初校ゲラを通してみた小宮豊隆の『夏目漱石』

「三四郎」という名前の意味・由来について (数年前に他へ掲載したものの再掲載)
 
夏目漱石の『三四郎』はだれでも知っているし、そのゆえんで東大には三四郎池があります。富田常雄の長編小説『姿三四郎』は会津出身の柔道家、西郷四郎をモデルにしているらしいが、三四郎という名前自体は、漱石の有名小説に依っているようです。
 
しかし現実の人物名としては、三郎とか四郎はあっても、三四郎という名前は珍しいということです。では、漱石は、なぜこんな「変な」名前をつけたのでしょうか。
 
『三四郎』は、明治41(1908)年9月1日から12月29日まで117回にわたって「朝日新聞」に掲載されたが、それに先立つ「豫告」において、次のような記事が載っています。
 
變な標題だと思つて、怎麼(どん)な小説ですと訊(き)くと作者曰く『田舎の高等學校を卒業して東京の大學に這入った三四郎が新しい空氣に觸れる、さうして同輩だの先輩だの若い女だのに接燭して色々に動いて來る、手間は此空氣のうちに是等の人間を放す丈である、あとは人間が勝手に泳いで、自(おのづか)ら波瀾が出來るだらうと思ふ、さうかうしてゐるうちに讀者も作者も此空氣にかぶれて是等の人間を知る樣になる事と信ずる、……』
 
要するに、当時の読者にも、この標題の名前は意味不明の「なぞなぞ」だったのです。
 
結論を言えば、この名前は『三四郎』の主題と深く関わっています。(二十)三歳に始まり明けて(二十)四歳になる青年の物語ということです。
 
旧制高校を終えて大学に入学しようとしている三四郎には、漱石自身そうでしたが(漱石は、明治23年9月10日東大英文科へ入学)、二十三という年齢が与えられます。この二十三という数字は、小説を読めば気が付きますが、一章「ベーコンの二十三頁」その他で繰り返し繰り返し出てきます。漱石は、この主人公を、田舎から東京の大学へ出て来る特定の一学生としてではなく、人生のむつかしい時期、(二十)三に始まり明けて(二十)四を生きる Everyman 「人間一般」として描いているのです。
 
漱石の小説には、二十三歳の青年が何人も登場し、『三四郎』の広田先生も二十三歳を回顧します。
 
漱石の小説の中でもとりわけ『三四郎』においては、登場人物名が、寓意的といいますか、その人をあらわすような命名になっています。
 
『三四郎』では、両親を早くに失い、その結果自由な生き方を可能にしている女性が、親の廟(びょう。 先祖の霊をお祭りする所)を意味する漢字「彌」を付した美彌子(みねこ)と名付けられ、大学の研究室で研究に没頭する青年には(野々)宮の名が付けられます。この小説においては、大学と三四郎の故郷にあるお宮とは、そこに広がる広い「森」を介してほとんど同義語になっているからです。広田先生や與二郎にどんな寓意が与えられているかについては、特筆を要しません。
 
シェイクスピアの文学がそうであるように、漱石においても、そこに用いられたことばとその表現が命であるとするならば、『三四郎』はその主題・構成と人物名がたくみに結びついた漱石文学の核ともなる作品だと言えます。
 
以上は、ジェイ・ルビン氏(英訳『三四郎』に添付の評論、ワシントン大学出版局)の指摘、その他に依っています。
 
『道草』二十九回に於いて、漱石は、三四郎を思わせる青年と散歩中の健三に次のように語らせている。
 
彼の頭の中には自分と丸で縁故のない或女の事が閃いた。其女は昔藝者をしてゐた頃人を殺した罪で、二十年餘も牢屋の中で暗い月日を送つた後、漸(やつ)と世の中へ顔を出す事が出來るやうになつたのである。
「嘸(さぞ)辛いだらう」
容色(きりょう)を生命とする女の身になつたら、殆んど堪へられない淋しみが其所にあるに違ないと健三は考へた。然しいくらでも春が永く自分の前に續いてゐるとしか思はない伴(つれ)の青年には、彼の言葉が何程の効果にもならなかつた。此青年はまだ二十三四であつた。彼は始めて自分と青年との距離を悟つて驚いた。

 
目次
 
はじめに
(1回)
(2回)
    (1)漱石が、執筆時、部分的に消し忘れたとか、入れ忘れたような箇所
    (2)自筆原稿の誤読
        ・ 文脈からも「取」であるのに 「背の低い相撲」 (新全集310頁7行)とした箇所    
       ・ いまだに旧来の全集に頼っていたことを暴露する不可解な例 
    (3)漱石自筆をそのまま生かすべきか否かの箇所、等
(3回)
      全集史上最悪の問題箇所について
(4回)
 
