2006年10月29日

天下のまわりもの

お金を払ってお釣りをもらうときに、ふと思うこと。

例えば深夜のCDレンタルショップ。
外とは世界が違うんじゃないかと思わせるような、騒がしい音楽が鳴り響く店内と、客が入ってきても無言で携帯をいじり続ける店員。
眠そうなレジの店員から手渡されたお札たちは、毎回決まってしわくちゃだし、上を向いたり下を向いたり、みんな思い思いのほうを向いている。
昔、お札を目のところで折り曲げて、顔を変えるという遊びがあったけれど、わざわざ折り曲げなくてもお札の顔は、新しく印刷された時とは別人になっている。

例えば街の裏路地にある、小綺麗なサロン。
マニュアルがあるのだろうけど、よく訓練された店員から手渡されたお札は、向きも揃っていて、しわも即席だろうけども、ある程度は伸ばされているのが分かる。
自分の札入れにも、何の苦労もなしに入れられる。
いつも同じ顔をしている野口英世や樋口一葉も、どこか誇らしげだ。

お札は、平等に、様々に世界を回り続けるものだけど、そこに描かれている顔も、出回るところによって様々に変わっていくのだと思う。
騒々しいところ、ごちゃごちゃしたところで受け取るお札は疲れた顔をしているし、綺麗なところで受け取るものは、清々しい顔をしているように見える。
そこには単に場所柄や客層の違いを超えた、何か別のものがあるんじゃないかと、たまに思ってしまう。

給料日、銀行のキャッシュディスペンサーから出てくるお金は、ピカピカの、いわゆるピン札ばかりだ。
そこに描かれている顔は、これから出回るであろう広い世界に期待を込めて、うきうきしているようにも見える。
もちろん一番うきうきしているのは、それを手にしている自分なんだけれども。
  
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2006年10月25日

書くことと読むこと

ブログを書いていることを忘れてしまうくらい間が空いてしまったけど、ちゃんと生きてます。

常々思っていることだけど、文章を書くためには(特に人に読んでもらうための文章は)、心にゆとりと余裕が必要なのだと思う。
そうじゃないと、どうしてもネガティブな文章になったり、読んだ人が不快になる文章になってしまう。
わざわざwebにアップロードするのだから、せっかく読んでもらうのだから、読んだ人に何か感じてもらえるような文章を書きたい。
ちょっとエゴが入っているかも知れないけれど、それがこのブログを始めた当初の思い。

「ゆとりと余裕」を生み出すには、やっぱり本を読んだり、映画を見たり、ドラマを見たりして、他人の考え方に触れ、考え方を「読む」のが良いのだと思う。
書くために読むとは良く言ったものだ。

今年の秋は、読書の秋にしよう。
  
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2006年09月16日

遅れて届いたプレゼント

最近、急に涼しくなってきました。
道行く人には秋らしい服を着た人が多くなり、電車の中のドコモダケの広告は、やきいもをモチーフにしたものになっています。
これを書いている今もとても過ごしやすい気温で、真夜中に温かいコーヒーを飲みながらこんなふうに文章を書いているのが、不思議と風流なことのように感じられてしまうくらいです。(コーヒーは残念ながらインスタントだけども)

今日からつかの間の夏休み。
しばらく旅に出てきます。
  
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2006年09月03日

僕の歩く道

「ここに一冊の本があります。この本の持ち主は読もうと思って買ったのですが、いつか読もうと思っているうちに、一年が経ってしまいました。さてこの人は、本当に本を読む時間がなかったのでしょうか」
28歳の高校教師が突然余命一年を宣告され、今までなんとなく生きてきた自分を見つめなおし、自分の生き方を探していく「僕の生きる道」。
主題歌「世界に一つだけの花」のほうが有名になりすぎて、ドラマ自体は少し隠れてしまった感があるけど、自分の中ではこの作品、今まで見てきたドラマの中でも5本の指に入る。

「どの道を選ぶかよりも、選んだ道でどう生きるかが大切だと思います」
何の疑いも持たず仕事一筋で生きてきた男が、突然妻に出て行かれ、小さな娘と2人だけの生活を始める。
子育ては妻に任せっきりだったこともあって、最初は接し方すら分からない有様だったけど、娘との生活を通して“大切なものとはなにか”に気づいていく「僕と彼女と彼女の生きる道」。
娘のために勤めていた一流企業を辞めた後、自分の選択が正しかったのか迷う主人公に、家庭教師のゆら先生は「私は間違っていなかったと思いますよ」と言った。
毎週主人公が呟く名言が楽しみだったこのドラマ、今まで見てきたドラマの中でも5本の指に入る。

