シリーズもの

2018年09月16日

詩から読み解こう!『心平先生の四季小景』(第3回)

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 皆さんお久しぶりです。くっくどぅです。

 長いようで短かかった合宿が終わりました。私事ですが、グリーの合宿が終わった次の日から、別のサークルの合宿が始まるため、疲れをいやすこともままならない状況です。が、頑張るぞー。




 さて、頑張って続けてまいりましたこの企画、「詩から読み解こう!『心平先生の四季小景』」も、ついに今回で最終回を迎えることと相成りました。ぜひ皆様、最後までお付き合いくださいませ。

「. 眠つてゐる」


 初出は『母岩』(1935年、歴程社)です。今回の曲集ではこの詩が唯一戦前に書かれたものとなります。

 第一連ではまず、「山」に降る雪が描かれます。機銑犬了蹐里茲Δ貌以や虫が活動することはありません。植物もうるおうことなく、ただ雪の音だけが聞こえる「地上の冬」の光景が広がります。

 ところが、第二連では舞台が「海」へと移ります。
 「こんぶやひじきやてんぐさたちは。/海の底でゆらゆら新らしい芽をふきだし。」とあるように、寒い季節にもかかわらず、海の中では数々の命が誕生していきます。「ゆらゆら」という修飾は、あからさまに見えたり聞こえたりするものではないけれど、結果としてしっかりと生命の誕生という神秘的な瞬間へと結びつける上で重要な役割を果たしています。静寂の中で展開される、山と海とのコントラストが見事です。

 そして次の連では、対象が「おれ」へシフトします。
 「さうしておれは眠つてゐる」とありますが、第一連、第二連を経て登場する「眠つてゐる」は不思議な言葉です。静まりかえった山と生命の活動に溢れている海との間にあるような言葉のように感じられます。
 「寒さと紙屑の夜更けの街を。/イナヅマ型におれはぐらつき歸つてきた。」とあることから、「おれ」は人間である可能性が高いといえます。何も見えない「夜更け」の中に「紙屑」の音だけがする街中を「イナヅマ型にぐらつき」ながら帰路につく「おれ」の姿には、言い知れぬ辛苦や孤独感が付きまといます。
 この描写の直後にもう一度「眠つてゐる」とありますが、そこにはもはや主語はありません。この行は次の連への伏線となります。

 「疊の上に」「布團の中に」眠るものは一体なんでしょう。それは「おれ」であり、私たちでもあります。「おれ」の眠りは「おれ」だけのものではなく、人々全体に、ひょっとすると生き物全体へと広がっていくように思われます。

 最後の連ではもう一度、雪降る山と命吹き出す海が描写されたあと、「柘榴の頭は眠つてゐる」で締められます。柘榴(ざくろ)は濃い赤色の果肉が特徴の果物ですね。頭部を果実に例えることによって、厳しい冬を乗り越え、柘榴が熟すのに相応しいような、暖かく晴れ晴れとした季節を待ちわびる命の姿が思い起こされます。





「. 全く美しい」


 初出は『未来』(筑摩書房、1983年)です。心平氏は1988年に逝去していますので、この作品は最晩年のものと位置づけられます。

 第一連の最初で「落葉樹群の冬の裸は美しい。/茎も葉も枯れはてた草たちの土の中での生活も美しい。」と作者は宣言のように言い切っています。
 その根拠はなんでしょうか。このように寒々しい姿、痩せた姿になってしまえば当然、「太陽光」「雪や霙の汁」を求めたくもなるだろうに、樹木や草たちはそうはせず、ただじっとしている。その姿が「美しい」というのです。植物を擬人化する手法が大変おもしろいと同時に、植物の様子を讃え、慈しむ作者の姿がなんとも感慨深いですね。

 第二連では、さらに興味深い木々の様子が記されています。
 「誇りとする」「熟し」「修身」というのは、ここではみな、裸んぼの樹木たちに訪れた「内面の変化」です。身を切るような冬の寒さに負けず、「炎える」ように聳える木々に、作者は言い知れぬ強さを感じとったのかもしれません。

