こんにちは。
 わたしたちは、1976年4月、明治大学に産声をあげたサークル「騒動舎」で、ともに青春時代を過ごした者たちです。昨年は創立40周年の年でしたが、本体は10年ほど前に瓦解しており、現在、明治大学に、「騒動舎」を名のる学生グループは存在しません。
「騒動舎」は、劇映画(8ミリ)の制作と、喜劇の上演(演劇部「イズミ・フォーリー」)を2本の柱に活動をつづけ、学生映画界・演劇界にささやかな足跡を残しました。その孤高の芸術は、全国の若者たちを刺激し、「おらぁ、騒動舎に入りたくってよぉ、三浪して明治大学さ入学しただぁ……」といった、屈強な精神の輩まで現出させるほどでした。20世紀末に端を発する東京一極集中化問題と、わが「騒動舎」は、決して無関係ではないのです。
 
 あの日、まぎれもなく青年だった創立メンバーも、40年の歳月をへて、みな、還暦でこぼこの年齢に達しました。それぞれ、出会いと別れを繰り返し、世界でたったひとつだけの人生を、どうにかこうにか歩んできました。
 
 この間、大切な仲間を幾人も失いました。
 創立メンバーの山崎信二くんも、そのひとりです。2015年7月に59歳で亡くなった山崎くんは、映画や演劇について、ノーガキばかり並べ立てる者たちのなかで、唯一、カメラを回し、録音機材を操ることのできる人でした。そんな山崎くんに、わたしたちは、「メカ山」の愛称を捧げました。
「騒動舎」が初めて制作した映画『僕の日曜日』(1976年)では、録音。第2作『あのころ二人は』(1976年)および、第3作『夏の終曲』(1976年)では、監督。第4作『世界中で一番素敵なあなた』(1977年)では、撮影を担当しました。また、「てんこう劇場」と称する自前の劇場(明治大学和泉校舎2号館裏の芝生の植え込み)での公演をもっぱらとしていた「イズミ・フォーリー」では、裏方を一手に引き受けるなど、「騒動舎」の黎明期において、映画・演劇両面で重責を担いました。山崎くんがいなければ、映画も演劇も、ただの1作もつくりあげることはできなかったでしょう。「騒動舎」が30年におよぶ歴史を刻むことなど、なかったにちがいありません。 
 大学卒業後の山崎くんは、「騒動舎」の行く末をつねに温かく見守り、声援を送っていました。「騒動舎を誰よりも愛した人」といっても、過言ではないでしょう。しかし今は、そんな山崎くんと、昔話に花を咲かせることも、あの頃のように、夢を語り合うこともできません。それが悔しくてなりません。
 
 山崎くんは、もう、この世にはいません。けれど、今はいない山崎くんと、何かいっしょにできることはないだろうか。そんな思いが沸き起こり、このグループ、「騒動舎リターンズ」は結成されました。
 笑顔の山崎くんに再会できるような、何か楽しいイベントを、できれば年内に開催しようと計画しています。今年は、山崎くんの三回忌の年です。
 これを機に、山崎くんが活躍した時代の「騒動舎」を知る人びとと、旧交を温めたいと願っています。あのころ、「騒動舎」のメンバーだった方、何かの事情で、途中で辞められた方も、みな、同じ仲間です。創立時のことなどご存じない後輩諸君にも、参加していただけたら幸せです。「騒動舎」の映画や、イズミ・フォーリーの芝居をご覧くださった方々にも、声をかけられたら、と企てています。
 
 このブログは、在りし日の「騒動舎」にかかわった、すべての人びとの交流の「広場」です。ぜひ、ご参集ください。借金の申し込みはしませんので、ご安心ください。
 
 みなさん、「騒動舎」が、また動きはじめました! 

   2017年5月

                         【騒動舎リターンズ】             
                          大森美孝 (騒動舎第1期)
                          原健太郎 (騒動舎第1期)
                          室生 春=大室寿俊 (騒動舎第1期)
                          怪男児日の丸=勝永裕幸 (騒動舎第2期)
                          南野誰兵衛=杉田和久 (騒動舎第2期)

 大学選手権優勝おめでとうございます。
 もう一か月近く前のことで試合内容もよく覚えてませんが、ラグビーファンとしてまずは書かないとね。

 バイトが一段落してやっとブログに向き合える余裕ができました。午前中に終わるバイトだったので午後は沖縄中北部を散策しようとしていたのですが半日で平均一万五千歩というハードワークで、さながら肉錬になってしまいました。おかげさまで血圧以外の数値は正常値になりました。少し休んでまた健康にために何かできればと思っています。


 そんなわけで久々のマイペースでの毎日の中、昔の映画を3本観ました。「フォロー・ミー」と「明日に向かって撃て」「旅情」。昔感動したのって見直すと<あれっ!>ってのがあるので怖かったのですが、この3本は新しい発見があったりして期待を裏切られることなく充実の3本でした。
 現役のころ仕事が行き詰まると書きなぐっていたeverything became possible というフレーズは「フォロー・ミー」のセリフにありました。「明日に向かって撃て」ラストがストップモーションになるところ、雑誌「映画評論」での今野雄二さんの<二人が死ぬところは見たくない>という批評を思い出しました。「旅情」キャサリン・ヘップバーンの走る列車の窓から身を乗り出して大きく手を振り続ける印象的なラストシーンは健在でした。
 存在感の塊みたいなキャサリン・ヘップバーンのみならず、ミア・ファローもポール・ニューマンも改めていい役者だなと思いつつ、キャロル・リード、ジョージ・ロイ・ヒル、デヴィット・リーン監督の偉大さを再認識した次第です。


これから南風原イオンで開催中の沖縄が生んだ脚本家金城哲夫さんのイベントに行ってきます。
たわいもない近況報告でした。皆さんの近況も是非!!
それでは良き2026年を!!

