こんにちは。
 わたしたちは、1976年4月、明治大学に産声をあげたサークル「騒動舎」で、ともに青春時代を過ごした者たちです。昨年は創立40周年の年でしたが、本体は10年ほど前に瓦解しており、現在、明治大学に、「騒動舎」を名のる学生グループは存在しません。
「騒動舎」は、劇映画(8ミリ)の制作と、喜劇の上演(演劇部「イズミ・フォーリー」)を2本の柱に活動をつづけ、学生映画界・演劇界にささやかな足跡を残しました。その孤高の芸術は、全国の若者たちを刺激し、「おらぁ、騒動舎に入りたくってよぉ、三浪して明治大学さ入学しただぁ……」といった、屈強な精神の輩まで現出させるほどでした。20世紀末に端を発する東京一極集中化問題と、わが「騒動舎」は、決して無関係ではないのです。
 
 あの日、まぎれもなく青年だった創立メンバーも、40年の歳月をへて、みな、還暦でこぼこの年齢に達しました。それぞれ、出会いと別れを繰り返し、世界でたったひとつだけの人生を、どうにかこうにか歩んできました。
 
 この間、大切な仲間を幾人も失いました。
 創立メンバーの山崎信二くんも、そのひとりです。2015年7月に59歳で亡くなった山崎くんは、映画や演劇について、ノーガキばかり並べ立てる者たちのなかで、唯一、カメラを回し、録音機材を操ることのできる人でした。そんな山崎くんに、わたしたちは、「メカ山」の愛称を捧げました。
「騒動舎」が初めて制作した映画『僕の日曜日』(1976年)では、録音。第2作『あのころ二人は』(1976年)および、第3作『夏の終曲』(1976年)では、監督。第4作『世界中で一番素敵なあなた』(1977年)では、撮影を担当しました。また、「てんこう劇場」と称する自前の劇場(明治大学和泉校舎2号館裏の芝生の植え込み)での公演をもっぱらとしていた「イズミ・フォーリー」では、裏方を一手に引き受けるなど、「騒動舎」の黎明期において、映画・演劇両面で重責を担いました。山崎くんがいなければ、映画も演劇も、ただの1作もつくりあげることはできなかったでしょう。「騒動舎」が30年におよぶ歴史を刻むことなど、なかったにちがいありません。 
 大学卒業後の山崎くんは、「騒動舎」の行く末をつねに温かく見守り、声援を送っていました。「騒動舎を誰よりも愛した人」といっても、過言ではないでしょう。しかし今は、そんな山崎くんと、昔話に花を咲かせることも、あの頃のように、夢を語り合うこともできません。それが悔しくてなりません。
 
 山崎くんは、もう、この世にはいません。けれど、今はいない山崎くんと、何かいっしょにできることはないだろうか。そんな思いが沸き起こり、このグループ、「騒動舎リターンズ」は結成されました。
 笑顔の山崎くんに再会できるような、何か楽しいイベントを、できれば年内に開催しようと計画しています。今年は、山崎くんの三回忌の年です。
 これを機に、山崎くんが活躍した時代の「騒動舎」を知る人びとと、旧交を温めたいと願っています。あのころ、「騒動舎」のメンバーだった方、何かの事情で、途中で辞められた方も、みな、同じ仲間です。創立時のことなどご存じない後輩諸君にも、参加していただけたら幸せです。「騒動舎」の映画や、イズミ・フォーリーの芝居をご覧くださった方々にも、声をかけられたら、と企てています。
 
 このブログは、在りし日の「騒動舎」にかかわった、すべての人びとの交流の「広場」です。ぜひ、ご参集ください。借金の申し込みはしませんので、ご安心ください。
 
 みなさん、「騒動舎」が、また動きはじめました! 

