こんにちは。
 わたしたちは、1976年4月、明治大学に産声をあげたサークル「騒動舎」で、ともに青春時代を過ごした者たちです。昨年は創立40周年の年でしたが、本体は10年ほど前に瓦解しており、現在、明治大学に、「騒動舎」を名のる学生グループは存在しません。
「騒動舎」は、劇映画(8ミリ)の制作と、喜劇の上演(演劇部「イズミ・フォーリー」)を2本の柱に活動をつづけ、学生映画界・演劇界にささやかな足跡を残しました。その孤高の芸術は、全国の若者たちを刺激し、「おらぁ、騒動舎に入りたくってよぉ、三浪して明治大学さ入学しただぁ……」といった、屈強な精神の輩まで現出させるほどでした。20世紀末に端を発する東京一極集中化問題と、わが「騒動舎」は、決して無関係ではないのです。
 
 あの日、まぎれもなく青年だった創立メンバーも、40年の歳月をへて、みな、還暦でこぼこの年齢に達しました。それぞれ、出会いと別れを繰り返し、世界でたったひとつだけの人生を、どうにかこうにか歩んできました。
 
 この間、大切な仲間を幾人も失いました。
 創立メンバーの山崎信二くんも、そのひとりです。2015年7月に59歳で亡くなった山崎くんは、映画や演劇について、ノーガキばかり並べ立てる者たちのなかで、唯一、カメラを回し、録音機材を操ることのできる人でした。そんな山崎くんに、わたしたちは、「メカ山」の愛称を捧げました。
「騒動舎」が初めて制作した映画『僕の日曜日』(1976年)では、録音。第2作『あのころ二人は』(1976年)および、第3作『夏の終曲』(1976年)では、監督。第4作『世界中で一番素敵なあなた』(1977年)では、撮影を担当しました。また、「てんこう劇場」と称する自前の劇場(明治大学和泉校舎2号館裏の芝生の植え込み)での公演をもっぱらとしていた「イズミ・フォーリー」では、裏方を一手に引き受けるなど、「騒動舎」の黎明期において、映画・演劇両面で重責を担いました。山崎くんがいなければ、映画も演劇も、ただの1作もつくりあげることはできなかったでしょう。「騒動舎」が30年におよぶ歴史を刻むことなど、なかったにちがいありません。 
 大学卒業後の山崎くんは、「騒動舎」の行く末をつねに温かく見守り、声援を送っていました。「騒動舎を誰よりも愛した人」といっても、過言ではないでしょう。しかし今は、そんな山崎くんと、昔話に花を咲かせることも、あの頃のように、夢を語り合うこともできません。それが悔しくてなりません。
 
 山崎くんは、もう、この世にはいません。けれど、今はいない山崎くんと、何かいっしょにできることはないだろうか。そんな思いが沸き起こり、このグループ、「騒動舎リターンズ」は結成されました。
 笑顔の山崎くんに再会できるような、何か楽しいイベントを、できれば年内に開催しようと計画しています。今年は、山崎くんの三回忌の年です。
 これを機に、山崎くんが活躍した時代の「騒動舎」を知る人びとと、旧交を温めたいと願っています。あのころ、「騒動舎」のメンバーだった方、何かの事情で、途中で辞められた方も、みな、同じ仲間です。創立時のことなどご存じない後輩諸君にも、参加していただけたら幸せです。「騒動舎」の映画や、イズミ・フォーリーの芝居をご覧くださった方々にも、声をかけられたら、と企てています。
 
 このブログは、在りし日の「騒動舎」にかかわった、すべての人びとの交流の「広場」です。ぜひ、ご参集ください。借金の申し込みはしませんので、ご安心ください。
 
 みなさん、「騒動舎」が、また動きはじめました! 

   2017年5月

                         【騒動舎リターンズ】             
                          大森美孝 (騒動舎第1期)
                          原健太郎 (騒動舎第1期)
                          室生 春=大室寿俊 (騒動舎第1期)
                          怪男児日の丸=勝永裕幸 (騒動舎第2期)
                          南野誰兵衛=杉田和久 (騒動舎第2期)

『榎本健一没後50年記念 エノケン』展、いよいよオープン! /原健太郎

 個人的な「宣伝」で恐縮です。
 当ブログを閲覧してくださる皆さんなら、きっと興味を持っていただけることと思い、ご案内させていただきます。

 本年は、エノケンこと喜劇俳優・榎本健一(1904-1970、享年65)が世を去って50年目にあたります。この節目の年に、国立劇場が『エノケン』展の開催を企画してくださり、わたしは「監修」という大役を仰せつかりました。
 その『榎本健一没後50年記念 エノケン』が、6月5日(金)にオープンしました。

 今からちょうど20年前に、「東京喜劇研究会」なるグループが結成されました。演劇評論家の向井爽也氏を代表に、ジャズ評論家の瀬川昌久氏、劇作家(元・エノケン劇団文芸部)の井﨑博之氏、国立劇場理事(元・榎本健一主宰映画演劇研所文芸部)の平島高文氏のほか、舞踊評論家、映画研究家、博物館学芸員などの若い研究者が結集し、エノケンを中心に形成された「東京喜劇」をテーマに、ささやかながら共同研究をスタートさせました。わたしは、当初よりこのグループの事務局をつとめております。
 2003年、2004年の2度にわたり、浅草東洋館で『エノケン生誕100年祭』『続・エノケン生誕100年祭』(東京喜劇研究会企画、東洋興業株式会社制作)を実施し、この催しがきっかけとなり、各所各媒体で、「エノケン」を学び、語り継ぐ動きがにわかに活発化しました。

 早いもので、あれから15年余の歳月が流れました。
 今、なぜ『エノケン』なのか!?――という問いかけは、15年前と変わらず、現在も、何かしらの意味をはらんでいるように思います。いや、その意味内容は、今日、いっそう重みを増しているように思えてならないのです。

 会場の国立演芸場1階「演芸資料展示室」は、少しデラックスなリビングくらいの大きさですが、エノケンのご遺族より国立劇場に寄贈された遺品資料が、吟味セレクトのうえ、多数展示されています。
 チラシにありますように、当初は4月1日(水)オープンの予定でしたが、コロナ禍のためになかなか幕を開けることができず、ここへきて、ようやくお披露目がかなったというわけです。
 さいわい会期も、11月23日(月・祝日)まで延長することが決まりました。
 とはいえ、感染予防の対策は講じなければならず、しばらくの間、土曜・日曜は休館とのことです。開場時刻も11時に変わっています。ほかにも休館の決まっている日があるようですので、会場にお出かけの際は、念のため、「国立演芸場」のHPをチェックしていただきたくお願いいたします。


