小説 王城の秋

794年平安時代となった。その平安が鎌倉になるまで。時代の魂は白河が握る。 白河天皇(1053~1129) 後白河(1127~1192) 平安の後期は白河の世だった。 白河の次が鳥羽、其の後が崇徳、崇徳はおじこと呼ばれて白河上皇の子だったという。その白河が崩御して 保元,平治の乱。清盛の時代となるが、其のときは後白河の時代だった。 後白河ほど日の本をしらめすに策をめぐらせた人はなかった。 源氏、平氏、を弄して時代を演出した。 だから平氏も源氏も白河によって出現したにすぎない。 描くべきは白河であった。

日本の美、文化の原点平安時代とはどんな時代だったか。 京都を舞台に絢爛とかがやく時代を描く

人間とウイルス

あくまでも人間もまた自然の一部であることを忘れている。人間も死んで地球の土に帰る生き物である。しかし人類はむざむざと死ぬことを拒否してウイルス、細菌、遺伝性病原体、に抗して生命維持に努めてきた。病原体を発見し分析し治療薬を作り、患部を切り取り生命を維持するテクノロジーを開発してきた。こうして麻疹、ペスト、結核、梅毒、HIV, インフルエンザ、そして現在人間を襲っている新型ウイルスに至っている。しかし忘れてはいけない。ペスト治療薬の開発には200年,結核にも数十年かかって殆ど絶滅したと言われる。インフルエンザだけは治療薬やワクチンは開発されたが鳥を経由するウイルスを絶滅するには地球上から鳥類を絶滅させなくてはならない。人類もまた地球上の一介
生き物なのだ。さて新型コロナだが既に何百万人が感染し20万人以上の人達が死亡しその収束が見えない。治療薬やワクチンの開発も期間も見えない。人類の不安と恐れが増している。人類の七割が罹患すれば人類抗体が出来て収束するという説でスウェーデンでは自然に任せている国もある。しかし罹患者の20%が重症になりそのうち10%が死亡する。600万人の人口で五割としても300万人重症60万人死者6万人。この犠牲者に耐えられる国民なのだろうか。人間は必ず死ぬ。いつどのような形でしぬのが良いのか。武力による戦い、名誉のための決闘、銃殺されたもの、病に倒れたもの、事故によるもの、山岳にて死亡したもの、自殺したもの、しかし死はさけられないが遺されたものに悲しみを残す。人類は自然界の一部にすぎない。どんなに慎重に健康にケアしても大丈夫とはいえない。全て創造主にまかせて行くのが良いと断言出来る。

高齢者を狙う新型肺炎ウイルス

 中国武漢に発生した新型肺炎は別名(老人殺しウイルス)でもある。2020年2月1日現在感染者は世界で1万人を超え230人が死亡した。その多くが持病を持つ高齢者である。若年層が感染しても重症化する確率は低く子供も感染しにくい。要するに老人を襲うウイルスであり人口動態を正す為に生まれたウイルスではとも巷間言われる。小生もCOPD持病を有する。歳も74歳感染すれば重症化しやすい。
 2025年問題といわれ2025年には団塊世代が後期高齢者となる。国家予算のうち社会保障費が占める割合が増えこのままでは様々な点で困難が生じる。ここで多くの老人が死亡すればこの問題が少し解決に向かうのではというわけである。
 なるほどとは思うが自分がと思うとやり切れない。

王城の秋のその後

最後の投稿から5年が過ぎた。もう一つ頑張って投稿を続けていきたい。

白拍子、仏という女  小説<王城の秋>

 熊谷草


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 平安の性は闇の中の出来事であった。時には漆黒の闇であったから、相手を感じるのは匂い、感触、味、音声などが性の重要な要素となる。性戯に長けるには、とくに女には、男を悦ばすに匂い、味、行為に耽るときのよがり声などに熟達しなくてはならない。このために様々な工夫がなされたにちがいない。

  舞を業とする白拍子の女達は篝火や燭のもとで舞ったのでその姿をさらしている。男たちは舞う姿と水干の体にまつわる皺からその裸体を想像して刺激されていた。舞とは既に性戯の真髄であることを地球に存在する腰を振る舞踊が教えている。

 平安の白拍子舞踊も天の岩戸の常世の長鳴鳥を集めて鳴かせ、アメノウズメノミコトが岩戸の前で、足を踏み鳴らし胸をはだけ袴まで押し下げて舞い踊ったというその舞の伝統に根ざしている。だから客の注文とあれば、平安衣服剥ぎ取り劇までが含まれていたに違いない。妖艶な面立ちでゆらめいて燃える篝火に映る裸体ほどたけりくる武士の性欲をかきたてるものはない。
 
