「誰か! 誰か!」
裾をからげ上げてお美代さまは走ります。
押された子供は抵抗する間もなく、仰向けのまま池に倒れ落ちていきました。
落ちる間際の小さな悲鳴は水音に飲まれて消え、そこに別の泣き声が重なります。
「お溶!」
履物が脱げ、お美代さまは転んで地面に手を突きました。それでもなんとか起き上がって、もう片方の履物も脱ぎ、足袋のままよろめくように走り出します。
重い打掛は脱ぎたくともそうする間も惜しく、裾が地面を引き摺るのも構わずにひたすら足を前に出します。
対岸の役人も大声を上げながら懸命に急いでいますが、落ちた御子のところまではまだかなりの距離がありました。
声を聞きつけた者たちが建物の陰から飛び出して、呼び合いながらこちらに向かって駆けて来るのがわかります。
池の西端、築山が築かれたその辺りは、御殿から最も遠く、見通しの悪い場所でした。
太鼓橋を下りて、いっ時見えなくなった池端が再び視界に現れた時、池の中にしぶきを上げて水面を叩く小さな手と僅かに突き出る子供の頭を見つけました。
「菊千代君!、お溶!」
池の中に菊千代君、泣き叫ぶ溶姫は誰かの手に持ち上げられて更に激しく声を張り上げます。
「お溶!」
裾に足を取られて倒れ込み、必死に顔を上げたお美代さまの目の先で、溶姫はまるで鞠を放るように、ぽんと水中に投げ出されました。
小さな水音がして、途端に泣き声がやみます。
「お溶!!」
お美代さまは走りながら声を限りに叫びました。その脇を追いついた役人たちが走り抜けて行きます。
御池の深さはそれほどでもありませんが、場所によっては子供の背丈を越えます。
溶姫は菊千代君ほどには暴れることもなく、吸い込まれるように水底へ沈んでいきました。
直後、築山の向こうから女が一人、池に向かって飛び出してくるのが見えました。
走りながら打掛を落とし、履物を脱いで、二人の御子を投げ落として平然と池を見下ろしている女を思いきり突き転がし、その勢いのまま、少しの躊躇いもなく水中に身を投じます。
「姫さま!」
バシャンと大きな水しぶきと共に胸まで浸かった女は、既に頭の先まで見えなくなった溶姫を追って、潜るように一度水面下に消えました。
対岸から駆け付けた役人もまた築山から駆け下りて池に飛び込みます。
「邪魔するでない!」
先程突き転がされた女が、地面に這いつくばったまま、鋭く声をあげました。
「水に浸けるのじゃ! さすれば死なぬ! 水に浸けるのじゃ!」
次々に走り寄った役人たちに抑え込まれ、それでも尚叫び続けるのは、上様の最初の側室となられたお万の方さまでした。
「離せ、無礼者! 竹千代を水に浸けるのじゃ!」
「お静まりになられませ!」
バシャバシャと足掻く菊千代君が抱え上げられる横で、池に飛び込んだ女もようやく水面から顔を上げます。その両手には溶姫がしっかりと抱かれておりました。
役人たちに助けられて岸に上がると、ぐったりとした溶姫をすぐさま後ろ抱きにして激しく背中を叩きます。溶姫は咳き込みながら水を吐き出し、やがて弱々しく泣き始めました。
「ああ、溶姫さま。もう大丈夫、大丈夫でございますよ」
そこへようやくお美代さまが辿り着きました。
役人を掻き分け、そして泣いている溶姫を優しく抱きしめる、ずぶ濡れの女に眼を遣ります。

片はずしに結った髪は崩れ、濡れた顔に乱れ落ちてはおりましたが、それは決して見忘れたことのない顔でした。
毎晩のように夢に見、会いたいと願った顔でした。
小さく息を飲んだお美代さまに、お雪は気づいて顔を上げます。
目と目が合って、放心して立ち尽くすお美代さまの後ろから、乳母が気も狂わんばかりに走り出て二人の視線を遮りました。
「溶姫さま! ああ、御無事で!」
そっと姫を受け取ってお美代さまを顧みます。お美代さまは近づいて我が子を確かめ、すぐに指示をお出しになりました。
「湯を!、すぐに体を温めるのじゃ。菊千代君も。早う!」
溶姫と菊千代君を抱えた女中たちが急ぎ立ち去り、お美代さまはもう一度お雪に目を向けます。
けれど他の女中たちに手を貸されて立ち上がったお雪は、ずぶ濡れの姿を恥じるように顔を背け、促されるままに御広敷の方へと下がっていきました。
呼び止めようとして差し伸ばした手を、いきなり掴んできたのは、役人を振り切ったお万さまです。
「竹千代はどこじゃ、竹千代は!」
「おどき下さい!」
掴みかかるお万さまを振り払い、その背を追おうと足を踏み出したお美代さまの前に、大崎さまはじめ御年寄の方々が供を連れて現れました。御三の間の者たちがすぐ様、お万さまを取り囲みます。
「お美代さま、ほかの者たちもしばし待たれよ」
