こんにちは。
 わたしたちは、1976年4月、明治大学に産声をあげたサークル「騒動舎」で、ともに青春時代を過ごした者たちです。昨年は創立40周年の年でしたが、本体は10年ほど前に瓦解しており、現在、明治大学に、「騒動舎」を名のる学生グループは存在しません。
「騒動舎」は、劇映画(8ミリ)の制作と、喜劇の上演(演劇部「イズミ・フォーリー」)を2本の柱に活動をつづけ、学生映画界・演劇界にささやかな足跡を残しました。その孤高の芸術は、全国の若者たちを刺激し、「おらぁ、騒動舎に入りたくってよぉ、三浪して明治大学さ入学しただぁ……」といった、屈強な精神の輩まで現出させるほどでした。20世紀末に端を発する東京一極集中化問題と、わが「騒動舎」は、決して無関係ではないのです。
 
 あの日、まぎれもなく青年だった創立メンバーも、40年の歳月をへて、みな、還暦でこぼこの年齢に達しました。それぞれ、出会いと別れを繰り返し、世界でたったひとつだけの人生を、どうにかこうにか歩んできました。
 
 この間、大切な仲間を幾人も失いました。
 創立メンバーの山崎信二くんも、そのひとりです。2015年7月に59歳で亡くなった山崎くんは、映画や演劇について、ノーガキばかり並べ立てる者たちのなかで、唯一、カメラを回し、録音機材を操ることのできる人でした。そんな山崎くんに、わたしたちは、「メカ山」の愛称を捧げました。
「騒動舎」が初めて制作した映画『僕の日曜日』(1976年)では、録音。第2作『あのころ二人は』(1976年)および、第3作『夏の終曲』(1976年)では、監督。第4作『世界中で一番素敵なあなた』(1977年)では、撮影を担当しました。また、「てんこう劇場」と称する自前の劇場(明治大学和泉校舎2号館裏の芝生の植え込み)での公演をもっぱらとしていた「イズミ・フォーリー」では、裏方を一手に引き受けるなど、「騒動舎」の黎明期において、映画・演劇両面で重責を担いました。山崎くんがいなければ、映画も演劇も、ただの1作もつくりあげることはできなかったでしょう。「騒動舎」が30年におよぶ歴史を刻むことなど、なかったにちがいありません。 
 大学卒業後の山崎くんは、「騒動舎」の行く末をつねに温かく見守り、声援を送っていました。「騒動舎を誰よりも愛した人」といっても、過言ではないでしょう。しかし今は、そんな山崎くんと、昔話に花を咲かせることも、あの頃のように、夢を語り合うこともできません。それが悔しくてなりません。
 
 山崎くんは、もう、この世にはいません。けれど、今はいない山崎くんと、何かいっしょにできることはないだろうか。そんな思いが沸き起こり、このグループ、「騒動舎リターンズ」は結成されました。
 笑顔の山崎くんに再会できるような、何か楽しいイベントを、できれば年内に開催しようと計画しています。今年は、山崎くんの三回忌の年です。
 これを機に、山崎くんが活躍した時代の「騒動舎」を知る人びとと、旧交を温めたいと願っています。あのころ、「騒動舎」のメンバーだった方、何かの事情で、途中で辞められた方も、みな、同じ仲間です。創立時のことなどご存じない後輩諸君にも、参加していただけたら幸せです。「騒動舎」の映画や、イズミ・フォーリーの芝居をご覧くださった方々にも、声をかけられたら、と企てています。
 
 このブログは、在りし日の「騒動舎」にかかわった、すべての人びとの交流の「広場」です。ぜひ、ご参集ください。借金の申し込みはしませんので、ご安心ください。
 
 みなさん、「騒動舎」が、また動きはじめました! 

   2017年5月

                         【騒動舎リターンズ】             
                          大森美孝 (騒動舎第1期)
                          原健太郎 (騒動舎第1期)
                          室生 春=大室寿俊 (騒動舎第1期)
                          怪男児日の丸=勝永裕幸 (騒動舎第2期)
                          南野誰兵衛=杉田和久 (騒動舎第2期)

作品評・小説◆八千代ゆたか「下町亀戸純情派」 by 德丸哲也

【昭和の香りのする下町人情・恋物語】

 著者の德住君は男性としては珍しく戸籍上、平仮名のゆたか君だ。親思いのゆたか君は母上の介護のため、20233月末をもって41年間のサラリーマン人生を卒業した。14か月にわたる介護むなしく昨年7月に母上をご病気で亡くされた。ここに謹んでお悔やみ申し上げたい。そんなご不幸もあって母上の旧姓(八千代)をペンネームにしたのだそうだ。

