field notes

September 24, 2018

あの弾丸の行方い肇廛罐淆 and their amazing bricolage!

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image: interview
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20180906

9:00 in the morning, I drove down to a 檳榔(betel nuts) shop before meeting the elders.
People suggested it when I asked what to bring.
I had wanted to meet them to ask about "January 1945" after reading the archaeological report by 2 Japanese archaeologists 金関 and 國分. They had come to Peinan and excavated under the air raid.

I introduced myself briefly in Japanese after the museum staff had introduced her and our visit in Mandarine.

Then one of the elder said to me that he wants to do a little ritual to tell the ancestor about my visit and he started to sprinkle and pour some rice wine on the ground while murmuring completely foreign words yet sounding familiar somehow.

We started talking in Japanese.

I have encountered many old people living here who can speak Japanese well and remember well but I was still impressed how the elders spoke. It was a living language and yet dated to certain era.

I was asking mainly about what they remember around the end of the war. I told them the stories of the archaeologists but they didn’t recall about them. They were 6, 7, 14 years old that time.

One of the elder explain about the Grumman (F6F/Hellcat) air fighters machine-gunning towards the shrine in the hill side, back of today’s Park Site, and the Taitung city center during the War. I asked if the kids in the village had picked up the bullets cases after the air fighters left.

"Oh! yes."

The question seemed to bring back a vivid memory to them and they started talking in their own language.

Then they told me that they gathered bullet cases and selling them to buyers for money. They also said that they melted the lead left in the bullet or bullet cases and dug a shape on the ground to pour the melted lead. It was an accessory for them to carry it around their waist.

I remembered a waist accessory that I saw in the museum in Taipei. Most of the tribes has distinctive fashion style and their clothes and ornaments are highly stylish, so I can easily imagine that this bricolage truly comes out of their tradition and spirit.

Don’t you still have them? I asked.

It’s been a long time. they said.

No one has it? I cannot give up.

Seems like! They laughed.

Yes, it has been 70 some years. I laughed, too.

We chatted for more while and they sang me several songs.
There was this one parody song which kind of making fun of Japanese soldiers a little.



When one of the elder started to sing a song of sending out a young soldier to the battle field, the other 2 joined helping him to sing through. This song has distinctive Puyuma melody pattern and scale with Japanese Lyrics.



兄さんのタバコの煙どこまでも ダンダン(合いの手)
消えない消えない
あのはてまでも 
あー明日の夜 いーよ
待ちましょ待ちましょう ダンダン(合いの手)

My brother, your Tobacco's smoke goes so far
lasting lasting
lasting till the end and afar don-don(rhythmic response)
Ah it is Tomorrow night
I will wait. I will wait. don-don(rhythmic response)

(*trascribed and translated by the author from the recording)

20180911

I bought some betel nuts and tea before visiting the elder again.

The eldest one welcomed me with his smile. He said he enjoyed talking with me in Japanese. I was happy to hear that because I respect him so much after hearing their stories last time and just his 3 names in Puyuma, Japanese, Chinese tells me how much he had to survive through all the turmoils.

I asked him again about the bullet cases in more detail.
How they melted lead. How long it took to do. What kind of shape and how big.
It seemed that one who had more complicated or beautiful shape got reputations. He said he was proud of his own objects and hang around his waist. It sounded more than just a kid’s story. It sounded more than that. He melted the force and poured it on the ground and turned it into his own. There are some examples in contemporary art which transforms fire arms into something else; however, if it is something like shovels that has another practical function, it is different from Puyuma kids who turned fire arms that are the practical thing into accessory that proud not to be practical.

If I look at the history of Puyumas and other aboriginal people, it looks as if they have lost the game being ruled by different foreign forces one after another. But such bricolage and their toughness makes me think that they might have not lost entirely and the most importantly they are surviving.

Just a thought.
………..
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image: one of the elder's drawing from his memory and teaching me some Puyuma words

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20180906

朝9時、プユマ族の長老たちと会う前に檳榔ショップへと向かう。
手土産に何が良いかをスタッフに尋ねたところ、そりゃ檳榔だろう、ということで。
会いに行く目的は、先だって興味をつのらせている卑南遺跡における金関・国分の日本人考古学者による1945年の発掘に関連した何か又は当時の様子を教えて貰うため。

中国語でスタッフが訪問の概要を伝えたあとに、短く日本語で自己紹介した。

御年87歳の最長老が「あなたが来たのをねちょっと報告するから」と言っておもむろにお酒をとりだし地面に降り注ぎながら、本人に聞こえる程度の声で、お清めのようなことだろうか、不思議なしかし何かしら親密な雰囲気の言葉で先祖の霊に語りかけはじめた。

そして私達は日本語で話しはじめた。

もちろん台湾では日本語を流暢に話す高齢の方々と出会うことはあるし時々昔の事を熱心にお話になる方に出会うこともある。しかし何度経験しても生きた旧い日本語の響きは私に特別な感情を引き起こす。

戦争の頃の卑南の様子をあれこれと教えて頂きながら、私が調べている日本人考古学者のことを話した。終戦の時、彼らは6,7,14歳だったそうだ。

一人の長老が、米艦載機のグラマン(通称ヘルキャット)戦闘機の機銃掃射に関して、村はあまり対象にならず丘の方の、現在私が滞在制作中の遺跡公園の裏山、神社だとか街なかがおもに攻撃対象だったとおっしゃっていた。私は自分なりに想像したとおり、機銃掃射のあとに薬莢を拾ったりしませんでしたか?と尋ねてみた。

「あーそうね!」

この質問が引き金となって何かを思い出したのか、長老たちはプユマの言葉で話しだした。

彼らが言うには、子どもたちは確かに薬莢や不発弾を集めては回収業者に売ってお金にしていた。しかしそれ以外にも集めた薬莢などに燃え残っていた鉛を集めて溶かし、さらに地面を掘り「型」を作っておき、溶かした鉛を流し込んで飾りを作って、腰にぶらさげたりした、と。

部族は違うが台北で見た薬莢を使った腰飾りも私の脳裏をよぎる。台湾先住民に共通して言えるのはそれぞれに特徴的な衣服があり、それらは飾りを含めて本当に洗練されていて手が込んでいる事だ。だからこのブリコラージュも真に彼らの精神が生み出したものだと思え、彼らの伝統に直にふれる様な思いがした。

それはもう持ってないですか?と、尋ねた

もうずいぶん前だからね、と返された。

私が諦めきれず、誰かもってないかなぁ・・・と言うと

持って無いだろうなぁ、と彼らは笑った

そうですよね70年ですものね、と私も笑った。

この話が聞けただけで私は本当に台東に来たかいがあったと思う。きっとこういう例は世界各地にあるのだろう、とも想像が広がる。他の部族にもあったかもしれない。

名残惜しさもありしばし長老たちとの歓談を楽しんでいると、軍歌の替え歌などを披露してくれた。楽しげに歌う彼らの歌詞からはユーモアの中に征服者への風刺が込められていた。



そして戦地へと旅立つプユマの若者のために、集まった家族親類が皆で歌ったという歌は心を打った。その歌はプユマの節に日本語載せた歌で、一人の長老が「兵隊を送り出す歌もあります」と歌い出し、途中少し詰まったところから他の二人も助け舟を出すかのように合わせて歌いだした。彼らの声にはハリがあり、節はシンプルなので聞きやすいのだが、なれていないと歌うのは実は難しい。美しく、特徴的ないわゆるアジア的な音階が作る響きには否応なしに郷愁を誘うものがある。



*以下の歌詞は音で聞いたままを書き留めているので本当は違うかもしれない。

兄さんのタバコの煙どこまでも ダンダン(合いの手)
消えない消えない
あのはてまでも 
あー明日の夜 いーよ
待ちましょ待ちましょう ダンダン(合いの手)


20180911

再び檳榔の実をいくらか買って長老を訪ねる。

最長老が私を笑顔で出迎えてくれた。

「あなたが来るとね、日本語で話せるから嬉しいんだ」

と、おっしゃってくださり、私もお話できて嬉しいと伝えた。
これは説明しようがないのだが、言葉が通じるからという以上に本当に嬉しい気持ちがする。先日聞いた話しもそうだが、尊敬の念を私は抱いているからかもしれない。伺ったプユマ語、日本語、中国語の3つの名前を聞くだけで、台湾先住民としての彼の人生がいかに大変であったか想像できる。
私は先日教えてもらった薬莢や鉛で作った飾りの話しをもう少し詳しく聞きたかったので、どのようにして実際溶かしたのか、どのくらいの時間をかけて溶かしたのか、どういう型を作ったのか、など細かく質問させてもらった。

面白かったのは、子供達の間では出来上がりが精巧なほどどうやら注目を集めたようで、長老もうまく出来たものを腰にぶらさげて、他の子供達に見せびらかしたりした、という話し。

「どうだ、っていう顔で歩いて『おい君それ作ったのか?教えてくれよ』なんて言われて」

私にはそれがただの子供の遊び話しではなく、戦争という状況や圧倒的な力の象徴を溶かし、彼ら自身の手で彼らの土地に流しこんで、自分の望む形に変える、という非常に力強く美しいものに思えた。
現代アートにも武器を何かに変える、という作品が見られるがスコップなどの実用性のあるものへの転換などでコンセプトもメッセージは明快だが、プユマの子どもたちの例に見られる武器という実用しかないモノを飾りという非実用性を誇るモノに変えるというような軽妙な行為とはやや異なる。

