2013年09月

前回でも述べたが、3段階にわたる文書中(1)の残り8枚、すなわち(1)bの方は、(1)aの14枚に比べて、より短く簡略な記述であるが、(1)aにはない重要な情報を多数含んでいる。1枚目以外には数字がないので、残りには筆者が、保存されていたままに番号を入れた。その8枚目、8/8には「植村」の印が押されている。なお、6/8冒頭の対話風な記述部分、最初のx は水谷氏のことであろう。2行目は「存」のように見えるが、空欄にしてある。3行目の小は、小宮豊隆の可能性がある。
部分的に判読不能な箇所もあるが、以下詳述する。

1/8
女上流には見えず
きいちやん小學校時代の友達、
ちやう灯(ちん)屋の娘 お袋が長やに住む。
きいちやんは私生児也 きいちやんのぢい
がちようちんや  夏目の長屋の紙や
商賣をしていたが(欄外:金を持つて)來たので海運橋に
でて(欄外:商賣をやつたが)失敗す。 桑原きいちやん
先生の育つ時代はれい落、困難
して育つ、

2/8
井戸側に倉(欄外: 小さき倉)あり、(一間半二間半の倉)
福田の親類が(盬原)
盬原の家で戸籍ごまかして長男とす
八百やへ里子へやりその後盬原へ
ゆく 盬原へゆくも夏目へ交際す
養父女をこしらへる 養母金をつれ
て夏目へくる 馬場下へ先生を
つれて住む(養母と實家を通ふ)
小さい時、チヤン、オツカアと稱す 禮
を知らず 馬鹿と思ふ

3/8
大道へねる  漱石の兄六十七 所
爲の爲、 (欄外:先生は)無口 教育惡し(八百や
や里子ばかりいつた關係か) 養母馬
馬下へ假住届、 二夫婦、三夫婦
あり 新宿より福田戻る 高田時
名主の爲 夏目にゐる大助(2)榮之(3)
助 房の助(欄外:五才死) 旦那死して七
四谷くらやみ坂下のお寺(寺名不明)
旦那最後に死してお氣の毒
夏目の女中と吉藏
(欄外)
お松 先代より女中
倉吉 下男
姦通  にんしん
馬場下 世帯 トビ
小頭
死す

4/8
上野戦争場へ鐵砲玉を拾ひにゆく
(八九人)盬原は名主ならん(町かゝ
みをみよ)慶應明治時代のものも
あり(仙台にあり)明治後盬原へ
養子
ホーソー里子の(欄外:八百屋の前)時也  小さい時 (欄外:小宮氏)それは
盬原時代ならん  X氏もオーソー
佐々木吉蔵が八百屋へ世話す
(姉が夜でる筈なし) 吉藏が里子
のかあい (削除:奴) さうと告げる
(欄外)
源兵エ村の八百や(里子の先)
お松きりで夏目に女中なし
此の時代かたむけり

5/8
滅亡時代よく存じます
めつ亡明治初年  伊豆倉や かいぱ
御用(商人) 店主 ほうとう 夏目の
処 借金、二三年頃 滅亡 先生生
後 僅かにして 滅亡  KO時代馬場

(中村) 夏目の家だ (欄外:坂下右の路下門内) (盬原の家に非ず)
 伊豆橋は福田
盬原は淺草  市ケ谷は夏目、

6/8
x   和三郎ですが矢來におります
   矢來に聞いたら判るだらう
小  矢來は判らぬ

X  夏目 和三郎 存命中 旧ミノヤ
  大阪在住神戸にあり 夏目に路銀
  借用歸京

一橋中學へ通學 ひんこん 七八才位
知つてゐる 後 初壽町  明治 以下
名を受けられたのはよく知らず

7/8
夏目だけ姓あり
お松源兵衞村の八百屋の娘ならず
御新造存命中、 世滞持つて 夏目の
極く近く住む
お松の素性判らず(先代の御新造時代
から女中なり)
(欄外:金の助)母は御殿上る譯なし 貸座敷の娘故に
旗本位には奉公に上れるがそれは
水谷氏は記憶せず  母にはよい感じ
抱くと

8/8
(欄外:牛込榎町)伊豆倉や(欄外:忠兵エ)(かいば御用)伊豆橋(福田)
(大宗寺の前 貸席) 後妻(削除)