ゆたか君は母上の介護と並行して長年の夢だったという小説修業を始めたと聞いていたのだが、そのデビュー作が明治大学の歴史ある文芸誌『駿河台文芸』48号に掲載されたので、ここに紹介したい。
 私はゆたか君とは同じ政経学部経済学科で騒動舎の同期(4期生)である。ゆたか君の方が私より数ヶ月早く入舎したため、「とく」という愛称がゆたか君に付けられ、遅れて入った私は「まる」と呼ばれた。演劇部(劇団イズミ・フォーリー)で同じ釜の飯を食った仲間という表現がぴったりする。僕が当時住んでいた赤堤のアパートにも飲んだくれてよく泊まりに来たし、埼玉県三郷市の実家にも遊びに来てくれた。今も付き合いは続いており、コロナ禍でしばらく途絶えていた飲み会も一昨年復活した。実は、次回の飲み代を負担してくれるというから、一肌脱いでこの文章を書くことにしたのだ。(笑)
 筆者は長く江東区亀戸に暮らしている。彼の趣味は「路地裏・居酒屋・スナック探訪」だそうで、地元・亀戸の飲食店をよく知っている。この作品の舞台となっている居酒屋『萬や』は筆者行きつけのお店とそのご主人、そして常連さんをモデルにしているらしい。私自身、亀戸周辺のことはあまり詳しくないが、街の雰囲気がよく伝わってくる物語だ。
 『萬や』のご主人である欣さんは67歳という設定だから、今の我々とほぼ同世代なのだが、何とも人間味があり素朴で純情な男だ。主人公の僕(木暮裕二)も34歳ながら欣さんと変わらず真面目で純朴な男だ。そんな二人と店の常連、五十代後半の明美さんとの三人の会話が自然で、私も店のカウンターに一人座ってビールをちびちび呑みながら話を聞いているような錯覚を起こした。
 サッポロビールが店に置いてあるのは欣さんが北海道出身だからだろう。欣さんの作る北海道尽くしの料理は旨そうな香りが湧き立ってくるから不思議だ。シングルファザーを長くやっていた筆者だからこそ料理の描写もリアルなのだろう。
 ちょっと持ち上げると村上春樹のように色使いが巧みだ。ビールの『赤星』、球磨焼酎の『しろ』はカラオケ愛好家でもある筆者の好きな『紅白歌合戦』を象徴しているようでもあり、登場人物の顔色を暗示しているようでもある。主人公のマドンナとなる瞳さんはあくまで清楚な女性で、頭にかぶった花柄のバンダナと白いエプロンがよく似合う。
 いつも藍色の作務衣を着た欣さん。そしてラストで明美さんが身に付けたエプロンも藍色だった。書かれてはいないが、きっと二人お揃いの藍色を身に付けていたことだろう。その光景が目に浮かび、目頭が熱くなった。
 主人公の出身地は福井県。最後に登場する五木ひろしの出身県でもあることは偶然の一致なのか、意図的なのか。さらには北海道出身の欣さんは若い時分、どのような仕事で一旗揚げようと決意して上京したのか、出身地の町の名がそれを暗示しているようでもある。
 下町に悪人はいない。横槍を入れる大門哲也でさえ味のある憎めないキャラクターだ。
 作
品全体を通じて私たち世代が生き抜いた昭和の雰囲気が十二分に漂っている。作品中に何度か登場する東京スカイツリーが完成したのは2012年のことだから、この物語は少なくもこの13年の間のことだろう。それなのに携帯電話もスマホもSNSすら出てこない。だから昭和の香りがするのだろう。下町には昭和が似合うということかもしれない。
 下町に住んでいる庶民がそれぞれ一生懸命に今このときを生きている。一人一人が苦しみながらも明るく楽しく生きている。生きる勇気が湧いてくる温かい下町人情・恋物語を楽しませてもらった。
 この物語はここで終わらないはずだ。ぜひ、続編を読んでみたい。
 そ
して、八千代ゆたか君の今後の健筆とさらなる活躍に大いに期待するものである。


(第 
4期/芸名:三郷ひろみ)

▼八千代ゆたか氏の小説「下町亀戸純情派」が掲載された『駿河台文芸』48号(2024年12月発行)表紙。
『駿河台文芸』は、『明大文学』(1936年創刊)、『明大文藝』(1952年創刊)などに連なる明治大学関係者(学生、教員、卒業生ら)による文芸雑誌として、1984年10月に創刊された。発行は駿河台文学会。かつての会員には、
斎藤正直(明治大学学長/仏文学者/翻訳家)、斎藤茂太(エッセイスト/精神科医)、中田耕治(作家)、安田雅企(ノンフィクション作家)、小泉源太郎(翻訳家)、長島良三(翻訳家)、矢野浩三郎(翻訳家)、川村毅(劇作家/第三エロチカ主宰)、秋山孝男(東京創元社会長)、西谷能雄(未來社社長)、目黒考二(文芸評論家/『本の雑誌』発行人)、宮田昇(作家/日本ユニ・エージェンシー社長)、初見良昭(武術家・戸隠流忍術継承者)らの諸氏がいた。(H)

