2005年09月06日

「終戦」後の戦死

歴史をねじ曲げたり、史実を隠してはいけません。
何が起き、誰が犠牲になったのか、真実を知ることが大切です。

と語る市民グループ「ピオネール基金」(The Pioneer military fund)代表のデイグル・ゴロジャノフ氏(41)は、故郷のロシア・サハリン州(樺太)各地で、日ソ両軍兵士の遺骨・遺品の収集活動を続けている。

戦死した仲間の遺体が家族の元に帰らないケースが多いことに心を痛めていたと、アフガニスタンでの従軍経験を語るゴロジャノフ氏は、「犠牲になった人々すべてを追悼してあげたいのです。ソ連兵だろうと日本兵だろうと関係ありません」と言う。

これは、NHK・BS1「今日の世界」で見たサハリンの特集ですが、収集された遺品は、州内各地の博物館・図書館や学校で展示され、戦争について学ぶ資料として利用されているそうです。

このリポートで伝えられていたポベジノ(古屯)付近の幌見台などで「ピオネール基金」が発見し、保管していた旧日本兵9人の遺骨が、日本の戦没者遺骨収集調査団に引き渡されたニュースは、北海道新聞も詳しく伝えていましたが、こういうよくあるスタイルの報道だと、現地の人の思いは伝わってきません。
そういった点で、このリポートは珍しく、興味深いものがありました。

もっとも、現在も戦勝国の兵士の遺骨が野に埋もれているというのは、旧ソ連の「負の遺産」なのでしょうけどね。。。


なお、この地域の探索が1990年に始まって以来、200人を越える旧日本軍兵士の遺骨が見つかっているそうです。

以下は、読売新聞の「樺太の夏」朝日新聞の「北海道の戦後60年第2部 『終戦』後の戦死」など、新聞各紙の戦後60年特集のまとめです。

1945年8月8日17時(日本時間同11時)過ぎ、ソ連のモロトフ外相は、佐藤尚武駐ソ大使にソ連のポツダム宣言への加入と対日参戦を通告。
翌9日から18日までサハリン(樺太)の北緯50度の国境地帯は、日ソ両軍の戦場となった。

日本のポツダム宣言受諾は14日昼前の御前会議で決定され、同夜、各国に通告された。
15日正午、天皇はラジオを通じて国民に戦勝終結を告げ、アメリカ軍は戦闘行動を停止したが、ソ連軍の攻撃は続いた。

15日、トルーマンは、樺太と満州、朝鮮半島北部などのソ連占領を容認。
翌16日、スターリンは、留萌−釧路以北の占領を追加するよう求めたが、トルーマンに拒否された。

Southern Sakhalin 1945サハリン(樺太)の国境地帯では、9日朝から通信線が各所で切断され、監視哨や警察署・派出所が砲撃を受け、10日にはソ連機が飛来し投弾、本格的な戦闘は11日早朝、国境と貫く軍道を約3km南下したところの半田川で始まった。
「ソ連軍は軍道を南下する」という前提で、古屯(ポペジノ)常駐の第2大隊は北西約8kmの八方山陣地に移ったが、ソ連軍は別隊を東方に大きく迂回させ、ツンドラの湿地帯を腰まで水につかり武器や弾薬を両手にかざしての徹夜の進軍で、12日には鉄道の終着駅だった古屯駅を先頭部隊が制圧した。

八方山陣地はソ連軍に南北から挟み撃ちにされる格好になり、八方山から南下し幌見台に布陣した実質1個中隊並みの大隊主力部隊と気屯(スミルヌイフ)から北上した1個中隊とでソ連軍を攻撃し、激しい古屯(ポペジノ)攻防戦が続いた。

一方、北部西岸では、16日明け方、塔路(シャフチョルスク)にソ連軍が上陸。
恵須取(ウグレゴルスク)の大平(ウダルヌイ)地区もソ連軍機の空爆を受け、翌17日未明、ソ連軍に退路を断たれて思い詰めた17-32歳の炭鉱病院の看護婦23人が集団自決を図り、婦長ら6人が絶命した。

18日午前0時半、豊原(ユジノサハリンスク)の第88師団指令部から伝令が現地の部隊に終戦と作戦停止を伝えると、軍使がソ連軍に派遣され、北部国境地帯は「19日午前0時戦闘中止」で交渉がまとまった。各部隊は解散命令を受けた。

20日早朝、ソ連軍艦艇が南部西岸の真岡(ホルムスク)に艦砲射撃を開始し、ソ連軍が上陸。
真岡郵便局電話交換手の17-24歳の女性9人は、軍令に従い最後まで職場を守って、服毒自殺した。

8月21日から22日にかけて戦線は真岡(ホルムスク)北東約10kmの熊笹峠(ホルムスク峠:標高約490m)に移動し、激戦となった。
南下するソ連軍主力のいた知取(マカロフ)で、第88師団との戦闘停止が成立したのは22日。満州での戦闘停止の2日後だった。

日本が降伏文書に調印して戦争が正式に終結した9月2日、スターリンはソ連国民にラジオを通じて勝利演説を行ったが、千島列島に展開していたソ連軍が、北方四島を含む全千島の占領を完了したのは演説の3日後の9月5日だった。

サハリン(樺太)の国境地帯における日本軍の戦死・行方不明者は820人、ソ連軍は戦死者約千人と推定される。厚生労働省の資料では、南サハリン(樺太)全体の日本軍の戦死・行方不明者は約2千人で、ほぼ同数の島民が爆撃や地上戦の犠牲になったという。


【関連記事として】国の戦争責任が問われるケース(2005/05/31)

soliton_xyz at 23:52│Comments(0)TrackBack(0)日本とアジア 

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