こんにちは。
 わたしたちは、1976年4月、明治大学に産声をあげたサークル「騒動舎」で、ともに青春時代を過ごした者たちです。昨年は創立40周年の年でしたが、本体は10年ほど前に瓦解しており、現在、明治大学に、「騒動舎」を名のる学生グループは存在しません。
「騒動舎」は、劇映画(8ミリ)の制作と、喜劇の上演(演劇部「イズミ・フォーリー」)を2本の柱に活動をつづけ、学生映画界・演劇界にささやかな足跡を残しました。その孤高の芸術は、全国の若者たちを刺激し、「おらぁ、騒動舎に入りたくってよぉ、三浪して明治大学さ入学しただぁ……」といった、屈強な精神の輩まで現出させるほどでした。20世紀末に端を発する東京一極集中化問題と、わが「騒動舎」は、決して無関係ではないのです。
 
 あの日、まぎれもなく青年だった創立メンバーも、40年の歳月をへて、みな、還暦でこぼこの年齢に達しました。それぞれ、出会いと別れを繰り返し、世界でたったひとつだけの人生を、どうにかこうにか歩んできました。
 
 この間、大切な仲間を幾人も失いました。
 創立メンバーの山崎信二くんも、そのひとりです。2015年7月に59歳で亡くなった山崎くんは、映画や演劇について、ノーガキばかり並べ立てる者たちのなかで、唯一、カメラを回し、録音機材を操ることのできる人でした。そんな山崎くんに、わたしたちは、「メカ山」の愛称を捧げました。
「騒動舎」が初めて制作した映画『僕の日曜日』(1976年)では、録音。第2作『あのころ二人は』(1976年)および、第3作『夏の終曲』(1976年)では、監督。第4作『世界中で一番素敵なあなた』(1977年)では、撮影を担当しました。また、「てんこう劇場」と称する自前の劇場(明治大学和泉校舎2号館裏の芝生の植え込み)での公演をもっぱらとしていた「イズミ・フォーリー」では、裏方を一手に引き受けるなど、「騒動舎」の黎明期において、映画・演劇両面で重責を担いました。山崎くんがいなければ、映画も演劇も、ただの1作もつくりあげることはできなかったでしょう。「騒動舎」が30年におよぶ歴史を刻むことなど、なかったにちがいありません。 
 大学卒業後の山崎くんは、「騒動舎」の行く末をつねに温かく見守り、声援を送っていました。「騒動舎を誰よりも愛した人」といっても、過言ではないでしょう。しかし今は、そんな山崎くんと、昔話に花を咲かせることも、あの頃のように、夢を語り合うこともできません。それが悔しくてなりません。
 
 山崎くんは、もう、この世にはいません。けれど、今はいない山崎くんと、何かいっしょにできることはないだろうか。そんな思いが沸き起こり、このグループ、「騒動舎リターンズ」は結成されました。
 笑顔の山崎くんに再会できるような、何か楽しいイベントを、できれば年内に開催しようと計画しています。今年は、山崎くんの三回忌の年です。
 これを機に、山崎くんが活躍した時代の「騒動舎」を知る人びとと、旧交を温めたいと願っています。あのころ、「騒動舎」のメンバーだった方、何かの事情で、途中で辞められた方も、みな、同じ仲間です。創立時のことなどご存じない後輩諸君にも、参加していただけたら幸せです。「騒動舎」の映画や、イズミ・フォーリーの芝居をご覧くださった方々にも、声をかけられたら、と企てています。
 
 このブログは、在りし日の「騒動舎」にかかわった、すべての人びとの交流の「広場」です。ぜひ、ご参集ください。借金の申し込みはしませんので、ご安心ください。
 
 みなさん、「騒動舎」が、また動きはじめました! 

   2017年5月

                         【騒動舎リターンズ】             
                          大森美孝 (騒動舎第1期)
                          原健太郎 (騒動舎第1期)
                          室生 春=大室寿俊 (騒動舎第1期)
                          怪男児日の丸=勝永裕幸 (騒動舎第2期)
                          南野誰兵衛=杉田和久 (騒動舎第2期)

昨年は、長かったコロナのトンネルの先に、ようやくぽつりと明かりが見えた年でした。
皆さんのお仕事や日頃の活動、そして、かねてからの企みごとにも、今年はいっそう拍車がかかり、前進が期待できることでしょう。

2017年に開設した本ブログも、早いもので7年目に突入。
これからも、騒動舎OBOGの〈交流の場〉として、大いに機能できるようつとめてまいる所存です。皆さんのご参加を、心よりお待ちします。

本年も、何卒宜しくお願いいたします。

2024年 元旦 

 

【騒動舎リターンズ】

  大森美孝

  原健太郎

  室生 春/大室寿俊

  怪男児日の丸/勝永裕幸

  南野誰兵衛/杉田和久

 