 また、エノケンという喜劇俳優に、ひとりでも多くの方に興味を持っていただきたい、会場に足を運んでいただきたい、という思いから、国立劇場では、『エノケン』展紹介動画(YouTube動画)を製作し、HPより配信してくださっています。こちらも、一度、ご覧になってください。きっと、現物をご覧になりたくなりますよ。

  ・『エノケン』展紹介動画 https://www.youtube.com/watch?v=i6sJZd09HOQ

 今回の展示では、エノケンの「人」と「仕事」を、国立劇場に収蔵されている資料からあぶり出すことに注力しました。エノケンが目指した「新しい喜劇」とはどんなものだったのか。現在、わたしたちの目の前でおこなわれている「喜劇」や「お笑い」が、おそらく合わせ鏡として見えてくるのではないかと思います。
 準備期間があまりなかったのですが、気が付いたら、展示資料のキャプション(説明文)を400字×60枚余り書いていました。ベイシックな事柄が中心ですが、これまでほとんど活字になっていないような事実やエピソードも記しました。コアなエノケン・ファンにも楽しんでいただけることでしょう。

 開催にあたっては、エノケンの長女・榎本智恵子さんをはじめ、たくさんの皆さんにお力添えをいただきました。心から感謝申し上げます。今回、なによりうれしかったのは、わたしよりも若い、国立劇場のスタッフの皆さんの、「エノケンを知りたい」「エノケンを知らせたい」とい思いが、間違いなくホンモノだということが、煩雑な打ち合わせをつづけるなかでわかったことです。

 わたし自身、浪人をしている18歳のときに、初めて「エノケンを知りたい」という思いに駆られました。「そうですか、見ていないんですか。エノケンの舞台を……」と不憫そうにいわれ、何度悔しい思いをしたことか。かつてわたしは、いつも、どんな集まりでも、いちばんの若手でした。
 エノケンは、1970年1月、65歳で亡くなりました。期せずして、この6月、わたしは65歳になります。

『エノケン』展に、ぜひお出かけください。

  原健太郎(第1期)

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『恋の玉手箱』……1・謎の大邸宅/原健太郎

 
   金…… 金……
   お借りなさいよ 皆さん
   ご覧なさいよ 皆さん
   これみんな 金だよ 本物の金を
   ホラホラ 蔵から出したて
   アラアラ 利息はいらない
   何でも買える 金 金
   お試しください
   借りねえのかぁ
   「さあ、これだけ負けちまへ!」
   これでもかねぇ
   借りなきゃよせよ 貸さねえぞ
   何とかしろよ 助けろ
   金…… 金…… 

 東京の西のはずれに、とんでもなく大きな家があった。
 周囲は背の高い常緑樹でおおわれ、猫の子一匹、中をのぞくことができない。敷地の広さは、東京ドームの三十倍とも五十倍とも噂されているが、誰も本当のことを知らない。
 ある日の夕方、最寄りのバス停から屋敷までつづくだらだら坂を、ふたりの男が歩いていた。今ではめずらしい黒いツメ襟を着た、大学生の恋川はじめと、彼を教える大学の助教授、春木だ。ふたりは、一時間四十分かけてだらだら坂をのぼりきると、さらに一時間四十分、緑で囲まれた屋敷のぐるりを歩き回り、ようやく正門とおぼしきものにたどりついた。
「春木先生!」
「恋川くん!」
 ふたりはじっと見つめ合うと、両腕を大きく広げて熱い抱擁をした。恋川は、こみ上げてくる涙を懸命にこらえた。
「先生、本日は、なにとぞよろしくお願いいたします」
 男どうし抱き合っているのがにわかに恥ずかしくなったのか、春木はゆっくりと腕をほどいた。
「恋川くん。なるほど、こりゃあデラックスだ。日光東照宮の陽明門を一ダース、横に並べた感じだなぁ……」
 腕組みをしながら、金ピカの飾りが付いた門に見とれている春木を横目に、恋川は呼び鈴をさがした。門の飾りが夕陽に輝いて、一瞬、目がくらみそうになった。門の端から端までたんねんに調べると、透かし彫りの竜の目玉がブザーになっているのがわかった。
 恋川は呼吸をととのえて、ブザーに指をのばした。そのとき、どこからかにぶい金属音が聞こえた。恋川は音のする方に顔を向けた。すると、五十メートルほど離れたところで、春木が、どこから持ってきたのか、ハンマーとたがねで門の飾りを削りはじめている。
「ちょっと、ちょっと、先生、やめてくださいよ。いいですか、今、ブザーを鳴らしますから、そんなもの、早くしまって!」
「なんの、なんの。きょうの記念に、と思ってねぇ」
 春木は、「なんの、なんの」と、得意の口癖をくり出すと、何ごともなかったかのように恋川に歩み寄った。閉ざされた扉をきっとにらむと、右腕を高くふり上げた。
「恋川くん、すべてわたしに任せなさい。さあ、呼び鈴を高らかに鳴らすのだ!」
 春木の声につられて、恋川の指に力が入った。

   ドンガラガッチャアアアアアアアア~~~ン……
 
 門の奥から、ドラの音が聞こえた。鼓膜が破れるのではないかと思うくらい、やかましい音だった。恋川と春木が、ふたたび抱き合おうとしたとき、金ピカの扉が、商店のシャッターのように下の方からゆっくりと開きはじめた。
  