 さて、いよいよ最終連です。木々に積もる「重たい雪」を、木々はなんと「どてら」の代わりにしているといいます。どてら(褞袍)は昔の防寒着ですね。
 けれど、木々にはもはや怖いものは何もありません。雪という「どてら」にくるまり、「ガラスの天」に昇らんがごとく立派に立っています。「ガラス」という表現は、冬のよく晴れた朝の澄んだ陽射しや空気をうまく表しています。
 そんな木々に見いだされる感情は「喜び」だと作者は言います。ここまでの描写を通しても、この様子はやはり「凄烈」と言うほかないでしょう。最後の「実に。全く美しい。」は、単なる褒め言葉ではなく、作者の木々の逞しさに対する驚きがこもったうえでの感情の沸騰といえます。




 さて、以上をもちまして、私の今回の組曲に関する考察は終わりとなります。ここまでお付き合いくださった皆様、本当にありがとうございました。また、今回の連載を通して、ぜひともこの新譜に関心を持っていただけたら幸いです。それでは11月25日、船堀にてお会いしましょう。ありがとうございました。

 (今回の記事執筆にあたり、「日本詩人愛唱歌集 ‐ 草野心平 詩一覧」を参考にさせていただきました。)



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2018年09月12日

詩から読み解こう!『心平先生の四季小景』(第2回)

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 こんにちは。くっくどぅです。この記事がアップされているころにはグリーメンは合宿のため、尾瀬へと向かっているはずです〜。僕にとっては最後の夏合宿。5日間頑張ろうと思います!



 さて、ご好評(?)いただいている「詩で読み解こう!『心平先生の四季小景』」ですが、さっそくその第2回へと参りたいと思います。今回取り扱うのは「. 夏」「. 庭」です。

 それでは、一行一行その世界観を紐解いていきましょう。




「. 夏」


 「夏」は、前回の記事で紹介した「. 春」と同じく、もともとは詩群「竹林寺幻想」のひとつです。ですので初出は『日本沙漠』(1948年、青磁社)ということになります。

 第一連で展開されるのは「ざんざんざんの土砂降り」「稲妻」という、喧しいほどの雷雨の光景です。竹林は波打つほどにゆれ、「大たぶさ」と暗喩されています。「たぶさ(髻)」とは、昔の男子の髪の結い方のこと。髪を頭上ににまとめて結い上げることをいうそうですが、荒れる竹林をこのように表現することで、自然の猛威、力強さを肉体的に表現しているといえます。
 そこに稲妻がかかり、「伽藍を圍む全竹林」が「レントゲン」と化します。一瞬の閃光に何もかも透かされてしまった世界が、この一語に集約されています。その後の「むらさきの凄気」とは、一体何でしょうか。私の意見を申し上げますと、稲妻の強烈な光に一瞬目が眩んだ直後の、よく見えない状態を余韻として描写したものと感じられると同時に、雨雲の濃くかかった不気味な空が続く様子をとらえたものとしても解釈できます。

 第二連では、雷雨が去った後の静寂を表現しているように見受けられますが、ここから登場する「大螢」や「蟇(心平氏のお得意ですね!)」たちの運動の描写が、ともすれば危うく自然の猛威に打ちのめされて終わってしまいそうな結末から世界を救っています。静かではありますが、ひとつひとつの生命の強さが消えてしまったわけではありません。それは蛍の一匹に対しても、「水サファイア」「光の青い血」と、力強く表現されるのです。

 ここまで解釈をしてきましたが、この解釈通りに歌いあげるとなれば、相当のテクニックと集中力が要求されます。つまり、第一連と第二連で変わってしまうもの(うるさい雷雨から静かな夜へ)と変わらずにいるもの(力は大きな自然から小さな命へと引き継がれています)を、いかに同時に表現するか。難しい曲と言えるでしょう。