ポール・牧とその喜劇 ダイヤモンドの詰合せセット 💎20/最終回💎  原健太郎

 ◆「一対のわらじ」

 僧名熈林一道(きりんいちどう)を授かってからのポールさんは、「仏の道を説き、笑いでこころを癒す芸人」(作家安部譲二が、ポールさんの熈林一道名義の著書『藝禅一如』〈国書刊行会、1997年〉の帯に寄せた言葉)として、さまざまな土地に出向き、講演活動をおこなった。テーマは、人として生まれたことを喜び、己の命を大切にしよう、というものだ。それは、かつて押し寄せる苦しみに耐えきれず、人生に終止符を打つべく図った「浅はかな行動」(ポール・牧『今日ただ今の命 ――さて、どう生きる』「はじめに」佼成出版社、1998年)、つまり、九州で起こした自殺未遂騒動を猛省するところから語り起こされた。
 たまたまわたしの伯父(ポールさんよりひと回り以上年長)が、そうした講演のひとつに接する機会があり、たいへん感激したと言っていた。
「僕が劇団で演じた人物に弱虫弱之進がいます。下級武士の彼は皆から弱虫と貶(さげす)まれ、弱之進と侮られます。しかし、僕はこの架空の人物に真の愛と勇気というものを託しました。
 弱虫弱之進は観客にこう語りかけます。
『もしあなたが誰かを怨むことがあるなら、怨む代わりに愛してはいかがでしょうか。愛して愛して愛しぬくのです。やがてその愛はもっと大きな愛となって自分に返ってまいります。返ってくるものが愛であれば、人は何ものも怖れることなく生きることができましょう』
 僕は劇団の挫折で自殺未遂に追い込まれましたが、弱虫弱之進が語りかけた言葉は今も心のなかにあっていささかたりとも衰えてはいません。
 この芝居を観て非行から立ち直った少年がいた。自殺を思い止まった人もいた。僕にはそれが嬉しくて仕方ないのです。」(ポール・牧『指パッチン人生論』世界文化社、2000年)
 持ち前の笑顔とともに、このようなメッセージを人々に語り伝えていたポールさんが、ふたたび自ら命を断つことになるなど、誰が想像しえただろう。
 2002年11月、曹洞宗関係者や芸人ポール・牧の後援者らの尽力により、茨城県鹿嶋市に司友山一道寺が創建され、ポールさんはその住職に就任した。わたしはそのとき、これで落ち着いて仏道と笑道に邁進してもらえるものと、安堵と祝福の気持ちでいっぱいだった。ポールさんの長年の夢が現実のものになったのである。11月24日にとりおこなわれた落慶法要にも、遠く鹿嶋の地まで出かけた。風が強く、肌寒い晩秋だった。
 時がいたれば、『弱虫弱之進』はかならず帰ってくる。そう信じていた。本稿の「はじめに」で書いたように、ポールさんは、これまで、かならず「〈宿題をする人」だったからである。
  現在(2008)までつづく第何次だかの「お笑いブーム」が、2003年頃に始まった。『エンタの神様』(日本テレビ系)、『笑いの金メダル』(テレビ朝日系)、『爆笑レッドカーペット』(フジテレビ系)などのバラエティ番組から、数多くの人気者が生まれた。この間、ポールさんは、鹿嶋のお寺を終の住処と定め、忙しくしている……はずであった。
 わたしはといえば、2003年10月11日に浅草東洋館で開催予定の『エノケン生誕100年祭』 (東京喜劇研究会企画、東洋興業制作)の準備のため、その半年ほど前から毎日をばたばたと過ごしていた。会社勤めという本業をもちながら、わたしは、このイベントを企画した東京喜劇研究会の事務局担当だった。エノケンこと榎本健一が満百歳を迎えるのは翌年だったが、祝い事は前倒しでやるのがいい、という諸先輩の意見にしたがい、開催を決めた。もちろん、東洋興業の会長、社長にご賛同いただき実現できたことだ。
 さいわい多数のメディアが応援してくださり、イベントの告知を兼ねたエノケンに関する原稿を、新聞や雑誌にいくつも書かせていただいた。エノケンのご遺族やご協力くださる方々との打ち合わせ、そして埋もれていた資料の整理なども、この時期に研究会の仲間たちとともにおこなった。好きでやっていることなので、決して辛くも苦しくもなかったが、夜なべで原稿を書き、一睡もしないまま職場へ行くことが幾日もあった。
 イベント当日は、ポールさんにも会場に来てほしいと願っていた。ポールさんは、エノケンの晩年に付き人をしていたことがあり、この稀代の喜劇俳優を心から尊敬していた。実は、このイベントを企画した東京喜劇研究会が結成された1999年4月の段階で、わたしはしかるべきときにはかならず顔を出してほしいと、ポールさんにお願いをしていた。そしてポールさんも、これを快諾してくれていたのである。しかし、お寺に宛てて手紙を書いても、いっこうに返事はなかった。よほど忙しくしているのだろうと、直接電話をするのは控えた。
 翌2004年10月29日、エノケン満百歳の年に、こんどは『続エノケン生誕100年祭』と銘打ち、ふたたび東洋館で記念イベントを開催した。だが、このときは、「あて所に尋ねあたりません」の印が付けられ、出した手紙がそのままもどってきてしまった。
 お寺を開き、住職におさまってから、初めて迎えた2003年の正月。初詣におとずれる参拝客もそれなりにあったそうだ。だが、それから間もなく、ポールさんは、お寺の仕事を何もかも放り出し、東京に舞いもどっていたのである。二つ目の手紙が、誰にも読まれることなく返送されたのも仕方のないことだった。
『続エノケン生誕100祭』が終わって2か月ほどが過ぎた頃だった。夕方、職場にポールさんから電話が入った。第一声が、「原くん、怒ってる?」であった。やけに明るい声だった。そして、「今のお笑いに我慢がならない。そこで相談があるんだ。今夜会えないだろうか」と言った。
「怒ってる?」とたずねられ、わたしは「いや、そんなことはないですよ。ただ、連絡がつかなかったので、ずっと心配していました」と答えた。もちろん、本音ではない。おそらく、とっさに口を突いた、ポールさんへの精一杯のねぎらいだったと思う。
 わたしは、たしかに、ポールさんに対して「怒って」いた。それは、二度にわたる『エノケン生誕100年祭』への出席を反故にされたことではなく(第一、2003年の手紙さえ、手元にわたっていたのかどうかわからない)、もっともっと根深いものだった気がする。だがこのとき、わたしはまだ、「笑いの道と仏の道は、ぼくにとっては一対のわらじなんです。二足のわらじというのとはちがって……と、つねづねポールさんが語っていた、一対のわらじの片方、すなわち「仏の道」を、とうに放り出していたことを知らなかった。だから、こうしたタイミングで電話をもらい、ポールさんが「今のお笑い〉」などに関与しようとしていることが、唐突に思えてならなかったのだ。
 ポールさんがお寺を出て、ふたたび西新宿のマンションに住まわれていたことも、わたしは、のちのち事件が起こったときも知らなかった。まだ鹿嶋にいるものと思っていた。「自宅マンションから……」という自死の報道に接し、わたしはてっきり、何度も訪れたことのある、懐かしいお住まいのことだと思い込んでいたが、それは、同じ西新宿でも、かつて3人目の奥様と暮らしていた自宅兼事務所とは、別のマンションだったようだ。
 その晩は、たまたま職場の用事が入っており、再会は後日ということになった。マネージャーと名のる人が電話を替わり、携帯電話の番号を告げられたが、わたしの方から電話をかけると言いながら、時間が過ぎていった。
 なぜすぐに電話をかけて、ポールさんに会いに行かなかったのだろう。なぜ「後日」などと、あいまいな約束をしてしまったのか。いや、たしかに、こちらの「怒り」の正体を見きわめ、心を落ち着かせるために、いくばくかの時間が必要だったかもしれない。だがそんなことよりも、ポールさんの身に何があったのか、これから何をしようとしているのかを、急いで確かめるべきであった。大学2年生のわたしが、思いがけず電報をもらい、東京新喜劇の旗揚げの準備に燃えるポールさんに、初めてお会いしたときのように。このことは、今も悔いている。
 しかしながら、「原くん、怒ってる?」……それが、ポールさんと交わした最後の会話になった。約4か月後、ポールさんは亡くなった。
 1995年5月にポールさんが上梓した『生きるための言葉』(河出書房新社)には、恥ずかしながら、わたしも登場している。かつて、わたしが差し上げた手紙の一節、「ポールさんがいて、『東京新喜劇』という劇団がある――。私の東京喜劇へのこだわりと期待のすべてはそこにあります。」を受けて、ポールさんは次のように記している。
「このような身に余る、そして熱いメッセージを受けた私は、この東京で喜劇役者として生きてきたことの幸せを、どんなものにも代え難く受けとめさせて戴いたのだ。(中略)
 大学生の頃からの氏を知っている私は、氏がこだわりつづけている、喜劇を対象とした真摯な活動と問いかけに、一貫して励まされ続けてきた。(中略)
 氏のその熱き思いに訣別を告げさせないためにも、私は己の喜劇役者としての歩みを急がせなければならない。」
 今、このページをあらためて読み直し、言葉を失っている。
 ポールさんは、ポールさんなりに、精一杯「喜劇役者としての歩み」を進めていたのだろう。劇団運営のために莫大な借金をつくり、仲間たちから陰口を叩かれながら、それでも、少年時代からの夢を叶えたポールさん。しかし、その仏の道で、またもや現実に直面し、挫折を味わうことになったのだろう。自分の不心得ゆえの顚末だったかもしれない。
 だが、それでも、ポールさんは喜劇を決して忘れてはいなかった。それは、大劇場の舞台に立って万雷の拍手を浴びたいとか、大きな財を得たいなどという、俗な芸人にありがちな、ぎとぎとした野心とは、まったく無縁のものだったように思う。少なくとも、最後に電話をもらったときのポールさんは、心の底から「喜劇を演じたい」と思っていたにちがいない。そうでなければ、わたしのような者に電話をかけてくるはずがない。
 それなのに、わたしは、「ポールさん、〈宿題はどうしたんですか。……そうですか、そんなに辛かったら、もう少し先に延ばしたっていいんですよ。でも、わたしは、いつまでも待ちつづけていますよ。ポールさんは、わたしとの約束を、一度だって破ったことはないんですから。」
 そんなことばかりを、ずっと言いつづけてきた。重い重い荷物を一身に背負わせていることに、これっぽっちも気づかないまま。最後の最後まで、ポールさんは、わたしの前では明るかったから。
 もしかすると、ポールさんを死に追いやってしまったのは、わたしかもしれない。(了)    
  【2
008331日発行「笑息筋」第238号所収】
(第1期)