   ゴトビシガックン ゴゴゴオ ゴゴゴオ ゴゴゴオ……

 これもすごい音だ。ふたりは、扉が開ききるのをじっと待った。
 さっきまでの勢いが嘘のように、春木はひどく不安そうな表情で恋川を見つめた。恋川は大きくうなずいて見せた。春木もうなずいた。
「なんの、なんの」
 それだけいうと、春木はもときた道を帰りはじめた。恋川はあわて追いすがり、春木の紺のスーツの襟首をつかんだ。
「ちょっとちょっと、どこへ行くんですか。門が開いたってことは、中へ入りなさい、ということでしょうが。先生、まさか怖気づいたわけじゃないでしょうね!」
 ふたりは神社で参拝するようにおごそかに一礼すると、門をくぐった。そして、曲がりくねった石畳の小道を、〈いらっしゃいませ。もう少しです〉の立て札をたよりに、またしても一時間四十分歩いた。道の両側には、モデルハウスのような小ジャレた家や、長屋風のしもた屋、タワーマンション、竪穴式住居などの建物が、いくつも並んでいた。はるか遠くに、アーケードのある商店街や野球のグラウンドも見えた。
〈おつかれさまでした。ここが平村の家です〉の看板が取り付けられた建物は、アメリカのホワイトハウスを二周りほど大きくしたような造りだった。ふたりは、二階の玄関につづく螺旋階段をのぼった。
「ごめんくださぁい!」
 恋川が玄関の扉をノックして、そう叫ぶと、すぐさま扉が開いた。
「はい、はい、はい。ようこそ、おいでくださいました!」 
 中から出てきたのは、燕尾服に身をつつんだ小ぶとりの男だった。お腹のところで両手をもみもみしながら、気味悪く笑っている。目がとろんとして、両頬が薄っすらと赤い。
「わたくし、先日電話を差し上げました、大日本帝国大学の……」
 恋川の挨拶が終わらないうちに、燕尾服の男は話しだした。
「お待ちいたしておりました。恋川はじめさんですね。わたくし、当家の執事をしております、面の皮篤三と申します」
 男はそう名のると、ふところからピカピカ光る名刺を取り出し、恋川と春木にわたした。
「うひゃあ、ずっしり重いですなぁ!」
 思わず名刺を落としそうになって、春木が声を上げた。
「不純物はいっさい入っておりません。まじりっ気なしの金、純金です!」
「じゅ、純金……?」
「はい」
 面の皮のことばに反応した春木が、階段を一段踏みはずした。しかし、板チョコのような名刺はしっかり胸に抱きしめていた。
「おやおや、これは失礼しました。さあ、どうぞお入りください」
 恋川と春木が通されたのは、入り口に〈14〉と書かれた応接室だった。何十畳あるのか見当さえつかない、途方もなく広い部屋だった。壁には美術の教科書で知っている西洋の名画が、いくつもかけられていた。天井には、SF映画に出てくるUFOのような、巨大なシャンデリアがぶら下がっていた。
 二百人は座れそうなソファに、恋川と春木は並んで腰かけた。ふたりから二十メートルほどなれた入り口近くの席に、面の皮は座った。
「ただいま、主人を呼びますです」
 テープルの下から「よっこらしょ」とピンク電話を取り出すと、面の皮は受話器をあごでおさえながら十円玉を数枚入れた。
「……あ、もしもし、交換さん? そう、面の皮だけど、お客さまが見えてね。今、この時間だから、第36号棟でそろばんのお稽古だと思うんだ。……えっ、もう十分前に終わっているから、今ごろは、環状78号線の第53ハンバーガー・ショップで食事をしているはずだって? それじゃ、そこに電話をつないでよ。えっ、第53ハンバーガー・ショップは山二つ越した向こうだから、十円玉がそうとう必要だ……? 困ったなぁ。……あの、すみません、十円玉、お持ちでしょうか」
「ぼくのケータイでよければ、これ使ってください」
 そういって恋川が立ち上がろうとするのを、すぐさま春木が制した。
「恋川くん、見たまえ、昭和の遺物、ピンク電話だよ。面の皮さんは、あえてあの電話機をお使いになろうというんだ。それには深い理由があるにちがいない。……さ、どうぞどうぞ。わたくし、小銭だけは常時たっぷりと携帯しております」
 春木が、面の皮のところに飛んでいった。ふくらんだ財布から小銭を鷲づかみすると、ネクタイを締め直した。
「おや、すみませんね」
「……あっ、申し遅れました。わたくし、この学生の保証人としてうかがいました、大日本帝国大学文学部助教授の春木と申します。趣味は名刺のコレクションでして……、なぁんてね。アッハッハッ……」
「は、春木先生……」
 恋川が、声にならない声を上げた。
「そうでしたか。なるほど、それでインテリジェンスのオーラを目いっぱい放出されているわけですね。あっ、インテリジェンスオーラが、ここにもオーラが……」
「いえいえ、そんな……」
「しかし、保証人というのはどうもねえ……」 
 面の皮の表情が、明らかにくもった。面の皮はそれ以上何もいわず、春木が手わたした小銭をテーブルの上に並べた。
「おや、……なるほど、これが五円玉というやつか。聞いてはおりましたが、何とも可愛い柄ですなぁ、真ん中に穴があいちゃって。バッジにしたいくらいですよ。ドファファファファファ。……あっ、ごめん、交換さん。そうねえ、お客さまに、お金を借りるのもナンだから、きみの方から連絡しといてもらえないかなぁ。お約束のお客さまが、第14応接室でお待ちだと。……じゃあ、たのんだよ。……うん、何? ……ああ、わかってる、わかってる」
 面の皮は三度咳ばらいをすると、受話器を置いた。
「あのう、ご主人さまは、どちらか遠くへお出かけですか?」
 恋川がたずねた。
「いえいえ、屋敷の中におりますよ」
「でも、明らかに長距離電話でしたよね……?」  .
 春木も不思議そうにたずねた。面の皮は春木に小銭を返すと、紙芝居屋のような口調で話しだした。
「なあに、主人の平村平助は、いつだって屋敷のどこかにおりますよ。いったい何をやってるんだか。……いや、そんなことより、こんなところにピンク電話。皆さんには不可解でしょうなぁ。これも、苦肉の策でして。あふれんばかりの財産を、わずかなりとも減らそうと、わが平村家では、内線電話に十円玉が必要なシステムを導入いたしましてな。いうなれば、〈チリもつもれば、山となる〉の応用であります。いやぁ、実につらいですなぁ。ドファファファファファ」
 面の皮が大声で笑った。
「面の皮さん」
「おっ、あなた、まだいらしたのですか」
「この五円玉、本日の記念に1枚進呈いたします」
「あっ、そうですか。それはありがとうございます。……さあ、春木先生、お席におもどりください。ご足労をおかけしました。」
 面の皮は腰かけたまま、ていねいにお辞儀をした。春木は、もう一度ネクタイを締め直した。
「ぐえっ」
「だいじょうぶですか、先生……」
 春木の悲鳴を聞いて、恋川が走ってきた。すると春木は、堰を切ったように話しはじめた。
「面の皮さんは、あなたは、わたしが恋川くんの保証人として不適格だと思っておいでのようだ。たしかに、しがない万年助教授。……だが、お聞きください。わたしは若き日、大学のドクター・コースでシェイクスピアのソネット研究しながら……」
「えっ、何だって!」
 とつぜん面の皮が立ち上がり、直立不動の姿勢になった。
「恐れ多くも、シェイクスピアの研究、だって……!」
「えっ、あっ、はい……」
 春木をにらみつけながら、面の皮がへなへなと腰を下ろした。
「そう、シェイクスピアを研究しながら……」
 すると、面の皮がふたたびがばと立ち上がり、フリーズした。
「……だ、だいじょうぶですか? 聞いてますか? かまわずつづけますよ。……わたくし春木、英文学を研究するかたわら、夜間は精神衛生学を学ぶために、ある専門学校に通っておりました。そこで、催眠術の研究にも没頭したのです。あなたもご存知でしょう。夜中に眠ったまま英単語が記憶できるという、通販のみで入手可能な高額機械。あれは、実は、わたしの発明品なのです!」
 春木が得意気に腕を組もうとしたそのとき、フリーズしていた面の皮が、がぜん元気を取りもどした。
「貧しさゆえに、ついに買ってはもらえなんだ、あの幻の秘密兵器! あれは、あなたが発明したマシンだったのですか! あれさえ親が買ってくれれば、今ごろこんなところで、執事なんかやっちゃあいなかったんだ! シェイクスピアごときに、コンプレックスを持つなんてことはなかったんだ!」
「そうそう、それ発明したの、このわたし!」
「さすがは、春木先生!」 
 恋川もこの事実を初めて知ったらしく、目を輝かせて春木のもとへ走り寄ってきた。と、その瞬間、春木はさっと身をかがめ、絨毯に膝をついた。そして、面の皮に向かって深々と頭を下げた。恋川も、すかさず絨毯に額をこすりつけた。
「おふたりとも、お顔を上げてください。春木先生が、実は大変りっぱな学者であることは、よくわかりました。わたくしとて、ご用立てしたいのはやまやま。しかしながら、主人の了解を得ませんことには、一銭たりともお貸しすることはできんのです。……まぁ、あなた方を、主人が気に入ってくれさえすれば、何てことはないのですが……」
「えっ、ご主人さまが、わたくしたちのことを気に入ってくださればよい、のですか……?」
 恋川と春木が、揃って顔だけを上げ、安物の芝居のように声を揃えていった。
「はい。少々気むずかしいキャラクターでしてねえ……。おおっ、当家の主人、平村平助が帰ってまいりました!」
 面の皮がすっくと立ち上がった、その声を合図に、恋川と春木も腰を上げ、証明写真でも撮るときのような硬い表情をして、応接室の入り口を見つめた。
【つづく】
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「劇団笑ボート」第1回公演『恋の玉手箱』(1979年12月8日、千駄ヶ谷区民会館)舞台写真。(以下同様)
幕前での「金売りの唄」の場面。きれいどころ4名(ベアトリーチェ、宵鳥みろり、花神まるめ、霧乃みなと)による、にぎやかな歌とダンスから、この物語は始まった……。