     注解者の責任も免れないということ
(5回)
(6回)
おわりに
(追加)

(予告 )


参照
山下浩ホームページ:
山下浩: Edmund Spenser と夏目漱石の書誌学・本文研究
http://www008.upp.so-net.ne.jp/hybiblio/index.htm
 
 
はじめに
 
 かつて話題を集めた平成版「漱石全集」であるが、最終刊、28巻(総索引)は、1999年3月に出た。その月報には、12 - 16頁に正誤表が掲載されているが、私の予想に反し、5頁、200箇所余りの不徹底なものであった。以下に述べる『三四郎』についてはただの2箇所。それも本文ではなく、さしたる事もない注解の部分である。私がそれまでにチェックしていた本文の問題箇所は含まれていなかった。
 
 『三四郎』以外では一点、11頁の《編集室より》で、正誤表とは別に『薤露行』本文の〔一字欠〕にした箇所(新全集第2巻、148頁12行):
 
高く頭の上に〔一字欠〕げたる冠の
 
が「漱石研究」(第3号、1994)の私のインタビューが話題になったためであろうか、 その最後にある
 
〈補注〉(署名:元学生の名前)
 
に言及し手落ちを認めている。しかしこの種の〔一字欠〕は他にもいろいろとあったはずで、それらはどうなったのであろう。
 
 
 私は、2014年末、「朝日新聞」が『三四郎』の「再掲載」と称するものを掲載していた中、その監修に当たった方、その他出版関係者へ1,000枚近い自筆原稿の揃いをコピーして差し上げたが、その際、それをご覧になる心得として6回にわたり電子メールをお送りした。これから述べるのは、その要約版である。
 
 自筆原稿は天理図書館が所蔵するが、私は、20年余り前に許可を得て1週間ほど実物を調べ、精巧なコピーも得ていた。一般研究者・読者には現物を気軽には見られないために、平成版が、自筆原稿を底本(*注)にすると言はれても、では岩波の編者は自筆原稿をどの程度繊細かつ緻密に読めているのか、等々なかなか確かめられない。そこで、上のメールで書いたことを一般へ広く公開することにしました。ただしこれは20年前に付したメモを2014年に読み返して確認した断片的なもので、網羅的ではない。まだまだ多くの問題・誤読が潜んでいると思われる。とまれ、『三四郎』を綿密に読みたいと願う読者になにがしかの参考になるかと思い、掲載する次第である。
 
 
*注: むろん方々で述べているように、私は、自筆原稿を新岩波流に底本にすることは不適切だと思っている。漱石の自筆原稿といえども、第一義的には、新聞社が肝心の読者用本文を製作するにあたっての「資料」に過ぎなかったからである。さらに、繰り返し述べてきたが、文学研究・読み方の力点は、「作者」から「読者」へ大きく移っており、「書物史」的アプローチが世界的な趨勢となっている。作者を「聖典化」しようとする平成版全集は、その流れと逆行している。本文校訂とは、そもそも、その時代の最大多数の読者の要請にあわせて行われるもので、「定本」も世代ごとに移り変わって行く。私どもが編纂・校訂したロングマン版スペンサー(Pearson 2001)(最新版は Routledge 2013)にしても、20世紀のオックスフォード・スミス版(1909)に代り、21世紀前半の「定本」とされるべく製作されている。
 
 
(1回)
 
平成版岩波全集『三四郎』319頁10行には、
 
三四郎はかう云ふ風にして」とあり、
 
新聞、第十九回(三の五)38 - 39 行、初版単行本、60頁3行、も同じです。
 
三四郎はかう云(い)ふ風(ふう)にして     ( )内はルビ
 
 
ところが、自筆原稿(136枚5行)を見ると、複雑な動きがあります。元々書かれたのは、
 
三四郎はかう云ふ にして
 
(云ふ と にして の間の空間には、― らしき縦線が入っていて、これが長音を意味するかどうかは断言できませんが。)
 
このあと、「云」には他よりやや大きめのルビ「いふ」が赤インキで追加されます。これが漱石自筆のルビかどうか断定できない。このあと、上の ― の部分の右側には、達筆な黒の墨字で大きく、「風」と書き加えられます。これも漱石の字であるかどうか。
 
岩波全集では、歴代、この2箇所の追加を取り入れており、平成版では、その校異表に、
 
三一九 10   云ふ風に    (原)云ふに
 
とだけあります。(原)云ふに と記録するも、 風 の書込には言及していない。何故でしょうか?
 