いつに増して厳しい大崎さまの声にお美代さまも思わず足を止めました。
「お万さまの所業、その目でご覧になられましたか」
「ええ」
「その方らも、しかと見届けたであろうな」
「はっ」
役人たちの返答に大崎さまはゆっくりと頷き、お万さまに向き直ります。
「お万の方、お吟味のうえ相応の処遇があるものと覚悟なさいませ。それまで局にて謹慎されるよう」
ぼんやりと生気のない目で大崎さまを見返したお万さまは、何も言わずふらふらと御殿向の方へと歩み出します。
「決して目を離すな。局から一歩も出してはならぬ」
付き従う御三の間に固く命じて踵を返し、肩越しに振り向いて付け加えました。
「皆もご苦労であった。このことは他言無用に」
「はっ」
「お美代さまは、わたくしと参られませ」
「けれど、大崎さま」
「参られませ」
有無を言わさぬ口調に、お美代さまはお雪の去った方を気にしながら大崎さまに従います。途中、脱ぎ捨てた履物を抱えた御三の間が小走りに寄って来て、お美代さまはそこでようやくご自分が足袋一枚だったことを思い出しました。
乱れた衣装を直すのに一度局に戻る許可を得て、急ぎ身支度を整え、再び御殿向に入るとその足で御年寄詰所ではなく溶姫の部屋に向かいます。打掛を替え、汚れた手足を洗い、乱れた髪を直すのに手間取って、襖を開けた時には御子たちは湯に浸かり、着替えを済ませて並べた布団の上で穏やかに寝息をたてておりました。
枕元にはお八重の方が青い顔をして座っており、お美代さまを見て訴えるように身を乗り出しました。
「なにゆえ、なにゆえ菊千代が。御庭にも御子は沢山おられたというのに、なにゆえ」
すぐには答えず、側付きの者たちを見渡して、溶姫の枕元に座ります。
「御典医は?」
「間もなくこちらに」
御子たちの顔色と寝息を確かめ、特に大事ないと安心したところで、お美代さまはお八重の方に向き直りました。
「偶々二人だけのところを見つけられたのでしょう。敢えて菊千代君とお溶を狙ってのこととは思えませぬ」
「そうであろうか。溶姫は加賀に、菊千代は尾張徳川家への養子縁組が決まっている身。このお二人が浚われたのが偶々だったとおっしゃるか」
狼狽するお八重さまを、お美代さまは静かに、けれど有無を言わせぬ眼差しで見据えます。
「偶々でございましょう。お万さまご乱心ゆえ、人目の届かぬところにいた幼子を竹千代君に重ねて連れ出したまでのこと。それ以上の思惑はございますまい」
「お美代さま」
「いたずらに憶測を逞しゅうするよりも、今は御子たちの無事を感謝致しましょう」
乳母たちによく言い含めて、お美代さまは部屋を出ました。

お八重の方が案ずるように、この度のことがすべてお万の方の妄想の仕業であるとは言い切れないところに、この大奥の表に見えない闇がありました。
溶姫がいなくなったと聞いた時から誰かが策を弄したのではないかと疑い、実際この目で我が子を池に突き落としたお万さまの姿を見ても、その後ろにいる何者かの悪意を疑わずにはいられません。
大奥とはそういうところ、遥か遡って春日局の時代から、公にされず記録にも残らない権謀術数の末、数多の女子供が命を落としてきた世界。
疑いは持っても、すぐと首謀者を絞り込めないことに苛立ちを覚えながら、同時にお雪のことを考えて、普段は冷静なお美代さまも何をどうしたらよいものか、心千々に乱れる想いで御殿向中央、千鳥之間に向かいます。

取次を介して通された奥の間で、大崎さまは既に人払いをして待っておりました。
「お伺いしたいことがございます」
目の前に座るなり、きつい眼差しで大崎さまを見据えます。
「先程溶姫を助けてくれたのは、あれはお雪、いえ、中野の養女ではございませんか」
「いかにも。お美代さまの義理の妹御にあたる者」
「今はどこに」
「二の丸に」
「奥入りの願いがあったこと、なにゆえお報せ下さらなかったのです。いえ、それよりも…」
なにゆえ、義父もお雪も、登城について一言も言わなかったのか。
大崎さまは苦いものを噛んだように眉を寄せました。
「願いより前に、上様が名指してお呼びになられたとか。無論、大奥はたとえ上様のご命令でも、正式な手続きを経ぬ者を受け入れることはございません。それにしても余りに強い思し召し、中野殿に無理を強いて登城させたようにございます」
お雪を待ち焦がれていたのはお美代さまだけではありませんでした。
自分に代わって先代の呪いを受け止める者、とお雪が来るのを待ちわびていた上様でしたが、遂に我慢ならず、面倒な手続きを省略してでも取り敢えず登城するようにと厳しいお達しがあったのでした。
