「若君方をあちらにお連れいたせ」
大崎さまの一言で二人の若君と次の間に待機していた若君方は侍女に連れられて部屋を出ました。
御次が残された御団子を慎重に集め、梅の函に戻す間、お美代さまは身じろぎもせずお蝶の方を見据えておりました。
「御団子に細工をしたのは、あなたですね」
強い眼差しに怯えて目をそらしたお蝶の方は、それでも強く首を振りました。
「知りません。わたくしは何も知りません」
「ではなぜ周丸君の御団子を叩き落としたのです」
「それは周丸がお腹を壊して…」
「周丸君はそうではないと仰せでした」
今やこの部屋にいるすべての者の目がお蝶の方に向けられていました。
最初から怯えうろたえて、それが次第に高ぶってきたせいか、青白かった顔は何故か赤味を増して、視線は一点に留まりません。
「わたくしを疑うというのですか? なにゆえ、わたくしにそのような。わたくしは何も知りません!」

梅の函の御団子は、三の丸の若君方が召し上がることは全員が知っていました。
お蝶の方が、周丸君が口にするはずの函に何かするとは思えません。
それがお万の方のせいで、梅の函からかなりの数の御団子が三方に移され、函の空いたところに竹の函の御団子が移されたのは予想外のことでした。
竹の函の御団子は、本丸に御住まいになる幼い御子方が召し上がるはずのものでした。
「竹の函の御団子にだけ、細工をしたのですか」
「知りません!」
「ではどうして竹から梅に詰め替えられた時、あんなにも動揺されたのか」
お美代さまに問い詰められてもお蝶の方は決して認めようとしませんでした。
「わたくしがそんな大それたことをするとお思いですか。大体なんの証拠があるというのです。御団子は大奥御膳所で作られたもの、細工など出来る筈がありません」
御毒見役はたくさん作られたうちのひとつか二つを試すのみ。
仮に毒が混入していたとしても、その一個または数個は、たまたま御毒見の対象にならなかったのかもしれません。
けれど御毒見後、それに関わる一切の行動は複数の人間の監視のもとに行われ、函物は一箇所に置かれたのち、御台さまの前に運ばれるまで交代で見張りが付きます。
見張り役は御三の間や御使番などの中から選ばれますが、見張り役同志が監視し合うよう必ず二人以上と決まっておりました。

開いた襖の向こうに、先程新之助君について出て行った女中のうちの一人がいつの間にか戻って来て手を付きます。
目の端にそれを捉えながら、お美代さまは忙しく思考を巡らせました。
お蝶の方の言うとおり、御膳所で作られたものにわからぬように毒を仕込むことは難しく、またそうしたという証拠もありません。
けれど、お蝶の方の振る舞いはそれと無関係とはとても思えませんでした。
今はっきりと断罪することはできなくとも、せめてここにいる御年寄方に御吟味の対象として印象づけなければ、このままうやむやになってしまうかもしれず、そうなれば、しばらくの時を置いてまた、次は別の方法で御子方の命が狙われるかもしれません。

御子方の父親である上様を、お美代さまは愛してはいませんでした。
その人の子だから愛しいわけではなく、徳川の血を引く子だから大切なわけでもありません。
ただ、罪のない者が誰かの都合で謂れもなく簡単に抹殺される、そのことが我慢ならないのでした。
父、家治公、そして十六の若さで急死し、名に「家」の字を貰ったにも関わらず、ついに将軍になれなかった兄、家基。その尋常でない死に様は、父と同様毒を盛られたに違いないとお美代さまは信じています。
二人の死を望んだ者はそれぞれ違い、どちらも大きな権力のもとに隠蔽されて真実は闇に葬られたまま、今となっては仇を討つこともできません。
首謀者は、家基については上様の実父、一橋家の徳川治済、家治公については当時の側用人田沼意次と言われ、どちらも徳川の数々の暗殺事件と同様、決して記録に残ることなく、今となっては根も葉もない噂として公には退けられています。
今ここで誰かの命が奪われたとしても、徳川の威信にかけて暗殺などという事実は隠され、首謀者を検めることさえされないまま終わることはわかっていました。