私としては、岩波が自筆にこだわる以上、ここは、原稿で最初に書かれたかたち、すなわち、少し読みにくいですが、

 三四郎はかう云(いふ)ふ にして

又は
 
三四郎はかう云(いふ)ふ―にして
 
のままでもよかったと思います。
 
 
 
(2回)
 
 前置きが長いですが、今回は、自筆原稿を、実物でなくコピーしか見た事のない人でも注意深く見れば正しく処理できるのに、そう出来ていない箇所を、『三四郎』から何種類かお示しします。
 
この新全集が出るまでの昭和時代の各種漱石全集の版は、実質、昭和10年・決定版のリプリントで、新たに発見された書簡の追加等、細部を除くと、判型やデザインの変更だけで済ませていました。大きく変えた平成版では、その不勉強のつけをもろに支払わされた格好です。
 
私が、平成の新全集をきびしく批判してきた理由の一つには、「編纂方針・哲学」とも言えるものが存在しないどころか(この点は社員でなく、小宮豐隆のような監修者が、一段高い場所から決める必要があった)、株式会社になった現代の社員には、原典資料を創造的に読み取る基本的な能力が、決定版までの岩波書店のたたき上げ店員に比べても、低下しているのではということがありました。平成の新漱石全集以降に新しく出た芥川龍之介の全集など、まるでロボット(機械)が編集してるかのようです。方々の関係学会誌やホームページにその旨書きました。
 
私が今現在、ホームページに公開しつつある未公開資料にも記録されているが、昭和10年当時の岩波書店では、決定版出版の途中に、『こゝろ』を当時でも安値の1,500円で買った以外は、ほとんどの自筆原稿を所有者から短期で借りました。記録では、長くてもせいぜい1ヶ月、通常2週間程度、『坊っちゃん』などは門外不出で、長田幹雄が、大阪の所有者の自宅まで出かけ、2日間見せてもらうのがやっとでした。むろん、今日のようなゼロックスコピーなどなく、部分的に解像度の悪い白黒写真をとる以上のことはできませんから、当時の店員等は、命がけで、限られた時間内に預かっている原稿と格闘したのです。
 
これに比べて、平成の漱石編集者は、もはや中卒のたたきあげ店員ではなく、一流大学出身、高給取りで、サラリーマン化した体質なのでしょう。先輩が築いてくれた岩波の威光によって長期に渡り原稿を借りられたり、精巧な複製を製作したりして、贅沢な環境で仕事ができます。にもかかわらず、原稿を精確に読みとれていないケースが少なくありません。
 
このようなことを表だって指摘する私のような人間が、いまだに少ないのは残念ですが、これとは別に、国語学関係からはいろいろと動きが出ているようです。古くは佐藤栄作氏、最近では今野真二氏らによって、漱石の本文編纂にも有効な新しい情報がもたらされています。『消された漱石』(笠間書院)や岩波新書『百年前の日本語』などで、本文校訂が中心課題ではありませんが、漱石が大きく取り上げられていて、一読に値します。最近ウエッブにのった、室井努氏の国語学会のシンポジウムを経た論文:
日本語書記と本文テキストに関する読み手の存在の論争私見
http://hrr.ul.hirosaki-u.ac.jp/dspace/bitstream/10634/7186/1/HirogakuKiyo_50_37.pdf#search='%E6%BC%B1%E7%9F%B3+%E5%B1%B1%E4%B8%8B%E6%B5%A9
では、私が20年前に朝日新聞に書いた記事及び関西大学のウエッブに今も載っている「拝啓岩波書店殿」等の新全集批判論文に言及されており、驚きました。この論文の要点は、要するに、私の論を前段階として引用して、作者が実際に書こうとしたこと(=読者が読むこと)と自筆原稿(に認められた物理的記述)とには、差があるという、ごく当たり前のことなのですが。
 
但し、残念ながら彼ら国語学者の書きぶりからは、本文(校訂)の何たるかの認識を欠いておられるようです。
 
今回のポイントは、大きく分けて、
(1)漱石が、執筆時、部分的に消し忘れたとか、入れ忘れたような箇所
(2)自筆原稿の誤読
(3)漱石自筆をそのまま生かすべきか否かの箇所、等
 
 
(1)漱石が、執筆時、部分的に消し忘れたとか、入れ忘れたような箇所
 
原稿338枚、2行(新聞、5の1、46回、11行)(初刊 150頁、4行)(新全集393頁3行)
 
遠いはづれ で あ る。
 
では、漱石は、あ しか消しておらず、そこへ 「にな」 を追加しています。新聞は、これに忠実に、
 
はずれ で にな る。
 
とするが、初刊本は、常識的観点からこれを訂正し、「はずれになる」 と直しました。岩波は、新全集まで、この訂正を踏襲しています。これでいいと思います。
 
それなら、似た例:
 
原稿291枚、5行(新聞、4の12、40回、29行)(初刊 127頁、最終行)(新全集374頁10行)
 
