作品評・小説◆八千代ゆたか「下町亀戸純情派」 by 德丸哲也
【昭和の香りのする下町人情・恋物語】
著者の德住君は男性としては珍しく戸籍上、平仮名のゆたか君だ。親思いのゆたか君は母上の介護のため、2023年3月末をもって41年間のサラリーマン人生を卒業した。1年4か月にわたる介護むなしく昨年7月に母上をご病気で亡くされた。ここに謹んでお悔やみ申し上げたい。そんなご不幸もあって母上の旧姓(八千代)をペンネームにしたのだそうだ。
ゆたか君は母上の介護と並行して長年の夢だったという小説修業を始めたと聞いていたのだが、そのデビュー作が明治大学の歴史ある文芸誌『駿河台文芸』48号に掲載されたので、ここに紹介したい。
私はゆたか君とは同じ政経学部経済学科で騒動舎の同期(4期生)である。ゆたか君の方が私より数ヶ月早く入舎したため、「とく」という愛称がゆたか君に付けられ、遅れて入った私は「まる」と呼ばれた。演劇部(劇団イズミ・フォーリー)で同じ釜の飯を食った仲間という表現がぴったりする。僕が当時住んでいた赤堤のアパートにも飲んだくれてよく泊まりに来たし、埼玉県三郷市の実家にも遊びに来てくれた。今も付き合いは続いており、コロナ禍でしばらく途絶えていた飲み会も一昨年復活した。実は、次回の飲み代を負担してくれるというから、一肌脱いでこの文章を書くことにしたのだ。(笑)
筆者は長く江東区亀戸に暮らしている。彼の趣味は「路地裏・居酒屋・スナック探訪」だそうで、地元・亀戸の飲食店をよく知っている。この作品の舞台となっている居酒屋『萬や』は筆者行きつけのお店とそのご主人、そして常連さんをモデルにしているらしい。私自身、亀戸周辺のことはあまり詳しくないが、街の雰囲気がよく伝わってくる物語だ。
『萬や』のご主人である欣さんは67歳という設定だから、今の我々とほぼ同世代なのだが、何とも人間味があり素朴で純情な男だ。主人公の僕(木暮裕二)も34歳ながら欣さんと変わらず真面目で純朴な男だ。そんな二人と店の常連、五十代後半の明美さんとの三人の会話が自然で、私も店のカウンターに一人座ってビールをちびちび呑みながら話を聞いているような錯覚を起こした。
サッポロビールが店に置いてあるのは欣さんが北海道出身だからだろう。欣さんの作る北海道尽くしの料理は旨そうな香りが湧き立ってくるから不思議だ。シングルファザーを長くやっていた筆者だからこそ料理の描写もリアルなのだろう。
ちょっと持ち上げると村上春樹のように色使いが巧みだ。ビールの『赤星』、球磨焼酎の『しろ』はカラオケ愛好家でもある筆者の好きな『紅白歌合戦』を象徴しているようでもあり、登場人物の顔色を暗示しているようでもある。主人公のマドンナとなる瞳さんはあくまで清楚な女性で、頭にかぶった花柄のバンダナと白いエプロンがよく似合う。
いつも藍色の作務衣を着た欣さん。そしてラストで明美さんが身に付けたエプロンも藍色だった。書かれてはいないが、きっと二人お揃いの藍色を身に付けていたことだろう。その光景が目に浮かび、目頭が熱くなった。
主人公の出身地は福井県。最後に登場する五木ひろしの出身県でもあることは偶然の一致なのか、意図的なのか。さらには北海道出身の欣さんは若い時分、どのような仕事で一旗揚げようと決意して上京したのか、出身地の町の名がそれを暗示しているようでもある。
下町に悪人はいない。横槍を入れる大門哲也でさえ味のある憎めないキャラクターだ。
作品全体を通じて私たち世代が生き抜いた昭和の雰囲気が十二分に漂っている。作品中に何度か登場する東京スカイツリーが完成したのは2012年のことだから、この物語は少なくもこの13年の間のことだろう。それなのに携帯電話もスマホもSNSすら出てこない。だから昭和の香りがするのだろう。下町には昭和が似合うということかもしれない。
下町に住んでいる庶民がそれぞれ一生懸命に今このときを生きている。一人一人が苦しみながらも明るく楽しく生きている。生きる勇気が湧いてくる温かい下町人情・恋物語を楽しませてもらった。
この物語はここで終わらないはずだ。ぜひ、続編を読んでみたい。
そして、八千代ゆたか君の今後の健筆とさらなる活躍に大いに期待するものである。
(第 4期/芸名:三郷ひろみ)
『駿河台文芸』は、『明大文学』(1936年創刊)、『明大文藝』(1952年創刊)などに連なる明治大学関係者(学生、教員、卒業生ら)による文芸雑誌として、1984年10月に創刊された。発行は駿河台文学会。かつての会員には、斎藤正直(明治大学学長/仏文学者/翻訳家)、斎藤茂太(エッセイスト/精神科医)、中田耕治(作家)、安田雅企(ノンフィクション作家)、小泉源太郎(翻訳家)、長島良三(翻訳家)、矢野浩三郎(翻訳家)、川村毅(劇作家/第三エロチカ主宰)、秋山孝男(東京創元社会長)、西谷能雄(未來社社長)、目黒考二(文芸評論家/『本の雑誌』発行人)、宮田昇(作家/日本ユニ・エージェンシー社長)、初見良昭(武術家・戸隠流忍術継承者)らの諸氏がいた。(H)
