こんにちは。
 わたしたちは、1976年4月、明治大学に産声をあげたサークル「騒動舎」で、ともに青春時代を過ごした者たちです。昨年は創立40周年の年でしたが、本体は10年ほど前に瓦解しており、現在、明治大学に、「騒動舎」を名のる学生グループは存在しません。
「騒動舎」は、劇映画(8ミリ)の制作と、喜劇の上演(演劇部「イズミ・フォーリー」)を2本の柱に活動をつづけ、学生映画界・演劇界にささやかな足跡を残しました。その孤高の芸術は、全国の若者たちを刺激し、「おらぁ、騒動舎に入りたくってよぉ、三浪して明治大学さ入学しただぁ……」といった、屈強な精神の輩まで現出させるほどでした。20世紀末に端を発する東京一極集中化問題と、わが「騒動舎」は、決して無関係ではないのです。
 
 あの日、まぎれもなく青年だった創立メンバーも、40年の歳月をへて、みな、還暦でこぼこの年齢に達しました。それぞれ、出会いと別れを繰り返し、世界でたったひとつだけの人生を、どうにかこうにか歩んできました。
 
 この間、大切な仲間を幾人も失いました。
 創立メンバーの山崎信二くんも、そのひとりです。2015年7月に59歳で亡くなった山崎くんは、映画や演劇について、ノーガキばかり並べ立てる者たちのなかで、唯一、カメラを回し、録音機材を操ることのできる人でした。そんな山崎くんに、わたしたちは、「メカ山」の愛称を捧げました。
「騒動舎」が初めて制作した映画『僕の日曜日』(1976年)では、録音。第2作『あのころ二人は』(1976年)および、第3作『夏の終曲』(1976年)では、監督。第4作『世界中で一番素敵なあなた』(1977年)では、撮影を担当しました。また、「てんこう劇場」と称する自前の劇場(明治大学和泉校舎2号館裏の芝生の植え込み)での公演をもっぱらとしていた「イズミ・フォーリー」では、裏方を一手に引き受けるなど、「騒動舎」の黎明期において、映画・演劇両面で重責を担いました。山崎くんがいなければ、映画も演劇も、ただの1作もつくりあげることはできなかったでしょう。「騒動舎」が30年におよぶ歴史を刻むことなど、なかったにちがいありません。 
 大学卒業後の山崎くんは、「騒動舎」の行く末をつねに温かく見守り、声援を送っていました。「騒動舎を誰よりも愛した人」といっても、過言ではないでしょう。しかし今は、そんな山崎くんと、昔話に花を咲かせることも、あの頃のように、夢を語り合うこともできません。それが悔しくてなりません。
 
 山崎くんは、もう、この世にはいません。けれど、今はいない山崎くんと、何かいっしょにできることはないだろうか。そんな思いが沸き起こり、このグループ、「騒動舎リターンズ」は結成されました。
 笑顔の山崎くんに再会できるような、何か楽しいイベントを、できれば年内に開催しようと計画しています。今年は、山崎くんの三回忌の年です。
 これを機に、山崎くんが活躍した時代の「騒動舎」を知る人びとと、旧交を温めたいと願っています。あのころ、「騒動舎」のメンバーだった方、何かの事情で、途中で辞められた方も、みな、同じ仲間です。創立時のことなどご存じない後輩諸君にも、参加していただけたら幸せです。「騒動舎」の映画や、イズミ・フォーリーの芝居をご覧くださった方々にも、声をかけられたら、と企てています。
 
 このブログは、在りし日の「騒動舎」にかかわった、すべての人びとの交流の「広場」です。ぜひ、ご参集ください。借金の申し込みはしませんので、ご安心ください。
 
 みなさん、「騒動舎」が、また動きはじめました! 

   2017年5月

                         【騒動舎リターンズ】             
                          大森美孝 (騒動舎第1期)
                          原健太郎 (騒動舎第1期)
                          室生 春=大室寿俊 (騒動舎第1期)
                          怪男児日の丸=勝永裕幸 (騒動舎第2期)
                          南野誰兵衛=杉田和久 (騒動舎第2期)

勝手にしみじみ、大森美孝とわたしの【50年】/原健太郎


1971(昭和46)年4月、騒動舎第1期の大森美孝とわたしは、都立広尾高校で出会った。4月7日が入学式。翌8日が6つのクラスに分かれての顔合わせ会で、わたしたちは1年B組。ふたりとも前月まで世田谷の別の区立中学に通う、一様にどこかあどけなさが残る少年だった。

担任教師によるオリエンテーションの後、クラスメイトの自己紹介が始まった。わたしは「中学時代にひきつづき演劇部に入ろうと思う、趣味は映画鑑賞」なんてことを言ったはずだ。大森美孝も「映画」の二文字を口にしたにちがいない。なぜなら、ふたりはその日の内に親しく口をきくようになったからだ。当時、この学校には演劇部がなかったために(かつては、李麗仙らが活躍した有力な演劇部があったことを、後に知った)、それじゃ、いっしょに「映画同好会」とやらに入ろうじゃないか、という話がたちまちまとまったことを覚えている。