まだ 分 ら なくつて
 
においては、漱石は、 分 だけを消し、そこへ、開か を追加しています。
 
そこで、新聞は、「まだ 開か ら なくつて」
 
としまして、初刊から、平成の新全集までが、これを踏襲しています。しかし、 「ら」 は余計で、 「まだ開かなくつて
 
でいいのではないでしょうか。
 
 
これに関連して、以下のような問題もあります。
 
原稿339枚、5行で、漱石は、
 
「よし子は 布団 を取つて來た。」(新聞、5の1、46回、24 - 25行)(初刊、151頁、1行)(新全集393頁11行)
 
と書いています。
 
次行で、漱石は、 「兄ですか。」 を消して、 「御敷きなさい」 と書く。
 
その次で、漱石は、また一文を消したあとへ、
 
三四郎は 布団 を敷いた。
 
と「布団」を繰り返し書きます。おそらくこの後でしょう。「よし子は 布団 を取つて來た。」の「布団」の前に漱石が「座」を加へたのは。
 
二つ目の「三四郎は 布団 を敷いた。」に「座」がないのは、漱石が見落としたのでしょうか。原稿用紙の物理的状況にも原因がありそうで、行間に書かれたこの一行は、左右の文が削除となり、「座」を書き入れるスペースがないのです。よし子が持ってきたのは明らかに「布団」ではなく「座布団」ですから、ここは、
 
三四郎は 布団 を敷いた。
 
と校訂するのが漱石の意図にかなう処理になります。英語では、こういうのを emendation と言います。しかし旧来の版同様、岩波の新全集もこの程度が理解できず、「三四郎は布団を敷いた。」 のままになっている。(393頁13行)
 
 
(2)自筆原稿の誤読
 
(この種のミスは、精巧な複製・コピーを使用できるようになった現代の岩波のスタッフには釈明が許されないものです。上にも触れましたが、昔、小宮豐隆が指揮をとっていた大正13年や昭和10年版、個々の文献への知識やそれを読み取る能力は、店員の和田勇や長田幹雄のことですが、小宮に劣らなかったほどです。この編集現場の実力と一定の関連学問を修めた小宮の力が合わさって、昭和10年の決定版までがつくられていました。
 
まずは、筆跡解読力不足の問題です。漱石において、 と  は区別がつかないくらいに似ている場合があります。(上にあげた今野氏の『百年前の日本語』は、岩波新書から2012年に出たばかりで、その冒頭で、漱石の書いた 「」 の筆跡をくわしく分析しています。主に既成の復刻版が存在する『それから』を用いているのですが、以下の『三四郎』の新全集にあるような不備が『それから』にもあるかもしれないのに、それには触れていません。岩波書店から出る本には、とりわけ、同じ社の出版物への批判を避ける傾向がありますが、私など、英国で教育を受けた人間には考えられません。まさに逆だからです。身近にある出版物ほど、その問題点を的確に指摘しやすく、有益になることを日本の研究者のみなさん、なぜそう思わないのでしょうか。)
 
 
文脈からみても「取」であるのに 「背の低い相撲」 (新全集310頁7行)とした箇所
 
原稿109枚、6行。(新聞、3の1、15回59行)(初刊、48頁、7行)
 
この 「取」 は、同原稿4行の 「片つた」 の 取 とは筆跡が違い、9行の 何所 の 所 の方に似ています。しかし、たとえば、
 
原稿315枚3行(新聞4の15、43回、23行)(新全集384頁9行)  りながら
同  7行(同、28行)(新全集384頁11行)          籠をり巻いた
 
における 取 と完全に一致する筆記体です。
 
原稿422枚8行(新聞、6の2、42行)(初刊、188頁、7行)(新全集424頁12行)
 
いや、原稿料はるよ。れる丈る。
 
の3箇所においては、真ん中の「れる」以外は、「所」に似た筆跡です。
原稿、486枚、4行  引きつた  の 取 も 所 に見える筆跡。
 
新聞は、誤読し「所」としましたが、初刊本はこれを正し、岩波全集も長らく常識的判断から、「相撲」としていました。
 
ところが、平成の新全集(310頁、7行)が、この筆跡を理解できず、「所」と読み誤り、御丁寧にも、その校異表にまで注をいれています。
 
 
次は、自筆原稿を底本にしたという新全集ですが、実際には、いまだに旧来の全集に頼っていたことを暴露する不可解な例です。これは、新聞初出以降平成の新漱石全集まで続いており、私がここではじめて指摘するものです。
 
