こんにちは。
 わたしたちは、1976年4月、明治大学に産声をあげたサークル「騒動舎」で、ともに青春時代を過ごした者たちです。昨年は創立40周年の年でしたが、本体は10年ほど前に瓦解しており、現在、明治大学に、「騒動舎」を名のる学生グループは存在しません。
「騒動舎」は、劇映画(8ミリ)の制作と、喜劇の上演(演劇部「イズミ・フォーリー」)を2本の柱に活動をつづけ、学生映画界・演劇界にささやかな足跡を残しました。その孤高の芸術は、全国の若者たちを刺激し、「おらぁ、騒動舎に入りたくってよぉ、三浪して明治大学さ入学しただぁ……」といった、屈強な精神の輩まで現出させるほどでした。20世紀末に端を発する東京一極集中化問題と、わが「騒動舎」は、決して無関係ではないのです。
 
 あの日、まぎれもなく青年だった創立メンバーも、40年の歳月をへて、みな、還暦でこぼこの年齢に達しました。それぞれ、出会いと別れを繰り返し、世界でたったひとつだけの人生を、どうにかこうにか歩んできました。
 
 この間、大切な仲間を幾人も失いました。
 創立メンバーの山崎信二くんも、そのひとりです。2015年7月に59歳で亡くなった山崎くんは、映画や演劇について、ノーガキばかり並べ立てる者たちのなかで、唯一、カメラを回し、録音機材を操ることのできる人でした。そんな山崎くんに、わたしたちは、「メカ山」の愛称を捧げました。
「騒動舎」が初めて制作した映画『僕の日曜日』(1976年)では、録音。第2作『あのころ二人は』(1976年)および、第3作『夏の終曲』(1976年)では、監督。第4作『世界中で一番素敵なあなた』(1977年)では、撮影を担当しました。また、「てんこう劇場」と称する自前の劇場(明治大学和泉校舎2号館裏の芝生の植え込み)での公演をもっぱらとしていた「イズミ・フォーリー」では、裏方を一手に引き受けるなど、「騒動舎」の黎明期において、映画・演劇両面で重責を担いました。山崎くんがいなければ、映画も演劇も、ただの1作もつくりあげることはできなかったでしょう。「騒動舎」が30年におよぶ歴史を刻むことなど、なかったにちがいありません。 
 大学卒業後の山崎くんは、「騒動舎」の行く末をつねに温かく見守り、声援を送っていました。「騒動舎を誰よりも愛した人」といっても、過言ではないでしょう。しかし今は、そんな山崎くんと、昔話に花を咲かせることも、あの頃のように、夢を語り合うこともできません。それが悔しくてなりません。
 
 山崎くんは、もう、この世にはいません。けれど、今はいない山崎くんと、何かいっしょにできることはないだろうか。そんな思いが沸き起こり、このグループ、「騒動舎リターンズ」は結成されました。
 笑顔の山崎くんに再会できるような、何か楽しいイベントを、できれば年内に開催しようと計画しています。今年は、山崎くんの三回忌の年です。
 これを機に、山崎くんが活躍した時代の「騒動舎」を知る人びとと、旧交を温めたいと願っています。あのころ、「騒動舎」のメンバーだった方、何かの事情で、途中で辞められた方も、みな、同じ仲間です。創立時のことなどご存じない後輩諸君にも、参加していただけたら幸せです。「騒動舎」の映画や、イズミ・フォーリーの芝居をご覧くださった方々にも、声をかけられたら、と企てています。
 
 このブログは、在りし日の「騒動舎」にかかわった、すべての人びとの交流の「広場」です。ぜひ、ご参集ください。借金の申し込みはしませんので、ご安心ください。
 
 みなさん、「騒動舎」が、また動きはじめました! 