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平村平助の屋敷。第14応接室。左より大学助教授・春木(南野誰兵衛)、その教え子・恋川はじめ(魚乃目かじる)、平村家執事・面の皮篤三(怪男児日の丸)。

『恋の玉手箱』をもう一度……まえがき/原健太郎

 1979年3月、わたしは、「騒動舎」第1期生の大森美孝、室生春らといっしょに大学を卒業した。同期でクラスメイトの山崎信二だけは、希望の就職が叶わず、1年間留年することになった。卒論以外の単位は取得していたそうだから、苦渋の決断だったのだろう。わたしの妻が、ドキュメンタリー映像作家・牛山純一氏が設立した「日本映像記録センター」にお世話になっていたことがあり、この会社の入社試験を受けたとか、受けようと思っていた、などと、山崎がなつかしそうに語っていたと、最近になって教えられた。細かなことはわからないが、映像関連の職場を希望していたのだと思う。だが、翌年も希望の業界に進むことができず、婦人靴ブランドの老舗として有名な、さる企業に就職した。つまり、卒業年度は、第2期生の怪男児日の丸や南野誰兵衛と同じ、1980年3月ということになる。
 彼らが卒論の制作や就職活動で大わらわだったころ、ひと足さきに卒業していたわたしは、劇団を設立することを思い立った。もちろん、「騒動舎」の仲間以外にアテなどなく、演劇部イズミ・フォーリーの座長だった室生春を中心に、気心の知れた友人たちによる座組をもくろんでいた。「騒動舎」時代、映画部長だった大森にも、もちろん仲間に加わってもらった。ちなみに、室生は英語教育や異文化交流で定評のある教育関連会社に、大森はテレビ番組の制作会社に、わたしは児童図書の出版社に就職していた。社会人1年生のわたしたちは、それぞれの職場で忙しい思いをしていたが、山崎や怪男児、南野の忙しさといったらなかったと思う。それは1年前に自分も経験していたことだから、よくわかる。そんな彼らに、「いっしょに劇団をつくらないか」と持ちかけたわけだ。
 わたしたちが卒業したころは、「第2次石油ショック」(1979年初頭)の余波により、各業界の門戸がひどく狭く、「就職氷河期」などと呼ばれていた。当時、就職活動のスケジュールは、会社訪問解禁が10月、入社試験が11月1日スタートで、11月中に内定が出れば御の字。年を越した卒論提出期に正式に入社が決まる者も多かった。だが、そんなスリリングな時期にもかかわらず、山崎も怪男児も南野も、わたしの無茶な提案を快く受け容れてくれた。
「劇団笑ボート」は、1979年12月8日、渋谷の千駄ヶ谷区民会館で第1回公演をおこなった。たった1日だけの1回こっきりの公演だ。この旗揚げ公演には、在学中、親しく接していた2学年、3学年下の後輩たち(第3期生・当時3年生、第4期生・当時2年生)も、大勢参加してくれた。演目は、わたしが書いた『恋の玉手箱』という、ちょっとした音楽劇だった。もちろん、「騒動舎」でやり残したことを引き続きおこなおうと考えたもので、「ドタバタ喜劇」であることは一貫していた。
 笑ボートは、毎年ほぼ1回ずつ公演を重ね、1986年10月、第9回公演『喜劇・ご先祖様は22歳』(はらけんたろう作・演出、スタジオ赤坂プレイBOX)を最後に解散した。わたしと怪男児日の丸をふくめた残党は、1989年に「劇団ズーズーC」を結成。こちらは、オメオリケイジといしずか陽子によって引き継がれ、現在もたくましく活動をつづけている(鶯谷に自前の劇場がある)。
 都合9回の公演をおこなった笑ボートは、わたしの青春時代の悲喜こもごもと否応なしにシンクロしている。当ブログでは、これまであまりふれてはこなかったが、色々な事柄を忘れないうちに、少しずつ書いていこうと思う。それは、当初、スタッフとして加わってくれた映画部出身の山崎信二が、やがて俳優としても絶大な活躍をとげてくれた事実を記録したいためでもある。
 あれは、『勝手にシンドバッド』だったか、『いとしのエリー』だったかが、盛んに街に流れているころだった。1979年の春だったと思う。社会人を中心とする劇団結成の計画を話すわたしに、喫茶店の有線が奏でるサザンオールスターズの歌に耳を傾けながら、山崎がぼそりといった。「――たちは、さっさと就職しちゃったけど、ぼくたちも、サザンの行き方を目指すべきだったんじゃないかな……」と。そのことばに何と応えたか、不思議なほど覚えていない。しかし、60をいくつも過ぎた今、あの日の山崎のことばがやけに鮮明に想い出されるのだ。
 好きな仕事にもつくことができ、芝居の研究も少しは前に進められた気がする。これ以上の欲をいったら、罰が当たるだろう。自由奔放、勝手気ままに生きてきたつもりだが、山崎のあのことばだけが、心に引っかかってならない。もし、41年前にもどることができたら、もっともっと山崎と話をしたことだろう。自分の思うところばかりを、まるで既成事実のように話すのではなく……。だが、もはや、山崎に確認することはできない。山崎は、もうこの世にはいない。過去の想い出の中にしか、山崎は存在しないのだ。
 笑ボートの旗揚げ作品『恋の玉手箱』は、「騒動舎」の仲間たちの友情によって、奇跡的に上演までにこぎつけられたものだ。今、あらためて、心の中で頭を下げている。その後の7年間の活動をふくめ、わたしにとって、もっとも重要な作品だ。ところが、座長であり、本作の作・演出を担当したわたしは、開演時刻に劇場にはいなかった。公演日間際に、職場から重要な出張を命じられたわたしは、前日より地方に出かけており、東京にもどったのは、公演当日の夜。千駄ヶ谷にたどり着いたのは、芝居がはねて、会場の片付けが終わるころだった。
 わたしの能力とセンス、責任感の欠如のために、未熟きわまりない喜劇公演になってしまったことは、たやすく想像がつく。それが事実であろう。けれども、楽しかった、面白かった、という観客の声が寄せられたことも、これまた事実であり、それが原動力となり、その後の活動につながった。
 自分が書いた芝居で、唯一、自分が見ていない作品が『恋の玉手箱』だ。たくさんの仲間たち、観客に恩義を感じながら、ついに今日まで、その正体を知らないとは。これこそ喜劇であり、また、ばかばかしくも残酷な悲劇といえる。
 今回、この作品を、当時使用した台本を手がかりに「散文化」してみようと思う。ブログというこの媒体で、あの日の舞台を「再現」できるはずもなく、だったら、生身の人間が演じた舞台からはるかに遠い、小説のような、童話のような手法で仕立て直し、もう一度、恥をかこうと決めたのだ。たぶん、10回くらいの分載になるだろう。自分の作品にめぐりあうために、こんなことを企てる者は、そうはおるまい。皆さんには迷惑な話だが、どうか最後までお付き合いをいただき、感想や想い出話を寄せてほしい。 
 わたしはしばらくの間、41年前の世界をぶらつくつもりだ。あの日、間に合わなかった千駄ヶ谷区民会館に、こんどこそ、無事にたどり着きたいと願っている。