   2017年5月

                         【騒動舎リターンズ】             
                          大森美孝 (騒動舎第1期)
                          原健太郎 (騒動舎第1期)
                          室生 春=大室寿俊 (騒動舎第1期)
                          怪男児日の丸=勝永裕幸 (騒動舎第2期)
                          南野誰兵衛=杉田和久 (騒動舎第2期)

●●●脚本家・才賀明と幻の劇団「東京新喜劇」……2

大森美孝、渋井正幸とともに通うことになった代々木ゼミナール、通称「代ゼミ」は、当時、日本で最大規模を誇る予備校だった。本部はJR代々木駅(当時は国電)から徒歩数分のところにある代々木校舎に置かれ、わたしたちはそこの生徒になった。御茶ノ水の駿台予備校のように、一定レベルの学生のみを受け容れる入学試験があるわけでもなく、手続きさえすれば誰もが入ることができた。大勢の受講生のなかには、大森たちのほかにも広尾高校出身者がいたし、小学校、中学校時代の友人たちとも大教室で再会した。

高校では、「数ⅡB」なるものにどうしてもついてゆけず、3年進級時に「数Ⅲ」の履修を放棄した。結果、文系、それも数学を勉強しなくてもすむ、私立文系志望と相成った。受験科目の社会科は、日本史を選んだ。さしたる深い考えもなく、いくつかの大学を受験したが、いずれも歯が立たなかった。現在はどんな具合か知らないが、わたしが現役の頃、広尾高校は立教大学あたりの合格者数で全国ベスト20にランクインしていた。そのため、わたしは大学入試というものに気楽に向き合っていた。遊んでばかりいるように見えた映画同好会の先輩たちも、早稲田や上智などの有名大学に現役合格していたので、自分だってどうにかなると愚かにも考えていたのである。

代ゼミの授業では、英語の西尾孝先生、日本史の沢田浜司先生、漢文の多久弘一先生が印象に残っている。早稲田大学英文科教授から代ゼミの講師に転身した西尾先生は、旺文社のラジオ講座で知られていた。早稲田に勤める前は、東京の旧制中学で英語教師をしていた。「愉快な英語の先生がいた」と、子どもの時分、父親から聞かされていたのが、若き日の西尾孝だった。「こんな給料じゃとてもやってられないから、ぼくは、明日から進駐軍の通訳になる」と言って、学校を辞めたそうだ。我が家は親子二代にわたって、このエキセントリックな先生にお世話になったわけだ。日本史の沢田先生は、暗記すべき項目とどうでもいい項目を、明瞭に線引きして示した。しかし、そのどうでもいい項目のなかにこそ、歴史の面白さがひそんでいることを教えてくれた。多久先生は、中国人のものの考え方を、学生たちに徹底的に叩き込んだ。かなり偏りのある考え方ではあったが、そうしたことが身に付くと、試験問題が妙にすらすらと読解できるから不思議だった。三人の先生に共通していたのは、みな、声がばかでかいことだった。

大森とは高校1年のときに同じクラスになり、二人で映画同好会に入った。2年でクラス替えがあり(3年次もそのまま)、別れわかれになったが、このとき、大森といっしょのクラスになったのが、やはり映画好きの渋井だった。群れを組むのが嫌いな渋井は、映画同好会には入らなかったが、大森の親しいクラスメイトということで、顔なじみだった。映画や文学、音楽などの話をあれやこれや話すようになるのは、代ゼミに入ってからである。渋井はこのころから映画製作の夢を語っており、自分で書いたシナリオを教室に持ってきては、わたしや大森に読ませた。どんな内容だったか、残念ながら覚えていないが、「騒動舎映画第1作」となるはずだった『僕の日曜日』(201753日付ブログ「騒動舎・黎明期の覚書…1」参照)が、渋井によって書かれたものであることは、大いに合点がいく。のちに何本ものシナリオを書き、それを自ら映像化した山崎信二でさえも、「第1作」は渋井のシナリオで行こう、と強く主張したからだ。

4月初旬に授業が始まり、世田谷の自宅から代々木まで、毎日通った。校舎のあちこちに、「日日是決戦」と大書された檄文が貼り出されていた。どの教室も、講師の話を一字一句逃すまいと、熱心にノートをとる受講生でひしめいていた。わたしもそんなひとりだった。

