小説 王城の秋

794年平安時代となった。その平安が鎌倉になるまで。時代の魂は白河が握る。 白河天皇(1053~1129) 後白河(1127~1192) 平安の後期は白河の世だった。 白河の次が鳥羽、其の後が崇徳、崇徳はおじこと呼ばれて白河上皇の子だったという。その白河が崩御して 保元,平治の乱。清盛の時代となるが、其のときは後白河の時代だった。 後白河ほど日の本をしらめすに策をめぐらせた人はなかった。 源氏、平氏、を弄して時代を演出した。 だから平氏も源氏も白河によって出現したにすぎない。 描くべきは白河であった。

日本の美、文化の原点平安時代とはどんな時代だったか。 京都を舞台に絢爛とかがやく時代を描く

白拍子、仏という女  小説<王城の秋>

 熊谷草


by dankaita
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 平安の性は闇の中の出来事であった。時には漆黒の闇であったから、相手を感じるのは匂い、感触、味、音声などが性の重要な要素となる。性戯に長けるには、とくに女には、男を悦ばすに匂い、味、行為に耽るときのよがり声などに熟達しなくてはならない。このために様々な工夫がなされたにちがいない。

  舞を業とする白拍子の女達は篝火や燭のもとで舞ったのでその姿をさらしている。男たちは舞う姿と水干の体にまつわる皺からその裸体を想像して刺激されていた。舞とは既に性戯の真髄であることを地球に存在する腰を振る舞踊が教えている。

 平安の白拍子舞踊も天の岩戸の常世の長鳴鳥を集めて鳴かせ、アメノウズメノミコトが岩戸の前で、足を踏み鳴らし胸をはだけ袴まで押し下げて舞い踊ったというその舞の伝統に根ざしている。だから客の注文とあれば、平安衣服剥ぎ取り劇までが含まれていたに違いない。妖艶な面立ちでゆらめいて燃える篝火に映る裸体ほどたけりくる武士の性欲をかきたてるものはない。
 
 平安時代に女の局部はほと(陰戸)といったり、つびといったり、ひなといったりした。ひとは火で、な、とは穴で、と、とは戸であって局部の割れをいう。またひなさきとは雛先で女性外陰部の上方にある小突起。陰核。陰梃をいう。
出典は*十巻本和名抄(934頃)二「吉舌 揚氏漢語抄云吉舌〈比奈佐岐〉」
*臂喩尽(1786)八「吉舌(ヒナサキ)〈吉舌 雛先也。女根の嬪頭を云り〉」
近世の烏帽子(えぼし)の正面の部分の名。まねきの舌のくぼみ中央の小さく突き出ている部分。〔箋注和名抄(1827)二〕

 白拍子が着る水干の下着は下袴という白色の布衣装であったから、着脱は帯紐をゆるめれば簡単至極。これほど生殖行為に適したものはない。その白拍子が舞うのである。刺激は時代とともに変化し、その程度を増しているようにも思われるが、実際は違う。人間が感じる刺激の受容はそんな単純なものではない。

 西八条の清盛の面前で白拍子の仏が舞い終わった。
「仏よ、もう帰さぬ。この西八条に留め置くがいいな」
仏が祇王を仰いだ。祇王もまた仏を見た。仏はまだ十六の乙女であった。
「・・・・帰してください。あなたさまには祇王さまがおいでです」
「祇王よ、もうそちには女の幸をつくしてやった。刀自にもこの世の幸と金銭を渡してきた。行く末どうなと安楽にくらせよ。」といいふくめてしまった。
面前でわしは仏をとるといわれては、祇王、二の句がでない。その夜じゅう衾を被いてなきぬれた。
 泣きぬれれば女は強い。翌日には祇王は西八条の唐紙に形見ぞと一首の和歌を書き残した。

      萌え出づるも
      枯るるも同じ野辺の草
      いずれか秋に
      あはで果つべき

男と女のえにしとは、不思議なものである。千年万年と契れどもやがてはなるる仲もあり。世にさだめなきことおとこ女のならいなり。(平家物語)

 ある日八条の仏から祇王に使者がきた。清盛からの使者である。
「仏御前、つれづれに祇王に会いたし、遊びにきてたもれ」
祇王は考えた。どうして今頃と。同じ白拍子の女。仏御前の気持ちは如何と。

 仏御前はどうしても祇王に会いたかったのである。自分の存在が祇王を追い出してしまったことを今でも悔いていた。いやむしろ虐げられていた白拍子の女どうしの複雑な感傷からだったのかもしれない。

 祇王も清盛の面前でしばらくぶりに舞ってみせた。

      仏も昔は凡夫なり
      われらも終には仏なり
      いずれも仏性、具せる身を
      隔つるのみこそかなしけれ
 祇王の舞に聞き入る公卿や諸臣の目に涙が光っていた。

 その年の春、小倉山のふもと、桂川の西に草の庵を結んだ親子がいた。祇王とその母刀自であった。庵は寺となった。現在の祇王寺である

祇王    小説<王城の秋>

 奥嵯峨a


妓王寺




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京の奥、小倉山のふもとにいまもなにか不思議な静寂をかくすように祇王寺がある。平安の時代はまことに不安が支配する時代だった。この闇のような不安に包まれた時間は永遠につながる時間だった。

