私のブログとホームページのコンテンツ9: 初期漱石全集の未公開資料――昭和3年普及版(円本全集)と「漱石年譜」の誕生過程、の特に5回と6回において、漱石の兄、和三郎直矩(なおかた)の幼友達とされる人物、「水谷氏口述の筆記 九、二十、 於小石川宅」 という文書についてくわしく述べた。
この文書は、私が旧岩波全集の現存資料を調査中に発見したものである。これほどに重要な内容を含む一次資料でありながら、小宮が漱石伝中に、3回、「水谷某」として言及している以外、その存在がいっさい知られていなかった。小宮本の注意深い読者なら、「水谷(文書) Where ?」 と問いを発してもよさそうなものであった。小宮自身も、私が知る限り、その説明をどこにもしていない。
この文書は、私が旧岩波全集の現存資料を調査中に発見したものである。これほどに重要な内容を含む一次資料でありながら、小宮が漱石伝中に、3回、「水谷某」として言及している以外、その存在がいっさい知られていなかった。小宮本の注意深い読者なら、「水谷(文書) Where ?」 と問いを発してもよさそうなものであった。小宮自身も、私が知る限り、その説明をどこにもしていない。
この文書中
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x 和三郎ですが矢來におります
矢來に聞いたら判るだらう
小 矢來は判らぬ
X 夏目 和三郎 存命中 旧ミノヤ
大阪在住神戸にあり 夏目に路銀
借用歸京
における 「小」 は小宮の可能性があるので、小宮自身、この文書の口述筆記現場に立ち会っていたと推定される。では、小宮は、この水谷の口述をどの程度信頼していたのであろうか。
その手掛かりについて以下、若干述べてみたい。小宮の漱石伝には、「水谷某」という名前で、以下の(1)から(3)まで、具体的に3回出て来るが、このうちの(3)には、特に注目してもいいように思われる。
(1)ゲラ、初版(昭和13年)35ページ、新書版一(昭和28年)23ページ、文庫版上(昭和61年)40ページ:(四節 養子 引用は初版)
然し漱石の兄、和三郎直矩の子供の時分からの友達であつたといふ水谷某のいふ所によると、漱石は佐々木吉蔵なる者の世話で、源兵衞村の八百屋へ里子に出されたが、その八百屋が新宿の通りへ夜店を出し、漱石を籠に入れて地べたに置いてゐるのを、その吉蔵が見て可哀相に思ひ、漱石の姉に話して實家に引き取るやうにしたのだといふ。
(2)ゲラ、初版(昭和13年)37ページ、新書版一(昭和28年)25ページ、文庫版上(昭和61年)42ページ:(四節 養子 引用は初版)
従つて其所には、漱石が塩原の所に養育されてゐた期間が、なるべく短い事を希望する意志が、十分に動いてゐる。漱石が明治元年(一八六八)十一月 「貳歳の砌(みぎり)」 養はれて行つたといふのが、或は一番正しいのではないかと思ふ。水谷某も、明治元年の事だと言つてゐる。
(3)新書版一(昭和28年)85ページ、文庫版上(昭和61年)111ページ:(九節 母 引用は新書版)
水谷某は、遊女屋の娘が大名のところへ奉公に行く筈がない。奉公に行つてゐたとすれば、或は旗本のところか何かではなかつたかと言つてゐる。どつちが正しいか、私には判斷する材料がない。
この部分は、驚くことだが、初版から15年後の新書版における新たな追加記述なのである。微妙な内容なので、小宮としては、長く迷っていたのであろうか。
この追加は、初版93ページの段落
漱石の母がお嫁に來る前に御殿奉公をしてゐたといふ事は、和三郎直矩によつても證言されてゐる。是は恐らく事實と見做して可いに違ひない。なんでも明石の殿様の所に、十年餘りも奉公に上がつゐたのださうである。
と、「漱石は」と続く文の間に挿入されている。
この箇所、初版と初校ゲラでは、実は微妙に違っている。初校ゲラ段階、すなわち原稿では元々、
漱石の母がお嫁に來る前に御殿奉行をしてゐたといふ事は、和三郎直矩によつても證言されてゐるから、恐らく事實と見做して可いであろう。なんでも明石の殿様の所に、十年餘りも奉公に上がつてゐたのださうである。
と断定の程度が弱かった。しかし、15年後の新書版の改訂においては、水谷某の発言も無視できないと考えたのであろう。
この改訂からは、小宮豐隆の人間としての誠実さがよく伝わってくる。水谷文書は、どちらかと言えば、漱石をけなした部分が多く、小宮にとってはできれば触れないで置きたい文書であろうが、事実の一端を伝える一次資料として、取りあげざるを得なかったのではないか。
追加:
なお、夏目伸六は、その『父・夏目漱石』(昭和31)中の最後の節、「漱石の母とその里」において、漱石の母の出自をくわしく追っている。伸六は、結論的につぎのように述べている。
追加:
なお、夏目伸六は、その『父・夏目漱石』(昭和31)中の最後の節、「漱石の母とその里」において、漱石の母の出自をくわしく追っている。伸六は、結論的につぎのように述べている。
さて、此處で漸く結論に入る譯だが、千枝が以前下谷のさる質屋に嫁したことは既に述べた通りだけれど、その後に、夏目直矩に再婚する迄、千枝はずつと伊豆橋に居たのだと云ふから、その點、千枝の里が遊女屋であつたとするのは、別に間違ひではないのである。併し、里が遊女屋だから遊女屋の娘だつたと云ふ事になると、この場合少々事實との食ひ違ひが生じて來るので、更に進んで、父の遠い記憶に殘る母の生家が虚構となり、若し父がそこを訪ねる氣でも起したら、忽ちその虚構は暴露されて、幻滅を感じなければならないと云ふ風な推論にまで發展して来ると、これは少し困るのである。