5月の半ば過ぎに、ひとつの転機がおとずれた。受験指導に長けた講師たちに、勉強のやり方とともに教科の魅力をも教えられたことで、わたしは生意気にも、ひとり家にこもって勉強がきそうな気がしてきたのだ。いや、それ以上に、よほどのことがない限り、生徒同士たがいに名のり合うこともない予備校という環境に、早くも嫌気がさしてしまったのである。世に言う「五月病」だったかもしれない。わたしの足は、代々木の地から遠ざかろうとしていた。

その転機は、ある日、決定的なかたちで、わたしの頭上にのしかかった。

4月末に発行された『キネマ旬報』5月上旬号に、「シナリオ作家」の肩書きをもつ才賀明という人が、見開き2ページにわたって原稿を寄せていた。タイトルは「東京喜劇復活を考える!」だった。

わたしは、それからちょうど20年後の1994年に、『東京喜劇 〈アチャラカ〉の歴史』(NTT出版)と題する本を出版し、現在も、「東京喜劇研究会」なる団体の事務局をつとめているが、1974年当時、「東京喜劇」という言葉は、およそ演劇の世界では流通していなかった。一方の「上方喜劇」は、藤山寛美率いる松竹新喜劇の全盛時代でもあり、その実体とともに一般にもよく知られていた。それまで、小林信彦の『日本の喜劇人』(1972年・晶文社)や、それ以前に同じ著者が書いた『喜劇の王様たち』(中原弓彦名義、1963年・校倉書房)などに親しんでいたが、そこに「東京喜劇」という言葉があったかどうかさえも定かでないくらい、才賀さんの文章に記されたこの言葉は、ひどく新鮮に映った。

「エノケン、ロッパ、エンタツ、アチャコ、そして現在の渥美清と、数々の喜劇俳優を生んで来た日本の映画、演劇界。

 しかし、今、東京に喜劇の常打ち劇団はありません。喜劇を愛する一人として、こんな悲しいことがあるでしょうか。それは一体何故なのか。一体誰の罪なのでしょうか。」

「もし東京で常打ちの喜劇劇団を持つなら、新宿を置いて、ほかに場所はない。新宿はムーラン・ルージュの育った若者の町であり、もっとも大衆的な町である。」

「私の意図に賛成して下さる方。コメディアンの卵でも、作家の卵でも、劇場主でも、プロデューサーでも、一般の読者の方でも、もしそういう方がいたら、どうか私共『東京新社』に力を貸して頂きたい。

 誰かがやらなくてはならない。

 そうしなければ、東京の喜劇はすたれてしまう。」

 この文章を繰り返し読んだわたしは、文末に記されていた才賀さんの事務所「東京新社」の住所宛てに、手紙を送った。「わたしも仲間に入れてほしい」と。

 

原健太郎(1)
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◆上/才賀明さんの文章「東京喜劇復活を考える!」が掲載された『キネマ旬報』19745月上旬号表紙。6月公開予定のジョージ・ロイ・ヒル監督『スティング』(1973)のスチールで構成。◆下/「東京喜劇復活を考える!」紙面。タイトル脇の写真は、上からチャールズ・チャップリン、渥美清、バスター・キートン。


●●●脚本家・才賀明と幻の劇団「東京新喜劇」……1

「騒動舎」と、わたし――原健太郎との浅からぬ関係について、当ブログでは、すでに文庫本1冊分くらいの文章を綴らせていただいている。すなわち、騒動舎の創立時(1976)から大学卒業までの日々を、<騒動舎・黎明期の覚書>と題し全25(201753日付~1017日付)、そして、個人的にはその「前史」にあたる中学・高校時代の映画・演劇体験と、学生・社会人団体「喜劇研究会」の活動、「喜劇映画研究会」との間柄などを、<「喜劇映画研究会」ブログ開設のご案内>の表題で全8(2018521日付~528日付)、想い出すままに記した。記憶が日々薄れていくなかで、それでもまだナントカ気がたしかなうちにと思い、当時の資料にできる限り当たって書いた。

もちろん、これらは「騒動舎」発起人のひとりであるわたしが識りえた、大切な仲間たちの活動記録であり、客観性に欠けた体験記にすぎない。決して「正史」などではないことを、あらためてお断りしておく。