 平安に託された平氏と源氏武士の台頭は闇をつんざく花火のようなもので、花火を際立たせた鵺のような気味悪さをかもしだしたのは常に魔界の性、女たちであった。
 
 女の体は青磁器の壷のようなものだと吉川英治は言った。壷のなかには炎のように泡立ちながら赤い色の血がたぎっていて、燃えては沈み、沈んではまた、たゆたう大蛇の肌のうろこのようで、理性ではなく、体のうずきが生きる方向を指していた。
 
 そのころ白拍子とよばれる歌舞まって生活する遊女がいた。そのもとは鳥羽院の時代に和歌の舞からの起源だという。水干と烏帽子、白ざやまきをさいて舞ったことから白拍子という。白拍子がどんなものか歴史を研究するものはいろいろというが、ようするに遊女である。権力をにぎるものに青磁の肌をくねらせて迫る存在以上のものではない。
 
 そのなかに、刀自という遊女の娘祇王というものがいた。生まれつきの玉のような肌をもち、抱くと青磁のように冷たい肌から蛇籃胎が飛び出してくるような女だった。うわさを聞きつけたのが時の大納言清盛、すぐに呼び出して舞わせた。

 「そなた祇王というか。そなたの肌をみせたもう。もそっと寄ってこいというに。」といらいらと言う。
祇王はもうその時勝負に勝ったと直感した。清盛といえば天下の大権をにぎり平氏にあらざればひとにあらずといわせしめた平氏の棟梁、いや国をしろしめす王者だった。だが単なる卑しき白拍子に誇りも投げ捨て、不器用にその体をもとめる卑屈さはもう祇王に負けているといってもよい。男とはこんなにもどうしようもないものか。

 「祇王、なにが欲しい。そなたの舞にかなうものならば何なりと申せ。」

 「祇王はなにも所望するものはございませぬ。ただひとつ欲しいものは清盛さまの前で舞えることひとつそれだけにございまする」女の本性とはうらはらに言ってみせた。

 そばに仕えていた忠度に清盛が言う。

 「忠度、刀自金100貫をあたえよ。今宵から祇王はここから帰らぬ。そう刀自に伝えよ。」 忠度は扉をしめて部屋を出て行った。

 部屋からはもう女の泣くような甘美なため息がもう漏れてきていた。天女が着ている水干もひきはがされればもう板敷きを覆う布にすぎないし、天下の舞も所作をうしなえば閨房の技と代わりがない。いやむしろ閨戯こそが舞の本質かもしれない。

 刀自の棲む白拍子街には、六波羅の目に留まった祇王は玉の輿と賞賛されて、金100貫を与えられた刀自は、こんな夢みたいなことと家中のものに喜びをふれまわった。街には祇王にあやかって祇一とか、祇福、祇徳、祇扇などいう名がやたらに流行りだしたという。

 こうして祇王は薔薇園の金殿に住む身になって、丸三年がすぎた。舞の世界でも世の理は必定。白拍子街にこれも絶世の美女、百花の研を競う仏とよばれる可憐な白拍子が現れた。加賀の国の生まれで諸芸才能にも恵まれ宮中の官女にもひけをとらぬとうわさされていた。
 
 仏の祇亭の主は
「あの祇王にも仏はひけをとらぬ。どうしても六波羅に見参させねば」とある日思いついた。
「のう仏よ。お前の舞ほ評判は京中に広まっている。この上は西八条の清盛公にお伺いしてみることだ。あの祇王でさえ清盛公に直接招かれたのだから、お前にできない筈はない。」

 恐ろしきは無知の知というもの。仏はおじずに西八条を直接尋ねてしまう。
「待て待てその牛車。どこへゆくぞ。どこのものぞ」
「わたしは仏という白拍子。かなしき白拍子の性。どうしても白拍子の舞を殿様にお見せしなくては死んでもしにきれますぬ。失礼のほどは先刻覚悟。命をかけて参りました。どうぞ御取次ぎ給わりませ。」
その声と折れるほどにみをかがめて頼む仏の覚悟が巌も通したのかなんと清盛に取次ぎがなされた。
清盛はその時徒然に時を過ごしていた。
「なに、仏というか。白拍子が仏とは面白き名。逢うてみたいが、祇王がなんというか。」祇王の意を聞いてみよ。と推参させた。
「遊び者の推参は常のならい。御門を軽んじてのものではありません。仏といえば京中で噂されている白拍子。わらわも逢いとうございます。」と祇王がいう。

こうして清盛と祇王の面前で仏が舞う。

        君を初めて見る折は
        千代も経ぬべし姫小松
        お前の池なる亀岡に
        鶴こそ群れいて遊ぶめれ

仏は舞いに舞った。祇王が目を丸くしていた。清盛はうなっていた。

 「このような白拍子がおったとは」 薔薇園に舞い降りた天女の舞であった。気品にあふれてこの世の舞とも思われぬほどだった。
 「仏と申すか、おそれいったぞ。杯をやろう。目の前で杯をもってもう一度舞うのだ」 清盛はそばの祇王の存在さえ忘れて言った。

