旧暦八月十五日は仲秋。
仲秋の名月を愛でた者は後の月見もしなければ片身月となって縁起が悪い、と言われます。
大奥でも仲秋の名月を鑑賞したのち、後の月見、つまり翌月の十三夜も同じように鑑賞する行事がありました。
十五夜を芋名月、そして十三夜を栗名月または豆名月といい、作物の収穫を感謝する意味合いもあったようです。

朝、御台所さまは御年寄方と御納戸座敷の庭に出られます。
真ん中にあらかじめ一度抜いて土に差しただけの蓮芋が植えられていて、御台さまが身を屈め、嫋やかな御手で引き抜きます。
すると間髪を入れず、
「おお、御力持ち!」
と周囲が賞賛の声を上げる、というよくわからない行事が行われます。
「お根引き」といい、引き抜かれた蓮芋はそれは丁寧に御膳所に運ばれて料理されます。
里芋の一種ですが、根は使わず芋茎(ずいき)のみ、白胡麻や枝豆を加えて和え物にし、御台さまからのお下げものとして他の女中たちにも供されました。
いつもながら馬鹿馬鹿しいと思いながら、御台さまは引き抜いた蓮芋を御中臈の捧げ持つ盆に置き、よっこらしょと縁側に上がってご自分の御部屋に戻られます。

今日は夕方から御休息所で歌合わせの会があります。
「今日もまた歌か。ことあれば歌を詠むなどもう飽いた」
「そう仰せられますな。みな御台さまの御歌を楽しみにしておりますのに」
「わたくしの歌が佳かったためしはない」
やや不機嫌にそう仰って、御台さまはふと足を止めました。
「今日の相伴は誰ぞ」
「二の丸の姫君の御生母方、五名にございます」
御中臈の中には歌どころか文字さえ満足に書けない方もおられます。
形だけとはいえ、歌合わせのような行事に参加できるのはそこそこの教養を身につけた者のみ、と御年寄方もわかっていて選抜致します。
「お志賀、お美尾、お屋知、お里尾、それにお歌といったあたりか。そこにそなたらが加わってまた嫌味のひとつも言うのであろう。つまらぬ」
「嫌味などとんでもないことにござりまする」
白々と応じた上臈御年寄、姉小路さまは後ろに控える同僚やら御中臈らを振り返って、皺の増えた顔に笑みを浮かべました。
京の都で朝から晩まで他にすることもなく、ただひたすら歌だけ詠んでいた女たちです。
武家女の歌など田舎じみて聞くに堪えないと言わんばかりにやんわりとこき下ろすのは毎回のこと、上様付きの御年寄、御中臈方で歌合わせに招ばれて嬉しがる者など一人もおりません。
それを聞く御台さまも心楽しいはずがありません。
「もうよい。歌合わせにはお美代を招べ。その前に歌留多か双六をしようぞ」

午後になると各局では団子作りが行われます。
月光の入る部屋を開け放ってススキを飾り、持ち寄った団子や果物を三方に積んで並べます。
七つ(午後四時)に歌合わせが終わる頃、御子たちがやって来て御台さまから団子を頂きます。
三方に飾ったものとは別に、本丸、西の丸、二の丸、三の丸に分けて平箱に詰めたのを御中臈が捧げ持ち、一人にひとつ、御台さま手ずからお渡しになります。
御庭には縁台が幾つも設えられ、同じようにススキと三方が並ぶなか、御年寄に手を取られた御台さまが縁台に上がる頃には、位の高い女中たちもまたそれぞれに庭に下りて、篝火も鳴物もない中、静かに月を見上げるのでした。

十三夜は「お根引き」はありませんがそれ以外はほぼ同じように過ごします。
「今日の相伴は誰ぞ」
「男君の御生母方、うち四名にございます」
「お楽、お袖、お八重、お蝶といったあたりか。そなたらが加わってまた嫌味のひとつも言うのであろう。つまらぬ」
「嫌味など……」
先月と同じような会話が交わされ、そしてまた御台さまはお美代さまを御召になりました。


