2011年07月27日
天北炭田の旅・11(最終回)~日曹天塩炭鉱
お待たせしました!
いよいよ天北炭田の旅メインイベント、日曹天塩炭鉱跡地の訪問記です
【日曹天塩炭鉱(日曹鉱業株式会社 日曹天塩鉱業所→日曹炭鉱株式会社)】
明治37年 本願寺農場管理人・長門勇輔が下エベコロベツ川流域に鉱区を獲得し、
幌延炭鉱と称して採炭を計画。42年試掘開始、44年まで露天掘りを行うも
石炭を運ぶ交通の便が悪く、試掘段階で挫折。
昭和11年 日本曹達株式会社の傍系・日曹鉱業株式会社が鉱区を買収。
12年 現地調査で有望性確認。本格的な開発が始まる。
馬車道造成の上、採炭を開始(第一坑)。
13年 第二坑開坑。
14年 本流尋常高等小学校開設。第一発電所送電開始。日曹神社完成。
仮選炭場設置。
15年 豊富・日曹間16.7キロの専用鉄道完成。第二発電所完成。
16年 選炭場建設工事着手。日曹診療所竣工。
17年 一の沢に新事務所完成。
18年 選炭場完成。石炭事業整備令により零細炭鉱は休山とされ、
天北炭田での稼行炭鉱は日曹炭鉱の他に稚内炭鉱と
三井宗谷炭鉱(宗谷曲渕炭鉱)のみとなる。
20年 三坑開坑。
22年 日本曹達株式会社に合併となるが、集中排除法による財閥解体会社に指定される。
24年 社名を日曹炭鉱株式会社とする。
30年 終戦以降の石炭ブームに沸くものの経営向上には結びつかず、
会社更生法を申請し一時休山。(常磐炭田の同社赤井炭鉱も会社更生法を申請。)
職員70名、鉱員600名、請負組夫300名のうち、再建要員として
120名を残留させるべく努力するも、11名(「11人の侍」と呼ばれた)を残して去って行く。
関係方面の支援を受け、鉄柱、カッペ、カッターを導入。労働時間も延長し再開。
一坑を廃坑、三坑に集中することとし、労使一体で再建に邁進。
31年 選炭場全焼。
35年 国の石炭政策に基づくスクラップ・アンド・ビルド化において道北唯一のビルド鉱となる。
各方面からの救援、労使一丸となっての努力の結果、
36年度には17万トンを生産。全国でも稀有の高能率炭鉱と言われるまでに。
41年 生産量が最高の18万トンを記録。
42年 坑内自然発火、爆発。石炭鉱業合理化事業団に第三坑区域の整理促進交付金を申請。
三菱鉱業株式会社の鉱区を譲り受け、再出発。
46年 石炭需要が停滞するように。
47年 閉山。35年の歴史に幕を下ろす。
(参考資料=昭和61年・豊富町史 他)
閉山から25年の後、鉱業所跡地に記念碑が建立されます。
東に進むと一坑橋。この辺りには選炭場や専用鉄道の一坑駅がありましたが、今は何も見当たりません。
さらに東に行くと鉄道の築堤、橋、転車台があります。
何かわからないものも。
転車台は、丸いくぼみの中と外で植物が違います。
今回は夏なので草の合い間にようやく見える程度です。
次は秋か春に、もっとよーく見たいと思います。
これでひとまず「天北炭田の旅」は終了です。
ほかにも書きたい事はあるんですけど、
それはいずれ機会があれば・・・
この記事へのコメント
旧い鉄道誌等に、「北の果ての炭鉱に働く初期型キュゥろく」と紹介されていた(運転室下に優雅なS字曲線を持つ最初期型9615号機が居た)日曹炭鉱天塩鉱業所。
昭和40年代半ばまで頑張ったものの、石炭産業の斜陽の中、消費地から遠い事が致命傷となって、遂に無念の閉山……と伝え聞いてから、さらに幾多の月日が流れ。
そこは正に文字通りのruinと化していた……。
予想はしていたものの、見るとやはりショックであります。
美唄や夕張の山の中ではないにも拘らず、無住の地と化した今、羆の他に訪れる者とて無し。
無念が伝わって来る光景ではありました。
せめてもの慰めは、所縁の人々による記念碑が残されている事でしょうか。
有難うございます。探訪お疲れ様でした。
はじめまして。ようこそいらっしゃいました。
遠い富山の地から、北海道の中でもさらに北に存在した日曹天塩炭鉱に思いを馳せる方がいらっしゃるとは、
大変嬉しく思います。
9615、見てみたかったです。すでに廃車になったんですよね・・・残念です。
9643は札幌のショッピングセンターそばにあるので、見ることができますが形が違うようで。