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 残念ながら1月2日は負けてしまいました。
 明日の決勝戦、母校は出場してませんが次年度の戦力分析も兼ねてしっかりテレビ観戦しようと思います。
 
 昨日4期の徳住くんから郵便が届きました。中には「駿河台文芸」という初めてお目にかかる同人誌が。そしてそこにはペンネーム八千代ゆたかとして徳往くんの小説「下町亀戸純情派」が掲載されていました。そういえばこのブログで以前彼が小説を書いていきます宣言をしていたことを思い出しました。速攻で読ませてもらいました。
 正直 良かった。いい小説でした。彼とは個人的な交流はさほどありませんが、彼の人柄が滲み出ているようで、温かな気持ちにさせてくれる小説でした。小説の中で居酒屋さんが登場するのですが、その居酒屋さんが小林薫さん主演の私の好きなドラマ「深夜食堂」みたいで本当にあったら行ってみたくなる居酒屋さんでした。
 何はともあれ、早々に雑誌デビュー(?)おめでとう!!

  そういえば昨年5期(?)吉田紀子さん脚本のNHKドラマ「団地のふたり」も良かった。同じ団地に住む親友の小泉今日子さん小林聡美さん、そしてその家族と団地で暮らす人々の温かな日常が素敵に描かれていました。

  こんな幸せな気持ちにさせてくれた二人に感謝です。

                                    第1期 大森

2025年年明け

新年あけましておめでとうございます。
皆さんどんな新年をお迎えですか?
長く生きているといろいろありますが、同学年の明石家さんまさんも「生きてるだけで丸儲け」と言ってます。
今年はこんな気持ちで過ごしていければと思ってます。

せっかく皆さんとブログで繋がってるのですから、例えば趣味の共有とか求人、尋ね人、探し物コーナーとか、なんかうまく利用する手はないですかね。面白い提案お待ちしてます。

まずはは2日の帝京戦を応援しますか。
今年もよろしくお願いします。



【騒動舎リターンズ】
 大森美孝
 原健太郎
 室生春/大室寿俊
 怪男児日の丸/勝永裕幸      私の初日の出ポイントです。天気がいい日に今年は行こう!
 南野誰兵衛/杉田和久IMG_0726

松岡正剛さんに感謝をこめて。  原健太郎

 編集者、著述家として活躍した松岡正剛(まつおかせいごう)さんが、8月12日、肺炎のため亡くなった。80歳だった。本日(8月21日)午後、いっせいに訃報記事が配信された。
 松岡さんにはとうとうお会いする機会を逸したが、拙文が収められた初めての本『反構造としての笑い ――破壊と再生のプログラム』(NTT出版、1993年)を編集していただいた大恩がある。わたしは3社目の出版社に転じてまだ日の浅い、37歳の若造だった。
 荻野アンナ、桂枝雀、田中優子、藤井康生など、総勢11名の執筆者が「笑い」について論じた本書は、文化人類学者(当時・東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所所長)の山口昌男の監修によるものだった。わたしが同じNTT出版から『東京喜劇 ――〈アチャラカ〉の歴史』を著す1年前のことで、この本の原稿コピーや、それまでに書き散らかした喜劇に関する雑文を、担当編集者経由でご覧になった松岡さんが、監修の山口さんにご推挙くださったのである。
 このころ山口さんが、エノケンこと榎本健一の片腕といわれた劇作家・菊谷榮(きくやさかえ)について、資料収集につとめられていることを仄聞していたわたしは、山口さんが「喜劇に関することを、好きなように書いてもらってください」とおっしゃっていたと、松岡さんを経て担当編集者から聞かされ、執筆依頼を快諾した。わたしが小さな雑誌に書いたエノケンの評伝を、山口さんがお読みくださっていたことを知ったのは、ずっと後になってからだ。
 松岡さんは『反構造としての笑い』の「編集後記」の冒頭で、次のように述べている。
「90年代にはいって笑いは衰退したのではないかという意見を何人かの方からうかがった。果たしてそうなのだろうか――そんな疑問から本書は出発している。監修を山口昌男先生にお願いしたのも、先生が、笑いの本質へ迫る方法論とともに、現代の社会的・文化的状況に対する広く鋭い目をおもちになっているからにほかならない。知識工学から落語の技法まで、本書がさまざまなテーマをくりひろげるにいたったのも、もっぱらこの事情によっている。」
 この本に、わたしは「東京喜劇に未来はあるか ――『ドタバタ喜劇』待望論序説」と題し、1970年代中頃から90年代にかけて跋扈しつづけている「ドタバタ喜劇もどき」を糾弾し、「東京喜劇」のテイタラクとひとすじの希望について綴った。その結びに、
「『ドタバタ喜劇』はもっともっと凄まじいものであるはずだ。もっともっと大きな感動を私たちにあたえてくれるはずだ。
 いつの日か、きっと東京喜劇が逆襲するときがくる――そう信じている。」
 と書いた。
 実は松岡正剛さんには、それから7年後に、もう一度、うれしいプレゼントをいただいている。松岡さんがライフワークとして配信しつづけた書評サイト『松岡正剛の千夜千冊』に、わたしが勤務先で編集担当した、立川談志『童謡咄』(くもん出版、2000年)を採り上げてくださったのだ。もとより談志ファンを公言する松岡さんだが、数ある談志の著作のなかで、「千冊」の席をいただけた唯一の書がこの本である。
「本書には、童謡をめぐりながらも童謡の奥にある日本人の心情をなんとか伝えようとする責任感のようなものを、感じた。それを一言でいえば『はかない自然』『せつない童心』というべきか。」
『千夜千冊』で、松岡さんはこのように評してくれた(一部抜粋)。
 ただただうれしかった。
 だが、話はここで終わらない。翌年正月のNHK-BS番組で、松岡さんは著者の談志さんと、『童謡咄』をめぐって対談までしてくださったのだ。談志さんも、とても喜んでくれた。わたしは「仕事が認められた」という喜びに、それまでのおびただしい胸のつかえが、音を立てて下りた気がした。
 懐かしいようで、ついこのあいだのような、まるで夢のごとき出来事だ。しかしそのお蔭で、わたしはその後も、ちっぽけな自信を胸に、前に向かって歩んでいけたのである。
 心からの感謝をこめて。   (第1期)

