2018- E.Formosa 台湾東海岸

September 03, 2018

ある土器に付された旧い日本語の響き and I am listening to Taiwan and Hokkaido!!

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滞在開始から一ヶ月。

2018.8.1 - 9.31の2ヶ月間、台湾の台東にある國立臺灣史前文化博物館という先史時代や先住民文化などを専門に扱う博物館にて藝術駐館(artist in resident)の公募があると知り応募したところ、しばらくして連絡があり招聘が決まった。

國立臺灣史前文化博物館
中文:https://www.nmp.gov.tw/
日本語:http://jp.nmp.gov.tw/about01-1.html
English: http://en.nmp.gov.tw/

この一年間ですでに3度めの台湾。合計4ヶ月ほど滞在していることになる。来れば来るほどこの島の複雑さに気付かされ、関心を強めると同時に途方に暮れそうになることもある。

今回の滞在制作を希望したきっかけの1つは台湾と北海道という2つの島の歴史の相似関係を知ったことがある。

1月に台北の228公園にある國立台湾博物館を訪れた際、「發現臺灣」(Discovering Taiwan / 台湾の発見)と題された常設展示において台湾の博物学諸分野における日本人の研究者が紹介されていた。台湾における「近代的な科学史」のはじめには外国人というか日本人の名前がずらりと並ぶ。明治元年から約30年後に日本の領土となった台湾において日本式の「近代化」を実験しようとしていたわけだから当然といえば当然なのだが、日本式の「近代」のはじまりにアメリカ人を始めとする多くの外国人があるという家系的な歴史の相似を想った。以前、北海道で自分なりに時間をかけB.S.ライマンという地質学者の石炭などに関する調査行を調べたことがあったこともあり、私にとっては知的に理解したというよりは腑に落ちるリアルな時代理解を得る機会となった。

ライマンは1870年代に現在の北海道大学の前身である札幌農学校の設立初期に教鞭をとり実地訓練とも言えるような調査を経て多くの日本人炭鉱技術者や行政官を育てた。同じ様な図式が各分野で見られ、彼らの一部またその次世代のエリート達がおそらく台湾にも来たことは想像に難しくない。殖産興業の理念のもとに西洋列強から学び北海道を調べ、開発し手にしたのはその土地のみならず人材と経験で、ここ台湾にてそれらを様々な形で「投資」した。國立台湾博物館の初代館長川上瀧濔も札幌農学校予科の出身者だ。

北海道が日本国の植民地である、という表現はもしかすると用語的な定義からすると不正確かもしれないしやや極端な表現かもしれない。蝦夷地への本格的な入植は江戸時代後期にすでにはじまっていたことも含めると台湾との比較はあらゆる面で無理があるかもしれない。しかしながら私が愕然としたのは、現在、台湾は日本の領土ではないしそのことは当然だと思う、一方で北海道は今や何の疑いもなく日本の一部だとされている、ということ。この現状に文句があるとかそういうことではなくて、そうではない状況も十分あり得たかもしれないという想像の欠如、現在までのいろいろな経緯は声を潜めまたは無視され国家の提供してきた言説に概ね一本化されていること。もちろんこれは歴史上の一筋を言った言葉でしかなく、近代国家や国際条約云々を単位とした歴史の1面だ。しかしこの2つの島のつながりを直感した事は、明治政府のとった国策と2つの大きな島の命運を再想像するに十分だった。そしてそれは当然他の島々へと想像を促す。ライマンのリサーチをしていた当時、様々な歴史研究者や、先住民であるアイヌの方々にもいろいろと話しを聞く機会があったが、私にはそこまでのリアルな認識はなかった。無知を恥じると同時に何かしらを知ったつもりであったため更に衝撃的なことだった。

動揺しつつも展示をさらに見て進むと、國立台湾博物館が1908年に「台湾総督府民生部殖産局博物館」として設立されて以降に収蔵された台湾先住民の日常品が含まれていた。大きくシンプルな土器には5x3cmくらいの色あせた紙札が紐で結わえられており「壺 パイワン 一ケ」と書かれていた。同じ様な紙札を北海道の各地で訪ねた資料館や博物館でも見たからだろうか、墨と筆で書かれた旧いカナ混じりの日本語をみた瞬間、私は再び日本の旧植民地である台湾から逆さにあの大きな島も日本という国家によって植民地とされたということを想った。

私はまたこの土器を手にした収集家・研究者の思いをも想像した。彼(ら)はシンプルで美しく生きた生活の形としての土器に魅せられ手にしたはずだ。北海道の時もそうだったが、私はこういった個々人の様々な興味・関心・探求、知りたいというモチベーションが暴力を伴う国策という大きなフレームとモチベーションの中に又は絡み合いながら動いていることに関心をもってきた。それをどう考えればいいのか?それは自分自身に関わることでもあるからだ。

ここ台東には台湾ならびに環太平洋地域で最大規模の先史時代(新石器時代中後期)の遺跡である卑南遺跡をはじめとする巨石文化の痕跡が点在している。古くから知られていたこれらの遺跡を調査する目的もあって1896年以降この地を幾人もの日本人研究者達が訪れてきた。ただし考古学的な研究よりも人類学的な研究、つまり先住民の研究が主要なミッションだったと思われる。そして彼らの研究は直接的に台湾における先住民に対する植民地政策の決定に影響しただろう。その事に彼らが無頓着であったとは思えない。十分知っていたと思う。もしかするとその事を誇りに思っていた研究者も少なからずいたのかもしれない。しかし私は想像する。当時の蝦夷地/北海道で起こった、起こっていた、起こりつつあった状況を見て、知って、台湾においても同じような強硬な国策が展開されるのだろうと見て、自らの信条と矛盾があろうとも方便として国の先鋒に立ちつつ、あわよくば眼前の台湾の何かしらを破壊され失われる前に記述し、守れる何かもあるかもしれないと考えた研究者もいたのではないだろうか、と。