   2017年5月

                         【騒動舎リターンズ】             
                          大森美孝 (騒動舎第1期)
                          原健太郎 (騒動舎第1期)
                          室生 春=大室寿俊 (騒動舎第1期)
                          怪男児日の丸=勝永裕幸 (騒動舎第2期)
                          南野誰兵衛=杉田和久 (騒動舎第2期)

ADの頃の記憶2


先日映画監督の井上昭氏の訃報を新聞で目にした一昨年は同じく映画監督森崎東氏も他界された。

私は両監督と1980年秋TBSで日曜午後8時から放送した「天皇の料理番」(原作杉森久英)というドラマでご一緒した。

自分がドラマの世界に飛び込んで間もない頃で、まだサードと呼べないくらい未熟な助監督(監督が映画出身なのでADではなく助監督と表記)で、ほとんど戦力外の演出部だったが、天国の両監督へ追悼と感謝の意をエピソードと共に表したい。


 当時ビデオで収録するテレビドラマはほとんどスタジオ内で収録された。通称ペデスタルと呼ばれる大きなカメラ(デカカメ)で撮影していたが、1970年後半からハンディビデオカメラが普及し始めて、ビデオでのロケ収録が簡易になり、ロケの分量が増えた。まさに「天皇の料理番」が制作された頃は映画監督など撮影所出身の演出家の起用がビデオのドラマでも多くなっていった時期だった。お二人と出会えたことは時代も自分に味方したといえるかもしれない。

 

両監督とも映画、テレビドラマの世界では誰もが知る存在ではあるとはいえ、本当はここでお二人の経歴等を紹介したほうが親切だと思いつつ、ここは騒動舎リターンズのブログなのでは省略させていただきます。

 

第1話を担当したのが森崎東監督だった。

脚本はしっかり読み込んではいたが、全19話の中で前半は台本の中身とは関係なく、現場でただ走り回っていただけの助監督だった。

クランクインの日は早朝女優さんを自宅まで社用車を運転して迎えに行き、今はなき生田オープンセットまで送り届けることが自分の最初の仕事だった。(この作品は明治時代の話なのでどこでもロケできるわけではなく、生田オープン初め都内、他県の神社、寺、山奥などの電柱が見えない場所でのロケが多かった。)

女優さんを支度部屋まで送るとあとはチーフ助監督の指示で撮影開始までの準備で走り回った。


 俳優部の準備ができていよいよ撮影が始まる。まずはシーン全体の段取りを行う。

監督が役者にそのシーンでの演出上のいろいろな指示を出しながらセリフ、立ち位置などを確認していく。しかし何回かめのテストの終わると、急に監督が下を向いて黙ってしまった。何かを考えているか、現場が止まる。
 しばらくすると突然空を見上げながら監督が何かしゃべりだした。その声は少しだみ声だが、朗々とセットに響く。
 その正体は監督が直したセリフだった。監督はテストで何回も役者のセリフを聞きながら自分の中にストンと落ちてこなかったのだと思う。そしてものの数分でセリフ直しをそういう形で発表したのだ。

チーフ助監督が「監督、すみません、もう一度初めからお願いします」、というと、私はセリフをメモするように言われ、監督が天に向かって吐き出すセリフを自分の台本のメモ欄に書きとめた。監督は最後まで言い終わると、何事もなかったかのように、「これでいきましょう」、とその場をあとにした。  
 私は清書したものをコピーするためにオープンセットの事務所までまた走った。
 コピーを取りながら、これが映画監督か、と気分が高揚していたことをよく覚えている。空に向かってセリフを発している監督、黙って聞いているスタッフ、キャストたち。クランクイン初日のこの光景は今でも鮮明に脳裏に焼き付いている。

監督の直しのコピーが皆に行き渡り、約1時間後現場は再開した。


 初日からそんな監督の世界に引きずり込まれた。監督は紳士的だが頑固で、まだ助監督というより撮影見学者レベルの自分にはスタッフ、キャストに対して少しハードルの高い要求をしているように感じる場面もあっが、だれも不満を言う人間はいなかった。森崎監督の作品に対する想いが皆に伝わり、しだいに監督のためだったらなんでもやりますという雰囲気になっていった。監督の人間としての魅力がなせる業だった。

自分はカチンコをもってひたすら現場を走り回るだけで、監督の精力的で創造的な現場は続いていった。そして1時間のドラマの撮影では異例の1か月以上の時間を要して第1話は完成した。
 25歳の健康な男子でも肉体的にはかなりハードな日々だった。


 後日深夜寝静まった会社の編集室に一人で完成したばかりの完パケを持ち込み、どんな仕上がりになっているのかドキドキしながら再生ボタンを押した。そして最後まで見終わった瞬間、これまでのすべての苦労が吹き飛んだ。台本を読んで自分が想像したものをはるかに凌駕していた。自分が現場で走り回っていた、そこで行われていた撮影でのカットの積み重ねがこんな素晴らしい作品になっていたことが、ただただうれしかった。そしてこんな作品に参加できていることを誇りに感じた。