「. 庭」


 初出は『牡丹圏』(1948年、青磁社)です。『日本沙漠』同様、終戦直後に出版された詩集です。

 この詩は、非常に読むのが難しい詩です。というのも、あまりに優しく穏やかで、透明度が高すぎるからです。水を飲むようにスルスルと入っていきやすい言葉たちが並んでいますが、それに惑わされて大事な世界観を落っことすことなく、一緒に慎重に読み進めていきましょう。

 まず第一連ですが、早々「まひる」とひらがなで優しく表現されていることで、厳しい季節が過ぎ去った後の温い、柔らかな揉情が喚起されてしまいます。詩を把握し、皆様にお伝えする役割を(勝手ながら)担っている私にとってはこうしたところが非常に危なっかしいのです。
 ひとりごとはさておき、その後「秋の日射しに。/光る石英のきらきら微塵。」とあります。「秋の日射し」「石英」は別ものでしょうか。落ち着いた日射しに照らされた小さきものたちが、またおだやかに応えている風景が浮かんできます。

 第二連へと移りましょう。ここで「星星」という語句が何度か繰り返されますが、それは「まひるの星星」だというのです。「まひる」において星は鮮やかに見えるものではありません。今にも空に消えてしまいそうな透明度を持った言葉のように思われます。またこうした透明感ある描写は、作者の目に映る秋の光景をいっそう広い、大きなものにしていきます。

 第三連ではそうした展開に合わせるように、「すすき」「萩」「さるすべり」と、数々の植物に視点が移動してゆきます。いずれも優しい色を持った秋の草花です。それらの影が秋の日射しのなかで揺れ動き、「斑ら」の模様を作り出します。

 第四連の冒頭、「星星ひかる天盤を。/流れるまるで飛行機のやうに。」とあります。「天盤」とは秋の雄大な空全体を表現したものでしょうか。時間も、色も、作者の心も、遠方に飛んでいる飛行機のごとく、ゆったりと移ろいでいく空間がこの二行で構築されます。
 三行目では一転、地面をはしる「蟻」に焦点が移ります。「朱にそまつて」とあることから時間帯としては日暮れが近いのでしょう。「牛のやうに」「のろのろ」と描写することで、一見、何もかもがだらしなくなってしまうように感じます。

 しかし、心平氏はここでも大事なものを忘れずに表現しています。それが第五連にて描かれる「生命の営み」です。
 「せはしなくそしてゆつくり。」はその前の連に登場した蟻の動きにも読み取れますし、作者の目に映るもの全ての述語にもなり得ます。「飛行機」「牛」も、遠くから見るとゆっくりのんびりしているように見えるけれど、実はそれぞれの役割をしっかりと担っている、しっかりと動いていることを表す伏線となっている印象を受けます。

 第六連は第一連のリフレインの後、これまでの描写が折り重なって「小さな宇宙」を構成すると同時に、「そよ風」が感慨とともに作者の心へ浸入するのです。この連において展開されるある種超写実的な光景は、これまで慎重に言葉を選んで作り上げた世界観だからこそなしえるものです。

 いよいよ最終連です。対象は「日本」へと及びます。「しつとりしめつた」斑ら模様をうつした「土」は、動植物の生命の証を私たちに確約するものであると同時に、作品ができた時代背景を考慮するとなれば、戦争によって一度は止まってしまった、この穏やかで平穏な世界が続いてほしいという作者の祈りのようにも見て取れます。




 いかがでしたでしょうか。今回取り上げた二曲は、読み解く上でも、ましてや歌うとなればかなり表現に苦戦することになるのではないかと思いました。本番まであと二ヶ月ちょっと。できることをガンガン積み重ねていきたいと思います。

 次回はいよいよ最終回です。お楽しみに。

(本記事執筆にあたり、「日本詩人愛唱歌集 - 草野心平 詩一覧」を参考にさせていただきました。)


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2018年09月09日

詩から読み解こう!『心平先生の四季小景』(第1回)

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皆さんこんにちは。そしてお久しぶりです、くっくどぅです。