禿髪    小説<王城の秋>

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信西には放免という情報密偵がいた。清盛には禿髪(かぶろ)という存在があった。齢五十一になった清盛にはもうこの世に怖いものがないように思えた。
「この世の春とはこういうものか。のう重盛よ」という言葉にも余裕が感ぜられる。
 先日の永万元年八月には清水寺に比叡の山門大衆が下洛し、一院山門の大衆に遂せて平家追討などの噂がながれたが、叡山の東福寺との争いに流れて東福寺の末寺である清水寺を炎上させて終わったばかりであった。
「父上、平家に春などございませぬ。争いはこの世の常。ゆめゆめこころゆるめてはなりませぬぞ。なおご用心のこと愚息、重盛父上にもうしあげまする」
「重盛よう申した。重盛ある限り平家は安泰じゃ。うれしいぞ」 清盛はようやく杯を干した。
 
 いまや信西なく、源氏義朝も知多の地にて斬首され、源氏嫡男頼朝には命を助けたが、伊豆に配流し、牛若には鞍馬に封じた。唯一の敵対者といえるものは後白河上皇であったが、藤原信頼を斬首したあとでは、上皇ひとりでなにも出来るものではない。清盛には平家の繁栄だけがみえていた。

 仁安三年この年、突然やまいが清盛を襲う。陰陽師光悦がよばれた。
「殿、お命をなごうするには、出家するのが一番、これまでの死者の怨霊を祓うことが大事とでておりまするぞ」
 清盛は忽ち出家入道した。法名は浄海と名乗った。そのしるしに、宿病たちどころに癒えてその後十三年天命を全うすることになる。ひとの従い、吹く風の草木をたなびかせ、世のあまねく仰げることは、降る雨国土を潤し、花族も栄耀栄華も面を向かえ,肩をならべるものこそない。
 平大納言時忠は、「この一門にあらざれば、みな人非人なるべし」と一天四海に伝わっている。
 その上に清盛は念を押した。京の巷にある不測の情報を集めたのである。十四五六の頭のよいすばしこい童参百人揃えて髪を禿にきりまわして、赤い直垂を着せ、京中を歩きまわさせた。平家について不満やあしざまに言うものがあればひっとらえて六波羅で裁いたのである。京の馬、車さえ禿髪を見ると道をよけたと歴史にある。

 平家物語弟一巻にある。
諸行無常、是生滅法、生滅滅已、寂滅為楽。とは仏典四句渇である。簡単にいえば、「すべては無常だが、これは必然、すべてが滅してはじめて、これを楽とする」ということだろう。祇園図経という経典には重病の僧が亡くなると堂の鐘が自然に鳴り出すという。病僧はこの音を聞くと忽ち苦悩を散じ嬉々として極楽浄土に旅たつというのである。清盛平氏が伝えしものは、因果応報などというものではなく、積み重なって重々しい存在となりうる人間理解であり、仏法でいう戒めなどではなく、想像の世界での救済であった。
 

 

六波羅御幸 小説<王城の秋>

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信西の首が京、賀茂の河原に晒された。新荘園制度を創設し九州大宰府を統括し、財を宮廷に収攬させて、内裏を改修し、宋貿易を拡充して清盛とともに大海に打って出ようとした信西入道も人間の怨嗟と欲望の前には夢も野望も消え去って首を晒すのみであった。
 伊勢平氏伊藤武者景綱の手勢援軍を得て、熊野から急遽京に戻った清盛がみたものは、灯ひとつない京であった。もう正月も近いのに街には歳暮の人影もない。後白河も二条の帝も幽閉され、ただ源氏の武者と東国からの坂東武者が大路を固めているのみで、飢えた野良犬が通りかかる武者馬に吠え掛かるけんけんと犬の声が響くのみであった。
 その死者の街のような京にたどりついた清盛は賀茂の五条六波羅に帰った。どこに潜んでいたのか大小の邸宅の平氏からわっと声が起こった。
一族の老幼、男女、郎党、女童までが何かをさけんで手を振り体をもんで清盛を囲んでくる。
 「殿のお帰りじゃ。熊野から戻られたのじゃ。もう義朝のいいようにはさせん」
 既に公卿詮議は終わっていた。信頼は近衛大将に、義朝は播磨守、その子頼朝は従五位に任ぜられていた。惟方、経宗、成親、師仲などの源氏がたの諸将が枢要な顕職につき平氏はことごとく除目からはずされていた。
 何故このとき信頼ごときの公卿に義朝も藤原の主だった公卿までが加担して信西を討つにいたったのか。歴史は後世にその真実をつたえてはいない。が、信西入道がその志を貫くためにはなんの躊躇もなく諸々の改革に邁進していったかが推測されるのである。死刑を復活させ、崇徳上皇を讃岐に配流し、忠正、為義を斬首し、その子から幼女までを三条の河原で民衆の前で刺し殺した。改革を邪魔するものはことごとく職と冠を剥奪し、それでも背くものは切り捨てた。これほどの非情さをもって政をなしたのは歴史上でもこの信西と後世の信長以外に存在しない。いずれも目を島国日本から遠い海の外に置いていた。信西は大陸の国 宋を信長はその向こうユーラシアの国々であった。
 もうひとつこの事変で日本の歴史を大きく変えたことがある。
 それが信頼に幽閉された上皇と二条天皇の黒戸御所からの脱出である。だれが図ってこの奇跡ともいえる脱出行を成功させるにいたったのかこれも歴史上あまり語られれていない。ひとり監禁中の主上を奪取するだけでなく同時に上皇後白河をも仁和寺へを落とし申さなければならないのであるから、むずかしさはなおさらであったろう。もし事様が信頼一味に覚られていたら時局は一変し平氏が錦旗の御旗をかつげることなく、したがって平氏なく、後源氏の世となっていったのかどうかさえ、疑わしい。歴史とは結果である。
 黒戸からの脱出がなされている夜一体信頼はなにをやっていたのであろうか。信西の首をとり、自ら近衛大将となり、上皇と帝を幽閉して武門源氏義朝に警護を固めて、宮中の一室で沈酔していたとあるが、その生来の幼稚さと、脆弱な精神性から漆黒の闇に耐えかねて、燭をかざして、女御更衣の衣擦れに身をやつしていたに違いない。平安時代の女御たちが身に着けていたのは十二単衣という重ね着で着るのは時間がかかったが脱ぐのには至極簡単であったという。信頼の酔眼にうつるのは、まさによりとりどりの見取りの閨の花たちであったろう。脱がせた十二単衣に裸でしとどに待つ女御に体を重ね、明日の不安から逃げるようにして夜の明けるのをまっていたにちがいないのだ。信頼とはそんな男で平安の世を動かしうるようなものではない。そんな信頼と源氏義朝は組んでしまったのだ。