「僕の生きる道」。
「僕と彼女と彼女の生きる道」。
スタッフやキャストが毎度お馴染みのこのシリーズだけど、先週、待望の新作が発表された。

三部作シリーズ完結編「僕の歩く道」。
もちろん脚本は橋部敦子、主演は草なぎ剛。
大杉漣や小日向文世といった演技派俳優が脇を固めるのもいつもどおり。
なんか、タイトルを見ただけで涙が出そうになってしまう。
パブロブの犬じゃないかと言われそうだけど、実際それだけの力がこれらのドラマにはあった。

高校時代の友人は、会うといつも「毎週見てる良いドラマがあると、一週間にメリハリ・楽しみができていいよ」と言う。
最近は帰る時間が遅くなったこともあって、ドラマを見ることもめっぽうなくなってしまった。
けれど、これだけはなんとしても、どんな手段を使っても見なければならないと思う。

これを機会に、DVDレコーダーや薄型テレビでも買ってみようかなと思ったりして。
「五輪でもW杯でも買わなかったのに、なんでここで!?」と突っ込まれそうだけど。
  
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2006年08月07日

花火を楽しむ

今年も江戸川の花火を見に行けた。
文字通り頭の真上に上がり、視界いっぱいに広がる大きな花火。
お腹に響く炸裂音。沸き起こる歓声。
ああいうのを「肌で感じる」と云うのだろうけど、それを100万を超える人たちで共有するあの一体感は、他の花火大会ではなかなか味わうことができないものだと思う。
見ず知らずの隣のシートの人といつの間にか話し出してしまうのも、そんな空気の中にいれば自然な気もしてくる。(お酒のチカラに拠るものなのかも知れないけれど)

そんな中でふと、山下清画伯の「長岡の花火」という貼絵を思い出した。(先週、ちょうど山下清展に行ってきたからなんだけど)
山下清といえば“放浪の天才画家”とか“日本のゴッホ”などと謳われていた人。
口癖の「兵隊のくらいで言うと〜」とか、会話の語尾が「〜なんだな」というのは、当時の流行語にもなったほど有名なことらしい。
放浪の様子も、俳優の故・芦屋雁之助が「裸の大将」というドラマで演じていたので、そっちで知っている人もいるかも知れない。
自分も小学生だった頃は毎回欠かさず見ていたドラマで、ダ・カーポが歌っていた主題歌「野に咲く花のように」とセットで、不朽の名作だと思っている。

話が逸れたけど、その「長岡の花火」で、画伯はこんなコメントを残している。
「僕は花火が大好きですが、それはまだ子供だからだという人があります。大人は、もう花火をそんなに好かないものだが、子供は大好きだと聞いて、僕は、まだ子供なのかもしれないと少し恥かしくなりました。しかし、何といわれても花火はきれいなので、僕はこれからも夏になったら見物に行こうと思っています」

子供の頃にかかった病気が元で軽い言語障害があったらしく、文面は多少幼さを感じる部分もあるけど、その分感受性がとても高く、内容も考えさせられるものだと思う。
この絵が発表されたのは1950年頃で、戦後間もなくといったところ。
今から50年以上も前のことだ。
一緒に絵を見ていた友達に、「昔と今では花火を楽しむ世代が違うのかな?今ではむしろ、大人の方が花火を楽しんでるような気がするんだけど?」と聞いたら、「いや、昔も今もそんなに変わらないと思うよ」と返ってきた。

結局どうなのかなと思う。
昔も今も一緒なら、花火を楽しんでるってことはやっぱり自分がまだ子供だから?
画伯が絵を完成させて、あのコメントを書いたのは、今の自分と同じくらいの年の頃だから、そういうことになってしまう。
でも、江戸川・篠崎緑地に大きく上がる、色とりどり、形とりどりの花火を見て、これを楽しめないのが大人なら、いつまでも大人にならなくてもいい、むしろ、そんな大人には絶対になりたくない。
そんなふうに思った。
  
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2006年08月01日

時間と お金と

この文章はもちろんPCで書いている訳だけど、先月末、ようやくそのPCのローンが終わった。
学生時代、バイトばっかりしてた割には全然お金が無くて、3年のローンを組んで購入したこのパソコン。
今までどこか借りモノ的な感覚を拭えなかったこのPCが、キーボードが、マウスが、本当の意味でようやく“自分のもの”になった訳で、それはそれは嬉しい限りなのです。

