生活保護制度の解決策として、この「収容所」政策を絶対に実現させるだろう。

何故なら、これは、かつてのソビエト連邦のコルホーズやソフホーズ、中華人民共和国の人民公社に「原点回帰」するだけだからである。

貧富の格差の元凶は、私有財産と資本主義の存在に有り、と云う左翼の「定義」に照らせば、この、「お金」が不要な「収容所」こそ、奴等の「理想社会」と云えよう。

しかし、そんな施設に喜んで居続ける人はどれだけ居るのだろうか?

現時点でも、生活保護制度ではなく、路上生活者としての「自由」を選択する人が多く存在するのだ。

富の配分と、社会・共同体の再構築を迅速かつ徹底的に取り組まない限り、間違い無く「日本の社会の底が抜ける」ことに成ろう。

 

自分は、もう、45歳に成る。

現在、十代二十代の方々が豊かな生活を送るためならば、自分一人は犠牲に成っても良い。

何故なら、自分は、既に、この若者たちよりも20年も30年も生きて来たからである。

勿論、自分の過去を振り返って見て、満足のいく生涯だったかと云えば、そうではない。

しかし、明石家さんま師匠の至言、「生きているだけで丸儲け」のように、生きている限りは、ささやかではあるが、小さな「幸い」を味わうことが出来る。

だが、現在、十代二十代の後輩諸君は、そういう意味では、まだまだ自分の人生を堪能していない。謳歌していないのである。

この若い十代二十代の後輩諸君は、まだまだ、その将来を絶対的に保障されなくてはいけないのだ。

また、もし、十代二十代の若い世代の活躍の場を提供出来ないような国家や社会ならば、その命脈は既に尽きる運命に有るだろう。

 

自分は、若い十代二十代の後輩諸君の将来の為ならば、自分なんぞ、どうなっても良いと思う。

だが、現在、十代二十代の諸君が、後年、四十代に成った時に「犠牲」に成るような社会構造に成ってしまう為であるならば、自分は全く持って不本意である。

 

日本人の「美徳」は「我が身を顧みず」と云う、無私・捨身の精神に有る。

だが、それに安直に依存し過ぎる、無責任かつ愚昧極まりない指導者があまりに多過ぎる。

これはまさしく「美徳」が「悪徳」に転じる、という、皮肉であり逆説であろう。

現在、東京都議会が開会中である。

だが、来週の水曜日6月15日で閉会となる。

だから、舛添都知事の問題は、6月15日までに決まることに成る。

多分、共産党などが舛添都知事への不信任案を提議するであろう。

そこで、「共産党が提議したから、粛々と否決する。」というのが、都議会自由民主党の対応だろう。

だが、舛添都知事への不信任案を否決させる、もしくは、廃案にして決議自体させないように成ったならば、東京都民は勿論のこと、日本国民は全員、都議会自民党は舛添都知事を庇ったとみなすこと必定である。

それは即ち、都議会自民党も舛添都知事と「同類」と見なされることである。

「結局、自民党の都議会議員も、みんな、舛添都知事と同じことをやっているのだ。だから、責任追及なんか出来ないのだ。」と。

まあ、都議会議員選挙は来年の6月だから、選挙の時には記憶が薄れているかもしれない。

しかし、都民や国民の怒りと失望の矛先は、7月10日の参議院選挙に向けられるのだ。

自民党の候補者に対して「拒否感」が広がることは間違い無い。

東京都選挙区の中川候補ともう一人の候補は勿論のこと、全国比例への投票数がこの影響をもろに受けて激減するだろう。

もし、参議院選挙で、自民党の議席が思わぬ苦戦と成ったならば、その責任は都議会自民党に有る。

舛添都知事と狎れ合って談合し、「手打ち」をした、と。

まあ、自民党への投票が減っても、同じ保守の「日本のこころを大切にする党」に流れるのならば、まだ救われるのだが、それらの票は、多分、舛添都知事を一番厳しく追及している日本共産党へ投票されるだろう。

つまり、舛添都知事を「延命」させれば、結局、共産党やら民進党を利することになるのだ。

これほど皮肉と逆説に富んだことは無かろう。

その点、公明党の方が、機を見るに敏であって、多分、土壇場に成って、舛添都知事不信任案に賛成に回りそうな気がする。

さしづめ、「損をするのはオレ独り。」と都議会自民党は成るであろう。

この期に及んで、まだ、「裏工作」でもって乗り切ろうと云うのならば、「玄人ゆえの隘路」だと思う。

変に「熟知」しているがゆえに、既存の固定観念から逃れられずに自滅していくのである。

都議会自民党は、今まさに、「正念場」であろう。

舛添を取るのか、それとも東京都民を取るのか。

それが、今、問われているのである。

自分のウェイトトレーニング、ボディビルは、基本的に「重量重視」です。

まあ、知ったかぶった表現をすると、「ヘビーデューティー」です。

インストラクターさんからの「教科書通り」の指導だと、8レップから12レップ出来る重量でしないといけないのですが、自分はとにかく、パワー重視なので、5レップぐらいでどんどん重量を追加していきました。