信西自ら生き埋めを命ず 小説<王城の秋>

 

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by dankaita
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放免の源蔵が息せき切って姉小路の我が屋敷に飛び込んできた。口から泡をふいてことの重大さを告げていた。
「お館殿」
 源蔵は普段から拙僧を昔の日向守の名前で呼んでいた。信西はもともと鳥羽院治世の進士蔵人実兼の子であった。のち
 長門守高階経俊の養子となり日向守通憲と名乗ってめぐまれずに階前の御用奉仕に明け暮れていた時代があった。源蔵は清水の社寺で法主妙信と結託して没落公卿や武士に金貸しを生業に生きていた。
 その時代信西は妻朝子が雅仁親王(のち後白河天皇)の乳母となり、その人脈でのし上がってゆく。のし上がる信西に金を融通したのが源蔵だった。
源蔵はその後清水の法主妙信の賄賂事件で連座して牢につながれるが、信西がその罪をゆるして今では京の放免として名をなしていた。
 「重大事でござる。藤原信頼が大軍でここ姉小路に押し寄せ火をかけようとしております。お逃げなされませ。」 頼みの清盛はもう七日も前の十二月四日に熊野参詣に向けて出立してしまっていた。
 「そうか、女、童に先に逃げよと申せ。わしは秘蔵の月毛の馬と舎人成澤をつれてひそかに南都方向に逃げる。妻朝子二位の局は後白河の君に従え。信頼も上皇の乳母にまで手をだすまい」
 右衛門督信頼と信西とは後白河の寵愛を同時に受けていたが、信頼が大将の位を院にねだったことから、信西との仲がこじれていった。いまや信頼は信西一門を滅ぼそうと左馬頭義朝と陰謀を語らっていた。
 信西は月毛の馬にまたがり密かに夜の闇にかくれて姉小路の屋敷をでた。遠く東山連峰に上弦の月がでていたが、三日月では漆黒の闇を照らすほどではない。
 「宇治をめざせ」舎人成澤に信西はそう告げた。
 東山をよじのぼり、山科から奈良街道を南に下って行く。醍醐の地を経て宇治路にかかり田原の奥大道寺に至るのだ。
 その時であった。東の空を彗星が赤く尾をひいて流れてゆく。木星が亥の方向にあった。天変の相であった。信西は天文を推察するにたけていた。
 「忠臣が君にかわる相とでた。この信西君に代わるなどおもうべくもない。とすれば忠臣とは誰のことか」 と黙々と歩みを進めていた。振り返ると鴨川の東、三条殿と姉小路あたりが火につつまれているのか明るくなっていた。
 「信頼め、御所の上皇にまでせまったのか」信西がうなった。
 三条殿の様子はそのときいいようもないくらいだった。各門を武士たちが固めていたが、各所に火をつけられて猛火が虚空に満ち暴風が煙雲をあげる。御所の階前を公卿があたふたと黒い歯をみせて逃げ惑う、女御たちは尻をはしょって庭の池泉に飛び込んでしまう、それを信西の一門と見間違えたが信頼の軍勢が切り捨てる。地獄の様相を呈していた。人間はかくまでも陰惨なものか。火にやけまいと外に出れば矢にあたり、矢にあたるまいと帰れば火に焼け、矢をおそれ、火を避けようとするものは御所の井戸に飛び込んだ。最初に飛び込んだものが溺死し、その上に飛び込んだものは、さらに上に重なって落ちてくるものの下で圧死した。
 上皇は御所のなかで信西の息子の俊憲と貞憲と一緒にいた。立ち煙る業火が世上にも迫ってきていた。
「御出座あそばしませ」
「紙燭をもて 紙燭だ」
「なにごとぞ、なに信頼だと。公卿の分際で朕になにをするぞ」
その君の影にむかってゆく姿があった。
「--年来、君のおいとしみをこうむりましたが、我慢できぬのが入道信西の讒言。ついに清盛とはかって我藤原信頼を責め滅ぼす
との報が届きましてござる。ここはその前に東国に下ることに決めもうした。ついては上皇の君を入道から保護奉り、入道の血筋を殲滅するのみにござりまする。」
「なに、誰がそのような讒言をしたというのか。朕にむかってその言葉は許せぬぞ信頼」
「世上の君、もう遅すぎまする。賽の目は振られたのでございまする。皆のもの上皇を牛車に御相乗もうせ」
「あ なにを命ずるのだ 信頼」