 森崎監督は第1話のみの登板だったが、いっときでも森崎組でいられたことは宝物となった。

 


 井上昭監督は全19話の中盤以降4回ほど演出を担当された。井上監督も紳士で優しくて、そしていつもおしゃれだった。

監督初回の美術打ち合わせ(美打ち)の時のことだ。美打ちとは演出部と美術部が1シーンごとに美術部に準備してもらうもの(衣装、小道具、持ち道具等)を打ち合わせするための会議だ。
 本来はセカンド助監督の担当なのだが、エキストラは自分が担当になっていた。多摩川の五本松という場所で撮影する舟の渡し場のシーンで、詳細は覚えていないが、「ここのエキストラは船頭1,お客さんで若い女2,若い男1,中年男1,老女1でいいでしょうか」みたいな発言をしたかと思う。                                      
 監督から声がかかる。「大森、あまりいい発注ではないね。例えば郵便屋が自転車を担いで舟に乗り込むとか、柳行李を背負った行商人が降りてくるとかもっと生活感があるエキストラがほしいね」と言われた。                                                              未熟な助監督には目から鱗だった。自分の浅薄さが恥ずかしかった。              

  
 スタジオ収録はこれも今はなくなってしまった渋谷ビデオスタジオだった。(昔の渋谷松栄ボールがあったところ)
 ある時監督から、その日の午後一番で撮影する予定のカフェのシーンをその日の最後に撮影したいとの要望があり、スケジュールが変更された。下っ端の助監督にはその理由はわからなかったが、そのカフェのセットを残して、撮影が終わったセットはどんどんバラされていき、最後のシーンになるころには半分ほどのセットがバラされていた。普段ないことだった。
 そのカフェのシーンになるとカメラマンが障害物のないスタジオの一番遠い場所にハンディカメラを据えた。出演する男女二人がカフェのテーブルを挟んでシンメトリーに向き合って座る。カメラとセットまでの距離は40メートル近くはあったと思う。その二人のバストショットを長玉(望遠レンズ)で狙っている。モニターで見ると不思議な映像が映し出されていた。それほど長いシーンではなかったがそのワンカットがとても効果的で印象的なシーンになった。こんなレンズでの演出があることを初めて知った。撮影所出身の監督ならではの洒落た演出に思えた。


 1980年から81年にかけての冬に雪が降った日があった。その雪の日、最初の新宿御苑での撮影では「きれいな雪景色が撮れていい感じだ」などと余裕もあったが、すでにスタッフは雪まみれになっていた。そんなに大雪になる予報は出ていなかったのか自分はいつものジャンパーを着て撮影をしていた。走り回るのが仕事だから寒さはそんなに感じていなかったが、次の撮影場所である皇居の坂下門(だったと思う)に移動するころにはさらに激しい降りになっていた。時間が過ぎてゆくにしたがってジャンパーがびしょびしょになっていった。さすがに肌まで届く水滴は冷たかった。

そんな時「大森」、と監督から声がかかる。手でこっちに来いと合図している。通称ベースと呼ばれるモニターがあるところまで急いで行くと、突然監督は自分が着ていた今でいうパーカーを脱いで「これを着なさい」と自分に渡してくれた。「パラシュートの生地だから染み込まないよ」。

一人びしょびしょで走り回っていたので不憫に感じたのかもしれない。いかにも監督らしいおしゃれな色彩のそのパーカーを着込んで、そのあとも小一時間は撮影していたと思うが、監督の優しさと温かさが胸に染みた雪の日の撮影となった。
 そのパーカーは今でも大事にとってある。

 

今回は井上監督の訃報がきっかけになって、両監督との思い出を反芻した。自分の拙い文章で両監督の魅力がどれほど伝わったかおぼつかないところだ。ただ両監督が自分がドラマに関わっていく中で極めて大切な存在だったことを改めて認識した。こんな素敵な先輩たちと右も左も分からない駆け出しの頃に出会えたことが理不尽なことが満載な業界を渡っていく原動力になったのだと思う。

森崎監督、井上監督には感謝しかない。ありがとうございました.。

 