伊豆橋の親族で夏目へ出入

たしか夏目 玄關の処に 住んでいた
人あり 記憶なし 好男子な
り盬原なるか知らず 玄關にゐた人
大助なるかも知らず  これをみた(追加:當時の)
X (追加:水谷)氏の年齢 九か十 位の時

この回では、これまで言及してきた3段階にわたる文書(1)(2)(3)のうち、最初期バージョン(1)について詳述する。すでに概要を記してあるが、

「岩波特製」200字詰原稿用紙22枚からなる「水谷氏口述の筆記 九、二十、 於小石川宅」なる文書。これは文字通り、水谷氏の口述を直に聞きながら書き取ったと思われる読みにくい断片に近いもの。これを入れた封筒には「重要」と朱書されているが、この方面の最初期の貴重な資料といえる。実際に誰が何時、これを聞き取り、書き取ったのかは明白ではない。

全22枚は、1-14の番号が付された14枚、これを(1)aと呼ぶ、と残りの8枚、これを(1)bと呼ぶ、に分けられる。このうち(1)bには1枚だけ数字の1が付されていて、最後の1枚には当時の店員であった「植村」〈植村道治〉の印がある。似た筆跡ながら同一人になるかどうかは断定できない。双方には重なった記述もある。その関係は、(2)の作製に際して、(1)aの方がベースとなって、(1)bの分がそこへ挿入されたということ。その重要度は変わりない。

まず(1)aの方から、判読困難な箇所も少なくないが、1枚ごと、行ごとに、可能なかぎり文字化してみたい。(1)bの方は、次回に掲載する。


1/14
(朱で追加:夏目先生)玄關二畳か三畳に住む(朱で追加:遲刻のためいづれの家の二畳なるや不明)
目が惡くしけつまく 駿河台井上へ通ふ
罨法(注: あんぽう)をやり乍ら話す。
盬原へゆく 明治元年
夏目へ復籍、 夏目女中お松(先代
母奥) 姉にお咲早稲田町建具商へ
伊豆橋。現今盬原の戸主は
和三郎

2/14
(2行欄外)
夏目先生の父は凄くドーラク
    大助も  ドーラク

町(まち)かがみをみれば盬原のこと判る
母の家は女郎屋也 先生の父は妻の
實家へいつて女郎置、不和、
(金ちやんは知るまい)父が質屋と云
ひきかせたのであらう
和三郎氏は盬原のこと知らん
筈なし。
和三郎可もかなし 非もなし
水谷氏と和三郎氏と 親友 和三郎
氏は内場(女性的)大助氣強い人

3/14
榮之助氏は(才子) 大助柳橋
の芸妓とよい仲、 福田が誘へる
(伊豆橋) 大助東京フへ出て飜
譯して父の二倍月俸  柳橋へゆ
かねば金の助等の義理がたちたる
もの也 柳橋へゆきたり 放蕩をなしたる
和三郎のみ  結婚。 和三郎の妻は
イケミノと云ふ貸席 山口大鐵頭領の三男
養子のタネ それの二女か三女が
和三郎氏の処へ嫁す。小一郎を生む

4/14
女の子菊枝いゝ子である、現在の
妻の前の妻(即ち先妻) 小一郎は
後妻、先妻は
(夏目の2字削除) 和三郎妻は姦通の評あり
てリ別す、お松の橋渡しで
和三郎の後妻を持つ
(先妻の2字削除) 死別 説はうそ也
たしかに 姦通の評判をきゝてリベツ
す。
小一郎菊枝の母 山口寅三郎の子で
(欄外)馬丁和三郎の後妻と

5/14
和三郎の先妻を先生は非常に同情す
(他人づれを等したからか)
(中村)(男とは勝手なものとよく存 )(この行は削除)
和三郎の先妻は奉公してゐた方らしい。
家を外にするも近所に後妻となる人が
ありし故 (欄外追加: 即ち小一郎菊枝の母女郎屋の娘) 也。即ちお松が手引きで恋々
たる状態になる
金之助氏(この行削除)
(追加: 和三郎氏の) 先妻の親や代書してゐた和三郎へ
入嫁前一ぺん嫁入したる事朋友