原稿310枚、1行、(新聞4の14、42回、59行)(初刊、137頁4行)(新全集382頁7行)で漱石は、
 
(原稿309枚末:実際参考)の爲め、〈削除:かういふ〉 事 を確かめて置く
 
と書いた後、〈かういふ〉 を消して、そのあとへ、
 
「この 此」 
 
と書き、そして、
 
「事 を」 の間へ、 「実」 を追加します。
 
この箇所、新漱石全集でも踏襲されて、正しくは
 
の爲め、事実を
 
としなければいけないのに、
 
の爲め、この事実を
 
と従来の版のままなのです。もちろん、ここの「この 此」における、「此」の筆跡は、
 
『三四郎』冒頭の自筆原稿、1枚、4行
 
此爺さんは
 
の 此 に完全に一致する 此 漱石の筆跡です。
 
漱石が、「此」を「この」とひらがなで書く事はないと思います。
 
「この 此」とあるのは、狭い欄外スペースなので、「この」は 漢字 此 のルビとして、漱石が書いたはずです。(活版印刷所でも、右行から組みますので、ルビの行を先に組みます。)
「此」へのルビの例は、原稿、491枚、最後の行 此時(このとき)、494枚、最後の
此上など、たくさんある。
 
平成の岩波全集になっても、なぜこの程度の理解ができないのか、不思議なほどです。
 
(なお、5回に似た例をあげています。)
 
 
 
(3)漱石自筆をそのまま生かすべきか否かの箇所、等。
 
はじめに、かんたんな問題を一点、新漱石全集の問題箇所です。
 
原稿308枚、(307枚末から続く)(新聞、4の14、37 - 38行。)(初刊、136頁、3行)(新全集381頁12行)
 
(さゝやい)。此時
 
における、「だ」です。原稿には、現物を確認しても、たしかに、「た」に濁点のようです。
 
新聞を含むすべての版がこれを「た」に訂正してきましたが、なんと、平成新全集だけが、原稿通り(忠実に?)「だ」にしているのですが、こんなことはあり得るのでしょうか。
 
 
次は、微妙な問題ですが。
 
原稿323枚、6行、の与次郎のことば:
 
かう云うなどうでせう。
 
今流に書けば、「こういうのはどうでしょう」、ですが、
 
新聞4の16、44回、40行、初刊143頁、9行、新全集387頁11行、いずれも原稿どおり、その他、仮名遣いを新しくした文庫本でも、「こういうなどうでしょう。」となっています。「な」を長くのばします。
 
それなら、次のものはどうでしょう。
 
原稿217枚、8行、新聞4の2、30回、19行、初刊94頁、12行、新全集347頁10行。漱石は、原稿で、
 
騒がしいよりは却つて
 
と書いた後、「い よ」の間に 「ふ」を書き込んでいます。そうすると、これは上の例に似て、「し」を長くのばして、
 
騒がし いふ(云ふ)よりは却つて
 
という読み方が可能になります。
 
しかし、新聞は、
 
騒がし い と いふよりは
 
として、「い と」を追加してしまいます。これが、初刊本から、平成の新全集まで踏襲されてしまっているのです。つまり、「い と」の追加は不要で、原稿どおりで充分です。
 
騒がし いふよりは却つて
 
 
(3回)
 
 今回お知らせする箇所は、『三四郎』の中でというよりも、いったん原稿を書いてそれを公にすれば、その後本文に手を入れることがほとんどない漱石によって、例外的に大きな(サブスタンティブな)手が加えられた、漱石新聞小説中唯一の箇所といってもいい重要なところです。
 
新聞には、自筆原稿のまま印刷されますが、これが、初刊本で、大きく変更されています。
 
新聞初出9の2(86回)49 - 58行(新全集511頁1 - 5行 ):
 
 「我々はさう云ふ方面へ掛けると、全然無學なんですが、そんな試験を遣つて見様と、始め何うして気が付いたものでせうな」
 「始め氣が付いたのは、何でも瑞典か何處かの學者ですが。あの彗星の尾が、太陽の方へ
引き付けられべき筈であるのに、出るたびに何時でも反對の方角に靡くのは変だと考へ出したのです。それから、もしや光の壓力で吹き飛ばされるんぢやなからうかと思ひ付いたのです」
 
初刊本、297頁、7 - 13行:
 
 「我々はさう云ふ方面へ掛けると、全然無學なんですが、始めは何うして気が付いたものでせうな」
 「理論上はマクスエル以來豫想されてゐたのですが、それをレベデフといふ人が始めて實驗で證明したのです。近頃あの彗星の尾が、太陽の方へ引き付けられべき筈であるのに、出るたびに何時でも反對の方角に靡くのは光の壓力で吹き飛ばされるんぢやなからうかと思ひ付いた人もある位です
 
 
私は、いろいろなところで、 「同じ作者の手入れ・改訂でも、それが数十年の時を経るなど作品の質を変えるもの (vertical revision) ではなく、初出から間もないもの (horizontal revision) であるならば、編者は、その芸術的意図か否かを判断しながらも、作者を尊重して、 「基本的には本文に取り入れるのが普通である」 と書いてきました。これは本文校訂の常識です。
 