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山口昌男監修・松岡正剛編集『反構造としての笑い ――破壊と再生のプログラム』(NTT出版、1993年)
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立川談志著『童謡咄』(くもん出版、2000年)

昨年は、長かったコロナのトンネルの先に、ようやくぽつりと明かりが見えた年でした。
皆さんのお仕事や日頃の活動、そして、かねてからの企みごとにも、今年はいっそう拍車がかかり、前進が期待できることでしょう。

2017年に開設した本ブログも、早いもので7年目に突入。
これからも、騒動舎OBOGの〈交流の場〉として、大いに機能できるようつとめてまいる所存です。皆さんのご参加を、心よりお待ちします。

本年も、何卒宜しくお願いいたします。

2024年 元旦 

 

【騒動舎リターンズ】

  大森美孝

  原健太郎

  室生 春/大室寿俊

  怪男児日の丸/勝永裕幸

  南野誰兵衛/杉田和久

 

ポール・牧とその喜劇 ダイヤモンドの詰合せセット 💎20/最終回💎  原健太郎

 ◆「一対のわらじ」

 僧名熈林一道(きりんいちどう)を授かってからのポールさんは、「仏の道を説き、笑いでこころを癒す芸人」(作家安部譲二が、ポールさんの熈林一道名義の著書『藝禅一如』〈国書刊行会、1997年〉の帯に寄せた言葉)として、さまざまな土地に出向き、講演活動をおこなった。テーマは、人として生まれたことを喜び、己の命を大切にしよう、というものだ。それは、かつて押し寄せる苦しみに耐えきれず、人生に終止符を打つべく図った「浅はかな行動」(ポール・牧『今日ただ今の命 ――さて、どう生きる』「はじめに」佼成出版社、1998年)、つまり、九州で起こした自殺未遂騒動を猛省するところから語り起こされた。
 たまたまわたしの伯父(ポールさんよりひと回り以上年長)が、そうした講演のひとつに接する機会があり、たいへん感激したと言っていた。
「僕が劇団で演じた人物に弱虫弱之進がいます。下級武士の彼は皆から弱虫と貶(さげす)まれ、弱之進と侮られます。しかし、僕はこの架空の人物に真の愛と勇気というものを託しました。
 弱虫弱之進は観客にこう語りかけます。
『もしあなたが誰かを怨むことがあるなら、怨む代わりに愛してはいかがでしょうか。愛して愛して愛しぬくのです。やがてその愛はもっと大きな愛となって自分に返ってまいります。返ってくるものが愛であれば、人は何ものも怖れることなく生きることができましょう』
 僕は劇団の挫折で自殺未遂に追い込まれましたが、弱虫弱之進が語りかけた言葉は今も心のなかにあっていささかたりとも衰えてはいません。
 この芝居を観て非行から立ち直った少年がいた。自殺を思い止まった人もいた。僕にはそれが嬉しくて仕方ないのです。」(ポール・牧『指パッチン人生論』世界文化社、2000年)
 持ち前の笑顔とともに、このようなメッセージを人々に語り伝えていたポールさんが、ふたたび自ら命を断つことになるなど、誰が想像しえただろう。
 2002年11月、曹洞宗関係者や芸人ポール・牧の後援者らの尽力により、茨城県鹿嶋市に司友山一道寺が創建され、ポールさんはその住職に就任した。わたしはそのとき、これで落ち着いて仏道と笑道に邁進してもらえるものと、安堵と祝福の気持ちでいっぱいだった。ポールさんの長年の夢が現実のものになったのである。11月24日にとりおこなわれた落慶法要にも、遠く鹿嶋の地まで出かけた。風が強く、肌寒い晩秋だった。
 時がいたれば、『弱虫弱之進』はかならず帰ってくる。そう信じていた。本稿の「はじめに」で書いたように、ポールさんは、これまで、かならず「〈宿題をする人」だったからである。
  現在(2008)までつづく第何次だかの「お笑いブーム」が、2003年頃に始まった。『エンタの神様』(日本テレビ系)、『笑いの金メダル』(テレビ朝日系)、『爆笑レッドカーペット』(フジテレビ系)などのバラエティ番組から、数多くの人気者が生まれた。この間、ポールさんは、鹿嶋のお寺を終の住処と定め、忙しくしている……はずであった。
 わたしはといえば、2003年10月11日に浅草東洋館で開催予定の『エノケン生誕100年祭』 (東京喜劇研究会企画、東洋興業制作)の準備のため、その半年ほど前から毎日をばたばたと過ごしていた。会社勤めという本業をもちながら、わたしは、このイベントを企画した東京喜劇研究会の事務局担当だった。エノケンこと榎本健一が満百歳を迎えるのは翌年だったが、祝い事は前倒しでやるのがいい、という諸先輩の意見にしたがい、開催を決めた。もちろん、東洋興業の会長、社長にご賛同いただき実現できたことだ。
 さいわい多数のメディアが応援してくださり、イベントの告知を兼ねたエノケンに関する原稿を、新聞や雑誌にいくつも書かせていただいた。エノケンのご遺族やご協力くださる方々との打ち合わせ、そして埋もれていた資料の整理なども、この時期に研究会の仲間たちとともにおこなった。好きでやっていることなので、決して辛くも苦しくもなかったが、夜なべで原稿を書き、一睡もしないまま職場へ行くことが幾日もあった。
 イベント当日は、ポールさんにも会場に来てほしいと願っていた。ポールさんは、エノケンの晩年に付き人をしていたことがあり、この稀代の喜劇俳優を心から尊敬していた。実は、このイベントを企画した東京喜劇研究会が結成された1999年4月の段階で、わたしはしかるべきときにはかならず顔を出してほしいと、ポールさんにお願いをしていた。そしてポールさんも、これを快諾してくれていたのである。しかし、お寺に宛てて手紙を書いても、いっこうに返事はなかった。よほど忙しくしているのだろうと、直接電話をするのは控えた。