 平安時代に女の局部はほと(陰戸)といったり、つびといったり、ひなといったりした。ひとは火で、な、とは穴で、と、とは戸であって局部の割れをいう。またひなさきとは雛先で女性外陰部の上方にある小突起。陰核。陰梃をいう。
出典は*十巻本和名抄(934頃)二「吉舌 揚氏漢語抄云吉舌〈比奈佐岐〉」
*臂喩尽(1786)八「吉舌(ヒナサキ)〈吉舌 雛先也。女根の嬪頭を云り〉」
近世の烏帽子(えぼし)の正面の部分の名。まねきの舌のくぼみ中央の小さく突き出ている部分。〔箋注和名抄(1827)二〕

 白拍子が着る水干の下着は下袴という白色の布衣装であったから、着脱は帯紐をゆるめれば簡単至極。これほど生殖行為に適したものはない。その白拍子が舞うのである。刺激は時代とともに変化し、その程度を増しているようにも思われるが、実際は違う。人間が感じる刺激の受容はそんな単純なものではない。

 西八条の清盛の面前で白拍子の仏が舞い終わった。
「仏よ、もう帰さぬ。この西八条に留め置くがいいな」
仏が祇王を仰いだ。祇王もまた仏を見た。仏はまだ十六の乙女であった。
「・・・・帰してください。あなたさまには祇王さまがおいでです」
「祇王よ、もうそちには女の幸をつくしてやった。刀自にもこの世の幸と金銭を渡してきた。行く末どうなと安楽にくらせよ。」といいふくめてしまった。
面前でわしは仏をとるといわれては、祇王、二の句がでない。その夜じゅう衾を被いてなきぬれた。
 泣きぬれれば女は強い。翌日には祇王は西八条の唐紙に形見ぞと一首の和歌を書き残した。

      萌え出づるも
      枯るるも同じ野辺の草
      いずれか秋に
      あはで果つべき

男と女のえにしとは、不思議なものである。千年万年と契れどもやがてはなるる仲もあり。世にさだめなきことおとこ女のならいなり。(平家物語)

 ある日八条の仏から祇王に使者がきた。清盛からの使者である。
「仏御前、つれづれに祇王に会いたし、遊びにきてたもれ」
祇王は考えた。どうして今頃と。同じ白拍子の女。仏御前の気持ちは如何と。

 仏御前はどうしても祇王に会いたかったのである。自分の存在が祇王を追い出してしまったことを今でも悔いていた。いやむしろ虐げられていた白拍子の女どうしの複雑な感傷からだったのかもしれない。

 祇王も清盛の面前でしばらくぶりに舞ってみせた。

      仏も昔は凡夫なり
      われらも終には仏なり
      いずれも仏性、具せる身を
      隔つるのみこそかなしけれ
 祇王の舞に聞き入る公卿や諸臣の目に涙が光っていた。

 その年の春、小倉山のふもと、桂川の西に草の庵を結んだ親子がいた。祇王とその母刀自であった。庵は寺となった。現在の祇王寺である

祇王    小説<王城の秋>

 奥嵯峨a


妓王寺




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京の奥、小倉山のふもとにいまもなにか不思議な静寂をかくすように祇王寺がある。平安の時代はまことに不安が支配する時代だった。この闇のような不安に包まれた時間は永遠につながる時間だった。

 平安に託された平氏と源氏武士の台頭は闇をつんざく花火のようなもので、花火を際立たせた鵺のような気味悪さをかもしだしたのは常に魔界の性、女たちであった。
 
 女の体は青磁器の壷のようなものだと吉川英治は言った。壷のなかには炎のように泡立ちながら赤い色の血がたぎっていて、燃えては沈み、沈んではまた、たゆたう大蛇の肌のうろこのようで、理性ではなく、体のうずきが生きる方向を指していた。
 
 そのころ白拍子とよばれる歌舞まって生活する遊女がいた。そのもとは鳥羽院の時代に和歌の舞からの起源だという。水干と烏帽子、白ざやまきをさいて舞ったことから白拍子という。白拍子がどんなものか歴史を研究するものはいろいろというが、ようするに遊女である。権力をにぎるものに青磁の肌をくねらせて迫る存在以上のものではない。
 