私が多少見知ったた程度でこんなことを言うのは僭越だと思いながらも考えた事を書いておきたい。プユマ族だけでなく台湾の先住民族全体の状況を知っていくと、ある意味で彼らは度重なる外来勢力によって何度も土地を追われたくさんのものを失ってきたことは明白だ。しかしあのブリコラージュに見て取れる彼らのしなやかさと強さは失われることはなかった。そういった種類の「力」こそが彼ら自身が現在にいたるまでもサバイバルしてこれた力の源だったのではないだろうか。

おぼろげに作品のイメージが掴めたように思う。

付記:これは本当に誤解のないように願いつつ書くと、高砂族とも呼ばれた彼らの一部は首刈り族として16世紀来の入植者オランダ人やスペイン人、日本人に恐れられた。日本統治時代の記録で私の印象に残っているものは、すでに顔なじみになり友好的な態度をとっていたと思われていた者でさえ時として首刈り行為に及ぶとか、生き血をすするとか、日本人警察官(実質は村々の統治者)などが狙われやすいといったような記述だ。ある台湾人から聞いた話だと一部の部族では尊敬を集めた人が亡くなったあとに死肉を食べる習慣もあった、とか。これらの逸話に関しては残酷さだけがクローズアップされる場合が多いが、私は外来品を縫い込んだ衣装や、鹿などの獣の頭部分をそのままヘルメットにしたようなヘッドピースのような装飾品なども、一点において通じているように思う。纏うことや食することをひとつの契機に対象としている相手の力を自らのものにする、あるいはしたいという願望の現れではないかと思う。そう思うと、死肉を食する事は死者を自らに宿す命がけのパフォーマンスだと言える。また、首刈りは、その対象者が外来者であったり力ある者であったり顔なじみであったことを考えれば、自らが認めた「何らかの力の持ち主」を取り込み変身・成長するための戦闘的な儀式である、とも。あのプユマの子どもたちの腰飾りの話しを聞いて以来、私はそんな想像をするようになった。

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September 21, 2018

あの弾丸の行方と台湾先住民コレクション and the creativity of the indigenous people of Taiwan!

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20180925

台湾大学を訪れた。旧台北帝大(タイホクテイダイ)。現在、NTU又は台大と呼ばれる台湾における最高学府。

「これって・・・椰子の木を白樺に変えれば・・・」

と、思わず北大のキャンパスを思い出した。旧帝大というのがだいたいこういう明治風のレンガ造りの建物なのかもしれないが、キャンパスのレイアウトも含めて何かしらの既視感があった。北海道とのつながりを意識していたからかもしれない。

NTU内にある人類学博物館が訪問の目的だ。ひょっとすると金関・国分による採集物が展示されてはいないか、という一抹の期待と想定外の発見を求めて。

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画像:台湾大学人類学博物館にて

いまさら繰り返すまでもないかもしれないが展示を構成する先住民達のコレクションの主要な部分は日本人の研究者達の収集物による。そしていろいろな採集物を見ていくと1929年収蔵という文字が繰り返し現れる。係の人にその辺りを少し尋ねたところ、これはいったん1895-6年あたりに採集されたものが東京に持ち出され、その後台北帝大の文政学部のトップとなる移川子之蔵ら一部の日本人研究者が台湾に属するものだとして、台北帝大へと持ち帰り所蔵された年代だと言う。

展示品は保存状態もよく、どれも手がこんでいて、民芸品として見て欲しくなってしまう。どこかしらコロニアルにも思えるそんな気持ちに複雑な気分になりながら、個人的には幾つかの口琴に目が留まった。

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画像:台湾大学人類学博物館にて


民族楽器を見ていくと、口琴にはだいたい竹などの植物製のもの鉄を使った金属製のものと2別される場合がほとんどだが、このTrukuの口琴の様に素材が混じりまた複数弁のものは見たことがなかったので驚いた。(3,5,7音出せるものを見たことがあるが現在複数弁を使いこなせる人は知らないと後にTrukuの人にあった際に聞いた)

朝に訪れた中央研究院の人類学博物館を訪れた際には、散弾銃の薬莢のようなものを使ったSasyiatの腰飾りやPaiwanの古い日本の貨幣を使用したベルトや衣装などが個人的には示唆に富んでいて興味深かった。また隣の歴史博物館では折しも台湾の考古学史に触れた展示も行われているとのことで、そちらの展示では日本人研究者の名前が散見された。

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画像: 中央研究院民族研究所博物館にて

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画像: 中央研究院民族研究所博物館にて

1945年に卑南遺跡発掘を行った金関・国府の両名も台湾先住民文化に精通していて、先史時代を想像する手がかりとして、発掘されたもののみならず先住民の生活・文化・日用品などからも手がかりとする民族考古学系の研究者だった。

例えば彼らが発掘によって確認した住居跡の発掘現場に「(屋根瓦に用いられた様な)スレート(粘板岩)が見当たらない」ことから屋根は「茅葺きであったろう」という想像が展開される。この推測にはPaiwanの人達が当時使っていたスレートの瓦やAmisなどの家屋における茅葺きを想定しての記述だが、よくよく読むと非常に面白い。ある意味で私がイメージしていた考古学とは違っていたが、その本質を表しているようにも思える。

つまり土の中から「出てきたもの」だけではなく、「出てこなかったもの」からの両面で過去世界を想像する、ということだ。あり得たかもしれない、という想像。

鉄製品がないことから想像するそれ以前の世界。
頭蓋だけがみつからない墓から想像する首刈りという慣習。

卑南遺跡では楽器がみつかっていない、と聞いた。だとすれば楽器は植物で作っていたかもしれない、という推測がはじまるのかもしれない。あのTrukuの口琴のように多弁の口琴をあやつっていただろうか?草笛や葦、竹の筒を利用した素朴な笛などを有したかもしれない。Paiwanの人達が現在も大事にしている鼻笛という非常に繊細な楽器があるが、それに似た音色が卑南にも響いていたのかもしれない。

soundartist77 at 17:37|この記事のURLComments(0)

あの弾丸の行方△泌鋪埒景 and decaying images and texts

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20180924

One of the tasks I had for my Taipei trip was to check the wartime newspaper 臺灣新報(Taiwan-Shinpo). Based on one of the memoir I found from an interview clip, there should be a newspaper article, possibly with a photo, about the 1945 Peinan excavation by 2 Japanese archaeologists. I wanted to check if the Taiwan-Shinpo have it.

I came to the Taipei National Central Library. It only took me a few min to register after giving my inquiry.
I find libraryan in many countries very helpful and has benifitted from them but this one was fast!

I went upstairs to the Japanese Korean section.

There were only republished anthologies of the old newspaper or to be precise scanned or photocopied old newspapers. I found the volume that contains all of the 1945 and went through the possible dates one after another. The result... you can guess from the image above.

No words to express.

No way to check it further?

Well there must be an original if there is a print of the scan of a copy it...

Maybe I can find the original paper in the Taiwan National Librarry? or possibly in Japan.

Though there are images and letters that I could recognise, it just made me think that it was actually almost impossible for this newspaper to post an article of archaeological excavation... everything else are all about propagated-battle-reports and agitation for the suicidal attack of Kamikaze.

The time is up. They are closing.

Maybe next time.

I have more places to go...

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September 20, 2018

あの弾丸の行方,版酳館 and visiting Taiwan's oldest museum!

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台東ー台北間は通常4時間ほどの機車の旅、のはずだったが夏休み期間でほぼ満席。前日に急遽問い合わせた私は早朝6時発の便、ただし6時間かかる各停的な・・・、で台北へ向かう。なかなか年季が入った車両、そして機車・・・指定された座席はディーゼルの真上?かと思われるノイズと振動、満席のため完全にスタック。

前述の金関・国府(fn004)という二人の考古学者の考古学報告書に興味を持って以来、彼らの系譜をたどりつつ、私は1980年代に行われた卑南遺跡の発掘にも携わった研究者を探していたのだが、運良く父親が国府と直系の研究者で、かつ本人は現在、台湾博物館のキュレーターという李子寧教授と会って話を聞けることになり、台北へと向かった。彼は私がかねてより興味を持っていた常設展示(fn001にてとりあげた)の企画者である。私はあの展示の企図、そして彼が1945年の卑南発掘時にグラマンの機銃掃射によってばらまかれた薬莢を遺跡で見たかどうかにも関心があった。

酔いとノイズに揉まれながらの6時間で体はむくみクタクタになってしまったが、到着した台北駅から待ち合わせの国立台湾博物館までは徒歩圏内だ。駅からまっすぐに伸びるひときわ幅の大きな道路の先にいかにもコロニアルな雰囲気を全体から醸しつつ建っている。おそらく台北駅から降りてすぐに目に入る様なプランだったのだろうと思う。台湾では日治時代とも書かれる植民地時代に設立された最も古い博物館で100年の歴史を持つ。

李教授は非常にオープンな方で、率直に様々な質問に答えてくださった。金関・国分が発掘時に機銃掃射を受けた、という話しを知っているかどうか聞いてみたところ、聞いた記憶はない、と。さらに薬莢に関しては面白い想像だがそれらしきものは見ていない、と。残念ながら早々に、私のファンタジーめいた想像は立ち消えてしまったが、発掘中の印象深いエピソードなどがあるかどうか訪ねたところ卑南遺跡の発掘に携わったのは89年でちょうど対岸の中国で後に天安門事件と呼ばれることになる学生デモとそれにたいする弾圧の報道がされ、同じ学生として気が気でならなかったとおっしゃて、当時の日記を見せてくださった。

「ほら、この日からだ」

そう言って開いた5月20日のページにはびっしりと字が書き込まれており「軍事鎮圧」の字が私の目に留まった。彼は個人的な意見だとしつつも「発掘というのははほとんどの時間が退屈な穴掘りなんだ」と何度も言っていた。そのつかみどころのない時間に彼の脳裏を占拠していたのは対岸の「1989」だった、と思うとなぜか彼が居た発掘現場と自分が少し近づいたような感覚がした。まだ小学生だった私もあのニュースをリアルタイムで視た記憶があるからだろうか。

