写真集以外の書評はやりつけないのだが、この本はご紹介したい。

生きる技術は名作に学べ (ソフトバンク新書)

それは献本いただいたから、ではない。純粋にとても面白い本だからだ。だいたい、ぼくは献本いただく前に予約購入していたのだ。だからぼくの部屋にはこの本が2冊ある。どうだ。どうだ、ってことないか。


■そういう本じゃない

さて、まず始めに言わなくてはならないのは、この本にはそのタイトルにもかかわらず「生きる技術」についてはほとんど書かれていないということだ。

既に読んだ方の中には「いや、書かれていたじゃないか、どこに目を付けているんだ、ほんとにちゃんと読んだのか」というむきもいらっしゃるかもしれない。後述するように、読み進めるうちに、ある意味確かに「生きる技術」が浮かび上がってくるのだが、それは新書という形態が醸し出すいわゆるライフハック的なものでは、ぜんぜんない。

でもいいのだ。この本はめっぽうおもしろい。いますぐ書店に行くなりアマゾンでなりでこの本を購入し読んで、そしてくすりと笑うべきだ。いままでぼくは「アンネの日記」について書かれた文章で笑ったことがなかった。この本以前には。だいたい、ライフハック的な「生きる技術」に関しては、これはもう勝間和代さんとかに任せておけばいいと思う。

さて、この本で取り上げられている「名作」は

・「異邦人」 カミュ
・「車輪の下で」 ヘッセ
・「初恋 」 ツルゲーネフ
・「アンネの日記」 アンネ・フランク
・「老人と海」 ヘミングウェイ
・「月と六ペンス 」 モーム
・「ハックルベリイ・フィンの冒険」 マーク・トウェイン
・「赤と黒」 スタンダール
・「一九八四年」 オーウェル
・「魔の山」 トーマス・マン

だ。みごとだ。みごとにどれも読んでない。いや「異邦人」は読んだか。でもほとんど何も覚えてない。著者の伊藤さんも、前書きでこれらの名作は、ほとんどの人が署名は知っていても読んだことがないものだ、と言い、こう続ける。

「おそらくこうした小説を読むことができる機会は、18歳になるまでのあいだに限定されているのだと、わたしは気がつきました。もし、18歳までにこれらの小説を読まなければ、その機会はほぼ永遠に失われてしまうのだと。(中略)われわれは最終列車を逃してしまいました」(p.4)


そうか、もう終電ないのか。もう一軒行くか。いや、しかし、すでに18歳ではないわれわれ大人は、終電がなくなっても実は大丈夫。タクシーに乗ればいい。そう、この本こそがその「タクシー」なんだ、とぼくは思った。

この歳になっても、いまだにタクシーつかうと、どこかうしろめたい感じがするのはなんなんでしょうか。「魔の山」を読破せずして、この本の第10章を読んで「へえー、おもしろいなあ」と思うのは、総武線各駅停車の最終津田沼行きを逃した後、首都高小松川線からの夜景を楽しむのと似ている。結局終電より早く家に着いちゃったりするし。面白かったけど、これでいいのか。そういう後ろめたい感じ。ちがうか。似てないか。書いててちがう気がしてきた。

いや、でも総武線で荒川越えるのと、首都高で越えるのとでは見える風景が違う。ぼくはクルマの免許を持っていないので、なおさらその違いが面白い。つまりそういう感じだ。たとえば「アンネの日記」について。アンネの「過剰な自己愛」について伊藤さんはこう書いている。

「『みんなが競ってわたしと自転車を並べて通学したがったのも、みんなの注目が私に集まったのも、こうしてみると当然ですよね』(ここまで「アンネの日記」からの引用)
「当然ですよね」、などと意見を求められてもそんなことは知らないし、ちょっとどうでもいい。この子はいったいどうしたものだろう。」(p.87)


「アンネの日記」にたいして「この子はいったいどうしたものだろう」と突っ込んでいいのだとは思わなかった。なんせ、相手は「アンネの日記」だ。まだ終電前の時代の、たとえば読書感想文にこう書いたら、おそらく怒られたことだろう。電車内では守るべきマナーがたくさんある。優先座席近くでは電源を切らなければならないのだ。しかし、タクシー内では股を大きく開いて眠ってしまってもかまわない。大人だから。いや、ぼくはそんなことしませんけどね。


■突っ込んでいいんだ

名作にたいして「ちょっとそれはないだろう」と突っ込んでもかまわないのだ。この本が教えることはつまりそういうことだと思う。実際、伊藤さんのつっこみが面白くてたまらない。