しかしここは、そんな、文学的な表現のレベルを越えています。文学上好みの分かれる表現ということではなく、学問上正確を期すという理由ですから、漱石としても、新聞掲載後、他者(寺田寅彦)の教示を得て、初刊本出版時に、例外的に手を入れ修正を施しました。
 
新聞掲載後、初刊本で「訂正」できたわけですが、その結果、これ以降のすべての版が、この変更を受け入れてきました。当然なことでしで、これは、実質漱石自筆原稿の一部、ともみなせるからです。
 
然るに、平成の新漱石全集だけが、まことに愚かにも、当初の自筆原稿に書かれたままにしているのです。(簡単な校異表のみで、注解はない。注解者は、紅野謙介と吉田) ここだけは、漱石の名誉のためにも(漱石の自筆原稿に基づくとうたう新全集ならばなおさら)、決してそうしてはいけないところでした。私が、この新全集を「史上最悪の漱石全集」といった理由の一つには、この点の非常識さにもあります。
 
 
(4回)
 
 以下、気が付いた細かい点を何点かもうしあげますが、その前に1点。
 
新聞8の9冒頭(83回)冒頭1行(初刊本、283頁、9行)(新全集500頁3行):
 
美禰子も三四郎も等しく顔を向け直した。
 
原稿冒頭(624枚1行)には、漱石自筆のようですが、「一字サゲニセズ」と注記されています。
 
『三四郎』の原稿には、時々おもしろい書込があって、新聞3の12、(26回)30行にも、本文として印刷されていますが、まるで芝居台本のト書きのような、( )付で、
(片手に握り(ハンドル)を把つた儘)
というのがありますが、どの注解本をみても(新全集337頁14行)、これに注目したものはないようです。
 
 
今回の、「一字サゲニセズ」については、新聞がその通り、一字サゲにせず、で印刷していますが、初刊本以降は、ある意味自然に、一字を下げています。しかし、平成の新全集では、原稿の指示に従い、新聞と同じく、一字さげにはせず、(500頁)、御丁寧にも、注解(671頁)にはその部分の自筆原稿の写真までをいれてあります。
 
この点でも私は、新全集の注解者(紅野謙介 吉田凞生)に首をかしげるのですが、注解でそうした原稿の「書込」を写真でわざわざ示すのなら、なぜ、(漱石が)そうした「一字サゲニセズ」と注記したかを、注解者なりに説明しないのでしょうか。これも、この全集特有の逃げの一手の好例になるようで、他にはたとえば、ルビの問題、『坊っちゃん』の「バツタだらうが足踏だらうが」で、従来の 雪駄 の代りに 原稿通り 足踏 とするなら、ではどう読むのか、真面目 の目の脱字の可能性もあり得るのに、高木文雄氏の校訂本を無断借用して、原稿通り 真面 とした箇所など、ではどう読むのか、このあたり、この全集は逃げるのに熱心です。(注)

(注) 「逃げる」といえば、この全集でも特に驚くべき例の一つとして、この『坊っちゃん』における高浜虚子の越権行為と言える書き込みまでを、「虚子に擬せられる第三者が原稿に加筆訂正をしている、との研究も発表されている。・・・しかし、今回の本文を作成する上ではすべて現状を最終の原稿形態とみなし、訂正などの筆跡に関しては、これを考慮しないことにする」(486頁)とする「便宜主義」がある。(私の元学生、渡部江里子の論文 http://www008.upp.so-net.ne.jp/hybiblio/2_10.htm その他の研究がある。この問題は、その後、朝日新聞で大きく報じられた。2000年7月20日朝刊社会面。ツイッター 2015 1 10
https://twitter.com/sousekitokomiya   その他、
 http://www008.upp.so-net.ne.jp/hybiblio/2_08.htm
 校訂者の良心と責任において、最低でも、校異表の中へ、この書入部分を区分し示す必要があった。どれほど自信がなくても、他の研究者の区分と相違しても、それはそれで構はない。にもかかわらず、あろうことか、注解者の相原和邦までがそれに追随して、「『坊っちゃん』は、虚子が文章家の先輩としてはかなり手を加えた『吾輩は猫である』第一章のケースとは、事情が違う。とはいえ、この手直しによって全体として、文学的価値が付加されていることは否定出来ない。」(月報 16頁)等と、編集部へごまをすっているのである。研究者としての誇りはどこへ行ったのだろう。相原は、私が1990年の『夏目漱石事典』(學燈社)で初めて指摘した、「帰す」「返す」の書き分けについても、当然のように、先行研究として言及することなどしない。 

