「住宅都市整理公団」別棟

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しゃしんろん(メモ)

コティングリー妖精事件とインスタグラム(「心霊写真と自撮り」補遺)

ここのところ写真論的なエッセイを書いている。先日は『ゲンロンβ16 : 対話する哲学』に「心霊写真と自撮り」と題して、撮影者と被写体が一体化している自撮りを心霊写真と結びつけて考察したエッセイを寄稿した。ぼくらしからぬとてもちゃんとした論考で、自分で言うのもなんだがすごくおもしろいので読んでほしい。

で、本文で書ききれなかった「コティングリー妖精事件」について以下に。

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これは1917年にイギリスはヨークシャー州コティングリーに住むふたりの少女によって撮影された妖精の写真。心霊写真史を語る上で欠かすことのできないものなのだが、「心霊写真と自撮り」では、妖精にまで触れると収拾がつかなくなるのでやむなく割愛した。

シャーロキアンにあこがれたぼくにとって、コティングリー妖精事件の顛末は興味深くそしてちょっと切ない。なぜなら、これはシャーロック・ホームズの生みの親であるコナン・ドイルの晩節を汚した事件だからだ。ドイルは本まで出版してこの写真を本物だとして世に広めたのだが、彼の死後に捏造であったことが当事者によって告白された。

おそらく最も有名な心霊写真であるこの妖精。「心霊写真と自撮り」でぼくは、インスタグラムを代表とする現在の写真SNSにおいては、カメラそれ自体が "幽霊" になっていると書いた。興味深いのは、そのインスタグラムもまた「妖精」に関係しているということ。インスタグラム特有の正方形フォーマットはコダックの「インスタマチック」のそれを踏襲していると言われる。そのインスタマチックカメラはそれまで主流だったブローニー・フィルムを使う正方形フォーマットを踏襲している。そしてこのブローニーの語源はなんと妖精なのである。つまりインスタグラムの正方形はいわば妖精のしわざなのだ。

スピリチュアリズムの信奉者であったドイルにとって、心霊写真は死者の霊など目に見えないものが存在する証拠品であった。このことは、ホームズが「あの女性 」"The woman" とただひとり定冠詞をつけて呼ぶ特別な存在であるアイリーン・アドラーが登場する「ボヘミアの醜聞」のストーリーと合わせて考えるととてもおもしろい。この事件でホームズは、手紙の筆跡も専用封筒も偽造できる以上証拠にはならないが写真は決定的だ、と言う。いまでは疑わしい写真の証拠性を、ホームズはみじんも疑っていない。

そしてこの物語の最後で、依頼人に褒美は思いのままだと言われたにもかかわらず、ホームズが報酬として求めたのは自分を出し抜いた "The woman" の写真だった。証拠性と、センチメンタルな性質。「ボヘミアの醜聞」は写真の対照的な2つの機能を描いた意味でも名作だ。 
 

「盛られた」顔がほんとうの顔

『特に若い女性の間で写真アプリ依存というか、現実との乖離が進行してるように思う。以前、どんな風に撮れているのか見せて欲しいと言われたので、デジカメ背面モニターで見せたところ、「違う!これは私の顔じゃない!写真撮るの下手ですね」と不機嫌さを露わにされた』
というカメラマンの方のtweetがあった(→こちら

この話、ものすごくおもしろい。というのも19世紀中頃にナダールは肖像写真館を開くが、その時のことを「人は撮られた写真をはじめて見るとかならず失望する」と語っているからだ。ほとんどが怒りに燃えて写真館を後にした、と。(『新聞報道と顔写真』より)肖像画はもともと「盛る」ものであり、ほんらい「顔」とはそういうものだった。

おそらく写真の出現によってはじめてわれわれがいま「ほんとうの自分の姿」だと思われているものが発明された。だから、アプリが「現実から乖離」した像をつくっているのではない。これまでの写真が見せる像が「現実」とはほど遠い異様なものなのだ。(念のため言っておくが、上記カメラマンの方のことを云々するものではない。tweetされている内容はほんとうに困ったことだと思う。お察しします)

