自分は、今の若い世代に対して申し訳無い気持ちを抱いている。

何故なら、今の若い世代は気の毒だからである。

 

自分は只今、「派遣労務者」として働いている。

時には、びっくりするくらい若い方と一緒にお仕事をさせてもらう。

昨年、専門学校を卒業された後、某県での業務成績の優秀さから、急遽、東京の現場へ配属に成った御仁だった。

まだ、二十歳を過ぎ「そこそこ」という若さであった。

だが、大変仕事熱心で優秀であった。

ただ、「花の東京」での「はじめての職場」ということで、「気負い」が有ったのであろう。

仕事を完璧に、徹底的に「行おう」としていた。

残念ながら、50歳手前の自分の体力が追いつかなくなって来た。

或る日、こちらが一生懸命に頑張っているのだが、どうしても彼のペースに追い付かない時が有った。

そこで、彼に怒られてしまった。

カチンと来たが、ここでまともに激昂してしまってはいけない。

相手はまだ、二十歳そこそこなのだ。

「ペース配分」や「緩急」といった阿吽の呼吸がよく解らないのである。

解らなくて当然だと思う。

省みれば、自分がかつて二十歳そこそこの時、いったい何を理解出来ていたというのだろうか?

ただ、訳も分からず激情を爆発させていたような気がする。

それを考えれば、彼はとても「大人」だと思った。

だから、いら立ちを押さえ、怒りを肚の内に収めて、ただひたすら謝った。

それから、少したってから彼の方から謝って来た。

「言葉が過ぎました」と、彼の方から云って来たのである。

さすが彼は優秀だな、と内心感心しながらも、ちょっとこの現場で仕事をし続けるのはもう限界だろう、と感じたのである。

考えてみれば、彼は大変「気の毒」な環境に有る。

何故なら、自分の父親のような年上の「おっさん」を指導・監督しなくてはいけないのだ。

いくら鈍重そうに見えても、それは「やりにくい」であろう。

自分は、幸いにして若い時分に、年長者を指導・監督する立場に成ることは無かった。

もし、そんな「お役目」をいただいたら、内心、往生したであろう。

自分たちの「世代」は、まだ、何となく「年長者を立てる」といった価値判断基準が残存していた。

だから、批判するにせよ、指摘するにせよ、年長者には年長者なりの「敬意」を持って行うように、誰しもが配慮していたのである。

 

ところが、現在、我々の身の回りを見れば、40歳50歳代の「いい年をしたおっさん」が、二十歳代の「若造」の下でアシスタントをしている光景をよく見かけると感じる。

よく、「お役所」では、キャリア組とノン・キャリア組で、その待遇や昇進の違いが凄かったと云われる。

キャリア組ならば、二十代の終わり頃には管理職に成り、三十代で署長や所長に昇進したりしたと云う。

だが、現在、ちょっとしたことで、「非正規雇用者」として40歳50歳代を働く人々が相当数存在している。

いったん「非正規雇用者」に堕ちた人間は、まず、「正規雇用者」には這い上がれない。

特に、40歳以上は、ほぼ絶望的であろう。

勿論、人それぞれだから、一概には云い切れないだろうが、現在、片や「正社員で管理職」と云う40歳50歳代の「おじさま」が居り、片や「非正規雇用者で二十歳そこそこの若造にアゴで使われている」40歳50歳代の「おっさん」が居るのだ。

こうなると、「年長者」と云っても、「尊敬すべき年長者」と「そうではない年長者」とが「存在する」という「事実」に、否応無く直面せざるを得なくなっている、と云えよう。

そもそも、「長幼の序」と云って、年配者に対して敬意を表すと云うのが、「常識」であった。

だが、現在は、「現実」が、無条件に「長幼の序」という「常識」を受容することを否定する作用を及ぼしている。

だから、頭の片隅では、「年長者はなるべく立てなくてはいけない」と思いつつも、眼前に居る「ポンコツ」を見た時、旧来の「常識」を保てなくなっているのである。

確かに、自分の時代だって、幾年か、世間の荒波にもまれているうちに、例え年長者であったとしても人間として誠に幼稚な人間が存在することを思い知らされたものであった。

だが、一方で、手本と成るような素晴らしい、卓越した年長者と邂逅することも出来た。

だから、基本的に「年長者を立てる」という「常識」を肯定的に受け止めることが出来た。

けれども、今はそうはいかない。

それこそ「いい年をしたおっさん」が、高校生のアルバイト以下のような「勤務態度」を示したりする訳である。

そうなったら、「正社員」として、さすがにクギを刺しておかなければいけなくなる。

そう考えると、本来ならば単純に「年長者を立てる」ことが出来なくなった「時代」に生きている若い方々は、とても「気の毒」だと思うのである。

 