6/14
が曝く きらつたことはたしかだ 和三郎
氏先妻の命日を知らさず
たしかに和三郎の先妻は離別後
死んだのだ(水谷氏の説)
和三郎氏は公然と事實は話さず ために
夏目先生も事實を知らず (追加: 結婚中) 死せるかこ
とく思ふが内実は水谷氏の説の通
り也。先妻は十人並のきりようです
後妻は別品です 艶ぽい人です(後妻の後に、年は五十位也。途中の、六十才也を削除)
(欄外)
和三郎氏はふけてゐる
後妻は五十二才位也現在

7/14
和三郎氏は金の助氏より八ツ上也
夏目先生 KO三年生
金の助の上に年子(トシゴ)あり 和三郎は
六人兄弟 KO二年は六才也

大助 辰年   栄の助 馬   和三郎 羊
久の助     金の助

昔時の友朋つきあひをほめる 市長さん
名主の (削除: 子は) 家には猥らん遊びゆけず
階級制度やかまし

欄外メモ
旗本 奥様
地主
御新造 
借家人はその名を呼び


8/14
養父(盬原)が女郎屋の留守番してゐる時いつ
を記憶あり。  ホーソー
帆かけ橋
伊豆橋の親類ならん、
伊勢重は夏の遠えん
高田は 夫婦 死し
福田も夫婦死す
お久が金之助に無心する

9/14
女に関して脅はく勸念を抱く

高田(この2字削除)
(欄外)市長さん曰く
風呂に入るとブンなぐりたい神經が
狂つてゐる
奥様曰くよそから電話がくると
大聲でどこからかつたと云ふ
奥さん日光館林方面へ市長さんに
連れ出して貰ふ
大學出て法藏院(それから菅)
菅が我慢する夏目は我慢できず

10/14
菅氏世帯を持ちて後管氏へ
假寓す
大學出て待合の女将に惚れら
れる
芝(注:?)高等ギ塾 窓の下に女あり
山川新次郎よく知れり (注: 正しくは、新でなく信。連載第3回、(3)の34参照)
待合のおかみ 惚れた (口説いた)
おかみがか業 止めてよし 濱
町の近ぺん
湯河原で女のため字を書し

11/14
濱町のトヨダの婆さんよく知れる
小宮氏(この行削除)
(先生時代の話に非ず松山へゆく前)
法藏院へゆく 尼がきらひ
菅の離れにゆく、
奥さん熊本時代 奥様と自身との
かうだん 紐をつけてねるヒステリー
川へ飛ひ込む
結婚したて話合ひ、 俺の処にこない
なら(巡礼して歩くと)結婚當座

12/14
細かなり
勉強家、學校から歸れば書斎に
いる  (欄外: 奥様は遂に)べたべたせず神經衰弱と
なる 夏目先生神經衰弱 きよう
はく勸念から 時々變だ 山川がよく
知る、(欄外: 洋行中)女に全々關係なし

法藏院でも菅の処でも女が追つ
かけてきて困るとの勸念あり
市長さん 丗五年の春 (削除:でかける) 洋行
神經過敏に動く人は衰弱になるは
あたり前也  是の説 ずつと前から

13/14
(欄外上)水谷氏曰く
(欄外右:金の助氏)
性質は馬鹿の樣で圖太い  口を聞いても
返事もなし 下等な奴だなと思ふ
事あり  中學時代 竹橋で
あふ ボロ袴、 人の問に應せず
(うすばかでがんこらしい処あり) 滿足の
返事なし
(欄外:狩野氏説)
表情は足りぬ。  純一氏によくにている
江副氏(欄外:江副の当主の弟) 江副の当主は震災でだめ
夏目の娘の嫁した方は次男でよし

(欄外)
長男 バカ   年ゴ
14/14
金の助兄弟 仲よし


この連載では、第2回において、夏目鏡子『漱石の思ひ出』に付された「漱石年譜」の元になったと思われるタイプ打ちの「漱石先生年譜」全文を掲載し、第3回においては、漱石幼少時をさぐった3段階にわたる文書(1)(2)(3)ののうち(3)の全文を掲載した。3点は以下のようであった。

(1)「岩波特製」200字詰原稿用紙22枚からなる「水谷氏口述の筆記 九、二十、 於小石川宅」なる文書。これは文字通り、水谷氏の口述を直に聞きながら速筆したと思われる読みにくいもの。最後の方の1枚にだけ店員である「植村」の印があり、それを入れた封筒には「重要」と朱書されている、この方面の最初期の貴重な資料といえる。実際に誰がこれを聞き取り、書き取ったのかは明白でない。

