間違っている、というよりも、日本の近代文学に関わる国語教科書編集のいい加減さ、大まかさ、それは、岩波を代表とする文学全集の編纂のたちおくれ、に関係することであるが、以下に2点、2作品の実態をあげておく。

森鴎外『舞姫』はその処女作として、明治23年、雑誌「国民之友」に発表された。これは常識である。ところが、教科書には、その初出の本文は載らず、鴎外がその後の版で4、5回、実に26年間にわたって、大幅に手を加え続けて変更した、大正4年の『塵泥』(ちりひじ)収録の本文を載せている。理由は簡単、岩波の編集者が、機械的に、「作者生前、あるいは手を入れた最後の版」を全集の「底本」にしてしまっているからである。

明治23年の初出は、やや読みにくいが、詩情あふれる、はるかな名文である。『舞姫』は、鴎外が手を加えるほど不味くなって行く。

という以上に、鴎外の長期にわたる改変目的は、社会的に枢要になりつつある自分の立場をおもんばかって、書きすぎてしまった事実を薄めて行く過程と言える。文学にはほど遠い不純な動機である。

芥川龍之介の処女作『羅生門』にも似たことが言える。

『羅生門』が初めて発表されたのは、大正4年、雑誌「帝國文学」においてであった。文学史の年表でもそうなっており、岩波の全集では、1巻の冒頭に置かれている。教科書は、岩波版をそのまま転載している。

ところが、芥川は、いったん発表したものには決して手を加えない、文学研究のプロであり恩師である漱石には習わず、素人の鴎外の悪癖に習って、いったん発表したものをいじり続けた。教科書に掲載されている本文は、初出発表から3年後、漱石の激賞を得た『鼻』を冠して出版した、第二短編集「鼻」に収録の際に改定されたものであった。

短編最後の印象的な

下人の行方は、誰も知らない。

は、この第二短編集において初めて読者の目に触れたのである。

以上の2作品の詳細は私のホームページに掲載の拙著:『本文の生態学ーー漱石、鴎外、芥川』PDF版をご覧ください。コンテンツ3 To Internet Disk の中にあります。

Bibliographical and Textual Studies of Edmund Spenser and Natsume Soseki

#鴎外 #芥川龍之介  #漱石 #舞姫 #羅生門 #sousekitokomiya #変えよう

以下、『舞姫』の自筆原稿と明治23年初出冒頭の写真

このレビュー:
石井美樹子『真訳 シェイクスピア四大悲劇』(河出書房新社)
は、元々アマゾンに載せたものです。アマゾンでは、河合氏の実名はあげていません。単に「おそらくK氏」とのみしていました。
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「従来のシェイクスピア翻訳に踏襲されてきた難解な語句の誤訳を、OEDオンライン版をフル活用して是正に努めた労作」:
 


 フェステという方から(おそらく東大教授、河合祥一郎氏)新しい『誤解があります』という見出しのレビュー(星3) がありました。「黙っていたら認めたことになるから」という少々言い訳がましい内容なので、大事な観点を追加記述しておきます。

 角川文庫の『新訳ハムレット』は氏がまだお若い20年も前のお仕事ですので、古典の「翻訳・翻訳者とは何か」という基本をまだしっかりとは理解しておられなかったのでしょう。今の私はシェイクスピアにはとんとご無沙汰していますが、若い時には『ハムレット』1604と1623の精巧なパラレルテキストをつくるほどこの戯曲の本文を細かく調べた人間ですので、僭越ながらフェステ氏へものの考え方、学問とは何か、を少々ご教示します。ついでに、この資料は、ある時期に石井美樹子氏へ差し上げましたので、ご興味があれば、氏からお借りください。

 さて、レビュー中に、「本書を読むと、...... これは既訳を侮辱するものに感じられます」とありますが、これはそっくりフェステ氏へお返しした方がいいようです。「訳者あとがき」をみると、その特徴として、「2)日本で初めてフォリオ版(ヒンマンのファクシミリ)を底本とした『ハムレット』の翻訳である」、とあります。しかしこれは実際問題不可、少なくともミスリーディングで失礼ながら氏の「不勉強」を物語ります。フォリオの原文には、Q2との大きな違い以外に無数と言つてもいい誤植や不備が存在します。ですからこれを直接「翻訳底本」には出來ないのです。そもそも、フォリオの本文は、現代の我々が読者として直接読む本文 reading text ではありません。それをつくるための「資料」の一つなのです。reading text すなわち「校訂本」はまさにシェイクスピアの編纂史が物語るように、世代単位で作り直されます。氏は、「実際、オックスフォード版のG. R. ヒバードは、Fに基づいた『ハムレット』を編纂している」と書かれています。