30年近く続いた「騒動舎」の「正史」が、いつかきちんと書かれることを、わたしは望んでいるが、その筆者は、わたしなどよりずっと若く、叡智に満ち満ちた御仁であるはずだ。

 

1学年後輩の、怪男児日の丸こと勝永裕幸氏による<怪男児日の丸の上京劇場>が、先日、連載第9回を迎えた。まだ何もない、「騒動舎」という名前しか持っていなかったサークルに、ほぼ最初に飛び込んできたのが勝永氏であり、彼とともに「騒動舎」の活動基盤を築いてくれたのが、半年遅れてやってきた、やはり1学年後輩の南野誰兵衛こと杉田和久氏である。秋田からやってきた勝永氏の<上京劇場>には、これから、彼の目に映った、おそらく何とも頼りない、わたしや大森美孝、室生春、亡くなった山崎信二らの先輩たち、そして同輩杉田和久や、異能の後輩諸君の姿が活写されることと思う。わたしとしては忘れてしまいたいこともあるので、あまりムチャな話は書かないでもらいたいが、それもいつか、「正史」が書かれる際の貴重な資料になるだろう。かまわぬ、大いに筆をふるってくれたまえ。

 

さて、「騒動舎」をいっしょに創立した大森美孝、渋井正幸と同じ高校(都立広尾高校)に学び、浪人時代も同じ予備校(代々木ゼミナール)で時を過ごしたことは、すでに述べたが、わたしの1年間の浪人生活の中身までは、つまびらかにしてはいない。高校3年になっても、まさに勉強するイトマを惜しんで映画ばかり観ていたのだから、入学試験に失敗するのは当然だった。予備校生になってからは、悪しき生活態度は改善されるはずであったが、後述するように、これがますますヒドイものになった。よくもまあ、翌年、大学生になれたものである。

だが、なんて愉快で、充実した浪人時代だったか()、と、いま、掛け値なしに思う。そして、この1年間がなかったら、仮に大森たちと、またしても同じ学び舎で顔を合わせ、「騒動舎」を結成したとしても、そこに「演劇部」を併設しよう、などという発想は湧かなかったにちがいない。まして、「喜劇」を主眼にするなどということは……。

少し前に、演劇雑誌『悲劇喜劇』(20171月号・特集=落語と演劇・早川書房刊)に「大衆演劇と落語の間柄」という原稿を書かせてもらった。そこに、浪人時代の「喜劇体験」を記したところ、ささやかながら反響があった。ひとりの少年が気の向くままに行動し、関わりをもった世界だが、一部の読者にとっては、演劇史上の知られざるトピックと映ったらしい。このときの見聞や喜び、失望、怒り……といった感情が、2年後の「騒動舎」誕生と縁を紡いでいるとしたら、このブログに綴る意味も少なからずあろうと考えたわけである。

 

19745月、大学入試に失敗し、予備校に通いはじめたばかりのわたしは、才賀明(さいが・あきら)というシナリオライターと出会った。

    才賀さんは、1932(昭和7)年和歌山県生まれ。早稲田大学卒業後、大映の脚本部をふりだしに脚本家としてデビュー(井出俊郎に師事)。日活を主戦場に多数の青春映画・喜劇映画を手がけた。映画脚本の代表作に、『丘は花ざかり』(堀池清監督・1963年・日活)、『若い東京の屋根の下』(斎藤武市監督・1963年・日活)、『大日本コソ泥伝』(春原政久監督・1964年・日活)、『ザ・スパイダースのゴーゴー向う見ず作戦』(斎藤武市監督・1967年・日活・倉本聰と共同脚本)、『花の高2トリオ・初恋時代』(森永健次郎監督・1975年・東宝)、テレビ脚本には、「チャコちゃん」シリーズ(196667年・TBS)、「ケンちゃん」シリーズ(196982年・TBS)、『おくさまは18歳』(197071年・TBS・佐々木守と共同脚本)、『おらあガン太だ』(197475年・フジテレビ)などがある。テレビでは、コント55号や堺正章などが出演するバラエティ番組の構成台本も手がけている。

