只今、話題沸騰中の「時の人」である籠池ヤスノリ理事長。

彼に5年ほど前、自分は、大阪護国神社で会ったことが有る。

で、その時の感触を基に、これから辛辣なことを云わせてもらう。

実は、この籠池のおっさんと、その他、いわゆる「保守派」の方々の「違い」を指摘することが出来ない。

いや、明確には、「異なる」のではあるのだが、パッと見の印象では、ほとんど見分けがつかないのである。

これが、非常に厄介至極なのである。

別に、これは「いわゆる保守派」だけに限定されない。

自分のような、「保守ではない」と指弾される人間も含めて、区別が困難なのである。

現に、左翼の連中は、意図的に「糞味噌一緒くた」にして、いわゆる「保守派」全体のイメージダウンを狙っている。

例えば、先日の日本テレビ系「バンキシャ」に於いて、教育評論家の尾木ママは、明確に「教育勅語は駄目だ。」と云い切った。

極めて巧妙な手口である。

あんな籠池のおっさんの映像の後に、したり顔でコメントされたら、大抵の人間は、「教育勅語なんて古臭い奴を持ち出すなんて愚かしい。」と思い込んでしまう。

ここが問題なのである。

さて、籠池のおっさんと、いわゆる「保守派」の違いとしては、やはり「恥じらい」の「有る無し」ではないだろうか?

なんと、籠池のおっさんは、畏れ多くも、天皇皇后両陛下の行幸啓に絡めての記事をネット上にアップした。

宮内庁は、「そんな事実は無い。」とカンカンだが、その真偽はともかくとして、ご皇室に自分が関わった際の事柄についてあまりにも安直にネット上にアップしてしまうという、その「神経」が問題である。

少なくとも、いわゆる「保守派」ということを自任する者であるならば、そんな畏れ多いことを軽軽に触れ回るようなことは隠忍自重するのが当然であろう。

何故なら、ご皇室の方々、天皇皇后両陛下やご皇族の方々は、「有名人」ではないからである。

映画俳優やアイドル歌手と同様の「扱い」で、妥当な訳がなかろう。

もっと云えば、「これから二郎ラーメンの全マシマシ、食べまーす!」や「特大イチゴパフェ、ウマー!!!」と同じ感覚でしかない、ということである。

だから、結果として、籠池のおっさんは「尊皇忠君」では有り得なかったのである。

ただの「ミーハー」に過ぎなかったのだ。

もし、仮に、自分がこのような畏れ多いことに成ったとしたならば、ネット上はおろか、周囲にそのような「事実」が有ったことさえ云うことを憚るであろう。

余程、親しい御仁以外は、絶対に口外しない、と思う。

まあ、「無位無官」の自分に、そんな「誉(ほまれ)」が有るかどうかは解らないが。

 

或る御仁がこう云われた。

「撒いた種には土を被(かぶ)せよ。」と。

人間と云う者は、ついつい、「自分があれをやった、これもやった。」と吹聴したくなるものである。

それは、さながら、種を撒いたということを多くの人々に知って欲しいと願うあまり、人目に付くように土の上に種を置いたままにしているようなことである。

だが、種というものは、乾燥し、干からびてしまえば、芽を出すことは出来なくなってしまう。

つまり、折角、種を撒いても、「種を撒いた」ということを他人に知らしめたいばかりに、肝腎の「芽吹く」ことを台無しにさせてしまうのである。

だからこそ、「撒いた種には土を被せよ。」ということなのである。

勿論、土を被せてしまえば、いくらどんなに種を撒いたところで、誰も察知することは出来ない。

但し、時が経てば、いずれ芽が出て、葉が茂り、花実と成る訳で、成果は出て来るのである。

そして、最終的には、「種を撒いた」事実は、周知されることと成るのだ。

今、「種を撒」かなくてはいけない。

そして、多くの方々が、種を撒き続けている。

ところが、折角、種を撒いたにもかかわらず、土を被せずに悦に入っている人が多過ぎるのだ。

そもそも、何故、種を撒くのか?

それは、花実を得ることに有るのではないのか?

ならば、種を撒いたことを誇示するのではなく、あくまで、確実に花実を成さしめ、収穫出来るように努力することが肝心なのではないのか?

だからこそ、「撒いた種には土を被せよ。」、なのである。