自分は、或る会合で面と向かって「え!貴方は大学を出ているの?」と云われて、赤面したことがある。

多分、自分の立ち居振る舞いや言葉遣いが、どう見ても「大学卒」には見えなかったのだろう、と恥じ入ったためである。

だが、後でよく聞いてみると、「仕事が派遣社員だから」だという。

いや、大学を出ていたとしていても、正社員に成れない人は存在する。

まあ、自分は、英語があまりにも駄目だったから、本当は大学には入る資格が無い人間なのだと思っている。

大学に入るに当たっての「試験」でも、英語は、発音記号もアクセントも単語も「全滅」だったwww

ただ、長文読解でいくばくかの得点が有ったので、かろうじて合格出来たのである。

その長文読解だって、英語の本文と設問の日本語の文章から、おおよその文章構成を「推測」して回答しただけに過ぎない。

だから「英語」の学力ではなく、いわば「国語」の学力でもって得点出来たのである。

そう考えると、自分は「英語」に関しては事実上ゼロ点だったのだろう。

こんな基礎学力が不充分な自分が大学に入れたのは、「僥倖」以外の何ものでもない。

それで、卒業出来て、就職も出来て、社会人として「お客様」から喜ばれるような仕事が出来たのだから、いったい「大学入試」というのは人間の何をどう評価しているのかよく解らないところを感じるwww

まあ、いわゆる「AO入試」という「ルート」だったら、また違ったのかもしれないのだが、もしそれで高偏差値の有名大学にまかり間違って「合格」してしまっていたならば、自分は今以上に高慢ちきで人間的に著しく駄目な人間に成っていただろう。

 

ただ、とにもかくにも、自分は「四年制大学卒業」という「学歴」に成れた。

本当は「高卒」ぐらいの学力しか有しないのだろうと思っているのだが、就職に於いて「四大卒」と云うのは「決定的」なのである。

現在のほとんどの職場に於いて、その人事給与体系に於いては、「四年制大学卒業」がスタンダードである。

技術系の高専卒だと、四大卒と同等扱いだろう。

だが、専門学校卒や高卒だと、ただ「それだけ」でもって、ハンデを負うことに成る。

自分が新入社員だった頃の職場の「総務部長」は商業高校卒の人だった。

かつては、商業高校や工業高校卒でもって部長や課長といった管理職にまで勤め上げられる人が多かった。

それだけ「大学」に入れる人は「エリート」で少数だったのである。

だが、その「総務部長」は陰では上司である支社長から「これだから高卒は駄目なんだ」といった心無い言葉を浴びせられていた。

几帳面さと従順さが全て、というような「総務部長」だったから、ただ黙って聞いているだけだった。

出来の悪い新入社員だった自分が云うのもおこがましかったのだが、見ていてとても気の毒に感じたものである。

 

自分は、一時期、本当に大学進学を諦めかけた。

だがその時、父からこう諭されたのである。

「自分は、高校卒ということで大変苦労して来た人をたくさん見て来た。

高校卒ということだけで不当な扱いを受けたり、

高校卒というコンプレックスゆえに片意地張って損をしている人をたくさん見て来た。

だから、入れるものならば、大学は入っておけ」と。

そこから自分は肚を括って大学進学を目指し直したのである。

もし、ただ単に「勉強しろ!とにかく、大学だけは入学しろ!」と云われたならば、思春期らしく反発してドロップアウトしていであろう。

そう考えると、父は自分に対して、相当「話法」を思案した上で諭したのだと感じる。

 

現在は、高卒でもって管理職まで上がる人は、サービス業やベンチャー企業ならば存在するであろうが、いわゆる有名大企業に於いてはほぼ皆無なのではないだろうか?