(2)上の(1)にその他、狩野享吉ら旧友の思ひ出を多少追加して、同形の原稿用紙19枚ほどに読みやすくまとめた手書き文書。清書と言えるほどではなく、かなりの追加削除が存在する。○印で40の段落に分けられている。

(3)上の(2)の追加削除に従いながら、忠実にタイプ打ちしたもの。1行38字、13行。全9枚。●印で(2)と同じ40の段落に分けられている。


以下においては、この(3)と(2)の間で注目される違い、すなわち整然とタイプ打ちされた(3)の前の姿を40の段落に従って示しておきたい。

まず 3/40 の半分を占める以下の部分は、原稿用紙マス外への追加記述である。

その八百屋が新宿へ夜店を出し、先生を籠に入れて大道に置くを佐々木吉蔵が見て可哀想に思ひ先生の姉に告げて遂に實家に引取る。一説に先生の姉自身が大道に籠に入れてゐる先生を見たとあれど夏目の如き大家のお嬢さんが夜外出する筈なし。確かにこれは吉藏が見てきて姉に告げたるものなり。

その前の、「佐々木吉蔵の世話にて」も追加である。

4/40 における「姉にお咲といへる早稲田町の建具商へ嫁せるものあり。」は追加である。

5/40「無教育にして誠に下等なる者の如し。」は原稿で元々は「無教育なり」となっていたのが、かく書き増された。
さらに、「御維新時代の」「友達八九人にて」「思はしむる風采」は、マス外に書き足されたものである。

6/40「先生の幼時と」はマス外へ追加。

9/40(2)では冒頭の「先生の生家の零落」がそっくり削除。現行冒頭の「夏目の家は舊高田の名主なりしが」はその後の追加。
「先生は貧困に育つ。」「當時夏目は牛込馬場下の坂下右の露路門内にあり(盬原の家に非ず)井戸側に小さき倉あり。尚姓を有するは近隣に夏目家のみ」は、その後の追加。

17/40 とその次の段落段落の間に

○夏目先生の育つた時代は既に家運連絡し、困難にして育つ

があったが、朱線でそっくり削除されている。

19/40「先生の母は甞つて御殿に奉公せし事ありとの説あれど身分卑しき女郎屋の娘が御殿に上れる譯なし旗本の邸位へは奉公に上れる事もあらんも水谷氏は奉公云々に就きては少しも是を知らず」は欄外への追加記述である。

19/40と20/40の間で、(2)では、

○和三郎氏は盬原のことを知る筈なし。

○和三郎氏は可もなく非もなゐといふ人物也。

が、前者は、朱線で、後者は読み取れないほどギザギザに黒インキで消されている。

20/40の次の1行の段落が削除。

○和三郎氏結婚す、山口大蔵といふ頭領の三

22/40「和三郎氏の先妻」の後の「離別後」は、「年齢僅に」を消して追加されたもの。

(2)23/40の最後の部分、青鉛筆で書き直される前は、以下のようになっていた。

夏目先生は離別を少しも知らず、婚家にて病〈気で〉死せるものとのみ思へり。然れども離別たることは事實なりと水谷氏力説す。

24/40「今回年譜作製の必要上」は追加。

33/40の以下は、欄外への追加書き込みである
「先生の奥様の話によれば、他處から電話がかゝると大聲で何處からかゝつたといふ。
餘り困つて中村是公氏に頼み日光、館林方面へ旅行に連出して貰ひし事もありといふ。」


以上、(1)を整理して(2)を作成中にもいろいろな追加情報が入っており、(3)の作成中の店員たちの努力がわかる。

筆者のブログネーム、sousekitokomiya は、From Souseki to Komiya を短くしたものであるが、その第1シリーズは「初校ゲラを通してみた小宮豊隆の『夏目漱石』」でした。

この漱石伝は、今回のシリーズで扱っている「附 漱石年譜」が出てから10年も経たないうちに書かれたのであるが、その細かさに圧倒されてしまう。特に漱石の出生から子供時代についてはそうである。小宮は、この間、昭和10年の「決定版全集」を念頭に置いて、多岐に亘る調査を行っていたのでしょう。以下に示す資料中にも、