この「映画同好会」での活動に関しては、当ブログ〈「喜劇映画研究会」ブログ開設のご案内〉その1~その8に詳述しているので、ぜひそちらをご覧いただきたい。大森のおだやかな人柄については、皆さん知るところだろうが、案外に押し出しも強く、外部の年長者との交渉力にはしばしば目を見張った。お蔭で、並の高校映研では経験ができないであろう、好奇心と冒険心に満ちみちた学園生活を送ることができたが、わたしはといえば、この活動に入れ込み過ぎたため、受験勉強にはさっぱり身が入らず、結果、受けた大学は全オチ。大森とのつきあいもこれまでかと思いきや、入学した予備校、代々木ゼミナールの教室で、思いがけずまた顔を合わせた。一方、われわれ同様、「映画バカ」として知られた広尾の学友、渋井正幸も、代ゼミの人となっていた。この浪人時代のことも、当ブログ〈脚本家・才賀明と幻の劇団「東京新喜劇」〉①~⑧にたっぷり書いた。

翌1975(昭和50)年4月、大森、渋井、わたしの3人は、そろって明治大学に入学した。大森と渋井は法学部。わたしは文学部の演劇学専攻。この事実は、「偶然」を通り越し、今となっては「運命」としか言いようがない。「こうなったら大学でも、何かいっしょにやるしかないよね」と、きっと誰もが思っただろう。

この年の11月、「騒動舎」の前身である「明大8ミリ映画研究会」が生まれた。渋井が書いたシナリオ『僕の日曜日』を映画化するにあたり、女優とスタッフをかき集めるべく、お茶の水の駿台祭会場に急遽出現したグループだ。ここには、わたしの大学でのクラスメイト、室生春と山崎信二(2015年死去)が参加してくれた。だが、約半年間、さまざまな障壁を前に、『僕の日曜日』はついに完成にはいたらず、グループも解散となった。このあたりの経緯も、当ブログ〈騒動舎・黎明期の覚書〉①と、大森さんの筆になる〈横須賀ストーリーpart2〉を併せてご覧ください。

1976(昭和51)年4月、「明大8ミリ映画研究会」の残党は、それでもまだ一縷の望みをかけて、和泉キャンパスの掲示板に、メンバー募集のチラシを貼りだした。すでに「騒動舎」の名称と、映画製作と喜劇の上演という2本立ての活動方針は決まっていた。だが、当然、活動実績はゼロ。大学公認のサークルでもなかった。ところが、昼休み、勝手に詰所にしていた図書館のロビーに、おっかなびっくりやってくる新入生の姿があった……。

4月末、怪男児日の丸(文学部英米文学専攻)が入舎。11月、彼が室生春らとともに駿台祭で演じた『笑劇・瞼の母』を見た、やはり1年生の南野誰兵衛(商学部)が仲間に加わった。それまで彼は、テニスサークルの一員だった。

大森美孝と出会ってから、まる50年。実に半世紀! もしあのとき、広尾高校に演劇部が存在していたら、わたしはそちらへ参加していて、「映画同好会」で、つねに大森と行動を共にするようなことはなかっただろう。もちろん、その後、たとえ大学がいっしょになったとしても、「騒動舎」のようなサークルを設立しようなどとは、おたがい考えなかったにちがいない。やはり、「運命」だったのか。

高校で大森と出会い、友情を築き、大学で「騒動舎」を結成したことで、多くの素晴らしい仲間たちを得ることができた。なんて幸せなことだろう。いつも大森がそばにいてくれたから、たとえようがないほど愉快で、熱のこもった青春時代を、少しもブレることなく過ごすことができた。自分が何をしたいのか、何をすべきなのか、教えてもらった気がする。

3年前、大森は長くたずさわっていたテレビの仕事を卒業し、新たな活動拠点を沖縄の那覇に定めた。ずいぶん遠くへ行ってしまったものだ。それに加えて、このコロナである。たやすく会えないのが残念だ。しかしながら大森が、今も、たがいが15歳の少年のときと変わらぬ、強い信念と情熱、そしてバイタリティを持ちつづけていることを、わたしは知っている。相変わらず大森は、わたしにはないものをふんだんに持っている。

大森に負けないよう、わたしもわたしなりに、残りの人生を歩んでいこうと思う。



2021年4月7日 原健太郎(第1期)

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高校に入学して間もなく、「映画同好会」の仲間たちと数寄屋橋にあったロードショー館、ニュー東宝(のちのTOHOシネマズ有楽座。2015年閉館)へ『小さな恋のメロディ』(1971年/英/ワリス・フセイン監督)を見にいったときのもの。大森美孝が絵看板をじっと見つめている。この映画、掛け値なしにいいよね。撮影は「映画同好会」兼「写真部」の楠岡泰さん(下の写真も同様)。
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これも1年生のときのもの。大森美孝とわたし(左)。かなり早い時期のツーショット写真。夏頃だと思うが、いったい何処へ遊びにいったときのものか、大森もわたしも残念ながら覚えていない。当時のわたしの手帳は、映画の記録や感想ばかりで、その他の事項はほとんどスルー。やれやれ。
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◆左/高校に入学し、生まれて初めて持った定期券。東急大井町線「尾山台」駅⇔東急東横線「渋谷」駅。学割とはいえ、6か月間で3,350円。現在は16,850円。「半世紀」という時の流れが、如実にあらわれている。
右/学バス回数乗車券。「15円券」と記されている。現在は地下深くに潜ってしまった東急東横線「渋谷」駅は、ついこの間まで地上に改札口があり、プラネタリウムやロードショー館の渋谷パンテオンなどが入っていた大きなビル、東急文化会館(現・渋谷ヒカリエ)と向かい合い、その間にバスのロータリーやタクシー乗り場があった。広尾高校までは、明治通りを渡る横断歩道橋をのぼって、渋谷警察署側の階段を降り、徒歩で20分ほどだった。だが、駅の改札口間近に都バスの停留所があり、そこからバスに乗ると、高校の近くまで楽をして通学することができた。渋谷駅から青山学院初等部、実践女子学園、国学院大学、東京女学館等をへて、日赤産院(現・日赤医療センター)までを周回する「学バス」といわれるもので、料金が割安だった。広尾高校の最寄り駅は国学院大学前で、そこから歩いて1、2分だったが、バスに揺られてもやはり20分ほどの時間を要したので、入学してからほどないうちに、仲間たちの多くは、駅から学校までの道のりを当たり前のように歩くことになる。学校からの帰路はなおさらで、そのまま盛り場に直行という寸法だ。渋谷全線座、東急名画座(東急文化会館内)、渋谷文化などの二番館も多く、小遣いの少ない映画少年にとってはパラダイスにも等しかった。料金は120円から150円ほどだった。……以上、長々と思い出話を記したが、70年代初頭の記録としてあえてとどめておく。