現に、昨年、自分が見聞きした話で、「高卒」で入社した新入社員が、人事給与待遇に於いて、おそろしく「格差」が有るために転職するために退社してしまった、という。

何故なら、仕事の中身は四大卒と同じなのにもかかわらず、であったからである。

かつては、高卒と大卒でもって、明確に「差異」が認められた、のであろう。

だが、仕事を行うにあたっては、高卒か大卒か、ということ以上に個々人の能力や意識による差異が業務成績として出て来ると思う。

とりわけ、現在は、大学に進学しなくても、特に文系の科目に於いては、或る程度は充分に知識やスキルを得ることが可能に成って来ている。

さすがに理系の科目に関しては、実験や実習、実技が有るため、「学歴」というのは無視は出来ないだろう。

だから、現実問題として、「東京大学法学部卒」という学生を採用するに当たって、人事採用担当が重視するのは、「東京大学法学部」によって学習し、研究した「ことがら」よりも、「東京大学」の「大学入試」を「合格」出来得るだけの「受験勉強」を完徹出来た、という「ことがら」だと自分は思う。

2年から3年以上も地道にかつ着実に「受験勉強」を継続する、というのは何よりも「自律」した人間でなければいけない。

自己管理能力や学習に関する構成能力も無ければ「合格点」に到達するだけの得点は無理であろう。

東京大学をはじめとした、いわゆる「高偏差値難関大学」に合格出来る受験生は、努力することに長けた人間である、と云ってしまって良いのではないだろうか?

だが、「努力することに長けた人間」が評価されるのは、体育会系のスポーツ学生も同じであろう。

だからこそ、体育会系の学生を企業は比較的優先して採用することが多いのである。

この「努力することに長けた人間」を求めるのは、会社や企業だけというよりも社会全体に於いて同じ傾向であったのである。

それは、忍耐強く自律的で、上から与えられた方針やテキストに対して従順であり、ムラが無く怠惰で無いこと。

こういった「秀才」型の人材が求められた。

だが、或る面、これら「秀才」型の人材は、「平時」の状態に適合している。

一方、今後は、科学技術の驀進とも云える程の急速な進展が想定される。

具体的には、AI(人工知能)とロボットの参入である。

かつての「産業革命」の時のように、現在、人間によって従事されている業務がAIやロボットの参入という「機械化」によって代替される「未来」が既に想定されているのである。

これは、何を意味しているのであろうか?

先日、朝日新聞の記事で或る大企業の人事の人の言葉として、「リーマンショックの時に、新卒の採用を減らしたのだったが、会社の将来の担い手である新卒を減らしたのは間違いだった」と有った。

自分は、まだ「そんな甘い認識」なのだ、と読んでいて愕然としたのである。

実は、企業に於いて、企業内での人員年齢構成に関しての問題が存在している。

よく指摘されるのは、いわゆる「バブル経済」の時に大量に新卒を採用したため、その「世代」だけ数が多い、というものである。

さらに、「人材」としてもあまりよろしくないwwwという評判だったりするのである。

そのため、現在の50歳代前半が多くて、それから下の「失われた世代」の人数が極端に少ない、といういびつな人員年齢構成なのである。

これに関連して、もっといびつなのはJR東日本である。

JRは、その前身が「日本国有鉄道(国鉄)」であり、国鉄分割民営化によって、現在のJRグループが誕生した。

だから、JR以外の鉄道を「私有鉄道(私鉄)」と呼ぶが、JRは民営化されているので本当なら全部が私鉄である筈なのであるwww(都営や市営の「交通局」は違うだろうが)

だが、JRグループは、分割民営化の際に、労使間の交渉でもって「雇用の確保」を重要視した。

そのため、国鉄職員からJR社員に、大多数の職員が移行した。

しかし、そのために、JRに民営化されてからしばらくは、極端に新入社員の数を抑制しなければいけなかった。

現在、JR東日本の職員で50歳代後半が2、30%ぐらい存在しているのではないだろうか?

つまり、JRの社員の人員年齢構成は、とてもいびつなのである。

だから、現在の50歳代の「正社員」が一斉に定年を迎えた後は、急激な職員の減少と成り、職務上のノウハウの継承も急務なのである。

 

