こんにちは。
 わたしたちは、1976年4月、明治大学に産声をあげたサークル「騒動舎」で、ともに青春時代を過ごした者たちです。昨年は創立40周年の年でしたが、本体は10年ほど前に瓦解しており、現在、明治大学に、「騒動舎」を名のる学生グループは存在しません。
「騒動舎」は、劇映画(8ミリ)の制作と、喜劇の上演(演劇部「イズミ・フォーリー」)を2本の柱に活動をつづけ、学生映画界・演劇界にささやかな足跡を残しました。その孤高の芸術は、全国の若者たちを刺激し、「おらぁ、騒動舎に入りたくってよぉ、三浪して明治大学さ入学しただぁ……」といった、屈強な精神の輩まで現出させるほどでした。20世紀末に端を発する東京一極集中化問題と、わが「騒動舎」は、決して無関係ではないのです。
 
 あの日、まぎれもなく青年だった創立メンバーも、40年の歳月をへて、みな、還暦でこぼこの年齢に達しました。それぞれ、出会いと別れを繰り返し、世界でたったひとつだけの人生を、どうにかこうにか歩んできました。
 
 この間、大切な仲間を幾人も失いました。
 創立メンバーの山崎信二くんも、そのひとりです。2015年7月に59歳で亡くなった山崎くんは、映画や演劇について、ノーガキばかり並べ立てる者たちのなかで、唯一、カメラを回し、録音機材を操ることのできる人でした。そんな山崎くんに、わたしたちは、「メカ山」の愛称を捧げました。
「騒動舎」が初めて制作した映画『僕の日曜日』(1976年)では、録音。第2作『あのころ二人は』(1976年)および、第3作『夏の終曲』(1976年)では、監督。第4作『世界中で一番素敵なあなた』(1977年)では、撮影を担当しました。また、「てんこう劇場」と称する自前の劇場(明治大学和泉校舎2号館裏の芝生の植え込み)での公演をもっぱらとしていた「イズミ・フォーリー」では、裏方を一手に引き受けるなど、「騒動舎」の黎明期において、映画・演劇両面で重責を担いました。山崎くんがいなければ、映画も演劇も、ただの1作もつくりあげることはできなかったでしょう。「騒動舎」が30年におよぶ歴史を刻むことなど、なかったにちがいありません。 
 大学卒業後の山崎くんは、「騒動舎」の行く末をつねに温かく見守り、声援を送っていました。「騒動舎を誰よりも愛した人」といっても、過言ではないでしょう。しかし今は、そんな山崎くんと、昔話に花を咲かせることも、あの頃のように、夢を語り合うこともできません。それが悔しくてなりません。
 
 山崎くんは、もう、この世にはいません。けれど、今はいない山崎くんと、何かいっしょにできることはないだろうか。そんな思いが沸き起こり、このグループ、「騒動舎リターンズ」は結成されました。
 笑顔の山崎くんに再会できるような、何か楽しいイベントを、できれば年内に開催しようと計画しています。今年は、山崎くんの三回忌の年です。
 これを機に、山崎くんが活躍した時代の「騒動舎」を知る人びとと、旧交を温めたいと願っています。あのころ、「騒動舎」のメンバーだった方、何かの事情で、途中で辞められた方も、みな、同じ仲間です。創立時のことなどご存じない後輩諸君にも、参加していただけたら幸せです。「騒動舎」の映画や、イズミ・フォーリーの芝居をご覧くださった方々にも、声をかけられたら、と企てています。
 
 このブログは、在りし日の「騒動舎」にかかわった、すべての人びとの交流の「広場」です。ぜひ、ご参集ください。借金の申し込みはしませんので、ご安心ください。
 
 みなさん、「騒動舎」が、また動きはじめました! 