大森美孝(第1期)


2026年、あけましておめでとうございます。

皆さん、どのような新年をお迎えでしょう。
昨年は、個人的にはつらいことの多かった1年でした。長くお世話になった方と、いくつもの別れがありました。体調もくずしました。年齢を重ねる、というのは、きっとこういうことなのでしょう。

しかし、今年は、心機一転、気分一新、捲土重来、反転攻勢、一心不乱、無我夢中……ドド、ドーンと、不意のイナズマのごとく、驚きと輝きに満ちた1年にしたいと思います。いや、そうでなくてはなりません。

なにしろ今年は、1976(昭和51)年712日に、わが「騒動舎」が明治大学の正式サークル(同好会)として認可されてから、まる50年の記念すべき年だからです。

わたしは、あの日の仲間たちの笑顔と、やや緊張したたたずまいが、今も忘れられません。
そして、翌年、いっそう多くの仲間たちに囲まれ、わたしたちは、青春の季節を、楽しく、有意義に過ごすことができました。 

……というわけで、皆さん、今年の「騒動舎リターンズ」の合言葉は、心機一転、気分一新、捲土重来、反転攻勢、一心不乱、無我夢中……に決まりました。ごめんなさい。今、勝手に決めました。ちょっと多過ぎて、わたしも覚えきれませんが。 

とにかく、健康に留意しつつ、「騒動舎」のかつての合言葉どおり、【跳んでも見ない!の心意気で、50年目の2026年を、精一杯生きぬきましょう。今年もどうぞ宜しくお願いいたします。 (記・原健太郎/第1期)

2026年 元旦 

 

【騒動舎リターンズ】
  大森美孝
  原健太郎
  室生 春/大室寿俊
  怪男児日の丸/勝永裕幸
  南野誰兵衛/杉田和久



和泉校舎2号館、溜まり場IMG_1013
今はもうない、明治大学和泉校舎2号館、そしてその1階廊下。奥の右側のベンチが、部室を持たない「騒動舎」の、溜り場兼印刷工場だった。いつ行っても、誰かがいた。 

音楽劇『エノケン』観劇記・市村エノケンに拍手喝采!/八千代ゆたか

 ホリプロ・東宝主催の市村正親さん主演の新作舞台、音楽劇『エノケン』は、芥川賞作家・又吉直樹さんが脚本を手掛け、演出は新進気鋭の劇作家・演出家・俳優のシライケイタさんということで話題に! そんなことより我らが原健太郎さん(第1期)が「題材監修」を担当されたので何が何でも観劇したい! 私は一般チケット発売日を指折り数えて心待ちにした。

 ところが発売日当日、慣れないネット操作に手間取り、タッチの差で入手することができなかった。一般より早く発売されたホリプロステージ会員の優先枠が多かったのかもしれない。やむを得ないことと諦めていたら、仲のよい友人が大阪公演のプラチナ・チケットをゲットしてくれたから、諸手を挙げて喜んだ。

 大阪城公園東側にあるCOOL JAPAN PARK OSAKA WWホール(1,144席)は超満員。女性が約9割。予想以上に若い女性が多く市村ファンの年齢層の幅広さに驚いた。市村さんの歌声は高音が伸びやかでホールに響き渡る。御年76歳とは思えないほど身が軽く躍動的だ。サービス精神旺盛で観客席に下りてきて一人一人と会話するように振る舞ってくれる。

 エノケンは舞台役者としての顔と舞台を下りたときの人間性の両面がある。戦争もあり、筆舌に尽くしがたい悲しみや苦しみを抱えつつ、家族に支えられながら困難を克服して再起を果たすエノケンに落涙を禁じえなかった。学生時代と同じことはできなくとも、今この歳に出来ることを精一杯やっているのか、真剣に生きているのかと自問自答する自分がいた。

 エノケンを陰で支えた二人の女性を演じ分けた松雪泰子さんは楚々とした和服姿が昭和の女性の色香をよく表現されていた。早着替えで出たり入ったりが忙しい松雪さんにエノケン演じる市村さんが泰然自若として「お前、何だか忙しそうだね」と声を掛けると、客席は大いに受けた。
 キャストはたったの七人。エノケンの市村正親さんと菊谷榮を演じた豊原功補さん以外、五人の俳優さんが二役以上を演じる舞台。観ている側(観客)として多少の戸惑いがあったのは正直なところ。ただ、芸達者な俳優さん揃いだからこそ演じ切られたわけでもあり、逆に大いに評価されるべきことかもしれない。

 少人数なので劇中劇やレビューなどの華やかなシーンはなく、市村さんの歌と踊りでエノケンの舞台を象徴する体裁だ。音楽劇であってミュージカルではないと納得したものの、4人編成のバンドが実に小気味よい。舞台両側に建っている昭和初期の趣きのある2階建ての洋館に演奏者が一人ずつ収まっていて、生演奏が立体的に会場内に響き渡った。

 さらにオリジナル楽曲「夢や」が素晴らしかった。これは同公演用に又吉直樹さんが作詞し、同バンドマスターの和田俊輔さんが作曲したもの。エノケンの生涯を象徴する楽曲として人生の喜びや悲しみをうまく表現していた。エノケンソング「洒落男」「東京節」「私の青空」「モンパパ」などと、まるで違和感なく融和しており見事な出来栄えだった。