1980年代から開始された卑南遺跡の発掘というのは、遺跡が存在するエリアに新しく台東駅が建設されることになったからで、発掘した直後にすぐに遺跡を埋めることを宿命付けられた期限付きの発掘だった。何十時間という膨大な(それでも全体のわずか一部)発掘時の記録映像を見たが、本当に発掘直後または同時に土をダンプする映像と音が印象的だった。また発掘に参加した数名の研究者から聞いた内容をまとめると、発掘経験があまりないメンバーが多く、時間のない中で、試行錯誤を続けざろう得なかった。そう、ある種の切羽詰まった状況だった。そういう意味では1945年と通じていると言えなくもない。

国分はインタビューの中で、戦時の発掘に関して当時の台湾の教え子たちとのやりとりを振り返りつつ印象的な発言をしている。

『この時期に、先生、意味があるだろうか』と僕に言うんですね。僕は『消えるかもしれんよ!』とこの集落が。
『僕らは今この長い歴史をもって、ここに長い生活を営んだ人達の事を、一行でも書き残しておくということは、巨大な、大きな世界史のペーパー中の一隅にちょっとでも書き残しをすることができるってことに意味があるじゃないか。そう考えるより他に慰めないじゃないか、いずれ消えるかもしれない。我々も消えるかもしれない。ちょっとでも書き残しをするんだというつもりになりましょう。『了解した』『了解した』と言ってやってくれた
(*日本民俗映像学会、映像保存プロジェクトが収録した1990年1月のインタビューより、筆者の書き起こし)

戦後も台湾に残り戦災にあった考古学資料の整理にコミットした国分らの影響を直接受けた台湾の考古学者達にこの思いは引き継がれただろう。土の下も無事ではいられないのが私達の世界の現状なのだ。だから到底完璧な発掘が望めないとしても、自分たちが「いま」「出来る限り」記録し採集する。でなければ、全てが破壊されるか掘り返すことが事実上不可能になる。

私が現在滞在中の卑南遺跡公園は、遺跡の広がるエリアを国立史跡指定をすることで逆にこれ以上の工事・開発を未然に防ぎ、将来の発掘への道をつなぐ、という発想から生まれたと聞いた。まさに同じ危機感と使命感が作ったのだと思える。

私は李教授に、常設展で視た旧い日本語で書かれた紙札・標本ラベルが特に印象的だった、という感想を伝え、彼にとって植民地時代初期に訪れた日本人科学者達はどういう存在か、と聞いた。彼は博物館のコレクションを介して初期の日本人科学者達と対話していると話してくれた。

また"It is our lineage." という表現を使い "We are a family" ともおっしゃった。

これらの言葉には感動したし、博物館刊行の100年記念展のカタログやDVD、またDVDにも登場する日本人科学者達の家族を招待しての祝賀イベントの記録などを見ればいかにその事を大事に受け止めているかがよくわかる。それ自体は本当に素晴らしいことだと思う。
しかし、思えば思うほど、この科学者達の情熱の背後に帝国主義的な政治的な歴史が紛れもなく存在していたことが否応なしに意識される。そういう世界だったし、いまもさして変わらない世界に生きていることはやはり無視出来ないし、いまだにそれをどう捉えてよいのか私にはわからない。それだからこそ執拗に知ろうとしている。

あれこれ反芻しつつ、台北でのリサーチを続ける・・・

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September 16, 2018

ある発掘報告書の残響 and I am listening to January 1945

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滞在開始から最初の数週間はほぼ卑南遺跡の発掘史に関連する書籍やアーカイヴを博物館のライブラリーやオンラインで検索しひたすら目を通す作業と周囲の散策に費やしたが、徐々に関心の中心に「台湾東海岸卑南遺跡発掘報告」と題された1つの発掘報告が浮かび上がってきた。人類学・考古学者の金関丈夫と国分直一の両名によって発表されたこの報告書は1945年の1月という特異なタイミング下の卑南遺跡発掘に関する報告書で、台湾においても1944年の10月以降は空襲が本格化しており、空襲の危険性は十分に予見されたと思われる。つまり、命の危険を冒してまで発掘する意志を秘めていたと想像される。そこまでの切迫した想いに興味を持ち、金関丈夫と国分直一という研究者について、また当時の卑南の状況について調べだした。

実際、彼らの報告書に記載された簡単な発掘経過には空襲や爆撃に関する記述が数回登場する。そして結論にも再び、空襲のために十分な調査はできず発掘を中止したと記している。私は考古学の論文に精通しているわけではないが、学術的な報告に紛れ込む明らかに個人的な感情を私は強く感じた。90年台に撮影された国分のインタビューによると、彼らは発掘中に米軍機の機銃掃射の対象になり、あわてて発掘現場に身を隠し、戦闘機が通り過ぎた後に薬莢を手にとり登りゆく煙を眺めた、と。私は臺灣総督府による「臺灣空襲状況集計」という当時の極秘資料や米国海軍のアーカイヴなどをもとに、グラマン米艦載機による台湾東海岸における空襲の記録を参照し発掘中の襲撃に関する想像の解像度をあげようと努力した。

グラマンに搭載されていた(だろう)ブローニングM2という重機関銃から放たれた(だろう).50BMG, 12.7mm x 99mm弾は幸いにして二人の考古学者を傷つけることはなかった。だが、見境なく行われた(と思われる)機銃掃射の矛先は卑南遺跡に眠っていた数千年前の世界との接続を幾らかは断絶したのではないだろうか?いずれにせよ発掘現場周辺にバラバラと降り注いだ(だろう)無数の薬莢、国分や金関が拾って煙を眺めたあとに捨てられた(だろうか?)後、どこに消えたのか。

後々の出版物でも国分は卑南遺跡での発掘に触れているが、グラマンの文字が見えることはあっても、弾丸が描いた軌跡は時の闇に消えている。ひょっとすると叢に落ちた一部の薬莢が後の発掘で見つかった例などはないだろうか?薬莢に使われた(だろう)黄銅という素材がどの程度経年劣化に耐えうるのか詳しい知識を持ち合わせていないが、卑南遺跡周辺を眺め見る時にその表土層にその残骸が残っていても不思議ではないようにも思えた。戦後に農耕地として耕されて以来現在の様な状況らしいのだが、不発弾や薬莢が発見された例は記録されていないだろうか?1980年台になってはじめて本格に行われた発掘時に薬莢や残骸が発見された、ということはないだろうか?日本の軍部はあらゆる物資の供出を図っていたことを考えると台湾でもそういうものも回収されていたのかもしれない。いや、戦時の子どもたちが回収される前にそういう物を拾って隠し遊ぶ、という事も十分にあり得たのではないか?

想像は疑問を生み、さらなる想像とその選択肢を拡げていく・・・

いまでも卑南遺跡の近くには軍事施設と台東空港という小さな地方空港があるため割と頻繁に小型、中型の飛行機が空を行き交っている。私は「1945年1月」の卑南の音風景を想像しながら、当時を知る人達に会いに行くことを希望し、博物館のスタッフにプユマの長老達に会いたい旨を伝え、台北へと向かった。訪れたい場所と会いたい人が台北にもいる。

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September 09, 2018

卑南河口の音風景 and I hear the thunder roaring from the North!

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22nd Aug

Not so hot, I thought and I waited Dr. 楊小青 who is a geo-archeologist. Outside of the cafe next to the exhibition hall in the Peinan Site Park.

Many cicada was already singing their noisy choir but because it was cloudy from the morning, the air wasn’t so hot.

We sat outside, table that is next to a big tree, because the music in the cafe was not what I wanted on my recording. There were some breeze going by where we sat. It was ok though the air was getting a little hotter as the sun goes up.

I started asking questions I had...

According to her, the landscape around Peinan hasn’t change so much from 5000 BP including the delta of 3 rivers, which now locates Taitung city center.

During the conversation, which off course meanders around the subjects, I was very inspired to hear about the tectonic activities detected in this region. In fact, we can see two plates confronting each other in Peinan. The 悪地(badland) on the north side of Peinan river is where the border between Philippines plate and Eurasian plate meet. The land goes up 1cm every year.

The hill or terrace of the hill where we sat, Peinan culture site, is found without any trace of confronting the water directly, she said. They were always meters higher than the water surface. It was kept safer than the deltas, which might have experienced some over flooding of the river.

It made me think that the safety and the energy/active level of the land might have attracted people to settle here, for possibly more than 1000 years.

What made them like to live here?

....
The following sentences is transcribed at the mouth of the Peinan river, looking towards the river on its south bank, listening to its soundscape on the 5th Aug from 16:13 about 10minutes
....

Offshore wind not very strong
I heard the thunder roaring from the mountain afar
from the West and the North

Birds are chirping here and there

I hear no waves, it doesn't reach me
but cars on the bridge instead

A guy singing out loud on his motor pass by

Thunder roaring again
from the North and the West
lower and longer than the ones before

Two men taking a walk chatting in Taiwanese or Mandarine
I can’t tell

A thunder again from the North

A fly passing by

Another thunder from the North

In a distance, fire crackers
and a helicopter hovering behind me

A sound on the water
a small fish jumped up from the river a few times
....


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巨石文化の残響 and I am listening to the prehistory!!

