2007年05月06日

それでも主は

ご無沙汰しています。

夏の暑さを感じさせたここ数日でしたが、今日は涼しい1日でしたね。
こうやって、寒暖を繰り返して、
春は終わり、夏になっていくんですね…。


今日、教会で洗礼式がありました。
弟が1人、増えました。

礼拝後、遺伝の病気を持っている彼のため、
みんなで祈る時を持ちました。
肩に手を置いて、癒しのため、これからの歩みのため、祈りました。

彼が入院していたときお見舞いに行ったり、
普段優しく声をかけ、祈りで支え続けてきた人たちが
彼のため今日も心を合わせて祈る、その中に、
彼のためほとんど何もしてこなかった私が置かれていました。

去年の7月、新会堂が建てられて、
新しい人がたくさん来るようになって、
たくさんの行事と、決めなきゃいけないことがあって、
みんな忙しくて、
その中で孤独を感じていた私は、
新来者の方や、新しい青年たちに対して、なかなか心を開けませんでした。
新しい青年たちが互いに仲良くなり、
時間を共にしているのを横目に、
いつも、一歩距離を置いている自分がいました。


彼が初めて教会へ来たのは去年の9月頃。
8ヶ月経った今日、その彼がイエス様を救い主として告白し、
主の御名によって洗礼を受けているのに、
それが嬉しいのに、
私の心には「私は彼を愛してこなかった・・・」
という言葉がずっと渦巻いていました。


だから、お祈りの時、どう祈っていいのかよく分からなかった。
祈られる言葉に心を合わせつつ、
思いやりの涙で震える声を聞きながら、
私は1人、私の愛の無さに涙を流していました。
言葉が出そうで、出なくて、
それでもそこにいました。

その時、もやもやした心の中から、
突然、感謝の思いが噴き上がってきました。

私は彼に何もしてこなかった。
私は悲しむ彼とともに悲しみ、
喜ぶ彼とともに喜ぶことができなかった。
私は彼とともに時間を過ごすことも、
彼に何かを贈ることも、
彼に対して言葉をかけることさえ、できなかった。


それでも、主は救って下さった。


主が彼を慰めて、
主が彼とともに悲しみ、喜び、
彼とともに歩み、
彼にご自身のすべてを捧げ、
彼に必要なすべての言葉をかけてくださった。
主が、彼を愛してくださっていた。


主の救いを妨げることが私に出来なかったことを、心から感謝しました。
主の愛が完全であることを、心から感謝しました。


今日洗礼を受けたばかりの兄弟を通してをも、
主は語って下さる。

主の勝利は揺るがない。
主の救いのご計画を、誰も邪魔できない。
主の御心は、成る。と。


今日の祈りの輪に私を加えて下さったこと、主の憐れみでした。

深く悔い、首を項垂れて「自分はダメだ・・・愛のない者だ・・」と叫ぶ時、
「しかし私は完全だ」と宣言される主。



全てを覆う愛の強さをまた1つ知った日。

  

Posted by sola_deo_gloria at 18:03Comments(3)

2007年04月01日

第8回聖書通読セミナー

に、行って来ました。
28-29日。奥多摩福音の家。

なんだか、しっとりと落ちついた今回のセミナーでした。
号泣、とか、
猛烈に感動!とか、
そういうのは無いけど、
自分自身がまたじっくりとみことばと向き合えて、
みんなと一緒に神様の元に行けたなぁと思えた2日間。

自然の中に身を置くこと

神様の備えられた1日のリズムに、身を任せること←要するに早起きすること笑

神様を求める友と一緒にみことばに聞くこと
語られたことを分かち合うこと
分かち合われたことを聞くこと・・・

聞くことと、話すこと

黙ることと、言葉にすべきことを言葉にすること

生活の中に、主のみことばを落ちつかせていくこと


その大切さをじっくりと噛みしめながら、そこにいました。


今回の4箇所から私が学んだこと。
それは、
人の正しさは人を殺し、
主の正しさは人を生かすということ。

主は何と罪人に対して優しく憐れみ深いんだろう。
私たちが「罪深い」「汚らわしい」「ありえない」と石を投げようとする時、
主はその人を高くあげ、義と見なし、
人間の裁きの虚しさを示される。

逆に自分が正しいと自信たっぷりに人を諭し、
人々からも「すごい」と言われるような時にも、
そこに愛が無いならば主は「不信実である」と宣告される。

主のなさることは私たちの目には不思議で、
私たちは自分自身や他人を裁くことをやめるようになる。
・・・やめなきゃいけないと悟るようになる。
目が、見えるようになってく。

神が義とするものに関して、私たちは何も言えない。
神が味方であるなら、誰も私たちをその愛から離すことは出来ない。
なんていう守りだろう。
その名が堅固なやぐらである神様。
本当に、生き続けることに意味がある。


通読もそうだと思いました。
自分が読めていると思うときも、思わない時も、用いられてしまう不思議。
それを知ると、ただ生き続けていることに意味があると痛感してく。
自由に気付かされる。

主(のみことば)に触れていただき続ける時、
いかに自分が見えていないかが分かる。
それだけでも、すごいことだけど、
見えていないことを認め「見たい!」と待ち望むとき、
主は見せて下さる!と信じるとき、
実際に見えるようになっていく幸い!!