 約1か月ぶりにブログを動かすということで…皆さんにひょっとしたらグリーのことを忘れられてしまったのではないかとヒヤヒヤしながら原稿を書いています。

 決してあの上南戦の後ぐうたらしていたのではないですよ!?それはそれはもう、11月25日に迫った第70回記念定期演奏会のために血と汗の滲む練習を重ねてきたのでございまして…明後日からは合宿も控えているのでございまして…そんなわけでちょっと、ブログの更新に意識が向かなかったというだけなのです、ええ、ええ。

 …いけませんね。お叱りのコメントは下記のコメント欄より受け付けております。




 さて、反省もほどほどに、本番に向けて士気を高めるため、ワタクシ勝手にこんな企画をこのブログ上でやってみようと思います。名付けて、

「詩で読み解こう!『心平先生の四季小景』(全3回)」!!


 私は個人でも詩を書いていますが(えっ、見たい!という方はこちらからどうぞ)、自身のそうした経験、知識、解釈を活かしながら、ぜひ今回の『心平先生の四季小景』に対する理解や思い入れを深めていこうと思い、企画した次第です。また、一人で完結させるのもつまらないので、ぜひブログの読者の皆様にも共有しながら、本番までにぜひとも今回の曲集に対する関心を喚起できればと思っています。拙い記事とは思いますが、お付き合いくださいませ。

 それではまず第1回の記事としまして、「. 春」と「. 初物」へと参りたいと思います。



「. 春」


 この「春」という詩ですが、もとは「竹林寺幻想」という五つの詩群のひとつだそうです。初出は『日本沙漠』(1948年、青磁社)です。心平氏が終戦後に出した初めての詩集です。

 さて、この詩は全体を通して、「です、ます」の丁寧語調で書かれていることに特徴があります。六つの曲の中では唯一です。このように書くことで、読者をやわらかく詩の情景へと導くことに成功していると言えるでしょう。

 第一連では写実的な語りが展開されます。
 「無木巖石」「楚楚蕭蕭」といった、読むには少し抵抗を伴う語は、「菜の花畠」「丘」「こんもり」といったやさしい言葉によっていわば中和されているようにも見えます。
 さらに「夕暮」「縞靄の流れてゐる」といった視覚的かつ抒情的な光景へ導く言葉が、続く第二連の作者自身の心情描写への導入の役割を果たしているのではないでしょうか。

 お話しました通り、第二連では「わたくし」を通じた心情の描写へと対象がシフトしていきます。辺りがどんどん暗くなるなか、そこに菜の花の香りも混ざって「わたくし」は自身の輪郭を失っていきます。
 「花の明るい色のため却つてあたりは暗く見え。」は菜の花の色の強烈さを表現する上では見事な表現です。その色にようやく目が慣れてきた「わたくし」に、竹林の丘は「大熊の背中のやうに」壮大に姿を現します。

 最終連では、第一連の写実的描写、第二連の心情描写が「暈の月」照らす「無木巖石の丘の甍」に収斂していきます。
 「わたくし」の身体には眠る「野鳩の亜子」が一体となって迫ります。鳩の子の呼吸、生命の躍動、そして菜の花畠に溢れるあたたかで豊かな自然の姿に「わたくし」も読者も包み込まれるようです。


 全体を通してやわらかい詩と思いますが、その中に包含される「春」の強さがあるということを意識して歌えるといいですね。




「. 初物」


 初出は『植物も動物』(筑摩書房、1976年)です。心平氏の詩集では晩年のものにあたります。

 さて、第一連の最初の行に「ギヤマンでない。/極く平凡なガラスの器に。」という箇所があります。「ギヤマン」がガラスの器、ということを指すのだとすれば少し妙ですが、おそらくこじゃれた器でもなく、本当に安物のありふれた器ということを表現したかったのかもしれません。その安い器に盛られているのが、「サファイア」と暗喩された「莢豌豆」なのです。この対比によって、莢豌豆へと当てられたスポットは一気に明るさを増します。直後に出てくる「オリーヴ油」は莢豌豆の色を考えれば、エキストラバージンオリーブオイルの持つような新鮮さと輝きを表していると考えられます。