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8月11日のメモより

....
台湾東海岸に点在する巨石文化の遺跡などを先史博物館の研究者と見て回る。大方は観光地化されていて正直なところ感じるものはそこまで無い。面白いものとしては、民家の裏庭に忽然と現れたかのように存在する巨大な岩石を利用した石棺。ただこれも周囲に見物用の構造物が組まれており保護されている。

最後に訪れたのは、つい最近まで発掘が行われていたという遺跡で、とある集落の奥から山手に向かって伸びる林道を進み、車をおりて5分ほどあぜ道を行く。
あぜ道と言っても細いわけではなく、2本の轍がくっきりあるところをみるとまずまずの頻度で車も出入りしていたことが想像できる。道端にはプラスチックシートで覆われた何かしらが積み上げられていたり、檳榔の実が入っていたと思われる小さめのジップロックの袋があちこちに落ちていて、運搬作業員だろうか、男達の存在を感じさせる。

少し開けたところに出ると、右手に美しく切り立った山々の連なりと重なりが見える。前方にはやや場違いな雰囲気を放つコンクリート製の貯水タンクがあり目を引くが、人気はまったくない。その奥、一段あがったところには今にも転げ落ちそうに見える大きな岩石があり貯水タンクとは違う意味で風景から突出している。柵に囲まれることもなく、立て看板の説明もない。数千年前の時間と現在とが接続している風景がそこにはあった。

近づいて登ってみると岩の頂上部には疑いもなく人手によるとわかる形の石棺状のくり抜きがあり、その角度や面の精度から金属器によるものと想像される、とのこと。

方位を確認すると石棺の縦軸はやはり南西ー北東のラインに沿っている。

実際にそれが石棺なのか何かの貯蔵施設なのか儀式のための祭壇なのかはっきりしたことはわからないが、ちょうど岩の下のあたりからはドーナツ状に円形のくり抜きがほどこされた例の岩の断片も見つかっており巨石文化の存在が確認される、とのこと。

私は岩を降り、もと来た道を戻ろうとして今一度岩を振り返ってみた。

岩の下に生える一本の木の脇に置かれたように見える檳榔の袋と300mlほどの酒瓶に気づいた。ちょうど誰かがそこに座るのにちょうどよいと思えるような大きさの平たい石もあって、なんとなく海の方を眺めながらここで休憩したか先祖に参ったのか、いずれにせよ先程の散在していたジップロックから感じるのとは違うリアルを感じた。
.........

メモ:9月8日記す

現在、台湾の東海岸側には先住民系の方々が多く住んでいる。一口に先住民、原住民という言葉では言い表せないほどたくさんのグループがいる。もちろん、もともとは島のあちこちに住んでいたのだが、16世紀以降の外来勢力の入植とともに、多くの先住民グループは東側に追いやられていった。

檳榔は日本語ではビンロウと書かれる事が多いが中文の発音ではビンランになる。台湾のあちこちでこの文字を掲げた看板を見かけるが、特に東側は多い気がする。先住民文化にはゆかりの深いものだからではないかと思う。彼らの神話にも「檳榔を3つ贈り物に・・・」とか「檳榔を捧げた」とかそういう記述がしょっちゅうでてくる。先日、プユマの長老を訪ねた時に土産にもっていった檳榔を自分で噛むはめになったが、体温があがり、少しふわふわと酔ったような感じがした。唾も出てくるのだが、それを飲み込むと気持ち悪くなるかもしれないから吐き出すように言われた。しばらく噛んでいた檳榔を吐き捨てると、ものの数分程度で体の状態は普通になった。なるほど、こんな感じなのか。私の周りにはビンランを噛む人はいないし、話をきいてみても皆たいがい、うまいもんじゃないよ、という感じで勧めない。試した結果、味に関しては正直なところ・・・植物の味としか言いようが無い気がする。平たくいってまずい。だけど長老いわく、これのおかげで冬も寒くないし健康なんだ、と。

ここ卑南を植民地時代初期に訪れた日本人考古学者達の多くは人類学、民族学に通じた研究者が多く、彼らは先史時代の生活を想像する手がかりの多くを様々な先住民グループに残る生活様式や神話などに求め島全域を可能な限り踏破し調査をすすめた。彼らも檳榔を土産に長老達を訪ねて、一緒に噛んだりしただろうか。

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September 03, 2018

ある土器に付された旧い日本語の響き and I am listening to Taiwan and Hokkaido!!

paiwan_pot


PN20180901-fn001

滞在開始から一ヶ月。

2018.8.1 - 9.31の2ヶ月間、台湾の台東にある國立臺灣史前文化博物館という先史時代や先住民文化などを専門に扱う博物館にて藝術駐館(artist in resident)の公募があると知り応募したところ、しばらくして連絡があり招聘が決まった。

國立臺灣史前文化博物館
中文:https://www.nmp.gov.tw/
日本語:http://jp.nmp.gov.tw/about01-1.html
English: http://en.nmp.gov.tw/

この一年間ですでに3度めの台湾。合計4ヶ月ほど滞在していることになる。来れば来るほどこの島の複雑さに気付かされ、関心を強めると同時に途方に暮れそうになることもある。

今回の滞在制作を希望したきっかけの1つは台湾と北海道という2つの島の歴史の相似関係を知ったことがある。

1月に台北の228公園にある國立台湾博物館を訪れた際、「發現臺灣」(Discovering Taiwan / 台湾の発見)と題された常設展示において台湾の博物学諸分野における日本人の研究者が紹介されていた。台湾における「近代的な科学史」のはじめには外国人というか日本人の名前がずらりと並ぶ。明治元年から約30年後に日本の領土となった台湾において日本式の「近代化」を実験しようとしていたわけだから当然といえば当然なのだが、日本式の「近代」のはじまりにアメリカ人を始めとする多くの外国人があるという家系的な歴史の相似を想った。以前、北海道で自分なりに時間をかけB.S.ライマンという地質学者の石炭などに関する調査行を調べたことがあったこともあり、私にとっては知的に理解したというよりは腑に落ちるリアルな時代理解を得る機会となった。

ライマンは1870年代に現在の北海道大学の前身である札幌農学校の設立初期に教鞭をとり実地訓練とも言えるような調査を経て多くの日本人炭鉱技術者や行政官を育てた。同じ様な図式が各分野で見られ、彼らの一部またその次世代のエリート達がおそらく台湾にも来たことは想像に難しくない。殖産興業の理念のもとに西洋列強から学び北海道を調べ、開発し手にしたのはその土地のみならず人材と経験で、ここ台湾にてそれらを様々な形で「投資」した。國立台湾博物館の初代館長川上瀧濔も札幌農学校予科の出身者だ。

北海道が日本国の植民地である、という表現はもしかすると用語的な定義からすると不正確かもしれないしやや極端な表現かもしれない。蝦夷地への本格的な入植は江戸時代後期にすでにはじまっていたことも含めると台湾との比較はあらゆる面で無理があるかもしれない。しかしながら私が愕然としたのは、現在、台湾は日本の領土ではないしそのことは当然だと思う、一方で北海道は今や何の疑いもなく日本の一部だとされている、ということ。この現状に文句があるとかそういうことではなくて、そうではない状況も十分あり得たかもしれないという想像の欠如、現在までのいろいろな経緯は声を潜めまたは無視され国家の提供してきた言説に概ね一本化されていること。もちろんこれは歴史上の一筋を言った言葉でしかなく、近代国家や国際条約云々を単位とした歴史の1面だ。しかしこの2つの島のつながりを直感した事は、明治政府のとった国策と2つの大きな島の命運を再想像するに十分だった。そしてそれは当然他の島々へと想像を促す。ライマンのリサーチをしていた当時、様々な歴史研究者や、先住民であるアイヌの方々にもいろいろと話しを聞く機会があったが、私にはそこまでのリアルな認識はなかった。無知を恥じると同時に何かしらを知ったつもりであったため更に衝撃的なことだった。

動揺しつつも展示をさらに見て進むと、國立台湾博物館が1908年に「台湾総督府民生部殖産局博物館」として設立されて以降に収蔵された台湾先住民の日常品が含まれていた。大きくシンプルな土器には5x3cmくらいの色あせた紙札が紐で結わえられており「壺 パイワン 一ケ」と書かれていた。同じ様な紙札を北海道の各地で訪ねた資料館や博物館でも見たからだろうか、墨と筆で書かれた旧いカナ混じりの日本語をみた瞬間、私は再び日本の旧植民地である台湾から逆さにあの大きな島も日本という国家によって植民地とされたということを想った。

私はまたこの土器を手にした収集家・研究者の思いをも想像した。彼(ら)はシンプルで美しく生きた生活の形としての土器に魅せられ手にしたはずだ。北海道の時もそうだったが、私はこういった個々人の様々な興味・関心・探求、知りたいというモチベーションが暴力を伴う国策という大きなフレームとモチベーションの中に又は絡み合いながら動いていることに関心をもってきた。それをどう考えればいいのか?それは自分自身に関わることでもあるからだ。

ここ台東には台湾ならびに環太平洋地域で最大規模の先史時代(新石器時代中後期)の遺跡である卑南遺跡をはじめとする巨石文化の痕跡が点在している。古くから知られていたこれらの遺跡を調査する目的もあって1896年以降この地を幾人もの日本人研究者達が訪れてきた。ただし考古学的な研究よりも人類学的な研究、つまり先住民の研究が主要なミッションだったと思われる。そして彼らの研究は直接的に台湾における先住民に対する植民地政策の決定に影響しただろう。その事に彼らが無頓着であったとは思えない。十分知っていたと思う。もしかするとその事を誇りに思っていた研究者も少なからずいたのかもしれない。しかし私は想像する。当時の蝦夷地/北海道で起こった、起こっていた、起こりつつあった状況を見て、知って、台湾においても同じような強硬な国策が展開されるのだろうと見て、自らの信条と矛盾があろうとも方便として国の先鋒に立ちつつ、あわよくば眼前の台湾の何かしらを破壊され失われる前に記述し、守れる何かもあるかもしれないと考えた研究者もいたのではないだろうか、と。

私は想像する。国家に石炭を与え(それはおそらく鉄になり武器になり戦力に変わった)、同時に弟子たちに個人的には戦争に反対する手紙を日本語で書き送ったライマンと彼が抱えていたかもしれない矛盾とその葛藤を。そしてここ台東を訪れた日本人の考古学者や人類学者達を。彼らがどの様な思いをもって先史のかなたを想像していたのかを。

mamoru

付記:

台湾東海岸の美しい風景に接しているうちに、16世紀にこの島に辿り着いたポルトガル人が「Ilha Formosa(美しい島)」と名付けた時間といまも地続きにあることを感じる。そこからうんと遡って先史時代となるとさすがに感覚的に追いつかない気もするが、先史時代の専門家の方々に話を聞いたり、普段は見れないような考古学の施設を訪れたりしているうちに自分の想像のレンジを広げられれば、と思う。

soundartist77 at 18:16|この記事のURLComments(0)

December 23, 2017

ある(超難しい)響きについて & I started taking Suona lesson!