わたしが出会った当時、才賀さんは、「東京新社」という芸能事務所の代表をつとめながら、主にテレビの脚本家として活躍していた。41歳だった。「東京新社」は、才賀さんを含めた脚本家たちの寄合集団のような会社で、この年、同社が企画に参画していた『われら青春!』(中村雅俊主演・1974年・日本テレビ)は大ヒットしていた。このドラマのメインライターであった鎌田敏夫(のちに『俺たちの旅』や『金曜日の妻たち』を執筆。現・日本脚本家連盟理事長)もメンバーのひとりだった。同社はまた、俳優の養成所も経営していた。

そんなところに、一介の予備校生がなぜ迷い込むことになったのか、そして、そのときの体験が「騒動舎」とどうつながるのか……。霧のなかにすべてが忘却される前に、お話ししておきたいと思う。少しの間、お付き合い願いたい。

 

原健太郎(1期)


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◆『ザ・スパイダースのゴーゴー向う見ず作戦』(斎藤武市監督・才賀明と倉本聰の共同脚本・1967年・日活)のDVDパッケージ(日活販売)

ザ・スパイダース初の主演映画。7人の男たちがあらゆる障害を乗り越え、迷惑をかえりみず、横浜から、ヒロイン松原智恵子が住む世田谷の家を目指して、一直線に行進する……。


『怪男児 日の丸の上京劇場』第9弾 !全てはここから始まった!

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 入学してなかなか自分に合うサークルが見つからず、また、未だ友人も無くキャンパスの片隅で小さくなっていた頃を今は本当に懐かしく思います。私は高校時代に演劇がやりたかったのですが我が母校には演劇部は無く、大学に入学したら演劇をやるぞ!と決めていた割にはどうも東北人の気質か、積極的に行動することが出来ず悶々としていたと記憶しています。クラスの仲間がどんどんサークルに所属していく中、私はかなり焦っていた様な気がします。どうにかしなければ!どうにかなる!ほど東京は甘くはないぞ!そんな毎日でした。
 ある日、突然、その日はやってきました!何の前触れも無く目の前に現われたのです。食堂の前の掲示板に半分破れかけたチラシ!どうみてもサークルの勧誘をしているとは思えないチラシでした。でもその内容をみてどうしても気になったことがありました。それは、演劇と映画製作とあったからです。劇団?映画研究会?いったいなんだ?「喜劇」?と言う文字もあったと思います。私はその内容が他には無く全く新鮮だったと思います。実は私はその一週間前にある劇団に見学に行き最後に「君にとって演劇とは何だ?」と問われて!東京はやはり怖いところだなあと実感しました。そこで、このチラシです。この軽さ!私はその日は何もせずその場を去りましたが、翌日、またそのチラシを見に行った記憶があります。何かが引っかかる!何となく何かある!人生が変わりそうな気配!そんな思いをが頭をよぎったのです。しかし、何といっても『騒動舎』!内容とは相容れない物騒なサークル名にきっとその後の私の未来が暗示されていたような気がしてなりません!

騒動舎15期・黒川麻衣さん主宰の劇団「熱帯◎カジュアル」が、来週11月14日(水)から18日(日)まで、東上野の「Gallery & Space しあん」で公演をおこないます。
「騒動舎アーカイブス」に貴重な資料をお寄せくださっている20期・奥村香里さんも出演されます。
騒動舎OB・OGのみなさん、ぜひ足を運んでください。
 
 
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熱帯◎カジュアル Vol.3
 
作・演出  黒川麻衣 『抵抗者たち』
 
下ってたまるか

なぞえの丘の頂で
男たちは歯をくいしばる。
「下ってたまるか」
そして彼らは同じ日の同時刻、同じ女に恋をした。
人生の折返し地点で
劣化に怯える男たちの醜い戦いが始まる。

 
11/14(水) 19:30
11/15(木) 19:30
11/16(金) 14:00/19:30
11/17(土) 14:00/18:00
11/18(日) 14:00


・出演・
芳賀晶 
吉増裕士(ナイロン100℃/ リボルブ方式 )
森田ガンツ(猫のホテル/なかないで、毒きのこちゃん)
秋山想(TBプラネット)
木村梨恵子(ECHOES)
遠藤弘明(東京タンバリン)
奥村香里
 
・会場・
Gallery & Space しあん
http://www.siang.jp/access/index.html
(東京都台東区東上野1-3-2/03-5812-3633)
 
・料金・
前売 3,000円/当日 3,500円

http://www.nettai.jp/(熱帯)






 


 

『怪男児 日の丸の上京劇場』第8弾 別れのボンカレー!

