こんにちは。
 わたしたちは、1976年4月、明治大学に産声をあげたサークル「騒動舎」で、ともに青春時代を過ごした者たちです。昨年は創立40周年の年でしたが、本体は10年ほど前に瓦解しており、現在、明治大学に、「騒動舎」を名のる学生グループは存在しません。
「騒動舎」は、劇映画(8ミリ)の制作と、喜劇の上演(演劇部「イズミ・フォーリー」)を2本の柱に活動をつづけ、学生映画界・演劇界にささやかな足跡を残しました。その孤高の芸術は、全国の若者たちを刺激し、「おらぁ、騒動舎に入りたくってよぉ、三浪して明治大学さ入学しただぁ……」といった、屈強な精神の輩まで現出させるほどでした。20世紀末に端を発する東京一極集中化問題と、わが「騒動舎」は、決して無関係ではないのです。
 
 あの日、まぎれもなく青年だった創立メンバーも、40年の歳月をへて、みな、還暦でこぼこの年齢に達しました。それぞれ、出会いと別れを繰り返し、世界でたったひとつだけの人生を、どうにかこうにか歩んできました。
 
 この間、大切な仲間を幾人も失いました。
 創立メンバーの山崎信二くんも、そのひとりです。2015年7月に59歳で亡くなった山崎くんは、映画や演劇について、ノーガキばかり並べ立てる者たちのなかで、唯一、カメラを回し、録音機材を操ることのできる人でした。そんな山崎くんに、わたしたちは、「メカ山」の愛称を捧げました。
「騒動舎」が初めて制作した映画『僕の日曜日』(1976年)では、録音。第2作『あのころ二人は』(1976年)および、第3作『夏の終曲』(1976年)では、監督。第4作『世界中で一番素敵なあなた』(1977年)では、撮影を担当しました。また、「てんこう劇場」と称する自前の劇場(明治大学和泉校舎2号館裏の芝生の植え込み)での公演をもっぱらとしていた「イズミ・フォーリー」では、裏方を一手に引き受けるなど、「騒動舎」の黎明期において、映画・演劇両面で重責を担いました。山崎くんがいなければ、映画も演劇も、ただの1作もつくりあげることはできなかったでしょう。「騒動舎」が30年におよぶ歴史を刻むことなど、なかったにちがいありません。 
 大学卒業後の山崎くんは、「騒動舎」の行く末をつねに温かく見守り、声援を送っていました。「騒動舎を誰よりも愛した人」といっても、過言ではないでしょう。しかし今は、そんな山崎くんと、昔話に花を咲かせることも、あの頃のように、夢を語り合うこともできません。それが悔しくてなりません。
 
 山崎くんは、もう、この世にはいません。けれど、今はいない山崎くんと、何かいっしょにできることはないだろうか。そんな思いが沸き起こり、このグループ、「騒動舎リターンズ」は結成されました。
 笑顔の山崎くんに再会できるような、何か楽しいイベントを、できれば年内に開催しようと計画しています。今年は、山崎くんの三回忌の年です。
 これを機に、山崎くんが活躍した時代の「騒動舎」を知る人びとと、旧交を温めたいと願っています。あのころ、「騒動舎」のメンバーだった方、何かの事情で、途中で辞められた方も、みな、同じ仲間です。創立時のことなどご存じない後輩諸君にも、参加していただけたら幸せです。「騒動舎」の映画や、イズミ・フォーリーの芝居をご覧くださった方々にも、声をかけられたら、と企てています。
 
 このブログは、在りし日の「騒動舎」にかかわった、すべての人びとの交流の「広場」です。ぜひ、ご参集ください。借金の申し込みはしませんので、ご安心ください。
 
 みなさん、「騒動舎」が、また動きはじめました! 

   2017年5月

                         【騒動舎リターンズ】             
                          大森美孝 (騒動舎第1期)
                          原健太郎 (騒動舎第1期)
                          室生 春=大室寿俊 (騒動舎第1期)
                          怪男児日の丸=勝永裕幸 (騒動舎第2期)
                          南野誰兵衛=杉田和久 (騒動舎第2期)

『怪男児日の丸の上京劇場 第7弾』 御無沙汰していました!

日本武道館
 皆様、去年9/27以来の投稿です。長らく御無沙汰していましたが再開します!
前回投稿以降は記憶がかなりあいまいになってしまい自分の記憶を自分で検証しながら書き出すのが非常に難しい状況になっていたため投稿から遠ざかってしまいました。申しわけありません!
ということで今回からは入学式からにさせていただきます。いよいよ明治大学に入学、そして騒動舎入舎前夜までを語りたいと思います。
 入学式の日、私は日本武道館に行きました。私は埼玉県川口市に叔母がいたので学生時代はこの叔母のところで4年間を過ごすことになりました。初めてスーツを着て入学式に参加しました。当日、私は一人でかなり早く叔母の家を出ました。まだまだ上京して間もなく列車の乗継なども不慣れのため、余裕をもって出かけました。また、最寄の駅であるJR赤羽駅まではバスだったので、早めに出ないと朝の渋滞が心配でした。とにかく、私の田舎とはあまりにも違いすぎて上京してしばらくはいろいろ大変でした。電車の乗り越し、目的地まで到達できなかったり、大変でした。
 さて、入学式です。ようやく到着した武道館、私はその大きさにびっくりするばかりでした。見たこともない大きさに圧倒されていたものです。正面の階段を上がって入り口に行くのですが、私はその途中で後ろから見知らぬおばさんに声を掛けられました。同じ新入生の母親だったと思います。『あら、あなた、これはだめよ!』といいながら私を止めて、肩のほうに手をあてて『上着のすそがめくれてるわよ!だめだめ入学式だからしっかりね!』と言ったのです。私は不意のことだったので、何が起きたのかさっぱりわかりませんでしたが、察するには私の上着の左のすそが武道館に向かう道中で何かの弾みで捲りあがり、ワイシャツが見えていた状態だったのです。叔母宅を出てここに来るまでずっとその状態だったとはお恥ずかしい話です。背中なので見えませんでした。あの、おばさんが声を掛けてくれなかったら、私は入学式中ずっと背中のワイシャツを見せたままでいたかもしれません。このことはすごくよく覚えています。おばさんには大感謝でした。
 ということで久々の投稿です。いよいよ、騒動舎との邂逅が近づきます!

