私は、このブログの別の箇所で、「森田草平などは、いつも勘違いして、多くの漱石俗説の発信源になりました。漱石の用字を無方針のでたらめ、などと広めたのも森田です。」と書きました。(朝日新聞「再掲載」の『三四郎』――小宮豊隆は「漱石神社の神主」か)
 
 その脚注にある拙著『本文の生態学』の5ページ「漱石的表現」の前半部分は、大学入試(現代文)の問題に使われるほどに、漱石研究者の多くに繰り返し読んでいただいた箇所です。冒頭で私は、以下のように書きました。
 
 漱石はいわゆる「当て字」を多用したが、それは彼が用字にいい加減であったためではない。日本が近代化するための困難なはざまの時期に生き、極度な苦闘を強いられた作家としては、既成の用字にとらわれることなく、そこを越えたところで考え、そのおもむくままに純粋に筆を走らせ表現する必要を感じていたのである。
 
 
 漱石の英語読解・表現能力は、悔しながら、英語を専門にしてはるかに長く生きている私よりも上であることを実感するが、他方、漢字・漢文の表現能力においても、正岡子規を驚愕させる「黒人」はだしのものがあった。そうした人間が書く文に、そもそも「無方針のでたらめ」などあるはずがないのである。
 
 
 今回、朝日新聞は、自社の新聞に掲載された本文を現代化する手続き放棄し、安易に岩波文庫を使ってしまったが、それは漱石が用字へ託した苦闘を抹殺することに他ならない。私の本など、類書としては多く売れた方だが、それでも一万部程度である。他方朝日は、数百万の読者を抱えている大新聞である。今回の「再掲載」は、漱石の根幹をなす用字の真実を国民一般の前に広く伝える千載一遇のチャンスであったろう。
 
 私は、何も、難解な漢字をすべて新聞にそのまま載せろなどとは言っていない。「小供」のように、一部の漱石的な用字が岩波文庫に残り、それが今回の朝日のリプリントに伝わっているのもあるが、「小供」と同様に平易な漢字を使った漱石の創造力の賜である「当て字」の多数が、元の新聞やそれを底本にして印刷・發行された初刊本までに生き続けながら(つまり同時代の読者に受け入れられながらも)、今回無残にも抹殺されたと言っているのである。
 
 岩波文庫自体は、一出版社の一般読者向け読本として、漱石本文をどう変えようが、それはそれで勝手だとは言える。しかし、その本文を今回の朝日が、「再掲載」にあたってそのままリプリントするということとは、どだい意味が違う。
 
ひとつ例をあげよう。『三四郎』74回(七の六)の、私の復刻版全集(注)なら、51行。真ん中頃の、「三四郎は傍に居て」に始まる段落の数行先に、
 
例々しく
 
というのが、新聞に出てくる。むろん、自筆原稿にそう書かれていて、初刊本(252ページ、2行)も同じ。ところが、大正6年の最初の漱石全集(編集の中心は森田草平)で、「麗々」に改竄されてしまい、そのまま、現在の文庫本にも続いている。(平成の新漱石全集だけはやっと元に戻された。)

 「例々」は、拙著にもあるように、「小供」同様に『坊っちゃん』等にも出て來る漱石特有の用字である。意味は、「麗々」と「いろいろ、さまざま」が合わさったものであろう。それが、「麗々」に矮小化されてしまい、その麗々が、出典は漱石として、いろいろな国語事典に出て来るのである。なんとも罪作りな話である。


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注: 山下浩監修『漱石新聞小説復刻全集』(ゆまに書房、1999)の第3巻『三四郎』 

参照1: 借金は「帰」さない? 漱石の誤字に隠れた意図  2013/10/30 6:30
      ニュースソース  日本経済新聞 電子版
http://www.nikkei.com/news/print-article/?R_FLG=0&bf=0&ng=DGXNASDB24004_U3A021C1000000&uah=DF130920114252


参照2: なお、私が、「返す」・「帰す」など漱石のユニークな用字を初めて指摘したのは、『夏目漱石事典』、學燈社、1990年中の論文「本文批判の問題」においてです。


参照3:  『本文の生態学』については、全ページを私のホームページhttps://www.hiroshiyamashita.com/ に pdf 版で掲載してあります。 http://pub.idisk-just.com/fview/1ZUB8cPQl0buJl1aBiYMbHjNHmIn7lipZnmuNa4bV3UZI25WRt_rOY7v8hOPXL4eeHMU6hvGuMfsrqW_2JgjSXrtnHiS1hnhPEh7NyXwckDoeB9RWo6AulxAUKOz0EXx/44CM5pys5paH44Gu55Sf5oWL5a2m4oCV4oCV5ryx55-z44O76bSO5aSW44O76Iql5bed44CN.pdf


参照4: 佐藤栄作氏の論文
https://dspace.wul.waseda.ac.jp/dspace/bitstream/2065/31324/1/WasedaNihongoKenkyu_14_Sato.pdf#search='%E9%BA%97%E3%80%85+%E4%BE%8B%E3%80%85'


参照5:  寺田寅彦の俳句「栗(くり)一粒秋三界を蔵しけり」の誤植(「天声人語」から)
https://www.hiroshiyamashita.com/5_02.htm