ぼくはいわゆる推理小説というやつが好きだ。作品の善し悪し以外で気になるのが殺人現場やその舞台となった屋敷などの説明として添えられる挿し絵。これがまた味のあるへたくそな絵だ。このへたくそさ加減が推理小説の雰囲気を盛り上げるのに一役買ってすらいると思う。どうかIT時代になってもこの手の挿し絵はいつまでも中途半端な製図風のへたくそのままでいて欲しいと切に願う。
というわけで、これから少しずつぼくの気に入った推理小説の挿し絵を紹介し、コメントを添えていきたいと思う。作品の内容はどうでもよくて、挿し絵だけを味わっていきたい。なお、できる限りコピーライト表示は入れるようにするけど、たいてい挿し絵画家の名前って、記載されていないことが多いので、そこら辺はどうにかしていきたい。どうにか、ってなんだかわからないけど。
あと、作品によってはネタばらしになるおそれもあるので、その場合は最初にその旨警告を記載するようにします。
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さて、この挿し絵。
これはディクスン・カー著「第三の銃弾」(創元推理文庫・「カー短編全集/妖魔の森の家」宇野利泰訳/ISBN:448811802)の挿し絵。
まず目に付くのが室内平面の表現と人物および「木立」の表現の複眼的描写法である。つまり、人物と木立は平面じゃない。ステキだ。
特に大事な室内状況の説明そっちのけで味わい深すぎるのが「木立」。すごく適当。定規を使わない絵を描き慣れていない、描き手の苦悩がありありと読みとれる。「いや、もう、かんべんしてくださいよー。こういうのほんと描けないんですよ自分」とかいいながら描いたに違いない。木とかえらいことになってる。ステキだ。
同じように人物表現もまたステキだ。「3」の人物は容疑者なのだが、このぼーっとした感じどうだ。また、被害者である「4」のデスクへののっかりぐあいも大胆。確かに作品中で「机の上にのしかかるようにして」と表現されているが、これはもう「のしかかる」の域を越えている。ステキ。
矢印・建物の輪郭・数字を囲んでいる四角形、それぞれの線の太さが整理されていないために非常に見づらくなっているのもまた味わい深い。「見やすくしちゃったら、犯人が分かっちゃうかも」という画家の行き届いた配慮か。そんなことないんですけどね。
「第三の銃弾」はカーの作品の中でも白眉とされているが、挿し絵についてはいままで評価されてこなかった。今後の研究が待たれるところである。
というわけで、これから少しずつぼくの気に入った推理小説の挿し絵を紹介し、コメントを添えていきたいと思う。作品の内容はどうでもよくて、挿し絵だけを味わっていきたい。なお、できる限りコピーライト表示は入れるようにするけど、たいてい挿し絵画家の名前って、記載されていないことが多いので、そこら辺はどうにかしていきたい。どうにか、ってなんだかわからないけど。
あと、作品によってはネタばらしになるおそれもあるので、その場合は最初にその旨警告を記載するようにします。
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さて、この挿し絵。
これはディクスン・カー著「第三の銃弾」(創元推理文庫・「カー短編全集/妖魔の森の家」宇野利泰訳/ISBN:448811802)の挿し絵。
まず目に付くのが室内平面の表現と人物および「木立」の表現の複眼的描写法である。つまり、人物と木立は平面じゃない。ステキだ。
特に大事な室内状況の説明そっちのけで味わい深すぎるのが「木立」。すごく適当。定規を使わない絵を描き慣れていない、描き手の苦悩がありありと読みとれる。「いや、もう、かんべんしてくださいよー。こういうのほんと描けないんですよ自分」とかいいながら描いたに違いない。木とかえらいことになってる。ステキだ。
同じように人物表現もまたステキだ。「3」の人物は容疑者なのだが、このぼーっとした感じどうだ。また、被害者である「4」のデスクへののっかりぐあいも大胆。確かに作品中で「机の上にのしかかるようにして」と表現されているが、これはもう「のしかかる」の域を越えている。ステキ。
矢印・建物の輪郭・数字を囲んでいる四角形、それぞれの線の太さが整理されていないために非常に見づらくなっているのもまた味わい深い。「見やすくしちゃったら、犯人が分かっちゃうかも」という画家の行き届いた配慮か。そんなことないんですけどね。
「第三の銃弾」はカーの作品の中でも白眉とされているが、挿し絵についてはいままで評価されてこなかった。今後の研究が待たれるところである。