 全体を通して惜しむらくは最愛の息子(鍈一)を亡くし、ともに悲嘆に暮れた前妻(喜世子)と別れ、よしゑ(あい子)と再婚した事情が深く描かれておらず、個人的には少々残念だった。さらにエンディングの猿蟹合戦のシーン。これは又吉直樹流の「笑い」なのだろうが、賛否両論に分かれるところであろう。

 観劇した11月9日は大阪公演の千穐楽だった。カーテンコールで市村さんが出演者全員を紹介。皆さんやり切った感で晴れ晴れとしていた。幕が下りてもアンコールに次ぐアンコール。それに呼応して再び幕が上がり、座長・市村さんのウィットに富んだ挨拶が笑いを誘い、最後は観客席総立ちのスタンディング・オベーションだった。

 市村さんは舞台人としての偉大な先輩である喜劇王・榎本健一を演じることを心から愉しんでおられる様子がしっかりと伝わってきた。そして近い将来、再演を果たしたいという強い意欲が垣間見えた。今後、脚本・演出に少しずつ手を加えながら公演を重ねれば、さらに奥深い人間ドラマ「エノケン」に成長するのではないかと期待を抱かせた。

 興奮さめやらぬ終演後、ホワイエでプログラムを購入する。原さんの解説が4ページにわたって掲載されており、嬉しく誇らしく拝見させていただいた。原さんは2023年度後期放送のNHK「連続テレビ小説」いわゆる朝ドラ『ブギウギ』の「資料提供」でいらした。
 原さんの貢献があったからこそ、同ドラマで生瀬勝久さん演じたタナケンがエノケン再ブームの火付け役となり、本公演に繋がったものと確信している。今回の「題材監修」では史実に基づいた又吉直樹さんの脚本に大いに反映されていることを実感した。

 後日知ったのだが、東京公演の会場だった「日比谷シアタークリエ」は、東宝の演劇担当重役でもあった菊田一夫の肝入りで設立された、「芸術座」の後継劇場だったのだ。その舞台に市村さん扮するエノケンが再び立ったことは誠に意義深いことだった。エノケンの残した「お笑いの魂」は百年後、二百年後と後進に引き継がれていくことだろう。そんな価値のある舞台を心ゆくまで堪能させていただいた。(第4期/徳住ゆたか)


ピアノ1
◆エノケンが愛用したおもちゃのピアノ
 
片脚を失ってからも、劇場出演時には、弟子たちの手を借り、かならず楽屋に持ち込んでいたピアノ。いわゆる「音合わせ」のために使用した。エノケンが喜劇俳優であるとともに、ホンモノの歌い手であったことがよくわかる。音楽劇『エノケン』には、このピアノのレプリカが登場。エノケンの妻よしゑ(松雪泰子)が、長男鍈一(本田響矢)にせがまれ、鍵盤にやさしく指をふれながら『赤とんぼ』を歌う。写真は、エノケン劇団の元文芸部員より原健太郎に寄贈された、実際にエノケンが使用したピアノ。

 健康維持のため再開したアルバイトが思いのほかきつくて、2か月経過してようやく落ち着いてきた今日この頃です。沖縄に来て8年が経とうとしてますが今までは那覇を中心に生活してましたが、今度のバイト先は少し本島北寄りにしました。
 やはり景色が違います。
嘉手納基地と並行して走る国道58号線を北上し、沖縄戦で米軍が最初の上陸した読谷村を抜け、アーサーそばで有名ななかむらそばの少し手前が職場です。
 来沖する前、旅行では何回も走った道ですが、平均週4日通っていると8年間感じていた沖縄と違う沖縄を見ているなというのが実感です。自分の住む宜野湾から職場まで主に二通りの道があるのですがどちらも米軍基地を左右に見ながら走る行程になり、つくづく基地の島だなぁと感じます。先日は走行中の車の50メートル上(?)を戦闘機が嘉手納に着陸していきました。
 どの位バイト続けるかわかりませんが、通勤経路付近でまだ未開発の場所を探索してみようと少しワクワクしてます。
 それにしても原さんの記憶力にはいつもながら感心させられます。
 最近投稿のない勝永さん、杉田さんはお元気でお過ごしでしょうか。
 今日は梅雨前のまさにうりずんで沖縄の一番快適な時期です。
 私はまあまあ元気でやってます というご報告でした。         1期 大森