   2017年5月

                         【騒動舎リターンズ】             
                          大森美孝 (騒動舎第1期)
                          原健太郎 (騒動舎第1期)
                          室生 春=大室寿俊 (騒動舎第1期)
                          怪男児日の丸=勝永裕幸 (騒動舎第2期)
                          南野誰兵衛=杉田和久 (騒動舎第2期)

上岡龍太郎さん逝く。……原健太郎

519日、元タレントの上岡龍太郎さんが肺癌と間質性肺炎のため死去した。81歳だった。62日に、引退後の窓口である米朝事務所が報告した。

上岡さんは、1942年3月、京都市生まれ。1960年、横山ノック、横山フックとともに「漫画トリオ」を結成し、人気者となる(この時期の芸名は横山パンチ)1968年、横山ノックの参院選出馬により、トリオの活動が停止してからは、ラジオのDJやテレビ司会者などとして活躍。ABCテレビ『探偵ナイトスクープ』(19883月~)の初代局長もつとめた。20004月、芸能生活40周年を機に、芸能界を引退。

東京の喜劇の歴史などを勉強する身としては、どうしても上方の喜劇史や演芸史を学ぶ必要がある。なにしろ、日本で「喜劇」を最初に名のった一党は、大阪に誕生した曾我廼家一座であり、その直接の末裔は、現在も活動をつづける松竹新喜劇なのである。
芸人・上岡龍太郎が、ぼくは大好きだった。おかしなこと、ばかばかしいことを、これほど真面目な顔をして話す人はいないものだ、と、いまも思う。ただ一点、スキのないほどオシャレなところが、東京モンとしてはどうしてもなじめなかった。とはいえ、上岡さんがテレビなどで発した言葉や回想、著作などには、相当に助けられた。お会いすることはできなかったが、感謝の気持ちでいっぱいだ。

芸能界引退の5年前、1995年に、上岡さんは素晴らしいご著書を出版された。筑摩書房刊『上岡龍太郎かく語りき ―私の上方芸能史―』(本体価格1,359)である。この本の書評を、当時、講談社から出ていたViews(ヴューズ)という月刊雑誌の19954月号に書かせてもらった。この書評を担当された編集の方から、「上岡さんがとてもよろこんでくださいましたよ。宜しくとのことです」と、のちにおうかがいし、胸をなでおろした。ここに再録し、哀悼の意を表したい。  202362日 嵐の夜に


  
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昭和40年代、コント55号はトリオ・ブームになぜ勝てたのか? 上方の笑いを自慢話抜きで痛烈に批評

原健太郎(大衆演劇研究家)

 テレビ番組の司会者として活躍する著者を、若い世代の視聴者は、案外「お笑い」の世界とは無関係のタレントだと信じているかもしれない。元俳優の関口宏や、局アナ出身の徳光和夫らと同じように。少なくとも東京方面では、 このようにとらえられている節がある。
 昭和43年、横山ノックが参院選に出馬するにあたり、漫画トリオは解散した。 以来、著者は、それまでのパンチという名前を改め、上岡龍太郎として独立。ラジオやテレビの仕事を中心に、大きな人気を集めるようになる―。だが、このことを、東京の方では知る手立てがなかった。上岡龍太郎が、依然として「お笑い」の人であったことを確認するのは、 笑福亭鶴瓶との『パペポTV』が、東京でも放映されるようになってからだ。
 本書は、半生記のかたちをとりながら、 著者が見聞してきた上方の芸能、主として笑いの芸能の消長を、ていねいにたどったものになっている。東京ではベールに包まれていた、漫画トリオ解散以後の著者の仕事、そしてなによりも、今日まで、著者が、いかに笑いにこだわりつづけていたかを、知ることができる。
「ネタの裏話」と題された第4章は、本書の目玉である。昭和35年、漫画トリオの初舞台のおりの『お笑いサイクリング』をはじめ、当時のネタを数本紹介し、分析と批評を加えている。記述は、なぜ受けたのかということよりも、なぜ失敗したのかに重きがおかれており、自慢話に傾きがちなこの種の本のなかにあって、 新鮮な感動を覚えさせられる。
 昭和41年の夏をピークとして、前後それぞれ約1年の期間、テレビを主な舞台に、「トリオ・ブーム」というものがあった。東京では、昭和30年代初頭に活耀した脱線トリオの流れをくむ、てんぷくトリオやトリオ・ザ・パンチ、ナンセンス・トリオなどの3人組が、評判を集めていた。同じ頃、関西でスターダムにあったのが、漫画トリオだった。しかし、漫画トリオは、あくまでも漫才であり、東京勢のように、コントを演じるためのグループではなかったようだ。
 だが、漫画トリオは、「3人でなければできないこと」を、徹底的に追求した。これは、東京のトリオの面々には、やや欠けた問題意識であった。そのために、彼らはほどないうちに、2人組のコント・グループ、コント55号に、あっさり屈服してしまうのである。
 関西の芸人たちが、いかに考え、真摯に芸と向き合っているかを思い知らされる、痛烈な一冊である。