私は想像する。国家に石炭を与え(それはおそらく鉄になり武器になり戦力に変わった)、同時に弟子たちに個人的には戦争に反対する手紙を日本語で書き送ったライマンと彼が抱えていたかもしれない矛盾とその葛藤を。そしてここ台東を訪れた日本人の考古学者や人類学者達を。彼らがどの様な思いをもって先史のかなたを想像していたのかを。

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付記:

台湾東海岸の美しい風景に接しているうちに、16世紀にこの島に辿り着いたポルトガル人が「Ilha Formosa(美しい島)」と名付けた時間といまも地続きにあることを感じる。そこからうんと遡って先史時代となるとさすがに感覚的に追いつかない気もするが、先史時代の専門家の方々に話を聞いたり、普段は見れないような考古学の施設を訪れたりしているうちに自分の想像のレンジを広げられれば、と思う。

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September 09, 2018

巨石文化の残響 and I am listening to the prehistory!!

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8月11日のメモより

....
台湾東海岸に点在する巨石文化の遺跡などを先史博物館の研究者と見て回る。大方は観光地化されていて正直なところ感じるものはそこまで無い。面白いものとしては、民家の裏庭に忽然と現れたかのように存在する巨大な岩石を利用した石棺。ただこれも周囲に見物用の構造物が組まれており保護されている。

最後に訪れたのは、つい最近まで発掘が行われていたという遺跡で、とある集落の奥から山手に向かって伸びる林道を進み、車をおりて5分ほどあぜ道を行く。
あぜ道と言っても細いわけではなく、2本の轍がくっきりあるところをみるとまずまずの頻度で車も出入りしていたことが想像できる。道端にはプラスチックシートで覆われた何かしらが積み上げられていたり、檳榔の実が入っていたと思われる小さめのジップロックの袋があちこちに落ちていて、運搬作業員だろうか、男達の存在を感じさせる。

少し開けたところに出ると、右手に美しく切り立った山々の連なりと重なりが見える。前方にはやや場違いな雰囲気を放つコンクリート製の貯水タンクがあり目を引くが、人気はまったくない。その奥、一段あがったところには今にも転げ落ちそうに見える大きな岩石があり貯水タンクとは違う意味で風景から突出している。柵に囲まれることもなく、立て看板の説明もない。数千年前の時間と現在とが接続している風景がそこにはあった。

近づいて登ってみると岩の頂上部には疑いもなく人手によるとわかる形の石棺状のくり抜きがあり、その角度や面の精度から金属器によるものと想像される、とのこと。

方位を確認すると石棺の縦軸はやはり南西ー北東のラインに沿っている。

実際にそれが石棺なのか何かの貯蔵施設なのか儀式のための祭壇なのかはっきりしたことはわからないが、ちょうど岩の下のあたりからはドーナツ状に円形のくり抜きがほどこされた例の岩の断片も見つかっており巨石文化の存在が確認される、とのこと。

私は岩を降り、もと来た道を戻ろうとして今一度岩を振り返ってみた。

岩の下に生える一本の木の脇に置かれたように見える檳榔の袋と300mlほどの酒瓶に気づいた。ちょうど誰かがそこに座るのにちょうどよいと思えるような大きさの平たい石もあって、なんとなく海の方を眺めながらここで休憩したか先祖に参ったのか、いずれにせよ先程の散在していたジップロックから感じるのとは違うリアルを感じた。
.........

メモ:9月8日記す

現在、台湾の東海岸側には先住民系の方々が多く住んでいる。一口に先住民、原住民という言葉では言い表せないほどたくさんのグループがいる。もちろん、もともとは島のあちこちに住んでいたのだが、16世紀以降の外来勢力の入植とともに、多くの先住民グループは東側に追いやられていった。

檳榔は日本語ではビンロウと書かれる事が多いが中文の発音ではビンランになる。台湾のあちこちでこの文字を掲げた看板を見かけるが、特に東側は多い気がする。先住民文化にはゆかりの深いものだからではないかと思う。彼らの神話にも「檳榔を3つ贈り物に・・・」とか「檳榔を捧げた」とかそういう記述がしょっちゅうでてくる。先日、プユマの長老を訪ねた時に土産にもっていった檳榔を自分で噛むはめになったが、体温があがり、少しふわふわと酔ったような感じがした。唾も出てくるのだが、それを飲み込むと気持ち悪くなるかもしれないから吐き出すように言われた。しばらく噛んでいた檳榔を吐き捨てると、ものの数分程度で体の状態は普通になった。なるほど、こんな感じなのか。私の周りにはビンランを噛む人はいないし、話をきいてみても皆たいがい、うまいもんじゃないよ、という感じで勧めない。試した結果、味に関しては正直なところ・・・植物の味としか言いようが無い気がする。平たくいってまずい。だけど長老いわく、これのおかげで冬も寒くないし健康なんだ、と。

ここ卑南を植民地時代初期に訪れた日本人考古学者達の多くは人類学、民族学に通じた研究者が多く、彼らは先史時代の生活を想像する手がかりの多くを様々な先住民グループに残る生活様式や神話などに求め島全域を可能な限り踏破し調査をすすめた。彼らも檳榔を土産に長老達を訪ねて、一緒に噛んだりしただろうか。

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卑南河口の音風景 and I hear the thunder roaring from the North!

