『歴史群像』(学研)2010年12月号
に書かせていただいた「戦史の名画をよむ」、第25回はエドゥアール・マネ『マクシミリアンの処刑』。
メキシコ近代史の学説史や個別研究について何かを言える資格はわたしにはないので、今回の本文前半ではマクシミリアーノ帝政終焉までの通史を紹介したのみだが、利用させていただいた二次文献の中でもっとも啓発的だったのがエンリケ・クラウセ『メキシコの百年 1810~1910 権力者の列伝』
だった。
クラウセはメキシコの文芸誌Letras Libres(自由の詩)の編集長を務める歴史ジャーナリスト。本書は学術書ではなく一般向けの歴史評論で、独立から一世紀間のメキシコの政治史を傑出した指導者たち(カウディーリョ)の伝記の集成を通じて評価しようとする試みである。
本書には社会経済史的なアプローチはほぼ皆無だが、そのことは歴史評論としての欠点にはなっていない。メキシコ国家の危機や分裂に対して指導者たちが取った態度は、彼らの資質やその時々の地位のみならず、教養や属する社会集団の性格をも前提として説明されており、それによって伝記が歴史叙述へと結び付けられているのである(もっともクラウセが言うように、メキシコ独立以後の一世紀間を叙述するのにもっともふさわしい方法が本書のような「英雄の物語」であるか否かは、もちろんまた別の問題だが、これについてはできれば後でまた触れたい)。
ヨーロッパ史のコンテキストから本書を読んで興味深かったのは「独立」と「近代化」をめぐるメキシコの思想史的な状況である。
メキシコ独立闘争に初めて理論を持ち込んだのはホセ・マリア・モレーロス・イ・パボン司祭であるが、彼の思想的なバックボーンは啓蒙主義ではなくカトリックの学問体系であったというクラウセの説明には驚かされた。カトリックの学問とはすなわちトマス主義(スコラ学)である。なるほどスキナーが『近代政治思想の基礎』
で概括しているように、圧政に対する人民の自由と抵抗の権利の思想は、何もロックとモンテスキューにおいて突如として現れたのではなく、その直接の起源は16世紀のトマス主義に求められる。
16世紀のカトリック教会は、強力な国制思想で理論武装した二つの手ごわい敵--宗教を異にする君主に対する人民の抵抗権を認めるプロテスタンティズムと、国内の教会に対する君主の至上権を主張する絶対主義--との激しい精神的な両面戦争を繰り広げており、トレント公会議の後、いわゆる反宗教改革の一環として自らもまた理論武装することを避けられなかった。
ところがスキナーによれば、このカトリシズムの新しい思潮は必ずしも異端と俗権(さらに加えるならば公会議主義)に対する教皇権至上主義(ウルトラモンタニズム)を補強するものではなく、ややもすればその反対へ傾きがちであった。当時のヨーロッパの最高の知性の集まりであるトマス主義の学者たち、中でもとりわけ唯名論の系譜に属する人々は、理想の(つまり想像の)法源としての自然法と、現実世界の法律である実定法との間に必然的に生じる相違や矛盾を説明する方法を研究するうちに、実定法における君主権に対する人民の抵抗権は自然法にかなったものだとする結論へとたどり着いた。
それらの中で最急進の思想がイエズス会士フアン・デ・マリアナらの有名な暴君放伐論(モナルコマキ)で、これは実際にユグノー戦争期にアンリ3世と4世の生命を奪ったとされている。
メスティーソ(被支配身分=人種としての白人と先住民の混血)出身であるモレーロスのような下級聖職者が、社会問題に真摯な目を向けた時、まず真っ先に手の届くところにあった行動の手がかりが2世紀半前に生まれ、そして教えられ続けてきたトマス主義であったという説明には説得力がある。