 ボンカレー実に時間の過ぎるのは早いものです。前回の『上京劇場』は6/30投稿でした。あっという間に10月下旬となりました。ビックリ!しかしながら私はまだ上京して明治大学に入学したものの『騒動舎』には出会っていません。出会うまでに少し面白い話があります。 
 私は東京に出てきたらお芝居をやろうと決めていましたのでお芝居のサークルを探そうと思っていました。しかし、何分そのころは都会にまだ慣れていなかったため、なかなか大学の中でサークルを見つけるのにはどうしたらいいものか?と毎日考えてはいたものの行動に移すことが出来ませんでした。そんな時、偶然、入学式の時に知り合った経済学部の学生で植野君という学生とキャンパスでばったり出会ったのです。植野君の苗字は普通の「上野」ではなく「植野」だったので今でもはっきり覚えています。そのとき、彼もまだこれといった友人もいなかったらしくサークルに入ることを目指して各サークルを回っているとのことでした。
 二人とも上京してお互いが始めての知り合いと言うこともあり、その週の金曜日、彼の下宿に遊びに行くことになりました。その下宿は確か高田馬場にありながらかなり家賃が安いとのことで本人は気に入っていたようです。私はそれならばその安い家賃の下宿を見学もかねて訪れてみようというわけで行くことにしました。さて、着いてみるとさすがに小さい間取りではありましたが小奇麗で、高田馬場駅にも近く、それでいて家賃は3万円ということで激安でビックリでした。私は川口の叔母宅に下宿することにしたので上京して物件を探した経験はありませんでしたが、それにしても実に安い部屋でした。   その日は彼の下宿に泊まる事になりましたが、彼は自炊をするらしく小さな冷蔵庫もあり、中に食材も入っていましたが結局夕食はボンカレーを二人で食べました。さて、ひとしきり話も弾んでそろそろ眠くなってきたので寝ようということになりましたが、その日は暑い日だったので窓を開けて寝ることにしました。その窓には雨戸があり今日は開けていませんでしたのでなおさら部屋の中は暑かったんだと思います。さて、それでは私が雨戸を開けようとしたのですがなかなか開きません。夜なので外に何があるかあはよくわかりませんでしたがもう少し力を入れれば開けられそうだったので、今度はさっきより強い力で雨戸を引いてみました。バキバキと音をたててようやく開きました!するとその先に広がる光景はなんと「墓地」だったのです。もっとビックリしたのは雨戸がなかなか開かなかったのはその下宿と墓地を分けるブロック塀に墓地によくある卒塔婆が塀を越えて植野君の部屋の雨戸に引っかかっていたようで、私が力ずくで開けたので、その卒塔婆は上部が折れてブロック塀の内側に落ちてしまったのです。そうか!安いはずだ!よくこんなところに住めるなあと植野君に話すと、植野君はまったく気にしないタイプとのことで「現時点では何も出てないから大丈夫!」と言ってました。私も特に感じる方ではなかったので気にはなりませんでしたがなんとなく熟睡は出来なかったと思います。
 さて、翌朝ですがなんとなく眠れず早く起きてしまいました。そして結局またまたボンカレーを食べて植野君とは分かれましたが、別れ際に彼が「明日、サークル見学に行くんだけど一緒に行かないか?」と言いました。きっと彼もまだ上京して間もなかったので一人で行くのは何となく心細かったのかも知れません。そこで、私は「何のサークル?」と聞きました。すると「テニス!」と答えが返ってきました。私は「ごめん!俺はテニスは絶対にやらないから行かない!」と力強く叫び、もう彼の方を振り向きもせず高田馬場に向かいました。その後、二度と彼から連絡は来ませんでした!

『怪男児日の丸の上京劇場 第7弾』 御無沙汰していました!