24●和三郎が先妻を嫌ひしは事實にて今回年譜作製の必要上小宮氏がその命日を照合せしも遂に回答來らず。

の段落がある。ともあれ、昭和3年普及版(円本漱石全集)出版時には、今回のブログで取り扱う「附 漱石年譜」とその関連資料に書かれている程度しか知られていなかったといってよい。それ故、小宮らのその後の調査には、ここで扱う未公開の資料が貴重なベースになったはずである。(ちなみに、平岡敏夫氏の岩波文庫版『夏目漱石』への「解説」によると、昭和3年までの一番古い漱石伝としては、赤木桁平『評伝夏目漱石』(大正6年)があるが、筆者にはまだ未見である。)

夏目鏡子『漱石の思ひ出』に付された「漱石年譜」においても、連載第2回に示した「漱石先生年譜」においても共に、幼少年時代については空白が目立ったり、年代に違いが出たりしている。年譜作成において一番苦労した点であろう。

「水谷某」なる人物が存在していた。小宮豊隆の『夏目漱石』にも数回出てくるが、漱石の子供時代を直接知っていて、漱石の兄、和三郎と親友であったとされる人物である。荒正人の『漱石研究年表』など、この人物に言及していないようだが、その信頼性がどの程度であれ、幼少時の漱石を直接知っていたことには間違いないようである。無視するわけにはいかない。

岩波書店は、「附 漱石年譜」に先立つ「漱石先生年譜」を作製するに際して、その幼少年時をさぐった文書を残しているが、ここで水谷某は重要な情報源となっている。以下のような3点の文書が現存する。

(1)「岩波特製」200字詰原稿用紙22枚からなる「水谷氏口述の筆記 九、二十、 於小石川宅」なる文書。これは文字通り、水谷氏の口述を直に聞きながら速筆したと思われる読みにくいもの。最後の方の1枚にだけ店員である「植村」の印があり、それを入れた封筒には「重要」と朱書されている、この方面の最初期の貴重な資料といえる。実際に誰がこれを聞き取り、書き取ったのかは明白でない。

(2)上の(1)にその他、狩野享吉ら旧友の思ひ出を多少追加して、同形の原稿用紙19枚ほどに読みやすくまとめた手書き文書。清書と言えるほどではなく、かなりの追加削除が存在する。 ○で40の段落に分けられている。

(3)上の(2)の追加削除に従いながら、忠実にタイプ打ちしたもの。1行38字、13行。全9枚。●で40の段落に分けられている。

以下に(3)の全文を示し、これらの文書が概略どのような内容であるか示したい。(後々の参照の便宜上、●の前に、現物には存在しない番号を入れる。)


1●夏目先生玄關の二畳か三畳に住む。(遲刻のため何處の家の玄關なるや不明)當時眼が惡く結膜炎にて駿河臺の井上醫院へ通ふ。よく罨法(注: あんぽう)をやりながら話す。

2●明治元年盬原家に養子に行く。戸籍改正に伴ひ養父盬原氏、夏目先生を自分の長男として届出る。養子にいつた後も淺草の養家から市ケ谷の實家夏目へよくゆく。養父他に女をこしらへ養母との間不和になる。養母、養父と別れて夏目先生を連れて馬場下に住む。馬場下にきてからも實家夏目へよくゆく。後、夏目へ復籍す。

3●夏目先生盬原家へ養子にゆく以前佐々木吉蔵の世話にて源兵衞村の八百屋へ里子に出された事あり。その八百屋が新宿へ夜店を出し、先生を籠に入れて大道に置くを佐々木吉蔵が見て可哀想に思ひ先生の姉に告げて遂に實家に引取る。一説に先生の姉自身が大道に籠に入れてゐる先生を見たとあれど夏目の如き大家のお嬢さんが夜外出する筈なし。確かにこれは吉藏が見てきて姉に告げたるものなり。この八百屋が夏目の女中お松といへるものの實家ならずやとの疑ありたれど水谷氏これを否定す、如何なる關係ありて源兵衞村の八百屋へ里子にやつたか及び女中お松の素性不明なり。この八百屋へ里子時代に疱瘡にかゝりたりとの説出てたるも盬原へ養子に行きて後の方たしかなり。