更には、5年間ずっと払い続けているバイクのローンも間もなく終わる予定。
正直、学生の身分で100万超えのローンを組むのは抵抗があったけど、「今しかできない」という言葉を頼りに、思い切って買った。
当初は友達に「まだハンドルくらいしか自分のものじゃないだろ」とか「いや、ブレーキのこのペダルだけだろ」とか言われていたけど、今はエンジンやタイヤを含め、ほとんど自分のものになったんじゃないかと思う。
残っているのは、ローンの手数料くらいだろうか。
いずれにせよ完済まで、あと一息だ。

それにしても、当時、「時間はあるけどお金がない学生、お金はあるけど時間がない社会人。両方の橋渡しをして、いいとこ取りができるのがローンなんだよ」などとうそぶいていたけど、最近はそれもあながち間違っていないのかもなぁと思ってしまう。
PCはほぼインターネットにしか使ってないし、バイクにもほとんど乗ってないし。

そんな学生主体の“ウソブキ”を“嘘”にするためにも、もっと積極的にパソコンを使おう。
より早いブログ更新を目指そう。(週1?)
もっと積極的にバイクに乗ろう。
より速いラップ更新を目指そう。(C1?)
  
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2006年07月25日

誰が為に蝉は鳴く(たがためにせみはなく)

最近天気は雨ばかり。
涼しくて過ごしやすいのはいいのだけど、さすがにこうまで続くと気持ちまで落ち込んでしまいそうだ。

昼休み、傘を片手に散歩をしていたら、蝉が鳴いていた。
雨が降っているにも関わらず、みんみん、みんみんと鳴いていた。

蝉って雨が降ってても鳴くんだなぁと今更ながら思う。
蝉からしてみたら、大人になってようやく土の中から出てきたと思ったら、空に見えるのは雨雲ばかり。
一週間ほどの短い命の中で、もしかしたら、太陽を一回も見ることなく一生を終えるものもいるのかも知れない。

蝉は誰の為に鳴くんだろう。
ひょっとしたら、みんみん、みんみんと泣いていたのかも知れない。
そう思った。
  
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2006年07月03日

雨上がりの雫

さぁ出かけようと準備をしていたら、何やら外からザザザ…と音が聞こえる。
風で葉っぱでも揺れてるのかと思って外を覗いてみたら、すごい勢いで雨が降っていた。
さっき見たときは何も降ってなかったのに。
新しい服をおろすのをやめて、濡れてもいい(?)服で外に出た。

雨が地面に打ちつけられるとき、波紋ができる。
今日はその波紋を一目見て、雨の激しさがいつもと違うことが分かった。
大きくて、深さもある波紋。
これを見るときは大抵、誰かの口から「どしゃ降り」っていう言葉が出る雨のとき。
傘を叩くバチバチという音も、耳からだけじゃなく、傘を支える腕や手のひらからも聞こえる気がした。

こんな雨のことを、何と言えば良いんだろう。
例えば、反対に傘を差してもよく分からないような雨なら、「霧雨(きりさめ)」や「小糠雨(こぬかあめ)」といった言葉があるけど、激しい雨のことを表す言葉がなかなか出て来ない。
「通り雨」は何か違う気がするし、「スコール」はそもそも日本語じゃないし。
北国のすごい雪のことを「ドカ雪」とか言ったりするから、「ドカ雨」でいいのか、あるいは良く分からないけど何故だか浸透してる「バケツをひっくり返したような雨」とでも言うのか。
いろいろ考えを巡らしたけど、結局良い言葉が出て来なかった。
まだまだ日本語の修行が足りないなぁと思う。

そもそも、何で「バケツをひっくり返したような雨」って言うんだろう。
バケツをひっくり返しても雨のような水滴は出て来ないし、それだったらバケツよりも大きくて丈夫そうな「たらい」とかの方が良い気がするんだけど。
水滴が大きくて激しい雨を表すなら、例えば「如雨露(じょうろ)をひっくり返したような雨」の方がまだ合っている気がする。
本来の口から出てくる水滴だけじゃなく、水を入れるところからもバシャバシャと水が溢れてくるという、正に今日のような雨を良く表していると思うんだけど。

こんな下らないことを考えながら駅に向かっていたら、九州を旅行中の母親からメールが入った。
「今、桜島です。天気は曇り時々雨だけど、バスを降りて観光するときは止んでるからラッキー♪……」
こっちは逆に出かけようとしたら大雨です。
実にアンラッキーですよ…。

でも、電車を隣の駅で降りたときには雨はもう止んでいて、雲間からは青い空まで見えていた。
通りの屋根からは雫がポタポタ滴り落ちていたけれど、それ以外は歩いている人も、道で何かを配っている人も、いつも通りの雰囲気。
「こっちはすごい雨降ってたけど、すぐ止みました」とメールを返そうかと思ったけど、晴れてるのに左手にしっかり握られている、やたら大きい傘を見て何やら悔しくなってきたので、やめた。
  