大注目の【エノケン】が今秋、舞台に戻ってくる!/八千代ゆたか

 2023年度後期放送のNHK「連続テレビ小説」いわゆる朝ドラ『ブギウギ』に登場した生瀬勝久さんが演じたタナケンこと棚橋健二こそが日本の喜劇王・榎本健一(エノケン)をモデルにした役柄だった。
 趣里さんが演じた主人公の福来スズ子(笠置シヅ子)に対してタナケンは一切指導をせず、正直、初めはとてもぶっきらぼうな態度を示していた。稽古が始まると、スズ子は台本にあった東京弁に違和感を覚え、大阪弁で演技をしてしまう。
「すんまへん! ワテ自信ありまへんわ!」と叫ぶスズ子にタナケンはビックリ。共演の男性劇団員は「おい、真面目にやれよ」と食ってかかったが、スズ子は標準語では自分らしさが出せないと訴える。スズ子が演じる役は新人女優であり、大阪弁の遠慮のない物言いはおかしいとさらに反論。ところがタナケンは「面白いね」と受け入れ、「もう一度やってみて。僕も何かできそうだから」と乗ってきた。
 稽古が終わり、喋りやすい大阪弁にスズ子がセリフを変えたことで男性劇団員がタナケン先生の台本を勝手に変えるなんて無礼だと文句をつけると、タナケンは「面白ければいいんです」「どうしてお客さんはボクの芝居を観にきてくれるのか、現実を忘れにくるのです。そんなお客様に当たり前のものを見せてもつまらないでしょう」と意に介さない。
 スズ子はタナケンを追いかけ、「舞台本番もこのままでいきまっけどホンマに大丈夫でっか?」と尋ねる。するとタナケンは「僕を誰だと思ってるんだい。喜劇王・タナケンだよ。幕が上がりゃ舞台は役者のものだ。玄人も素人も関係ない。好きにやりゃあいい。何をやっても僕が全部受けてあげるよ」と言い切った。
 元々歌い手だから、舞台の世界とは間が違う、リズムが合わないと各方面から指摘されて、スズ子はずっと思い悩んでいた。ところが本番ではタナケンとスズ子の軽妙な掛け合いが大ウケ! 大成功を収めた。
 本番後、タナケンは「君の芝居は間がずれている……だが、そこが面白い」とスズ子の魅力を解説。その面白さから観客は君(スズ子)から目が離せなくなっていると説明した。それは天性のもので、変える必要はないと伝えられたスズ子は嬉しくなり、「ありがとうございます!」と頭を下げた。ところが、タナケンは「礼は言わなくていい」と言う。「だって僕は今まで君に何も教えてないんだから」と強調。
 最初からその言葉を聞きたかったと笑うスズ子に、タナケンは「答えは自分で探し出すものです。何事も道のりは険しい。だからこそ面白い」と笑顔で伝えた。
 タナケンに痺れた??
 タナケンに惚れた??
 ボクと同じ気持ちになった視聴者も数多くいるはずだ。
 そのエノケンがこの秋、舞台に帰ってくる!!
 今回は芥川賞作家でもある芸人(ピース)の又吉直樹さんの書下ろしによる音楽劇『エノケン』として、当代きっての名舞台俳優、市村正親さんが演じるエノケンだ。
 朝ドラ『ブギウギ』の「資料提供」者としてエノケン登場週に必ずクレジットされた我らが原健太郎さん。今回の舞台では何と「題材監修」という役回りでクレジットされている。
 皆さんもご承知の通り原さんは浅草軽演劇やエノケン研究のプロ中のプロだ。朝ドラ『ブギウギ』の脚本や演出のどこまで原さんの影響が及んだのかは知る由もないが、視聴者を魅了したタナケンの粋な振る舞いやセリフにまで原さんの実力が及んだのではないかと勝手に想像している。
今秋の公演、音楽劇『エノケン』に大いに期待するものである。

八千代ゆたか/徳住ゆたか(第4期)

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公式サイト:https://horipro-stage.jp/stage/enoken2025/