日本武道館
 皆様、去年9/27以来の投稿です。長らく御無沙汰していましたが再開します!
前回投稿以降は記憶がかなりあいまいになってしまい自分の記憶を自分で検証しながら書き出すのが非常に難しい状況になっていたため投稿から遠ざかってしまいました。申しわけありません!
ということで今回からは入学式からにさせていただきます。いよいよ明治大学に入学、そして騒動舎入舎前夜までを語りたいと思います。
 入学式の日、私は日本武道館に行きました。私は埼玉県川口市に叔母がいたので学生時代はこの叔母のところで4年間を過ごすことになりました。初めてスーツを着て入学式に参加しました。当日、私は一人でかなり早く叔母の家を出ました。まだまだ上京して間もなく列車の乗継なども不慣れのため、余裕をもって出かけました。また、最寄の駅であるJR赤羽駅まではバスだったので、早めに出ないと朝の渋滞が心配でした。とにかく、私の田舎とはあまりにも違いすぎて上京してしばらくはいろいろ大変でした。電車の乗り越し、目的地まで到達できなかったり、大変でした。
 さて、入学式です。ようやく到着した武道館、私はその大きさにびっくりするばかりでした。見たこともない大きさに圧倒されていたものです。正面の階段を上がって入り口に行くのですが、私はその途中で後ろから見知らぬおばさんに声を掛けられました。同じ新入生の母親だったと思います。『あら、あなた、これはだめよ!』といいながら私を止めて、肩のほうに手をあてて『上着のすそがめくれてるわよ!だめだめ入学式だからしっかりね!』と言ったのです。私は不意のことだったので、何が起きたのかさっぱりわかりませんでしたが、察するには私の上着の左のすそが武道館に向かう道中で何かの弾みで捲りあがり、ワイシャツが見えていた状態だったのです。叔母宅を出てここに来るまでずっとその状態だったとはお恥ずかしい話です。背中なので見えませんでした。あの、おばさんが声を掛けてくれなかったら、私は入学式中ずっと背中のワイシャツを見せたままでいたかもしれません。このことはすごくよく覚えています。おばさんには大感謝でした。
 ということで久々の投稿です。いよいよ、騒動舎との邂逅が近づきます!

「喜劇映画研究会」ブログ開設のご案内◆◆◆その8(最終回)……映画製作の夢

 19733月、高校二年の春休みだったと思う。映画同好会の仲間たちと初めて映画を製作した。メンバーの楠岡泰(写真部員でもあった)Bell&Howell製のダブル8用撮影機を持っていることがわかり、「映画をつくろう!」という話がまとまった。もちろん、撮影機は彼の厳格な父親の所有物だった。

楠岡の家は、学校からほど近いところにあった。芝生が植えられた大きな庭には、母屋とは別に四畳半ほどの広さの離れがあり、納戸として使用されていた。わたしたちは、そこに湯沸かし器やのコーヒーカップなどを持ち込み、勝手に「クラブハウス」と名付け、溜まり場にした。同好会ゆえに、学校に部室などなかったのだ。

初めは楠岡が飼っているウサギを庭に放し、撮影機で追いかけたりするだけだったが、そんなことをつづけていてはフィルム代がバカにならない。わたしたちは、「現代の子ども」をテーマにドキュメンタリー映画を製作することになった。一年生の女子メンバーの発案だったように思う。みんなで絵コンテをつくり、三々五々撮影機を持って渋谷の街に繰り出した。このとき、わたしは自腹で8mmフィルムの編集機を買い、ハサミを入れたり、スプライシングテープで接続したりと、現場仕事にいそしんだ。音声を同期する技術を誰も持ち合わせていなかったので、出来上がった二十分ほどの映画『子ども こども Kodomo』はオールサイレントだった。上映会は、クラブハウスで身内だけでおこなった。

チャップリンをめぐる座談会が掲載された、『ロードショウ』三月号が発売されたのもこのころで、4月から三年生になるわたしたちにとって、この映画製作もサークル活動の現場から離れていくひとつの節目となった。騒動舎の旗揚げは19764月。実験映画の聖地、イメージフォーラムが設立されたのは19771月だから、これらにさきがけた『子ども こども Kodomo』の製作は、全国のアマチュア映像作家がいっせいにスタートした時期とも大差ないと思う。このフィルムも、いつか探し出したい。