(日本語記事は英語のあとに。下へスクロールして下さい)
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image: 碗(it means cup) for Suona

Now I am in Taipei. So cloudy and unexpectedly cold(not as much as Japan off course). To be precise, I am participating in an exchange research residency between ARCUS(Moriya, Japan) and Kuandu Museum(Taipei, Taiwan). Kuandu Museum is located in the north of Taipei near Tamsui. In the northern part of Taipei, there were several Spanish colonies which were then taken by Dutch and later by Chinese, English, Japanese and partly English again... such complex colonial histories are a part of my 17th century research.

The Museum is a part of Taipei National University of Arts. It's up on a hill, 10-15min away from 3 stations but somehow many easy-hikers on weekends. Winds are strong and you have a great view towards the city of Taipei. It means... I am far away from downtown Taipei. Well just an hour or so to be fair.

There are fine art, music, dance, theatre, and new media department. I am staying in the guest house of the university which is in the campus, so I often eat at the student canteen. It makes me feel like I am back in school again. Very proper for research residency environment? but being in school had an advantage in cases like finding a teacher for learning instrument.

I wrote a letter explaining my desire and reasons for learning the instrument to find some people who would be willing to help my search into to the sound of Suona. Soon after my letter was handed to the staff of museum, they passed it to traditional music department in the campus. Luckily one of the graduate student, Chi-yi, found it interesting and contacted the office.

I met to-be-my teacher in the museum office for the first time. There were already several Suona on the table. The instrument has a tiny wooden body called 管 (pipe) and a metal cup 碗 and the reed is rather small for making that massive sound. Seeing it for the first time, it looked well made and yet primitive at the same time.

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The curators and staff at the museum were gathered around the table chatting with Chi-yi. It was nice to see them getting interested in the instrument. Although in Tainan and also elsewhere, I feel that the temple and people lives are connected strongly even among young people, the enthusiastic conversation kind of revealed the distance between the "traditional instrument" and people who are not engaged with it.

Musicians of traditional music(include Western traditional music "classical" music) often becomes elite group and at the same time, sometimes, segregated given some "special" tasks to carry out rituals etc. So it is not just the fast pace modern or contemporary urban life and rational(for production) society that separated these music from people but l personally feel the gap or closeness between this type of music and people hints something about the condition of our society. Not quite sure what it reveals but maybe how much extra(but necessary to breath) space it has?

I feel that we all need a space and time that cannot be named. Music may have provided it. Some time-space that refuses any claim and remain unknown. Maybe... and why am I writing this?

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image: Chi-yi instructing me how to read and play

Anyway, I started taking Suona lesson. It requires certain amount of breath to produce the sound and to control the pitch. It is so difficult and loud that my ear started ringing after several notes I played.

Suona_score
image: notation for "上管風入松

hope to upload my recording soon! or not...TBA.

・・・・・・・・・・・・

日本語(英語と内容重複するところもありますが・・・基本的に別の文章です。)

11時頃だったろうか・・・

少し気分的に滅入っていたこともあり、ベッドの中でグダグダとiPhoneのKindleをパラパラとめくり読んでいたはずだが、、知らぬ間に意識は薄く遠くなっていた。

部屋の電話が遠くで鳴り始めた・・・

まだ聞き馴染みのない呼び鈴をうっすらと認識し、寝かかっていたことに思い当たる、と同時に受話器に手をのばす。

-hello
-hello is this mamoru?
-yes
-ok. TA at the traditional music department contacted us that they found a musician interested in your project and she is in the library now. Are you still sleeping?!
-no no. wow that’s great.
-can you come now?
-sure. in 10min.

すぐにベッドから出て、かばんにカメラやラップトップを詰め込む。頭が重い・・・少しコーヒーを飲んでからにしようか、数日前に買った珈琲豆を挽き、ウォーターサーバーから熱湯を持ってきて、珈琲を淹れた。現在、あるリサーチレジデンスプログラムに招待され台北国立藝術大学に滞在中で、とある楽器について調べはじめたところだったので幸先がいい知らせだ。

-I will be coming to the office in 5 min. Is she already there?
-yes but it’s ok. take your time~

小雨が降る中、美術館へと向かうとオフィスにつながる廊下には話し声が響いていて、オフィスのテーブルには楽器が置かれ、スタッフと談笑する感じの良い若者が目に入る・・・

-hi nice to meet you. my name is mamoru
-oh hi, my name is Chi-yi

カメラとレコーダーをセットし、スタッフと彼女の会話(の雰囲気)に耳をすます。この楽器に関して私が興味を持ってあれこれ質問していたおかげか、スタッフもすでに関心をいだいてる様子で、とても嬉しい。しかし同時にその様子は、この「伝統楽器」と人々の間にある距離についても感じさせる。楽器というのは技能を必要とする場合が多く、演奏できる出来ないという線引が明確なため、特権的な集団を生み得る。そのため音楽技能集団はエリートにもなり得るし、忌避・阻害の対象にもなり得る(またはもともと忌避の対象である人達が技能集団となるのか)。様々な文化圏で見られるのはその両者の混合した状態だが、そういった線引と伝統楽器と人々の距離感は別のものだろう。

そして楽器とその響きには様々な歴史のもつれとそのほつれが既に見え隠れしているように私には思えてならない。台湾で聞くSuonaの場合、漢族由来の音色が前面に感じられると同時にシルクロード的な広がりもあるという魅力を私はその響きに聞き取ることが出来る。と同時に、人とモノ・カネと力が移動する植民地主義とか帝国主義の単数形・権力的な歴史とその背後に追いやられる複数形・無数・無声の歴史。台湾と中国、もしかすると台湾と日本、そして台湾とは何か、についてこの楽器は、そしてこの楽器の存在が、パフォーマティブに物語っているのではないかという想像を抱かせる。

楽器とか音楽は人々の生活と密接なところで生きながらえるだけのものではない。国家や政策などによっても往々にして推進され衰退させられる。明治以降?戦後?の日本の音楽教育に関して何も知らないが、私が三味線ではなくピアノに親近感を覚える現実が嗜好の変化とか、個人の環境だけではありえないことを考えるだけで納得がいく様に私には思える。台湾でもこの楽器がどう扱われているのかを知りたいと思っているがなかなか当たり前になっていることを当事者達の口から聞き・探り出すのは難しい。

そんなことを考えつつも、この楽器の響きに魅せられてレッスンを開始した。

息を強く吹かなくては、と思うと力がついつい入ってしまって気がつくと手が痛い。
間違ったやりかたでは音は響かない。リラックスして体の中の空気をリードへ伝えれば良い、ある程度のハリみたいなものを作りつつ。。。(だろうか?)

1時間も練習すればヘトヘトになるのだが、力が抜けていて、十分に息が正しい角度で入ると、"Suona"本来の力強い音色が鳴る。そういう音と一体になる感覚は他では得難いものがある。

(レッスンの様子などは上の画像から想像下さい)

soundartist77 at 11:55|この記事のURLComments(0)

December 10, 2017

ある響きについて & wondering what I heard in that moment

mamoru_tainan_firework
image: sky above a street in Tainan, 2017

A sentence may tell you the beginning of my recent search...

- I was in Tainan.

Not sure what triggers you by the sentence but with the image above and if you have ever been there, I am sure you can recall/imagine/hear some sound other than the fireworks and the passers by.

There was this sound. It was festive, loud, and uplifting.
I heard the sound everyday somewhere.

It's so identical that I would not miss it. It gave me this timeless feeling somehow, probably deriving from its primitive acoustic energy produced by the intense breath of the player and for sure by something more.

mamoru_17th_charumera
image: excerpt of The Trading Post at Dejima (Japan, c.1840, brush and ink on silk), Rijksmuseum

It's called 唢呐(Suona) in Taiwan. The names and the descriptions of the instrument and its history/origin varies. It can be found in various cultures along the silk road then all over the world, including Japan. Just like many other instruments. So what's so unique about it then?

It is interesting to note that in 16th century, the instrument was introduced to Japanese as "唐人笛"(flute of Tang) but later Portuguese came and called the instrument as "charmela", then more people seems to adopt the European name gradually. But it wasn't so much about this kind of information I can find easily on Wiki or my personal nostalgia that I remembered the sound of the street vendor selling noodles playing this instrument maybe 30 years ago or so. In the chorus of this instrument, I heard something more. Probably another history that I don't know yet.

