「住宅都市整理公団」別棟

ここは団地マニアのためのウェブサイト「住宅都市整公団」の総裁のblogです。団地だけじゃなくて工場やジャンクションや高架下建築や。

思ったこと

終える方がたいへんだ、という話。(オーネット・コールマンに)

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先日、2015年6月11日にオーネット・コールマンが亡くなった。85歳だった。いうまでもなく、フリージャズをつくったひとりであり、偉大なサックス奏者であった。

ところで、世の中にはモテるための手練手管情報が溢れている。そして多くの恋愛ストーリーは想いが成就するところで終わっている。「ふたりは末永く幸せに暮らしましたとさ。めでたしめでたし」というわけだ。

ところが、大人になるとわかるが、実は始めるより終えることのほうが重要だし、しんどい。かつて会社員だったころ、上司に「プロジェクトを開始するのはきみの仕事だ。失敗したら後始末はオレがやるから」と言われたことがある。撤退することにこそ長年の経験と権限が必要であって、平社員にはできないというわけだ。ちなみにこれ、いい話に聞こえるが、その上司が実際クロージングをしてくれた覚えがない。

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説明できない「好き」もどうでもいい

「理由」は「答え」ではないんだよね。

「「好き」は理性ではなくエモーショナルな部分に依存する。だからたいていの場合、本当に「好きなこと」「好きなモノ」「好きな人」に関して、わたしたちは他人に説明できない。なぜ好きなの?どう好きなの?と聞かれても、うまく答えられないのだ。「好き」が脳の深部から涌いてくるもので、その説明を担当するのは理性なので、そこに本来的なギャップが生まれるからだが、逆に他人にわかりやすく説明できるような「好き」は、案外どうでもいい場合が多い。
---情報考学 Passion For The Future---「無趣味のすすめ」


先に断っておくけれど、ぼくはこの本を読んでいない。ので、以下に書くことはこの文章への批判ではないので、そこのところよろしくお願いしますよ。

さて、ぼくは、この文章を読んでいるみなさんのうちのどなたよりも、たくさんの世界を代表するすごい「趣味人」とお話しした自信がある。NHK BS2で放送されていた「熱中時間」に出演していたおかげだ。

仕事を辞めてマグロ漁船を追い続ける人、とにかく国道をゆく人グリーン車に乗りまくってシートや設備をとにかく調べ尽くす人、ご存じダムの人、そして団地の人…

人は理解できないものに熱中している人に対して「よっぽど好きなんですね」って言う。これ、要注意。実はこの「好き」、「私はよく分かんないけど、好きならしょうがない」っていう「コミュニケーション終了のお知らせ」であることが多いのだ。

自分自身がなにかを「好き」と表明する場合も同様。人は「好き」と言ったとたんそこで理解をやめる。これはとても便利で危険な言葉なのだ。

「熱中時間」がすばらしかったのは、熱中人に「好き」と言わせない点だった。生い立ちをきく、どのように熱中するのかを事細かにきく、仲間とのやりとりのさまを取材する。あの手この手で「好き」を封じて説明を迫るのだ。

で、すごい熱中人ほどぽつりという「好きでやっているわけではない」「正直、つらいです」と。「でも幸せ」「やめられない」と。びっくりするのは、すごい熱中人ほど「人に言われてやりはじめた」って言う。

そうなのだ。冒頭の文章で言うなら、それが説明できようができまいが、「好き」って言っちゃうようなことはどうでもいいことが多いのだ。

「好きだから」、もっというならそれ以外のあらゆる「なぜ?」という理由を探る問いに対する回答は「答え」ではない。それでは何も分からない。重要なのは、「どのように?」だ。

こどもの頃ダムをどう思ってた?マグロ漁船をどのようにして見つけるのか?無人の状態のグリーン車をどのように撮影するのか?「どのように?」への回答は一言で説明できるようなものではない。でも、そこにしか「答え」はない。

「好きな人」の場合もそうじゃない?「どこが好き?」「なんで好き?」はその問いが発せられたこと自体がすでに危険信号なのだ。重要なのは、「どのように」その人と過ごしているか、だよね?お、いまぼくなんかすごくいいこと言った気がしない?