(参照)http://www008.upp.so-net.ne.jp/hybiblio/3_05.htm
書評:「図書新聞」(1999年8月7日)
高木文雄校注『六書校合 定本「坊つちやん」』(朝日書林)
 
「合作」とは何か――自筆原稿を底本にするということ


 
 
ここの「一字サゲニセズ」は、常識的には、おそらくこういうことでしょう。つまり、
 
前回、美禰子と三四郎は、とつぜん、大きな声を掛けられました。(軽快に筆を進めていた漱石は、)本来なら続けて書きたいところで、段落も改めたくないところで、しかし枚数が限界に達してしまったので、已むを得ず回を改めて、思わずこうした注記を入れた。漱石は、おそらく、この2回、連続して執筆したのでしょう。
 
私のこの説明があたっているかどうかはともかくとして、注解者たるもの、写真を載せるだけでなく一言説明があって然る可きです。私が関係する国内の英文学の注解書にも、学生時代ですが、肝心なむつかしい所には注解がなくて、どうでもいいところにはくわしい注がある、という不思議な現象を多々見つけました。
 
 
以下、欄外記入で、私提供の自筆原稿コピーでは見えないところ。
 
10の3(96回)、60行、初刊本、335、14行
 
憚りなき精神を溺れしめた。
 
は、コピーでは見づらいですが、黒いわくの中に記入されています。
 
 
10の4(97回)、69行、初刊本、340頁、1行
 
何うもならないのさ。
 
も黒い枠の中に記入されています。
 
 
次の例は、10の7(100回)、24 - 26行、初刊本348頁、11行
 
自筆原稿では、このあたり、削除、追加の多い箇所ですが、原稿右肩には、819の数字があります。御手元へ届けたコピーではわかりませんが、黒枠の外に
 
忽ち強烈な個性的の刺激〈削除:を受けた〉が三四郎の心を襲つ(追加:て來)た。
 
とあり、新聞以降は、
 
忽ち強烈な個性的の刺激が三四郎の心を襲つて來た。
 
となります。
 
 
(5回)
 
(1)
 新聞12の1(110回)70 -71 行、初刊本、387頁12 - 13行、新全集584頁5行。
 
ここが、自筆原稿では、12の1の7枚目(右肩に905とある)8行で
 
何とかいふ云ふ独乙人の
 
と書かれています。新聞も初刊本も、「いふ」を削除して(云 にはルビ)。
 
何とか云ふ独乙人の
 
となります。これは、2回(2)で指摘した
 
「この 此」 の扱われ方と逆になっています。前の箇所、新漱石全集までのすべてが、
 
の爲め、この事実を
 
として「此」を無視しておりました。
 
 
(2)
新聞12の2(111回)41行。初刊本390頁、5行は、
自筆原稿の12の2の4枚目、7行、に従い、
 
称武天皇
 
となっていましたが、岩波の最初の全集(大正6)では、「聖武」となり、平成の全集では、注解の676頁に、その説明があります。この注解(紅野謙介 吉田凞生)では、初出紙、単行本とも「称武」である、と新全集に記されています。しかし、私が監修した新聞小説復刻全集(ゆまに書房)の、東京版・大阪版対校表、にあるとおり、初出の新聞でも、大阪版の方では、「聖武」となっていました。
 
 
(3)
新聞12の5(114回)48行。初刊本、401頁、12行、新全集595頁11行。
 
斷(ことわ)つちまつた。
 
とあります。新聞では、全角、斷 の中にルビ3字がはいっていますので、これはルビ付き活字を使用したようです。初刊本では、同じ本文ですが、ルビ付き活字ではありません。
 
しかし自筆原稿(12の5の5枚目)、5行では、この部分、ルビなしで、
 
斷わちまつた
 
と書かれています。漱石の執筆癖から、これはこれなりに正しく、わ の後へ促音 つ をいれなくてもいいと思います。しかし新聞は、「ことわ」のルビが付いた活字を使ったために、落ち着きがわるいと考えたのか、上のように「つ」を加へたのでしょう。
 
平成の岩波全集では、校異表にこの点を記録しながら、なお、
 
断わつちまつた。
 
として、「つ」を入れています。解せません。
 
(4)
最後の13章の117回は、1日分だけですが、新聞には、「十三(完結)」と入っています。初刊本以降には、(完結)は入っていません。
 
自筆原稿では、「十三(第百十七回)」とのみあります。この(完結)は、7枚中最後の原稿用紙に本文最後の2行が書かれたあと、4行目にあります。(完結)は、鉛筆書き。漱石の自筆かどうかはわかりませんが、新全集の注解も校異表もこの点に触れていません。何故でしょうか。
 
 
 
(6回)
 
 『三四郎』を「再掲載」するという朝日新聞12月8日には、5の2(47回)が掲載され、最後に添付の解説には、以下の様にありました:
 