「喜劇映画研究会」ブログ開設のご案内◆◆◆その8(最終回)……映画製作の夢

 19733月、高校二年の春休みだったと思う。映画同好会の仲間たちと初めて映画を製作した。メンバーの楠岡泰(写真部員でもあった)Bell&Howell製のダブル8用撮影機を持っていることがわかり、「映画をつくろう!」という話がまとまった。もちろん、撮影機は彼の厳格な父親の所有物だった。

楠岡の家は、学校からほど近いところにあった。芝生が植えられた大きな庭には、母屋とは別に四畳半ほどの広さの離れがあり、納戸として使用されていた。わたしたちは、そこに湯沸かし器やのコーヒーカップなどを持ち込み、勝手に「クラブハウス」と名付け、溜まり場にした。同好会ゆえに、学校に部室などなかったのだ。

初めは楠岡が飼っているウサギを庭に放し、撮影機で追いかけたりするだけだったが、そんなことをつづけていてはフィルム代がバカにならない。わたしたちは、「現代の子ども」をテーマにドキュメンタリー映画を製作することになった。一年生の女子メンバーの発案だったように思う。みんなで絵コンテをつくり、三々五々撮影機を持って渋谷の街に繰り出した。このとき、わたしは自腹で8mmフィルムの編集機を買い、ハサミを入れたり、スプライシングテープで接続したりと、現場仕事にいそしんだ。音声を同期する技術を誰も持ち合わせていなかったので、出来上がった二十分ほどの映画『子ども こども Kodomo』はオールサイレントだった。上映会は、クラブハウスで身内だけでおこなった。

チャップリンをめぐる座談会が掲載された、『ロードショウ』三月号が発売されたのもこのころで、4月から三年生になるわたしたちにとって、この映画製作もサークル活動の現場から離れていくひとつの節目となった。騒動舎の旗揚げは19764月。実験映画の聖地、イメージフォーラムが設立されたのは19771月だから、これらにさきがけた『子ども こども Kodomo』の製作は、全国のアマチュア映像作家がいっせいにスタートした時期とも大差ないと思う。このフィルムも、いつか探し出したい。

三年生になっても、わたしは受験勉強に本腰を入れることができず、相変わらず映画を見てはノートに感想を記していた。ひとり浅草に出かけ、松竹演芸場通いを始めたのも、このころだ。わたしをふくめ、山の手地域に暮らす少年たちにとって、浅草は縁のない盛り場だったのである。

『子ども こども Kodomo』を撮り終えた後も、「映画をつくろう!」という気持ちはおさまらなかった。中学時代に読んだ漫画雑誌『ガロ』に、『アグマと息子と食えない魂』という面白い作品があり、わたしは、これを原作に映画をつくりたいと思っていた。自分が地獄へ堕ちたことに納得がいかない昆虫学者と、地獄の住人親子の物語で、わずか数ページの短編だ。作者は林静一。のちに画家として大成する林にとって、本作がデビュー作であったことなど、当時は知るよしもなかった。

 6月、わたしは、掲載誌の『ガロ』と、書き上げたシナリオ『地獄繁盛記アグマと息子と食えない魂』を、同期の仲間たちに見せた。何とも乗りのいい連中で、みな、映画づくりに賛同してくれた。登場人物は三人。撮影場所は、当時、わしたちのいちばんの遊び場だった代々木公園ということに決まった。夕暮れの公園で、幻想的な地獄の風景をバックに撮影しようというのだ。モノクロフィルムのよさも、きっと発揮されるにちがいない。

 しかし、撮影機の性能の問題もあり、イメージした絵をつくるためには照明機材が必要であることがわかった。調べてみると、わたしたちの小遣いではとても手が届かない。そこで、仲間のひとり、知恵者の馬場信夫が、単一電池を何十個も直列につないでオリジナルの機材をつくる、と言い出した。計算上は充分にクリアできたのだが、実際には、何度調整を試みても必要な光源を得ることができなかった。結局、この映画の話は、それ以上進展することはなかった。後年、『私をスキーに連れてって』(監督馬場康夫、1987)に、馬場が設計していたリュックサック型の照明機材にそっくりなものが登場し、目を疑った。

 

 大森美孝、渋井正幸、原の三人は、高校卒業後、同じ予備校に通い、19754月、そろって明治大学に入学した。大森と渋井は法学部。原は文学部演劇学専攻で、同級生に、室生春、山崎信二、中野静、荻原博子がいた。大森の新しい友達、法学部の佐藤英治も加わり、翌1976年の春、騒動舎を設立した。

 あの日、ウサギに指をかまれてうれしそうに笑っていた楠岡泰は、少年時代の夢を叶え、生物学の博士になった。夏の間、単一電池と格闘しつづけていた馬場信夫は、大手ゼネコン在職中に病の床についたが、そのときの体験から医師に転身した。中学生のわたしに古い映画の話をたくさん聞かせてくれた、自由が丘劇場(1986年閉館)の支配人小島さんの消息は、ようとして知れない。  ……おわり……


追記……。
8回にわたって本稿を書くきっかけとなった、「喜劇映画研究会」のホームページとブログのアドレスを、再度記します。初期の「騒動舎」についてもふれていただいています。ぜひご覧ください。

  ●喜劇映画研究会HP『THEFUN FACTORY

    http://kigeki-eikenn.com/

      

  ●喜劇映画研究会ブログ『君たちはどう笑うか ~騒動日和~』

    http://blog.seven-chances.tokyo/



原健太郎(1期)


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◆シナリオ『地獄繁盛記 アグマと息子と食えない魂』(197361日、第3稿)。初めて書いた日付が1972719日とあることに、われながらおどろいた。つまり、高校二年の夏に、ひそかに映画化を企てていたようなのだ。「脚本・冬山枯樹」とあるが、これは古典文学『大鏡』のナレーションを受け持つ老人のひとり、夏山茂樹をもじった筆名。当時、この名前でくだらないものを色々書いていた。実は、今もときおり使用している。