走りつづける人……室生春との50年【後編】/原健太郎 

「騒動舎」結成以後
 1975年11月、大学入学後、初めての夏休みが明けてからまもない内に開催された駿台祭の会場(明治大学駿河台校舎)で、大森美孝、渋井正幸、わたしの広尾高校三人組、それに、わたしや室生春と同じ演劇学専攻クラスの山崎信二の5人は、「明大8ミリ映画研究会」を名のり、女優集めに奔走した。渋井の脚本・監督作品『僕の日曜日』の製作に向けて活動をスタートさせたのだ。主人公の青年役は、室生春が引き受けてくれた。この映画が撮影半ばで中断してしまったいきさつについては、当ブログ2017年5月3日付「騒動舎・黎明期の覚書...1」(by原健太郎)と同年10月29日付「横須賀ストーリーpart2」(by大森美孝)をご参照いただきたい。しかし、この挫折がジャンピングボードとなり、翌年(1976年)春、映画部・演劇部より成る「騒動舎」が生まれた。
 室生春は、演劇部の部長であり、劇団「イズミ・フォーリー」の初代座長だった。英語部とかけもちでの活動は、さぞや忙しかっただろう。そればかりか、授業にも真面目に出席し、教職課程まで履修。朝はラジオの英語講座に耳を傾け、夜は夜で舞台芸術学院に通い、俳優修業を基礎から始めていたのである。アルバイトだってしていたにちがいない。英語部が演じたミュージカル『Fiddler on the Roof』と『Man of La Mancha』は、わたしも見せてもらったが、どちらも稽古の苦労がしのばれる立派な舞台だった。
 大学のキャンパスで、室生春は、まるで海洋を泳ぐマグロのように、いつも動き回っていた。わたしたちの前で、ときおり立ち止まることはあっても、気がつくと、もうすでに速足で走り去っていた。たまさか遠くからわたしの姿を見つけようものなら、右手を高く掲げて満面の笑みで歩み寄る。そして、数十年ぶりの再会を喜ぶかのように、握手を交わすのだ。たとえ、前日、教室で会っていたとしても。
 新米俳優ばかりのイズミ・フォーリーにあって、室生春の存在は際立っていた。わたしをふくめ、他のメンバーとはまるでキャリアがちがっていた。幼稚園時代、『杜子春』の舞台で主役をつとめ、演じることの楽しさに目覚めたという。10代でギターを学び、やがて自作の曲を大勢の前で歌って聞かせるようになった。芸名の「室生春」は、その頃からのものだ。イズミ・フォーリーでは、誰かがセリフや出をトチると、舞台の上で何かの役に扮している室生春が、「もといっ!」と号令をかけ、台本の数行前から芝居をやり直させた。稽古の最中なら当たり前のことだが、室生春はこれを本番でおこなったのだ。そのような芝居を、わたしは見たことがなかった。わたしが書いたへたくそな脚本と、未熟な俳優たちによる喜劇の舞台を、少しでも笑えるものに、力づくでも楽しいものにしようと考えた、室生座長の試みだった。公演を重ねると、客席のほうから先に、「もといっ!」とヤジが飛び、会場が笑いにつつまれることもあった。
 騒動舎演劇部イズミ・フォーリーは、1976年7月、『笑劇・人間失格』(作・演出はらけんたろう)をもって旗揚げしたが、このとき、12月に予定していた第4回公演『騒動舎版ロミオとジュリエット コーヒーカップにこぼれた愛は霧の彼方に飛んでっちゃった』(作・演出室生春)の「予告編」を上演した。この時期、脚本など、まだ1行たりとも書かれていないはずだが、ハイライトシーンを何場面か演じたのである。こうした度肝を抜く企画も、室生春の発案によった。「てんこう劇場」と名づけた野外劇場(和泉校舎2号館裏庭の植え込み)を会場とし、運動着姿の俳優たちには、必要最低限の小道具だけを持って舞台に立ってもらった。こうした冒険も、室生春の理解なくしては実現できなかった。
 小樽から上京した室生春は、ある日、アパートの部屋で、見たことのない虫を見つけた。それを捕まえ、虫かごに入れて大事に飼っていたそうだ。忙しさにかまけて、何日もエサをやらずにいたが、ずっと元気だったことに驚いたという。のちに、それがゴキブリというものだと知り、もう一度驚いた、と楽しそうに話してくれたことを覚えている。また、大切な大学受験の当日、極度の緊張のためか、朝から鼻血が止まらず、この大学とは縁のないものと思い、その日は1歩も外に出なかった、とも言っていた。こと演劇に関しては、つねに冷静沈着で思慮深い室生春にも、このような一面もあるのだ。
 1977年10月、イズミ・フォーリー番外特別公演として、室生春ショウ『恋の御案内』を、明大前キッド・アイラック・ホールで上演した。第1部喜劇、第2部室生春ライブより構成される長時間のイベントだった。騒動舎が経験する、外部劇場での最初の公演でもあった。第1部の『恋の御案内』(作・演出はらけんたろう)は、室生春が、たったひとりで5役を演じるミュージカル仕立ての喜劇だった。誰もがあこがれるスーパースターの初めての恋の相手は、とてつもなく足の速い少女だった......というナンセンスな物語で、上演時間は1時間45分。物語の設定や登場人物のキャラ付けなど、室生春と二人で時間をかけて話し合い、わたしが脚本にまとめた。長ぜりふのオンパレードだったが、室生春は、一言一句しっかりと憶え、稽古に取り組み、本番を迎えた。
 何曲もの魅力的な挿入歌があったが、もちろん、すべて室生春が作曲し、歌った。なかでも主人公のスーパースター水草異常となぞの少女ノイミーチェが、掛け合いで歌ったタイトルナンバー『恋の御案内』(詞・曲室生春)は、感動的だった。「君の笑顔さえあるならば 何もいらない この世はバラ色です あなたのそばにいられるなら 何もいらない この世はバラ色です 歌おうよ 愛のうた 踊りましょう 愛のリズムにのって......」。あの日からたいそうな時間が流れたが、いまもふと口ずさんでいることがある。男声(水草異常)と女声(ノイミーチェ)を瞬時に使い分け、早替わりをしつつ踊りながらの、ひとりデュエットだった。また、劇中のライブで水草異常がギターをかかえて歌った『私の道路』(詞・曲室生春)の面白さは、いまだに仲間内で語り草となっている。フランク・シナトラの『My Way』を茶化した楽曲だ。
 この芝居を創りあげていくなかで、二人で次のような会話を交わしたことを覚えている。「室生春という人はいいよなぁ。『あなたが好きです』と言うのに、3分もあればいいんだから。ぼくは、同じことを言うのに芝居を1本書かなくちゃならないんだ」「いいや。心から出てくる言葉を、ただ声に出しているだけだよ。それで、いくつもいくつも曲を作るんだ。考えてみたら、恥ずかしいことをやっているよね」。
 何ともかっこいい返答で、「ふぅん、そういうものなのか......」と、わかった気にさせられ、思わずうなずいてしまった。
 1978年、大学4年生の秋には、テレビ番組に出演して、日頃の「芸」を披露する機会を得た。二人ともすでに騒動舎の活動からは身を引いていたが、後輩たちに声をかけられ、番組にかかわることになった。わたしは、怪男児日の丸(当時3年生)、南野誰兵衛(同)、白雲なびこ(2年生)の3人が演じる『美徳のよろめき』というコントを書き、演出もおこなった。室生春は、1年生、2年生を中心とする多数の後輩をひきい、『雨に唄えば』のメロディにのせて群舞を演じた。局が用意した振付師とはひと悶着あったようだが、室生春による美しくダイナミックな振付がみごとだった。室生春といっしょに踊る後輩たちも、実に楽しそうだった。室生春とわたしの大学生活は、最後の最後まで、ミュージカルと喜劇とともにあった。
 卒業した年、1979年に、わたしは騒動舎の仲間たちに声をかけ、劇団「笑ボート」を結成した。室生春をはじめ、同期の大森美孝、山崎信二(当時、希望の就職が果たせず留年中)のほか、1年後輩の怪男児日の丸(4年生)、南野誰兵衛(同)、魚乃目かじる(同)、2年後輩の白雲なびこ(3年生)、3年後輩の大上亜紀(2年生)など、たくさんの後輩たちが参加してくれた。第1回公演は、この年の12月、千駄ヶ谷区民会館でおこなった『恋の玉手箱』(作・演出はらけんたろう)だった。室生春は、主人公の大金持ちの少年を演じた。笑ボートは1986年10月の第9回公演をもって解散したが、室生春は第4回公演『夕立ちドタバタ六本立てで雨やどり(コントの6本立て公演)』(1982年8月)まで演技陣の主軸として活躍し、また、演劇経験の浅い若手への指導にも力を注いでくれた。1982年3月の第3回公演は、騒動舎時代に上演した『恋の御案内』の再演だった。劇場も、初演時と同じ、明大前キッド・アイラック・ホール。初演から5年もたっていたが、室生春の肉体と歌声は、学生時代よりさらに輝きを増して見えた。
 1982年8月の第4回公演を最後に、室生春が笑ボートを後にしたのには、大きな理由がある。室生春はみずからの理想を追求するために、この年、ミュージカル劇団を結成したのである。現在の「劇団室生春カンパニー風の森」の前身「劇団TOTAL座北門」だ。以来今日まで、100回を優に超える公演を、大勢の若い劇団員をひきいておこなっている。脚本も演出も音楽も振付も、すべて自身が受け持ち、多くの作品で主演もつとめている。
 アマチュアリズムを標榜し、会社員や教員、学生らと、年に1回、2回の公演を遂行するのがやっとの笑ボートとは、演じている中身も劇団の方向性も、まるで異なるもので、室生春に去られた淋しさ以上に、それまで、笑ボートに費やしてもらった貴重な時間に思いを馳せ、申し訳ない気持ちでいっぱいだった。
 近年の劇団室生春カンパニー風の森の代表作と思しき『月下を駆ける少女 新宿花園町スパイラル』(室生春作・演出・音楽、2016年7月、ザムザ阿佐谷)を皮切りとする「宿命のロンド」シリーズは、あたたかなユーモアとさわやかなペーソスに彩られた壮大なファンタジーで、室生春が目指していた演劇のひとつの到達点ではないかと思う。言うまでもなく、そこには躍動感みなぎる音楽とダンスの楽しさが満ちみちている。このような作品は、笑ボートでは創作しようがなかった。人一倍情が厚いのに、押し付けがましさのまったくない、室生春という作家の人柄がにじみ出た作品群だと思う。
 わたしたちの盟友山崎信二が、2015年7月に59歳で亡くなったとき、彼を偲んで仲間たちで集まろう、どうせなら、歌あり笑いありの楽しいイベントを催そう、と提案してくれたのも室生春だった。それは山崎の三回忌の年、2017年12月に、「騒動舎リターンズ」旗揚げ公演『NO-TENKI NO LIFE』(西新宿花伝舎)として実を結び、これを機に、かつて騒動舎に籍をおいた人々が旧交を温めることとなった。
 この4月、室生春と出会ってから、ちょうど50年になる。室生春は、当然のように、いまも果敢に走りつづけている。コロナの時期をはさみ、近ごろは会って話をする機会も少なくなってしまったが、おたがい元気でいる内に、いつかまた、いっしょに芝居づくりをやってみたい、と願っている。わたしの方は、長く現場を離れ、もうだいぶ錆びついてしまったけれど。 (終)
 