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22nd Aug

Not so hot, I thought and I waited Dr. 楊小青 who is a geo-archeologist. Outside of the cafe next to the exhibition hall in the Peinan Site Park.

Many cicada was already singing their noisy choir but because it was cloudy from the morning, the air wasn’t so hot.

We sat outside, table that is next to a big tree, because the music in the cafe was not what I wanted on my recording. There were some breeze going by where we sat. It was ok though the air was getting a little hotter as the sun goes up.

I started asking questions I had...

According to her, the landscape around Peinan hasn’t change so much from 5000 BP including the delta of 3 rivers, which now locates Taitung city center.

During the conversation, which off course meanders around the subjects, I was very inspired to hear about the tectonic activities detected in this region. In fact, we can see two plates confronting each other in Peinan. The 悪地(badland) on the north side of Peinan river is where the border between Philippines plate and Eurasian plate meet. The land goes up 1cm every year.

The hill or terrace of the hill where we sat, Peinan culture site, is found without any trace of confronting the water directly, she said. They were always meters higher than the water surface. It was kept safer than the deltas, which might have experienced some over flooding of the river.

It made me think that the safety and the energy/active level of the land might have attracted people to settle here, for possibly more than 1000 years.

What made them like to live here?

....
The following sentences is transcribed at the mouth of the Peinan river, looking towards the river on its south bank, listening to its soundscape on the 5th Aug from 16:13 about 10minutes
....

Offshore wind not very strong
I heard the thunder roaring from the mountain afar
from the West and the North

Birds are chirping here and there

I hear no waves, it doesn't reach me
but cars on the bridge instead

A guy singing out loud on his motor pass by

Thunder roaring again
from the North and the West
lower and longer than the ones before

Two men taking a walk chatting in Taiwanese or Mandarine
I can’t tell

A thunder again from the North

A fly passing by

Another thunder from the North

In a distance, fire crackers
and a helicopter hovering behind me

A sound on the water
a small fish jumped up from the river a few times
....


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September 16, 2018

ある発掘報告書の残響 and I am listening to January 1945

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滞在開始から最初の数週間はほぼ卑南遺跡の発掘史に関連する書籍やアーカイヴを博物館のライブラリーやオンラインで検索しひたすら目を通す作業と周囲の散策に費やしたが、徐々に関心の中心に「台湾東海岸卑南遺跡発掘報告」と題された1つの発掘報告が浮かび上がってきた。人類学・考古学者の金関丈夫と国分直一の両名によって発表されたこの報告書は1945年の1月という特異なタイミング下の卑南遺跡発掘に関する報告書で、台湾においても1944年の10月以降は空襲が本格化しており、空襲の危険性は十分に予見されたと思われる。つまり、命の危険を冒してまで発掘する意志を秘めていたと想像される。そこまでの切迫した想いに興味を持ち、金関丈夫と国分直一という研究者について、また当時の卑南の状況について調べだした。

実際、彼らの報告書に記載された簡単な発掘経過には空襲や爆撃に関する記述が数回登場する。そして結論にも再び、空襲のために十分な調査はできず発掘を中止したと記している。私は考古学の論文に精通しているわけではないが、学術的な報告に紛れ込む明らかに個人的な感情を私は強く感じた。90年台に撮影された国分のインタビューによると、彼らは発掘中に米軍機の機銃掃射の対象になり、あわてて発掘現場に身を隠し、戦闘機が通り過ぎた後に薬莢を手にとり登りゆく煙を眺めた、と。私は臺灣総督府による「臺灣空襲状況集計」という当時の極秘資料や米国海軍のアーカイヴなどをもとに、グラマン米艦載機による台湾東海岸における空襲の記録を参照し発掘中の襲撃に関する想像の解像度をあげようと努力した。

グラマンに搭載されていた(だろう)ブローニングM2という重機関銃から放たれた(だろう).50BMG, 12.7mm x 99mm弾は幸いにして二人の考古学者を傷つけることはなかった。だが、見境なく行われた(と思われる)機銃掃射の矛先は卑南遺跡に眠っていた数千年前の世界との接続を幾らかは断絶したのではないだろうか?いずれにせよ発掘現場周辺にバラバラと降り注いだ(だろう)無数の薬莢、国分や金関が拾って煙を眺めたあとに捨てられた(だろうか?)後、どこに消えたのか。

後々の出版物でも国分は卑南遺跡での発掘に触れているが、グラマンの文字が見えることはあっても、弾丸が描いた軌跡は時の闇に消えている。ひょっとすると叢に落ちた一部の薬莢が後の発掘で見つかった例などはないだろうか?薬莢に使われた(だろう)黄銅という素材がどの程度経年劣化に耐えうるのか詳しい知識を持ち合わせていないが、卑南遺跡周辺を眺め見る時にその表土層にその残骸が残っていても不思議ではないようにも思えた。戦後に農耕地として耕されて以来現在の様な状況らしいのだが、不発弾や薬莢が発見された例は記録されていないだろうか?1980年台になってはじめて本格に行われた発掘時に薬莢や残骸が発見された、ということはないだろうか?日本の軍部はあらゆる物資の供出を図っていたことを考えると台湾でもそういうものも回収されていたのかもしれない。いや、戦時の子どもたちが回収される前にそういう物を拾って隠し遊ぶ、という事も十分にあり得たのではないか?

想像は疑問を生み、さらなる想像とその選択肢を拡げていく・・・

いまでも卑南遺跡の近くには軍事施設と台東空港という小さな地方空港があるため割と頻繁に小型、中型の飛行機が空を行き交っている。私は「1945年1月」の卑南の音風景を想像しながら、当時を知る人達に会いに行くことを希望し、博物館のスタッフにプユマの長老達に会いたい旨を伝え、台北へと向かった。訪れたい場所と会いたい人が台北にもいる。

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September 20, 2018

あの弾丸の行方,版酳館 and visiting Taiwan's oldest museum!