主に期待すること。
主が成し遂げて下さると告白し続けること。
それをどれだけ主は求めておられるんだろう・・・

私は神様に期待しなすぎる。そう思いました。
春期でもそれはすごい思ったから、
神様は私にそれを強調したいんだろうなぁ。

でも、やっぱり基本的なことを繰り返し語り聞かせられることの大事さ、
すごく思いました。
私の原点のこのセミナー。
次も楽しみだな。


まとまんないけど。
こんな感じに思ったので報告です^^

  

2007年03月02日

3周年記念

神様が私を癒されて、今日で3年。
毎月、2日になる度に、私を守り続けてくださっている神様を思って感謝を捧げています。
エジプトから主の力強い手によって連れ出された民が、
そのわざを代々に渡って覚えるようにと言われたように、
私も今日、主を思います。

今日、3月2日は私にとって出エジプトの日。


この3年間…。
健康でいることが、普通ではないことを知った。
食べ物を、初めてゆっくり食べ、美味しいと思えた。
頭の中でぐるぐる計算を続けることから解放され、
劣等感が払拭され、
道ばたに咲いている花に目がいくようになった。

感謝しても、しきれない。
  

Posted by sola_deo_gloria at 17:45Comments(2)

2007年02月28日

決意

最近決意したこと。

もうキツい言葉は吐かない−−;

なんか、自分が思っている以上に、本当にキツいらしく、
慣れてる人は流せるけど
慣れてない人はすごい傷付くらしい…

ふみ曰く、「特に男の子にものすごいキツい」ってさ…
本当に反省してるんです。。
本当にごめんなさい。。。

なので本当に祈りました。悔い改めました。
ツッコミでもキツい言葉は極力控えようと思います(TT)

多分適切な距離感もってないのね。
だから神様に訓練される間、しばらくは意識しないところで
チクチクと痛いコメントを吐き続けるでしょう…
でもどうか寛容な心でもって許して下さい。


もひとつ。
携帯控えます。
なんか淋しくなると携帯に向かう自分がいたり。
朝起きてまずすることがメールチェックだったり。

連絡・連絡・連絡が続くのはしょうがないとしても、
携帯でミクシ見たりとか、意味もなくメールを読み返したりとか、
やめます。

てか今日、携帯見ながら道を歩いてたら、
車椅子の知らないオジサンに、
「携帯なんかやってんじゃねーよ!!!」って、
通りすがりに腹を殴られた・・。
びっくりした・・。

それは関係ないかもだけど、
とにかく携帯を開く時間を管理するようにします。



最後に。
健康管理に、もう少し気を遣うようにします。
私なりにここ2ヶ月くらい、かなり気を遣ってはいたんだけど、
やっぱり波があるし、
最近は寝る時間もまちまちで、運動もそんなしてなくて、
でももらった身体は私のものじゃないから、
ちゃんと管理しないとなって思うようになりました。

もちろん食べ物は感謝して食べたいし、
私の性格上そこまでストイックにはなれないかもだけど、
一応気にするという意味で、意識改革です。




優しい、自制の出来る人間になりたいな。。。

ほとんどつぶやきに近い今日の日記でした。

  

Posted by sola_deo_gloria at 18:47Comments(3)

2007年02月13日

神の定めに従って…

KGK卒業生会主催の、「キリストに生きる〜結婚編〜」合宿に参加してきました。
心が引き締まり、けれどもラクになって、帰ってきました。

神様が求めていることは何か、それが分かると、
それ以外の余分なことに心を奪われることから守られる。心配が削がれる。
そう思います。

いくつかのことを、シェアしたいと思います☆

*  *  * その1 *  *  *
私が今回の合宿で決心したことは、まず
『「私に限って」…を捨てよう』
『「大丈夫」を捨てよう』
ということかな。

私の中に、「備えあれば憂いなし」という言葉が常にあった気がします。
夫となる人に迷惑をかけないために、頑張らなきゃ!っていう心。

失敗してはいけない、
他のどの夫婦よりも「信仰的」な夫婦じゃなきゃいけない、
子どもも「ちゃんと」育てなきゃいけない、
家事も日々のディボーションも、何もかも、「きちんと」やらなきゃいけない。

完璧な妻。
完璧な母親。

そういうイメージ。
私の中に築かれていた、競争する心。主に頼らない心。

…それを捨てなきゃいけないって思いました。

私自身の弱さを知り、
そして夫となる人、また子どもの抱える弱さを受け入れ、
主の赦しを受け取りながら、主に信頼しながら、歩む。
それが強さであって、「これさえやっておけば安心」は、ただの偶像礼拝。

捨てます…と祈った瞬間、とっても心が自由になりました。
♪主にすがる我に悩みはなし…十字架のみもとに荷を降ろせば…
だね。


*  *  * その2 *  *  *
そして、これは合宿の前から主に示されていたことだけど、
「今置かれている場所で誠実であろう」ということを思いました。

結局私には1秒先のことさえ分からない。
予測は出来ても、そして考えるべきであっても、
私には「今」という瞬間しか知らされていない。

主はその「わからない」状態の中で、
与えられている人、置かれた選択肢に対して、誠実であること
=主に正しい道を聞き続け、歩むことを求めておられる。

この場合には何が誠実なのか。
このシチュエーションでは、どんなことばと態度が求められるのか。
何を選択するべきなのか。
それを求めていこう。分からないことに関して心配することをやめて、
与えられていることに対して、まず誠実であろう。