肉眼で見る恋人の顔は、写真で撮られる像とはまったく異なる。鏡にうつった自分もそうだ。これは脳内にあるその人のイメージによって「補正」されるというだけでなく、写真がある一瞬の顔の筋肉の動きをとらえてしまうという原理的な「不具合」にもよっている。「顔」には時間が含まれている。一瞬の表情が「ほんとうの自分の姿」なわけがない。

つまり自撮りアプリの「盛り」はほんらいあるべき自分像に寄せてくれるものであり、ようやく写真は肖像に適したものになった、ということだ。黎明期からその分野に挑み、200年弱たってようやく。

こうした「写真は現実を写すもの」という19世紀に発明された感覚を最もよく表しているのは『ボヘミアの醜聞』だろう。この話の中でホームズは、筆跡も便せんも封蝋も女性との親密な交際の証拠にはならないとしているのに「一緒に写った写真」ばかりは証拠として致命的だ、と言っている。

ちなみにこの話の最後で、その女性は「証拠写真」とは別の自分の写真を残して逃げる。そしてホームズは大金の報酬を断り、かわりにこの写真をもらう。その後、彼女のことをときおり思い出し "the woman"「あのひと」と呼ぶのであった。

ただ一点気になるのは盛って実現しようとする「本来あるべき自分の顔」のイメージはどこからやってくるのか? ということ。これについては別途じっくり考えよう。
 
 

「新宿 ―変容する都市の記憶」展がすばらしい

いま新宿のコニカミノルタプラザで行われている写真展「新宿 ―変容する都市の記憶―」がすごく面白かった。みんな行って見てください。2015年11月24日まで。



新宿駅周辺の昔の写真を展示しているもの。大正から高度経済成長期まであって、新宿がいかに様変わりしてきたか、一方で変わらず面影が今も残っているか、の両方を感じることができて面白い。

上は会場で販売されている写真集。190ページあまりで1000円。お買い得。


この写真集に載っている(以下同様)、1920年(大正9年)の新宿3丁目あたりの新宿通り。現在の伊勢丹のあたりか…! 路面電車が走っている。

会場では、ぜひすばらしい iPhoneアプリ『東京時層地図』を片手に見てみて! 楽しさ倍増。例えば上のこの場所と時代の地図を見てみると、続きを読む

ポートレイトにおける「腕問題」と自撮り

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グッドデザイン賞のウェブサイトにあった、今年2015年の審査員の紹介ページだ。

「今年のグッドデザイン賞の審査員一覧ページ、腕組み率が上がっている気がする」という友人の指摘に、たしかに! と思った。みんな腕組んでる。

78人中30人ほどが腕を組んでいる。背後がさわやかなブルーでなくて炎だったらまるでラーメン屋だ。

試しに昨年2014年の同じページを見てみると、びっくりするぐらい腕組んでいない。71人中たったの1人だ。そのかわりアゴに手をやっているポーズがすごく多い。昨年はラーメン屋じゃなくてジョブズだったのだ。

というか、グッドデザイン賞ってこんなに大勢で審査するのか、ってびっくりした。

それにしても、つくづく、ポートレイト写真においていちばんやっかいなのは表情じゃなくて腕なのだなあ、と。腕と手がどういう位置でどういう姿勢をとっているかは、時に顔の表情より多くのことを物語ってしまう。腕が写っていないなら写っていないで意味が出てしまう(証明写真みたいになる)。グッドデザインなだけに堅苦しくなくおしゃれにしなければならない。

なので無難なポーズが必要になる。結果、腕組みとアゴに手。無難というメッセージ。

さらにこれの場合、大人数なので同じポーズだと異様になっちゃう。難儀。カメラマンはさぞかし苦労したことと思う。

そして、こういう、ポートレイト写真においてやっかいな「腕問題」を結果的に解決した「自撮り」という形式はほんとすごいと思う。
 
 

自撮り棒=モバイルプリクラ

倉敷美観地区のプリクラ

倉敷美観地区のプリクラ

先日倉敷に行ったら美観地区の風景を合成してくれるプリクラがあった。こういうの見るの久しぶり。

自撮り棒ってこれだよなー、と思った。いずれこういうものもなくなっちゃうのかな。

年齢差は写真の画質に表れる

先日15歳差のおふたりの結婚パーティーに参加した。定番の「新郎新婦のこれまでの生い立ち写真スライドショー」で面白かったのは、画質クオリティにその歳の差が現れていた点。たとえば同じ二十歳の写真見ると、新郎のものはまだフィルムなんだけど新婦のはもうとっくに高画素デジカメ。
 