 第二連では、連をまるまる「今年初めて自宅の畑から採れた莢豌豆」のために充てています。いよいよそれを味わう瞬間が第三連にて描写されるわけですが、ここでも作者なりのテクニックが示されているように思います。
 「自分は食塩を少しふりかけ。/ゆつくり箸をとり。/今年初めての莢を。/その最初の一つを。」と、言葉を短く短く区切っています。こうすることによって、いよいよ食べようとするその瞬間に、心地よい緊張を伴ったスローモーションを加えているのだと読み取れます。

 そして味わった感想は意外にも手短に「甘くシャリリ。」。前の連で大袈裟に描写した分、ここは一行でストンと終わらせる作者の思い込みが何とも潔く清々しいですね。清涼な莢豌豆の歯ごたえは、最後の「one cup」にも通じるものがあります。




 いかがだったでしょうか。なにせ個人の主観で書いたものですので、「いいや違うぞ」という意見があれば大歓迎です。少しでも曲への関心や理解が深まるお役に立てたのなら幸いです。近日中に第2回も上げますので、どうぞお楽しみに。

 それでは!

 (本記事執筆にあたり、「日本詩人愛唱歌集 - 草野心平 詩一覧」を参考にさせていただきました。)


sophiaglee at 20:01|PermalinkComments(0)

2014年08月16日

シリーズ:中世のミサ曲(8)「イテミサエスト」

皆様、こんにちは。副顧問のたろうです。

あれ、気が付いたら一月くらい経ってる・・・?
だいぶ遅れてしまいましたが更新します。



本日は第8回、「イテミサエスト」をご紹介します。

前回ちらっとお話ししたように、アニュスデイのあとに歌われる曲です。
アニュスデイがミサ曲の終曲である場合も多いので、初めて聞く方もいらっしゃるかも知れません。

歌詞は次の通りです。

 Ite missa est.
 Deo gratias.

短いですね。
この歌詞は、ミサを終了するときの司祭と会衆のことばに由来します。
即ち、

 司祭「行きなさい。ミサは終わりです」
 会衆「神に感謝」

ということです。
毎回のミサで同じような言葉を唱えてミサを終えるので、
通常文として扱われ、従ってミサ曲に含まれていたのでした。



さて、今回私たちが演奏するイテミサエストは、大変面白い曲です。
出典はクレドと同じくトゥルネーのミサ曲で、3声の曲です。

何が面白いのかというと、
この曲には 【歌詞が3種類ある】 のです。
しかも 【3つのパートがそれぞれ違う歌詞を同時に歌う】 のです。
さらに 【3つある歌詞のうち二つはラテン語、ひとつはフランス語】 なのです。
もひとつ付け加えると 【フランス語の歌詞は世俗的なラブソング】 だったりします。



んもう、何が何やら・・・という感じですが、本当にこんな音楽が存在するんです。

このような種類の曲のことを 「モテット」 と言います。
「モテット」は中世の代表的な音楽のひとつです。

現在の音楽用語としては、ミサ曲以外の宗教的な内容の
ポリフォニー音楽全般を指してモテットという言い方をしますが、
中世の「モテット」はこれの元になった言葉と言えます。
(紛らわしいので、中世の方を「モテトゥス」と呼び分けることもあります)



「モテット」形式の音楽では、

 第一声部がグレゴリオ聖歌等の定旋律を、
 第二声部が宗教的なラテン語の歌詞で対旋律を、
 第三声部が世俗的な歌詞(多くの場合フランス語)を、

それぞれ同時に歌います。

歌詞が違うことはもちろんですが、
3つの声部がそれぞれ別の拍子で作られていることが多く、声部間にリズムのずれが生まれ、
それでいて合うところはぴったり合うという、何とも言えない魅力を持った曲となります。