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台東ー台北間は通常4時間ほどの機車の旅、のはずだったが夏休み期間でほぼ満席。前日に急遽問い合わせた私は早朝6時発の便、ただし6時間かかる各停的な・・・、で台北へ向かう。なかなか年季が入った車両、そして機車・・・指定された座席はディーゼルの真上?かと思われるノイズと振動、満席のため完全にスタック。

前述の金関・国府(fn004)という二人の考古学者の考古学報告書に興味を持って以来、彼らの系譜をたどりつつ、私は1980年代に行われた卑南遺跡の発掘にも携わった研究者を探していたのだが、運良く父親が国府と直系の研究者で、かつ本人は現在、台湾博物館のキュレーターという李子寧教授と会って話を聞けることになり、台北へと向かった。彼は私がかねてより興味を持っていた常設展示(fn001にてとりあげた)の企画者である。私はあの展示の企図、そして彼が1945年の卑南発掘時にグラマンの機銃掃射によってばらまかれた薬莢を遺跡で見たかどうかにも関心があった。

酔いとノイズに揉まれながらの6時間で体はむくみクタクタになってしまったが、到着した台北駅から待ち合わせの国立台湾博物館までは徒歩圏内だ。駅からまっすぐに伸びるひときわ幅の大きな道路の先にいかにもコロニアルな雰囲気を全体から醸しつつ建っている。おそらく台北駅から降りてすぐに目に入る様なプランだったのだろうと思う。台湾では日治時代とも書かれる植民地時代に設立された最も古い博物館で100年の歴史を持つ。

李教授は非常にオープンな方で、率直に様々な質問に答えてくださった。金関・国分が発掘時に機銃掃射を受けた、という話しを知っているかどうか聞いてみたところ、聞いた記憶はない、と。さらに薬莢に関しては面白い想像だがそれらしきものは見ていない、と。残念ながら早々に、私のファンタジーめいた想像は立ち消えてしまったが、発掘中の印象深いエピソードなどがあるかどうか訪ねたところ卑南遺跡の発掘に携わったのは89年でちょうど対岸の中国で後に天安門事件と呼ばれることになる学生デモとそれにたいする弾圧の報道がされ、同じ学生として気が気でならなかったとおっしゃて、当時の日記を見せてくださった。

「ほら、この日からだ」

そう言って開いた5月20日のページにはびっしりと字が書き込まれており「軍事鎮圧」の字が私の目に留まった。彼は個人的な意見だとしつつも「発掘というのははほとんどの時間が退屈な穴掘りなんだ」と何度も言っていた。そのつかみどころのない時間に彼の脳裏を占拠していたのは対岸の「1989」だった、と思うとなぜか彼が居た発掘現場と自分が少し近づいたような感覚がした。まだ小学生だった私もあのニュースをリアルタイムで視た記憶があるからだろうか。

1980年代から開始された卑南遺跡の発掘というのは、遺跡が存在するエリアに新しく台東駅が建設されることになったからで、発掘した直後にすぐに遺跡を埋めることを宿命付けられた期限付きの発掘だった。何十時間という膨大な(それでも全体のわずか一部)発掘時の記録映像を見たが、本当に発掘直後または同時に土をダンプする映像と音が印象的だった。また発掘に参加した数名の研究者から聞いた内容をまとめると、発掘経験があまりないメンバーが多く、時間のない中で、試行錯誤を続けざろう得なかった。そう、ある種の切羽詰まった状況だった。そういう意味では1945年と通じていると言えなくもない。

国分はインタビューの中で、戦時の発掘に関して当時の台湾の教え子たちとのやりとりを振り返りつつ印象的な発言をしている。

『この時期に、先生、意味があるだろうか』と僕に言うんですね。僕は『消えるかもしれんよ!』とこの集落が。
『僕らは今この長い歴史をもって、ここに長い生活を営んだ人達の事を、一行でも書き残しておくということは、巨大な、大きな世界史のペーパー中の一隅にちょっとでも書き残しをすることができるってことに意味があるじゃないか。そう考えるより他に慰めないじゃないか、いずれ消えるかもしれない。我々も消えるかもしれない。ちょっとでも書き残しをするんだというつもりになりましょう。『了解した』『了解した』と言ってやってくれた
(*日本民俗映像学会、映像保存プロジェクトが収録した1990年1月のインタビューより、筆者の書き起こし)

戦後も台湾に残り戦災にあった考古学資料の整理にコミットした国分らの影響を直接受けた台湾の考古学者達にこの思いは引き継がれただろう。土の下も無事ではいられないのが私達の世界の現状なのだ。だから到底完璧な発掘が望めないとしても、自分たちが「いま」「出来る限り」記録し採集する。でなければ、全てが破壊されるか掘り返すことが事実上不可能になる。

私が現在滞在中の卑南遺跡公園は、遺跡の広がるエリアを国立史跡指定をすることで逆にこれ以上の工事・開発を未然に防ぎ、将来の発掘への道をつなぐ、という発想から生まれたと聞いた。まさに同じ危機感と使命感が作ったのだと思える。

私は李教授に、常設展で視た旧い日本語で書かれた紙札・標本ラベルが特に印象的だった、という感想を伝え、彼にとって植民地時代初期に訪れた日本人科学者達はどういう存在か、と聞いた。彼は博物館のコレクションを介して初期の日本人科学者達と対話していると話してくれた。