 

写真の「パーソナル性」は画像のコピーライトにではなく、表示装置側にあるのではないか(しゃしんろんメモ)

  • 以下のTweetが現在の写真のありようを考える上で非常に興味深かった



  • これが紙焼きだったら特に何の問題にもならないだろうことを考えると、表示装置が変わったことによって写真のパーソナル性が大きく変わったといえるのではないか

  • 「当該写真以外の情報がたくさん入っているものだから不安になるのは当然で、それは写真の問題とは関係がない」と思うかもしれない

  • しかし、画像はそれ単体で存在することはできず、常になんらかの「表示装置」(それが以前は紙焼きだった)とセットであって、そのセットを「写真」と呼ぶのだとしたら大いに関係がある。関係があるというか、これこそ写真の問題そのものではないのか。

  • だから、もはやぼくらが見る「写真」のほとんどの表示装置がスマホであることを考えると、これはまさしく写真の性質が大きく変わったということだ

  • というか、いままで主に紙焼きしかなかったことで見えていなかった問題が見えたということも含めて興味深い

  • で、このイラストに描かれたシチュエーションを深読みするとさらに面白いことに気づく

  • それはこの「こないだ言ってた画像」がSNSで流れてきたものだとしたら、どうだろう? ということ(ありそうな話だ)

  • 仮にそうするとつまりこの人は、スマホを手に取られてしまうのは苦手だが、自分の著作物でない画像を「取ってしまっている」ことには無自覚なわけだ。これはすごく面白いことだと思う

  • (ぼくはこのイラスト内容に対して良い/悪い、賛成/反対などの判断を下しておりません。ただ、写真を考える上での良い材料だと思っているだけ。また、上の「深読み」があくまで勝手な深読みであることも念を押しておこう)

  • 昨今問題になっている「バイラルメディア()」による画像無断利用の背後にはこういう精神があるのではないか

  • つまり、極端な言い方をするといまや写真の「パーソナル性」は画像のコピーライトにではなく、表示装置側にあるのではないか(写っているのが人物だった場合のその人のプライバシーの問題は今は埒外に置く)

  • あと、老眼が始まると、自分で距離をシビアにコントロールしないと画面見えないので手に取ることはよくある。老眼まじで困る。

 
 

もはやプロカメラマンの腕は普通に写真を見てもよくわからない問題

  • 一流のプロ・ファッション・フォトグラファーがおもちゃのカメラで撮影した写真が凄い」のプロジェクトがおもしろい。

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  • 何がおもしろいのかというと、これらの写真がほんとうに凄いのかどうかはどうでもよくて、このプロジェクトははからずも「もはやプロカメラマンの腕は普通に写真を見てもよくわからない」ということを暴露してしまった点

  • チープなカメラを使ってはじめてみんな「すごい!」って思う。これつまり、カメラの性能によって撮り手の技量の差が見えなくなったということをあからさまにしてしまっているのだ。

  • 絞りがどうの、被写界深度がどうの、っていうカメラという機械のコントロールを巧みにできる人が長らく写真のうまい人ってことになってたけど、これカメラメーカーの怠慢だった

  • カメラは本来「何も考えずにシャッター押したら思い通りに撮れる」ようになるべき。最近ようやくそういうふうになってきた

  • 今までは、実は単なる優秀なカメラオペレーターにすぎない人も「写真家」として大きな顔ができたというわけだ。でもそれももうおしまい。

  • 昨今のカメラの進化によって「技量」の底上げが起こってしまっていること、そしてそれによってオペレーション技術はプロの持っている技術の一要素に過ぎないんだけど、それが及ぼす影響は大きかったということを明らかにした優れたプロジェクトだと思う

  • あと、このプロジェクト、ファッションフォトだから成立してるよねー、とも思う。「うまい写真問題」における「ファッションフォト的なもの問題」はまた別の機会に
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カモ
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