 ◆「あの、ちょっと質問というか、腑に落ちないことがあるのですが」

あ、どうもこんにちは。お久しぶりですね。何でしょうか。

 ◆「3つのパートがそれぞれ別の歌詞を歌うんですよね。それも違う拍子で」

そうですね。すでに述べた通りです。

 ◆「歌っている歌詞の意味を聞きとれなくなってしまいませんかね」

 ◆「私も長く合唱をやっていますが、
   歌詞の内容が聴衆に伝わるように歌え、と常に先生に言われていました。

   合唱の本場・元祖であるヨーロッパで何故そのような音楽が発展したのか、
   なんとなく納得しかねる部分があるのですが・・・」



ふむ。確かに、各パートがバラバラに、直接関係の無い歌詞を違う言語で歌うのですから、
内容の聞き取りは困難ではありますね。

全くの推測の域を出ないのですが、いくつかの可能性は考えられます。

例えば、そもそも広く人に聴かせるための音楽では無かった可能性があります。
ラテン語の定旋律の部分は各パートの中で最もシンプルに作られているので、
もしかしたらミサの中で一般会衆も一緒に歌っていたのかも知れません。

そうであれば、この音楽を純粋に聴いている人はほとんどいないことになりますので、
ある意味、内容は聞きとれなくても良かった、と考えられます。



また、「聞こえない方が好都合だった」のではないか、という話を本で読んだことがあります。

これは、モテット形式の音楽の中に、
社会・政治批判とも取れる歌詞が使われている曲があることからの推測です。

痛烈な批判や悪口を、権力者の目の前で声を合わせて高らかに歌う。
自分達は意味をよーく分かって歌っているが、聴いている側は分からず、
そのハーモニーやメロディにただ聴きほれる。

このような、中世の芸術家たちの高度な「お遊び」が、
この形式を発展させたという可能性も無くはないと思います。



 ◆「なるほど・・・。そう考えると面白いかもしれないですね」

昔の音楽家が何を考えて作曲・演奏活動をしていたか、想像は尽きないですね。
ロマンですね。



 ◆「このシリーズ、今回で最後の曲まで来ましたが、これでおしまいですか?」

それがですね、も少しだけ続きます。

今回の演奏会では、このイテミサエストについてちょっとした実験を試みたいと思っておりまして。
そのことについて簡単にご説明したいと思っています。

 ◆「あ、まだ続くんですね。次はちゃんと更新してくださいね」

う・・・がんばりまーす・・・。

 ◆「それでは来週もお楽しみに♪」



おまけ:

先日、オランダのリコーダー奏者フランス・ブリュッヘンが亡くなりました。
歴史的演奏の第一人者として古楽界をリードしてきた大音楽家に敬意を表し、
ご冥福をお祈りしたいと思います。

ブリュッヘンの演奏はすごいですよ。
我々が中学校で習ったのと同じアルトリコーダーでこんな演奏ができるものなのかと、
衝撃を受けたのをよく覚えています。

皆さんも機会があったらCDを買って聞いてみてください。
テレマンの「リコーダーのためのファンタジー」とか最っ高ですよ。

sophiaglee at 09:57|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

2014年07月19日

シリーズ:中世のミサ曲(7)「アニュスデイ」

皆様、おはようございます。副顧問のたろうです。
慌てず、騒がず、粛々と、本日もシリーズものの更新をしたいと思います。



本日は「アニュスデイ」についてご紹介します。

アニュスデイは日本語では「平和の賛歌」と呼ばれます。
ミサの中ではサンクトゥスの後に、
司祭がパン(聖体)を食べ、ぶどう酒(御血)を飲む場面で歌われます。

ラテン語の Agnus Dei を和訳すると 神の子羊 となりますが、
最後の部分で「私たちに平和をお与えください」と唱えるので、平和の賛歌と呼ばれます。

歌詞全文を載せておきます。


Agnus Dei, qui tollis peccata mundi:
miserere nobis.
Agnus Dei, qui tollis peccata mundi:
miserere nobis.
Agnus Dei, qui tollis peccata mundi:
dona nobis pacem.