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ポールさんからいただいた最後の手紙(2002531日消印)
 2002531日発行「笑息筋」第168号に、わたしは「清川虹子さんの死を悼む 喜劇に生き、喜劇に死す。」と題し、524日に89歳で亡くなった清川虹子について少し長めの文章を書いた。それをお読みくださったポールさんからの手紙である。
 そこには、「心の中にぽっかりと穴が開いております。この寂しさは埋めようがありません」という書き出しで、ポールさんが慕っていた清川虹子の死を悲しむとともに、お寺の完成が11月に決まった喜びがつづられている。
「けれど、さまざまな苦悩の中で、今回の原さんの記事は小生に清川ママを通して大きな活力を与えて下さいました。
 御礼を申し上げるべきは当方でございます。(中略)
 中味の共なった良き僧となる事で応援して下さる皆様に応えたいと存じます。
 近々御目通り叶うならば幸甚と希っております。」
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20021124日、鹿嶋市の司友山一道寺でおこなわれた落慶法要のひとこま。
 一道寺の本堂の前で、曹洞宗の僧侶や檀家総代らと居並ぶポールさん(前列右からふたり目)。鏡開きなどのセレモニーの合間に、境内に設置されたステージでは、ポールさんの師匠はかま満緒の祝辞や、綾小路きみまろらによる演芸が披露され、お祝いに集まった人々を楽しませた。
 元コント太平洋のなべ雄作さんや、ゆーとぴあのホープ(城後光義)さん、一道寺の開山にも力を尽くしたリッキー遠藤さんとも、ひさしぶりにお会いすることができた。本堂の真新しい畳の上で、ポールさんとわたしの妻と3人で記念の写真を撮っていただいたのが、ポールさんとお会いした最後になった。 