One thing related to what I am hearing may be found in the following image I have been looking into for several years.

mamoru_17thJpmusicians
image: *engraved image from Gedenkwaerdige Gezantschappen der Oost-Indische Maatschappy in ’t Vereenigde Nederland, aan de Kaisaren van Japan, Arnoldus Montanus, 1669

I have been inspired by the images created in the Netherlands about Japan(or East) by Europeans who gathered information and imagined it; its culture, history, and geography. It first looked odd, then made me judging that it's wrong and later caused me to wonder on what bases I was judging. I had to question myself what and by what means I assumed that I knew about the 17th Century Japan. Movies? Text book provided by schools? Can I say that I know something about it then?

Could it be true that I am less informed than those Dutch people who made that geography book?

It could. The distance between me and 17th century Japan is so far away in time and cannot compare with the geographical distance those Dutch people had back in 17th century. However, if they wish, they could go on a ship and spend 8 months to reach it(apparently with a lot of luck) while I would have no chance to travel there.

I became curious about their process, so I started gathering many materials about 17th-21st century Japan(or East) from the Netherlands, Indonesia, and now Taiwan to imagine possible histories of Japan or the world. I came to Taiwan (and will be here for a while) hoping to reflect and deepen my understanding of histories especially from 16/17th century onwards. I want to somehow pluralize the world(or my world view maybe) into worlds. Not a Japan but Japan-s. Simply to give space to breathe for myself and for other people who might also be suffocating by the standardisation or more like a singularization of nationalistic identity promoted/propagated by the authority over personal.

What did I hear in the chorus of 唢呐(Suona)?

It was festive, loud, and uplifting. It went on and on and faded out. I was walking away and they were marching on to the next temple. Though the sound faded out, it made my ears more indulged into the details of what I had experienced. And I am in this search of the name for it.

I want to know it.

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September 16, 2016

オランダからの左折。青山、表参道、再訪。

懐かしい、という言葉がしっくりくるほど馴染んだ街並みでもないのだけど、運良く1年ほどこのあたりにアーティストインレジデンスしていた。その頃に知り合った友人の好意で、またもや運良くこのあたりにロングステイできることになった。早速、何軒かよく知っているお店を訪ねてみた。と言っても、小さな自転車を乗り回し通っていたのはもちろん、ハイエンドにクールでおしゃれでステレオタイプではない、こんなところにこんなお店が、という地に足付いた店。それは好みというよりも生活する実感を得る必要に迫られて。

いつ行っても「あら、mamoruさん!」と言って迎えてくれて、個人的には特に日曜の遅い時間に珈琲もウィスキーも飲めて、相当に音も良くて、その気になれば考え仕事ももちろんできて、海外から帰ったときは「おかえりなさい!」と声をかけくれるとっても素敵なカフェのドアに貼り紙がしてあってつい最近閉店したことを知った。(お疲れ様でした。)

ドアは空いていて中を覗くとテーブルに置かれた「Closed」の看板がまず目に入るという相変わらずの入りにくさをかいくぐり「いるー?」と言うと少し歳をとったけど少年の様な好奇心が溢れかえっているマスターが出てきて「ひさしぶりだね〜」と迎えてくれ「あのもう一人のお兄ちゃんはどうした?」からはじまってノンストップで話し続けることもあってか食べ物持ち込みOKという意味不明で絶対に打ち合わせの際には言ってはならない喫茶店(と言っても結局、珈琲も飲まず1時間くらい話しをほぼ聞いていたただけで帰ったのだが・・・)は1971年から続いていて、観葉植物のプランターがぶらさがりまくった素敵なベランダとともに今も健在だ。

当時、青山でおそらく最安であったはずの中華料理店ではなぜか窯焼きピザがメニューに加わり、気に入っていた大きめの豚まんと酸辣湯みたいなセットメニューはどこかへ消え、餃子が窯で焼かれ不味くなり(個人的な意見です)、飲む人は2時間まででお願いしますというどうやって線引するのかわからないルールがなくなっていて、時間帯のせいもあったかもしれないが客が前ほどあまり忙しく出入りしていなかった。

あの居酒屋にはまだいっていないが、相変わらずビールは薄く感じ(個人的な意見です)、もしかしたらパンクな店員さんたちが減ってたりはするのかもしれないが人の話し声がうるさすぎて結局隣に座った人としか話せない音環境はきっと何も変わっていないだろう。曲がった角のビル2階だかには同じ名前のカラオケ屋があってそちらも異常な安さを醸し出している。店や人と結びついた記憶というのはこうして再訪のたびにアップデートを余儀なくされ、その幅によって懐かしさみたいなものを感じるのだろうか。

あの坂を下ってみる。あの道を曲がってみる。体がロケーションとそこに結びついた自分の行動パターンを結びつけて記憶しているように感じ、時間が経ったにも関わらず身体は感覚で土地を認識できる?そのことの方がむしろ懐かしさなのだろうか、などと考えながら別の友人から借りた自転車であの頃よく行ったスーパーへ買い物に向かっていくがまったくたどり着かない。

「そうそう、このあたりは決まった道以外はできるだけ通らないようにしていたんだった。」

あの頃乗っていた自転車よりは大きめの自転車で車道の脇を走っていた私は左折しようとした瞬間に左腕をのばし、いるのかどうかもわからない後続の車にサインを送った。思わず笑ってしまった。日本でもそういう交通ルールはあったような気もするが、私としてはこれは完全にオランダの習慣。そうか、確かに何かを身に着けて帰ってきたのか。

行為によってあるロケーションに別の土地の記憶を持ち込む・・・

少しだけいま考えている作品と通じるところもあって気になる感覚に思える。よし、特に迷惑でもないだろうからこの習慣は続けてみることにするか。

soundartist77 at 09:38|この記事のURLComments(0)

November 30, 2014

まだ会った事のない友人 and that's how I met Kosta Tonev!

(Please scroll down for English)画像1


「CHAPTER SEVEN -03- まだ会った事のない友人」

キャリー付きの大きなバックパックにもなるかばんを2つピックアップし、ひとつを背負い、ひとつを引っぱり駅へと向かう。税関の背後にある大きな自動ドアを抜け、ターミナルに出るとすぐに格安プリペイドのSIMカードを購入し、手持ちのiPhoneに SIMを差し込み、いろいろと設定をしながら電車のチケット券売機に並ぶ。言語を英語に指定し、チケットを購入。階段を降りるとプラットフォームになっていて、運良くすぐにDen Haag Central行きの電車が来たところだったので、空いている席を確保して、15時間のフライトで疲れた体とやたらと重い荷物を座席に置いた。アムステルダム・スキポール駅からハーグまではIntercityという快速電車で約30分ほど。オランダはとても狭い。

ーyou can just send me a message after you get on the train. (電車にのってから連絡してくれれば大丈夫だから)

空いている席に腰掛けて、iPhoneを取り出す。オランダ鉄道(HS)の車両内では無料でWi-Fiが供給されている。Wi-Fiを接続すると、オランダ語の認証画面がポップアップする。全く意味は分からないが大体の雰囲気で判断し、チェックボックスを適当にクリックしログインする。iPhoneのWi-Fiシグナルが表示され、私は早速FBメッセージのアプリを立ち上げる。

新規メッセージ
宛先:Kosta Tonev
メッセージを入力:
I just got on the train to Den Haag Central. I will be there in about 30min or so!
Looking forward to meet you.(いまハーグ行きの電車に乗りました。だいたい30分くらいで到着しそうです!会うのを楽しみにしています。)


彼の名はコスタ・トネフ。まだ会った事のない友人(のパートナー)。

私がハーグに引っ越すと知って、数年前に東京で知り合って仲良くなったアムステルダム在住のアーティストの友人ダニエルが、ハーグ在住で彼の親友のアーティスト、アナを紹介してくれた。アナとはメッセージをやり取りしたり、Skypeで話したりしてハーグのアートシーンや大学院の事、日常生活に関してなどあれこれ教えてもらった。

Anna(以下、A): It's not easy to find a place here, you know. (オランダは部屋探しが大変だけどどうするつもりなの?)
mamoru(以下、m): I'm thinking to book a cheap hostel or airbnb for a week and try to find the room to rent.(とりあえず一週間くらい安宿に泊まりつつ、住む家を探そうかな。)
A: You can stay at our place if you don't find any place. But my first advise to you is to GET A BIKE!(もしいいところがなかったら家に泊まってもいいから言ってね。でもともかく自転車はゲットする事!)
m: OK! thanks a lot.(ありがとうー!)


まだ会った事もない友人は、見知らぬ土地に引っ越す私を気遣って部屋が見つかるまでの間、彼女が住んでいるアンチ・スクワット(*オランダ独特の合法的「不法占拠」:一定の期間使用されていない建物に許可を得て住む行為)のゲストルームに泊まっても良いよ、と言ってくれた。この「アンチ・スクワット」という非常に不思議な!?(空き家問題と住宅問題を直接つなげて解決?してしまう)オランダらしい合法化政策にも興味津々だったのと、安宿が意外に高かった事もあって、ありがたく彼ら(アンチ・スクワットは数名のアーティスト達でシェアされている。)のところに泊めてもらう事にした。出発の数日前に再度連絡したところアナは展示か何かでちょうど海外に渡航するとの事で、パートナーのコスタが迎えてくれることになった。

いったいどんな人だろう、と想像しつつ、メッセージ履歴を見たり、外の景色を眺めたりしつつ、しばらく返事を待ったが、メッセージが開封された様子はない。もしかすると気づいていないかもしれないと思い、とりあえず電話をかけることにした。

電話の発信音
電話の向こう口で男性の声
短く会話が交わされる

"OK. Then see you later!"(じゃあ、あとで!)