 そのなかに、刀自という遊女の娘祇王というものがいた。生まれつきの玉のような肌をもち、抱くと青磁のように冷たい肌から蛇籃胎が飛び出してくるような女だった。うわさを聞きつけたのが時の大納言清盛、すぐに呼び出して舞わせた。

 「そなた祇王というか。そなたの肌をみせたもう。もそっと寄ってこいというに。」といらいらと言う。
祇王はもうその時勝負に勝ったと直感した。清盛といえば天下の大権をにぎり平氏にあらざればひとにあらずといわせしめた平氏の棟梁、いや国をしろしめす王者だった。だが単なる卑しき白拍子に誇りも投げ捨て、不器用にその体をもとめる卑屈さはもう祇王に負けているといってもよい。男とはこんなにもどうしようもないものか。

 「祇王、なにが欲しい。そなたの舞にかなうものならば何なりと申せ。」

 「祇王はなにも所望するものはございませぬ。ただひとつ欲しいものは清盛さまの前で舞えることひとつそれだけにございまする」女の本性とはうらはらに言ってみせた。

 そばに仕えていた忠度に清盛が言う。

 「忠度、刀自金100貫をあたえよ。今宵から祇王はここから帰らぬ。そう刀自に伝えよ。」 忠度は扉をしめて部屋を出て行った。

 部屋からはもう女の泣くような甘美なため息がもう漏れてきていた。天女が着ている水干もひきはがされればもう板敷きを覆う布にすぎないし、天下の舞も所作をうしなえば閨房の技と代わりがない。いやむしろ閨戯こそが舞の本質かもしれない。

 刀自の棲む白拍子街には、六波羅の目に留まった祇王は玉の輿と賞賛されて、金100貫を与えられた刀自は、こんな夢みたいなことと家中のものに喜びをふれまわった。街には祇王にあやかって祇一とか、祇福、祇徳、祇扇などいう名がやたらに流行りだしたという。

 こうして祇王は薔薇園の金殿に住む身になって、丸三年がすぎた。舞の世界でも世の理は必定。白拍子街にこれも絶世の美女、百花の研を競う仏とよばれる可憐な白拍子が現れた。加賀の国の生まれで諸芸才能にも恵まれ宮中の官女にもひけをとらぬとうわさされていた。
 
 仏の祇亭の主は
「あの祇王にも仏はひけをとらぬ。どうしても六波羅に見参させねば」とある日思いついた。
「のう仏よ。お前の舞ほ評判は京中に広まっている。この上は西八条の清盛公にお伺いしてみることだ。あの祇王でさえ清盛公に直接招かれたのだから、お前にできない筈はない。」

 恐ろしきは無知の知というもの。仏はおじずに西八条を直接尋ねてしまう。
「待て待てその牛車。どこへゆくぞ。どこのものぞ」
「わたしは仏という白拍子。かなしき白拍子の性。どうしても白拍子の舞を殿様にお見せしなくては死んでもしにきれますぬ。失礼のほどは先刻覚悟。命をかけて参りました。どうぞ御取次ぎ給わりませ。」
その声と折れるほどにみをかがめて頼む仏の覚悟が巌も通したのかなんと清盛に取次ぎがなされた。
清盛はその時徒然に時を過ごしていた。
「なに、仏というか。白拍子が仏とは面白き名。逢うてみたいが、祇王がなんというか。」祇王の意を聞いてみよ。と推参させた。
「遊び者の推参は常のならい。御門を軽んじてのものではありません。仏といえば京中で噂されている白拍子。わらわも逢いとうございます。」と祇王がいう。

こうして清盛と祇王の面前で仏が舞う。

        君を初めて見る折は
        千代も経ぬべし姫小松
        お前の池なる亀岡に
        鶴こそ群れいて遊ぶめれ

仏は舞いに舞った。祇王が目を丸くしていた。清盛はうなっていた。

 「このような白拍子がおったとは」 薔薇園に舞い降りた天女の舞であった。気品にあふれてこの世の舞とも思われぬほどだった。
 「仏と申すか、おそれいったぞ。杯をやろう。目の前で杯をもってもう一度舞うのだ」 清盛はそばの祇王の存在さえ忘れて言った。