2021年になって3日が過ぎました。

皆さんが無事に新年をお迎えになっていることを切望します。

ラグビーが決勝まで進めず、駅伝ではシード権を失い、ちょっと残念な新年の滑り出しですが、まぁ来年までのお楽しみということで、今年一年、健康に気を付けつつ、楽しくやっていきましょう!!!

皆さんの「騒動舎リターンズ」ブログです。
どんな書き込みでもウェルカムです。何卒よろしくお願いいたします。


騒動舎リターンズ
大森美孝
原健太郎
室生 春/大室寿俊
怪男児日の丸/勝永裕幸
南野誰兵衛/杉田和久


レッスン開始。すべてはここから始まった!

 ようやく、SAXのレッスンを神保町の下倉楽器ではじめることとなりました。店員さんが私がアルトかテナーのどちらを購入するかを迷っているとアルトサックスを進めてくれました。初心者が始めるのは大抵は扱いやすいアルトから始めるのが普通だったのです(勿論、後でわかったことですが)。会計をしてもらっている間、店員さんから「初心者なら、レッスンはどうするのですか?」と聞かれ、まだ決めていない旨を伝えると、それならこちらで日曜日に個人レッスンをしているのでいかがでしょうか?と言われその場で入会しました。そのころは私には他に音楽系の知り合いもいなかったし、店員さんがかなり親切な方で(鈴木さんという方で、以降いろいろなことでアドバイスを頂きました)すぐに決めたということです。しかし、今考えればこのことがそれ以降の私の人生に大きな意味を持っていたことは否めません。なぜならその時の講師の先生と出会ったことが以降30年以上バンド活動を継続できた大きな要因だったからです。おそらく、私も先生もその時そんな未来が待っているとは夢にも思わなかったでしょう。
 さて、先生は佐々木隆信先生です。長年私立高校で音楽の教師をしながら吹奏楽の指導に当たり何回も全国大会で優秀な成績を収めた方で当時はまだ30歳代で日曜日には学校以外でSAXの指導をされていた方です。最初にお会いしたときこれまでの音楽経験を聞かれ、ピアノを3年間ほど習っていたことと、楽譜が読めることを伝えたら「そうか?まあやってみてだめならやめればいいか?」と言われて、面白い方だなあと思った記憶があります。普通は初めて会った生徒さんにこんなことは言わないだろうなあと思います。とりあえず私は月謝を払うお客様なのですから、上手くなろうとなるまいと長くいてくれればお金になるわけなので「だめならやめれば」はびっくりしたと同時にこれは私と馬が合いそうだなと直感しました。
 SAXはいろいろ難しい点はありますがとりあえず指使いはリコーダーと同じで初心者でも簡単に音が出てすぐに演奏できます。(それが本当の音かは別として)トランペットやトロンボーンなどよりは扱いやすく手っ取り早く演奏している気分に浸れる楽器です。レッスンは月3回の日曜日SAX
10:30から30分間(月謝3,000円)。他に数名生徒さんがいたらしく私の次に時間を待っている人がいました。先生は明るい方でなんでも話してくれて大らかに音楽のことをとらえている方でしたが逆に言うと大雑把すぎて真剣に音楽を突き詰めようと真面目に考える生徒さんには物足りないかな?という感じだったと思います。それから、3年間頑張ってレッスンに通いました。そして、いよいよ転機が訪れます。(第3期 怪男児日の丸)

★騒動舎アーカイブスの・ようなもの……報告8

2020.12.1…………第3期・遠藤哲也氏より、騒動舎の活動紹介記事、コピー受贈。 
 
 0036 「東京4大学〈映研〉特別座談会 今の邦画界は監督が可哀想だ!」(「平凡パンチ」1979年9月3日号、平凡出版=現・マガジンハウス発行)

 
本年11月22日付ブログ「いい人たちとの夏 ー京都太秦ー by中山一宏(第3期)」に掲載された画像の原本コピーを、第3期・遠藤哲也さんよりお贈りいただきました。同ブログ記事のコメント欄に遠藤さんが書かれているように、「第4期の徳住君がリターンズ公演(もう3年前になりますね)の直後、こんなのありました!と送ってくれた物(COPY)」だそうです。第4期の徳住ゆたかさん、貴重な資料を発掘していただき有難うございます。「騒動舎アーカイブスの・ようなもの」で大切に保管させていただきます。

