「池田先生命」で過ごした青年期―その私が創価学会をやめた理由とは―

(総本山塔中 本住坊支部J.Y〈記事は実名〉東京都在『慧妙』H24.11.16)

【少年期に培った護法の精神】
 大阪で生まれ育った私は、昭和30年、5歳の時に母と共に御授戒を受け、創価学会員となりました。母の姉が創価学会員で、母はその姉から勧(すす)められたのです。

 私が学会活動をしだしたのは中学2年生の頃からで、それから半年もすると"分隊長"という役職をもらいました。

 その当時の創価学会は盛んに折伏を行なっており、とくに昭和39年から43年頃は、"大折伏戦"と銘(めい)打たれ、「立っているものは、電信柱以外、全部お寺に連れて行け」という号令のもと、平日であろうと休日であろうと、とにかく折伏・折伏でした。また、御書を中心とした勉強会も盛んに行なわれており、未成年だった私は、先輩について活動することが楽しくてなりませんでした。

 ちなみに、創価学会で文化祭を行なうようになったのもその頃からで、昭和41年に甲子園で行なわれた「雨の文化祭」には、私も"人文字"要員として参加しております。

 また、正本堂建立御供養の時は、まだ中学生でしたから、活動には電車を使わずに自転車を使うなどして必死で小遣(こづか)いを貯め、御供養しました。金額にすれば数千円ですが、当時の私にとっては精いっぱいの御供養ができた、と思っております。

 なお、現在の学会員は、正本堂が解体されたことで、御供養が無に帰したように騒いでいますが、私はそうは思いません。"精いっばいの御供養の志"は、功徳となって自らの生命に刻まれているのですから。

 とにかく無我夢中でそうした活動に参加する中で、私の心には、仏様(日蓮大聖人様と御本尊様)にお仕えする喜びが培(つちか)われていきました。

【「破邪顕正」を捨てた学会】
 創価学会が目に見えて大きく変質しだしたのは、昭和45、6年頃からだったと思います。
 私自身は後で知ったことですか、そのブロック制になる直前に「言論出版妨害事件」が起こって、国会やマスコミで糾弾された創価学会は、社会に向けての謝罪を余儀なくされました。そして、急速に、世間への迎合路線に舵(かじ)をきりはじめたのです。

 組織は、選挙区を意識した地域割りの、完全なブロヅク制になり(それまでは、折伏系統による縦線が主流だった)、やがて、「折伏」に取って代わって、「仏法対話」とか「友好活動」という言葉が使われ出し、「邪宗」は「他宗」になり、さらには"創価学会は「世界平和」を目指す団体である"ということが盛んにアピールされるようになりました。

 日蓮大聖人の仏法はどこまでも「破邪顕正」であり、この「破邪」を忘れたら、「顕正」も成り立ちません。それを創価学会は放棄したのですから、今にして思えば、どんどん信心に濁りが生じてくるのは必然でありました。

 一方、少年期に折伏の精神を植え付けられた私は、相変わらず「折伏」を心がけており、そうした創価学会の変貌・変質に気づかないままでしたが、さすがに、「『聖教新聞』の啓蒙(けいもう)が現代の折伏になる」という指導に違和感を覚えたことは記憶しております。

【たしかにあった「池田本仏論」】
 また、創価学会が変貌する、もう1つの大きな要因は、正本堂建立(昭和47年)と前後して囁(ささや)かれ出した、いわゆる「池田大作本仏論」であったと思います。

 末法の御本仏は、日蓮大聖人様ただ御一人です。私は、ずっと、そう教わってきました。ところが、会内で「池田先生は現在の仏様である」と囁かれ出したのですから、私はこれにも違和感を覚えました。

 しかし、創価学会に身を置いているうちに、いつしか、そうした風潮に感化されて、「池田先生命」になっていたことも事実です。恥ずかしながら、青年期は、「我が家を建てる時は、池田先生にお泊まりいただける部屋を造ろう」などと本気で思っていたほどでしたから。