敗北し囚われたモレーロスの書庫から、政府の異端審問官(これは宗教戦争でもあったのである)は啓蒙思想家の著作を一冊も見つけられなかったと言う。モレーロスを導いていたのは旧約聖書、トマス主義的なカトリック倫理学、そしてメキシコの民族信仰とも言える「グアダルーペの聖母」であり、これらから彼の平等と解放の思想が形成されたのだとクラウセは説明している。
しかしながら、モレーロスのトマス主義的闘争理論が彼に続く人々に継承されることはなかった。革命議会たるチルパンシンゴ議会(アナワック議会)の召集とメキシコ最初の独立憲法たるアパチンガン憲法の制定を二つのクライマックスとする独立闘争後半の経緯において、モレーロスは政治の表舞台で浮き上がり、急速に指導力を喪失してゆく。クラウセによれば、最後まで--死の瞬間まで--カトリックの司祭としての「使命」をあくまでも行動の規範としていたモレーロスの思想は、革命議会を構成するクリオーリョ(支配身分=人種としての白人)名望家層の議員たちのより「近代的な」考え方とは決して相容れなかったのである。
スペイン本国のカディス憲法(1812年憲法)を手本としたとされるアパチンガン憲法は、カトリックを国教に定めるなどスペイン帝国におけるきわめて強固なカトリシズムの伝統を反映して保守的な部分を多く含んでいるものの、しかしその具現化された政治思想の基調を成すのは、やはり近代ヨーロッパ及びアメリカ合衆国の啓蒙主義と自由主義であったと考えられている。
しかしこれは逆に言えば、バターをナイフで切るようにきっかり分離することができない、社会と文化の深層部でカトリシズムと融合しているスペイン固有の啓蒙・自由主義(いわゆる「カトリック啓蒙」)が、モレーロスの場合とはまた別の形でクリオーリョ層の行動をも規定していたということでもあろう。
1815年のモレーロスの敗死後も掃討戦は数年間続くが、信仰に導かれ人種・身分の平等を掲げる「下からの」革命は彼と共に潰えた。メキシコの政治権力はひとまずクリオーリョ名望家層の手に戻り、彼らが「上からの」革命に改めて手をつけることになるが、この新たな段階でも宗教の問題は緊要な争点として再び立ち現れてくる。
いったいカトリックは、教会は「近代」メキシコにとってどうあるべきなのか。
続く
メキシコ近代史の学説史や個別研究について何かを言える資格はわたしにはないので、今回の本文前半ではマクシミリアーノ帝政終焉までの通史を紹介したのみだが、利用させていただいた二次文献の中でもっとも啓発的だったのがエンリケ・クラウセ『メキシコの百年 1810~1910 権力者の列伝』
クラウセはメキシコの文芸誌Letras Libres(自由の詩)の編集長を務める歴史ジャーナリスト。本書は学術書ではなく一般向けの歴史評論で、独立から一世紀間のメキシコの政治史を傑出した指導者たち(カウディーリョ)の伝記の集成を通じて評価しようとする試みである。
本書には社会経済史的なアプローチはほぼ皆無だが、そのことは歴史評論としての欠点にはなっていない。メキシコ国家の危機や分裂に対して指導者たちが取った態度は、彼らの資質やその時々の地位のみならず、教養や属する社会集団の性格をも前提として説明されており、それによって伝記が歴史叙述へと結び付けられているのである(もっともクラウセが言うように、メキシコ独立以後の一世紀間を叙述するのにもっともふさわしい方法が本書のような「英雄の物語」であるか否かは、もちろんまた別の問題だが、これについてはできれば後でまた触れたい)。
ヨーロッパ史のコンテキストから本書を読んで興味深かったのは「独立」と「近代化」をめぐるメキシコの思想史的な状況である。
メキシコ独立闘争に初めて理論を持ち込んだのはホセ・マリア・モレーロス・イ・パボン司祭であるが、彼の思想的なバックボーンは啓蒙主義ではなくカトリックの学問体系であったというクラウセの説明には驚かされた。カトリックの学問とはすなわちトマス主義(スコラ学)である。なるほどスキナーが『近代政治思想の基礎』