 全5ページの記事ですが、「80年代へ―衝撃のニューロマン! 絶賛上映中!」のキャッチコピーが添えられた、にっかつ映画『十八歳、海へ』(藤田敏八監督)、『スーパーGUNレディ ワニ分署』(曾根中生監督)の広告も掲載されており、当時の映画青年らを強く意識した構成になっています。
 座談会には、明治大学「騒動舎」(中田俊一、関根潔、遠藤哲也)のほか、和光大学「唯幻写」、大東文化大学「映像集団・ウエイブ」、日本女子大学「映画研究会」が出席。中山さんが書いた物語「いい人たちとの夏 ―京都太秦―」の舞台である1979年夏の東映京都撮影所(太秦)で、各大学の映像クリエイターたちが、いかにプロの映画人にアプローチし、作品を製作したかが、たいへん情熱的に語られています。
 追ってデジタル化ののち、希望される方にお読みいただけるようにいたします。 2020.12.2 デジタル化済

「騒動舎アーカイブスの・ようなもの」では、時代を問わず、騒動舎にゆかりのある物品、ビデオ、印刷物等の寄贈を、お待ちしております。ともに「青春」を生きた騒動舎のあれやこれやを、みんなの共有財産にしましょう。

原健太郎(第1期)
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「平凡パンチ」(1979年9月3日号平凡出版=現・マガジンハウス)表紙。
画像はネットよりお借りしたものです。

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「平凡パンチ」(1979年9月3日号、p48~52)「東京4大学〈映研〉特別座談会 今の邦画界は監督が可哀想だ!」。その一節……。

--で、今度、東映京都ではどんな映画を作ったわけ?
中田「ウチは、菅原サンという殺陣師サンに焦点をあてて、ドキュメンタリーを撮った。タイトルは『殺陣師見参』。菅原サンの動きや考えかたを中心に、監督サンや松方(弘樹)サン、萬屋(錦之介)サンなどのインタビューをフィルムに収めてきました。菅原サン、すごい映画の好きな人なんで感動してるんです。」



いい人たちとの夏 ―京都太秦―   by 中山一宏(第3期)

◆「最初の日」=騒動舎がやってきた=


S#1

暑いのぉ。暑い、暑い。今年はほんま、特別や。

おまけにこのくそ忙しい時に、東京のハナたれ大学生の相手をせにゃならんとはね。

本社の奴らの考えてることはわからん。

ほんま、だっるいわ。



S#2

何や、あいつらか、ぞろぞろぞろぞろ仰山。

又、いけ好かない恰好してるわ。

あーあ、おそろいのTシャツ着て、何やあの英語。

読めん、意味わからん。


何や、あのナンチャラ研究会。

本編は研究するもんちゃう、シャシンは人生や。


何や何や、勘違い組がいまっせ。

いや、組ちがう、何とか舎、書いてある。騒、動、舎。物騒な名前やな。

ちゅーことは、あの人ら舎弟ですか。

あかん、このご時世、そういう人らは撮影所に入れたらあかん。

あっらー、エプロン付けてますな。


魚屋さんは黒のゴム。

職人さんは茶の革。

絵描きさんは絵の具でぐちゃぐちゃのデニム。

あの学生さんは、何故ピンクの布のエプロン?


ピンク……かわいい……女子……。


女子……好きなもの……甘いもの……。


わかった。食べ物や。あの学生さんたち食べ物係や。

そうや、大原の団子屋さんや。間違いない。

でも何で? あの人らまだ何もしとらんのに、もうフラフラしてる。


……………………


たしかに明治大学和泉校舎は、世田谷区大原の近くだけど。

騒動舎は団子屋さんではなく、「学生映画サークルを集めて時代劇8mm映画を撮らせて、

映画の宣伝に使う」という、この企画を立ち上げた人たちだ。

でも、言い出しっぺの林崎はいないけど。

とはいえ、こうして中田、遠藤、阿部、関根、桜田さんの京都の夏は始まった。




◆「次の日」=味のあるホテルから=


S#3

おはようさん。

昨日はやること多くて、家に帰れなかったわ。

まったく、学生さんの相手は世話がやけるの~。


何やあのイチ、ニ、イチ、ニは。

あれま、明大の学生さんや。何で体操してるんやろ。

まだ7時30分や、9時のボーまで、まだずいぶんありまっせ。


そういえば学生さんら撮影所の向かって左にある、味のあるホテルに泊まってると言って

たな。

京都のホテル、もうちょっとあるやろ、「宝ヶ〇プリ〇〇」とか「藤〇ホテ〇」とか。

そんな老舗や高級ホテルでなくても、「ギン〇ンド」やら「京都タ〇-第1・第2」とか。

お手頃なところあったやろ。

本社の奴らの考えてることはわからん。


ありゃま、もう汗だくや。

そんなんで今日の撮影持ちますか?


おっと、9時のボー、サイレン鳴ったわ。

ここ太秦は、9時のボーで撮影開始、12時のボーで昼休み、夕方5時のボーで仕事仕舞い

や。

もっとも東京から来た役者さんが帰る日や、夜間のロケがある時は夕方5時では終わらん。

そういう時は、監督さんから直接、「みんな頼むで」そう言ってくれたらエエ。

わしらも人間や、残業は気持ち良くや。


さぁ、仕事始めな。

あれまっ、明大の学生さんどこ行ったんだろ、いなくなってしもた。

さては尻尾巻いて東京に帰りましたか?