ちなみに、どのように団地を撮るかというと、薄曇りの日に真っ正面から、です。

フォトグラファーは向こう側には行かない サリンジャーのこと

今朝明け方にサリンジャーの訃報を聞いた。

ぼくも「ライ麦畑でつかまえて」は読んだ。たぶん高校生の頃だったと思う。正直、あまりおもしろい物語とは思えなかった。だからあまり今度のことに関してもそれほどショックは受けなかった。マイケルが死んだときのほうがショックだった。いままで有名人が死んでいちばんショックだったのはナンシー関のときだ。

ただ、世界中で読まれている本を書いた著者が森の中で隠遁生活をしている、という事実にはとても興味をひかれていた。だれでもこういう生き方をしたいと思うことがあるのではないか。

で、先日「空中キャンプ」の伊藤さんが本を出版された。そのなかに「ハックルベリー・フィンの冒険」の章があり、そこで「ライ麦〜」のホールデンについて触れられている。というか、どちらかというとこれはホールデンについて書かれているのではないか。

この章の中で伊藤さんは、サリンジャーについて

「サリンジャーは実生活で、ほんとうに森にキャビンを建てて、周囲と断絶した生活をはじめてしまったので、結局、ハックよりホールデンより、サリンジャー本人がいちばんさまよっているんじゃないか、という気になってくる。あの人はどうしてあんなふうなのか」

と書いておられる。たしか「空中キャンプ」内でもサリンジャーについての文章があったはずだ。この本が出たばかり。そしてぼくにとってこの一文はとてもに印象に残っていたので、今度のことに関して伊藤さんがどういう感慨を持たれるのかが気になっていた。

そうしたら、今日、「サリンジャーのこと」と題された一文がポストされていた。


ぼくがこれを読んで印象に残ったのは「戻ってこれなくなる」という部分だ。

「ひとつの物語があまりにも強い影響力とエネルギーを持ってしまったとき、それは人を助けるだけではなく、そこから戻ってこれなくなるような怖ろしさがある、ということ」


定期的にテレビに出演させていただくようになって、何人かの役者さんとお近づきになることができた。演技することについてお話しすると、みなさん同じことをおっしゃるのが印象的だった。

「戻ってこれなくなる」と。

ある役柄を演じているうちにその役と本来の自分との境界があいまいになって、仕事が終わっても「戻ってこれなくなる」ことがあるというのだ。怒りを爆発させるシーンのあとでは、その後数日怒りにとらわれてしまって苦しむこともある、という。役者さんによってはセラピー的な方法で「戻ってくる」方もいらっしゃるらしい。ときには「お払い」をすることも(!)。

小説家も役者も、物語るということにはそういう苦しみがあるのだということを初めて知った。

で、一方、フォトグラファーでそういう「戻ってこれなくなった」話はあまり聞いたことがないな、と思ったのだ。これは興味深い。

たぶん、カメラという装置は、撮影者がどんなにその対象に魅入られたとしても、その間に線を引いて決して「向こう側」には行かせない性質のものなのだと思う。これが幸せなことなのかどうなのかは分からないけれど。


伊藤さんの本を妹に貸したらやっぱり「ライ麦〜」の話になった。彼女も冒頭のぼくの感想と同じようなものだったという。ただ「自分が読んだのは中学生のころだったからかもしれない。あれには読む時期があるのではないか」と言っていた。二人で出した結論は、たぶん大学生になりたてぐらいがいいのではないか、というものだった。ほんとかな。