  神の子羊 世の罪を除きたもう主よ
  我らを憐れみたまえ
  神の子羊 世の罪を除きたもう主よ
  我らを憐れみたまえ
  神の子羊 世の罪を除きたもう主よ
  我らに平安を与えたまえ



クレドの回でご紹介したように、どちらかとういうと歌詞の短い部類に入り、
従ってメリスマ的な作曲をされることがあります。

また、1文ごとに明確な区切りがあり、各文の音節数も同じなので、
比較的かっちりした構造の音楽になることが多いです。

ミサ曲の最後の曲となることが多く、平和を願う内容の祈りなので、
ゆっくりとした、穏やかな曲調であることも多いです。



さて、私たちが12月に演奏するアニュスデイは、イングランドの音楽です。
グローリアと同じ The Old Hall Manuscript という写本から、1400年中頃の曲を選びました。

作曲者は Chirbury という人で、イングランドのウインザーの教会で働いてた、
ということ以外、あまりよく分かっていないようです。



曲全体は、3つの部分から構成され、最初と最後の部分は同じ譜面を繰り返して演奏します。
即ち、A⇒B⇒A という形で、各ブロックに歌詞を1文ずつあてています。
現代風に言うと、オペラに出てくるダ・カーポ・アリアみたいな形式ですね。

Aの部分は、ひとつの長い音を3分割するリズムで作られており、
現代の拍子で言うと、8分の6拍子や8分の9拍子に近い感じで聞こえます。

対してBの部分は、ひとつの長い音を2分割するリズムです。
現代風に言うと、2分の2拍子に近いですね。

この「3分割」というのは、キリスト教の「三位一体」の考え方から、
完全なリズムであると考えられていて、古い時代の西洋音楽では非常に重要です。

この曲も、最終的に3分割リズムに戻って曲が終わる点は、
それを意識していると思われます。象徴的ですね。



この曲にはもうひとつ特徴的な部分があります。
それは半音の使い方に見られます。

1番高いパートの出だしの Agnus Dei の部分が、半音階による上行形で始まります。

 シ(♭)→シ(ナチュラル)→ドー

という感じです。

中間部の2拍子になる部分にも、フラットがたくさん使われていて、
独特な転調感のようなものが感じられます。

この時代の半音には、作曲者が意図的に付けたものか、
演奏者が勝手に付けて歌っていたものが定着したものか、定かでないものが多いです。

仮にこれらの半音の使い方が作曲者の意図によるものとすれば、
約100年後の時代の音楽を先取りしたようなことになるので、大変興味深いですねー。



 ◆「あのー、すみません。質問があります」

どうも、また来ましたね。質問とはなんでしょう。

 ◆「アニュスデイが『ミサ曲の最後の曲となることが多い』というのが気になります」

ふむ。気になるとはどういうことですかね。

 ◆「私の知っているミサ曲は、全部アニュスデイが最後なんです。
   そうでない曲があるということですか?」



そうですね。アニュスデイが最後でないミサ曲もあります。
実は古いミサ曲には結構そういうのが多いですよ。

例えば、「イテミサエスト」という曲がアニュスデイの後に置かれることがあります。

これは「行きなさい。ミサは終わりです」というような(厳密にはちょっと違います)意味で、
ミサの最後に司祭が会衆に対して言う言葉です。
毎回同じように言う言葉なので、通常文に含まれています。



 ◆「へー、知らなかったです。アニュスデイの後にも曲があるんですね」

実は、12月の我々の演奏会では「イテミサエスト」も演奏します。
詳しくは次回ご紹介しますが、バイリンガル・モテットと呼ばれる大変面白い曲です。

 ◆「おお。これは、次回も見なきゃですね」

次もまた土曜日に更新したいと思います。
また見てネ。



おまけー1:

  ちなみに、あなたが知っているミサ曲って例えばどんな曲ですか?

  ◆「デュオーパの荘厳ミサ曲とか、デズデリの戦時ミサ曲です!」

  ・・・モロ男声合唱や・・・笑

おまけー2:

  アニュスデイの冒頭の第1パートですが、

   シ(♭)→シ(ナチュラル)→ド→レ→ミー

  と続きます。

  我々のOBに宍戸さんという偉い方がいらっしゃるのですが、
  この方の娘さんのお名前が「レミ」さんというとか、いわないとか・・・。

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