そして1981年の春に夏目雅子さんとの出会いが待っていた。

 まだ前を向いて歩いているつもりだが、この年齢になって、コロナ禍で自宅にいる時間が増えたせいもあって、少しずつ自分のこれまでを思い出すことが多くなった。楽しかったことも苦しかったこともいろいろあったが、楽しかったことは記憶の鮮度のいいうちに思い出さない手はないなぁと思ったりする。

 今回のブログに書いた両監督との出来事は原さんたちとの4年間の騒動舎での活動が出発点になっている。        その騒動舎出身のメンバーの訃報が相次いでいる。共に過ごした仲間たち、その後を継いでくれた後輩たちを失うのは残念で悲しいが、彼ら彼女らと関わりのあった人たち、それぞれの胸の中で色褪せない思い出としてずっと生き続けていくことだろう。

 

 

それにしてコロナはしつこい。やりたいことがまだまだあるのに外に出られないのは辛い。

しかし何より健康が一番。
 2022年もまもなく一か月半が経過するが、今年1年無事に過ごせて、来年の春は皆が笑顔で迎えられることを祈念するばかりだ。
     
                                                                    大森美孝(第1期)


IMG_0193
台本はとってあるはずですが、沖縄に持ってきてないので、番組主題歌「風/ノルマンディ」のジャケットを掲載します。薩めぐみさんの歌う大人っぽいシャンソンが番組とよくマッチしていたと思います。

新春のお慶びを申し上げます。

まだまだ不安が消えない世情ですが、持ち前の馬力と健やかなる笑いで新たな年を迎え過ごされますよう。
また、ご家族の皆さまには、多幸で喜びに満ちた1年でありますよう、心よりお祈り申し上げます。

(第1期 大室 寿俊)

会ちゃん 遺影で長男夫婦の披露宴に出席/桃井光一(第5期)

前山(会田)育代さんが2021年11月22日、大細胞神経内分泌癌のため横浜市内の病院で亡くなった。60歳だった。同月27日に通夜、28日に告別式が営まれた。突然の訃報から1か月。僭越ながら騒動舎同期の桃井が会ちゃんとの四十数年間を振り返った。彼女がフォーリー、私が映画部なので接点は多くないが、年を重ねて印象的な出来事があった。
 
①有言実行 大学1年の和泉祭のこと。会ちゃんと並んで雑談をしていたら、「どんな子が好きなの?」と聞かれた。ろくに考えもせず、通り過ぎた女性を指さして「あの子!」と答えたら、「え~っ、あの子、私の友だちだよ~。今度、紹介するね」と彼女のテンションが上がった。数日後、「〇日△時、●■喫茶店であの子と待ってるから」と言われた。最初は何のことか分からなかったが、和泉祭での会話を思い出して驚いた。あれは、その場限りの言葉ではなかったのだ。会ちゃんの行動力を見せつけられ、自分のテキトーさを思い知った。残念ながら私の実力不足で「あの子」との進展はなかった…。
②超速返信 この10数年(もっとか?)、同期の連絡係をしている。最近はスマホの一斉メール機能があって簡単作業になったが、メールを出して数分後、一番早く返信してくれるのは会ちゃんで、近況も書いてあった。何かの集まりで会った時、「いつも素早いメール、ありがとう」と言ったら、「昔の仲間から連絡があると、すごくうれしいの。暇だからすぐ返信しちゃう」と彼女。別の会合では「オバさんになって昔の友だちに会いたがらない人もいるけど、私は平気。家事と子育てで女が太く、たくましくなるのは当たり前。若い頃と容姿は変わっても、友だちとの集まりには必ず行きたい」と話してました。
③悲しい偶然 私の息子夫婦が今年、横浜市戸塚区のマンションを購入した。引っ越し日は11月28、29日に決まり、手伝いに行くことになった。「戸塚か。会ちゃんは栄区だから近所だな。今度、美味しい町中華でも聞いてみるか」と考えていた矢先、彼女の訃報が届いた。葬儀は27日に通夜、28日に告別式の日程で、会場は大船。私は27日の通夜に参列し、土田さん、石山、研太郎と献杯した。翌28日は大船の隣にある戸塚で息子たちの引っ越しを手伝った。「告別式は終わったかな」「誰か参列したのかな」。荷物を運びながら、数キロ先の葬儀会場の様子が気になった。あまりに悲しい偶然に、その日は妙に疲れた。
④母の願い 師走に入り、1月9日の四十九日法要に合わせた供花のことで会ちゃんのご主人・前山光憲さんに電話した。そこで彼女らしいエピソードを聞いた。ICUに入った彼女は長男・泰斗さん(32)と妻の由梨さん(28)の結婚披露宴を心配し、「私に何があっても披露宴は行って」と看護師さんを通じ家族に伝達。意識を失う直前だったので、それが遺言となった。披露宴は予定通り12月11日に挙行され、会ちゃんの席も設けられて遺影が置かれた。「式には息子たちの友人も来る。妻は自分のことで迷惑をかけたくなかったから、そう伝えたのでしょう」とご主人。子供の幸せを願い、母はただでは逝かなかったのだ。
 
