September 03, 2018

ある土器に付された旧い日本語の響き and I am listening to Taiwan and Hokkaido!!

paiwan_pot


PN20180901-fn001

滞在開始から一ヶ月。

2018.8.1 - 9.31の2ヶ月間、台湾の台東にある國立臺灣史前文化博物館という先史時代や先住民文化などを専門に扱う博物館にて藝術駐館(artist in resident)の公募があると知り応募したところ、しばらくして連絡があり招聘が決まった。

國立臺灣史前文化博物館
中文:https://www.nmp.gov.tw/
日本語:http://jp.nmp.gov.tw/about01-1.html
English: http://en.nmp.gov.tw/

この一年間ですでに3度めの台湾。合計4ヶ月ほど滞在していることになる。来れば来るほどこの島の複雑さに気付かされ、関心を強めると同時に途方に暮れそうになることもある。

今回の滞在制作を希望したきっかけの1つは台湾と北海道という2つの島の歴史の相似関係を知ったことがある。

1月に台北の228公園にある國立台湾博物館を訪れた際、「發現臺灣」(Discovering Taiwan / 台湾の発見)と題された常設展示において台湾の博物学諸分野における日本人の研究者が紹介されていた。台湾における「近代的な科学史」のはじめには外国人というか日本人の名前がずらりと並ぶ。明治元年から約30年後に日本の領土となった台湾において日本式の「近代化」を実験しようとしていたわけだから当然といえば当然なのだが、日本式の「近代」のはじまりにアメリカ人を始めとする多くの外国人があるという家系的な歴史の相似を想った。以前、北海道で自分なりに時間をかけB.S.ライマンという地質学者の石炭などに関する調査行を調べたことがあったこともあり、私にとっては知的に理解したというよりは腑に落ちるリアルな時代理解を得る機会となった。

ライマンは1870年代に現在の北海道大学の前身である札幌農学校の設立初期に教鞭をとり実地訓練とも言えるような調査を経て多くの日本人炭鉱技術者や行政官を育てた。同じ様な図式が各分野で見られ、彼らの一部またその次世代のエリート達がおそらく台湾にも来たことは想像に難しくない。殖産興業の理念のもとに西洋列強から学び北海道を調べ、開発し手にしたのはその土地のみならず人材と経験で、ここ台湾にてそれらを様々な形で「投資」した。國立台湾博物館の初代館長川上瀧濔も札幌農学校予科の出身者だ。

北海道が日本国の植民地である、という表現はもしかすると用語的な定義からすると不正確かもしれないしやや極端な表現かもしれない。蝦夷地への本格的な入植は江戸時代後期にすでにはじまっていたことも含めると台湾との比較はあらゆる面で無理があるかもしれない。しかしながら私が愕然としたのは、現在、台湾は日本の領土ではないしそのことは当然だと思う、一方で北海道は今や何の疑いもなく日本の一部だとされている、ということ。この現状に文句があるとかそういうことではなくて、そうではない状況も十分あり得たかもしれないという想像の欠如、現在までのいろいろな経緯は声を潜めまたは無視され国家の提供してきた言説に概ね一本化されていること。もちろんこれは歴史上の一筋を言った言葉でしかなく、近代国家や国際条約云々を単位とした歴史の1面だ。しかしこの2つの島のつながりを直感した事は、明治政府のとった国策と2つの大きな島の命運を再想像するに十分だった。そしてそれは当然他の島々へと想像を促す。ライマンのリサーチをしていた当時、様々な歴史研究者や、先住民であるアイヌの方々にもいろいろと話しを聞く機会があったが、私にはそこまでのリアルな認識はなかった。無知を恥じると同時に何かしらを知ったつもりであったため更に衝撃的なことだった。

動揺しつつも展示をさらに見て進むと、國立台湾博物館が1908年に「台湾総督府民生部殖産局博物館」として設立されて以降に収蔵された台湾先住民の日常品が含まれていた。大きくシンプルな土器には5x3cmくらいの色あせた紙札が紐で結わえられており「壺 パイワン 一ケ」と書かれていた。同じ様な紙札を北海道の各地で訪ねた資料館や博物館でも見たからだろうか、墨と筆で書かれた旧いカナ混じりの日本語をみた瞬間、私は再び日本の旧植民地である台湾から逆さにあの大きな島も日本という国家によって植民地とされたということを想った。

私はまたこの土器を手にした収集家・研究者の思いをも想像した。彼(ら)はシンプルで美しく生きた生活の形としての土器に魅せられ手にしたはずだ。北海道の時もそうだったが、私はこういった個々人の様々な興味・関心・探求、知りたいというモチベーションが暴力を伴う国策という大きなフレームとモチベーションの中に又は絡み合いながら動いていることに関心をもってきた。それをどう考えればいいのか?それは自分自身に関わることでもあるからだ。

ここ台東には台湾ならびに環太平洋地域で最大規模の先史時代(新石器時代中後期)の遺跡である卑南遺跡をはじめとする巨石文化の痕跡が点在している。古くから知られていたこれらの遺跡を調査する目的もあって1896年以降この地を幾人もの日本人研究者達が訪れてきた。ただし考古学的な研究よりも人類学的な研究、つまり先住民の研究が主要なミッションだったと思われる。そして彼らの研究は直接的に台湾における先住民に対する植民地政策の決定に影響しただろう。その事に彼らが無頓着であったとは思えない。十分知っていたと思う。もしかするとその事を誇りに思っていた研究者も少なからずいたのかもしれない。しかし私は想像する。当時の蝦夷地/北海道で起こった、起こっていた、起こりつつあった状況を見て、知って、台湾においても同じような強硬な国策が展開されるのだろうと見て、自らの信条と矛盾があろうとも方便として国の先鋒に立ちつつ、あわよくば眼前の台湾の何かしらを破壊され失われる前に記述し、守れる何かもあるかもしれないと考えた研究者もいたのではないだろうか、と。

私は想像する。国家に石炭を与え(それはおそらく鉄になり武器になり戦力に変わった)、同時に弟子たちに個人的には戦争に反対する手紙を日本語で書き送ったライマンと彼が抱えていたかもしれない矛盾とその葛藤を。そしてここ台東を訪れた日本人の考古学者や人類学者達を。彼らがどの様な思いをもって先史のかなたを想像していたのかを。

mamoru

付記:

台湾東海岸の美しい風景に接しているうちに、16世紀にこの島に辿り着いたポルトガル人が「Ilha Formosa(美しい島)」と名付けた時間といまも地続きにあることを感じる。そこからうんと遡って先史時代となるとさすがに感覚的に追いつかない気もするが、先史時代の専門家の方々に話を聞いたり、普段は見れないような考古学の施設を訪れたりしているうちに自分の想像のレンジを広げられれば、と思う。

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