「喜劇映画研究会」ブログ開設の御案内◆◆◆その7……「ビバ!チャップリン」と『ロードショー』読者座談会

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◆『モダン・タイムス』のプレスシート(試写会で配布される宣材)、チラシ類と、上映館で販売された、ピンクの帯が巻かれた書籍『ビバ!チャップリン 喜劇王チャップリンのすべて』(淀川長治監修、1972年、東宝事業部)。

 
高校二年生だった1972年の暮れ、映画ファン雑誌『ロードショー』の編集部から、映画同好会あてに連絡をいただいた。「チャップリンをテーマに座談会をおこないたいのだが、参加してもらえないか」というお誘いだった。

 この年の11月、有楽座で「先行特別公開」された『モダン・タイムス』を皮切りに、洋画配給会社東和(現・東宝東和)による、チャップリン映画の再評価企画「ビバ!チャップリン」シリーズがスタートしていた。全国規模のロードショーは正月になってからで、これ以降、『街の灯』『ライムライト』『黄金狂時代』など、長編作品十作が順次公開の予定とのことだった(第十弾は、「チャップリン・パレード」と題された『犬の生活』『担え銃』『偽牧師』の短編三本立て)。座談会には他校の映研メンバーも参加するものと思っていたが、編集部の方は、映画評論家の山本恭子氏と広尾高校映画同好会だけでおこなうつもりだ、という。メンバーに話をすると、みな、出席に異議はないとのことだ。ちなみに、三年生がひとりもいなかったため、この年、わたしは映画同好会の会長をつとめていた。

『ロードショー』は、19723月に集英社から創刊されたばかりの雑誌で、編集スタイルや執筆陣など、先行する『スクリーン』(近代映画社、創刊1947)とほとんど変わりのないものだった。中学時代から『スクリーン』を愛読していたわたしは、創刊号を買って以来、折にふれて目を通すていどだったが、映画同好会の一年生のなかには熱心な読者もいた。二冊の映画ファン雑誌が競合しえたわけだから、このころ、世の中全体がいかに映画に夢中であったかが知れよう。大きな話題を呼んだ『ゴッドファーザー』(監督フランシス・フォード・コッポラ)の公開は、19727月だった。

『モダン・タイムス』は、ニュー東宝シネマ2の正月ロードショーに出かけるつもりでいたので、この時点で、わたしはまだ見ていなかった。しかし、中学の図書館で中原弓彦著『喜劇の王様たち』に出会って以来、チャップリン映画の上映会には何度か出向いており、いずれもキーストンやエッサネイ時代に製作された短編だったが、自分なりの感想を胸にあたためていた。また、チャップリンの足跡を綴った映画『喜劇王チャップリン』(監督バーノン・P・ベッカー、1970年公開)も見ていた。映画同好会の女性メンバーのなかには、先行特別公開で、すでに『モダン・タイムス』を見たというすぐれ者もおり、これなら、山本恭子氏のお話を一方的にうかがうようなことにならなくてすみそうだ、と思った。

 座談会は、千代田区一ツ橋の集英社会議室でおこなわれた。二年生と一年生が八人出席し、一様にひどく緊張しながらも、山本氏のやさしいお人柄に助けられながら、みな、思い思いに言葉を発することができた。編集部の方も、「みなさんがよく勉強されているので、充実した座談会になりました」と、よろこんでくれた。この座談会は、19732月発行の三月号に、「ワイド特集/人と作品、その魅力を解剖する/チャップリン・オン・パレード」の巻頭に掲載された。特集には、児玉数夫氏が「チャップリン 笑いと涙の世界」を、小森和子氏が「チャップリンをめぐる8人の女」を寄稿されている。

『ロードショー』の編集部が、なぜ広尾高校映画同好会に白羽の矢を立てたのか、当然おたずねしたはずだが、失念している。勝手に送りつけた機関誌『G&G』を読んでくださっていたのか、大森と二人で、淀川長治さんの「映画友の会」など、あちこちに顔を出していたことで、何とはなしに興味をもってくれたのか……、今となってはわからない。ただ、この座談会が、他の映研によって実施されていたら、きっと猛烈に嫉妬していたにちがいない。

 こうした思いがけない経験をすることで、わたしの映画熱、とりわけ喜劇映画への関心はいっそう過熱していった。このころ、年間、八十本から百本ほどの映画を見ていた。その八割方が洋画だった。同世代の映画ファンには、年間二、三百本見ているひとがいくらでもいたので、その数自体は自慢に価するものではない。ただ、当時のメモを見てみると、『黄金の七人1+6 エロチカ大作戦』(監督マルコ・ヴィカリオ)、『冒険また冒険』(監督クロード・ルルーシュ)、『おかしなおかしな大追跡』(監督ピーター・ボクダノヴィッチ)、『バード・シット』(監督ロバート・アルトマン)、日本映画では『喜劇女生きてます』(監督森崎東)、『舞妓はんだよ 全員集合!!』(監督渡辺佑介)、『喜劇ここから始まる物語』(監督斎藤耕一)等々、評判作・埋没作を問わず、喜劇や凖喜劇と思しき映画を片っ端から見ていることがわかり、われながら愉快である。

 

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◆上/座談会が掲載された『ロードショー』(表紙・ナタリー・ドロン、19733月号、集英社)と、座談会の一場面(着物姿の女性が山本恭子氏。その横の黒縁眼鏡が原。撮影・楠岡泰=広尾高校写真部兼映画同好会)下3点/『ロードショー』3月号の当該座談会のページ。

 


「喜劇映画研究会」ブログ開設の御案内◆◆◆その6……TBS林美雄アナと『死刑台のメロディ』

 映画同好会のなかで、映画を見ることに対してもっとも積極的に行動していたのは、大森美孝とわたしだった。写真部、剣道部など、他の部活動と二股をかけている者もおり、自然、ふたりはいつもいっしょだった。読書好きであることも共通していた。当時、大森は五木寛之のファンだった。その影響で、わたしも五木の小説やエッセイをずいぶん読んだ。わたしは、井伏鱒二の詩や小説に夢中だった。

