September 20, 2018

あの弾丸の行方,版酳館 and visiting Taiwan's oldest museum!

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台東ー台北間は通常4時間ほどの機車の旅、のはずだったが夏休み期間でほぼ満席。前日に急遽問い合わせた私は早朝6時発の便、ただし6時間かかる各停的な・・・、で台北へ向かう。なかなか年季が入った車両、そして機車・・・指定された座席はディーゼルの真上?かと思われるノイズと振動、満席のため完全にスタック。

前述の金関・国府(fn004)という二人の考古学者の考古学報告書に興味を持って以来、彼らの系譜をたどりつつ、私は1980年代に行われた卑南遺跡の発掘にも携わった研究者を探していたのだが、運良く父親が国府と直系の研究者で、かつ本人は現在、台湾博物館のキュレーターという李子寧教授と会って話を聞けることになり、台北へと向かった。彼は私がかねてより興味を持っていた常設展示(fn001にてとりあげた)の企画者である。私はあの展示の企図、そして彼が1945年の卑南発掘時にグラマンの機銃掃射によってばらまかれた薬莢を遺跡で見たかどうかにも関心があった。

酔いとノイズに揉まれながらの6時間で体はむくみクタクタになってしまったが、到着した台北駅から待ち合わせの国立台湾博物館までは徒歩圏内だ。駅からまっすぐに伸びるひときわ幅の大きな道路の先にいかにもコロニアルな雰囲気を全体から醸しつつ建っている。おそらく台北駅から降りてすぐに目に入る様なプランだったのだろうと思う。台湾では日治時代とも書かれる植民地時代に設立された最も古い博物館で100年の歴史を持つ。

李教授は非常にオープンな方で、率直に様々な質問に答えてくださった。金関・国分が発掘時に機銃掃射を受けた、という話しを知っているかどうか聞いてみたところ、聞いた記憶はない、と。さらに薬莢に関しては面白い想像だがそれらしきものは見ていない、と。残念ながら早々に、私のファンタジーめいた想像は立ち消えてしまったが、発掘中の印象深いエピソードなどがあるかどうか訪ねたところ卑南遺跡の発掘に携わったのは89年でちょうど対岸の中国で後に天安門事件と呼ばれることになる学生デモとそれにたいする弾圧の報道がされ、同じ学生として気が気でならなかったとおっしゃて、当時の日記を見せてくださった。

「ほら、この日からだ」

そう言って開いた5月20日のページにはびっしりと字が書き込まれており「軍事鎮圧」の字が私の目に留まった。彼は個人的な意見だとしつつも「発掘というのははほとんどの時間が退屈な穴掘りなんだ」と何度も言っていた。そのつかみどころのない時間に彼の脳裏を占拠していたのは対岸の「1989」だった、と思うとなぜか彼が居た発掘現場と自分が少し近づいたような感覚がした。まだ小学生だった私もあのニュースをリアルタイムで視た記憶があるからだろうか。

1980年代から開始された卑南遺跡の発掘というのは、遺跡が存在するエリアに新しく台東駅が建設されることになったからで、発掘した直後にすぐに遺跡を埋めることを宿命付けられた期限付きの発掘だった。何十時間という膨大な(それでも全体のわずか一部)発掘時の記録映像を見たが、本当に発掘直後または同時に土をダンプする映像と音が印象的だった。また発掘に参加した数名の研究者から聞いた内容をまとめると、発掘経験があまりないメンバーが多く、時間のない中で、試行錯誤を続けざろう得なかった。そう、ある種の切羽詰まった状況だった。そういう意味では1945年と通じていると言えなくもない。

国分はインタビューの中で、戦時の発掘に関して当時の台湾の教え子たちとのやりとりを振り返りつつ印象的な発言をしている。

『この時期に、先生、意味があるだろうか』と僕に言うんですね。僕は『消えるかもしれんよ!』とこの集落が。
『僕らは今この長い歴史をもって、ここに長い生活を営んだ人達の事を、一行でも書き残しておくということは、巨大な、大きな世界史のペーパー中の一隅にちょっとでも書き残しをすることができるってことに意味があるじゃないか。そう考えるより他に慰めないじゃないか、いずれ消えるかもしれない。我々も消えるかもしれない。ちょっとでも書き残しをするんだというつもりになりましょう。『了解した』『了解した』と言ってやってくれた
(*日本民俗映像学会、映像保存プロジェクトが収録した1990年1月のインタビューより、筆者の書き起こし)

戦後も台湾に残り戦災にあった考古学資料の整理にコミットした国分らの影響を直接受けた台湾の考古学者達にこの思いは引き継がれただろう。土の下も無事ではいられないのが私達の世界の現状なのだ。だから到底完璧な発掘が望めないとしても、自分たちが「いま」「出来る限り」記録し採集する。でなければ、全てが破壊されるか掘り返すことが事実上不可能になる。

私が現在滞在中の卑南遺跡公園は、遺跡の広がるエリアを国立史跡指定をすることで逆にこれ以上の工事・開発を未然に防ぎ、将来の発掘への道をつなぐ、という発想から生まれたと聞いた。まさに同じ危機感と使命感が作ったのだと思える。

私は李教授に、常設展で視た旧い日本語で書かれた紙札・標本ラベルが特に印象的だった、という感想を伝え、彼にとって植民地時代初期に訪れた日本人科学者達はどういう存在か、と聞いた。彼は博物館のコレクションを介して初期の日本人科学者達と対話していると話してくれた。

また"It is our lineage." という表現を使い "We are a family" ともおっしゃった。

これらの言葉には感動したし、博物館刊行の100年記念展のカタログやDVD、またDVDにも登場する日本人科学者達の家族を招待しての祝賀イベントの記録などを見ればいかにその事を大事に受け止めているかがよくわかる。それ自体は本当に素晴らしいことだと思う。
しかし、思えば思うほど、この科学者達の情熱の背後に帝国主義的な政治的な歴史が紛れもなく存在していたことが否応なしに意識される。そういう世界だったし、いまもさして変わらない世界に生きていることはやはり無視出来ないし、いまだにそれをどう捉えてよいのか私にはわからない。それだからこそ執拗に知ろうとしている。

あれこれ反芻しつつ、台北でのリサーチを続ける・・・

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