『特に若い女性の間で写真アプリ依存というか、現実との乖離が進行してるように思う。以前、どんな風に撮れているのか見せて欲しいと言われたので、デジカメ背面モニターで見せたところ、「違う!これは私の顔じゃない!写真撮るの下手ですね」と不機嫌さを露わにされた』
というカメラマンの方のtweetがあった(→こちら

この話、ものすごくおもしろい。というのも19世紀中頃にナダールは肖像写真館を開くが、その時のことを「人は撮られた写真をはじめて見るとかならず失望する」と語っているからだ。ほとんどが怒りに燃えて写真館を後にした、と。(『新聞報道と顔写真』より)肖像画はもともと「盛る」ものであり、ほんらい「顔」とはそういうものだった。

おそらく写真の出現によってはじめてわれわれがいま「ほんとうの自分の姿」だと思われているものが発明された。だから、アプリが「現実から乖離」した像をつくっているのではない。これまでの写真が見せる像が「現実」とはほど遠い異様なものなのだ。(念のため言っておくが、上記カメラマンの方のことを云々するものではない。tweetされている内容はほんとうに困ったことだと思う。お察しします)

肉眼で見る恋人の顔は、写真で撮られる像とはまったく異なる。鏡にうつった自分もそうだ。これは脳内にあるその人のイメージによって「補正」されるというだけでなく、写真がある一瞬の顔の筋肉の動きをとらえてしまうという原理的な「不具合」にもよっている。「顔」には時間が含まれている。一瞬の表情が「ほんとうの自分の姿」なわけがない。

つまり自撮りアプリの「盛り」はほんらいあるべき自分像に寄せてくれるものであり、ようやく写真は肖像に適したものになった、ということだ。黎明期からその分野に挑み、200年弱たってようやく。

こうした「写真は現実を写すもの」という19世紀に発明された感覚を最もよく表しているのは『ボヘミアの醜聞』だろう。この話の中でホームズは、筆跡も便せんも封蝋も女性との親密な交際の証拠にはならないとしているのに「一緒に写った写真」ばかりは証拠として致命的だ、と言っている。

ちなみにこの話の最後で、その女性は「証拠写真」とは別の自分の写真を残して逃げる。そしてホームズは大金の報酬を断り、かわりにこの写真をもらう。その後、彼女のことをときおり思い出し "the woman"「あのひと」と呼ぶのであった。

ただ一点気になるのは盛って実現しようとする「本来あるべき自分の顔」のイメージはどこからやってくるのか? ということ。これについては別途じっくり考えよう。