禿髪    小説<王城の秋>

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信西には放免という情報密偵がいた。清盛には禿髪(かぶろ)という存在があった。齢五十一になった清盛にはもうこの世に怖いものがないように思えた。
「この世の春とはこういうものか。のう重盛よ」という言葉にも余裕が感ぜられる。
 先日の永万元年八月には清水寺に比叡の山門大衆が下洛し、一院山門の大衆に遂せて平家追討などの噂がながれたが、叡山の東福寺との争いに流れて東福寺の末寺である清水寺を炎上させて終わったばかりであった。
「父上、平家に春などございませぬ。争いはこの世の常。ゆめゆめこころゆるめてはなりませぬぞ。なおご用心のこと愚息、重盛父上にもうしあげまする」
「重盛よう申した。重盛ある限り平家は安泰じゃ。うれしいぞ」 清盛はようやく杯を干した。
 
 いまや信西なく、源氏義朝も知多の地にて斬首され、源氏嫡男頼朝には命を助けたが、伊豆に配流し、牛若には鞍馬に封じた。唯一の敵対者といえるものは後白河上皇であったが、藤原信頼を斬首したあとでは、上皇ひとりでなにも出来るものではない。清盛には平家の繁栄だけがみえていた。

 仁安三年この年、突然やまいが清盛を襲う。陰陽師光悦がよばれた。
「殿、お命をなごうするには、出家するのが一番、これまでの死者の怨霊を祓うことが大事とでておりまするぞ」
 清盛は忽ち出家入道した。法名は浄海と名乗った。そのしるしに、宿病たちどころに癒えてその後十三年天命を全うすることになる。ひとの従い、吹く風の草木をたなびかせ、世のあまねく仰げることは、降る雨国土を潤し、花族も栄耀栄華も面を向かえ,肩をならべるものこそない。
 平大納言時忠は、「この一門にあらざれば、みな人非人なるべし」と一天四海に伝わっている。
 その上に清盛は念を押した。京の巷にある不測の情報を集めたのである。十四五六の頭のよいすばしこい童参百人揃えて髪を禿にきりまわして、赤い直垂を着せ、京中を歩きまわさせた。平家について不満やあしざまに言うものがあればひっとらえて六波羅で裁いたのである。京の馬、車さえ禿髪を見ると道をよけたと歴史にある。

 平家物語弟一巻にある。
諸行無常、是生滅法、生滅滅已、寂滅為楽。とは仏典四句渇である。簡単にいえば、「すべては無常だが、これは必然、すべてが滅してはじめて、これを楽とする」ということだろう。祇園図経という経典には重病の僧が亡くなると堂の鐘が自然に鳴り出すという。病僧はこの音を聞くと忽ち苦悩を散じ嬉々として極楽浄土に旅たつというのである。清盛平氏が伝えしものは、因果応報などというものではなく、積み重なって重々しい存在となりうる人間理解であり、仏法でいう戒めなどではなく、想像の世界での救済であった。
 

 

六波羅御幸 小説<王城の秋>

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信西の首が京、賀茂の河原に晒された。新荘園制度を創設し九州大宰府を統括し、財を宮廷に収攬させて、内裏を改修し、宋貿易を拡充して清盛とともに大海に打って出ようとした信西入道も人間の怨嗟と欲望の前には夢も野望も消え去って首を晒すのみであった。
 伊勢平氏伊藤武者景綱の手勢援軍を得て、熊野から急遽京に戻った清盛がみたものは、灯ひとつない京であった。もう正月も近いのに街には歳暮の人影もない。後白河も二条の帝も幽閉され、ただ源氏の武者と東国からの坂東武者が大路を固めているのみで、飢えた野良犬が通りかかる武者馬に吠え掛かるけんけんと犬の声が響くのみであった。
 その死者の街のような京にたどりついた清盛は賀茂の五条六波羅に帰った。どこに潜んでいたのか大小の邸宅の平氏からわっと声が起こった。
一族の老幼、男女、郎党、女童までが何かをさけんで手を振り体をもんで清盛を囲んでくる。
 「殿のお帰りじゃ。熊野から戻られたのじゃ。もう義朝のいいようにはさせん」
 既に公卿詮議は終わっていた。信頼は近衛大将に、義朝は播磨守、その子頼朝は従五位に任ぜられていた。惟方、経宗、成親、師仲などの源氏がたの諸将が枢要な顕職につき平氏はことごとく除目からはずされていた。
 何故このとき信頼ごときの公卿に義朝も藤原の主だった公卿までが加担して信西を討つにいたったのか。歴史は後世にその真実をつたえてはいない。が、信西入道がその志を貫くためにはなんの躊躇もなく諸々の改革に邁進していったかが推測されるのである。死刑を復活させ、崇徳上皇を讃岐に配流し、忠正、為義を斬首し、その子から幼女までを三条の河原で民衆の前で刺し殺した。改革を邪魔するものはことごとく職と冠を剥奪し、それでも背くものは切り捨てた。これほどの非情さをもって政をなしたのは歴史上でもこの信西と後世の信長以外に存在しない。いずれも目を島国日本から遠い海の外に置いていた。信西は大陸の国 宋を信長はその向こうユーラシアの国々であった。
 もうひとつこの事変で日本の歴史を大きく変えたことがある。
 それが信頼に幽閉された上皇と二条天皇の黒戸御所からの脱出である。だれが図ってこの奇跡ともいえる脱出行を成功させるにいたったのかこれも歴史上あまり語られれていない。ひとり監禁中の主上を奪取するだけでなく同時に上皇後白河をも仁和寺へを落とし申さなければならないのであるから、むずかしさはなおさらであったろう。もし事様が信頼一味に覚られていたら時局は一変し平氏が錦旗の御旗をかつげることなく、したがって平氏なく、後源氏の世となっていったのかどうかさえ、疑わしい。歴史とは結果である。
 黒戸からの脱出がなされている夜一体信頼はなにをやっていたのであろうか。信西の首をとり、自ら近衛大将となり、上皇と帝を幽閉して武門源氏義朝に警護を固めて、宮中の一室で沈酔していたとあるが、その生来の幼稚さと、脆弱な精神性から漆黒の闇に耐えかねて、燭をかざして、女御更衣の衣擦れに身をやつしていたに違いない。平安時代の女御たちが身に着けていたのは十二単衣という重ね着で着るのは時間がかかったが脱ぐのには至極簡単であったという。信頼の酔眼にうつるのは、まさによりとりどりの見取りの閨の花たちであったろう。脱がせた十二単衣に裸でしとどに待つ女御に体を重ね、明日の不安から逃げるようにして夜の明けるのをまっていたにちがいないのだ。信頼とはそんな男で平安の世を動かしうるようなものではない。そんな信頼と源氏義朝は組んでしまったのだ。