その決意が新たにされ、多くの思い煩いから解放されました。

『主はあなたに告げられた。人よ。何が良いことなのか。
 主は何をあなたに求めておられるのか。
 それは、ただ公義を行ない、
 誠実を愛し、へりくだって
 
あなたの神とともに歩むことではないか。 micah6:8』


*  *  * その3 *  *  *
「好きな人が良い」
「尊敬できる人が良い」
その思いは、常に私の中にありました。
今もある。
でも、その捉え方が今回の合宿でだいぶ変えられた気がします。

まず、恋愛感情に関して。
好きという感情は、3ヶ月から3年で消える。
結婚式の誓いの言葉。そこには「好きでい続ける」という条件は入っていない。
もちろん主は感情を否定してはおられない。
でもそこに望みを置き続けるなら、それは恋に恋しているのであって、
相手を愛しているのではない。
私の中で結構上位にランクインしていた「ドキドキ感」「好み」を、
主に預けることにしました。

そして尊敬に関して。
「尊敬できる人」・・・私にとってその意味は「完璧な人」だった気がします。
失敗をしない人。「私の」好み、願いにすっぽり当てはまってる人。
さっき「その1」で書いたことを、相手にも求めていたみたい。
だから、尊敬できる人を待つというより、
自ら「尊敬することが出来る者」へと変えられるよう祈ることにしました。
「尊敬できる人」というより、「主のみこころの人」を求めようと思いました。


---------------
私にとって1番大切なことは、
心と思いと力と知性を尽くして私の神である主を愛すること。
主に仕えていくこと。

主のみこころを探し求め、それを選び進んでいくこと。
その中に結婚があるかもしれない。無いかも知れない。
あの人かもしれないし、この人かもしれない。

でも、どっちでもいい、誰でもいい、と思うようになりました。
それが1番大きな変化かな。
私の願いは主が知ってる。
私に必用なものも主が知ってる。
誠実に歩もうとするとき、きっと主は示して下さる。

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あなたはこの者と結婚し、
神の定めに従って夫婦となろうとしています。
あなたは、その健やかなときも、病めるときも、
喜びの時も、悲しみの時も、
富めるときも、貧しきときも、
これを愛し、これを敬い、これを慰め、これを助け、
そのいのちのかぎり、堅く節操を守ることを約束しますか。
----------------

誓いをたてるためには、今主に対してそのような歩みをしなきゃいけないと思いました。
神の定めに対して、いつも従順でありたい。

  

Posted by sola_deo_gloria at 21:02Comments(5)

2007年02月11日

ことばの奥にあるもの

本当は、catchの巻頭言に書きたかったけど、書ききれなかったこと。

それは、問われ続けることの重要性。
問いが聞こえるところに身を置き続けることの大事さ。


最近、学生同士で週1で聖研をする機会があって、
2週参加してきたのですが、そこですーーごく思ったのは、
「追求してくれる人がいるって、ありがたいことだなぁ」ってこと。

自分の発する言葉を、とことん追求してくれる人。そういう場。
それは、自分の信仰を確認する上ですごく大事なことだと思います。

特にあいまいな言葉・態度でその場を乗り切るクセのついた日本人(てか私)にとって、
「その○○ってどういう意味?」
「それってこういうことにならない?」
って問われることは、
自分がその言葉によって実際は何を表そうとしていたのかに直面させられて、
すごく良い確認の時・訓練の時になる。

例えば、「完全」「弱い」「罪」「求める」「律法」…という単語。
聖研の中でそれをそれぞれが説明していくのですが、
それを別の言葉で説明していくとき、
説明する中に使った言葉も追求されたりしていくと、

「あぁ、私はこういうぼんやりしたイメージしかもってなかったのかー」 とか
「そうか、説明するときにはそういう風に言えばわかりやすいのか」 とかわかって、
いろいろ勉強になりました。

こんな風にとことん追求される機会って、最近無かったなーって思いました。
すっごく大事なことなのに。

もちろんその場の空気もあるけど、
私も、その人が本当に何を信じ、何を思っているのかを
質問によってその人に示せるような人になりたいな。

前に、「よいリーダーとはよい質問が出せる人だ」
みたいなことをどこかで聞きましたが、
うん、そうだよなー、そうありたいな、って思います。


学生同士でみことばに聴く時を持つこと。
みことばから、あるいはお互いから、問われること。
すっっっっごい大事だなってあらためて思いました。


ことばの奥にあるものを見つめられる人でありたい。

  

Posted by sola_deo_gloria at 16:28Comments(0)

2007年02月09日

もう2月だね

書きたいことはたくさんあるはずなのに、
頭の中でぐるぐるまわってて、なかなか文字にできない。
そんな日が続いています。

たくさんのことに気づきすぎて、
どんどん古くなっていってしまうっていうのもあるのかな。
次から次から教えられる、みたいな感じ。


私にとって一番弱い部分が、神様によって取り扱われていて、
失敗を犯しつつも訓練され、少しずつ強化されている、そんな気がします。

前回のタイトルと同じように、
いろんな分野において神様は私を2nd stageへと導いてくださっています。
でもこれは一生続くんだろうな。。


はい、すーーーごい漠然とした内容ですねー
すみません
ごちゃごちゃで^^;


また書きまーす!
  