原健太郎(第1期)

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「劇団笑ボート」第1回公演『恋の玉手箱』のチラシ。室生春、怪男児日の丸、南野誰兵衛、はらけんたろうと、現「騒動舎リターンズ」メンバーの名前が並ぶ。大森美孝の名前はここには記されていないが、スタッフとして色々フォローをしてもらい、第2回公演『恋の万年筆』(1980年11月)からは、「生活指導」として名前を連ねることに。山崎信ニは「舞台監督」だ。数々のなつかしい名前にうっとりするが、「演出協力」の小林一三は、現在、日本の演劇界を背負う劇作家・演出家のケラリーノ・サンドロヴィッチ氏だ。彼が高校生のころ、つまりわたしの「騒動舎」現役時代より、いくつもの芝居に協力してもらった。このときもレヴューシーンで華麗なダンスを見せてくれたが、第2回公演では、芝居のキーマンである森の妖精に扮し、大いに笑いを誘った。

2020年、あけましておめでとうございます。

昨年は、日本中が大きな災害に見舞われたイヤな1年でしたが、皆様、お変わりありませんか。

お蔭様で、わたしども「騒動舎リターンズ」は、活動開始4年目に突入しました。
相変わらず国の内外を忙しく飛び廻っている者、これまでの経験を活かし、新しい世界に踏み出した者、芸術的な志にしたがい、後進の育成に邁進する者、売掛金や手形の回収に一喜一憂、金策に駆けずり回っている者、家族の健康に心を寄せつつ、ぼんやりと腕組みをしている者……それぞれに、よい事もわるい事もいろいろあった、2019年でした。
今年は、多少なりとも前年の上を行く、よい1年にしたいと願っております。

そのような1年ではありましたが、「騒動舎リターンズ」は、元気に動きつづけています。
実は、一昨年より準備を始めていた新しいプロジェクトが、
除夜の鐘の音とともにスタートしました。「あいつら、また、くだらねェことをおっ始めたな……!」ってな代物です。
舞台は、なんとYouTube! 自分たちも驚いています。
しかし、訳あって、あえて
「騒動舎リターンズ」の名は伏せ、ヒッソリ、コソコソとやっておりますゆえ、なかなかたどり着きにくいかもしれません。
でも、あなたなら、きっとお気づきいただけるはず。いや、ぜひとも気づいてやってくださいませ! そして、勝手ながら、力強い応援をお願いいたします。


なにはともあれ、2020年が、皆様にとって、ステキな1
年でありますように!!

本年も、「騒動舎リターンズ」を、なにとぞ宜しくお願いいたします。

 

2020年 元旦 

 

【騒動舎リターンズ】

  大森美孝

  原健太郎

  室生 春/大室寿俊

  怪男児日の丸/勝永裕幸

  南野誰兵衛/杉田和久

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◆明治大学和泉校舎2号館裏庭の植え込み(2016年5月撮影)。
1976年7月、「てんこう劇場」と名付けたこの地で、騒動舎演劇部イズミ・フォーリーは第1回公演をおこなった。騒動舎の学内デビューだった。当ブログ、2017年5月23日付「騒動舎・黎明期の覚書…4」参照のこと。
http://blog.livedoor.jp/soudousha_returns/archives/2039010.html
昨年、明治大学創立140周年記念事業のひとつ「和泉キャンパス新教育棟整備計画」が始動し、
騒動舎の「聖地」ともいうべきこの一角が、2号館もろとも破壊された。2022年3月、巨大な教育棟に生まれ変わるのだそうだ。2019年は、そんな忌まわしい年でもあった。淋しいったらないヨ……。

赤坂の旧TBSテレビ局舎、テレビ玄関を出て、坂を右に下りながら夏目雅子は「大森、よかったじゃん、セカンドなんて凄い!」と爽やかな笑顔で喜んでくれたのをよく覚えている。局社内でメークを済ませ、番組のポスター撮影かなにかで別場所に案内していた時だったと思う。彼女とはTBS連続ドラマ「野々村病院物語」でご一緒させていただき、1年後に「野々村病院物語パートⅡ」で再会した時の出来事だった。1982年の、確か初秋だったと思う。サードアシスタントディレクターからセカンドアシスタントディレクターに昇格したことを社交辞令もありつつだと思うが彼女は喜んでくれた。私は素直に嬉しかった。今はテレビ業界でもドラマでは助監督という言い方をするが、当時はアシスタントディレクターいわゆるADと言ったものだ。夏目雅子はこれからテレビマンとしてやっていこうとしていた駆け出しADにとってとても大きな存在だった。