 映画同好会のよいところは、試写状をいただいてタダで映画を見たり、映画会社の方にじかに感想を述べたりすることができることだ。もちろん、都内の高校だから可能だったわけで、地方の高校映研の方たちは、もっとストイックに映画と向き合っていたにちがいない。

 一年生だった1971年は、映画業界がいつになくにぎやかな年だった。『ある愛の詩』『屋根の上のバイオリン弾き』『小さな恋のメロディ』『ベニスに死す』『ライアンの娘』などなど、洋画のヒット作、話題作が相次いで公開されたからである。日本映画も、大島渚監督『儀式』、藤田敏八監督『八月の濡れた砂』など、映画史に残る作品がいくつも封切られている。

 年が明け、1972年の2月だったと思う。親しく交わっていた洋画配給会社、日本ヘラルド映画の宣伝部の方から、「5月に公開予定の映画で、ちょっと地味な作品があるんだけど、よかったら見てもらえないか」というお話をいただいた。「実は、この映画のことでは、TBSの林美雄さんにも相談にのっていただいているんだ。こんど、『パックインミュージック』で、この映画の普及にご協力いただけるリスナーを募る予定なんだけど、君たちも参加してみないか?」。

「この映画」とは、『死刑台のメロディ』という1970年製作のイタリア映画だった。1920年代のアメリカで実際におこった、イタリア移民に対する不当な裁判を題材にした社会派ドラマで、主人公の二人の労働者サッコとバンゼッティは、差別的でっち上げ裁判のために死刑に処される。なるほど「地味な作品」だ。

 後日、赤坂のTBS本社会議室に四十名ほどの男女が集まった。座長は林美雄さん。顔なじみの日本ヘラルド映画の方が隅の席に腰かけていた。大森とわたしをのぞき、みな、林さんの『金曜パック』の呼びかけに応じて集まった映画ファンだ。別ルートで参加した大森とわたしも、むろん『金曜パック』の大ファンで、林さんの言葉を通して現代日本映画の魅力に開眼していた。

『死刑台のメロディ』がどんな映画なのか、なぜこのような会を設けたのか、最初に林さんからていねいな趣旨説明があった。出席者の自己紹介が終わった後で、この映画を普及するためのアイデアを出し合い、日を改めて、まずは映画を見せていただくことになった。会の名称は「下落合本舗・映論」と決まった。案の定、わたし自身、誰かに強引に誘われなければ見ることはないであろう映画だった。だが、同世代の仲間たちに見てもらいたいという気持ちが、いやでもふくらんでいった。3月、4月と、公開までの二か月間、「映論」が主催するかたちで、大きなホールで何度か試写会をおこなった。上映後、観客と「映論」メンバー、そして林さんを交えてのディスカションを実施した。これだけたびたび、しかも大勢の方々と、一本の映画をめぐって意見交換をおこなうなど初めてのことであり、授業中も、この映画のことが頭から離れなかった。

「映論」で知り合った松本洋二さんとは、同じ年にそろって明治大学に入学した(それがわかったのは、銀座並木座の木戸口で、偶然再会したときだった)。松本さんは映画研究会に所属し、卒業後は曾根中生の助監督をつとめるなど、映像の世界で活躍された。「映論」のオリジナル試写状をデザインされた勝川克志さんは、当時、専門学校を卒業されたばかりだったが、その後、人気まんが家になった。十一年後、わたしは児童書の編集者として、勝川さんに挿し絵の仕事を依頼した。交流が始まってから二年くらいが過ぎたある日、ふとしたことでたがいの素性、つまり「映論」出身者であることが発覚。以来今日まで、弟のようにかわいがっていただいている。

林美雄さんとは、1988年にお会いすることができた。十六年ぶりの再会だったが、「――くんは、高校生のときと全然変わってないねえ」といっていただけたことが、無性にうれしかった。わたしもすでに三十代になっていた。何度もお酒をごちそうになり、渋谷のジァンジァンにいっしょに出かけたりもした。「映論」は、林さんにとっても忘れがたいグループだったようだ。林さんは、2002年に五十八歳の若さで亡くなった。残念でならない。  ……つづく……

 

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◆『死刑台のメロディ』(監督ジュリアーノ・モンタルド)のチラシ。ジョーン・バエズが歌ったテーマ曲『勝利の賛歌』は、今も知らぬまに口ずさんでいることがある。大方の予想通り大ヒットとはならなかったようだが、『キネマ旬報』の1972年度ベスト・テンの第3位になった(ちなみに、1位『ラストショー』、2位『フェリーニのローマ』。『時計じかけのオレンジ』が4位だった)


「喜劇映画研究会」ブログ開設の御案内◆◆◆その5……「笑わせること」と「笑われること」

 演劇部員は十数名で、なかには裏方がやりたくて入部した者もいた。藤井くんとわたしは、登場人物を十名ほどにしぼり、いわゆる「当て書き」の方法で『十二夜』を脚色した。藤井くんと相談し、美しい娘オリヴィアに横恋慕する青年貴族サー・アンドルー・エイギューチークを、狂言回しとして使い、物語を進行させることにした。黄色い靴下をはいて踊り回る、とにかく陽気な人物である。これを、『みんなに聞こえない夜』で主役の死んだ少年Aを演じた、原田くんにお願いしようと考えていた。原田くんは、演劇部でいちばん上手い俳優だった。

さて、「おそれ多くも……!」と、田辺先生はわたしたちを一喝したが、すぐに、「まあ、せっかく書いたんだから、やってみなさい」と、上演を快くゆるしてくれた。田辺先生をまじえ、スタッフとキャストを決める最初の会議で、演出担当の藤井くんが、「アンドルー役は原田くんに」と提案すると、原田くんはすぐに、「笑われる役なんて、ぼくはイヤだ」と返した。藤井くんは、「笑われるのではなく、笑わせるんだ。いちばん難しい、重要な役なんだよ」と食い下がったが、頑として応じてもらえなかった。結局、この役はわたしが受け持つことになった。

