本日、或る会合で、「よく、右だとか左だとか云われているけれども、よく解りません」と云うお話しを聞いた。
で、自分は、
「自分も、右だ左だと云うのは、よく解りません。」とお答えしました。
「何故ならば、既に米ソ冷戦構造が崩壊して、かつてのような解りやすい左右対立の構図に成っていないから。
例えば、中国共産党の保守派と改革派は、どちらが右で、どちらが左なのか?...
日本の政治的感覚から云えば、左右が逆に成る。
中国共産党保守派は毛沢東主義者であるから。」と。

以下、これに関連して書かせてもらう。

実は、左右の「座標軸」がおかしく成って来たのは、何も「ここ数年」のことではない。
自分は、高校時代から、ずっと呉智英を愛読して来た。
呉智英は、早稲田大学法学部で「ノンセククト・ラジカル」として学生運動を戦っていた。
卒業後に、封建主義者に成り、近代民主主義を「根源的」に批判をし続けて来た。
「そういう」呉智英を、当時は「左翼学生」であった自分は、それこそ貪るように読み漁った。
結局、その読書体験が、自分を単なる「左翼学生」の枠内に収まらない代物に変えていったのである。
で、呉智英は処女作である「封建主義、その論理と情熱」(後に改題、「封建主義者かく語りき」)を1981年に上梓する。
その中の「はじめに」(だったと記憶しているが)、こう書かれていた。
1978年1月に始まった、イランでのイラン・イスラム革命に関して、欧米人のジャーナリストは誤解をしていた。
アメリカに後押しをされていたパーレビ王朝に対して、イランの民衆が一斉蜂起をして、王制打倒、革命政権を樹立した。
で、イラン革命の指導者であったホメイニ師に対して、欧米の女性ジャーナリストがインタビューを行った際に、質問で、
「女性の社会進出が叫ばれつつも、実現されていませんが、それに対してどう思われますか?」と尋ねた。
すると、ホメイニ師は「女性は社会進出などしなくて良い」と回答したので、女性ジャーナリストは絶句したという。
つまり、「革命=女性解放」という左派的な固定概念からは全く異質であったのである。
今から考えてみれば、「イラン革命」は、「革命」というよりも「社会的シーア派復古運動」と呼ぶべき政治運動であったのだ。
そもそものパーレビ王朝そのものが、1925年にイギリスとソビエト・ロシアの干渉によってカージャール朝ペルシア帝国をクーデターによって政権奪取したことによって「成立」した「帝国主義の時代の産物」であったのである。
そして、第二次世界大戦後に、アメリカの支援のもとに、イランの近代化を推し進めたのがパーレビ王朝であったのである。
実際に、パーレビ王朝によって婦人参政権も確立され、女性に強制されている「ヒジャブ」の「着用」を禁止させるなどの「世俗化」を進めた。
だが、その「欧米化」「近代化」「世俗化」が、イスラム法学者たちの反発を招いたのである。
つまり、「イスラム革命」とは「保守反動」による革命運動であった訳である。

アラブに於ける「革命」と云えば、リビアのカダフィ大佐による「緑の革命」が名高い。
カダフィの革命論は、イスラム教とアラブ民族主義と社会主義の融合なのであった。
だが、それは、端的に云うと「反米主義」ということである。
事実、カダフィのリビアは、独裁的な軍事政権であった。
また、「バース党」という政党が有る。
これは、シリアやイラクの地域に於ける、汎アラブ主義の社会主義運動である。
つまり、「アラブ」から離れたかたちでの政治運動としては成立しないのである。
だから「日本バース党」だとか、「フランス・バース党」というのは、アラブ系移民による政治運動以外は成立出来ない政党なのである。
この「バース党」から、イラクのサダム・フセイン大統領が生まれる。
一方のシリアでは、政権獲得後にハーフィズ=ルア・アサドによってクーデターが起こる。そして大統領に就任した。(父子二代)


この他にも、インドネシアのスカルノ大統領は、或る種の「社会主義者」であった。
だが、それは、欧米からの植民地支配との戦いの上で、便宜的に選択したものであった。
こう考えると、左右の対立座標軸というのは、実は「絶対的」なものとは云えない。
しかしながら、20世紀を通じて現在に到るまで、日本にとっての「災厄」であり続けたのは、国際共産主義運動であり、隣国の共産党の存在であった。
そこのところをきちんと踏まえた上でなければ、右だ左だ、と語ることに意味が見出せなくなってくる。


なお、最晩年に、靖国神社を昇殿参拝して玉串奉奠までしたのが太田竜である。
「新左翼三馬鹿大将」の一人と呼ばれた人であった。
革マル派の「絶対的カリスマ」であった黒田寛一と共に、日本共産党を離党して革命的共産主義者同盟(革共同)を結党した。
第四インターに参加し、黒田寛一と袂を分かった後に、日本社会党への「加入戦術」を試みた。
また、チェ・ゲバラに倣って武装解放戦線を目指し、竹中労・平岡正明らと三バカゲバリスタと呼ばれた。
その後、アイヌ民族解放論者や環境保護論者として活路を目指し、最後は「ユダヤ陰謀論者」として終わった。
太田当人は「私のことを主張が転々としている、と言う者がいるが、私は一貫して『反米』なのだ」と語っていた。

「反米」と云うことに成ると、新右翼「一水会」の創立者の鈴木邦男を思い出す。
現在、鈴木邦男は左翼の集会の方ばかり出席しているwww

日本赤軍の活動家で、パレスチナに渡って国際テロ運動に従事していた重信房子の実父・重信末夫は右翼シンパであった。
そして、彼は、息女の活動に関して、「彼女なりの正義感に基づくものであろう」と理解を示していたという。

自分は「転向左翼」である。
左と右を駆け抜けて来て観て感じたことは、自分から見ると、極左と極右は、実は大変「近しい」www感じを受けるのである。