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あまたある、いわゆる「タレント本」とは大違いの名著です。
1997年には、ちくま文庫にも収録されました。ぜひご一読を。

   

C調久々の演出

 勤務地が広島になった。
得意先の社員表彰式に招かれることになった。
スピーチの依頼が来て準備していたが、場所が
エンジェルパルテとわかり、部下たち全員と
何か出し物を披露して喜んでもらおうと考えた。
 ケツメイシの「さくら」に乗せて、営業マンの
頑張りで、最後に大きな案件を契約するシンプル
でわかりやすい脚本にした。得意先の社内報の
名前が轍であったことから、コブクロの「轍」を
主人公が歌うことから始まり最後に出演者全員が
「さくら」を歌うことにした。
(さくらのヒュルリーラ ヒュルリーラは印象に
残るけど、森昌子の越冬つばめのヒュルリ
ヒュルリララに通じる。冷たい風の音を
上手くいいあらわしてる。)

終業後、恐ろしくまじめに練習した。
発声練習もした。助かったのは、皆が非常に
歌が上手かったことである。ワイワイガヤガヤ
の練習は1週間続いた。
 表彰式当日、いつもは真面目一辺倒の保険社員
が歌いコミカルに演じるのを見て200名近い
出席者からやんややんやの喝采を頂いた。
得意先の社長からは是非恒例でお願いしたいと
真顔で言われた。当時のメンバーに今でも会うと
「会社人生で一番の思い出」「仕事中より、
演目の練習の方が怖かった」「今でも、
さくらを聞くと思い出す」等は昔話が尽きない。
 
 この件があり、横浜勤務となった時も代理店会
で再び劇を披露した。こちらは900名以上の出席者
、さらにシンプルな演出にした。こちらの演者は
支社長、課長とマネージャークラスの方にお願い
した。ふるさとをテーマにした。
新井満の「ふるさとの山に向かいて」を
各人のソロパートで歌うシーンが好評であった。
普段厳しい顔したマネージャーの皆が必死に
歌う姿に感動する部下もいた。石川啄木の詩に
新井満が曲をつけたこの曲はNHKのラジオ深夜便で
おなじみであり、口ずさむ人もいた。
「恋し 恋し 恋しかり」リピートの切なさ
が何とも言えず好きだった。

 そんなこんなで、C調な演出も時々行った。
楽しい思い出である。
            南野 誰兵衛(二期)