日本では電車内の通話は基本的に禁止されているし、個人的にもその方がありがたい気はするけれど、他国では電話している人を見かける事は多い。たぶん料金プランがほとんどの場合かけ放題で、プリペイドにしても同じ会社間は無料という様な事情も関係しているのだろう。そして、ここオランダも例外ではない。

周囲から聞えてくる人々の会話
英語、オランダ語(たぶん)、スペイン語・・・
ロシア語(確信無し)の様な響き・・・


電車はほぼ時刻通りにセントラル駅に着いた。プラットフォームを歩きつつ、周囲を見回してみるが、迎えらしき姿は見当たらない。しばらく駅のベンチに座って待っていると、私の想像に反して小柄な男性が肩にエコ・トートバッグをひっかけて、にこにこしながらこちらへ向かって歩いてくる。

Kosta(以下、K): Hi. I am sorry I am late. I had to do something with my friend.(遅れてちゃってごめんなさい。どうしてもちょっとやらなきゃならいことがあって。)
m: No sorry! I mean, thank you for everything and letting me stay at your place.(いやいや全然大丈夫! というか泊めてもらえるだけで本当に助かります。)
K: Sure, sure. How was your flight? Well, shall we go? I can carry one of your bag.(もちろん。疲れてない?まぁ、とりあえずいこうか?ひとつ持つよ。)


そう言って、コスタは私のキャリーバッグの一つをひっぱり歩き出した。彼の名前の響きから、東欧か中欧かロシアの人かな、とは思っていたが彼はブルガリア出身でオランダに来る前はウィーンに居たそうだ。ちょうど、私も2009年にウィーンに半年ほどいたので「もしかするとどこかですれ違っていたのかもしれないね」などと話しながらデン・ハーグセントラル駅から商店や映画館が立ち並ぶ中心を通り抜ける。ハーグの中心街、と言ってもたいした大きさではない。5分もあるけばデパートやショッピングモールの様な大きな建物は姿を消してしまう。運河沿いを歩きつつ、何軒かバーやレストランを通り過ぎ、15分ほど歩き、アパートに到着した。

確かに、他の建物と比べると外から見ても痛んでいるのはわかるけれどスクワットという言葉からイメージしていたよりは「普通」に見える。中に案内されると一階はおそらくもともとバーかレストランだったような雰囲気で、たくさんのテーブルや椅子、ところせましと木材、家財道具などが雑然と積み上げられている。2つ、3つ建物が地上階でつながっていて相当に広い。地上階のひとつのスペースでは不定期でイベントや展示があって、ギャラリーとして運営しているそうだ。天井のあちこちが剥がされていたり、雨漏りの痕跡がある。

ーなるほど

スペース効率を最大にする目的なのかわからないが、オランダのアパート特有の細く急勾配で湾曲して進む階段をあがる。ゲストルームは整理整頓されていて、部屋は広く、ベッドもあって、大きな窓が2つ運河に面している。幅1mほどの廊下をはさんで向かいには洗濯機と洗面台のある部屋があって、廊下のつきあたりには別の部屋があって他のアーティストが住んでいるらしい。挨拶しようと何度かドアをノックしたが、出かけていて留守の様だ。コスタ達の住んでいる部屋は階下のレストランの様なスペースを抜け、別の建物にあるらしく、少ししたらそちらに訪ねていくことにして、私はともかくも荷物を降ろした。

ーともかく、ここからスタート
………..

「CHAPTER SEVEN -03-A friend that I have never met 」

I picked up my two language with small wheels. One on my shoulders and another one pulling, I go towards the station, passing through the big automatic door behind the tax-desk. I get my prepaid SIM, trying to setup while waiting on a line to buy a train ticket. I arrived right on time on the platform as the train going to Den Haag Central arriving. I sat down put my heavy luggage and myself which is being tired from the 15-hour-flight. From Schipool Airport to Den Haag Central is more or less about 30min. The Netherlands is not so big.

ーyou can just send me a message after you get on the train.

I put out my iPhone and set the Wi-Fi. There is a free Wi-Fi in the train here. Off course you need to click some kind of “Agreement” to give all the data while you are using it…so it is not “free” in deeper sense. I cannot read Dutch, but anyway I agreed. Logged in.(I guess that’s what it says on the screen since I see the signal) I open my messenger App.

Create a new message
to: Kosta Tonev
message:
I just got on the train to Den Haag Central. I will be there in about 30min or so!
Looking forward to meet you.


His name is Kosta. He is one of a friend that I have never met.

An artist friend of mine who lives in Amsterdam introduced his good artist friend Anna Morelo after we chatted over FB about my coming and about his project going to Hokkaido. I got in touch with Anna and she helped me to get some sense of what’s it like to be in Den Haag.

Anna: It's not easy to find a place here, you know.
mamoru: I'm thinking to book a cheap hostel or airbnb for a week and try to find the room to rent.
A: You can stay at our place if you don't find any place. But my first advise to you is to GET A BIKE!
m: OK! thanks a lot.


She lives in an anti-squatte together with few other artists.(I guess there are this kind of very unique sense of legalization here in Netherlands.) They have a guest room and she offered me to stay there. In fact, Airbnb was way more expensive than my expectation in the case in the Hague, so I decided to thankfully take my opportunity. I contacted her before I left Tokyo and found out that she was also going abroad for her project, so Kosta came to pick me up.

I was looking at messages we wrote before, wondering what kind of person he is, sometime looking out from the window. There was no reply after a while, so I decided to call him.

the phone is ringing on the other side
a man picks up a phone
short conversation
and
"OK. Then see you later!"


It is not allowed to talk on the phone in Japanese trains.
Personally, I like it that way, however I see many people talk on the phone in other countries. I assume that a lot of them have unlimited contract, which was not the case in Japan up until recently or still today.

I hear a lot of conversation
English, Dutch(I guess), Spanish
and this one sounds like ….Russian?(I am not sure)


The train has arrived at Den Haag Central almost on time. I walked on the platform and look around, but there seems no one looking for me. I sat on a bench for a little while, then saw a guy rather shorter than I somehow was imagining came towards me with his smile on his face covered with beard.

Kosta(K): Hi. I am sorry I am late. I had to do something with my friend.
m: No sorry! I mean, thank you for everything and letting me stay at your place.
K: Sure, sure. How was your flight? Well, shall we go? I can carry one of your bag.


We started walking. From his name, I was thinking that he might be from East Europe, Central Europe, or Russia. He is from Bulgaria and before coming to the Hageu, he had lived in Vienna. I was there in 2009 for about half a year, so I said that we might have seen each other on the street. We passed through shops and theaters in the center of the Hague. When I say central, it really doesn’t mean that it is big, but it is rather small. If I walk 5-10min away, big buildings disappear. Walking along the canal, passing by bars and restaurants, we arrived at the apartment.

It certainly looks damaged compare to other buildings in the neighboorhood, but not so much. It is actually normal and if I didn’t know that it is anti-squatte, I would probably not notice. The ground floor used to be a bar or restaurant, I saw many chairs and tables, and other furnitures, kitchenwares. Two or three buildings are connected. It is a huge space all together. One of the space is used as a gallery space and they organize exhibitions or events once in a while. I looked up the ceiling which is partly scraped off and I can see the trace of leaking as well.

I see.

The typical staircase in the Netherlands is very steep, narrow, and someone circulating. Probably to maximise the economy of the space. I went up the stairs. The guest room was clean, big, has big bed and windows facing the canal. There is another room next to it where one of the artist lives in. I knocked on the door to say hi, but he was not there. Kosta lives in the other building, so I put down my luggage in the guest room, organized a little, and walked down the stairs again and visited their space.

Anyways, the beginning


soundartist77 at 15:05|この記事のURLComments(0)

October 21, 2014

入国 and I am in Den Haag !

(For English, please scroll down )ChSEVEN_02

..........

「CHAPTER SEVEN -02- 入国」

成田を発ち、インチョンで乗り換え、アムステルダム・スキポールに到着。

オランダへ日本人として留学する場合「VVR」という種類のビザ取得の必要がある。しかし以前と違ってビザは個人ではなく留学先の大学、大学院のみが申請できるため入国後にビザが発給される。つまり私のパスポートには何のスタンプもない・・・。大学院から送られて来たpdfにも、オランダ留学サイトにもその旨は記載されているし、大使館に他の用事で電話した際にも質問したところ同じ趣旨の回答があった。しかし、本当にビザ無しでスムーズに入国できるのだろうか?この「スムーズに」というのが大体にしてネックで、どうしても過去の入国審査での嫌な想い出が感情的な拒否感と不安をもたらしてくる。(何も悪い事はしていないのだけれど・・・。機材や作品を持ち込むと何かしら足止めをくらう事が多い・・・。)

もちろん帰国用のチケットは持っているけれど、それもフィックス・オープンのeTicketで仮に抑えている日時は来年の日付。ビザ無し合法滞在期間3ヶ月をとうに過ぎた日付だ。学長の直筆サイン付き大学院の入学許可証、授業料の領収書、後々ビザ取得に必要な銀行の残高証明のコピーも持ってはいる、でも全てプリントアウト。正直こんなもの全部Photoshopで偽造できてしまうのだから信用する意思がなければ何の価値もない。これまでも入国審査で緊張しなかった事はないが、3ヶ月以上を越える滞在者がビザ無しで本当に入国できるのだろうか?ちょうど数日前にスキポール空港の入国審査で足止めをくらったという友人のFBポストを見たこともあって、嫌なイメージしか沸いてこない。到着時間は夕方18時過ぎなのでそこからデンハーグに移動したとしても多少の時間ロスなら遅くなり過ぎる事はないだろうが・・・。

ーあぁ、本当にこういう感じ嫌・・・

「NON EU CITIZENS」の列に並んで待つ事15分
何組か手前のアジア人らしき数名が別室に移動して行った・・・

とりみだしたような女性の声(中国語?)
落ち着いた調子の男性の声
"Just wait here. It won't take you too much time.
Don't worry. We will just clarify it. It won't take too much time. Okay?"
(ここで待って。すぐ終るはずだから。心配いりませんよ。確認する必要があるだけなので。すぐ終るはずです。OK?)