原健太郎(第1期)  

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◆笑ボート第3回公演『恋の御案内』(1982年3月、明大前キッド・アイラック・ホール)に向けて、稽古に励む劇団の仲間たち
室生春のひとり芝居ゆえ、この公演では、みなが裏方をつとめた。稽古場は明治大学和泉校舎1号館教室。左より室生春、筆者(作・演出)、樋渡真司(美術/先ごろ、NHK朝ドラ『虎に翼』に東大教授役で出演)、吉田ビン(照明/室生春の英語部時代の後輩)、山崎信二(製作/騒動舎旗揚げメンバー、故人)、怪男児日の丸(舞台裏監督/騒動舎第2期)、平澤ちぎり(舞台監督/大学生。本公演より参加)。みなさんにお断りなく掲載の段、お赦しください。

 
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◆騒動舎映画『世界中で一番素敵なあなた』(1977年、脚本荻原博子、監督大森美孝、撮影山崎信二)のスチール
始終ぼうっとして歩いている主人公の大学生(筆者)に、危なくぶつかりかけ、「ぶあっかやろーっ!」と怒鳴りつける自転車の運転手。この役を、英語部の活動と重なり、大忙しだった室生春が演じた。わずか数秒のカットながら、「さすが、名優。背中で演技をしている!」と大評判。ロケ地は明治大学和泉校舎裏手の街路。

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◆騒動舎演劇部イズミ・フォーリー第6回公演『笑劇・ノアの方舟』(1977年4月、作・演出ポール・牧、明治大学和泉校舎内てんこう劇場)の1場面
ベンチの上で跳びはねているのが室生春(サラリーマン山田三郎)。左/怪男児日の丸(大学生湯川おでき)、奥/筆者(作曲家古賀まさか)。当時大人気の芸人、ラッキー7のポール・牧さんが脚本を書き下し、出演もしてくれた、難破した船の乗客たちが織りなす欲と欲の物語。和泉校舎の2号館裏庭に、およそ500名の観客が集まった。


