本日5月24日は父の一周忌です。
昭和18年(1943年)に生まれ、三重県の多度大社のある、さらに向こうの山の集落で育った。
この写真は、祖母と父のツーショットで、父の棺に入れたもの。
5人兄弟の末っ子で可愛がられたらしい。
田舎育ちの反動か、服装に気を遣い、都会的なものが好きで、車の運転とゴルフが大好きだった。
写真に写る、帽子のかぶり方や靴の感じが、今見るとヒップでホップな感じがして面白い。
家では口数の少ないつまらない父親だった。
父と2人きりの車は、息が詰まるような感じがして嫌だった。
そんな運転中の楽しみといえば、まだカセットの頃、テレサ・テン、五輪真弓、高橋真梨子のベストをかけてくれていた。
色っぽい世界が歌われていたのが子供心にドキドキした。
もしかしてぼくの作るメロディーの源泉は、ここにあるかもしれない。
「父はつまらない」と書いてみたものの、それを差し引いて余るほど優しかった。
怒られたことも数えるほどしかない。
見守ってくれていた。
ぼくがミュージシャンを目指したときも、なにも言わずに応援してくれた。
小学校か中学校の時の父兄参観で、「将来の夢」の作文を披露しなきゃいけないときがあった。
クラスメイトが順に発表していく中、ぼくは自分が書いたものが突然恥ずかしいもののように感じてしまい、アドリブで「人と話すのが好きだから喫茶店のマスターがやりたい」といった内容を発表した。
この父兄参観では、最後に見学の父親たちがひとりひとり感想をいうターンがあった。
父は緊張で裏返った声で「好きなことやってくれたらそれでいい」と言った。
ぼくは父が人前で声を裏返ってしまったことが可笑しくてこのエピソードをずっと覚えているんだけど、いま思えば、ぼくが「好きなことをやって」いられるのは父のおかげだ。
不器用ながらも複雑で、無口な父をぼくは好きだった。
でも、父が最期に入院したとき、見舞客の多さに兄もぼくも驚いた。皆が口々に父に世話になったと訪ねてきた。
そして父の病気のことを家族のぼくら以上に悲しんでくれた。
そこから見えてきたのは、外では社交的な父な姿だ。
多くの方に「きみが東京で音楽やってる子か」と声をかけてもらった。
CDをリリースしたとき、父は息子のCDを何枚も買って会社や親戚の人に配っていたらしい。
これも全然知らなかった。
BORN TO BE BLUEは間に合わなかったな。
もっと売れてあげたかったな。
ぼくは自慢の子でいられたのだろうか。
キリが無いので最後に。
父が亡くなって、ぼくは自分でも驚くほど大きな喪失感に苛まれた。
長い闘病の果てだったし、覚悟していたのにも関わらずだ。
それくらい肉親の死は人生にとって大きな出来事だと思う。
幸いぼくは父の死後すぐに、妻の妊娠が発覚し、乗り越えられた。
息子に救われたのである。
運がいい。
きっと誰かは運悪く、悲しみを抱えたまま、生き続けているんだろう。
家族を持つことは素晴らしいことだと思っている。
昔はなかった感情だ。
本日の一周忌の法要は、コロナ禍の影響で中止になった。
母と兄夫婦だけで行ったと連絡があった。
息子と父を会わせたかった、といつも思う。