その朝、お美代さまはいつもより早く床を出ました。

今日は十三夜。
この日までに必ずお雪を呼び寄せると約束した大崎さまからは、あれ以来なんの音沙汰もありません。
今か今かと日々を過ごし、遂にこの日を迎えて、お美代さまは焦燥の余りほとんど寝つけないまま、夜が白むのをじっと待っておりました。
障子越しにほんの少し空が青白んでくる頃、起き上がってしばらく床の上に座っておりましたが、やがて手持無沙汰に立ち上がり、寝間着のまま座敷を通って厨の方に下りて行きます。
まだ夜も明けきらず、局の者はみな就寝しています。
汲み置きの水を飲もうと土間に降りようとした時、上から階段を下りる軽やかな足音が聞こえ、寝間着姿のお玉が現れました。

長局は一の側から四の側まで、どれもほぼ同じ造りの二階建てで、一階と二階は局ごとに独立した長屋構造になっています。
各局に二階に上がる階段があり、主は下に、部屋方は上で寝起きするのが普通でした。
御年寄のように侍女の数が多かったり、また主自身がお年を召していて、常に側に侍る必要があるような時は次の間に侍女が休むこともありました。

「お方さま。何事にございましょう」
普段、主が座敷を三つも跨ぎ越して厨に来ることなどありません。急ぎ膝をついて見上げたお玉に、お美代さまは足を止めました。
「何もない。水を飲もうとしただけじゃ」
「どうかお呼び立て下さいませ」
枕盆の小さな持鈴を鳴らせば、夜中に大声を出さなくても上の者には聞こえます。
「わざわざ人を呼ぶまでもない。水くらい自分で汲める」
お玉はさっと土間に下りて湯呑に水を汲み、素早く茶托を用意してお盆に載せたのを恭しく差し出します。
それを立ったまま取って一息に飲み干すと、お美代さまは満足げに息をつきました。
もしも局のお安芸が見ていたら小言の一つもあったのでしょうが、お玉は何も言わず目を伏せて控えております。多聞という下働きの身にありながら、その仕草にはどことなく武家の風格がありました。
「わたくしは蝶よ花よと育てられた姫君たちとは違う。時には食べるものにもこと欠く貧乏寺育ち、幼い頃は路上に出て物売りもした。大抵のことはひとりで出来る」
お玉は僅かに顔を上げました。
「はい。けれど今は徳川十一代将軍様付御中臈、お美代さまにございます」
湯呑を盆に返して、お美代さまはふっと笑みを浮かべます。
「昨夜は余り眠れなんだ。起こして済まなかった」
「いいえ。次はどうぞ鈴をお鳴らし下さいませ」
「起きるにはまだ一刻もあろう。も少し寝やれ」
深く一礼したお玉に背を向けて、お美代さまが座敷に戻ろうとした時です。
「お方さま」
低く抑えた声が不意にお美代さまを呼び止めました。その声音に何事か普通でないものを感じて振り向くと、お玉は尚一層声を潜め、
「本日十三夜の御行事、余所の御局より供された物は決してお召し上がりになりませぬよう」
そう告げて、真っ直ぐにお美代さまを見つめます。

「なに」
僅かに間をおいて返したものの、お玉に問い質そうにも、いつ上から他の者が降りて来るかわからない状況で詰め寄るのは憚られて、お美代さまはお玉の次の言葉を待ちました。
一度目を伏せたお玉はもう一度上目遣いに主を見上げて口を開きます。

「お雪さまのお言付けにございます」

息をのみ、目を見開いたお美代さまの後ろから、階段を踏む音がしてお安芸の驚いた声が響きました。
「まあ、お方さま。このように早く如何なされました」
階下の物音に気が付いて、急ぎ降りてきたお安芸も寝間着姿でした。
お玉は面を伏せたまま、これ以上のことを話すつもりがないのを悟って、お美代さまは適当に返事をして座敷に戻り、布団に横になりました。
もう少しだけ寝ると告げたにも関わらず、眠気は吹き飛んでいます。

