不意打ちを突かれた時国側は、勇気を奮って戦いますがやはり劣勢です。
勢至丸は、とっさに物陰に隠れました、しかし、父の時国は、傷を負ってしまいました。この様子を見ていた勢至丸は、思わず手元の小さな弓で敵の定明めがけて矢を放ちました。
矢は定明の眉間に当たったといいます、でも結局は、戦いは時国側の負けでした。
時国は、受けた傷が深くもう助かる見込みはありません。
自分の死を悟った時国は、勢至丸を呼びました、「勢至丸よ、父はもうすぐ死ぬであろう」
「父上様!勢至丸は武士の子、きっと父の仇を討って見せます」気丈にも答えます。
ところが父の時国からは思わぬ言葉が出ました、「ならぬ、親の敵を討つのは武士として立派である、しかし勢至丸よ、決して仇討ちをしようとしてはならぬ、敵を恨むことがあってはならぬぞ!もし、お前が仇討ちに成功したとしても、また敵から復讐の的にされる。殺し合いの繰り返しじゃ。いつになっても終わることがあるまい」と強く言ったのです。
さらに「勢至丸よ、どうかお坊さんになってくれ、世の平和を願い、亡くなった後のこの私をとむらってくれ」と言い聞かせました。

両親の深い愛情にささえられながら、勢至丸は、期待されるがごとく聡明な子に育ちました。
幼い時から、大人のような知恵を持っていたそうです。
何も起こらなければ勢至丸は、お父さんの跡を継いで優れた領主として人々に慕われた生涯をおくっていたことでしょう、しかし勢至丸が9歳の時、人生を狂わす大事件が起こります。
久米南条稲岡の庄はとても良いお米が取れた所だそうです、現在でもそうです、この良い所だからこそいろいろな人が、水田耕作の為に必要な水の権利を争うことになるのです。
父の時国は、押領使(おうりょうし)という重要な役にありました、現代の警察署長みたいな役目です、時国は仕事柄、水の権利を管理しなければなりません、いろんな紛争があった事でしょう。
時国は預所(あずかりどころ)という荘園の責任者である明石定明(あかしのさだあきら)と対立していました、双方とも武士です。
自分を守るためには武器を持ち戦います、出し抜いてでも相手に勝とうとすることが普通でした。
1141年(保延7年)春の夜のこと、時国に恨みを持つ定明は、屋敷を不意打ちしました。


時国夫婦にはなかなか子どもが出来ず、仏さまや神さまにお祈りし続けようやく授かりました。とても大切な子供です。
法然上人の誕生にあたって、こんな話があります。
花の季節4月7日の正午、空に紫の雲がたなびきました。これはめでたいしるしです。
安産だったそうです、時国の屋敷の西の方にむくの木が生い茂っていました、その木は根元が二つに分かれ、大きく空にそびえていました。
赤ん坊が生まれたとき、鈴のついた二つの白旗が空から飛んできて、木の枝に垂れ下がったそうです、そして鈴の音が空に響き渡り、旗は日に光かがやいたそうです。
その旗は七日経つと天に昇って帰っていきました。
これを見た人はみんな、不思議だと感じたそうです、この木はいつまでも良い香りがしていました。
子どもは勢至丸(せいしまる)と名づけられました、知恵の仏さまである勢至菩薩にあやかったのです。

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