彼女は昭和32年生まれだから私より二歳若い。年下の女優に「大森」と呼び捨てされるのには何の抵抗感もない。私も彼女を「雅子さん」と呼んでいた。テレビ業界は年齢ではなく、キャリアだし、その時の身分によると言ってもいい。サードADは番組の中核を担う演出部の一員ではあるが最も下の身分だ。その頃はまだ演出部と制作部の仕事が混在していた時代で、所謂なんでも屋だった。当時の連続ドラマは2クール、26回放送する番組が多く、およそ6か月間かけて収録する。今思うと気の遠くなる時間なんでも屋をやっていたのだ。そんな日々の中で雅子さんとはいくつかの忘れることの出来ない思い出がある。

彼女の天真爛漫で底抜けに明るい性格は生来のものだろう。ともすると険悪な雰囲気になる撮影現場を太陽のように照らす存在だった。照明部助手のKや撮影部のカメラアシスタントNや消え物担当のアルバイト君にまで分け隔てなく気さくに接する主演女優を誰もが愛していた。特に演出部は接する機会が多いのでそれぞれがいろんな思い出をもっているはずだ。

その一つ。物語の中で夏目雅子演じる看護婦紀子が見合いをすることになり、その見合い写真に光栄にも私の写真が使われた。もちろんその後その話は発展しないことをプロデューサーが脚本家に確認をとっての指名だった。衣装さんに背広を借り、メークさんに髪を整えてもらって撮影した写真はアップで放送されたはずだ。夏目雅子の見合い相手になったことは少し嬉しかったかな。ここまではご愛嬌。

私は厳しい上司、チーフADSさんにいつも怒られていた。30年以上前はまだ多少の鉄拳制裁的なことがあった時代で、彼は仕事に対して非常に厳格な先輩だった。私が大声で叱られている光景は名物と言ってもいい位よくある出来事で、初めまわりは「また、始まった・・・(顔を見合わせて苦笑)」みたいな感じだったが、それが何度も繰り返されていくとスタジオの空気が悪くなっていくのを私自身が感じていた。自分なりに真剣に取り組んでいるのだが思うようにいかない。撮影部からも照明部からも美術部からも身内の演出部からも<めげずに頑張れ>的な励ましを頂戴していた。その都度自分が情けなくなった。(Sチーフについて一応名誉のために言っておくと現場以外ではとても優しい人で、ドラマ制作に熱い想いを持った人物だった)ある時私のキューの出し方が間違っていたらしくスタジオの端から私の名前を大声で呼びながら鬼の形相をして全速力で走ってくるSチーフの姿があった。<ああ、また怒られるのか!>と観念していたところ、私をガードするように立ちはだかる夏目雅子がいた。Sチーフが私たちの所に辿り着くや「大森はいつも一生懸命頑張ってやってるんだから、そうやって大声で怒らないでよ!!」夏目雅子はSチーフに向かってそう叫んでいた。当然スタジオにいる全員が注目していた。さすがに番組のヒロインにそう言われると鬼チーフはもぞもぞとするばかりでその場を立ち去った。その直後のことはよく覚えていないが、気が付くと誰にも見られないセットの裏にいた。不覚にも涙がこぼれた。いろいろな感情がこみあげたが何より夏目雅子の優しさが身にしみた。

冒頭に触れたようにパートⅡではセカンドADとしての仕事に励んでいた。セカンドになると裏キューといって、例えばお茶の間などのシーンで途中から芝居場に入って行く俳優さんに、セットの裏でそのタイミングを知らせるキューを出す役割があつた。それは病室のシーンでのことだった。自ら重篤な病いであると知っている外科医蟹江敬三がベッドに横たわっていて、院長の宇津井健と同僚の外科医津川雅彦がその処置をめぐって侃々諤々の意見を言い合うシリアスなの長いシーンだった。(10分くらいはあったと思う)途中から主任看護婦夏目雅子がその議論に加わりさらに白熱していく、というものだ。生と死をめぐる医療ドラマならではの感動的なシーンだった。私と雅子さんは病室のドアの後ろでスタンバイをする。私のキューで彼女がドアをノックし、部屋に入るというわけだ。リハーサルからスタジオには緊張感が張り詰めていた。2回のリハが終わり、いよいよ本番だった。キューを出す時は俳優さんの目をしっかりと見て、手で大きく合図するよう教えられていた。パートⅡでも同じSチーフで相変わらず仕事に対しては厳しかった。「雅子さん、ここからキューを出しますから」と確認すると変顔して私をからかう。「NG出したらまたSに怒られるよ〜」これまでも度々あったやりとりだ。VTRが回った。ADたちの「本番!!」という声がスタジオ中に響く。芝居が始まった。宇津井院長と津川医師の会話をじっと聞いている蟹江さんのリアクション芝居が素晴らしい。モニターを見ながらタイミングを計る。<雅子さん、もうすぐですよ>と目で合図すると今度は体をくねくねしておどけるしぐさをする。いよいよだ。モニターから雅子さんに視線を移し、しっかりと目を見てキューを振る。そこには数秒前の雅子さんはいなかった。全神経を集中して、しっかりと前を見据え、完全に主任看護婦になりきっている夏目雅子がそこにいた。怖いくらいの迫力だった。このシーンが特別なのだとわかる。彼女が病室に入った。津川さん、蟹江さん、宇津井さん、それに彼女の芝居が加わると化学反応を起こしたようにそれぞれの芝居がさらに熱を帯びる。本番の迫力は凄まじかった。スタッフ全員が仕事を忘れて見とれていた。長いシーンが終わる。が、サブコンから監督のトークバックが降りてこない。スタジオ内は静まり返ったままだ。皆その場から動けなかったのだと思う。ようやく監督からOKの声がかかる。監督もOKを出すのを忘れるくらいだったのだろう。その声でようやく次のシーンの準備が始まった。最高の演技を目の前で見られたのは役得だ。他の3人も芝居も素晴らしかったが、とりわけ寸前まで一緒にいて役に憑依した瞬間をこの目でしっかりと見させてもらった夏目雅子に、本物の女優の凄さを感じたのだった。

この段階で、夏目雅子、宇津井健、津川雅彦、蟹江敬三はこの世にいないことに気づく。改めて感謝、合掌。

雅子さんと津川さんは「野々村病院・・」では恋愛パート担当で、二人ともそれを楽しんでいたように思う。リハーサル日の本読み、稽古から始まって、本番当日ギリギリまで監督交えて意見交換をしていた。よく津川さんがアイデアを出し、雅子さんがきゃっきゃっ喜びながらそれに応えていた。津川さんが雅子さんをものすごく可愛がっていたことを思い出す。