Posted by sola_deo_gloria at 17:00Comments(0)

2007年01月29日

2nd Stage

残された日々はもう本当にわずか。
学生、というステージが後少しで終わる。

今日、ある集まりがあって、学内での自分の歩みを振り返る時をもちました。
来年度につなげるため。

共に歩んできた仲間たちと共に、反省、感謝、課題をシェアする時、
淋しいなぁという思いと同時に、最後まで、というかこれからも、
私に課せられた使命を果たそう、という思いが沸いてきました。

語るべきことを語り、
伝えるべきことを伝え、
するべきことをし尽くし、
用意できることはすべてやって、
そして卒業しよう・・・・って。

私が愛してきた人たちと、1つの意味での別れを告げなければならない日が、近い。
まだそこまで実感がないし、
実際にはそこまできっぱりとした別れにはならない。
でも、すごくすごく、胸に迫るものがある。

時は流れるんだなぁ。


MTの後、私のお気に入りの子と初デートを果たしました。笑
次は、その子が4年生。
支えられていた側から、支える側にまわる恵みを2人で分かち合って、
他にもいろんなおしゃべりをしたけど、
私はもっと大きな意味で、直接的ではなくても間接的に、
支える側にまわっていくんだぁ…
それが許されているんだ… と感じていました。
祈りによって。
見守ることによって。



私が出来なかったこと。
苦手だったこと。
それは、いろんなイベント企画してみんなで交わる機会を自分からつくること。
イマイチ自信ないのと、個人的な交わりのが自分に向いてると思ってたのとで、
今までは遠慮してました。

でもみんなで会うとやっぱり楽しいし、豊か。
だからこれからちょっとずつ勇気出して、
中人数での遊び企画、やってみよーかな(。_。)

2年間の学内活動においてはホント自主性が訓練されたけど、
それは
、こうやって次につなげるための神様の計画だったのかなー、
新しいステージに招待して下さってるのかなー、って思う。
そう思うと、
さびしかったけど、楽しみが出てきたなぁ(o^_^o)


ま、でもとりあえず残された日々を大切に生きよう。

  

Posted by sola_deo_gloria at 18:03Comments(2)

2007年01月01日

第7回聖書通読セミナー

あけましておめでとうございます。

12月29−30日に、奥多摩福音の家にて行われた、
第7回聖書通読セミナーに参加してきました。

なんとなく頭の中に作られてしまった
「あんまり期待しすぎるとガッカリしたときのダメージが大きいから、
 ちょっとだけ期待した方がいい」
という概念にも関わらず、
行きの電車の中、いや数日前から、んー嘘、数週間前から、
私の心の中は期待に満ちていました。

なんていうか、言葉にはしずらいんだけど、
このセミナーに来ると、いつも、いつも、
自分の中にひっそりと隠れていたいろんな罪に気づかされて、
私の知らない、新しい、大きい、限りなく優しい神様に出逢って、
希望がひたひたと胸を満たすのを感じながら帰るから。

「謙遜」「真面目」「大胆」「満足」
といった隠れ蓑から、あらゆる邪悪な罪が見えるとき、
本当にぞっとします。

掘っても、掘っても、自分の心の中に巣喰う悪は底が見えなくて、
それでも主イエスによって「あなたは私の聖なる者」と宣言される主を思って、
ただひたすら涙する。

砕かれる機会を、このセミナーはいつも与えてきてくれました。

そして今回も。


この数ヶ月、私の頭にはあらゆる思いがひしめいていて、
互いに「私が正しい」「いや、私が正しい」と主張しあっていて、
だから何が正しいのか本当に分からなくなって、
混乱の中から主を求めていました。

卒論とか、人間関係とか、奉仕の仕方とか、伝道とか、
それは1つ1つが「出来事」であって、
それ自体が悪なんじゃない。
(その出来事を通して本当の自分の姿が見えているだけ。)
それは分かっていても、何が主の求めることで、何が主に喜ばれるのか、
私には分からない。そう思っていました。

通読セミナーのチラシが教会に届いたとき、
そこに載っていた私の大切な親友の証に、胸が刺されました。

主は、私たちが何をしたかを見ているんじゃない。
その中で、どれだけ主を求めたかを見ておられる。
「よく○○したね」
ではなく、
「よく求めたね」
と言って下さる。


……私は、主を求めていたんじゃない。
私は主が私のしたいことを手伝ってくれるように求めていた。
神様ではなく、私が「主」になっていた。
私が求めていたのは、主の力、主の知恵であって、
主ご自身ではなかった…のかもしれない。

そんな自分を知って、恐ろしくなって、でもそこまで悲しめなくて、
罪に慣れ親しんでいる自分を見ました。


主が「良い」と言ったものを、
なぜ私は「いいえ、まだダメなんです」と言うんだろう。

主が「聞け」と言うときに、
なぜ私は主を差し置いてしゃべり続けるのだろう。

言葉では何とでも言える。でも私の心が、腐っていたんだ。



セミナーの間、私はみことばに戻るように呼びかけられていることを感じました。
主が私に、このモヤモヤした、ぐちゃぐちゃした心のままで、
「よい」
と語りかけ、「ゴミ箱の中に手をつっこむようにして」拾い上げ、
涙を流して抱きしめられる。
「わたしはあなたを愛している、それをわかってくれ」
と語りかけられる、
そのことを感じました。

