以下、木村彰男氏のご回答へコメントしたものです。
「追記」 せっかくの機会ですので、まだたぶんどこでも取り上げられていない問題について、言及させていただきます。
1点は、『先生の遺書』という短篇の一つになるはずの作品の題を、漱石がいつ決めたか、ということです。私の知る現存する資料を見る限り、漱石がこの1回目(原稿には『先生の遺書』という題が入っている)を書いたのは、掲載が始まる5日前の大正3年4月15日頃だと思いますが、それ以前には、前日14日の寺田寅彦宛書簡にも、まだ『心』に着手していない、としかありません。
朝日新聞編集部も、原稿を受け取るまでこの題を漱石から知らされていなかったのではないでしょうか。
2点は、ご存知のように、単行本化されるにおいて、漱石は上中下の下を「先生と遺書」にしたことに関わります。
この点は木村さんのご指摘とも重なります。短篇を複数書くつもりなら、遺書の問題は最後に来そうな気もするのですが、それが「短編集」の冒頭に早々と『先生の遺書』と題されてしまいます。
しかしその書き出しは、語り手の私が初めて先生と鎌倉で会った思い出、遺書に至るには程遠そうな話題から始まります。別な短篇を先に書くわけにはいかなかったのか。このあたりにも、漱石の起稿が遅れた、起稿に至るに余裕がなかった件と関わるような気がします。
いずれにしろ、「短篇集」の第一作が『先生の遺書』と題されるのは、短篇の題としては、重すぎて似つかわしくない、というのは私の単なる後知恵でしょうか。私としては、こういう題にして書き出した時点で、漱石は「小説豫告」とは違ったことを考えていたような気がします。
どなたからでもいいのでご教示いただきたいものです。
「改めて質問者からのご説明」
確認しておきたいのですが、「朝日新聞」には『心』という題の小説は掲載されていません。「小説餘告」にあるように、大正3年4月20日から掲載が始まったのは、『先生の遺書』という「短篇」の一つになるはずの小説でした。これが、5月24、25、26、6月22日の4日間を除いて、8月11日(大阪では17日)まで止むことなく、110回掲載され続け、長篇になりました。結局、「豫告」にあった「今度は短篇をいくつか」は実行されませんでした。この点、漱石は新聞読者に対して、何の断りもしていません。
「心」とは、「豫告の必要上全體の題が御入用」な朝日新聞編集部のために仮に付けておいたものです。
岩波から単行本を出すに際して、『先生の遺書』は『心』に改題されました。以下にいろいろとご説明してある通りです。
なお、今回提示した資料は、私のライブドアに載っています。
質問に対して、一般論で断定的な回答がありましたので、ことはそれほど単純ではないということを、質問者自身の回答として、背景的なことから説明しておきます。
作家はみなさんそうだと思いますが、とりわけ漱石にとって、書出しの一文は非常に重いものです。私の今回の質問は、漱石が『心』の起稿に際してどのくらい苦労したか、にかかわるものです。
大正3年4月16日から18日まで、朝日新聞に、「小説豫告 『心』(ルビ こゝろ) 漱石 ……今度は短篇をいくつか書いて見たいと思ひます、其一つ一つには違った名をつけて行く積ですが、豫告の必要上全體の題が御入用かとも存じます故それを『心』(ルビ こゝろ)と致しておきます……」、と掲載され、翌日の4月19日には、「明日より掲載 (以下同文)に(書簡より)を追加」となります。(この予告文は、漱石が3月30日に朝日新聞関係者へ送った書簡から引用されています。)
そして『心』の一つ目の「短篇」として出始めるのは『先生の遺書』と題されますが、4月20日(東京版、大阪版同日)から8月11日(大阪版は8月17日)まで、110回にわたって掲載され続けました。これはもはや長編小説です。
これに先立ち、驚くことに、漱石は、4月14日付き、寺田寅彦宛書簡で、まだ『心』に着手していない、「日1日となまけ未だに着手不仕候」、と書いています。この書簡は掲載開始日まで6日しかない時点のものでした。
正確な起稿日はわかりませんが、寺田宛書簡の翌日には書き始めないと、20日の掲載開始に間に合いません。