 最後の土壇場で good job! 会ちゃん、頑張った! またね!
 
                                      2021年師走
 
会ちゃん写真
写真は、2年前、由梨さんの青森の実家に挨拶に行き、観光した時のショットとか(ご主人提供)。

IMG_20200602_0049
桃井さん、ブログへのご寄稿、有難うございます。

1979年12月8日、
この年の春、大学を卒業して社会人になった、騒動舎第1期生の大森美孝、原健太郎、室生春、留年を決め込んでいた山崎信二、そして第2期生(4年生)の怪男児日の丸(勝永裕幸)、南野誰兵衛(杉田和久)、第3期生の白雲なびこ(村岡美穂子)らが中心となり、「劇団笑ボート」が結成された。その第1回公演『恋の玉手箱』(同年12月8日、千駄ヶ谷区民会館)に、当時1年生の会田育代さんが出演してくれている。写真は、幕前での「金売りの唄」の場面。4人のきれいどころの一人として、歌とダンスを披露してくれた。左から2番目の、赤いシャツを着ているのが育代さん。芸名は、先輩たちが勝手につけた「宵鳥みろり」だった。

……よろしかったら、当ブログ「『恋の玉手箱』をもう一度」および「『恋の玉手箱』…1」をご参照ください。育代さんがコメントを寄せてくださっています。

2017年12月2日に開催した「騒動舎リターンズ」旗揚げ公演(故・山崎信二をしのぶ会、西新宿・花伝舎
)にもお出でくださり、そのあとの忘年会にも参加してくれた。「騒動舎アーカイブス・のようなもの」に、貴重な資料を寄贈してもくださった。あの日、そこには、「笑ボート」旗揚げの頃とまったく変わらない、元気で、美しく、やさしい、わたしたちの知っている育代さんがいた。
お世話になりました。どうぞ安らかに……。    (騒動舎リターンズ/原健太郎)

勝手にしみじみ、大森美孝とわたしの【50年】/原健太郎


1971(昭和46)年4月、騒動舎第1期の大森美孝とわたしは、都立広尾高校で出会った。4月7日が入学式。翌8日が6つのクラスに分かれての顔合わせ会で、わたしたちは1年B組。ふたりとも前月まで世田谷の別の区立中学に通う、一様にどこかあどけなさが残る少年だった。

担任教師によるオリエンテーションの後、クラスメイトの自己紹介が始まった。わたしは「中学時代にひきつづき演劇部に入ろうと思う、趣味は映画鑑賞」なんてことを言ったはずだ。大森美孝も「映画」の二文字を口にしたにちがいない。なぜなら、ふたりはその日の内に親しく口をきくようになったからだ。当時、この学校には演劇部がなかったために(かつては、李麗仙らが活躍した有力な演劇部があったことを、後に知った)、それじゃ、いっしょに「映画同好会」とやらに入ろうじゃないか、という話がたちまちまとまったことを覚えている。

この「映画同好会」での活動に関しては、当ブログ〈「喜劇映画研究会」ブログ開設のご案内〉その1~その8に詳述しているので、ぜひそちらをご覧いただきたい。大森のおだやかな人柄については、皆さん知るところだろうが、案外に押し出しも強く、外部の年長者との交渉力にはしばしば目を見張った。お蔭で、並の高校映研では経験ができないであろう、好奇心と冒険心に満ちみちた学園生活を送ることができたが、わたしはといえば、この活動に入れ込み過ぎたため、受験勉強にはさっぱり身が入らず、結果、受けた大学は全オチ。大森とのつきあいもこれまでかと思いきや、入学した予備校、代々木ゼミナールの教室で、思いがけずまた顔を合わせた。一方、われわれ同様、「映画バカ」として知られた広尾の学友、渋井正幸も、代ゼミの人となっていた。この浪人時代のことも、当ブログ〈脚本家・才賀明と幻の劇団「東京新喜劇」〉①~⑧にたっぷり書いた。

