上岡龍太郎さん逝く。……原健太郎
5月19日、元タレントの上岡龍太郎さんが肺癌と間質性肺炎のため死去した。81歳だった。6月2日に、引退後の窓口である米朝事務所が報告した。
上岡さんは、1942年3月、京都市生まれ。1960年、横山ノック、横山フックとともに「漫画トリオ」を結成し、人気者となる(この時期の芸名は横山パンチ)。1968年、横山ノックの参院選出馬により、トリオの活動が停止してからは、ラジオのDJやテレビ司会者などとして活躍。ABCテレビ『探偵ナイトスクープ』(1988年3月~)の初代局長もつとめた。2000年4月、芸能生活40周年を機に、芸能界を引退。
東京の喜劇の歴史などを勉強する身としては、どうしても上方の喜劇史や演芸史を学ぶ必要がある。なにしろ、日本で「喜劇」を最初に名のった一党は、大阪に誕生した曾我廼家一座であり、その直接の末裔は、現在も活動をつづける松竹新喜劇なのである。
芸人・上岡龍太郎が、ぼくは大好きだった。おかしなこと、ばかばかしいことを、これほど真面目な顔をして話す人はいないものだ、と、いまも思う。ただ一点、スキのないほどオシャレなところが、東京モンとしてはどうしてもなじめなかった。とはいえ、上岡さんがテレビなどで発した言葉や回想、著作などには、相当に助けられた。お会いすることはできなかったが、感謝の気持ちでいっぱいだ。
芸能界引退の5年前、1995年に、上岡さんは素晴らしいご著書を出版された。筑摩書房刊『上岡龍太郎かく語りき
―私の上方芸能史―』(本体価格1,359円)である。この本の書評を、当時、講談社から出ていた『Views(ヴューズ)』という月刊雑誌の1995年4月号に書かせてもらった。この書評を担当された編集の方から、「上岡さんがとてもよろこんでくださいましたよ。宜しくとのことです」と、のちにおうかがいし、胸をなでおろした。ここに再録し、哀悼の意を表したい。 2023年6月2日 嵐の夜に
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昭和40年代、コント55号はトリオ・ブームになぜ勝てたのか? 上方の笑いを自慢話抜きで痛烈に批評
原健太郎(大衆演劇研究家)
テレビ番組の司会者として活躍する著者を、若い世代の視聴者は、案外「お笑い」の世界とは無関係のタレントだと信じているかもしれない。元俳優の関口宏や、局アナ出身の徳光和夫らと同じように。少なくとも東京方面では、
このようにとらえられている節がある。
昭和43年、横山ノックが参院選に出馬するにあたり、漫画トリオは解散した。
以来、著者は、それまでのパンチという名前を改め、上岡龍太郎として独立。ラジオやテレビの仕事を中心に、大きな人気を集めるようになる―。だが、このことを、東京の方では知る手立てがなかった。上岡龍太郎が、依然として「お笑い」の人であったことを確認するのは、
笑福亭鶴瓶との『パペポTV』が、東京でも放映されるようになってからだ。
本書は、半生記のかたちをとりながら、 著者が見聞してきた上方の芸能、主として笑いの芸能の消長を、ていねいにたどったものになっている。東京ではベールに包まれていた、漫画トリオ解散以後の著者の仕事、そしてなによりも、今日まで、著者が、いかに笑いにこだわりつづけていたかを、知ることができる。
「ネタの裏話」と題された第4章は、本書の目玉である。昭和35年、漫画トリオの初舞台のおりの『お笑いサイクリング』をはじめ、当時のネタを数本紹介し、分析と批評を加えている。記述は、なぜ受けたのかということよりも、なぜ失敗したのかに重きがおかれており、自慢話に傾きがちなこの種の本のなかにあって、
新鮮な感動を覚えさせられる。
昭和41年の夏をピークとして、前後それぞれ約1年の期間、テレビを主な舞台に、「トリオ・ブーム」というものがあった。東京では、昭和30年代初頭に活耀した脱線トリオの流れをくむ、てんぷくトリオやトリオ・ザ・パンチ、ナンセンス・トリオなどの3人組が、評判を集めていた。同じ頃、関西でスターダムにあったのが、漫画トリオだった。しかし、漫画トリオは、あくまでも漫才であり、東京勢のように、コントを演じるためのグループではなかったようだ。
だが、漫画トリオは、「3人でなければできないこと」を、徹底的に追求した。これは、東京のトリオの面々には、やや欠けた問題意識であった。そのために、彼らはほどないうちに、2人組のコント・グループ、コント55号に、あっさり屈服してしまうのである。
関西の芸人たちが、いかに考え、真摯に芸と向き合っているかを思い知らされる、痛烈な一冊である。