斉藤緑雨という明治時代の小説家が居る。

今では、彼の代表作が何なのか知る人はほとんどいない。

だが、彼は尽力しなければ、かの樋口一葉が後世まで広く知られることは無かった。

つまり、現在の5千円紙幣の肖像をもたらしたのは、斉藤緑雨と云うことに成ろう。

 

斉藤緑雨の小説は知られていないのだが、彼が当時の新聞紙上に掲載したアフォリズム(警句集)が、今日まで知られている。

「ギヨエテを、俺のことかとゲーテ云い」というのは、実は斉藤緑雨の手によるものであった。

その他にも、痛快なものが多々有る。

「貧を誇るは、富を誇るよりもさらに卑し」

「人は常に機会を待てども、機会は遂に人を待たず」

「鏡は悟りの具にあらず、迷いの具なり」などなど。

(なお、衒学趣味の押井守監督は、かの映画「イノセンス」にて、「鏡は・・・」の警句を引用している)

 

その中で、自分が馴染み深いのが、これである。

「按ずるに筆は一本也、箸は二本也。衆寡敵せずと知るべし」

やはり、文学にしろ、本や雑誌は売れなければいけないのである。

 

あまり論じる人を見受けないのだが、出版も立派な「経済活動」である。

やはり、売れなければ駄目なのである。

かつて、いわゆる保守系の書籍や雑誌は、本当に入手が難しかった。

そもそもが売れないから、近所の中小の書店で見かけることが無かった。

何しろ、産経新聞だって、自宅に取っている家庭が少なかった。

自分が小学校の頃の多摩ニュータウンでは、図画工作の授業で使うために「家から古新聞を持って来て下さい」と云われて、見てみると、朝日、読売、毎日、日本経済といった新聞は目に付いた。

しかし、産経新聞は、東京新聞よりも少なく、しんぶん赤旗よりも下だった。

ちなみに聖教新聞は、連載新聞小説「人間革命」などを切り抜いて保存するために、そういう家庭の子弟は持って来なかったようである。だから、目にした記憶が無い。

それくらい、保守系の言論媒体は「売れなかった」。

だから、保守的な言論は、「売れない」「無視される」「批判されても、反駁が周知されない」ますます「駄目扱いされる」、といった「悪循環」に陥っていた。

「諸君!」も「正論」も「サピオ」も、好事家だけが読むような、「趣味の雑誌」か業界雑誌みたいな扱いだった。

ところが、「月刊WILL」が創刊された頃から、次第に、いわゆる保守系の書籍が売れるように成って来た。

今では、「月刊WILL」や「月刊hanada」は、書店で平積みされて、2週間も経つとほぼ売り切ってしまっている。

かつて、政治や歴史などの専門書の書棚に行くと、ほぼ全てが左翼系の書籍で占めていた。

だが、今では、保守と左翼系で、ほぼ半々である。

図書館の司書や出版社の編集者の多くが左翼シンパであるように、書店の販売員もその多くが左翼シンパである。

事実、小川榮太郎先生の朝日新聞批判の書籍は、自分の行きつけの書店では、あまり目立たないところに配置されていた。

一方、左翼的書籍は、敢えて目立つ場所に置かれていた。

しかし、左翼的書籍は、売れ行きが悪いので、いつの間にか「返本」されて見かけなくなってしまうのである。

「月刊WILL」や「月刊hanada」は、最早、確実にはけていく「売れ筋商品」であるため、否応無く、目立つところに配置するしかなくなっている。

 

そう考えてみて、今、一部で話題と成っている、映画「主戦場」であるが、それも「この視点」で考察してみたら、面白いと考えた。

この映画「主戦場」というのは、日系アメリカ人のミキ・デザキという人物によるものである。

元々はユーチューバ―だったそうだ。

ユーチューバ―で、いわゆる「言論人」に出世したのは、「テキサス親父」こと「トニー・マラーノ」である。

彼は、アメリカの保守層の「一般人」の典型であり、その論説がニューヨークやロスアンゼルスなどの「民主党・リベラリスト」ジャーナリズムばかりを「アメリカの世論」もしくは「アメリカの良識」と思い込まされ続けていた日本人にとって、とても新鮮であったのである。