さて、現在、アベノミクスによって、ようやく景気回復と成った訳だが、それによって急激な「人手不足」が生じている、とされる。

実は、自分は「人手不足」がどれだけ深刻なのか、実感が湧かない。

確かに人手は足らないのだろうが、それは「低賃金で酷使可能な人員」が不足しているだけに過ぎないのではないだろうか?と感じている。

だからこそ、外国人移民をも入れてしまえ、といった緊急避難的な対応を取っているように感じるのである。

だが、今後の「人手不足」の要因として、核家族による高齢者介護による離職であろう。

現在、「人手不足」解消の切り札として「外国人」の他に、「女性」と「高齢者」が上げられている。

だが、高齢者介護の対策をもっとしっかりと講じない限り、「女性」と「高齢者」は「職場」から消えていくことに成るであろう。

さらに、現在の「女性」と「高齢者」の就職に関してだが、その「求人」はほとんどが「非正規雇用者」という待遇であろう。

「非正規雇用者」の方が、「低賃金」で済ませられる上に、福利厚生といった「厚生年金」やその他の「出費」をしなくて良いのである。

だから、「正規雇用者」(正社員)の数をなるべく少なくしたい、のである。

ただ、もっと云えば、人事給与体系が旧態依然としているからであろう。

それは、既に破綻し、解体されている筈の「終身雇用」「年功序列」型の人事給与体系が、その基礎部分として残存しているからである。

だから、例えば、50歳代の人間を「正社員」として「採用」しようとすると、新卒からずっと勤続し続けている「正社員」の人事給与体系と照らし合わせたかたちでの「待遇」を提示することなる。

だが、「終身雇用」「年功序列」の人事給与体系は、新卒から定年まで勤め上げることを「スタンダード」に構成されたものであり、若い時期は低めの賃金とし、その分を中高年に成ってから多めに賃金を給与するものである。

ところが、50歳代の人間を新たに「採用」した場合、この「終身雇用」「年功序列」の人事給与体系に照らし合わせた場合、感触として「高くつく」ものに成ってしまう。

また、勤続している在籍の50歳代の社員から、「いきなり入社して来て、自分達と同じ待遇というのは納得出来ない」という感情も出て来よう。

つまり、現状の日本の職場の多くが、30歳代、40歳代、50歳代のそれぞれに応じた「年齢給」という基準が独立して存在して出来ていないのである。

そのため、中高年の新採用にあたって「正社員」として迎えるには、その人物が極めて優秀な人物でない限り、無理、ということに成る。

だから、いわゆる「大企業」に於いて、中途採用で中高年の「正社員」を入れる、というのは、レアなケースなのではないだろうか?

やはり、「非正規雇用者」として、既存の人事給与体系から疎外したかたちで、単なる「人員充当」として処理したいのであろう。

ところが、現在、新卒新入社員が「会社の将来の担い手」として、何処まで愛社精神や帰属意識を保持し続けることが出来るだろうか?

実際に、自分の同期入社で、特に文系の学生から営業部門で優秀だった連中は、相当数、転職してしまった。

そのため、技術系の社員を、なんとか説得して営業部門に移動してもらったことがあった。

20数年前で、こうであったのである。

今や、副業を容認した訳である。

この「副業容認」ということに関して、企業経営陣は、相当、高をくくっているのではなかろうか?

そもそも「副業」とは、誰が、何を指標にして判断するのであろうか?

それは、あくまで「副業」をしようとする「社員」の判断によるのである。

そして、「正業」か「副業」か、を判断するのは、収入の多寡と将来性、であろう。

つまり、当初「副業」と考えて手を染めたものの、実施していくうちに収入も比較的多く見込める上に、将来性にも見通しが付いた場合、「副業」が「正業」に転換する、であろう。

そして、「正業」と「副業」の両立が難しく成った場合、「副業」を容認した企業に対して、「退職願」を提出することに成るであろう。

だいたい、「正業」も「副業」も意欲的に行えるような人物は、優秀な人材である。

それは、「会社の将来の担い手」と期待した有望な幹部候補生が、どんどん「副業」の果てに「退職」していく、ということに成って行くであろう。

 

既に、一部に於いて「スーパー派遣社員」という人々が存在している、という。

云ってみれば、フリーの特殊技能保持者、ということである。

料理人の世界で云うところの「流れ板」という奴であろうか?

自分も、短期間所属した職場で、新しい機械の開発に関わったことがあったのだが、その機械を制御するコンピューターソフトプログラミングを行っていたのは、たった一人のおじいちゃんだった。

だが、その老人は、その業界では「カリスマ」と呼ばれる卓越したプログラマーであり、一人でいくつもの現場を掛け持ちしていた。

そして、彼の携帯電話にはたびたび電話が入り、その都度、屋外に出て何やら指示を出し、相談に乗っていた。

「一人親方」なのだが、引く手あまたで、発注者はどんな大枚を積んでも仕事を任せたい「匠」であったのである。

なお、彼の子供は医者に成ったそうである。

他にも、天才的なバイヤーや「再建請負人」と云われた「経営のプロ」、といった人々が「派遣社員」として登録されている、いう。

こういう「スーパー派遣社員」は、おそろしいまでに高給取りである。

同じ「派遣社員」の自分のカツカツさに比べたら、目もくらむばかりである。

 

