平成31年1月30日付の産経新聞の「正論」欄(九州大学大学院准教授・施光恒)でも指摘されたのだが、語学教育に関してはよくよく思案すべきであろう。

産経新聞正論欄本文リンク

施光先生は、3点の問題点を指摘された。

国民の間での経済格差の拡大

日本社会全体が分断され、連帯感が損なわれる

日本語(国語)の基礎学力の発達を阻害する

この中で、自分が興味深かったのは、問題の3点目の「言語の基礎学力が阻害される」と云う点である。
具体例として、二か国語を「プロフィシェント・バイリンガル」として読解出来得る割合は、シンガポールに於いて約13%だと云う。

(言語学者の永井忠孝・青山学院大学准教授の指摘による)

一方のその他は、「簡単な会話はできても難しい文章の読み書きは不得手な「セミリンガル」になってしまう場合が一番多いという」というのだ。

これは衝撃的である。

かつて、戦後直後に於いて、日本人で一番積極的に英語を会話しようとしたのは「パンパン」であった。

「パンパン」とは売春婦である。

この「パンパン」が、日本に進駐して来た米軍兵士たちに、春をひさいだ訳である。

「パンパン」が使う英語だから、「パンパン英語」などと呼ばれた。

しかし、「パンパン」は、(右翼じゃないけどwww)「肉体言語」で「愛を語り合う」ことが出来たので、さほど難解な言語表現を駆使出来得るような語学力は必要性が低かった。

現在、日本に於いて、声高に英語教育が主張されているのは、世界的に見て、英語を使用する機会が多いからである。

取り敢えず、英語が出来れば、大抵のところに行っても意思の疎通が可能である。

そういう前提が英語教育の拡充の論拠と成っている。

だが、自分は、その前提も短期的なスパン、つまり後5年くらいで一変するのではないだろうか?と感じている。

現状に於いては、英単語を記憶し、文章表現に慣れ、発音の聴き取りに耳を訓練させる。

そういった英語教育が「求められている」。

しかし、ちょっと考えてみて欲しい。

現在、我々の周囲には、到る所に多数の外国人の存在を認めている。

駅や店舗、食堂、観光地などで。

だが、その外国人たちから声を掛けられる頻度はいかがであろうか?

外国人の数の多さに比べて、話しかけられる割合は驚くほど少ない筈である。

何故か?

それは、スマートフォンによって、地図によるナビゲーションシステムや、翻訳ソフトが活用出来るからである。

さらに、明石家さんま師匠のTVCMの「ポケトーク」のように、手軽な通訳機器がどんどん商品化されて来ている。

そうなった場合、かつての「パンパン」英語のようなレベルの英語能力は、機械で代行可能に成って行くであろう。

昔、暗算が出来る計算能力を持った人は、尊敬された。

算盤(珠算)が出来る人は「特殊技能保持者」であった。

かつての商業高校などでは、算盤の「級」や「段」を持つことが推奨されたそうである。

ところが、電卓(電子計算機器)の発達により、算盤教室に通う児童は減って来ている。

数学者の藤原正彦お茶の水大学名誉教授は、かつてのベストセラー「国家の品格」に於いて、母国語(国語)の学習こそ重要である、と書かれた。

藤原先生は、英語は元より、フランス語やドイツ語など多国語を一生懸命に学習されたそうである。

だが、「やはり、母国語が大切である」と書かれた。

何故か?

それは、「言語」が持つ、極めて重要な特質から来ていよう。

と云うのは、「言語」が唯一、思考や思索を構築し得る表現方法であるからである。

美術や映像や音楽でもって感覚的な表現は出来る。

しかしながら、論理を構成するのは唯一「言語」しか有り得ないのである。

ちなみに、数学も論理的表現であるのだが、高等数学でもって一般大衆へ訴求させることが可能であろうか?