港に水門が現れた

港に水門が現れた。物理的にではなく。

ウェブサイトを見始めたころから見ている、大好きなサイトに高杉親知の日本語内省記というのがある。もう2年ぐらい更新されていないけど。

その中に「水無月の雨」という文章がある。その一節。

昔は六月を水無月(みなづき)、十月を神無月(かんなづき)と呼んだ。水が無い月とはどういうことだろう。【中略】
実は、「みなづき」の「な」は「無」ではないのだ。この「な」は現代日本語の「の」と同じ属格(所有格)を表す後置詞で、「水な月」とはつまり「水の月」、「神な月」とは「神の月」のことなのだ。「な」に「無」の字を使うのは単なる当て字である。だから水無月に雨が降るのは当然なのだ。神無月に日本中の神が出雲大社に行ってしまうので神がいなくなり、逆に出雲では神が集まるので「神有月(かみありづき)」と呼ぶというのは、「な」が使われなくなった時代に作られた俗信である。


この「な」は平安時代にすでに古語になっていたが、今でも単語の中に生きているという。

例えば「まなこ」、「まなじり」、「まなざし」はそれぞれ「目な子」、「目な尻」、「目な差し」という意味だ。「ま」は目の古語である。


そして、

「みなと」は「水な門」


なんだそうだ。びっくり。港に水門が現れた。佐藤さんはご存じだろうか。

できるようになる/できなくなる

興味深い文章があった。

あるスポーツの種目でひとりのアスリートが世界記録を大きく更新すると、それまで何年かかっても到達できなかったその近辺の記録を出すアスリートたちが、突然、次々に出るというふしぎな現象がある。---空中キャンプ「できること」の領域

はじめにできるようになった天才にとっては、「できる」ということは論理的にではなく、あくまで感覚的にとらえられる、と続く。非常に興味深いが、一方でぼくは全く反対のことを思った。つまり、「なんで人間はかつてできたことができなくなっちゃうんだろう」と。

機械だったら---故障とか疲労があってメンテが必要とはいえ---できることができなくなったりしない。ところが、人間は衰える。ずいぶん前のジャズフェスティバルにホレス・シルバーが登場して、かつてのあのシルバーとは思えないたどたどしいプレイを見てショックを受けたことがある。上記サイトの内容で言えば世界新を出したアスリートも歳をとるともうそのタイムは出せない。なんて残酷なことだろうかと思う。

極めつけは、その天才が死んじゃうってこと。ピーターソンのピアノプレイもブレッカーのサックスも、ナンシー関の毒舌ももう聞けない。人間全体で見たら受け継がれて"進化"はしているのだろうけど、個人で見ると「できる」ことはゼロから始まって緩やかな曲線で上昇していって、ある点をピークに急下降して、最期死と共にまたゼロになる。

うーん、うまく言えないが、なんかしんみりしたので。まあ、ナンシーが恋しいってことだ。

まあ天才の曲線の積分値よりも、その人が影響を与えた大勢の後進の曲線積分値の合計の方が大きいだろう。"進化"の正体はそういうことかもしれない。

ドボク・サミット / もう素人はテレビ出演をありがたがらない

先日NHK BS2の「熱中夜話」という番組の収録を行ってきた。レギュラーで出させていただいている「熱中時間」とは別の番組。


■この収録がひどかった、という話
いや、内容のひどさじゃなくて出演者の扱いの話。番組はきっと面白いから見てね。

結論から言うと
『なんかテレビの人って、どこか「テレビ出してあげる」って思ってないか?』
ってことだ。

ぼくはいささか「テレビの人」に片足(のつま先か親指ぐらい)突っ込んでいる人間なので、半分以上は自らへの戒めとして書く。あと、おそらく関係者の方がここを読む可能性は大だけど、今後もこの番組が続くのであればこれはあえて言っておかねばなるまい。出演された方々の何人かはぼくを通じてだったので、その責任もあるし。
 
 
■とはいえ楽しかった
この収録は「巨大建造物ナイト」と題して、工場、ダム、水門、鉄塔、をテーマに3週に渡って放送されるもので、「工場萌えな日々」の石井さん「ダムサイト」萩原さん「ダムマニア」の宮島さん「floodgates」佐藤さん「毎日送電線」のサルマルヒデキさん、というさながらドボク・エンタテイメントのサミットのようでした。