ポール・牧とその喜劇 ダイヤモンドの詰合せセット 💎19💎 原健太郎

 ◆戦友の死 

 ひとり芝居『死刑囚 島秋人の生涯』を初めて舞台にかけた年、19941211日、レオナルド熊が膀胱がんのため死去した。59歳だった。東京新喜劇旗揚げ直後の大切な座員のひとりであったが、 コント・レオナルドが人気を集めはじめた頃から、ふたりの関係がややこしいものになったことは、すでに記したとおりである。
 レオナルド熊とは、当然のことながらポールさんを通じて知り合ったわけだが、わたしは別にポールさんの弟子でもなければ一門でもなかったので、レオナルド熊もまったく警戒心をもたずに接してくれたように思う。出会ってからしばらくたったある日、わたしが絵本や児童読み物の出版社に勤務する編集者であることを知ると、画家の弟さんを紹介したいと言った。
「売れない絵描きをしているんだが、一度会ってもらえないかな……
 そのときのレオナルド熊の、何とも恥ずかしそうな表情を、今もよく覚えている。レオナルド熊に同道してもらいお会いした弟さんは、すでに何冊もの絵本を出版されている方で、「売れてないのはどっちですか?」と、軽ロをたたいて笑い合った。その弟さんとは、それから何度も仕事をさせていただいた。今も親しくさせてもらっている。
 それからまもなく、『花王名人劇場』
(フジテレビ系)の出演を機に(初出演は1980年7月)、レオナルド熊は時代の寵児さながら、売れに売れ出した。
 ふたりで原宿にある弟さんの事務所をた訪ねた日、レオナルド熊は、つい数日前に『花王名人劇場』の番組スタッフから出演オファーがあったことを、うれしそうに報告してくれた。相棒は石倉三郎だったが、このころは、まだコント・レオナルドではなく、形式上はポール・牧一門で、ラッキー・パンチというコンビ名だった。レオナルド熊はラッキー熊であり、石倉三郎はパンチ三郎といっていた。
「ぼくも、このままじゃしょうがないからねぇ……」「そりゃそうですよ。しかし、熊さんがテレビに、それも、『花王名人劇場』に出演する日がくるだなんて、想像もしていませんでした。お茶の間には不釣り合いのコワイ顔……、あ、いや、失礼しました。それにしても、澤田さんはほんとうによくアンテナを張っていますねえ」「いやいや、ぼく自身もそう思っていたんですよ。澤田さんという人のことは直接知らないんだが、よくぞこんなモノを見つけてくれたもんだと思うよ」
 念のため、「澤田さん」とは、『花王名人劇場』の企画者でチーフ・プロデューサーの澤田隆治のことである。かつて『てなもんや三度笠』のディレクターであったことで知られている。
 弟さんの事務所を出てから、
そんな話をしながら、わたしたちふたりは原宿から千駄ヶ谷方面まで、長い時間散歩をした。季節は春で、街の緑がきれいだった。千駄ヶ谷駅近くの喫茶店でひと休みし、コーヒーを飲んだあと、少し早い夕食をとった。それからまた、おしゃべりをした。「実はぼくも、若いときは絵描きになりたかったんだ。漫画を描いていたこともこともあるんだ。ヘタクソな漫画をね」「へえ、それは知りませんでした。また描いたらどうですか」「いやあ、そっちの方は弟にまかせたよ」。あげくに、「――さん、もしよかったら、スパゲッティ、もうひとつどう?」
 ぼくが「弟さんを、ぜひご紹介ください」と言い、それが実現できたこと。そして、『花王名人劇場』への出演依頼。レオナルド熊は、ほんとうにうれしそうだった。楽しそうだった。店を出たときは、表はもうほの暗くなっていた。
 ポールさんは、わたしがレオナルド熊と親しくつき合うようになり、劇団(劇団7曜日)旗揚げの計画を早くから耳にしていることなどを知っても、別に何も問わなかった。わたしの前では、ふたりはいつも紳士的だった。ふたりが罵り合うような場面には、一度も遭遇したことはない。だが、双方を知る若い芸人たちや芸界関係者からは、ずいぶん物騒な話を聞かされていた。わたしが、業界ちがいの一介のサラリーマンであったことが幸いしたのだろう。
「あんなの! だって、オレ達の真似から出発してきたじゃないですか。レオナルド熊が、関さんと同じカッコして、そこから発想してきたじゃないですか。」
 レオナルド熊を認めることのできない理由を、このように語気荒く語ったポールさんだったが(「カジノ・フォーリー」第2次創刊号所収のロング・インタビュー、吐夢書房、19921月発行)、ライバルの早すぎる死を、どのように受け止めたのだろうか。
 いずれにしてもポールさんは、レオナルド熊亡きあとは、なおさら東京新喜劇の立て直しに奮起しなければならなかったはずだ。ところが、『死刑囚 島秋人の生涯』という、喜劇とは真逆と思われる芝居に一生懸命だったのである。芝居の出来栄えこそ素晴らしいものだったが、当初、その心の内が理解できなかったわたしは、前述(連載〈17のように、どうせなら弱虫弱之進でひとり芝居をやってほしかった、などと生意気口を叩いたのだ。
死刑囚 島秋人の生涯』の初演から1年が過ぎたころ、ポールさんから手紙が届いた。そこには、「弱虫弱之進のひとり芝居、胸の高なる夢であり企画です。きっと実現します。」(19951231日消印)とあった。
 だが、その後、わたしは舞台の上を、あわてふためき走り回る弱虫弱之進の姿を、ふたたび目にすることはなかった。
『弱虫弱之進』が足踏みをしているかに見えた、1996年秋、ポールさんは、曹洞宗専門僧堂可睡斎(静岡県袋井市)で再得度・法戦式を果たし、晴れて僧侶として立った。僧名は熈林一道(きりんいちどう)。かねてより、仏道と芸道は「この世に生きる人々に生きる喜びを与えること」という点で共通している、との信条を吐露し、「笑道仏心」を座右の銘としていたポールさんが、ついに本物のお坊さんになったのである。
 北海道の貧しい寺に生まれ、少年時代に得度したものの、仏道修行に挫折して芸界にすすんだポールさんは、僧侶となった兄をことさら尊敬していた。半年ほど前に、その兄に突然先立たれてからは、仏門へのあこがれをいっそう募らせていったようだ。この頃のポールさんは、これらの準備のために、本当のところ、頭のなかは喜劇どころではなかったのではないか、と思う。  2008331日発行「笑息筋」第238号所収】
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騒動舎
20周年記念特別版「舎の光」(19957月発行)
 199578日の夕刻より、品川プリンスホテル新館17階大磯の間で、明治大学騒動舎20周年記念パーティーが催された。筆者たち第1期生から、この年の春に入学した第21期生までが、大きな会場に参集した。このとき、ポールさんもゲストのおひとりとして出席してくださり、お祝いの言葉をいただいた。
 当日の出席者に手渡された特別版「舎の光」(騒動舎の何代目かの機関誌)には、騒動舎の20年間の歴史をたどる貴重な資料や、現役とOBOGの舎員名簿が完備されている。そこにポールさんは、原稿用紙ペラ2枚にわたる「嗚呼、この喜劇への血の騒ぎよ」と題する原稿を寄せられた。ポールさんがご自分で記された肩書は、「喜劇役者」である。
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特別版「舎の光」本文。
 ポールさんは、忙しいなか、FAXで原稿をお送りくださった。「舎の光」には、その原稿がそのままのかたちで掲載されている(右ページ上)。一部を紹介しよう。
「胸熱く、煌めくような青春であった。理想を語り夢に向いひた走った日々が在った。共に笑い、涙を共有した仲間が居た。
 明治大学騒動舎はまぎれもない私のロマンとポリシィへの架け橋であった。」
 なお、ポール・牧さんについては、「笑息筋」の連載が終了してから、しばらくのちに出版された、矢野誠一『にっぽん藝人伝』(河出文庫、2013)に、「エネルギッシュなコントに魅力」と題した、素敵な文章が収められている。巻末の解説はわたしが書かせていただいており、そこでもポールさんについてふれた。ご覧いただけたらうれしい。