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C調な俳句


 その日は天満橋の船着場にいた。季節は3月末、
屋形船での花見であった。以前に一度得意先に
案内されて行った小料理屋が主催していた。
数日前に突然会社に得意先から電話があり、
花見があるがその日どうしても予定があり
行けないので代わりに参加して欲しいと。
何だかわからず集合場所に来たのである。
桜満開の中、静かに10数人を乗せた船は
走りだした。大川(旧 淀川)に屋形船の灯が
照らされ気持ちが良い。
 ただ花見に来て酒を飲むだけと思っていたのが
大間違いであった。この集まりは大阪の名だたる
経営者の俳句の会であった。
そんなこと、聞いていない。
 小料理屋の女将がゆっくり飲んで食事
してから、順番に句を詠んでくださいと
司会した。お酒を飲んでる場合ではない。
先ず季語を思い出さないと、いや待て季語より
今の心を表現すればいい、などと葛藤していた。
吉田拓郎の旅の宿の「ああ風流だなんて ひとつ
俳句でもひねって」の心境にはほど遠かった。
今ではどんな句を自分が詠んだか全く覚えて
いないが、メンバーの一人が「杉田さんの句は
自由律俳句で面白いね」と講評してくれた。
この自由律俳句という単語だけが頭に残った。
乗り合わせたメンバーも驚きのC調な句だった
と思う、翌日、得意先に愚痴を言うと俳句は
その場の瞬発力だから、スポーツだよ、
面白かったでしょうと大笑いされた。

 父親の故郷山梨県笛吹市、以前は東八代郡
といった町は飯田蛇笏が生まれ生涯住んだ
ところである。その生家に近いところに
父親家族も住んでおり、小さいころから俳句を
学んだようである。大正昭和の故郷の偉大な俳人、
山間の自然の中、品のある趣がある句を詠んだ。
季語が持つ言葉の魅力がある勇壮な句が多い。
「夏雲群るる この峡中に 死ぬるかな」 

 ずっと花見の際の自由律俳句が気になっていた。
保険会社を辞めてアジアを旅する際、飛行機で
読む本を何冊か購入した。その1冊に吉村昭の
「海も暮れきる」があった。題名が気に入り
購入した。これが尾崎放哉との出会いであった。
まさに気になっていた自由律俳句の俳人である。
東京大学出の秀才がアルコール依存症になり、
様々な人に迷惑をかけ、勤務先でも問題を起こし、
転々と勤務先、移住先を追われ人生最後にたどり
着いた小豆島で過ごした数カ月の物語である。
あまりの高慢ぶりと酒を欲する情けなさに心が
揺れた。「咳をしても一人」これが俳句なのか、
孤独を超えて人生に対する慟哭ではないのか。
「海が少し見える小さい窓一つもつ」
窓から見える海は瀬戸内の穏やかな海だったのか、
季語はないが有季俳句以上の風景が浮かび
好きな句だ。保険会社をやめて航路もない出発を
きめた時期に放哉の句は心に染みた。
            南野 誰兵衛(二期)


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C調な歌うたい


 30歳になっていた。
勤務地も東京から大阪になり家庭も築いていた。
部下を持つ立場にもなり、仕事一筋の時期
であった。
接待で曾根崎新地のスタンドはよく利用した。
その日のお客様は歌うことが大好きな方で、
飲むより歌であった。しかし、私は物心ついた
時から歌が苦手であった。正統の音痴であった。
やはりと言うべきか「課長はいい声してますね。
歌うまいんでしょうね、聞いてみたいですね。」
何度か逃げたが、酒がまわってきて、
もうどうにもなれ状態でマイクをもった。
歌うはTHE BLUE HEAARTS「情熱の薔薇」、
「答えはきっと奥の方 心のずっと奥の方
涙はそこからやって来る 心のずっと奥の方」。
当時の心境そのものの歌詞が大好きであった。
大声で歌った。静まり返るスタンド。
翌日、部下から「課長、演歌の方がいいと
思います。音域が狭い歌って結構ありますよ。」
と言われた。おっしゃる通り。