無理である。

やはり、「言語」なのである。

実際に、数学に於いても証明問題は、まさに「言語」による数学であろう。

つまり、「言語」に習熟し、卓越することが思想・哲学に成り、論理を構成可能な手段なのである。

かの旧約聖書の冒頭は「はじめにロゴス有りけり」であった。

ロゴスとは「論理」とも云うが、「ことば」のことである。

人間が人間たらしめているのは、まさに「言語」なのである。

その「言語」に於いて、一番馴染み深く、使い勝手が良い「言語」を「母国語」と云うのである。

勿論、南方熊楠やベルリッツ博士のような語学の天才ならば多言語を自在に駆使することが出来る。

だが、谷崎潤一郎が書いていたが、我々は、まず国語である日本語で文章表現を考えた後に、英語に翻訳するのである。

そこで時間を要するし、また、表現がネイティブに比べると違和感が出て来るのであろう。

英語を日本語のように駆使出来るようにするならば、「日本語」という媒体を経由しないことであろう。

だから、英語でもって感じ、英語で思考出来る、そういう英語の感覚と頭脳を得よう、いうのが、只今現在に於いて、目指されている「英語教育」である。

ところが、国立情報学研究所の新井紀子教授が人工知能(AI)の研究開発の中で、「文脈を理解できないAIよりも成績が低い人間の受験生が8割もいることに気付」いたのだという。

これは、日本社会の中で、相当数の人々が母国語である筈の「国語」(日本語)能力が向上出来ていない、と云うことである。

何とも深刻な問題であろう。

今後、英語圏など他の言語圏の人々と「言語」の「やりとり」をしなくてはいけない。

それは、交渉であり、駆け引きであり、討論であり、交歓である。

そこで必要とされるのは、言語の能力である。

語彙力であり、読解力であり、洞察力であり、言語感性であろう。

だが、それらの言語能力を身に付けるにはどうしたら良いのだろうか?

やはり、国語(日本語)の学習であろう。

 

一方、英語圏へ移住し、幼少期から英語が母国語という環境で育成されていけば、英語でもって言語能力を磨くことは可能である。

だが、かつて、英語の語学力を買われて、いわゆる「帰国子女」が企業採用で持て囃されたことが有った。

だが、かつてあれほど憧憬の目で見られた「帰国子女」は、今はさほど珍重されていない。

一つは、いわゆる「帰国子女」の数が増加して稀少価値が下がったこと。

もう一つは、「帰国子女」の「内面」は英語圏の人間に成ってしまっていたからである。

かつて企業が求めていたのは、日本人の「常識」を持ちながら、英米人と同じような英語力を持っている人物であった。

だが、物の見方考え方、立ち居振る舞いまで英米人に成ってしまった「新人」を使いこなせるような上司は少なかった訳である。

 

また、逆に、今後、世界へ羽ばたく日本人にとって必須なのは「自らのアイデンティティとしての日本人の自覚と意識」なのである。

日本の国外へ出れば、その地に於いて、「お前は何者だ?何処から来たのだ?」と問われる。

そして「日本から来ました」と応答した時、「ならば、お前が日本人である証拠を示せ」という事態が来るであろう。

その時、日本の言語や文化、習俗などにてんで回答出来なかったならば、「日本人の偽物」と見なされてしまうであろう。

「お前は日本から来たと云うが、全く、日本のことが解っていないし、知ってもいないではないか?」

こう、問い詰められた時に、「自分はグローバルな国際人なので」などといくら恰好をつけたところで、「地球市民」と同じくらい胡散臭い代物とみなされてしまうであろう。

つまり、外国へ出たならば、そこで「お前は日本人なのだから、日本人としての特質を発揮してこの国に貢献しろ」と要求されることに成るのだ。

だから、グローバルな舞台に立つからには、よりナショナルな日本人としての自覚と意識が要求されてくるのである。

海外へ行って、自らが日本人であることを強固に自覚して帰国した例は枚挙に暇が無い。

高杉晋作、伊藤博文、森鴎外、夏目漱石、江藤淳などなど。

 

ここまで考えてみたならば、5年先ぐらいの直近の未来に於いては「英語教育」が必要とされるであろうが、10年より以降の将来に於いては、まず、しっかりと母国語を教育させ、どのような翻訳をされても他国人に感銘を与えるような格調高い言語表現が出来得るような人間へ育成させることが社会的要請と成るであろうと感じる。

 

まあ、大坂なおみ選手は、英語がペラペラだが、日本語には難渋されているようだが、その拙さをも含めて「なおみ節」として万民に愛されている。

例え、言語能力としては不十分な「セミリンガル」であったとしても、日本社会の行く末は、これはこれで宜しいのかな?

どちらにせよ、英語の点数が悪過ぎた、語学力が乏しい自分が偉そうに屁理屈を並べるのは僭越至極なのであろう。

そう云えば、大東亜戦争敗戦直後に、「小説の神様」と呼ばれた作家の志賀直哉は、「日本の国語は、この際、フランス語に変えたらよかろう」と云ったっけ。

うーむ、それじゃあ、さながら「一億総イヤミ化計画」ザンスね!

シェー、ざんす!