September 16, 2018

ある発掘報告書の残響 and I am listening to January 1945

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滞在開始から最初の数週間はほぼ卑南遺跡の発掘史に関連する書籍やアーカイヴを博物館のライブラリーやオンラインで検索しひたすら目を通す作業と周囲の散策に費やしたが、徐々に関心の中心に「台湾東海岸卑南遺跡発掘報告」と題された1つの発掘報告が浮かび上がってきた。人類学・考古学者の金関丈夫と国分直一の両名によって発表されたこの報告書は1945年の1月という特異なタイミング下の卑南遺跡発掘に関する報告書で、台湾においても1944年の10月以降は空襲が本格化しており、空襲の危険性は十分に予見されたと思われる。つまり、命の危険を冒してまで発掘する意志を秘めていたと想像される。そこまでの切迫した想いに興味を持ち、金関丈夫と国分直一という研究者について、また当時の卑南の状況について調べだした。

実際、彼らの報告書に記載された簡単な発掘経過には空襲や爆撃に関する記述が数回登場する。そして結論にも再び、空襲のために十分な調査はできず発掘を中止したと記している。私は考古学の論文に精通しているわけではないが、学術的な報告に紛れ込む明らかに個人的な感情を私は強く感じた。90年台に撮影された国分のインタビューによると、彼らは発掘中に米軍機の機銃掃射の対象になり、あわてて発掘現場に身を隠し、戦闘機が通り過ぎた後に薬莢を手にとり登りゆく煙を眺めた、と。私は臺灣総督府による「臺灣空襲状況集計」という当時の極秘資料や米国海軍のアーカイヴなどをもとに、グラマン米艦載機による台湾東海岸における空襲の記録を参照し発掘中の襲撃に関する想像の解像度をあげようと努力した。

グラマンに搭載されていた(だろう)ブローニングM2という重機関銃から放たれた(だろう).50BMG, 12.7mm x 99mm弾は幸いにして二人の考古学者を傷つけることはなかった。だが、見境なく行われた(と思われる)機銃掃射の矛先は卑南遺跡に眠っていた数千年前の世界との接続を幾らかは断絶したのではないだろうか?いずれにせよ発掘現場周辺にバラバラと降り注いだ(だろう)無数の薬莢、国分や金関が拾って煙を眺めたあとに捨てられた(だろうか?)後、どこに消えたのか。

後々の出版物でも国分は卑南遺跡での発掘に触れているが、グラマンの文字が見えることはあっても、弾丸が描いた軌跡は時の闇に消えている。ひょっとすると叢に落ちた一部の薬莢が後の発掘で見つかった例などはないだろうか?薬莢に使われた(だろう)黄銅という素材がどの程度経年劣化に耐えうるのか詳しい知識を持ち合わせていないが、卑南遺跡周辺を眺め見る時にその表土層にその残骸が残っていても不思議ではないようにも思えた。戦後に農耕地として耕されて以来現在の様な状況らしいのだが、不発弾や薬莢が発見された例は記録されていないだろうか?1980年台になってはじめて本格に行われた発掘時に薬莢や残骸が発見された、ということはないだろうか?日本の軍部はあらゆる物資の供出を図っていたことを考えると台湾でもそういうものも回収されていたのかもしれない。いや、戦時の子どもたちが回収される前にそういう物を拾って隠し遊ぶ、という事も十分にあり得たのではないか?

想像は疑問を生み、さらなる想像とその選択肢を拡げていく・・・

いまでも卑南遺跡の近くには軍事施設と台東空港という小さな地方空港があるため割と頻繁に小型、中型の飛行機が空を行き交っている。私は「1945年1月」の卑南の音風景を想像しながら、当時を知る人達に会いに行くことを希望し、博物館のスタッフにプユマの長老達に会いたい旨を伝え、台北へと向かった。訪れたい場所と会いたい人が台北にもいる。

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