当時、新聞社が原稿を受け取っても、印刷所の文選・植字、ゲラ刷り(この一部を毎日大阪へ夜行列車で送り、大阪ではこれを元にして東京とは別な組み版・印刷をする)、に最低3、4日はかかります。
にもかかわらず漱石は、掲載開始6日前にまだ起稿出来ておらず、ぎりぎりのタイミングまで考えあぐねていた、ということになります。
漱石は、『心』までに「朝日新聞」へ、『虞美人草』から『行人』までの7つの長編小説を掲載しています。そのうち6つ目の『彼岸過迄』と7つ目の『行人』は、長さは色々ですが、一応短篇といえるもの、前者は7篇、後者は4篇からなっています。
それで、『心』の掲載がはじまり、短篇1つ目の『先生の遺書』に接した読者は、上の2小説の例から、せいぜい30回程度で終るだろうと予想したのではないでしょうか。
しかも、「今度は短篇をいくつか書いて見たいと思ひます、其一つ一つには違った名をつけて行く積ですが」と「掲載豫告」で特記しているので、『心』に載せる短篇はその前の2小説よりもより独立性の高い短篇からなるであろう、とも予想させました。
漱石は、新聞掲載後、岩波書店から自装本を出しますが、その際の序文でこう釈明しています。すなわち短篇第1の『先生の遺書』を書き込んで行くうちに、予想通りに片がつかないことに気付いたので、この1篇だけを書き進めることにした。但しこの『先生の遺書』も、3つの姉妹篇から出来ていると思うので、「上 先生と私」(1-36)、「中 両親と私」(37-54)、「下 先生と遺書」(55-110)に分けて、全体を『心』という題にしても差し支えないと思う、と。
しかしです。ここで漱石、ちょっと正直にものを言っていないのではないか。それは、漱石が、『先生の遺書』が「掲載豫告」で告知したような予定通りの短篇で終わらない、と気付くのは、漱石が上で釈明する、「書き込んで行くうちに」ではなく、すでに起稿の時点以前ではなかったか、ということです。
漱石は、寺田寅彦宛書簡から判断して、4月15日前後に起稿したと思われるが、私は、漱石が、3月30日に朝日新聞関係者へ送った書簡以降、起稿を異様に遅らせた半月間、思案に思案を重ね、書出しの文を考えあぐねていたのではないか、と思います。「小説豫告」通りにはいかない、『先生の遺書』を短篇で書くのは無理だ、長くなる、と決断できるまで起稿出来なかった、のではないか。
初回冒頭の書き出し「私は其人を常に先生と呼んでゐた」の文には、漱石のそのあたりへの重い含みがあるのではないか、と推察されます。#変えよう
「追記」
この『先生の遺書』(一)の写真は、私が編纂監修した『漱石新聞小説復刻全集』第8巻からのものです。『心』の読者でも初めてご覧になる方が多いのではないですか。
1回目は、当時の朝日新聞の1行17字で、81行、単純文字数は1377字です。(2回目は80行、全体的に1日分は長くても90行程度。)
原稿も、漱石自家製「漱石山房原稿用紙、1行19マス x 10」へ、新聞に合わせて、17字で書いています。
漱石は、この1日分を、おそらく4月15日中に執筆し、遅くとも、朝刊に「小説餘告」が載った16日(翌朝)には、原稿を取りに来た朝日の社員に手渡したはずです。朝日の編集者も、初回ですから特に丁寧に目を通してから、原稿を印刷所へ運びます。印刷所は組版を急ぎ、ゲラができれば、それを当日中に大阪行きの夜行便に乗せねばなりません。大阪の社員は、17日朝これを受け取り点検、東京と同じように印刷所へ運びます。
東京版と大阪版は、4月20日、同日に出ましたので、この段取りは1日も遅らせられないギリギリのものでした。
「餘告」と110回(終り):
本格的な文学研究では、机上の思索だけではだめで、このように、「もとをただす」作業がいろいろと必要になります。
さて、1回目の終わりは、写真でお分かりの通り。2回目の終わりは、
先生はもうちやんと着物を着て入違ひに外へ出て行つた。まで。
3回目の終わりは、
「何うも君の顔には見覚江がありませんね。人違ひ(ちに濁点)やないですか」と云つたので私は變に一種の失望を感じた。 のところまでです。
当時のするどい読者には、3回目まで読まなくても、1回目冒頭の9行(するどい読者である回答者、上野敏行氏が引用の部分)を読むだけでも、この書き出しが、たかが数十回程度で終わるはずの短篇の書き出しではない、と感じられたのではないでしょうか。