当初、自分が「テキサス親父」の存在を知ったのは、西村修平を通じてだった。

西村修平は、シーシェパードなどのアンチ捕鯨運動に関して、対抗運動にも注力していた。

そのいきさつで、「テキサス親父」を喧伝したのであろう。

だが、「テキサス親父」と彼をプロデュースしている藤木俊一は、西村修平と距離を置いた。

これは賢明な選択であった。

それから、夕刊フジにコラムを短期連載したり、来日して講演会を開催したり、書籍を出版したり、「言論人」としてのキャリアを形成出来た。

他にも、ユーチューバ―から「言論人」として認められたのが、KAZUYAである。

彼も書籍を出版し、週刊新潮でもコラムを連載している。


一方の左翼系はどうであろうか?

ほとんど存在していない。

強いてあげられるとするならば、リチャード・コシミズ(爆笑)ぐらいであろうか?

勿論、朝日新聞や「世界」、週刊金曜日などには、「それなりの若手言論人」が輩出されてはいる。

だが、そのほとんどが「大学准教授」といった研究職である。

つまり、「筆一本」では生計が成り立たないのであろう。

現在、左翼のブレーンのインキュベーターなのは、アカデミズムである。

つまり、大学やその系列の研究機関が、かろうじて左翼のブレーンたちを養っているのであろう。

 

そう見てきて映画「主戦場」のミキ・デザキの「立ち位置」はどうであろうか?

はっきり云って、日本で稼ごうとは考えていない、と感じる。

では?

多分、韓国と中華人民共和国であろう。

かの藤岡信勝先生が言及されておられるように、江川詔子が「保守系言論人とインタビューするテクニックを知りたい」と思った訳である。

長い間、保守系の言論人は、マスコミやジャーナリストから「取材」をされ、それに快く応じた結果、歪曲されたり、「ご都合主義」でもって「コメントを切り刻まれる」といった酷い仕打ちを受け続けていた。

だから、左派的な思想信条の持ち主からから取材を持ちかけられても、一切、謝絶することが多く成った訳である。

そういう状況の中で、ミキ・デザキは、自らの思想信条などの「背景」を伏せたまま、巧みに「映像」をせしめた訳である。
多分、他の「監督」だったら、これだけの「オールスターキャスト」を収められることは不可能であったろう。

現在、日本国内で於いて、いくら朝日新聞や週刊金曜日がヨイショしたところで、その興業結果はたかがしれていよう。

かつて、「言論弾圧だ」何だと話題に成った、映画「靖国」も、さほど興業的には数字が出なかったと感じる。

だから、ミキ・デザキの「主戦場」も、日本国内での「あがり」は、期待出来ない。

しかしながら、これにハングルや簡体漢字の字幕を付けて、韓国や中華人民共和国で上映すれば、反応は違ってくるであろう。

ソウルや北京、上海などでは一躍「時の人」に成れるかもしれない。

 

アメリカの下院議員に、日系のマイク・ホンダという政治家が居た。

だが、彼は、「票田」として韓国系の市民の支持が欲しかったから、徹底して「反日」のスタンスを取った。

ミキ・デザキも同じであろう。

ひとくちに「日系人」といっても、「日本」に対する「意識」は一様ではない。

そもそも、生粋の「日本人」でさえ、反日で自虐史観に没我してしまうのが多数存在する訳である。

「日系アメリカ人」が、「日本」に対して、さながら悪意を感じさせるような立ち居振る舞いをしたところで致し方なかろう。

それだけ、我々「日本人」が、あまりに「ウブ過ぎている」ということであろう。

いろんな意味で猛省すべきことが多い、と痛感する。