ポール・牧とその喜劇 ダイヤモンドの詰合せセット 💎18💎 原健太郎

 ◆薄らいでゆく記憶
 
 ポールさんが新宿の自宅マンション前で倒れているのが発見され、まもなく死亡が確認されたのは、2005422日の朝だった。その直後から、本誌(「笑息筋」)にポールさんの想い出を断続的に書きはじめた。早いもので、丸3年の歳月が過ぎようとしている。
 これは想像していた通りだが、鬼籍に入った多くの喜劇人と同じように、その名前が聞かれることは、最近ではほとんどなくなった。数年前(2003年・2004)、諸先輩といっしょに浅草東洋館で開催した『エノケン生誕100年祭(東京喜劇研究会企画、東洋興業制作)でも痛感したことだが、「喜劇王」と称された榎本健一でさえも、死後30年も経てば「過去の人」である。いや、喜劇に限らず、他の芸能や文学などの世界でも、それは同じであろう。たとえば、いま、石坂洋次郎がどれだけ読まれているか(わたしは高校時代より、いまもいくつもの作品を繰り返し読んでいるのだが……)。むろん、皆無であるはずはないのだが、この作家が「現在」とどのように繋がっているかを確かめたければ、近くの書店に行けばよい。文庫本のコーナーでさえも、彼の著書を探すのは至難の業だ。
 ポールさんについては、現在も、お元気なころ親しく交わっていた方やお弟子さんたちと、ときおり連絡をとらせていただいている。電話で話したり、お会いしたりしたときは、自然、往時の想い出話に花が咲く。だが、それよりほかの場所で、ポールさんのことが話題にのぼったためしはない。
 それでも活字の世界では、かろうじて芸人ポール・牧に接することがある。たとえば、演芸評論家の吉川潮が書いた『完本・突飛な芸人伝』(河出文庫、2006)の記述には、ポールさんの人間性の一端があざやかに描かれている。しかしながら、ポールさんが抱いた夢や喜劇観、俳優や作家としての業績については、まともに取り合おうという気配が感じられない。
 さて、ポールさんは、お目にかかるたびに、また書簡などを通じて、「喜劇を忘れてしまったわけではない」ことを、まるで合言葉でもあるようにわたしに発信しつづけた。わたしはわたしで、ことあるごとに「『弱虫弱之進』の復活」を訴えていた。
 199410月に 、わたしが『東京喜劇〈アチャラカの歴史 (NTT出版)と題する喜劇の通史のような本を出したときも、もちろん、ポールさんの東京新喜劇についてふれた。本誌(笑息筋)でも、間遠くなったポールさんの喜劇活動に対し、何度もエールを送らせてもらっている。
 この年(1994年)の12月、明治座で『花のお江戸かぐや姫・我楽苦多一座奮戦記』(葉村彰子作・演出)という芝居を見た。「年忘れ爆笑大喜劇」と銘打たれた喜劇公演で、坂上二郎、谷幹一、小松政夫、沢竜二らのベテラン勢とともに、ポールさんも出演した。芝居の詳細については、ここではふれないでおくが、わたしは、「失望した。こういうものを喜劇と呼んではならないし、上演してはならないのだ」と言い切り、少々長めの劇評を本誌(19941221日発行「笑息筋」第79)に書いた。これを読んだポールさんから、原稿用紙3枚にわたる手紙(1227日消印)が届いた。頭の部分には「貴兄の御批評、まったくもって『その通り』です」とあるが、残りの3分の1ほどは、出演者の立場からの弁明ともとれる内容であった。
「しかし、救いはあります。
 明治座が他の商業劇場が今や手がけようとしない『喜劇』という舞台表現に挑んでいるという事実です。
 そして力量のある演者(喜劇役者)が少なからず夢を託して存在しているという事実です。
 まさに消えなんとしている喜劇の灯が残り火程度でも在るということは、まだまだ可能性を秘めているのではないでしょうか。」
 そして、
「こんなに叱られても心が晴れるのは貴兄のベースに喜劇に対する『愛』が一貫して流れているからです。
 いつの日か、貴兄に褒められるような喜劇を創るべく歩みます。
 喜劇を業(なりわい)としている一兵卒として。
 喜劇の栄光は必ず訪れます。
 友情に萬謝を奉げて。」
 ……と、最後は、芝居をクサしたわたしの方が、ポールさんに励まされる始末だったのだが。
 わたしたちが手紙などを通じて、上記のようなやりとりをしているころ、東京の芸界に悲しいニュースが流れた。 
2008331日発行「笑息筋」第238号所収】
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ポールさんの自殺を報じたスポーツ紙。
 スポーツニッポン、日刊スポーツ、サンケイスポーツ、スポーツ報知、東京中日スポーツの5紙。いずれも423日付。はかま満緒、市川森一、浅香光代、北島三郎、毒蝮三太夫、ガッツ石松、泉ピン子ら、ポールさんと親しかった人々が談話を寄せている。
 東京中日スポーツには、30年近い付き合いのあった元マネジャーの山口恒男、現担当マネジャーの甲斐喜久男の両氏が、22日に都内でそろって会見をおこない、ポールさんが十数年前からうつ病に悩まされていたと明かし、「仕事もあり金銭問題など悩みもなかった。自殺の原因はうつ病しか思い浮かばない」と口をそろえて言った、と記している。正直、わたしはこのとき初めて、ポールさんの身に「うつ病」という病がかかわっていたことを知った。

 