 結果として、わたしたちの『十二夜』は文化祭で大ウケし、演劇部の株を一気に上げた。田辺先生からは、「よくやった。おもしろかった。たいしたものだ」と、部員一同、おほめにあずかった。

 客席からくすりとも笑い声が発せられない『ベニスの商人』を経験していたわたしは、この『十二夜』で、初めて「喜劇らしいもの」を演じ、観客の笑い声と拍手を浴びて、言葉に尽くせぬ感動を覚えた。『十二夜』の脚色・上演を通して、喜劇のさまざまな原初的な問題に直面し、それを中学生なりに考える機会を得たことはさいわいだった。わたしを大いに刺激した藤井くんは、現在、三味線の演奏者、教授として、芸能の最前線で活躍している。

……というわけで、中学の演劇部の話が長くなった。高校時代に時間を戻そう。

二年生の春、映画同好会に新入生を迎えた。全員女子で、偶然にもそのなかに、小学時代の担任の娘さんがいた。悪いことはできないものだ。

先輩たちにならい、わたしたちも映画批評や評論を中心とする機関誌を発行した。手元に残っている機関誌『GET&GIVE』第一号(19722月発行)に、大森美孝は映画批評『ソルジャー・ブルー』を、わたしは「座席を立つ前に」と題した文章を寄せている。映画を見て感動したら、かまわず拍手をしようという幼稚な提案である。『ソルジャー・ブルー』(1970年、ラルフ・ネルソン監督)は、インディオの集落が白人兵士らに虐殺される様を描いたアメリカ映画で、ベトナム戦争を重ねた作品として評判になっていた。このころ大森は、この映画の主演女優キャンディス・バーゲンにご執心だった。第二号(19736月発行)には新一年生も参加しており、たいそう分厚いものになっている。ここに大森は、イギリス映画『愛のふれあい』(1972年、監督ワリス・フセイン)を題材に、「無知な男から見た女性の裏面」なる評論を、わたしは、「『赤ちゃんよ永遠に』強引さの魅力考察」と題した少々長めの評論を書いている。アメリカ映画『赤ちゃんよ永遠に』(1972年、マイケル・キャンパス)は、妊娠と出産がご法度となった近未来を描いたSFで、主役の若い母親をチャップリンの実娘ジェラルディン・チャップリンが演じていた。一時期VHSが市販されていたようだが、現在まったく忘れ去られた作品になっているのは、残念だ。

『GET&GIVE』は、謄写版印刷で数十部発行した。仲間たちに配布した残部は、交流のあった他校の映画研究会・同好会や、ときどき試写状を贈ってくれる映画会社の宣伝部、映画雑誌の編集部などに送付した。自分たちが映画というものをどのようにとらえているか、個々の映画作品をどのように見たか、どんな映画を見たいのか……といったことが真摯に綴られており、文章こそ未熟だが、今読み返しても迫力が感じられる。これは、何も広尾高校映画同好会だけのことではなく、交流している他校の機関紙・誌も同様であった。少年たちにとって、映画が「熱」を帯びていた時代だった。  ……つづく……

 

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◆都立広尾高校映画同好会の機関誌『GET&GIVE』の表紙(右が第一号)。先輩たちが『むうびい』の名称で発行していた機関誌を、改題して発行した。この二冊以外にも、色々な刷り物を発行し、各方面に送付した。

「喜劇映画研究会」ブログ開設の御案内◆◆◆その4……シェイクスピア劇を脚色する

 中学では、わたしは最初、バレーボール部に所属していた。高校や大学で知り合い、友達になった多くの者たちは、わたしがかつてバリバリのスポーツマンであったことなど知らないであろう。小・中学校時代の9年間、運動会で、わたしがずっとリレーの選手をつとめていたことなど。ただし、中学一年生のときをのぞいて……。

 バレーボールの面白さは、小学校時代に知った。1964年の東京オリンピックで、「東洋の魔女」といわれた女子バレーボールチームが金メダルを獲得すると、日本中の子どもたちは、ふとんの上で回転レシーブを試み、親に叱られた。正式な部活ではなかったが、わたしの小学校でもバレーボールが盛んにおこなわれるようになり、わたしもメンバーに加わった。

世田谷区立尾山台中学校のバレー部は、周辺の中学校のなかで強豪校として知られていた。当時は九人制だった。わたしは迷わず入部すると、他の一年生の誰よりも練習に励んだ。だが、張り切り過ぎたためか、夏休みが終わったころに右膝に水をため、ドクターストップがかけられた。以来、体育の授業は見学。秋の運動会も、仲間たちを応援するのみだった。

翌春、ようやく怪我が癒え、バレー部に復帰……となったとき、前年の夏に、いい加減に練習していた同期の連中が、みな、背番号の付いたユニホームを手に入れていることを知った。

そんなとき、他校から赴任してきたひとりの社会科教師が、「この学校には演劇部がないそうですね。興味があるひとは、いっしょに演劇部をつくり、活動しましょう」と、よく通る声で挨拶したのである。バレー部に戻ることに躊躇していたわたしは、この提案にとびついた。「新しいクラブなら、全員が一年生も同じだ」と考えたのである。

結局、わたしたち新二年生が五、六人、新三年生が七、八人集まり、新任の社会科教師、田辺先生を顧問に、演劇部が創設された。

二年生の文化祭では、図書館にあった児童向け戯曲集から選んだシェイクスピア作『ベニスの商人』を、学校の講堂(体育館)で上演した。三つの小箱の場面などが大幅にカットされた、いかにもジュニア向けのダイジェスト版で、わたしは主役のアントーニオを演じた。稽古中、胸の肉一ポンドを差し出そうと、ボタンをはずして肌をあらわにするたびに、三年生の女子たちがキャーキャー騒ぐのには困惑した。

演劇づくりについては、右も左もわからず、田辺先生の指導と三年生部員の号令にしたがい、ひたすら身体を動かすのみだった。しかし、このとき出会ったシェイクスピアが、のちの人生に大きくかかわるわけである。

三年生を送り出す謝恩会では、森田博作『みんなに聞こえない夜』を上演した。終戦直後の大阪の街が舞台だった。深夜、スクラップを盗み出そうと焼け跡にしのび込んだふたりの少年と、空襲で死んだ少年少女の霊たちとの交流を描いた物語で、セリフはすべて大阪弁だった。わたしの役は、死んだ少年Cだった。