 翌2004年10月29日、エノケン満百歳の年に、こんどは『続エノケン生誕100年祭』と銘打ち、ふたたび東洋館で記念イベントを開催した。だが、このときは、「あて所に尋ねあたりません」の印が付けられ、出した手紙がそのままもどってきてしまった。
 お寺を開き、住職におさまってから、初めて迎えた2003年の正月。初詣におとずれる参拝客もそれなりにあったそうだ。だが、それから間もなく、ポールさんは、お寺の仕事を何もかも放り出し、東京に舞いもどっていたのである。二つ目の手紙が、誰にも読まれることなく返送されたのも仕方のないことだった。
『続エノケン生誕100祭』が終わって2か月ほどが過ぎた頃だった。夕方、職場にポールさんから電話が入った。第一声が、「原くん、怒ってる?」であった。やけに明るい声だった。そして、「今のお笑いに我慢がならない。そこで相談があるんだ。今夜会えないだろうか」と言った。
「怒ってる?」とたずねられ、わたしは「いや、そんなことはないですよ。ただ、連絡がつかなかったので、ずっと心配していました」と答えた。もちろん、本音ではない。おそらく、とっさに口を突いた、ポールさんへの精一杯のねぎらいだったと思う。
 わたしは、たしかに、ポールさんに対して「怒って」いた。それは、二度にわたる『エノケン生誕100年祭』への出席を反故にされたことではなく(第一、2003年の手紙さえ、手元にわたっていたのかどうかわからない)、もっともっと根深いものだった気がする。だがこのとき、わたしはまだ、「笑いの道と仏の道は、ぼくにとっては一対のわらじなんです。二足のわらじというのとはちがって……と、つねづねポールさんが語っていた、一対のわらじの片方、すなわち「仏の道」を、とうに放り出していたことを知らなかった。だから、こうしたタイミングで電話をもらい、ポールさんが「今のお笑い〉」などに関与しようとしていることが、唐突に思えてならなかったのだ。
 ポールさんがお寺を出て、ふたたび西新宿のマンションに住まわれていたことも、わたしは、のちのち事件が起こったときも知らなかった。まだ鹿嶋にいるものと思っていた。「自宅マンションから……」という自死の報道に接し、わたしはてっきり、何度も訪れたことのある、懐かしいお住まいのことだと思い込んでいたが、それは、同じ西新宿でも、かつて3人目の奥様と暮らしていた自宅兼事務所とは、別のマンションだったようだ。
 その晩は、たまたま職場の用事が入っており、再会は後日ということになった。マネージャーと名のる人が電話を替わり、携帯電話の番号を告げられたが、わたしの方から電話をかけると言いながら、時間が過ぎていった。
 なぜすぐに電話をかけて、ポールさんに会いに行かなかったのだろう。なぜ「後日」などと、あいまいな約束をしてしまったのか。いや、たしかに、こちらの「怒り」の正体を見きわめ、心を落ち着かせるために、いくばくかの時間が必要だったかもしれない。だがそんなことよりも、ポールさんの身に何があったのか、これから何をしようとしているのかを、急いで確かめるべきであった。大学2年生のわたしが、思いがけず電報をもらい、東京新喜劇の旗揚げの準備に燃えるポールさんに、初めてお会いしたときのように。このことは、今も悔いている。
 しかしながら、「原くん、怒ってる?」……それが、ポールさんと交わした最後の会話になった。約4か月後、ポールさんは亡くなった。
 1995年5月にポールさんが上梓した『生きるための言葉』(河出書房新社)には、恥ずかしながら、わたしも登場している。かつて、わたしが差し上げた手紙の一節、「ポールさんがいて、『東京新喜劇』という劇団がある――。私の東京喜劇へのこだわりと期待のすべてはそこにあります。」を受けて、ポールさんは次のように記している。
「このような身に余る、そして熱いメッセージを受けた私は、この東京で喜劇役者として生きてきたことの幸せを、どんなものにも代え難く受けとめさせて戴いたのだ。(中略)
 大学生の頃からの氏を知っている私は、氏がこだわりつづけている、喜劇を対象とした真摯な活動と問いかけに、一貫して励まされ続けてきた。(中略)
 氏のその熱き思いに訣別を告げさせないためにも、私は己の喜劇役者としての歩みを急がせなければならない。」
 今、このページをあらためて読み直し、言葉を失っている。
 ポールさんは、ポールさんなりに、精一杯「喜劇役者としての歩み」を進めていたのだろう。劇団運営のために莫大な借金をつくり、仲間たちから陰口を叩かれながら、それでも、少年時代からの夢を叶えたポールさん。しかし、その仏の道で、またもや現実に直面し、挫折を味わうことになったのだろう。自分の不心得ゆえの顚末だったかもしれない。
 だが、それでも、ポールさんは喜劇を決して忘れてはいなかった。それは、大劇場の舞台に立って万雷の拍手を浴びたいとか、大きな財を得たいなどという、俗な芸人にありがちな、ぎとぎとした野心とは、まったく無縁のものだったように思う。少なくとも、最後に電話をもらったときのポールさんは、心の底から「喜劇を演じたい」と思っていたにちがいない。そうでなければ、わたしのような者に電話をかけてくるはずがない。
 それなのに、わたしは、「ポールさん、〈宿題はどうしたんですか。……そうですか、そんなに辛かったら、もう少し先に延ばしたっていいんですよ。でも、わたしは、いつまでも待ちつづけていますよ。ポールさんは、わたしとの約束を、一度だって破ったことはないんですから。」
 そんなことばかりを、ずっと言いつづけてきた。重い重い荷物を一身に背負わせていることに、これっぽっちも気づかないまま。最後の最後まで、ポールさんは、わたしの前では明るかったから。
 もしかすると、ポールさんを死に追いやってしまったのは、わたしかもしれない。(了)    
  【2
008331日発行「笑息筋」第238号所収】
(第1期)