 その日から、保険会社を退職するまで、一度も
歌うことはなかったし強制されることもなかった。

  歌は決して嫌いではない。歌いたい歌だって
いっぱいある。いつもそう思っていた。
涙はそこからやってくる、心のずっと奥の方。

 バブル時代は1985年から1991年と言われている。
この時期確かにゴルフ場の会員権購入やワンルーム
マンション投資などをする先輩社員もいた。
私は結婚したてでそんな余裕などなかった。
しかし、バブルの空気は感じていた。資産は必ず
上がるものと誰もが信じていた。上場会社も今の
ような利益率を見るのでなく、売上規模が大きい
会社が良しとされていた。1991年当時バブルが
終わったのかもわからず、相も変わらずの毎日を
送っていた。
1995年1月17日、早朝突然の縦揺れに驚き恐怖を感じた。
当時は西宮の門戸厄神にある社宅に住んでいた。
171号線の橋梁が落ちているのを見て、言葉を失った。
浮かれていた時代は去った。一番大切なものを
初めて考えた。
 そんな時に情熱の薔薇の歌詞が思い出された。
「永遠なのか本当か 時の流れは続くのか
 いつまでたっても変わらない
 そんなものあるだろうか」
「答えはきっと奥の方 心のずっと奥の方」

            南野 誰兵衛(二期)


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C調な忘年会

 研修期間が終わり、本社の営業部に配属になった。課長は麻雀好きで二日と開けずに
メンバーを変えては雀荘に通っていた。私は先輩社員と毎日のように居酒屋で飲んでいた。
自由闊達な明るい職場で居心地がとても良かったが、仕事は厳しかった。
 忘年会を青山で開催した。酒の飲み方もわからず、勢いだけで飲んでいた時期であり、
やはりというべきか酔ってしまった。その日の酔い方は尋常でなく、外苑前の246号の
中央分離帯で寝てしまった。真夜中であるが、車の往来は激しかった筈である。
嘘のような偶然であるが、たまたま同期が近くを通り私を発見した。
彼は当然驚き、タクシーを止めて一緒に独身寮まで帰ってくれた。彼も独身寮に住んでいた。
外苑前から鷺沼までの間、何回となく起きた私は「降りる、降りる」と大騒ぎしたらしい。
記憶は当然全くない。この件以来、今日までその時の同期と会うと必ず面白おかしく
話されるのには閉口している。ただ、続きがある。翌日目が覚めると9時をまわって
いた。頭痛が激しかったが、それ以上に会社になんと報告すればと真っ青になった。
 恐る恐る電話したら、上司が「風邪ひいて病院行くんだろ。仕事は心配いらない。
ゆっくり休め」と言うではないか。同期が上司に風邪だと話してくれていた。
これでは何歳になっても頭は上がらない。
 騒動舎の飲み会は必ず大騒ぎだった。はちゃめちゃであった。しかし、その発火点
の一人が自分だったと今回ブログを書いていて思うようになった。
喧々諤々飲みながら映画、演劇について話した。飲み方は確かに若かったが、議論
した内容は今よりもずっと濃かったかもしれない。騒動舎の4年間どれくらい楽しい
飲み会をしたんだろうか。
                            南野誰兵衛(二期)