 また、昭和52年の池田大作の『仏教史観を語る』という講演を、私は会場警備の創価班として、関西戸田記念講堂で生で聞いておりました。その中で池田は「会館は現代の寺院である」とか「在家でも御供養を受けてよい」と明言し、それが創価学会の「第1次教義逸脱問題」の発端となったのですが、私は、その池田の言葉を聞いて、さほど違和感もなく「そうだったのか。先生はすごいことを言い出したなあ」と納得していたのです。

 こういうことは多々あったはずで、今にして思えば、本当に怖いことです。明確に"池田本仏論"でなかったにしろ、洗脳によってそれに近い状態となってしまっていた、ということですから。

【宗門からの『回答書』に驚く】
 さて、ブロック制になった頃から時代が下ってくるにつれ、学会の変質はどんどん進んでいき、これには、洗脳されつつあった私も折に触れて得体の知れない違和感を感じるようになりました。そして、役職から離れたい、と思うようになり、男子部卒業(当時の役職は本部長)を機に、知っている人のいない兵庫県へとわざわざ引っ越しました。

 しかし、すでに資料が回っていて、そこでも地区幹事、そして地区部長と、役職を持つことになってしまいました。

 地区部長をしていた平成3年の初頭、目を疑うようなことが起こりました。『聖教新聞』に、御宗門に対する創価学会かちの『お尋(たず)ね書』が、立て続けに掲載されたのです。

 その内容は、激しく御宗門を攻撃するもので、『聖教新聞』の記事を読むかぎりでは、"宗門はそれに対して、何の返答もしない"というのです。

 不審に思った私は、総合本部の幹部会で、「学会から質問しているのに、宗門からは本当に返答がないのですか?」と質問しました。すると、「まったく無い」との回答でした。

 ところが後日、地元の正宗寺院に行ったところ、なんと、受付の所に、御宗門側から創価学会へ送った『回答書』の写しが、何通も並べられていたのです!

 「なんや、あるやん!」

 創価学会は、宗門からの『回答書』を隠して、我々会員を騙(だま)していたのです。しかも、双方の内谷を見比べてみれぱ、宗門側が誠意ある対応をしているのに対し、学会側は、明らかに言い掛(が)かりや揚(あ)げ足取りに終始しています。もはや、正邪の帰趨(きすう)は明らかでした。

 しかし、「自分が青春を懸(か)けてきたのは、何だったんだろうか」という想(おも)いから、脱会の決意もできず、ただ悶々(もんもん)とするばかりでした。

 一方、結婚を機に入信(昭和46年)した妻は、入信当初から「学会員としてではなく、他に日蓮正宗の信仰をしていく道はないのか」と聞いてきたほどでしたので、創価学会をやめて寺院につくことには何の抵抗もなかったようです。妻は、「私は、日蓮正宗創価学会だと思うから今まで学会にいたけれど、創価学会から"日蓮正宗"の4文字が取れたら、学会にいる必要はない」と言いましたが、まさにそのとおりだと思います。

 そうした妻の支えもあって、平成3年9月、創価学会の破門と同時に、家族揃(そろ)って創価学会を脱会し、日蓮正宗の信仰に戻ることができました。私の決断の理由はただ1つ、「おかしくなったところに、おるわけにいかん!」ということです。

【創価学会と日蓮正宗の違い】
 法華講員として信心してくる中で、初めて気づいたことがあります。それは、創価学会は昔から日蓮正宗の信仰をしていなかった、ということです。

 似て非なるものというのでしょうか、我々が学会時代に「これが日蓮正宗の信心だ」と思い込んでいた、池田発・本部発の指導は、じつは、創価学会を利するためのものであり、仏様をお護(まも)りするためのものではなかった。それに気づいた時、私は、「けっして、1からやり直すのではない。むしろ、マイナスからのスタートだ」と自覚しました。

 今、法華講員として本当に充実した日々を送っております。総本山参詣も折伏も、楽しくてたまりません。

 おかげさまで、夫婦とも、学会時代にあった身体の不調が全て改善されて、いたって健康になり、家業は、この御時世ですから厳しい面もありますが、ピンチの時には不思議と乗り越えられます。何よりも、3人の娘を含めて、家族が本当に心を通わせることができるようになり、さまざまな面で御本尊様に守っていただいていることを実感する毎日です。

 これからも、日蓮正宗の正統な流れの中で、しっかりと仏道修行に励んでまいります。