信西自ら生き埋めを命ず 小説<王城の秋>

 

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by dankaita
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放免の源蔵が息せき切って姉小路の我が屋敷に飛び込んできた。口から泡をふいてことの重大さを告げていた。
「お館殿」
 源蔵は普段から拙僧を昔の日向守の名前で呼んでいた。信西はもともと鳥羽院治世の進士蔵人実兼の子であった。のち
 長門守高階経俊の養子となり日向守通憲と名乗ってめぐまれずに階前の御用奉仕に明け暮れていた時代があった。源蔵は清水の社寺で法主妙信と結託して没落公卿や武士に金貸しを生業に生きていた。
 その時代信西は妻朝子が雅仁親王(のち後白河天皇)の乳母となり、その人脈でのし上がってゆく。のし上がる信西に金を融通したのが源蔵だった。
源蔵はその後清水の法主妙信の賄賂事件で連座して牢につながれるが、信西がその罪をゆるして今では京の放免として名をなしていた。
 「重大事でござる。藤原信頼が大軍でここ姉小路に押し寄せ火をかけようとしております。お逃げなされませ。」 頼みの清盛はもう七日も前の十二月四日に熊野参詣に向けて出立してしまっていた。
 「そうか、女、童に先に逃げよと申せ。わしは秘蔵の月毛の馬と舎人成澤をつれてひそかに南都方向に逃げる。妻朝子二位の局は後白河の君に従え。信頼も上皇の乳母にまで手をだすまい」
 右衛門督信頼と信西とは後白河の寵愛を同時に受けていたが、信頼が大将の位を院にねだったことから、信西との仲がこじれていった。いまや信頼は信西一門を滅ぼそうと左馬頭義朝と陰謀を語らっていた。
 信西は月毛の馬にまたがり密かに夜の闇にかくれて姉小路の屋敷をでた。遠く東山連峰に上弦の月がでていたが、三日月では漆黒の闇を照らすほどではない。
 「宇治をめざせ」舎人成澤に信西はそう告げた。
 東山をよじのぼり、山科から奈良街道を南に下って行く。醍醐の地を経て宇治路にかかり田原の奥大道寺に至るのだ。
 その時であった。東の空を彗星が赤く尾をひいて流れてゆく。木星が亥の方向にあった。天変の相であった。信西は天文を推察するにたけていた。
 「忠臣が君にかわる相とでた。この信西君に代わるなどおもうべくもない。とすれば忠臣とは誰のことか」 と黙々と歩みを進めていた。振り返ると鴨川の東、三条殿と姉小路あたりが火につつまれているのか明るくなっていた。
 「信頼め、御所の上皇にまでせまったのか」信西がうなった。
 三条殿の様子はそのときいいようもないくらいだった。各門を武士たちが固めていたが、各所に火をつけられて猛火が虚空に満ち暴風が煙雲をあげる。御所の階前を公卿があたふたと黒い歯をみせて逃げ惑う、女御たちは尻をはしょって庭の池泉に飛び込んでしまう、それを信西の一門と見間違えたが信頼の軍勢が切り捨てる。地獄の様相を呈していた。人間はかくまでも陰惨なものか。火にやけまいと外に出れば矢にあたり、矢にあたるまいと帰れば火に焼け、矢をおそれ、火を避けようとするものは御所の井戸に飛び込んだ。最初に飛び込んだものが溺死し、その上に飛び込んだものは、さらに上に重なって落ちてくるものの下で圧死した。