朝日新聞は、東京や大阪など地域によって紙面が異なります。106年前は小説も東京と大阪で異なっていました。「三四郎」の掲載は東京では3面または5面でしたが、大阪は1面の下段。東京の1面は、記事ではなくすべて広告でした。大阪の「三四郎」には名取春仙の挿絵がありませんが、連載の末尾に、西洋の名言やことわざを一つ紹介していました。「法律は有力なり必要は更に一層有力なり」(ゲーテ)、「言葉は取返し得るも命は決して取返されず」(シラー)などで、それぞれドイツ語の原文がついています。(中村真理子)
 
「紙面が異なり」とはどういう意味でしょうか。朝日新聞の立場としては、何面に載せるということの方が本文の違いよりも大事だったのですか(今回の東京版の連載ですら、日によってページが変わっていますが)。もっと大事で、今の読者に知らせるべきなのは、挿絵の有無と共に、当時の朝日は、掲載される全地域で、本文が異なっていた(活字の組み直し)、ということではないでしょうか。(岩波文庫本を本文に使って平然とされているようでは、当時の本文の違いなど、どうでもよかったのでしょうね)。
 
 
おわりに
 
 私は、1980年頃から、英国大手出版社からの出版をめざし16世紀英国詩人、エドマンド・スペンサーの抜本的な編纂・校訂に取り組んでいたが(注)、日本では、勤務先のある高名な国文学者からお勧めがあって、漱石について本文研究を始め、1986年にその第一号を出したのがそもそもであった。この論文は、それまでに存在していなかった専門的視点から書かれていたために、上の方のお力で漱石研究学界へ瞬く間に広まり、それを読んだ岩波書店が、にわか勉強を始め、インスタントな校訂方針を立てた、というのが「平成版新漱石全集誕生秘話」に近いと推察される。それまでの岩波編集者やごく少数の取り巻き学者にどれほど漱石一般の知識が豊富であっても、編纂・校訂の基礎的な勉強もしないままでは、21世紀に適う「漱石全集」など出来るはずもなかった。しかし、彼等は聞く耳持たずで、「・・・蛇に怖じず」の諺どおりのことをやってしまった。(なお、以下、自筆原稿の問題箇所の写真を一一添付できないので、是非にと思われる方は、当方:daytoday@js3.so-net.ne.jp までお申し込みください。無料でご便宜をはかります。但し、学術用途、お名前、所属等をはっきりされた方に限ります。)


(注)
参照: The Faerie Queene 編纂記――地に足を着けた英文学研究のために――
『英語青年』(2002年3月号)掲載文の校了本文
http://www008.upp.so-net.ne.jp/hybiblio/1_12.htm


(追加)

この小文は、「第二次刊行」(2003)には関わっていない。それが上の内容をどの程度直しているのか、私は知らない。そっと直しているなら、その点をどこかへ具体的に明記するのが、「第一次」を買った者への親切というものであろう。このあたりでも、学術出版社・岩波書店の良心度はチェックできる。


(予告)

岩波書店は、2016年末に決定版(?)を出すとか。驚いています。私の手元には、現在の同社関係者には存在が知られていない重要資料の一つがあります。平成版では使われていません。それが具体的に何かということは、今現在分析中ですので明らかに出来ませんが、とりあえずの概要だけはなるべく早く、今年春か夏頃までには公表する予定です。

2016年6月30日追記。
昨年からプロデュースに関わっているエドマンド・スペンサーの大型企画の出版が遅れているため、「予告」の仕事に取り組むのは大幅に遅れます。

このブログをご覧のみなさまへお知らせです。
 
 これまで、ライブドアブログ(5箇所へ分割)へ漱石関連の文をだいぶ書き、主なものは、私のホームページへも転載してあります。
 
http://www008.upp.so-net.ne.jp/hybiblio/index.html
 
 掲載は長期的になりそうです。ウエッブに掲載の未公開資料は、その骨格を示しただけで、全体からするとまだごく一部にすぎません。

 一点物資料である関係上、資料をじかにみたい、存在をたしかめたい、というご要望が寄せられるようになってきました。(諸事情で写真の掲載は見合わせています。) そこで、研究目的や関心の向きをお寄せいただければ、そうした方々のご要望になるべくそって、個人的にでも資料ご閲覧の機会を設けることを考えています。
 
 漱石に関して、新しい研究テーマを見つけたい、漱石を、書誌学・本文研究、あるいは、もっと広い視点から研究をやってみたい、といった真摯な方々を中心に、できるだけ広くご便宜をはかりたいと思います。
 
私のメールアドレスは、
 
daytoday@js3.so-net.ne.jp
 
お気軽に何でもお問い合わせください。
 
山下浩

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