ポール・牧とその喜劇 ダイヤモンドの詰合せセット 💎17💎  原健太郎

 ◆ひとり芝居
 
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台のバスに乗り込んだ東京新喜劇一行が、地方公演を重ね、結束を固めつつあった頃、当のポールさんは、「指パッチン」なるもので、一躍マスコミの寵児となった。ラッキー7のナンセンスコントで、爆発的な人気を集めて以来のことである。
 自作のコントから抜け出したようなキザな男、ポール・牧が、左右の指を打ち鳴らし、ターンまで切って見せるという馬鹿馬鹿しいパフォーマンスが、若者たちに受けたのである。このブームは、1991年の夏頃から2年ほどつづいた。
 ポール・牧の名は、ラッキー7の全盛時(1970年代半ばから80年代初頭)を知らない若い世代にも、当時、笑いの教祖的な存在に上り詰めていたビートたけしによって、とんでもなく滑稽でインチキ臭いベテランコメディアンとして、浸透していた。それゆえに、指パッチン・ブームは、さしたる不自然さもなく到来したのだと思う。一番のきっかけは、19919月に放送された『ビートたけしのお笑いウルトラクイズ!!(日本テレビ系)とも、深夜ラジオ『ビートたけしのオールナイトニッポン(ニッポン放送)ともいわれている。『ウルトラクイズ』では、1分間に指パッチンを100回やり、これが評判になった。こうして、連日のようにテレビで笑顔をふりまき、新聞や雑誌をにぎわしたのである。 しかし、ポールさんは、こうした状況をかなり冷静に受け止めていた。わたしなどには、「こんなもの、『弱虫弱之進』を、またたくさんの人に見てもらう日までの〈やっつけ仕事〉ですよ」と言って、笑っていた。
 こうした活躍が評価され、19933月、台東区が主催する第9回「浅草芸能大賞」奨励賞を受賞した(ちなみに、このときの大賞受賞者は三代目三遊亭圓歌、新人賞は中村橋之助だった)〈やっつけ仕事〉と自嘲していたポールさんが、自分のプロフィールに記している唯一の受賞歴である。
「指パッチン」のブームが落ち着きはじめた同年12月、東京新喜劇は、大阪の吉本興業に招かれ、なんばグランド花月(NGK)で、7日間(20日から26日まで)の公演をおこなっている。演目は『弱虫弱之進』である。東京の劇団が同劇場で芝居をまるごと1本、数日間にわたって公演をするのは初めてのことだった。関西を拠点として活躍している、ポールさんの古くからの友人知人が奔走し、実現した企画だったようだ。清川虹子、伊達正三郎、なべ雄作、リッキー遠藤らに加え、チャーリー浜、島木譲二ら、吉本新喜劇の人気者たちが『弱虫弱之進』の舞台に立った。そのため、お決まりのギャグあり、ズッコケありの、吉本新喜劇色の強い舞台になったらしい。一大事であるはずのこの公演のことを、ポールさんは事前にわたしに知らせてはくれなかった。
 翌1994年秋には、人気テレビドラマ『水戸黄門』(TBS)に出演。元旅芸人のポールさんが黄門様を装い、ほうぼうでタダ食いをしているところ、本物一行にばったり会ってしまうという筋書きだ。この頃の黄門役は佐野浅夫で、ポールさんはゲスト扱い。コミカルな場面が多く、立ち回りもあった。放送は926日だった。
 大阪で「大成功を収めた」(ポール・牧『指パッチン流 色即是空)ポールさんは、その勢いのまま、東京でも『弱虫弱之進』を復活上演させるものと、わたしは期待した。だが、ポールさんが選び取ったのは『弱虫弱之進』ではなかった。同9月、『死刑囚 島秋人の生涯』(海原卓脚本・演出)という「ひとり芝居」の連続公演を開始したのである。初演は910日、池袋METホールだった。
 昭和30年代、貧しさゆえに強盗殺人を犯し、のちに死刑に処された実在の人物に材を採った物語で、死刑存廃論にも一石を投じる、テーマ性の強い劇であった。明らかに喜劇ではない。刑務所のなかでキリスト教の洗礼を受けた島秋人は、窪田空穂に導かれて短歌をつくり、短歌を通して人を愛することを知る。
 わたしはこの舞台を3度見ているが、そのたびに、俳優ポール・牧の成長ぶりに目を見張った。だが、島秋人もいいが、それならばいっそう、弱虫弱之進を「ひとり芝居」に仕立てて演じたらよいではないか、と苦言を吐いた。
 この芝居に賭けるポールさんの情熱は理解できたものの、公演チラシに「島秋人氏を演じることによって、生きることの尊さを己自身への問いかけにしたいと思います。それが、喜劇の原点であり理念であると信ずるからです」などと書かれてしまうと、わたしには、なぜそこまで遠回りをする必要があるのか、と思えてならないのだった。 2008229日発行「笑息筋」第237号所収】
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『死刑囚 島秋人の生涯』公演のプログラム(左)とチラシ。
 この劇は、会場を替えて何度か上演されている。ポールさんの力の入れようがよくわかる。プログラムには「ポール師匠の真骨頂に期待して」と題する、恩師の放送作家はかま満緒のメッセージが紹介されている。
「喜劇役者のポール・牧も本物になったと嬉しくなった。観客に感動を与えるのにお涙ものお笑いものに分けることはない、笑い過ぎれば涙が出る、あまりに悲しいと笑いが生まれることがある。人間誰しも失敗や間違いをする、人間は見つめれば見つめるほど滑稽なものだ。それをラテン語でユーモアという、直訳すれば体液だ。人間の体から滲みでるユーモアがなければ喜劇も悲劇も成り立つまい。」
『死刑囚 島秋人の生涯』を見て、これは「悲劇」だ、ポール・牧がなぜ「悲劇」なんて……、と苛立ちを覚えた自分が、恥ずかしくなった。
 1994915日発行の「笑息筋」第76号に、わたしがこの舞台の寸評を書いたところ、歌人である読者の方からていねいなお手紙をいただいた。わたしはそれまで島秋人という人のことをまったく知らなかったのだが、『遺愛集』という獄中詩集を残した、短歌の世界ではたいへんよく知られた人物であることを、教えられた。