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ポールさんからいただいた最後の手紙(2002531日消印)
 2002531日発行「笑息筋」第168号に、わたしは「清川虹子さんの死を悼む 喜劇に生き、喜劇に死す。」と題し、524日に89歳で亡くなった清川虹子について少し長めの文章を書いた。それをお読みくださったポールさんからの手紙である。
 そこには、「心の中にぽっかりと穴が開いております。この寂しさは埋めようがありません」という書き出しで、ポールさんが慕っていた清川虹子の死を悲しむとともに、お寺の完成が11月に決まった喜びがつづられている。
「けれど、さまざまな苦悩の中で、今回の原さんの記事は小生に清川ママを通して大きな活力を与えて下さいました。
 御礼を申し上げるべきは当方でございます。(中略)
 中味の共なった良き僧となる事で応援して下さる皆様に応えたいと存じます。
 近々御目通り叶うならば幸甚と希っております。」
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20021124日、鹿嶋市の司友山一道寺でおこなわれた落慶法要のひとこま。
 一道寺の本堂の前で、曹洞宗の僧侶や檀家総代らと居並ぶポールさん(前列右からふたり目)。鏡開きなどのセレモニーの合間に、境内に設置されたステージでは、ポールさんの師匠はかま満緒の祝辞や、綾小路きみまろらによる演芸が披露され、お祝いに集まった人々を楽しませた。
 元コント太平洋のなべ雄作さんや、ゆーとぴあのホープ(城後光義)さん、一道寺の開山にも力を尽くしたリッキー遠藤さんとも、ひさしぶりにお会いすることができた。本堂の真新しい畳の上で、ポールさんとわたしの妻と3人で記念の写真を撮っていただいたのが、ポールさんとお会いした最後になった。 