「先程、中奥に呼び出され、急なお吟味と相成りました」
大崎さまは塗盆の上の文を広げます。「奥入願」とした紙の上にお雪と義父の名がありました。
「中奥で吟味など前代未聞、しかも御目見得もない者にそれほどまでにご執心になられるとは、一体何事でございましょう」
「大崎さま」
「お美代さまの御推挙あってのこととは伺っております。けれどなにゆえあの者を上様の御側にと思われたのか、お聞かせ頂きとうございます」
大崎さまは言葉を切って、お美代さまの答えを待ちました。
昔から上様に自分の息のかかった娘を献上し、そのご寵愛によって権力を持とうと画策することは当たり前のようにありました。けれどそれは御褥下がりをした御中臈や御年寄などが、あくまでも自分の代わりにそうするのであって、今まさにご寵愛を一身に受けているお美代さまには必要のないもののはず。大崎さまは上様よりもお美代さまの所業を奇異に思い、大奥にとって疑わしきはどんなに小さなことであれ明らかにせずにはいられませんでした。
「お雪を上様の御側にとは思っておりません」
「ではなにゆえ」
上様の先走った行いのせいで妙な弁明をしなければならなくなったお美代さまは面倒そうに溜息をつきました。
「肩代わり、でございます」
「肩代わり、とは」
「上様は大変恐れていらっしゃいます。先代様の呪いを」
「お美代さま!」
大崎さまは腰を浮かせて周囲に視線をやりました。
「御側に侍ることなく上様をお守りする者、引いては大奥をお守りする者。お雪はその為にわたくしが呼んだのです」
「修験者のようには見えませなんだが」
「法衣を纏わずとも力のある者はおります」
大崎さまはしばらくじっとお美代さまを見つめていましたが、やがて視線を外して小さく息をつきました。
「当分は二の丸の年寄の部屋子という身分でしばらく置きます。ご報告にはあとで人をやるつもりでおりました。ですが、お呼びしたのはそのことではございません」
手元の紙を畳んで戻しながら、大崎さまは続けます。
「今朝方、琴姫さまがお伏しになられました。ひどく乳を吐き、熱もあるようでございます」
琴姫さまはお以登の方の最初の姫で、数えで二歳。まだ乳母の乳を必要とする年頃でした。
「先年には艶姫さま、友松さま、岸姫さまと相次いで病に罹り、その前は時之介さま、寿姫さま、淺姫さまと、幼い御子方が続けてお亡くなりになりました」
現将軍は多くの御子に恵まれましたが、生まれた御子の半数は大奥から出ることなく身罷られています。
「昔から大奥には様々な噂がございます。すべてがそうとは思いませぬが、そのうちの幾つかは」
言葉を切った大崎さまを見つめて動かないお美代さまに、暗黙に告げるようにして、その場にしばらくの間、沈黙が下りました。
「先程、浦尾から報せがありました。お万さまの手を引いて庭に下りた者がいたようです。御三の間の者が見かけたそうですが、顔はわからず、御目見得以下の者だったとだけ。急ぎ探させてはおりますが、手を引いていた者は未だ名乗りを上げませぬ」
「お万さまは」
「名も知らぬと。あのお部屋に竹千代君がお休みになっているとだけ告げられたそうでございます」
遠目でも髪型や着る者で御目見得以上か以下かはわかります。けれどそれだけでは数多いる女中の中から特定出来るものでもありません。
「このことはわたくしを始め年寄以外は知りませぬ。見かけた者には固く口外せぬよう言い含めております」
「では何故わたくしに」
「お美代さまにはお慕いするものも多く、あちらこちらで噂を耳にされることもそれだけ多くございましょう。何より、ここ大奥では御台さまに次いで上様のご信頼篤きお方でございますゆえ」
大崎さまがご自分の側にお美代さまを引き寄せたいと考えていることは明らかでした。
お美代さまは薄く笑って首を振ります。
「わたくしの耳に入る噂などたかが知れておりましょう。隠し事が噂になるようならすぐにでも大崎さまのお耳に届くのではありませんか」
大崎さまの命を受け、密かに端々の出来事を通じている者がいます。お美代さまがそれと知っているだけでも数人、そしてまた他の御年寄も自分の手の者を幾人か持っているものでした。
「伝手は多い方が良いのです。西の丸、二の丸、三の丸と、そのすべてに目と耳を届かせるのは容易ではありません。けれど今のところ、そちらは差し置いても良いように思われますが」
何故、と聞く前に、大崎さまは続けました。
「ここ何年もの間、西の丸、二の丸、三の丸で亡くなった御子はおられませぬ。御不幸はすべてここ、大奥本丸でのみ起きているのでございます」