この炭鉱跡地は、「山の中」というほどではありませんけど、
かつてのにぎわいを失いひっそりと静まり返った様子は、
ある意味、美唄や夕張よりも寂しさを呈していました。
けれども、所縁の人々が炭鉱の歴史を永く残そうとしていらっしゃっるので、
おっしゃる通り、慰めになります。
もし機会がありましたら、実際に訪れてみてください。
その際はもちろん、羆にご注意を。
昭和47年まで存続しただけに、9615が残らなかったのは大変遺憾です。
地元・豊富で保存されていた49678も解体されてしまったそうですし……。
ところで、地図や路線図を調べて見ましたら、沿線に「豊富温泉」が存在し、駅もあったのですね。
……これはもぅ北陸地方であれば、地方鉄道に改組の上「天塩温泉鉄道」とか名乗って、温泉客の誘致に血道を上げたことであろう。そうしていたならば……例え炭鉱が無くなっても、或いは……と、一縷の望みを繋ぐ事も出来たのではないか?と思ってしまう紅玉でした。
尤も、直近の都会と言えば名寄か稚内、旭川からとなれば泊りがけ必至……と云う立地条件故に、湯治客が中心とならざるを得ず、開業時期も運悪く戦争直前ですから、厳しい経営を強いられた事には変わりは無かったものと思われますが。
所詮、「天塩の登別(or洞爺湖、定山渓)」は夢でしかなかった……のか。 無念。
温泉があっても鉄道を維持するのは難しいと判断されたのでしょう。
それが現実ですから、仕方がありません。
ただここ数年、豊富温泉は、とても珍しい「油の湯」で人気が上昇しています。
泉質の豊富な登別にも、ここと同じものはないでしょう。
アトピー性皮膚炎など皮膚疾患をお持ちの方々にとっては救世主的存在です。
湯治で長期滞在する人も増えているので、
そういう方々のために町をあげて宿泊施設、住居、働く場の充実を図っています。
それに札幌と豊富温泉の間では高速バスが毎日4往復も走っていますので、
利用者は結構多いのでしょう。
私たちも入りましたけど、よく温まって気持ちのいい温泉です。
石炭が化学工業の重要な原料であったことも、こちらのブログで伝えていけたら、と、思ってはいるんですけど、なかなか簡単にはいきません。
遥々、札幌から訪れる人も多いのですか。
宇奈月温泉ですら最近は閑古鳥が鳴いている(黒部峡谷鉄道に乗車の客も温泉は素通りしたり……泣)富山の人間としては、それはとっても羨ましいなって。(苦笑)
1日4往復ですから、札幌やその近郊から豊富温泉に行く人は
そこそこ多いのでしょうね。
豊富は珍しい泉質のお陰でお客さんが増えてますけど、
北海道のほかの温泉地もいろいろ考えて、集客に躍起です。
宇奈月温泉も、工夫次第ではないでしょうか。
お客さんが増えるといいですね。
大都市・札幌に接続する定山渓鉄道ですら最後にはモータリゼイションに敗れ去った(洞爺湖、登別、鹿部等の温泉電車は何れも戦前期か戦後の混乱期に消滅した)北海道の厳しい環境は、それはもぅ、富山とは桁違いなのでしょうね。代行バスすら廃止に追い込まれる位、とは……。
豊富温泉の今後の盛業と豊富町の発展を切に祈念するものです。
北陸には温泉がたくさんあるのですね~。
でもやはりモータリゼーションには勝てません。どこも同じでしょうね。
代行バスまで廃止とは・・・。
今また鉄道が見直されたりはしてませんか?
その土地ならではのものを活用して、頑張ってほしいものです。
いつか豊富温泉にもいらしてください。
本当に有難うございます。
キュゥろく繋がりで、つい先日、富山城址公園に保存されている9628(最終配置:富山区、高山線で使用されていた)を久しぶりに見に行って参りましたら、
だ~っ No.プレートが盗まれている(怒)
テンダー後部のプレートのみ無事でしたが、屋根はあるので何とかボロボロになってはいないものの、昔と比べてかなり憂慮すべき状態でした。
全く産業遺産に対するリスペクトの足りない愚か者共が~(憤慨)。
キュウロクのナンバープレートが盗まれたとは!
世の中には不届き者が居るものですよね。
北海道では先日、江差線の駅から駅名標が盗まれました。
ネットで売ろうとしてお縄になりましたけど。
本当に困ったものです。
SLは歴史の証人ですから、もっと大切にしてほしいですね。