ヒロシマアーカイブ」や「ナガサキアーカイブ」、「東日本大震災アーカイブ」などのすばらしい作品ですっかり有名人の渡邉さんによる一冊。タイトル通り、それぞれの出来事に関する大量のデータをどのような考えと手法で「紡ぎ」、発表してきたのか、ということが書かれている。

それぞれのアーカイブ作品はリンク先を見ていただき、この本のまっとうなレビューは他の論者のものを見ていただくとしよう(ググれば書評がたくさん出てくる)。ぼくはこの本を読んであらためて思った「渡邉さんっておもしろい人だよなあ」って話を書きたいと思う。面白い人だよあの人。

■巻き込まれた人
気安く「あの人」呼ばわりしちゃって怒られるかもしれない。でも、最近はもっぱら「マッピングナイト」というイベントで一緒に登壇しているぼくと渡邉さんだが、初めて会ったのは2003年の8月。当時サラリーマンだったぼくが初めて「大団地展」という写真展を開催したときに会場に訪ねてくださったという間柄なのだ。ぼくの団地サイトを以前からご覧いただいていたとのこと。当時の渡邉さんは、この本にも書かれているが学校の先生などではなく、ゲームをすると植林が行われる「リズムフォレスト」というトンチの効いたゲームを作っている人だった。

それから現在までちょくちょく会って何かして、気がつけば10年以上経っている。なので、もともと渡邉さんは原爆や震災に関して何か強い思想を持っている人ではないことをぼくは知っている。たぶん今でもそんなに何か特定の信条があるわけではないと思う。

そう、この点を強調したいのだ。とても残念なことに「ヒロシマ」「ナガサキ」「震災」などのキーワードで紹介すると、「ああ、そういう人なのね」と思われがちだ。が、ぜんぜんそんなことないし、これらのアーカイブ作品もぜんぜん「そういう」感じじゃない。この本を読むと、あらためてそのことがよく分かる。渡邉さんは思想から出発したのではなく、データに「巻き込まれて」しまったのだ。

ツバル・ビジュアライゼーション・プロジェクト」から始まった、渡邉さんのナチュラルながら徹底した「巻き込まれっぷり」は本書を読むとよく分かる。この顛末を読んで思いだしたのが、かつてNHKの番組「熱中時間」にレギュラー出演していたときのことだ。日本、いや世界を代表するものすごい趣味人が毎週登場するこの番組で、かならず質問されるのは「そんなに熱中するきっかけになったのは何か?」というものなんだけど、多くの人が「人に言われて」とか「友人のを手伝っているうちに」って答える。すごい成果を上げちゃうプロジェクトって、往々にしてそういうものなんだなあ、と思ったのだ。確固たる自分の意志ではじめたものより「たまたま」とか「やらされて」とかのほうが長続きする。

本書を読んではげまされるのはその点だと思う。ある確固たる意志のもとはじめなければよい仕事はできないかというと、ぜんぜんそんなことないのだ、という点。渡邉さん自身があっけらかんとそこらへんの巻き込まれ経緯を語っていることが、「社会につなぐ」という部分に説得力をもたらしているのだ。

■極端な結論を出さないジレンマ

もうひとつ思ったのは、そういう「思想」がないからこそ渡邉さんはきっと「データが出す結論」に慎重なのではないか、ということだ。前出の各種アーカイブ作品にはメッセージ色が希薄だ。でも今までよく分からなかったある種の雰囲気というか、そういうものを掴むことができる。これがまさに地理上にマッピングすることのすごさだと思う。

ぼくがこれらのアーカイブを見てまず感じたのは「ああ、たくさんのふつうの人たちがいて、それぞれに違う体験があるのだなあ」ということだった。いままで見てきた(といってもぼくは不真面目なのでそんなに見聞き読みしてきたわけではないけれど)いわゆる原爆もの、震災ものでは味わわなかったことだ。(あ、「夕凪の街 桜の国」では近いことを思ったかな)

「極端な結論を出さない」ことと「伝わる」ことは両立しづらい。本書は今やちょっとバズワードっぽくなってしまっている「ビッグデータ」についての本でもあるわけだが、渡邉さんをはじめ、そのようなデータから何かの結論を導く操作をしたことのある人は、みんなそういう「データの多様さ」と「ひとつの強い結論」との間で引き裂かれているのだろうな、と改めて思った。渡邉さんのアーカイブシリーズはそこを見せ方で両立させている希有な例と言えるだろう。

でも一方で、渡邉さんには申し訳ないが、これはもしかしたら今はまだGoogle Earthが物珍しいので、思わずそのインターフェイス込みでアーカイブに見入って、結論なきメッセージを読み込んでしまっているだけかもしれない。今は思想ではなくアーキテクチャーでだけで何かを伝えることができているけれど、これに慣れちゃったらどうなるだろうか?と。いやでも渡邉さんのことだからその時はその時で次の表現を考えているのだろうな、とも思ったけど。

■情報の保存ってメンテ込みだよな

そして最後に。この「Google Earthが物珍しいので」に関連して言うと、本書188ページに「未来に記憶を残していくためには、耐久性のあるメディアや永続性のあるサービスを作ることも大事だけど「伝える意志」を作ることがもっと大事」という趣旨のことが書かれていて感動した。Googleがいつまで存在してサービスが継続されるか分からないもんね。