S#4

映画といえば、やっぱ監督やな。

撮影中は「〇〇組」言うて、監督の名がつく組ができるくらいや。

でもな、監督になるには厳しい助監督生活がある程度必要だった時代もある。


まずはカチンコや。

監督のヨーイ、スタートの号令の後、助監督さんのカチンコで演者さんの芝居が始まる。

でもな、いつも同じように打ってたんじゃつとまらん。

合戦シーンなら大きくカチ―ン。

悲しいシーンなら聞こえるか聞こえんかのようにカチ。

もっとできる奴は「後ボールド入れます」とか言って、監督の静かな「ヨーイ、スタート」

から「カット」の声かかったら、カチンコ逆さまにして2回カチカチと鳴らして終了や。

音で雰囲気作るんやな。センスや。そう、センスが必要なんや。

それだけやないで。

エキストラさんの流れ、演者さんに持たせる小道具の中身、消え物のレシピや器、もっと

細かくあるけど画面に映る演出のすべては、担当する専門の係と一緒に、助監督さんたち

が段取っとるんでっせ。



S#5

あかん。

その自転車。剣友会の皆さんが撮影所のセットの移動用にしとるやつや。

勝手に使ったらあかん。


あら、剣友会さん笑っとる。

そうか、明大の学生さん、もう話つけてたのか。

何で、後ろ向きに乗ってカメラ担いでるの?

ああ、移動撮影。

そうか、自転車を移動車に利用してるんでっか。



S#6

どんな大御所も、お衣裳さんや結髪さんといる時は穏やかな表情になるもんです。

やっぱり身近でお世話をしてる人たちとはそうなるんでしょうな。


あかん、楽しく話してるのに撮影したら。


あらっ、大御所、怒らへん。

何でや、あらま、明大の学生さん、マネージャーさんと話してる。

そうか、根回し十分や。



S#7

現場に着いたらまずカメラや。助手さんが重いカメラ担いで、どこかにぶつけてカメラや

他の大事なもの壊さないように、大勢で周りを固めて、慎重に運んで位置を決める。


「カメラ通ります」


あっ、学生さん、ついていかないで。重いし、高いし、危ないし、怒られるで。

えっ、「助手さんたちの仕事の大変さと、カメラがどんなに大事にされてるかを伝えるには、

近くで『汗』を写さないと」

そうか、ここちゅうこだわりは譲れんのやな。



S#8

照明部さんと録音部さんは、普段は仲良しやけど、そうでもない時がある。

カメラ位置が決まったら次はライトとブームの場所の取り合いや。

どっちがより良い場所に行けるか。

カットカットが勝負や!



S#9

「お静かに。ガヤ録ります」おっと、録音技師さんや。

学生さん、今はカメラ回したらあきません。

8mmのチリチリという音が入ったら台無しでっせ。


良かった。OK出たわ。

あらっ、学生さん、技師さんに何か言ってる。

何、「ガヤ録りの時の技師さんのアップ撮りたいのでもう一回お願いできますか」

へっ、何言ってんケツカンネン。

あら、照明の助手さんたちがライトとレフ板、技師さんに向けてしもうたがな。

こりゃ断れん。

ちゅうか、技師さん笑ってOKしてる。

何でやねん。



S#10

何やわからん。

剣友会さんからは自転車借りるし。

お衣裳さん、結髪さん、演者さんにはいつの間にかマネージャーさん通して話付けてるし。

撮影部さんは、35mmのすぐそばまで行って撮っても文句言わんし。

照明部さん、録音部さんは、次の場所取りも行くのほっといて笑ろうてるし。

助監督さんたちも、学生さんがエキストラさんの中に入って撮影してると、「時代背景が違

いますから、ピンクのエプロン外して割烹着か前掛けに着替えてきて下さい」とか冗談言

うてる。

何や、あの騒動舎っちゅうのは、いつのまにやら現場の主や。居るだけで皆、笑顔になっ

てるわ。

ようわからんけど、エエ雰囲気を作っとるな。何やろ、けったいな人たちやな。


……………………


でも、この時なぜ、7時30分から体操をしていたのか、誰も知らない。

そして、エプロン。更には、関根の車で京都まで来た謎。

それもまだ誰も知らない。




◆「次の次の日」=殺るか殺られるか=


S#11

今朝もイチ、ニ、イチ、ニ言うてたな。

明大の学生さん、今日も一番乗りやったわ。

それに顔もシュッと締まってきて、男前になってきたわ。

もっとも俳優さんにはあと一歩やけど、何とのう、撮影所に似合ってきたな。

おっと、12時のボーや。



S#12

撮影所入ってすぐ右の建物の1Fにある食堂。

ここがワシの食卓や。

1年365日、毎日ここや。

嘘や、正月は劇場行くから362日。

ごめん、給料日は外食やからな、350日や。

何で外食かて。

それはやな、東映撮影所のある「太秦」から松竹京都映画撮影所がある「帷子(かたびら)

の通じ」までは一駅や。

でもな、その間にはお手頃価格の「うまいもん屋さん」が仰山ある。

そんなエエところに通ってるのに行かない手はないやろ。


何食べるかて、そりゃもちろんビフカツや。


ありゃ、明大の学生さんも食堂におったわ。

何食べてはる。


あちゃー、素うどん。

切ないのぉ、お金乏しいのかのぉ、体力大丈夫かいな。



S#13

おっ、どこぞの組で改定稿出たんか、助監督さんたち、昼休憩忙しかったの。

食堂脇の掲示板に変更のお知らせ、出てたかの。まぁ、エエわ。

しっかし、このガリ版刷りっちゅうのは味がある。

そのうちコピーやプリントアウトいうのが出てくるんやろうが、やっぱりガリ版や。

書き文字は勢いがある。気持ちが出る。人柄が溢れる。

そういえば出版局にいた村岡、本社に転勤になったままずいぶん戻ってこんなぁ。

困ります、現場に居てもらわんと。

本社の奴らの考えてることはわからん。


で、どう変わったんや。

「大きな靴を運んでくる人々、そしてたくさんの靴が空から降ってくる」

何やコレ? 寺〇修司か?