さらに客席には「社会科見学に行こう!」の小島さんや、壁の杉浦さん「ダム日和」のtakaneさんGPS地上絵師の石川さんスリバチ学会の皆川さんなどなどそうそうたるメンバーが一堂に会した。それだけでも価値があった。打ち上げも楽しかったし。あれは歴史に残る打ち上げだね。


■この番組で言ってはならない一言
そう、打ち上げがもりあがった。これが問題。石川さんも苦言を呈されていたように収録終了後「まだ話し足りない人は近くの居酒屋へでもどうぞ」ってフロアディレクターさんが言ったのだが、これがカチンと来た。

「スタジオで展開されるオフ会」と銘打つこの番組。ところがぜんぜんオフ会じゃなかったのだ。「しゃべりたいことをしゃべらせてもらえない」だけならまだ良いが(いや、良くないけど)、「しゃべりたくないことをしゃべらせられそうになる」(*)のはいかん。「それがテレビってもの」だと言えるかもしれないが、だったら「オフ会」って言うな。

そう、FDさんは冗談で言ってしまったと思うが、まさに「話し足りなかった」のだ。そして要するにそれは「オフ会番組」として失敗だ、っていうことだよね。冗談でもそれだけは言っちゃいけない一言だったと思う。

今回出演した人たちに、充分なギャラは出ていない。みんな社会人で普段忙しくしてて、せっかくの連休だけどそれでも出演したのは自分たちが好きなものがいかに素晴らしいかを伝えることができる機会があってそれに是非とも協力したいと思ったからだ。それなのにそれをじゅうぶん表現させてもらえないなんて、裏切りだと思う。だったらギャラくれ、って話だ。

一方、スタッフと司会のタレントさんたちは「仕事」。だから、文字通りOFF会のようにみんなにしゃべりたいだけしゃべらせることを基本的なスタンスとして、それをうまく誘導する「仕事」と、そしてそれらをうまく編集する「仕事」をそれぞれ彼らはやるべきじゃないのか。


■極めつけは待遇の悪さ
ぼくがスタジオ入りしたのは10時。終わったのは21時頃だった。みんなとうぜんお腹も減る。なのに、夕ご飯にそうとうする時間にまともな食べ物が出なかった。たまらず「なにか食べ物ください」っていったら全員分に満たないおにぎりがちょこっと出ただけ。繰り返すけど、みんな好意で来てるんだよ?

あとちょっと脱線するけど、いつもこういう素人出演者(ギャラなし)が出る番組で違和感があるのは、素人出演者のほうを先にスタジオに入れて、タレントが入ってくるのを待たせ、しかもそれを拍手で迎えさせる、っていうあのやりかた。逆でしょ?タレントは仕事でギャラもらってんでしょ?先入って、素人出演者を待って拍手で迎えろよ。楽屋も素人出演者は大部屋でタレントは個室が当たり前だし。(あ、「熱中時間」はこんなことしないからね。あの番組は素晴らしいよ)


■べつにテレビ出ることはそんなにありがたいことじゃない
これらの問題のほとんどは、テレビ業界における慣習によっているんだと思う。別に悪意があってやってるわけじゃないのは分かってる。ポイントはこの慣習には「素人はテレビに出られることをありがたがる」という前提があることだと思う。

残念ながらそれは一昔前の話だ。いまどきテレビ出演はそうありがたくもない。

たぶん、今回出演した面々の中には少なからずふたたび出演を頼まれても断る人がいると思う。残念なことだ。


■甘やかされてたなあ
個人的に痛感したのは「熱中時間」があまりに良い番組なので、それしか知らないぼくは甘やかされてたなあ、ということ。繰り返すけど、あの番組は素晴らしいからオファーがあったらみなさん絶対出るべきだと思うよ。
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量産

とあるかたから質問をいただいた。酔っぱらってたからご本人は覚えてないかもしれないけど。過日紹介した「Casa BRUTUS」の08年02月号。くだんの対談のなかでぼくが「(団地は)『標準化』した結果、いままったく標準じゃないものになっている」と言っていることの意味を問われたしだい。