お蝶の方が企んだとして、ご本人が毒入りの団子作りから人の目を盗んでの仕込みまで、たった一人でやったとは到底思えません。
実行したのが誰であったとしても、見張りの目を盗んで竹の函の御団子に毒を仕込むのは相当難しいように思われます。
「それでも新之助君が賜った御団子に疑わしき点があるのは事実」
大崎さまの低い声に、お蝶の方はお美代さまから目を転じて食いつきました。
「わたくしは何も存じませぬ! お疑いならば証拠をお出し下さい。わたくしが細工をしたという証拠を!」
「御台さまの御前で騒がしい!」
言い募るお蝶の方を制し、大崎さまは御台さまに向けて深く頭を下げました。
「おそれながら、これより先、御行事を続けるのは困難と申せざるを得ません。この件については吟味を尽くした上で奏上仕りますゆえ、只今のところはなにとぞ」
吟味が進むのならこの場に居たいと言い出しそうな御台さまを、上臈御年寄姉小路さまがせっついて御部屋に戻られるのに続いて、御台さま付奥女中らもぞろぞろと退室していきました。

控えていた女中が大崎さまに近づき、耳元で何か告げました。
聞くにつれ大崎さまの表情が次第に険しく変わっていくのを、その場にいた者はみな息を詰めて見守っておりました。
やがて御年寄方を集めて短いやり取りをしたあと、大崎さまは皆に退がるよう命じ、お美代さまとお蝶の方のみを連れて御台さまの御殿を出、御自分の詰所である千鳥の間に入りました。

お蝶の方が大崎さまの対面に、お美代さまは御二人の間に座を占めます。
あとから次の間に人の入る気配がしましたので、襖を隔ててすぐのところに誰かいるはずですが、微かな衣擦れの音がやむとそれきりしんと静かになりました。
大崎さまは物思いに耽るように薄目になって押し黙り、その沈黙に引き摺られるように御二方とも一言も発しません。
先程の言付けがなんだったのか気にはなっても、大崎さまは必要とあれば口にするでしょうし、そうでなければ何も言わない、と知っていました。
時折、お蝶の方が落ち着かなげにあちこち目をやるほかに、動くものはありません。
お美代さまは目を閉じて、もう一度先程の出来事を順を追って反芻しました。

四半刻ほど経って、取次を経てやって来たのは御三の間頭でした。
「御団子の見守りについた六名のうち、お常、お曾麻の両名、いっとき部屋を空けたこと認めましてございます」
お万の方の騒ぎに何事かと廊下に出、取り押さえて連れて行かれるまでの間、二人して見ていた、とのことでした。
続いて御年寄が盆を捧げた御次を従えてやって来ました。
「長局二之側、西奥の中庭に、雑草に混じってこれが」
「これは」
懐紙に包まれた端から蓬に似た葉が覗いて見えます。
「御火の番、沢路が見つけましてございます。今、採集したものを検めさせておりますが、多分、鳥兜ではないかと」
大崎さまとお美代さまは同時に目を見開き、お蝶の方は身体を固くして畳を凝視しておりました。
「沢路の申すのに、二輪草や蓬などと葉がよく似ていますゆえ、国許では過って食し、命を落とす者が多いとか」