「それにしても、どうしてママンなんだ」と、と彼が母親を呼ぶ、そのしかたに疑問を抱く。この小説には父親も出てくるのだが、父親はごくあたりまえに「父」と呼ばれるのだ。だったら母親も、「母」でかまわないのではないか。どうしてママンだ。(p.19 ママンってなんだ--カミュ『異邦人』)


まったく困った男である。これはムルソーの偽らざる本音なのかもしれないが、こんなことを言われたら、女性はたまったものではない。どっちでもいいって、それをいったらなにもかもおしまいだ。(中略)「どっちでもいい」だけはかんべんしてほしい(p.26-30)


この宴席で行われるゲームが、いわゆる「王様ゲーム」と呼ばれるあれとほとんど同じルールなのである。こともあろうに19世紀のロシア貴族たちが、現代日本の大学生たちが合コンでやっているような、ばかげた遊びに興じているくだりを読むにつけ、いったいこの人たちはなにをしているのだと情けない気持ちにならざるをえない。(p.62)


ロシアの貧乏には独特の味わいがある。ジャマイカの貧乏ではこうはいかない。(中略)ロシアの貧乏といえば、やはり「コペイカ」にとどめをさす。(中略)ロシアの貨幣単位だが、その言葉の響きだけでも、小銭っぽい感じがよく伝わってくる。(中略)ロシアの小説家がコペイカの話を持ち出すときには、すなわち貧乏の苦しさを描こうともくろんでいると考えてかまわない。3コペイカのパンを5人家族で分け合ってこそ、ロシアの貧乏だ。(p.74-75)


たとえば彼の短編集につけられた、このタイトルはどうだ。
『男だけの世界』(原題:Men Without Women)
すごいタイトルである。(中略)こんなタイトルを打診されたヘミングウェイの担当編集者も、ずいぶんびっくりしたはずだ。(p.104)


わたしは彼のあまりの短絡さに情けなくなってしまう。「パリへ行って画家になりたい」とは、こうして改めて文字にしてみると、なんだか恥ずかしくなってくるような目標だ。パリというのも、なんだか雰囲気で決めていそうだし、(中略)だいいちこれではいい歳をした中年男性の自分探しと言われても、反論のしようがないではないか。(p.135)


いささかたくさん引き写しすぎた。かように、全編これ笑わずにはいられない「突っ込み」だらけなのだ。

どうしてこういう読み方をぼくが18歳以前のころに先生や親などといった大人たちは教えてくれなかったのだろう。もし「突っ込んでいいんだよ」と言ってくれていたら、もっと楽しんでこれらの名作を読めたはずだ。というのは、じつはないものねだりというものだ。なぜなら

いきなりだが、わたしはトム・ソーヤーみたいな子どもがきらいだ。学校で、会社で、およそ人の集まりそうなところで、つねに幅をきかせるのはトムのようなやつらだ。この社会のいたるところに、トムは存在する。わたしは、トムみたいな人間にどうやって対抗していくか。それだけを考えながら生きてきたといってもいい。(p.150)


という突っ込みにシンパシーを感じるようになるには、すくなくとも入社以後1、2年は経っていないと難しいからだ。18歳以前には難しい。「ていうか、王様はだかだったよね」って突っ込めるのは、じつは子どもではなく大人なのだと、ぼくはいつも思う。

余談だが、よく「子どもの何にもとらわれない感性」とかいうやつをぼくはまったく信じていない。子どもほど空気を読む生き物はいないと思う。いつも大人の顔色をうかがってなにが正しい言動かを考えてばかりいた自分の幼少期を思い出す。


■「王様はハダカだったっすよね」

つまり、この本に書かれている「生きる技術」とは、「王様はハダカだったっすよね」と突っ込んでいい、ということだ。ただし、この突っ込みには王様へのシンパシーが含まれていなければならない。突っ込むのも、王様のパレードが終わったあとの居酒屋とかでなされるべきだ。「王様もたいへんだよね」って。

上で引用した本書の突っ込みの数々だけ見ると、もしかしたら不謹慎なものに見えるかもしれないが、そんなことはない。そこには伊藤さんの各名作の登場人物および著者である「王様」たちへの深い愛情が確実にある。

とくに読み通してみて感じるのは、物語そのものというよりも、書き手にたいする関心だ。伊藤さんはおそらく「物語る」ということはどういうことか、についてなみなみならぬ興味があるのだろう。そしてままならない人生において、物語ることそのものが「生きる技術」になりうる、と。伊藤さんはそう言っているんだと思う。それは伊藤さんのウェブサイト「空中キャンプ」を見てもよく分かる。というか、このサイトむかしからぼく、大好きでして。みんな今すぐ読みなさい。

で、ぼくはいずれ伊藤さんはみずから物語るに違いない、と思っている。そのときが楽しみだ。