これはあの場で話してたら思いついたことなので、実は考えはまとまってない。まとまるまでもうすこしお待ちいただきたいのだが、第一部として、まずは高度な標準化がいかにすばらしくかつ興味深いか、ということを言っておきたい。これに関してぱっと思いついた参考資料は以下の3つ。



■1.「レジデント初期研修用資料」の「量産型はダテじゃない」というエントリ

限界性能を目指した実験室グレードの試作品は、発注段階では全てを理想条件で設計するから、当たり前のように初期性能を発揮できない。部品が特殊だから交換きかないし、信頼性なんて考えられない。

限界目指してること。不安定であること。信頼性が低いこと。どこから壊れるのか分からない予測不可能性は、物語世界ではプロトタイプの魅力として語られるけれど、実世界ではもちろん通用しない。

量産されて、市場の検証を十分に受けた製品は、安定していて、挙動が読める。何がおきても、それは予想の範囲だから、信頼できるからこそ「つまらない」。

「ガンダム」とか「宇宙戦艦ヤマト」みたいなプロトタイプには、本当は勝たせちゃいけないんだと思う。全人類の期待を一身に背負ったプロトタイプは、性能が劣った敵側の量産品に囲まれて、そのうち故障が頻発して、部品が足りなくなって、結局人類滅亡するのが正しいはず。




■2.「失敗の本質」
失敗の本質

日本軍が二次大戦で負けた原因のひとつが実戦における作戦行動の凡庸性欠如にあった、っていう説明にぐっときた。戦場で兵士がその都度クリエイティブな判断しなきゃならないようじゃだめなんだ、と。「練習の通りやればいい」っていうことこそが大事だ、と。



■3.岡田斗司夫が語る、実現しなかった幻のガンダムの話。

メーカーのメンテナンス担当が主人公のガンダムを作りたかったそうだ。あれだけ高度なモビルスーツだと、整備兵だけでは整備できなくてメーカーの技術者が乗り込んでいるはず。その技術者を主人公にしたかった、と。戦いに負けるとクライアント側が返品したがるのに対して、その現場のメンテ要員が「いや、仕様満たしてますよ」っていってがんばる、という話。おもしろそう。見たい。



いや、この「3」はちょっと論点ずれてるけど。量産することこそに技術とか、システムとか、組織とか、人間関係とか、そういうもののおもしろさ(とややこしさと悲哀)があるってこと。


技術で言えば、テレビとかで生産工学を全く知らない御仁がたとえば陶芸の素晴らしさを安易に「量産品にはない手作りの一点一点異なる味わいが良い」みたいな言い方で褒めるのを耳にするが、おまえちょっとそこへ座れと。ラインにおける製品のばらつきと歩留まりと、一方ほんとの職人が持ってる、量産品では実現できない全く同じものを作る技術のすごさ知ってんのかと。ほんとの手作りのすごさはむしろ「まったく同じものを作る」ってところにある。「クルマはかくして作られる」でも読んで出直してこい。



えーと、無駄に熱くなったが、なんのはなしだっけ。ああそうだ、団地の話だ。それはまたこんどな。

首都高高架の身にもなれ

アイドルが「足を見るオジサンはチカン」と言ったとか。なにがすごいって暗に自分の足は見られる価値があると信じてるっていうのがすごい。

肖像権啓蒙キャンペーンを目にするたびに、ぼんやりと思うのは「じゃあこっちにも見なくてすむ権利をくれまいか」ってことだ。街を歩いてもテレビを見てても電車に乗っててもべつに見たくもないタレントの顔を見させられる。いや、主張内容には全面的に賛成するけど、見られてなんぼの人たちはこのキャンペーンに顔出しちゃだめなんじゃないかと思う。「見られる価値があって当然」という不遜な思いこみがはからずもにじみ出ちゃうから。

「見たくない」ってさかんに言われてる日本橋の上の首都高高架の身にもなれ。
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