このブログをご覧のみなさまへお知らせです。
 
 これまで、ライブドアブログ(5箇所へ分割)へ漱石関連の文をだいぶ書き、主なものは、私のホームページへも転載してあります。
 
 
 掲載は長期的になりそうです。ウエッブに掲載の未公開資料は、その骨格を示しただけで、全体からするとまだごく一部にすぎません。

 一点物資料である関係上、資料をじかにみたい、存在をたしかめたい、というご要望が寄せられるようになってきました。(諸事情で写真の掲載は見合わせています。) そこで、研究目的や関心の向きをお寄せいただければ、そうした方々のご要望になるべくそって、個人的にでも資料ご閲覧の機会を設けることを考えています。
 
 漱石に関して、新しい研究テーマを見つけたい、漱石を、書誌学・本文研究、あるいは、もっと広い視点から研究をやってみたい、といった真摯な方々を中心に、できるだけ広くご便宜をはかりたいと思います。 

 
私のメールアドレスは、
 
daytoday@js3.so-net.ne.jp
 
お気軽に何でもご相談ください。
 
山下浩

(以下の文書は、2015年11月11日、大学共同利用機関法人 人間文化研究機構 国文学研究資料館(東京都 立川市)へ印刷物として正式に提出したものである。しばらく前から同館副館長(研究担当)の谷川恵一教授への面会を、関連部局を通じて求めていたが、同日13時過ぎから30分余りの面会が実現した。この文書と同一のものを、前日に添付ファイルで発送しあらかじめ読んで頂いており、その一週間前には、予備的な内容の文書をすでにお渡ししていたので、谷川氏から同館側としての一応のご説明・言い分を口頭でおうかがいした。
 これは、国の重要法人とのやりとりであるので、私の文書だけは、そのままのかたちで公開して置きたいと思う。
 「リプリント日本近代文学」叢書は、すでに多数の機関・個人によって使用されているので、国文学研究資料館としてもこの際、こうした方々及び復刻版製作に関わった方々へ、しかるべくご説明なさった方がいいと思います。)
 
 
 
国文学研究資料館御中
 
 復刻版叢書「リプリント日本近代文学」の問題について伺います。――「多情多恨」を中心に、「南無阿弥陀仏」についても伺います。こちらは欠陥本と知っての復刻ですか?
 
 この小文は以下の6項目からなっています。
 
  一)まず最初に
  (二)「多情多恨」の「理想本」
  (三)本復刻本と他所蔵本2点を、章、柱、ページ付けに限って比較して見ると
  (四)上の調査に基づいて、当復刻版「多情多恨 解題」を補訂・拡大する要領
   ・ 「南無阿弥陀仏」(山梨大学本) は欠陥本と知って復刻したのか
   ・ 質問
 
 はじめにお断りしておきます。この小文は特定の解題執筆者を批判するものではありません。批判させていただくとすれば、それはこの復刻叢書プロジェクトを企画された方々に対してであり、その解題執筆を依頼するお立場にあった方々に対してです。
 活版印刷文献の復刻版製作には一定のルール・決まりがあり、解題には、一定の書き方があります。それを軽視されては困るのです。
 企画者側が復刻版製作に際して適切な認識を持たれ、解題執筆者へ適切な執筆要領・サンプルを示してさえおれば、以下に指摘するような問題の多くは発生しなかったと悔やまれます。一般研究者の多くは、復刻版の製作にも解題の執筆にも慣れていませんから。
 
(一)まず最初に
 
 「多情多恨」解題の長さは3頁を越えて、話題豊富。紅葉の専門家ならではの書きぶりですが、当復刻版に直接関わる書誌的言及は、冒頭部分の6行と同頁後半の表紙と挿絵目次に関する数行の記述程度に過ぎません。冒頭の6行は簡易すぎるようです。ご自身には自家薬篭中の物であるが故か。次の頁からは、「本書について特に注意すべきは、本文についてである。」と前置きした長い引用が載ったり、第二版以降の版の出版事情についての岩波版全集解題の紹介などがある。いずれも有用な情報ではあるが、本書の復刻に直接関わる書誌事項の詳細を端折ってまで載せるほどでもない。(本拙文の(四)で、上の冒頭6行の部分を補訂し拡大する「復刻版解題」執筆要領をお示しします。)
 