ぼくの団地の写真は「シノゴ」と呼ばれる大きなフィルムで撮っているが、このネガの保存はやっかいだ。フィルムってやつはすぐかびたり傷ついたりする。じゃあ高解像度でスキャンしとけば最悪フィルムが失われてもだいじょうぶか、と思いそうだがそうはいかない。こんどはそのデータをどこに記録しておくかが問題になる。

ここまで大きいとおのずとHDに保存するわけだが、みなさんご存じの通りこの代物は保存性という点では実に信頼性が低い。そもそも磁気記録メディアでほっといて10年平気っていうものはない。だからといってCDRとかDVDなんかはもっと不安。これら色素系のものも同じぐらい危うい。いまは懐かしいMOも30年は持たないと言われていた。自分で団地記録するためにそんなことはしないと思うが、プレスしたCD、DVDならもうちょっと信頼性高いと思うけど、これもけっこう腐食すると聞いた。あとはRAIDだ。コストと、なにより電源が最大の問題だけど。

100年もつメディアってないのだ。

だが!しかし!このデジタル記録メディアの保存信頼性の低さと、日進月歩の記録フォーマット問題があいまって「だからデジタルデータは怖い」って話をよく聞くけど、それはちょっとちがうと思う。デジタルの問題じゃない。というか、「保存する」ってことはそういう問題じゃない。

そもそもデジタルじゃなくても、100年もつメディアってない。紙に書いたインクだって100年は持たない。いま市販のインクの色素はそんなに持たない。純粋な黒炭は良いかも。でも問題はインクだけじゃなくて、紙もだ。完全な中性紙じゃないと数十年でぼろぼろになる。そして完全な中性紙って、高い。

同じ理由で写真プリントもぜんぜんダメ。カラー写真なんて数十年ももたない。自分が子どもの頃の写真を見てみればすぐ分かる。一時期「百年プリント」なんてのが流行ったけど、あれは百年経っても図像が確認できる、という意味だそうだ。かように100年カラー情報を残すのはとてもたいへん。プリント紙も上記の紙と同じ。完全に中性化したプリント紙じゃないと。

ネガはもっとあやうい。いまのネガの基材はPETとかなんでまだいいけど、ひと昔のネガは悲惨。不用意に重ねて引き出しにでも入れとこうものならあっというまに融着しちゃうし、ネガの色素もプリントと同様。白黒写真だともうちょっとまし。っていっても銀塩自体が100年レベルで見たら不安定なので、古典印画法みたいに完全な黒炭でプリントすれば100年越える、ってところだ。

でも、だいたい、これらはすべて水や酸や高熱・極低温にとても弱い。そしてあんがいそういう環境って身の回りにある。さっきデスクにコーヒーこぼしたしな。

■不老不死っておぞましい

たぶんこの世の中で一番強靱なマテリアルは油絵だ。物理的なショックにも強いし、酸にも水にも強い。火災だけ気をつければ、まあなんとかなる。だから、高解像度カラーで団地の写真残したかったら、東京ドームにカンバス広げて油絵でドット打つ、とかそんな感じか。

「でも室町時代の絵って残ってるよ」という声が聞こえてくるが、まさにそれなのだ。あれが残ってるのはどうしてか。それはメンテナンスしてるからだ。データの保存が話題になるとき、その前提に「メンテフリー」があるように思うけど、それはほんとに前提としていて良いものだろうか、と思う。多くの美術品が数百年越えて残っているのは、単に作品のメディア・マテリアルの問題じゃなくて「培われた保存の技術」込みでだ。真の保存とはきわめて動的なものなんだと思う。最初にあげたRAIDはそういう意味でももっとも「保存」だ。

そうなると、それは「保存するに足るものか」という価値の問題なってくる。ぼくは100年もつメディアがないのは良いことだと思う。それはたとえて言うなら不老不死を願うようなものだ。それよりも、子どもを育てて死ぬべきなのではないかと思う。ぼくらが保存するべきは「価値へのコンセンサス」だ。デジタル化したが故に消えてしまうものは(前述のように問題はデジタルだからじゃないんだけどね)、そもそも消えるべきものなのだと言いたい。建築だってそうだ。メンテフリーで100年残る建築なんてない。そして「残すべき」っていう共通認識がない建築は取り壊される。共通認識を育てることなく、とにかく1000年保存したいという考え方自体が不遜でおぞましい。

流す残すべき情報の価値、って不変のもののように思えるけれど、たぶんその時代その時代に価値を変更していって「あ、これ面白い。残した方がいいよね」ってさせるのが「保存」ってことなんだと思う。渡邉さんのアーカイブは、ヒロシマやナガサキの情報を、いまの時代に興味をそそる価値を新たに付け加えたということなのだ。まあ、だからGoogleのことはあまり心配しなくてもいいかもね。

これでいっとき時間が稼げたから、次の時代に残すことは次の時代の人にまかせられる。そうか、渡邉さんがいま大学の先生をやっているってのはそういうことか、と今気がついた。

【2014年6月26日追記】このレビューを読んだ渡邉さんから「これが返答になっていると思う」というメッセージと共に送られてきた記事がこれ→『「記憶のコミュニティ」が紡ぐ原爆の記憶:「ヒロシマ・アーカイブ」制作ワークショップを終えて

みごとに『「あ、これ面白い。残した方がいいよね」ってさせるのが「保存」』という実践をされているではないか!しかもやっぱり「巻き込まれて」そうなってるし!さすがだ。