
これまでぼくがやってきた「上手くならない写真のワークショップ」そこで得たことをまとめました。これね、たぶんとてもすごいことを言っているんじゃないかと、わりと真剣に自分で思う。
■楽しいみんなの写真 -とにかく撮る、flickrで見る。ソーシャルメディア時代の写真の撮り方・楽しみ方
■いしたにまさき/大山 顕 共著
■ビー・エヌ・エヌ新社 1,680円
■目次
1章 写真を見る−なぜflickrを使うのか? ソーシャルメディアに流された写真が導く先
日本は世界の最先端だった
オープンな世界でむやみに流通する写真
flickrはなぜflickrになったのか?
自分と他人の写真アーカイブからわかること
デジカメというマーケット
ソーシャルメディアの中で流通する写真
常識はずれのiPhoneアプリ、Instagram
ソーシャルの中の写真とコミュニケーション
外部に写真を供給する貯蔵庫としてのflickr
写真は流通したくてたまらない
◇ column とれるカメラバッグ
第2章 写真を撮る−「良い写真」ってなんだろう? みんなで撮る、という行為から生まれるもの
写真のプロセスのアウトソーシング
大山顕の写真ワークショップ1日目「別に好きじゃないものを撮る」
大山顕の写真ワークショップ2日目「瞬間写真」
大山顕の写真ワークショップ3日目「他人になりきって撮る」
僕らはなんのために写真を撮るのか
第3章 写真をシェアする−東日本大震災からわかる、写真の役割
被災地と「みんなの写真」−いしたにまさきの視点から
東京の帰宅難民と「みんなの写真」−大山顕の視点から
おわりに 編集後記としての座談会
人が写真を撮る姿を観察する
みんなで撮るといい理由
デジカメに任せて撮る
アートフィルターをかけた写真からわかること
コピーライト(著作権)とクリエイティブ・コモンズ
進化するウェブサービスと写真の公開設定
ウェブサービスにおいて重要なものはすべてflickrの中にある
なんでこんなに風に自画自賛しちゃうかというと、10年前の自分にこれを読ませたら無駄なことせずに済んだだろうに、と自分で思うから。当時の自分は団地の写真をせっせと撮っていて、けっこう真剣に撮っていた(なんせ、なにをトチ狂ったかシノゴで撮っていた)ので、写真家のようにならなければならないと思っていた。
でも、ぜんぜんそういうふうにはならなくて。それなりに勉強したし、コンテストとかにも応募したけど、ぜんぜん「写真家」になれる気がしなかった。もやもやしてた。なにがダメなのか自分でもよく分からなかった。
今なら分かる。写真家にならなければいいのだ。そうなのだ。写真に興味がある人、写真が好きな人、みんな「写真家」を目指してしまう。つまり「うまい写真」を撮ろうとしてしまう。
この本にぼくが書いた前書きをちょっと引用しよう。
繰り返して言います。世界はすばらしいです。それを発見するのにカメラはとても役立つ機械です。
なんか写真でもやもやしちゃっている人、つまりこのあいだまでのぼくのような人に読んでほしい。世界がすばらしいこと、楽しくなることに比べたら、写真が上手くなることなんてたいしたことじゃないと思います。まじで。
で、この本がさらにすばらしいのは(って、ふたたび自画自賛)いしたにまさきさんとの共著であること。目次見てもらうと分かると思うんだけど、いしたにさんはソーシャル時代における写真の流通の仕方について論じていて、ぼくの論じていることとは一見遠いように見えます。
だけどねえ、ぼくら自身がびっくりするぐらい、最終章の座談会でこれが見事にひとつ上のレベルに着地しちゃうんだよね。ほんと「あれはびっくりだったねえ」って言い合ったぐらい。つまり、ぼくがこの本でまとめた「うまくならない写真ワークショップ」って、考えてみたら一人ではできなかったわけです。みんなでやったから可能だった。そのことと、写真がシェアされることとはつながっている。いしたにさんの本書の中でのちょう名言:
はほんとうにそのとおりだと思います。
あんまり自画自賛するのもアレなので、客観的な絶賛を。

保坂さんの読書メーター
ということで、写真でもやもやしている人へ贈ります!
でも、ぜんぜんそういうふうにはならなくて。それなりに勉強したし、コンテストとかにも応募したけど、ぜんぜん「写真家」になれる気がしなかった。もやもやしてた。なにがダメなのか自分でもよく分からなかった。
今なら分かる。写真家にならなければいいのだ。そうなのだ。写真に興味がある人、写真が好きな人、みんな「写真家」を目指してしまう。つまり「うまい写真」を撮ろうとしてしまう。
この本にぼくが書いた前書きをちょっと引用しよう。
僕らが日々目にする写真作品の多くはプロの手によるものなので、どうしてもそういう写真を目指そうとしてしまいます。だから、上の質問の「うまい写真」ってどういうもの?という質問には思わずこう答えてしまうでしょう。「写真家の○○さんが撮るような写真のこと」と。
だとしたら、僕らが無自覚に目指しているのは「うまい写真」じゃなくて「自分だってうまい写真を撮れるんだぞっていう証拠写真」かもしれません。それって、とても不健全だと思います。
たとえば、知り合った人に「趣味はなんですか?」って訊かれて「写真を撮るのが好きです」って答える。そうすると必ず「見せてくださいよー」ってなりますよね。こういう時、すごく見せるの嫌じゃないですか? 僕は嫌です。「ふーん、こういう写真撮るんだー」とか言われると、もういたたまれない気持ちになる。
たぶん、これは写真が撮った人の個性や価値観を表す表現物だと思われているからです。なぜこういう風になっちゃったかと言うと、それはやっぱり僕らが普段目にしているのが写真家による「作品」だからなんです。
世界はすばらしいです。なのに、僕らは「うまい写真」にふさわしい被写体を探して、その素晴らしさの多くを見逃してしまっています。本来写真って、そういうものじゃないはずです。
繰り返して言います。世界はすばらしいです。それを発見するのにカメラはとても役立つ機械です。
なんか写真でもやもやしちゃっている人、つまりこのあいだまでのぼくのような人に読んでほしい。世界がすばらしいこと、楽しくなることに比べたら、写真が上手くなることなんてたいしたことじゃないと思います。まじで。
で、この本がさらにすばらしいのは(って、ふたたび自画自賛)いしたにまさきさんとの共著であること。目次見てもらうと分かると思うんだけど、いしたにさんはソーシャル時代における写真の流通の仕方について論じていて、ぼくの論じていることとは一見遠いように見えます。
だけどねえ、ぼくら自身がびっくりするぐらい、最終章の座談会でこれが見事にひとつ上のレベルに着地しちゃうんだよね。ほんと「あれはびっくりだったねえ」って言い合ったぐらい。つまり、ぼくがこの本でまとめた「うまくならない写真ワークショップ」って、考えてみたら一人ではできなかったわけです。みんなでやったから可能だった。そのことと、写真がシェアされることとはつながっている。いしたにさんの本書の中でのちょう名言:
写真は流通したくてたまらない
はほんとうにそのとおりだと思います。
あんまり自画自賛するのもアレなので、客観的な絶賛を。

保坂さんの読書メーター
ということで、写真でもやもやしている人へ贈ります!