 活版印刷で印刷された文献を復刻しようとする場合、まず最初に行うのは、奥付その他から、書誌学的に同一版とみなされる冊をできるだけ多く集め、比較・校合し、その文献の「理想本」(Ideal Copy)、すなわち出版社(者)が最終的に公にしたいと望んだであろう姿・完成形態を知ることです。これは、本文の編纂・校訂を行う際と原則違わないが、復刻版においては、本文校訂ほど本文頁内の一字一点(書誌学的には、 state という)まで細かく調べなくてもよく、おおむね頁単位で、頁や章、柱のような目立った部分に相違・誤植がないかどうか、図版等別葉がある場合には、その挿入位置が適切であるかどうか、を点検する程度で済ませられる場合が多い。復刻に際しては、この調査によって得られた「理想本」の各頁を使用可能な複数冊から取捨選択して行う。
 (諸事情から、復刻に特定の所蔵本1冊しか使用できない場合は、それが「理想本」とどう相違しているかを、解題において明確に記述する必要がある。これは、別な原本を所蔵する人にも有用な情報を与える。)
 
(二)「多情多恨」の「理想本」
 
 「多情多恨」は、明治二十九年の読売新聞に、前篇が、二月二十六日から六月十二日(八四回)、後篇が、九月一日から十二月九日(六四回)にかけて連載されたあと、春陽堂から、奥付に「明治三十年七月十五日 印刷  同年七月十八日 発行」とある単行本として出版されたようです。(奥付の詳細は、復刻本自体を参照されたい。)
 
 これが「多情多恨」の初版本で、本書が復刻しようとするものですが、しかし、活版印刷本においては、1冊を見ただけでは、それが本物かどうかすらも定かではありません。架空の偽造本など、その気になれば、かんたんに造れてしまうからです。その意味でも、最低2冊、できれば3冊以上を集めて比較校合し、本物かどうか、本物と結論できても、各々にどこがどう違っているか、を調べる必要があります。
 
 「多情多恨」を複数冊校合すると、その「理想本」は、書誌学的におおむね以下のようなつくり・構成になっているようです。(筆者所蔵の2冊、ちなみに Aと B、国文学研究資料館が映像提示する山梨大学近代文庫(C)の3点を使用。)
 
1 前付部は2葉。1葉目は白紙。2葉目の表裏は、本体へ挿入した挿絵の「挿繪目次」となっていて、表13、裏 13、 計26の挿絵題と画家名が印刷されている。
 
2 本体は、4葉 x 63 折丁 = 252 葉(頁番号は、一頁から五百四頁まで通し)。一頁(第1折丁、1葉表)には、本文が始まる前に、前篇の内題「多情多恨 二十九年二月二十五日起稿 紅葉」、それに 章(一)、が印刷されている。章は(十二)の二(二百八十四頁)まである。前篇最後の二百九十頁(第37折丁1葉裏)には、「多情多恨 前篇 終」と印刷されている。
 後篇は、二九一頁(第37折丁、2葉表)に、内題「後篇 多情多恨 同年八月 廿六日起稿」、それに、章(一)、があって、本文が始まっている。章は、(十一)の二(四百九十二頁)と(をはり)(五百四頁)まで。
 
 前篇各ページの柱は、左(表)頁は、本文部分の章分けに合わせて、「第一章」から「第十二章」まである。右(裏)ページの柱は、終始「多情多恨」となっている。
 後篇の場合、柱の左(表)頁は前篇とは異なり、単に「後篇」で通している。右(裏)ページの柱は、前篇と同じ「多情多恨」である。
 