しかし、「重量」ばかりに捉われていると、フォームがメチャクチャに成ります。

そこで、「あ、フォームが崩れた!」と気が付いた場合には、すぐに重量を減らします。

と云う事で、重量を増やしたり減らしたりと、あくせく、ジタバタしているのが、自分です。

自分は、「ジムの中で、一番貧弱で、一番非力」であると云う前提でトレーニングをしています。

そのように、割り切った方が、トレーニングにも集中出来ますし、謙虚で冷静に周囲を感じ取りながらトレーニングが出来ます。

一日も早く、「ジムでの人並みに成りたい!」と念願しつつ、ジタバタしております。

今月から、仕事の場所が変わった。
と云うことで、昨日と今日で、仕事の場所の在る鎮守様へ参拝をした。
神明神社とお稲荷様である。
先月のように、一つの街に限定されていないので、厳密には、まだこの他にも鎮守様へ参拝をしないといけない。
だが、まあ、取り敢えずは、その土地の神様に対して「ご挨拶」は出来たと思う。
神明神社は、天照大神を祀る神社で、とても壮麗な神社であった。
多分、この近辺の街々の、さしづめ「有名神社」と云う感じなのだと思う。
だが、お稲荷さんの方は、本当に、このお社の周辺の地域の住民に支えられた感じだった。
どちらも、気持ちの良い感じの神社であったが、自分は、こちらのお稲荷さんの方を贔屓したくなった。
実は、自分は、かつて、お稲荷さんが苦手だった。
と云うより、「敬遠」していた。
お稲荷さんは、御利益も凄いのだが、粗略に扱うと激甚な祟りを為すと云われているからである。
そんな、恐ろしい「神」は、「触らぬ神に祟り無し」とばかりに、敬遠していたのである。
ちなみに、それを云うと、或る方に笑われた。
「お前はそう云いながら、鬼子母神や妙見菩薩やら平将門公やら飯縄権現やら、荒っぽい神様ばかり信仰しているじゃないかwww」と。
そして、「お前が稲荷神に祟られるなんてことは有り得ない。むしろ、稲荷神の方から引き寄せて来るわい。」と。
事実、ここ近年、お稲荷さん絡みの「お付き合い」が、発展しつつ有るwww
お稲荷さん信仰の篤い方と親しくさせていただくことになり、昨年、茨城県の笠間稲荷様にはじめて参拝させてもらえた。
そう云えば、自分が、お稲荷さんと「お付き合い」が始まったのは、十年くらい前に、東京都港区の神谷町駅近くの小さなお稲荷さんがきっかけだったような気がする。
その近くの工事現場に関係して、仕事で出入りをしていたのだ。
確か「葺城(ふきしろ)稲荷」と云った。
小さな崖の上に在ったお社で、そこに狐の陶器の像を奉納させてもらったのである。
別に、特別な祈願が有った訳では無く、何となく、奉納したい気持ちに成ったからであった。
それから、大阪府に転勤したりして、神谷町に行く機会が全く無かった。
つい、先日、十年ぶりに神谷町に降りて、あの「葺城稲荷」を参拝しようと思った。
で、行って見て仰天した。
何と、お稲荷さんが有った崖は、丸ごと、再開発の工事現場に成ってしまい、全部掘り崩されていたのである。
多分、お稲荷さんは移されたのだろうが、何とも寂しい限りだった。
お稲荷さんの霊験は「融通」と云うことに有ると云う。
「融通」とは、決して「大金持ち」に成ると云うものではない。
「出て行く」分の「お金」が、絶妙のタイミングで「入って来る」ことにあると云う。
つまり、どうにかこうにか「お金」が回って行って、決して困窮することが無い。
自分は現在、「貧乏暇無し」で、誠に「手元不如意」ではあるが、実は、金融会社などへの返済を滞納したことは一度も無いのだ。
こけつまろびつではあるが、不思議と、お金が「融通」出来ているのだ。
多分、こういうところが、神仏のご加護の顕現なのだと思う。
とても有り難いことであると心から感謝している。
そして、それで、自分にとっては充分過ぎると思っている。