三年生になっても、わたしは受験勉強に本腰を入れることができず、相変わらず映画を見てはノートに感想を記していた。ひとり浅草に出かけ、松竹演芸場通いを始めたのも、このころだ。わたしをふくめ、山の手地域に暮らす少年たちにとって、浅草は縁のない盛り場だったのである。

『子ども こども Kodomo』を撮り終えた後も、「映画をつくろう!」という気持ちはおさまらなかった。中学時代に読んだ漫画雑誌『ガロ』に、『アグマと息子と食えない魂』という面白い作品があり、わたしは、これを原作に映画をつくりたいと思っていた。自分が地獄へ堕ちたことに納得がいかない昆虫学者と、地獄の住人親子の物語で、わずか数ページの短編だ。作者は林静一。のちに画家として大成する林にとって、本作がデビュー作であったことなど、当時は知るよしもなかった。

 6月、わたしは、掲載誌の『ガロ』と、書き上げたシナリオ『地獄繁盛記アグマと息子と食えない魂』を、同期の仲間たちに見せた。何とも乗りのいい連中で、みな、映画づくりに賛同してくれた。登場人物は三人。撮影場所は、当時、わしたちのいちばんの遊び場だった代々木公園ということに決まった。夕暮れの公園で、幻想的な地獄の風景をバックに撮影しようというのだ。モノクロフィルムのよさも、きっと発揮されるにちがいない。

 しかし、撮影機の性能の問題もあり、イメージした絵をつくるためには照明機材が必要であることがわかった。調べてみると、わたしたちの小遣いではとても手が届かない。そこで、仲間のひとり、知恵者の馬場信夫が、単一電池を何十個も直列につないでオリジナルの機材をつくる、と言い出した。計算上は充分にクリアできたのだが、実際には、何度調整を試みても必要な光源を得ることができなかった。結局、この映画の話は、それ以上進展することはなかった。後年、『私をスキーに連れてって』(監督馬場康夫、1987)に、馬場が設計していたリュックサック型の照明機材にそっくりなものが登場し、目を疑った。

 

 大森美孝、渋井正幸、原の三人は、高校卒業後、同じ予備校に通い、19754月、そろって明治大学に入学した。大森と渋井は法学部。原は文学部演劇学専攻で、同級生に、室生春、山崎信二、中野静、荻原博子がいた。大森の新しい友達、法学部の佐藤英治も加わり、翌1976年の春、騒動舎を設立した。

 あの日、ウサギに指をかまれてうれしそうに笑っていた楠岡泰は、少年時代の夢を叶え、生物学の博士になった。夏の間、単一電池と格闘しつづけていた馬場信夫は、大手ゼネコン在職中に病の床についたが、そのときの体験から医師に転身した。中学生のわたしに古い映画の話をたくさん聞かせてくれた、自由が丘劇場(1986年閉館)の支配人小島さんの消息は、ようとして知れない。  ……おわり……


追記……。
8回にわたって本稿を書くきっかけとなった、「喜劇映画研究会」のホームページとブログのアドレスを、再度記します。初期の「騒動舎」についてもふれていただいています。ぜひご覧ください。

  ●喜劇映画研究会HP『THEFUN FACTORY

    http://kigeki-eikenn.com/

      

  ●喜劇映画研究会ブログ『君たちはどう笑うか ~騒動日和~』

    http://blog.seven-chances.tokyo/



原健太郎(1期)


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◆シナリオ『地獄繁盛記 アグマと息子と食えない魂』(197361日、第3稿)。初めて書いた日付が1972719日とあることに、われながらおどろいた。つまり、高校二年の夏に、ひそかに映画化を企てていたようなのだ。「脚本・冬山枯樹」とあるが、これは古典文学『大鏡』のナレーションを受け持つ老人のひとり、夏山茂樹をもじった筆名。当時、この名前でくだらないものを色々書いていた。実は、今もときおり使用している。

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