わたしが三年生になったときの文化祭は、学校近くの区民会館を借りて、シェイクスピアの『十二夜』を演じた。台本は、同期の藤井くんと二人で、夏休みの大方を費やし、作成した。前年の『ベニスの商人』で、敵役のシャイロックを演じたのが藤井くんだった。二人は、『ベニスの商人』のどこが「喜劇」なのか、お仕着せの児童向け戯曲集の一編からはまったく読み取れない、と考えていた。そこで、自分たちで「脚色」することを想いついたのだ。『十二夜』を選んだのは藤井くんだった。もっとも、数種の文庫本をテキストに、あちこちいじり回しただけで、当然ながら、英語で書かれた原文までは手が伸ばせなかった。今読んでもわかるまいが。

9月になり、書き上がった原稿本を田辺先生に提出した。藤井くんが演劇部長、わたしが副部長でもあり、これを文化祭で上演しようというのは演劇部員全員の意志だった。田辺先生は、目の前の原稿をひもとくこともなく、いった。

「何たることだ! おそれ多くもシェイクスピアの戯曲を、中学生の君たちが脚色するなんて! おそれ多くも……!」

 いつも同様、よく通る声で。  ……つづく……


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◆藤井くんと二人で脚色した『十二夜』の台本。藁半紙に謄写版印刷。表紙は失われている。わたしは、サー・アンドルー・エイギューチークという陽気な貴族を演じた。



「喜劇映画研究会」ブログ開設の御案内◆◆◆その3……「喜劇映画」に魂をえぐられる

 自由が丘劇場のお蔭で、わたしは中学時代から数多くの映画に接することができた。恵通チェーンという会社が経営する劇場で、週替わりで洋画の三本立て興行をおこなっていた。いつのまにか、小島さんという支配人とも親しくなり、休憩時間には事務所に招かれ、飲み物までごちそうになった。四畳半もないような小さな部屋だったが、三方の壁の上部は『キネマ旬報』のバックナンバーで埋め尽くされていた。わたしが、今もって十年分ほどの『キネマ旬報』を処分できず、書棚に積み上げているのは、当時の「あこがれ」の感情から脱却できないでいるからだろう。

もっとも、中学生のわたしに、この雑誌は敷居が高く、前述のとおり、愛読書はファン雑誌の『スクリーン』であり、実際、日本映画への興味が高まったのも、高校に入ってからである。

 洋画を中心に、映画館やテレビで新旧の映画を見つづけていると、自然に、お気に入りの俳優や監督が数え上げられるようになる。このころ、男優でもっとも人気が高かったのは、アラン・ドロンとスティーブ・マックイーンだったが、わたしが好きだったのは、ジャンポール・ベルモンドやルイ・ド・フュネス、ジャック・レモンといった、主に「喜劇映画」で活躍する俳優たちだった。

 小学時代、赤塚不二夫の『おそ松くん』を溺愛し、ハナ肇とクレージーキャッツ、Wけんじ、てんぷくトリオ、『ちびっこギャング』『ルーシー・ショー』などのテレビ番組に夢中だったわたしにしてみれば、「喜劇映画」への傾斜は当然の成り行きだったかもしれない。ルイ・ド・フュネスが一流レストランの支配人役を演じたフランス映画『パリ大混戦』(1966年、ジェラール・ベスナール監督)の愉しさは、いまも身体に染みついて離れない。これを見たのも、自由が丘劇場だったと思う。

わたしは、こうした映画の面白さを活字でも味わいたいと考えたが、『スクリーン』には作品紹介のページがあるくらいで、充たされることはなかった。それは、『キネマ旬報』も同様だった。「芸術性」「社会問題」「文明批評」「愛と性」「生と死」……などのキーワードから隔絶した映画は、評論家たちの興味の外側にあるらしく、批評の対象にはなっていないようだった。当時は、いまほど「エンタテインメント」という言葉が一般的ではなかったが、二十代、三十代の若い評論家たちが、本物の「エンタテインメント」を知らないで育ってきたことと無関係ではない……と、今になって思うのである。

 わたしの「喜劇映画」熱に拍車をかけたのは、中原弓彦著『喜劇の王様たち』(1963年、校倉書房)という一冊の本だった。後年、本名の小林信彦名義であまたの喜劇評論を発表し、わたしたちの世代に多大な影響をあたえた人物だ。『日本の喜劇人』(1972年、晶文社)、『世界の喜劇人』(1972年、同)が刊行されたのは、わたしが高校に入ってからである。この二冊の本の源流ともいえる『喜劇の王様たち』が、わたしが通う世田谷区立尾山台中学校の図書館(教室とは独立した建物だった)にあったのだ。

著者が愛する東西の喜劇人に関する知見と魅力が、あますところなく綴られており、わたしはただただ感激した。作品の紹介とともに、具体的なギャグや見どころも記され、喜劇映画のガイドブックとしてはこれ以上のものはない、と思った。なかでも多くのページが割かれているのが、チャップリンやマルクス兄弟をはじめとするアメリカ製スラップスティック・コメディに関する文章だった。当時、わたしはまだチャップリンの長編映画はひとつも見たことがなく、当然ながらキーストン・スタジオなどという名称もまったく知らなかった。何度も何度も読み返し、そのたびに魂をゆさぶられた。

本書の265ページに、一葉のスチール写真が掲載されていた。そこに、「巨大な磁石で他の車に吸いつき、ガソリンがいらぬというスナップ・ポラード。(『これぞ天才』)」というキャプションが付けられている。わたしは、このページを何度開いただろう。中学の図書館で他の本を借りるようなときも、『喜劇の王様たち』が納められた棚にかならず立ち寄った。そして、背表紙をさすり、265ページを開いては、ひとりでほほえんだ。

この本は、のちに古書店で購入することができた。映画『これぞ天才』も見ることが叶い、くだんのスチール写真も手に入れた。現在、我が家の壁に飾り、これをながめては、あのころと同じように、こっそりほほえんでいる。  ……つづく……