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◆笑ボート第2回公演『恋の万年筆』(作・演出はらけんたろう、1980年11月、明大前キッド・アイラック・ホール)のダンスシーン
赤いジャケットを着ているのが室生春。女性問題をおこした人気評論家が逃避行に出た先は、4年に1度だけ現れる呪われた村だった、というドタバタ・ファンタジー。室生春は主役の評論家十郎を演じたほか、音楽と振付も担当。当時まだ高校生だったケラリーノ・サンドロヴィッチさんが、物語のキーマン、村に呪いをかけた森の妖精役を、白塗りをして熱演。
 

走りつづける人……室生春との50年【前編】/原健太郎 

 はじまりは藤山寛美
 1975年。大学1年生の夏休みに、わたしは室生春と大阪・京都への2泊3日の旅をした。目的は、当時、人気絶大だった藤山寛美ひきいる松竹新喜劇の舞台を、劇団本拠地の大阪道頓堀の中座で見物することだった。観客の注文に応じて、公演当日に演目が決まる「お客さまお好みリクエス芝居」(1971年4月~)をはじめとする、寛美主導の企画が次つぎとヒットし、このころ、松竹新喜劇は興行界でゆるぎのない存在に昇りつめていた。この年の10月には、朝日放送系(東京ではNET=テレビ朝日系)で『藤山寛美3600秒』なる舞台中継番組も、毎週放送されるようになった。東京でも、毎年夏、新橋演舞場で1か月間の公演をおこなっていたが、そちらの方は前年の浪人時代に1度だけ見たことがあった。北海道は小樽出身の室生春は、それまで松竹新喜劇のナマの舞台に接したことはなかったそうだ。
 出会ってからまだ数か月しかたっていないわたしたちが、いきなり二人旅を実行したのには、理由がある。たがいに受講した山田恒人助教授(当時)のプロゼミ(1・2年生に向けた少人数の演習授業)で、すっかり意気投合したからだ。入学後、すぐに英語部(ESS)に入り、ドラマセクションの活動に打ち込んでいた室生春は、プロゼミではミュージカルを研究テーマに掲げていた。毎週、この時間に喜劇や演芸の話ばかりしているわたしに、室生春は、「ぼくも、一度、寛美の舞台を見てみたいと思っていたんだ。こんど行くときは、誘ってよ」と声をかけてくれた。「それならいっそ、大阪の中座に行ってみないか」。こうして、話はたちまちまとまった。 
 このプロゼミには、わたしたちと同じ演劇学専攻の1年生が、ほかにも何人かいたが、おのれの研究テーマを明言する者は見当たらなかった。そのなかで、英語部の仲間たちと、早々とミュージカルの公演実現に向けて動き始めていた室生春は、異色だった。わたしはわたしで、喜劇、それも、エノケン・ロッパに代表される軽演劇なるものを学びたいと、たいそうニッチな思惑をもって大学に潜り込んでいた。それで、ミュージカルに一家言ありそうな室生春と親しくなり、知見を乞いたいと思った。浪人時代に得た浅い知識でしかなかったが、エノケンこと榎本健一と、彼を支えたスタッフらが、日本独自のミュージカルを打ち立てるべく、日々研鑽していたことを、わたしはうすうす確信していた。
 東京で生まれ育ち、映画や寄席見物のために、都内の盛り場をうろつき回るだけのわたしとはちがい、ボーイスカウト経験のある室生春は、とても旅慣れた感じだった。新幹線の切符も宿の手配も、事前の準備はすべてしてくれた。二人が泊まったのは、大阪の長居陸上競技場に併設されたユースホステルだった。わたしはこうした施設に泊まるのは初めてなので、よく耳にしていた、夕食後、ペアレント(ユースホステルの管理者)と宿泊客の間でおこなわれる、ギターあり、コーラスありの交流会のようなものがなきゃあいいなぁ、と願っていた。ここに2泊する予定なのだ。
 朝早く東京駅を出発した二人は、新大阪駅に到着すると、その足で道頓堀の中座に向かった。ところが、見物を予定していた夜の部の公演は、満員札止めとのことだった。劇場の前は、わたしたち同様、チケットを手に入れられない人々でごった返していた。新橋演舞場公演も盛況だったが、やはり、中座は別世界だ。当日券など、はなから用意されていないのかもしれない。この日(9月28日)は日曜日で、おまけに千秋楽であった。そんなことは、わたしの方で早く気づき、旅の計画に織り込んでおくべきだった。いったい何をしに来たのか。これでは、笑い話にもならない。
 しかし、室生春はあきらめなかった。どこでどうやって調べたのか、藤山寛美のマネージャーの連絡先を突きとめると、直接電話をかけ、何とか芝居を見せてもらえないか、と談判を始めたのだ。携帯電話などのない時代である。こちらが移動するたびに、あちこちの公衆電話からしつこく連絡をした。室生春が頼み込んだマネージャーは、住谷さんという男の方だった。さぞや驚き、いや、気色ばんでもいたことだろう。住谷さんも住谷さんで、見知らぬ若い者からの勝手至極な電話に、よくもまぁ、対応してくれたものだ。
 結局、この日、中座で松竹新喜劇の芝居を見ることは叶わなかった。当然であろう。仕方なく、翌日予定していたミナミ(難波・心斎橋・道頓堀・千日前界隈)とキタ(梅田界隈)の「見学」を前倒しにし、うめだ花月で吉本新喜劇の芝居を見た。大阪を代表する繁華街をぶらつきながら、わたしは、通りの両側からせり出しているにぎやかな看板に、「大阪」を感じた。中学時代、修学旅行で万博会場を訪れて以来の大阪だった。夕方チェックインした長居ユースホステルでは、さいわい、怖れていたイベントは催されず、さっさと眠ることができた。だが、やはり、旅のいちばんの目的が果たせなかったことは無念だった。
 翌日の朝、ユースホステルまで、室生春宛てに1本の電話があった。寛美のマネージャー、住谷さんからだった。明日(9月30日)おこなわれる、ところを京都南座に移しての舞台稽古なら見せてあげられる、という信じがたい報せだった。明後日(10月1日)初日を迎える南座公演に向けて、8本の喜劇の稽古を夜を徹しておこなうのだという。
 このときの体験を、雑誌『上方芸能』第106号(1990年12月発行、藤山寛美追悼特集)に記しているので、以下に引用したい。
「大学に入学した年のこと。昼夜を徹しての舞台稽古を見せてもらったことがある。寛美のマネージャー氏に再三お願いして実現したことだが、熱心な東京の学生ということで、寛美座長の了解をとりつけてもらった。
 ベテランの八木五文楽が、ひとつの小さな演技に対して寛美から何度も何度もダメを出され、悲壮感さえ漂わせて舞台に立っていた。寛美は静かな口調を次第に荒だてると、いきなり舞台にとび上がり、体ごと五文楽に教えこむような勢いで、その仕種を自ら演じた。素早い動きと確かなセリフを決めると、もう一度五文楽をどなりつけ、その場面の稽古を中断し、別の場面に移った。その間、舞台上の他の役者たちも、関係者と思われる人々も、誰ひとり、ひとことも言葉を発しなかった。再び舞台を降りた寛美の目が、一瞬、客席の私をとらえた、そんな気がした。私は、あわてて目礼を送った 。
 帰り際、『東京の学生さんやてね。お疲れさん』と、当時在籍していた小島秀哉に声をかけられた。とるに足らないはずの一介の学生の見学を、座員の皆が知らされていたのかもしれない。松竹新喜劇はそんな劇団であり、その頂点にいたのが藤山寛美だった。」(「さようなら、藤山寛美さん」より一部抜粋)
 後年、このエピソードを、関西で活躍する同世代の芸能研究家に話したところ、ひどく驚いていた。寛美から舞台稽古の見学をゆるされた学生の話など、こちらでも聞いたことがない、と。
 そんな「奇跡」にも等しいことをやってのけたのが室生春である。この件だけでも、わたしは室生春に一生頭が上がらないのだ。喜劇を本気になって勉強しよう、できれば、自分なりの喜劇も制作してみたい……、南座の客席で、室生春と息をひそめながら舞台を見守っていたわたしは、そんなことを心の中でつぶやいた。それがどれほど果たせたかはわからないが、この出来事が、わたしの人生における特記事項となったことはまちがいない。  (後編につづく)
原健太郎(第1期)
長居YHスタンプ2
◆長居ユースホステルの宿泊記念スタンプ
当時携帯していた小型の手帳に残していた、旅の想い出。長居ユースホステルは、大阪市立の施設として現在も営業しているようだ。創立は、1970年、大阪万博が開催された年とのこと。ふたたび泊まることはないように思うが、なんだか無性に懐かしい。