あっという間に「野々村病院・・」の収録も放送も終わり、感傷に浸る間もなくそれぞれが次の仕事に散っていった。

そして時は移り、2年後の晩夏だった。Sチーフの愛ある指導のおかげで私もいっぱしのチーフADになっており、その日は朝一度TBS緑山スタジオに行き、制作の部屋に顔を出して、ロケハンに向おうとしていた。緑山スタジオに到着した時いつもと違う雰囲気を感じた。初めての経験だった。スタジオ裏に差し掛かった時大きな音がして足を止める。スタジオに搬入しようとしていた劇用自動車が暴走してどこかに衝突したらしい。やっぱりなんか変だなと思いながらロケハンに行き、夕方近くに戻ってきた。そしてその時初めて夏目雅子がその日亡くなったことを知った。体調不良で西武劇場での芝居を途中降板し入院中だったのは知っていたが、あまりに突然の出来事だった。彼女と共に「野々村病院物語パートⅡ」で仕事をした緑山スタジオでの異変はその前触れだったのか。彼女のいろいろな表情が走馬灯のように頭の中をめぐり、そして夏目雅子とっておきの笑顔がストップモーションになった。その晩自室で聴いた「野々村病院物語」の主題歌は鎮魂歌となった。

まだ駆け出しのAD時代、広い荒野にぽつりといた頃、私にとって夏目雅子は太陽であり、同志であり、憧れであり、希望であり、何より尊敬する女優だった。

それからしばらくしてふと自分はなんでこの仕事を続けているのだろう、と考えたことがあった。その時確信した。夏目雅子みたいな女優とまた出会うため、だと。それは2年前に仕事を辞めるまでずっと続いた。(文中一部敬称略)
大森美孝(第一期)

マイ・フェイバリット・シングス⑤


マイ・フェイバリット・テレビドラマ(アニメも含む)について書いてみます。例によって若干リサーチはしますがほぼ記憶を頼りに書きますので間違いがあったらごめんなさい。

幼少期は「忍者部隊月光」「少年ジェット」「少年探偵団」などを夢中で見ていました。友人たちとそれらを真似る<××ごっこ>が楽しかった時期です。アニメでいうと「鉄腕アトム」「鉄人28号」が双璧でした。朝ドラ「なつぞら」で出てきた「狼少年ケン」も好きでした。ココアも随分飲みました。少し成長して小学校高学年から中学にかけてですがTBSと円谷プロは日本のテレビドラマ界に金字塔を打ち立てます。「ウルトラQ」と「ウルトラマン」です。今思うと作り手側の本気さが子供たちも伝わりました。そもそも子供向けではなかったかと思ったりします。きっと今見ても面白いはずです。(脚本を担当した金城哲夫が沖縄出身だったことが内容に影響を与えているという意見もあるようです)この頃からテレビの魅力にとりつかれ始めました。

そして石坂洋次郎原作の「あいつと私」「ある日私は」です。「あいつと私は」では大学生になるとこんな生活ができるんだ、とキャンパスライフに、ブックバンドに憧れました。松原智恵子と川口恒の土砂降りの中、大木の下でのキスシーンは少年の胸をドキドキとさせました。出生の秘密を持つ川口の翳のある不良チックなキャラクターが良かったですね。自分も松原と同じ明治大学に入りましたが実際の大学生活ではこんな美女とはめぐり逢えませんでしたが・・・。「ある日私は」はブルーコメッツの主題歌を聴くと娘・松原智恵子に母親・高峰三枝子が、女の後輩に女の先輩が諭す「女はね・・・・」で始まるいくつかのシーンが思い出されます。幼心に大人の女性の神秘性を感じさせました。この二作品、ちょっと背伸びした大人の世界に誘ってくれました。当時若者に人気の二大女優といえば日活出身の松原と吉永小百合でしたが、この辺の作品の影響で自分は圧倒的に松原派でした。(東宝の二大女優、内藤洋子、酒井和歌子では酒井派でした)

一転してアニメ「巨人の星」です。中学1年の時甲子園を目指し野球部に入っていたのでこの熱血スポコンアニメはバイブルのような存在だった気がします。しかし自分の野球人生は短く、怪我であっけなく現役を引退するも同じくスポーツ物「柔道一直線」で今や伝説化している近藤正臣のピアノの足弾きや地獄車をはじめとする数々大技に見惚れました。CGのない時代の手作り感が良かったですね。

そして木下恵介アワー「三人家族」「二人の世界」はこれまで見てきたものとは違うドラマの世界がありました。自分がしっかりとドラマを意識し、向き合った最初の作品かもしれません。竹脇無我と栗原小巻がとても上品で綺麗なカップルでした。淡々としているようで濃密で松原智恵子ドラマ(石坂洋次郎ドラマが正解か)と違った大人の世界を感じさせてくれました。今思うと松竹の伝統の力でしょうか。矢島正明のナレーションも作品の良い味になっていました。

そしてドラマ、アニメ界に新しい風が吹かせた「木枯し紋次郎」「ルパン三世」が登場します。「ルパン三世」はこれまでのテレビ漫画の概念を変えたかもしれません。モンキー・パンチの世界をテレビアニメ化したスタッフのセンスの勝利だったと思います。「木枯し紋次郎」も市川崑の映像センスが冴えまくった作品でした。この頃も浴びるようにテレビを見ていました。前述「柔道一直線」のヒロイン吉沢京子の「サボテンとマシュマロ」のポップ感、石坂浩二、浅丘ルリ子の「2丁目3番地」のおしゃれ感。吉沢主演の映画「16歳は感じちゃう」もしっかり観ました。この時期は吉沢京子に少し入れ込んでいたようです。

このくらいになると自分の好みが少しずつ判ってきてクレジットで脚本家、監督名を意識し始めました。山田太一「それぞれの秋」向田邦子「寺内貫太郎一家」市川森一「傷だらけの天使」鎌田敏夫「俺たちの勲章」、本当に名作ぞろいです。そしてその数ある名作の中で最も思い入れの強い作品「俺たちの旅」にたどり着くのです。自分も大学生になっていたので中村雅俊演じるところの主人公カースケにすんなり感情移入できたのも大きかったと思います。光と影の映像センスが抜群なタイトルバックから最後にテロップで出てくるお言葉まで見落とすことがないように集中して見ていました。脚本鎌田敏夫、監督斎藤光正の組み合わせの回が好きでした。映画も大好きでしたが、テレビも捨てたもんじゃないなと自分の仕事として意識させたのもこの作品でした。(鎌田さんとはその後「天皇の料理番」の助監督の時、原稿を取りに行った渋谷の酒場でお会いしたのが初対面で、それから20年後にプロデューサーとしてご一緒できた時は天にも昇る気持ちでした)同時期に倉本聰の「前略おふくろ様」もありました。なんと贅沢な時代だったんでしょう。そして山田太一の「岸辺のアルバム」が始まり、確かこの辺で自分は大学卒業だったと思います。