  

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◆『喜劇の王様たち』で知り、ずっと見たいと思っていた映画『これぞ天才』のスチール。赤塚不二夫展で購入した、「これでいいのだ!」と書かれた額に収めて、我が家の壁に飾っている。わたしの「原点」ともいそうな作品である。

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◆中原弓彦著『喜劇の王様たち』(1963年、校倉書房)と、わたしが最初に買った『スクリーン』(表紙・オリヴィア・ハシー、19693月号、近代映画社)。『スクリーン』も4年分ほど、棄てられないでとってある。

「喜劇映画研究会」ブログ開設の御案内◆◆◆その2……広尾高校の<三大映画バカ>

 19714月、大森美孝とわたくし原は、渋谷区にある都立広尾高校に入学した。二人はクラスも同じで、たがいに映画好きであることがわかると、すぐに友達になった。そして、そろって映画同好会に入った。中学時代、演劇部にいたわたしは、高校でも引き続き……と考えていたが、当時、広尾高校に演劇部はなかった。(それより以前には、李麗仙や浜畑賢吉らが活躍した立派な演劇部があった、と後に知った)

 前年の1970年は、日本中に吹き荒れた学園紛争、全共闘運動の嵐に、ひとつの節目が見られた年だった。6月に日米安全保障条約が自動延長されたからだ。これらの運動は、いきおい収束の道をたどっていったが、一方で、「内ゲバ」の時代が始まっていた。広尾高校もこうしたムーブメントとは無縁ではなく、わたしたちが入学するまぎわは、それなりに紛争の荒波を経験していたようだ。結果、多くの教員たちは、新入生のわたしたちに過剰なほどに寛容だった。それまであった制服は廃止され、二年生、三年生の男子は、ほとんどが長髪。女子は、ミニスカートからおしげもなく素足をのぞかせていた。

 そうした「時代」の影響もあったのだろうか、映画同好会には、三年生が十名ほど在籍していたが、二年生はひとりもいなかった。その三年生も受験の準備に追われ、夏前には、「現役部員」は、わたしたち七、八名の一年生のみとなった。

 活動は、文化祭での展示と発表、機関誌の発行、映画ファンの実態調査などで、いたって真面目なものだった。むろん、みんなで映画を見にいった。実態調査というのは、同年代の若者に、映画との関わりや好きな映画を聞いて回るというもので、メモ帖を手に渋谷の街頭でアンケートをおこなった。こうして得たデータをもとに、文化祭会場の教室に、生意気なノウガキを貼り出したわけだ。二年生のとき、シドニー・ポラック監督『ひとりぼっちの青春』(1969年)を題材に、『内的<青春映画>論』と題したまだらっこしい評論を、模造紙数枚を費やして書いたことを覚えている。きっと、誰ひとり読んではくれなかったにちがいない。

 騒動舎をいっしょに設立した渋井正幸も、広尾高校の仲間だったが、映画同好会には入っていなかった。二年生の春にクラス替えがあり、大森とわたしは別々のクラスに分かれたが、このとき、大森と同クラスになったのが渋井だった。わたしは、大森を通じて、とんでもない映画バカが、広尾にもうひとりいることを知った。三人は、そろって大学受験に失敗し、同じ予備校に通い、翌春、明治大学に入学した。こうして19764月、二年生の春に騒動舎を旗揚げしたわけである。

 中学時代から、わたしは映画にうつつを抜かしていた。家から徒歩20分ほどのところに、自由が丘劇場という三本立ての映画館があり、支配人と親しくなるほど通い込んだ。この頃はもっぱら洋画党で、毎月、映画雑誌『スクリーン』を熟読玩味していた。この雑誌の投稿欄で知り合った、香川県在住の映画ファン(女子!)と文通もしていた。まだ家庭用のVTR機器など普及していない時代で、睡眠時間もそこそこに、深夜、テレビで放送される古物映画を食い入るように見ていた。

 渋谷の街は、そんな映画少年にとって、夢の王国だった。渋谷パンテオンをはじめとする封切り館もあれば、全線座や東急名画座などの二番館、三番館も居並んでいるのだ。通学定期券を持って、映画館めぐりをしているような毎日だ。そして、映画同好会で知り合った仲間たちとの語らい……。そりゃ、大学になんぞ受かるはずはない。

 三年生の先輩たちとは、残念ながら多くの時間を共有することはできなかったが、いちばん有難い、と思ったのは、映画評論家の淀川長治さんを中心とする集い、「映画友の会」に連れていってもらったことだ。毎月一回、虎の門の自転車振興会館で開催されている会で、会場費100円を払えば、誰もが参加をゆるされた。中学時代に、この会の存在は知っていたが、ひとりで出向く勇気がなかったのだ。中学生のとき初めて購入した映画本は、淀川長治著『サヨナラ・サヨナラ・サヨナラ 淀川長治の日曜洋画劇場』(1969年、朝日ソノラマ)だった。大学生や社会人の映画ファンにまざって、淀川さんの話をうかがうなど、まさしく至極のひとときだった。わたしは高校時代の三年間、仲間たちと、ときにはひとりで、ほぼ毎月、「映画友の会」に通った。淀川さんからは、「怪物くん」のあだ名まで頂戴した。ただただ。生意気だったからである。  ……つづく……


原健太郎(第1期)
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◆映画ファンの実態を調査しようと、広尾高校映画同好会がおこなった「校外アンケート」のメモ。相手が女の子の場合、その容貌や印象まで書き込む熱心さ(!?)。


「喜劇映画研究会」ブログ開設の御案内◆◆◆その1……騒動舎とのいたいけな間柄

 

喜劇映画研究会代表の新野敏也さんが、このたび、『君たちはどう笑うか~騒動日和~』と題したブログを開設された。 

騒動舎と喜劇映画研究会は、ともに1976年に旗揚げされた団体だが、約30年の歴史を刻んで幕を下ろした騒動舎に対し、喜劇映画研究会は、創設者の小林一三さん(劇作家・演出家のケラリーノ・サンドロヴィッチさん)から現代表の新野さんに引き継がれ、今日まで営々40年余、途切れることなく活動をつづけている。その詳細については、充実したホームページと、新設のブログをご覧いただき、大いに堪能してもらいたい。