3 最後の第64折丁は半折で2葉、4頁、からなり、五百五頁(第1葉表)は、本小説後篇最後の部分(7行)が印刷されている。裏はブランク。2葉表には奥付があり、裏には広告のカットがある。
 
なお、詳細は省くが、挿絵26枚の挿入位置については、できるだけ多くの冊を慎重に調べ、一枚一枚についてその位置を明記するのが望ましい。
 
 現存する「多情多恨」の多くは、針金平綴じのくるみ装で、これが出版・販売時に一般的であったと思われる。発売時、箱付きであったようだ。ただし、筆者所蔵のBは、時期は不明だが、上製本に製本し直されている。
 
(三)本復刻本(C)と他所蔵本2点(A、B)、計3点を、章、柱、ページ付けに限って比較して見ると
 
85頁(11折第3葉表)11行、A、B、C、すべて誤植
 
(三)の             正しくは、(三)の
 
115頁(15折第2葉表)のページ表示
 
百十                A、C (誤植)
百十五               B    (正)
 
125頁(16折第3葉表)の柱の誤植、A、B、C、すべて
 
第  章             正しくは、第  章
 
171頁(22折第2葉表)、A、B、C、共に
 
本文11行に (七) 章とあるが、柱では、
第 六 章   のままとなっている。 
 
174頁(22折第3葉裏)頁表示が、A、B、C、共に
 
百七七四              正しくは、百七十四
 
挿絵の位置の違い
 
「葉山の忠告」
A、C、では、   26折丁(208頁)と27折丁(209頁)との間に挿入
B では、     28折丁(224頁)と29折丁(225頁)との間に挿入
 
291頁(37折丁第2葉)から 後篇 がはじまるが、A、B、C共に、柱の表頁には、後篇 とだけあり、前篇にあった 章の表示はなくなります。本文中には、(一)章から(十一)の二、最後に、(をはり)五百四頁 まで、誤植なく印刷されている。
 
後篇の内題は、A、B、C、共に
後篇 多情多恨 同年八月廿六日起稿
 
最後に注意すべきは、A、B、C、共に、四百三頁(51折丁第2葉)のみ、例外的に、12行組になっています。他はすべて13行。
 
 A、B、C、に共通する誤植は、参照していない他所蔵の同一版では、直されている可能性があり、たとえ最後まで直されなかったとしても、修正すべきであった箇所ですから、復刻版の写真版では提供できなくても、解題等を使って、その旨を読者へ説明する必要があります。
 
(四)上の調査に基づいて、当復刻版「多情多恨 解題」を補訂・拡大する要領
 
 ポイントは、次の2点の記述を何よりも優先することです。紙幅に余裕があれば、その後で当復刻版の解題にあるようなその他の有用情報を書き加えていい。
 
 (1)最初に、新聞連載のあと、春陽堂から「多情多恨」の初版本が出たが、それは書誌学的にどのような内容のものであるか、すなわちその「理想本」について、紙幅が許すかぎり具体的にくわしく記述、説明する。
 
 (2)次に、復刻に用いた「山梨大学本」(上に示したC)が、「理想本」とどう違っているか、これも紙幅が許すかぎり具体的に記述、説明する。
 
 
 私が不思議に思う点の一つは、当「多情多恨 解題」(565頁6行)において、「本書では各編の冒頭に脱稿時期が記されている。」とあり、国文学研究資料館のウエッブ、近代書誌・近代画像データベース No. 52 (全691件)の「多情多恨」(立命館大学図書館・人文系文献資料室蔵書)においても、その【本文関連】に、内題 多情多恨  二十九年二月二十五日脱稿 とあることです。
 しかし、当復刻版でも私の所蔵本でも、いずれにおいても、
 
 前篇  二十九年二月二十五日起稿
 
 後篇  同年八月廿六日起稿
 
となっています。復刻版の解題によると、「多情多恨」前篇の新聞掲載は、二月二十六日からのようですので、前篇の二月二十五日とは、その前日になります。はてさて、この「起稿」は誤植なのでしょうか。起稿と脱稿では大違いです。もし誤植であるなら、その点をはっきりさせるべきでしょう。
 