涙が止まらなかった。
ずっと、こんな風に泣くことが無かったと感じながらタオルを目にあてていました。

ずっと、語られていたのに。
何をかたちにこだわっていたんだろう私は。


証をしてくれた友だちも、
前の席に座っていた、もう1人の私の大切な友だちも、
泣いていた。
同じみことばを読んで、感じたことは違うかもしれないけど、
こうして同じ場所にいて、主に語りかけられて、
主に心触れられて、共に涙を流せる。
それが嬉しかった・・・。




セミナーの中で、私は2回、友に手を触れました。
(本当はもうちょっとだけど)
1度目は緊張していた人の肩に。
2度目は泣いている友の腕に。
でも、私が励ましたんじゃない。慰めたんじゃない。
私が励まされ、慰められ、力付けられたんです。
手が置かれるままにしてくれる、そのことがこんなに嬉しいなんて!
「いてくれてありがとう」
その無言のメッセージが、こんなに自分に力をくれるなんて!

「そこにいることに意味がある」
「今日生きているなら、それが主の赦しだ」
それが、心の、奥に、奥に、染み込んでいきました。


ああ、毎日それを感じて生きていけたらなんて素晴らしいんだろう!

セミナーを通して、
卒論に追われ、目的も何も見えなくなっている私に、
神様は平安を与えてくださいました。
同時に、ぐちゃぐちゃだった心に光が射すように、
もーーーのすごくたくさんのことが「ぱっ」と見えるようになったような気がします。
(それについてはまた今度。)

今回、すっごく多くの参加者が与えられたことは、本当に感謝でした。
生きている神様を迎える用意のある場所には、
主の栄光が満ちあふれる。
多くの人がその喜びを受けるために、招かれる。

セミナーが閉じられてしまう前に、より多くの人が来れると良いな…

  

2006年11月06日

学校での生活も後わずか…

そんな秋の1日。
11月3日、ベイのみんなに手伝ってもらって、配ってきました。

学祭にて、ちらし約240枚、新約聖書70-80冊、トラクト14部。

みなさん…お疲れさまでした…本当に。


ちなみに私、自分の大学の学祭、4年目にして初参加。笑
どんだけ学校に興味ないんだよ…笑 ←本当は笑えない。

何かをしたくても、1人で行動し続けるっていうのは、本当に大変。
それを学んだこの3年とちょっと。

今回もそうだけど、励まし、祈ってくれる仲間、
必要なときに力を貸してくれる仲間の存在が、
どんなに大きいかを身に染みて感じています。


そして今回のチラシ&聖書配布で、私はまた1つ謙虚にさせられました。
私は、なんか聖書配ったりとか本当苦手で
自分が求道者の気持ちに立つと、どうしても「アヤシイ…」と思ってしまう気がして、
そうすると自信をもって配れない。
こんなに大切で、大好きな神様のいのちの言葉なのに。
拒否られるのもイタイし…っていうのもあるのかな。
とにかく、外で知らない人にバンバン配るのが心底苦手で。

でも、一緒に配ってくれた子たちは、すーごく一生懸命、
そして自信を持って聖書を手渡していて、
心から、心の底から、「すごいなぁ」って思いました。
こうして、それぞれが用いられるんだなぁって。


…まぁ、とにかく、チラシは配られて、種は蒔かれた。
「在学期間」という時間の枠で見ると、私に残された時はわずか。
でも、神様のみことばに時間は関係ない。

大きく育て!!!種たち!!
  

Posted by sola_deo_gloria at 16:51Comments(2)

2006年09月08日

休むことも大事な仕事

この間、うちの教会の宣教師さんのお家で、久々に学びをしました。
「心のケアをする」ということについて。

私たちは、身体をケアするということは知っているし、まめにします。
毎日睡眠をとって、食事をとって(栄養のバランスも考えて)、
運動をして、お風呂に入って…。

でも、心に関しては意外と放置。

でも心だって、ケアを必要としてる。
だから身体が熱を出したり、疲れを感じさせたりして
「助けて〜」の信号を出すように、心だって私たちにサインを送る。

特に教会生活において、心を見張る、ということはとても大事だと思います。
だって、『いのちの泉はここからわく』んだもんね。
心の状態がおかしくなれば、私たちの信仰生活全般がおかしくなります。

例えば、奉仕のしすぎ。
多くの仕事に手を出しすぎ。
責任が自分にかかりすぎ。
他の人のことばかり考えて、自分が後回しになってしまう。
こんな時は本当に注意が必要。だそうです。

まぁ普通に考えてそうですよね。。。
携帯だって充電しないと使えなくなるし、
私たちも放電しっぱなしでガンガン行けるわけがないですよね。。。

それで、心がHelp!の悲鳴をあげてるとき、どんなことが起きるかというと…

1)Burned out(疲れ果てる)

2)Break down(崩れ落ちる)
3)Burst out(吹き出す)