また"It is our lineage." という表現を使い "We are a family" ともおっしゃった。

これらの言葉には感動したし、博物館刊行の100年記念展のカタログやDVD、またDVDにも登場する日本人科学者達の家族を招待しての祝賀イベントの記録などを見ればいかにその事を大事に受け止めているかがよくわかる。それ自体は本当に素晴らしいことだと思う。
しかし、思えば思うほど、この科学者達の情熱の背後に帝国主義的な政治的な歴史が紛れもなく存在していたことが否応なしに意識される。そういう世界だったし、いまもさして変わらない世界に生きていることはやはり無視出来ないし、いまだにそれをどう捉えてよいのか私にはわからない。それだからこそ執拗に知ろうとしている。

あれこれ反芻しつつ、台北でのリサーチを続ける・・・

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September 21, 2018

あの弾丸の行方△泌鋪埒景 and decaying images and texts

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One of the tasks I had for my Taipei trip was to check the wartime newspaper 臺灣新報(Taiwan-Shinpo). Based on one of the memoir I found from an interview clip, there should be a newspaper article, possibly with a photo, about the 1945 Peinan excavation by 2 Japanese archaeologists. I wanted to check if the Taiwan-Shinpo have it.

I came to the Taipei National Central Library. It only took me a few min to register after giving my inquiry.
I find libraryan in many countries very helpful and has benifitted from them but this one was fast!

I went upstairs to the Japanese Korean section.

There were only republished anthologies of the old newspaper or to be precise scanned or photocopied old newspapers. I found the volume that contains all of the 1945 and went through the possible dates one after another. The result... you can guess from the image above.

No words to express.

No way to check it further?

Well there must be an original if there is a print of the scan of a copy it...

Maybe I can find the original paper in the Taiwan National Librarry? or possibly in Japan.

Though there are images and letters that I could recognise, it just made me think that it was actually almost impossible for this newspaper to post an article of archaeological excavation... everything else are all about propagated-battle-reports and agitation for the suicidal attack of Kamikaze.

The time is up. They are closing.

Maybe next time.

I have more places to go...

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あの弾丸の行方と台湾先住民コレクション and the creativity of the indigenous people of Taiwan!

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台湾大学を訪れた。旧台北帝大(タイホクテイダイ)。現在、NTU又は台大と呼ばれる台湾における最高学府。

「これって・・・椰子の木を白樺に変えれば・・・」

と、思わず北大のキャンパスを思い出した。旧帝大というのがだいたいこういう明治風のレンガ造りの建物なのかもしれないが、キャンパスのレイアウトも含めて何かしらの既視感があった。北海道とのつながりを意識していたからかもしれない。

NTU内にある人類学博物館が訪問の目的だ。ひょっとすると金関・国分による採集物が展示されてはいないか、という一抹の期待と想定外の発見を求めて。

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画像:台湾大学人類学博物館にて

いまさら繰り返すまでもないかもしれないが展示を構成する先住民達のコレクションの主要な部分は日本人の研究者達の収集物による。そしていろいろな採集物を見ていくと1929年収蔵という文字が繰り返し現れる。係の人にその辺りを少し尋ねたところ、これはいったん1895-6年あたりに採集されたものが東京に持ち出され、その後台北帝大の文政学部のトップとなる移川子之蔵ら一部の日本人研究者が台湾に属するものだとして、台北帝大へと持ち帰り所蔵された年代だと言う。

展示品は保存状態もよく、どれも手がこんでいて、民芸品として見て欲しくなってしまう。どこかしらコロニアルにも思えるそんな気持ちに複雑な気分になりながら、個人的には幾つかの口琴に目が留まった。

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画像:台湾大学人類学博物館にて


民族楽器を見ていくと、口琴にはだいたい竹などの植物製のもの鉄を使った金属製のものと2別される場合がほとんどだが、このTrukuの口琴の様に素材が混じりまた複数弁のものは見たことがなかったので驚いた。(3,5,7音出せるものを見たことがあるが現在複数弁を使いこなせる人は知らないと後にTrukuの人にあった際に聞いた)

朝に訪れた中央研究院の人類学博物館を訪れた際には、散弾銃の薬莢のようなものを使ったSasyiatの腰飾りやPaiwanの古い日本の貨幣を使用したベルトや衣装などが個人的には示唆に富んでいて興味深かった。また隣の歴史博物館では折しも台湾の考古学史に触れた展示も行われているとのことで、そちらの展示では日本人研究者の名前が散見された。

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画像: 中央研究院民族研究所博物館にて

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画像: 中央研究院民族研究所博物館にて

1945年に卑南遺跡発掘を行った金関・国府の両名も台湾先住民文化に精通していて、先史時代を想像する手がかりとして、発掘されたもののみならず先住民の生活・文化・日用品などからも手がかりとする民族考古学系の研究者だった。

例えば彼らが発掘によって確認した住居跡の発掘現場に「(屋根瓦に用いられた様な)スレート(粘板岩)が見当たらない」ことから屋根は「茅葺きであったろう」という想像が展開される。この推測にはPaiwanの人達が当時使っていたスレートの瓦やAmisなどの家屋における茅葺きを想定しての記述だが、よくよく読むと非常に面白い。ある意味で私がイメージしていた考古学とは違っていたが、その本質を表しているようにも思える。

つまり土の中から「出てきたもの」だけではなく、「出てこなかったもの」からの両面で過去世界を想像する、ということだ。あり得たかもしれない、という想像。

鉄製品がないことから想像するそれ以前の世界。
頭蓋だけがみつからない墓から想像する首刈りという慣習。

卑南遺跡では楽器がみつかっていない、と聞いた。だとすれば楽器は植物で作っていたかもしれない、という推測がはじまるのかもしれない。あのTrukuの口琴のように多弁の口琴をあやつっていただろうか?草笛や葦、竹の筒を利用した素朴な笛などを有したかもしれない。Paiwanの人達が現在も大事にしている鼻笛という非常に繊細な楽器があるが、それに似た音色が卑南にも響いていたのかもしれない。

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September 24, 2018

あの弾丸の行方い肇廛罐淆 and their amazing bricolage!