元陸上自衛官で、「大佐」に相当する「陸自一佐」であられた、佐藤和夫先生が、今度の参議院選挙北海道選挙区から立候補されることに成った!
驚天動地とは、まさにこのことである。
日本のこころを大切にする党公認候補として、あの、広大な「北の大地」北海道での選挙を戦われるというのである。
佐藤和夫先生は、自衛官を退官された後、在職中は「憚られた」政治的な活動、愛国・保守の活動に身を投じられた。
しかも、体内には実は「病気」を抱えておられる。
文字通り、「身命を賭して」政治活動をされておられ、「身命を惜しまず」に政治活動をされておられるのである。
細かい点に於いては、佐藤和夫先生と自分は意見がぶつかる所が、実は有る。
しかしながら、自分は佐藤和夫先生の、その「姿勢」や「生き方」そのものには全面的に敬意を表している。
また、佐藤和夫先生も、多分、「この小生意気な!」と舌打ちされながらも、いくばくかは自分のことを評価して下さっておられるがゆえに、現在もお付き合いが続いているのだと思う。
佐藤和夫先生は、自衛官としては、「駐在武官」の職務に就かれたことも有り、鋭い国際感覚もお持ちである。
「官僚」としての手堅い仕事ぶりと、旺盛な行動力、そして決断力は、他人の追随を許さない。
そして、何よりも、その「パッション」情熱は、実年齢を感じさせないくらい熱烈であられる。
東京都知事の舛添要一が、結局、打算や自分個人の上昇志向だけで「政治」をやって来たことが、ここ最近の報道で露見してしまった。
一方の、佐藤和夫先生は、まさにその対極に有る。
私心、私欲が無い、まさに正真正銘の「無私」の御仁なのだ。
佐藤和夫先生を突き動かしているのは、まさに「憂国」の念であり、日本国民への憂慮である。
そして、自らを育んでくれた、祖国・日本に対する全身全霊の貢献の思いである。
陸上自衛官として、ただ一意専心、職務と任務に忠実に精勤されて来られた御仁である。
そう云う意味では、「政治」も「選挙」も、あまりに縁遠い御方である。
だが、その無骨さ、不器用さを、我々はあげつらう資格など、実は無い。
雄弁さと愛嬌さで得票を勝ち得た「政治家」の多くが、元を忘れて、枝葉末節ばかりに目を奪われていることを、我々が知らない訳ではない。
しかしながら、そういう倒錯した「政治家」たちを当選させて、選出してしまう、それは、我々自身の劣化を具現化させているのに等しい。
佐藤和夫先生の選挙戦は、極めて苦難が多いことが予想される。
自分としては、ほとんど、お力添えが出来ない不甲斐無さに、どうしようもないやるせなさを感じる。
北海道に御縁の有る方は、是非とも、佐藤和夫先生の主張に耳を傾けて欲しい。
そして、「憂国」の叫びに、どうか、感じ入って欲しいのである。
選挙は、その結果が全てではあるが、そうでない場合も有る。
どうか、佐藤和夫先生へのご支援を、心からお願い申し上げたい。

ようやく、選挙告示日の2週間前になって、自民党の2016年参院選の東京地方区の候補者が出て来た。
いやあ、「悪い」人ではないだろうが、正直、パッとしない。
「この人に決まりました!」と発表されて、歓声どころか、感嘆も漏れて来ない。
「え?誰それ?」って云うのが、一般的な反応だろう。
確かに、「組織票」を固める中川雅治候補とは、「棲み分け」が可能な、全く異なる候補であるが、あまりに地味で無名過ぎる。
もう、完全に、自民党東京都連の「アリバイづくり」「言い訳先行」としか云いようが無い。
選挙告示日直前に、「サプライズ」で仕掛けるのならば、もっと知名度とカリスマ性が無いと駄目だ。
全く、ナンセンスな選考である。
多分、それだけ、中川候補の当選が際どいのだろう。
下手に自民党支持の票を持って行かれたら、落してしまうかもしれないという不安を、払拭出来ないのだろう。
だが、それもこれも、舛添都知事の悪評が大いに影響している。
最早、世間のほとんどの人々が、舛添都知事に辟易している。
と同時に、その舛添都知事を擁護しているようにしか見えない、都議会自民党に対して、呆れている。
残念ながら、来年6月には都議会議員選挙が迫っている。
このままだと、都議会自民党は舛添都知事と一蓮托生だろう。
共産党や民進党に都議会が支配されるのは「悪夢」だが、このまま舛添を「生殺し」にするのであれば、必定だろう。
国民や都民の「感覚」や「意識」を把握出来なくなった時点で、その「政党」と「政治家」の命運は尽きるのである。

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