なんだって。

Burned out…もう何もかもイヤになって、やる気が起こらなくなってしまう。
         放心…状態。

(これはすっごく思い当たるふしがあります……。)

Break down…もうわけわからなくなって、泣いて、わめいて。。
         心のバランスが崩れちゃう。もう無理。できない。そんな感じ。

Burst out …人にあたる。ちょっとしたことが「スイッチ」になって、怒りが吹き出す。
         ほんの些細なことがとてつもなく大きく感じて、怒鳴りつけたり。

私の場合、今年の春〜最近まで、1)のBurned out状態でした。
多くの奉仕をやらせてもらって、すごく充実していたけど、休めてなかった。
休む時間はあったんですが、きっとそれを正しく使えていなかった。
まあ奉仕の量とやり方にかなり無理があったのは事実ですが…。

「すべて疲れている人は…」。
有名な聖句。
でも私はイエス様のところに行っていただろうか。
行っていた。そう思うんです。

でも・・・
求めてたかな〜って。生き生きと奉仕するための力と、知恵。
私は、握りしめすぎていたのかもしれない。
自分じゃなきゃこの仕事は出来ないでしょ!と思いすぎていた。かも。
心にとって、
休むということは、=(イコール)のんびりすること、
            遊びに行くこと、
            好きなことをすること、
                        じゃない(それも大事だけど)。
休むということは、みことばを思いめぐらし、
イエス様に心のもやもやを話し、
定期的に「吐き出す場」を持つこと。…だろうなって思います。

生き生きと奉仕するために。
削って良い仕事がある。
取らなければいけない休息がある。

休むこと、自分の心をケアすることも、実は大事な大事な仕事なんですね。
だって新しい力は神様との交わり以外のどこから来るのだろう。
奉仕する時に中心にあるべき、「人を愛する」というその愛は、どこから来るんだろう。

日々のディボーションの中で(=家事)、
週に1度の聖日の日(=片づけ、拭き掃除)、
あるいは2〜3ヶ月とか、仕事が終わった時とか、1年とかいう
も少し大きな「区切り」で(=大掃除)、
神様と集中的に時間を持つこと。
そうやって、こまめに+どど〜んと、自分の心のお掃除すること。
習慣にしたい。今の内から 
9"

  

Posted by sola_deo_gloria at 19:39Comments(6)

2006年08月19日

夏期学校を終えて

ただ、ただ、感謝としか言えない。
思いを書き表すと、こぼれてしまいそうで。
小さくまとめたくもなくて。

私がどれほど夏期を愛し、
準備してきた期間がどれほど満ち足りていたか。
それを表すすべがあったら良いのに。

電車から降りて、家まで30分の帰り道、感謝で胸がいっぱいで、
淋しくて淋しくてたまらなくて、
涙がぼろぼろ出てきました。

神様が生きておられる方であることを感じて、
深い悔い改めと、強い確信を心に帰ってきました。

これからすこしずつ、分かち合いたいな。
本当に、本当に、ありがとう……

  

Posted by sola_deo_gloria at 22:35Comments(11)

2006年08月06日

夏期学校

すっかりご無沙汰していました敏江です。
最近ようやく夏らしくなってきましたね。
昨日は渋谷→代々木公園まで歩いて、フリマに行って来ました★
その暑いこと…頭がクラクラするほどでした

夏と言えば…
もちろん、夏期学校ですよ、夏期学校!!!

KGK(キリスト者学生会)主催の伝道キャンプ。
準備委員として奉仕させていただくことが決まってから早4ヶ月。
「準備」の段階ですでに、毎日、毎日、本当に恵みを受けています。

準備をする上で、たくさんのみことばに触れます。
テーマ聖句選びで…奨励で…ディボーションや聖研の用意で…。

そして、たくさんの祈りを神様に捧げます。
自分自身のこと…参加者のこと…プログラムのこと…その他たくさん。

そんな交わりを通して、本当に自分自身が変えられるんです。
みことばは自分の弱さを提示し、祈りはそれを神様に捧げる時となる。
そんな交わりは、本当に力を与えるもの。そして、楽しいもの。
ミーティングを楽しみに待っている自分がいます。

同じ目的を持って、共に戦う兄弟・姉妹が与えられていること。
すごい感謝だなって思います。
4ヶ月前は、全然お互いのこと、知らなかったのに。
不思議なくらい、団結力が与えられていて。


キャンプ自体は、8月15日から18日まで。
後1週間です。
期待。

  

Posted by sola_deo_gloria at 19:25Comments(7)

2006年06月27日

で、その授業が…

「後でまた…」と言いながら、こんなに後になるとは
コメントありがとうございました。わかってもらって嬉しいです(T_T)

最近、「キリスト教の愛」について学んでいるんですが、
驚いたことになかなか良いんですよ。言ってることが…
なんか、あのバカにした口調?が和らいだ?
お祈りのおかげなのでしょうか…
結構プチメッセージっぽくもあって、なかなかびっくりです。

…とそれはおいといて…。
教授のイヤミな講義を聞きながら怒りに打ち震えていた私。
「なんでこんなことを言わせっぱなしにしているんですか」
「今すぐあの人の口をふさいでください!」
「あなたは馬鹿にされてるんですよ。耐えられますか?
 私はこんなの耐えられません」