余所の物を口にするなとは、この大奥で毒物が使われるかもしれないということ。
誰が誰に、という前に、なぜお雪がそれを知っているのか。
そしてなぜお玉に言付けを頼んだのか。
お玉はいったい何者なのか。
誰の口利きでここに来たのだったか。
もしもお玉がお雪の命で動いているのだとしたら、お雪は二の丸で何をしていたのか。
そして、誰が誰に毒を飲ませようとしているのか。

以前、お雪がお志摩だった時は敵の隠密でした。
ここにもう一度戻れと言ったのは、その過去を捨てて共に生き直す為です。
再び隠密として働いて欲しいわけではありません。

自分の周りで何が起こっているのか、お美代さまにはわかりませんでした。
御行事を中止するよう大崎さまに進言しようにも、お玉が言ったこと以外なんの証拠もない状況で納得させられる筈もありません。

お美代さまは目を閉じて呼吸を深くし、心を落ち着けました。
わからないことはそのままに、今どのように動くのが一番良いのか、何を気を付け、どこに注意を向けるべきか。
真っ先に浮かぶのは二人の娘のことです。
娘たちに災いがあるなら、ありとあらゆる手を打って阻止しなければなりません。

御子方の御食事は御台さまのお御食事と同じく大奥御広敷御膳所で調理され、御用達添番、御広敷番頭の毒見を経て御錠口から御殿向の奥御膳所へ運ばれます。これを当番の中年寄が更に毒見をして、良いとなれば御仲居が料理を温め、葵紋の入った懸盤という膳に盛り付け直して御次の控所に運びます。
御次はそれを御休息所の入り口まで運び、御中臈が受取って御前に据えます。
幼い姫君方へはそれぞれの年齢に見合う御食事を御次が御部屋に運び入れますが、二の丸にいる姫君方には提手の付いた入れ物に包んで、添番が御広敷御膳所から門を通ってそれぞれの御殿に運び入れていました。以降の手順は本丸と同じです。
この取次のどこかで毒が混入するとしたら、最後の毒見の後しかありません。
疑わしきは全て大奥の女、とは言え、御食事の経路の途中で毒が入れられる可能性はそれほど高いとは思えませんでした。
日々の御食事は関わった者がはっきりしていますし、もしも毒殺の罪で咎人となれば御家断絶は当然、いくら邪魔者を消したくとも、そこまでのリスクを背負うのは割に合わないからです。

それに、お玉は「余所の御局より供された物」と申しました。
御膳所ではなく、奥女中たちの住まう局で作られた物を、御台さまはじめ御子方が口にすることはありません。
とすれば長局の中、奥女中の誰かを狙ってのことなのか。
標的とされるにもっとも可能性の高い者は上様の寵愛を受ける者、自分を好いてくれる者は多いけれど、妬っかみ嫌っている女たちも相当数いることをお美代さまは知っています。
はて、そのうちの一体誰が、と考えたところで、お美代さまは閉じていた瞼を大きく見開きました。

十三夜の月見団子。

大奥御膳所で御仲居たちが粉を練って作る団子は、御台さま、御子方が召し上がるもののほか、月を見晴らせる室内や庭に設えた縁台などにススキと共に三方に盛って飾るものと結構な数が作られます。
それとは別に、各局がそれぞれに用意して楽しむ風潮があり、一の側から四の側まで、縁側にずらりと三方が並ぶ様子は御殿向にも負けないほどです。

いずれにしても今日という日は、大奥に月見団子が溢れる日。

やがて夜が明け、お安芸が起こしに来た頃には、お美代さまはいつも通り、ただ用心深く周囲に気を配り、普段より早く支度をされました。
局を出る時、気軽な様子で、
「いつも余るくらい作るのだから、ほかから月見は貰わぬように」
と一言添えて、朝の総触れに向かわれました。