翌1975(昭和50)年4月、大森、渋井、わたしの3人は、そろって明治大学に入学した。大森と渋井は法学部。わたしは文学部の演劇学専攻。この事実は、「偶然」を通り越し、今となっては「運命」としか言いようがない。「こうなったら大学でも、何かいっしょにやるしかないよね」と、きっと誰もが思っただろう。

この年の11月、「騒動舎」の前身である「明大8ミリ映画研究会」が生まれた。渋井が書いたシナリオ『僕の日曜日』を映画化するにあたり、女優とスタッフをかき集めるべく、お茶の水の駿台祭会場に急遽出現したグループだ。ここには、わたしの大学でのクラスメイト、室生春と山崎信二(2015年死去)が参加してくれた。だが、約半年間、さまざまな障壁を前に、『僕の日曜日』はついに完成にはいたらず、グループも解散となった。このあたりの経緯も、当ブログ〈騒動舎・黎明期の覚書〉①と、大森さんの筆になる〈横須賀ストーリーpart2〉を併せてご覧ください。

1976(昭和51)年4月、「明大8ミリ映画研究会」の残党は、それでもまだ一縷の望みをかけて、和泉キャンパスの掲示板に、メンバー募集のチラシを貼りだした。すでに「騒動舎」の名称と、映画製作と喜劇の上演という2本立ての活動方針は決まっていた。だが、当然、活動実績はゼロ。大学公認のサークルでもなかった。ところが、昼休み、勝手に詰所にしていた図書館のロビーに、おっかなびっくりやってくる新入生の姿があった……。

4月末、怪男児日の丸(文学部英米文学専攻)が入舎。11月、彼が室生春らとともに駿台祭で演じた『笑劇・瞼の母』を見た、やはり1年生の南野誰兵衛(商学部)が仲間に加わった。それまで彼は、テニスサークルの一員だった。

大森美孝と出会ってから、まる50年。実に半世紀! もしあのとき、広尾高校に演劇部が存在していたら、わたしはそちらへ参加していて、「映画同好会」で、つねに大森と行動を共にするようなことはなかっただろう。もちろん、その後、たとえ大学がいっしょになったとしても、「騒動舎」のようなサークルを設立しようなどとは、おたがい考えなかったにちがいない。やはり、「運命」だったのか。

高校で大森と出会い、友情を築き、大学で「騒動舎」を結成したことで、多くの素晴らしい仲間たちを得ることができた。なんて幸せなことだろう。いつも大森がそばにいてくれたから、たとえようがないほど愉快で、熱のこもった青春時代を、少しもブレることなく過ごすことができた。自分が何をしたいのか、何をすべきなのか、教えてもらった気がする。

3年前、大森は長くたずさわっていたテレビの仕事を卒業し、新たな活動拠点を沖縄の那覇に定めた。ずいぶん遠くへ行ってしまったものだ。それに加えて、このコロナである。たやすく会えないのが残念だ。しかしながら大森が、今も、たがいが15歳の少年のときと変わらぬ、強い信念と情熱、そしてバイタリティを持ちつづけていることを、わたしは知っている。相変わらず大森は、わたしにはないものをふんだんに持っている。

大森に負けないよう、わたしもわたしなりに、残りの人生を歩んでいこうと思う。



2021年4月7日 原健太郎(第1期)