駆け足での振り返りになりましたが、「ウルトラQ」に始まって「俺たちの旅」までの約15年間、自分がこれらの作品群を見られる環境にいたことはつくづく幸せだったと、書き出してみてよくわかりました。ほかにタイトルを挙げたかった作品は山ほどあったのですが、収拾がつかなくなりそうで控えさせてもらいました。これから先も自分の最大の楽しみの一つは間違いなくテレビドラマを見ることです。
(文中敬称略)

大森美孝(第一期)DSC_0010

マイ・フェイバリット・シングス④


マイ・フェイバリット・ムービーとして何を取り上げるかは大変迷うところです。

今の気分で書いていくしかなさそうです。(若干リサーチはしますがほぼ記憶だけを頼りにしていますので、間違いがあったらごめんなさい)

今春、嘉手納港からボートで20分ほどの場所で海釣りをしました。幸い好天で沖縄の最高の時期といわれる<うりずん>を堪能したのですが、港から遠ざかりコーラルブルーに輝く海越しでどんどん小さくなっていく陸地を眺めていた時、『わっ、太陽がいっぱいだ』と思わず心の中で叫んでいました。本当に見上げると高い空には太陽がいっぱいでしたが、ここは映画の「太陽がいっぱい」を思い出したのでした。この映画、まずアンリ・ドカエの撮影の美しさに圧倒されるわけです。紺碧の海原を疾走する白い帆のヨット、日に焼けた男たちの逞しい肉体、遠くに見える南欧の陽光に映える街並み、その街並みを闊歩する夏服を着た女たち、一転してアラン・ドロンの暗く憂いを帯びた瞳、その対比がとても印象的で、それら全ての映像のアンサンブルは青春の光と影そのものを表現しているようでした。(「死刑台のエレベーター」「サムライ」も撮影アンリ・ドカエです)それにしてもアラン・ドロンは美しかった。完全犯罪を成し遂げた達成感溢れるアラン・ドロンの顔から一気に悲劇的結末へ流れるラストシーンへのギャップは、その余韻を増幅するニーノ・ロータのテーマ曲とともに強く記憶に刻まれました。マリー・ラフォレ、モーリス・ロネとアラン・ドロンとの2ショット、3ショットは自分の頭の中のシネアルバムに今でも刻まれています。映画の頭から尻尾までどこをとっても名匠ルネ・クレマン一流の造形でした。この作品、ここ数年自分の中で首位の座をキープしています。(マリー・ラフォレと言えば「赤と青のブルース」での可憐な歌声もいいですね、映画は観ていませんが・・・)

海つながりでいくなら「八月の濡れた砂」のラストシーンも忘れられません。映画は学園紛争で敗北した若者たちの行き場のない暴走ぶりが描かれていたと思います。自分は政治の季節に乗り遅れたコンプレックス世代ですが学生運動を観察はしていましたので彼らの挫折感を少しは理解できました。カメラが捉える青春の残骸のように海に漂うヨットが空撮でどんどん俯瞰になっていくところがなんとも象徴的で、石川セリの気だるい歌声と共に青春の終わりを告げているようでした。ただ全力でぶつかり、結果全てを失った喪失感ってこの年になってより判る感じがしています。今、彼女の歌声を聴くと優しい気持ちになるのはそのせいでしょうか。(ちなみにこの映画の藤田敏八監督は後年俳優としても活躍されていて、自分の担当するテレビドラマで主人公の父親役で出演してもらいました。自ら〈平成の笠智衆〉と明言し、その通りの渋い演技をしてもらいました)

そんな挫折もない無邪気な世界を描いた「小さな恋のメロディ」は自分の映画のホームラン王です。ビージーズのイン・ザ・モーニングから始まってCSNYのティーチ・ユア・チルドレンでジ・エンドが出るまでのあの夢のような時間はいまだに宝物です。美少女トレイシー・ハイドの可愛さは文字で表現できません。最初で最後、英語でラブレターを書きました。バレーを踊っている必死で健気な形相、雨の墓地で寄り添う二人(相手役はマーク・レスター)、ガラス瓶にいれた金魚を眺めながら街を練り歩くシーン、二人でトロッコを漕ぐラストシーン、名場面は数え切れません。これら名場面は<スター千一夜>内の旭化成のCMでトワエモアの曲とセットで流れていたと思いますが、毎晩その時間が待ち遠しかったものです。好き過ぎてロケ地巡りまでしてしまいました。ネット情報を頼りに行ったのですが、なにぶん不案内な土地なので空振りもありましたが、トレイシー・ハイドが父親を訪ねて行くパブはすぐ見つかりました。そこで飲んだ生温いビールの味は格別でした。そのすぐそばに先ほどの金魚のストリートもありました。穏やかな秋の昼下がりのロンドンでの出来事でした。

ロンドンと言えば、「フォロー・ミー」です。名匠キャロル・リードの遺作です。当時この映画そのものがまるでキャロル・リードの遺言ではないかと思ったほどです。(脚本はピーター・シェーファーなので監督と物語とは直接関係ありません)自由奔放に生きているようでどこか不器用なミア・ファローの生き様が愛おしく魅力的でした。いつも自分の気持ちに正直に向き合い、行動する彼女に対するシンパシーがメッセージされていて全体として優しく監督からそう言われているような気がしたものです。私立探偵トポルとの追跡シーン、一切会話はないのですが、追跡されているミア・ファローの寂しげな表情に笑顔が戻り、その二人の目で交わす会話が微笑ましく、それが幾度か繰り返されて、とても温かいシーンになっています。ここにこれでもかとばかりにジョン・バリーのハイドパークに落ちた枯葉を優しく払う風のようなテーマ曲が流れるのです。思い出すだけで幸せになります。この曲は原さんも触れている林美雄さんのパックインミュージックで一時期エンディング曲として流れていました。

ラブストーリーといえば「ラブストーリーを君に」が自分にとって最強作品の一つです。澤井信一郎監督作品はほかに「Wの悲劇」「早春物語」も大好きですが、自分に一番強烈な印象を残しているのはこの作品です。物語はいわゆる定番の難病ものなのですが、そこに澤井監督が仲村トオルと後藤久美子に魂を吹き込みました。仲村トオルのベストアクトだと思っています。お客さんの感情移入のさせ方などお見事というしかありません。この頃もう自分はドラマの助監督の仕事をしていて、森崎東監督など名演出家とご一緒していたので演出の何たるかが少しずつわかってきていただけに澤井監督のプロとしての仕事ぶりが想像できたというわけです。財津和夫が切々と歌い上げる主題歌は感動とともにしばらく頭の中を駆け巡っていました。

本当に映画と音楽って切っても切れないんですね。

映画の話はなかなか終わりません。(文中敬称略)

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