「理由」は「答え」ではないんだよね。

「「好き」は理性ではなくエモーショナルな部分に依存する。だからたいていの場合、本当に「好きなこと」「好きなモノ」「好きな人」に関して、わたしたちは他人に説明できない。なぜ好きなの?どう好きなの?と聞かれても、うまく答えられないのだ。「好き」が脳の深部から涌いてくるもので、その説明を担当するのは理性なので、そこに本来的なギャップが生まれるからだが、逆に他人にわかりやすく説明できるような「好き」は、案外どうでもいい場合が多い。
---情報考学 Passion For The Future---「無趣味のすすめ」


先に断っておくけれど、ぼくはこの本を読んでいない。ので、以下に書くことはこの文章への批判ではないので、そこのところよろしくお願いしますよ。

さて、ぼくは、この文章を読んでいるみなさんのうちのどなたよりも、たくさんの世界を代表するすごい「趣味人」とお話しした自信がある。NHK BS2で放送されていた「熱中時間」に出演していたおかげだ。

仕事を辞めてマグロ漁船を追い続ける人、とにかく国道をゆく人グリーン車に乗りまくってシートや設備をとにかく調べ尽くす人、ご存じダムの人、そして団地の人…

人は理解できないものに熱中している人に対して「よっぽど好きなんですね」って言う。これ、要注意。実はこの「好き」、「私はよく分かんないけど、好きならしょうがない」っていう「コミュニケーション終了のお知らせ」であることが多いのだ。

自分自身がなにかを「好き」と表明する場合も同様。人は「好き」と言ったとたんそこで理解をやめる。これはとても便利で危険な言葉なのだ。

「熱中時間」がすばらしかったのは、熱中人に「好き」と言わせない点だった。生い立ちをきく、どのように熱中するのかを事細かにきく、仲間とのやりとりのさまを取材する。あの手この手で「好き」を封じて説明を迫るのだ。

で、すごい熱中人ほどぽつりという「好きでやっているわけではない」「正直、つらいです」と。「でも幸せ」「やめられない」と。びっくりするのは、すごい熱中人ほど「人に言われてやりはじめた」って言う。

そうなのだ。冒頭の文章で言うなら、それが説明できようができまいが、「好き」って言っちゃうようなことはどうでもいいことが多いのだ。

「好きだから」、もっというならそれ以外のあらゆる「なぜ?」という理由を探る問いに対する回答は「答え」ではない。それでは何も分からない。重要なのは、「どのように?」だ。

こどもの頃ダムをどう思ってた?マグロ漁船をどのようにして見つけるのか?無人の状態のグリーン車をどのように撮影するのか?「どのように?」への回答は一言で説明できるようなものではない。でも、そこにしか「答え」はない。

「好きな人」の場合もそうじゃない?「どこが好き?」「なんで好き?」はその問いが発せられたこと自体がすでに危険信号なのだ。重要なのは、「どのように」その人と過ごしているか、だよね?お、いまぼくなんかすごくいいこと言った気がしない?


ちなみに、どのように団地を撮るかというと、薄曇りの日に真っ正面から、です。