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2006年06月25日

特急券

社会経済生産性本部が行った新入社員意識調査によると、“デートの約束があったとき、上司から「今日残業できる?」と聞かれた場合、8割がデートを断って残業を選ぶ”とのこと。
2〜3日前にこの記事を読んだとき、「へー」と思った。
別にバブル期はこの数字が6割だったとか、社会の動向を表しているとか、そんなことを語るつもりは全くなく、単に“上司から「今日残業できる?」と聞かれた場合”っていうシチュエーションがなんだか目新しいなぁと思っただけなんだけれど。

ウチの会社は(というかウチのプロジェクトは?)たぶん他のところに比べて残業が多く、定時っていう概念が殆どない。
9時を過ぎてようやくちらほらと帰る人が出てくるくらいで、おそらく深夜も休日も、プロジェクトルームから明かりが消えることは殆どないのだと思う。
そんなだから、上司に聞かれるまでもなくみんな残業してるし、それが当たり前の雰囲気。
逆に定時で帰るときには「今日定時で上がっていいですか?」と聞かなくちゃいけないくらいだ。
まぁいつまでも、いつ行ってもみんな働いてるこの雰囲気、良く言えば活気があるってことで、嫌いじゃないんだけどね。
夜の9時からとか、土曜の3時からとか、何かおかしな時間に会議の予定が組まれるのももう慣れっこです。

そんな中、部署の先輩は時たま「今日特急券?」と言う。
特急券とはいわゆる“タクシー券”のことで、要は「深夜まで残業する?」という意味。
電車通勤だとdoor to doorで片道90分かかるところを、なんと半分以下の40分で結んでくれるし、通勤が本当の意味でdoor to doorになる正に“夢の超特急券”なのだけど、これを使うってことは遅くまで(少なくとも1〜2時くらいまでは)残業するってこと。
夢の超特急だけど、夢を見られるだけの睡眠時間が取れないのが皮肉なところだと思う。

上司から聞かれるのは「今日残業できる?」ではなく、「今日特急券?」。
8割くらいは断りたいところだけど、そうも言ってられないのが現実だよね。
  
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2006年06月17日

代打清原

6.14(水) オリックスvs巨人戦。
オリックスの2点リードで迎えた7回表、代打清原が告げられると、本来ならありえないはずのことが起こった。
敵サイドであるはずの、それもスコアは負けているはずの巨人応援席が総立ちで「清原コール」。
「キーヨーハーラ!」という怒涛の声援に加え、巨人時代の昔の「応援歌」まで始まった。
1塁側も3塁側も関係なく、東京ドーム全体が清原を応援しているすごい光景の中、本人は涙を堪えながらバットを構えていた。

清原にしてみれば、古巣巨人との初対戦。
心境はすごく複雑なものだったと思う。
堀内監督から直接言われた戦力外通告。
仰木監督には直接言えなかった言葉。
度重なる怪我と、リハビリの繰り返し。
湧き上がってくるいろいろな気持ちを抑えて打席に向かったのだと思う。

堀内監督から戦力外通告を受けたとき「自分自身の9年間すべてを否定された気がした」という清原。
でもこの大声援を受けたあとのインタビューでは「これでまた新たな気持ちで野球ができる。もっともっとファンの皆さんに楽しんでもらえる野球がしたい」と晴々と語っていた。

それにしても、この人はゴツイ身体をしていて“番長”とか呼ばれている割にはやたら涙もろい。
去年、“大魔神”と呼ばれていた横浜ベイスターズの佐々木(清原のライバルでありかつ親友でもある)の引退試合で、最後の打者として清原が指名されたときも、彼は涙を流しながら打席に立っていた。
思いっきり空振り三振をしたあとの「最後に世界一のフォークが来ました」というコメントも、彼らしいアツイ言葉だと思う。
当時は八百長だと賛否両論あったけれど、自分はこれでいいと思った。

こんなふうに情に厚く涙もろく、真剣勝負の中にもふと人間っぽさを見せてくれるところが、その持っている記録以上に彼が何かと注目を浴びる理由なのだと思う。
小学校のとき、“4番清原”の活躍を見に西武球場へ足繁く通ったものだけど、今度時間が取れたら、神戸・大阪の今の本拠地へも足を延ばしてみよう。
外見やその表現方法は変わっても、“清原”っていう自分の中でのヒーロー像は何年経っても変わらない。
  
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