 それならフェステ氏は、なぜ氏の「校訂本」(未公刊でも可)をまずは定めなかったのか。日本では、大山俊一氏のように、旺文社文庫の『ハムレット』翻訳に際して、自らの校訂注解本を出版している。斎藤勇氏の『リア王』も似た例である。

 フェステ氏のレビューは、いまだに氏がシェイクスピア学の奥深さを理解していないことをさらしてしまった、という意味で、ご自身の弁護にはならないどころか、逆効果です。第3代アーデン版で、Ann Thompson が、Q2に基づく校訂本を出すのにどれほど気をつかい、それを正当化するために、”Appendix 2” (pp. 474-532) においてなぜこれほどに長い説明をしたのか、フェステ氏は、Thompson 氏に深く学ぶ必要があります。といっても氏の力量では大変です。並みの日本人翻訳者なら、謙虚に英米学者による既成の校訂本の中から、自分の好みに合う校訂本を選んで、翻訳底本にするのがまともな姿勢でしょう。

 最後に私のことを少々申し上げておきます。私は、英文学の代表作、具体的には E. スペンサーのFQ ロングマン版本文を2001年に作り上げました。この本文は、それまで長く定本であったスミス版に取って代わる、抜本的に新しい書誌学研究に拠るものです。20年以上を要しましたが、英語圏以外の学者がこの規模の仕事をするのは例外的です。

 石井美樹子氏の翻訳と指摘は、大枠正しく、シェイクスピア学会はこれをしっかりと受け止めるべきでしょう。

……………………….

新訳でなく真訳とするところに、シェイクスピア飜訳に挑んだ石井美樹子氏の覚悟がみてとれる。本書は真の学問が妥協を許さない真剣勝負であることを改めて教える。その一端を、以下、『ハムレット』を例に紹介してみたい。

 『ハムレット』は、本文確定の面からも最も複雑で難解。大きく3種の原典があって、上演時の台詞の剽窃とされてきたQ1(1603)、それに対抗しシェイクスピアの清書前自筆原稿から印刷されたQ2(1604-5)、さらに全集F1(1623)の本文。ドーバー・ウィルソン(1934)以降、ほとんどの版が、F1でなくQ2を底本に、F1とQ1も参照する折衷本文になってきたが、今回の飜訳底本である3代目アーデン版(2006)は、思いきって、Q2オンリーをベースにした校訂本となり、読点の少なさを含むシェイクスピアの自筆原稿の特徴を垣間見られる本文になっている。

 石井訳はこの版の初邦訳であるが、飜訳底本の本文に忠実に、歴代無数の『ハムレット』訳が誤訳し逃げてきた難解な箇所を、シンプルで明快な日本語に訳すことに成功している。
 本書の見開き左ページには、語句の注解がぎっしりとならび、その多くは、OEDを丹念に辿った成果であるが、原文までを引用しての丁寧さである。ちなみに本書では、OEDに引用された語彙、『ハムレット』では1604語、『リア王』1050語、『オセロ』983語、『マクベス』1027語のすべてがオンライン版で検証されている。従つて本書は、そのアカデミックな注解を通して、一般読者の気軽な読書からシェイクスピア専攻で英語原文を読む大学院生や研究者に至るまでに、幅広く迎えられていい。一例を挙げる。

 本書、50頁下末、「ハムレット:風が北北西に向かって吹くときに、気が狂うのだ」。原文:I am but mad north-north-west (II.ii.315)でアーデン版の注も曖昧なところ、石井は、注20で明快にOEDの釈義「north-north-west = in a north-north-west direction 」を提示して、従来の邦訳の「北北西の風が吹く」、「北北西から風が吹く」等のすべてが逆さまの誤訳であると指摘。さらに、石井は、シェイクスピアの所属する「地球座」から見て、セント・ポール大聖堂は北北西にあたり、そこに向つて風が吹くと、気が狂う、という意味だ、当時、セント・ポール大聖堂付き少年劇団が人気を博していた(そこにシェイクスピアが大嫌いな劇作家が台本を提供していた)、と解説する。

 石井は、本書の冒頭「はじめに 飜訳の罪深さ」において、「誤訳・誤読は踏襲され、反復され、累積されている。難解な箇所は曖昧な表現に逃げ込むきらいがあり、エリザベス朝の社会が生んだ笑いを、ことさら日本語の駄洒落や言葉遊びに転化する傾向が常套化されるのは嘆かわしいかぎりだ」と述べる。石井以外の訳者の誰にそう言える資格があるか。

シェイクスピアの英語原文が読める読者は、従来の訳書(できれば)数点、石井訳、それに英語版(できれば石井使用のアーデン版)を揃えて、この3者をできるだけ多くのページ、1行、1語、単位で比較していってほしい。石井訳の見開き左には、詳細な註解があるので、これを参考に、従来訳と石井訳を比べてほしい。翻訳とは、当然ながら、先ずは単語1語1語の意味を知り、それによって構成された1文1文を訳していく作業である。

従来の翻訳で、この基礎作業がちゃんとできているか。少しでも曖昧な語が出てくれば、OEDにあたって原義までの確認ができているか。先行他訳に安易に頼っている訳書はないか。それによって、誤訳の連鎖は起きていないか。

こうすることによって、従来の翻訳の実態が明るみになるはずである。

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『マクベス』の翻訳に関して。
最も有名な箇所の一つです。引用はRiverside V v 17 - 27:

She should have died hereafter;

There would have been a time for such a word.