もうひと組出てるわ。

「野原にポツンと紅いテント、中から声がする。『テントは無限に広がります。もう少し、

あとお一人、5cmずつお詰め下さい』」

無茶苦茶や。唐十〇のパクリやで。


いけるか、大きな靴とたくさんの靴、紅いテントとエキストラさんもいっぱい必要や。

そんな時頼りになる、何でもできるスーパースタッフ山崎さんは本社やで。

「急に言われても」って笑って完璧にやってくれる人はどこにも居ませんで。

困ります、現場に居てもらわんと。

本社の奴らの考えてることはわからん。



S#14

そういえば明大の学生さんら、本社からワシらのこと撮るドキュメントリーにせえ言われ

て、自分らの企画変えてしもうたらしいわ。

でもな、ワシ知ってる。

撮影の進行表よく見てみい。

最後のとこ。〝中田の考えた立ち回りを実際に殺陣師さんにやってもらう〟

どうや、自分らのやりたい事、諦めないでちゃんと入れてるやないか。

しぶといのぉ、大した奴っちゃら。



S#15

今度は、「11PM」の取材受けてるわ。

撮ったり撮られたり忙しいのぉ。

息つく暇もないってこういうことやな。

何答えてるんやろ。


「『明治の首領(ドン)』の頭撮りはやったんですけど、どうしても気に入らないのでもう一

度構想を……」

何ぃー!

「明治(生まれ)の首領(親分)の頭(タマは獲ったんですけど)どうしても気に入らな

い(相手)なので、もう一度(抗争)を(起こす)……」


―音楽― 「スモーク オンザ ウォーター」イントロから大音響で。


あかーん、やっぱり舎弟や。

撮影所に入れたらあかん人たちや。


落ち着こう、とにかく落ち着こう。


で、こっちは大御所に取材中や。何聞いてんやろ。

「そうなんです、東名で名古屋までは来たんですけど、名古屋からは下道です」

「将来ですか? 将来の夢は日本一のトマト農家になる事です」


―音楽― 「いとしのエリー」静かに。

掌の上で踊る様に弾むトマト。

スローモーションで、トマト……トマト……トマト。トマト……トマト……トマト。


あんたが答えてどないする。

何で京都までの道のりと自分の将来の夢の表明してるんや。

でも大御所、笑ってるわ。

そういえば大御所もドライブ好きやし、歌舞伎界から映画の世界に夢を抱いて飛び込んで

きたから、そういう話は好きなんやろな……。

おっと、しみじみしてる場合じゃない。

明治生まれの親分や。親分いうたら広島やな。

そういう出入りあったか、広島出身の文芸部の高橋と、俳優部の和瀬君に聞きに行こ。

あか~ん、無理や。

あの二人も本社に転勤になってしもた。

困ります、現場に居てもらわんと。

本社の奴らの考えてることはわからん。


あぁ大丈夫や。もう一人、広島出身が居たわ。制作部の平野君や。でも制作部いうたら、

年がら年中あっちこっち飛び回ってるから、捕まえづらいな。まっ、仲間がたくさん撮影

所に散らばってるから、その人らに聞けば見つかるやろ。


……………………


新たに出てきた名古屋からの下道問題。

未解決を多く抱えたまま、迎える最終日。

明日はどうなる。




◆「次の次の次の日」=だって愛しているんだもん=


S#16

今日もイチ、ニ、イチ、ニ言うてたなぁ。

何かあの声聞くと落ち着くようになってきたわ。

不思議やの。

しっかし何だかあの人ら、日に焼けて頬もこけて、鬼みたい顔になってきましたな。

ピンクのエプロンやし、赤鬼やなくてピンク鬼やな。

あっ、ボーや。



S#17

今日もちょこまか、ちょこまか撮ってたわ。

でも何や、いつもと様子が違ってたな。

怒られてたし。手を振ってイヤイヤもされてた。笑われてたし。ペコペコ頭を下げてもい

た。

どないしたんやろ。

最終日だいうのにスタッフさんと揉めてたんか。

心配やな。何とか上手くやってや。

そんなん言っててもボーや。

今日も素うどん食べるのかのぉ。

切ないのぉ、お金乏しいのかのぉ、あともう少しだけ気張ってや。



S#18

ありゃもうエエ時間や、そろそろボーやな。

明大の学生さんらも、もう仕舞いやな。


まてよ、まだ中田さんの殺陣のシーン撮ってへんやろ。

えらいこっちゃ、まったくもう。ちゃんと段取ってやらんと大変や。手伝うたろ。

学生さん、まだ現場におるやろか。



S#19

あかん、ボー鳴ってしもた。手遅れや。


何や、皆まだいるやんか、どないした?