そこへどやどやと下足の武者輩が飛び出してきた。東国の武者輩にとっては上皇もなにもない。むんずと上皇の体を担ぎ上げると、すでにまちかまえていた
御車に押し込んでしまった。
源氏の領袖が集まっていた。左馬頭 義朝、、源中納言師仲,をはじめ勿論、軍の中心に中納言信頼、検非違使別当惟方、三位経宗もいる。
「上皇ほんのしばらくでござる。決してご憂慮には及びませぬ。」
「御車をすすめよ」と信頼の声がひびいた。
十二月の凍てついた道を御車を何十騎の武者が取り巻いて、その速度を増してゆく。瞬く間に朱雀大路を越えて、御所の南建礼門院につきあたる。
「北だ。 北にまわれ」 一本御書所に進むのだ」
こうして信頼と義朝は上皇の身をクーデター宜しく寂しく立つ御書所に幽閉してしまった。
「信西はいかかがした。信西につたえよ」 上皇の声がむなしくひびいた。
 そのころ信西は石室山のうしろ、信楽峰をすぎてはるばるとわけいっていた。そこに京の情勢を探らせていた成影が帰ってきてことの趨勢を伝えてきた。
「院の御所はすべて焼き払われ、姉小路の館も焼き払われてございます。敵は右衛門督藤原信頼、と左馬頭源義朝。上皇様はどこかに幽閉されました」
「そうか 忠臣が君に成り代わるというは 信頼のことよ。拙僧ではない。だがここは信西むざむざとこの首をさしあげるわけにはいかぬ。われのいうとおりにせよ。
この信西が忠臣がどのようなものかを後世にまで見せてしんぜよう」
「皆のもの、そこの祠のうらに穴をうがて。四方に板を立て並べ わしが入る。そのあとで大きな竹の節をとおして口にあてて、堀り埋めるのだ。」
「なぜ竹の櫛をとおすかのか、それは生きている間の寸刻に仏のみ名を唱え申すのが所存。埋め終わったら即刻皆はこの地を去れ。さすればこの首は誰の手にもわたさぬ。よいか」と厳命した。
 追随していた四名の武士はそのようにして今や墓ともなった土盛を平らにして草をかぶせて泣く泣く都へ戻っていったのである。
人間の妬み、恨みとはなんとおそろしいものだろうか。
 その後この墓は泣く泣く京に帰った武士の舎人成澤が捉えられて拷問にかけられてついにはあばかれて首を切られて鴨の河原にさらされた。五十四歳の生涯であった。
平安の時代に新荘園制度を創設し、内裏を改修し、宋貿易の基礎をつくり、遣宋使と大船の製造までの夢を清盛と果たさんとした男の最期であった。












歴史と夜  小説<王城の秋>

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歴史と夜  小説<王城の秋>

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 歴史は夜作られる(れきしはよるつくられる)とは、世に語り継がれている歴史の多くが、夜、すなわち大衆の多くが気づかない間に、創造されていることを要約した言葉である。
 時代の変遷は実は合戦の趨勢や、権謀術数の結果で表向き決定されているように記述されそれが歴史として認識されているが、それは一面の真実でしかない。

  「平氏にあらざれば人にあらず」とまでの権勢をほこる平氏も、五代の帝を従えた妖怪後白河法皇も<夜のとばりが幔幕のように世をつつみこみ一寸先も見えぬ漆黒の闇>の夜いたたまれない不安、失望、裏切り,生への飢えにさいなまされて悶々と朝のくるのを待ったに違いない。
 漆黒の闇の中で人は傍に人をおき肌ち肌を接しながら身の処しかたを問わず語らず確認したのだ。人は自分の大切なものを保持しようとする生き物だから、特に武力も力もない平安の女御たちは言葉と身を弄して自分の愛するもの保持に権力を誘導していった。
 だから実は歴史は一面闇と閨房の女が酒樽の酒が発酵するように醸成させてものとも言えるのだ。
 後白河が寵愛した平滋子という女がいた。父は兵部権大輔・平時信(贈左大臣)、母は中納言・藤原顕頼の娘、祐子(すけこ)。兄弟に時忠・親宗、姉妹に二位尼時子(平清盛継室)・、息子が高倉天皇となったことから建春門院と号された。滋子は美貌の持ち主でしっかりとした信念のある女性であったらしい。