入国を待つ人達は声のする方向に顔を向け、小声で何かをささやきあっている。
少し嫌な空気が流れ込んでくる。

長い金色の髪を後ろでまとめた女性の入国審査官が留学生らしきアジア人女性と一言、二言会話を交わした後にスタンプを押す。列の先頭に並ぶ中東系の出で立ちの家族が呼ばれる。その隣りでは大柄の男性入国審査官が別の審査官とちょうど交代するところで、時々別室に目をやりながら何やら談笑してる。もちろん、長い列を待たせたまま。

ーこういう光景ってどこの国でも見かけるな

そうこうする間に1人、また1人と審査をすまし、入国していく。いよいよ次は私の番だ。入国審査官の女性と目が合うと、私はカーペットにひかれた太い線を越えてガラス越しに審査官と対峙する。

[私(以下、m)はパスポートを審査官(以下、Q)に手渡す]

Q: Is this your final destination?(アムステルダムが最終目的地ですか?)
m: Oh, no I am going to Den Haag after this.(いえ、この後ハーグまで行く予定です。)
Q: Why are you going to Den Haag?(ハーグに行く目的は?)
m: Studying.(留学です。)


[mは大学院の入学許可証を手渡す。Qはその書類を受け取り目を通しはじめると、時折mの方に顔を向け、それまでの形式張ったやりとりとは違った雰囲気で話しかける。]

Q: Master Artistic Research - Master of Music. So you do music?(アーティスティック・リサーチー音楽修士号。ということは音楽家なの?)
m: Yes. I am starting my master at the Royal Academy of Art and Royal Conservatory in Den Haag.(はい。王立アート・アカデミーと王立音楽院で修士の研究をはじめるところなんです。)
Q: Sounds interesting.(面白そうね。)


[Qはまだ書類を眺めている。mは念のために用意していた他の書類をかばんから取り出そうとする。Qはそれを察した様子で、首を軽く左右に振り「その必要はない」事をmに伝える。Qは書類をカウンターに置く。]

パスポートにスタンプが押される

Q: Welcome to the Netherlands and good luck on your study.
(オランダへようこそ、研究がうまくいくと良いですね。)
m: Thank you.


[Qは笑顔でパスポートをmへと手渡す。mは入国する]

戦闘態勢とは言わないまでも、あれこれと言葉を用意していた割りには、あまりにも「スムーズに」入国審査が進み、それどころか、歓迎と励ましの言葉まで貰ってなんだか自分の疑心暗鬼が可笑しく感じられた。

ーこんなこともあるんだな

とつぶやきつつ、早速ハーグへと向かうために書類をカバンに入れ、空港駅へと急ぐ。ハーグ・セントラル駅ではまだ「会った事のない友達」が待ってくれているはずだ。

.........

"CHAPTER SEVEN -02- Entering"

After leaving Narita Airport, making transit at Incheon Airport in Korea, I have arrived at Schiphol Airport in Amsterdam.

To enter the Netherlands for studying purpose as a Japanese, you need a VVR VISA. Due to the change of the law, students cannot apply for the VISA on their own, but the host institution has to apply for them instead. It will be issued after the entry into the country. It means I don't have any stamp on my paspport indicating my legal status as a international student. This is mentioned in the pdf file that the University had provided me, on the Websites, even I confirmed with the Embassy of Netherlands in Japan when I had to call them for other reasons. Although, they all say that's how it works now..., I couldn't shake off my doubt; can I enter "smoothly"? I have too many bad memories at the immigration in the past that make me anxious about it. I never carry anything wrong, but sometimes they give me a trouble for carrying my custom-made-equipments and art works.

Off course, I have a return ticket, but it is a fix-open eTicket and the returning date indicated on the ticket is next year which is obviously over 3 month of non-VISA regal time period. I have brought the acceptance letter from my school with the signature of the president, a receipt of the payment for the tuition, a copy of my bank statement, etc. However, they are basically all print-out stuff, and easily be manipulated by Photoshops...Without the intention of trusting the person, these can loose its validity in a second. I just heard from my friend via FB that she had a bad time in Schiphol, which made me more anxious about it. I can be little late since my flight arrived around 18:00 and train to Den Haag won't be that long. I can still get there before dark.

- I just don't like the immigration stuff at all...(who does!?)

Waiting on a "NON EU CITIZENS" line for about 15 min or so.
I saw a group of Asian people been taken to the other rooms.

I hear a woman screaming. (probably in Chinese?)
A man calmly saying;
"Just wait here. It won't take you too much time.
Don't worry. We will just clarify it. It won't take too much time. Okay?"


People waiting on their lines looking towards the other room, whispering something to each other.
Not a good atmosphere...

On my line, a female immigration officer whose long blonde hair tied in back, talking to an Asian student, stamping on her passport. The next moment, a family probably somewhere from Middle East was stepping forward. In the next counter, there is a tall male officer talking to his colleague probably as he is finishing his working our, looking towards the other room, sometime laughing, off course making people waited on the line.

- I know this things happen everywhere...

One by one, people cross the border into the Netherlands, and I am the next.
My eyes and officer's met and I stepped in front of the glass wall facing her.

[I(m) hand in my passport to the officer(Q).]

Q: Is this your final destination?
m: Oh, no I am going to Den Haag after this.
Q: Why are you going to Den Haag?
m: Studying.


[m hand in the acceptance letter to Q. Q starts reading it and looking towards m a few times. Then Q talks to m in a little casual manner.]

Q: Master Artistic Research - Master of Music. So you do music?
m: Yes. I am starting my master at the Royal Academy of Art and Royal Conservatory in Den Haag.
Q: Sounds interesting.


[Q is still looking at the acceptance letter. m takes out the other papers from his bag, but Q notices it and makes eye contact, shakes her head a little to say "there is no need for that". Q puts the letter on the counter.]

The passport is stamped.

Q: Welcome to the Netherlands and good luck on your study.
m: Thank you.


[Q smiles at m and hand back his passport. m receives it and enter the country. ]

I was almost ready with every situation I could have imagined but not with this one. It went too "smooth" and I even got a words of encouragement. I just laugh at myself being so suspicious...

- nicely entered

Putting all the papers back in my bag again, and hurried to the train station. "A friend that I have never met" will be waiting for me at Den Haag Central.


soundartist77 at 09:00|この記事のURLComments(0)

September 06, 2014

圏外 and I am out of Japan for a while!

(For English, please scroll down )

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「CHAPTER SEVEN -01- 圏外」

早朝 iPhoneのアラーム音

友人宅のリビングの大きなカウチで目覚める。目線の先にカーテンの隙間からプランターに植わったアロエの葉に夜露が光っている。

ー快晴

いつもよりも少し重たく感じる体を起こし、大きな窓に近づく。ビルの間から朝日が昇ってゆく、光は強く眩しい。昨日、一日降り続いた雨のおかげかこの街の空気にしては澄んで見える。もしくは、旅立つ朝に雨があがった、それだけのことかもしれない。

ーいや、どちらにせよいい気分だ

などと考えていると、朝にめっぽう弱いはずの友人が私と同じアラーム音を何度も鳴らしながら起きてきて、おはよう、といつもより低い声で言ってからボソボソ何かをつぶやきながらコーヒー豆を挽き、フルーツとマヌカハニーの混ぜられたヨーグルトを用意してくれた。いまだに繰り返し鳴りはじめるアラームを友人がその度にただ消しているのが可笑しくて、私は妙に幸せな気持ちになった。

コーヒーメーカーのたてる蒸気の音

淹れたての珈琲をやや流し込み気味で飲みほして、じゃあ行くね、と言って部屋を出る。通りには人がまばらにいて、そのほとんどはこの街らしく外国人だ。ビルに写る朝の光を一枚撮ってみようかと思って取り出したスマホには圏外の2文字。そうか、昨日解約したんだった。

ー圏外

何かから解かれたその事実と、その感覚をポケットにしまいこみ、乗ろうと思っていたよりも一本早いメトロに乗り込んだ。

I am out of here maybe for a while / しばらく行ってきます

(-02-入国 へ続く)

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"CHAPTER SEVEN -01- OUT OF RANGE"

Five o’clock in the morning, the alarm of my iPhone ringing

I wake up on a big couch at my friend’s place. Peep through the curtain, there I find a drop of water on the leaf of aloe in a planter placed outside. Reflecting the sunlight. It's crystal, shining.

-clear day

I am feeling little tired than usual, but force myself to sit up, stand up, and walk over to the big window. The sun has been rising in between the skyscrapers. It seems to me that the sight is much clearer than usual. Maybe because it rained all day yesterday? or maybe it’s me who is setting out on a new journey.

-Well, in either case, it’s good to start a day like this

Ringing the same alarm on the phone over and over again, my friend has just woke up. With a “good morning” in her very low key, she is murmuring something, gliding coffee, and preparing a bowl of yogurt with some fruits and honey for me. Her alarm is still snoozing. It’s really good to have a friend like her.

the steam coming out from the coffee maker

I drink up the fresh coffee at last, saying “good bye” to my dear friend, and go out. There are only few people on the street, mostly foreigners, which is always the case in this part of the city. I put out my phone thinking to take a photo of the light on the building. I then realize two letters on the left upper corner of the screen on my phone; "圏外(out of range)”. Oh that's right, I have cancelled my phone last evening.

-OUT OF RANGE

I put my phone back in my pocket and get on a Metro little earlier than I planned.

I am out of here maybe for a while / しばらく行ってきます