「いやね、撮影してたら『相談してもいいですか』言うてきて、『何や』言うたら『夜に撮

影するので照明貸してください』って。そんな急に言われても本当は無理や。でも、理由

(わけ)聞いたら本社のせいや。『貸すのは無理やけど手伝いはできる』言うてちょっとだ

けな。中田さんも『お願いします』言うてくれたしな」


こっちは何でや。

「オープニングは大俯瞰からのクレーンダウンにしたいって中田さんと殺陣師さんが話し

てるのが耳に入ってきたんや。でもな、その撮影方法がカメラマンが梯子から降りながら

撮る言う。『そりゃあかん、ブレブレでっせっ』て笑うてな、『クレーン使わな無理やろ』

言うたら『じゃ貸してください、お願いします』言われてな。こっちも言った手前、『貸し

たるわっ』てなって。クレーンは人手がいるから、ワシらも手伝いや」


あんたらは何でや。

「殺陣言うたら『ズバッ』とか『チーン』とか『ジャリ』とか、音、必要でしょう。ワシ

ら普段は音録る方で作る専門やないけど、学生さんら“デンスケ”使ってるから、『アテレコ

できるか』って聞いたら『東京に山岸荘スタジオというポスプロ用の部屋あります』って

言う。じゃあ大丈夫。東京帰ってから音あてれるように、効果さんに頼んで道具借りてき

て。でもな、現場見とかんとタイミング解らんし。場所もここで録れば一発OKやろ。だ

ってなぁ、学生さんら朝からあっちこっちに頭下げて頼んではるからイヤでも耳に入って

くるわ。何やらうまく巻き込まれたみたいや」


そうか、それであんたらもか、お衣裳さんも、結髪さんも、大道具さんも、小道具さんも。

「そうや、一緒や」

「汚してもエエで」

「壊してもエエで」

「何ぼでも始末つけたるわい」



S#20

「皆さん、御協力どうもありがとうございます。よろしくお願いします」


「こちらこそよろしくお願いします。中田監督、中田組の皆さん」


「中田監督?中田組?」

「そやろ、見てみぃ。こんなにたくさん太秦のスタッフ、キャスト集めて。おまけに機材

まで使って。これが組じゃなかったら何でしょうか?」

「さあ、準備や」


何やこの流れ。

でも、確かに「質」「量」共に「組」になっとる。

昨日解ってたら、掲示板に「中田組 17時 夜間ロケ 立ち回り 撮影所内オープンセッ

ト」って香盤表、今朝から貼ったのにな。

そしたら太秦始まって以来、初めて学生さんが掲示板に香盤表貼った言うて大騒ぎやった

のにな。



S #21

いやー中田組、すごかったのぉ。


「ヨーイ、スタート」「カチ―ン」

グワーン、スーッ。ダ・ダ・ダ・ダ・ダ、ジャリ。

ジリッ・ジリッ・ダッ、チョンチョン、チーン。

チーン、ズバッ。バタッ。バタッ。

チーン、ズバッ。バッタバッタ。

ジャリ・ジャリ。ダッ、パッ、クルリッ。

ズバッ、ダバ、バッタリ。

サラサラサラサラー、カチリ。

「カ-ット、OK」「カチン」

拍手喝采や。


あっ明大の学生さん、騒動舎さん。中田さん、遠藤さん、阿部さん、関根さん、桜田さん、

ご飯行きましょ、御馳走しますわ。

何かて、そりゃビフカツですがな、給料日やないけど。

えっ、ビフカツ知らん、牛ヘレに衣つけて揚げたやつ。

へっ、東京には無い。

あちゃ、そうでっか、そりゃ良かった。

食べたことないなら一回試してみなはれ、何でも挑戦でっせ。

何、お酒も付けてくれ。まだ飲むんかい。


ワシが何も気づいてへんと思うとるのか、ワシは本社の奴らとは違う。

でもな、あんたらのおかげで特別な夏になって楽しかったわ。

ありがとな。いくらでも飲んでエエよ。

お礼や。



S #22


―音楽「煙が目にしみる」―


画面に以下のロールがあがる


騒動舎だっておそろいのTシャツを作りたかった。

胸に大きく騒動舎。

背中に「No Life No Film」とか「映画バカ一代」とかよくあるやつを。

しかしそれを決める総会が「FilmじゃなくてFilms」では、とか。

「映画バカ一代」より「映画の星」の方が良いのでは、という長い会議になり、そこにお

酒が入るというありがちなパターンになった。

結局Tシャツ代はお酒に消えた。

しかも飲み足りず、旅費にまで手を出しそうになった時、誰かが「エプロンでいいんじゃ

ない」という事で落ち着いた。

しかしここで問題が。

宿と食費は本社持ちだが、新幹線で行くと京都での飲み代が無くなる。

そこで目を付けられたのが車を持っている関根だった。

ガソリン代、高速代は持つからと言われ、しぶしぶ付いてきた。

名古屋までは高速に乗ったものの、車中、誰かの「高速に乗っていては好きな時にお酒が

買えない」という発言があり、関根以外賛同。

結果、名古屋から下道に降り、運転し続けた関根と飲み続けた他の4人は、フラフラで京

都に入った。


ちなみに関根は、日本一かどうかはわからないが、そこそこ有名なトマト農家になった。


―音楽「ニューシネマパラダイス」レコードのシャリシャリという回転音からモノラルで


7時30分からの朝の体操は大好きな撮影所に少しでも長く居たかったから。そして、前の

晩のお酒を抜くため。

素うどんはお金の事なんかじゃなく、それ以外の食べ物は胃が受け付けなかったから。

激やせは単に体調を崩していたから。

そして、日焼けは一生懸命撮影をしてたから。


そんな中、太秦にひとつのメッセージを残した。


「ビフカツは東京にはない」


この日以降、東京から太秦に来た関係者との会話は、「ビフカツ知ってまっか?」「何です

かそれ?」という、わけのわからないやり取りからスタートすることになった。

しかしこれが、騒動舎がきっかけになったとは太秦の正式な記録にはない。