そこでお美代まさは、今朝方、お玉が言っていたのはこのことだと気が付きました。
「余所の御局より供された物は決してお召し上がりになりませぬよう」
長局の庭に鳥兜があることを、お雪は知っていたのではないか。
いや、お雪はずっと二の丸にいたのだから、気付いたのは長局界隈を自由に行き来できたお玉かもしれません。
長局二之側西といえば、お蝶の方の御局があるところです。
御膳所で作られる御団子とそっくりな団子を作り、真っ白な表面に出ないよう、粉にした鳥兜の草か根を中に仕込み、あとからこっそり竹の函に紛れ込ませることが出来たのは誰か。
御局の内で、主が側付きに黙って自ら毒入り団子を作るなど考えられません。
多聞に命じて作らせるか、外から取り寄せたと考えるのが普通で、もし長局の鳥兜を使ったのなら、前者が最も可能性が高いと言えます。
「もし鳥兜が本当に長局で栽培されていたとしたら、由々しきことぞ」
「長局の片隅の雑草など生えるに任せておりますが、まさか鳥兜が生えていたとは」
「自生したとは限らぬ。誰かが意図して植えたとも考えられる」
「まさか、そのような」
御年寄浦尾さまが声を震わせ、お二人の目が同時にお蝶の方を見据えます。

「だから、お万さまに騒ぎを起こさせた」
口を開いたのはお蝶の方ではなくお美代さまでした。
「起こさせた?」
「三方は御団子が用意された座敷前の縁側にもっとも多く置かれていたはず。騒ぎに乗じて一時でも見張りがいなくなれば、その隙をついて毒入りの物を竹の函に紛れ込ませるのは難しいことではありませぬ」
「そのようなこと、誰にでもできたことでございましょう。わたくしに限らず、お美代さま、あなたさまにも」
憎々しげにお美代さまを睨むお蝶の方からは並々ならぬ憎悪が感じられました。
気にもかけず、お美代さまは続けます。
「お万さまを焚きつけるのは簡単でしたでしょう。亡くなった竹千代君が毒入りの御団子を食べてしまうかもしれない、それだけでお万さまは心穏やかではいられなかったはず。三方の御団子に毒があると言えば、あのような行動に出ることは予見できました。けれど、見張りがいま少し慎重であれば、一人が様子を見に行き、一人がその場に残るということもあったはず。とすれば、これは確実な方法とは申せません」
一息間を空けて、お美代さまは静かにお蝶の方を見つめました。
「そういえば、あなたさまの御実家より、大奥に奉職している家臣の娘がいると聞いております。見張りについたのは、どこぞの出の者だったのでしょう」
突然、お蝶の方の顔が醜悪に歪むと同時に、大崎さまの視線が横に流れました。
三百を超える大奥女中一覧のうち、御目見得以上については殆ど記憶している大崎さまですが、それ以下はさすがに全てというわけにはいきません。
微妙な表情で頭の中の帳面を捲っている大崎さまに、御三の間頭が絶妙の間で口を挟みました。
「恐れながら、お常は高家旗本、山名家家老の娘、お曾麻は同じく用人の娘にございます」
高家とは幕府において儀式や典礼を司る役職に就くことができる家柄を言い、お蝶の方は山名家当主の娘、お常、お曾麻はその家人の娘でした。
そう、とお美代さまがひとりごちた瞬間、大崎さまの鋭い声が飛びました。
「御三の間、お常、お曾麻の両名を吟味致し、直ちにお蝶の方の局を検めよ。御中臈お蝶、身の潔白が明かされるまで蟄居を命ずる」
浦尾さまが「誰ぞ」と呼びかけると次の間から薙刀を持った御火の番が三人現れ、合わせたようにぴたりと畳の上に片膝を付きました。
「お蝶の方さま、御同道願います」
お蝶の方は唇を噛み締めたまま、それでも観念して抵抗せず立ち上がりました。御火の番が道を空け、部屋を出ようとしたその背中に、お美代さまは声を掛けました。
「ひとつだけお聞かせ下さい。本丸の御子を狙ったのは、周丸君の為でしょうか」
お蝶の方は足を止めました。前を見つめたまま、振り絞るように答えます。
「無論、それも。けれど、豊松の想い、味わわせてやりたかった」
「…え?」
打掛の裾を引き、憎々しげに足を打って、恨みの言葉が続きます。
「我が山名家は高家旗本。ただの直参とはわけが違う!」
割れるほどの声で叫びながら、お蝶の方は堂々と千鳥の間を出て行きました。