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image: interview
<日本語はスクロールダウンしてください>

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20180906

9:00 in the morning, I drove down to a 檳榔(betel nuts) shop before meeting the elders.
People suggested it when I asked what to bring.
I had wanted to meet them to ask about "January 1945" after reading the archaeological report by 2 Japanese archaeologists 金関 and 國分. They had come to Peinan and excavated under the air raid.

I introduced myself briefly in Japanese after the museum staff had introduced her and our visit in Mandarine.

Then one of the elder said to me that he wants to do a little ritual to tell the ancestor about my visit and he started to sprinkle and pour some rice wine on the ground while murmuring completely foreign words yet sounding familiar somehow.

We started talking in Japanese.

I have encountered many old people living here who can speak Japanese well and remember well but I was still impressed how the elders spoke. It was a living language and yet dated to certain era.

I was asking mainly about what they remember around the end of the war. I told them the stories of the archaeologists but they didn’t recall about them. They were 6, 7, 14 years old that time.

One of the elder explain about the Grumman (F6F/Hellcat) air fighters machine-gunning towards the shrine in the hill side, back of today’s Park Site, and the Taitung city center during the War. I asked if the kids in the village had picked up the bullets cases after the air fighters left.

"Oh! yes."

The question seemed to bring back a vivid memory to them and they started talking in their own language.

Then they told me that they gathered bullet cases and selling them to buyers for money. They also said that they melted the lead left in the bullet or bullet cases and dug a shape on the ground to pour the melted lead. It was an accessory for them to carry it around their waist.

I remembered a waist accessory that I saw in the museum in Taipei. Most of the tribes has distinctive fashion style and their clothes and ornaments are highly stylish, so I can easily imagine that this bricolage truly comes out of their tradition and spirit.

Don’t you still have them? I asked.

It’s been a long time. they said.

No one has it? I cannot give up.

Seems like! They laughed.

Yes, it has been 70 some years. I laughed, too.

We chatted for more while and they sang me several songs.
There was this one parody song which kind of making fun of Japanese soldiers a little.



When one of the elder started to sing a song of sending out a young soldier to the battle field, the other 2 joined helping him to sing through. This song has distinctive Puyuma melody pattern and scale with Japanese Lyrics.



兄さんのタバコの煙どこまでも ダンダン(合いの手)
消えない消えない
あのはてまでも 
あー明日の夜 いーよ
待ちましょ待ちましょう ダンダン(合いの手)

My brother, your Tobacco's smoke goes so far
lasting lasting
lasting till the end and afar don-don(rhythmic response)
Ah it is Tomorrow night
I will wait. I will wait. don-don(rhythmic response)

(*trascribed and translated by the author from the recording)

20180911

I bought some betel nuts and tea before visiting the elder again.

The eldest one welcomed me with his smile. He said he enjoyed talking with me in Japanese. I was happy to hear that because I respect him so much after hearing their stories last time and just his 3 names in Puyuma, Japanese, Chinese tells me how much he had to survive through all the turmoils.

I asked him again about the bullet cases in more detail.
How they melted lead. How long it took to do. What kind of shape and how big.
It seemed that one who had more complicated or beautiful shape got reputations. He said he was proud of his own objects and hang around his waist. It sounded more than just a kid’s story. It sounded more than that. He melted the force and poured it on the ground and turned it into his own. There are some examples in contemporary art which transforms fire arms into something else; however, if it is something like shovels that has another practical function, it is different from Puyuma kids who turned fire arms that are the practical thing into accessory that proud not to be practical.

If I look at the history of Puyumas and other aboriginal people, it looks as if they have lost the game being ruled by different foreign forces one after another. But such bricolage and their toughness makes me think that they might have not lost entirely and the most importantly they are surviving.

Just a thought.
………..
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image: one of the elder's drawing from his memory and teaching me some Puyuma words

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20180906

朝9時、プユマ族の長老たちと会う前に檳榔ショップへと向かう。
手土産に何が良いかをスタッフに尋ねたところ、そりゃ檳榔だろう、ということで。
会いに行く目的は、先だって興味をつのらせている卑南遺跡における金関・国分の日本人考古学者による1945年の発掘に関連した何か又は当時の様子を教えて貰うため。

中国語でスタッフが訪問の概要を伝えたあとに、短く日本語で自己紹介した。

御年87歳の最長老が「あなたが来たのをねちょっと報告するから」と言っておもむろにお酒をとりだし地面に降り注ぎながら、本人に聞こえる程度の声で、お清めのようなことだろうか、不思議なしかし何かしら親密な雰囲気の言葉で先祖の霊に語りかけはじめた。

そして私達は日本語で話しはじめた。

もちろん台湾では日本語を流暢に話す高齢の方々と出会うことはあるし時々昔の事を熱心にお話になる方に出会うこともある。しかし何度経験しても生きた旧い日本語の響きは私に特別な感情を引き起こす。