自分は、今後、従来の「正社員」は廃絶されてしまうのではないか?と夢想している。

「職場」には、アドバイザーやコンサルタントと云うべき「スーパー派遣社員」が、業務の具体的な指揮・管理を行う。

云ってみれば、「バー」の「雇われマダム」である。

そして、その下に、従順なだけの「派遣社員」がその都度「召集」されて、業務を行う。

「スーパー派遣社員」は、成功報酬の出来高払い。

「派遣社員」は、薄給の捨扶持で、ほぼ日払い。

「職場」の「正社員」は時々巡回して来て、「スーパー派遣社員」から事業報告を受けて、打ち合わせをする。

「派遣社員」の勤務状況などは、「派遣会社」の「正社員」が巡回して対応する。

これだと、人事労務管理など、一切が不要である。

ただ、こうなると、「傭兵」によって国防を任せた、古代ローマ帝国のようである。

一見、「効率的」に見える。

だが、何よりも「スーパー派遣社員」に対する報酬の支払いが、結果として多額にかさむことに成るだろう。

また、「経営」ということに関して、ドライで一面的に偏ることが懸念されるであろう。

 

日本に於いては、100年以上存続している「企業」が多数有る。

それこそ、世界最古の「金剛組」のように、千年以上も存続している企業が有る。

だが、その多くは「家族経営」なのである。

やはり、「全従業員が家族同然」といった「一体感」こそが、企業の永続性と云うところにつながっていくのであろう。

 

自分が派遣社員に成ってみて痛感したのは、職場の運営や企業の経営から全く隔絶され排除されていることである。

つまり、重要な会議には出席出来ないし、もし、出席出来たとしても発言の権利は無い。

また、報告書も業務改善提案書も提出が求められないし、研修も課せられない。

これは、職場に対する帰属意識を涵養させることは不可能だし、愛社精神など感じられることなど少ないであろう。

そうなった場合、無責任な意識に成らざるを得ない。

また、万事、正社員からの指示をあおぎ、指示が出されるまで待ち続けることに成る。

そうなると、正社員は「非正規雇用者」を指示し、監督することに汲々することに成るであろう。

そのうち、「薄給でも良いから、非正規雇用者の方が気楽で良い」と云い出す者が出て来るだろう。

そうなれば、労働賃金は全体としって大きく沈むことに成るだろう。

景気は良くなっても、所得格差が桁外れに拡大し、低所得者が大多数を占めて、デフレに成るだろう。

とりわけ、第二次ベビーブームの世代は、「失われた世代」ともかぶる。

比較的多数の世代が「非正規雇用者」として低所得者として貧困層へ追い落とされていく。

さらに40歳代から50歳代に到達して、最早、「正社員」は絶望的と成る。

独身の世帯は、そのまま独身を貫き、家族が増えず、子供も生まれない。

また、安価で調理が楽なインスタントラーメンを多食する。

そのため、塩分や脂肪分の摂取過多と成り、巨大な成人病発症予備群と成る。

心臓疾患や脳梗塞などの循環器系の重篤な成人病を発症する人間が多発するだろう。

社会の中に、巨大な「要介護」「要福祉」の集団が発生しようとしている。

果たして、縮小し続ける日本社会が、彼等の面倒を診ることが出来得るのかどうか?

 

貧困問題を解決させなければ、日本の社会も国家も破綻するだろう。

だから、高卒と四大卒でもって人事給与体系で格差を生じさせるのは愚かしい。

また、既に破壊し尽した「年功序列」「終身雇用」を基盤とした人事給与体系は、根本から見直すべきであろう。

さらに、これからの社会に於ける「組織」は、硬質さを失い、もっと緩やかで曖昧で(ファジー)柔軟で融通無碍な「構造」と成るであろう。

そして、「柔らかな」組織構造に於いて、決定的で致命的な要素と成るのは、「明瞭な言葉」である。

「明瞭な言葉」でもって経営をし、業務指導を行えない限り、その「組織」は全く成果を上げられることは無いであろう。

 

まあ、「英語」がからきしで、語学力が駄目な自分が「どの口が云うか」、であるのだがwww