 「女はただ心から、ともかくもなるべき物なり。親の思ひ掟て、人のもてなすにもよらじ。我心をつつしみて、身を思ひくたさねば、おのづから身に過ぐる幸ひもある物ぞ(女は心がけしだいでどうにでもなるもの。親や周囲のせいではない。自分の心をしっかりもって我が身を粗末にしなければ、自然と身に余る幸運もある)」 と書に遺している。

 拙僧少納言信西もその例外ではない。
忠正と為義を斬首し皆の怨嗟をこの一身に受けているが、元はといえば吾が妻朝子が後白河の乳母でその愛する子を慈しむ女の性に誘導された結果とも言えなくもない。
義朝や清盛らが
 「信西殿、あまり民衆を敵につけると、その火の粉は自分の身にかえりますぞ」とおどされても、
 「きのうはきのう、きょうはきょう、政治の大事は今日をみることだ。義朝も清盛もその冷厳な真実を分かっていない」と薄笑いをたたえて諭したものだ。

 あるときなど文覚という坊主が我が姉小路の館に怒鳴り込んだことがあった。文覚とは遠藤三郎盛遠という武者で若き頃人妻に恋慕し誤ってその人妻の寝首を切り、発心して五情を絶ち六欲を観じ、南都、比叡の苦行に励み、大蔵経の経倉にいっすいの灯をともして思考三昧、自己のなかに仏性を来迎して仏果をみがいてきた僧であった。
 「--尚聞く、朝議日々、貴僧が口を開くたび、かならず人が惨殺される。義朝の父為義の首、清盛の叔父忠正の首を六条の河原にさらし、その上幼子を道にならべてこれを刺殺するは冷徹非情,人にあらず」仏に道を求める僧でありながらなんという諸行地獄に落ちろ。
「貴僧が文覚か。人妻に横恋慕し、その挙句誤って寝首を切るなど言語同断。発心して僧となろうが、その咎が消えようか。その上天下の政道に難をつけるか。そもそも拙僧は極楽などに縁はない。この世がすでに地獄。この世を正すにわし以外にだれが居るというのだ」
「痴れ者とは文覚お前のことだ。」
 とたんに拙僧の家の武者が
「糞坊主、我が主信西様をそしるか、主をそしるは勅をそしること」と薙刀の柄で坊主の腰むけて突いて出た。
元は北面の武者文覚ひらっと身をかわすと持っていた杓で相手の頭をうちのめした。
「信西、貴僧ももう何年かの命としれ、大衆の怨嗟をあなどってはならぬ。」と比叡にこだまして修行した大声をたてながら表の平門をでていったものだ。

 一方新院崇徳は讃岐に流され配所の鼓ケ丘に移されたのが平治元年ここに恒久的な牢舎がきずかれたのである。山を背に柵をめぐらし出入りはひとつ木戸であった。
「せをはやみいわをせかるるたきがわの
 われてもすえにあわむとぞおもう」
 と父の臨終の席も拒否され藤原悪左府頼長に弄されて今や 配流の身となっていった。
 「はまちどり
 跡は都にかよえども
 みは松山に
 おとのみぞきく」
 と御詠までを書き残した。
 そして「やおれ思い知れよ、われ魔性となれば王をとって下民となし下民をとって王となし、この国に世世乱をなさん」と舌をかみきりその血で呪いの誓詞を書いてわしに送ってよこした。
 それほどの怨嗟をわが身一身に受けて拙僧は後白河の世をつくって行ったのだ。

法住寺殿に棲む妖怪 小説 <王城の秋>

 


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 拙僧信西は京の街を放免を道案内にしてよく歩いたものだ。牛車に乗ってもよいがそれでは民衆の心や
時代に潜む地中のうごめきが感ぜられない。放免者というのは使庁放免ともよばれているもので,囚獄された
身となっておるものを拙僧が放免するかわりに逆に「蛇の道は蛇」と今度は犯罪や謀反の動きを探索させることにしたものだ。
 放免者のなかに、放免の源蔵というものがおった。源蔵は清水の音羽寺の法主妙信の貯める金銭を商家に融通する金融を業としていた。
いはば法主と結託して社寺の権威をかりる狐のような存在だったが、借財を取り立てるのに汲汲としてついには借金のかたに娘や女房を
東国に売りさばいたり傾城にしたりがばれて投獄されたものだ。
 源蔵よ 「わしに放免されてこのように逆に探索の身になったことをどう思う」ときいてみたが、
 源蔵は無言だった。
 多分武士がひとを殺すのが仕事であるように、殺しても勝ち側にいれば勲章、負ければ首を刎ねられる。盗賊や悪事も当人にしてみれば
盗むのが仕事、食うための仕事で、見つかり捕らえられれば囚獄されて罪人になるだけだと言おうとしているに違いない。
 この時代民や武士にとって正直な時代だった。
 「人は身を賭して食うものを得、子や妻を養った」のだ。ただ公卿や坊主や神官らの特権階級だけがのうのうと身を賭さずに生きていたのだ。
 「さすれば放免者と言われて指さされる源蔵こそにこそ生きる人間の厳しさを知るべきだ。」と拙僧は思うのだ。
 この時代に現れてきたものには猿楽や田楽の法師たち、琵琶をひく法師たち、白拍子や傾城(遊女)たちや、素破(すっぱ)とよばれるペテン師や
賀茂の河原に生活する河原者などが遊興の芝居をはるようなことまでが京の街を彩っていた。