16世紀のカトリック教会は、強力な国制思想で理論武装した二つの手ごわい敵--宗教を異にする君主に対する人民の抵抗権を認めるプロテスタンティズムと、国内の教会に対する君主の至上権を主張する絶対主義--との激しい精神的な両面戦争を繰り広げており、トレント公会議の後、いわゆる反宗教改革の一環として自らもまた理論武装することを避けられなかった。
ところがスキナーによれば、このカトリシズムの新しい思潮は必ずしも異端と俗権(さらに加えるならば公会議主義)に対する教皇権至上主義(ウルトラモンタニズム)を補強するものではなく、ややもすればその反対へ傾きがちであった。当時のヨーロッパの最高の知性の集まりであるトマス主義の学者たち、中でもとりわけ唯名論の系譜に属する人々は、理想の(つまり想像の)法源としての自然法と、現実世界の法律である実定法との間に必然的に生じる相違や矛盾を説明する方法を研究するうちに、実定法における君主権に対する人民の抵抗権は自然法にかなったものだとする結論へとたどり着いた。
それらの中で最急進の思想がイエズス会士フアン・デ・マリアナらの有名な暴君放伐論(モナルコマキ)で、これは実際にユグノー戦争期にアンリ3世と4世の生命を奪ったとされている。
メスティーソ(被支配身分=人種としての白人と先住民の混血)出身であるモレーロスのような下級聖職者が、社会問題に真摯な目を向けた時、まず真っ先に手の届くところにあった行動の手がかりが2世紀半前に生まれ、そして教えられ続けてきたトマス主義であったという説明には説得力がある。
敗北し囚われたモレーロスの書庫から、政府の異端審問官(これは宗教戦争でもあったのである)は啓蒙思想家の著作を一冊も見つけられなかったと言う。モレーロスを導いていたのは旧約聖書、トマス主義的なカトリック倫理学、そしてメキシコの民族信仰とも言える「グアダルーペの聖母」であり、これらから彼の平等と解放の思想が形成されたのだとクラウセは説明している。
しかしながら、モレーロスのトマス主義的闘争理論が彼に続く人々に継承されることはなかった。革命議会たるチルパンシンゴ議会(アナワック議会)の召集とメキシコ最初の独立憲法たるアパチンガン憲法の制定を二つのクライマックスとする独立闘争後半の経緯において、モレーロスは政治の表舞台で浮き上がり、急速に指導力を喪失してゆく。クラウセによれば、最後まで--死の瞬間まで--カトリックの司祭としての「使命」をあくまでも行動の規範としていたモレーロスの思想は、革命議会を構成するクリオーリョ(支配身分=人種としての白人)名望家層の議員たちのより「近代的な」考え方とは決して相容れなかったのである。
スペイン本国のカディス憲法(1812年憲法)を手本としたとされるアパチンガン憲法は、カトリックを国教に定めるなどスペイン帝国におけるきわめて強固なカトリシズムの伝統を反映して保守的な部分を多く含んでいるものの、しかしその具現化された政治思想の基調を成すのは、やはり近代ヨーロッパ及びアメリカ合衆国の啓蒙主義と自由主義であったと考えられている。
しかしこれは逆に言えば、バターをナイフで切るようにきっかり分離することができない、社会と文化の深層部でカトリシズムと融合しているスペイン固有の啓蒙・自由主義(いわゆる「カトリック啓蒙」)が、モレーロスの場合とはまた別の形でクリオーリョ層の行動をも規定していたということでもあろう。
1815年のモレーロスの敗死後も掃討戦は数年間続くが、信仰に導かれ人種・身分の平等を掲げる「下からの」革命は彼と共に潰えた。メキシコの政治権力はひとまずクリオーリョ名望家層の手に戻り、彼らが「上からの」革命に改めて手をつけることになるが、この新たな段階でも宗教の問題は緊要な争点として再び立ち現れてくる。
いったいカトリックは、教会は「近代」メキシコにとってどうあるべきなのか。
続く