IMG_20210321_0001
高校に入学して間もなく、「映画同好会」の仲間たちと数寄屋橋にあったロードショー館、ニュー東宝(のちのTOHOシネマズ有楽座。2015年閉館)へ『小さな恋のメロディ』(1971年/英/ワリス・フセイン監督)を見にいったときのもの。大森美孝が絵看板をじっと見つめている。この映画、掛け値なしにいいよね。撮影は「映画同好会」兼「写真部」の楠岡泰さん(下の写真も同様)。
IMG_20210321_0002
これも1年生のときのもの。大森美孝とわたし(左)。かなり早い時期のツーショット写真。夏頃だと思うが、いったい何処へ遊びにいったときのものか、大森もわたしも残念ながら覚えていない。当時のわたしの手帳は、映画の記録や感想ばかりで、その他の事項はほとんどスルー。やれやれ。
IMG_2289
◆左/高校に入学し、生まれて初めて持った定期券。東急大井町線「尾山台」駅⇔東急東横線「渋谷」駅。学割とはいえ、6か月間で3,350円。現在は16,850円。「半世紀」という時の流れが、如実にあらわれている。
右/学バス回数乗車券。「15円券」と記されている。現在は地下深くに潜ってしまった東急東横線「渋谷」駅は、ついこの間まで地上に改札口があり、プラネタリウムやロードショー館の渋谷パンテオンなどが入っていた大きなビル、東急文化会館(現・渋谷ヒカリエ)と向かい合い、その間にバスのロータリーやタクシー乗り場があった。広尾高校までは、明治通りを渡る横断歩道橋をのぼって、渋谷警察署側の階段を降り、徒歩で20分ほどだった。だが、駅の改札口間近に都バスの停留所があり、そこからバスに乗ると、高校の近くまで楽をして通学することができた。渋谷駅から青山学院初等部、実践女子学園、国学院大学、東京女学館等をへて、日赤産院(現・日赤医療センター)までを周回する「学バス」といわれるもので、料金が割安だった。広尾高校の最寄り駅は国学院大学前で、そこから歩いて1、2分だったが、バスに揺られてもやはり20分ほどの時間を要したので、入学してからほどないうちに、仲間たちの多くは、駅から学校までの道のりを当たり前のように歩くことになる。学校からの帰路はなおさらで、そのまま盛り場に直行という寸法だ。渋谷全線座、東急名画座(東急文化会館内)、渋谷文化などの二番館も多く、小遣いの少ない映画少年にとってはパラダイスにも等しかった。料金は120円から150円ほどだった。……以上、長々と思い出話を記したが、70年代初頭の記録としてあえてとどめておく。

2021年になって3日が過ぎました。

皆さんが無事に新年をお迎えになっていることを切望します。

ラグビーが決勝まで進めず、駅伝ではシード権を失い、ちょっと残念な新年の滑り出しですが、まぁ来年までのお楽しみということで、今年一年、健康に気を付けつつ、楽しくやっていきましょう!!!

皆さんの「騒動舎リターンズ」ブログです。
どんな書き込みでもウェルカムです。何卒よろしくお願いいたします。


騒動舎リターンズ
大森美孝
原健太郎
室生 春/大室寿俊
怪男児日の丸/勝永裕幸
南野誰兵衛/杉田和久


レッスン開始。すべてはここから始まった!

 ようやく、SAXのレッスンを神保町の下倉楽器ではじめることとなりました。店員さんが私がアルトかテナーのどちらを購入するかを迷っているとアルトサックスを進めてくれました。初心者が始めるのは大抵は扱いやすいアルトから始めるのが普通だったのです(勿論、後でわかったことですが)。会計をしてもらっている間、店員さんから「初心者なら、レッスンはどうするのですか?」と聞かれ、まだ決めていない旨を伝えると、それならこちらで日曜日に個人レッスンをしているのでいかがでしょうか?と言われその場で入会しました。そのころは私には他に音楽系の知り合いもいなかったし、店員さんがかなり親切な方で(鈴木さんという方で、以降いろいろなことでアドバイスを頂きました)すぐに決めたということです。しかし、今考えればこのことがそれ以降の私の人生に大きな意味を持っていたことは否めません。なぜならその時の講師の先生と出会ったことが以降30年以上バンド活動を継続できた大きな要因だったからです。おそらく、私も先生もその時そんな未来が待っているとは夢にも思わなかったでしょう。
 さて、先生は佐々木隆信先生です。長年私立高校で音楽の教師をしながら吹奏楽の指導に当たり何回も全国大会で優秀な成績を収めた方で当時はまだ30歳代で日曜日には学校以外でSAXの指導をされていた方です。最初にお会いしたときこれまでの音楽経験を聞かれ、ピアノを3年間ほど習っていたことと、楽譜が読めることを伝えたら「そうか?まあやってみてだめならやめればいいか?」と言われて、面白い方だなあと思った記憶があります。普通は初めて会った生徒さんにこんなことは言わないだろうなあと思います。とりあえず私は月謝を払うお客様なのですから、上手くなろうとなるまいと長くいてくれればお金になるわけなので「だめならやめれば」はびっくりしたと同時にこれは私と馬が合いそうだなと直感しました。
 SAXはいろいろ難しい点はありますがとりあえず指使いはリコーダーと同じで初心者でも簡単に音が出てすぐに演奏できます。(それが本当の音かは別として)トランペットやトロンボーンなどよりは扱いやすく手っ取り早く演奏している気分に浸れる楽器です。レッスンは月3回の日曜日SAX
10:30から30分間(月謝3,000円)。他に数名生徒さんがいたらしく私の次に時間を待っている人がいました。先生は明るい方でなんでも話してくれて大らかに音楽のことをとらえている方でしたが逆に言うと大雑把すぎて真剣に音楽を突き詰めようと真面目に考える生徒さんには物足りないかな?という感じだったと思います。それから、3年間頑張ってレッスンに通いました。そして、いよいよ転機が訪れます。(第3期 怪男児日の丸)