 平安京とよばれる京の街はいうまでもなく左京(東京)と右京(西京)とからなりたっていた。この「左」と「右」という構成の仕方は単に方向を示すものではなく
古代律令制の根本に関わる重みをもっていることを読者はご存知だろうか。
 右と左とはものの均衡を保つ根本で律とは均衡を保つことで繁栄には衰亡が待ち、富には貧が横ににともない、生には死があるのだ。古代東洋の考え方の根本が
均衡というものだ。
 だがこの均衡が平安の都で崩れてゆく。
 清涼殿にたつと右近の橘と左近の桜が均衡を保ち国を治める形をとる。右大臣と左大臣が具に形となった。
 「右京」の荒廃であった。朱雀大路の西方は多くの沼地があり京の生活に資する農地があった。この西京から多くの農民が生活の窮乏に耐えられずに離散していったのだ。
反対に右京には日ごとに数増す人家群を抱えてゆく。この不均衡が生み出すものこそ平安の末路を決定ずけたのではないかと拙僧は思う。
 放免の源蔵をともなって拙僧は後白河の法住寺殿の周りをよく歩いたものだ。
 東山三十六峰南端に後白河法皇の法住寺殿がある。
法皇の仙祠法住寺殿は新熊野神社を南端とした。後白河の君は熊野と日吉の神体を新造の社壇に勧請してその殿中に建立した。それが新熊野神社である。殿は東山七条あたりまで、南北四町、東西2町ある。

 新熊野神社を出て七条通りを左折すると後に蓮華王院(三十三間堂)と呼ばれる得長寿院がある。この得長寿院は備前守忠盛の造営するものでその内部中央の間に丈六の聖観音像を安置して周りに等身の聖観音五百体を安置してある。元暦二年の大震災で崩壊したが、後同所に蓮華王院が建立された。

 著者はこの地をおとずれたが、後白河稜は法住寺の手前の小道をゆくとつきあたる。養源院と隣り合うようにして後白河が満開の桜のもと1000年眠っている。花びらがはらはらと散っていた。。
大和大路をゆく。六波羅蜜裏通りをゆき左折すると六波羅蜜寺がある。清盛の邸宅があり、六波羅探題がある。平家を偲ばせるものはこの六条にはのこっていない、ただこの六波羅密寺だけが1000年の昔を偲ばせてくれる。蜜寺には清盛の坐像と同時代の空也商人の坐像がある。清盛の像と数分間だが、睨みあった。分厚い唇で頬が膨らんだ独特の風貌に半眼のまなざしが厳しい。その目が睨むのは果たして何なのか。しばらく考えたが浮かばないので止めた。
 六波羅をすぎると建仁寺の勅使門が目に入る。京都でもっとも古い禅刹で一直線の伽藍形式をとる。勅使門には矢傷がのこり、何気なくそこにあるが、かっての平重盛の邸宅跡である。

オンマニハラバリタヤ ウン 小説 <王城の秋>

オンマニ ハラバリタヤ ウン 小説<王城の秋>

by dankaita

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 保元の乱後の世界をつくりあげていったのは拙僧である。
世に信西こそが頼長を窮しさせ、崇徳に入れあげさせてみずから後白河をたて、武士平家と
源氏の武力を後ろ盾に信西の世をつくったというが、そんなことはあとで皆が言うだけで
当人の拙僧が 生きながらえるにはそれしかなかっただけだ。
 保元から治承 寿永の争乱、平家一門の興隆、滅亡、頼朝による天下の草創にいたる平安時代中期から末期
世は薄気味悪い呪術に塗り固められて闇にぬっと浮かんではさっときえゆく鵺のようなものだった。
 そのなかで拙僧が合間見えたのは多くの希代の士たちであった。とりわけて人の世の「武者」のいのちなはかなさは
拙僧がいたくかんじたものだった。
 拙僧は信西となって出家したのだが、その出自を書いておこう。
 通憲(信西)の家系は曽祖父・藤原実範以来、代々学者(儒官)の家系として知られ、祖父の藤原季綱は大学頭であった。ところが、天永3年(1112年)に父・実兼が蔵人所で急死したため、7歳の通憲は縁戚であった高階経敏の養子となった。

高階氏は院近臣・摂関家の家司として活動し、諸国の受領を歴任するなど経済的にも裕福だった。通憲は高階氏の庇護の下で学業に励み、父祖譲りの才幹を磨き上げていった。保安2年(1121年)頃には、高階重仲の女を妻としている。 通憲は鳥羽上皇第一の寵臣である藤原家成と同年代で親しい関係にあり、家成を介して平忠盛・清盛父子とも交流があったとされる。