明大1年・上方喜劇を訪ねて・室生春2
◆吉本新喜劇の常打ち小屋のひとつ、うめだ花月の前で、通りすがりの人に撮ってもらった室生春(向かって左)とのツーショット写真
松竹新喜劇の舞台稽古を見学した京都南座の前でも写真を撮ったが、たがいに撮り合うのみで、いっしょにおさまっているものは、この1枚のみ。

明大1年・上方喜劇を訪ねて・南座前2
京都南座の前に立つ筆者
舞台稽古を見学させていただく前の、まだ明るい時分に。撮影・室生春。二人は楽屋口から通され、客席の後方に座った。そして、息を殺したまま、舞台を見つめた。

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◆新野新『上方タレント101人』表紙(A5変型判・並製、有文社)
室生春との二人旅の際、バッグに入れて持っていった本。新野新は、1970年代、放送作家、ラジオタレントとして、関西の芸界で大いに活躍していた。本書には、笑福亭仁鶴から藤本義一まで、落語・漫才・喜劇・放送タレント・作家……などなど、大御所から若手まで、当時、上方の「笑い」を支えていた人々を多数採り上げ、自身との交流や人物評をていねいに綴っている。東京の「笑い」がひどく低調だったこのころ、上方の演芸や喜劇は、純粋に筆者のあこがれだった。藤山寛美はもちろん、吉本新喜劇の花紀京・岡八郎・船場太郎、若手では海原千里・万里、笑福亭鶴瓶、関西ローカルのタレントとして横山プリンらが言及されている。東京モンにとって、当時、これ以上のテキストは存在していなかった。奥付を見ると、「1975年9月10日初版第1刷」とある。われわれの旅を待ちかねるようなタイミングで発行されていたわけである。
新野新は1935年、大阪生まれ。いまもご健在で、比較的若い芸人では、ダイアン、天竺鼠、さらば青春の光などの育成にも貢献している。1978年には『続・上方タレント101人』(有文社)、1985年には『新・上方タレント101人』(たる出版)年と、続編も刊行。『新―』には「タモリ、たけしが何だ! 日本制覇は俺たちや!!」と記された帯が巻かれている。1980年代初頭の「MANZAIブーム」により、上方と東京に形勢逆転現象がおこっていたことが、こんなところからもわかる。

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