 復刻版の解題以外では、奥付の裏頁、カットの右端に次のような1行があります。
 
※底本ではこの次に遊び紙と裏表紙が各一葉あるが、出版に際して削除した。
 
この不可解な文はどなたが書いたのか。解題執筆者以外の方か? そもそも、遊び紙は通常1葉と決まっており、裏表紙にいたっては、「葉」ではありません。各一葉は不要。
 
※底本ではこの次に遊び紙と裏表紙があるが、出版に際して削除した。
 
で充分です。それよりも、遊び紙はともかく、大事な裏表紙を削除するとは言語道断です。復刻版製作を軽く見過ぎているようです。
 
 
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「南無阿弥陀仏」(山梨大学本) は欠陥本と知って復刻したのか?
 
 最後に、「南無阿弥陀仏」の復刻に触れます。解題は、「多情多恨」と同じ博識な研究者によって書かれていますが、その84頁6 - 7 行に、
 
本書には、八頁と九頁の間に作者(紅葉自身)が女主人公の墓前で泣く乳母に話しかける場面を描いた一葉が欠けており、本来は二葉である。
 
とあり、私、驚いてしまいました。これはどういうことでしょうか。原本を手元に持たない私には詳細がわかりませんが、「本来は二葉」ということであるならば、山梨大学本は欠陥本ということになります。この一葉は、なぜ他所蔵本を借りて補訂しなかったのでしょうか。「欠陥品」とわかりながらそのまま復刻・販売したとなれば、国文学研究資料館の責任は重大です。
 
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質問
 
 「リプリント日本近代文学」叢書は、すでに300点近くが復刻出版されているようですが、私はこれらのうち「多情多恨」、「南無阿弥陀仏」等、同一解題者による三点を短時間拝見したにすぎません。もしこれら以外の多くにも、上に指摘されるような不備・欠陥が存在するとしたら、国文学研究資料館はどう対処されるでしょうか。むろん、そのまま放置していいわけはありません。
 先ずは、既刊のものを総点検し、問題箇所を発見すれば、是正する必要があります。では具体的に誰が、どのように点検するか、問題箇所をどのようなかたちで是正するか、貴資料館においてご検討の上、ご回答いただければありがたいと存じます。 山下浩
 

第三次全集覚書

(1)
『岩波書店五十年』(1963.11.1)の右側ページにある岩波関係年表(27頁)の6月5日付の項には以下のように書かれている。

6.5  第3次〈漱石全集〉刊行開始――全14巻。第1次の漱石全集は主として森田草平・鈴木三重吉両氏によって編纂されたが、第2次に至って小宮豊隆氏が編纂に当たりその機会に編纂方針が根本的に検討された。第3次以後もほとんど小宮豊隆氏の独力で編纂がつづけられた。この第3次の刊行にあたっては、すでに前2回の全集によって資料はほぼ蒐集しつくされていると考えられていたのであったが、とりかかってみると依然として新しい資料が次ぎ次ぎに発見された。漱石全集は後に日本の個人全集の規範と見なされる至ったが、その確固たる基礎を作ったのは、この第3次の編纂であった。(1925.7.5 完結)。


しかしながら、上の前半部分は、実態とはだいぶ違う。このブログの読者にはおわかりになるでしょうが、第3次全集最大の功労者は、小宮ではなく裏方の店員、和田勇である。彼なしにこの全集の出版も本文の校訂も成り立たなかった。和田は、単に校正者でなく、小宮と論を闘わせる校訂者でもあった。

昭和10年決定版における長田幹雄も似た立場になったが、長田の場合、岩波茂雄が外遊中であったので、大プロジェクトの総合プロデューサーの役割も担った。


なお、漱石全集関連ブログは、ライブドアで5箇所ありますが、これらをあわせて
https://www.hiroshiyamashita.com/

で一括掲載予定です。

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