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C調な滑り出し


 1980年4月、損害保険会社に入社した。第二次石油ショックの影響で同期入社は例年の
半分の50数名であった。しかし少ないが上に個性が強いメンバーが多かった。
今も時々同期と会うが、本当に楽しい。同期に恵まれた。
 入社して2ヶ月の研修が玉川学園の研修施設で行われ、その後組合研修が本郷の旅館で
1泊2日で行われた。 当時は男性が総合職、短大を出た女性が事務職であった。
 組合研修が入社式以来の同期全員が顔を合わす日であった。この日の楽しみは夜の懇親会、
チームに分かれて出し物をすることになっていた。ほとんどのグループが歌の披露で、
その中で今も会う悪友が歌った桑名正晴のセクシャルバイオレットNO1がインパクトが
一番で拍手喝采であった。
 うちのチームはシャイな人ばかりで、みな人前で出し物をするのを拒み、なぜか私にお鉢が
回ってきた。誰も私が演劇をやっていたとは知らなかった。覚悟を決めた。
新聞紙を用意してもらい、「キャプテンクック」「星の王子様」という創作芝居を披露した。
歌うことが苦手の私が騒動舎時代に宴会用に考えた芝居であった。紙を切りながらのコント
仕立ての芝居であった。200名近くの参加者は驚き、笑った。そして懇親会のMVPを
いただいた。そして、リクエストに応え赤木圭一郎の映画「霧笛が俺を呼んでいる」での
別れのシーンのセリフを松本C調になって披露した。
「今度の航海はどれくらいですの」「霧笛にでも聞いてみるんだな。何だか、霧笛が俺を
呼んでいるような気がするぜ。」「さようなら」「ごきげんよう」等
やんややんやの喝采をいただいた。松本C調はまだまだ抜けていなかった。

 1980年代は初頭の第二次オイルショックによる景気低迷時期を経て、プラザ合意後
いよいよバブル時代に突入するのである。損害保険会社も貯蓄型の積立商品販売に
傾斜していった。朝から晩まで積立商品の販売に忙しかった。
億の積立商品を売ったことも何度もあった。残業続きの毎日であったが、相変わらず
C調な日々は続くのであった。次回につづく。           南野誰兵衛(二期)

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C調な人生

 騒動舎に入舎したのは、大学1年秋の駿台祭でたまたま「瞼の母」の芝居を見たことにある。
2回見て、心を決めて代表の原さんに騒動舎イズミフォーリーに入りたい旨を告げると、最初は
驚かれたがすぐに是非一緒にやりましょうと言っていただいた。あの日のことは40年近く
たった今でもよく覚えている。やっと大学に意味を感じた日であった。

 大学入学まもなくALEXというテニスサークルに加入していたが、人数が多すぎてなかなか
初心者には練習時間もなく、テニスが上手くなるとは思えなかった。それでも同期に気の合う
男が二人いて、毎日一緒にいた。神宮外苑のコートで先輩や経験者が楽しそうにプレイするのを
横目に3人は壁打ちと玉拾いばかりしていた。そんな毎日が駿台祭を境に大きく変わったいった。

 騒動舎に入ると、全員が映画・演劇に造詣が深く愛していることが痛感した。原さん、大室さん
大森さん、山崎さん、みんな大人であった。同期には鈴木、勝永がいてすでに大活躍していた。
果たして溶け込めるのか不安であり、ここも居場所ではないかもと思い始めていた。
そんな中、イズミフォーリーの次回公演が決まり、私も役をもらった。その前に原さんから
芸名を授かった。「南野誰兵衛」、反応に困った。
私のデビューの評判は散々だった。原さんや大室さんの文学部演劇学科の方々が見に来られたが
厳しいご意見であった。要は面白くない、下手すぎる。率直な指摘であった。しかし、一部の
方からは、動きがコミカルと言っていただき、それが支えになった。当時のイズミフォーリーは
休む間もなく次回作の練習に入っていった。

 転機は「松本C調」という役から始まった。気障で格好つけるがどこか抜けていて憎めない男
という設定。赤木圭一郎の「男の怒りをぶちまけろ」の主題歌に乗っての登場シーンは、演じて
いて楽しかった。この役でやっと認めてもらえた。
そして松本C調のキャラクターがそのまま南野誰兵衛になり、いつしか杉田という名前は
消えていった。その後騒動舎では南野と呼ばれ、また様々な劇で松本C調を演じた。

 大学卒業後も、このC調男がたびたび顔を出すのである。       南野誰兵衛(2期)

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 星のない暗い空 燃える悪の炎 こらえこらえて
 胸にたぎる怒りを 冷たく月が 笑った時に
 命かけて男の 怒りをぶちまけろ 怒りをぶちまけろ

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