こんなに怒りを感じたのは、本当に久々かも。

でも、神様がじっと黙って、何かを伝えたいと思っている気がして、
なんだろうと思って考えた瞬間、
心が貫かれた思い。
「私だって…」

彼と何が違うというのだろう。
神様を知る前の私は、神様を知らない私。
神様を喜ぶことを知る前の私は、神様を笑う私。
キリストの受難に涙することを知る前は、彼は私にとって「愚か者」…。

神様にあって初めて知恵を得るのならば、
神様との和解無しに人は愚かであって当たり前だ。

教授は、全て神を知らない人が心の内に抱えている思いを、代弁しているだけ。
ただ正直なだけ。
そして、それを見て私が感じる痛み、怒り、悲しみは、
神様の感じる痛みに比べてなんだというのだろう。

神様のことを信じないという、そのことが、
神様にとってどんなに深い侮辱であったかを思いました。
そしてその侮辱を超えた愛というものが、私には到底理解できないものだということも。
その愛を与えられて私がここにあるのか…という驚きは、
憎んでいた教授の祝福を願う
祈りへと繋がりました…。

この授業、相変わらず「楽しみ」では全然無いけど、
教授はこれからもあの口調で語り続けるだろうけど、
語られていることは福音そのものなんです。
彼が(批判のためにでも)プリントに載せているのは、みことばそのものなんです。

パウロが言ったように、私も、
どんなかたちであっても御言葉が伝えられているということを喜んでいます。
みことばには力があるから。
例えそれが、神様を知らない者の口を通してであっても。

  

Posted by sola_deo_gloria at 18:11Comments(3)

2006年06月16日

キリスト教文化論っていう授業

今から、↑に行ってくるんですが…
正直言って、苦痛です…

一応「宗教学」っていうことで、主観を交えない授業ということになってます。
概念的にキリスト教を学ぶ授業ということで…

でも、教授のあのしゃべり方は何だ?!!
なぜあんなにもキリスト教に対して敵意を抱いているんだろう
(と思わざるを得ないしゃべり方)

なんか…多分クラスにクリスチャンがいないという設定でしゃべっているのでしょうが、
本当に失礼で、私はいつも心に炎をメラメラさせながら聞いています。
今、しゃべり方について抗議しようか真剣に検討中…

でも、この授業を通していろんなことを神様は教えてくださった。
今はもう行かなきゃだけど、後でまたシェアさせてください

では、いってきます。。。。

  

Posted by sola_deo_gloria at 14:20Comments(6)

2006年06月14日

昔の日記

私、あるんです…
「見られてはならない日記」が……(。_。)

アメリカ時代の、あの暗黒時代の日記。
神様が私の心にいない頃の日記。

あの頃から、私は書き表すことが自分の心を整理し、
また時に静める効果を持っていることを知っていました。
「懺悔」じゃないけど、例え日記でも告白することで心が幾分軽くなることを。

だから、自分の感情をそのまま、正直に書いてる。
起こったことを、正確に書いてる。


今も私は日記を付けてます。ほぼ毎日。
聖書と同じサイズのA5のノートも、もう10冊軽く越えたかな?
ディボーションノートと一緒にしてるから、祈りとか、聖句とか、
瞑想の内容とか、その日あった出来事の感想?とか、ごちゃごちゃ。
でも、読み返すと神様の導きがはっきり見える。
忘れちゃうからね、つけておかないと。
辛かったことも、嬉しかったことも、月日に埋もれていっちゃう。
だから、例え箇条書きでも、何か残しておきたいって思うんですよね。

そして、今も書くときは正直に書く。
悪口もしっかり書く。
それは、後で自分で読み返したとき、自分がどれだけ変えられたか分かるため、
そして自分がこんなにも罪人であることを「証拠」として残すため。

だから、「信仰日記」を読み返すたび、謙虚な思いにさせられます。
そしてその時全然分からなくても、読み返したときに、
本っ当様々な方法を用いて神様が私の祈りに応えていて下さったことがわかる。
付けてて良かったなって、本当に思うんです。


でもね。
アメリカのあの日記は、、、

まぁある意味、神様との出会いストーリーなんです。
日記の半分まで、「神様を信じていない敏江」がいる。
そして半分を過ぎると、「神様に出会った敏江」が、いる。
だからすごくすごく貴重な記録というか。
イエス様との最初の出会い。
いつも、そこが原点だと思うから。

でも、正直に書いてるからこそ、心を注ぎだしているからこそ、
あまりに汚くて正視できない。
「誰?」と思うほどひどい。

この間、ようやくきわどい言葉を消そうと思い立ち、
修正液を持ち出して消し始めたんですが、
途中で、いろんな思いが混ざってきて、ストップしちゃいました。

 この恥ずかしい思いを、私は忘れてはいけない。
 何とか過去を消そうとしている今の自分を、忘れてはいけない。
 ここに書かれていることは、事実。
 私は、こんなにひどいことを平気で思い、平気で行っていた。
 …でも、赦されている。
 赦されて、いた。
 神様は私をその時から愛して下さっていた。。。

それに思い当たったとき、もう充分だと思いました。

…今は、読まない。

そう決めました。
私とイエス様の出会いストーリーだけど、
罪をまざまざと思い出させる環境に、自分を置く必要はない。
神様は、恵みによって私の過去の記憶を、薄れさせて下さった。
だから、もう良いんだ。
って思いました。

難しいね。
過去の整理って…

  

Posted by sola_deo_gloria at 15:09Comments(3)

2006年05月26日

どわぁぁぁ!!!