4●女中お松の事 お松は先代御新造様の時より夏目へ奉公に上り、後下男の倉吉といゝ仲になり遂に妊娠し、御新造の存命中夏目の極く近く、馬場下に世帯を持つ。倉吉なるもの後鳶職になり小頭に累進して死す。お松は夏目先生が源兵衞村の八百屋へ里子に出された家の娘ならずやとの疑ありたれど素性不明なり。姉にお咲といへる早稲田町の建具商へ嫁せるものあり。尚夏目家は漸次零落しお松以後女中なし。

5●夏目先生幼少時は一見馬鹿の如く、圖太く、禮を知らず、無教育にして誠に下等なる者の如し。(八百屋等へ里子にいつた關係もあらん)父母を呼ぶにチヤン、オツカアと稱す、常に無口にして友達の問に對し完全なる返事をなさず、又友達が菓子等與へるとも決して禮を述べずに是を喰う。頑強なる處もあり。大道へ寝ね、又御維新時代の上野戦争後へ友達八九人にて鐵砲玉を拾ひにゆき叱られたる事もあり。往年の文豪夏目漱石先生を思はしむる風采些かも無し。

6●先生の幼時と純一氏の幼時と甚だ酷似せり

7●先生の幼時概して表情不足なり(狩野氏曰)

8●夏目先生一橋中學へ通ふ。當時、家賃困にして、水谷氏往々竹橋の近邊にてボロ袴を着せる夏目先生と行逢ふ。先生と呼びかくるも滿足の返事なし。

9●夏目の家は舊高田の名主なりしが先生の生後間も家運漸次傾き明治二三年頃遂に全く零落し先生は貧困に育つ。當時夏目は牛込馬場下の坂下右の露路門内にあり(盬原の家に非ず)井戸側に小さき倉あり。尚姓を有するは近隣に夏目家のみ 此の時代のこと水谷氏よく承知せり。

10●牛込榎町伊豆倉屋忠兵衞 〔飼葉御用商人〕 放蕩児にして夏目へ借金に來る。

11●伊豆橋、新宿大宗寺の女郎屋にして福田と稱す。後夫婦とも死に絶ゆ。

12●盬原はこの福田の親類なり。

13●夏目先生が養子に行つた盬原は元名主ならん 〔これは慶應明治時代の町鑑(まちかゞみ)をみよ〕 後淺草區長になる。町鑑は狩野先生の蔵書を仙臺の東北大學へ譲つたものゝ内に幾分あり。

14●伊豆橋 〔福田〕 の親類にして夏目へ出入の者あり。たしか夏目の玄關の處に住み居たる好男子あり。これが盬原なるや或は大助なるや當時水谷氏は九歳か十歳の事なれば確たる記憶なし。

15●和三郎氏矢來町に現在居れど昔時の盬原家に就きては恐らく知る筈なからん。

16●夏目家々族の死 房之助五歳にて逝き、長兄大助次兄榮之助次々に逝き、母も逝き、最後に父逝く、父は四谷暗闇坂の某寺に葬る。(水谷氏寺の名を記憶せず)

17●きいちやんといふ夏目先生の小學校時代の友達あり。きいちやんは私生児にして提燈屋の娘なり。(きいちやんのぢいが提燈屋だつた) 母と共に夏目の長屋に住み、紙商を營む。きいちやんの母に持参金附の入聟があつたので海運橋に出て商賣をやり失敗す。きいちやんは桑原と稱す。

18●夏目先生の父は放蕩児にして大助も放蕩児なり

19●夏目先生の母は女郎屋の娘にして、先生の父はそこへ(妻の實家)いつて遊ぶ。したがつて夫婦不和なり。先生の父は常に先生には母の實家が女郎屋たることを隱し質屋なりと稱す。先生幼年なれば遂にそれを信ず。先生の母は甞つて御殿に奉公せし事ありとの説あれど身分卑しき女郎屋の娘が御殿に上れる譯なし旗本の邸位へは奉公に上れる事もあらんも水谷氏は奉公云々に就きては少しも是を知らず先生は母に對してはよい感じを抱けり。

20●和三郎氏と水谷氏とは親友なり。和三郎氏は非もなし可もなし内場(うちば)な女性的な人なり大助氏は氣強き人にして、榮之助氏は才子なり。大助氏伊豆橋の福田氏に誘はれて柳橋に遊び、遂に藝妓といゝ仲になり放蕩児となる。大助氏は東京府へ勤め、飜譯官として、父の二倍位の月俸を得て居た。放蕩をしなかつたなら夏目先生等への義理がたちたるものなり。