そもそもが、自分のような40歳50歳代の「おっさん」の「不徳の致すところ」なのである。

ただ、「おっさん」の「本音」を云わせてもらえれば、もう、どうもこうも出来なくなって、どうしようもなくなった挙句に、情けない醜態を晒しているのである。

そこを鋭く追及したところで、最終的には慟哭して座り込んでしまうだけなのである。

「そういう惰弱さと愚昧さが駄目なのだ」ということなのだが、それは「状態」を指摘しただけであって、解決策とは云えない。

要は、いったん壊れかけた「ポンコツ」を、いかに稼働させていくのか、といった方法論の処方箋を出さないといけないである。

だが、やさぐれて、すれっからしに成り果てた「おっさん」たちを、二十歳そこそこの若い方々に「操縦させる」というのは、あまりに酷であろう。

勿論、最終的には「手足として使いこなしていくしかないのだ」と割り切っていくしかないのかもしれないのだが、その「跳躍」が、我々の「心の中」の一線を画すことに成るのだろう。

 

繰り返すが、自分のような40歳50歳代の「おっさん」が、二十歳そこそこの若い世代に軽蔑されるのは、「根拠」が有るから仕方が無い、と感じる。

ただ、恥じ入るばかりで、誠に申し訳ないと思う。

だから、自分は「派遣労務者」として、出来得る限り一生懸命に仕事をさせてもらい、なるべく気持ち良く仕事が出来るように心掛けている。

しかし、本当に、若い方々に対して取り返しのつかないことをしでかしたと痛感するのは、彼らに「充実した老成」の姿をお示しすることが出来なかったことである。

まだ、二十歳そこそこの「段階」ならばあまり意識を持てないであろう。

だが、只今現在「若い方々」も、未来永劫、若いままであり続けることは不可能なのである。

年年歳歳、誰しもが全員等しく年齢を毎年重ねていく訳である。

ところが、年齢を重ねていく「現象」が、成長・成熟・老成と云った肯定的なものとして受け止められるのならばまだ良かろう。

だが、加齢は単なる経年劣化であり、そのいきつく先はただ単に老醜でしかない。

そういう風に感じさせてしまったのならば、歳を取っていくことは、誠に陰惨で憂鬱な「現象」としてしか感じられなくなってしまうであろう。

勿論、老いてなお、仰ぎ見るような大人物は存在する。

具体的に云えば、今上陛下がまさにそうであろう。

いずれ崩御された後に「平成天皇陛下」と称せられる「御存在」こそが、年齢を重ねていくことの尊さと凄味を、今まさに我々に感じさせてくれるのである。

だが、いくら今上陛下の「御存在」が尊くても、現在の「年長者を立てる」という「常識」の風化を押し止めることは出来ない。

だから、現在の若い方々は、いずれ、自分たちがかつて40歳50歳代の「おっさん」たちに対して示した侮蔑やいら立ちが、今度は自分たちに向けられてしまうのではないのか、と慄然することとなろう。

まさに「因果は巡る」のである。

人間と云うものは、誰しもが自分を多少「過大評価」しがちなのである。

けれども、或る程度、自己評価に対して「過大評価」が為されなければ、とてもではないが世間の苛烈さに自我を保持することなど出来なくなってしまうであろう。

だから我々は皆、「自分だって満更でもない」と多少は「思い上がり」が無ければ生きてはいけないのである。

 

だが、現在、自分達40歳50歳の「ポンコツ」のせいで、若い方々がいずれ年齢を重ねていった後に、「もしや自分達も、ポンコツのおっさん、と化してしまうのではないか?」と慄然とするかもしれないのである。

もし、そのような結果を招来することと成るのであるならば、ますます以て「自らの不徳の致すところである」と恥じ入るばかりである。

 

自分は、何だかんだ有ったものの、人生のその時、その場に於いて、「出来得る限り」のことをしてきた。

だから、反省はしているのだが後悔はしたことは無い。

そして、もし、仮に「過去をやり直せる」としたとしても、自分は全く同じ選択を繰り返して現在に到達するであろう、と思っている。

そういう意味では、不遇をかこっておきながら、さらに将来に於いて、若い世代に対して気の毒な思いを惹起せしむるのであるとするならば、重ねて申し訳ない気持ちでいっぱいに成るのである。