戦争の頃の卑南の様子をあれこれと教えて頂きながら、私が調べている日本人考古学者のことを話した。終戦の時、彼らは6,7,14歳だったそうだ。

一人の長老が、米艦載機のグラマン(通称ヘルキャット)戦闘機の機銃掃射に関して、村はあまり対象にならず丘の方の、現在私が滞在制作中の遺跡公園の裏山、神社だとか街なかがおもに攻撃対象だったとおっしゃっていた。私は自分なりに想像したとおり、機銃掃射のあとに薬莢を拾ったりしませんでしたか?と尋ねてみた。

「あーそうね!」

この質問が引き金となって何かを思い出したのか、長老たちはプユマの言葉で話しだした。

彼らが言うには、子どもたちは確かに薬莢や不発弾を集めては回収業者に売ってお金にしていた。しかしそれ以外にも集めた薬莢などに燃え残っていた鉛を集めて溶かし、さらに地面を掘り「型」を作っておき、溶かした鉛を流し込んで飾りを作って、腰にぶらさげたりした、と。

部族は違うが台北で見た薬莢を使った腰飾りも私の脳裏をよぎる。台湾先住民に共通して言えるのはそれぞれに特徴的な衣服があり、それらは飾りを含めて本当に洗練されていて手が込んでいる事だ。だからこのブリコラージュも真に彼らの精神が生み出したものだと思え、彼らの伝統に直にふれる様な思いがした。

それはもう持ってないですか?と、尋ねた

もうずいぶん前だからね、と返された。

私が諦めきれず、誰かもってないかなぁ・・・と言うと

持って無いだろうなぁ、と彼らは笑った

そうですよね70年ですものね、と私も笑った。

この話が聞けただけで私は本当に台東に来たかいがあったと思う。きっとこういう例は世界各地にあるのだろう、とも想像が広がる。他の部族にもあったかもしれない。

名残惜しさもありしばし長老たちとの歓談を楽しんでいると、軍歌の替え歌などを披露してくれた。楽しげに歌う彼らの歌詞からはユーモアの中に征服者への風刺が込められていた。



そして戦地へと旅立つプユマの若者のために、集まった家族親類が皆で歌ったという歌は心を打った。その歌はプユマの節に日本語載せた歌で、一人の長老が「兵隊を送り出す歌もあります」と歌い出し、途中少し詰まったところから他の二人も助け舟を出すかのように合わせて歌いだした。彼らの声にはハリがあり、節はシンプルなので聞きやすいのだが、なれていないと歌うのは実は難しい。美しく、特徴的ないわゆるアジア的な音階が作る響きには否応なしに郷愁を誘うものがある。



*以下の歌詞は音で聞いたままを書き留めているので本当は違うかもしれない。

兄さんのタバコの煙どこまでも ダンダン(合いの手)
消えない消えない
あのはてまでも 
あー明日の夜 いーよ
待ちましょ待ちましょう ダンダン(合いの手)


20180911

再び檳榔の実をいくらか買って長老を訪ねる。

最長老が私を笑顔で出迎えてくれた。

「あなたが来るとね、日本語で話せるから嬉しいんだ」

と、おっしゃってくださり、私もお話できて嬉しいと伝えた。
これは説明しようがないのだが、言葉が通じるからという以上に本当に嬉しい気持ちがする。先日聞いた話しもそうだが、尊敬の念を私は抱いているからかもしれない。伺ったプユマ語、日本語、中国語の3つの名前を聞くだけで、台湾先住民としての彼の人生がいかに大変であったか想像できる。
私は先日教えてもらった薬莢や鉛で作った飾りの話しをもう少し詳しく聞きたかったので、どのようにして実際溶かしたのか、どのくらいの時間をかけて溶かしたのか、どういう型を作ったのか、など細かく質問させてもらった。

面白かったのは、子供達の間では出来上がりが精巧なほどどうやら注目を集めたようで、長老もうまく出来たものを腰にぶらさげて、他の子供達に見せびらかしたりした、という話し。

「どうだ、っていう顔で歩いて『おい君それ作ったのか?教えてくれよ』なんて言われて」

私にはそれがただの子供の遊び話しではなく、戦争という状況や圧倒的な力の象徴を溶かし、彼ら自身の手で彼らの土地に流しこんで、自分の望む形に変える、という非常に力強く美しいものに思えた。
現代アートにも武器を何かに変える、という作品が見られるがスコップなどの実用性のあるものへの転換などでコンセプトもメッセージは明快だが、プユマの子どもたちの例に見られる武器という実用しかないモノを飾りという非実用性を誇るモノに変えるというような軽妙な行為とはやや異なる。

私が多少見知ったた程度でこんなことを言うのは僭越だと思いながらも考えた事を書いておきたい。プユマ族だけでなく台湾の先住民族全体の状況を知っていくと、ある意味で彼らは度重なる外来勢力によって何度も土地を追われたくさんのものを失ってきたことは明白だ。しかしあのブリコラージュに見て取れる彼らのしなやかさと強さは失われることはなかった。そういった種類の「力」こそが彼ら自身が現在にいたるまでもサバイバルしてこれた力の源だったのではないだろうか。

おぼろげに作品のイメージが掴めたように思う。

付記:これは本当に誤解のないように願いつつ書くと、高砂族とも呼ばれた彼らの一部は首刈り族として16世紀来の入植者オランダ人やスペイン人、日本人に恐れられた。日本統治時代の記録で私の印象に残っているものは、すでに顔なじみになり友好的な態度をとっていたと思われていた者でさえ時として首刈り行為に及ぶとか、生き血をすするとか、日本人警察官(実質は村々の統治者)などが狙われやすいといったような記述だ。ある台湾人から聞いた話だと一部の部族では尊敬を集めた人が亡くなったあとに死肉を食べる習慣もあった、とか。これらの逸話に関しては残酷さだけがクローズアップされる場合が多いが、私は外来品を縫い込んだ衣装や、鹿などの獣の頭部分をそのままヘルメットにしたようなヘッドピースのような装飾品なども、一点において通じているように思う。纏うことや食することをひとつの契機に対象としている相手の力を自らのものにする、あるいはしたいという願望の現れではないかと思う。そう思うと、死肉を食する事は死者を自らに宿す命がけのパフォーマンスだと言える。また、首刈りは、その対象者が外来者であったり力ある者であったり顔なじみであったことを考えれば、自らが認めた「何らかの力の持ち主」を取り込み変身・成長するための戦闘的な儀式である、とも。あのプユマの子どもたちの腰飾りの話しを聞いて以来、私はそんな想像をするようになった。

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September 28, 2018

私たちはそれらを溶かし地に注ぐ and a polyphony for an archaeological report and an imaginary ritual !