 上皇は御所のなかで信西の息子の俊憲と貞憲と一緒にいた。立ち煙る業火が世上にも迫ってきていた。
「御出座あそばしませ」
「紙燭をもて 紙燭だ」
「なにごとぞ、なに信頼だと。公卿の分際で朕になにをするぞ」
その君の影にむかってゆく姿があった。
「--年来、君のおいとしみをこうむりましたが、我慢できぬのが入道信西の讒言。ついに清盛とはかって我藤原信頼を責め滅ぼす
との報が届きましてござる。ここはその前に東国に下ることに決めもうした。ついては上皇の君を入道から保護奉り、入道の血筋を殲滅するのみにござりまする。」
「なに、誰がそのような讒言をしたというのか。朕にむかってその言葉は許せぬぞ信頼」
「世上の君、もう遅すぎまする。賽の目は振られたのでございまする。皆のもの上皇を牛車に御相乗もうせ」
「あ なにを命ずるのだ 信頼」
そこへどやどやと下足の武者輩が飛び出してきた。東国の武者輩にとっては上皇もなにもない。むんずと上皇の体を担ぎ上げると、すでにまちかまえていた
御車に押し込んでしまった。
源氏の領袖が集まっていた。左馬頭 義朝、、源中納言師仲,をはじめ勿論、軍の中心に中納言信頼、検非違使別当惟方、三位経宗もいる。
「上皇ほんのしばらくでござる。決してご憂慮には及びませぬ。」
「御車をすすめよ」と信頼の声がひびいた。
十二月の凍てついた道を御車を何十騎の武者が取り巻いて、その速度を増してゆく。瞬く間に朱雀大路を越えて、御所の南建礼門院につきあたる。
「北だ。 北にまわれ」 一本御書所に進むのだ」
こうして信頼と義朝は上皇の身をクーデター宜しく寂しく立つ御書所に幽閉してしまった。
「信西はいかかがした。信西につたえよ」 上皇の声がむなしくひびいた。
 そのころ信西は石室山のうしろ、信楽峰をすぎてはるばるとわけいっていた。そこに京の情勢を探らせていた成影が帰ってきてことの趨勢を伝えてきた。
「院の御所はすべて焼き払われ、姉小路の館も焼き払われてございます。敵は右衛門督藤原信頼、と左馬頭源義朝。上皇様はどこかに幽閉されました」
「そうか 忠臣が君に成り代わるというは 信頼のことよ。拙僧ではない。だがここは信西むざむざとこの首をさしあげるわけにはいかぬ。われのいうとおりにせよ。
この信西が忠臣がどのようなものかを後世にまで見せてしんぜよう」
「皆のもの、そこの祠のうらに穴をうがて。四方に板を立て並べ わしが入る。そのあとで大きな竹の節をとおして口にあてて、堀り埋めるのだ。」
「なぜ竹の櫛をとおすかのか、それは生きている間の寸刻に仏のみ名を唱え申すのが所存。埋め終わったら即刻皆はこの地を去れ。さすればこの首は誰の手にもわたさぬ。よいか」と厳命した。
 追随していた四名の武士はそのようにして今や墓ともなった土盛を平らにして草をかぶせて泣く泣く都へ戻っていったのである。
人間の妬み、恨みとはなんとおそろしいものだろうか。
 その後この墓は泣く泣く京に帰った武士の舎人成澤が捉えられて拷問にかけられてついにはあばかれて首を切られて鴨の河原にさらされた。五十四歳の生涯であった。
平安の時代に新荘園制度を創設し、内裏を改修し、宋貿易の基礎をつくり、遣宋使と大船の製造までの夢を清盛と果たさんとした男の最期であった。












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