★騒動舎アーカイブスの・ようなもの……報告8

2020.12.1…………第3期・遠藤哲也氏より、騒動舎の活動紹介記事、コピー受贈。 
 
 0036 「東京4大学〈映研〉特別座談会 今の邦画界は監督が可哀想だ!」(「平凡パンチ」1979年9月3日号、平凡出版=現・マガジンハウス発行)

 
本年11月22日付ブログ「いい人たちとの夏 ー京都太秦ー by中山一宏(第3期)」に掲載された画像の原本コピーを、第3期・遠藤哲也さんよりお贈りいただきました。同ブログ記事のコメント欄に遠藤さんが書かれているように、「第4期の徳住君がリターンズ公演(もう3年前になりますね)の直後、こんなのありました!と送ってくれた物(COPY)」だそうです。第4期の徳住ゆたかさん、貴重な資料を発掘していただき有難うございます。「騒動舎アーカイブスの・ようなもの」で大切に保管させていただきます。

 全5ページの記事ですが、「80年代へ―衝撃のニューロマン! 絶賛上映中!」のキャッチコピーが添えられた、にっかつ映画『十八歳、海へ』(藤田敏八監督)、『スーパーGUNレディ ワニ分署』(曾根中生監督)の広告も掲載されており、当時の映画青年らを強く意識した構成になっています。
 座談会には、明治大学「騒動舎」(中田俊一、関根潔、遠藤哲也)のほか、和光大学「唯幻写」、大東文化大学「映像集団・ウエイブ」、日本女子大学「映画研究会」が出席。中山さんが書いた物語「いい人たちとの夏 ―京都太秦―」の舞台である1979年夏の東映京都撮影所(太秦)で、各大学の映像クリエイターたちが、いかにプロの映画人にアプローチし、作品を製作したかが、たいへん情熱的に語られています。
 追ってデジタル化ののち、希望される方にお読みいただけるようにいたします。 2020.12.2 デジタル化済

「騒動舎アーカイブスの・ようなもの」では、時代を問わず、騒動舎にゆかりのある物品、ビデオ、印刷物等の寄贈を、お待ちしております。ともに「青春」を生きた騒動舎のあれやこれやを、みんなの共有財産にしましょう。

原健太郎(第1期)
511PRyJ0EbL._SX353_BO1,204,203,200_
「平凡パンチ」(1979年9月3日号平凡出版=現・マガジンハウス)表紙。
画像はネットよりお借りしたものです。

IMG_2180
 
「平凡パンチ」(1979年9月3日号、p48~52)「東京4大学〈映研〉特別座談会 今の邦画界は監督が可哀想だ!」。その一節……。

--で、今度、東映京都ではどんな映画を作ったわけ?
中田「ウチは、菅原サンという殺陣師サンに焦点をあてて、ドキュメンタリーを撮った。タイトルは『殺陣師見参』。菅原サンの動きや考えかたを中心に、監督サンや松方(弘樹)サン、萬屋(錦之介)サンなどのインタビューをフィルムに収めてきました。菅原サン、すごい映画の好きな人なんで感動してるんです。」



このページのトップヘ

見出し画像
×