すごい!泣きそう!
市大にクリスチャンの子が入学してました!
今日キリ研に来てくれるって!!!!
祈りの実の子だ!
すごい!!

  

Posted by sola_deo_gloria at 17:42Comments(4)

2006年05月25日

ご報告メモ

忘れないうちにメモメモ...

・卒業後の道が見えてきました
  ⇒フィリピンの神学校に、1〜2年間いこうかと思ってます。
   受けるつもりです。

・夏期学校
  ⇒夏期学校というKGKのキャンプ(8/15-19)の準備委員になりました!
   しかも委員長お祈りしてくださいね。。。

・ハイスクール・ナイト(高校生会)無事終わりました
  ⇒私が企画して、通って、5/20初めて行われました!
   人数は少なかったけど、なかなか良い交わり&トークが出来ました。
   来月もあるの。。結構神経衰弱させられるので、祈ってくださいね。

う〜ん、今はそんなもんかなぁ。
なんか祈祷課題になっちゃった笑
よろしくお願いしま〜す!!

  

Posted by sola_deo_gloria at 17:49Comments(6)

ムナシイのは…

先週一週間が怒涛のように忙しかったことと、
久々に寝込むくらいの風邪を引いたことで、
今週はその反動がどーーん。

火曜の祈祷会を寝過ごし、1日ぼけーっとし、
昨日水曜も、今日木曜も、用事は多少あるものの内心ぼけーっとし、
っていう放心状態?

なんか、燃え尽きたってこのことかなぁって^^;
普段なら、時間があるときは感謝して
「今日はゆっくり休んで、次に備えよう」的なポジティブな休日を過ごす。
↓↓↓
近くの公園に散歩に行って、聖書を読んでみたり、
ゆっくり歩きながら自分のため・友達のため祈ってみたり、
自分の気持ちを整理するためにひたすらノートに書き込む作業をしてみたり、
パソコンで日記更新してみたり、
近くのスーパーに食料買出しに行ってみたり…。

でもこの数日の休み方は、なんか休んでるのに休まらない。
聖書を読んでるんだけど「パラ読み」って感じで(読めてるだけ感謝なんだけど)
神様にあまり話しかけてないし、
なんか本当、「ぼけーーーーー…」って感じなんですよね。。
ムナシイ。

でもそういう状態のときって、結構自分をいつもよりも客観的に見れたりして。
そういうときに学ぶことは多い。
やる気がおきないから、自分がやることの意味をぼけっと考える。
それで、思ったんですよね。
自分がこんなにもムナシイのは、自分が中心だからだ。っていうこと。
自分の焦点が「今」にしかない、とも言えるかなぁ。

私は、忙しいからなんか勘違いしていました。
自分がすばらしい人で、必要とされていて、
だから「自分の判断」は正しいとか、「私なら」この手のことは出来る、とか、
「自分ばっかり…」とか。
だから、自分が思っていたことが出来なくなるとがっかりするだけで感謝がないし、
何かがうまくいくと自分のおかげと思うし。
そうかぁ〜…私は「神様いらない」って言っていたんだなぁ。。って、気づいたんです。
神様がいない生活のなんとムナシイこと。
風を追うようなものです。

それでまたそんな自分にがっかりして、「私この奉仕やる資格ないな」とか
「神様のために働く資格ないな」とか思ってたんですが、
それでまた気づいた
「あっ、最初から資格なんてないんだった!!」
神様のために働く者と変えられた、それさえも忘れている自分。

でもそうやってぐるぐるいろんな考えを巡って、
帰ってきた気がします。
救われたばかりの自分の心に。
さぁ、今日もまた新しい。
私には学ぶことがたくさんあって、
仕えることが出来る人たちがたくさんいる。
私はもう、無くなるもののために働くんじゃない。
永遠に残るもののために働く者と変えられたんだから…。

  

Posted by sola_deo_gloria at 17:37Comments(2)

2006年05月18日

私は、よく不思議な夢を見るんです
夢自体はほとんど毎日見てて、そして結構覚えてる。
でも、たまに「あれは一体…」と考え込んでしまうようなものもあって。
ヨセフみたいに、夢を解き明かしてくれる人がいたら良いのになぁ…(。_。)

大体ちょっと怖い系の夢が多いのですが(細かい内容はちょっと省略ね)、
そういう時に、夢の中にも信仰を持ち込むようになってきました。
最近(過去1年くらい?)、ようやく夢の中でも祈るようになったんですよね。
前は結構、起きた後「ああすれば良かった…」とか後悔が多かったんですが。。

そう言えば、関係ないかもだけど、英語で夢を見るようになったのも
アメリカに行って確か半年〜1年くらい経った頃だった気がします。

アメリカにいた時も、奇妙な夢をたくさん見たな…
結構意味ありげだったんで、あの頃は『夢日記』的なものもつけてました。

またつけようかな〜… 夢日記。

  

Posted by sola_deo_gloria at 16:36Comments(2)