ポール・牧とその喜劇 ダイヤモンドの詰合せセット 💎16💎  原健太郎

 ◆旅興行
 
 中野サンプラザ公演は、好評裡に幕を下ろした。出演者やスタッフと交流し、それぞれの気持ちを確かめることができたポールさんは、一度はあきらめたであろう『弱虫弱之進』をかかげての劇団活動に、ふたたび積極的に着手した。19885月より、大阪、姫路、高松、広島、熊本、福岡と、大阪以西での地方公演に乗りだしたのである。俳優、スタッフ、総勢数十名の、古びたバスを仕立てての旅興行だった。運転は、この北海道公演のために大型免許を取得した、リッキー遠藤が担当した。舞台セットや道具類は、別途大型トラック1台に詰め込み、専門の運転手を雇い入れた。それまでは、公演ごとに寄り集められた感のある東京新喜劇のメンバーだったが、同じ釜の飯を食べ、大いに語り合うなかで、一同は「劇団員」としての絆を紡いでいった。
 10月には、ポールさんの生まれ故郷である、北海道天塩郡天塩町雄信内をふくめた、道北一帯を巡演した。1か月にもおよぶ長い旅だった。室蘭を皮切りに、札幌、北見、旭川、滝川、留萌、名寄、雄信内と移動し、稚内で打ち上げた。会場の多くは市民会館といわれるところだったが、なかには学校の講堂や体育館もあった。ポールさんの母校、天塩町立啓徳小中学校もそんなひとつだった。人々は、郷土出身の喜劇俳優が座長をつとめる劇団を大いに歓迎した。
 長い間バスに揺られ、各地の舞台にのぞんだのは、65歳の清川虹子をはじめ、宗方勝己、三善英史、伊達正三郎、笹八平、山田はるみ、八神康子、なべ雄作、リッキー遠藤、めだちけん一……らだった。
 この間、関西以西公演の打ち上げとして、東京でも、弱虫弱之進』公演がおこなわれている。524日、日本聖道教団という宗教法人がプロデュースしたもので、会場は永田町の都市センターホールだった。弱之進(ポール・牧)の親友強虫強之進は、中山俊司が演じた。その他の主な出演者は、清川虹子(お局)、伊達正三郎(殿様)、宗方勝己(公儀隠密)、なべ雄作(家老)らで、多くは、この前後、数か月間にわたっていっしょに旅をした面々である。この舞台を見た感想を、わたしは、「笑息筋」第10号(1988630日発行)に記している。
「負傷した強之進になり代わって、武芸者を装う公儀隠密と闘うことになった弱之進が、いざ剣を抜く段になって動揺しまくる場面が、今回の舞台ではもっとも面白かった。長いたすきが巻きつき、身動きができなくなったり、刃の不気味な輝きにあらためて恐れをなし、思わず城主に斬りかかったりと、ポール弱之進が一言わめき、一歩踏み出す度に、観客の笑い声は高まった。15分は優にあっただろう、これだけ愉快なモッブ・シーンは、少なくとも近年の松竹新喜劇では観られない。(中略)
 なべ雄作が演じた家老は、かつて関武志が得意とした役柄だ。しわがれ声で、腰をかがめて大股で歩く姿は、関の演じたままの家老であり、胸に迫るものはあったが、やはり、なべ雄作というひとりのコメディアンが活かされているとは思えなかった。過去の舞台における〈華〉は、もうそろそろ打ち捨ててもよいのではないか。関以上に、ちょこまかと動くなべ家老を観てみたい気がする。」(「お帰りなさい、東京新喜劇!」より一部引用)
 あの舞台の愉快な決闘場面は、今でもありありと思い出すことができる。上手に控える清川虹子の局や家臣たち、そして、下手に居並ぶ腰元たちとの連動も小気味よく、笑いを増幅させていた。ポールさんの演出家としての力量をあらためて知った。19791月の新宿厚生年金会館小ホールにおける「独立公演」以来、『弱虫弱之進』をずっと追いかけつづけてきた者にとっては、ひとつの到達点を見た思いがした。
 1989年=昭和6417日、「昭和」という元号の最後の日に、脚本家才賀明が死去した。59歳だった。ポールさんが「東京新喜劇」を旗揚げしたために、早くから準備していたその名称を手放さざるをえず、のちに劇団「大江戸新喜劇」を結成した人である。この劇団で俳優としてデビューしたのが、のちにSETを旗揚げする三宅裕司であり、斉藤洋介だった。
 才賀が、劇団「東京新喜劇」旗揚げのためにスタッフや俳優を募り、メンバーを固めようとしていた頃、大学受験に失敗し、浪人生活に突入していたわたしは、暢気なことにこのグループに参加した。19745月。予備校に通いはじめてから、まだいくらも経っていなかった。そして、高校生のころ同様に受験勉強そっちのけで、プロの作家たちにまざって脚本づくりやコントの勉強にいそしんだ。エノケンこと榎本健一の魅力を、初めて教えてくれた人が才賀明だった。ポールさんに出会うのは、それから2年半のちの197611月。わたしが大学2年生になってからである。
 才賀明の死を、ポールさんがたいへん厳粛に受け止めた事実を、ここに記しておきたい。その死の報道からまだ日が浅いある日、ポールさんは、「『東京新喜劇』の名前を恥ずべきものにしてはならない、と思っています」と、真面目な顔をして、わたしに言ったのである。 
 三宅裕司らは、今日、才賀明のことを決してよくは言わない。わたし自身も、出会ってから半年後には生意気に造反し、予備校の教室に舞いもどっている。だが、「なぜ喜劇を演じるのか」「何をもって喜劇というのか」そして、「東京喜劇とは」……まだ18歳の、ただ漠然と喜劇が好きなだけのわたしに、こうしたことを考えるきっかけをつくってくれたのは、才賀明である。それだけに、ポールさんのこの思いがけない言葉は、心に沁みた。そのポールさんも、今はもういない。わたしは、ふたりを引き合わせる機会を逸したままだった。 
 この年の夏ごろだったと思う。わたしはポールさんから、時間を見つけて読んでほしいと、一束の原稿のコピーを渡された。B4の原稿用紙に書かれた、『立ち退き』と題する脚本だった。清川虹子とポール・牧が演じる「ふたり芝居」である。
 都市開発が進む新宿の片隅に、ぽつんと建つ一軒の家。そこにひとりで暮らす老婆と、彼女に立ち退きを迫る暴力団員の男の物語だ。愛を貫き通すことの意味がテーマであろう、脚本の字面だけを追えば、まぎれもなくストレイトプレイである。ところが、ふたりの演技を頭のなかで想像すると、フランスのブールヴァール劇を想わせる、シャレた喜劇の薫りが漂ってくる面白い作品だった。
 相手役を関武志に設定したポール・牧作のコントには多数接し、台本も読ませてもらっていたが、このような内容の「ふたり芝居」は初めてだった。ポールさんの劇作の才能に、正直、舌を巻いた。1年後の公演を目指して、上演プランをいっしょに練ったが、清川さんの体調への配慮と、とつぜん起こった「指パッチン」ブームのために、結局、この芝居の幕が開くことはなかった。
 清川虹子は、2002 524日に89歳で病没したが、晩年の10年あまりはずっと健康の不調をうったえていた。わたしは清川からも、戦前戦中の喜劇の話を聞き書きしていたが、約束の日、清川の体調がすぐれず、玄関先で引き返したこともあった。そのような状態であったが、清川は、これまで通りポールさんの活動には協力を惜しまなかった。そんな清川を励まそうと、この芝居を書いたこと、そのことを清川もたいへん喜んでくれていることなどを、ポールさんは打ち合わせのたびに、うれしそうに話した。
 元号が平成に改まってからは、とうとう『弱虫弱之進』を舞台で見ることは叶わなかったが、清川とポールさんのふたり芝居が幻に終わってしまったことも、一喜劇ファンとしてたいへん残念なことだった。 2007930日発行「笑息筋」第232号所収、一部2008229日発行の第237号、および2008331日発行の第238号より】
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日本聖道教団がプロデュースした『弱虫弱之進』公演のチラシ。
 家老の役は、当初、ベテラン喜劇俳優の人見明が演じる予定だったらしく、チラシには彼の顔写真が掲載されている。1986年の中野サンプラザ公演もそのひとつだったが、これらの「プロデュース公演」は、かつて大劇場で『弱虫弱之進』の舞台を見て、感動した人々からの熱心な誘いで実現した。
 終演後、わたしは都市センターホールの楽屋に、ポールさんを訪ねた。そして、『弱虫弱之進』の復活をたがいに喜び合い、固く握手をした。
 楽屋には、隣国の若君役で出演した歌手の三善英史も居合わせており、わたしの妹が中学生の頃、ファンクラブに入会するほどのファンであった、と余計な話をした。すると、三善は色紙を取り出し、妹宛てにサインを書いてくれた。
ポールさんと親しい間柄であると察して、気を遣ってくれたのだろう。10代の頃より喜劇にばかりにうつつを抜かしていたわたしは、後日、妹に、初めて尊敬のまなざしを向けられた。

