Caravaggio_-_The_Incredulity_of_Saint_Thomas


団地団でいつも一緒に登壇している佐藤大さんが、今週末ゲンロンで『ブレードランナー2049』について語る(→『佐藤大 × さやわか × 東浩紀 サイバーパンク放談 #2──『ブレードランナー2049』は傑作なのか、あともろもろ』)ということでたいへんたのしみにしています。
まさかあの映画に続編ができるとは、とびっくりした『ブレードランナー2049』。ぼくはたいへん気に入りました。ラスベガスに行っていろいろ考えさせられた(→『人間なら一度はラスベガスに行った方がいい』)ことが高評価につながっていると自分でも思いますが。

トレーラーにもある、デッカードが満を持して登場するのがラスベガスだというのは、そういうことか! とあの街を思い出して膝を打ちましたよ。たぶんアメリカ人にとってあの砂漠の中の街が廃虚として登場して、そこに彼がいるっていうことの意味はすぐに了解できることなんだろうな、とシナトラとプレスリーが流れるのを聞いて思ったしだい。

「工場萌え」に大きな影響をあたえた1作目の冒頭が、今回ソーラーパネルになっていることなど、自分の趣味的におおきにくすぐられる描写が多々ありましたが(1作目にデッカードが鍵盤を叩いたのは「A」だったけど、今回は「E」だったな、とか。ちなみに映像では「A」なのに鳴ってる音は半音下なのがきもちわるい)、「おお!」と思ったのは冒頭の絵。

これはカラヴァッジョの『聖トマスの懐疑』。先日、いま連載している「ゲンロンβ」の次の第22号に書いた原稿で、この時代の絵画について調べたおりに目にして「おお!」と思った。

これ、『ブレードランナー2049』の最後のシーンじゃないですか!

1作目ではてのひら、今作は脇腹、と、レプリカントが傷を受ける場所はあからさまにイエスのそれなわけですが、それをのぞき込むデッカード、彼は聖トマスだったのか。

イエスが復活したことをすぐには信じなかった聖トマス。傷を触ってはじめて信じた。デッカードはたしかこのとき「俺は君にとって何なんだ?」と言ってた。まあ、聖書モチーフ使うとなんでも意味深になるのであれですけど。

あと、このカラヴァッジョの絵、肝心のトマスの視線があらぬところを見ているように見える。ホックニーは『絵画の歴史 洞窟壁画からiPadまで』のなかで、カラヴァッジョの時代の画家の多くが、光学機器を使ってモデルの形をトレースした、と指摘していて、とくにカラヴァッジョは「フォトショップで合成するように」モデルを配置した、と言っている。

その結果がこの視線。トマス、ちゃんと見ろよ。