21●和三郎氏結婚す。或る卑しき處へ奉公せる女を娶る。その親は代畫業を營み居れり。結婚後友達より妻が以前ある男と關係せしことありと聞き、嫌ひ出し家を外にし遂に離婚す。尤も家を外にせしはお松の手引で後に後妻となつた女が近所に住み戀々たる状態なればなり。後妻は山口大鐵といふ頭領の三男山口虎三郎といふ人がイケミノと云ふ女郎屋へ養子へゆきて儲けたる子(二女か三女)なり。これ現在和三郎氏の妻女にして小一郎、菊枝を生む。(菊枝は先妻の子たるやも知れず筆記不備にして此點不明なり、申譯なし、) 菊枝はいゝ子なりと。

22●和三郎氏の先妻離別後二十五歳にして死す

23●夏目先生その死を大いに悼む。且つその人格の高潔を賞揚す。 (全集第十二巻三十四頁子規宛の書簡を参照すべし) 先生は和三郎の先妻は惡阻が元で死せるものと思へり。これは和三郎が、離別せることを先生に隱し語らざりしため、先生は離別を少しも知らず、婚家にて病死せるものとのみ思へるためなり。然れども離別後病死したることは、事實なりと水谷氏は云ふ。

24●和三郎が先妻を嫌ひしは事實にて今回年譜作製の必要上小宮氏がその命日を照合せしも遂に回答來らず。

25●和三郎の先妻は十人並の容貌なり、後妻は美人にして艶つぽき人なり。

26●和三郎は夏目先生より八ツ年上なり。

27●夏目先生の御兄弟

大助(辰年)     榮之助(午年)    和三郎(羊年)    年子
久之助        金之助        房之助  五才にて死す

28●夏目先生の昔時の友達つきあひ至つてよしと。(中村是公氏賞揚す)

29●夏目先生が「養父(盬原)が女郎屋の留守番をしてゐる時代にその女郎屋へいつた記憶あり」と申されし事あり。

30●伊勢重といふ夏目の遠縁に當る者あり。

31●お久といふ者が夏目先生に無心を云ひし事あり。

32●夏目先生、女に對し脅迫勸念を抱く。

33●大學を出でゝ法藏院に假寓せしが其處の尼僧が嫌ひで我慢できず、折柄菅虎雄氏が世帯を持ちたればその離れへ轉ず。菅氏方へ轉居後も依然として法藏院時代と同じく 「女が追ひかけてきて困る」 との勸念續く。尚中村是公氏の話に依れば、風呂に入ると無暗に他人(ひと)がブン毆りたくなり、神經が狂つてゐると自稱す。先生の奥様の話によれば、他處から電話がかゝると大聲で何處からかゝつたといふ。
餘り困つて中村是公氏に頼み日光、館林方面へ旅行に連出して貰ひし事もありといふ。

34●大學を出ての頃 濱町近邊の待合の女将に惚れられる。女将、先生を口説いて待合を止めてもよいと云ふ。尚高等義塾の時代にも窓の下の女と云々の事あり。共に山川新(注: 原本のまま。正しくは 信)次郎氏がよく知つてゐるとの事

35●湯河原で女のために字に書いた事あり、 〔中村是公氏曰く〕 濱町の待合豐田の婆さんによく書畫を呉れた事あり。 (學校の先生時代に非ず松山へゆく以前)

36●夏目先生結婚當座奥様と情愛極めて細かなり。かつてその當時先生が奥様に向ひ「俺の處へこなければお前はどうしてゐる」と聞いたら「巡禮をして歩きます」と奥様が答へたりと。

37●熊本時代に夜寐る時奥様の身體を紐に括つて先生自身の身體に結び置きたることありと、これは奥さんがヒステリーで夜中外へ飛び出し川へ飛び込んだ事が一度あつたからの由。

38●夏目先生は勉強家で學校から歸れば書斎へ入つた切りなので、奥さんは少しはべたべたして貰ひたく思ひ、遂に神經衰弱となる。
夏目先生も神經衰弱から脅迫勸念を抱く様になり、時々變だと自稱す。

39●神經が鋭敏に働く人は神經衰弱になるは當然のことなり。先生の兄さんの云ふによれば先生はずつと以前からそんな氣味ありと

40●洋行中は全然女に關係なし。




(以上が資料(3)のすべてである)

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