ポール・牧とその喜劇 ダイヤモンドの詰合せセット 💎15💎  原健太郎

 ◆原点から
 
 新宿・初台ムーラン劇場で上演された『笑わせ者たちの伝説』は、東京新喜劇が日劇や国際劇場などで公演をおこなっていた時代を知る者にとっては、格段に
スケールが小さく、たしかにわびしさのぬぐい去れぬものだった。だがそれでも、駆けつけた多くの喜劇フアン、演芸ファンの顔には笑顔があふれ、「ポール・牧復活」を実感させる出来事だったといえる。
 新生・東京新喜劇は、この貸しスタジオを本拠に、しばらくは今回のように、比較的低予算ですむ現代喜劇を演じていくものと思われたが、結局、ここでの公演は、この「第1回旗上公演」が最初で最後になった。これより一座は、『笑わせ者たちの伝説』をひっさげて地方興行に打って出たのである。
 そのなかには、東大阪のストリップ劇場「晃生ショー劇場」もあった。このとき、たまたま大阪新歌舞伎座に出演していた喜劇俳優の石井均が、劇場をおとずれたという。金井肇『笑道仏心』(現代書林、1992)には、この舞台を見た石井の感想が記されている。
「あの大阪のはずれの劇場まで出向いて公演をするなんて、ポール・牧の根性は大変なものだ。悪い表現をすれば、あそこまで身を落して喜劇をやれる男は、日本にはもういませんね。その意味では、ポール・牧は驚くほど大変な奴ですよ。あの姿を見ていると、彼は立派に立ち直ると思えます。役者には、 特に喜劇役者には、あの泥まみれの姿が大切なんです。」
 ポールさんの愛弟子リッキー遠藤は、この公演には不参加だったが、めぐりあわせというのはあるもので、のちに彼が大阪に居を移し、ストリップ劇場でコントを演じるようになった際、偶然にも晃生ショー劇場が活動拠点となった。
 ポールさんは、「指パッチン」のバブルがはじけたあと、リッキー遠藤をたよって、大阪をはじめ、近県のストリップ劇場に出演することが再三あった。コントマンとしての地道な活動の結果、大阪の地で人気を得、信頼を築いて「居場所」を獲得したこの弟子にくらべ、師匠のポール・牧は、そのときどきの「風」に流されていったきらいがある。それは、生来の処世術であったのか、自殺未遂事件前後に思い知った人間不信がそうさせたのか、わたしにはわからない。
 あげくの果てのストリップ劇場である。だが、そこにはみじんのみじめさもなかった。人気芸人として喝采を浴び、テレビにも出つづけた。長年夢に見た劇団を旗揚げし、日本を代表する大劇場での公演も果たした。しかしながら、ポールさんがほんとうに実現したかったのは、どうやらそんなことではなかったようだ。
 連載〈8〉でもふれたように、わたしは学生時代より、ポールさんと「なぜ喜劇を演じるのか」「何をもって喜劇というのか」といったテーマで、ことあるごとに議論してきた。その結論めいたものが、ポールさんとストリップ劇場とのかかわりのなかで見えた気がしたのである。
 2001年3月2日付の「ナイスポ大阪」には、リッキー遠藤が出演しているストリップ劇場、和歌山の「八光ミュージック」の舞台に飛び入りで登場し、コントを演じたときのポールさんの談話が紹介されている。
「どうしてストリップ劇場にポール・牧が出てるんだ。そう思う方も多いかもしれません。でも、ストリップ劇場だからこそ、私は素晴らしいコントができると思っているんです。みなさんが額に汗を流して、毎日がんばって働いた代償としていただいた、ありがたいお金で楽しい時間を過ごしに来る。そんな素晴らしい空間だからこそ、自分の原点に返ることができるんです。そして、ストリップ劇場は私の故郷でもあります。鮭が生まれた川に戻ってくるように、私も生まれた場所に年1回戻ってきます。」
「コントを通じて、たくさんの人の悩みや疲労を癒してあげながら、生きている喜びを伝えていく。そんな役割を果たしていくことこそ、私がすべきことでしょう。」
 文中の「コント」は「喜劇」に置き換えても、問題はないだろう。ポールさんは、駆け出し時代に、ストリップ劇場で5年ほど修業を積んでいる。全国津々浦々の劇場を旅するなかで、上野の地下ニュース劇場で出会ったのが関武志だった。引き合わせてくれたのは、先輩芸人の笹八平。ラッキー7はこうして生まれ、関武志の死が分かつまで、ふたりの活動は15年間つづいた。
 芸人ポール・牧の「原点」は、踊り子の汗と化粧の匂いの充満したストリップ劇場であった。踊りと踊りの間をつなぐ芸人たちが登場するや、たちまち「引っ込め!」「つまんねえぞ!」といったヤジが盛大に飛ぶ、場末の小さな劇場だった。「なぜ喜劇を演じるのか」「何をもって喜劇というのか」……。浅草の小さな演芸場で一座を旗揚げし、やがて日劇や国際劇場といった、日本を代表する大劇場での公演を実現させたポールさんだからこそつかみ得た、嘘偽りのない境地だったのではないかと思う。
 大阪の晃生ショー劇場公演から数か月たったある日、ポールさんにうれしい知らせが届いた。東京の中野サンプラザで東京新喜劇の芝居を見せてもらえないか、という依頼である。しかも、希望演目は『弱虫弱之進』。さる大手企業が催す社員慰安会の一貫だった。19837月の新宿コマ劇場公演から約3年ぶりの『弱虫弱之進』である。ポールさんは喜んで引き受けた。
 このとき参集したスタッフや出演者は、3年前とは少しちがっていた。にわかに舞い込んできた仕事でもあり、それぞれのスケジュールの都合もあっただろう。だが、自殺未遂騒動以来、ポールさんにとって仲間集めは容易なものではなく、また、できるならば、ふいに背中を向けるような人たちとは仕事をしたくはなかった。
 ポールさんに手を差し伸べてくれたのは、ベテラン喜劇女優の川虹子だった。戦前・戦中はエノケン・ロッパの喜劇を支え、戦後も舞台や映画の第一線を走りつづけている、芸界の重鎮である。清川が一座に加わることで、息をひそめたまま、まるで人形のように身動きひとつしなかった弱虫弱之進が、にわかに色づき、動きはじめたのである。のちに、東京新喜劇が大型バスに乗り込み、全国縦断ツアーを始めたときも、座組の中心にはいつも清川の姿があった。 2007731日発行「笑息筋」第230号所収】
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ポールさんが、和歌山のストリップ劇場に飛び入り出演したことを報じた、200132日付「ナイスポ大阪」。写真中央ポール・牧、左リッキー遠藤、右イヴ。
 八光ミュージックは、大阪の晃生ショー劇場の系列で、リッキー遠藤もしばしばこの劇場でコントを演じた。この日は、新宿・初台ムーラン劇場公演『笑わせ者たちの伝説』(19864)で、ヒロインの踊り子ジプシー・メリーを演じたイヴも出演していた。ポールさんは、前日、金沢でおこなわれたイベントに参加していたという。記事中、ポールさんは、八光ミュージックに出演した理由を「和歌山の劇場でお世話になっている弟子たちのデキを見に来たんです。そしたら本日限りの特別出演ってことになっておりまして、久しぶりにストリップ劇場の舞台に立つことになったんです。」と語っている。
 思いがけないかたちで師匠と再会したリッキー遠藤は、同紙で、芸人ポール・牧の本質をみごとに言い当てている。
「現役として、本物のコントができる数少ない芸人ですよ。タレントとしたら、クイズとかバラエティ番組に出演して、お金をもらったほうが楽。でも、それは笑いを追求しなくてもできることなんだよね。還暦を迎えても、芸人魂を燃やしている師匠は凄い存在ですよ。相当なエネルギーがなくちゃできないことを、強い信念を持ってやってますからね。」

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