ポール・牧とその喜劇 ダイヤモンドの詰合せセット 💎19💎 原健太郎

 ◆戦友の死 

 ひとり芝居『死刑囚 島秋人の生涯』を初めて舞台にかけた年、19941211日、レオナルド熊が膀胱がんのため死去した。59歳だった。東京新喜劇旗揚げ直後の大切な座員のひとりであったが、 コント・レオナルドが人気を集めはじめた頃から、ふたりの関係がややこしいものになったことは、すでに記したとおりである。
 レオナルド熊とは、当然のことながらポールさんを通じて知り合ったわけだが、わたしは別にポールさんの弟子でもなければ一門でもなかったので、レオナルド熊もまったく警戒心をもたずに接してくれたように思う。出会ってからしばらくたったある日、わたしが絵本や児童読み物の出版社に勤務する編集者であることを知ると、画家の弟さんを紹介したいと言った。
「売れない絵描きをしているんだが、一度会ってもらえないかな……
 そのときのレオナルド熊の、何とも恥ずかしそうな表情を、今もよく覚えている。レオナルド熊に同道してもらいお会いした弟さんは、すでに何冊もの絵本を出版されている方で、「売れてないのはどっちですか?」と、軽ロをたたいて笑い合った。その弟さんとは、それから何度も仕事をさせていただいた。今も親しくさせてもらっている。
 それからまもなく、『花王名人劇場』
(フジテレビ系)の出演を機に(初出演は1980年7月)、レオナルド熊は時代の寵児さながら、売れに売れ出した。
 ふたりで原宿にある弟さんの事務所をた訪ねた日、レオナルド熊は、つい数日前に『花王名人劇場』の番組スタッフから出演オファーがあったことを、うれしそうに報告してくれた。相棒は石倉三郎だったが、このころは、まだコント・レオナルドではなく、形式上はポール・牧一門で、ラッキー・パンチというコンビ名だった。レオナルド熊はラッキー熊であり、石倉三郎はパンチ三郎といっていた。
「ぼくも、このままじゃしょうがないからねぇ……」「そりゃそうですよ。しかし、熊さんがテレビに、それも、『花王名人劇場』に出演する日がくるだなんて、想像もしていませんでした。お茶の間には不釣り合いのコワイ顔……、あ、いや、失礼しました。それにしても、澤田さんはほんとうによくアンテナを張っていますねえ」「いやいや、ぼく自身もそう思っていたんですよ。澤田さんという人のことは直接知らないんだが、よくぞこんなモノを見つけてくれたもんだと思うよ」
 念のため、「澤田さん」とは、『花王名人劇場』の企画者でチーフ・プロデューサーの澤田隆治のことである。かつて『てなもんや三度笠』のディレクターであったことで知られている。
 弟さんの事務所を出てから、
そんな話をしながら、わたしたちふたりは原宿から千駄ヶ谷方面まで、長い時間散歩をした。季節は春で、街の緑がきれいだった。千駄ヶ谷駅近くの喫茶店でひと休みし、コーヒーを飲んだあと、少し早い夕食をとった。それからまた、おしゃべりをした。「実はぼくも、若いときは絵描きになりたかったんだ。漫画を描いていたこともこともあるんだ。ヘタクソな漫画をね」「へえ、それは知りませんでした。また描いたらどうですか」「いやあ、そっちの方は弟にまかせたよ」。あげくに、「――さん、もしよかったら、スパゲッティ、もうひとつどう?」
 ぼくが「弟さんを、ぜひご紹介ください」と言い、それが実現できたこと。そして、『花王名人劇場』への出演依頼。レオナルド熊は、ほんとうにうれしそうだった。楽しそうだった。店を出たときは、表はもうほの暗くなっていた。
 ポールさんは、わたしがレオナルド熊と親しくつき合うようになり、劇団(劇団7曜日)旗揚げの計画を早くから耳にしていることなどを知っても、別に何も問わなかった。わたしの前では、ふたりはいつも紳士的だった。ふたりが罵り合うような場面には、一度も遭遇したことはない。だが、双方を知る若い芸人たちや芸界関係者からは、ずいぶん物騒な話を聞かされていた。わたしが、業界ちがいの一介のサラリーマンであったことが幸いしたのだろう。
「あんなの! だって、オレ達の真似から出発してきたじゃないですか。レオナルド熊が、関さんと同じカッコして、そこから発想してきたじゃないですか。」