<如果看中文版本請往下滑、for English please scroll down to the bottom!>

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EXHIBITION

2018.9.28-11.28
[ 未来遺阯 - Future Historical Site ART/EXPLORING/HISTORY]
@国立臺灣史前文化博物館、卑南遺阯公園展示廳

私たちはそれらを溶かし地に注ぐ
-ある考古学報告書と想像上の儀式のためのポリフォニー


2チャンネルビデオ(1ch. HD、16:9、ステレオ、9分55秒、2ch. HD、9:16、サイレント、5分46秒)、ミクストメデア(12.7mm弾薬莢、105mm弾薬莢、檳榔、米酒)、サイズ可変

2チャンネル同時視聴版


作品について

1945年1月、米軍の空襲下においてに二人の日本人民族考古学者、金関丈夫と国分直一によって行われた発掘調査の報告書である「台湾東海岸卑南遺跡発掘報告」に基づいてテキストスライド映像は作られた。途中、卑南遺跡周辺に当時(現在も)暮らしていた(る)台湾先住民族の1部族であるプユマの長老たちを取材した際の映像・録音が挿入されている。また米軍のプロパガンダ映画のサウンドトラックや、アーティスト自身が録音・制作したフィールドレコーディング、リズムトラックなどがアレンジされ考古学報告書のための音風景を織りなす。

檳榔や薬莢によって構成されるオブジェはプユマの長老たちの少年時代の思い出話や、台湾統治時代初期に日本人研究者たちによって記録された卑南周辺に伝わるとされる神話、実際に取材の際に見かけた光景などから想像した儀式の一部を形にしたものである。

インスタレーション空間全体は明滅する光(映像)とテキストを伴奏するEDMのビートにより、鑑賞者を「1945年1月」の卑南遺跡へと接続するためのリズミカルな装置となる。

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未來遺址:用藝術挖掘歷史
展期:09/28-11/28
@卑南遺址公園廳(国立臺灣史前文化博物館)

我們把它們融化並在傾倒於土地
-考古報告與想像儀式的多聲曲-

作品視聴版: https://youtu.be/Eca0HUQKVss

註解:
雖然中文使用者可以透過漢字來了解原始的日文作品。

mamoru的錄像作品中閃爍的文字影像,摘自兩位日籍考古學家金關丈夫和國分直ㄧ所撰寫的〈台灣東海岸卑南遺跡發掘報告〉。考古學家在1945年1月來到卑南遺址,並在飛彈空襲的環境下,挖掘了該遺址。錄像中的聲音來自普悠瑪長老們與藝術家之間的採訪錄音、美國宣傳短片的音軌、以及其他事件相關的錄音檔案,共同為〈考古報告〉創造了音風景及音景。藝術家最初留下四種語言,包括日語、卑南語、中文和英語,編寫或闡述源頭,期待觀眾通過想像,從文字、影像中知道、聽到、看到及猜測的內容,來參與作品,藉以跨越語言所產生的距離和障礙。此作品也受到長老童年的故事以及卑南相關神話的啟發,現成物檳榔與彈夾的排列方式,是以儀式的方式而製定。整體裝置藉由迷人的燈光,伴隨著藝術家製作的電子舞曲,為觀者創造了一個重新造訪與「1945年1月」相關的想像時空裝置。
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I will be presenting a new installation work for the exhibition [ 未来遺阯 - Future Historical Site ART/EXPLORING/HISTORY] @ National Museum of Prehistory/Park Site Exhibition Hall
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WE MELT THEM AND POUR IT ON THE GROUND
- a polyphony for an archaeological report and an imaginary ritual -


2 channel video (1ch. 16:9, HD, stereo, 9’55", 2ch. 9:16, HD, silent, 5’46") on loop, mix media (12.7mm bullet cases, 105mm bullet cases, betel nuts, rice wine), dimension variable

2ch viewing ver.


About the work:

The flashing text slides appearing in the video are excerpts from "Research on a Prehistoric Site Near Peinan, Formosa"(台湾東海岸卑南遺跡発掘報告) written by two Japanese ethno-archaeologist Takeo Kanasaki(金關丈夫) and Naoichi Kokubu(國分直一) who came to Peinan Site in Taiwan in January 1945 and excavated the site under the air raids of US military force. The recordings of the interviews between the elders of Puyuma tribe and the artist, sample from the sound track of US propaganda film, and some other related filed recordings creates the soundscape for the archaeological report.

Inspired by the sight observed during the research, childhood stories of the elders and the myths around Peinan which was specifically documented during the very first years of Japanese colonial era, the objects are formulated in a ritual manner.

The whole installation is illuminated by mesmerising lighting patterns and accompanied by the electronic dance music produced by the artist. It creates an rhythmic apparatus for the visitor to revisit the an imaginary time-space related to the "January 1945" excavation at Peinan site.


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