記憶に残るが記録には無頓着、この長〇〇雄的エピソードは、実に騒動舎らしい。


ちなみに関根のガソリン代と高速代は、「あんな大御所と直接話ができたんだ。いい思い出

を金に替えるな」と誰かが言ったよく解らない一言でチャラになった。

これもまた騒動舎だ。


何より、仲間の誰かがどうしようもない何かの事情で、途中からいなくなってしまっても、

後を託された人間が最後までやり遂げる。

起案する勇気。

引き受ける決意。

完結する努力。

何気なく過ごしていたようだけど、「無い」から「有る」を作るために毎日それを繰り返し

ていた気がする。


だって騒動舎だから。



S #22A


―音楽「ターミネーターのテーマ」―


―画面 掲示板に貼ってある「中田組 17時 夜間ロケ 立ち回り 撮影所内オープンセ

ット 撮影終了」と書かれた香盤表―


―画面 “フラッシュ”光る―


目を閉じると、いい人たちの笑顔が焼き付いている。


―音楽「運命」 4音聞いてカットアウト―



ーおわり―

gionmatsuri2012-09

祇園祭山鉾巡行の写真(2012年7月17日)。「祇園祭 京都のホテル予約ガイド」様のサイトより、使用させていただきました。美しく、荘厳な、山鉾巡行をとらえた写真を何葉も見ることができます。かつて騒動舎の仲間たちが青春の血をたぎらせた、夏の京都がよみがえります。

 http://kanjisc.com/2012sozai.html

IMG_1491
WEEKLY平凡パンチ』(197993日号、平凡出版株式会社)に、
5ページにわたって掲載された。当該誌表紙を見ると、雑誌名左下の
目立つ場所に「東京
4大学映研☆集合」とデザインされている。編集
部も期待を込めていたのがわかる。

IMG_1492
確かに騒動舎のエプロンを腰に着けている。この写真だけでも、よ
くぞこの記事を見つけてくれた。
遠藤君、ありがとう。左から、桜田
さん。阿部君。中田君。関根君。遠藤君。

 IMG_1493

他大学の映研の皆さんと一緒だけど、一番後ろにいるけれど、
故か一番目立つ騒動舎。
だって……だもの。

 IMG_1494

左から、いつもの服、いつものメガネ。そう、この雰囲気。やっ
ぱり、これが中田君。
元になる実話を教えてくれて、粘り強くこの
記事を探してくれた遠藤君。
太秦までひとりで運転し、後にそこそ
こ有名なトマト農家になる関根君。

 

昨日亡くなっていた事がわかりました。

先週12日(木)より具合が悪いと会社を休み、今週に入って総務が連絡つかないため、昨日18日(水)に自宅を訪れたところ、自室で死亡していたのを発見したとの事です。

独身のため、広島の妹さんに連絡を取り、上京されて、対応にあたっているそうです。
現状、司法解剖の結果待ちです。

以下、詳しい事がわかりましたら、またお知らせします。


遠藤哲也(第3期)

3期は集まれ、よろしければ先輩も後輩の皆さんも!

コロナの中、全員に是非とは言えませんが、高橋のこと、また、3期舎長 中田も2017年に逝去していたそうです。

会って二人の思い出話をしませんか?
そして、新しい思い出を作りませんか?
 
日時:12月5日(土)夕方?

ただ、場所は全く決まっていません。
皆さんのお知り合いのお店、スペース、広場等、使ってくれ、使ってほしい、お金落としてください、いろいろな事情があってwinwinになれる道があればそこに集まりたいと思います。
ご連絡ください。
 
『「いつか会える」は、もう、ダメだ。』by 原健太郎


※詳細は順次このページでお知らせしていく予定です。

遠藤哲也 with 中山一宏

090-4610-3267

en-tetsu@week-s.co.jp



『12月5日(土)告知第2弾!』(11月8日付) 
 
前回の記事で場所のお尋ねをしましたが、人数規模がわかりませんと挙げようがありませ
んよね。 
 
そこで、参加希望の方&都合はまだ未定だがその意思のある方は、 
その旨をコメント欄に記入していただけないでしょうか。 
近況・感想・要望なども添えて下さると非常に嬉しいです。 
 
スタート時間ですが、場所に依りますが、陽が暮れるのも早いので、17時スタートを暫定
的に考えています。 
 
また、コロナに配慮したセッティングを心掛けています。 
 
さあ皆さん、頭の中を中田と高橋の思い出で一杯にして集まりましょう! 
 
 
 
 
   【発起人】遠藤哲也・中山一宏

※詳細は順次このページでお知らせしていく予定です。
 閲覧された方は、出席・欠席にかかわらず、ぜひ一言コメントを記してください。




『12月5日(土)告知第3弾!』(11月20日付) 

12月5日(土)、延期します。


皆さんご存知のように新型コロナの感染警戒レベルが上がっている状況を鑑みて、来月5日(土)に予定していました集まりを一旦仕切り直しとさせていただきます。

状況が落ち着きましたところで、またこの欄を使いお知らせしたいと思います。

ガッカリされた方もホッとされた方も、もうしばらくの辛抱でございます。



   発起人】遠藤哲也・中山一宏

※詳細は順次このページでお知らせしていく予定です。

 閲覧された方は、ぜひ一言コメントを記してください。
12月5日(土)延期します。
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 中田、高橋両君も付けたであろう、騒動舎草創期の手作り腕章。


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