通憲の官位の初見は天治元年(1124年)の中宮少進(中宮・藤原璋子)であり(『永昌記』天治元年4月23日(1124年6月7日)条)、同年11月の璋子の院号宣下に伴い待賢門院蔵人に補された。璋子の子である崇徳天皇の六位蔵人も務めたが、大治2年(1127年)に叙爵して、蔵人の任を解かれた。この年、2人目の妻である藤原朝子が、第4皇子・雅仁親王(後の後白河天皇)の乳母に選ばれていることは前にも書いた。

散位となった通憲は、長承2年(1133年)頃から鳥羽上皇の北面に伺候するようになり、当世無双の宏才博覧と称された博識を武器に院殿上人、院判官代とその地位を上昇させていった。その後日向守に任命されるとともに、『法曹類林』の編纂も行っている。

通憲の願いは曽祖父・祖父の後を継いで大学寮の役職(大学頭・文章博士・式部大輔)に就いて、学問の家系としての家名の再興にあった。ところが、世襲化が進んだ当時の公家社会の仕組みでは、高階氏の戸籍に入ってしまった通憲は、その時点で実範・季綱の後を継ぐ資格を剥奪されており、大学寮の官職には就けなくなってしまっていた。また、実務官僚としてその才智を生かそうにも、院の政務の補佐は勧修寺流藤原氏が独占していた。

 これに失望した通憲は、無力感から出家を考えるようになった。通憲の遁世の噂を耳にした藤原頼長は通憲に「その才を以って顕官に居らず、すでに以って遁世せんとす。才、世に余り、世、之を尊ばず。これ、天の我国を亡すなり」と書状を送った(『台記』康治2年8月5日(1143年9月15日)条)。数日後、通憲と頼長は対面して世の不条理を嘆き、通憲は「臣、運の拙きを以って一職を帯せず、すでに以って遁世せんとす。人、定めておもへらく、才の高きを以って、天、之を亡す。いよいよ学を廃す。願わくば殿下、廃することなかれ」と告げ、頼長は「ただ敢えて命を忘れず」と涙を流した。

鳥羽上皇は出家を思い止まらせようと康治2年(1143年)に正五位下、翌天養元年(1144年)には藤原姓への復姓を許して少納言に任命し、更に息子・俊憲に文章博士・大学頭に就任するために必要な資格を得る試験である対策の受験を認める宣旨を与えたが、通憲の意思は固く、同年7月22日(8月22日)に出家して信西と名乗った。

出家をしても信西は俗界から離れる気はなく、「ぬぎかふる 衣の色は 名のみして 心をそめぬ ことをしぞ思ふ(出家して墨染めの衣に着替えても、それは名ばかりのことで心まで染めるつもりはない)」(『月詣和歌集』)とその心境を歌に詠んでいる。鳥羽法皇の政治顧問だった藤原顕頼が久安4年(1148年)に死去すると、顕頼の子が若年だったことからその地位を奪取することに成功し、『本朝世紀』編纂の下命を受けるなど、その信任を確固なものとしていった。
 要するに拙僧など身分の低いものが平安の世を牛耳るとは時代が間違っておったかそれともはきだめに咲いたえんどうの花みたいなものだ。
 合間見えたものには西行がいる。西行は衛府につとめていた左衛門尉佐藤康清の子で名を義清といった。鳥羽院北面の武士となり平清盛などと仙洞に仕えたものだ。
 その彼が
 そらになる心は春のかすみにて 
  よにあらじともおもいたつ哉
 世を厭う名をだにもさは留めおきて
  数ならぬ身のおもいでにせん
 と詠んで「遁世」した。
 その西行に小倉山の庵で逢うたとき、
 「西行とは西国異土への旅たちか」と問うてみたことがある。
 西行はそっと唇をほそめながら、
 「よのなかを捨てて捨てえぬここちして
 都離れぬわが身なりけり」と歌で返したきたことがあった。
 その後の西行は高野山、伊勢をすみかとし旅にあけくれて数おおくのうたをのこしたが、西行に花はつきない。
 拙僧はそのなかで 
 「ねがわくははなのしたにて春しなん
  そのきさらぎの望月のころ」なるうたには魂を奪われる。
もうひとりといってはなんだが 拙僧と親子ほどの年の差だが
下賀茂神社の禰宜の子長明がおる。
 小さい頃から琵琶をひいいては拙僧の無聊を慰めてくれたものだ。
 長明はやがて「遁世」して日野の下山に庵をむすび「方丈記」をのこしたそうだ。
 さて拙僧はというと小さき頃より父実兼より真言のまじないをおそわっておった。

           となえたてまつる光明真言は大日普門の
           万徳を二十三字に摂(あつ)めたり
           おのれを空しゅうして一心にとなえ奉れば
           みほとけの光明に照らされて 三妄(ま
           よい)の霧おのずからはれ 浄心の
           玉明らかにして真如の月まどかならん

           おん あぼきゃ べいろしゃのう 
           まかぼだら まに はんどま じんばら 
           はらばりたや うん
                 

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