 レオナルド熊を認めることのできない理由を、このように語気荒く語ったポールさんだったが(「カジノ・フォーリー」第2次創刊号所収のロング・インタビュー、吐夢書房、19921月発行)、ライバルの早すぎる死を、どのように受け止めたのだろうか。
 いずれにしてもポールさんは、レオナルド熊亡きあとは、なおさら東京新喜劇の立て直しに奮起しなければならなかったはずだ。ところが、『死刑囚 島秋人の生涯』という、喜劇とは真逆と思われる芝居に一生懸命だったのである。芝居の出来栄えこそ素晴らしいものだったが、当初、その心の内が理解できなかったわたしは、前述(連載〈17のように、どうせなら弱虫弱之進でひとり芝居をやってほしかった、などと生意気口を叩いたのだ。
死刑囚 島秋人の生涯』の初演から1年が過ぎたころ、ポールさんから手紙が届いた。そこには、「弱虫弱之進のひとり芝居、胸の高なる夢であり企画です。きっと実現します。」(19951231日消印)とあった。
 だが、その後、わたしは舞台の上を、あわてふためき走り回る弱虫弱之進の姿を、ふたたび目にすることはなかった。
『弱虫弱之進』が足踏みをしているかに見えた、1996年秋、ポールさんは、曹洞宗専門僧堂可睡斎(静岡県袋井市)で再得度・法戦式を果たし、晴れて僧侶として立った。僧名は熈林一道(きりんいちどう)。かねてより、仏道と芸道は「この世に生きる人々に生きる喜びを与えること」という点で共通している、との信条を吐露し、「笑道仏心」を座右の銘としていたポールさんが、ついに本物のお坊さんになったのである。
 北海道の貧しい寺に生まれ、少年時代に得度したものの、仏道修行に挫折して芸界にすすんだポールさんは、僧侶となった兄をことさら尊敬していた。半年ほど前に、その兄に突然先立たれてからは、仏門へのあこがれをいっそう募らせていったようだ。この頃のポールさんは、これらの準備のために、本当のところ、頭のなかは喜劇どころではなかったのではないか、と思う。  2008331日発行「笑息筋」第238号所収】
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騒動舎
20周年記念特別版「舎の光」(19957月発行)
 199578日の夕刻より、品川プリンスホテル新館17階大磯の間で、明治大学騒動舎20周年記念パーティーが催された。筆者たち第1期生から、この年の春に入学した第21期生までが、大きな会場に参集した。このとき、ポールさんもゲストのおひとりとして出席してくださり、お祝いの言葉をいただいた。
 当日の出席者に手渡された特別版「舎の光」(騒動舎の何代目かの機関誌)には、騒動舎の20年間の歴史をたどる貴重な資料や、現役とOBOGの舎員名簿が完備されている。そこにポールさんは、原稿用紙ペラ2枚にわたる「嗚呼、この喜劇への血の騒ぎよ」と題する原稿を寄せられた。ポールさんがご自分で記された肩書は、「喜劇役者」である。
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特別版「舎の光」本文。
 ポールさんは、忙しいなか、FAXで原稿をお送りくださった。「舎の光」には、その原稿がそのままのかたちで掲載されている(右ページ上)。一部を紹介しよう。
「胸熱く、煌めくような青春であった。理想を語り夢に向いひた走った日々が在った。共に笑い、涙を共有した仲間が居た。
 明治大学騒動舎はまぎれもない私のロマンとポリシィへの架け橋であった。」
 なお、ポール・牧さんについては、「笑息筋」の連載が終了してから、しばらくのちに出版された、矢野誠一『にっぽん藝人伝』(河出文庫、2013)に、「エネルギッシュなコントに魅力」と題した、素敵な文章が収められている。巻末の解説はわたしが書かせていただいており、そこでもポールさんについてふれた。ご覧いただけたらうれしい。

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