 

●喜劇映画研究会HP『THEFUN FACTORY

  http://kigeki-eikenn.com/

      

●喜劇映画研究会ブログ『君たちはどう笑うか ~騒動日和~』

  http://blog.seven-chances.tokyo/

 

 騒動舎と喜劇映画研究会の交流は、やはり同じ頃に設立された団体、喜劇研究会に、わたくし原健太郎と、小林一三さん、そして小林さんの中学時代の仲間たちが参加していたことを機に始まる。わたしたちは、小林さんが主催するサイレント喜劇映画の上映会に参加し、小林さんたちには騒動舎の映画や喜劇を見にきていただいた。小林さんたちが通っていた高校と、わたしたちの大学が比較的近くにあったことも奇縁だった。

大学卒業後、騒動舎のメンバーを中心に旗揚げした劇団「笑ボート」では、小林さんには演出のお手伝いをしていただき、また、俳優として舞台にも立っていただいた。小林さんが一時期所属した劇団「少年探偵団」の公演や、率いていらしたバンド「有頂天」のライブにも、仲間たちと応援に出かけた。

小林さんに初めて会ったのは、喜劇研究会の最初の例会で、場所は、お茶の水の「丘」という名曲喫茶だった。彼は、高校への進学を間近にひかえた中学3年生だった。「有頂天」をへて「劇団健康」、そして、現在いたるお仕事については、今さら説明する必要はないだろう。今日まで、わたしはひたすら一方的に、小林さんから刺激をいただいているわけである。

新野敏也さんとは、小林さん主催のサイレント喜劇映画の上映会で何度か顔を合わせているはずだが、正式に対面したのは、約20年前。インターネットの類に不慣れなわたしが、たまたま喜劇映画研究会のホームページにたどり着き、「一度お会いしましょう」ということになった。新野さんの情熱と思索、また、喜劇映画シーンをめぐる怪事件、珍騒動の数々については、今後、ブログ『君たちはどう笑うか~騒動日和~』によって明瞭になるはずだ。にわかに顔を赤らめ、息をのみ、国外逃亡を企んでいる輩もいるにちがいない。第十一話「ハナ肇の『喜劇研究会』」には、騒動舎も登場する。

新野さんのサイレント喜劇映画研究者としての業績は、2014年に作品社より上梓された『<喜劇映画>を発明した男 帝王マック・セネット、自らを語る』(マック・セネット著、石野たき子訳、新野敏也監訳)に結晶されているように思う。まだお読みでない方は、ぜひ手にとっていただきたい。

それにしても、小林一三さんは、よき後継者(二代目代表)にめぐまれたものである。小林さんにとって新野さんは、高校の映画同好会の一年先輩なのである。人の出会いは、物語を完全に超越している。

さて、ブログ『君たちはどう笑うか ~騒動日和~』の第一話「チャップリンで『無声映画』を知る」で、新野さんは、1972年に東和(現・東宝東和)が満を持してスタートさせた「ビバ!チャップリン」シリーズについて、資料を掲げながら説明されている。公開作第一弾は『モダン・タイムス』だった。新野さんより五つ、六つ年長のわたしは、当時、高校2年生。のちにいっしょに騒動舎を設立する大森美孝と同じ高校に通い、ともに映画同好会の一員として活動していた。

この「ビバ!チャップリン」シリーズは、わたし自身にとって、また、都立広尾高校映画同好会にとっても、実に刺激的で、想い出深いものであった。  ……つづく……

 

原健太郎(1)

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◆『<喜劇映画>を発明した男 帝王マック・セネット、自らを語る』と、1992年に新野敏也さんが中心になり編纂・発行した『サイレント・コメディ全史』(喜劇映画研究会発行)。こうしたものをこそ「労作」というべきだろう。

★騒動舎アーカイブスの・ようなもの……報告7

 2017年12月11日付「★騒動舎アーカイブスの・ようなもの……報告1」に掲載しましたイズミ・フォーリー公演の録画テープ(8㎜ビデオ)6点について、20期O氏より追加情報をいただきました。赤字の部分です。謹んで御礼申し上げるとともに、貴重なテープをご寄贈いただいた20期T氏に、あらためて感謝申し上げる次第です。

0001 『リリアン記念』玉手陽子作・演出 1994.12.23-2512.25マチネ&ソワレ 東演パラータ

0002 20期ユニット AKM旗揚げ公演『セルジオ・マンボー』村松規幸作・演出 1995.3.25中日ソワレ 明治大学駿河台校舎551ホール

0003 20期ユニット AKM旗揚げ公演 セルジオ・マンボー』  村松規幸作・演出 1995.3.26楽日ソワレ 明治大学駿河台校舎551ホール

0004 『春は馬車に乗って』松嵜耕治作・演出 1995.4.28-304.30マチネ キッド・アイラック・ホール

0005 『春は馬車に乗って』松嵜耕治作・演出 1995.4.28-304.30ソワレ キッド・アイラック・ホール

0006 20期ユニット AKM公演『もしもし』VOL.003   村松規幸作・演出 1995.9  明治大学駿河台校舎551ホール

 
なお、作・演出にあたられた村松規幸さん(20期)は、現在、「ムーチョ村松」名義で映像作家さんとしてご活躍です。今後のいっそうのご発展を祈念いたします。

 1期・2期のわたしたちにとって、大学時代の演劇公演の様子が「映像」として保存されていることは、本当にうらやましく、夢のようです。上記6本の映像は、「騒動舎アーカイブスの・ようなもの」に保管し、順次デジタル化をおこない、今後、どなたにもご利用いただけるようにいたします。そのためにも、「基金」の造成が必要と考えます。追ってこの件、当ブログにて、皆様にご案内を差し上げたいと存じます。なにとぞ宜しくお願いいたします。

原健太郎(第1期)

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2017年12月2日(土)、「騒動舎リターンズ」旗揚げ公演の会場(西新宿・花伝舎A1教室)に掲げられた看板。撮影・上野彰吾氏(5期)。

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