To-morrow, and to-morrow, and to-morrow,
Creeps in this petty pace from day to day,
To the last syllable of recorded time;
And all our yesterdays have lighted fools
The way to dusty death. Out, out, brief candle!
Life's but a walking shadow, a poor player,
That struts and frets his hour upon the stage,
And then is heard no more. It is a tale
Told by an idiot, full of sound and fury,
Signifying nothing.

私が気にかかるのは、この引用1行目の訳です。She should have died hereafter. 前に石井美樹子訳『真訳 シェイクスピア 四大悲劇』を紹介して、OEDに完璧に当たる大切さを述べたが、ここはOEDとは関係ない。訳者のセンスの問題です。

敵に攻められて城内が大混乱の中、マクベスは召使いから夫人の死を知らされての第一声です。そのあと、有名なTo-morrow へつなぐ大事なセリフです。夫人が医者にかかっていることは知ってはいたマクベスですが、彼が思わず発する台詞には、「ええ、なんでこんなときに」が強く込められるに決まっています。

ここの訳、新しい訳本は石井版だけで角川版も松岡版も持っていないので、古い筑摩の訳を見ると、「そうか。いつかは死ぬはずであった。」さらにたまたま古書店にあった新潮文庫訳をちらっと見ると、「あれもいつかは死ななければならなかったのだ」となっていてびっくり。これなら受験の英文和訳レベルでしょう。

そこで石井訳を見ると、さすがに、「こんなときに、死ななくとも。」となっていた。これなら、She should have died hereafter の訳として通ると思います。

ここのマクベスの独白の翻訳、石井訳と従来訳とをじっくり比べてみるといい。

When I as textual editor edited and published Edmund Spenser’s The Faerie Queene, an old spelling edition, in 2001 for the “Longman Annotated English Poets” Series (Pearson Education, later Routledge in 2013), I wrote as follows:

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Recently some scholars emphasize that Shakespeare’s play-text is not more than a skeleton or a score for several lost voices and that even if we could remove the scribal and compositorial interference from the extant quarto and folio texts and arrive at a script whose spelling and punctuation were entirely Shakespeare’s, those authentic signals might tell us little about how the play was performed on the actual stage. Their arguments for modernized spellings of Shakespeare’s text have become particularly prominent. They consider alterations for the sake of readability more important than holding on to unmodernized texts and criticize those who do not accept modernization, saying that all editions, including unmodernized ones, are time-bound and reflect the concerns and attitudes of the age in which they were produced.

To them I responded thus.

First, even if the published writings which command our attention were products of collaborative efforts, is it not a legitimate pursuit to probe into the particular mind that initiated the work? We may want to know exactly what such an initiating mind contributed to the efforts. It is by no means unimportant to attempt to establish what Shakespeare actually thought and wrote by himself.

Second, the knowledge of the fact that “all editions are time-bound” does not or should not prevent scholars from explorations of textual documents in the past. One who is engaged in historical scholarship can attempt, through an informed imaginative effort, to penetrate into the thinking of another time, even though he or she knows that the result can never be complete and that the endeavor will have to be reattempted by others in the future. Yet, it does not follow that such efforts at historical reconstruction of the lost original are a waste of time.

On the other hand, it may be said that modernized texts, like some kinds of critical essays, are attempts at elucidation, which may be more or less helpful to the readers of a given time. However, those readers who are interested in a work as testimony from the past must be careful and use the best results available that historical scholarship has achieved in the imaginative reconstruction or recovery of particular texts and versions of that work.

Edmund Spenser was not a playwright, nor were his works plays.His Faerie Queene and other poems were written and completed by himself to be read by his contemporaries. Is it not important, in this case, to strip away the interference of the compositors and the printing process and try to know what was actually written in his manuscript? Do the authentic signals which may appear as a result of such investigation not help us discover how Spenser wrote and thought, and is it not an essential activity for understanding Spenser and The Faerie Queene?

I answered “Yes” to these questions and so edited the old spelling text.

For details of my studies, see my home page:

Bibliographical and Textual Studies of Edmund Spenser and Natsume Soseki

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